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招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

反転攻勢が始まった

楽太郎です。

6月21日夏至に「精神界」の気場が完成し、25日の新月から神世の時代が始まったことを実感しています。
以前として世に変革の波は出て来ず、邪気も浮遊霊による霊障も収まる気配はないように思います。
精神界という新たな霊的空間にアクセスできる人々は、こうした幽界的影響から相対的に距離を取っている状態ですが、それゆえに襲いくる邪気の強度は比例して高まっているはずです。

私の体調がとても不安定だなと思うのは、憑依が抜けている状態と霊障を受けている状態では天と地ほどの落差があることです。
憑依を受けている間は殆ど重病なんじゃないかみたいな錯覚すら受けるのですが、それが取り払われると天国にいるような感覚になります。
やはり、普段は精神界に接続していると高い波長の平和的なエネルギーを受けて、何でも許せるような気持ちになるのですが、憑依体の悪意の強さは身体で受けきれないレベルになりつつあります。

正直、もう少し霊障に関しては穏やかになると思っていたのですが、逆にエゲツなくなってきているようで、しかし私が次元上昇にしくじっているわけではなさそうです。
体感としては、これまでになかったエネルギーの高まりの中にあって、「霊障は肉体レベルで抑え込める」という感覚になってきました。
これほど強い霊障を受けるのは、私が常日頃から「神に仇なす者たち」を再三ブログなどで挑発しまくっているからで、これだけ神様と共にお祓い作業をしていたら、それは狙われるだろうという納得感もあります。

この「抑え込める」という感覚がどこから来るのか考えてみれば、これまで憑依に対しては受身的というか、来るものから耐えるという防戦一方の感覚がありました。
ただ最近は少し違くて、私がまるで自分で挑みに行って戦っているような、そんな力強さを感じています。
現実面では具合が悪くて寝ているしかないような時にも、私の霊体は違う次元で目に見えない者たちを相手にやり合っている、そういう印象があります。

常々思うのですが、人間は自我がコントロールしていて、ハイアーセルフが全てを知っており何もかも取り仕切っている、というのは若干違うのではないでしょうか。
ハイアーセルフは「霊界の自我」であって、それは魂として自分で感じ取れるのですが、その魂は自分自身に対して対話的な存在ではなく、むしろずっと沈黙しているように思えるのです。
そのハイアーセルフ自体も、おそらく過去世から因縁のある霊人たちや現世の先祖霊、現代に関わる人々からの生き霊、外的に存在する不浄霊や精霊や神々、そういった雑多な霊的コミュニティが存在していて、その霊団の中心にいるのが霊体としての自分なのではないかと思います。

だから何かインスピレーションを受ける時、特にメッセージや言葉を受け取る時は、最終的に自分の言葉に置き換えられるとしても、その発信源は自分の魂を取り巻く霊団から送られてくるのが殆どで、自分にはない波長だから「メッセージ」としての外部的要素を持ちうるのではないでしょうか。

よく人間は寝ている時に魂が身体を抜け出して、魂の故郷に戻るという話を聞きますが、私たちは霊魂であるのが本来の姿であり、この世は修行のために用意された仮初の仕組みですから、実際の働きがあの世で起こっていると考えるのは辻褄が合います。
スピリチュアルの世界でも「霊主身従」と言われますが、霊界という沈黙の世界に真の自分がいて、その命令を受けたこの世の自分が、「自由に物事を考えて行動している」と錯覚しているだけのような気もします。

日月神示など伝統的な心霊書でも、「霊界で起こったことが現実界に反映される」という話があり、その認識は遍く全世界にあります。
つまり、やはり私たちの本体は目に見えない世界こそにあって、その本当の私が様々な霊人と関わり合い、折衝をしたり反発したりして現実界の私の現象に立ち現れてくるのだと思います。

だから、私が現実界で人間の集合無意識にアプローチし、その背後に蠢く「神に仇なす者たち」を挑発しまくって、目に見えない霊的世界でバチバチにやり合っているというのは意外に考えられるのです。
「争いなんて野蛮だ」と思われるかもしれませんが、おそらくこの世界の浄化は日月神示でも言われている「正神と悪神の戦い」の中で起こっており、人間が平和が良いと言っていても神様たちはおそらく戦っている最中です。

人間のために戦ってくださる神様にばかり戦いを背負わせて、守られている人間が「争いなんてヤダヤダ」と言っているわけにはいかないのではないでしょうか。
だからこそ私は精神界の気場の防衛に参加してきたという実感があるわけですし、今バチバチに戦いをしているという感覚もあります。

ただ先ほど書いたように、この「戦い」も感覚が変わってきて「攻めに転じた」という印象があります。
これまでの防衛的な意識では、やはりどこか耐え忍ぶ部分があり、状況を守り通すことで精一杯という感じでした。
けれど最近は「やってやる」という前のめりな勢いがついてきて、現実の行動もそのエネルギーを受けて積極的になってきました。

この「反転攻勢」の感覚は、やはり精神界の気場の完成と始動において無関係ではないと思います。
おそらく、私が神様たちと共にお祓いをしている相手は、「人治の世界」を支配してきた存在です。
彼らを倒すというより霊的浄化や改心を促して回っているのだと思うのですが、彼らを弱体化させることは「人世の気場」を削り取っていくことを意味します。

つまり、この反転攻勢は盤石すぎて飽和した状態から身動き一つ取れなくなった世界を切り崩し、風穴を開けていくことになると思います。
だから石破総理とトランプ大統領の就任以降、特に何も変わらずダラダラ悪くなっていく世界は、これから霊的次元からの変化が反映していくことになるはずです。

今、この状況でどれほどの人が精神界の気場からエネルギーレベルの変革を行っているのか、私には判断がつきません。
しかし、霊的な次元は時空を超越しているので、参加者が実際に知り合いでなくても霊団としてすでに繋がっていることはあり得ます。
その人々が実際に出会わなくても、霊的次元で済む話なら出会うことはないかもしれません。
そこら辺は神々のご計画の範疇というか、必要な時に必要な者たちが巡り合わされていくのだろうと思います。

先日、国内回帰して復活した小沢健二さんの新曲「演歌がいいから」を聴きましたが、ああいう日本を代表する人が日本文化への憧憬と海外文化への懐疑を直接曲に表現するというのは、感慨深いと思いました。
おそらく、日本の神々からの「温故知新」というメッセージを正しく受け取っている人は思ったより多いかもしれません。
それだけアメリカ始め社会情勢のレベルで「何やってんの」という空気になっているのも現実にあるわけですが、そうでなくとも感性の鋭い人は似たようなインスピレーションを受けているのだと思います。

小沢健二さんに関しては往年のファンで、復帰以降も新曲共によく聴いています。
単なる感想ですが、「東大900番講堂講義」あたりで小沢さんの癖が出たというか、ファンというより日本人なら誰もが「ラブリー」とか「愛し愛されて生きるのさ」みたいな底抜けに明るいポップソングを歌って欲しいと思っているのでしょうが、そこで我を出すあたり小沢さんらしいなと思います。

ただ、やはりどの曲も破天荒な楽観主義と人生讃歌が小沢さんの作品の真髄にあって、今何となく「この世界がつまらない」と思って生きる人々には良いカウンターになると思います。
そう言ったパンクさが今の時代には必要であり、神様はこの世を変えうる人々にそのメッセージを送っているのだと思います。

日本人よ、今こそ飾り立てられた古い衣を脱ぎ捨て、心地良い大和の衣を着直そう」と。

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「お祓いみくじ」製作中

楽太郎です。

今、瀬織津姫命の「おみくじゲーム」を作っています。



「Scratch」という教育用プログラミングツールがあって、なんとノンコードでゲームが制作できるというものです。
以前からUNITYやRPGツクールなどでゲームを作るのが趣味だったので、わりと楽しくやってます。
Javascriptでやればもっと簡単にできたのですが、あえてブラウザゲームにすることにしました。

「HARAEDO」投稿専用のブログを作るに当たって、ミニゲームのようなアプリを客寄せ程度に実装しようと思い立ち、気がついたら「WEBおみくじ」を作っていました。
当初は「ナギくんのお遣い競争」みたいなタイトルのすごろくゲームを制作していたのですが、Scratchの仕様をマスターするために簡単なアプリを作り始めたところ、一応動くくらいには出来上がりました。

画像素材もちゃんと一から作って、キャラ画像は元より背景の神社に至るまできちんと作ってます(笑)
漫画の本編より先になぜ周辺部から作り込み始めたのか、自分でもわかりません。
「簡単なところからやろう」と思っているわけではないですが、どうも瀬織津姫様がご自身のおみくじゲームを作って欲しいとしか思えない…

というのも、「おみくじゲームを作ってみよう」と思い立って3日くらいでここまで具体化しました。
瀬織津姫命とナギくんのプチキャラも、思ったよりすぐ形になりました。
私はこういうの描くのが得意なんだなと改めて思うのですが、私の好みとしてはあまり主線が強くない絵を描きたいです…




おまけでプチキャラの立ち絵を掲載します。
私は長らく同人をやってきた人間なので、こういう絵を描くと「アクリルキーホルダーを作りたい」と思ってしまう性質があります。
シールとかアクリルスタンドとか缶バッジとか、長テーブルに並べる私の姿を想像したり…
ただ、この作品は実在の(?)神様をモチーフにしているので、自分で勝手に色をつけるわけにはいきません。

下手するとバチが……(汗)

瀬織津姫様も私のキャリアの将来を案じてお力を貸して頂いていると思っているので、神様にご無礼なことはしたくないものです。
とは言え、需要があればという気持ちもあります。
とりあえず、瀬織津姫様の新規立ち絵も制作中ですし、そのイラストは完成次第またネットプリントで印刷可能にしてみようかと思います。

神様は私の専売特許にはできませんから、なるべくオープンな感じで作品を作っていきたいと思っています。

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「アセンション」とは何か

楽太郎です。

今朝、不思議な夢を見ました。
深夜の小学校を歩いていて、中学校の頃の担任とすれ違いました。
今ではお互いにいい歳になってますから、私の記憶の反映か空似だと思います。
購買部が開いていて、そこが玩具売り場のようになっていましたが、校舎全体が暗く誰もいません。

玩具を覗くと、「SDガンダム」のプラモデルが埃を被って山積みになっていました。
SDガンダムは私の子供時代を象徴するコンテンツだったので、酷く懐かしかったのですが不思議と興味が沸きませんでした。

場面が変わって、クリーチャーと女性が戦うバイオハザードのような映像を見ました。
怖いとかいうより「前に見た感じがする」と思って私はモヤモヤしていました。
その映画はVHSとしてデッキから出てきて、レンタルビデオだったようで、これまた懐かしくなりました。
けれどVHSはもうほぼ流通しておらず、私の記憶の中の存在であり、過去は過去のもので懐かしく愛おしいのですが、私の心は動かないのです。

本日6月25日、厳密に言えば夜が新月です。
私はこの夢を今朝見て、心理的に古い世界から抜け出たのだとわかりました。
おそらく、この新月から「神世」が動き出すことになるのだと思います。

ここ数日、自分の肉体レベルで徐々に邪気や憑依を抑え込み始めていました。
これまで、そう言った悪影響は肉体を通じて心や思考に到達して、あれこれと私の意識に介入してきていました。
私はこの影響をモロに受けて、病気になったりおかしな言動をしてしまうこともあったのですが、まさかそれを霊障などとは自覚しようがなかったのです。

これまでの物質主義の時代は、科学的でない見解は眉唾物とされ、白い目で見られる風潮がありました。
それらは迷信であり、その迷信を信じるような人は病気で、病気だからこそおかしな目に遭うのだ、と思われていました。
そうして「精神医療」というものが普及して、心の問題は医者に頼るようになりました。
私もかつて鬱病で長年苦しみましたが、実際に投薬治療で寛解したとは言えず、今思えば霊障以外に考えられません。

そして、今ではそれらが憑依であったことを知り、憑依してくる存在が何かを知っているからこそ、真の対処ができるようになりました。
もちろん、全ての精神疾患が霊障だと言うつもりはありませんし、精神医学を否定するわけではありません。
しかし、そういう解釈が全ての世界だからこそ、真の問題解決に辿り着けなかったことを理解したのです。

そして、私を苦しめてきた憑依体はこれまでの物質主義、経済至上主義の時代を作り上げてきた存在であり、人の欲望を支配し自らの利益と思惑を水面下で浸透させてきた勢力です。
その連中になぜ私が狙われ続けたかと言うと、私が「命(みこと)持ち」として天界からの使命を与えられ生まれてきた人間だからとわかりました。

こう言うと私自身を特別に持ち上げている言い方になってしまいますが、そうではなく「命持ち」の人々はかつて、街中ですれ違えるくらいにはたくさん目にすることができたのです。
彼ら「命持ち」は、神界に近い霊界の記憶を残して生まれてきた人々が多かったので、純粋で優しい人ばかりでした。

生まれ持って感性が豊かで善良な性格であるため、成長して世間に馴染む過程で世の邪気に当てられてしまい、その性質を変えやすかったのです。
感性が純粋なので、闇に染まると闇に染まり切ってしまい、実際に罪に染まるか病気になるか、様々な形で魂を曇らせた人がたくさんいました。
魂が限りなく白に近い状態で生まれたからこそ、多様な色に塗れたこの世界の色に染まり、本来の色を保ち続けるのは困難だったのです。

神の使命を背負って生まれながら、その使命に目覚めることなく埋もれてしまった人が多く存在していて、「命持ち」、いわゆるスターシードと呼ばれる人々自体、それほど珍しいわけではありません。
そんな彼らも、最近は誤情報や変な思い込みに惑わされて覚醒の妨害を受け、新しい気場の解放に立ち会えない人も出てきてしまいました。

その中で私だけが稀有みたいに見えるのは、それだけ多くの脱落者がいて、私はコテンパンにやられながら意地だけで残った、という感じに近いです。
それは運命とか才能とか言うより、私が性根から捻じ曲がって我が強いため、「負けてたまるか」という気持ちだけでここまでやって来ただけなのです。

逆に言えば、私が決して純粋無垢ではなく天邪鬼だったからこそ、何があっても穿った目で見て反発し抵抗して来たのだと思います。
私が下手に意地汚いからこそ、ここまで残ったとも言えます。
これまでたくさんの命持ちがいたでしょうし、実際に私も数多く出会って来ましたが、だいたいが魂を曇らせてしまいました。
だから、私だけが特別で優秀な訳ではないのです。

