招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

人の「神性」について

楽太郎です。

追加で販売開始した備蓄米が入手困難だそうです。
その件について家族とも話し合うのですが、私は米が今後食べられなくなる可能性が高いため、節米と代替食品への切り替えを家族に勧めています。
しかし、この危機感はなかなか説得しても理解してもらえず、何となく米は通常の価格に戻っていくだろう、という楽観的な考えを改めてもらうことができません。

両親は「お金さえあれば、米は食べ続けられる」と言います。

しかし現在の米不足の状況を鑑みても、買えるところがなければお金をいくら持っていても買うことができません。
実はそれが問題で、東日本大震災の時にはカップ麺を買うために雪の中を2時間も列に並びました。
買うためには売る側がいなければならないため、ものを売る側に売れるものがあるような状況でなければ、そもそも買うことはできません。

仮に米がこれ以上高騰して本当のお金持ちだけが米を買える状況であれば、一般市民はお金持ちが出す金額より高いお金を出さなくては米を買えなくなります。
お金持ちがようやく懐に入れられるような希少品を、一般人がどうやって手に入れるつもりなのでしょうか。

この構図をなぜか理解できないようで、どう説明しても「もしも」の話が通じず頭を悩ませています。
私が家族を引っ張っていかなくてはならないのは理解しているため、生命に関わることである以上、食糧難に自分も家族も巻き込まれないようにするのに骨が折れます。

「米がないなら小麦を食べればいいじゃない」とシリアルやパン食、パスタ類を考えている人がいますが、トランプ関税が発動すれば小麦が今の価格水準である保証はどこにもありません。
アメリカという国は日本人がどうなろうと知ったことではないので、遺伝子組み換えの小麦ですら平然と輸出しますし、その価格を操作して自国に都合の良い取引をし、日本人にどんな影響があるかなど考えてはくれないでしょう。

私たち日本人は、この国で生きていくにはどうしたらいいかを本気で考え直さなくてはならない時に来ています。
しかし、この危機感を抱いて動く人は今のところあまりいません。
むしろ、不安はあるけど何となく良くなっていくような気がするとか、そこまで変わらずにこの日常感がダラダラ続くと思っているのではないでしょうか。

この「何となく今の時代が続いていく感覚」は、私が自分を浄化するプロセスで体感した「邪気」の一種でした。
この感覚に包まれるとスピリチュアルなことはどうでも良くなり、物質中心の経済は何の変化もなく続き、人間も時代も変わることなく同じ日常の中にあり続けるのではないか、という錯覚に陥ります。

この感覚は魔法にかかったように現実認識が麻痺した状態となり、この国を取り巻く状況に良い兆候が何一つないのにも関わらず、薄っすら世の中が良くなっていくような気さえしてきます。
そして昔のようにショッピングモールは賑わい出し、物価上昇も収まってラーメンも普通に食べられる時代に戻る、そんな幻想を抱き始めます。

それが「錯覚」だとわかるのは、きちんとニュースを分析し、目で見える現実の社会を具に見るからこそ、「そんなことはあり得ない」と理解するのです。

この邪気は禍々しさや攻撃性がなく、むしろ生温かい優しさに包まれているからこそ、取り込まれた時に何となく安心感を覚えます。
その安堵に引き寄せられることによって、現実の問題を直視する動機を失い、疑問を抱くことや思考そのものを停止させてしまいます。

よく考えれば、この種の邪気は非常に巧妙だと思います。

邪気は本質的に人を不幸に引き摺り込むのが目的であり、結果的に陥れられるのなら痛みや苦しみを感じさせる必要がないのです。
そして、邪気の真の役割は人間の「覚醒を阻むこと」であり、人間がきちんと邪気を分別し、一直線に覚醒するだけなら邪気は存在する意味がなくなります。
「悟り」の対極にあるのが邪気であり、つまり地球上の全人類がお釈迦様のようなら世界に邪気は存在し得ないからこそ、その妨害が唯一の存在意義なのです。

私は最近、特に「憑依」について考える時、これまでの物質中心の社会、お金というシステムに支配された時代を牛耳ってきたのは「神に仇なす者たち」だと確信します。
それは悪魔とか単純なものではなく、神を退け幽界の影響力を隅々まで巡らせるような、巨大な悪意を持った存在です。

その悪意は、戦後の日本に蔓延りこの四半世紀で特に肥大化したように思います。
少なくとも20年前の日本人は、もっと素直に「才能」を評価し、他者との違いも寛容に受け止める自由な雰囲気がありました。
しかし、今の日本人は他人との違いが許せず、自分のルールに合わない者に容赦なく批判を浴びせるようになりました。
グローバリズムとか、多様性の時代とか言いますが、時代の雰囲気とは全く逆です。

