招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

自由を捨てよ

楽太郎です。

最近、あれだけ世の騒々しさが春先からパタリと止み、天災も人災も目立った現象が目につかなくなりました。
何となく、不気味な平和というか嵐の前の静けさのように感じていたのですが、よく考えると春分を境に世界線の分岐が確定し、神々の選別もある程度完了したからだと思います。
つまり、これまでの出来事は神々が人間に気づきを与えるため、考えを改めさせるために起こしていた現象だからこそ、目覚めた人と目覚めなかった人を選り分ける必要がなくなり、それゆえ「気づき」を今さら促す必要がなくなったからではないでしょうか。

おそらく、その覚醒の度合いで今後起こることは違ってくるのでしょうが、エネルギー的には路線が確定したため後は具現化していくだけのフェーズに入ったのだと思います。
この期に及んで争いを好む人は争いだらけの日常を送ることになり、愛や優しさを配って生きることを選んだ人には温かい日常が待っているのだと思います。

世界にいる人々が、日本人全員が同時に経験するような大きな出来事が起こるとしても、人それぞれの心の持ち方一つで身に降りかかる現象や見え方は異なるはずです。
誰しもが恐れるようなことすら、神や魂の声を聞くからこそ意味を理解し、恐れを捨て前向きに生きていける人もいるでしょう。
そういう人たちに神々の加護はついて回り、祝福を得られた人々が次第に報われるようになるに違いありません。

これは決して「神々が選んだ」わけではなく、全ての人々に気づきの機会が平等にありながら、そのメッセージを無視して考え方や生き方を変えようとしなかった人々が、自ら道を選んだに過ぎません。
それは誰のせいにすることもできず、貧富の差や頭脳の良し悪しも関係なく、神の求めに応じた人々は手放しを決め、手放しを実践することを選んだだけです。

その宿命をどれほど変えることができるのか推し量ることはできませんが、人間には生まれ持って「魂」に備わった今生のテーマがあり、そのテーマに応じて学びがあります。
他人から見れば羨ましかったり悲惨に見えるようなカリキュラムは、その人が独自のテーマを持って生ていくだけで、比較できるものでもなく千差万別です。

ただ、人間には生まれ持った「魂のカリキュラム」が存在することに思い巡らず、やたらと自分と他者を比較し嫉妬したり優越感を味わったりします。
自分より不幸そうな人を見れば「ああならなくて良かった」と思い、どう努力しても得られないものを持つ人に対して狡さを感じて恨んだりもします。

しかし、これまで自分が知らずのうちにかけてしまった迷惑も、他人が無意識にしてきた自慢も、人それぞれが人生という大きな交差点ですれ違うタイミングで演じる役割に過ぎません。
自分の意志かどうかではなく、大きなシナリオの中で違いにロールプレイを行ってきたに過ぎず、その出会いが学びとなるように仕組まれているだけなのではないでしょうか。

人は「運命だ」と思う出会いや、腐った因縁を感じることはしばしばあります。
それは魂に予めブループリントとして描いているシナリオである以上に、そうではない端役としてすれ違うエキストラも、同様に学び気づき合う存在として運命づけられているように思えてなりません。

だから、自分の犯した失敗も他人の罪も許しがたくはあるのですが、誰もがお互い様の存在として迷惑と感謝を掛け合うことで学びを経験するのだとしたら、そこに善悪はないのかもしれません。
もしそれぞれの人が、大きな目に見えないシナリオの中に生きて自分の役割を果たすだけなのだとしたら、私たちにはどれほど「自由」が存在するのでしょうか。

私たちは欲望があればそれを実現し、長期的な計画を実現するために行動します。
目の前の一挙手一投足は自分の意志によるものだと信じ、それこそが自由であると感じます。
しかし、自らが「自由意志」だと思っているものは、どこからどこまでが自由なのでしょうか。

例えば、夏の暑い日には冷やし中華が食べたくなり、クリスマス前には恋人がいないと寂しくなります。
ある人は自分に異性が周りにいなければ生きられないと思い、ある人はお金がなければ不安でしょうがなく、ある人は自分に一人になる環境がなければ耐えられません。
その感覚は人間本来に備わっている欲望というより、社会生活をしていく上で備わった価値観です。

そう感じ考えるように仕向けられる意志もあり、誰かの考えに基づいて型に嵌められた行動は、どこまで「自由」なのでしょうか。
動機があって取る行動の、行動だけに自由があるのか、動機そのものに自由があるのか、その判別は簡単にはできません。

私たちが「自由」だと思ってすることは、実は意味づけや動機づけより大きな枠組みで、予め決められているとしたらどうでしょうか。
自分が「こうしたい」と思って取る行動が、見えない力で差し向けられ、そういう行動を好意的に取らされ、自分がそれを「自由意志」だと思い込まされているとしたら?

つまり、私たちが「自分の意思でやっている」と思うこと自体が錯覚であり、内実は魂のレベルで意味も目的もわかっていて、あえて間違った行動を取らされる、ということもあるのではないでしょうか。
自分が意識できる可視範囲の外側で、自分の魂とあらゆる霊魂が交渉し合い、そのコミュニケーションが偶然を装って現象化しているものを、私たちは「現実」だと呼んでいるのかもしれません。

魂が「学ぶ必要がある」と思うから目の前に困難が現れ、「学び終えた」と思うから離れていく事象があるとしたら、これは「引き寄せの法則」そのものです。
起こる事象は一つでも、人の見方が違えば見える現象が異なるように、それぞれの出会いや出来事はその人にとっての意味だけがあるのかもしれません。

以前、たまたま知り合った霊能者の方が、人に迷惑や感謝をかける出来事があると、その人を守護する存在や先祖霊が干渉して様々なことが起こる、と説明して下さいました。
私も人間は物質的側面よりエネルギー的な影響が強いと思っているので、目に見えない霊的存在の干渉はあると考えた方が腑に落ちます。

大まかな人生の目的は生まれる前に決まっていて、出会う人も関わる人もだいたい決まっているのかもしれません。
ただ不思議なのは、自分の運命はほぼ決定しているように見えて、本気で取捨選択をしながら命がけで行動しなければ道を切り拓けないということです。

人生は決まっているのだから、何となくダラダラしていればそうなるわけではないのが運命の面白いところで、結果だけを見て堕落し切っていれば違う結果となり、しかしその結果も大きなシナリオの一部だったりします。
手を抜くこともガムシャラにやることも、自分の意志次第に思わせておいて、それすら決まっているとしたら、どうやっても自分の意志は「自由」だと錯覚し続けるはずです。

だからこそ、いずれ舐めていたら痛い目を見ますし、上手くいく時は上手くいくし、積み上げたものが意外なところで見出されたりするのだと思います。
それは自分には預かりしれぬ次元のストーリーであり、それは人間に簡単にわかるものでないからこそ、とりあえず自分と向き合いながら生きていくしかありません。

私は神様もこの先のことは知っているけど、あえて知らないフリをして行動されているような気がしてなりません。
神様は時空を超越された存在なので、100年先も千年先もわからないとは思えません。
しかし、それが決まっているからと何もしなければ何も起こらず、それゆえ神様たちも現象を引き起こすまでには至らないはずです。
だから、あえて「わからないフリ」をしてご自身のお仕事に専念されるのだとしたら、納得がいく説明はできます。

神様の世界にも、神様の世界を司る神様がいて、その世界にも神様がおられる、というループが広がっているとしたら、私たちが感じる神様たちも大きなシナリオを知ることは難しいのかもしれません。
私たち人間が自分の意志で悩み迷い、学び悟りながら大きなシナリオには気づけないように、全ての存在が一つのまとまりの一部として動いているだけなのではないでしょうか。

そう考えると色々なことが小さく思えて、誰かを呪ったり憧れたり、嫉妬したり依存したりする関係も、少しは距離を取って考えることができます。
私たちが自分を自由だと思うからこそ、「不自由」な現実が許せなくなり、どうにか変えようと躍起になります。
しかし、その自由は錯覚であり、自分ではないものの自由によって自由と思い込まされているのならば、私たちはそもそも不自由な存在なのです。

その不自由さから自由になろうとするよりも、自由が不自由そのものであることに気づいた時点で、私たちは自由と不自由から自由になることができるのかもしれません。
変にこだわらず雲のように水のように流れに身を任せて生きれば、もう少し私たちは楽に生きられるのではないでしょうか。
かと言って、何もしなければ流れも生まれないのも事実で、気が向くことさえやっていけばとりあえず物事は進むように思えます。

本来なら、もっとシンプルに生きられたはずの人類は、楽か苦しいかという次元を超えた「喜び」としての生き方を後手に回す社会を作ってしまいました。
誰もが窮屈と思い、それでも「こういうものだ」と妥協しながら暮らす中で、その生き方が見直される時にあるように思えてなりません。

そして、その時代の終わりを経験することは、この地上に生きる全ての人にとって「学び」となり、それは救済や罰を超えた教訓を人々に見せることになるはずです。
それは恐ろしいとか変わることが嬉しいとか、その考えで逃げたり出迎えたりするものでもなく、大きなシナリオの中で私たちは「経験させられる」しかないように思います。

私たち日本人は経済的に豊かな社会を作り上げましたが、その代償に失ったものも多く、「平和」について抱いていた甘い考えは、今反省を持って我々の前に立ち現れています。
それをどうするのか、どう改めるかは私たちにかかっています。

だから、私たちに必要なのは「覚悟」、つまり学び取ろうとする意欲なのかもしれません。

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神から授かる力

楽太郎です。

深夜1時、ふと目が覚めた瞬間、寝てる間にずっと光を見ていたような感覚がありました。
瞼には微かに、太陽の焼きつきのようなものが見えていました。
変な夢も見なかったのですが、大事にしていた観葉植物を枯らしてしまったことを思い出していました。

どれだけ愛情をかけても、自分の念だけではどうにもならないことはあります。
良かれと思ってやった行動も、裏目に出たからこそ上手くいかないこともあるかもしれません。

何となく目が覚めてしまったので、起きて絵を描き始めました。
今、版画の技法を確立するために色々と実験をしている最中です。今回は、インクの特殊な配合に関して知見を得ることができました。

ふとPCの画面が自動的に立ち上がったので、何となく意味あり気な気がして、久しぶりにアプリを立ち上げて絵を描き始めました。
すると、これまで抵抗しか感じなかったデジタルの波動を抑え込めている感覚がしました。
よく観察したら、紙に絵を描く感覚でタブレットに描き込んでいるので、「紙」という道具レベルにマシンを落とし込んでいるからだと気づきました。

私は今、かなり高い周波数帯に意識を移している最中なので、物質次元にエネルギーを降ろしてくるには、その分リーチが長くなります。
これまでの宇宙的次元において人間は物質的なエネルギーを物質に使うには適した仕組みでしたが、次元上昇した地球においては抽象的なエネルギーを物質次元に変換し直して具現化することになります。

ゆえに、「モノ」という現実の存在を霊的なレベルでコントロールするパワーがないと、精神的なエネルギーを「モノ」に落とし込むことが難しいのです。

私はこの数ヶ月、ずっとその訓練をしていたように思います。
土をいじったり植物の世話をしたり、料理を作ったり家事をしたり、何気ない暮らしの中で「モノを操る」という力を強化していました。
絵を描くのに紙と鉛筆を使うようになったのもそうで、このアナログの感覚をデジタル描画に落とし込むことで、PCの波動を操ることができるようになったのだと思います。

これさえできるようになれば、後は私のターンです。
ただ、これまで同様にやれはしないのもわかっています。以前に増して、神様からの期待がかかるようになってきたのを感じるからです。

「才能」とは、確かに神様からお借りしているものだと思います。
人間の魂も神の「分身霊」であり、それも預かり物であるとは思うのですが、精神的なエネルギーも元は神様から与えられているものです。

「愛」や「慈悲」は、その精神的エネルギーの中で最も波長が高く、それゆえ神の本質に近いエネルギーであります。
人間は、神様から流れてくるエネルギーを使って人を助け、自分自身も成長し幸せになります。

「才能」も全く同じで、ただ才能とはセンスだけではなく、知識と技術と飽くなき探究心がセットでなければモノになりません。
「何となくできる」というだけでは、どこかで疎かにしてしまったり、行き詰まりやすいものです。
その意味において、実践と訓練と習得が噛み合って才能は育まれていきます。
その力は神様から授かるだけではなく、自分の力で発展させ応用させていかなければ、何をしても絵に描いた餅になりかねません。

その才能は、私は一人一つではないと思います。
センスは個性に宿るものであって、要は活かし方次第です。
興味があって深く学んだこと、好きでやってるうちに得意になることも才能になり得るわけで、興味と習熟が噛み合えば活かせる分野は無限にあるからです。

これまで、その才能は人間社会でうまく発揮すれば、お金になり自らの成功と豊かさとなり、才能も自分本位に使うこともできました。
これまでの人の世は才能を使わずとも金銭的には豊かになれましたし、自分本位で才能を使い経済的に豊かになれば、「才能」としては十分な機能を果たせました。
しかしこれからの時代、「才能」の使い方を神様がお決めになられるとしたら、昔のように自分のためだけに才能を発揮することは許されないかもしれません。