これまでの世界が「金とモノ、ステータス」が全ての社会で、物質的に目で見える事柄しか存在しないような空気にすることで、心や魂を軽視し神をなきものにしようとする働きがありました。
「なぜ神がいながらそう言う世になったのか」という問いに対して、極論的に言えば「人類の学びの過程であるべきカリキュラム」と一言で言い切れます。
ただし、私を始め命を捨てる寸前まで叩き落とされ、現に様々な理由で命を失った人々が膨大な数に及ぶ中で、そう言い切ってしまうのはあまりに短絡的かもしれません。

物質中心の世は確かに便利な機械や道具に溢れて、欲望を満たすシステムも充実していて、その中で豊かに生きようと思えば夢もありました。
人々は決して嫌々働いてきた訳ではなく、それだけやり甲斐もあり、努力に応じた報酬も豊富にあって、賑やかで楽しくもあったのです。
だから一概にこの文明が悪いとは言い切れず、ゆえに「学びのプロセス」と位置づけて良いと思います。

そこで我々がどんな「学び」をするかと言うと、物質中心の豊かさを追い求めたところで、決して個人の幸福も世の平和も理想も実現しえない、という教訓なのだろうと思います。

今、目に見えるシステムとしての「お金」があらぬ形で暴走し、人間たちの意思を超えた仕組みとして文明全体を破綻させつつあります。
少数の選民意識を持つエリートたちが、自らの欲望のままに戦争を起こし、バブルを起こし、制度を歪め、貧富の差を拡大させ、文化も秩序も混沌に追いやっています。

この時代が終わる時、それを目の当たりにした人々は「お金やモノだけ追い求めても、どうにもならなかったんだな」と気づいて、新しい豊かさの模索を始めるでしょう。
その諸行無常にこそ学びがあり、その知恵に立って初めて新しい文明が立ち現れてくるはずです。
地球を散々掘り返して汚し荒廃させ、そうして惑星を廃棄寸前まで使い込んだ人類が反省し、考えと行動を改め再び地球と共存する道を歩み始めるのです。

そして、この転換期に新しい世界を作り出す存在として「命持ち」が、この時代に集中するかのように生まれてきました。
一般的な言葉で言えば「スターシード」と呼ばれる人々は、この時代を変革するために天から送り込まれてきた魂たちです。
しかし前述の通り、その多くが芽を出さないまま埋もれていってしまいました。

それで神々の計画は影響があったのかと言うと、おそらくそれも神々の計画のうちで、現時点でスケジュールは寸分違わず遂行されているはずです。
私がよく例に出す日月神示は、80年前の戦中に岡本天明翁に降ろされたものですが、実はよく読んでみると第二次世界大戦時より現代の方が表現と一致します。
その啓示において、「世界の大峠」が九分九厘まで神によって不利な状況になることも示されているのです。

暴走するユダヤマネーにトチ狂ったアメリカが、さらにトチ狂ったイスラエルのイランへの挑発をサポートし、あわや中東戦争になろうとしている今、そのアメリカは莫大な国債利払いを払いきれるかどうかわからない状況で、誇大宣伝と共に各国の政治に介入して制度をアメリカ有利に作り替え、これからも帝国的支配を維持するつもりでいます。

現在の世を見回して、昔のように良くなると思う人は皆無でしょうし、軽く世相を眺めただけでは時代の趨勢を読むことはできません。
どう考えてもこれから世界は終わる、というギリギリのところまで人類と神々は追い詰められるように見えるでしょうが、そのことも「日月神示」には示されているのです。

その神々の計画の中で、数々の目覚めを体験した人々が今、たくさん出てきているのを私は知っています。
かく言う私もその一人としての自覚はあり、この時代を変えるための命持ちは確かに存在します。
スピリチュアル業界の言い方をするならば、私たちは「アセンション(次元上昇)」の導き手であり、人類の意識的発展を促すべく宇宙から送り込まれたエージェントであります。

この夏至に完成し、今宵の新月から始動する新たな精神の気場を「精神界」と私は呼ぶことにします。
これまで「神世」と私が呼んできた世界は、この精神界の気場を使う人々が神と共に繁栄する時代と位置づけます。
この精神界は、かつて「幽界」と呼ばれていた霊界の最下層が取り払われ、その霊的空間に地球の霊的次元が上昇したことで出現しました。

その霊的な場は「地球意識」に共鳴しやすく、それゆえに地球の神々の意識と感応しやすいのです。
これまで人々は幽界的なエネルギーに依存し、人間の集合意識は低い次元にありました。
しかし、この精神界と接続し、地球意識と同調して思考し活力とする人々は、人間の集合意識とは異なる気場に属して暮らすことになります。

そう言った特殊な感性を持った人々は、今の段階では社会的にほぼ埋もれているはずです。
あまりに意識が高すぎて、これまでの世では根を張れなかった、むしろ根を張らなかった気合いの入った人たちであり、下手に力を持っていないからこそ新しい時代を切り拓く力があるのです。
そう言う人たちがいよいよ動き出し、活躍し始めるフェーズに入って行きます。

この時代に立ち会うために生まれてきて、これまでを耐えてきた人々も多かったはずです。
そして、今を生きる子供たちやこれから生まれてくる子や孫は、新しい時代を生きるためにこの霊的世界を共有していくのです。
全てが光り輝くまでに、いくつの深い闇を通らなければならないのか、それは想像できません。
これから私たちは文明の崩壊を具に見ることになるはずです。それは目も当てられない状況になるかもしれませんし、決して明るいものだけを見ていることはできないでしょう。

しかし、いずれ光に満ちた弥栄の世を作るために、これら神の命を授かった人々の活躍なくして訪れることはあり得ません。
その困難を乗り越えられる魂だからこそ、これからの時代を担っていくのだと思います。


【追記】

ここに「アセンション(次元上昇)概念図」を掲載します。


科学的に言えば、「次元」とは空間的な軸を指し示しており、決して「霊的なレベル」を意味する概念ではありません。
だから「5次元宇宙」と言う呼び方も私としては直感的ではないと感じるのですが、一般用語に準えることにしました。

今の物質次元が空間的に「4次元」であると位置づけ、そこに変更はありません。
霊的次元では上のレベルを「5次元」とし、そこを「霊界」と取ります。
日月神示では神界、幽界、現界という概念になっていますが、私としては幽界は霊界の最下層に位置しており、今はその階層が取り払われて地球霊の気場になっていると捉えています。

幽界の縮退の根拠については、霊能者の話を無闇に信じた訳ではなく、実際に「地縛霊」の減少と共に浮遊霊の増加と、憑依と霊障による生き霊の大量発生を認識しているからです。
実際に私は死んでいる訳ではないので霊界のことは知り得ないのですが、現実界でこのような霊的次元の変化を察するに、幽界で何かが起こっていると考えて間違いないでしょう。

奇しくも、この数年のスピリチュアル業界の話題は「地球の次元上昇」であり、地球霊魂の位相的変化は私自身も体感しています。
ゆえに、惑星規模の気場の変化は間違いなく起こっていると思います。
これらを総合すると、幽界消失と地球の次元上昇は無関係ではなく、幽界の位置に地球霊魂が新たな気場を創出したと考えれば辻褄が合います。

「地球霊魂」とは、言ってみればこの地球の土地それぞれの精霊の霊団であり、私たちが産土神として接する大地の神々との繋がりもある星の集合霊です。
惑星規模の霊団の上昇が「アセンション」という位相変化であり、この霊界の再構築をそう呼んでいたのではないか、と考えています。

ゆえにこの次元上昇は完了しつつあり、その始動の時を迎えたと私は見ています。
地球はこの先も霊的に上昇し続けるかもしれませんが、人間からすれば「精神界=地球意識の気場」の確立をもってアセンションは完了したと捉えて良いはずです。

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人間には神が必要だ

楽太郎です。

昨晩、夢を見ました。
東京タワーの内部がビルの避難階段みたいになっていて、私は高所恐怖症なのでビクビクしながら登って行きます。
土地に足場が緩い箇所があったり難所もありましたが、意地悪そうな若い女性と踊り場ですれ違いそうになりました。
私は彼女から妨害を受けそうな気がして、咄嗟に虫除けスプレーを周りに噴射して、彼女が咳き込む隙に階段を駆け上がりました。

頂上付近の踊り場にある窓枠にはガラスが嵌め込まれてなかったので、そのまま外の世界が広がっていて地上が見えました。
夢の中とは言え、私は高いところが苦手なので震え上がりました。
私がなぜこの塔に登ったか考えた時、最上階の出口からさらに屋上に出られるからだったことを思い出しました。

昨日は夏至でしたが、昼間の夏至点を境に身体が不調をきたしました。
朝一番に理髪店に行って、帰宅して絵を描き始めたところ、次第に身体中が緊張して酷い汗をかくようになりました。
あまりに体感したことのない具合悪さだったので、ルノルマンカードを引いてみたところ「鼠」が出ました。

私の読み方では、鼠は「邪気」と取ります。
邪気は身体にかじりついて私のエネルギーをコソコソ持っていくので、鼠のカードが出た時は注意します。
しかし、昨日から今日にかけての邪気の襲い方は尋常ではなかったというか、最近は邪気をほぼカットアウト出来ていたので霊障としてハッキリ出たことには驚きました。

おそらく夏至で「神世」の気場が完成したため、片足だけ踏み込んでいた気場にもう一方の足を乗せようとした時、足が一時的に浮くのを見計らって邪気が妨害をしに来たのだと思います。
以前、神世の波長と同調する時、肉体のすぐ外側にあるエーテル体も次元上昇するという話をしました。
エーテル体が波長を上げる時はいつでも不安定になりがちなので、弱り目の時だからこそ全力で襲いかかって来たのだと思います。

昨晩はほぼ1時間おきに目が覚め、その度に汗だくで喉がカラカラだったため、一晩で水を4リットルほど飲んでいました。
私は特異体質であることを自認しているのですが、どうやら私は邪気を取り込むと水分にして放出すれば浄化できるみたいです。

こう言った「目に見えない何かとの戦い」をこの数ヶ月間、ずっとやってきました。
自分でもやっている自覚には半信半疑で、優先順位のおかしさは常に感じていました。
これらの霊障を振り払うことで、本当に「神世」の創造に貢献できるのか疑問を感じずにはいられませんでした。

ただ、どうやら私は神世の気場を邪気邪念の類から守るお役目を与えられているようで、常に気場から半分身体を乗り出して「お祓い」をしているようなのです。
つまり、神世のゲートキーパーのような役割であるようで、それゆえ邪気と真正面から対決することが多いのだと思います。
よくある「スターシード」系の話でライトウォーリアという概念がありますが、こう言った戦闘や防衛の使命が私にあったようです。

よく考えれば、私がお導きを頂いている瀬織津姫様はお祓いの神様ですし、私との相性もそれで説明がつくのかも知れません。
瀬織津姫命は祓戸大神である以上「塞の神=饗土の神」であり、猿田彦大神のように土地の境界で妖や災いの類を防ぎ、迷える者に導きを与え結界の中にいる人々を守り、幸を与える存在です。
その神々にとって「日本」という国土が最大の結界であり、すなわち日本人全員が塞の神によって守護されていると言えます。

私は、その瀬織津姫様のご加護を授かっている一人であり、それゆえ「神世」の防衛を通して日本の国土の守備に参加させて頂いているのだと思います。
それは大変光栄なことですが、私としては目に見えない地味な働きではなく、どう考えても才能を発揮して実際にムーブメントを起こして世に貢献した方が力を発揮できると思いますし、なぜこういう形なのか正直腑に落ちない部分もあります。

しかし、それは私一個人の考え方なので神様のご意志に従うだけです。
兎にも角にも、人間の心でやるべきことを決めていたら、神様から与えられるお役目は果たせません。

思えば、私が瀬織津姫様のお導きを受ける時、その基本が「断捨離」から始まります。
手放せるかどうかギリギリのところで、あえて選び取る必要のあるものだけを残して他は全部捨てる、その思い切りを受け止めるのはいつも悩みます。
けれど考えてみれば、この世の中は間違ったものが多すぎて、多少なりとも手に取ればカルマになってしまうものばかりです。
そのため間違ったものは一先ず言語道断として、できるだけ正しい形のものを選び取ろうとすれば、誰も箸にかけないようなものばかり選ぶことになります。

だから、私のことをよく観察される方は「もっと要領の良い方法なんていくらでもあるのに」と思われるでしょうが、私もそれは重々承知ながら、神様の意図を汲めばできないことがとても多いのです。
けれど私を守護して下さる瀬織津姫様は浄化の神様ですから、私が進んで穢れを受けに行くことに賛成されるはずがありません。

人間として考えれば、神の意思で自分の選択を決めるなどどうかしてる、と思われるでしょう。
しかし、今の時代だからこそ神の声をきちんと聞かなければ迷うことになるはずです。
もはや人間の頭で考えてやるようなことは全て袋小路に入って、何をやっても地雷を踏むかどん詰まりに陥るかしかないと思います。

先を見れば蜃気楼で、それを望む足元には穴が空いている、そんな危険な状態ならば多少不自由でも安全な道を歩めた方が良いはずです。
それをコッソリ神様は教えて下さるのですから、むしろ人間は神様の声にもっと耳を傾けるべきなのです。

「それで本当に報われるのか」と思われるかもしれません。
しかし、人間の頭で考えても神様のご指示を受けても不確定性はほぼ変わりません。
未来が見えないのも、結果に裏切られる確率も同じです。だから、どの道行き当たりばったりなのが人生なので、特に気にする必要はないでしょう。

神様を信じられるかどうか、というのは人間にとって永遠のテーマです。

最近、アメリカの歴史について知ったのですが、北米大陸の先住民だったいわゆるインディアンの方々は入植者の白人たちに計画的に抹殺された歴史があります。
民族浄化と言って良く、先住民族を「矯正」するために施設に収容して思想洗浄を行い、白人の文化を学びキリスト教に改宗しても全く差別は改善しなかったそうです。

北米南東に暮らしていた先住民は、何百キロと離れた荒野に強制的に移住させられ、食糧もろくに手に入らず衰弱死する人々が多数出る中、カリフォルニア州の白人たちは先住民族に武力を差し向けて虐殺を行いました。
インディアンの主な食料だったバッファローを絶滅寸前まで追い込んだのは、ハンターが娯楽目的で彼らの食料を奪うことに州が賞金を出していたからです。
大事な食料のバッファローも殺され、ろくに食べるものもなく荒野に放置された先住民たちは徐々に弱体化し、銃を持って襲いかかる白人たちによって計画的に殺されていったのです。

