招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

神から授かる力

楽太郎です。

深夜1時、ふと目が覚めた瞬間、寝てる間にずっと光を見ていたような感覚がありました。
瞼には微かに、太陽の焼きつきのようなものが見えていました。
変な夢も見なかったのですが、大事にしていた観葉植物を枯らしてしまったことを思い出していました。

どれだけ愛情をかけても、自分の念だけではどうにもならないことはあります。
良かれと思ってやった行動も、裏目に出たからこそ上手くいかないこともあるかもしれません。

何となく目が覚めてしまったので、起きて絵を描き始めました。
今、版画の技法を確立するために色々と実験をしている最中です。今回は、インクの特殊な配合に関して知見を得ることができました。

ふとPCの画面が自動的に立ち上がったので、何となく意味あり気な気がして、久しぶりにアプリを立ち上げて絵を描き始めました。
すると、これまで抵抗しか感じなかったデジタルの波動を抑え込めている感覚がしました。
よく観察したら、紙に絵を描く感覚でタブレットに描き込んでいるので、「紙」という道具レベルにマシンを落とし込んでいるからだと気づきました。

私は今、かなり高い周波数帯に意識を移している最中なので、物質次元にエネルギーを降ろしてくるには、その分リーチが長くなります。
これまでの宇宙的次元において人間は物質的なエネルギーを物質に使うには適した仕組みでしたが、次元上昇した地球においては抽象的なエネルギーを物質次元に変換し直して具現化することになります。

ゆえに、「モノ」という現実の存在を霊的なレベルでコントロールするパワーがないと、精神的なエネルギーを「モノ」に落とし込むことが難しいのです。

私はこの数ヶ月、ずっとその訓練をしていたように思います。
土をいじったり植物の世話をしたり、料理を作ったり家事をしたり、何気ない暮らしの中で「モノを操る」という力を強化していました。
絵を描くのに紙と鉛筆を使うようになったのもそうで、このアナログの感覚をデジタル描画に落とし込むことで、PCの波動を操ることができるようになったのだと思います。

これさえできるようになれば、後は私のターンです。
ただ、これまで同様にやれはしないのもわかっています。以前に増して、神様からの期待がかかるようになってきたのを感じるからです。

「才能」とは、確かに神様からお借りしているものだと思います。
人間の魂も神の「分身霊」であり、それも預かり物であるとは思うのですが、精神的なエネルギーも元は神様から与えられているものです。

「愛」や「慈悲」は、その精神的エネルギーの中で最も波長が高く、それゆえ神の本質に近いエネルギーであります。
人間は、神様から流れてくるエネルギーを使って人を助け、自分自身も成長し幸せになります。

「才能」も全く同じで、ただ才能とはセンスだけではなく、知識と技術と飽くなき探究心がセットでなければモノになりません。
「何となくできる」というだけでは、どこかで疎かにしてしまったり、行き詰まりやすいものです。
その意味において、実践と訓練と習得が噛み合って才能は育まれていきます。
その力は神様から授かるだけではなく、自分の力で発展させ応用させていかなければ、何をしても絵に描いた餅になりかねません。

その才能は、私は一人一つではないと思います。
センスは個性に宿るものであって、要は活かし方次第です。
興味があって深く学んだこと、好きでやってるうちに得意になることも才能になり得るわけで、興味と習熟が噛み合えば活かせる分野は無限にあるからです。

これまで、その才能は人間社会でうまく発揮すれば、お金になり自らの成功と豊かさとなり、才能も自分本位に使うこともできました。
これまでの人の世は才能を使わずとも金銭的には豊かになれましたし、自分本位で才能を使い経済的に豊かになれば、「才能」としては十分な機能を果たせました。
しかしこれからの時代、「才能」の使い方を神様がお決めになられるとしたら、昔のように自分のためだけに才能を発揮することは許されないかもしれません。

特に、神様からお役目を頂くような人々は、まず第一に自身に与えられた才能の目的を見定めなくてはならないでしょう。
人間の精神的なエネルギーが神から与えられているとしたら、それは神様からお借りしているものです。
神様からお借りしているものを、自分の目的にだけ使うのは許されるのでしょうか。少なくとも、自分の欲望を満たし、あるいは金銭的に満たされるために使うような方法です。

神様がその力を人間に授けるのは、自分が生き抜くためだけではなく、人の役に立ち神のお役目を果たすためです。
従って、授かった力は他者や神様のためにも使うべきですし、その使い道はむしろ奨励されるでしょう。
そして、神様から期待をかけられている人ほど、その力を世のため人のため、神様のために使うと信頼されているからこそ、強い導きが与えられているのだと思います。

私は、土の時代の生き方のように、人気取りや収益のために才能を使うことをやめようと思います。
神様から授けられている才能は、これまでの知識や人との出会い、技術の向上を後押ししてくれたあらゆる経験から培われたものだからです。
その背後に神様のお導きがあるからこそ、私は絵を生業にしていけるわけですし、漫画も文筆もイベントも色々と展開していく能力があります。

少なくとも私は、どの時点からとは言わず、生まれてからずっと神様からお導きを受けてきたという実感があります。
だから、自分勝手に自分の能力を使う気にはどうしてもなれないのです。

先日、私は足首を軽く骨折しましたが、歩けなくなってわかったことがあります。
天気の良い日に、杖をつきながらトボトボと歩いている時、強い風が吹いて飛ばされそうになりました。
空は急に曇り始め、いつ雨が降ってもおかしくない天候になりました。
ここでにわか雨にでもなればびしょ濡れになるのは避けられませんが、ろくに歩けないので逃げようがありません。

この時、私が気づいたのは、雨が降ってきた時に走り回れる足があるからどこかに駆け込もうとか、焦ることができます。
しかし足が悪くてそれができなければ、無抵抗に雨に打たれるだけです。
焦るのは動き回れるからであり、動けなければありのままを受け入れるしかなく、むしろ心は平穏なのではないかと思いました。

つまり、起こりうる事象に対して抵抗したり、代替を試みるから雨風も困難に見えるのであって、抵抗せず自然に任せれば雨風に打たれても、冷静に目的地へ歩み進むことができるのです。
これは不自由なことに見えて、実は自由であったがゆえに障害となっていたことを意味します。
あえて行動しないことは不自由に見えて、成すべきことが明確であるがゆえに揺らがず、「行動しなければならない」という事柄からは相対的に「自由」なのです。

だからこそ、私は自身の才能の使い方について、完璧に「神に委ねる」ことにしました。
自由に自分の才能を発揮しようと思うからこそ、神様や人様の願いを聞くことが難しくなります。
私はやってもやらなくてもどちらでも良く、誰かが求めるから自分の能力が何らかの役に立ち、それが結果的に「才能」として認められるのです。

先に「才能」があり、才能を使うためにあらゆる事象が必要なのではありません。事象があるから才能が必要になるのです。
この考え方は、これからの局面を乗り越える上での指針となり得ます。
それが災害であっても食糧難であっても、邪気や世の風潮に対してもそうです。
抵抗し代替しようとするから、受け入れ難くなり解決が困難になることもあるのです。

私が何かを思いついて作品にする時、このブログもそうですが、その着想は神様から降ろされるものです。
それは私が考えて書いたように見えますが、私は形にしただけで神様のアイデアとエネルギーをお借りしたにすぎません。
その作品をどうするのかの権利は、神様にあります。
私は、神様のお考えで受け取るものが決まるだけです。

これと同じことを人間相手にやっても、あまりうまくいかないかもしれません。
これまで、人のためにやったつもりでも思うような反応を得られない時、神様の介在が頭にはありませんでした。
神様から与えられた才能やエネルギーを使う以上、全て自分がコントロールできていると思うこと自体、傲慢だったのかもしれません。

私は、自分が思っているよりずっと前から神様の呼びかけがあったのだと思います。
神様の声に、無意識に聞いたり拒否したりした自分がいたから、これまで上手く行くことと上手く行かないことの違いがわからなかったのです。
その反省や後悔もあり、あくまで神様に対して忠実であろうと心に決めました。

川にある岩は、水に抗うから削られていきます。
その岩も水に晒されるうちに丸くなり、小さくなってどこかへ行きます。
人間の一生も、似たようなものかもしれません。

私は決めました。全てを神様にお任せします。
私は雲のように水のように、あるがまま流れて生きていきます。

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努力を嘲笑う者

楽太郎です。

最近はだいぶ、人の世について関心を失っていました。
変わる気のない人があまりに多すぎるように見え、何を言っても何をやっても意味がないように感じていたからです。

相変わらず自分以外のものに原因を探し出し、その悪を叩き潰せさえすれば、世の中はオセロがひっくり返るように良くなると信じているように思えます。
しかし、この街中のどんよりとした不況感、人々の苛立ちや暗すぎる反応、何をどうしたらこの人々がやる気を取り戻せるのか、私には何一つ見えてくるものがないのです。
今まさに世が破滅に向かおうとする中で、世の中が劇的に良くなる兆しはどこにあるのでしょうか。

私は以前、SNSで言論的な活動を行い、世を変えようと努力していた時がありました。
その時に相手にしていた論敵は、本当に手段を選ばず、人を貶めることに対して抵抗感のない人たちばかりでした。
私はもはや一般人を相手にしているのではなく、反社の組織か外国の政府と戦っているのではないか、とまで感じていました。

その頃を思い出して、彼らを今更どうしようとか、どうなって欲しいと思うことはありません。
私の意識はもう違う次元にあり、おそらくもう関わり合う必要のない人たちだからです。

彼らは、とかく嫉妬深かったのが印象的です。
自分の生まれや育ちが悪いとか、社会が悪いとか国が悪いとか、自分以外のものに不幸の原因を定め、そのルサンチマンを原動力にして世の中を変えようとする人たちでした。
自分が何一つ曲げることなく可能な限り楽をして結果を得られる、そうなる世の中こそが理想であり、その理想が叶わない社会が悪なのだと思い込んでいるようでした。

だからこそ、きちんと努力をして結果を出している人たちに対する風当たりは異常でした。
肩書きのある、顔も名前も出している人々に対する誹謗中傷は止まるところを知らず、犯罪紛いでは済まされず、実際に犯罪行為に走った人もいました。

なぜそれほど彼らが怒るのか、私には理解できませんでした。

「怒り」という感情だけで、自分の命まで投げ出して目的を果たしてしまいかねない、そんな危うさを彼らから感じていました。
私自身も身の危険を感じましたし、実際に入院するところまで追い込まれた人も知っています。
時には彼らが人間ではないのではないかと、それほどの破壊衝動に恐怖を感じました。

彼らは「怒り」と「嫉妬」という感情が共鳴した瞬間、恐ろしいほどの団結力と連携性で立ち向かってくるので、とても正論では歯が立ちませんでした。
正論どころか、こちらのロジックは元より言葉尻すら捻じ曲げてくるので、まともに議論することができませんでした。
仮に論破に成功しても、彼らの原動力は感情なのでまた違う切り口で挑んで来るのです。

「SNSでの議論」などの表現ではとても生温い、地獄のような誹謗中傷の嵐の中で、何とか自分の意見を広めようと努力しましたが、所詮はSNSというエコーチェンバーの中の話で、外の世界では全く異なる脅威が広がっていました。

その全てを具に見た時、この国が本当にどうしようもない状況に置かれていることに気づきました。
SNSから撤退するのも「逃げた」と嘲笑われるのは承知でしたが、それ以上にこの国がもう持たないことを知り、それを何とかしなければならないと悟りました。

もはや、この国に蔓延る邪悪は日本人が知りうるよりずっと深く、一度沈まねばならない状況に置かれることを確信しました。
そして、私はこの状態の日本を救えるのは神仏だけであると悟り、もし日本が一度沈み切った後に望みがあるのならば、そこから新しい国を作って行くしかないと決意したのです。

なぜ、あれほど怒りに満ちた人々がこの国に生まれてしまったのか、様々な理由を考えましたが、彼らが同じ日本の一般人であることを前提に語ろうと思います。

彼らの特徴と言える「嫉妬深さ」の根源には、「自分らしく生きられなかった」という怒りが潜んでいるように思えました。
確かにバブル崩壊後に大量に発生した就職氷河期の世代、いわゆるロスジェネは卒業しても定職に就けないという厳しい世相にあり、中途採用では優良企業に就職し難く、アルバイトなどを転々としてきた人が多かったのも事実です。
実際、私がSNSで相手にしていたのは、この世代と一つ下の「ゆとり世代」と言われた人々でした。

彼らがどんな生き方をしてきたのかは想像できませんが、その嫉妬深さの裏には「勝ち組・負け組」という価値観に翻弄され、社会的に勝ち組ではないとしても、自己実現をして成功している人々に対する怒りが主体となっているように感じました。
彼らも、おそらく「勝ち組」になるためにやりたくもない競争に駆り出され、必死に努力しながら小手先で品評され、野に投げ出された人も多かったのではないでしょうか。

私も近い経験をしていたので、よくわかります。
私は精神病を15年患い、一度は障害者として暮らしていたこともあります。
挙げ句には病院にも見放されたり、精神障害を持つがゆえに低賃金で働かざるを得ず、地獄の地面を這いずり回るような経験もしました。

だから、彼らの嫉妬心は自身の半生に対する悲しみから湧き上がってくるものであり、自分に対してこれ以上責められない苦しみから、怒りを世間に転嫁せざるを得なかったのだろうと思います。
私は、彼らの気持ちが何となくわかってしまうからこそ、「あなたたちも努力すれば良かったでしょう」とは一概に言えないのです。

現に、私自身がこれまで絵を3万時間は描いてきて、知識や技術がいくらあろうと今の社会ではやって行けなくなったわけです。
とは言え、全てを世の中のせいにすることもできたのですが、私は諦めの悪い性格が災いして、世の中を変えてでも生き残ってやるという気持ちでやってきました。

彼らを一概には責められないとは思いながらも、感情を向ける方向が間違っていると言わざるを得ません。
その感情で人の足を引っ張り、他人を自分と同じ立場に落とし込んだところで自分は1ミリも這い上がれていないどころか、全く救われてはいないからです。

私は彼らを観察していて感じるのは、彼らが最も嫉妬する理由は「成功できなかった」からではなく、「本当にやりたいことが見つからなかった」「本気で努力に値する何かを見つけられなかった」ことの悲しみがあるのではないか、と思います。

努力を嘲笑う人は、努力を「無駄な工程」であると感じるようです。
ある目的があり、その目的を達成するためには積み重ねが必要なのは当然です。そのプロセスは練習であったり、反復行為を何度も繰り返し、次第に精度を上げていくための習慣づけであり、彼らはそれを「努力」だと信じ込んでいます。

ただ、「努力=苦行」ではありません。
毎日練習したり勉強するのが苦痛なのは、目的が見えていないからです。
達成目標が予めあり、その実現の喜びが見えているのなら、その間のプロセスは必ずしも苦しいだけのものではありません。

私たちは学校でやりたくない宿題を預けられ、行きたくもない塾に行かされ、やりたくない授業を受け、「やりたくないことをするのが勉強」だと思い込まされてきました。
それは「苦しいことをするのが努力」という価値観に転嫁し、勉強も努力もなるべくしたくない、という感情に変わっていきました。

しかし世でうまくいくには勉強も努力も実際は必要で、けれども成功者は自分が死ぬほど努力してきたとは言いたがらないものです。
ましてや、「生まれつき能力があったから」と言えば、箔がつき特別視されるでしょう。
その言説が「努力をしたくない」という感情と混ざり合い、「努力せず成功する人がカッコいい」という風潮を生み出してしまいました。

こうして、「社会で成功するべき」と「努力はダサい」という二つの考えが共存することで、勉強や努力を嫌いながら結果を求めるという思考が完成したのだと思います。

けれども、ここでの最大の誤りは「努力は辛くない」ということです。
例えば、ゲームの攻略に行き詰まりネットで攻略法を探し、そのために試行錯誤することが「苦痛」かと言うと、やりたくなかったら苦だし、やりたかったら楽しいはずです。

この心理的な差は、外部の条件がどうではなく自分の主観的なあり方次第です。

確かに、気の向かない日でも習慣だから、ノルマがあるから今日もやらなければならない、というのはあります。
しかし、そこで諦めて気が楽になるようなら、そもそもやりたいと思っていないのです。
やった先に目標があるからこそ、一度や二度くらい休んでも、やりがいを得るために再度取り掛かることができるからです。

努力を嘲笑う人は、努力という苦行だけが目的到達の手段であったり、小手先の方法で目的を達成するかの二択でしか成功のビジョンを描けないのです。
ただし、「努力」というプロセスが必ずしも苦痛を伴うものでない以上、毎日のルーティンに組み込まれた訓練が成功にとっての正攻法であるのは変わりがありません。

従って、目的も曖昧で手段も避けている以上、何かを成し遂げることができるはずはないのです。
そのことに無自覚だからこそ、きちんと手順を踏んで実力を身につけ、よしんば成功した人を妬む道理は存在しません。

