楽太郎です。
「日月神示とは何か」「日月神示解説」、「日月神示解説補足」と立て続けに「日月神示シリーズ」の投稿をしてきましたが、今回は現在進行形と思われる「三千世界の大洗濯」こと「大峠」に関する解説になります。
解説とは言え、あくまで私個人の見解なので予めご容赦下さい。
日月神示に語られる「大峠」とは、「天日月大神」が天地を統治する「ミロクの世(弥栄の世・神世)」に至るまでの「神界・幽界(霊界)・顕界(現界)」の建て替え・立て直しとされます。
天日月大神とは日本神話で語られる「国常立尊大神」とされ、記紀では「素戔嗚命」に比定されます。
「国常立尊」の御神名にあらせられる「国(くに)」とは「地(クニ)」であり、即ち「地常立尊」とは「地球と月の支配神」と解釈して良いと思います。
月は潮の満ち欠けと「夜」を象徴する天体であり、「滄海原」と「夜の食す国」と「天下」を治めるとする素戔嗚命の神格と符号します。
その国常立尊が「岩戸開き」の後に高天原とその象徴である太陽を司ることで、「天日月大神」として神・幽・顕の三千世界を統治すると神示にあります。
今回は、「日月神示解説補足」で触れた「アセンション(次元上昇)」と霊界の関係について深掘りしたいと思います。
例によって、図解を含めながら説明します。
これらの論考は、日月神示「地震の巻」と「龍音の巻」の本文から類推しました。
なお、「地震の巻」に関しては謎の記号と図像のみの帖、天明氏の論考と思われる霊界解説が含まれており、厳密には日月神の神示とは見なされていません。
今回の解説は、宗教家であられる岡本天明氏の見解も踏まえています。
日月神示及び天明氏によれば、「三千世界」と言われる「神界」「幽界」「顕界」のうち、神界には天人の住む「天国」と天使の住む「霊国」、幽界には「陽霊人」「陰霊人」が住まうとされています。
しかし、私の文脈では「神界」には「神と天使」が住み、「霊界」には天使に連なる高級霊までのヒエラルキー、その下には地獄的想念の霊人たちが限りない層を成して住まうと想定しています。
そして、死後に50日ほど過ごす「幽界」を挟み、地上人の住まう「現界」があると考えています。
ゆえに、神示の文脈からは若干ズレるのですが、ほぼ階層として同じ構造です。
この「神界」と「霊界」を合わせて「天界」とし、現界と地上の霊的気場「霊気層」を含めて「地界」と考えています。
人間は生前、死後と霊界に魂を置き「霊人」として生活しますが、私の感覚だと存命中も霊界に魂の本体があり、地上の生活と連動しながら存在し続けているように思います。
人間は睡眠時に「魂の里帰り」をすると言われますが、神示や天明氏の論考の中にも「霊界での出来事は顕界と連動する」と書かれているので、私は生まれ変わり中も大我の中で霊界と魂が繋がっていると考えています。
「地震の巻」の中で天明氏は、「天国的想念の方向は明るいので進みやすいが、地獄的想念の方向には光がないので暗く、それゆえ進みにくい」というようなことを書かれています。
神示の中にも「霊界は上がりやすく堕ちにくい」と書かれていて、どうやら中間的な層として死後すぐに行く仮の霊界があり、そこから段階を経て自らの想念に近い霊的コミュニティに向かっていくと考えられます。
図では、その霊的ヒエラルキーを格子構造として表現しています。
本文には「霊界には空間がない」と書かれているので、おそらく実際はもっと非連続的なのでしょうが、一つの空間世界に雑多に存在するわけではなく、かなりニッチな空間世界が縦横無尽にあると解釈できるため、このような構造にしました。
「地震の巻」には人間は死後50日程度を幽界の準備的場所で過ごし、最長20年そこで留まるケースはあるがそれぞれの想念に近い霊的世界に進んでいくと書かれています。
私はこれを一般的な「幽界」の定義に当てはめて考えています。
そして、地獄的想念を持った霊人たちは一般的に「地獄」に近い場を作り上げますが、厳密にはもっと細分化された空間世界だと考えられます。
また天国的想念も「天国」に近いコミュニティを形成していきますが、上位に行くほど霊的な階層は高くなるので、神界に近づけば近づくほど「天国的」になっていくのだと思います。