ヨーロッパ人が大航海時代を経て入植したあらゆる土地で、このような凄惨な虐殺が行われました。
インカ帝国を致命的に追い込んだのは、大陸の白人が持ち込んだ病原体に対して、現地の人々は免疫を持っていなかったからだと言われています。
アメリカ大陸の先住民がそれぞれに信仰する神々に祈ろうと感染によって死に絶え、私利私欲のままに虐殺と迫害を繰り返す白人が病気にかからない様子は、「白人こそ神に選ばれているからだ」と信じたことでしょう。

私は、この出来事を鑑みるとさすがに「神はいるのか」と思ってしまいます。
ヨーロッパ人が侵略と入植と奴隷制を拡大しなければ、今の世界はもっと多様性があったのではないでしょうか。
日本だって、西欧列強に加わらなければ数多の戦争を経験せず、現在のようにアメリカから属州扱いされていなかったはずです。
反面、西洋文明の持つ物質主義によって規格性のある便利な世の中になったのも事実ですが、その代償の大きさを考えずにはいられません。

海外のスピリチュアリストほど「神々」という概念を使わず、「宇宙人」という表現で高次元存在を語るのは、一神教であるキリスト教に対する感覚的な後ろめたさがあるからではないか、と私は邪推してしまいます。
ユダヤ教の聖地エルサレムのあるイスラエルが起こす戦争によって、第五次中東戦争勃発の危機にあり、まして世界大戦の口火すら切られようとしています。
ユダヤ教からするとイスラム教は邪教であり、一神教だからこそ絶対神が二柱いてはならないのです。

日本には「八百万の神」がいて、仏もいればキリストもアラーも天使も精霊もいます。
しかし一神教の世界観では、多様性のある霊的世界を想像しにくいのではないでしょうか。

私は高次元存在を「宇宙人」と表現しても何の問題もないと思います。
しかし、「神」という人間の上に立つ絶対存在があるからこそ、人間としてのタブーや真に目指すべき理想が設定できるのではないでしょうか。

これまで、一神教を主軸にした帝国主義が世界を形作ってきました。
北米大陸で迫害された先住民族の神も、日本の八百万の神々でさえ物質文明の下では、無きもの同然にされてしまいました。
「神が本当に存在する」のなら、そもそもこんな理不尽な世にはなっていない、ゆえに神など存在しない、そう言われても納得せざるを得ません。

しかし私の感覚では、神様の世界も一枚岩ではないようなのです。
それぞれの神様に個性があり思惑があり、最終的な目的は一つなのでしょうが、微妙に噛み合わない部分も見受けられます。
日月神示において、神界で起こったことは現界で起こると書かれており、シルバーバーチの霊訓にも霊界で起こったことが人間界で起こる、と書かれています。

つまり、私たちが神様を信じられなくなるような理不尽な出来事は、神様の世界で起こったから現実の世界に立ち現れている可能性があります。
だから私たちの信じる日本の神様は、これまで何らかの理由で思うように動けない状態だったのかもしれません。
もっと何か大きい意志の力と、邪悪な手札が通用する環境にあったために神々でも押さえつけられていたのが、これまでの世界だったのだと思います。

日月神示では、「誤った岩戸開き」によってそうなった世界を改めるために、「三千世界の大洗濯」が行われると書かれています。
三千世界とは、神界、幽界、現界を指し、幽界とは「幽り世」のことで私の言う霊界です。

こうして地球は実際に次元上昇を果たし、「精神界」とも言うべき神世を作る気場が完成した今、新たな世界が始まろうとしているのだと思います。
これまで、北米大陸の産土神はどういう目で白人たちをご覧になられていたのでしょうか。
そして、日本の土地を何万年も守ってきた八百万の神々は、現在の日本の国土を眺めてどう思われるのでしょうか。

それは人間には考えたくないことかもしれません。
しかし、この変化は世の中を元に戻し、浮かばれるべきものが浮かばれるためには必要なプロセスだと思います。
これまで、どれだけ無垢に生きようとしてきた人々が虐げられ食い物にされてきたのでしょうか。

それは人間が人間を支配する世であったからであり、人間の上に神がいなかったからです。
しかし、これからは違います。
やはり人間には、神様が必要なのです。

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「神世」の完成

楽太郎です。

本日6月21日、いよいよ待ちに待った「夏至」が訪れました。
現在の体感ですが、これまでの季節分点で起こるエネルギーの変化は、外部的な流れに合わせるのに苦労することが多かったように思います。
しかし今回の夏至は、感じたことのないエネルギーの変化にぶち当たるというより、今まで捉えようとして捉えきれなかった流れをしっかり掴めるようになった、という感覚に近いです。

ゆえに、すでに自分の中にあった不安定なエネルギーにしっかり乗ることができるようになった、という表現が最もしっくり来ます。
だからこれまでの節気であった「合わせさせられている」強制感はあまりありません。
つまり、これまで半分足を踏み入れていた気場だからこそ、エネルギーの変化に違和感を抱くことはないのだと思います。

日常の中でこの数日、「らしくない」感じの変化を起こしている人も目にするようになりました。
これまでやたら感情的だった人が大人しくなり、少し理性的に振る舞い始めました。
いつもフワフワした短文を書いていたような人が、急に抽象的な長文を書くようになったのを見ました。

これはどう考えても「火」のエレメントの変質であり、要は「形而上学的なエネルギーの強まり」です。
火のエレメントは、純度の高い正の働きをする時に哲学的な様相を持って現れます。
神性というのは哲学的なエネルギーですから、人々の思考の抽象度が高まるのは理に叶っています。

このエネルギーの純度の高さと強度を観察するに、この分点から人々に意識改革が起こって来るのではないかと思います。
これまで違和感に気づきながら、モヤモヤしていた状態から思考がクリアになり、思いもつかない発見やロジックを見出して突破口を開き始める、そんな気がします。

実は、私は春分あたりから何となく「世界線が変わったのではないか」と疑念を抱いていました。
それは私が体感的に神世のエネルギーと触れ合っているだけでなく、2025年問題にあるような不慮の出来事がタイムラインから遠ざかっているような気がしていたのです。

半年前あたりには、崩壊する建物や廃墟、死して蠢く人々など、夢にしろ白昼夢にしろ不穏なビジョンがたびたび見えていました。
しかしこの数ヶ月、ほぼそういう予知は感じなくなり、むしろ別の形でソフトランディングするのではないか、という感覚の方が強くなって来ました。

とは言え、2025年7月問題を否定する要素はありませんし、日月神示では「旧暦9月6日」ということがしきりに言われており、そうでなくても南海トラフなどの自然災害のリスクは依然あります。
ただ感じるのは、神々が「災害やカタストロフで人々を変革する」というシナリオを選ばなかったのではないか、と私は何となく感じています。

この「平和的なエネルギー」は温かく優しい反面、鋭くて強い部分もあります。
少し邪な感情がある人がこの気に触れると混乱するでしょうし、生理的に受け付けない人も中にはいると思います。
けれども、このエネルギーを受け止めることができた人は、おそらく内面から湧き上がる力に押し上げられ、思ってもみない衝動で行動を起こし始めるような、そんな印象を抱きます。

現に、私はどんどん多動になってきており、多動だけど決してやり散らかす訳でもなく、小さいことを一つひとつ片付けながら廻る、という感覚に近いです。
これまで感じていた霊障や憑依は、私がお祓いや自己浄化によって因縁を断ち切る前に、波動が強まって自分の「気」で邪気を抑え込めるようになったことに気づき、少し驚いています。
おそらくこれが、「神世の気場を使う」ということです。正しく神を感じ、神の力が宿るという感じがします。

しかし反面、自分の気が強まりすぎて肉体的になっているというか、逆にスピリチュアル的な部分が感じにくくなって来ました。
これまで、精神的なエネルギーで駆動してきたからこそ、神や霊的感覚を強く感じていました。
ただ神世の気場に入ると、「身体と魂と神性が一つになる」ようで、言ってみれば神様と自分の意識が分離した状態にある必要がないのです。
ゆえに、これまで以上に自分らしくあり自由でありながら、神の意志は強く神の意識の中で行動している、そんな実感があります。

ゆえに、この気場のエネルギーを汲み取る人ほど、神を意識しなくなる気がします。
それは無神論、物質主義に堕ちることではなく、神を宿すからこそ神に無自覚となり、神を忘れながら神の声を聞く状態になります。
だからこそ神を特に意識しなくなり、信仰心や宗教的習慣は相変わらず大切なのですが、それだけに頼ることはなくなるかもしれません。

「神世」という気場が完成し、このエネルギーを降ろして使う人が増えるにつれ、占いや宗教などスピリチュアルな知識に関して無頓着でありながら、優秀な感性を持ったスピリチュアリストが誕生していくことになると思います。
これまで「気づき」をしていた人々がいよいよ目覚めて、覚醒を深化させていくフェーズの中で、神性を取り戻して生き方を変えていく人も増えていくはずです。
私は、この変化はどんなカタストロフよりも世を変える力となっていくのではないか、そう感じずにはいられません。

しかし、これら「目覚める世界線の人たち」に神世の気場が開かれるとして、去年の冬至点以降「目覚めを選ばなかった人たち」がどうなるかは正直わかりません。
これは神々が何度も念押しした確認事項で、いわゆる五次元世界との分岐、日月神示で言う「神と獣の道」で破滅的な方をあえて選んだ人々を神々はどうするおつもりなのか、人間である私には図りかねます。
ただ神様がなされることには無駄がないので、やはり何かしらの意味があるのだろうと思います。

私が長らく戦ってきた憑依と霊障は、ここ数ヶ月の話ではなかったのです。
生まれてこの方、憑依から抜け出せたことが殆どなかったと言っていいくらいです。
そこで襲う憑依体は、明らかに「神に仇なす者たち」の部類であり、私を苦しめてきた霊団が現在の人間社会を作り出した者たちと同一存在なのは確信しています。

彼らの支配する「お金とモノ」の世界は、単純な幸福のメカニズムでありながら、精神的な豊かさを否定し神を無きものにする思惑がありました。
人間は「細胞で作られたロボット」であり、魂など存在しないからこそ神も存在せず、あらゆる精神的事象も物理現象であり、科学的処方で全てがコントロールできることにしたかったのです。
そうすることで医療や製薬、果てには電脳の分野で人間を金づるにし続けることができます。

人間の精神活動も肉体活動も、全てを「消費活動」に結びつければ、人生を通じて経済システムの歯車として搾取し続けることは可能でしょう。
これが「神に仇なす者たちの計画」であり、私たちはまんまと術中にハマっていたわけです。
あらゆる悩みも、自分らしく生きられない苦悩も、「人間はお金を稼ぐ生き物である」という思い込みと幸福への義務感から生じてきたのです。

ただ、それも間もなく終わりを迎えます。
金融を主軸とした経済文明は全世界で修正不可能な状態に入りつつあり、少なくとも3年以内に世界経済の中心にあるアメリカは崩壊するはずです。
私は、我が国に自然的なカタストロフが起こらずとも、日本という国家の傘となり柱となっているアメリカが崩れることの影響の方が決定的なのではないか、と思っています。

ゆえに近年スピリチュアル業界を騒がせてきた「2025年問題」は、カタストロフと変革による立て直しを矮小化している印象を拭い去れませんでした。
現実的にこうして未曾有の変化が予測できるのに、いつ起きてもおかしくない自然災害や食糧危機にばかり気を取られるのもおかしな話だと思うのです。
仮に、iPhoneが使えなくなるとかGoogleがサービスを停止するとか、そう言った具体的なことが起こる可能性もありながら、そうなった場合のことを考えている人はあまりいません。

神世の気場はかつて「幽界」と呼ばれていた、霊界の最下層を払拭して新たに作り出した波長の高い霊域です。
地球が次元上昇することで、現界と呼ばれる物質次元は霊界により近い場所に位置することになります。
神々がこの気場を作るために幾年もかけて幽界を整理し、世の邪気を浄化し続けて来ました。

私自身もそれに参加して気場を作り上げてきたのは、人の世を形成する「神に仇なす者たち」の領域を削り取っていくことを意味しました。
そして、その気場がいよいよ完成したということは、神々のご計画は寸分違わず遂行され、古い秩序が滅び新たな世界が生み出されることを意味します。
つまり神々の奪還であり、神に仇なす者たちの退却です。

私は、ずっとこの時を待っていたのだと思います。
これまで何十年も耐えてきた日々は、この時を体験するための準備だったのでしょう。
何の因果かはわかりませんが、私は使命を持ってこの時代に立ち会うことになっていたようです。
私の半生はかなり酷いものでしたが、それも報われる時に来たのかもしれません。

私は、私をこれまで苦しめてきた人や目に見えないものに対して、滅べばいいとは思っていません。
全ては神々より大いなる神のご意志であり、悪も闇もその一つの役割を演じてきただけに過ぎないことを理解しているからです。

むしろ、わかりやすい形で滅ぶよりも、気づいて改心し、反省しながら余生を淡々と生きてくれれば良いと思っています。
彼らの行いに対して懲らしめられるべきとは思いますが、滅んで欲しいと願っているわけではありません。
彼らのことは大嫌いですが、私としては嫌いな部分がなくなればそれで良いのです。

私はやはり、人間というものを放って置けません。
人間たちは私をコテンパンにしてくれましたが、私の頼りにする人も大切な人も、皆同じ人間です。
その愛憎の中に生きていることが人間である証であり、人間である以上は彼らのために生きることになるのです。

人間は嫌なところも沢山ありますし、正直疲れます。
けれど、人間に嫌悪しながら、それでも愛してしまうのが私の人間たる由縁です。
そんな彼らのために生きることが私の使命であり、また神様もそうするように願っているように思えてなりません。

なぜこんな運命を背負うことになったのか、一生かけてわかるものでしょうか。
ただ一つ言えることは、そのうち報われる予感がするのです。
それがどんな形なのか分かりませんが、決して悪くはならない、そんな気がするのです。

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「嫉妬」について

楽太郎です。

6月21日の夏至を前に、「追い込み」に近いものを感じています。
「憑依」の連鎖を断ち切るために霊線を解いていく作業は、やはりこの時期に必要な工程だったのは間違いありません。