特に、神様からお役目を頂くような人々は、まず第一に自身に与えられた才能の目的を見定めなくてはならないでしょう。
人間の精神的なエネルギーが神から与えられているとしたら、それは神様からお借りしているものです。
神様からお借りしているものを、自分の目的にだけ使うのは許されるのでしょうか。少なくとも、自分の欲望を満たし、あるいは金銭的に満たされるために使うような方法です。

神様がその力を人間に授けるのは、自分が生き抜くためだけではなく、人の役に立ち神のお役目を果たすためです。
従って、授かった力は他者や神様のためにも使うべきですし、その使い道はむしろ奨励されるでしょう。
そして、神様から期待をかけられている人ほど、その力を世のため人のため、神様のために使うと信頼されているからこそ、強い導きが与えられているのだと思います。

私は、土の時代の生き方のように、人気取りや収益のために才能を使うことをやめようと思います。
神様から授けられている才能は、これまでの知識や人との出会い、技術の向上を後押ししてくれたあらゆる経験から培われたものだからです。
その背後に神様のお導きがあるからこそ、私は絵を生業にしていけるわけですし、漫画も文筆もイベントも色々と展開していく能力があります。

少なくとも私は、どの時点からとは言わず、生まれてからずっと神様からお導きを受けてきたという実感があります。
だから、自分勝手に自分の能力を使う気にはどうしてもなれないのです。

先日、私は足首を軽く骨折しましたが、歩けなくなってわかったことがあります。
天気の良い日に、杖をつきながらトボトボと歩いている時、強い風が吹いて飛ばされそうになりました。
空は急に曇り始め、いつ雨が降ってもおかしくない天候になりました。
ここでにわか雨にでもなればびしょ濡れになるのは避けられませんが、ろくに歩けないので逃げようがありません。

この時、私が気づいたのは、雨が降ってきた時に走り回れる足があるからどこかに駆け込もうとか、焦ることができます。
しかし足が悪くてそれができなければ、無抵抗に雨に打たれるだけです。
焦るのは動き回れるからであり、動けなければありのままを受け入れるしかなく、むしろ心は平穏なのではないかと思いました。

つまり、起こりうる事象に対して抵抗したり、代替を試みるから雨風も困難に見えるのであって、抵抗せず自然に任せれば雨風に打たれても、冷静に目的地へ歩み進むことができるのです。
これは不自由なことに見えて、実は自由であったがゆえに障害となっていたことを意味します。
あえて行動しないことは不自由に見えて、成すべきことが明確であるがゆえに揺らがず、「行動しなければならない」という事柄からは相対的に「自由」なのです。

だからこそ、私は自身の才能の使い方について、完璧に「神に委ねる」ことにしました。
自由に自分の才能を発揮しようと思うからこそ、神様や人様の願いを聞くことが難しくなります。
私はやってもやらなくてもどちらでも良く、誰かが求めるから自分の能力が何らかの役に立ち、それが結果的に「才能」として認められるのです。

先に「才能」があり、才能を使うためにあらゆる事象が必要なのではありません。事象があるから才能が必要になるのです。
この考え方は、これからの局面を乗り越える上での指針となり得ます。
それが災害であっても食糧難であっても、邪気や世の風潮に対してもそうです。
抵抗し代替しようとするから、受け入れ難くなり解決が困難になることもあるのです。

私が何かを思いついて作品にする時、このブログもそうですが、その着想は神様から降ろされるものです。
それは私が考えて書いたように見えますが、私は形にしただけで神様のアイデアとエネルギーをお借りしたにすぎません。
その作品をどうするのかの権利は、神様にあります。
私は、神様のお考えで受け取るものが決まるだけです。

これと同じことを人間相手にやっても、あまりうまくいかないかもしれません。
これまで、人のためにやったつもりでも思うような反応を得られない時、神様の介在が頭にはありませんでした。
神様から与えられた才能やエネルギーを使う以上、全て自分がコントロールできていると思うこと自体、傲慢だったのかもしれません。

私は、自分が思っているよりずっと前から神様の呼びかけがあったのだと思います。
神様の声に、無意識に聞いたり拒否したりした自分がいたから、これまで上手く行くことと上手く行かないことの違いがわからなかったのです。
その反省や後悔もあり、あくまで神様に対して忠実であろうと心に決めました。

川にある岩は、水に抗うから削られていきます。
その岩も水に晒されるうちに丸くなり、小さくなってどこかへ行きます。
人間の一生も、似たようなものかもしれません。

私は決めました。全てを神様にお任せします。
私は雲のように水のように、あるがまま流れて生きていきます。

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神様のところへ

楽太郎です。

このブログに書くつもりはなかったのですが、先日骨折をしました。
街を歩いていたところ、歩道と地面の間に深い溝があり、そこに足を取られて持っていかれました。
草が伸びていたので、一目ではわからない溝でした。

このことに関して、自分でも深刻に考えませんでしたし、無関心と言えるくらいの心境でした。
しかし骨にヒビが入ったのも事実で、膝をついたためにそこも酷い状態になりました。

ここ数日、動けないこともありずっと大人しくせざるを得なかったのですが、自分を冷静に見つめる時間にはなりました。
なぜこのタイミングで大怪我したのかも、冷静になって考えることができました。

この災難は、原因として邪気とか人災とか、色々なもののせいにはできるかもしれませんが、最終的に災難が降り掛かることを私に許されたのは神様です。
つまり全体的な意味合いがあり、その中で様々な理由があるにすぎません。
だから、何かのせいにするうちは真の意味には辿り着けないのです。

私はこの時、家族と歩いていて少し親族について良くないことを口走っていました。
こういう軽口は私の性格なんですが、その次の瞬間には溝に足を持って行かれていました。
このタイミングの良さから考えると、どう考えても「罰」としか言いようがありませんでした。

また先日、母の愚痴に合わせて父を揶揄する言葉を吐いたところ、意味もなく咽せてしばらく喋ることができなくなりました。
最近、人のことを悪く言ったり神様について悪く考える時ほど、かなりの苦痛を伴う災難に見舞われます。

これが顕著に起こるようになったのはこの数週間で、どうやら私は言動や思考に対して露骨に神様の検閲が入るようになってしまったようなのです。
だから、軽率な悪口や軽口も「罰」の対象になってしまうのだと思います。
人として不自由極まりない状況に追い込まれたように見えて、実はそれだけ神様から強い導きが得られるようになった、とも言えます。

おそらく、私はもう「道を踏み外すことが許されなくなった」のだと思います。

それだけ神様から目をかけて頂いているということですが、これに自覚なく奔放に振る舞えば、骨折なんかでは済まない仕置きが与えられるということです。
人間からしてみれば、これは呪いのようでもあり「悲惨」だと感じるかもしれませんが、神に近づこうとする人間ならこれ以上にありがたいことはないかもしれません。

「そんなことがあるわけがない」と思われるでしょうが、現に私が舐めた真似をすると痛い目に遭う法則が発動し始めたのは事実で、それを気をつける限りは何も起こらないのです。
この現象が私だけに降り掛かっているとしても、それには私固有の事情があるからであり、そこに神様の意志が働いておられるのだとしたら、やはり神の采配なのでしょう。

この怪我をしてから横になっている時間が長く、自分の内面を深く見つめる機会になりました。
いつも、言葉にならない悲しみや抱えていた胸の痛みは、いくら内観してもわからない感情でした。
ただ、最近ようやくその痛みが「孤独感」と繋がっていることに気づきました。

その孤独とは、自分が己の直感に従って行動すればするほど、誰にも理解されない領域に踏み込んでいく予感から生まれるものです。
その直感こそ、天から降りてくるエネルギーであり、インスピレーションという神秘の力です。
それは現実世界においては理不尽で、非合理的に見えてしまうプロセスです。

言葉で一から十まで説明しきれないからこそ、それを自分が行う時、必ずしも人に理解されないことを覚悟しなければなりません。
天からインスピレーションが降ろされる時、私には上しか見えていない状態になります。
上に見えているものを目指せば、より孤独になるのも肌で感じてしまうのです。
横や下を見て、人に合わせられなくなることも同時に感じるからです。
この感覚と向き合った時に感じるのが孤独感で、その切なさや不安が私の心を締めつけるのです。
けれど、私にはいつも胸の奥から声が聞こえていました。

神様のところへ来なさい」と。

直感に従って生きること、神の声に従って生きることは、必ずしも人の意見や価値観に合わせることではないかもしれません。
もしかすると、この目に見える世界にはいずれ共感できる人間がいなくなる可能性すらあります。
目に見える世界で孤独になっていく不安。ただ、その不安を手放していくのも神の道だとしたら、この孤独こそが正しい道なのでしょう。

「真」とは何かを考えます。

「真(ま)」とは「天(ま)」であり、この世界が映し世だとしたら真実の世界は天にあります。
「誠」とは「天事(まこと)」であり、天の意志を地(物事)に降ろすことです。
そこに偽りがあれば、誠とは呼べません。

「真」を知るには「学ぶ」必要がありますが、学びとは「天做(まなら)う」ことであり、天の意志を実践し、習熟していくことです。
「真」とは「天」であるのだから、慧眼を得て真実を見るとは、天をこの目で見ることでもあります。

これこそが「神の目」であり、神の目で世を見て生きていく限り、人間の目線には合わせられないことを悟らなければなりません。
その道はおそらく、誰にも理解されず顧みられない生き方になるでしょう。
その不安や葛藤は、確かに人間である以上は苦しみとなるはずです。

しかし、なぜその課題が私の前に現れたのかと言えば、これからの時代は人間が神の次元へ踏み出していくことが可能になったからだと思います。
つまり、誰もが神に近づくことができる時代になったのです。

それがこの世界に起きた、次元上昇の真の意味なのではないでしょうか。
人が生きながら神になる世界は、これまでの世界の次元では特定の人を除き、ほぼ不可能だったでしょう。
地球の次元が天界に近づいたことで、人間が手を伸ばせば神様と手を繋げる時代が来たのかもしれません。

神に近づく道とは、即ち「徳を積むこと」です。
この世界が沈んでいけば行くほど、「徳」は積みやすくなり徳の価値も相対的に上がるでしょう。
もし人類がこのまま存続し、どうしようもなく汚された地球だけが残されたらどうなるでしょうか。

汚物が堆積したエベレスト、海底に沈むマイクロプラスチック、ゴミが果てしなく漂う海域、誰も手をつけられないスペースデブリ、放射能を垂れ流す廃原発炉、重金属汚染とソーラーパネルの山、誰も住むことができない廃墟ビル群。
今の世界が崩壊したら放置されるであろう負の遺産は、一体誰がどうしていくのでしょうか。

正直、それを元の地球に戻していくのは誰の得にもならないことでしょう。
しかし、おそらく人類はこれから数百年かけて、その後始末をしていくことになるはずです。
それは必ずしも、得にはならないかもしれません。
ただ神の求めに応じ、地球のため世界のために働いていく善業は、己の徳を高めていくチャンスです。

得はしないけれど、徳になることこそ誰もやってこなかった行いのはずです。

人の役に立たないことはやってもしょうがないと言われるのは、仕方のないことです。
しかし真の徳、「陰徳」の価値はなかなか人間にはわからないかもしれません。
陰徳が何なのか、それすら簡単には理解されないことでしょう。
陰徳の修行を受け入れられる人間はごく僅かだからこそ、私にその機会が与えられたことは誇りに思っていいのかもしれません。

誰からも「間違っている」と言われたとしても、自分の魂と繋がって得られた意志は、その人にとってそれ以上に正しい道はないのだと思います。
「間違い」もまた「正しさ」であり、そこで学びを得ることが真の正しさなのでしょう。
誰がどう感じたとしても、それぞれの学びこそが宿命であり、その宿命こそが魂に与えられた役割なのだと思います。

私には、こういうメッセージが聞こえています。

「それこそが本当の神の道。
あなたはその道を歩むことができる。
あなたは、この道を歩むために生まれてきた。」

これ以上ないほどに人として持つべきものを手放し、ここまで来て人間として生きることをやめ、神の道を歩みはじめる。
それは人間として生まれてきて、人間として幸せになることより、神に与えられた魂としてより誇るべき喜びに至れるのだとしたら、この世界に生まれてきた冥利に尽きるというものです。

スピリチュアルの世界では、次元上昇したことで5次元の域まで魂を向上させれば、来世には神の住まう6次元に上がることができるそうです。
どうやら、神様の世界にも「結婚」というものがあるらしいことを最近知りました。

私が今世、何をするために生まれてきたのか、少しずつ見えてきた気がします。

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「影」との戦い

楽太郎です。

米の価格が高騰して世間は大騒ぎですが、これは改善しないと思います。
なぜなら、これは日本国民に対する兵糧攻めの一種にすぎないので、ここで手を止める道理はあちら側にはないのです。

