科学とスピリチュアル
- Category:神人関連
- Date:2025年04月08日
世が混迷を深め、精神的に持ち崩す人も増えてきました。今以上に精神科などの病院も混み合うことになると思います。
かく言う私も、近年はだいぶ精神的に不安定でした。
自分の努力が報われないとか、世の中がおかしくなりすぎているとか、外的要因はいくらでもありましたし、スピリチュアル云々関係なく何かに縋りたい思いは常にありました。
このブログを誰かが読んで、「こいつは大丈夫か?」と思われるのも覚悟しています。
それでも私はこの世界を良くしたいという思いで活動してきたのは事実ですし、自分の言葉には責任を持っているつもりです。
精神医学には、「メサイアコンプレックス(救世主妄想)」という病理があるそうです。
もしかしたら、私もそうであると思われているかもしれませんので、一応説明しておきます。
この病には、これらの特徴があるそうです。
- 終末論的である
- 自身を崇高な存在と思い込む
- 自分の正義を絶対視している
- 言動が否定的かつ暴力的である
私自身を客観視してみると、全部似てはいるけど厳密には違うように思えます(個人的に)。
1.の終末論的考えは、むしろ「これから新しい世になる」とずっと言ってきたつもりですし、確かに半分は当たっているのですが、逆に前向きなのではないでしょうか。
2.の「自分を崇高な存在だと思い込んでいる」は、私が世の中に貢献したいというのは事実ですし、大きなことを成し遂げたいという気持ちが誇大妄想だと言われたら、そうかもしれません。
しかし、それなら「僕は大谷選手みたいなプロ野球選手になる」と夢を語る小学生は病人になってしまいますし、大の大人が「俺は大谷翔平だ」と言っていたらという話です。
確かに、私は過去世において地球にはいなかったとは思ってますが、だからと言ってそれで偉ぶっているわけではないので、まあ見逃してください。
3.の「自分の正義を絶対視している」ですが、信念の強さをそう受け取られても仕方ないかもしれません。
ただ、この診断基準はあくまで「病理」であって、人間の個性を病的カテゴリに当てはめるものではないはずです。
あと、私の思想的には「悪と和合しよう」という考えは一貫しているつもりなので、悪と戦っているわけではないのはご理解いただきたいです。
4.の言動の暴力性ですが、誰も私の私生活を存じ上げないと思うので何とも言いようがありません。
このブログではかなり批判的なことばかり書いていますが、必ず改善の落とし所をつけているので、少なくとも言いっぱなしということはないはずです。
このように病理に対して自己診断してみましたが、私は専門医のノウハウは持ち合わせていないので、クリニックで診療を受けたら違う結果にはなるかもしれません。
しかも、仮に私が妄想性の精神疾患だったところで、それで問題があるとは思えません。
病理がまずいのは、その症状が進行すると自他に悪影響を及ぼすからです。
確かに、まともに働いていない上に親の脛をかじっている現状、「誰にも迷惑をかけてない」と言えないことくらいはわかりますが…(汗)
この世がどんどん荒れてきて不安定になればなるほど、精神的な救済を求めるのは、人として自然なことです。
脳科学者の中野信子氏によれば、女性が占いやスピリチュアルに傾倒しやすい理由は、「セロトニン不足傾向」があるからだそうです。
女性は男性よりセロトニンの生成量が75%だそうで、不安傾向ゆえに指導的な言説に惹かれやすいそうです。
占いは脳科学的に「自己成就予言」という処理が働いており、「こうなる」と思ったことを無意識に実現させてしまう、という心理だそうです。
「あなたはこういう人ですね。こうしたら良くなりますよ」という言葉を間に受けたら、なぜかその通りに動いて状況が変わった、ということらしいです。
今流行りの「引き寄せの法則」にも近いと思うのですが、それは置いておきましょう。
私はこれまでコテンパンにされてきたのもあって、セロトニン生成量は男性としては少ないかもしれません。
それゆえ、神やスピリチュアル、占いに傾注するのも明確な説明になるかもしれません。
しかし、科学的な説明ができるからと言って、それ以外の「非科学的な説明」は意味ないか、と言うとそうではありません。
科学的、医学的な説明ができるから、神やスピリチュアリズムが全て眉唾ゆえに意味がない、という話にもならないはずです。
論理学の世界には、「消極的事実の証明」という概念があります。
これは、「悪魔の証明」と似ているのですが、悪魔の証明は「ない」と主張した人に対して「ない証拠」があることを証明せよ、という立証責任の転嫁を指します。
「消極的事実の証明」は、「証拠がない」ことは「ない証明」にすることはできない、という論理学上の鉄則です。
何が言いたいかというと、科学的立場から「神やスピリチュアルな存在を証明する手段がない」としても、それが即ち「ない証明」にはならないということです。
古代のローマ法において、「証明は主張する者にあり」とされたように、科学を持って「神やスピリチュアルが存在しない」とするなら、その不在の証明をしなくてはならないのは科学の方にあるのです。
だからこそ、昔のオカルト番組では「科学では解明できない…」という前置きがありました。
まあ、近年の量子力学では若干スピリチュアルの領域に足を踏み入れつつあるのも否定できませんが、それも置いておきましょう。
私は、科学もスピリチュアルも、この世界を説明するロジックとして相反するものではなく、並列して存在していても問題はないと思います。
特にこの世界を霊的に解釈するなら、全て「波動=エネルギー=気」で説明できると思っていますし、そのロジックで説明したとしても、真実に辿り着くと信じています。
同時に、同じ現象を科学で説明して別の結論になっても、どちらが間違っているということではなく、「真実性」の価値によって変わると思います。
科学の真実性が高ければ、工学でも医学でも物質的に解決できる手段が生まれ、スピリチュアルの真実性が高ければ人の心の中で解決ができるのです。
プロセスはどうあれ、「真実に辿りつければ良い」のです。
だから、「科学以外の考えはありえない」という排他性は、思想統制に繋がる以外の価値はありません。
正直、スピリチュアリストの中でも私ほど理屈っぽい人間はいないかもしれませんし、万が一スピリチュアリズムが全て眉唾で、自分の妄想だった場合でも、その保険として「リアリズム」の伏線は常に残しています。
自分の心理が「自己成就予言」に裏打ちされており、私の直感が確証バイアスだったとしても、その予防線として「根拠はどうあれ成長し、幸せになる」というプロセスを大事にしています。
私にとって、スピリチュアリズムとは「良く生きるための知恵と実践」であり、本当かどうかよりも実利の方が重要です。
私が他のスピリチュアリストに物申したくなる時は、信仰の真実性ではなく「人としてのあり方」です。
この世界がどういう仕組みでも、それにこだわるつもりは毛頭ありません。しかし、いくらスピリチュアリストであろうと、成長しない生き方には賛同できないだけです。
人は、成長すればするほど幸福に近づく生き物だと思います。
過去から学び、知恵を集積させるからこそ、人を助けより良く生きられるからです。
結果的にどうやってそうなるかよりも、どうしようともそうなれた方が良いのです。
だから、私は科学だけが正しいとか、スピリチュアルだけが本当に正しいと言うつもりはありません。
ここまで小理屈を並べて、私はやはり気の触れた人間に思えるでしょうか。
まあ、そうであっても私は成長を続けていますし、充分幸せなので特に問題はないはずです。
親不孝をしている以外は…(汗)