厳密には、霊界の最上部付近と神界の天使の住まう層は連続していそうですし、霊界と言われる「五次元世界」の上層には天使が住むとされているので、それほど違いはないかもしれません。
その「天使」は、私たち人間からして見れば十分「神様」と考えて良い存在であり、特に人間の守護につくことが多いと言われています。
ゆえに、天使以上の霊的存在は一般的に「神」と考えてよく、神の上には神が存在し、その更に上に神が、と神々の階層も無限に広がっていくと言われています。
その神々も、より高位になればなるほど抽象化し、「大神」と呼ばれる御神格は神界の上層におられると考えられます。
ここまでが構造的解説ですが、生前・死後の霊人は存命中の人間にアプローチをかけてくることがあります。
ただし本文の解説では、浄化した高級霊ほど暗示的な干渉を伴い、低級霊ほど具体的な現れ方をすると書かれています。
「天国的想念の霊人」が生きている人間にアプローチするなら、加護や福運を伴う干渉を行うでしょうが、「地獄的想念の霊人」ならば呪いや災い、或いは病的な人格変化などに現れるはずです。
これを私たちは、「ガイド」とか「守護霊」とか、「邪霊」とか「悪魔」とか形容したりするのだと思います。
おそらく「幽霊」と呼ぶものは、幽界と霊気層、エーテル体とも呼ばれる半霊反物質の層をまたがっていて、あまりに地上への物質的執着が強すぎて霊界に進んでいけないのだと思います。
これが次の図説のキーポイントで、「幽界の消失」と「地球の次元上昇」と深い関わりがあります。
「大峠以前」の三千世界では、「幽界」が現界と霊界のクッションの役割を果たしていました。
しかし、地球が次元上昇すると霊的三次元だった地上世界は四次元となります。
しかしそこには幽界という霊界の準備場があったため、その気場を払って浮上することになります。
そこで幽界を取り払うと何が起こるかと言えば、幽界が縮小するに従って死後のインターバル期間は短くなり、幽界に居座りたかった不浄霊は行き場を無くします。
例えて言うなら、市役所のホールが小さくなっていくのに、手続きにくる人の数が変わらなければ所内にはいつまでも人を溜めておけないので、手続きも簡略化して流れをスムーズにするでしょう。
幽界の不浄霊にとって霊界は明るくて進みやすい反面、まだ地上に未練があるので上がるのは難しく、かと言って地獄的想念の場は暗すぎて進みにくいのです。
だから彼らはまた地上に戻ろうとして、エーテル層と幽界の狭間を浮遊するか、人やモノに憑依して執着や未練を晴らそうとします。
これがアセンションに伴う「憑依と浮遊霊の大量発生」の原因ではないかと考えていて、憑依された人間は邪念が強くなるので他の人に対して「生霊」という念を飛ばします。
人間の強い念はそのまま「呪い」となるので、呪いをかけられた人の心身はおかしくなり、故にまた他の人に生霊を飛ばすことになります。
今日の社会的混乱と人心の乱れは、ここから起きているのではないかと私は推察しています。
地球が次元上昇するために「幽界」を取り払うことで、行き場を無くした「幽霊(幽界人)」が地上で憑依や霊障を引き起こし、それを助長する地獄的想念の霊人、そして人間の浄化と覚醒を妨げる「神に仇なす者たち」によって、悪の勢力が隆盛しているのが昨今なのではないでしょうか。
では、「大峠」以後の三千世界がどうなるのか、考えてみたいと思います。
人間の死後にインターバルとしての「幽界」が取り払われたということは、死後すぐに霊界に行かなくてはならないことを意味します。
人間の霊的レイヤーも地球と共に四次元に上昇しているので、四次元地球自体が幽界の役割を果たすことになります。
幽界は日本神話で言えば「黄泉の国」であり、仏教で言う閻魔大王の裁きの場でもあります。
日月神示でも語られる「神と獣」の選別、バシャールの語る「ポジティブとネガティブ列車」、私が扱ってきた「神世と人世」という二義的世界は、今その魂の分岐が明確になったことで、死後の行末が現段階ですでに生きながら決められたとも考えられます。
人間が現世に生まれるのは霊人の「魂の修業」のためでもあるので、地上世界が次元上昇することで直接的な霊魂の修業の場となれば、霊魂としてはより高次元に近づきます。
