招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

新しいエネルギーの捉え方

楽太郎です。
今朝、起きると身体のエネルギー機構が変わり、体調が安定していました。

冬至以降、新しいエネルギーの落とし所がわからず、妄想的に感情が暴走しがちでした。

地球的なエネルギーがまだ身体に馴染まないため、気が枯れた状態が続き、年末年始は人々の集合意識の波長と合いやすくなってました。
今、人々の波長がかなり下がっているため、そこにチャンネルを合わせると、波動が一気に下がるようです。
そのため、年末年始はかなり意図してチャンネルを人に合わせないようにしなければいけませんでした。

そのエネルギーの捉え方が、最近徐々にわかってきました。
どうやら、人間と同じ思考レベルで意識を持たない点が重要なようです。

私の体感では、冬至以降のエネルギーを身体に落とし込むポイントはハートチャクラで、ここに熱源を感じるようになったため、おそらくこのエネルギーを使わなければ行動に落とし込めません。
このハートエネルギーは主に愛の波動であり、言ってみれば感情のエネルギーです。
私は水のエレメントが強いので、この衝動を制御しない限り、コントロールが難しいようです。

この数週間は感情の暴走が激しかったのですが、これを自我の働き、特に思考の部分で抑え込んでいたため、交感神経が働き身体が硬直した状態でした。
この「思考の抑制」が基本的に悪循環で、人間の常識レベルで考えている以上、このエネルギーの停滞から抜け出すことができなかったように思います。

人間の思考にチャンネルを合わせないためには、人間より一段上に意識を置くのが有効です。
これは、「人間を相対化する」意識をもつことです。

難しいかもしれないので、例を出します。
私は野鳥をよく観察しているのですが、その鳥たちは可愛いだけではないですし、例えば糞をそこら中に撒いたりします。
命を落とせば、人間が取り除かない限り他の生物に散らかされたり、腐敗したり骨を残したりします。
生物は、陽気な一部分だけを切り取って眺めることはできません。

人間に関しても同様です。
人間は花壇を作ったり、善意で清掃をしたりして街を綺麗にする人もいれば、ゴミを捨てたり落書きをする人もいます。
私たちは動物たちと同じように、肯定的に感じられる部分と、否定的に感じられる部分があります。
しかし、動物たちが捕食したり排泄することが自然であるように、人間のあらゆる行いにも実は裏表がありません。

この「人間の行いには裏表がない」という見方は、人間としての善悪や価値観に囚われているうちは、納得することが難しいでしょう。
ただ神様の目線では、人間が盗みをするのも、動物がゴミを漁るのと大差ないように感じられるはずです。
神様からして見れば、人間が徳の高い者ばかりでないことは重々承知のはずです。

人間に主眼を置くと許されないように思えても、一歩引いて生物として見れば、わりとどうでも良いことは多いかもしれません。
私たち人間は特に、綺麗な一面だけを切り取って眺めているわけにはいきません。綺麗なもの以外の部分を見てこそ、全体がわかるからです。

つまり、「人間より一段高いところに意識を置く」とは、人間を一種の生物として捉え、そこに価値判断の主眼を置かないことです。
それを思考で制御しようとすると、逆に難しいかもしれません。

第6チャクラ、いわゆる「サードアイ」に脳の力点を置くと掴みやすいかもしれません。
現代人の思考は主に扁桃体を中心に活動しているので、松果体に意識を持っていくと調整しやすいと思います。

「現代人は松果体が石灰化している」とは言われますが、人々がいつまでも意識を変えることができないのは、扁桃体中心の思考や習慣を変える方法がわからないからかもしれません。

まとめると、ハートチャクラの活性エネルギーを制御するにはサードアイを力点とした意識に置く、というのが私が見つけた冬至以降のエネルギーを身体に落とし込む方法です。

冬至で全体的なエネルギーが変化しましたが、その環境エネルギーを私の身体に変換する際、私独自のシステムを確立する必要があっただけで、他の人も同じ仕組みとは限りません。

私は水のエレメントが強く、何かと感情が暴走しやすいため、心身のエネルギーバランスには昔から苦労しました。
それがようやく落ち着いた状態になり、身体に落とし込むコツを見つけたので、メモがてらブログに書くことにしました。

今、新しいエネルギーに対応しにくいと感じられてる方は、必ずしも参考になるとは限りませんが、何らかのきっかけにしていただければ幸いです。

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才能を発揮する勇気

楽太郎です。

年末、私がご加護を受けている、おそらく瀬織津姫様からインスピレーションが降ろされました。
その内容は、提示した時のサプライズのために伏せておきますが、受けた瞬間はかなり困惑しました。

インスピレーションは、降りた瞬間にはテンションが上がり、やるしかないという気持ちになるのですが、この時はさすがに動揺しました。
あまりにオーダーがパンクすぎるというか、自分でも抵抗してしまうほど突拍子もないアイデアだったからです。

けれど私は直感第一主義ですし、神様の仰ることは絶対だと思っているので、やらざるを得ないんだろうと思いました。
ただインスピレーションというのは恐ろしく、「やらなくては気が収まらない」感覚になります。

他に急を要することがあるにも関わらず、なぜか手をつけ始めてしまい止まらなくなりました。
やり始めたらやり始めたで、迷いも一切湧かずにスラスラできてしまうので、余計に戸惑いました。

けれど進めるうちに、自我が出てきてしまい「これを世に出したら、自分はさらにまずい状況に置かれるのでは?」と考え、徐々に不安になってきました。

結論を先に言えば、神様のほうが一枚も二枚も上手でした。 もうやらざるを得ない、出さざるを得ないところまで話を持って行かれてしまいました。
けれど、自分のリスクを考えたらゼロではありません。これまでの常識で自分を考えるなら、どう考えても藪蛇にしか思えません。
ただ、人間の目からは無謀にしか思えないことを、どうやら神様はやって欲しいようなのです。

一体、なぜでしょうか。

スピリチュアル的な説明を一切なしに語るならば、次の時代の社会経済は新しいものが出てくることで古いものが淘汰されます。
このあらゆるコンテンツが飽和した世界にあって、世界観が変わるようなパンクムーブでなければ、おそらく何の影響力も発揮することができません。
それは神様の加護があるなしに関わらず、文明水準のレベルも関係なく、斬新さはどうしても必要なことです。

神様は、神代や新しい世界を作る人たちに、魂そのものの表現をしていくことを期待されています。
それは「才能」と呼ばれるものです。

才能とは、人間が神様からワケミタマを与えられ、生まれ持った環境によって条件づけられ、後天的に発揮しうる特殊技能のことです。
それは誰もが一人ひとり異なり、唯一無二の個性となりうる能力です。
神様は、人間がその能力に気づき、堅実に向上させながら使命感を持って行使されることを望んでおられるでしょう。

その「才能」はおそらく、貴賤がありません。
個性に貴賤がないように、才能にも必要不必要がないのだと思います。
それを発揮させるのも才能のうちであり、必ず何らかの形で人に役立つようにアレンジする必要があります。
それが社会的に受け入れられた時、私たちは才能によって財運を得るのだと思います。

その財産は自らの力で手に入れたものなので大事にするでしょうし、使い道も慎重になるはずです。
その資産で自分が豊かに暮らし、安定した生活の中で充実感を得ながら生きていれば、人は幸せになれるようにデザインされているように思います。

しかし、多くの人々は自分の才能に気づかず、伸ばすことも発揮することもしないまま、社会の枠組みの中でお金を稼ごうとしてきました。
それは何が悪いというわけではないでしょうが、才能を追求するのは困難を伴います。

人間は、意外と自分自身と向き合うのが苦手です。
自省をすればするほど自身の孤独性と向き合い、個性を追求すれば周りに合わせられなくなります。
多くの人は、そこまでするほどの目的や勇気を持つことができません。

もし、今の社会の枠組みが崩れ去るならば、誰もがその本質と向き合わざるを得ないのに、です。

その才能を発揮するのも、非常に勇気がいることです。魂からの表現をすれば、誰にどう評価されるかは想像するだけで恐ろしいものです。
正直に自分を曝け出せば晒すほど、受けるダメージは大きくなります。
ただ、そこを乗り越えなければ真の才能を発揮することができません。


私が直面した恐怖は、この生傷ができた時の痛みが想像できたからです。再起不能になるくらい打ちひしがれるかもしれません。
けれど、個性は初めから受け入れられるとは限らず、挑戦するからには既存のものを壊し、それゆえ批判も当然考えられることです。
当たり前のことを無難にこなすのは、別に才能如何は関係ありません。それはただの技術や方法に過ぎず、他者に再現不可能であるがゆえの才能だからです。