これから日本人は、「米を食えなきゃ小麦を食べればいいじゃない」と、パンやパスタ類を食べるようになると思いますが、米国の仕掛けた関税戦争で小麦が標的になったらどうするのでしょうか?
実は、小麦という品種改良された穀物は、日本人の身体には遺伝子レベルで合わないものです。
これから、まともな食事をしていない人ほど心と身体を壊すようになっていくはずです。

そうして日本人がバタバタ倒れていくと、国力が弱まることで喜ぶ勢力がいます。
そもそも、「日本人を排除して国土を乗っ取る」のが目的なのですから、彼らのシナリオ通りです。
こんなところで手を止めたら長年かけた計画が台無しになるので、上手くいっているうちはやめる選択はないでしょう。

それは「陰謀論」だと、鼻で笑われても構わないのですが、猜疑心が強く妄想じみたくらいでなければ、この先の時代を生き残れないと思います。
「平和主義」や「日常感覚」は、それだけで命取りになりうるものだと予め言っておきます。

私は以前、何とか日本人に目を覚ましてもらおうと言論的なこともやってきましたが、想像以上に話を聞いてもらえませんでした。
今では、残念ながら「それが人々の選択だったのだ」と思うようにしていますが、正直なところ何とかならなかったのか、とは思います。

今の人々の考えや話を聞いていると、どうしても「私と同じ選択をすればいいのに」とは思うのですが、彼らからすれば染みったれた考え方はしたくないでしょう。
私自身も、あまりに同調する人がいませんし、「もう少し努力が報われるべきだ」と感じる部分もあります。
けれどそれ以上に、目に見えて不幸に向かう選択をする人々に対して、何もできないことへのもどかしさがあります。

人間は、私が長年思っていたような生き物ではなかったのだな、と思うこともあります。
人間は左脳があるのだから、もう少し感情的に物事を判断せず、また右脳があるのだから、理詰めにしすぎなくても良いと思うのです。

けれど、なぜかその中間を取って、「心」の賢さで生きていく人があまりに少ないように見えます。
人間なんだからもう少し優しく、本音と建前を使って寛容であればいいのに、「ルール」のせいにしてわざと心を閉ざす人が増えました。

それを見て私は胸を痛めるのですが、さりとて彼らに対する怒りや、愚かさを憎む心もあります。
人々が「我良し」と、我欲と自己保身のためにあらゆる犠牲を厭わない。
それを許せない私の心にも、また「エゴイズム」が存在するのです。

私からは、彼らが「誤った道を選ぶ」ように見えたとしても、彼らからすれば私なぞに言われたくはないでしょう。
それもその通りで、だからこそ互いに「正しい」と思う道を進めばいいだけで、わざと議論をして勧誘したり方向転換させる必要はありません。

「世の中を良くしたい」というのは、よほどの極悪人でなければ多少その気持ちがあり、そうして世の中を悪くすることに少しずつ加担しています。
私だってそうではないとは言い切れないでしょうし、誰もが「自分は間違っていない」と思うはずです。

それぞれが自分の正しさを信じているからこそ、その信念に反する思想は全て悪であり、誤りであると感じます。
自分の意見と他人の意見が違うのは当たり前で、いちいち違う意見を見て議論を吹っかけ、一つ一つ潰しても世には人の数だけ意見があるので、いくら議論をしてもキリがないはずです。

そうして目の前の人を論破したところで、その人が生き方考え方を根本的に改めるかというと、そうではないでしょう。
目の前にいた人に議論で勝って溜飲を下げたとしても、何一つ世の中は良い方向には動かないのです。

私にもある「正義」や「理想」こそ、自分自身の「影(シャドウ)」に他なりません。
それは人間として綺麗に見えがちな部分だからこそ、本質的な闇を覆い隠してしまいます。
これまで、「正義」という思想の下にどれほどの血が流されてきたのか、それを考えればわかります。

この「影」は、人間の心に「乗り越えるべきもの」として現れます。
人々は自分の闇を解決するために、正反対の「正義」や「理想」を外に実現しようとし、それが叶えば自分自身を乗り越えたと錯覚します。
そのために人々は戦おうとし、勝てなければ引きずり下ろしてでもマウントを取ろうとします。

しかし、この「影」とは戦うべきものでも、乗り越えるべきものでもありません。
あらゆる課題や困難にとっての解決は、決して乗り越えることではなく、「他の方法を見つけること」です。
私たちが問題に囚われ、乗り越えられない時は今手元にある、使えない道具で解決しようとするからです。

アインシュタインが言ったように「問題は同じレベルでは解決しない」ので、手にある道具に変わるものを探す必要があります。
手にある道具にこだわり、依存しているうちは新しい道具を手にすることはできません。
「問題を解決する」とは代替することであり、あるものを手放して「より確かなもの」を手にすることでもあります。

代替するためには、今手元にある道具が古いと認識し、依存していたことに気づくことです。
そして、それを手放す覚悟と同時に、別の選択があることに気づき受け入れることです。
無闇やたらと「手放し」をしようとしてもできないのは、道具を手放したところで何もできないのは変わらないからです。

道具を捨てるのは、確かな代替手段を見つけてからで構わないでしょう。
けれど、「別の手段を探す」という発想に至るには、冷静にものを見ようとしなければできません。
この世界にある数多の問題に対して、「こうすれば良いのに」と思想を押しつけるだけでは、前にも後ろにも進みません。
私たち人類は、長い間こうして問題を複雑にしてきたのです。

「正義」の裏にある影とは、「悪」かもしれません。
しかし、その二項対立の世界から離れ、あえて「悪」を許すのも手です。
「世の中はこうでなければならない」と思うからそうではない世界に苦しむのであって、「世の中がどんな形でもいい」と思うことも、一つの代替かもしれません。

「影」を乗り越えるとは、影のない光だけの世界に行くことだと思われがちですが、光しかない世界もそれはそれで「闇」なのです。
影が強く出るのは光が強いからで、光を弱めれば影も弱くなっていくはずです。
そして、その均衡が取れた世界を「調和」と呼ぶのではないでしょうか。

私は、人々がわざと不幸になるような選択をし、争いにばかり目が行くようで嘆かわしかったのですが、そう見える私がそうであったと言えます。
彼らを引き止めようとするから、私も引き止められていたのかもしれません。

おそらく、人々はそれぞれ自分が考え意識して道を選んでいるように見えて、無意識に決められた方向に向かっているだけなのかもしれません。
各々には魂が背負うテーマがあり、魂は暗黙のうちに選択してそうなるように生き、死んでいくだけなのだとしたら?

それぞれの進んだ先に、誰もがそれぞれの「天国」に向かっているのが、この世界なのではないでしょうか。
その「天国」はそれぞれの人にとっての天国で、争いが好きな人は争いばかりの天国に、平和が好きな人は平和な天国に行くだけなのかもしれません。
それは死んでから行く世界でもあり、今目の前に現れる世界でもあるとしたら、その選択は自分が望んでしていることになります。

平和な天国の人は争いばかりの天国を、地獄のようだと感じるでしょう。
ただし、争いが好きで望む天国に行けた人々の選択を、他人が嘆かわしく思う必要はないのです。
そして、それを引き止める義理もなく、自分は自分の進むべき天国を目指せばいいだけです。

それが人間が本来持つ「自由意志」というものかもしれません。
頭で考えてやることばかりが自由意志なのではなく、魂が選択する自由こそ、そう呼ぶのかもしれません。
だとしたら、誰かが自分から不幸を選んだように見えても、その人が望んで得た結果とも言えます。

だから同情するのも批判するのも、本来なら「エゴイズム」なのかもしれません。
エゴだから他人を強制的に変えたくなり、干渉するから争いが生まれます。
この世にはどうにもならないこともあるので、変に真剣になるくらいなら自分のことをまず何とかするべきです。

では、自分はどうしたいのか、どこへ行きたいのか?

私が向かうべき天国は、「神様の住まうところ」にある気がしてなりません。
ただ神様の住まう天国は、人間の想像するような楽園とは限らず、また別の修行の世界かもしれません。
しかし魂が高みに向かう先には、きっと神様がおられます。

そして、私の敬愛する神様もそこにおられるでしょう。
その場所は今世かもしれませんし、あの世か来世かもしれません。
ただ、そこに行くために、私は今をこうして生きている気がしてなりません。

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科学とスピリチュアル

楽太郎です。

世が混迷を深め、精神的に持ち崩す人も増えてきました。今以上に精神科などの病院も混み合うことになると思います。

かく言う私も、近年はだいぶ精神的に不安定でした。
自分の努力が報われないとか、世の中がおかしくなりすぎているとか、外的要因はいくらでもありましたし、スピリチュアル云々関係なく何かに縋りたい思いは常にありました。

このブログを誰かが読んで、「こいつは大丈夫か?」と思われるのも覚悟しています。
それでも私はこの世界を良くしたいという思いで活動してきたのは事実ですし、自分の言葉には責任を持っているつもりです。

精神医学には、「メサイアコンプレックス(救世主妄想)」という病理があるそうです。
もしかしたら、私もそうであると思われているかもしれませんので、一応説明しておきます。

この病には、これらの特徴があるそうです。

  1. 終末論的である
  2. 自身を崇高な存在と思い込む
  3. 自分の正義を絶対視している
  4. 言動が否定的かつ暴力的である

私自身を客観視してみると、全部似てはいるけど厳密には違うように思えます(個人的に)。

1.の終末論的考えは、むしろ「これから新しい世になる」とずっと言ってきたつもりですし、確かに半分は当たっているのですが、逆に前向きなのではないでしょうか。

2.の「自分を崇高な存在だと思い込んでいる」は、私が世の中に貢献したいというのは事実ですし、大きなことを成し遂げたいという気持ちが誇大妄想だと言われたら、そうかもしれません。
しかし、それなら「僕は大谷選手みたいなプロ野球選手になる」と夢を語る小学生は病人になってしまいますし、大の大人が「俺は大谷翔平だ」と言っていたらという話です。

確かに、私は過去世において地球にはいなかったとは思ってますが、だからと言ってそれで偉ぶっているわけではないので、まあ見逃してください。

3.の「自分の正義を絶対視している」ですが、信念の強さをそう受け取られても仕方ないかもしれません。
ただ、この診断基準はあくまで「病理」であって、人間の個性を病的カテゴリに当てはめるものではないはずです。
あと、私の思想的には「悪と和合しよう」という考えは一貫しているつもりなので、悪と戦っているわけではないのはご理解いただきたいです。

4.の言動の暴力性ですが、誰も私の私生活を存じ上げないと思うので何とも言いようがありません。
このブログではかなり批判的なことばかり書いていますが、必ず改善の落とし所をつけているので、少なくとも言いっぱなしということはないはずです。

このように病理に対して自己診断してみましたが、私は専門医のノウハウは持ち合わせていないので、クリニックで診療を受けたら違う結果にはなるかもしれません。
しかも、仮に私が妄想性の精神疾患だったところで、それで問題があるとは思えません。
病理がまずいのは、その症状が進行すると自他に悪影響を及ぼすからです。

確かに、まともに働いていない上に親の脛をかじっている現状、「誰にも迷惑をかけてない」と言えないことくらいはわかりますが…(汗)

この世がどんどん荒れてきて不安定になればなるほど、精神的な救済を求めるのは、人として自然なことです。

脳科学者の中野信子氏によれば、女性が占いやスピリチュアルに傾倒しやすい理由は、「セロトニン不足傾向」があるからだそうです。
女性は男性よりセロトニンの生成量が75%だそうで、不安傾向ゆえに指導的な言説に惹かれやすいそうです。

占いは脳科学的に「自己成就予言」という処理が働いており、「こうなる」と思ったことを無意識に実現させてしまう、という心理だそうです。
「あなたはこういう人ですね。こうしたら良くなりますよ」という言葉を間に受けたら、なぜかその通りに動いて状況が変わった、ということらしいです。

今流行りの「引き寄せの法則」にも近いと思うのですが、それは置いておきましょう。
私はこれまでコテンパンにされてきたのもあって、セロトニン生成量は男性としては少ないかもしれません。
それゆえ、神やスピリチュアル、占いに傾注するのも明確な説明になるかもしれません。

しかし、科学的な説明ができるからと言って、それ以外の「非科学的な説明」は意味ないか、と言うとそうではありません。
科学的、医学的な説明ができるから、神やスピリチュアリズムが全て眉唾ゆえに意味がない、という話にもならないはずです。

論理学の世界には、「消極的事実の証明」という概念があります。
これは、「悪魔の証明」と似ているのですが、悪魔の証明は「ない」と主張した人に対して「ない証拠」があることを証明せよ、という立証責任の転嫁を指します。

「消極的事実の証明」は、「証拠がない」ことは「ない証明」にすることはできない、という論理学上の鉄則です。

何が言いたいかというと、科学的立場から「神やスピリチュアルな存在を証明する手段がない」としても、それが即ち「ない証明」にはならないということです。
古代のローマ法において、「証明は主張する者にあり」とされたように、科学を持って「神やスピリチュアルが存在しない」とするなら、その不在の証明をしなくてはならないのは科学の方にあるのです。