つまり、人間は四次元(スピ的には五次元)の地球で生きながらにして幽界と同じ霊的次元に生き、霊界の行き先が早々に決まるため、死後すぐに霊界に入ることができるわけです。
まして、人々はこれから霊格や「徳」を高めていくターンに入るため、死後に物質的執着を取り除くインターバルを設ける必要性も薄れます。
「日月神示」では、繰り返し「悪は悪ではない」「善と悪の和合こそ真の善」と語ります。
もし「悪は滅ばされるべき」と考えるなら、大峠時に「獣」とされた人々は、死後霊界に入ることを許されず消滅するか、別の次元の地獄的気場に押し込められることになるはずです。
しかし、「悪は大神が許すから存在する」と語られており、悪は必要悪ゆえに宇宙から消滅するべきではありません。
だからこそ、私は「獣」とされた人々もそのまま「地獄的想念のグループ」に直行することになるのではないかと考えました。
しかし、「生まれ変わり」というのは本来、霊人がより高い階層に行くために修業する意味を持っているので、向上心のない霊人はわざわざ地上に転生したりはしないはずです。
かと言って、意地悪い霊人が永久に改心しないとは言い切れず、どこかの段階で「人間に生まれ変わって修業したい」と思うかもしれません。
全ての魂は大神の「分御霊」から生まれ出た神であるので、その自由意志は尊重されるでしょう。
従って、霊人はいくら自らの霊的コミュニティに留まったと言えど、地上に降りた人間は全て高いレベルの霊的修業を行うことになり、全霊魂が改心と浄化に向かう以外のベクトルが用意されていないのです。
つまり、どんな邪悪な性質を持った霊魂も「大峠」で散々痛い目を味わった後は、必然的に改心か霊的浄化に向かうしかありません。
だからこそ、「善も悪も改心させる」と日月神示では豪語されているのだと思います。
そして、善も悪も誰もが悔い改めて結果的に改心していくのだとしたら、世界はどう考えても弥栄えていく道しかないのです。
「世界を一列一平にして一つの神で治める」と神示にあります。
「地獄的想念」と「天国的想念」の霊人社会が神界を中心に遍く統治されるとしたら、その頂点に位置するのが神界(高天原)を新たに支配する「天日月大神」です。
以前の解説で述べたように、これまで「月と地球」を支配していた国常立尊大神こと素戔嗚命は、高天原を支配する「天照大御神」の権威も嗣ぐことになるため、実質的に「三千世界の支配神」となります。
ゆえに、天日月大神の直接統治が神界、霊界、現界と遍く行き渡る「ミロクの世」となり、末長く弥栄ていくのだと思います。
ということで、独断と偏見と勝手な解釈で「大峠」の意味について考えてみました。
私自身、死んだことがあるわけではない(死にかけたことは何度もある)ので霊界解説に関しては完全な受け売りなのですが、一応筋は通っていると思います。
毎日胸が焼けるようなニュースと、白々しい顔をした偉い人たちの顔を見て居た堪れない日々を送っていますが、神示の言うように彼らも悪という御用をしっかりこなしているのだ、と考えて納得するようにしています。
正直に言うと「早く地獄に堕ちればいいのに」と思う気持ちもない訳ではないですし、己の無力感と向き合うこともあります。
ただ、誰しもが幸せになることを求め、それが例え我良しであるとしても、全ての人間を殺して回らなければ気が済まないような悪人はいません。
どんな人間にも幸せになる権利はあり、そのやり方が多少周りを犠牲にするだけのことで、その行為は宇宙に許されているから存在します。
ただ、彼らのやり方がもう時代に合わないというだけのことであり、TPOを弁えないがゆえの罪なのです。
次に電車の席に座りたい人がいるのに、降りるべき駅で降りずに座席で横になっていれば困る人がいますし、要は順番を守って欲しいだけなのです。
そして、その座席が空くのを次の時代に生きる人々は静かに待っています。
けれど、いずれコワモテの駅員さんが駆けつけて、彼らの肩を叩く時が来るでしょう。
私たちはその時を待っていれば、晴れてグリーン席に座れるのです。
その電車は、逆さまだった世界がさらにひっくり返り、「神秘」というビックリ箱が開いた「弥栄の世」に向かっていくはずです。

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楽太郎です。