私は先日、高千穂の夜神楽の動画をたまたま拝見し、その芸術性の高さもさることながら、神様を題材にした自由な表現に驚きました。
ご先祖様たちがかつて楽しまれた演劇は、神様を面白おかしく演じ、しかも濡れ場まである奔放な娯楽でした。ただ神楽なので、元から神様に奉納するためのものです。
伊弉諾様と伊奘冉様がイチャつくのを観客が面白がる自由さを、見物なさる神様がお認めになるならば、おそらく人間界の常識を超えた文化観が神様の世界に存在するのでしょう。

神様は、おそらく才能の表現に貴賤はなく、魂から発せられた表現を重んじられるのだと思います。

私の敬愛する瀬織津姫様も、「弁才天様」とお呼びしたほうが実は繋がりやすいのですが、弁才天は元々インド神話のサラスヴァティ神ですし、いかに河川や技芸の神様であろうと習合しすぎです。
それでも神様は呼び方には特にこだわっておられないようなので、表現の貴賤はやはり人間界にしかない価値観なのだと思います。

確かに、常識的に考えたらやらなくていいことはたくさんあります。
しかし個性とは発揮せずにはいられないものであり、才能もまた表現せずにはいられないところから始まります。
個性を発揮せずとも、才能を表現せずとも私たちは生きていけます。少なくともそうせずに生きていける世の中であれば、です。

これからの時代は、それをした方が有利に働くというか、あえてそうした方が楽しい世の中になっていくのだと思います。
誰もが他人の目を気にせずに好き勝手にでき、それが受け入れられる土壌があるとしたら、人は喜びを共有しようとするはずです。

今はまさに過渡期なので、抵抗心は最も強い時期かもしれません。ただこれを乗り越えなければ、誰も後に続かないのでしょう。
私は、もう少し時間はかかりますが、それをやるつもりです。

「自分らしくある」とは、最大限のリスクを負います。
しかし、そのハードルを乗り越えてこそ、自分を活かしながら生きていけるのだと思います。
これからの時代には、そういう挑戦が必要です。

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自分の中に「神」を認める

楽太郎です。

今年も最後の日となりました。
思えば、今年の前半は迷走から始まり、秋分を機に精神性がガラッと変わり、急激にスピリチュアルに目覚めていきました。

それから3か月の間に神の存在を信じるようになり、自分の使命を確信し「神代をつくる」ことを決意するとは、夢にも思いませんでした。
思えばこの3年は何をやってもうまくいかず、その原因も世に対して逆張りを続けてきたからで、知らず知らずのうちに、魂はずっと次元上昇の準備をしてきたのでしょう。

これまで、自分のエゴで汚いことも平気でやれましたし、道を外れたことすら何十年もしてきたはずなのに、一気にここ数年で軌道に戻された感じがします。
おそらく、私は土の時代にうまくやれたとしても、このシフトの時までに準備を整え、いずれにせよ神の計画に参加する定めだったのだと思います。

ところが、この神の計画に魂の成長を無理矢理合わせる形になったため、この3年間は修行に全振りしなければならず、社会人として全く何の財産も築き上げることができませんでした。

今でも、自信のなさや不安が払拭できたわけではありません。
人間としての無力感は根強く、この数日は自我のロックが緩んだため、どんどん自信のなさや不信感が湧き出てきています。

これは、私の感じ方では魂のレベルが落ちているように見えるのですが、おそらく己の波動を上げるために今まで背伸びをしてきたのだと思います。
背伸びをした分、背は高く見えますが力を抜けば普段の姿勢に戻ります。
その観点で見れば、人格の統合が起きているのかもしれません。

ただ、不安がよぎるたびに浮かぶのは、「世の中は唯物史観のまま高度な文明を謳歌し、古い精神性を持つ自分はこのまま弾き出されて死ぬのでは?」という恐怖です。

経済は目に見えて悪化し混迷は深まり、世界から秩序が失われようと、今の堅固な支配構造だけが残り、大切な人を守れずに淘汰される未来を想像し、私は時に震え上がります。

私は世に対して、公平な和気藹々とした空気で一緒に暮らしたかっただけなのに、見ず知らずの人から受ける暴力に立ち向かうため、なぜ戦いを始めなければならなかったのか、それが悔やまれてなりません。
日本人は、この十数年で全く違う民族のようになってしまいました。
日本人が変わってしまったことを信じられず、だからこそ世を変えようと抗ってきました。

現在のうまくいってる側の日本人は、それでいいのかもしれません。
しかし精神性のある、かつての日本人のような人たちは、この国に未来を見ることはできないはずです。
このブログでたびたび言っていますが、私はどの道この社会では生きられないのだから、一か八か神様に賭けて真正面から挑んでやろうと思っています。


岡本天明翁に降ろされた日月神示では、「大阿呆になれよ、逆の阿呆になるではないぞ」とあります。
ここでいう「大阿呆」とは精神性のある人間のことであり、学歴階級社会を駆け抜けてきたような、莫大な資産や権力を持っている唯物論者とは真逆の存在でしょう。
その意味で、私はすでに大阿呆です。土の時代に精神性を持つことで幸せになれなかった人間だからです。
ただ逆の阿呆が賢き唯物論者たちのことを指すのなら、日月神様は少なくとも「そうなるなよ」と仰られてるのだと思います。

私に刻まれたこの無力感は、何も持っていない劣等感、喪失感に加え、挫折体験によって自らかけた「呪い」に他なりません。
持つものが優遇され、持つからますます成り上がっていく世界で、持たざるからこそ自他共に刻んだ「落伍者の烙印」です。

仮に、これまでの時代が変わるならば、呪いや烙印にかけられた術者の力は消失するのではないでしょうか?

そうなれば無力感という心の闇は薄れ、自分を縛る鎖は打ち破ることができるはずです。

私たちは完璧な魂を持って生まれ、それぞれの条件で発揮できる才能を持ち合わせているのに、能力を発揮させないように後天的に細工されてきたのだと思います。

人間が生まれ持って自由に未来を選択し、それぞれの目的に才能を持って実現していくならば、人々は自信に溢れ充実した人生を手に入れられるはずです。
もし、それを実践する人が多いとしたら、困る人がどこかにいるかもしれません。
賢い大衆は強権的にコントロールできなくなり、欲望に右往左往してくれなければ、ビジネスもやりづらいでしょう。
私たちはどこか古い時代のある時期に、劣等感に苛まれるようプログラミングされ、心の穴を埋めるためにお金や時間を使うように仕向けられたのだと思います。

けれど、その時代は人々が目覚めれば自ずと終わるはずです。
私たちは、誰もがその覚醒が可能な魂の持ち主だからです。誰もが神のワケミタマを与えられているとしたら、人は遍く神の一柱に他なりません。
自らの中に神を見るならば、人の作り出した理は所詮、人が作り出したものだと思えるはずです。

己を神だと自覚してしまえば、「神」という存在は特別ではないと感じるはずです。
「神」を畏れ多き存在だと敬遠するのは、自らを人間だと思うからです。
私たちは自らを大いなる神の一部だと知ることで、無力感という闇を深い部分から照らせるはずです。


私たち人間がこの目覚めに至れない理由は、自身の神性に目覚めれば目覚めるほど、「孤高」となっていくからです。
孤高とは、群れから離れることを自ら選択し、唯一無二の宿命を生きる道です。
誰かに寄りかかることも、真似することもできない生き方は、強い覚悟と勇気が伴います。
だからこそ、多くの人はそこに立ち向かえず、奴隷的な生き方に甘んじてしまいます。

私たち一人一人は、生まれ持って孤高の道が用意され、唯一無二の才能が発揮できるように生かされていきます。
だからこそ、外にあるものに依存せず、選択を誰かに委ねきらず、自分自身の心だけを頼りに前に進んでいけば、必ず道は拓けるはずです。

ただ、その自覚に至れたとて全てが見通せるわけではないでしょうし、目の前にある社会がガラッと変わるわけでもないでしょう。
しかし、この社会は意識の集合体なので、洗脳から解き放たれる人が多ければ多いほど、変革の波は広がるはずです。

それが新しい時代を作る鍵であり、古い時代を乗り越えていく道なのだと思います。
来たる2025年は、その挑戦が本格的に始まる年だと感じます。

私は、ずっとその準備をしてきました。
不安は正直ありますが、いよいよだと思います。
もう後戻りはできません。

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引き寄せない法則

楽太郎です。

昨日は仕事の追い込みで、完全に片付けなくてはいけない日だったのですが、身体がガクッと動かなくなりました。
作品を仕上げなければいけない、という一心だったので、身体が動かないことへの焦りや不安もどっと出てきました。