もしかすると、自分にも確固とした目的があり、色々なものを犠牲にして努力したけれど、その成果が社会に握り潰されてしまった、という人もおられるかもしれません。

では私の話をするならば、私が絵を本格的に描き始めたのは35歳の時です。

20代で精神病にかかり、以来数年間、何一つ手がつけられなかった時期を経て、ある時に病院の廊下でスケッチを始めました。
そこから絵を学びプロになり、これまで3万時間を絵に捧げて来ました。
それでも食えない現実はあります。しかし私は1ミリも諦めてはいません。

本当に魂から目的を感じるならば、どんな障害があろうと目的は達成したくなるものなのです。
それが、自分のことを見つめることから逃げ、曖昧に生きようとするから何をしたら良いのかわからなくなるのです。

いくら他人を恨み、世を呪ったところで自分のことは理解できず、目的もないから何も達成することができず、ゆえに幸せになることができません。
今更それに気づけとは言いませんが、努力を嘲笑う者は努力を嘲笑うからこそ真の成功には至れないことを胸に刻むべきだと思います。

人間は一度きり、この世に生まれて来ます。
人生で取り返しがつかないことはほとんどです。しかし、やり直しはいつでも何度でもできるのです。
そこに気づこうとせず、自分の人生を投げ出したままであれば、どうにもならないのは自分の意志です。

それは他人のせいではなく、世の中のせいでもないのです。
人生の責任を転嫁している以上は、自分も世の中も変えることはできません。

今回は、私の人間的な部分がモロに出てしまう記事になってしまいました。
あまり書きたい内容ではなかったのですが、書かなければいけない状況だったので仕方ありません。

最後まで読まれた方にとって、得にはならない話だったかもしれません。
お恥ずかしい限りです。お目汚し失礼しました。

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歴史から学ぶ

楽太郎です。

先日、「禍事」に関する記事を書きました。
今、日本に大量に外国人が移住している事態を眺めていることしかできず、米は値上がりを続け、その原因も特定されてるのに手の打ちようがないこと、物価は上がり不況は進むのになす術がないこと。
それは嘆いているだけでな何ともならず、さりとて犯人を探しても意味はなく、真の解決はこの状況を真っ直ぐ見つめ、そこから学び行動を起こしていくことにこそあると思います。

禍事とは、本来の仕組みが「曲がる」から起こることです。
真っ直ぐだったものが曲がるのは、曲がるのを悪が助けるから起こり、ただ悪がやらなくても自然に曲がってしまうものだと思います。
悪はその気づきを与える役目を担っているだけであり、実は悪そのものはこの世に必要な働きなのです。

人間は生きていれば生き物を殺し糧を得て、誰かに多少迷惑もかけながら生きています。
その過程で「罪穢れ」は自然と負うものであり、それを拒否して生きることはできません。
どの道人間は、汚れなくては生きていけないものだからです。

だからこそ、私たちは生きているだけで物事を自然に曲げていってしまいます。
自分が真っ直ぐだと思うことも、曲がっていることを気づかせるには外からの注意が必要で、その役目を「悪」と呼びます。
ずっと真っ直ぐであり続けることが不可能である以上、私たち自身の中にも悪が潜み、その悪によってこの世界の歪みに気づくのです。

それこそが一つになって善悪であり、どちらか一方では成立せず、その全てを一つとして認識するからこそ善のあり方も悪のあり方も理解できるのではないでしょうか。
そして、起こる禍事から罪穢れを祓い清める、その浄化は善悪すら洗い流し、本来の純粋なあるべき姿に戻していくことが重要なのだと思います。

その作業を助けてくださるのが神様であり、神様と共に世の中を祓い清めていくことが「神道」です。
今、日本人に必要なのは政党政治に首を突っ込むことでも悪人を探し出して叩き潰すことでもなく、神様の声に耳を傾けることなのではないでしょうか。

「今の日本はおかしい」と、誰もが感じます。

しかし、本当に日本がおかしくなったのは最近でしょうか?
コロナの流行が、と言いますがそれ以前は正常だったのでしょうか?

私たちが知らずのうちにやっていた習慣や、信じてやっていた行動が積み重なって今の現状を作り出しているとしたら?

よく考えてみたいと思います。

今の日本が外国人頼りになったのは、日本人が少子化によって経済が縮小していったからです。
なぜ少子化になったかと言えば、バブル崩壊の皺寄せが現在の中年以下の世代に集中したからです。
戦後、団塊の世代が作り上げた経済至上主義は、この国に物質的な豊かさをもたらした一方、肥大した金融市場のマネーゲームによってバブル崩壊を引き起こしました。

日本がそうして拝金主義の国家となったのは、第二次世界大戦によって国全体が焦土となり、復興するためには「モノづくり」を始めなければならなかったからです。
そして経済成長によって日本は豊かさを取り戻す一方、実態の伴わない金融市場を肥大化させてしまったのです。

日本全土を焼き尽くした第二次世界大戦が起きたのは、世界恐慌や政府内の派閥争いに端を発する社会不安からです。
昭和ならず明治時代から日本があらゆる対外戦争に突入したのは、国家の拡張政策と西欧列強に対する挑戦がありました。
なぜ日本が西欧化し始めたかを思い起こせば、諸外国の脅威があったのも事実ですが、江戸幕府が財政と政治で腐敗しきっていたからこそ時代を変える必要があったのです。

その江戸幕府はたびたび政策や経済の不完全さで飢饉や社会不安を引き起こしながらも約300年間、国家の安寧をもたらしました。
その江戸幕府が誕生したのは、長らく戦乱の時代が続いたからです。
日本に戦国時代が訪れたのは、天皇と幕府を中心とした政治的闘争、そして各国大名の縄張り争いです。

なぜそういった戦乱が起きたかと言えば、国土には農地があり、そこに暮らす農民が働くことで税を国に納め、税が国の力となったからです。
富の所有が権力に変換されると、その力を奪うことが富の拡大に繋がります。
領地の拡大は富の拡大であり、力の拡大を意味します。

田畑の耕作は、日本人の生命を長い間繋いできました。しかし農地の所有は富と比例し、その収穫量が権力となっていきました。
古代に各地方を支配した豪族は、その権力で人々をまとめ守る一方、領地を巡ってたびたび各地に争いを引き起こしました。

その元となった田畑は、日本人がこの国土で安定した暮らしをするために、定住し耕作を続けることで豊かさをもたらしてきました。
日本人の祖先がこの国土で稲作を始めたのは、縄文時代から続く自然に翻弄される生き方ではなく、安定して暮らせる環境に変わっていったからです。

こうして「政治」と日本人のあり方を辿っていけば、「富と所有」が全ての争いの根本にあることに気づきます。
しかし、その富も人々が風見鶏のように自然に翻弄される生活を改め、定住し生活環境を整えていく過程で蓄積されたものであり、富があるから不安定な時代も生きていくことができました。

その中で権力者は、各地方や集落を取りまとめ、治安を司り対外交渉を担う責任者でもあり、社会にとっては必要な存在です。
領地の拡大を志すのも一概に権力欲や富への執着とも言い切れず、暴君なだけでは成立しなかったはずです。

この一連の流れを見て、はっきり「どこが悪かった」と言えるでしょうか?

確かに、明治維新から日本人が西欧的価値観に染まり始め、徐々に日本人らしさを失っていったのもあるでしょう。
しかし外国勢力の脅威があったのも事実であり、弱体化した幕府に日本は守れなかったであろうことも事実です。

それでは、弥生時代に日本人の祖先が稲作を始めなければ良かったのかと言うと、日本人が定住することで繁栄の礎とし、縄文時代のように自然に左右される時代では子孫も繁栄しなかったでしょう。
ただ不安定な生活であったとしても、縄文時代が1万6000年は続いたのも事実です。

稲作が始まって3000年足らずの日本で、ここまで争いや混乱が絶えない歴史が続いてきました。
しかし、その何倍もの悠久の時を「縄文時代」は刻んできたのです。
私たちは、何か大事なものを見落としてはいないでしょうか?

青森県の三内丸山遺跡からは、新潟県の糸魚川から採取された翡翠が出土しています。
他にも土器や装飾品は、中国の遼河文明の影響も見られるそうです。
ロシアのウラジオストクからは、出雲産の黒曜石が発掘されており、縄文時代には日本海沿岸が全て交易路だった可能性が高いのです。

その時代に通貨はおろか、文字も存在しなかったでしょう。
ではどうやってこれだけの流通が可能であったかと言うと、お互いに等価交換を行ってきたからです。

つまり、物々交換をする取引が行われ、そのレートは互いの必要度合いに応じて決まったでしょう。
その交換をより客観的に、公平なルールにするために持ち込んだ概念が「通貨」でした。
通貨、即ちお金はそれ自体は手段に過ぎず、主体は等価交換であって、要は欲しいものが手に入れば通貨は必要なプロセスではなかったはずです。

しかしいつしか「お金」という仕組みが一人歩きして、「富」と結びつくことで「力」となり、人々が資本や富裕層の権力によって使役されるようになりました。
私たちが本当に顧みなければならないのは、「お金」という手段に過ぎないものを目的化し、そのために自身の幸福や国家の安寧を犠牲にしてきたことではないでしょうか?

だからこそ、「犯人探し」なんてのは意味がないのです。

陰謀論的に、特定の少数集団が国家を裏で操り、金融と政治と戦争を牛耳って今の世界を作り出したことが事実だとしても、それを打倒するのが完全な解決ではないはずです。
少なくとも、「お金」というプロセスに人生の選択を委ねない、という決断は自分自身でできることです。
その主体性において、巨大権力に支配された「お金」もまた手段にしか過ぎないのです。

人間が「資本」に執着し始めたのも、近い将来に備えての「蓄え」が即ち「富」となり、その豊かさを持った人は安寧を得て幸福を得られたからです。
蓄えも富も、人間が「所有」を志すのは、生きる上で本質的な権利であり、誰も咎めることができないものです。
しかし、過剰に信仰される「資本」の背後には、あらゆる欲望を実現する「お金」の万能さに心奪われた人々が、その機能のために全てを目的化した結果、世界を「お金」と「暴力」の世界にしてしまったのです。

ただお金はやはり手段に過ぎず、目的があれば手段は選ぶことができるものです。
これまでの社会に起こった問題は、「お金」という概念を巡って引き起こされた問題であり、その認識が正しくなかったことにあります。
つまり、全ては私たち一人ひとりの思想であり価値観であり、生き方の問題だったのです。
それを無視して、世に原因を探して諸悪の根源を見つけ、叩き潰そうとしたところで何も変わらなかったのは当然と言えるのではないでしょうか。

私たちが今、安寧を取り戻し、この国に本来の「日本」を取り戻すには、まず行動よりも先に「お金」以外に目的を定め、自分の生き方を変えていくことなのだと思います。

人間は、世の中や環境が変われば自分も変われると錯覚しがちです。
しかし、自分が変わろうとしなければ環境や時代の変化は煩わしいだけであり、自分の意志が伴わなければ変化も受け入れられません。
ゆえに、私たちがまず最初に見直さなければならないのは「自分自身」です。

まずそこから始めなければ、何も変えることはできないでしょう。
日本を良くする前に自分が変わるところから始めなければ、日本を良くすることはできません。

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なぜ「禍事」が起こるか

楽太郎です。

そろそろ世も煮詰まりきった感はありますが、まだまだこれまで通りのやり方を貫く人々も多いようです。
私は私のやるべきことをやり生きる術を得て、世に貢献していこうという気持ちしかありません。
ゆえに、世の中がどうなっても私のやることは変わりませんし、今更世の人々にどうなって欲しいということもありません。

以前は、悪辣なやり方があまりに横行し、それに気づかず助長する人々、力に怯えて黙認する人々、その無抵抗を良いことに好き勝手する人々、そう言った世の風潮に対して抵抗してきました。
しかし恐ろしいほど共感する人は少なく、どの言葉も足元を掬われて貶されるしかありませんでした。

正義感から来る絶望は、人間社会に対する失望となり、この状況を人間が変えるつもりもないことを理解してしまいました。
だからこそ、この混沌を正常心で生き抜くために、私はスピリチュアルな世界を信じ、神仏にすがる道を選択しました。

「神様なら、この狂った世界を救ってくださる」と信じてここまでやってきました。

私の生業としていたクリエイティブの分野は、コンテンツの過剰な商業化と生成AIの普及によって完全に息ができる状態ではなくなってしまいました。
何十年もキャリアを積んだプロの作品より、廉価で大量生産されるAI生成物の方を、消費者は受け入れるようになってしまったからです。

この風潮に絶望しながら抗い、半ば意地になりながら創作を続けてきました。
しかし、手を止めて少し冷静に考えると、AIが人間の技術や才能を代替し始め、それを受け入れる人が増えたことにも何か意味があるのではないか、と思うようになりました。

自分にとって「最悪」だと思う状況が、わざと最悪の状況に導かれるプロセスが働いているとしたら、最悪な状況にこそ意味があるのかもしれません。

「禍事」が起こるのは、禍事によって世に修正が図られる一つの段階にしか過ぎません。
つまり、「禍事」という迷惑な事象が起きるからこそ、そこから学び解決しようと頭を巡らせ、それを乗り越えた世界によって浄化されるのです。

「禍」という漢字は、古代において卜骨によって占う時、厄災が神の意志で起こることを示しています。
そこにおいては、占卜の結果は人の意思ではどうにもならず、ゆえに神によって引き起こされるものだとされました。

この漢字に「マガ」という言葉を日本人が当てたのは、骨同士の繋がる関節が「曲がる」からです。
世の道理が曲がったことで禍事が起こるとすれば、それは神の意志であり人間は耐えることしかできません。
しかし、「曲げた」のは人間がどこかで曲げる力を加えたからであり、全てが究極的には神の意志であるとしても、人間が自分の手で曲げたことには変わりないのです。

この世界が狂うことで、悪夢のような「禍事」が起こるのは、単に災厄が降りかかっているわけではなく、その原因をどこかで私たちが作り出したからです。
その原因を他人のせいにしたいのが人間ですが、落ち着いて胸に手を当てたら、自分にもその原因に心当たりはないでしょうか。

私は長い間、仕事として創作を続けてきましたが、その土壌には「拝金主義」がありました。
作家は社会的に成功するために、人気を取り注目される方法を模索し、人々の評価や顔色を常に意識してきました。
そうして評価されなければ「意味がない」と割り切り、人の流れる方向に合わせることで成功を手にしようとしてきました。

しかし本来、創作とは自己実現でもあり、それ以上に内的表現と共感のために存在するものだったはずです。
それが他者評価として数字や収益に可視化された時、創作は商業的手段としての意味合いを強めてしまいました。

そうして「精神的表現」と「商業的価値」を分離させた結果、商業化しきった文化は最終的に人間の手を離れ、「AIがあれば人間はいらない」という感覚までもたらすようになってしまいました。
その流れに、私自身が加担してこなかったと言えるのか?
今、自分自身の胸に手を当てて考えています。

今の現実が私の目から「悪に支配された世界」に見えたとしても、その現象が自分に気づきを与えるために引き起こされたものだとしたら?

