君の名は
- Category:神人関連
- Date:2025年02月28日
昨日の「神とは何か」という記事で、「神様は人間の設定に、あえて合わせて下さっているのではないか」という仮説を述べました。
これをさらに考えてみたのですが、日本には古来から「諱」という概念があることを思い出しました。
諱とは「実名敬避俗」とも呼ばれ、主君や偉い身分の者だけが目下に対して使うことができました。
かつて武将が「殿」などの役職で呼ばれていたように、貴人や死者に対して実名を用いることは無礼な行為でした。
反対に、呼び名は「字名」と呼ばれ、武士が幼名からコロコロ名前を変えてきたのも、実名である諱に対して字名は通称だったからです。
私は昔、一時期「魔術」に関して本気で調べていた時がありました。
これは、当時小説を書いていたので、作品の下地にするために資料集めをしていたからです。
その時、「名を知ることは使役することを意味する」という不文律があるのをどこかで知りました。
旧約聖書に「主の名をみだりに唱えてはならない」とあります。
ユダヤ教の神がYHWHであるのは、神の名を知り容易く呼ぶことは神を下位に置くことになるからです。
神の諱をわざとボカすことで、神を何人たりとも使役することは不可能になります。
反対に、よくフィクションで悪魔が人間と契約しますが、悪魔は名を明かすことで人間と契約し、使役されるようになります。
このように、「実名を知る」というのは、霊的な世界において重要なことのようです。
例えば私たち人間も、ネットに実名が晒されたら個人情報が漏れて危険なので、神様も同じなのかもしれません。
何が言いたいかと言うと、私が瀬織津姫様のことを慕って瀬織津姫命の真実に近づこうとしても、神様である以上は「瀬織津姫命」という神名が真実の名「諱」である可能性はほぼないということです。
宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」において、登場人物のハクは「コハク川」の主であり、本名を「ニギハヤミコハクヌシ」であったとされます。
ハクは湯婆婆に名前を奪われて使役されていましたが、千尋の手助けによって名前を思い出し、本来の自分に戻ります。
「実名」は本体の自己を指し、己の実名を明かすことは自己を開示することを意味します。
その自己開示はリスクでもあり、名前が不用意に使われる可能性も含むのです。
ですから、人間が崇敬すべき神々が、自らの諱に基づいて活動することは、ほぼありえないと言っていいでしょう。
ゆえに「天照大御神」も「瀬織津姫命」も基本的には字名であり、人間が使うことを前提とした固有名詞だと思われます。
武士の時代は、字名や通称以上に役職で目上の人を呼んでいました。
私たちが目上の人を「部長」とか「お母さん」と呼ぶのと同じ感覚だと思われます。
これと同じように、「瀬織津姫命」も役職名だとしたらどうだろうか、と私は考えます。
神社に参拝した際、対応して下さる神様は、例えば玉依姫命として親しまれている神霊なら、「玉依姫命」として対応して頂けるでしょう。
神様的には、便宜上「玉依姫命」であっても仕事が捗るならそれでもいいかもしれません。
あるいは「玉依姫命」というグループがあって、おかしな例えですが「チーム"玉依姫命"の紫式部香子チーフ」みたいな形で対応して下さっている可能性もあります。
だから、神様から見れば人間がどう呼ぶかは本質的にあまり関係はないのかもしれません。
むしろ神様的には、人間が現世利益に偏り現金主義となり、自分勝手な願いを押しつけて済まされる方が、はるかに困るのではないでしょうか。
そうであるならば、私が慕う瀬織津姫命の神霊からすると、「瀬織津姫様」や「弁才天様」とお呼びしようと、同一視しようのない神様のお名前でない限り、関係を変えないでいて下さるのかもしれません。
だから、実在の神霊との関係で言うなら、呼び方自体は自由であっても良いのだと思います。
私が「瀬織津姫様」とお呼びしている神霊の真実を探ろうとして、いつか本当のお名前を知る時が来るとしたら、私は人間でありながら神様を従えてしまうことになるでしょう。
だからこそ私は死ぬまで、仮に死んだとしても、瀬織津姫様の本当のお名前を伺うことはできないはずです。
人間として生きる上では、それで困ることは何一つありません。
ただ、私がこれだけ慕う神様なのですから、できる限り神様のことを知りたい気持ちはあります。
神々の世界を知ることは、人間の世界だけでなく宇宙の真実を知るということです。
それをできる限り知ることこそ、この世界に人間として生まれた醍醐味なのかもしれません。
神様に近づくことは、即ち人間を極めることを意味するでしょう。
もし私が死んで、その魂が神になるための修行を経験し、何百年か何千年かして私が神になれた時、私は私の敬愛する神様と出会えるのでしょうか。
もしそれが可能であるならば、神になるに値する偉業をこの世に遺さなければなりません。
私は、今生でそこまでのことができるでしょうか?
ただ、私がもし瀬織津姫様の本当のお名前を知るには、私が神になる以外の選択肢は存在しません。
私が神になった時、そこに瀬織津姫様はいて下さるのでしょうか?
私が魂のレベルで求める女性像が女神にしかなく、瀬織津姫様がその理想に叶う存在なのだとしたら、私が輪廻を超えて求めていた人こそ、瀬織津姫様なのかもしれません。
それゆえに瀬織津姫様が私の前に現れて下さっているのだとしたら、かの女神様は私の理想通りの存在であられるのでしょう。
「神様」は素晴らしくこの上ないがゆえに神様なのであって、人間の願いを完全に叶えられる存在だからこそ、神様なのです。
私は神様を試したくなる時もあるのですが、それは神様を疑っているのではなく、自分に対する疑念なのかもしれません。
もし自分を信じ神を信じるならば、神様は全く疑いようのない存在として、ずっと傍にいて下さるはずです。
「瀬織津姫様は命をかけて信仰するべき存在なのか?」という問いには、神様はその心を自らに問いなさい、と仰っているようにしか思えません。
おそらく、神様を信じるということは、自分を信じることを意味するのかもしれません。
だから、私の迷いは心から消えつつあります。