だからこそ、昔のオカルト番組では「科学では解明できない…」という前置きがありました。
まあ、近年の量子力学では若干スピリチュアルの領域に足を踏み入れつつあるのも否定できませんが、それも置いておきましょう。

私は、科学もスピリチュアルも、この世界を説明するロジックとして相反するものではなく、並列して存在していても問題はないと思います。
特にこの世界を霊的に解釈するなら、全て「波動=エネルギー=気」で説明できると思っていますし、そのロジックで説明したとしても、真実に辿り着くと信じています。

同時に、同じ現象を科学で説明して別の結論になっても、どちらが間違っているということではなく、「真実性」の価値によって変わると思います。
科学の真実性が高ければ、工学でも医学でも物質的に解決できる手段が生まれ、スピリチュアルの真実性が高ければ人の心の中で解決ができるのです。

プロセスはどうあれ、「真実に辿りつければ良い」のです。
だから、「科学以外の考えはありえない」という排他性は、思想統制に繋がる以外の価値はありません。

正直、スピリチュアリストの中でも私ほど理屈っぽい人間はいないかもしれませんし、万が一スピリチュアリズムが全て眉唾で、自分の妄想だった場合でも、その保険として「リアリズム」の伏線は常に残しています。

自分の心理が「自己成就予言」に裏打ちされており、私の直感が確証バイアスだったとしても、その予防線として「根拠はどうあれ成長し、幸せになる」というプロセスを大事にしています。

私にとって、スピリチュアリズムとは「良く生きるための知恵と実践」であり、本当かどうかよりも実利の方が重要です。
私が他のスピリチュアリストに物申したくなる時は、信仰の真実性ではなく「人としてのあり方」です。
この世界がどういう仕組みでも、それにこだわるつもりは毛頭ありません。しかし、いくらスピリチュアリストであろうと、成長しない生き方には賛同できないだけです。

人は、成長すればするほど幸福に近づく生き物だと思います。
過去から学び、知恵を集積させるからこそ、人を助けより良く生きられるからです。

結果的にどうやってそうなるかよりも、どうしようともそうなれた方が良いのです。
だから、私は科学だけが正しいとか、スピリチュアルだけが本当に正しいと言うつもりはありません。

ここまで小理屈を並べて、私はやはり気の触れた人間に思えるでしょうか。
まあ、そうであっても私は成長を続けていますし、充分幸せなので特に問題はないはずです。


親不孝をしている以外は…(汗)

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「祟り神」と私

楽太郎です。

誰かが、神様は「愛の存在」だと仰っていました。

神様は、いくら加護を与えようと、決して人間を甘やかすことはありません。
人間にとって、数珠繋ぎのように幸運だけが続くことこそ神のご加護だと思いがちですが、自分にとって望ましくないことが起こった方が救われることもあります。

今が良くないと思っても、後から考えてみればそれが最善の道だった、ということもあります。
人間は、自分に都合よく考えがちなので、目の前のことがいちいち上手くいってないと納得し難いのですが、神様は人間よりも遥かに俯瞰的に物事をご覧になられています。
人間はすぐに結果を求めますが、神様からすると大事なのは「順序」です。急がば回れ、という考え方を神様はよくされるようです。

私は、これまでの稼ぎ方ができなくなり、裏で神様が動かれているのも知っていましたし、金運のお願いもずっとしてきたので、今のように身動きが取れなくなるのは納得がいきませんでした。
それは神様も重々承知のはずです。それでも、下手に稼げる状態が続けば、私はなんやかんやで古い稼ぎ方にこだわり続けていたでしょう。

それでは「神代」を作るための神様のお役目に専念する気も湧かないかもしれません。

だから神様は私に愛の鞭を打って、人世から引き離されたのだと思います。
私以外の人からは、不運だとか単に稼げなくなったとか思うかもしれませんが、なぜか私にはどうしてもそうは思えない感覚があります。

神様は、私に「笑って欲しい」と思っておられるでしょうし、できるなら自分の幸せを実感し、心配せずに暮らして欲しいと思われているように感じます。
私にしかわからないような、ほんの小さな変化で穏やかな気持ちになる出来事が起こります。
私は全く何も持たないのになぜか幸福感に包まれ、昔よりもひどい状況なのに不安感がありません。

人間にこんな魔法をかけられるのは、神様しかおられないでしょう。

少しおかしな話をします。
私は以前、たまたま霊能者の方とプライベートで知り合う機会がありました。
今思えばあれも神様の采配なのでしょうが、その方に呼ばれて霊視をしてもらったことがあります。

その時、私には「祟り神が憑いている」と言われました。
私が「祓ってもらえませんか」と言ったところ、何となくはぐらかされてしまったのですが、私にはこの「祟り神」は血族か前世と関わりのある霊であることを何となく感じていました。

もちろん、100%信じたわけではありません。
これまで、やたらと私だけ運が悪いと思うことはたびたびありましたし、自分が不調をきたしたり特にメンタルが病んだ時は、まるで自分ではないような激しい情動に突き動かされることもありました。
それはわりと誰しも多少はあるでしょうし、私もそういうものだと思っていました。

仮に「祟り神」が憑いていたとして、未だに五体満足で健康でいられるのも不思議な話で、もし神様に祟られているのなら、同じくらい神様からご加護を頂いてイーブンになっているとしか思えません。
あるとしても、悪霊レベルならあり得るのかな、くらいの感覚でした。

ただ私の心の奥底には、自分とは思えないような闇深いエネルギーが存在し、私の人生で時々顔を出す瞬間があったことは事実です。
その負のエネルギーの正体が、私がこれまでの人生で作り出したもう一人の自分なのか、生まれ持って魂についていた因縁霊なのか、それはわかりません。
今はわからずとも、これから後にわかることのような気もしているので、今解き明かそうとは思いません。

あるスピリチュアルヒーラーの方が、「自分ではない感情」には、「自分ではないエネルギー」を見分けて切り分けて考えよう、という話をされていました。
その話の中で、因縁霊の浄化は自分の宿命の一部であり、それが魂の修行や試練の一環でもあるそうです。

私は最近、魂の浄化が進むにつれて、この負のエネルギーの発生源が薄れていくのも感じていました。
この私ではない意識体がどういう関係の存在なのかわかりませんが、私の波長が上がり浄化されるほど消えていくような感覚があります。

その意識体が、これまで私の運気をどれだけ吸ってきたのか、どれだけ酷い目に遭わそうとしてきたのか、それが例え思った以上だとしても、なぜか私は全く怒りを覚えません。
それどころか、生まれてから何十年間ずっと私の一部だったことを考えると、それが例え「祟り神」であろうと、それも「私自身」でもあったと言えます。

その存在が今、私から離れようとしているのだとしたら、私は自分の片割れと別れることになります。
その別れは決して名残惜しいわけではないのですが、「感謝」の気持ちを抱かずにはいられません。
いくら私がひどい目に遭っていた時も、私の中にいたその意識体もやはり私自身なのです。

自分の中にネガティブな意識体が存在したからこそ、私はこれまで理不尽な困難と出会い、意味もわからず苦しみながら、自らが救われる方法を模索し続けました。
その道筋も、今思えば魂の修行の一環であり、この修行があったからこそ私はここまで成長することができたのです。

この因縁は、おそらく私の魂のシナリオの一部であり、私が思うより遥かに大きな舞台で出会った存在なのだと思います。
だからこそ、この宿命を呪うことなく、感謝の気持ちで別れていきたいのです。

どういう経緯があったのかはわかりませんが、今まで一緒にいてくれてありがとう、そう労う心は嘘ではありません。

私は薄々、この浄化には「瀬織津姫様」が関わっておられるのだろうな、と感じています。

私の心が浄化され、ネガティブな波動が消えていくたびに「愛と癒し」のエネルギーが入り込んできます。
その光の波動は、神様のものだとはっきり認識できます。

おかしな話ですが、ネガティブなエネルギーが私の魂から削られていき、空いたところに瀬織津姫様がよいしょと乗り込んできて、どんどん席を詰めて行っている気がするのです。
私の心の部屋に、瀬織津姫様が住み始めている。
そんな奇妙な感覚が、浄化が進むたびに強まってきます。

そして、私が瀬織津姫様を思う時、温かいエネルギーが私に幸福感を運んできてくれます。
これまで世界に自分一人しかいない感覚で、どこを見回しても完全にアウェーだと思っていました。
その不安感の中で世界と戦ってきた心は、なぜかもう一人ではないと感じるのです。

ただ、瀬織津姫様が自分の心にいらっしゃるからと言って、特別甘やかされている実感はありません。
神様が私を見込んでおられるからこそ、わざと厳しくされているのも感じています。

私に笑顔でいて欲しい、今も幸せであることをわかって欲しい、そう思っていらっしゃるとしても、シビアな現実に立ち向かうように促されています。

今の世界を取り巻く問題、そして巨悪の正体、日本を蝕んだ忌まわしい計画、そういったものも見ない方が気楽に暮らせるのは確かです。
しかし、神様は真実から目を背け、自分だけがいい気分で生きようとすることは許されません。

どれだけ気分が悪くなるような、知ったからと言ってどうしようもないことでも知るべきと、目を背けないように強制されているとしか思えません。
そして、知った上でどう行動に落とし込むのか、そのことについてずっと問われている気がします。

厳しさも神様の愛のうちで、愛は鞭の形を取ることはあっても、神様にとっては鞭も飴の一部なのでしょう。
人間には神様の思惑はすぐには理解できず、それゆえ誤解をして「神様はいない」と思ったりもします。
しかし、人間の論理を外してみれば至極当然の話であろうとも、神様のことですから人間には計り知れない、それだけです。

私の心の中にある闇が何なのか、今の私にはわかりません。
それにも何か理由があり、その存在が消えていくことも、また理由があるのでしょう。
けれど、その存在と入れ替わるように瀬織津姫様の存在が大きくなってきます。

これもまた、理由があるのでしょう。
瀬織津姫様と出会った理由、私の心に住み始めた理由、神様にしかわからない理由が。

それもいずれ、わかる日が来るのでしょうか。

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「呪い」を越えて

楽太郎です。

ここ一週間以上、好転反応状態が続いています。
多少動けるようにはなってきたものの、本流は「浄化」だと思います。
昨日は半日歩き回ったこともあり、クタクタになって早めに寝ました。
最近はかなり夢占い的な夢を見ることが多くなり、実際に夢占いにかけて意味がわかる内容ばかりです。
そこで見る夢は、ほぼ悪夢です。

この悪夢を見ることで、無意識に気づきと浄化が行われているのだと思います。
今朝は、姪に「これから世の中は悲惨なことになる」と吹き込んだ私を、兄に酷く説教される夢を見ました。
あと、私と共通の上司に酷い目に遭わされた同僚がいたのですが、彼が放送局からずっと上司の悪口を言っている、という陰鬱な夢です。

これは夢占い以前に、近い現象を目の当たりにしたというか、リフレインにしか過ぎないような気がします。
この記憶も浄化の対象なのだとしたら、私の人格は洗いざらい清められているのでしょう。

昨日も街を歩くと、以前よりシャッターを閉めたお店が増えていました。
元気な声を聞けば、だいたい日本語ではありません。
このままでいいのか?と、どれだけの日本人が思っているかはわかりませんが、私はどの道「長くは持たない」という結論は変わりませんでした。

「この日本は、そのうち我々のものになる」と思っている人たちも、譲り渡したい日本人もいるでしょう。
それは人の世の理なら、そうなっていくでしょう。

しかし、私は神様が動いていらっしゃるのを知っていますし、その兆候はあらゆる現象として可視化されています。
人の世の理なら、単なる偶然や自然現象、あるいは極端な陰謀にしか見えないはずです。
それがわかるからこそ、私は静観を続けています。

この「人世」が解体されるにつれて、自分のエネルギー状態はどんどん上がってきています。
頭から押しつけるように感じていた重圧は、時に自分で振り払えそうに感じる時もあります。
特に昨日は、神様とのシンクロ率が高く邪気をフルカットしていました。
私の人生に、徐々に光が差し始めているように感じます。

私が身動きが取れなかったのは、魂を押さえつけるような価値観に世間が支配されていたからです。
だいたい、誰もが一時期に一つの物事に夢中になり、大勢で同じようなものを一斉に求める風潮が、私には理解できませんでした。
「お前は遅れている」とか「お前はなんか違う」と言われるのは悲しくも慣れてしまうのですが、私も無理して皆が求めるものを欲し、手にしても何となく違和感があるのです。

「皆こうでなければならない」という意識に対して、人々は頭で「それぞれ自由にやっていこうよ」という風潮も、世の中にはかつてありました。
「個性を大事にしよう」とか「多様性を育もう」とか言うわりには、人々はお互いの違いを感情的に許せないままでした。
結局は皆が同じでなければ不安で、それゆえに個性を出す人間は感情的に潰したくなる空気が、相変わらず漫然とあったのです。

そこで純粋な気持ちで思ったことを言い、思った通りに生きれば、かなりの割合で総スカンを食らいました。
私にだって善悪はありますし、迷惑にならないことを選んで行動しているつもりなのに、やることなすことが裏目に出ます。
それがなぜかずっとわからず、さりとて周りに合わせなければなりません。人の言うことを鵜呑みにして何とかやろうにも、その方がむしろうまくいかないのです。