私は魂の覚醒を経験してから、一切の無理が効かない身体になりました。
自分自身に嘘をつけなくなったからです。

魂の要求を自我でグッと抑えつけると、魂のエネルギーを引き出せなくなり、結局パワー不足に陥ってしまいます。
これは、日頃の無理で魂にストライキを起こされたんだな、と割り切って休むことにしました。

特にこの時の体調の出方が、好転反応に近いと思いました。
それはいいとして、なぜ追い込みの一番大事な日に来るのか、と落ち込みました。

好転反応は、自分の魂が成長できるかを試されるタイミングでもあり、それがあまりに辛い状態をもたらすため、これを乗り越えれば状況が良くなることに気づかず、成長を取り逃がしてしまうこともあります。

横になって自分の身体を冷静に見つめた時、相当我慢してきたことに気づきました。
睡眠時に食いしばりが起きているせいで、疲れが抜けきらないのも、日頃のストレスにあるのはわかっていました。
それでも、目の前のことをやりきらなければ、お金も入りませんし身の回りの人を助けることもできません。

でもなぜか昨日ばかりは、神様の応援が外れている感覚がずっとしていて、私を見守ってくださっている瀬織津姫様のお力も感じなくなっていました。

作品を仕上げる直前になって、なぜあれだけやる気を出して取り掛かれていたことに、身体から拒まれてしまったのかを考えました。
私の心を覗いてみると、「私はこのチャンスをものにしたくないのだ」と気づきました。

それは私が、私自身にかけた呪いに他なりません。
「こんな自分ではダメだ、うまくいくはずがない」
「どうせがんばったところで、またダメになる」
そう考えるのは、私自身が「ダメな存在」としての自分を変える恐怖があったからだと思います。

私がチャンスに弱い原因は、肝心なところで「自分を変える恐怖」から失敗を誘発し、その挫折経験を延々と後悔に変換していたからだとわかりました。

この悪循環は、私が顕在意識でどれだけ変わろうとしても、どれだけ努力しても「成功したい」と思えば思うほど、「ダメな自分でありたい」という心理的逆転が強化され、強いウップスを発生させていたのです。

「変わりたい、成功したい」と思えば思うほど、深層意識は真逆の方向に向かい、「引き寄せの法則」ならぬ「引き寄せない法則」となっていたのでしょう。

このトラウマの原因は、最初は小さな失敗経験だったのだろうと思います。

それは子供の頃の小さな心の傷が、自分の知らないうちにまた同じところに傷を作っては、どんどん傷口が深くなっていったのかもしれません。
傷が思ったよりも深いことに薄々気づいた時、その痛みやショックを誤魔化すために傷口を握りしめ、ずっと痛みから耐える状態にいたのでしょう。

それは気の遠くなるような我慢で、何十年もかけて私は心の奥底で痛みを抱えていました。
怪我はちゃんとケアしなければ、悪化もするし治りづらいものです。
その痛みを抱えているうちは、心が癒されて魂が健康な形で発露することができません。

瀬織津姫様が加護の手を止められたのは、身体に鞭を打ち続ける私に力を貸すのではなく、まず癒した方が成功に導けると考えられたからだと思います。

私の積み重なった心の傷は、私の子供の頃からの素直な愛情から来たものでした。
その愛情が裏目に出たことで起きた苦しみ、憎しみ、嫌悪、怒り、悲しみ、それらの負の感情や愛情そのものも、蓋をしてなかったことにしようとしていました。

だから、私は自分の気持ちを素直に表現し、明るいビジョンや夢を純粋なエネルギーとして使うことができなかったのです。
私の魂からくる感情に従えば従うほど、受ける傷は深くなり、その痛みも耐えがたいものになるからです。
そして、「ダメでもいいから変わりたくない」というところまで心を閉ざしてしまいました。

心と肉体を繋ぐ根元にあるこの傷を、自ら癒そうと思った瞬間、言葉にならない感情と涙が溢れて、私はどんどん楽になっていきました。
つまらないこだわりや、苦しい記憶や自分自身に対する思い込みを抱えては、私は成功することができないのだろうと思います。

今も、時間が差し迫る中で焦りはあるのですが、それでもまだ自分の魂に寄り添う時間は必要だと思います。
何が一番大事なのかを考える時、それは神様のご意志であり、自分自身も神様の一人であり、神の力を侮ってうまくやろうとしても、おそらく無理なのでしょう。

私は、おそらく人を愛するために生まれました。

人を素直に愛しながら、矛盾した気持ちを抱えてもいいし、人を憎んでもいいし、傷ついたら痛いと言っていいし、好きだと正直に言ってもいいし、自分を一番大事にしてもいいのです。

その魂の自由を、自分に許せばいいのだと思います。
これから、きっといいことがあるに違いありません。

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「表現」とお金

楽太郎です。
今回は、私自身の話をしたいと思います。

私はクリエイティブ関連の仕事をしています。
とは言え、名乗っても誰も知らないでしょう。
これまで数年、下請けの仕事ばかりをしてきました。名前がクレジットされる大きな仕事はほとんどありません。

多くの人々からは、クリエイティブの世界は花形に見えるかもしれませんが、実際はどこにでもある弱肉強食の世界です。
基本的に人々は無条件に無関心ですし、作品を作ったとて見向きもされず、相手にされません。

しかし、人に注目されるセオリーというのもあって、それはこの業界を生き抜くハックのようなものです。
そのハックというのは、「多くの人に知られ、すでに人気のものに乗る」ということです。

これは人気作家の登竜門として、鉄壁のマニュアルのようなものです。
誰もが当たり前のように採用する処世術なので、このセオリーから外れた途端、大勢の視界に入らなくなります。

ここで、もう少し遡って話をします。

私はこれまで、何度か就職を経験しました。
どこも組織の体質に合わず、ストレスで体調がおかしくなったりメンタルがやられて、この社会で労働することの難しさを常に抱えていました。

だからこそ、自分に合った仕事をしようと一念発起し、努力を重ねてそれなりに実力をつけ、ずっとやりたかったクリエイティブの業界に足を踏み入れました。

けれども、自分で稼ぎに行くのは至難の業で、比較的安牌なのは下請け業務です。
クライアントからの理不尽とも言える要求に従い、他人のアイデアに仕方なく乗っかり、したい表現を曲げてでも要求通りのものを作らなければなりません。

"私は自由を求めて、やりたいことを仕事にしたくてこの道を選んだのに、なぜサラリーマンと同じ働き方をしているのだろう?"

3年前のある時期、それに深く疑問が湧いて「自分が本当は何がしたいのが、それをしてどうやって生きていくのか」という問いと向き合う時間が始まりました。

それは、本当に修行としか言いようのない日々でした。

「自分が表現したいこと」と「人のためになること」の狭間でのスタンスの問題は、作家、芸術家などのクリエイターにとって永遠のテーマです。

自分がやりたいことは、人様の得になることがほとんどありません。
結局、人様の要求に叶えることで感謝をもらい、初めて対価を得られるので、表現は必ずしも人のためになるものではないのです。

人様や世間の求めるものと自分の求める表現の世界の不一致に苦しみながら、何とか歩み寄ろうと最新のテイストを取り込み、最先端の技術を磨き、自分なりに切磋琢磨しても、どうしても譲れない部分がありました。

それは、「自分の考える正攻法を貫く」ということです。

私はこの業界を長年見てきたからこそ、ハックまみれの現実を知っています。
皆が当然のように近道や裏口を通っていくのを、「それが本当は賢いのだろう」と内心思いながら、どうしてもそれをやりたくなかったのです。

「皆のようにやればうまくいく」

それは本当に痛いほどわかるのですが、なぜか魂がそれを拒むのです。
私は承認されたいしお金も人気も欲しい。でもなぜかそのやり方に違和感がある。だからどうしてもできない。

それ以外の方法を取ろうとしてやった試行錯誤は、そのどれもが大してうまくいかないものばかりでした。
ただ自分がやりたくないやり方では、いずれ成功しても絶対に満たされない予感があるから、どんなに苦しくてもその方法を取らず、自分の才能と技術をひたすら磨き、方法を模索してきました。

今は、それが間違いではなかったかもしれない、と思います。

これまでの人間社会では、私はどうやってもうまくいかない宿命だったと感じることもあります。
自分に正直にやってうまくいくことはごく僅かです。
真心だけでは商売にはなりません。

けれども、今は神様から「そうしろ」と言われています。

なぜかはわかりません。本当にそれで良いとは私も思いません。
けれども、神様はそうして欲しいと願っている、なぜかそのことだけをひしひしと感じるのです。

これまでの創作の世界は、お金を中心とした人の心が支配していました。
だから近代の美術も映画も小説も漫画も、お金を集めなければ制作する根拠にすらなり得なかったのです。