昨日、「日月神示解説」という記事を書きました。
そこでは、新たに世界を支配する神格が「天日月大神」であり、高天原と黄泉の国と葦原中津国、いわゆる神界と霊界と現世を統べるという話をしました。
今回は、前回の解説記事に加えると蛇足になりそうだった事柄について付記していきたいと思います。
さて、日月神示に予言されていた「三千世界の大洗濯」と「五枚の岩戸開き」と、昨今スピリチュアル界隈の中心的テーマだった「アセンション(次元上昇)」には密接な結びつきがあります。
本ブログでも度々取り上げていますが、新月と満月の周期で毎月異なる形で霊的浄化のウェーブが発生していました。
ある時には「過去への執着」であったり「人への感情的依存」であったりしました。
そのテーマが月の満ち欠けによって現れると、浄化に抵抗する人々の集合意識は邪気を生み出し、霊的な暴走をする傾向があったのです。
だから私は満月の日は大抵頭が痛く、まともに動けない日もままありました。
そして、去年の夏至から強烈な力を発揮し始めた季節分点は、二十四節気の巡りを利用して一つの区切りとなっていたようです。
昨年末の冬至には「神世」か「人世」を選ぶかの選択が問われ、ほぼ今年の運勢を決めるような目標設定を求められました。
そして今年の春分と5月の満月で、二度「神世」か「人世」を選ぶかの確認が行われました。
なぜ重ねて「選択の意思決定」が神々から問われたのかと言えば、日月神示でいう「神の道と獣の道」で人々を選分け、境界線を引くことで次の時代に進ませる人々を選ばれたのだと思います。
このように、太陽や月と地球の周転だけでなく、太陽系の星々や星座の逡巡とも影響し合いながら、宇宙的なスケジュールと並行して「アセンション」は進められてきました。
これらの占星術的な天体の巡りは、本来何十万年も前から予定されていた事柄であり、そのスケジュールに合わせてテーマが地上に降ろされ社会的な影響を生み出すことを考慮すれば、「アセンション」も「神々の浄化作戦」も、遥か昔から仕組まれていたのかもしれません。
奇しくも、日月神示を降ろされた「日月神」の御神名にある「日月」とは暦を示し、天体周期と密接な繋がりのある言葉です。
それゆえ、終戦一年前に岡本天明氏に降ろされた日月神示が、80年の月日を経て現代の私たちの目前に再現されることは、正しく「神からの啓示」に他ならないのではないでしょうか。
ゆえに、地球の次元上昇と天日月大神による新世界の到来は、どうも無関係とは考えにくいのです。
前回の解説で、一度目の岩戸開きは「伊奘冉命と伊弉諾命の再会」を意味すると書きました。
神話では伊奘冉命は火加具土命をお産みになられ、火傷が原因で黄泉の国に赴き、そこで黄泉大神となられました。
日月神示の霊界解説によれば、地上を巡る「気」が天上にそのまま還らず、傍に逸れて地獄的想念が溜まった場が「幽界」であるとされます。
昨今、スピリチュアル界隈では妙な話があり、「幽界が消失し始めているのではないか」というのです。
私はこれに関して実感があって、浮遊霊と生霊の大量発生の裏で、不浄霊の憑依も活発化しているのではないかと仮説を立てていました。
世には人間の心を無くしたような過激な人間が増え、その過激な人間を持て囃す過激な集団も増殖し、その背景の裏に私は「邪霊の憑依」を感じています。
つまり、幽界が縮退するにつれて行き場を無くした地獄的想念の不浄霊たちは、地上に居場所を求めた結果、似た想念の人間を苗床にし始めたのではないでしょうか。
従って、元々「獣」としての傾向が強かった人は、不浄霊の憑依が加わることで「獣化」が進行します。
ただ、憑依に対する「祓い清め」とは自ら行う意志がなければ浄化されないため、「神の道を選ぶか獣の道を選ぶか」を神々に問われた時、魂のレベルでの自由意志による決断を迫られたのです。
邪霊の憑依を受け入れ神を拒んだ者は、自らの意志で「獣の道」を進むのを選んだことになるため、今後は神に救われることのない道を歩むことになるはずです。
大神からの「分御霊(ワケミタマ)」である人間の魂は神の一柱であり、例え天界の神々と言えど神の一柱である人間の自由意志を無理に変えるわけには行かないのでしょう。
ゆえに、「自分の意志で次の時代を選ぶのか、このまま留まるのか」を選択させたのだと思います。