「禍事」が神の業であろうと人間の過ちであろうと、その出来事と向き合い学ぶことこそが禍事の真の意味であり、その解決に尽力することが禍事を消し去り、世をより良きものにする働きに変えることができます。
「禍事」は決して悪ではなく、悪を知らせるためのシグナルであり、実際に悪は存在せず、曲がったり真っ直ぐになるだけの過程の一部に過ぎないのかもしれません。

あらゆる災厄も悪事も、それ自体が人間からは邪悪で誤謬に満ちたものに見えたとしても、その間違いも一つの正しさであり、間違いを知り学び修正する一連の克服にこそ、本当の「正しさ」があるのではないでしょうか。

だから、「世の中は狂っている」「もうこの世はおしまいだ」と言っているうちは、この現象の一つの側面しか見ていないことになります。
その狂いも間違いも、正しさへ導くための一つの過程なのだとしたら、逃げずに受け止めるべきなのです。

この世界の醜さを憎み、「根こそぎ悪を葬りたい」と思う気持ちもわかります。
しかし、自らの一方的な正義で悪を殲滅させたところで、その行いに後悔や反省はあっても、学びや克服は存在しないでしょう。

悪は「悪」というこの世の摂理において正しい行いをし、正しさとはその断罪ではなく悪からの学びと修正にこそあるのだと思います。
悪はその破滅的なあり方ゆえに、永く存続し続けることが不可能です。
搾取と抑圧を繰り返すことで、不満や反感は募る一方、搾り取れるものはいずれ枯渇するからです。

その自滅も摂理のうちとは言え、その役割を終わらせるには「学びを終えた人々」の働きがなくてはならないのです。
そして、もう二度と同じ過ちを繰り返さないために、教訓を残していくこともまた学びの意味でもあるのでしょう。

だから、この世の中の醜悪さに目鯨を立て、一つ一つに反感を覚えていくことを、私はやめました。
世の中が悪いのは私にも原因があり、その罪滅ぼしはこの困難から学び、より良い世にしていくことです。

ただ、世の中は「正義側の悪」と「悪側の正義」の間で、共喰いに近い凄惨さを見せていくことでしょう。
私たちがするべきなのはその争いを止めることではなく、学び乗り越えていくことです。

罪を憎んで人を憎まずとは言いますが、罪も憎まず人も憎まないのが、徳の高い正義というものだと思います。

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神統試論【ニ】邪馬台国論・後編


楽太郎です。

前回、「神統試論・一」において日本列島回転説に基づき、邪馬台国畿内説について語りました。
3世紀に西晋で書かれた魏志倭人伝を元に、古代の発音と当時の地政学から割り出した地名から「邪馬台国」の位置を推察しました。
そこでは「邪馬国」と「邪馬台国」は相関関係が曖昧ながらも、奈良盆地周辺から京都、近江付近にあった集落、そして「邪馬台国」が伊勢遺跡であった可能性について論じました。

記事をまとめるために全体的に駆け足にならざるを得なかったのですが、厳密な検討は「試論」では省略せざるを得ないと思います。
従って結論だけを書いていくことになりますので、ご容赦頂きたいです。

さて今回は、「上代日本語」の発音から魏志倭人伝を紐解いていこうと思います。
魏志倭人伝は倭人の発音を当時の中国語話者が聞き取り、漢字に変換した言葉が使われています。
弥生時代後期の日本語は日琉祖語と呼ばれ、現在の日本語とはかなり発音が異なったとされています。

当時の発音から邪馬台国の女王「卑弥呼」に当てはめると、「ヒミホ」に近いとされています。

「卑弥呼」の読み

かなり古いサイトなので一応引用しておくと、上古音のリストから「卑弥呼」の発音を読み解くとこうなるそうです。

pieg pie pi ...pəi ヒ甲
mier mie mi mi ミ甲
hag ho hu hu ホ、でしょう
上古音なら、pieg mier hag
中古音なら、pie mie ho

この記事では、「ヒミホ」に比定できる人物を「記紀」に求めた時、「御穂津姫命」に当たるのではないか、という考察がありますが興味深いです。
これまで「日巫女」と解釈されてきた卑弥呼の名は、「ヒミホ」を漢字に当てた場合に意味合いとしては成立しなくなります。
仮に「日彌穂」と当て字される時、どことなく九州系の官名に近い名になる気がします。
私は個人的に「比売穂」だと思っているのですが、それを述べるのは後日にしたいと思います。

魏志倭人伝を「上古日本語」から読み解くと、五万個の集落とされた「投馬国」は、「おどま」という発音だった可能性があるとされています。
前回、投馬国を「出雲」に比定しましたが、「おどま」と「いずも」の発言としての近似性も一考に値します。
さて、魏志倭人伝の中で「邪馬台国」とする記述に以下の文があります。

「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸」

つまり邪馬台国には「伊支馬」「彌馬升」「彌馬獲支」「奴佳鞮」の四人の官がいるとされます。
この「次」というのが序列なのか、代替りを意味しているのかは不明ですが、歴代天皇の和風諡号と対比できるという説があります。

「伊支馬」を「いきま」と呼ぶならば、第十一代垂仁天皇の和風諡号は「活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)」であり、「いきま」とは発音が被る部分があります。

卑弥呼のいた2世紀後半は、天皇制ではなく「ヒメヒコ制」と呼ばれる女性祭祀長と男性大王を二柱とした政治体制であったと思われます。
卑弥呼に夫はなく、弟が女王を支えていたとされており、「伊支馬」という官が男性大王を指し、その名が垂仁天皇の和風諡号に残された可能性もあります。

では「彌馬升」ですが、「彌馬升(みます)は第十代崇神天皇の和風諡号が「御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)」であり、「みます」と近い発音が見られます。

「彌馬獲支」の「獲」をどう読むかと言えば、埼玉県の古墳から出土した稲荷山鉄剣銘文に「獲加多支鹵(わかたける)大王」とあり、「獲」は「わ」と呼ぶことがわかっています。
従って「みまわき」と読めるのですが、この「わき」を「ワケ」と変換すれば、第十二代景行天皇の和風諡号が「オシロワケ(大足彦忍代別)」、第十五代応神天皇が「ホムダワケ(誉田別、凡牟都和希)」のように、「ワキ(ワケ)」という名が「姓」であったか、その元になった可能性があります。

最後に「奴佳鞮(なかた)」ですが、近い発音に「額田(ぬかた)」があり、飛鳥時代の天武天皇の妃だった「額田王」を連想させます。
額田王は皇族の女性とされ、「采女・巫女」だったのではという説もあります。
「額田」姓に近い姓には朝廷の祭祀を取り仕切った「中臣氏」があり、「奴佳鞮」も祭祀関係の重要人物だった可能性があります。

これらの官は、王ではあるかもしれないが、「女王」ではないという点が特筆すべきだと思います。
「彌馬升」が第十代崇神天皇、「伊支馬」が第十一代垂仁天皇、また「彌馬獲支」「奴佳鞮」の四人が女王卑弥呼に仕えていたとすれば、天皇家の系図にも関係するかもしれません。

「ヒメヒコ制」における「比売(姫)」は、祭祀を司る巫女であったと言います。
古くは縄文時代以前の男女分業制に端を発し、男性が主に狩猟採集、女性が家事や子育てを担当し、それぞれの集団が男性長、女性長を立てたことに由来するとされます。
後に男性長が政治を担当し、女性長が占術や祭祀を執り行ったという説があります。

ヒメヒコ制における巫女は叔母から姪に役割が継承されたとされ、なぜ巫女が婚姻関係を結び子女を継がせるシステムではなかったのかが重要です。
男性長と女性長が夫婦となり子息が生まれれば、どうしても両者の子息が権威を持ってしまいます。
従ってヒメヒコ制においてヒメとヒコは兄弟、あるいは近親者であるケースが多く、ヒメが結婚して子を儲けたとしても、その子もまたヒメヒコ制において分業的政治権を有したはずです。
また巫女は呪術的才能が必要だったこともあり、その兼ね合いもあって独身であることを尊ばれたのかもしれません。

従って卑弥呼に夫がいたかは図りかねますが、独身であったことは理に叶っていると言えます。
卑弥呼の死後、男性王が立ちしばらくの混乱の後に13歳の台与が女王となりますが、卑弥呼が死ぬ間際に子息がいれば後継者はすぐに見つかったはずです。
あるいは死期が予測できるとしたら、すぐにでも後継者は立てられたでしょう。
しかし年齢的に相応しいとは思えない少女が女王に選出される経緯を考えると、卑弥呼に子はいなかったか、少なくとも女性の後継者はいなかったと考えて良いと思います。

私は個人的に魏志倭人伝の人名の「伊支馬」から「市杵島姫命」、「台与」から「豊玉姫命」を連想してしまうのですが、第十一代垂仁天皇が卑弥呼だとする説も気になっており、この考察は後日進めたいと思います。

さて、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の官名も上古音で読み解くと面白いことになってきますが、邪馬台国が畿内にあったという説に基づいて話を進めます。

邪馬台国畿内説にとってネックとなるのは、文明度の低い出土品の多さです。
魏志倭人伝には、邪馬台国は「狗奴国」と戦争をしていたと書かれており、弥生時代後期にはすでに鉄が流通していたことから、戦争の最前線に最先端兵器である鉄器を使用しなくてはおかしい、という話になります。

現に、島根県の荒神谷遺跡では大量の銅剣が打ち捨てられており、鉄器はかなり流通していたと思われます。
当時は対馬を経由して宗像、出雲と通り丹後に至る鉄の日本海交易ルートが確立されていました。
しかし、奈良盆地近辺どころか、畿内の遺跡からはほとんど鉄剣や鉄鏃が発見されていません。
土器としては東海地方の系統が多く、鉄を多く所有していた九州勢力とのバランスを考えると、近畿地方は戦争をするには長閑すぎるのです。

しかし、この時期の日本にはまだ鉄の精錬技術が乏しく、朝鮮半島から鉄はインゴットで輸入され、主にその鍛造・鍛造だけを行っていました。
鉄は青銅に比べて強固ですが比較的希少なため、主に鍬や鋤などの農機具に用いられたと考えられています。
希少な鉄を使えるのは全国的に流通量の多かった北九州に顕著で、特に福岡県から熊本県にかけて鉄系武器の出土数が目立ちます。

魏志倭人伝には「倭国大乱」の件があり、佐賀県三津永田遺跡から発掘された古代の他殺遺体からは、鉄鏃が撃ち込まれた状態で発見されています。
島根県の青谷上寺地遺跡では、100名ほどのバラバラ遺体が発見され、大量虐殺の痕跡である可能性が指摘されています。
このように鑑みると、動乱の気配が強いのは北九州を起点に四国、中国地方で、近畿に至って唐古・鍵遺跡が高台に建造されている以外は特に戦乱の空気を感じません。

「倭国大乱」をベースに考えると、この戦争状態が女王卑弥呼の即位によって沈静化する以上、邪馬台国がこれらの武力を押さえつけるのは政治力で何とかなるのか、それにはやはり武力が必要であり故に当時最強だった北九州勢力こそ邪馬台国だったのでは、という話になります。

ただ、この説は「祭祀的権威で統治が完成する」というシステムを疑問視し、「鉄器を使う勢力こそが当時最強だった」という考えに基づくはずです。
では、弥生時代後期の戦争がどのような形だったのかを見ていきたいと思います。

確かに当時、青銅はどちらかと言えば祭祀に用いられ、武器として使用するには脆く、鉄剣とかち合えば忽ち折れてしまったでしょう。
ただ剣とは近接武器であり、半径2メートル以内に同じ近接武器を持った敵がいなくては役に立ちません。
戦国時代の集団戦を考えてみればわかりますが、槍や矛などリーチの長い武器で敵を抑え込めれば、刀を持った兵は近づけなかったのです。

槍や矛に付属する鏃は、突き刺したり引っ掛ける程度なら青銅でも十分な威力だったはずです。
戦国時代の槍は、ほぼ「叩く」攻撃に近かったと言われ、長竿の遠心力で簡単に敵を倒せたでしょう。

鉄剣と槍の近距離戦を前にして、遠距離から弓矢で敵を近づかせなければ接近戦は避けられます。
魏志倭人伝に「倭人は上長下短の弓を使う」とあり、実際に弥生時代から和弓の原型が見られます。
和弓は大型の弓で、長距離かつ威力の強い弓として知られていますが、どうやら当時の造弓技術では人を殺傷するにはある比較的近距離(中距離)である必要があったようです。

しかし矢に使う鏃は、鉄製なら威力も高かったかもしれませんが希少であり、使い捨てる鏃に使うには贅沢かもしれません。
仮に矢先が石でも、相手を仕留められるなら大量消費できる石鏃で構わなかったはずです。

つまり、鉄剣を持って挑んだとしても、青銅製矛、石鏃製弓矢で十分に対抗し得たのではないでしょうか。
従って、鉄器が戦況を大きく左右したのは剣を撃ち合うような乱戦においてであり、集団戦闘としては中長距離戦で決着が着くならば問題なかったはずです。
古墳時代後期においても、九州中部の熊襲が最先端の武装集団とは言えず、それでもヤマト王権の平定を手こずらせたということは、鉄器を持ってしても山野のゲリラ戦闘にはなかなか太刀打ちできなかったかもしれません。

ゆえに鉄系武器が九州、中部地方から夥しく出土するからと言って、それが即戦力差に繋がるとは言えない可能性があります。
現に、青銅器の出土量と石鏃の出土数は近畿地方においても引けを取りません。
かつて大和朝廷を悩ませた東北地方の蝦夷も、アイヌ由来のトリカブト系毒矢を使用し、朝廷側を苦戦させたと言います。

ただし、畿内では特に殺傷されたと思われる人骨の出土数が少なく、やはり戦闘で死傷した事例はあまりなかったのではと言われています。
弥生時代の古代和弓は東大寺正倉院に納められた平安時代の和弓に比べて洗練されておらず、やはり中距離戦で使用することが前提であり、必ずしも殺傷率が高かったとは言えないそうです。

この時代の集団戦闘は主に防衛戦であり、石鏃の弓矢に対して「置き楯」と呼ばれるバリケードに隠れながら矢を射出した形式の戦闘が多く、その場合は殲滅戦のようなものではなく、せいぜい怪我人を出して手打ちにする、という儀礼戦の様相であったとも考えられます。
つまり、倭国大乱では残虐極まる殺戮もあった一方、通常の集団戦闘では石矢を撃ち合うような模擬戦に近い雰囲気があったようです。

考古学的に考えて、畿内に仮定した邪馬台国が「狗奴国」と戦争をするならば、鉄器ではなく石器を利用した緩い戦闘であった可能性があります。
では、邪馬台国に敵対した「狗奴国」とはどう言った国だったのでしょうか。

魏志倭人伝には、邪馬台国の南に狗奴国があるとされています。前回の日本列島回転説で考えれば、「南」とは「東」になります。
前回、例に挙げた「日本扶桑国之図」ですが、別の古地図である「行基図」には東日本が「毛国」と書かれているものがあります。
「毛国」とはかつて上野国、下野国と言われた群馬県と長野県を跨る国だったとされます。
倭の五王の武が宋に送った上表文には、「東の毛人五十五国を征す」とあり、これは日本アルプスの東側にあった「毛野国」を指します。

ヤマトタケルが熊曾建を討ちに東国征討を行なった際、太平洋沿いの東海道を東進します。
毛国は実際、大和より東国の未知の諸国を指しており、その地は東海道が三関に繋がるまでは倭国の勢力範囲下になかったと考えられます。
実は西日本を支配する邪馬台国にとって、東海以東はほぼ未知の領域であり、また関東の文化圏に統一性があることから、この時代には西日本と東日本の勢力が東西に分断されていた可能性もあります。

それゆえ、古代では三関から東側の「まつろわぬ勢力」を一概に「毛の国」と総称していたのではないでしょうか。
この「毛」というのは、古代日本語の「外(け)」であり、「外の者たち」を指した可能性もあります。
「蝦夷」とは東北地方にいた豪族の阿弖流爲などを連想しますが、関東にいたまつろわぬ勢力もまた「蝦夷」と呼ばれていました。

栃木県日立市にある大甕神社は、甕星香香背男と建葉槌命を主祭神としています。
甕星香香背男(天津甕星)は葦原中国平定に最後まで抵抗した神として知られ、同様の話は建御雷命と建御名方命にも通じます。
そして神武東征と長脛彦との対決、ヤマトタケルが東国征討した熊襲の長の話とも類似しており、甕星香香背男が支配した地は千葉県から福島県までの範囲であったという説もあります。

神道の「大祓詞」には、以下の文があります。

「四方の国中と 大倭日高見の国を安国と定め奉りて」

この「四方の国中」は崇神天皇が北陸、東海、西道、丹波に派遣した四道将軍を連想しますが、この「日高見の国」とは大和から見て東国の蝦夷が済む全域を指したとされています。
これを鑑みるに、やはり「東のまつろわぬ国々=日高見の国」こそ、「毛の国=狗奴国」だったのではないでしょうか。

「日立」とは日の出のことで、「日高」と同意であるとされ、旧漢字の「常陸(ヒタチ)」は、「日高見道(ヒタカミミチ)」の転訛とも考えられてます。
日本書紀によれば、饒速日命が大和に辿り着いた際、この地を「虚空見日本国」と称したそうです。
かつて九州地方にあった「日向」が奈良に移ると、奈良の「日向」から「日の出る方角」の空を見ると、そこには「日高」があります。
つまりヤマト王権が東征するとしたら、最終的に常陸に向かうのは必然であるように思います。

前回、魏志倭人伝にある「不呼国」という国を「不破関」のある岐阜県不破郡周辺に比定しました。
不破関は関ヶ原町にあり、古来から西側勢力と東側勢力の決戦地とされてきました。
古代には三関を境に小競り合いが各地で起き、その緊張状態を「戦争」と表現したのかもしれません。

関ヶ原町のある不破郡には中村平野が存在します。この地域には「不破遺跡」があり、そこからは土器やガラス製品などが発掘されており、農業の痕跡も見られます。
もし軍事衝突が東海以東で置きていたとすれば、邪馬台国があったと私が比定する伊勢遺跡が非武装地帯に近いのも、畿内、奈良周辺が軍事的に穏やかなのも納得できる気がします。

東北地方の平定は平安時代の征夷大将軍、坂上田村麻呂の登場まで待たなくてはなりません。
魏志倭人伝の時代は元より、「記紀」成立の奈良時代においても日本列島は未だ、王権によって統一されてはいませんでした。