正直、思ったより火星獅子座の脱却の影響がそれほど決定的ではなかったようなのですが、霊障のアプローチがまた変わって来たのを感じています。
お祓いとは何か」でも書きましたが、この霊線というものがポイントで、自分の心にある縁が良いものも悪いものも引き寄せます。
すでに次元上昇した世界において、「因果」という霊的な法則は原因から結果までの時間的距離が縮まっているのです。

人間の社会はほぼ人治で成り立っているので、多少この因果を意図的に歪めることができます。
お金や権力があれば人を動かして結果を握り潰したり、事実をもみ消して最初からなかったことにもできるのです。
しかし、それは因果律の発動を遅らせることができるだけで、宇宙の法則を変えているわけではありません。

人為的に歪めることのできる因果も法則から逃れることはできず、力が及ばなくなれば自ずと因果律は発動してしまいます。
以前ならば永久に揉み消せたような著名人の不祥事が明るみに出て、業界だけでなく社会全体が揺らいだように、人治の世界にも限界が訪れているのです。
それは神や宇宙の力が強まってきたことの証であり、今後ますます強まっていくはずです。

奇しくも、良いことも悪いこともすぐに現象化しやすくなったことで、自分の心にその原因があれば現象を引き寄せやすくなります。
仮に引き寄せてしまう何かがあるとしたら、その原因をしっかり見定める必要があります。
人の心にある疾しさは、幽界の下層にある悪意との因縁が生じ、それは当然私の心にもあります。
従ってこの部分を浄化しないことには、永遠にこの悪意から逃れることはできません。

意外と、誰しもこういった「疾しさ」を抱えながら、その悪意を無意識に隠蔽するため自分の闇には気づけないものです。
顕在意識では、自分があたかも浄化が進んでいて心に疾しさがないと思っていても「自分の心は清らかだ」という思い込みがあるからこそ、それが見えないこともあると思います。
「争いごとは嫌だ」とか、「あの人は未熟だ」とか自分が安定した状態にあるために他人を忌避し、そこで起こる嫌悪に関しては「自分の波長を高く保つための正しい反応だ」と考えがちです。

しかし、ここに潜む嫌悪感にこそ他者に対する対立軸があり、他人を蔑み忌避する薄暗い感情が横たわっています。
例え嫌悪を押し殺して波長を安定させても、それでは浄化された高い状態の心とは言えません。
そこに気づかない限り本当の浄化には至れず、またあまりに足元の見えないところにあるが故に誰もが陥りやすい闇なのではないでしょうか。

私は最近、この闇が自分が思うよりも遥かに大きく、また根深いものであることに気づきました。
ただ、自分の心の底で抱いている分には自分が損するだけなので構わないのですが、もしこれが一旦表に出てしまったら取り返しのつかないことになっていたと思います。

私の弱点はだいたい義憤として現れることが多いのですが、その義憤も自分の歪んだ感情を理屈にしただけに過ぎないものです。
己の劣等感や嫌悪感を、あたかも社会正義であるように正当化して、嫌悪の対象が悪であるかのように語る癖があります。
それらは基本的に、自分にとっての都合だけで善悪を決めているに過ぎません。
ここに無自覚であればあるほど「正義」や「信念」は排他的になるため、危険なのです。

私は、先日のブログで「国内のニュースは腹が立つから見ない」と書きましたが、他に見ないようにしているのが、国内のエンタメコンテンツです。
私もクリエイターの端くれですから、思想もありますし技術的に作品の良し悪しは考えます。
しかし、それ以前に近年のコンテンツに対する忌避感には、劣等感や嫉妬心も多分にあると思います。

私は長年やっているわりに無名の作家ですし、むしろ最近わざとキャリアを巻き戻すことさえしました。
それは必要に駆られたとは言え、決して口惜しさがないわけではありません。
人気があって勢いのある作家に対して嫉妬心は当然ありますし、「なぜ彼らのようになれなかったのか」と残念に思う心もあります。

ただ、ここで抱く劣等感は「自分が望む状態にない」ことの自覚から起こるものです。
それは私の意識があろうがなかろうが起こる感情であり、つまりは「自分がうまくいっていないから羨ましい」という動機なのです。
仮に自分が上手くいっているという自覚があるならば、成功している人や優秀な人を眺めても自分と同じかそれ以上に見え、尊敬すらできるでしょう。
まして、その違いを「個性」と認め協力を要請したり、共存共栄の道すら模索するはずです。

しかし、ここに不満が生まれると、どうしても自分が正しく相手は間違っているという理屈をつけたくなります。
相手がいかにも才能があり、幸運で、若くて、性格が良く、良い生活をして、精神的に豊かで、健康で、平和な環境で、お金に恵まれ、良いところに住み、友人に囲まれ、温かい家庭もあり、異性との付き合いもあり、社会的な評価を得て、確かな将来性もある、そんな風に見えてしまいます。
そんな人が自分をさて置いて幸せになっていくのが妬ましいから、どうにか間違っていることにして、あたかも不幸になる道筋を歩んでいるように考えて溜飲を下げたくなります。

しかし、その相手が例えそうだったとしても、自分が相手の不幸を望み糾弾し、足を引っ張ったところで自分の状況が良くなるわけではありません。
私は、この感情が全くないと言ったら嘘になります。
自分よりも若くて新進気鋭の作家が成功し、自分の作品よりも遥かに良い傑作を世に出しているのを見て、心が揺らがないはずがありません。

こういった状況は、絵描きでなくても誰にもあることでしょう。学生でも会社員でも、ましてや子供にすらある、誰しもが持つ嫉妬心です。
実は、これに対する処方箋は「自分も負けないように頑張る」ことではないのです。
負けないようにいくら努力したところで上には上がいますし、それどころか自分にない部分は全て羨ましくなるのが人間だからです。
全ての要素を兼ね備えることは実際に不可能で、いくら完璧人間になれたとしても完全な達成感に至ることはできないでしょう。

では、この無限に湧き出る嫉妬心に対してどうしたら良いのでしょうか。
それは、「自分が嫉妬している」ということを絶えず自覚し続けることだと思います。

人間は、無自覚なことは死ぬまでやり続けてしまう生き物です。
どんな癖も病気も、とりあえず自覚しないことには対処しようがなく、自然と良くなることは稀です。
これは人格に対してもそうで、例えば「自分は嘘をつかない」と思っていても、嘘をついている自覚がないだけで実際に嘘つきな人はたくさんいます。

まず、このスタートラインに立たなければ話になりません。
ただ、「自覚する」という作業を続けることで、徐々に改善も対応力も深まってくるものです。
私が他の絵描きを見て、「この人は良い絵を描く、悔しい」と思った瞬間、「どうせこいつは消える」と思いたくなる心が浮上する前に「ああ、俺は嫉妬しているんだ」と自覚すれば、「この人は良い絵を描いて羨ましい」と素直に認めることができます。
この心のプロセスを歪めないように真っ直ぐ元に戻すだけで、嫉妬心は正しい形でモチベーションに繋げることができるのです。

これは、「嫉妬しないようにしよう」と思うよりもずっと精神的には健全な考え方です。
自分の負の感情は抑圧してもかえってストレスになるだけで、負荷をかけたところで不満の種が消えて無くなる訳ではありません。
むしろ、負の感情はきちんと表に出してあげて、口や手に出る前に心で受け止めるだけでわりと抑え込めるものです。
これは実際に勇気がいることなのですが、痛みを伴うからこそ、この心理機構に向き合える人はあまりいません。

大抵の人は嫉妬心に無自覚で、感情を歪めた結果もう解くことができないくらいに絡まり、雁字搦めになる人ばかりです。
実は、世の中で狂っていく人ほどこの術中にハマって抜け出せなくなるのです。
「他人が羨ましい」という気持ちは、自分が今の自分に納得がいかないからであり、自分が欲しいと思う状況が作り出せないことが自ずとわかるからこそ、その先を行く人が輝いて見えてしまいます。

「隣の芝生は青く見える」ものですが、大抵の場合は自分の庭の芝生も十分青かったりもします。
もしかしたら、私が他の人を羨ましいと思う時、自分も誰かから羨ましいと思われているかもしれません。

自分にはないものを欲しがるのが人間というもので、自分が違う状況で同じことをやったら同等に上手くできるかもしれず、そうならないのは自分がそうするつもりがないだけだったりします。
私には私の事情があり、やるべきことがあるからこそ違う道を選べないとか、個性や信念があるからそうなれないだけのことを、真剣に嫉妬するべきではないのかもしれません。

そうして当たり構わず羨ましがるのは、どこかしら「不幸感」を抱えているからです。
自分が最高に幸せだと思い、満足していたら他人のことはどうでもよく見えるものです。
だから問題にすべきなのは自身の心の煮え切らなさであり、自分の環境に対する不満であり、そう言った納得がいかない部分を突き詰めてみることです。
これは思ったより難しく、勇気のいることです。
けれどこのプロセスを辿らないことには、自分の心の闇ときちんと向き合うことができません。

私は、その闇が思ったより大きく問題が複数あることに気づきました。
そのわだかまりを浄化しないことには、自分の悪意を芯から取り去ることができません。
これは一朝一夕ではできない作業ですが、どうやらこの道を通らなければならないようです。

「自分を正しく認める」というのは、考えている以上に難しいことです。
人生は思うように行かないのがデフォルトであり、不満を覚えない生き方などそう易々とできるものではありません。
けれども、どこかに必ず肯定できる道筋はあるはずです。

こんなつまらないことで躓くようでは、私を導いて下さる神様に正面から顔向けすることはできません。
「神世」というのは、ずっと志が高い世界なのだと人々に思わせなくてはなりませんし、「こんなものだ」と思われたら神様に恥をかかせることになります。

そのためにはまだまだ自分と向き合い、心を磨いていかなくてはなりません。

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かつて天使だった友へ

楽太郎です。

先ほど「お祓いとは何か」という記事を上げたばかりですが、少し話したいことがあります。

このブログをどの程度の方がご覧になられているかはわかりませんが、おそらくこの文章を読まれている方は私と同じ世界線にいます。
スピリチュアル界隈でこの数年トピックの中心だった「次元上昇(アセンション)」は最終局面を迎えています。
私が「分岐」とか、「神世に渡る」という表現にピンと来られない方も、自分には関係ないと思われる方に対しても、この文章を書きます。

このブログに辿り着かれた方は、明るい未来が待っている可能性が高いのです。

今が不安でどうしようもなくても、疑心暗鬼に駆られて身動きが取れなくても、関係ありません。
今抱えている苦しみは変化と手放しによるものであり、それは乗り越えれば良いだけのものです。
むしろ、乗り越えられるからこそあなたにその課題が与えられているのであり、課題を乗り越えるという一つの道が示されているのだから、難しく考えずに目の前の壁を乗り越えれば良いのだと思います。

「手放し」や「浄化」は、おそらく地球上に住む全ての人がいずれ、多かれ少なかれ体験することになるはずです。
その機会がいつか誰にも訪れるとしたら、自分で理解した上で先んじて出来るのならばやっておくに越したことはないと思います。
それは、後になるほど克服が難しくなり、立ち直りも難しくなる、そんな予感がします。

私がこんな話をしようと思ったのは、ここに来て諦めてしまった人がいるような気がしたからです。

ただ、世界線の分岐のゼロ地点に立ったくらいで、自分が明るい世界か暗い世界を選んだかなど自覚できる人は殆どいないと思います。
おそらく、これから世に言う5次元世界、私が言う「神世」にアクセスする人たちの大半は、宇宙や神々のことに対してマニアックな知識を持った人たちではないと思います。

その世界に住む人々はこれからの時代の中心になる世代であり、決して占いや宗教に精通した人々ではないはずです。
なぜなら、神々は自分たちが前面に出てくることを必須とは考えておられないように思えるからです。
むしろ時代の中心になる人々は神や宇宙を特に意識しない、それでいて天然のスピリチュアリストであり、天然であるからこそ自らの魂と繋がり神の声を聞く、そんな人々であると思います。

だから、昨今のスピリチュアル界隈にあるような共通認識が教養となる時代ではなく、神の意志を自分の心に宿す人々が自由に作り出す、真の多様性の時代になっていくはずです。
その世界において最も重視されるのは「魂の質」だけであり、誰もが魂を見通せば嘘偽りが通用しないからこそ、素直さや正直さが尊ばれると思います。

その世界に息づくのは、これから生まれてくる子供たちだけでなく、これまでを生きてきた老若男女も可能であり、その資格を得るためには本来の素直な心に戻らなければなりません。
素直な心とは、邪念も余計な思考もない魂からの反応であり、子供の頃に当たり前にあった感覚そのものです。

その変化を促すために、私たちは神々から気づくきっかけを与えられて来ました。
この沈んでいく世の中も、いつまで経っても「これで良い」と思っていたら、次の時代を作ろうとはしないでしょう。
現に、「何も変える必要はない」と思う人たちがいることで、より世は行き詰まりを見せています。
この状況を見て「変化が欲しい」と思う心を、神々は待ち望んでいたのです。
そして、その気づきを受け入れた人には道が開かれています。

この道を進むために、辛い判断を要求されている方もいらっしゃるでしょう。
変えたいし変わりたいけど何をしたらいいかわからない、と思われる方もおられると思います。
その迷いを感じられたなら、自分の心の奥底にある熱い感覚に問い質してみて下さい。

私は、最近になって昔のことを思い出します。

近所に駄菓子屋があって、その店のおばさんはよく困り顔で私を諭してくれました。
大人たちは、子供たちが喜ぶように安心するように色々なことを考えて、私たちに全てを惜しみなく与えてくれました。
あの頃の大人たちはとても頼りになったし、私は安心して子供時代を過ごすことができました。

その経験を、今でも感謝しているのです。
反面、自分がそんな大人になれたのかと問うと、決してそうではありません。
残念ながらあの頃のような、頼りがいのある大人にはなれませんでした。
けれども、これからの時代は違うかもしれません。

今を生きる子供たちのことを思えば、とても不憫でなりません。
そして、これからさらに激動の時代を生きることになるはずです。
私はずいぶん牧歌的な子供時代を過ごした自覚があるので、余計に子供たちを気の毒に思い、何とかしてあげたいと思ってしまうのです。

ただ、現代の子供たちはあえてこの時代を選んで生まれてきた、そんな気がします。
そんな大変な時代に子供たちを守る親世代も、きっと何かしら天命があるのだと思います。
新しい時代、新しい国にするために、あえて負債を背負って生きていく人々がいます。
私は、そう言う人たちの中にこそ新時代のキーパーソンが隠れているのだと思います。