仮に神の道を進まないからと言って天罰が下るわけではなく、あくまで「神の加護から外される」だけでしょうが、それは迫り来る不幸を回避できないことを意味します。
従って、人間の「獣化」と世の動乱、アセンションとの相関は「幽界の消失」という面からも説明ができます。
しかし私の自説である「幽界の消失」と次元上昇した「地球の霊的気場=精神界」の出現は深い関係があり、幽界の消失で空いた霊的気場にスッポリ収まる形で「地球霊魂の気場」が作り上げられたとするなら、その霊的次元の創出にこそアセンションの真の目的があったと考えられるのです。
奇しくも、一度目の岩戸開きによって伊奘冉命が伊弉諾命と再会できるとしたら、黄泉大神としての任が解かれたとも解釈でき、つまり幽界が消失したからその国を治める必要が無くなったとも考えられるのです。
そして、これまで伊奘冉命は千引きの岩によって黄泉の国に閉ざされていたからこそ伊弉諾命と遭うことが叶わなかったので、黄泉の国を治める必要がなくなれば千引の岩を置く必要もなく、ゆえに両神は何千年、何万年越しに逢瀬を果たすことができるのです。
「地球」を支配しているのは国常立尊であり、神示によると日本列島は「国常立尊の影」であるとされます。
言わば、地球そのものが国常立尊大神の「御身体」であり、地球霊魂が「国常立尊大神の御霊体」であるとも考えられます。
だからこそ、幽界跡地に地球霊魂が上昇し、そこで新たな霊的気場を作るのは理に叶っているのです。
そして、地球霊魂であられる国常立尊大神=天日月大神と魂で繋がる人間こそ「神人」であり、新たな世界の礎となっていく人々なのだと思います。
このブログを遡ればわかると思うのですが、私がずっと「神世に上がるため」と表現して必死に自己浄化に専念してきたのは、次元上昇した地球の霊的気場にアクセスするには相当な精神的修行が必要だったからです。
それは「霊格」と言ってもよく、常識的な人格とは違う徳の高さであり、神示が「ゴモク(汚いもの)を捨てよ」「御魂を掃除せよ」と口酸っぱく述べられるのは、「我良し」という考えを持っていては地球意識を共有することができないからだと思います。
ゆえに「ミロクの世」が弥栄えるのは、我良しの考えは結果論で言えば合理的ではなく、人々が互いにWINWINの関係しか築かなくなるとしたら、必然的に繁栄し続けるしかないのではないでしょうか。
しかし逆に考えれば、今は誰もが「我良し」という悪に染まっているから一方的にWINLOSEなのだけど、長い目で見ればLOSELOSEだから先細り、世が行き詰まっていると考えることもできます。
その件に関しても神示には説かれていて、「世は金で治めて金で潰して、地固めする」とあります。
日本は戦後復興から高度経済成長、バブル崩壊から低成長の現代に至るまで、ずっと「拝金主義」の時代でした。
人々は精神的な豊かさよりも物質的・肉体的な価値を追い求め、ゆえに経済や社会が行き詰まっても「お金があれば幸せになれる」という目的意識から外れることができず、経済的利益を得る以外の発想を持つことができません。
今起こる日々のニュースを見ても、「法律に書かれていなければ何をやっても良い」「多少道理は違えても成果を出すべき」「お金があれば幸せになれるのだから金儲けは悪ではない」という考えが蔓延り、道徳的善悪が「利益=善」というロジックにすり替わっているのです。
だからこそ、成功や利益のためなら全てが奨励されるべき、という風潮の中で社会的制度もモラリティもおかしくなっているように思えます。
そもそも、物物交換の補助的手段でしかなかった「貨幣」という概念が、今では人の人生も魂も支配する仕組みになっています。
言ってみれば現代は「金で固まった世」であり、金で固まっているからこそ搾取と欺瞞に満ちた社会経済が固定化し、その毒が回って国家レベルで自家中毒にかかり、瀕死の状態にあるのです。
それがもし「金で潰される」のなら、こうして袋小路に入った文明社会も、全ては人類と世界のステップアップに必要な過程であり、世の建て替え・立て直しのために用意されたステージだったのでしょう。
ゆえに、これから先に起こることは大体予想できますし、私にはそっくりそのまま正規ルートのシナリオを辿るしかないように思えます。