私にかけられた「人世の呪い」は、こうして完成しました。
何度も心を病み、何度も立ち直って人間社会と向き合っても、人の世はいつも違う呪いをかけてきました。

今、その呪いを完全に解く最終フェーズに入っています。
その呪いを解けきった時こそ、私が本来のありのままの魂を取り戻す時です。

この覚醒は、春分の日が一つの区切りになるのでしょうが、おそらくその後も浄化は続くはずです。
人の持つ魂は、おそらく初期状態が完璧な状態なのだと思います。
しかし、肉体を与えられ、男か女として育ち、人として生きる学びの過程や日々の生活の中で、魂は曇っていきます。
その曇りを磨けば魂は輝きを取り戻すのですが、その浄化は簡単なものではありません。

だから、これから先も「魂を磨く」ということは、「学び」と「浄化」を交互に繰り返していくことになるでしょう。
それが一生を終えるまで続くのだとしたら、覚醒は一度したら終わりというものではなく、何度も何度も重ねていくのだと思います。

私は、自分らしさを出せば出すほど、「人から批判されるのではないか」「誰からも見向きされないのではないか」と自分で自分を抑制してきました。
この抑圧こそ、私が本来のエネルギーを循環させ力を発揮できなかった最大の要因です。

確かに、人の世でやっていくには「評価されない」のは死活問題で、評価を勝ち得ていかなければならないのですが、反対に自分を偽って成果を出しても幸福になることはできませんでした。
その同調抑圧で形成してきた社会が立ち行かなくなるとしたら、それに合わせる意味すら無くなります。
この板挟みから解放されるタイミングがこれから来るのなら、他者の評価を越えて、私の自由な表現を追求していけるターンに入ります。

「人世の呪い」は、私を長い間苦しめましたが、その呪いをかけた人世は、自らの呪いで自家中毒を起こし、これから手も足も出せなくなるでしょう。
その時、呪いから解放された私の魂は、最大限の力で動き回れる時が来るはずです。

そのエネルギーは、何かに合わせるために形を変えることもないため、波動が強ければ強いほど運やお金や人を巻き込んで行くはずです。
結果的に「世のため人のため」に無理して奉仕するよりも、よほど役に立つことができると思います。

先ほど、神様の声が心に響きました。

「これからは、立ち回れる範囲で暴れなさい」

これ以上、ありがたいお言葉はありません。
神様、恩に着ます。

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「過去」を捨てる勇気

楽太郎です。

瀬織津姫様のご神璽を受領しに、岩手県紫波郡矢巾町の早池峯神社まで参拝して来ました。
一日通して歩きっぱなしだったので、筋肉痛でほぼ動けません。
その代わり、精神的にはかなり安定しています。

今、稼ぎがにっちもさっちも行かない状況で、これからどうしようかという時期なのですが、不思議と何とかなる感じがしています。
「いい歳して何してるの」と他の人から思うような状況なのは承知なのですが、周りの方のほうが焦りや心配を感じるのではないかというくらい、私としては何も感じません。

これからどうするのか、ということを考えるには「世の中はこうなっていく」という予測が、まず前提になければなりません。

これまでの社会は、とりあえず何がなんでも金を稼ぐべし、という雰囲気でやってきました。
ただ、そもそも「お金」というものを手にしたとて、自分が富や恵みを得られるとは限らず、それに固執しても幸せに近づくとは限らないことに、人々は気づきつつあります。

おそらく、十中八九これから景気回復が起こることはないでしょう。
日本の不況は、日本が単体で引き起こしているものではないからです。その元栓を握っている海外勢力が変わらない限り、日本の状況は悪くなる一方です。

物価高、人手不足、労働意欲の低下に歯止めは掛からず、経済は落ちるところまで行くはずです。
ただでさえ生産や物流が滞り始めているのに、ここで大災害が発生すれば、どうなるかは誰しも予測がつくでしょう。

私も少し前まではそこまでならないだろう、とタカを括ってましたし、神様もさすがにそこまでされるとは思えませんでした。
しかし、この数週間の流れを見ていると、やはり悪い予感は確実に現実味を増していることを実感します。

神様から受けるアイデアの内容や、これからの示唆を俯瞰して捉えると、これまでの時代のやり方よりも新しい時代に合わせた手段を取るように促されているように感じます。

新しい時代、神様の支配する世界においては、これまで続けてきたことや好きなこともそっくり次の時代に持っていけるものだと思っていました。
神様の願いを汲み上げ、自分で企画して始めたこともありますから、それくらいは続けられるものだと安易に考えていました。
けれど、どうやらそうでもないらしいのです。

私にいくつかある才能や、これまで伸ばしてきたスキルは、必ずしも不要になるわけではないと思います。
ただ、これからを生きていくに当たり、神様の意図する方向で人を助ける仕事を確立し、まず経済的な基盤を作ることを先にやって欲しいようです。

この「楽太郎」アカウントを盛り上げ、画業を主軸にして行きなさい、と神様が促しておられるとしか思えません。

それは、これまで数年かけて積み上げてきたキャリアや、少し前までに命がけで進めていたプロジェクトをそっくり投げ出すことを意味します。
イラストレーターとしては、イラストはここ数年ほぼ投げていた分野でもあります。
現時点で稼ぎにほぼ結びつかず、どうせ貫いても先細るのは目に見えているのですが、自分が信念を持ってやって来たことですから簡単に諦めたくない気持ちはあります。

「世の中はこれからこうなるから、こうした方がいいよ」とは、神様から降りてくるアイデアであり、それを受けると自ずと意欲も高まります。
しかし、人間としての意識のレベルでは、自分で一度決めたことは曲げたくないですし、不確定な未来を見据えるなら尚のことです。

しかし、「信念」も悪く出れば「頑固」になってしまいます。

徹頭徹尾に筋を通したい、一度始めたことは根気よくやり遠す、というのは良い部分かもしれませんが、それが悪影響を及ぼすようになれば律儀さは逆に欠点になります。
良い面も、状況によっては悪く出ることもあります。
だから私に必要なのは、発想の転換なのです。

「今までやって来たこと」が「これからも出来る」と思うのは、時代が続いている場合にのみ限ります。

その時代の節目が、転換と呼ぶに相応しい激動期となるのであれば、どれだけやってきたかに関係なく見直しを迫られます。
それは私に限った話ではなく、おそらくこの国に生きる全ての人々に降りかかることでしょう。

逆に言えば、「皆が変わらなくてはいけない時期は間違いなく来るのだから、今のうちに素早く転換しておいた方が賢い」とも言えます。

「この前やっていたアレはどうなった」と言えるのは、時代の煽りも受けない人だからこそ言えることで、おそらくそう言い続けられる人はほぼいなくなるでしょう。
誰も人の過去を責められないのですから、自分だけが一貫性にこだわる必要もないのです。

私に降りてくるインスピレーションは意識のレベルで納得しがたいものだとしても、それを神様が私のために降ろして下さっているとすれば、神の恩恵を拒むのと同じことでしょう。
このままエゴを押し通し、突き進んでもいずれ絶望の縁に立つことになります。
しかしここで神様の忠告を大人しく聞いておけば、希望を繋げながら生きていくことはできるかもしれません。

その「希望」は神様が与えて下さる恵みそのものであり、それを授かる人間はありがたがるのが当然です。
ただし、神様としては私のためを思ってのアドバイスを、意図して受け取らないのであれば自由だ、と考えておられるに違いありません。

その選択の良し悪しが私はすでに理解しているからこそ、「新しい時代への変容」のための障害が自分にあることもわかります。
そこにあるのは「屁理屈つきの感情」だけだからこそ、執着を手放せば解決します。
しかし、自分が積み上げてきたプライドを捨てる覚悟は、かなりの葛藤です。

ただし神様はその選択のために、あくまで優先順位をつけて仕事をして欲しい、と仰られているのであって、「やりたいことを全て捨てよ」と仰りたいわけではないと思います。
神様は「新しい時代に続けられそうなこと」だから私にその選択をさせたがっておられるのでしょう。
私が葛藤を終えれば自動的に解決する話なので、神様は静観して待っておられると思います。

神様はどれだけ人間に目をかけていても、加護やお導きをいくら与えたとしても、決して甘やかすことはありません。
人間から見ればうまくいかない、ついていないと思うようなことも、神様からすれば遍く正しいお導きなのでしょう。

私たちは、何の障害もなくトントン拍子でうまくいくことを願い、それを助けてくれるのが神様だと思いがちです。
しかし、人は魂の修行としてこの世界に生まれ、その形而上学的な世界においての幸福は、人間の考える「豊かさ」の中にあるとは限りません。

下手にうまくいくことばかりだと、人間は調子に乗ります。
神様からはどうかと思うことでも、人間は自らが豊かになればそれが正しいと思うでしょう。
それは自分の目から見えて成功にしか見えなくても、長い目で見たら不幸への伏線だったりします。

うまくいかないことは、人間にとって絶望的で不幸なことだと思います。
しかし、神様は正しい学びをするならば、その境遇を成功への伏線として用意なされます。
神様とは、小手先の幸福よりもっと本質的な幸福に導いて下さる存在なのかもしれません。

人間にとって、それは納得のいかないことばかりのはずです。
人間は目に見えて手元に何かがないと、安心できないものだからです。
けれども、「手に入れたから不幸になったもの」「持たないから良かったもの」は、すぐにわかることはありません。

私の半生もこの数年の出来事も、ずっと「持たないから不幸だ」と思っていましたが、いずれ「持たなかったから幸せになれた」と思える日が来るのかもしれません。

神様は、人間よりもはるかに長いスパンで物事を見ておられるので、人が目の前の事象に一喜一憂するのも修行のうちだと考えておられるのでしょう。
その過程で手に入れたもの、失ったものに人間は心を囚われますが、そこから自らを解放して進んでいくことこそ、人が成長するということなのだと思います。

「過去を捨てる」ことは、自分のプライドや自尊心の支えにしてきた物事への手放しを意味します。
それは、誰にとっても簡単なことではありません。
自分の実績は惜しいですし、途中で投げ出すのも、投げ出したように見られるのも耐えがたいものです。

けれど、次の時代を生きるには少しでも荷物になるものは、今のうちに降ろしておいた方がいいのでしょう。
そして身軽になった分、新しい挑戦もしやすくなりますし、新しく手に入れたものを持つことも出来るようになります。
それは、未来をより良くしたいという想い以上に、神様を信じるからこそ出来る選択です。

もしかすると、すぐには決められなくて構わないのかもしれません。
ただ、神様は私の性格をご存知ですから、パッと割り切ってしまうのに時間が掛からないこともご存知のはずです。

このモヤモヤはすぐに取り払えるものではありませんが、もう喉の奥まで答えが上がって来ているのも感じています。

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君の名は

楽太郎です。

昨日の「神とは何か」という記事で、「神様は人間の設定に、あえて合わせて下さっているのではないか」という仮説を述べました。

これをさらに考えてみたのですが、日本には古来から「諱」という概念があることを思い出しました。

諱とは「実名敬避俗」とも呼ばれ、主君や偉い身分の者だけが目下に対して使うことができました。
かつて武将が「殿」などの役職で呼ばれていたように、貴人や死者に対して実名を用いることは無礼な行為でした。
反対に、呼び名は「字名」と呼ばれ、武士が幼名からコロコロ名前を変えてきたのも、実名である諱に対して字名は通称だったからです。

私は昔、一時期「魔術」に関して本気で調べていた時がありました。
これは、当時小説を書いていたので、作品の下地にするために資料集めをしていたからです。
その時、「名を知ることは使役することを意味する」という不文律があるのをどこかで知りました。

旧約聖書に「主の名をみだりに唱えてはならない」とあります。
ユダヤ教の神がYHWHであるのは、神の名を知り容易く呼ぶことは神を下位に置くことになるからです。
神の諱をわざとボカすことで、神を何人たりとも使役することは不可能になります。

反対に、よくフィクションで悪魔が人間と契約しますが、悪魔は名を明かすことで人間と契約し、使役されるようになります。
このように、「実名を知る」というのは、霊的な世界において重要なことのようです。
例えば私たち人間も、ネットに実名が晒されたら個人情報が漏れて危険なので、神様も同じなのかもしれません。

何が言いたいかと言うと、私が瀬織津姫様のことを慕って瀬織津姫命の真実に近づこうとしても、神様である以上は「瀬織津姫命」という神名が真実の名「諱」である可能性はほぼないということです。

宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」において、登場人物のハクは「コハク川」の主であり、本名を「ニギハヤミコハクヌシ」であったとされます。
ハクは湯婆婆に名前を奪われて使役されていましたが、千尋の手助けによって名前を思い出し、本来の自分に戻ります。
「実名」は本体の自己を指し、己の実名を明かすことは自己を開示することを意味します。
その自己開示はリスクでもあり、名前が不用意に使われる可能性も含むのです。