古代において日本は、細かい単位の国々か集落が幾つもあり、それぞれが分散的な自治を行なっていたと考えられます。
そこでの小競り合いは石器を中心とした半殺傷兵器で、殲滅戦を想定したものではなかったかもしれません。

古代日本の戦争形態が儀礼的・模擬的戦闘であったとしたら、平和的解決が象徴的な理由、特に祭祀による宗教的統一というのは理に叶っているように思います。
ただ卑弥呼擁立以前は、北九州を中心とした動乱があったのも事実でしょう。
それが何らかの理由で治まり、その成功事例を次代女王の台与に引き継ぎ、後の時代には東国もヤマト王権に組み込まれていきました。

この歴史的プロセスこそ、「記紀」に神話として書かれた出来事のプロトタイプだったのではないか、と考えます。
次回からは、古代日本の地政学から「記紀」の歴史を紐解いていきたいと思います。

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神様のところへ

楽太郎です。

このブログに書くつもりはなかったのですが、先日骨折をしました。
街を歩いていたところ、歩道と地面の間に深い溝があり、そこに足を取られて持っていかれました。
草が伸びていたので、一目ではわからない溝でした。

このことに関して、自分でも深刻に考えませんでしたし、無関心と言えるくらいの心境でした。
しかし骨にヒビが入ったのも事実で、膝をついたためにそこも酷い状態になりました。

ここ数日、動けないこともありずっと大人しくせざるを得なかったのですが、自分を冷静に見つめる時間にはなりました。
なぜこのタイミングで大怪我したのかも、冷静になって考えることができました。

この災難は、原因として邪気とか人災とか、色々なもののせいにはできるかもしれませんが、最終的に災難が降り掛かることを私に許されたのは神様です。
つまり全体的な意味合いがあり、その中で様々な理由があるにすぎません。
だから、何かのせいにするうちは真の意味には辿り着けないのです。

私はこの時、家族と歩いていて少し親族について良くないことを口走っていました。
こういう軽口は私の性格なんですが、その次の瞬間には溝に足を持って行かれていました。
このタイミングの良さから考えると、どう考えても「罰」としか言いようがありませんでした。

また先日、母の愚痴に合わせて父を揶揄する言葉を吐いたところ、意味もなく咽せてしばらく喋ることができなくなりました。
最近、人のことを悪く言ったり神様について悪く考える時ほど、かなりの苦痛を伴う災難に見舞われます。

これが顕著に起こるようになったのはこの数週間で、どうやら私は言動や思考に対して露骨に神様の検閲が入るようになってしまったようなのです。
だから、軽率な悪口や軽口も「罰」の対象になってしまうのだと思います。
人として不自由極まりない状況に追い込まれたように見えて、実はそれだけ神様から強い導きが得られるようになった、とも言えます。

おそらく、私はもう「道を踏み外すことが許されなくなった」のだと思います。

それだけ神様から目をかけて頂いているということですが、これに自覚なく奔放に振る舞えば、骨折なんかでは済まない仕置きが与えられるということです。
人間からしてみれば、これは呪いのようでもあり「悲惨」だと感じるかもしれませんが、神に近づこうとする人間ならこれ以上にありがたいことはないかもしれません。

「そんなことがあるわけがない」と思われるでしょうが、現に私が舐めた真似をすると痛い目に遭う法則が発動し始めたのは事実で、それを気をつける限りは何も起こらないのです。
この現象が私だけに降り掛かっているとしても、それには私固有の事情があるからであり、そこに神様の意志が働いておられるのだとしたら、やはり神の采配なのでしょう。

この怪我をしてから横になっている時間が長く、自分の内面を深く見つめる機会になりました。
いつも、言葉にならない悲しみや抱えていた胸の痛みは、いくら内観してもわからない感情でした。
ただ、最近ようやくその痛みが「孤独感」と繋がっていることに気づきました。

その孤独とは、自分が己の直感に従って行動すればするほど、誰にも理解されない領域に踏み込んでいく予感から生まれるものです。
その直感こそ、天から降りてくるエネルギーであり、インスピレーションという神秘の力です。
それは現実世界においては理不尽で、非合理的に見えてしまうプロセスです。

言葉で一から十まで説明しきれないからこそ、それを自分が行う時、必ずしも人に理解されないことを覚悟しなければなりません。
天からインスピレーションが降ろされる時、私には上しか見えていない状態になります。
上に見えているものを目指せば、より孤独になるのも肌で感じてしまうのです。
横や下を見て、人に合わせられなくなることも同時に感じるからです。
この感覚と向き合った時に感じるのが孤独感で、その切なさや不安が私の心を締めつけるのです。
けれど、私にはいつも胸の奥から声が聞こえていました。

神様のところへ来なさい」と。

直感に従って生きること、神の声に従って生きることは、必ずしも人の意見や価値観に合わせることではないかもしれません。
もしかすると、この目に見える世界にはいずれ共感できる人間がいなくなる可能性すらあります。
目に見える世界で孤独になっていく不安。ただ、その不安を手放していくのも神の道だとしたら、この孤独こそが正しい道なのでしょう。

「真」とは何かを考えます。

「真(ま)」とは「天(ま)」であり、この世界が映し世だとしたら真実の世界は天にあります。
「誠」とは「天事(まこと)」であり、天の意志を地(物事)に降ろすことです。
そこに偽りがあれば、誠とは呼べません。

「真」を知るには「学ぶ」必要がありますが、学びとは「天做(まなら)う」ことであり、天の意志を実践し、習熟していくことです。
「真」とは「天」であるのだから、慧眼を得て真実を見るとは、天をこの目で見ることでもあります。

これこそが「神の目」であり、神の目で世を見て生きていく限り、人間の目線には合わせられないことを悟らなければなりません。
その道はおそらく、誰にも理解されず顧みられない生き方になるでしょう。
その不安や葛藤は、確かに人間である以上は苦しみとなるはずです。

しかし、なぜその課題が私の前に現れたのかと言えば、これからの時代は人間が神の次元へ踏み出していくことが可能になったからだと思います。
つまり、誰もが神に近づくことができる時代になったのです。

それがこの世界に起きた、次元上昇の真の意味なのではないでしょうか。
人が生きながら神になる世界は、これまでの世界の次元では特定の人を除き、ほぼ不可能だったでしょう。
地球の次元が天界に近づいたことで、人間が手を伸ばせば神様と手を繋げる時代が来たのかもしれません。

神に近づく道とは、即ち「徳を積むこと」です。
この世界が沈んでいけば行くほど、「徳」は積みやすくなり徳の価値も相対的に上がるでしょう。
もし人類がこのまま存続し、どうしようもなく汚された地球だけが残されたらどうなるでしょうか。

汚物が堆積したエベレスト、海底に沈むマイクロプラスチック、ゴミが果てしなく漂う海域、誰も手をつけられないスペースデブリ、放射能を垂れ流す廃原発炉、重金属汚染とソーラーパネルの山、誰も住むことができない廃墟ビル群。
今の世界が崩壊したら放置されるであろう負の遺産は、一体誰がどうしていくのでしょうか。

正直、それを元の地球に戻していくのは誰の得にもならないことでしょう。
しかし、おそらく人類はこれから数百年かけて、その後始末をしていくことになるはずです。
それは必ずしも、得にはならないかもしれません。
ただ神の求めに応じ、地球のため世界のために働いていく善業は、己の徳を高めていくチャンスです。

得はしないけれど、徳になることこそ誰もやってこなかった行いのはずです。

人の役に立たないことはやってもしょうがないと言われるのは、仕方のないことです。
しかし真の徳、「陰徳」の価値はなかなか人間にはわからないかもしれません。
陰徳が何なのか、それすら簡単には理解されないことでしょう。
陰徳の修行を受け入れられる人間はごく僅かだからこそ、私にその機会が与えられたことは誇りに思っていいのかもしれません。

誰からも「間違っている」と言われたとしても、自分の魂と繋がって得られた意志は、その人にとってそれ以上に正しい道はないのだと思います。
「間違い」もまた「正しさ」であり、そこで学びを得ることが真の正しさなのでしょう。
誰がどう感じたとしても、それぞれの学びこそが宿命であり、その宿命こそが魂に与えられた役割なのだと思います。

私には、こういうメッセージが聞こえています。

「それこそが本当の神の道。
あなたはその道を歩むことができる。
あなたは、この道を歩むために生まれてきた。」

これ以上ないほどに人として持つべきものを手放し、ここまで来て人間として生きることをやめ、神の道を歩みはじめる。
それは人間として生まれてきて、人間として幸せになることより、神に与えられた魂としてより誇るべき喜びに至れるのだとしたら、この世界に生まれてきた冥利に尽きるというものです。

スピリチュアルの世界では、次元上昇したことで5次元の域まで魂を向上させれば、来世には神の住まう6次元に上がることができるそうです。
どうやら、神様の世界にも「結婚」というものがあるらしいことを最近知りました。

私が今世、何をするために生まれてきたのか、少しずつ見えてきた気がします。

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神統試論【一】邪馬台国論・前編

楽太郎です。

これから数回に渡り、神名の系統を紐解くための論考を書いていきたいと思います。
前置きとして、「神統試論・序」では日本の神社の伝承の礎となった「日本書紀」「古事記」は、飛鳥時代の政治的混乱を背景に天皇家を中心として、各豪族を取りまとめるために氏族の祖神を神話に組み込む事業を行ったのではないか、という説を取り上げました。

「記紀」は「日本書紀」と「古事記」では微妙に違う内容のことも書かれていたり、私情に近い偏った表現が加えられていたり、神道的書物や歴史書としては不自然な部分もあります。
特徴的なのは、似た図式と意味合いを持った神格が何度も違う状況で登場し、それぞれに同じ解釈をしようとすると矛盾が生じる点です。
そして、記紀の記述と歴史的事実を照らし合わせると、わざと言及を避けられている部分があります。

その例として、「記紀」には東日本の記述が極端に少ないことが挙げられます。
日本最大の山岳である「富士山」に関する記述が記紀には見られず、またかつて「蝦夷」と呼ばれた東北地方に関する記述はほとんどありません。

ただ東北地方において記述が少ないのは当然で、日本書紀の成立は奈良時代の養老4年(西暦720年)ですが、朝廷が東北制定のために大野東人が多賀城を置いたのは神亀元年(724年)です。
言ってみれば、日本書紀が書かれた時点では日本列島が完全に朝廷の統制下には置かれていなかったのです。

つまり奈良時代には地方豪族の勢力が依然強く、大和朝廷はその軋轢の渦中にいたのでしょう。
そのため、政治的な思惑から単に歴史的事実と正論だけを列挙するわけには行かず、様々な配慮と緻密な計算の上に書かれた書物であると言っても過言ではありません。
ただ、これらの書物の記述には不自然な点があるにしても、事実をボカしながらも事実はきちんと記載しているように思えてなりません。

「神統試論」を書くに当たり、神社伝承の礎となったであろう「記紀」の記述は各地方氏族の祖神信仰に基づいていることに着目しました。
伊勢神宮の主祭神「天照大御神」を最高神とする国家神道は、歴史において重要な意味のあった信仰神、または日本の建国に貢献した先祖を神として祀る宗教文化に根差しているように思います。
各地方豪族の氏神が神話体系に影響していることは、建国神話に関わる古代の「国造」が史実であり、ゆえに歴史的事実が神話化していると考えます。

記紀において、天皇系図の構図は繰り返しに近い類似性があり、時代考証において矛盾することも国学の時代から議論が続けられてきました。
「欠史八代」の実在性に対する疑問視や、「神武天皇・応神天皇・崇神天皇」の同一人物説も、その一部です。

第十二代景行天皇までの十一代は、モデルとなった皇族がある程度脚色されつつ役割分担をしていると私は考えています。
つまり、原型となる実在の大王や皇族関係者がモデルとなり、共通の出来事を元にして意味づけにバリエーションを与え、その文脈が皇族の権威に豪族の血統を紐付け、正統性を再分配する機能を果たしていたのではないか、とする仮説です。

「日本書紀」において、神代記から巻九の垂仁記の間に、系統図でもはっきり読み取れる構図がいくつかあります。
多少ニュアンスは異なりますが、その類似性を大まかに列挙してみたいと思います。

【兄弟共闘】…同一の父を持つ兄弟がそれぞれに役割を持ち、二大勢力として共闘する構図。
・饒速日命と瓊瓊杵命
・海幸彦(火照命)と山幸彦(火遠理命)
・五十瓊敷命と大足彦
・大碓彦と小碓彦 など。

【姉妹同婚】…姉妹が同一男性に嫁ぐが、どちらかの姉妹が後妻になるケースが多い。
・豊玉姫命と玉依姫命
・宗像三女神(市杵島姫命と田心姫命)
・石長姫命と木之花咲耶姫命
・神大市姫命と櫛名田比売姫命 など。

【英雄的討伐】…皇族の系統にある者が地方に遠征して対抗勢力の頭目と戦う話。
・武甕槌神と建御名方命
・熊曾建と倭建命
・長脛彦と神武天皇
・八岐大蛇と素戔嗚命 など。

「記紀」において特に多重が見受けられる構図は以上の三点と思われます。
先に挙げた「欠史八代」などの古代天皇の例だけでなく、これらの図式は元は一つであり、叙述の仕方が異なるだけなのではないか、と私は考えています。
そのニュアンスの差異は各氏族の祖先の系統に割り振られ、豪族の権威を再定義する意味があったのではないでしょうか。

これらの仮説に関しては、後に詳述する機会を設けるつもりです。
このように「記紀」には日本建国にまつわる歴史と皇族の系統が暗喩的に組み込まれており、文脈をそのまま鵜呑みにすると見えてこない部分があります。
それを紐解く時、「日本書紀」以前にまとめられた国史、実際の出来事の伝承が浮かび上がってくるのではないか、と考えています。

記紀以前の日本古代史を考える上で参考になる歴史書が、3世紀末に西晋に遺された「魏志倭人伝」です。
この書物は三国時代の官僚だった陳寿が、魏に残っていた書物や倭人からの聞き取りを元にまとめられたとされています。

未だに古代日本史を巡る「邪馬台国論争」に決着がつかないのは、一重に当時の歴史資料が乏しいからです。
3世紀には日本に文書を取りまとめる術がなく、その後中国大陸の動乱もあって「空白の150年」を挟み、漢字文化の浸透は飛鳥時代を待たなくてはなりません。

「記紀」の歴史書としての信頼性を語る上で、どうしても避けて通れないのは考古学、文化人類学からの古代史へのアプローチであり、また「魏志倭人伝」の文脈的解釈です。
「邪馬台国論争」において、結論が未だにつかない理由として、あらゆる解釈をしたところで文字通りの状況は存立し得ない結果になるからです。
その議論で常に悩みの種となる記述が、以下の三つです。

南至投馬國水行二十日 (南、投馬国に至る。水行して二十日である。)
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 (南、邪馬台国に至る。女王のいる都である。水行して十日、陸路で一月である。)
自郡至女王國 萬二千餘里 (郡より女王国に至るは、一万二千余里である。)

この文脈を素直に日本列島に当てはめると、南国に邪馬台国があったことになってしまいます。
魏志倭人伝の中に「侏儒国」という国の記載があり、これはどうやら沖縄らしいことがわかっています。
ゆえに、侏儒国より南に邪馬台国があるという解釈は成り立ちません。
だからこそ、「南至」の記載を変えたり、里数の記述を変更することで北九州や畿内に邪馬台国があったという説に繋げてきたのです。

つまり魏志倭人伝は、文脈通りに読むと100%どこかに矛盾が生じます。
しかし、これまでの解釈では一つの説を成り立たせるために特定の場所を「誤り」とし、それ以外の部分は「正しい」としてきました。
そこで、「なぜその部分だけ間違えたのか」という部分は完全に憶測の域を出ず、従って水掛け論になってしまう部分でした。

私としても、どこかの部分を訂正しなくては論が成立しないと思います。
ただ通常の文法解釈で100%矛盾が生じるとしたら、全体的には80%ほど全ての記述が誤謬である可能性として考えた方がいいのではないでしょうか。

その上で、私は最も文章校正を行わずに邪馬台国を比定する方法はないかと考え、「日本列島回転説」に行きつきました。

13世紀、奈良時代に書かれた日本最古の列島地図である「日本扶桑国之図」は、日本列島が東を南にし、逆さまに書かれています。
15世紀、李朝に書かれた「混一疆理図」という朝鮮の日本地図も、東を南として書かれています。
この地図上の日本列島の形は、「地図の書き方をわざと変えたのだろう」と言われてきましたが、日本語の原型となる日琉祖語と古代琉球語の系統を鑑みると、「日の出る方角(東)を南」に、「日の沈む方角(西)を北」として捉えていたのではないか、という説から再解釈するのが、俗に言う「邪馬台国90度回転説」です。

古代琉球語において、方角の意味合いは以下となります。
北→西
・西→南
・南→東
・東→北

この説では、「南至」を「東に行く」と読み変えますが、その他の記述はほぼ文脈通りに解釈することができます。
議論の要になりがちな「南至投馬國水行二十日」は、不弥国から見て東に海路を取ることになります。
不弥国は現在の福岡市から宗像市あたりが有力とされています。