かつて、私が出会ったたくさんの若者たちは、純粋で希望に溢れていて、野心家でちょっとバカっぽい人たちばかりでした。
そう言う人たちほど打たれ弱く、世間の邪悪さに耐えきれず自分から純粋さを捨ててしまったり、病んでどうしようもなくなってしまいました。
彼ら同世代の大半は腐ってしまったのも知っているのですが、それでも私は待っているのです。

あの頃、目をキラキラ輝かせて夢を語っていたのは、単に自分が有名人になりたいだけではなく、自分の理想を叶えることにあったはずです。
その夢を再び胸に抱いて、彼らがまた目を輝かせる日を私は待っているのです。

友よ、僕たちはかつて、あんなに天使みたいだったじゃないか。

悪魔の作った時代は終わるのだから、天使に戻ってやり直そう。
私は、それだけを伝えたいのです。

これからを生きる子供たちに、狼狽える大人たちの姿でなく、子供の頃に見たしっかり自分の足で立つ大人の姿を見せるべきなのではないでしょうか。
そのために、大人として優柔不断な姿はどうしても見せられません。
では、どうしたらいいのか。

本来の自分に還ろう。
今からなら、きっとそれができる。

別に私の話を信じられなくても構わないのです。
ただ、その心に問い質してみて欲しいと思います。

これからどうなるのか、どうしたらいいのか。
その答えはあなただけのものです。あなただけのものだからこそ、あなた自身で判断してもらいたいのです。

私は、目の輝いている大人を見たくなります。
あの頃のように、無邪気なバカたちともう一度出会って、夢を聞いてみたいのです。

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「お祓い」とは何か

楽太郎です。

6月21日に太陽が蟹座に入り、夏至となります。
それを前にしてか、本日17日には火星が獅子座から乙女座に入ります。
火星は昨年11月4日に獅子座に入り、12月には逆行となりました。戦いの星である火星が獅子座に入る時期は、「闘争や自己表現」がテーマとなります。
それが6月17日あたりで滞在を終えます。

奇しくも、先日11日の満月を境にエーテル体と神世の気場が接続し始めたのを体感してから、憑依による霊障が遠のくのを確信しました。
しかし、それに比例して悪意の密度が高まり、憑依としては高度な対応が必要になって来ました。

思い返せば去年の火星獅子座入りあたりからスピリチュアルな話題に目覚め、その時期あたりから「神世」という概念を意識して色々と学び、実践と自己浄化に取り組むようになりました。
そして、絵も言われぬ謎の霊障がその頃から付き纏い始め、不調の中で内省を極める過酷な日々が続きました。

生霊だけでなく呪いによるものや、悪霊よりも大きな力を持った存在、あらゆる憑依を体験しました。
今考えればこれも私に課せられた修行の一種だったのでしょうが、この憑依との戦いも火星乙女座入りを気に終わるかもしれません。
というのも、一昨日からかなり類を見ない霊障に襲われて、それを振り解くには新しいアプローチを試みなければならなかったからです。

これらの霊障が顕著になった昨年末の火星獅子座入りと、12月21日の冬至点とは無関係だったとは思えません。
神世への選別が始まったのと同時に苛烈化した霊障は、やはり次元上昇を妨げる目的があったのだろうと思います。
そして、火星獅子座期が終わる頃に急に熾烈になった憑依は、おそらくこれが「最後の山場」なのだろうと思います。

今回がなぜか「最後」だと思う理由は、この憑依を呼び寄せている原因が何となくわかったからです。
それは、私の中に幽界の存在を引き寄せる「幽界的観念」があるからであり、つまり私に「悪意」があるということです。
人の不幸を望み、破滅を喜ぶような浅ましさが私の心にあるからこそ、悪魔的な存在を引き寄せてしまっていたのです。

魂が同じ性質によって引き寄せられることを、スピリチュアル的には「エーテルコード」と言いますが、日月神示的な言い回しで「霊線」と呼ぶことにします。

私の心に「何かを憎む心」があるから、その憎悪に幽界的存在が感応し、魂の霊線を辿って憑依が可能になるのです。
この「霊線」を断ち切ってしまえば、原理的には幽界からのアプローチを止めることができるはずです。

そのためには、私の心にある「幽界的部分」を浄化し、つまりは憎悪や悪意を私の心から消していくことです。
ただ、このレベルの手放しは一朝一夕でできるようなものではありません。
それでも、この霊線が私の心に残り続ける限り、いくら魂が神世にあっても憑依は続いてしまうのでしょう。

私は、この憑依に関して基本的に間違った認識をしていたようです。
憑依に対して「祓い」を行う時、その感覚は「除霊」に近いものでした。「祓法によって邪霊を払い除けよう」とすることは、そこに敵愾心をどうしても発生させてしまいます。
自分の身体の不調も精神的な不安定さも、「邪霊のせいだ」と思えば思うほど、幽界的存在との対立を深める要因になっていたのだと思います。

要するに、私が霊障を問題視して憑依を邪魔なものとして認識するから、延々とやり合うことになるのです。
それはむしろ幽界側にとっては望ましい状況で、互いにやり合っているうちは私の覚醒や進行を妨害することができるはずです。
だから、この関係を断ち切るためには、私が常日頃から抱いている私自身の攻撃的な欲望をよく内省する必要があったのです。

私が常日頃から抱く「腹立たしさ」の正体は、単に「悪を憎む心」にあります。
あらゆる不正や欺瞞が横行し、それを取り締まる気配も希薄で、人々がその状況を黙認していることへの怒りです。
先日の「怒りを捨てるな」という記事でお話したように、この怒りの感情も浄化して正しい動機にするなら全く問題はありません。

しかし、「浄化できない怒り」というのが問題で、例えば目の前を歩いている人が突然ゴミを投げ捨てるとか、人に罵声を浴びせているのを目撃するとか、そういった直感的な怒り、感情として自然に抱いてしまう怒りをどう処理するのか、という課題が依然として残り続けるのです。
その「何かを悪として憎む心」が自分のエゴイズムから発生するならば、自分自身を内省し浄化していく必要があります。
究極的には、「悪を悪と認識しない」レベルまで意識を持って行ければ、悪に対して過剰な憎悪を抱くことはなくなるでしょう。

ただ、考え方として悪の存在がこの世にあるべきシステムの一部であるにしても、その悪を完全に許し切れるのか、あるいは悪事がもたらされたことに感謝し、「悪事に対してありがとう」と言えるほど達観できるのか、という現実的なハードルをどう考えたら良いのでしょうか。

思い返せば、女子高生を拉致して監禁しレイプして暴行死させた上、遺体をコンクリート詰めにして沈めた少年グループ、ある会社に侵入してガソリンを撒いた上に火を放ち、逃げ惑う人々を刺して数十人を犠牲にした男、この有様をどうすれば「悪業を行ってくれてありがとう」と考えられるのでしょうか?

私はこれを思う時、悪は滅するには生温いとすら感じますし、できれば永遠に地獄の炎で焼かれて欲しいとすら思います。
しかし、それを人間の感覚ではなく宇宙や神々の視点で考えるならば、「これも世の摂理としては必要なことだった」と言えるとしたら、これらの出来事はどう解釈したら良いのでしょうか。

常々、人を貶め暴利を貪る連中ばかりが表通りの真ん中を歩くような、不条理極まりないこの社会を私は苦々しく思って来ました。
ただ、これも神々が「必要なプロセスだ」と仰るのだとしたら、その意味を考えてみたいのです。

私はこれを考える時、「水槽」が頭を過ぎります。
今、この社会において「ホット」なのは、権力とお金とステータスを持ち、軽快に生きる人々です。
彼らは物質や目に見える価値観に対して非常に強いパッションを持っているからこそ、この弱肉強食の社会を勝ち上がってこれたのでしょう。
彼らが水槽の中にある「熱湯」なのだとしたら、温かい水ほど軽いので水槽の上層部に溜まります。

彼らのようには物質主義の競争社会を勝ち上がれなかった人々は、温度が低い分底部に沈み滞留します。
それが世に言う「勝ち組負け組」であり、これは水槽の上澄の人々が名付けた仕組みです。
この上層に上がるために、私たちはこれまで目に見える価値観を追い求め、ステータスを必死で手に入れようとして来ました。

しかし、それほど単純な世界ではないのです。
水槽の中も循環し、高温と低温の水、淀んだ水と澄んだ水、色のついた水と透明の水、様々な水質が同じ水槽の中にあります。
私たちが社会を認識する時、この水槽全体を俯瞰してものを考えることが殆どできません。
どこかの位置の水を抽出して、そのサンプルを複数揃えて分析するに過ぎないのです。

そして「悪」とは、この水槽の中で最も淀んだ熱い汚水に宿るものであり、それがある時に別の水域へ紛れ込んで禍事を起こすのだと思います。
ただ、それは水槽全体で見れば、一定量の淀みの中で特に高い濃度の汚水であるだけで、その水が水槽の淀みを吸収している分、他の水質はクリアでいられるのです。

確かにこの汚水が清浄な水に流れ込めば、そこに悲劇を見出してしまうでしょう。
しかし全体で見れば、いずれ「起こる可能性がある」現象であり、そこで起こらずとも別の場所、別の形、別のタイミングで起こったはずです。
ゆえに、俯瞰した視点で考えれば混沌とした現実世界において、全く理不尽なことが起きるのも世界のバランスの中では必然とも言えるのです。

私たちは、こういった悲劇を繰り返さないために啓蒙活動をしたり、社会保障を作ったり法律を変えたりしますが、未だ犯罪そのものを撲滅することはできません。
「悪」という水槽の中の不可分な「淀み」を全て攫い出し、綺麗な透明の水だけにすれば平和的理想の社会が実現すると人々は考えます。
しかし、水は自ずと変質していくものであり、どんな清水も淀めば腐ってしまうのです。

こう考えると、「悪」とは必然的に存在してしまうものであり、必要悪こそが悪そのものとも考えられます。
従って、悪人や犯罪は確かに許しがたいものであっても、その個人的感情から上の視点に立ち、全体から意味を考えることこそ大事なのだと思います。

これが人だけでなく、悪霊や邪気といった類の存在もこの世界のシステムの一部なのだとしたら、その働き自体はこの世に必要なものでしょう。
例えば、私たちが全く身体を気遣わず適当な生活をすれば、いずれ風邪を引いて身体を壊すように、この世にウイルスが存在するから健康に気を遣うようになります。

同じように、マイナスの働きがあるからこそマイナスがあることに気づき、気づきがあればゼロに戻そうともプラスにしようとも考えます。
「悪」とは、バランサーの方側を受け持つ存在にしか過ぎないのではないでしょうか。

私は憑依に気づいた時、「祓い」によって悪霊や邪気を遠ざけようと考えていました。
しかし、祓っても祓っても終わることのない憑依の中で、本当に祓わなければならないのは「自分」だったことに気づいたのです。
私が憑依を払い除ければ済むと思うことは、自分は清浄な存在で何も悪くなく、霊障を受けるような心当たりも責任もない、と考えているのと同じです。
その考えにこそ「悪」が宿り、それゆえにこの「悪心」を断ち切らなければ根本的な祓いにはならなかったのです。

神仏に「祓い」を祈願する時、自分の外側にある厄や邪気を何とかしようと考えがちですが、本当の祓いとは自分自身に対して行わなければならないのだと思います。
自分に疾しさがあるから、その霊線を辿って疾しい存在が近寄って来るのです。
それならば、自分の疾しさそのものを浄化すれば、その霊線は断ち切れるはずです。

ここまで考え至り、私はこの世の「悪」に対してどういう感情を持てば良いのか、見えてきた気がします。

よく考えれば、神道の「祓い」も仏教の「供養」も、煩悩や邪気を浄化することで心を平穏に保ち、幸せに生きるというテーマは同じです。
それは死霊だけでなく、今を生きる自分自身の心にも大切なことです。
浮かばれぬ感情や念によって起きる執着は、肉体があろうがなかろうが手放しが必要なものであり、それゆえに祓い清められることで浮かばれるのでしょう。

日月神示にある「悪を抱き参らせる」とは、悪意への供養、救済であり、世界の罪穢れを請け負った存在に対する癒しなのだと思います。
それこそが「悪との和合」であり、悪を滅ぼす悪にならずに悪を善とする実践となるのです。

「供養こそが救済」と言う考え方において、神道も仏教もほぼ一致します。
それゆえ、飛鳥時代に仏典が日本に伝わった時、神道との共存が図られたのは宗教的目的が一致していたからかもしれません。
神道の究極の目的は「祓い清めによる救済」であるからこそ、人間は真の幸福のために魂の浄化を神々に促され続けるのです。

だから私は、少し時間はかかるかもしれませんが、この怒りをコツコツと浄化していくことにしました。
人の揚げ足を取りたくなるのは性格ですし、その性格の悪さが傍若無人な批判癖に繋がっているとも言えます。
この頑固さが悪を作り出し、私の心に憎しみや怒りを生み出しているのだとしたら、本当の原因はここにあるのです。

いつかこの感情を祓い清められた時、目の前で起こる悪事に達観しながら、「ありがとう」と言える境地にも至れるのかもしれません。
そこまでできたら仙人か神様の領域ですが、いざそうなってみるのも面白いかもしれません。

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「怒り」を捨てるな

楽太郎です。

人伝に聞いたのですが、政府が一律2万円の給付を行うそうです。
というのも、私は国内情勢に関してはあまり見ないようにしていて、その理由は「腹が立つから」です。
この国のために、私なりに考えて日々行動していますが、あまりに出鱈目なことばかり罷り通るのを見ると、正直耐えられなくなります。

私を含め、日本人の一人ひとりがいくら良心を痛めたところで、多数決の良くない部分で社会は変わっていきます。
自民党が小手先で国民にバラ撒きをすれば、低下した支持率も多少は戻るでしょう。
そのカラクリが見え透いていたとしても皆お金は欲しいでしょうし、おそらくどう足掻いても結局は自民党の思惑通りになります。

こうして全てがなし崩しになっていくのを私はただ見ているしかないですし、周りの誰もが疑問も持たずにただ流されていくだけです。
私はこの状況には本当にガッカリしますが、ここで愚痴を言いたいわけではありません。

この国がここまで狂ったのは、おそらく日本を取り仕切る神々のご計画のうちでしょう。
それは日本を一度打ち壊す必要があるからであり、立て直した国を世界の中心に据える意図があるのだと思います。
ただ「日本はどこで間違えたのか」を考えると、おそらくいつからとは言えないほど歴史を遡るはずです。
私は幕末期と明治維新あたりでやらかしたのではないかと個人的に思っているのですが、ややもすれば稲作伝来以降、三千年来の因縁かもしれません。