けれども、「表現したい」と思うのであれば、素直に表現すればいいだけです。
それは子供たちにとって、お絵かきが娯楽であるように、表現そのものが人間にとっての喜びだからです。

あらゆる表現が、対価を得ることが前提となっているからこそ、クリエイターも見る側も、すでにある経済の形をなぞるのが当然になっています。
それは芸術本来の表現の多様性や、思想の発露を脇に追いやっているのかもしれません。

神様は、人々にもっと自由に表現を行い、その多彩な才能を広げて欲しいと思われているはずです。
もしこれから、純粋に才能の集まるところに人もお金も集まるシステムになるならば、商業的成功や収益性は第一目標からは外れるでしょう。
そうなれば、誰しもが無邪気に「創作すること、表現すること」そのものを喜びとすることができるようになります。

これからの時代のクリエイティブは、これらの商業と評価経済のくびきから解放され、作り手が喜び、受け手が喜ぶ互恵関係に戻っていくべきなのだと思います。
そこにはフラットで自由な創作の世界が広がっているはずです。


神様は私に対して頑固に、どんな障害にぶち当たろうと、その覚悟を貫くことを求められているように感じます。
私には、神様が私に対してそれ以外の道を選ばせないようにしているように思えてなりません。

だから私は私の喜ぶ表現を求め、それで人が幸せになる方法を探す、これがこの道の答えなのだろうと思います。

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世に執着しない

楽太郎です。

世の中がより騒然となってきました。
「あの人が」みたいなことはどんどん増えてますし、ひどい人はテコでも動かないんだろうな、と言うような不快なニュースに溢れています。

しかし、神様と共にある人たちほど達観しており、ある意味で暗い共感はしていないかもしれません。

今は膿出し、炙り出しの時期です。
神様と繋がっていれば、その意図は明白なはずです。だからこそ、目の前の事象に一喜一憂することはほぼないでしょう。

この心理的反応は、人間の二極化の一部にすぎません。

古い世界を選んだ人たちは、目の前に起こる良くない事象が、永遠に自分たちに降りかかると思っているので、その恐怖や怒りは高まる一方でしょう。
ちょっと世の中が良くなる兆しを見せれば、ちょっとずつ事象が良い方向にひっくり返り、じわじわ世の中が良くなってまた昔のような賑やかな時代が来ると思っています。

しかし、絶対にそうはなりません。
これから起こる崩壊は、かつての楽しい時代にあった人、組織や国家がそっくり無くなる世界になるからです。

最近、シリアの独裁政権が倒れました。
ロシア侵攻に対する影響はあるでしょう。アメリカの経済も長くは持ちません。そして、日本が国体を維持できるのも危うい状況になっていくでしょう。

この変化は、神様が介在せずとも実証できるものです。
古き良き時代を再現できないことは、必ず違う形の時代になるということです。
こんな当たり前のことでも、多くの人々は本気でそうなると思っていません。
世界を取り巻く悪意が自分たちの骨の髄まで染み込み、遺伝子レベルで搾取をしていたとしても、何となく楽しく生きられた時代に戻りたいのです。

「変わりたくない」という人々の集合的無意識は旧世界に対する求心力となり、巨大な邪気となって新しい生き方に変わろうとする人々を惑わします。
その意識は無神論の延長にあります。
この世には人間が目で見て、データが取れるものしか存在しないと信じているからこそ、新しい世界が来ることを想像できません。

ここで人間本来の性質に立ち返り、大勢の人に背を向けてでもあるがままの「魂」選んだのが、神代をつくる人々です。

神様に近い人たちほど、もはや人間たちが自力でこの世界を良くすることができるレベルではないと感じているはずです。
国家の代表ですら思い通りに権限を発動できないのですから、今の人間のシステムでの改革は構造的に不可能です。

人間たちは、自分たちの理想で地獄を作り出してしまいました。
そして、多くの人が変革ではなく地獄が緩和してくれることを願っています。
この溝はどうしようもありません。

だからこそ、私たちは神様を信じる以外に道がないのです。

自分の感覚に素直に立ち返ってみましょう。
自分を中心にものを見てみると、世界がキラキラして優しい世界に見えていないでしょうか。

私は今年の秋分あたりから、見える景色がプリズムがかって見えるようになり、空や自然があまりに美しく、見惚れるようになりました。
あれだけ煩わしかった人間もいい部分が見えるようになり、イラつくような性質や、人間の未熟さすら愛しいと感じ始めました。

「神様がいる」と思える世界には、安心しかありません。

本当に人の上に存在するのは神様であり、神様は人間を慮り、困った時には力を貸してくださいます。
良くないことが起こるのは兆候に過ぎず、困難は自分が成長してより良くなるための課題です。

それが「神様の作った生命のマニュアル」であり、そのシンプルなルールを守っていれば、人は誰しも幸福な生き方ができるのです。

それを人の力で具現化したのが「神代」であり、神代によって本当に誰もが自由な社会が作られます。
私たち人類が存続するためには、神様の道を選び神代をつくる事業に参加する他ありません。

世の中は、これからどんどん暗く澱み、病んだ人間が起こす大惨事を数えきれないほど経験するはずです。
しかし、神様が近くにいる私たちには加護があり、難事は神様のご意志だと予めわかっているので、大して動揺もしないはずです。

世の中に起こることが救済のための通過点であると知っている私たちは、世相に一喜一憂せず、一度全てが壊れ、新しく作り直される時を待つだけです。
ですから、今は目の前のことに執着する必要はありません。

今目の前にあるものは壊れるかもしれないし、壊れないかもしれない。
そこに絶対が存在しない以上、そのことを気にしてもしょうがないのです。

そのことを魂のレベルで理解している神様サイドの人々は、これからも平穏に暮らせることでしょう。
荒れ狂う世の中に感情移入せず、私たちは静観すべき時にいます。

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真実を探す楽しみ

楽太郎です。

先日、世に言う「知の権威」が揺らぐ時期にあるため、その知識で自分を固めていると、権威が揺らいだ時に自分が揺らいでしまう、という話をしました。

これは私自身痛感しているのですが、最近は特に顕著にスピリチュアルの分野でそれを感じています。

スピリチュアル業界は、そもそも霊感商法と親和性の高いビジネスが多く、その真贋はほとんどの人にはわからないはずです。
宗教を土台にしたビジネスはそれこそ昔からありますが、かつてテロ集団となったカルト教団もあり、精神性があるからと言って安全であるとは限らないのも事実です。

近年は、スピリチュアルの裾野が広がり、全く霊能力がなくても新規参入できる分野となっています。
とはいえ、私はそれを批判する気はありません。
人が自分自身の在り方を思い直し、日常をポジティブに変換することができるならば、それも悪くないと思うからです。

スピリチュアルをエンタメとして俯瞰してみると、都市伝説やオカルトという分野とも結びついています。
都市伝説とオカルトとスピリチュアルは、いずれ切り離されるべきだと、私個人としては考えています。

先日、都市伝説界隈のインフルエンサーに詐欺が発覚し、界隈ではちょっとした騒ぎになっています。

彼は日本民族のルーツや伝統などをテーマにされていた方だったので、私も興味があり拝聴していた時期がありました。
ただ彼に問題が発覚して、私が頭に入れてしまった知識がどこからどこまで正しいのか、それを再検討しようにも術はない状態となり、結局自分自身の思い込みを丸ごと疑わざるを得なくなりました。

同様のことが、これからスピリチュアルの業界でも起こる可能性が高いと思います。

しかし、これは詐欺を流布する人が悪いとか、真贋を判断できない視聴者が悪いとか、そういうレベルの話がしたいのではありません。

私が都市伝説系YouTuberの騒動で思い知ったのは、他者の用意した結論を知識として自分に入れ、それで世界観を構築してしまうリスクの高さです。

特に、スピリチュアルは神様や宇宙、世界の法則や真理などを扱います。
あっさり「宇宙はこうなっている!」という解説が15分くらいの動画にまとめられていますし、分かりやすく納得もしやすいものが多いです。

私は、これらが正しいか偽物か判断するべきだ、と言いたいのではありません。
それを鵜呑みにするか、批判的に見るか、俯瞰して距離を取るか、それらは自分の自由意志で選択できることであり、それを意識することの方が大切だと言いたいのです。

私もかつて興味があり、神様や宇宙の法則や成り立ちなどについて、情報を漁りまくった時期がありました。
しかし、その知識を誰かに求めたり、外部の権威に縋ることは、自らの人生観の一部が「〇〇が言っていた真理」で構成され、下手すると死ぬまでその思い込みを引きずることになります。