人間は逆立ちしては生きられません。
しかし今の人々は頭を逆さにして、お尻を上に向けて両手で歩いているのです。
お尻が頭の位置にある人々が多いからこそ、世の中はおかしなことばかり起こっています。
今の世は逆さまの世界であり、心や思考があるべき場所に欲望が収まり、心ある者は損をし軽率な者はますます栄えます。
もちろん逆立ちは人間本来の立ち方ではないため、何をしても苦しいのは当然です。
誰もが違和感を感じ、できるならやめたいのだけれど、皆が逆立ちして生活しているから足を地面に降ろすことができないのです。
けれど、誰かが「やっぱり普通に歩くのがいいわ」と言い始めたら、徐々に逆立ちを恥ずかしがる人も出てくるのではないでしょうか。
人間は頭を上に向けて、両足でしっかり地に足をつけて生きるべき動物なのです。
常に息苦しいのは逆立ちをしているからであり、頭に血が下りていれば楽しくも生きられないでしょう。
そうして人々が本来のあり方・生き方を取り戻していけば、人類は自然と弥栄えていくはずです。
私は日月神示を信じるべきと言うつもりはありませんし、日本の神々への信仰を全ての日本人や世界中の人に押しつける気もさらさらありません。
むしろ、自分の信じる神秘的存在を追求し、身の回りに奇跡を感じて生きることこそ理想なのではないでしょうか。
ただ、この薄汚れた世界で人を信じれないとしたら、目に見えない存在を一旦は信じてみても良いと思います。
まして神を信じられなければ、自らを徹底的に信じてみることです。
おそらく、その姿を神々は見守り、時にはそっと背中を押すことでしょう。
いつも陰に「神様」はおられるのです。
人間が本来の姿となり、心と魂を取り戻した世界が、これから訪れる「神が再来した時代」です。
その世界が開けるまでの苦難を日月神示では「大峠」と表現しています。
その間の困難は想像を絶するでしょうが、そのトンネルの先には、必ず光の差す出口があります。

楽太郎です。
以前、「日月神示とは何か」という記事を書きました。
そこでは、「国常立尊大神」が三貴神の「素戔嗚命」と同一神であること、その国常立尊大神が高天原の最高神であられる天照大御神の権威も継承し、最高神の座に鎮まることが「日嗣(ひつく)」を意味し、天と地上を治めるのが「ミロクの世(神世)」であるという解説をしました。
伊弉諾命が阿波岐原で潔斎を行なった時にご誕生なされた三貴子は「天照大御神・月読命・素戔嗚命」の三柱にあられます。
しかし、あらゆる古伝書や神話にも、月読命の業績が記されているものは殆どありません。
「日本書紀」には、保食神が饗応の宴に際して口から食べ物を吐き出しているのを見た月夜見命は、激昂して保食神を斬り殺してしまいます。
「古事記」において、素戔嗚命は宴の席の裏で大宜津姫命が御饌を吐き出していたのを見るという、月夜見命と同様のエピソードがあります。
これらの説話の類似性から、長らく月読命と素戔嗚命の同一説が語られていました。
日本神話では高天原を支配するのが太陽神であられる天照大御神ですが、月読命が「天の一部」「夜の食す国」と「滄海原の汐の八百重」、素戔嗚命が「夜の食す国」「滄海原」と「天下」を治めたと記紀には記されています。
つまり天照大御神と月読命と素戔嗚命の三柱で「高天原と夜の食す国と地上世界」を治め、象徴的天体としてそれぞれ「太陽と月と地球」を司ることになりますが、月読命と素戔嗚命で「夜の食す国」「滄海原」を二柱で統治していることになります。
これは、直感的に不自然に思います。
神話として明快な叙述をするなら、「天照大御神は太陽を司り、高天原を統べる」「月読命は月を司り、夜の食す国=黄泉の国を統べる」「素戔嗚命は地球を司り、葦原中津国を統べる」とすれば、神話的構図はシンプルになります。
しかし、「黄泉の国」を支配するのは黄泉大神であられる伊奘冉命であり、「夜の食す国」は黄泉を差すのではなく、「夜の治める地(くに)」を意味し、厳密には「夜の地球」です。
ゆえに、月読命と素戔嗚命の統治権の揺らぎは、「月読命と素戔嗚命の神績を意図的に二分割したからではないか」と考えられます。
「記紀」は、飛鳥時代から奈良時代に続く朝廷政権の混迷期にあり、かなり政治的な文脈が織り込まれているので注意が必要です。