この国に「国家」という観念が根づき、権威が人々をまとめ上げていく過程において、人間が国家という巨大な力や富を扱いきれた時代はありませんでした。
結局は、中央集権内部の権力闘争でいがみ合い、権力者同士が覇権を取り合い、肥大化した自己顕示欲によって対外戦争を仕掛け、その悪癖に国民はずっと振り回されてきました。

そして、今も尚そうなのです。
ただ、この歴史が遥か未来の人類にとって、「学びの期間だった」と顧みるために起こるのだとしたら、これからを生きる私たちはそれを学びに変えなくてはならないのです。
「学ぶ」ためには、正解を知らなくてはなりません。正解を知るということは、誤りも知るということです

だから、そのご意志を神々から受け取っている人ほど、今ある状況に胸を痛め混乱するでしょう。
私も、あからさまに人々が何も考えずに崖に進んでいく様にはさすがに動揺しますし、それを止める手立てがないことには辟易します。
それでも、頭の中では「これは必要なプロセスなのだ」と言い聞かせるのですが、どうも心が追いつきません。

私は、これは本当にどうにもならないことなのだけれど、自分の気持ちの面だけでもどうにかしたいあまり、「国内報道を一切見ない」という日々を送っています。
それも良いアイデアかと言えばそうでもなく、実は本当の問題は日本にあるのではなく、この現代社会を見て「腹が立つ」という私自身の感情にあるのかもしれません。

「アンガーマネジメント」という心理学講座が注目を浴びて久しいですが、確かに「怒り」という感情は、抱かないようにするほど人生も人間関係もうまくいくのは事実だと思います。
人間が経験するだいたいの失敗には「怒り」があります。
それを表には出さずとも腹の中で抱えていたり、その感情を無意識に抑圧するから変なことになってしまいます。

だから怒りは持たないに越したことはないのですが、普通の人間が社会生活を送りながらそこまで達観できるものなのか、私にはわかりません。
「怒りはない」と自分で思って感じたとしても、それが単に意識に登って来ないようにしているだけのパターンも多分にあるはずです。
そもそも喜怒哀楽は人間に本質的に備わっている心理機構ですから、いくら社会に生きる上で都合が悪くてもなかったことにできるとは思えません。

ただ、考え方としては確かに「怒り」が湧かないようにする方法はあると思います。
例えば、ある日家の前にたくさんゴミが捨てられていたら、「誰がやったのか」と腹立たしくなりますし、もしかして自分の嫌いなアイツがやったのでは、とまで考えます。
これはゴミが捨ててあった場所が「自分の家」だから腹が立ったと言えます。
仮に、このゴミが自分の家の前ではなく他人の家とか、自分の通う学校とかならそれほど怒りは湧かないでしょう。

つまり、「自分がされた」という被害意識によって怒りは湧いてきます。
全く知らない他人の家なら「お気の毒」と思いますし、学校の前なら「他の人も同じ目に合った」と考え怒りもだいぶ相殺されるはずです。
ゆえに怒りの本体は「自意識」に宿り、自我があるからこそ自分に対する不利益に反感を持ちます。

だから人間が怒りを覚えるのは、それに「自分が関わっている」という意識があるからです。
日本人なら、神社に落書きをしてはしゃいでいる外国人を見て憤る人は多いでしょうが、土地の水資源が一企業に握られて住民の飲み水がない国があっても、それほどの怒りは湧かないはずです。
つまり「自分に繋がりがある」と思えることほど、怒りという感情を持ちやすくなります。

これは「自分が所属する」だけでなく「自分が好きなもの」にも通用します。
去年起こったロサンゼルスの山火事に関して「裏の事情」ばかり私は気になっていたんですが、オーストラリアで大規模な森林火災が起こった時、私は火から逃げ惑うコアラを見て胸を痛めていました。
結局、人間は自分の見たいものだけに意識がフォーカスするようにできているので、「正義の怒り」なるものがどれほど絶対かなど疑わしいのです。

だから、日本の現状を憂いあまりに身勝手なことばかりする人たちに対して腹が立つのは、それだけ「日本」を自分のことのように思っているからです。
私が日々のニュースや誰かの言動を見て苛つかないために、この「自意識」を捨てれば良いのかもしれません。
ただそれでは、怒りを失くすために日本人としてのアイデンティティや愛国心を手放すべきなのか、という話になります。

これに関して、私の結論としては「怒りは捨てなくていいし、愛国心も捨てなくていい」と思います。

これからの日本に必要なのは、この国のために本気で怒ることのできる人々です。
しかしその怒りは、決して暴力や批判に向けてはいけません。
怒りは、発散したら消えてしまうものです。SNSを見ればわかるように怒りの感情が一時的に発散されてしまえば、また同じ怒りを同じ手口で発散すれば良く、それによって刹那的に溜飲を下げているだけで物事は決して改まらないのです。

だから本当に必要なのは、怒りを信念に変え実践のエネルギーにしていくことです。
怒りの力も世を変える原動力に変えてしまえば、決して負のエネルギーにはなりません。

無抵抗主義を平和主義と履き違え、非暴力を無抵抗と勘違いした日本人は、今自分たちが虐げられながら嘲笑われていることに気づいていません。
それに気づいた人々が正しく怒ることで、この迫害の時代を終わらせることができるのです。
そして、その志には「日本」という国家観がなくてはなりません。それによって、人々は団結することができるからです。

ただし常に怒りを抱え、目鯨を立てながら腐心して生きるべきではありません、
やはり、どうにもならないことはどうにもならず、なるようにしかならないことは実際たくさんあります。
だから大事なのは、自分の要領を遥かに超えた事象には立ち向かわないことだと思います。

例えば、政府や官庁が諸悪の根源だとして、そこがいくら政治活動をして良くならないのであればと、究極的手段が頭に過ぎる人も出てくるでしょう。
しかし、これまで人類の歴史において「テロリズム」が理想社会を作り出したことはありません。
真の問題は、この世界を作り出している人々の心にこそあり、人々の心を変えない限り形だけを変えようとしてもうまくいかないはずです。

ゆえに政治活動に腐心することではなく、自分がきちんと日々を生きながら正しい心で出来ることをやる以上のことはないのです。
国家の長官を変えるために動くよりも、地元で変な政治家に権力を与えないために票を投じることです。
その小さな積み重ねがなければ、どんな実践も理想も絵に描いた餅なのではないでしょうか。

「怒り」という感情は、表に出さなければ出さないほど良いのは確かだと思います。
しかしその感情を押し殺して不安定になるより、強い感情をバネにして正しい動機に変えていくことです。
その心理的昇華によって、怒りという強いエネルギーは静かに世を良くするために回り始めるのです。

私たちは、悪いイメージによって「悪いもの」を作り出してしまいますが、それが世にあるのはどこかで必要になったからです。
その「悪いもの」も、立場と機会が違えば「良いもの」になったりもします。
「怒り」もそういうものであり、まして今の日本のあり方もそうなのかもしれません。

今が酷く「悪い」と思えるこの国も、ある時を境に「あの頃があったから今がある」と言えるような、そんな日のためにあるのかもしれません。
この災いが立て直しのためであり、陰謀が悟りのためにあるとしたら、その負のエネルギーも正しいエネルギーに変えられるはずです。
おそらく私たちは、今それを試されているのです。

全てが神々のシナリオだとしても、慢心して問題から目を逸らしていれば良いものではなく、かと言って目鯨を立てて世を批判して回れば良いというものでもありません。
その難しい匙加減の中で、自分の感覚や感情を少しずつ実践に変えて世に働きかけていく、それが一番大切なのだと思います。

怒りを抑え、尚且つ怒りながら、正しく怒りを発散させて冷静沈着に生きていく。
その賢さこそが、人々に求められています。

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虚構の世界を抜け出して

楽太郎です。

一昨日の満月もすごいエネルギーの切り替わりでした。
私は「神世の気場と肉体レベルでの連結が起きている」と体感を述べましたが、この見方でほぼ間違いないと思います。
エーテル体の階層が一段上昇したことで憑依や霊障は遠のき、肉体のエネルギーが高まってきています。

ただ、あまり馴染みのない気の高まりなので、この血の気をどう抑え込んだら良いのか戸惑います。
多動的になりすぎて、一つのことに打ち込むには魂が荒ぶりすぎるのです。
その傾向はまだ許せるのですが、干渉が遠のいた憑依体はますます悪意と怒りを増大させながらアプローチしてくるのを感じます。
体感的な影響は減少しながら、闇の度合いが高まっていることで相剋状態にあるような気がします。

こういった憑依体の妨害を肌で感じるたびに、これまでの世界は「神に仇なす存在」が作り出した人間の時代だったことをつくづく痛感します。
この世界の中では、「お金とモノ・目に見えるステータス」があれば人々が靡くシステムだったので、人生として見れば単純でした。
特に自分自身を内省し確立しなくても、学歴と資格さえ持って組織の中でうまく立ち回れば豊かな暮らしができたからです。

オリジナルの個性を発揮せずとも、周りと同じ価値観と生活習慣さえ合わせられたら、深く考えずとも特に劣等感も違和感もなく生きてこられました。
ただ、それは「周りに流される」ことには変わりなく、周りが間違っていたら自分で方向転換することはできません。
そして、いつか間違いに気づいたところで周りの人々も同じように過ちを犯した姿を見て、安堵し傷ついた者同士で肩を寄せ合って生きることでしょう。

これまでの時代は大きな破綻もなく、それでも十分通用していたのです。
しかしこれからの時代、その考え方では致命的になり得るかもしれません。

先日のBloombergのトピックですが、生成AIの処理装置を製造するNVIDIAのファンCEOがEU向けに大きなプレゼンをしました。

NVIDIAのファン氏、A Iの処理速度は2年で10倍に

6月13日現在、ダウ平均は43000ドルで推移しています。
これはトランプ関税が紆余曲折を経てほぼなし崩しになりつつあるためで、市場にその安堵感が広まっており米国株が買い戻しされているからです。
トランプ大統領はSNSを通じてインサイダーめいた発言をしているため、その言葉をほぼ鵜呑みにして市場が動いています。
トランプ大統領も米国株が下がるのは不利益であると一応認識しているようで、そのため海外からの投資は引き留めておきたいのでしょう。

現在、S&P500の時価総額増加分の54%がマグニフィセント7の比率です。
つまり、今の米国株の時価総額の割高感は、ほぼハイテク分野で成り立っているのです。
その要であるNVIDIAは先のニュースで紹介したように飛ぶ鳥を落とす勢いに思えますが、このNVIDIAは生成AI以上に曲者で、長らく循環取引疑惑がある企業です。

循環取引とは、複数の企業などが互いに商品の転売や業務委託などの相互発注を繰り返して架空の売上高を計上することを言います。
日本人の感覚では商法違反になるのですが、不思議なことに米国において循環取引は違法ではないのです。

NVIDIAが主な取引相手とするのはGoogleのAlphabetやMicrosoft、Metaなどのハイテク企業です。
NVIDIAはこれらの企業にGPUを何十万個も販売し、AIのデータセンターに納品します。
取引先のハイテク企業はNVIDIAにサービスなどの名目で対価を支払いますが、どうやらここに粉飾決済の疑いがあります。

NVIDIAのGPUを購入した企業ほどキャッシュフローが伸びていないにも関わらず、設備投資費が爆増しておりどう考えても赤字産業の生成AI事業で減価償却が賄われているはずがないのです。
従って、GPUの購入額と同額の利益を互いに持ち回って、これらのハイテク企業の好況感が演出されている可能性が高いのです。

しかし、こんな世界的なユニコーン企業がグレーな取引でアメリカ株式市場を牽引しているなど、絶対に明らかになってはいけない案件です。
だからこそ「生成AI」が2027年にシンギュラリティを起こすとか、AGIが誕生してAI革命が起きるとか、これから情報処理が10倍になるとか最もらしい宣伝をしなくてはならないのです。

しかし、なぜ学術的に理論が確立されていない開発が現場の開発段階で成功するのか、そもそもシンギュラリティにおける電脳の「意識化」の定義が形而上学的に可能なのかとか、厳密に説明できる状態に未だ人類は到達していません。
しかも、AGIは生成AIとは全く異なる構造で成立するものであり、全世界のサイトをクローリングし知財を機械学習しただけで「思考している」と言い切るタイプのレトリックでは説明できないものです。
だから、生成AIを世界中の電力を使って回しても理論的に汎用AIにはならず、せいぜい正答率が50%を超えるくらいでしょう。

現在の米国株はマグニフィセント7が一本槍で支えている状態ですが、そのカラクリは水面下で循環取引疑惑やポンジスキームなどの危うさを伴っているのです。
実はこうでもしなければアメリカは信用を維持できない財政にあり、国家の崩壊を防ぐために手段は選べないのだと思います。

先日、米国30年債入札で220億ドルに達したという報道があり、高金利が外国人投資家に評価されたと受け取られています。
去年までは金利が高く国債価格が下がっていても米ドルが高くなっていたので、外国人投資家がキャリートレードをして米国債を買っても損失は出にくかったのです。
今年に入ってから国債が低値になり米ドル指数も下げ始めたため、米国債投資は二重の損失を招きやすくなりました。

そして、現在は米国株と米国債と米ドルが同時に買われることで三者が正の相関でなければバランスが取れなくなっているのです。
つまり、株、国債、ドルの相関関係において逃げ場がなくなっていることを示しており、言ってしまえば全面高でなければ株も国債もドルも全て下がるという局面に入っているのです。

先日、ベッセント財務長官が今年に償還期限を迎える米国債利払いに対し「債務不履行はあり得ない」と明言しましたが、こう言明しなければならないほどアメリカの財務状況は危機的な状態です。
今のアメリカの経済状態は、これらのニュースを読み解いても身の振り方を考えていられないことがわかり、本当に末期的な状態なのだと思います。

ダウ平均を歴史的な統計から解析して「抵抗線」と呼ばれる大暴落を予測する指標が、最近になってアナリストたちから「1930年大不況規模の抵抗線に触れた」と分析されていたりもします。
少なくともこの3年以内に1930年代にあった大不況がアメリカに訪れることは避けられないように思います。
その経済的ショックは、ただでさえ政治経済共にガタガタの世界経済にトドメを刺すことになるはずです。