私は神様との繋がりが強くなればなるほど、世に溢れる情報に真実があろうとなかろうと、答え合わせを外に求めるのはつまらないと感じるようになりました。
神様の与えてくださるインスピレーションの方が事実を抉っている感覚がありますし、その答えを自分の内側に求めるのは楽しいからです。

確かに、「宇宙はこうなっている」と話をされたら、あながち嘘ではないと思う自分がいたり、すんなり納得することもあるかもしれません。
そこであっさり宇宙の真理について知ってしまえば、この宇宙の真理を自分で解き明かすプロセスを陳腐に感じ、探求の楽しみを失ってしまうのは勿体なく思います。

私たちはおそらく、この時代の世に生まれてきたのは、「体験すること」自体に意味があるからです。
その体験が魂を磨き、人生を充実させるからこそ、真理は見つけた瞬間に大きな価値を持つのです。

それが気軽な動画から得られるのは、確かに便利ではあっても、便利さで満足するかは自分の選択です。

だから私は、スピリチュアリストが言う全てのことに対して、実感を通して共鳴する部分だけにアンテナを張っていますし、それも自分の魂の体験で「あれは本当だったかもしれない」と思う日まで、飲み込まずに咀嚼を続けています。

現代人は「答え」や「正解」を見つけるには、早ければ早いほど良いと考えがちですが、答えや正解の価値は、問題の難易度がわからなければ容易く忘れてしまいます。
その難易度の高さは、自分の実体験を通してしか理解できず、それも他人に「これはハイレベルな問題だ」と教えてもらうのは意味がありません。

私とは何者なのか、神とは何か、世界はどうなっているのか、人間はどういう存在なのか、それらは自分に与えられた条件の上で解いていくからこそ面白いのです。

確かにわからないものと向き合うのはストレスを感じるかもしれませんが、自分なりの答えを見つけた瞬間にはカタルシスもあります。
そのプロセスは苦しくもありますが、プロセスそのものが喜びに向かうものだと私は思います。

だからこそ、安易に「他人の真実」を自分のもののように思い込むのはやめよう、今はそう考えています。

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怒りを力に変える

楽太郎です。

昨晩、何の夢を見たかは忘れましたが、今朝目を覚ましてベッドでしばらく考えたら、人間の世界がどうでも良くなりました。

私がこれから「神代を作る上で今後関わっていくコミュニティなんだろうな」と思って所属していたグループがあって、何かと縁を感じていたのですが、そのグループのリーダーが私を除け者にしようとしていたことがわかり、私としては好意で参加していたので、非常にガッカリしていました。

その理由も私が悪かったと反省できる部分はほとんどなくて、私が周りを見て善意で行なっていたことが、どうやら気に食わなかったようです。

そのグループが仮に神代を作るにしても、このレベルの共同意識では到底長くはやっていけないでしょう。
これまで、リアルな人間社会と折り合いをつけながら楽しく暮らせる気持ちでいましたが、神様がそれに気づかせるということは、「もう諦めろ」ということなんだろうなと思いました。

そもそも、多くの人々は今のところ悪手しか打っていません。

自分たちで好き勝手に作り上げた世界で、人間が滅びの道に進むことを薄々気づきながら、特に何も変えようとせず、それどころか他責と仲間割れに奔走し、人間たちを救うおつもりの神様にさえ目を背けています。

人々は、神様がこれだけシグナルを発して気づかせようとしているのに、それでも自分の考えを曲げず、変える気も変わる気も湧かないほどに魂を曇らせてしまいました。

私は、これを変えるには愛の力が必要なのだろうと思っていました。
また、魂の力を良い方に使うには、360°光のエネルギーでなければならないと思い込んでいました。

しかし、何となく自分の中でしっくりくる感覚がなかったのは、愛の波動だけを使おうとするあまり、人間の不条理に湧き立つ、私自身の悲しみや怒りのエネルギーを何とか封じ込め、ポジティブなエネルギーに変換しようとしていたからだとわかりました。

ただ魂の感受性は素直なので、良くないものは良くないと判断してしまいます。
それをエゴは、自分の目的や目先の利益を求めるあまり、どうにか自分に都合の良い形に理屈をつけ、その直感が気のせいであると処理し、魂のメッセージを上書きします。

それは、人間が神様に目を背け、神代ではなく物質世界を選んだ思惑とほぼ同じ意識です。

魂の感覚には本来、良いも悪いもなく、例えそれが悪感情と呼ばれるものでも、その未熟さも受け止めてこそ魂の感覚に繋がれます。
だから、社会的に良い、人格的に優れている感覚的反応だけを拾い上げても、魂のメッセージを受け取っているとは言えません。

いくら神様が人間たちのことを慮り、そして私も人々に尽くそうとしているに関わらず、その思いを唾棄する人間たちに、いつまで同情できると言うのでしょうか。

私は、この怒りも魂のエネルギーの一部であると悟った時、瀬織津姫様のことを考えました。

瀬織津姫様は浄化の神様であらせられますが、浄化とは表裏一体で禍事を起こす必要があり、その行いは八十禍津日神様による混沌の力です。
禍事、つまり破壊がなければ、浄化の後に天照皇大神様の岩戸開きは行われません。

破壊は、決して愛の力で行えるものではありません。
破壊のエネルギーとは陰の気であり、怒りもその力の一部です。

私は、この怒りの力を自分の内に否定せず認めることで、人間的価値観を振り払い、神代の創造のエネルギーに変えることに決めました。

これまでの私の迷いや煮え切らなさは、半々の形で人間界と渡り合っていこう、という平和主義にあったのですが、人間たちがここまで変化を疎むならば、力づくでも変えていくしかありません。

だからこそ、私は魂に備わった陰と陽のエネルギーを360°使い、その力を神代のために振り向けようと思いました。

肉体的な目で見れば、未だに人々はほんの少し世の中が良くなる片鱗を見せれば、そこからオセロのようにバタバタと世の中が良くなっていくと信じています。

しかし、ここまで悪意が蔓延ってしまうと、人間の骨の髄まで血を入れ替えなければ、人も世も神代仕様に生まれ変わることはできないでしょう。

それは人間たちにとっては酷く残酷に感じられるかもしれませんが、視界に入らないところで苦しみ、もがいている人たちがいる世界で、神様が人間を救うために必要だと考えておられることに違いありません。

だからこそ、その神様の側に立つには、人間社会の理屈にはない覚悟を持つべきだと思います。

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神代へのモチベーション

楽太郎です。

ようやく魂の好転反応が治りました。
その好転反応が終わる瞬間もハッキリわかって、気がついたら信じられないくらい楽になってました。

一晩開けてみたら、第4チャクラ、いわゆるハートチャクラが開きやすくなってました。
感覚としては、トラウマが浄化されたのかな、と思っています。

私が心のエネルギーをあまり使えなかった理由は、心を曝け出して生きると、生傷が絶えなかったからだと思います。
心が傷つきやすいからこそ、キュッと閉じるしかありませんでした。
正直な思いを伝える、嫌なことは嫌だとはっきり言う、おかしいことはおかしいと言う、好きなことだけをずっと続ける。
そうすればするほど、人から拒否されたり攻撃を受けてきました。それが正しいか間違っているかはともかく、いつも自分にとって不利な状況になっていきました。自分が損をしないためには、いつも大きいほう、強いほうに合わせるしかありませんでした。

人のことを考えれば、相手が自分のことしか考えない動きを予測しなければならない。
さりとて、自分が得するためには自分を騙してでも勝ち取る必要がある。
そういう生き方は、私の心を削っていき、だんだん心を閉ざしていったのだと思います。

ただ、そうやって溜め込んだ不満や後悔、心の傷は人として成長するための糧となり、今では「自分のような窮屈な思いを誰かにさせたくない」という思いに変わりました。
そう思うからこそ、今では神様と一緒に弥栄の世を作ろうとしています。

世の中には、心を正直に表に出せず、陰で苦しんでいる人はたくさんいます。
例え笑顔に見えても、無理している人たちもたくさんいるでしょう。
でも、しんどいとかやめたいとか、そういった本音が言えない環境で自分の本心と向き合えば、生きてはいけない気持ちになってしまうかもしれません。
だからこそ、心を閉ざしてしまう人がどんどん増えてしまうのだと思います。
そういう人たちが救われるためにも「本音で生きられる世の中」を作る必要があるのではないでしょうか。

今の日本人が努力を嫌いになったのは、努力が報われないとか社会のシステム以前に、「したくない努力を強制する世の中」になっていたからだと思います。
夢を叶えたり、成功するために自分が成長するプロセスは、表現するなら「努力」以外の何物でもないはずです。
しかし、その努力に「苦行」というイメージがついてしまったために、できる限り努力というコストをかけず、スマートに成功したりお金儲けするハックが、クールだと思う風潮になってしまったのではないでしょうか。