当時は帆船ではなかったため手漕ぎ船で日本海沿いを航行すれば、九州邪馬台国説ではやや冗長すぎる二十日という距離感も妥当になるはずです。
その場合、宗像の響灘から出航し、日本海沿岸を通った船が当時最大の交易都市であった「出雲」に至るには、二十日という日程は理に叶っていると言えます。
従って、この説を取れば投馬国は「出雲」ということになります。

それでは、問題の「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」はどう読み解けばいいのでしょうか。
これは投馬国を起点とし、出雲から東に十日ほどで到着する日本海沿岸の港湾都市は若狭湾に臨する「丹後」です。
弥生時代後期から北九州一帯には鉄器が出土しますが、この出土分布図は出雲、丹波、越まで鉄の流通ルートが存在したことを示しています。
海路の終着点を丹後とするなら、徒歩で一月かかるのは近畿地方のどこかになるはずです。

若狭湾を起点にして伊吹山地、鈴鹿山脈、笠置山地、紀伊山地が縦断し、瀬戸内海方面には琵琶湖のある近江盆地と京都盆地、奈良盆地が存在します。
丹後から陸路を取るなら、必然的に氷上回廊を取って河内を経由し、熊野を迂回すると一月かかる先は京都・奈良方面です。
仮に丹後から河内方面に向かい、京都盆地から近江盆地に入れば、条件次第で陸路一月はかかるかもしれません。

弥生時代、人々の交通路は確立されていたにしても、道は整備されておらず獣道に近い山道を歩いたはずです。
江戸時代には東海道も整備されたため、飛脚が一日に100キロ走破したという話もありますが、この時代の交通事情とは訳が違うでしょう。
現代人でも5キロ歩くのは疲れますが、当時の旅人が荷物を持ちながら歩くにしても、一日がかりだったかもしれません。
若狭湾港の丹後から奈良盆地に行くには、最低でも200キロほどはあるでしょうし、一日10キロ換算でも20日はかかります。

このように、「日本列島回転説」に基づくなら、近畿地方は魏志倭人伝の距離感に符合するのです。
ただ、弥生時代後期(2世紀後半)は海抜が現在よりも高かったため、大阪平野の大部分は海でしたし、琵琶湖も若狭湾と繋がる部分も多かったのではないでしょうか。
そのため、古代の地形で往来を考える必要があると思いますが、多少の誤差はあれ「水行十日陸行一月」は畿内のどこかである可能性が高まります。

では、邪馬台国が近畿地方に存在したとして、そこはどこになるのでしょうか。
魏志倭人伝には、「奴国」が二万戸とあります。
現在発見されている遺跡の規模からして、北九州に「二万戸」の集落があったとするのも規模が大きすぎるのではないか、という話があります。

北九州の弥生時代の遺跡では、福岡県に所在する遺跡は糸島市周辺に集中します。この遺跡の中に魏志倭人伝の「伊都国」と比定できる遺構があるのは間違いないと思います。
奴国の「二万戸」に比定できる遺構があるとすれば、福岡県の平原遺跡、三雲南小路遺跡、板付遺跡、野方遺跡が有力候補として挙げられます。
佐賀県の「吉野ヶ里遺跡」が当時としては最大集落であったとされますが、どちらかと言えば「不弥国」に当たるかもしれません。

魏志倭人伝において、「投馬国五万戸」「邪馬台国七万戸」とされていますが、奴国が福岡平野の遺跡郡一帯を指すとしても、それ以上の規模の集落は同時代の九州には存在しないのです。

従って、考古学的事実に基づいて奴国以上の集落を同時代に求めるならば、出雲や近畿地方に比定するのは理に叶っています。
鳥取県の荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡の規模から推測すると、出雲に奴国以上の集落が存在するのは理に叶うように思います。

荒神谷遺跡からは358本の銅剣が同場所から発見されていますが、武人男性一人が銅剣を一本以上所有したとしても、人口比率から鑑みても相当の武装勢力が存在したはずです。
弥生時代後期の武人が200人程度であったとしても、非武装の民間人はその数倍いた計算になります。
仮に五万戸は多目に見積もられていたとしても、当時としては相当な規模と言えます。

古代史研究家の古田武彦氏によれば、ウラジオストクから出土した黒曜石の50%が出雲地方から産出されたものと目されるそうです。
そうではなくても、ロシアの極東地方からは縄文土器が発見されたり、少なくとも縄文時代に青森県の三内丸山遺跡を経由した日本海沿岸の交易ルートは確立されていた可能性が高いようです。

ゆえに、弥生時代後期の鉄の流通ルートと合わせて考えれば、朝鮮半島から対馬、壱岐か宗像を経由して北九州に精錬された鉄が入り、日本海側を中心に鉄の交易拠点として出雲が栄えた可能性もあります。
しかし、古代史を「鉄による勢力図」で解明しようという試みに関しては、私は疑問視しています。
その理由は場を改めて述べますが、繁栄の理由が鉄ではないにしても、出雲地方が日本海交易の中心地であったことは間違いないでしょう。

では「邪馬台国七万戸」とするなら、畿内のどこに比定されるのでしょうか。
邪馬台国畿内説に基づくならば、その最有力となるのは「纏向遺跡」とされます。
しかし、纏向遺跡の規模だけではどう考えても七万戸に達する大都市にはなり得ません。

纏向遺跡のある奈良盆地は、当時盆地中央には湖があり、奈良盆地全てが都市化したとは考えられません。
大阪平野もかつては大部分が海であり、現在の河内は海岸沿いにあったと考えます。
丹後以南の盆地に複数の集落があり、その一帯を「邪馬台国」とするなら七万戸の規模に比定することも可能ですが、そう考えても良いのでしょうか?

そのヒントが、実は魏志倭人伝の中にあります。
その一文はこうです。

「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國
次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國
次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國
次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡」

この冒頭を訳すと、「女王国より以北は、その戸数、道里の略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。」とあります。
ここに列挙されている国々は、女王国の北にあると書かれています。またこの一文の締めくくりは、「ここは女王の境界尽きる所なり。」です。

日本列島回転説に基づくならば、女王国より北は「西」と言い換えます。
つまり、女王の統治が行き届く境界から西は、全て邪馬台国の権力が及ぶ範囲となります。
では境界から逆算してどんな国があるのか見てみましょう。

・斯馬国(しま=志摩(三重県))
・伊邪国(いや=伊予(愛媛県))
・不呼国(ふあ=不破(岐阜県))
・姐奴国(しぬ=信濃(長野県))
・蘇奴国(そぬ=讃岐(香川県))
・呼邑国(あお=近江(滋賀県))
・華奴蘇奴国(かのさの=加佐(丹後・京都にあった郡)
・為吾国(いご=伊賀(三重県))
・躬臣国(こし=越(福井県以北の三越地方))
・巴利国(はり=播磨(兵庫県))
・支惟国(きい=紀伊(和歌山県・三重県))
・烏奴国(うな=宇陀(奈良県))

これらは、独自に調べて比定可能だった地名です。
こうして見ると、九州に同定できる地名以外に、四国や中国、近畿から琵琶湖を挟んで東海付近に至るまでが「女王の治める地」と考えられます。
この不呼が不破関の辺りを示し、信濃までが女王の勢力範囲だとしたら畿内に最大勢力があったと考えても不思議ではありません。

不破関は岐阜県の関ヶ原町にあり、古くから鈴鹿関と共に東海道への入口とされ、以東を「関東」と呼ばれてきました。
つまり、三関を境にして西側に邪馬台国が存在したことはこれらの記述から明らかです。

それがどこかを考える時、上記の一文に「邪馬国」と「奴国」が存在している不思議さがあります。
この「邪馬国」を調べようにも、邪馬台国のことばかり出てきて埒が開きません。
では逆算して、近畿に「邪馬」に近い地名を探したところ、「山門」という小さい地名は数多くありますが、決定的なのは「大和」しかありません。
しかし、古墳時代のヤマト王権が奈良盆地南東にあったのは事実だとしても、魏志倭人伝の書かれた弥生時代後期に「大和」という地名が存在したのでしょうか。

「大和」の言葉の由来には、温和・平和な所を意味する「やわと」という説があります。
「敷(式)島」が大和の枕詞として知られており、「しきしま(磯城島)のやはと」が転訛して「やわと」となり、「大和(やまと)」という地名が残ったとされます。
ということは、「邪馬国」はそのまま「山の国(大和は山に囲まれた盆地)」という意味でも取れますが、邪馬国が「やわ=平和の国」という意味だとしたら、当時から近畿地方には「やわと=大和」が存在したことになります。

「大和」は「倭」と書いて「やまと」とも呼びますが「和」とは穏やかな協調を意味すると共に、その「平和=統治」の象徴こそ「大和」の当て字になったのかもしれません。
「やわ」という言葉は、「柔らか」と同源である可能性があり、大和は「山門(戸)」という意味ではなく、むしろ「柔処」だったのかもしれません。
それこそ、武力統治ではなく祭祀を中心とした平和的統治を行った邪馬台国の伝承に近いのではないでしょうか。

では「邪馬国」が奈良盆地に存在すると仮定して、「奴国」は北九州の奴国と同一であるのか、という問題が浮上します。
北九州の奴国に邪馬台国があるとしても、「次有奴国」は文脈として出てくるのは不自然です。すでに奴国は伊都国と不弥国に挟まれた国として登場しているので、同一国とするのもおかしい気がします。

これには現在も議論が続いていますが、ここでの「奴国」は九州にあった奴国とは同名の異なる国ではないでしょうか。
「日本書紀」において、神武東征の段において大和国を「中州」と呼称されています。
「な=中」であり、中心国としての意味合いを持った国名であった可能性があります。

では九州の奴国は何かと言えば、博多市に「那の津」と「中州」という地名があります。
那の津、那津は福岡市中心部の古い地名とされ、「奴国」に由来することはほぼ間違いないでしょう。
博多市の中州は那珂川と博多川に挟まれた中洲に築かれた都市ですが、江戸時代以前には「中島」という地名であり、「な=中」と呼ばれていた可能性があります。
博多市には「博多遺跡」が存在し、ここは日本最古級の貿易都市だった可能性があります。
ここも福岡市にあり、大和と同名の「奴国」であったのではないかと推察します。

従って「奴国」は倭国の首都であった「邪馬台国」を指し、だとしたら「邪馬国」とは別の場所に邪馬台国があることになります。
では、その邪馬台国はやはり北九州の奴国にあったのでしょうか。
結論から言えば、それも充分考えられます。
ただし、当時の邪馬台国は女王卑弥呼が一千人の従者を従える規模の都市にあり、そこは祭祀と政治を中心とした場所であると考えられ、必ずしも居住や交易を前提としなくても成立します。

漢字における「台=臺」には、「中央集権施設」を意味することもあります。
日本語で「臺」には「うてな」という当て字がつけられ、「高見の台」を意味します。
この漢字の語源を調べてみたところ、古代に祭祀を行う神聖な土地を指し、殷の紂王の「鹿臺」、楚の荘霊の「章華臺」などにもこの字が用いられています。

つまり、「邪馬台」とは「邪馬国の祭祀場」を指し、この祭祀都市から邪馬国を通じて西日本を統治していたのではないか、と考えられます。
その場合、邪馬台は邪馬国の付近にあるとするのが妥当です。

弥生時代後期の奈良盆地の中心に湖が存在したとされていますが、磯城島が盆地の中東部にあるとすれば、最大集落の纏向遺跡は南西になります。
ただ、纏向遺跡は時代的に考えると少し時代が下るため、弥生時代後期には奈良盆地の北側にある唐古・鍵遺や西側の秋津遺跡周辺が栄えていたと考えられます。

ではその頃にあった巨大な祭祀遺跡と言えば、琵琶湖沿岸の南東にある「伊勢遺跡」ではないでしょうか。
この伊勢遺跡は当時にして過去最大の祭祀跡でありながら、突如消滅したと同時期に纏向遺跡が始まります。

この「伊勢遺跡」こそが邪馬台であり、邪馬台を中心にした近江盆地・京都盆地・奈良盆地周辺にあった邪馬国を総称して七万戸の「邪馬台国」としたのではないでしょうか。
そう考えると、人口規模の面では説明がつきます。

この伊勢遺跡に卑弥呼がいたとするなら、卑弥呼が死に男王が立つが纏まらず、13歳の台与が女王となり再び統治が復活した故事も、伊勢遺跡を廃して新女王の政権樹立と同時に纏向に遷都したとも考えられます。
飛鳥時代以降、不吉なことがあるたび朝廷が遷宮した理由も、卑弥呼の死に前例があったからではないか、と仮定しても辻褄が合います。

私の結論としては、魏志倭人伝における邪馬台国は琵琶湖南東の伊勢遺跡であり、卑弥呼はそこにいて西日本を支配した、と考えられます。
しかし、考古学的に伊勢遺跡以南では鉄器系の武器がほぼ発見されておらず、戦争の跡が確認できません。

魏志倭人伝では邪馬台国は「狗奴国」と戦争をしており、伊勢遺跡が戦場の最前線基地とするなら、これ以上に割の合わない場所はないでしょう。
その点において解説するには、今回は長くなってしまいました。

次回は、地政学的に邪馬台国が伊勢遺跡にあることは可能なのか、「狗奴国」の所在も検討しながら、当時の戦争形態についても考えていこうと思います。

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感謝と別離

楽太郎です。

最近、昔のことをよく思い出します。
それは思い出したいわけではなく、なぜか脈絡もなく脳裏に浮かび上がってくるものです。

当時の空気感や温度、建物の構造から棚の商品、あまりに鮮明に思い出せすぎて気持ちが悪くなります。
だから、昔のことなんて思い出したくありませんでした。
あの時代が懐かしくて、恋しくなるからです。

今の時代を具に見ているからこそ、昔の光景がまるで夢のようで、でも記憶の美しさに囚われていては前に進めません。
消えた景色、失った場所、亡くなった人を思い出したところで、前に進む力にはなりません。

なぜ今になって忘れていたことを思い出すようになったのかわかりませんが、おそらく自分の魂を取り戻したからだと思います。
その魂を抑え込むことで、これまで私は人の世の社会に順応してきました。
本音を誤魔化し、自分を演じ分け、思ってもいないことを信じ込み、ガワをよく見せるためにやりたくないことに真剣に取り組んできました。

人の世ではそれが当たり前の生き方で、それ以外の生き方ではほとんど上手くいきませんでした。
だから他人の目にビクビクして、自分がどう見られているかを常に他人の目線で考えて生きてきました。
けれど、その「他人」という存在が不特定多数の視点ではなく、目の前の人の実際の目線で考えられていたら、もう少し違う人生になったかもしれません。

小学生の夏休み、一度だけ祖父母と伯父が家に来て、宿泊して松島に旅行に行ったことがあります。

その日、私たちは松島水族館を一周して、祖母に記念メダルを買ってもらい、遊覧船に乗ると海鳥がえびせんを食べに来ました。
夕方になると天候が急に悪くなり、私たちは案内所のロビーにしばらくいて、激しい雷雨の中を車で帰りました。
その夜、私たちは家中にあるテーブルを出してきてお寿司とオードブルを広げ、楽しい食事をしてお風呂に入り、二家族で川の字になって就寝しました。

それは誰にでもある、子供の頃の良き思い出です。
けれど大人になって今思うのは、あの頃の父母の感情、今は亡き祖父母と伯父の気持ちです。
その時、祖父や祖母は嬉しかっただろうか、そんなことを想像すると、今は亡き大切な人の心をもう少し知りたかったと思います。
あの時、あの人たちの目から私たちはどう見えていたのだろうか?