こういう話をしたのは、日本がアメリカという国に追従する限り、世界恐慌に巻き込まれる危険度は高止まりし続けるということです。
現在の国内を見渡して、この危機を打ち破るようなきっかけは何一つとしてないように思えます。
石破政権があれだけ支持率を下げても代替する勢力は皆無であり、仮にあったとしてもどうやって変革するつもりなのかビジョンは全く見えません。

私たちは、このまま無抵抗の状態で衰退と混乱の時代をすんなり迎えてしまうように思います。
しかし、スピリチュアルを少し噛んだ人なら、これまでの話が全て「シナリオ」のように感じてしまう方もおられるのではないでしょうか。
高次元の存在が人々に働きかけ、「経済至上主義の時代は終わる」と口酸っぱく伝えてきたのは、この世界の大変革に備えるためだと思います。

「空想の話だ」と思っても構わないのですが、米不足と物価高、給料は上がらず人手不足、働く意欲は全体的に低く、漂う不況感と停滞した空気、これを切り返せるような状況証拠があるのでしょうか。
冷静に、私たちの身の回りにあった日用品のクオリティは下がり、便利なものはどんどん姿を消していき、美味しいものは高い上に店に並ばなくなりました。
私には、残念ながらこのまま沈むシナリオしか見えません。

かと言って、ここで暗い話がしたいわけではなく、これは「時代が刷新される」上での通過儀礼と考えれば良いと思います。
新しいものが生まれ育まれるには、古いものが枯れて朽ちていかなければなりません。
今はどこもビッチリ古いもので塗り固められていて、新しい雑草の一本でも生える隙間がありません。

その証拠に、人々は知っているものにしか興味はなく、昔からあるものにしかお金と時間を使いたがらなくなって久しいのです。
この空気感が壊れてくれないと、変化の風すら起きません。
アメリカ不況に始まる世界秩序の崩壊は、決して悪い意味の変化だけではないと思います。

アメリカの帝国支配が終わるとしたら、私たちが生活に何気なく使っているものも変わっていくということです。
スマホ、PC、オンラインサービス、エンタメ、決算システム。これらのインフラはアメリカという国家が仕切ってきたものです。
その企業が立ち行かなくなり、仮に手のひらを返すようなサービスを始めたら、それでも歯を食いしばりながら私たちはサブスクを払い続けるのでしょうか?

私は、生活に欠かせないとさえ思う「当たり前」を見直す時に来ているのではないかと思うのです。
「今は仕方ない」と思ってやることでも、仮に「良いことしかない」と思っていることでも、良くない流れに加担したり、悪の片棒を担いでしまうことはあるものです。
継続することで暗黙のうちにカルマを貯めることになるルーティンもあり、その習慣はいずれ手放さなくてはなりません。

私が今こうして記事を書くために使っているスマホも、アメリカという国が存立する上で都合良く設計されているものです。
シリコンバレーに拠点を置く企業が独自のアルゴリズムとポリシーで恣意的に運用し、使い勝手も稼ぐ手札も握られている端末を、私たちは「自由の象徴」として嬉々として使っています。
私はアメリカの製品を捨てようとか不買しようと言っているのではなく、徐々に代替する術を見つけ手に入れ、「なるべく離れていこう」という話をしています。

そして、これまで外国資本に流れていた経済を国内や信頼感の高いサービスに切り替える、そうすることで自ずとリスクヘッジは完了するはずです。
いずれ資本主義経済が完全に終わるならば、文明社会への依存度を減らし、経済とは独立した生活圏を構築するための道筋となるでしょう。

今当たり前にあるものが、どこまで残るのかわからない時代が来るのです。
「革新技術は正義」と、鳴物入りで登場したAIBOは代替部品の再生産ができず修理不能になり、ペッパー君はリース料と維持費の都合で大量に倉庫に眠ることになりました。
今ではハイテク機器よりも人間を安く使った方が使い回しが効くことに気づいたため、外国人を大量に移民させています。

文明は、私たちが思うよりも万能ではなかったのです。

これまでの世界は、物質的に豊かな時代だったからこそ「便利さ」が最高の美徳とされましたが、その安直な考えは世に腐敗と搾取を蔓延させ、人々は首も回らない状態に陥っています。
この状況から解放される唯一の手段が「手放し」であり、強制的に引き起こされる「ブレイクスルー」だと思います。

それは現代を生きる我々にとって悲劇そのものかもしれません。
しかし、その苦しみを乗り越えなければ世界は正常化し得ないくらいに歪んでしまったのも事実です。
その痛みは決して不幸ではなく、人々に救済を促すための福音たりうるのです。

私からしてみれば、人々が何となく浮かない顔でぼんやり平凡に過ぎる日々を送るより、一度痛みを味わって全身全霊で幸福を味わえる世の中になれば、今よりもずっと救われる人は多いと思います。
その考えは誰かにとってみれば邪道であり、忌むべきものかもしれません。
しかし、このままどう転んでも人類は破局に向かうでしょう。

真の悪徳とは何か、その悪徳の下で得る安寧とは何なのか、私はそれを考えれば決して今のままが良いとは言えないからこそ、変革の時こそ私たちにとってチャンスなのだと思います。

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始動、今後の方針について

楽太郎です。

今回は、進捗報告になります。
祓戸大神を題材にした漫画シリーズ「HARAEDO」の世界観がどんどん広がっていきます。

日本の神様をモチーフにしたイラストも今後描いていくつもりです。ただ漫画に関しても、ほぼ交互に進めていく感じになると思います。
引き続き制作したものは本ブログに掲載していく予定ですが、この「招神万来」はスピリチュアルなことや時々評論など際どい内容の記事もあるので、メディアとして扱うにはノイズが多すぎます。

以前から「自前のサイトで公開する」という計画はありましたし、徐々に進めてきました。
如何せん絵になかなか取り組めない状況が続き、ポートフォリオサイトを作るにしても「肝心の掲載する絵がない」という何とも言えない状態でした。
今でも神様のイラストは掲載するにはあまりに不足が多すぎて、二の足を踏んでいるのは否めません。

そこで、比較的進捗がある「HARAEDO」関連の作品に特化したサイトを先に作ろうと思いました。
先日、独自ドメインも取得してレンタルサーバーにCMSシステムのWordPressを構築し、とりあえず形だけは作ってあります。

ただ本当に作品数が少なくサイトを彩る素材も足りないので、新規でイラストを描き始めました。



とりあえず、サイト用のトップ絵とキャラクター紹介用の立ち絵を揃えようと思います。



瀬織津姫命の立ち絵に関しては、漫画設定を加味した新作にする予定です。
以前に同立ち絵を本ブログで掲載していますが、あれはかなり初期のテイストなのでリファインされます。
他の祓戸大神のデザインは設定含めて二転三転してきましたが、瀬織津姫様のテイストはわりと一貫している気がします。

これまでの登場人物(?)のラフをまとめると、これから5、6枚は新規立ち絵を描き下ろすことになり、しかもトップ絵も加わるので結構な作業量になります。
あと「HARAEDO」と「祓戸劇場」の新作も構想があるので、わりとこれから忙しくなりそうです。

私が全盛期の頃は1週間くらいで全体をまとめきれる作業感だったのですが、全く無理ができない身体になってしまいました。
従って、ボチボチやることになると思います。
他に色々とやるべきこともありますし、そもそもお金にはならないので最優先事項ではないです。

個人的に「HARAEDO」は集金できるコンテンツだと思うのですが、それに関しては神様は色をつけては下さらないみたいで、そういうところが「らしい」かなと感じたりもします。
とは言え、無名中の無名の作家として駆け出しなのは確かなので、コツコツ実績を上げていくしかありません。

SNSの運用に関しては、全く予定はありません。
自分なりのやり方でシェアを広げていくつもりですし、漫画や絵だけで考えずに柔軟にやっていこうと思います。
日本版ルノルマンカードの制作も進めていますし、他にもちょっと面白いことも考えています。それもボチボチ進めていこうと思っています。

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満月とアセンション

楽太郎です。

本日、6月11日は満月です。
ここ数日、自分のエネルギーがはっきり塗り変わるのを感じていて、この変化と憑依の影響も混ざり合いコントロールが難しい状況が続いていました。
ただ霊障を突き崩すようなフィジカルなエネルギーの湧出が、「血の気」と表現しても良いくらいの生命力となり行動が活性化しています。

どうやら、新しい次元に完成しつつある気場からエネルギーを降ろすには、肉体レベルでの次元上昇が行われる必要があったようです。
通常、肉体は三次元空間の縛りを受けていますが、身体を取り巻く霊体の層は少し上の階層にあります。
スピリチュアル用語で「エーテル体」「アストラル体」と呼ばれる魂のレイヤーに当てはまるのですが、この時期にエーテル体と神世の気場との接合が行われているようです。

私はここ数週間、下手すると何年か憑依と霊障に付き纏われてきたのですが、憑依による別エネルギーを分別できるくらいには客観視できるようになり、その邪気と精神的に距離を取ることで霊障から離脱しやすくなっていました。
しかし、やはり憑依を外すと自分の霊体にダメージが入ったこともわかり、ただ次々と憑依されるためエーテル体の修復が間に合わず、常に魂のレイヤーが損傷している状態が続いていました。
ただエーテル体が次元上昇することで、憑依体の影響範囲、憑依の波長範囲を切り抜けつつあり、それゆえ霊障もかなり収まってきたのです。

肉体が三次元にあるのは変わらないので、仮に殴られたら痛いのは同じなのですが、身体霊が神世に移行したことで憑依体、いわゆる生き霊や浮遊霊の類とは違う霊的空間に入ったのだと思います。
つまり、彼らの干渉範囲とは別の気場にあり、影響の及ぶ周波数帯から離れたため、肉体レベルでの影響が弱まってきたと言うことです。

この時期に「エーテル体の次元上昇」が起こるということは、私が6月21日を持って神世の気場が完成すると予見していた事象が現実味を帯びて来ました。
私自身、ここまで具体的に体感するとは思わなかったのですが、それがまさか霊障の緩和として現れてくるとは予想外でした。
実際、何年か前の体調感に戻ってきましたし、身体のエネルギーの流れが自然になった感じがします。

ここ数週間は、憑依の影響もあって過去のトラウマと長らく戦っていたのですが、憑依体は過去の記憶を思い出させることで人世への執着を促していたのだろうと思います。
この憑依体は悪魔とか悪霊とか一言で言えるような単純な存在ではなく、「これまで人の時代を作っていた者たちの霊」と呼べるものです。
善にも悪にも役割があり、彼らは「物質中心の世を作る」という正義を貫いてきた霊団であり、その手段として神仏や精神性を否定する世を作り上げて来たのです。

だから、霊的に覚醒をしてこれから精神性の高い時代を作っていく、神の声を聞いて働くことのできる人々の気場「精神界=神世」が完成すると、古い時代を形成してきた幽界的存在の居場所がなくなります。
それゆえ、ここ数ヶ月は特に覚醒と浄化を志す人々への妨害が絶えず、あらゆる形で強い干渉があったのは、新しい意識層が霊界に作られるのを阻止するためだったのでしょう。

人間不信、トラウマ、誘惑、チャンス、誤信、トラブル、事故、懐古、情け、裏切り、罪悪感、同調圧力。
誰にもある心の弱いところに付け入って、そこに気持ちが囚われるようでは目覚めや手放しは進みません。
これが「邪気」の働きであり、このトリックを自己反省の中で見破り、自ら手放しと浄化をした人だけが上昇していくことができたのです。

だから、少し気を休めると潜り込まれる危険があり、私はこの緊張感から全く落ち着くことができませんでした。
誰かに依存していたらその人自身が道を外れている可能性もあり、それゆえ疑心暗鬼に駆られながら唯一信じられる、信じなくてはならないのは神仏だけであり、私はその信仰心一つでここまでやって来ました。

私が誰よりも幸運だと思うのは、瀬織津姫命への格別の信仰心というか、恋慕に近い感情と謎の忠誠心があったことです。
この感性は誰にも共有しようのないもので、独特の観念であるがゆえに厳しい中を乗り越えて来れたのだと思います。

ただ、今こうして一瞬楽になったからと言って、これからも楽だという保証はありません。
夏至に神世の気場が完全に開かれれば、全く違う生き方を始める人々もいるはずです。
そこは前人未到というか、人類が足を踏み入れたことのない精神的領域であり、この先は何があってもおかしくないでしょう。

日月神示によれば、この領域に足を踏み入れた者を「神人」と呼び、「臣民」に対する「役員」という表現をしています。
「神人」とは、私がこのブログで当初から扱ってきた「現人神」のことであり、ついに生きながら神を目指す人々が誕生することになります。

人間が「神」になるということは、人間が目を塞ぎたくなることにも目を向け、感情に囚われず神の目で神の力を使うことを意味します。
それができる人間はおそらく一握り中の一握りで、それがあまりに過酷な試練であるからこそ、脱落することも容易にあるはずです。
「神人になることが目指せる時代になった」というだけで、実際に現人神が雨後の筍のように生えてくるわけではないと思います。
それはそれで、新しいハードルがまた生まれたということなのではないでしょうか。

この満月に至るまで、人々が妙な落ち着きを持ち始めているのを具に見ていました。
多くの人々が何かを「覚悟」したというか、安心感にも近い静謐が世にある気がします。
それはまるで判決を待つ被告のような、沈黙の中の静けさに近いような印象です。

おそらく、魂の次元では自分の将来が目覚めと神世にあることへの安堵感、反対にこれから修羅の道を歩むことになる未来への覚悟、その二つの感情が漂っているように思えてなりません。
やはり春分を機に、人々の深層意識はかなりの変化を迎えたのだろうと思います。
私は誰かを見て「この人は神世の人だ」とはっきりわかることはありませんが、それぞれの魂の選択は自分だけが深いところでわかるものではないでしょうか。

私自身も含め、誰が救い確定で誰の下に集まっていけば助かる、みたいなことは誰にもわかりません。
確かに波長の低い人はそのまま負のスパイラルに陥っていく可能性は高いですが、深層心理や魂のレベルはそう簡単にわかるものではないでしょう。
反対に、今キラキラした波長を放っている人がずっとそうであるとは限らないわけで、やはり安易に見分けられはしないはずです。

その因果を握っておられるのは今や神々であり、自分に疾しいことがあれば相応の結果が返って来ることは誰しも覚悟しなければならないでしょう。
これからカルマの精算が人々に求められるのであれば、その過去の行いを自分以外に知る存在があるとすれば、神々だけです。
ゆえに個々人にそれぞれ違う現象が降りかかる、そんな不確定な世界線に私たちは突入しています。