そうやってプロセスを軽視して実利を求めれば、他人から奪うとか騙すとか力を使うとか、そういうことになってしまうのだと思います。
やはり、人が自分の心と向き合い、自分は何がしたいのか、自分はどう思うのか、それと向き合わない以上は、「誰かに何かをやらされる人生」になってしまいます。
その被害者的な感覚は他責思考に向かい、他人や世の中に対する反感を募らせ、その悲しみや怒りをパワーにして生きるようになってしまうのかもしれません。

私は、そういう彼らに対して一概に責める気も、哀れに思う気もありませんが、こういった不幸を繰り返さないように、新しい世界は魂の自由が開かれた世の中でなければならないと考えています。


これから2025年、何が起こるかわからない時期に入り、日月神示でいう「大峠」が訪れます。
私は正直、このために長い間準備してきたのでワクワクしていますが、大人たちはともかく、子供たちが巻き込まれていくのが一番忍びないです。
しかし、その子供たちの不安が一日でも早く取り除かれ、救われる子たちを一人でも増やす、それはこれから神代をつくる私たちの腕にかかっています。

だからこそ、私は努力や勉強を怠らず、少しでも力をつけていくことが大切だと思っています。
少なくとも、私のモチベーションはそこにあります。

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不調を引き起こす「邪気」の正体

楽太郎です。

今、私はいわゆる「アセンション反応」「好転反応」と呼ばれる不調が4日目に突入し、座っているのも辛い状況が続いています。

この魂の成長期は、一旦サナギのような状態になります。サナギは、自分の変化に全エネルギーを向けるため、外部からは無防備になります。
この時、私たちは同時に社会生活も送らなければいけないため、必然的にエネルギー不足=気枯れの状態になってしまいます。
気枯れの状態は、特に邪気に狙われやすい現人神(を志す)方たちに対し、著しい不調を引き起こします。
なぜ邪気が私たちを襲うのか、考察は後に述べますが、不調の対処法については以前書いた記事「現人神の身体について」が参考になるかと思います。

この不調をきたす流れは、残念ながら当面続くと思われます。現人神を志す方々にとって、辛い時期が続くかもしれません。
2024年の節分あたりから始まった地球的なエネルギー変動は、夏至、秋分あたりで大転換しながら、このまま冬至でクライマックスを迎えると思われます。

時々の転換ポイントのエネルギーの変動も凄まじかったのですが、個人的には9月27日、10月3日、10月17日、11月16日、このあたりはとにかく体調が異常でした。月の満ち欠けや暦がトリガーになっているようで、ある程度の法則性は見受けられます。
今も激しいエネルギー変動が起こっており、明日の体調も予想できない状態が続きますが、私たちにできるのは現状を知り、対策を練ることだけです。

私たちを襲う「邪気」の種類


私は、この邪気の正体について言及しようとするたび、何かしらの圧力がかかる感覚がありました。
突然文字を打つ手が痺れたり、急に体調が悪くなったり、何かの弾みでデータが飛んだり、偶然では片付けられない確率で遂行が中断されました。

当初は、魂が神代に渡れば完全に邪気の影響はなくなると思い込んでいました。
確かに、空間的な邪気によるダメージは現在、かなり軽減されています。ですが、前述した気枯れから受ける邪気は、ますます強くなっています。
その邪気は何を意味しているのか、この数日で私が内観して得られたことをここに書こうと思います。

とあるきっかけから、私は強制的にアセンション状態に入りました。これは、魂の成長という意味です。
この魂の成長期は、基本的に無気力になったり、愁訴感や頭痛などを引き起こし、精神的にもネガティブになる状態です。
邪気は、このエネルギーの低下した状態に入り込んできます。
とは言っても、この邪気は悪魔的存在が意図して狙い撃ちしてくるものではないと思ってます。
この原因はおそらく、私たち個人の「弱い心」です。私たちの心の一部に集合的無意識があると考えれば、邪気はこの集合的無意識から入り込んでくるのです。

邪気の種類には3種類あるように思います。

一つは、「具現化した邪気」です。
具体的に、身の回りにいる嫌な人、迷惑な人、攻撃的、搾取的な人、そういった邪念で動く人々が発する邪気を「具現化した邪気」と呼んでいます。

二つ目は、「空間エネルギーの邪気」です。これは街や空間上に漂う気で、これを取り込むと気分に関係なく不調に陥ります。才能を司る部分に滞留しやすく、それによって行動を起こしづらくさせる特徴があります。

三つ目が「集合的無意識としての邪気」です。
現人神がお役目で黙々と祓っているのは、これです。この集合的無意識が何らかの形でネガティブな影響を及ぼし、不調に至らせるのです。この入り口となっているのが、「人間として弱い部分」です。
この隙間から精神に干渉してくるので、桁違いの不調を引き起こすのです。

「邪気」の源は、悪魔化した集合的無意識


私が今回の好転反応中、たまたま目にした、ある人の動画では「好転反応で前向きな変化が訪れる時、弱りきって後ろ向きになることも多い。これは『中途挫折の因縁』である、それは集合的無意識によるものだ」と語られていました。
この集合的無意識は、どうやら「元のダメな状態に戻そうとする力』で、言ってみれば「ずっとこのままでいようよ」という同調圧力です。

現在、神代を地上に降ろす大作業の中で、最も障害となっている感情はこの同調圧力であり、この大変化の時代に「元の状態を維持する」ことは堕落を意味します。また、神代への変化を拒むという点では神のご意思に抗うものです。
だからこそ、時代を変え、神代を実現しうる現人神や、変革し前進する人々を阻むこと自体、古い時代を維持する一つの実現手段となるわけです。

あらゆる挑戦は無意味であり、世の中を良くする努力は何も成さない。そういうことにしておけば、今までの世界は変わらずに済みます。
ある意味、時代を変えようとする人々は、この集合的無意識からすると「敵」になってしまうのでしょう。

しかし、今の世界の混乱は、古い物質主義と権威主義の限界によって引き起こされています。
これまでのやり方は、明らかに通用しなくなってきています。自然環境は破壊され、テクノロジーや文明も行き詰まり、超特権階級が搾取を尽くし、最終戦争寸前まで歩みを進める人類は、もう引き返すことはできないはずです。

だからこそ、行き詰まった人類を次のステージに移行させるために神々が動かれているのです。
これに抗う人の集合的無意識は、これまでの人の世の背後にいた悪魔的意識の影響を引きずり、その馴れ合いを同調圧力で維持したいのでしょう。

つまり、私たちが不調を感じるからと言って、神様から与えられたお役目を中断したり諦めることは、この同調圧力に屈してしまうことになります。
ここでお役目の手を止めてしまえば、神代の実現を遅らせてしまうことになりかねません。
だからこそ、現人神は自身の弱い心と向き合い、不調や邪気を祓わなければならないのです。

この記事を唐突に書いたのは、まさに私が現在、邪気に酷く襲われていたからです。
しかし、彼らの正体は無意識なので、意識化すると力が弱まるのではないかと思い、乱文ながら文章にしたところ、実際にかなり圧力が消えました。
これが集合的無意識の「邪気祓い」の一つの方法かもしれません。

彼らは、意識化して克服されると無力化するため、あえて言及されたくないのかもしれません。
ですから、邪気の不調に苦しむ方は、この記事を読んでから何かしらの対応をすることで、邪気祓いが進むかもしれません。
全て主観的な解釈になりますが、一考に値するかとは思います。
ぜひ参考にしていただけたら幸いです。

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「スターシード」と信じる価値

楽太郎です。

「スターシード」という言葉があります。
霊的覚醒をされた方ほど、この少しファンタジックな言葉を知り意味に共感し、「自分はそうだったのか」と感じるかもしれません。
実は私もその一人です。

スターシードにはインディゴチルドレンやブルーレイと呼ばれる世代がいたり、スターシードでありながらライトワーカー、ライトウォーリアといった魂の使命を持つこともあるそうです。
また、スターシードには所属する宇宙の霊団が存在し、アルクトゥルス、プレアデス、シリウスなどがあると言われています。

この宇宙的用語は、霊界や世界の仕組みについて説明する上で優秀なスキームです。
また日本の神々の名前が使われる時は、日本神界の仕組みや日本人そのものの成り立ちなどに言及しているケースが多いように見受けられます。
言葉の種類も表現の仕方も異なりますが、どちらも得意な説明の仕方があると思っています。