当時は諸豪族の勢力に睨みを効かせたり忖度する必要があったので、物部氏や大伴氏、蘇我氏や中臣氏の文脈を考慮に入れて記述的なバランスを取ったと思われる部分も見られます。
朝廷周辺の豪族には海部氏や秦氏や尾張氏も強い権限を有し、「月神」を信仰する海洋系氏族の影響も充分考えられます。
「記紀」はおそらく虚偽の事実を書く意図は全くなく、ただ文脈通りに書けば波風が立つため、敢えて複雑な叙述トリックを使って有耶無耶にしている部分が多いと思います。
日本神話は大陸起源の人類学的神話が引き継がれており、長らく文字が存在せず口承によって神話が成立したからこそ、これほど複雑なロジックを必要としないはずです。
今回は「日月神示」の解説なので読後感に従うならば、「月読命(大神)」は素戔嗚命であり二柱が同一の神格を指すとすれば、「月」「夜の食す国」と「滄海原と大地(地球)」を統治するのが素戔嗚命であると考えて良いと思います。
記紀には亡くなった母の伊奘冉命を慕って、素戔嗚命が黄泉の国に行きたがるエピソードが挿入されており、伊奘冉命は火加具土命をお産まれになられた後に亡くなり、その後黄泉の国を治める「黄泉大神」になったとされています。
「黄泉国」は黄泉大神であられる伊奘冉命が治めるので、「夜の食す国=黄泉の国」ではなく、実際には地球と地球の衛星たる「月」が素戔嗚命の直接統治下にあると考えたら腑に落ちます。
「月読(ツキヨミ)」という神名の語源は「暦(コヨミ)」と関係が深く、どうやら「日」を元にした暦の換算と「月」を元にした換算を合わせて「日月」と呼んでおり、その風習は現在にも受け継がれています。
古代から人々は祭祀や収穫の時期を読むには、太陽と月の周回を観察し、その暦を元に祭事を行ってきました。
それゆえ「日=太陽」と「月」の周回軌道を読むことがそのまま宗教化されても、何の不思議もありません。
現代科学によると、月は「巨大(または複数)の惑星の衝突」によって飛散した惑星物質が地球の周回上で結合し、月になったとする説が最も有力です。
月には地球上の組成物質だけでは成り立たず、他の惑星の組成も確認されつつ大部分は地球の破片です。
つまり、月は「地球と兄弟」とするのが妥当であり、実際に地球と月を支配する神が同一であっても筋が通ります。
また、人間は「3」を聖数とする習性があり、天と地を支配するのが「三柱」にすると感覚的に落ち着くのです。
しかし、三貴子の神話以外でも「天御中主神・高神産霊神・神産霊神」、「火遠理命・火照命・火須勢理命」を始め、二項対立を敢えて避けるために記述のない神格を置く例が存在します。
故に天照大御神と素戔嗚命(月読命)の一対で高天原と葦原中津国を事実上治めている、と考えたら矛盾はなく、それは後述する「伊弉諾命と伊奘冉命の別離」とそれに伴う黄泉の国の支配体制も一つの文脈として成り立つのです。
つまり、三千世界を構成する高天原・葦原中津国・黄泉の国のうち、「高天原を治めるのは天照大御神」「葦原中津国を治めるのは素戔嗚命」しかし、「黄泉の国を治めるのは伊奘冉命」と正直に明文化すると三貴子に当て嵌まらず、違和感が出てしまいます。
そのため、帳尻を合わせるためにも「月」と「夜の食す国」を設定し、「夜の地球」を「黄泉の国」にミスリードしているのではないでしょうか。
そのため素戔嗚命に一柱二役になってもらい、「月読命」の神名を冠させて頂いていたと考えるのが自然です。
ここからは、「月読命は素戔嗚命と同一神である」という前提で話を進めます。
神話学的に「素戔嗚(すさなる)」という神名の由来は、「凄い勢いで功績を成し遂げた神」という意味が語源だとされています。
日月神示の文脈で言えば素戔嗚命は国常立尊大神であらせらるので、かつてこの世界を造り固めて支配した神とされます。
国常立尊は、記紀の記述によれば「造化三神」「別天津神」に次いでお産まれになられた神であり、神代七代の始めにして、その後に伊弉諾命と伊奘冉命がお産まれになり、伊弉諾命の御子神が素戔嗚命なので、時系列で考えると世代が合いません。
これに関して記紀では、造化三神も別天津神も神代七代も一世代ずつご誕生になられてはいるものの、実はそれぞれの代に親子関係は明記されていません。
