招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

才能を発揮する勇気

楽太郎です。

年末、私がご加護を受けている、おそらく瀬織津姫様からインスピレーションが降ろされました。
その内容は、提示した時のサプライズのために伏せておきますが、受けた瞬間はかなり困惑しました。

インスピレーションは、降りた瞬間にはテンションが上がり、やるしかないという気持ちになるのですが、この時はさすがに動揺しました。
あまりにオーダーがパンクすぎるというか、自分でも抵抗してしまうほど突拍子もないアイデアだったからです。

けれど私は直感第一主義ですし、神様の仰ることは絶対だと思っているので、やらざるを得ないんだろうと思いました。
ただインスピレーションというのは恐ろしく、「やらなくては気が収まらない」感覚になります。

他に急を要することがあるにも関わらず、なぜか手をつけ始めてしまい止まらなくなりました。
やり始めたらやり始めたで、迷いも一切湧かずにスラスラできてしまうので、余計に戸惑いました。

けれど進めるうちに、自我が出てきてしまい「これを世に出したら、自分はさらにまずい状況に置かれるのでは?」と考え、徐々に不安になってきました。

結論を先に言えば、神様のほうが一枚も二枚も上手でした。 もうやらざるを得ない、出さざるを得ないところまで話を持って行かれてしまいました。
けれど、自分のリスクを考えたらゼロではありません。これまでの常識で自分を考えるなら、どう考えても藪蛇にしか思えません。
ただ、人間の目からは無謀にしか思えないことを、どうやら神様はやって欲しいようなのです。

一体、なぜでしょうか。

スピリチュアル的な説明を一切なしに語るならば、次の時代の社会経済は新しいものが出てくることで古いものが淘汰されます。
このあらゆるコンテンツが飽和した世界にあって、世界観が変わるようなパンクムーブでなければ、おそらく何の影響力も発揮することができません。
それは神様の加護があるなしに関わらず、文明水準のレベルも関係なく、斬新さはどうしても必要なことです。

神様は、神代や新しい世界を作る人たちに、魂そのものの表現をしていくことを期待されています。
それは「才能」と呼ばれるものです。

才能とは、人間が神様からワケミタマを与えられ、生まれ持った環境によって条件づけられ、後天的に発揮しうる特殊技能のことです。
それは誰もが一人ひとり異なり、唯一無二の個性となりうる能力です。
神様は、人間がその能力に気づき、堅実に向上させながら使命感を持って行使されることを望んでおられるでしょう。

その「才能」はおそらく、貴賤がありません。
個性に貴賤がないように、才能にも必要不必要がないのだと思います。
それを発揮させるのも才能のうちであり、必ず何らかの形で人に役立つようにアレンジする必要があります。
それが社会的に受け入れられた時、私たちは才能によって財運を得るのだと思います。

その財産は自らの力で手に入れたものなので大事にするでしょうし、使い道も慎重になるはずです。
その資産で自分が豊かに暮らし、安定した生活の中で充実感を得ながら生きていれば、人は幸せになれるようにデザインされているように思います。

しかし、多くの人々は自分の才能に気づかず、伸ばすことも発揮することもしないまま、社会の枠組みの中でお金を稼ごうとしてきました。
それは何が悪いというわけではないでしょうが、才能を追求するのは困難を伴います。

人間は、意外と自分自身と向き合うのが苦手です。
自省をすればするほど自身の孤独性と向き合い、個性を追求すれば周りに合わせられなくなります。
多くの人は、そこまでするほどの目的や勇気を持つことができません。

もし、今の社会の枠組みが崩れ去るならば、誰もがその本質と向き合わざるを得ないのに、です。

その才能を発揮するのも、非常に勇気がいることです。魂からの表現をすれば、誰にどう評価されるかは想像するだけで恐ろしいものです。
正直に自分を曝け出せば晒すほど、受けるダメージは大きくなります。
ただ、そこを乗り越えなければ真の才能を発揮することができません。


私が直面した恐怖は、この生傷ができた時の痛みが想像できたからです。再起不能になるくらい打ちひしがれるかもしれません。
けれど、個性は初めから受け入れられるとは限らず、挑戦するからには既存のものを壊し、それゆえ批判も当然考えられることです。
当たり前のことを無難にこなすのは、別に才能如何は関係ありません。それはただの技術や方法に過ぎず、他者に再現不可能であるがゆえの才能だからです。

私は先日、高千穂の夜神楽の動画をたまたま拝見し、その芸術性の高さもさることながら、神様を題材にした自由な表現に驚きました。
ご先祖様たちがかつて楽しまれた演劇は、神様を面白おかしく演じ、しかも濡れ場まである奔放な娯楽でした。ただ神楽なので、元から神様に奉納するためのものです。
伊弉諾様と伊奘冉様がイチャつくのを観客が面白がる自由さを、見物なさる神様がお認めになるならば、おそらく人間界の常識を超えた文化観が神様の世界に存在するのでしょう。

神様は、おそらく才能の表現に貴賤はなく、魂から発せられた表現を重んじられるのだと思います。

私の敬愛する瀬織津姫様も、「弁才天様」とお呼びしたほうが実は繋がりやすいのですが、弁才天は元々インド神話のサラスヴァティ神ですし、いかに河川や技芸の神様であろうと習合しすぎです。
それでも神様は呼び方には特にこだわっておられないようなので、表現の貴賤はやはり人間界にしかない価値観なのだと思います。

確かに、常識的に考えたらやらなくていいことはたくさんあります。
しかし個性とは発揮せずにはいられないものであり、才能もまた表現せずにはいられないところから始まります。
個性を発揮せずとも、才能を表現せずとも私たちは生きていけます。少なくともそうせずに生きていける世の中であれば、です。

これからの時代は、それをした方が有利に働くというか、あえてそうした方が楽しい世の中になっていくのだと思います。
誰もが他人の目を気にせずに好き勝手にでき、それが受け入れられる土壌があるとしたら、人は喜びを共有しようとするはずです。

今はまさに過渡期なので、抵抗心は最も強い時期かもしれません。ただこれを乗り越えなければ、誰も後に続かないのでしょう。
私は、もう少し時間はかかりますが、それをやるつもりです。

「自分らしくある」とは、最大限のリスクを負います。
しかし、そのハードルを乗り越えてこそ、自分を活かしながら生きていけるのだと思います。
これからの時代には、そういう挑戦が必要です。

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