私はスピリチュアルを学び始めた当初、この既存のカタカナ語表現の羅列にクラクラしたものですが、その用語の指し示すものの本質がわかれば、どう言葉で表現されていても腑に落とせるようにはなりました。
スピリチュアルの世界は、「どう言っているか」ではなく「何を言っているか」の方がはるかに大切だと思います。

私が「スターシード」という言葉を初めて聞いた時は、キラキラした想像の世界だな、と思っていました。
でもその意味を理解した時、私の半生の違和感が全て氷解しました。


「スターシード」の気づきがもたらしたもの


私は、物心がつく前から「自分だけが何か違う」という感覚がありました。
それで何となく他人と浮いたり、周りの人たちの言うことについていけなかったり、何となく常に場違い感がありました。
私は「できない鈍臭い子」とよく叱られたものですが、逆に周りの同年代が粗暴すぎて「なんでこんなことするんだろう?」と、いつも静かな疑問を抱いていました。
小学生の頃には、ぼんやり「なぜ自分はこの世界にいるんだろう」「生きるとは何か、人間とは何か」と考えるようになっていました。
そういった抽象的思考が得意な反面、体を動かす作業が飛び抜けて苦手でした。
これまで何度かスポーツも経験しましたが、未だに体の使い方が下手です。というか、まだわかっていないかもしれません。

長い間うっすら感じていた「人間としての素人感」の理由と自分の特徴をうまく説明してくれたのが、スターシードやライトワーカーの概念でした。
それを聞いて、「ああ、自分は宇宙から来た、転生一回目の魂だったんだ」と納得した瞬間から、何をどう振り返っても、そうとしか考えられなくなりました。
地球に来たのが一回目なら、これだけ色々なものに興味を持ち、とは言え人間の慣習には馴染めず、何となく人間として生きることが下手な理由も、仕方のない気もするのです。

スターシードであることの意味


この「スターシード」という概念がどこから発生したのかはわかりませんが、おそらく科学的実証は不可能だと思います。
けれど、霊界の理や天界の論理で考えると、今起こっている不可思議な現象もなぜかきっちり説明できてしまうものです。
その点では、科学的・歴史的反証性は客観的な根拠となり得ますが、それだけで全てを説明し切れるものではなく、しかし天の理を持ってすれば大した学識はなくとも、ある程度説明できてしまいます。
だからこそ、この宇宙的概念はこの世の仕組みを考察する上で、とてもユニークな切り口です。

そして、私たちが「スターシード」や「ライトワーカー」であったり「◯◯星団の宇宙霊」だという確信は、自分の魂に感じていたモヤモヤした部分を言語化し、自分が決して一人ではないことや、自分が今生でなすべき方向性について指し示してくれます。
それは魂で感じていれば良い部分で、それが正しいか正しくないかを突き詰めようとすると、膨大な労力の代わりに大した収穫もないでしょう。

おそらく、スピリチュアルは人間の言語野を超えた世界や存在であり、幾通りの表現が同時にできるような不思議なものだと思います。
ですから、いきなりカタカナ語で説明されると初めは戸惑うのですが、その真意を汲み取れば腑に落ちるものでもあります。

私は自分を「スターシード」だと思うことで、これまで人間世界でうまくいなかった理由が、自分に非があるからではなく、自分の魂の特性だと考えられるようになりました。そうすると、自らを卑下する感覚が次第に和らいでいきました。
また、「ライトワーカー」という概念に共感することで、こんなにダメな自分でも使命感を大事にし、理想のために人生を歩むことができると思うと、暗く淀んだ心に一つの光が差した気がしました。

「スターシード」という現象が真実かどうかはともかく、魂の出自に確信を抱き、自らの正しい道を選択することに間違いがあろうはずがなく、その信じる心が世界を変えていく力になるのだと思います。

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霊の善悪を見極める方法

楽太郎です。

私には、特にはっきりとした霊能力はありません。
霊感やそれっぽい感覚はありますが、確信を持ってこうだと言えるほど強い力ではありません。
まだこの感覚に気づいて日が浅いので、手探りで様々な情報や知識に当たっています。
ある人はこう言い、別の人はこう言っている、という状況が多すぎて混乱することもしばしばです。

個人的な話ですが、私はある霊能力者に霊視してもらったことがあります。
彼が言うには「本質を求め、あらゆる知識を外から取り込むせいで、その知識で心を作ってしまっている。だからこそブレるし、心も育っていない」と指摘されました。
私はこの時、一応批判を受けているわけですし、何の根拠もないはずなのにこの言葉がスーッと心の中に落ちていって、一瞬で納得したのを覚えています。
「なぜか」はわからなくても、魂のレベルで腑に落ちることは実際に起こるのです。

スピリチュアル界は特に、玉石混交です。
自分の感覚に自信がないからと言って、下手にあらゆる情報源を当たるのは危険です。
最近はブームに便乗した、霊能力云々が関係ない業者も跋扈しています。ただでさえスピリチュアル業界は、一時期問題となった霊感商法と親和性が高く、目に見えないものを扱っているがゆえに詐欺紛いのビジネスも横行しています。
そもそも、能力者が本物か偽物かである以前に、チャネリングやリーディングにアプローチしてくる霊が高潔な神霊ばかりとは限りません。
例えば、霊的存在を私たち人間と同じ文脈で捉えてみればよく、それが悪い霊や低級霊の類なら、さも自分を高い位の神霊であると騙りたがるでしょうし、もしくは信じさせるために嘘や奇跡的な事象をわざと起こすかもしれません。
この審神能力は、特に目覚めていない能力の人々には備わっていないため、それが高潔な神霊なのか、低級霊なのか悪魔的存在なのか、素人には見分けがつきません。
そのため、安易に全ての能力者の発言を鵜呑みにすることは酷く危険です。

さりとて、気に入らないメッセージは受け取らない、共感できるメッセージだけ受け取る、というスタンスでは神様のご意思を正しく受け取ることはできません。
肩書きのすごい人がこう言っていたのに、他の人の説明では物すごくしっくりくる、でもこの二人の話は矛盾してしまう、ということもしばしばです。
こういう時、「どっちが正しいことを言っているのだろうか?」と混乱しますが、結論から言うとこれを頭で考えることに意味はありません。

スピリチュアルの世界は、言語を超えた世界です。
この界隈には宇宙一般の用語を使うグループもいれば、日本神道の用語で全てを解説するグループもいます。それぞれ、使う言葉は違っても共通の事柄を扱ってますし、共通する答えもたくさんあります。

神様は、どうやら自分たちが人間にどういう説明をされているかを特に気にされないようです。

その上で定義や動機づけが教科書通りであるとは限らず、権威はあまり確証にはなりえません。
正しいか正しくないかは自分が判断すべきことで、逆にそれに一つの正解を追い求めると疑念は深まるはずです。
問題は、能力者が発した言葉、霊が介入した言葉に善意があるか悪意があるかだけです。つまり、真偽よりも、その影響の見極めの方が大切なのです。

神がかりの良し悪しの見分け方



私がスピリチュアリストを見てきた中で、正直に言ってしまえば低級霊や悪霊に憑依されているインフルエンサーが何人かいるな、と思っています。
ただ、それの正誤を検討すること自体にさしたる意味はなく、「良くない霊に取り憑かれているからこの人の話は信じるな」と言うつもりもありません。
自分の力で良くないものの影響から外れることの方が重要だからです。

例えば、世の中に性格の悪い人や悪人がいたとしても、法を犯していたり危害を加えられたわけでなければ、関わらない方がいいのと同じです。
その見極めは、極力頭だけで考えないことです。感覚もよく間違うので、右脳左脳で判断しないことだと思います。

これには魂の感覚が重要です。

ハートオープンの状態で受け取ったものの中で、高い神霊のメッセージは言葉尻や表現ではなく、イメージとして心にスッと入って瞬時に納得できるという性質があります。
それが多少厳しい言葉でも信じがたくても、なぜか腑に落ちてしまうのが格の高い神霊の特徴です。
反対に、邪念の入った言葉は、「ん?」となることが多いです。いくら綺麗な言葉でも、何かが引っかかる感覚があります。この違和感を放置して鵜呑みにすると、格の高い神霊の正しいメッセージを受け取った時に矛盾を感じてしまいます。

審神はもちろん大事ですが、修行も開眼も進んでいない者にその能力はありません。
そんな人ほど頭で解釈すると同時に、魂の感じ方や直観の部分で快不快を見極めることが有効です。
そこに自分軸がなければ、綺麗な言葉や希望的なメッセージだけを受け取ってしまい、批判や厳しい言葉には耳を傾けないようになりかねません。