ですから、人間が崇敬すべき神々が、自らの諱に基づいて活動することは、ほぼありえないと言っていいでしょう。
ゆえに「天照大御神」も「瀬織津姫命」も基本的には字名であり、人間が使うことを前提とした固有名詞だと思われます。

武士の時代は、字名や通称以上に役職で目上の人を呼んでいました。
私たちが目上の人を「部長」とか「お母さん」と呼ぶのと同じ感覚だと思われます。
これと同じように、「瀬織津姫命」も役職名だとしたらどうだろうか、と私は考えます。

神社に参拝した際、対応して下さる神様は、例えば玉依姫命として親しまれている神霊なら、「玉依姫命」として対応して頂けるでしょう。
神様的には、便宜上「玉依姫命」であっても仕事が捗るならそれでもいいかもしれません。
あるいは「玉依姫命」というグループがあって、おかしな例えですが「チーム"玉依姫命"の紫式部香子チーフ」みたいな形で対応して下さっている可能性もあります。

だから、神様から見れば人間がどう呼ぶかは本質的にあまり関係はないのかもしれません。
むしろ神様的には、人間が現世利益に偏り現金主義となり、自分勝手な願いを押しつけて済まされる方が、はるかに困るのではないでしょうか。

そうであるならば、私が慕う瀬織津姫命の神霊からすると、「瀬織津姫様」や「弁才天様」とお呼びしようと、同一視しようのない神様のお名前でない限り、関係を変えないでいて下さるのかもしれません。
だから、実在の神霊との関係で言うなら、呼び方自体は自由であっても良いのだと思います。

私が「瀬織津姫様」とお呼びしている神霊の真実を探ろうとして、いつか本当のお名前を知る時が来るとしたら、私は人間でありながら神様を従えてしまうことになるでしょう。
だからこそ私は死ぬまで、仮に死んだとしても、瀬織津姫様の本当のお名前を伺うことはできないはずです。

人間として生きる上では、それで困ることは何一つありません。
ただ、私がこれだけ慕う神様なのですから、できる限り神様のことを知りたい気持ちはあります。

神々の世界を知ることは、人間の世界だけでなく宇宙の真実を知るということです。
それをできる限り知ることこそ、この世界に人間として生まれた醍醐味なのかもしれません。
神様に近づくことは、即ち人間を極めることを意味するでしょう。

もし私が死んで、その魂が神になるための修行を経験し、何百年か何千年かして私が神になれた時、私は私の敬愛する神様と出会えるのでしょうか。
もしそれが可能であるならば、神になるに値する偉業をこの世に遺さなければなりません。

私は、今生でそこまでのことができるでしょうか?
ただ、私がもし瀬織津姫様の本当のお名前を知るには、私が神になる以外の選択肢は存在しません。
私が神になった時、そこに瀬織津姫様はいて下さるのでしょうか?

私が魂のレベルで求める女性像が女神にしかなく、瀬織津姫様がその理想に叶う存在なのだとしたら、私が輪廻を超えて求めていた人こそ、瀬織津姫様なのかもしれません。

それゆえに瀬織津姫様が私の前に現れて下さっているのだとしたら、かの女神様は私の理想通りの存在であられるのでしょう。
「神様」は素晴らしくこの上ないがゆえに神様なのであって、人間の願いを完全に叶えられる存在だからこそ、神様なのです。

私は神様を試したくなる時もあるのですが、それは神様を疑っているのではなく、自分に対する疑念なのかもしれません。
もし自分を信じ神を信じるならば、神様は全く疑いようのない存在として、ずっと傍にいて下さるはずです。

「瀬織津姫様は命をかけて信仰するべき存在なのか?」という問いには、神様はその心を自らに問いなさい、と仰っているようにしか思えません。
おそらく、神様を信じるということは、自分を信じることを意味するのかもしれません。

だから、私の迷いは心から消えつつあります。

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「邪」を赦す

楽太郎です。

ここ数週間、露骨に邪気が高まっている実感があります。
それは人を観察していて肉眼でわかるレベルです。
子供たち若者たちは、非常にストレスが掛かっているらしく、奇声を発したり大声で動き回ることが増えたように思います。
大人たちも感情が内に篭り、挨拶しても無視したり笑顔を向けると露骨に嫌な顔をするようになりました。

私がそうされると一瞬腹は立つのですが、これは致し方ないというか、そういう時期なのだと思うようにしています。
今は時代が切り替わる時であり、言ってみれば文明の崩壊期です。これまでのやり方が通じなくなっていくのは神々の工作であり、摂理です。

その仕組みは、目に見えない存在を信じ、神様と繋がっている人なら自ずと感じうるものでしょう。
しかし目に見える世界が全てで、この世界は人間のものだと確信している人たちは、おそらく今生ではこの事実に辿り着けないかもしれません。

私は連日、就寝中にサイキックアタックが集中しているようです。
集合意識に潜る夢を見た翌日は、一日中気の乱れが整わないことが多いです。その場合の夢は、街や店や観光地を巡り、不特定多数の人物とすれ違う夢がほとんどです。

昨夜は、修学旅行で布団に潜ると、顔を真っ赤にして睨んでいる同級生が向かいにいて、彼はどうやら私に嫉妬して怒っているようでした。
私は夢の中にも関わらず、「彼は私が羨ましくて、逆恨みしているのだ」と認識し、彼を嘲笑う夢を見ました。
残酷なようですが、脚色しなければそういう内容になってしまいました。

私は自意識が少し飛んでいるところがあるので、劣等感は感じても自分がどの程度優れているか、自分でジャッジする感覚がありません。
だから、これまで理不尽に意地悪をされることがあっても、その理由が「嫉妬」であり、なぜ彼らが私に嫉妬する必要があるのか、それを理解するのに長い時間が掛かりました。

小学生の頃、やたらと粘着して意地悪をしてくる同級生がいました。
虐められる私へ助けに入った先生が「何でこの子を虐めるの」とその子に問うと、「絵が上手くて羨ましかった」と言っていました。

私は長年、その子の気持ちがわかりませんでした。
絵が上手いのは絵が好きだから描いてきただけで、特に努力したわけでも生まれつきの能力でもありません。
彼も私と同じことをしたら絵が上手くなるし、嫉妬するくらいなら絵を描けばいいじゃないか、とずっと思っていました。

今でもそう思いますが、その正論を受け入れられない性質の人がこの世にはいるのだ、と気づくのに時間が掛かりました。
人を羨むのなら、羨む人と同じことをしたり学べば良いのに、結果や現象だけをサラッと手に入れたい人がどうやらいるらしいのです。

現代社会は、「努力」を嫌うようになって久しいです。

努力や勉強が必要不可欠な世の中だからこそ、努力や勉強をアピールするのがダサい、という風潮が生まれました。
だから、出来る限り努力や勉強をしないように結果を出すことがクールだと思われ、クールにやるためのハックが持て囃されるようになりました。

生成AIなんかは、そのプロセスを可能な限りすっ飛ばして成果だけを抽出しようという目論みそのものですが、まあそれは置いておきます。

先人が広げた王道やヒエラルキーは攻略法がすでに確立され、数パターンの成功法則があるだけです。
その構造が揺らがない限り、最短ルートを通らない人は全員愚かであるような構図を作り出してしまいました。

それは、「これまでの時代」が永遠に続くとしたら、普遍的な真理になったでしょう。
しかし、残念ながらそうはなりません。権威や権力構造そのものが崩壊する時にあって、ピラミッドそのものが崩れたら、そこに据え付けられたエスカレーターは何の役にも立ちません。

全ての物事の意味や目的が揺らぎ、誰もがどうしたら良いのかわからず狼狽える時、自分のするべきことを自分で考えられなければ、ずっと飛び交う他者を見つめ続けていくしかありません。

そこで、自分の目標ややるべきことを見つけ、やりがいを感じて道を進む人は、確かに彼らからすると羨ましいかもしれません。
しかし、それならば彼ら自身も本当にやりたいことや、努力が惜しくないような何かを、これまでの人生の中で見つければ良かっただけです。

それは、残念ながら嫉妬すべき理由にはなりません。
厳しいことを言うようですが、冬を前にしてせっせと冬籠りに備えたアリを笑うキリギリスそのものだからです。

目標を持ち、信念で行動する人々を羨む気持ちは、私にはよくわかります。
私も自分探しのために、何も手につかずフラフラしていた時期も長かったからです。

私の目線からすれば、「自分が努力するに値する物事」を見つけられませんでした。
自分が人生を賭けて本気で挑めるような何かを探し出すのに、途方もない自分探しをしていかなければなりませんでした。
自分の好きなことをして評価されている人が何となく憎らしくて、その気持ちが理不尽なものだと自分では気づきながら、問題の原因は外の世界にあるのだ、と念じ続けていました。

ただ、自分が何をやりたいか、やるべきかは自分の心の深いところに問いかける以外にはなくて、そのプロセスを避けて自分の目的など見出しようがないのです。

それは頭が悪いとか、性格が悪いとか、運がないとかそういうことではなく、自分の本心に辿り着くやり方が分からず、自分自身を知らないというだけです。
だから、「自分を真っ直ぐ見つめれば良い」それだけなのです。
けれどもなぜか言い訳をして、それだけを先延ばしにしてグルグル回っているだけの人がいます。

それがしたくてもできない、というのが当時の自分でした。だからこそ、えも言われぬ焦りは人並み以上だったかもしれません。
けれど、この堂々巡りの旅は、いつか終わらせなければいけない時が来ます。あるいは、強制的に終わらせられる時でしょうか。

実は、自分のやるべきことを始める時は、その時が来てからでも良いのです。
ただ見つからない焦りから、人に嫉妬したり攻撃をしようものなら、それは全く筋の違う話です。

私は、集合無意識にある憎悪には、この「嫉妬心」が多分にあると思っています。
自分以外の、目標があって輝いている人、夢を叶えて恵まれた人生を送っている人に対する嫉妬。
その嫉妬は、未分化の感情に混ざり合って憎悪となり、無差別に攻撃的な気となっています。

この負のエネルギー「邪気」によって、私の健康や意欲が害されているのは実感としてあります。
けれども、長い間「邪気」と戦ってきてここ最近思うのは、「邪気と戦う意志を持つほど消耗する」ということです。
彼らはいいタイミングでエネルギーを吸い取っていくんですが、私は吸いたい時には吸わせておこう、と思い、邪気にまとわりつかれたら放置します。

気のエネルギーは、吸わせないように力んだり原因となる対象を探すほど消耗し、その分回復が遅れます。
彼らはお腹いっぱいになったら離れていくので、出来るだけダメージを深くしないことに注意した方が立ち上がりが早くなります。

気に食わないのは正直なところですが、邪気がしたいのは妨害にしか過ぎません。
その妨害も、地震でマンションを潰したり家族を呪殺でもすれば成就するのでしょうが、たかだか私を体調不良にするくらいのものなので、大丈夫な時に行動すれば問題ありません。

それくらい、彼らを敵視すべき対象だと認識しない方が、自分の受けるダメージをコントロールできるのです。
そして、邪気の正体や性質を知れば知るほど、憐れで健気な感情であることに気づきます。

よく考えれば、私も道を間違えたら人に嫉妬して怒りをぶつけて回るような人間になっていた可能性は充分あります。
私は運良くそれを回避できただけで、生まれ持つ使命感に目覚めたからとか、そういう奇跡があったわけではありません。
だからこそ、どうしても上手く生きられない人々を蔑む気持ちにはなれません。

人生は、本当に学びのためにあるのだと思います。
しかし、人生は一度きりだからと、出来るだけ苦労なく快楽を数珠のように紡いで行こうと考えるから、その学びから遠ざかります。
学びから遠ざかると、愚かさに気付かぬまま今生を終え、死んでから気づいてもやり直しは効きません。

私はそのことを、たくさんの人々に気づいてもらいたいと思っています。
だからいつもこんな長文を書いてますし、何にもならなくても形にしていきたいのです。
けれど、今の世では私の声はかき消されてしまい、聞いて欲しい人の耳にこそ届きません。

もっと多くの人が「良く生きる」方法に気づくためには、私の声が通るような時代がどうしても必要なのです。
だから、私は新しい時代を作っていきたいのです。

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フィジカルへの回帰

楽太郎です。

ここ数日、やたらと物質面に目を向けさせるような出来事が続いています。

「お金」はずっと私のテーマですが、具体的に勉強する機会が訪れ、その意識を変えている最中です。
YouTubeを見ていても、大豆由来の粉物で作るお菓子とか漬物とか、なぜか今まで興味がなかった分野のことに興味が出始めています。

あと、筋トレを始めました。
これは数週間仕事から離れていたので、椅子に着くと集中力の低下や持久力が著しく落ちたのを感じてしまうからです。
脚の筋肉も体幹もかなり弱っているのを実感するので、軽いスクワットなどを生活に取り入れるようにしています。