あらゆるビジネスが「人を楽しませること」を基準としなくなり、いかに低コストで最大の利潤を産むかを重視し、結果が伴わないものは悉く価値がないと切り捨てます。
そうして人々に必要な物資もサービスも縮小していき、人を楽しませるという目的は形骸化していきました。
「人が楽しむ=評価=数字」であり、数字にならなければ人にとって価値はなく、その意味で奉仕精神は利益に反することになり、ビジネスの精神的側面は徐々に削られて行きました。
むしろ「おもてなし精神」は、企業による過剰なサービスの強制として横行しています。

この精神文化の衰退こそ、日本が経済において推進力を失った根本原因であり、この病理に至った理由こそ「拝金主義」という価値観にあったのではないでしょうか。
日本人は高度経済成長期以前からお金が好きな民族であったとは言え、わりと「日本人らしさ」の中で、豊かな発想を育てる風土がありました。
しかしこの四半世紀、その空気が薄れていったと感じるのは私だけでしょうか。

私が同世代の人々を見回して感じるのは、若い頃はもっと自由闊達で純粋な目で世の中を見て、違和感を情熱に変える力を持っていた印象が、今は消え失せてしまったように見えることです。
私も彼らも時代の軋轢の中で、真面目で優秀な人ほど潰され、自由にものを言う人ほど口を塞がれました。
高潔な人ほど権力に取り込まれ追従せざるを得なくなり、信念を貫く人ほど病んでいきました。

彼らが今どうしているかを見回すと、かつての面影を残した人はほとんどいません。
その姿を見ると、人間の良い部分ほど潰されていったようにも感じるのです。
彼らは才能豊かな人たちばかりでしたが、企業や社会のあり方では下手な利用のされ方に巻き込まれてしまったように思えてなりません。

「才能」とはおそらく人間に宿る神に最も近い性質で、その心こそ「神性」そのものです。
才能を発揮することや、愛に目覚めたり人生の悟りを得ることは、自らの神性による力です。

もしこの世界が神性を封じ込めることで成立していたとしたら、邪気が人々の目覚めを阻害する理由になり得ます。
唯物的な経済システムの中では、人間の心よりもロジックが通用した方が大衆をコントロールしやすいからです。

この世界を牛耳る存在が「神に仇なす者」であるならば、人々の覚醒の芽を摘み取り無知蒙昧な状態にしておくことは、自分たちの支配を行う上で最も理想的なはずです。
だからこそ元々神性の強い人々、素直で心ある優秀な人たちほど、これまでの世界では踏み躙られる存在であり続けたのではないでしょうか。

私もその一人と言うには烏滸がましいのですが、これまで息をするように人を陥れるタイプの輩とは戦ってきました。
だからこそ彼らの思考パターンはだいたい読めますし、読めるからこそ先んじて手を打つ方法も熟知しています。
ここまでタフになるには相当な生傷を受けましたが、こうでもしなければ自分を守って来れなかったでしょう。

今でも、神性とかけ離れた性質の人ほど階層構造をのし上がる社会であるのは変わりません。
しかし、その時代を終わらせるために私は神様を信じて行動しています。
そして時代は新しく切り替わりつつあり、これからは神性を大事にする人々の世界になっていくだろうと感じています。

現在の拝金主義的な経済システムは、目に見えて限界を迎えています。
その頂点にいるヒエラルキーの人々は、「金と権力」に特化してきた人々であるため、精神性やモラルに欠ける傾向にあります。
その所業は金と権力があったから見過ごされてきたようなもので、権威が崩れるような出来事があれば全てが明るみになるでしょう。

それを見て、人々は初めて気づくのだと思います。
自分たちが美しく飾り立てられた虚像を理想にしてきたことに。
そして、自分たちが人間本来の性質を蔑ろにして、神という存在に唾を吐いてきたことを。

「これからそれを思い知ることになる」と言えば、脅しのように聞こえてしまうでしょうか。
ただ、それはこれまで自分の心を守るためにずっと耐えてきた人々からすると、決して怖い話ではないと思います。
むしろ福音であり、これからはやっと自分らしく素直に生きられる時代になるというなら、救いになるはずです。

私は自分の過去だけでなく、自分らしく生きようとして踏み躙られ、心を病み生きることすら諦めようとした人々を思えば、どうしても時代を変えたくなるのです。
私なんかよりも才能も人格も優れた人はゴマンといましたが、世の中に抗えなかった人々もたくさん見てきました。
新しい時代はそういった人が純粋に認められ、誰もが自由に表現をできる世界にしたいのです。

私一人でもやる、という気持ちですが私の後ろには神様がいてくださると信じています。
未来を生きる子供たちには、その自由な空気の中でのびのびと成長して欲しい、そう願ってやみません。

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