神様は高潔な方々なので、時に人間には理解しにくい難題や高い倫理観を求めてきます。それは耳の痛いことかもしれません。しかし、それが大事なことだからこそ、神様は私たちに干渉なさるのです。

聴き心地の良いメッセージだけを集めることは、悪魔の言葉にも耳を傾けることになるはずです。
その時に大事なのは、「この言葉を聞いて、私は成長するのか、世の中は良くなるのか」を改めて吟味してみることです。

神様は、私たちをお導きになる役割の方々です。幸せにするために、わざと堕落するような甘やかし方はしないはずです。
そのことを心得ていれば、妙な神がかりに惑わされることは少なくなります。

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大我優位の保ち方

楽太郎です。

前回は、現人神が「小我=エゴ」優位の状態で活動を続けると、「気枯れ=穢れ」を生み、邪気を呼んで心身のバランスを崩すという話をしました。

このエゴの部分、長くこの文明社会で人格を形成してきた人たちほど、骨の髄まで「土の時代」の価値観や感覚が染みついています。
現人神の方々は、その物質主義の世界に違和感を感じながらも、ご自身の直感を信じてこられた人たちだと思います。

それでも、習慣として刻み込まれた生活様式や観念は、現人神と言えど社会的立場を維持する上である程度、受け入れる必要もあります。
例えば、今ある人間関係や組織での立場、衣食住にまつわる義務、お金の稼ぎ方、そういうしがらみが現実問題としてあるわけです。
ただ、そこに意識を置きすぎるとエゴが前面に出てきてしまい、「大我=ハイアーセルフ」の状態を忘れがちになります。
現人神はこの大我の状態が主軸でなければ能力を発揮できないので、どれだけエゴをコントロールするかが鍵となります。

大我の状態を維持する方法


私は最近、数日ほどろくに動けないくらい心身が落ち込んだのですが、その不調の原因には心当たりがありませんでした。
そこで注意深く内観したところ、この不調の特徴に過緊張があり、その強張りは特に思考によってもたらされていることがわかりました。
つまり、「こうでなければならない」「これをしなければならない」「なぜこうなんだ」という「べき思考」が、この過緊張の元になっていたのです。

人間は頭を使いすぎると、頭部の筋肉、筋膜がガチガチに固まり、頭蓋骨の一次呼吸に支障を来します。
しかし、この頭部の緊張は自分で意識してみないと気づかないことが多いように思います。
そして、この頭部の緊張はチャクラの流れを乱し、第6、第7チャクラの物理的解放を阻害してしまうのです。
前回述べたように、現人神にとってチャクラの活性は最低条件となります。そのため、チャクラが開いていない状態は不調を伴い、能力の抑制となってしまいます。

「大我」が優位の状態にする、あるいはハイアーセルフと繋がった状態にするには、こういった緊張を解す必要があります。
個人的に瞑想やヨガをお勧めしますが、常にリラックスできてハートオープンの状態であれば完璧です。
そのリラックス状態というのは、小我が優位の時間が長いほど、オンオフのスイッチングが生じます。
緊張の源である焦りや不安や義務感は、この小我状態に湧き上がることが多いように感じます。

大我の状態は、高次元の意識に近いため、現在見えている現象の本質を見抜き、また未来の予知すらも可能になります。
「これは偽物か本物か」「これは正しいのか間違っているのか」「これは失敗するか成功するか」も直観として受け取ることができるのが、ハイアーセルフと繋がった時の意識です。
基本的に小我の状態で見聞きし思考し判断することよりも、高いレベルの判断を瞬時に行えるのが大我であり、従って下手に迷ったり不安に駆られたりせず、高い自尊心と自信を持って行動することができるわけです。
高い自己肯定感がある意識は、他者に寛容になり、また貢献に喜びを感じやすくなります。
この愛の波動こそが、神々のワケミタマそのものであり、大我=ハイアーセルフを形づくる「神としての自己」の正体です。

小我の状態であれこれ考え、原因を外に求めているうちは、この愛の波動を呼び覚ますことができません。
そのため、大我の意識にあるためには、エゴとしての思考を抑え、意識をニュートラルにしておくことが理想です。
不安や義務感は緊張となり、リラックスできる状態を難しくするため、意図的に緩い状態を作る工夫も大切です。

追記:体調が不安定な方へ


魂が神代に渡っても、魂はまだ旅を続けています。
魂はこれから調整の時期に入り、成長はまだまだ続きます。
そのため、「アセンション反応」「好転反応」と呼ばれる状態は、頻繁に起こります。
状態としては、体温調節ができなくなったり、極度の疲労感に襲われたり、理不尽な眠気に付き纏われたり、様々な違和感として現れます。
これは身体の異常として起こるため、病院に行く理由にもなり、ある程度は改善するかもしれませんが、薬学療法では表面的に症状が出なくなっているだけかもしれません。
この不調の原因は霊的な状態変化にあるので、それを予めわかっていた方が楽になる場合もあります。

この好転反応は、思春期の成長痛のようなもので、黙って受け入れるしかないものです。
多くは一時的であり、目を閉じてじっとしているだけで治まることも多いです。
この不調は気枯れの状態と似ているため、厳密にその分類はしにくいかもしれません。
しかし、不調とは回復へのシグナルであり、休息を促されていると思っておけば間違いはないでしょう。
こういう変動期ほど、自ら受け入れ無理をしない環境をつくることも大切です。

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現人神の身体について

楽太郎です。

魂が神代に渡り、あるいは神界の霊団に加わった現人神は、基本的に「三次元世界」で培った生き方、特にエネルギーの循環が神代仕様に変化しています。

これまでの人世の時代は、肉体的欲求や衝動が社会活動の原動力になっていました。
衣食住が満足に揃わなかった時代は、それでも精神と物質の両輪を回すことができたため、特に問題はありませんでした。
しかし、モノが溢れ社会が物質中心になるにつれ、精神的な「目に見えない」価値観よりも、データや物質として「目に見える」価値観が現実的であると見なされ、その評価軸が絶対となっていきました。

その価値観の中で大部分の人格を形成してきた私たち、現人神に目覚めた、これから目覚める人たちは、そのままの行動原理で活動すると、すぐに行き詰まってしまうかもしれません。
世界を構成するエネルギーの方向は基本的に変わりました。しかし、まだ古いエネルギーの流れが強いのも事実のようです。
私たちは、新しい時代をつくるに当たり「土の時代」の慣習を見直す段階とも言えます。

すでに新しい時代仕様の身体になった方は、これまでのコンディションの整え方では不調を感じる方もおられると思います。
かく言う私も、天体的なエネルギーの変動や神気の欠乏、人々のネガティブな集合意識を感じるせいで、日によって体調が変わるという不安定な身体状態にあります。

そのため、まだ手探りではあるのですが、私なりに内観してわかったコンディションの整え方についてお話したいと思います。

現人神の身体に起こる不調の原因は、ほぼ「穢れ=気枯れ」であるようです。
穢れとは、疲労やネガティブな思考、健康状態の悪さからくる不快感、そう言った「気が枯れている状態」から邪気を身体に取り込んでしまうがゆえに起こる不調です。
おそらく病院に通っても、せいぜい「自律神経失調症」や「疲労」と診断されるでしょう。あるいは、精神疾患と誤診されるかもしれません。
私自身、全く身体に健康的問題はありませんが、倒れそうなくらいの不調はよく起こります。
これの解決方法としては、単純に「休むこと、よく寝ること」なのですが、ここではさらに「気枯れを起こさない方法」について書きたいと思います。

現人神のエネルギー駆動原理

先ほども述べましたが、現人神に目覚めた人ほどこれまで培った人格で身体を動かそうとすれば、気枯れを起こしやすくなります。

おそらく、現人神の方は第7チャクラまで容易に開く身体に変化しているはずです。
神様のメッセージを受けたり、インスピレーションを働かせるためには第7チャクラの活性は必須だからです。
まだ自分でその感覚に自覚のない方は、きちんとヨガを行ってみることをお勧めします。おそらく一般の方よりも第7チャクラへの到達は早いと思います。

この第7チャクラ、第6チャクラが常に優位に働いている状態が、現人神の身体で生きるのに最も楽なポジションです。
人間には「小我=エゴ」と「大我=ハイアーセルフ」の二つの意識層があります。
この、小我の状態はチャクラの循環を阻害しやすいため、エネルギーの好循環で高いバランスを保っている現人神の身体は、気枯れを起こしやすくなります。
ですから、この「大我」の状態の意識を保って行動することが、現人神の心身の維持に大切になります。
最も、全チャクラの解放状態がこの大我における好条件となるので、地味なコンディショニングを基礎的な習慣にしていく必要があります。

この「大我」の意識の持ち方については、後日また述べさせていただきたいと思います。

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