特に、今ある絶対的な権威や正義を司る者が、神々からどう見えているかなど人間には測りかねません。
だからこそ、人やモノや組織に依存せず、自分自身の力で生きていけるように神々はずっと促して来られたのです。
その不安と混乱の時代だからこそ、自分を信じ目に見えないものを信じ、神仏を信じ抜くことが求められているのです。

近いうちに記事に書こうと思いますが、そう遠くない将来、私たちが今当たり前に使っているモノがどんどん消えていくことになるでしょう。
その世界で人やモノや組織に依存していたら、おそらく心が持ちません。
そうなる前に、目覚める人から先に進むべきなのだと思います。

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祓戸劇場「どこの職場も同じ」

楽太郎です。

昨日、瀬織津姫様を題材にした漫画「HARAEDO」の2作目「傘神の禍い」を公開しました。
今日は、以前から登場人物(?)として考えていた、猿田彦大神をプチエピソードにしてみました。

以前、「祓戸大神のお仕事・後日談」として描いた一コマ漫画を「祓戸劇場」としてシリーズ化し、その第一話となります。



猿田彦大神は、「塩土翁命」と同一視されることもある神様です。
塩土翁命は山幸彦(火遠理命)を竜宮に導いた海の神様であり、高天原から降り立つ瓊瓊杵命(火遠理命の父)を高千穂に導いた猿田彦大神と役割を同じくしています。
ここら辺は日本神話の解釈として微妙なのですが、同じ「導きの神」としてニュアンスを重ねました。

猿田彦大神が祓戸社の元締であるのは、「饗土(くなど)の神=塞の神」としての災厄祓除の御働きが祓戸大神と同じ目的であると考えたためです。
「祓詞」「禊祓詞」では、祓戸大神は伊弉諾命を父に宮崎県のみそぎ池で誕生したとされます。
猿田彦大神も御親を伊弉諾命としており、神話的には祓戸大神であられる瀬織津姫命と兄弟である可能性もあるのですが、イメージ的に歳の差は否定できませんでした。

だから、漫画の設定の上では瀬織津姫と血縁関係はない訳ではないけど、家族ではないと言う扱いにしようと思いました。
まあ、家族でもこと仕事になるとシビアな関係になりがちですし、上司と部下と割り切ればどこもパサパサした空気になるので、そういうものではないでしょうか。

ちなみに、祓戸社の現場の仕切りは瀬織津姫に一任されている、という設定です。
上司は手を抜きがちで現場の部下が背負いがちなのは職場あるあるですが、猿田彦様のフォローをさせていただくと、重役の神様との接待で釣りをしなければならず、そこで鯛を釣って献上する約束をしていたし神様の送迎と会議と宴会の幹事とプレゼンの準備もしていたので本当に忙しかった、ということにしておきたい…と思います(汗)

【※追記】

猿田彦大神のキャラクターデザインを描いたので掲載します。

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お祓い漫画「傘神の禍い」

楽太郎です。

祓戸大神をモチーフにした漫画「HARAEDO」の二作目ができたので公開します。





梅雨前ということで、「置き傘」が大量に出る季節になりました。
日本はモノが豊かな国ですから、500円で買える傘を使い捨てても特に惜しくないでしょう。
しかし「モノには魂が宿る」とは昔からの日本人の考え方で、現代人とはだいぶ違います。
かつて皆が口にしていた「もったいない」が今、日本スゲーワードに使われているだけだとしたら、それこそ勿体ないと思います。

さて、こういうメッセージ性の強い作風は「ゲゲゲの鬼太郎」を彷彿とさせますが、実際にこういう話があるかもしれません(汗)

白龍のナギくんですが、以前のキャラデザでは爬虫類感があって絵面にすると生々しさがあるかな、と思ってました。
そこでデフォルメを入れてみたのですが、龍というよりピカチュウ寄りの何か感が出てしまいました。
ナギくんはボコボコにされるタイプの受難キャラなので、多少コミカルでないと痛々しくなりそうです。

通常ならこれくらいの作品は1日半あれば完成するのですが、連日憑依を解きながらチビチビ作業していたので1週間ほど掛かりました。
私は軽い憑依なら自分で祓えるので、しんどくはあるけど特に問題はないのですが、家庭菜園のレタスと観葉植物と生花が邪気を浴びてダメになってしまいました。
どうも植物は動物よりも邪気に当てられやすいみたいです。

「大祓詞」が延喜式に編纂された奈良時代以前は、霊障とか憑依をひっくるめて「禍事罪穢れ」として祓い清めをしていたわけですが、邪気がレタスの成長を妨げ味まで変えることがわかり、お祓いが豊作や国家安寧に結びつく理由がわかった気がします。
空気が悪いところで育ったレタスは、奇形だし味も苦くてこの世の野菜ではない感じがしました。

私の周りだけ世界観が違うのですが、この世界に多様性があるというより、私一人頭おかしくて皆まともであってくれた方が安心します。
この世界は人々が思うよりもオカルティックなのだとしたら、全ての事象について違う説明が可能であり、常識的に生きていたい人々にとっては認識論的ショックから心を守ることができるからです。

あと近況なのですが、個人的にカードリーディングを日常に取り入れて役立ててます。
最近、ルノルマンカードに興味を持って研究を進めています。

ルノルマンカードの絵柄は「希望のカード」という、ドイツで出版された双六ゲームができる36枚のトランプから始まります。
この絵柄は数秘とスートと暗号が元になって決められているのですが、この仕組みを応用して「日本版ルノルマンカード」を作れないか考えています。

今その準備をしている最中で、新しい趣味を見つけた感じがします。
「日本版ルノルマンカード」と言っても、最終的に完全にオリジナルな仕組みのカードになると思います。
カードのイラストは前々から仕事などで描いてみたいと思っていたので、自分の考えたリーディングに自分のイラストをつけられたらワクワクします。

あわよくば商品化などを考えています。これから楽しみです。

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新しい世界の「場」

楽太郎です。

来週から木星が蟹座に入るなど、星の巡り的にも強いスクエアを組み始めて物事の流れが変わる印象があります。
奇しくも6月11日の満月に向けて人々の集合意識が強固となり、同時に幽界の影響力も極大化しているように思えます。
これは夏至に向けて新しい気場が形成されつつあるためであり、この気場が完成するとそのエネルギーを人々が降ろして使えるようになります。

その気場を私は「神世」と呼んでいます。

これまで幽界と呼ばれていた5次元の霊界層は、ここ数年で大幅に縮退しました。
その空いた空間に新しい周波数帯の層が作られ、これまで霊界は人が肉体を離れなければ干渉できない世界でしたが、私たちの住む次元が1次元上昇したことで、生きながらにアクセスできる霊界として立ち現れてきます。

その周波数帯はかなり抽象的で、より根源的なエネルギーと相性の良い気場です。
従って、ある程度浄化された魂にとってはホームグラウンドのように闊達に立ち振る舞えることでしょう。
しかし純粋な精神の場なので、ノイズとなるような波長は弾き出されます。

現在の人間界にはノイズが多すぎるため、この雑念を取り払わなければ純度の高い周波数帯にアクセスすることはできません。
そのため、ここ数年は地球の次元上昇と共に人間界には気づきと浄化が促されてきたのです。

この計画を主導されてこられたのは、私の認識では日本の神々なのではないかと考えています。
ただ、日本の神々だから外国に干渉していないとかいう訳ではなく、日本の神々が外国では「天使」とか「宇宙人」とか、そう呼ばれながら働かれているような気がしてなりません。

都市伝説的に日本は「世界の雛形」という話がありますが、実際に我が国は世界でも類を見ない古い文明史を持つ土地にあり、精神文化として卓越した風土にありました。
日本の「大和」という精神は、グローバリズムや多様性などの小手先のレトリックに止まらない、「あなない(助け合い、和合)」の概念にあるからこそ、今の混迷を極める世界情勢にあって大きな役割を果たせるのです。

その精神の復活と、神々の働きは連動しているように思います。

完全に袋小路に入った文明社会から人々は救い出され、新たな歴史のフィールドに乗ることで人類は存亡の危機を免れるでしょう。
しかし、そのためには世界の構造そのものを変える必要があり、それは決して人間の自助努力でどうにかなるレベルにはありません。
それができるのが神々しか存在し得ないからこそ、今こうして霊界を巻き込んだ変革が起こっているのだと思います。

この新しい気場は、元は「幽界」と呼ばれる霊界の最下層の跡地に作られた訳ですが、そもそも幽界は元々あった次元ではなく、人間が霊界に上がる準備場として自分たちで作り上げた階層であったそうです。
つまり人間の思念、霊体が作り上げてきた世界であり、新しく作り替えられる際にはこの層が取り払われ、それが縮小すると同時に中にいた不浄霊が地上に流入してきました。

それがここ四半世紀に起こった世界的混乱の理由なのだと私は推測します。

特に世界を牛耳るアメリカが特筆して変調をきたしたのが9.11同時多発テロ以降であり、これが起きたのが2001年です。
そして、この頃から声高に叫ばれるようになったのが「グローバリズム」であり、このアメリカ主導の国際秩序に我が国が追従したことで、より日本は衰退への足を早めてしまいました。

これまでの世界を作り出してきた金融中心の文明社会は、18世紀フランス革命を機にロスチャイルド一族の影響下で発展してきました。
近代ヨーロッパの動乱を皮切りにアメリカ大陸に押し寄せた西洋人は、現地住民を殺戮し辺境に追いやり、プランテーションのためにアフリカ諸国から多数の奴隷を集めました。
この国は歴史の汚点を引きずり現在もなお有色人種への偏見が強く、その差別観は経済的な格差として如実に現れています。

この非人道的とも思える歴史を持つ国が、我が国日本が宿主としているアメリカであり、その関係に依存し続けたからこそ現在の日本がこの有様になっていると言っても過言ではありません。
そもそも日本人は縄文時代に大陸から渡ってきた渡来系民族と混血し、弥生時代以降も渡来文化を受け入れ多様性を伴い発展してきた民族ゆえ、民族浄化の歴史は確認できず、やはり諸外国とは異なる精神風土があるのです。

日本は神々との関係が深い国でありながら、幽界の干渉の強い国家の影響を受け入れたせいで、神々との繋がりをほぼ失ってしまいました。
かつて神の住まうとされた山々や土地が、不動産として外国人に売り払われ、ソーラーパネルで埋め尽くされ重金属汚染を引き起こし、日本人が代々守ってきた土地は尊厳を失っています。
これを数千年、「産土神」として人間に祀られてきた大地の神々が黙って見ているはずもなく、この状況を引っくるめての大変革が起ころうとしている気がしてなりません。

私は最近、憑依の規模が日に日に高まっているのを感じているのですが、その強度を推し量るとやはり終局が近いのだろうと思います。

アメリカ経済はトランプ大統領の暴走を抑え込むのに必死ですが、相互関税政策の推進を抑制している間はダウも高値で安定し、見せかけの繁栄を示すことで外貨を呼び込んでいます。
しかしトランプ関税発表以降、米国株と米国債は連動して上下するようになり、これまで「株価が上がれば国債は下り、国債が下がれば株価が上がる」という投融資の逃げ道がなくなってしまいました。
それゆえ、現在の米国債はベア(弱気)相場に突入しています。

アメリカへの投資が懸念を抱かれることにより、円キャリートレードなどでドルを買っていた外国人投資家がドルを売って他国通貨を買い戻すようになると、ドルも値下がりします。
そのため、アメリカ経済はドル安株安国債安のスパイラルに陥り、しかも金利の上昇はより国債価格を下げることになります。
それゆえ、トランプ大統領がFRBのパウエル議長に高圧的に利下げを要求しているのですが、これは高いところから水が流れている事象に物申しているだけに過ぎません。

従って、アメリカ経済は完全に奈落の底に落ちるシナリオに突入したと断言できるでしょう。
世界経済を牛耳るアメリカに追従する日本は、このままでは共に奈落の底に引き摺り込まれます。
残念なことに、この悪しき予定調和を打ち破れる人材は、まだ我が国には一人もいません。

金融経済の世界は、完全に幽界的存在の影響を受けています。

私はそれを、「人世」と呼んでいます。
これまで西側諸国の文明を支配してきた幽界的存在は「お金」という概念によって人類を支配してきた者たちであり、その思惑と人間の欲望は非常に相性の良いものでした。
このシステムが人々を支配し、人々の目的であり幸福の指標とし続ける限り、人間は本来の性質を発揮して自由に生きることはできません。

そして、このシステムが終わりを迎えつつある今、その背後には世界のバランスを元に戻そうとする神々の働きがあります。
そこには日本の神々だけでなく、どうやら各大陸の各地の産土神、人々が「精霊」と呼んでいた存在も活動しているように見えます。
そして、その主導的役割を演じているのが日本の神々であり、我が国の総氏神であられる天照大御神の御働きであります。

日本の神々がこの宇宙的大変革において重大な役割を果たしていることは、私たち「日本人」の使命も大きいということです。
奇しくも、近年はスピリチュアルブームがあり、若い人でも神社に関心を持つ人が増えました。
そして、世界でも突出して優れた精神文化を擁してきた私たち日本人は、この新生した気場に最もアクセスしやすい立場にあるのです。

今こそ、日本人はこの世界の疑惑に気づき、その仕組みから一歩離れて世界を俯瞰し、己の心と向き合う時です。
そこで自分の魂に目覚めた日本人は、新しい時代のエネルギーを手にして、新しい世界の礎を築き始めることが可能になるはずです。

これから「目覚め」を体験する人々は、覚醒の世界線をこれまでの人生で選んだ人たちです。
それゆえ、これから起こる出来事は自分のカルマの延長であり、その気づきと学びの中でより魂を磨ける人たちです。
神々はその人々を祝福し、これからの未来を応援することでしょう。
そして、次の世界はそうした人々が中心になることを、神々は望んでおられるのです。


今回は、当初に書こうと思っていた記事の内容とはどんどんズレていったため、何となくスキゾチックな文章になってしまいました。
とは言え、テーマとしては一貫しているので無意味な内容ではなかったと思います。

今、霊的な妨害が激しく体調を整えるだけでも大変ですが、神様からのお役目も別のところであったりして、なかなか絵が思うように描けません。
最近、面白いアイデアを思いついたので少しずつ進めています。若干ビックリされるのではないでしょうか。

続報にご期待下さい。

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