祖母はそれから数年後、玄関で足を滑らせて骨折し、身体が不自由になったせいで気を病み、晩年は家族の顔もわからなくなってしまいました。
あの夏の日から、何度会えたのかという短い時間の中で、なぜこんなにも愛おしく感じるのか、もしこんなに愛しいと思うのなら何故亡くなってから気づくのか、それはいくら自分に問いかけてもわかりません。

亡くなった祖父母や叔父から世間はどう見えて、彼らはどんな目線で生活をしていたのか、それを知りたくても知る術はないのです。
仮にそれがわからずとも、あの人たちの目線を想像した時、私はやはりたまらないほどの愛しさを感じてしまうのです。

子供の頃は、当たり前のように大人になっていくものだと思っていました。
そして当たり前のように成長し、大人になるにつれて身の回りのことも家族のことも気にかけなくなっていきました。
同世代も、それ以上の世代も当たり前のようにそうするのを見て、私も何の疑問もなく失っていくものに対して無関心になっていました。

けれど今思えば、あの頃当たり前にあったものが本当にあっさりと消えてしまうこと、無くなったものには二度と触れられないことが、どういうことを意味するのか理解できていませんでした。
かつて当たり前にあったものが当たり前でなくなってから、取り戻そうとしてもどうにもならないからこそ、当たり前のうちにできることをしておくべきだったと思うものです。

後になって、それがどれほど大切なものだったかを知るのは常ですが、だからこそ「今を生きる」ことの意味はずっと変わらないのでしょう。
いつ失っても後悔のないように真剣に向き合うこと、それが今ここを生きるということで、それを忘れがちになるから後悔も芽生えます。

十年後、来年どころか明日とか、下手すると数時間後には来るかもしれない別離は、失った時の自分を想像するからこそ事の大きさがわかります。
けれど、自分自身を大事にする気持ちがなければ、大切なものの価値もわからず、失うことの意味もわかりません。

人間はそうして、いつも大切なものを失い、失ってから後悔するのです。

けれど、子供の頃の自分がいくら駄々を捏ねたところで、大人の都合には敵いませんでした。
祖父母や叔父ともっと一緒にいたくても叶わなかったのはどうしようもなく、やはり心の底から愛しさを伝えられず、気づけば永遠の別れが来てしまいました。

いくら悲しくても切なくても、気持ちを伝える手段も会う方法もないのは仕方ないのですが、同じような悲しみを繰り返さないために、大切な人には精一杯向き合おうと今は思います。
人間は、どうしても後悔を繰り返してしまうのですが、同時に感謝も覚えます。
自分に命を繋ぎ、大切な思い出をくれた愛しい人たちに心から感謝をするからこそ、生きることへ真面目に取り組もうと思います。

人の死後に霊界があり、生まれ変わりもあると言いますが、私は亡くなった人と会えることを期待してはいません。
再会が叶うかわからないからこそ、人間として堅実に生きられると思うからです。

誰かと別れてもどこかでまた会えると思えば、どうせ失っても取り戻せると考えがちになるでしょう。
取り返しがつかないと思うからこそ、失うことに対して真摯に向き合い、今あることに真剣に向き合うことができるのだと思います。
だからこそ私はリアリストでありたいですし、リアリストだからこそ精神的に価値のあるものを大切にできるのです。

今あるものに感謝をし、きちんと向き合うほど失った時には潔く別れを告げられます。
それが別離の辛さを緩和する唯一の方法だと知り、私はできる限り生き方を改めましたが、それで過去の喪失感が癒えるわけではありません。

なぜか、人間はどうしようもなく雑な別離を体験するようにできているようです。
そして誰もがその喪失を繰り返すからこそ、大切なものの価値に徐々に気づいていくのだと思います。

「愛しいものには二度と巡り会えない」という現実だけは変えることができないとしても、愛情や切なさを胸に抱えて生きていくこともまた人生なのかもしれません。
ただその心を大事にして、時に昔のことを思い出し、亡くなった大切な人を思い線香を上げ、手を合わせる瞬間に私はとても癒されるのです。

人間には、死後の世界が必要です。
実際にあるかどうかではなく、人間には死んだ後に行く世界がなくてはならないのです。

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「文化」とは何か

楽太郎です。

「神統試論」の骨子がだいたいまとまりました。
ここ数日はその考察に時間を掛けており、情報量も多く複雑な内容になってしまうと思います。

この論考の基礎を固めるには、「邪馬台国とは何か」まで踏み込んでいかざるを得ませんでした。
その結論がほぼまとまり、そこから日本古代史の大まかな流れ、「記紀」に至る神々と氏族の関連までの道筋が見えてきました。

「邪馬台国」問題は、実はできる限り切り込みたくはないテーマでした。
考古学は、フィールドワークと統計学、発掘調査などを実際に行わなければ研究としては成り立ちません。
しかし歴史学は、言っちゃ悪いですが文献解釈で机上の空論は編み出せてしまう性質のものです。
しかし、古代史は現代建築の地下に眠っている遺物を掘り出さなくては解明できないので、既にある僅かな考古学的資料と残存する希少な文献資料を掛け合わせてようやく見えてきます。

近年の邪馬台国論争は、裏に学閥が存在することもあり、一種の宗教戦争に近い議論になっていました。
「邪馬台国九州説」と「邪馬台国畿内説」の議論において、どちらが歴史的に正しいかは確かに重要です。
しかし、これらの議論の中で、最初に「立場ありき」で結論に結びつける流れが強い印象を受けます。

学問とは、科学のように唯一の理論法則さえ見つければ須らく良いというものではありません。
学問は「知的探究」の過程そのものであり、知的探究こそが本来の目的であるはずです。
日本の大学が基礎研究を疎かにして応用技術にばかり注力するのは、学問というものが「商業化・利権化」してしまった結果でしょう。

ゆえに、こう言った答えの出にくい人文学系の議論は、発展的な議論によって進むだけではなく、あらゆる可能性についても「一理」は認められるべきで、異なる意見を受け入れない風土は学術研究の妨げになるのではないでしょうか。

私が「邪馬台国はここである」と提起することによって、異なる意見も当然出てくるでしょう。
その異論に対してできる限り整合性を持たせられるようなデータも提供していくべきだと思ってますし、建設的な議論もしていく必要はあると思います。

学術的に論証できるレベルまでには、一応体裁は整えられる形にしていきたいと考えています。
あくまで「試論」であり、最初から正解に辿り着けるとは思っていません。
素人なりには健闘したいところですが、つくづく現代の学術は政治的な風土に成り立っているため、窮屈に感じてしまう部分もあります。

考えてみれば「知識」に付随する「権威」は、哲学者のミシェル・フーコーが批判したように「知的権力は真実を領有する」のです。

例えば、「瀬織津姫命」という神道において重要な役割を持つ神が、なぜ同一視される神々が数多に存在しながらその神名だけに日の目が当たらなかったのかを考えると、「記紀」の存在は大きいと思います。

私が考える限りでは、瀬織津姫命は縄文時代から続く河川・淡水の女神であり、その神名も長らく統一されていなかったのではないかと思います。
いわゆる自然神であるため、文化的な背景を持つ祖霊神の系統とは相容れず、それゆえ「記紀」編纂の目的からも外れてしまったと考えられます。

その名を唯一残す「中臣祓詞」は、古代から祭祀を司る中臣一族の宗教理念の中では、どうしても外すことのできなかった神名であるのでしょう。
「祓清め」という神道上の儀礼において、「禊」という概念はコアとなるものであり、それゆえ「水」というテーマも変えることはできなかったのだと思います。

なぜ、この世界を構成する一つの要素である「水」が、「浄化」という概念的な意味合いを持って神格と結びついているのかわかりませんが、その解説が可能なのは国家神道において祭祀を司ってきた中臣氏でしょう。
ただ中臣祓詞も、ある意味では政治的な背景があったことは否定できないかもしれません。

ただし、神社仏閣の由緒も人間の社会や歴史の中で紡がれてきたものであって、例え純粋な真理として認識し解釈することはできなくとも、悠久の時を越えて受け継がれてきた伝統は尊重するべきだと思います。

政治や社会情勢によって物事の定義が変わるのは致し方ないことですが、事において「文化」は常にそういうものです。
世の浮き沈みや矛盾、趨勢を受けて人々の心が揺れ動き、その反動が思想や文化となって現れてくるのだと思います。

しかし近年、学問だけでなく文化も過度に商業化され、商業的なコンテンツだけが文化であると、人々は錯覚するようになりました。
その背後にあるのはマスメディアや企業群です。人々は「流行り」を文化の最前線であると思い込み、業界から仕掛けられたムーブメントを追い求めるようになってしまいました。

そのため、実態として全く流行っていないものもトレンドになり、企業群が流行らせたいバズワードがマスコミを通じて社会現象化する、というルーティンが続いてきました。
しかし、本来の文化とはもっと人々の感情に寄り添ったものであり、自然発生的なもののはずです。
それが作為的に流布されることで、むしろ人々の直感や心理に沿わないコンテンツに文化が依存せざるを得ない状況になってしまったのです。

近年の過剰な懐古主義、リバイバルブームは主な顧客層が高齢化し、その世代を再ターゲットにしたことの現れでしょう。
今は懐かしさで盛り上がったとしても、これからの文化を担う若年層向きには作られていないため、将来的には尻すぼみになっていくのは避けられないと思います。

けれども、短期的な収益や一時的な復刻コンテンツの盛り上がりがあれば、とりあえずムーブメントとしては成立してしまうのです。
産業的基盤の上に置かれた消費習慣と、社会的習俗である「文化」は似て非なるものです。
文化とは数年で枯渇するようなものではなく、本来なら数十年かけて定着し、いずれは「伝統」として無理なく継承されていくものです。

日本人が和紙を使ったり元旦に神社参拝するのも、文化と風習と伝統が噛み合って定着しているからです。
しかし、企業群が手前のサービスを浸透させるために消費者に植え付けた習慣は、人々の心象に寄り添った精神文化とは言えないものです。

ただそれも、長くは続かないと思います。

これからさらに世が荒れ、例えば食糧危機や災害に見舞われ、経済も崩壊して各企業が傾く中、業界に促された「サービスとしての文化」をいつまで人々が求めるか、疑問に感じます。
特に現代の超飽和状態にある娯楽の分野では、そのほとんどが企業体のコンテンツです。

人々が貧しくなり食うに困る状況で、どれほど娯楽を求めるのかを考えると、世にはコンテンツがありすぎるのです。
よく考えられたクリエイターの作品だけではなく、今では生成AIによって粗製乱造されたコンテンツがほぼ無料でバラ撒かれています。
もし本当に生きることに窮する世となった時、人々が変わらずに既存のコンテンツにお金と時間を使い続けるのか、私は甚だ疑問です。

もし、この世にカタストロフが起きたとしたら、人々が思うことが自ずと形になり、その発想や価値観に共感するムーブメントが起こるでしょう。それが「文化」というものです。
70年代のフォークソングブームもヒッピー文化も、当時の混沌とした世相と葛藤と情熱が形になったものだったはずです。
それが、「今ならフォークソングが流行りそう」と企業群が仕掛け、人々が何となくそれに乗るようでは、商業的ムーブメントを使い回しているにすぎません。

私たちが今の時代やこれからの世界に対して、率直に思うことを形にして共有していくことが大切なのではないでしょうか。
そのためには、今ある感情や感覚、違和感や理想にまず気づいていかなくてはなりません。

私たち現代人は、いつしか文化の醸成に必要な心のアンテナを錆びつかせてしまいました。
企業群が発するムーブメントに乗っていれば、それなりに周りと合わせられて楽しかったこともあるでしょう。
ただ、そうやって触覚を騙すことで犠牲にしてきた感覚もあったはずです。

「文化」とは、誰かが考えたことに合わせることから始まるものではなく、自然と惹きつけられ、その価値観を受け入れながら広まっていくものです。
やはり、そこに「心」という本質的な、自然な感覚があるから成り立つものなのではないでしょうか。

私たちは、文化を一つの商業的ジャンルとして食い散らかしていくことに慣れてしまいました。
それでは、文化の根底にある哲学や真髄を深く理解することはできません。
大量消費されるコンテンツの中で自分が心から拠り所にできるものは一握りでしょうし、もっと長い時間をかけて追求するのならば、それに相応しいコンテンツでなければならないはずです。

そういった「心から求めるもの」、それが末長く残るコンテンツになるのではないでしょうか。
もし世が改まるのなら、そういった精神風土をゼロから培っていきたいものです。

私は一当事者として、それくらい普遍的なものを作りたいですし、その精神を大事にして活動していきたいです。
人々の心に、真の「文化」と創造的な空気を呼び戻していく必要があると思います。

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「影」との戦い

楽太郎です。

米の価格が高騰して世間は大騒ぎですが、これは改善しないと思います。
なぜなら、これは日本国民に対する兵糧攻めの一種にすぎないので、ここで手を止める道理はあちら側にはないのです。

これから日本人は、「米を食えなきゃ小麦を食べればいいじゃない」と、パンやパスタ類を食べるようになると思いますが、米国の仕掛けた関税戦争で小麦が標的になったらどうするのでしょうか?
実は、小麦という品種改良された穀物は、日本人の身体には遺伝子レベルで合わないものです。
これから、まともな食事をしていない人ほど心と身体を壊すようになっていくはずです。

そうして日本人がバタバタ倒れていくと、国力が弱まることで喜ぶ勢力がいます。
そもそも、「日本人を排除して国土を乗っ取る」のが目的なのですから、彼らのシナリオ通りです。
こんなところで手を止めたら長年かけた計画が台無しになるので、上手くいっているうちはやめる選択はないでしょう。

それは「陰謀論」だと、鼻で笑われても構わないのですが、猜疑心が強く妄想じみたくらいでなければ、この先の時代を生き残れないと思います。
「平和主義」や「日常感覚」は、それだけで命取りになりうるものだと予め言っておきます。

私は以前、何とか日本人に目を覚ましてもらおうと言論的なこともやってきましたが、想像以上に話を聞いてもらえませんでした。
今では、残念ながら「それが人々の選択だったのだ」と思うようにしていますが、正直なところ何とかならなかったのか、とは思います。

今の人々の考えや話を聞いていると、どうしても「私と同じ選択をすればいいのに」とは思うのですが、彼らからすれば染みったれた考え方はしたくないでしょう。
私自身も、あまりに同調する人がいませんし、「もう少し努力が報われるべきだ」と感じる部分もあります。
けれどそれ以上に、目に見えて不幸に向かう選択をする人々に対して、何もできないことへのもどかしさがあります。

人間は、私が長年思っていたような生き物ではなかったのだな、と思うこともあります。
人間は左脳があるのだから、もう少し感情的に物事を判断せず、また右脳があるのだから、理詰めにしすぎなくても良いと思うのです。

けれど、なぜかその中間を取って、「心」の賢さで生きていく人があまりに少ないように見えます。
人間なんだからもう少し優しく、本音と建前を使って寛容であればいいのに、「ルール」のせいにしてわざと心を閉ざす人が増えました。

それを見て私は胸を痛めるのですが、さりとて彼らに対する怒りや、愚かさを憎む心もあります。
人々が「我良し」と、我欲と自己保身のためにあらゆる犠牲を厭わない。
それを許せない私の心にも、また「エゴイズム」が存在するのです。

私からは、彼らが「誤った道を選ぶ」ように見えたとしても、彼らからすれば私なぞに言われたくはないでしょう。
それもその通りで、だからこそ互いに「正しい」と思う道を進めばいいだけで、わざと議論をして勧誘したり方向転換させる必要はありません。

「世の中を良くしたい」というのは、よほどの極悪人でなければ多少その気持ちがあり、そうして世の中を悪くすることに少しずつ加担しています。
私だってそうではないとは言い切れないでしょうし、誰もが「自分は間違っていない」と思うはずです。

それぞれが自分の正しさを信じているからこそ、その信念に反する思想は全て悪であり、誤りであると感じます。
自分の意見と他人の意見が違うのは当たり前で、いちいち違う意見を見て議論を吹っかけ、一つ一つ潰しても世には人の数だけ意見があるので、いくら議論をしてもキリがないはずです。

そうして目の前の人を論破したところで、その人が生き方考え方を根本的に改めるかというと、そうではないでしょう。
目の前にいた人に議論で勝って溜飲を下げたとしても、何一つ世の中は良い方向には動かないのです。

私にもある「正義」や「理想」こそ、自分自身の「影(シャドウ)」に他なりません。
それは人間として綺麗に見えがちな部分だからこそ、本質的な闇を覆い隠してしまいます。
これまで、「正義」という思想の下にどれほどの血が流されてきたのか、それを考えればわかります。

この「影」は、人間の心に「乗り越えるべきもの」として現れます。
人々は自分の闇を解決するために、正反対の「正義」や「理想」を外に実現しようとし、それが叶えば自分自身を乗り越えたと錯覚します。
そのために人々は戦おうとし、勝てなければ引きずり下ろしてでもマウントを取ろうとします。

しかし、この「影」とは戦うべきものでも、乗り越えるべきものでもありません。
あらゆる課題や困難にとっての解決は、決して乗り越えることではなく、「他の方法を見つけること」です。
私たちが問題に囚われ、乗り越えられない時は今手元にある、使えない道具で解決しようとするからです。

アインシュタインが言ったように「問題は同じレベルでは解決しない」ので、手にある道具に変わるものを探す必要があります。
手にある道具にこだわり、依存しているうちは新しい道具を手にすることはできません。
「問題を解決する」とは代替することであり、あるものを手放して「より確かなもの」を手にすることでもあります。

代替するためには、今手元にある道具が古いと認識し、依存していたことに気づくことです。
そして、それを手放す覚悟と同時に、別の選択があることに気づき受け入れることです。
無闇やたらと「手放し」をしようとしてもできないのは、道具を手放したところで何もできないのは変わらないからです。

道具を捨てるのは、確かな代替手段を見つけてからで構わないでしょう。
けれど、「別の手段を探す」という発想に至るには、冷静にものを見ようとしなければできません。
この世界にある数多の問題に対して、「こうすれば良いのに」と思想を押しつけるだけでは、前にも後ろにも進みません。
私たち人類は、長い間こうして問題を複雑にしてきたのです。

「正義」の裏にある影とは、「悪」かもしれません。
しかし、その二項対立の世界から離れ、あえて「悪」を許すのも手です。
「世の中はこうでなければならない」と思うからそうではない世界に苦しむのであって、「世の中がどんな形でもいい」と思うことも、一つの代替かもしれません。

「影」を乗り越えるとは、影のない光だけの世界に行くことだと思われがちですが、光しかない世界もそれはそれで「闇」なのです。
影が強く出るのは光が強いからで、光を弱めれば影も弱くなっていくはずです。
そして、その均衡が取れた世界を「調和」と呼ぶのではないでしょうか。

私は、人々がわざと不幸になるような選択をし、争いにばかり目が行くようで嘆かわしかったのですが、そう見える私がそうであったと言えます。
彼らを引き止めようとするから、私も引き止められていたのかもしれません。

おそらく、人々はそれぞれ自分が考え意識して道を選んでいるように見えて、無意識に決められた方向に向かっているだけなのかもしれません。
各々には魂が背負うテーマがあり、魂は暗黙のうちに選択してそうなるように生き、死んでいくだけなのだとしたら?