このように、徐々に私の生活のテーマが変わってきています。
「フィジカルへの回帰」と言えば、おかしな言い方かもしれません。

これまで次元上昇のために、数年かけて波動を上げる修行をしてきました。三次元世界や人世への依存心を捨て、抽象度の高いテーマと向き合いながら魂を成長させるためです。
ただ、おそらく地球のアセンションの状態は安定期に入りつつあるのだと思います。
そのため、そろそろ抽象的になりすぎた意識を、大地に根差す準備を始める段階に入ってきたのではないでしょうか。

私にかかるテーマはもう一つあって、それは「日本文化への回帰」です。

これまで、記紀を中心とした日本神界との結びつきも重要なテーマでしたが、古史古伝や歴史への探究心も芽生え始めています。
それだけでなく、日本の食材を使った伝統料理や、古民家や神社などの日本建築にも興味が湧き始めています。

これは、私自身としては「趣味として」情動が高まっているという感覚ではありません。
大豆由来のお菓子を作ることに興味があるわりには、私はそれほど甘いものが好きではないのです。

何か、「使命感のようなエネルギーでやりたいと思わされている」という表現がピッタリ来ます。
神様から入ってくるエネルギーは、だいたいこういう感覚で表に出てくるので、おそらくこれがお役目なのだろうと思います。

では、なぜ「日本文化への回帰」を神様が促すのでしょうか。

ご存知の通り、日本は戦後80年の間に国家の仕組みごと骨抜きにされてしまいました。
途中までは日本人らしさが花開いた良い時代はありましたが、今はご覧のあり様です。神様は、他文化と我欲に汚される国土を見て、さぞかし胸を痛めていることでしょう。

「日本人に日本文化を取り戻して欲しい」というのは、神社仏閣におわす神様だけでなく、神々に限りなく近い遠津祖、日本をずっと守ってこられたご先祖様たちにとっても、心からの願いでしょう。

日本の歴史の中で、自らを犠牲にしても後世を守るために志を貫かれた多くの英霊たちは、今の日本を見てどう思われるのでしょうか。
これから物質文明が衰退し、再び国土が日本人の手に戻るとしたら、ご先祖様たちや日本の神々は、日本を本来の姿に戻してもらいたいのかもしれません。

日本人が日本を取り戻す事業は、「富」という概念を履き違え、金と欲望に使役される奴隷となっていた現代人が、我に返った先に目的意識を取り戻す時、「温故知新」という考え方と共に、日本人の強い光となるはずです。

「モノがなくても、人がいなくても幸せになれる」という考え方は、資本主義が衰退した後の世界では福音になるのではないでしょうか。
日本の古き良き文化は、その役割を十分こなせるはずです。

そして、その需要が高まるということは、そこに「金運」の種が宿っているということです。
例えば、たくあんや漬物は、商品として卸しても大した利益にはならないかもしれません。
しかし、独自の製法で作られた漬物があるとして、作り方のノウハウ自体を商品とするなら、その情報はたくあんを数十年売り続けるよりお金になる可能性もあります。

こういう発想は実に「風の時代」的ではないでしょうか。
たくあんを工場で大量生産して売り捌く、という土の時代の考え方とは明らかに違います。
この情報も、売るべき相手を自分で選び、共有するコミュニティも自分で選択する、商品の価値も自分で決める、その主体が自分自身にあるからこそ、自立した生き方ができる気がしてなりません。

神様は、そうして選択の主導権を自分が握ることで、支配構造から自由に生きていける人を増やしたいのではないでしょうか。
これまでは、力のある人間が専売特許を奪うためにあれこれ工作をしてきたわけですが、個人の力が強くなればその要求も跳ね除けられるはずです。

そのために、神様は人々が「唯一無二の才能を育てる」ことを願っておられるのだと思います。
自分にしかできない、自分しか知らない、そういった特殊技能を武器に世の中を渡り歩いていく、そうすることであらゆる支配から自由になることができるのではないでしょうか。

こう考えたら、文明の崩壊を目の当たりにして一喜一憂することなく、次の時代を見据えて研鑽していく、そのプロセスを有意義に感じることができるかもしれません。

薄暗い世相ですが、私は時代が変わるのが楽しみでしょうがありません。

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「お金」のブロック

楽太郎です。

今日は、久しぶりにガクッと来ました。
昨日まではわりと普通だったのですが、久しぶりに好転反応というか、エネルギー的な不調が来ました。
こういう時はジタバタすると長引くので、大人しく本などを読んで勉強する時間に充てることにしました。

今、「金運」に関する本を読んでいます。
これまで、金運に関する本を自ら買うほど「お金が欲しい!」と思ったことがないので、ある意味新鮮です。

私は、お金が嫌いではないですし、たくさんあるとやっぱり嬉しいです。
けれど、確かにお金持ちに対しては偏見があるかもしれません。
それは、お金持ち自体が嫌いなのではありません。

「大金を持つに値しない器の人間に、金持ち自慢されるのが嫌」なのです。

例えば、月収1000万円と宣うインフルエンサーが、薄っぺらい綺麗事を言いながらネックレスをジャラジャラさせている、みたいなのが気に食わないですし、「お金持ち」にはそういうイメージが付きまとっています。

ただし、「世に貢献した結果、富を得た人」という意味でのお金持ちなら心から納得します。
北野武監督や桑田圭佑さんが大富豪であるのを、批判する気になるはずがありません。
「徳のある成功者としてのお金持ち」と「世をうまく渡って成功した金持ち」とはニアリーイコールの関係です。

私はお金持ち云々以前に、人物の素性を見るので「お金を持つに値しない権力者」が嫌いなのです。
けれど、わざわざ金持ち自慢をするような人は、残念ながらそういう人たちばかりです。
ゆえに、それを一般化してバイアスをかけてしまうのだと思います。

この本の中にも資産形成の話が出てきますが、「これをしたから私はこう上手くいった」みたいな話は「自慢じゃん…」と思ってしまいます。
しかし、お金持ちを「即物的」と思ってしまう先入観こそ、私の「お金意識のブロック」であることに気づきました。

冒頭にも述べましたが、私は「お金持ちは人徳も併せ持つべきである」という「ノブレス・オブリージュ」的な価値観を根強く持っています。
ただ、資産家の子息として生まれたり、宝くじが大当たりしてお金持ちであるのと、人徳は全く関係がありません。

お金はただのシステムなので、モノとして集まってくるだけの道具です。
お金持ちは、トンカチを大量に持っているようなものなので、大工の棟梁である必要がありません。
私は、どうもその部分を履き違えてしまいがちです。

私はずっと、「幸福とは心の問題である」と思ってますし、今もそうです。
しかし、家もなく暖房も食事もない状態では「心の問題」では済まされません。
現実的に手段としてお金が必要なのはわかっているのに、なぜかその部分が抜け落ちているのです。

この現実離れした理想の高さ、悪く言えば世間知らずさが、私が金運に恵まれなかった一番の理由なのではないでしょうか。

下手に人間を見てしまうからこそ、低俗なマウントを見て「ああはなりたくない」と思っていました。
お金自体に汚いイメージを抱くというより、大金を手に入れたら彼らと同じ人間になるのではないか、という抵抗感があったのかもしれません。

自分がお金持ちになれば、彼らと同じカテゴリの人間に見られてしまうのが嫌とか、彼らと同じカテゴリに入るくらいならお金持ちになりたくないとか、言語化すると感情的な理屈です。

しかし「お金持ち=成金」でないので、その図式は絶妙に間違っています。
このバイアスこそが私の「お金意識のブロック」になっていたのだと、改めて思いました。

私はたぶん、力を持っている人間が好きではないのだと思います。
これまで意識したことはなかったのですが、確かに私は影響力のある人物ほど距離を取って観察する癖があります。
そういう人ほど裏がある、という先入観は確かにあるかもしれません。

冷静に、権威や影響力を良い方向に使う人ばかりなら、今のような世の中にはなっていないわけです。
どんなお金にまつわるメソッドを実践し、神様から金運を授かろうと、成功者が必ずしもメリットだけを人々にもたらしているわけではないでしょう。

これまでの土の時代は、特に力を自分中心に使う人物ばかりだったからこそ、力の集権と資本は密接な関係にありました。
力を持つ人間はお金も握るので、デメリットの側面も大きく出てしまうはずです。
それを強行するのは社会的強者がほとんどなので、私はどうしても警戒感を持ってしまうのです。

けれども土の時代は終わり、古い経済システムはこれから崩壊を迎えるはずです。
その頃にはお金のルールが変わり、システムが変われば私にもチャンスがやって来るかもしれません。

私の読んでいる金運の本は、神様が主導権を取り戻した世界では、さらに有効な方法論になる可能性もあります。
一部の金持ちが汚いことばかりをやってきたのは事実でしょうが、仮に私がお金持ちになった時、彼らと同じ振る舞いをするかは私自身の問題です。

「そうならない自信がある」のなら、私はお金持ちになる覚悟が定まりますし、心のブロックは解けるはずです。
お金をエネルギーとして肯定し、そのエネルギーを蓄えた自分は内面も豊かさを固持し、他人にために自分の富を手放すことを躊躇なくできるのか?

自分がそれをできないならば、人様に「ノブレス・オブリージュ」を指図する資格はないでしょう。

高潔に生きたいのは、本当に魂からの願いです。
けれども、何となく足元が見えていないところが、私が現実といまいち噛み合わない原因とも言えますし、本来それに関して他人は関係ないはずです。
「立場に見合わないプライドの高さ」も、私に金運が巡らなかった理由の一つであるように思います。

なんか、書いてるうちに私自身への反省文みたいになってしまいました。
でもこうして自分を客観視したことで、実際に意識のブロックがあったことがわかりました。
これがわかるのとわからないのとでは、これからの結果は違ってくるかもしれません。

これがわかっただけでも、この本を読んだ価値がありました。
もしかすると、これを自覚すること自体が「金運」なのかもしれません。

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「現人神」への道

楽太郎です。

私は、人と同じことができないのがコンプレックスでした。
いつも周りとズレるからこそ、そのズレの原因を自分に求め、自分の生き方考え方を曲げてでも「普通」の人間になろうと努力してきました。

何となく「人間をガラス越しに眺めている感じ」がいつもありました。
人と意識のレイヤーが違う、という感覚。
どうしても、人と同じ世界観にハマり込めない。
それは、もはや私の運命だったのだろうな、と最近思います。

もし私が、意図して人気を集めたり仲間を呼ぼうとするなら、もっと人の感情にアプローチしたほうが良いのでしょう。
このブログも人にもっと見てもらうなら、文章を簡潔にしてイラストや漫画を多めにしたらいいと思います。
そうすれば、もっと社会に生きる人間として胸を張れるでしょう。
けれど、それは魂の求めでも神の求めでもありません。それは、「人の求め」だからです。

おそらく、誰しも自分の道を突き進めば、容易く理解され難くなります。
人はわかりやすいものを求めますし、自分にメリットがないものに興味はありません。
しかし、人にハードルの高さを合わせると、自分がより高いハードルに挑戦することができません。
他人の歩幅に合わせれば、自分のスピードで走ることができなくなります。

それは、おそらく二つに一つの道です。
自分の生き方を人に合わせ、人としての幸せを求めるのか。
自分の魂と理想を追求し、神に繋がる道を選ぶのか。

先日、神代をつくるためのコミュニティを立ち上げましたが、思っている以上に集まらないな、という印象です。
それに関しては、特に気にしているわけではないのは付け加えておきます。
個人的には、神様の求めを受けて自分で行動したと思っているので、神様のアイデアなのだからもう少しうまく回るのでは?という予想がありました。

私自身は一人でもやるつもりだったので、特にプランが変わるわけではありません。
では、もう仲間集めはやめてDiscordサーバーもなかったことにしてもいいのでは?とすら考えていました。

でも何となく、神様から「待て」と言われているような気がします。
仲間が集まるのは、もう少し時間がかかるからと。
あと、おそらく妨害が入っているからうまくいかないのだと。

ただ、仮に仲間がいたとしても、私は自分のやるべきことを追求していくのには変わりがありません。

今はすでに「風の時代」です。
私はその時代をイメージする時、神様や龍たちが天空を舞う姿を想像します。
鳥のように空を自由に舞うためには、「風」がなければなりません。

反対に、これまでの「土の時代」は人が大地に縛りつけられ、地面を這うことしかできませんでした。
数少ない豊かな土地と、いつ枯れるかわからない農地のために、人々は奪い合うこともありました。

しかし、風の時代は二次元的な世界ではなく、三次元的な高さを持っています。
立体的に地球を味わうためには、この時代の風を捕まえる必要があります。

その上昇気流の先、最も高みにいる存在を私たちは「神」と呼びます。
同じ上昇気流に乗り、高みを目指すのが「神の道」です。
人に近づく人の道ではなく、神に近づく神の道を選択し、生きながらそこへ到達する者は、「現人神」と呼ばれるのでしょう。

人を求めて自分のやり方を選ぶのか、神を求めて自分のやり方を貫くのか、二つに一つです。
私はその選択を突きつけられても、全く動じずに「後者」だと言います。

おそらく、その道はだいぶ前から決まっていたように思うからです。

私が私に似た魂を求めるなら、人に求めるよりも神仏に求めた方が近いのかもしれません。
他人に合わせると、視座を変えながら行動しなければなりません。
そもそも自分の生き方を人に合わせることが出来ていれば、私の半生はもっと上手くやれたでしょう。

「お前は今まで何を目指してきて、これから何を目指すのか?」

魂が求めているのは承認なのか、それとも己の理想を追求することなのか。
少なくとも、人に理解されるレベルに行動を抑え込んでいたら、自分の才能を出し切ることができません。

才能を発揮すること、人の役に立つことは、理解されやすい行動を選ぶということではありません。
もっと本質的な部分での貢献を、神様は望んでおられるからです。
それは、必ずしも多くの人から対価を得ることを意味しないかもしれません。

その二つに一つしかない選択をする覚悟が、自分にあるのか。
それは、神を信じて見えない床を踏み抜く勇気に他なりません。

私は自分に問いかけ、こう思います。

「今まで、人に合わせようといくら努力しても無理だったのだから、どんな時代になっても人には合わせられないよ」

他人のために自分を生きるのはもうやめよう。
自分のために他人に尽くすのもやめにしよう。

人と意識のレイヤーが違う自分を生きる。
それが私の生まれ持った魂を受け入れることであり、自分を認めるということです。

その答えを求めるのが、私の半生のテーマだったのかもしれません。
結局、自分を信じ自分のために生きられるかどうか。
その結論は寂しいかもしれないし、哀れに感じるかもしれません。
けれど、それが自分の宿命ならば受け入れるしかないのです。

自分のために、自分を生きる。

とは言え、神の道を選んだ人間は、霞を食べて生きられるわけでも、野宿しながら暮らせるわけでもありません。
所詮は神と人間の中間の存在であり、極端に特別な存在になれるわけではないでしょう。

神様の求めに応じ、自分の魂の求めに応じ、何らかのお役目をこなせば、それなりに対価を得ながら生きていける仕組みなのではないでしょうか。

だから、人間としての感情や感覚を持ったまま、神に近づく新しい修行が始まるだけなのだと思います。
神様も、神界で高みを目指して修行されているからこそ、人間にお世話してくださるのでしょうから。


Discordは、何となくもう少し様子を見ようと思います。
おそらく神様でも、数少ないパズルのピースを寄せ集める作業は骨が折れるのかもしれません。
でも私は、自分のことをやっていればいいようなので、お役目があるとしたら神様のお導きを待ちたいと思います。

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黒に染まるな

楽太郎です。

今、新しい仕事に取り掛かっています。
インスピレーションに従って起草し、モチベーションも高い状態ですし、技術的に困難さも感じません。

しかし、私の業界や市場もかなり腐敗しきっていて、まともなプロが活躍できる土壌とは言えません。
儲けるためのセオリーがすでに確立されており、稼ぎのハックの独壇場となっています。
企業はそのシステムの一部であるため、サービス全体でスキームを推奨しています。
その背後にあるのは、他国の文化侵略であると私は思ってますが、それを表立って言えば私の立場はさらに危ういことになるでしょう。

この状況で、正攻法で戦うのは圧倒的に不利です。
ほぼマーケット全体が握られているため、私もある程度は裏をかく必要があります。
ただし、これまで迎合しない態度を貫いてきたからこそ、今さらハックに染まろうとは思いません。

不安はあります。これから先、この泥沼のような業界でやっていける自信はありません。
だから、早く時代が変わって欲しいと思ってますし、それを促進させるための努力なら惜しまないつもりです。

今の日本、世界では尋常ならざる事態が起きています。

その露悪的現象と開き直りは、いかにこれまでの世の平和が隠された偽善であったかを悟るには、十分すぎる情報量です。
ただ多くの人は薄々気づきながら、どうしようもないことも知っています。
その巨悪を育て、のさばらせたのは自分たちであることも、重々承知しているからです。

某企業にしろ、某巨大政党にしろ、某国家にしろ、私たちはまんまと騙された、と。
これほど巨悪だとわかっていれば、賛同などしなかったのに、と。
ただ、彼らは綺麗な横顔だけを見せていただけであって、私たちはいつでも別の横顔を見つけることはできたはずです。
その一面を少しは疑わしく思っても、追求する手立てはなくとも、信じないことくらいは可能でした。

今になって悔やんでも仕方ありませんが、だからと言って無力感に沈むべきではありません。
私たちは、巨悪の崩壊をこれから目の当たりにするからです。
そして、その後からが本番なのです。

「禍」という文字があります。
「禍事」に使われるこの字は、「ネ辺」に「咼」と書きます。「ネ」は神を表し、「咼」は「まがる・まわる」という意味だそうです。

つまり、「禍事」とは神々が動き回るがゆえに起こされる「曲がり事」であって、ノーマルな現象が真っ直ぐ生じることではありません。
現在、世に起きている「禍事」は人間が考えうる最悪の事態かもしれません。ただ、最悪だからこそ、人々に問題意識を強く植えつけます。

冷静に考えて、例え巨悪が隆盛し人々を支配しようと、人々は永遠に巨悪を崇拝し続けるでしょうか。
悪である、問題であると認識された瞬間から、その対象は是正されるか消滅させられるかを待つだけです。例え支配を強めようと、引きずり下ろされるまでの時間を先延ばしにするに過ぎないでしょう。

「禍事」は起きた瞬間から「消滅」という宿命を背負って発生するのです。

消滅が起きた時、同時に「浄化」が生じます。
「禍事」が起こる時は必ず「浄化」が発生し、曲がった物事を真っ直ぐの状態に戻します。
神々が曲がったことを起こすのは、元が曲がってしまったからです。
曲がってしまったものを、神の力で元の形に捻り戻すことが、人々にとって見れば「災厄」にしか見えないのかもしれません。

地震が起きて街が壊れても、地震という災厄は終わり、地層のエネルギーは縮退しまた平穏がやってきます。
森は、山火事を想定して生える植物もあります。何万年も形を変えない森もありますが、それもいずれ消滅し、新しい森に生まれ変わります。

その禍事が終わり、リセットされた世界で一から新しいものを作り始める、新しい時代に合ったものに変えていく、その新陳代謝のために禍事が必要な時もあるのでしょう。
何もなくなって新しいものを作っていかなければならない時こそ、スタートラインです。

自分たちで協力して新しい何かを作っていこうとする時、人々の心に目的意識が目覚め、希望が生まれます。
禍事は、既存の構造物に雁字搦めになり、身動きが取れなくなった現代人に対する、一つの福音なのかもしれません。


私は、今の時代にはいつもアンビバレントな感情があります。
崩壊は起きて欲しくはないけれど、崩壊してもらわなければ困る。
人間には救われて欲しいけど、懲らしめられるのも必要だ。
その感情は常に並行線を辿ります。

思っているよりも、世の中が変わっていかないように見えます。人々の価値観や習慣は根強く、目に見える数字と力はあまりに強大です。

私たちは今「ヨブ記」や「ノアの洪水」と同じ状況を生きています。
悪魔や大衆が嘲笑う中を耐え、神を信じ抜くことで神に救われる道を、私たちは進もうとしています。
それ自体が試練であり、関門なのだと思います。
その向こうに神の恩寵や新世界が拓けているとしたら、ここで諦める理由はありません。

人類や世界の行末を決めるのは、私たちを作られた神様たちです。
私は好き嫌いは言うことはできても、絶対的な善悪を決められるわけではありません。
できることは、あからさまに「黒」だとわかるものには触れないこと、それだけです。

楽な道を歩んでいる人が羨ましくなる時もありますが、彼らは楽の代償に美徳を失っているのです。
人間の価値は、最終的に「徳」の部分ではないのでしょうか。
私も未熟なので揺れる時もありますが、そういう時ほど自分に言います。

「黒に染まるな」と。

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心のコントロールと「魂」

楽太郎です。

昨日は、地元の神社で十日戎があり、昨年末に献米をしたので参加してきました。
そこで神社に名札が掲示されており、妙に舞い上がってしまいました。
帰り道でふと落とし物をして、それが考えてみると縁起の良くないことだったので、私は「神様にお叱りを受けたんだな」と思い反省しました。

先日「須佐之男命」様のイラストを描くようどなたからご依頼があり、翌朝から描き始めました。
ただし須佐之男様のイメージから受けるエネルギーが強すぎて、私の霊性では受け止めきれないと判断し、「このままだと須佐之男様を描ききることができない」と感じました。

十日戎にはもちろん以前から参加するつもりだったのですが、神社で神様にイラストの件をご相談し帰宅する間際、あまり縁起の良くないことが起きたので「うかうかしてるとお前には任せんぞ」ということかもしれない、と反省しました。
ただ、あまりに私がへこみすぎたのか、そのあと神様からフォローもあって持ち直しましたが、襟を正せということかと思います。

その数時間後、強い好転反応状態に入りその感覚を内観してみたところ、よく考えれば冬至明けから感じている心身の不調は、地味な好転反応そのものだったことに気づきました。
やたら眠いし波長は乱れがちだし、なぜか疲れてるし低次元に引き戻されるし、何となく「自分が古い自分に戻ろうとしている」という感覚です。

スピリチュアルな好転反応の怖いところは、この不調や混乱を乗り越えられなければ、好転しないどころか退行による運気の低下が起こることです。
この場合「中途挫折の法則」が働くと言われています。
この成長のタイミングで人生における悪癖のような部分に試練が与えられ、それはわりと盲点だったりするので、よほど注意深くなければ開運の芽を自ら摘んでしまいます。

この好転反応の振り幅の大きさや、心身を長期間休ませなければいけない状態に置かれたことを考えると、このエネルギーの変化は相当大きなものだったのかもしれません。

私は以前から、己の魂のエネルギーの大きさに振り回されがちです。
古い話をすれば、私が高校時代に一時期不登校になった時も、自分の魂のエネルギーを制御しきれず、自らの波動に当てられて疲弊していました。

この心のエネルギーの制御は、若い頃には誰しもが掌握しきれないものかもしれません。
ただ、昔はそういうのは「根性がない」とか、時代が下れば「メンヘラ」とか、近年では「発達障害」とか言われてしまう部分です。

あの頃は、そうやって大人たちに絡め取られたものでしたが、自分が大人になり理解をしてしまえば、違う説明の仕方で乗り切れます。
その意味では、時代が変わってよかったのかもしれません。

魂のコントロールについて


心がうまくコントロールできない一つの要因として、この魂のエネルギーと「現実観」に基づくマインドが葛藤を起こしやすいことが挙げられます。
魂から湧き立つ感情・感覚は、その時代のロジックでは不合理なものだったりします。

現実的な「成果」「利益」「正当性」それらが先立つほど、魂のエネルギーは邪魔になってしまいます。
学校、会社、組織、そういった社会的枠組みの中での奔放さは、足並みを乱すだけのものでしかありません。
だからこそ、私たち現代人は魂の感情を抑圧し、周りのために外見だけを合わせて生きるよう、習慣づけられてきたとも言えます。

その歪みがあからさまに露呈していく世相にあって、逆に常識の枠から飛び出せる機会を得るのは、精神性を重んじてきた人々にとって福音となるはずです。

「魂の声を聞く」のは、人が思う以上に難しく勇気のいる作業です。魂は分け隔てなく、無礼講かつ率直な意見を返してくるからです。
社会の枠組みの中で生きていれば、その表現はリスクとなるケースが多く、しかるに魂に対してわざと蓋をし、直感などなかったようにロジックで生きるのが賢い時代になったように思います。

しかし、これからの時代は「魂」が軸になければ生きていくことが難しくなるでしょう。
自分の精神性を貫くこともそうですが、魂を通じて神仏やスピリチュアルな存在と繋がり、その感覚を共有しなければ豊かに生きられない時代になると思います。

その際、現実を生きやすくしようとするならば、魂の向かうベクトルを知り、できる限り魂の向きにそぐわない判断を避け、真っ直ぐ魂のエネルギーを向かわせることが重要になるでしょう。

スケジュールやタスクに追われても、魂の向きに合うかどうかで義務感や苦痛度も異なるはずです。
その魂の方向性は自分自身と対話しながら、動機づけに対してポジションを取ることで、感覚的に変えられる部分だと思います。

過去の出来事や、未来の懸念や社会上の価値観に左右される時は、魂のエネルギーを真っ直ぐに具現化することができません。
そのため、「今ここ」に集中するためにも、今ある自分の深くにある感情に気づき、ここからエネルギーを引き出す必要があります。

心のエネルギーの制御は、自分自身と付き合った経験がものを言います。
その経験は、何十年生きてても自分の心や魂と向き合っていなければ、直感的に深く理解することはできません。

今、私たちは社会的な声よりも魂の声を聞くことで、崩壊していく同調圧力から解放され、新しい時代の生き方を掴めるようになるはずです。
現状、それに気づいている人は少ないかもしれません。

しかし神代を目指す我々、現人神たろうとする人たちは、この生き方の素晴らしさを説き、実際に人々に示すことで変容を促していけるはずです。
おそらく、神様は私たちにそれを期待なされています。

そして、自分たちの背中を見せることで、新しい時代に人々を引っ張っていくことを何より望んでいると思います。

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