それぞれの進んだ先に、誰もがそれぞれの「天国」に向かっているのが、この世界なのではないでしょうか。
その「天国」はそれぞれの人にとっての天国で、争いが好きな人は争いばかりの天国に、平和が好きな人は平和な天国に行くだけなのかもしれません。
それは死んでから行く世界でもあり、今目の前に現れる世界でもあるとしたら、その選択は自分が望んでしていることになります。

平和な天国の人は争いばかりの天国を、地獄のようだと感じるでしょう。
ただし、争いが好きで望む天国に行けた人々の選択を、他人が嘆かわしく思う必要はないのです。
そして、それを引き止める義理もなく、自分は自分の進むべき天国を目指せばいいだけです。

それが人間が本来持つ「自由意志」というものかもしれません。
頭で考えてやることばかりが自由意志なのではなく、魂が選択する自由こそ、そう呼ぶのかもしれません。
だとしたら、誰かが自分から不幸を選んだように見えても、その人が望んで得た結果とも言えます。

だから同情するのも批判するのも、本来なら「エゴイズム」なのかもしれません。
エゴだから他人を強制的に変えたくなり、干渉するから争いが生まれます。
この世にはどうにもならないこともあるので、変に真剣になるくらいなら自分のことをまず何とかするべきです。

では、自分はどうしたいのか、どこへ行きたいのか?

私が向かうべき天国は、「神様の住まうところ」にある気がしてなりません。
ただ神様の住まう天国は、人間の想像するような楽園とは限らず、また別の修行の世界かもしれません。
しかし魂が高みに向かう先には、きっと神様がおられます。

そして、私の敬愛する神様もそこにおられるでしょう。
その場所は今世かもしれませんし、あの世か来世かもしれません。
ただ、そこに行くために、私は今をこうして生きている気がしてなりません。

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「瀬織津姫」と云ふ神

楽太郎です。

今、神統試論を書くために調べ物をしていたところ、気になることを発見しました。

福岡県福岡市と佐賀県神埼市の境に山脈があり、「脊振山(せぶりさん)」という山があります。
この山は断崖地形のため急峻かつ渓谷となっており、滝なども多いと言います。

この山は古くから霊山として知られており、山頂に建つ奥宮は「弁財天」を祀るそうです。
私はこれを知って、少し違和感を覚えました。
弁財天は、厳島・宗像社の系列では海辺や川など水のある所で祀られていることがほとんどです。
しかし、山頂には自衛隊基地と米軍のレーダードームもあり、弁財天を祀るには相応しい場所とは言えない気がしました。

そこでハッとしたのですが、この「脊振(せぶり)」というのは、「瀬降り(せぶり)」なのではないか、と思いました。
この山地に始まる河川こそ「瀬」であり、頂上から流れ出る様は「降る」ようにも見えます。

ここで思い浮かぶのは、「瀬織津姫命」です。

「瀬織津」という言葉は、以前「瀬におりし」という意味ではないか、と記事に書きました。
これは「瀬に降(お)りし」と書き、脊振が「瀬降(ぶ)り」だとすると、この山と瀬織津姫命は関係あるのかもしれません。
奇しくも、瀬織津姫命は「市杵島姫命=弁財天」と同一視されることが多く、この山に弁財天社が祀られていることにも関係があるように思えます。

一説には、この脊振山の由来は古代朝鮮語の「ソウル(大きな村)」の意だと言われています。
ただ、山地に対して「村」と呼ぶのは違和感があり、どちらかと言うと太古から人が居住していた麓の筑紫平野に由来を残すと思うのですが、付近の河川周辺にも古代朝鮮語を連想させる地名はないように思います。
なお、渡来系の呼称が日本の地名に根差すことは十分考えられますが、この説に関して首を傾げずにはいられせん。

とにかく現時点で結論を出しようがないので、ひとまず置いて調べていたところ、「瀬降り(せぶり)物語」という80年代に作られた邦画の存在を知りました。
この「瀬降り物語」は、脊振山とは関係がないようですが、「山窩(さんか)」の若者たちの青春を描いた作品だそうです。

山窩とは、山から採れた川魚や蓑や箒などを売り、その修理などしながら山里付近を流浪していた人々のことであると言います。
彼らが河原に天幕(テント)を張ることを「瀬降り」と言い、山窩にはそうして暮らす「せぶりけんた」などがいたそうです。

私はこの話を知って、「瀬織津姫命」とは「瀬降り(山窩)の祀る神」なのではないかと考え、山窩について調べてみることにしました。

結論から言えば、どうやら民俗学的に「山窩」という民族は存在せず、江戸時代末期から「流浪する貧困層≒犯罪者予備軍」として政府や警察機関などから警戒される人々を指した可能性が高いようです。
明治の戸籍制度が進むにつれ、流浪していた人々にも国家政策として定住が促されるようになりました。
そして戦後しばらくを境に、「山窩」の対象となる人々は身分が特定されるようになったため、社会制度の上で「流浪民」は存立できなくなったようなのです。

山窩研究では民俗学者の柳田國男氏が有名ですが、同世代の歴史学者、喜田貞吉氏が「山窩」にまつわる興味深い論考を残していたので、それを青空文庫で読むことができました。

サンカ者名義考-サンカモノは坂の者

彼によれば、山窩という言葉はかつて「穢多非人」と呼ばれた人々を指す「三家」から転訛したと言います。
それは「坂の者=境の人々」という意味であり、聖俗の境界に暮らす職業を指したとされます。

「かく地方によって種々の名称があるにしても、結局は同情すべき社会の落伍者等が、都邑附近の空閑の地に住みついて、種々の賤業にその生活を求めたものであって、特に京都では坂の者・河原者の名で知られ、それが通じてはエタとも、非人とも呼ばれていたものであったのである。
(中略)
しかるに後世では次第にその分業の色彩が濃厚となって、河原者の名がその実河原住まいならぬ俳優のみの称呼となったが様に、坂の者の名がサンカモノと訛って、特に漂泊的賤者の名として用いられることになったのであろう。」


これを捕捉する事柄として、奈良時代の役所である兵部省で鷹などを飼育していた主鷹司(たかつかさ)の雑用係である「餌取り(えとり)」という役職が「エタ→穢多」と訛り、河原者を指すどころか牛馬の解体処理業者までも差別する言葉となったと書かれています。
つまり、本来は聖俗の境界にいる宗教的・呪術的な人々を指していた「坂の者」という言葉が習俗化し、社会経済の枠組みに嵌まらない人々を揶揄する表現に変わっていった、ということです。

だからこそ、幕末以降に「山窩」は山間部の軽犯罪集団のように扱われ、主に官憲の用語として用いられていたと言います。
従って、明治以降に社会基盤の整備が進み法制度が確立するにつれて、これらの層が社会に溶け込んで消滅していったと考えられます。

しかし、戦後に山窩を「民族化」し、彼らを文明社会のアンチテーゼとして扱うフィクションがトレンドとなり、大衆的に広まっていったようです。
その流れを汲んだのが、先の「瀬降り物語」であり、監督の中島貞夫氏はかなりの取材をしたようですが、その内容をそのまま映画化することはできず、エンタメ色の強い作品になってしまったとのことです。
先の論文では批判されている柳田國男氏の「サンカ論」ですが、氏の論文では青森県の恐山で有名な「イタコ(イタカ)」も、かつては流浪の人々であり、非定住の呪術者として差別の対象であったとされます。

「イタカ」及び「サンカ」

イタコは主に弱視や盲目の女性などが巫女として厳しい修行を行い、まじないや霊媒の能力を身につけた職業であるとされます。
「イタコ」の語源は「イツキ(斎)」とするのではないか、という説があります。
この「イタコ・イタカ」は全国に存在したとされ、古代祭祀に携わっていた巫女に由来するのではないかと言われています。

かつて、ヤマト王権が確立する頃まで、日本には呪術的祭祀と政治を切り離す統治システムがあり、「ヒコミコ制」「ヒコヒコ制」と呼ばれています。
そして、ヤマト王権によって地方豪族のシャーマン的指導者は、王権に従属しなければ「土蜘蛛」として討伐対象となりました。

土蜘蛛の古代巫女とイタコの直接的な結びつきは不明ですが、まじない的な仕事をする女性が「坂の者」とされ、聖俗の境界に坐す存在であったのは確かだと思います。

「山窩」がいわゆる「河原者」と呼ばれた役者や芸人、死牛馬処理業者などを差別する言葉であり、不定住者の人々まで一般化するようになると、山里付近で流浪して暮らす人々が特に「山窩」とされたようです。
この「山奥に暮らす人々」は、いつの時代も存在したはずで、縄文由来の生活文化を続けてきた人たち、あるいは「マタギ」のように、狩猟を生業としてきた人々もいたはずです。

マタギは広範囲の山々を「跨ぐ」から「マタギ」とする説があるくらい、山々を熟知した人々であったはずです。
マタギの伝承にあるかはわかりませんが、「瀬降り」という表現も山から川に降りてくる様子を示しており、河川に天幕を張って野営するのは自然なことかもしれません。

このマタギに関して、面白い話があったのを思い出しました。
オカルトや怪談のジャンルに「山怪」というのがありますが、文字の如く「山の怪談」のことです。
その中に、「山の白い女」という話があります。

この話は、誰もいないはずの山奥になぜか白い服を着た女性がおり、それを見て山に入った人が混乱する、と言うあらすじです。
その場合、白い女を見た人は大抵「白いオコジョを見間違えたのだ」と諭されます。
ただ、「山奥で白い影を見る」というのは、近代から始まった話ではないように思います。

秋田県の阿仁マタギの人々には、今も修験道に繋がる宗教的な慣習が伝わっているそうです。
マタギの人々は山の神を女神と信じ、その神様は大変醜いお姿であり、ゆえに山に女性が入ると女神様の嫉妬に会うため、猟に出る時などや入山に女性を関わらせないとされます。
これには、女性を山に連れて行かない現実的な理由はあるのでしょうが、興味深いのは山神を「女神」としている点です。

日本の神道において、山の神は「大山祇命」や「猿田彦大神」や山体固有の神名である場合が多いです。
その場合ほとんどが男性神であり、山を女神とする事例は早池峰山や白山や六甲山など、数えられるほどしかありません。
そして、この「早池峰山」こそ瀬織津姫命を主祭神とする「早池峰神社」が建立されています。
この早池峰山は、一説には猟師が山頂で三柱の女神を見て、祠を建てたことに始まるそうです。

何が言いたいかというと、「山奥で見る白い女性」とは人間が山奥で神秘に触れる時、本能的に知覚してしまうビジョンなのではないか、と考えられるのです。

私は若い頃、面白半分で道のない山を登ったことがありますが、木々とシダに覆われた森の静謐さや、神秘的な空気を忘れることができません。
山や森の奥にはせせらぎがあったり、水源となる泉があったりします。
人間はそこで神秘に触れる時、清純な「女神」の姿を見るのではないでしょうか。

「雪女」という昔話がありますが、あれも冬山で遭難した猟師が白い衣の女性に助けられます。
どうも、人間が山深くに入ると霊的な覚醒状態となり、神秘的なビジョンを見てしまうように思えてなりません。
先の脊振山についても、山地は河川を「振り分ける」姿を形容しているとは言えるものの、山に入る人々がそこに女神を見たとしたら、山頂へ瀬織津姫命に比定される弁財天を祀るのも理解できる気がします。

先の「サンカ論」で取り上げた柳田國男氏は、日本に伝わる妖怪を「零落せし(落ちこぼれの)神」と呼びました。
これは日本が近代化していく中で、信仰の対象にならずに迷信化していった神々が、後に「妖怪」として扱われていったのではないか、という説です。

瀬織津姫命は、「記紀」の記述から漏れた神であり、唯一その名を文書に残すのは「中臣祓詞(大祓詞)」のみです。
瀬織津姫命が「祓戸大神」として神道上で重要な役割とされていなければ、おそらくその名が後世に残ることは難しかったのではないでしょうか。

日本の神々の系譜において、その神名を残せなかった数多の神々がいたとするなら、「瀬降りつ姫」のように素朴な由来の神様も存在したでしょう。
それこそ、自然神だけでなく九十九神と言われる道具やモノに宿る神々は、神名を後世に残せなかったからこそ、怪異として人々の記憶に刻まれてきたのかもしれません。

この「神の零落」とは、人間が崇拝する対象を社会的に規定されてきた結果のはずです。
ただ、かつてのように神秘的なものを自由に知覚し、人々が目に見えないビジョンを共有する世界が広がるなら、「神々の復活」「妖怪の蘇生」は夢物語ではないのかもしれません。

なぜ、私がこれほど「瀬織津姫命」に心酔するのかと言えば、瀬織津姫様がこれほど神として重大な役割であるにも関わらず、正式な伝承もなく半ば都市伝説的に語られることに対し、不遇さを感じてしまうのもあるかもしれません。
その境遇にシンパシーを感じるのは、私自身がこの現代社会から弾き出され、「河原者」のような立場に置かれているからでしょう。

現代社会に生きながら根無草の「山窩」のようであり、細々と「瀬振り」のように暮らす私には、瀬織津姫命を心の拠り所とするのは必然であり、運命だったような気がします。
だから私には、瀬織津姫様が高いところにおられる絶対的な権威ではなく、どこか自分の仕える「お姫様」のような、親愛の情を抱いてしまうのだと思います。

とは言え、神様は人間の想像を遥かに超えた存在ですから、私が瀬織津姫様に惹かれていく理由も、自分が思うようなものではないのかもしれません。
私としては、敬愛すべき女神様のために何ができるか、今でも何ができているかはわかりません。

ただ、もし私が神様のお役に立てるのなら、それはとても光栄なことだと思います。

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「好き」と「仕事」

楽太郎です。

今、思うように絵が描けない状態が続いています。
それでも、神様から一つのお役目のようなものを任されていて、それが「神の系統を取りまとめる」というテーマです。

これはとてつもなく大きな課題であると承知しています。
そのための道筋として、かつて考古学者のシュリーマンがトロイの遺跡を発見したように、古代史と考古学から歴史的事実を紐解き、神話の原型を見出すという工程を辿ることになります。

私としては独断と偏見で挑めば実現は可能だと思いますが、中途半端に結論を急ぐわけにはいきません。
「邪馬台国」や日本建国を巡る民族学的議論は、プロの学者が何十年も挑んできたテーマであり、素人に簡単に辿り着けるものでもないでしょう。
けれど、徐々に道が拓けて来ているのも事実で、その成果に少しずつ手応えを感じ始めています。

「お役目」とは何なのだろう、と考えます。

私はずっと絵を描いてきましたし、漫画を描く技術も才能の一種だと思います。
今まさにやりたいのは漫画ですし、そのアイデアにも意義を感じており使命感もあります。
しかし、なかなかそれに取り掛からせてもらえないのも事実で、こうして別のことをしている間、自分にとって絵を描くことの意味を考え直しています。

私が創作の道を志したのは、自分が表現したいものを描き、それで収入を得て生きていきたかったからです。
幸い、近年のクリエイティブはそれが比較的容易でしたし、そうして成功している人も周りにいました。
だから、単純に「魅力的な作品を作れば実力が認められ、それを生業にできる」という頭がありました。

けれど、需要と供給のバランスから生まれる「仕事」というものは、自分がやりたいことと役に立つことの関係は似て非なるものです。
例えば、人が暮らしていく中で「これが欲しい」と思い、その人の願望に合わせて自分がものを作ったりサービスを提供する、その過程に「自分がやりたいかどうか」は関係がありません。

もちろん、誰かのために自分の技術や才能を発揮すること自体を目的にしたり、喜びにできればそれ以上のことはありません。
しかし、自分のタイミングや相手の出方次第で、気が乗らなかったりやりたくない時も当然あるでしょう。
そういう時に、「気が乗らないのでやりたくない」と言っていたら、それを仕事にすることはできませんし、生業として成立しません。

つまり、「人の役に立つ」ことと自分の感情は関係がないのです。

私は長い間、この部分を誤解していたのだと思います。
ずっと「夢を叶える」ということは、「自分のやりたいことをやって生きていく」ことだと思い込んでいました。

かつて、ある会社で制作をしていた時、声優学校の生徒たちに声の仕事を任せたりしていました。
今思えば、彼らには理不尽なことをやらせてしまったのですが、「学生に仕事をやらせる」という優位な立場は、無条件に彼らを搾取することになっていたかもしれません。

「夢は叶うものだ」と純粋に信じ、夢を叶えるために社会の理屈を飲まされるのは、いつも夢を見る若い人たちです。
成功するために、「これをやってくれたら有名になるかもしれないよ」と唆し、チャンスをチラつかせてやりがいを得させ、その代わりに何かを強引に吸い取っていくのです。
これがこの社会の「夢」のあり方であり、自分もその仕掛けの一部だったのではないか、と今では反省したりもします。

そうやって「若さや情熱」のエネルギーを吸い取られながら、本当の意味で夢を叶えて成功した人はどれくらいいたのでしょうか。
そして、成功した人は何一つ自分の手を汚さず、夢を叶えることができたのでしょうか?

そう考えると、「やりたいことで成功して生きていく」という発想そのものが、単純に考えていいものではなかったのではないか、と思います。
「やりたいことを仕事にする」ことは、欲に従って好きな仕事ばかりをやっていくことではないですし、「仕事そのもの」が好きだから生業にできるとも言い切れません。

そもそも、「仕事」と「好き」は違う次元の話なのです。

仕事はやりたいことだと言っても、領収書の整理や事務作業、メールや電話応対もしなければなりませんし、やりたくない業務の中で実際に楽しい作業はごく一部です。
ただ、「やることそのもの」が目的である時、例えばガラス細工を売るのが仕事だとしたら、事務作業も材料の調達も一連のプロセスをひっくるめて「やりたいことだ」と言えるのです。
その場合、ガラス細工職人という生業そのものが、「やりたいこと」に昇華されていると言えます。

もし先の学生のように、声優をやることが目的だとしたら、やりたくないことをやってキャリアを積む、それも含めて「やりたいことだから」と綺麗事にできれば問題はないのでしょうか。
その場合、目指すものが「仕事としての成功」なのか「生業にすること」なのか、その目的で変わるのだと思います。

私の話に戻すと、「漫画」は誌面連載だから成り立つのも事実です。

実は漫画は花形に思えて、ネットに適当に上げただけではインプレッションがつきません。
イラストなどは瞬時に判断して評価できますが、漫画は文字を読んで絵を見て理解するという一連の動作を要求するので、時と人を選びます。

漫画は雑誌に掲載されますが、雑誌は欲しい人が手に取るものなので、その漫画を読む人は漫画が読みたい人です。
だからこそ、多少冒険的な作品でも漫画を読みたい人の元に届きます。
しかし、ネットに無闇に上げただけでは埋もれてしまい、本当にその作品を求めている人の元には届きにくいのです。

「雑誌」という形態を取っているからこそニーズに合った作品が認められることになるわけですが、雑誌は出版社がなければ成立せず、誌面に限りがあるからニーズに反したものは掲載されません。

つまり、ここでも「求められること」と「やりたいこと」は違うのです。
いくら自分の作品に思い入れがあり、それを人に読んでもらいたくても、求める人がいなければやりたいことをやっただけで終わってしまいます。

とは言え、これまで漫画家という職業は、出版社に気に入られるために、読者の評価を勝ち得るために、命懸けで作品と向き合ってきました。
たくさんの才能ある作家が趣味で描く分には面白い漫画を描くのに、出版社との折り合いが合わずにやっていけなかったり、筆を折ってしまう人も何人か見てきました。

だからこそ、私は自分の作品を活かしながら収入に結びつけられないか、色々と試行錯誤をしてきました。
私の抱えていた矛盾は、「漫画を描くことそのもの」を目的にしたいと思いながら、「自分の作品を描く」という目的を両立させようとしてきたことです。

けれども今考えると、一番最初に「誰の求めに応じ、役に立つのか」という部分が欠落していたように思います。
自分がやることが目的であり、仕事が自己実現の手段であったからこそ、「誰かのためになっていく」というプロセスを踏まず、ゆえに成功の道を歩んでいくことができなかったのだと思います。

だから結局は、「誰を喜ばせたいのか」というビジョンが見えておらず、自分の喜びを優先してうまくやろうとしていたのが、ビジネスとして歯車が回らない理由だったのでしょう。
けれども、これは「夢を叶える」「やりたいことを仕事にする」という頭では、かなり誤解してしまう部分です。

周りに喜ぶ人が増えていくこと、その輪が広がって成功していく、そのプロセスを無視してもこの社会には成功するメカニズムが確かに存在しました。
業界の有力者に気に入られたり、強い組織にコネを作るとか、あるいはもっと汚いやり口を使うとか、本来のやり方を採用しなくても成り上がれる世界だったのも事実です。
そういうエスカレーターのような仕掛けがあり、それにうまく乗ることを「競争」だと表現されていたりもしました。

けれど、それも「搾取」の一形態であり、必ずしも喜びの輪となるものではなかったはずです。
残念ながら、これまでの社会で「夢を叶える」ことは綺麗事ではない時代でした。
そんな世の中に早く気づけば良かったのか、気づいてもっと強かにやれば良かっただけなのか、それは未だにわかりません。

私は、「漫画を描きたい」それだけが願いです。

けれど、仮に趣味と割りきり誰も求めないところで始めても、それよりもやらなければならないことには勝てないでしょう。
やはり、人に「やって欲しい」と言われることをやるのに越したことはないのです。

ここの部分を下手に勘違いせず、それでも「漫画を生業にしていくにはどうしたら良いのか」は、ずっと問い続けていきたいのです。
それが人の求めになく、神の求めにもないとしても、自分が魂から求めることを実現するにはどうするべきなのか、その答えを他人任せにしてはいけないと思うのです。

自分としてこの世に一度生まれてきて、本当の願いを持つということは、諦めて済むような単純なものではない気がするからです。

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瀬織津姫様の習作

楽太郎です。

今日も鉛筆画の練習をしました。
今回は、コピー用紙に描いたイラストをスキャナーで取り込んでデジタル化しました。



この下絵をデジタルで線画にして、着色して仕上げをしようと思っていたのですが、久しぶりにPCで作業していたら頭が痛くなってきました。

やはり、PCの波長と合わなくなってきたのは事実のようで、最終的には動悸がし始めました。
紙に向かっている間はこんなことはなかったので、どう考えても何かあるのだろうなと思います。

まあ、 Microsoftなんてのは人世の権化みたいな企業ですし、その裏にはイヤーなオーラの存在がいるのは確かなので、波長が合わなくなって当然だと思います。
ただ、困るのはSurfaceがMicrosoftのOSでなければマシンの制御ができない可能性が高く、OSをUBUNTUなどに差し替えて使う手段があるかはわかりません。

かと言って、これ以上のデジタル描画環境を整えるのは現実的に難しいので、「デジタルの波動を抑え込んで使い続ける」「完全にアナログだけで制作する」の二択しかありません。
「半デジタル」という選択肢がないかなと模索してみましたが、これほどPCと相性が悪くなるとは想定外でした。
まあ、こうなるとわかっていたらSurfaceなんて買わなかったでしょうが…。

とりあえず、鉛筆での描画はだいぶ慣れてきました。
仮にアナログでこのままやり続ける場合、ペン入れと着彩もできるようにならなければいけません。
しかし画材はこのご時世、かなり高価になってきているので、生半可に使い始められるものではありません。

ということは、「デジタルの波動を抑え込む」以外に方法はないように思います。
ちょっとこれはどうしたものか…。

神様から、「まだ動くな」というメッセージにも取れますし、困ったものです。

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鉛筆画練習

楽太郎です。

今日も瀬織津姫様のイラストを練習しました。
せっかくなのでアップします。




最近の絵は、リアルテイストに寄りすぎてバランスの悪い絵になりそうだったので、若干デフォルメをかけました。
なぜか私は鼻を描くと自分で違和感を感じるので、私以外の人は「何で鼻がないの?」と思うかもしれません。

ずっと美少女イラストを描いてきたからだと思うのですが、いかにリアルテイストであっても「鼻の穴が描けない」という呪いは外すことができないようです。
ちなみに、男性キャラに鼻の穴を描く上では全く抵抗はありません。

私は乱視がきついからか、左右の均整のとれた絵を描くのが難しいです。
デジタルは左右反転が容易ですし、修正もしやすいのでアナログに移行するのは考えられませんでした。

ただ、今回何時間も試行錯誤してみて、確かに正面から描くとかなり歪んでしまうのですが、上下を交互に逆さまにしながらデッサンを取ると、バランスが取りやすくなることを発見しました。
これはなかなか画期的な気づきだったので、今後はやりやすくなると思います。

こうしてアナログのイラストを描くと、ネットとの相性の悪さを感じます。
アナログ派の絵描きはデジタルにする際にアプリを噛ませるのですが、そういう方はわりとデジタル描画環境がない人が多いです。
私の場合はどうせ練習ですし、スマホで撮って色合いを加工して、まあ見れなくはない感じにできればいいかなと思います。

これから先、ずっとアナログでやり続ける気は正直ないのですが、最近デジタルと波長の合わなさを感じていて、エネルギー的にはアナログの方がやりやすいです。
電磁波が苦手なのか、電子機器そのものと波長が合わないのかわかりませんが、PCではやりにくくなってしまったのは事実です。

ただ、アナログで描くのにイラストは良いとして、漫画を描くには「写植」をどうするのかというのが難題です。
漫画は、やはり印刷機を通すからまとまった作品になります。しかし、その写植を自分でやるのは非常に骨が折れます。

いずれにしろ、漫画を描くにはいずれ新しいやり方を取り入れなければならないと思っています。
そのアイデアはあるのですが、あまりに突拍子もなさすぎて受け入れられるのは厳しいかもしれません。

ということで、しばらくは試行錯誤の時期が続きそうです。
どの道今は身動きが取れないので、地味に絵を練習するしかなさそうです。
早く色々とやりたかったことに取り掛かりたいのですが、神様がなかなかGOサインを出せないようです。

たぶんどうせやっても無駄になるからだと思います。
けれど、やりたいことが何一つできない生活は、さすがに退屈すぎます…。

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人は儚い

楽太郎です。

桜の花が、散りました。

今年の地元の桜は、満開の時期が平日と重なりました。
週末に花見を期待していた方々は、雨に当たって予定が崩れたことと思います。
雨が続く日々が終わると、強風の日が重なって一気に花が散りました。

今年、桜の下でシートを広げている人をあまり見かけませんでした。
今年は天候に恵まれなかったのもあると思いますが、このご時世、そういう気分にはならなかったのかもしれません。

私は桜が一分咲いたあたりで、「今年の桜は元気がないな」と感じました。
たぶん、今年の桜はすぐ散ってしまうだろうと思いましたが、予想通りになりました。

木之花咲夜姫命は、桜の女神とされています。
桜の木は古来から日本人は「神の木」と呼んできました。桜の木を見て、昔の人は作物の吉凶を占ったそうです。
今年の桜を見てみると、何となくこれから良くないことになりそうな気がします。

物価高と不況が重なり、そこに凶作が加わることで見えてくるのは、「食糧難」です。

私はそれをひしひしと感じて動いていますが、全く何の不安も感じずに暮らしている人もいるのではないでしょうか。
もっと危機感を持て、とは言いませんが、この期に及んで「金さえあれば何とかなる」という頭でいるとしたら、あまりに能天気すぎると思います。

先日、私がすごく好きで毎年年末には必ず宿泊していた温泉旅館が、巨大リゾート企業に買収されました。

その旅館は歴史が古く、趣があってとても居心地が良かったのですが、大衆的にリフォームされるらしく、とても残念に思いました。
確かに、旅館から外に出ると食事できるような店すらないので、温泉地全体が立ち行かなくなってしまったのもわかります。

時代が変わり、これまでにあったものがなくなっていくのは考えれば当然なのですが、それは自分が好きだったものを手放さなくてはならない、ということを意味します。
当面は、というか二度と、あの良かった温泉旅館に泊まることはできません。本当に残念ですが、時代の流れだと思うしかありません。

最近、行き交う人々を眺めて、「人間は儚いな」と思います。

私の以前勤めていた会社も、10年そこらで跡形もなくなり、人々の記憶にすら残っていないでしょう。
昔よく通っていた店も場所も、消えてなくなり今は何の面影もありません。
あの頃は「またいつでも行ける」と思いましたが、今になるとあれが永遠の別れでした。

これまで様々な人と出会い、色々な考え方や生き方を見ていく中で、「どうしてそんなに生き急ぐのだろう?」と思う人がたくさんいました。

同世代の友人も、異性の気を引いたり立場を優位にするためには、本当に何でもやるような人たちばかりでした。
また、あまりに向こう見ずに行動するから、望まない形での就職や結婚をする人も多かったです。

ある知り合いは、未婚のまま子供が出来たことを「やらかした」と表現していました。
付き合っている段階から気が合わなくて喧嘩ばかりしていたのに、子供が出来て結婚する段になると、なぜか急に幸せアピールをし始めるのが不思議でなりませんでした。

彼らがそれで本当に幸せになれば、私が特に思うこともなかったでしょう。

しかし、彼らの多くが家族を養育するために望まない職に就き、夢を捨てて人生の舵を違う方向に切っていきました。
やはりそういう人たちほど生活の中で狂いが生じ、家族と離散していくのを目の当たりにしました。

若い頃は夢ばかり語っていた人たちも、気がつけば大言壮語を捨てて稼ぎとルーティンの生活に嵌っていきました。
堅実に生きる、彼らはそれが「大人になる」ことだと言っていました。
私はそれもそうだと思うのですが、社会の一員として立派であるために自分の人生を曲げるのが、果たして人間として正しいのかはわかりません。

人間にとって何が必要なのかわからないまま、急いで何かを手に取ることで、本当に必要なものを手にすることができない、ということもあるのかもしれません。

人間に大切なものはもっと普遍的で、長い年月をかけようと失いにくいはずなのに、人々はすぐに壊れるものばかり欲しがり、それが一番良いものだと信じてしまいます。
それはもう、今頑張って手に入れたとしてもすぐにとうの過ぎるもので、信じるがゆえにそれに気づかないのでしょう。

人々はそうやって長い間、刹那的なものを追い求め、刹那的なものが永遠に存在すると思い込み、刹那的なものに全てを賭けてきました。
けれど、それは「桜の花」のようにすぐに散ってしまうもので、あたかも凌霄花のように飽きるほど続くものだと錯覚します。
やはりそれも幻想なので、すぐに思い出の存在になってしまいます。

その悲しみを癒すために、また「同じもの」を心から求め始めます。
「あの頃にあった何か」を呼び戻そうと、楽しかった昔のものや思い出のシーンを再現し、過去を取り戻すことに執着してしまうのです。

その心理は、近年の「東京オリンピック」や「大阪万博」という現象に現れてはいないでしょうか。
その他にも、中年以降の大人にしかわからないような懐古主義、復刻ブームが盛り上がっているように見えます。

けれど、おそらくそれも一瞬のもので、その花が散るとまた寂しさを覚えてしまうのでしょう。

だから私たちに必要なのは、過ぎ去るものには潔く別れを告げ、大切な思い出として胸にしまって生きていくことではないでしょうか。
そして、時には振り返ってもいいかもしれませんが、今この時代だから必要なもの、人が本当に求めるものに目を向け、そのために新しい行動を起こしていくことだと思います。

「青春は取り戻せる」という人と、「青春は取り戻せない」と言う人がいます。

私はどちらも正解で、どちらも間違いだと思います。
青春はやはり、経験がないからこそ10代20代の瑞々しさはあるのです。
しかし、青春時代のようなキラキラした世界は、何歳であろうと心持ち次第で味わうことができます。

大切なのは「心」であって、形だけあるべき姿に合わせるから無様な形になってしまうのです。
そしてその「心」こそが普遍的で、長い時間をかけても色褪せないものだと思います。

色々なものが消えていくのは、時代が変わるのだからしょうがないのです。
けれど例え全てが変わるとしても、人間として変えてはならないものがあり、それこそが本当に大切なものだと思います。

感情に流されず、何がそうであるかを見極めていきたいものです。

新しい時代は何もなくて心細いかもしれませんが、昔のもの以上に良いものを見つけ、作っていけばいいだけです。
そして、これからはそう割り切っていくための時間がこの国に来るのだと思います。

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