つまり、造化三神の後に別天津神二柱がご誕生された後、国常立尊と豊雲野尊がお産まれになられてますが、国常立尊と豊雲野尊の間に伊弉諾・伊奘冉の二柱を含む地祇五代がご誕生なされた訳ではありません。
事実、伊弉諾命と伊奘冉命に「親神」が存在しないということになっています。
これに関して、どう考えたらいいのでしょうか。
記紀では、天孫降臨の際に天照大御神の指南役として登場し、実際に天孫である瓊瓊杵命の補佐を行ったのは「高神産霊神」です。
高神産霊神は造化三神の一柱であり、天御中主神がご誕生してすぐにお姿を隠された後、神産霊神と共に多くの高天原の神々をお産みになられました。
本来なら、天照大御神の天孫降臨を助けるのは、親神であられる伊弉諾命の役割ではないでしょうか。伊弉諾命に親神は存在しませんから、「高神産霊神=伊弉諾命」という解釈が可能です。
高神産霊神と神産霊神、伊弉諾命と伊奘冉命が同じ御神格であるとするなら、なぜ神名を分ける必要があったのでしょうか。
高神産霊神と神産霊神は思金命や太玉命、少那彦命など高天原に坐す神々をお産みになられましたが、伊弉諾命と伊奘冉命は「神産み」「国産み」をした後、伊弉諾命は単神で皇祖神であられる三貴子をお産みになられました。
つまり、高神産霊神と伊弉諾命はよく似た業績を持ちながら、レイヤーの違う役割を演じているのです。
高神産霊神が「高天原の神々の親神」なら、伊弉諾命は「皇祖神の親神」になるのです。
おそらく、記紀的文脈では「高神産霊神が三貴子をご誕生させた」とするには、系譜的に都合が悪かったのではないでしょうか。
ゆえに、高神産霊神が国常立尊の上位神、伊弉諾命が素戔嗚命の親神であったとしても矛盾はありません。
従って、国常立命と素戔嗚命が世代が違うように思えるのは、記紀の叙述トリックを回避すれば説明がついてしまうのです。
日月神示では、地上を支配する神であられる国常立尊が高天原の「日を嗣ぐ=王権を担う」ことで「天と地を支配する=一つにする」と語られます。
神示に幾度も登場する「てんし様」という言葉は、「天嗣(天を継ぐ)」を意味し、また「天司(天を司る)」でもあると読み取れます。
国常立尊が素戔嗚命と同一神であり、天照大御神の玉座を継ぐことを意味しても世代的に矛盾はありません。
ゆえに、月と地球を支配する素戔嗚命が太陽さえも統べる時、大日月地を治める御神格となられるのです。
では、天照大御神が国常立尊とほぼ同時期にご誕生なされた「豊雲野尊」と同一神であるかと言うと、それを裏付ける論拠は何一つなく、天照大御神と豊雲野尊を結びつける言説は殆ど存在しません。
しかし、日月神示の文脈を一部共有する大本教の説では、豊雲野尊は国常立尊の妃神であり、国常立尊のご隠退と合わせて自らも「坤」の方角にお隠れになられたと言います。
天照大御神は素戔嗚命との「誓約(うけい)」によって数多の神々をお産みになられましたが、儀式的ではあるにせよ姉と弟の作業による神産みなので、普通に考えると違和感があります。
大本によると豊雲野尊もご隠退なされていることになりますが、日月神示では天照大御神は岩戸隠れの後、「偽の岩戸開き」によって騙そうとした神々に騙された神が姿を現し、本物の天照大御神はまだ岩戸の中に閉ざされたままだと語られています。
これは由々しき話であり、これがどういう文脈であろうと日本神道を揺るがす内容に変わりはありません。
しかし日月神示に準拠すれば、天照大御神の岩戸隠れを含む「五度の岩戸閉じ」が起こったことで、世が闇の世となっていったと語られます。
そして日月神示は、その五度閉じられた岩戸が一斉に開かれる時が来ると告げ、その時こそ「大峠」を迎えると説きます。
日月神示にたびたび出てくる「鳴門(なると)」という言葉は、「成る戸=十(と)」の意であると考えて良いでしょう。
神示の中で、「八の世界が十の世界になる」と説かれています。
そしてこの仕組みが、岩戸開きのキーワードになってくるのです。
神示の中に、伊弉諾命が単神で八柱お産みになられたとされていますが、別の文脈では伊奘冉命と「八尋殿」を地上に設けた際、四方と八方角が発生したとも書かれています。
よく神示に出てくる「12345678」は、ここまでの数字を指します。
そして「9」は「コ=光(こう)」であり、「高天原」を意味し、「10」が「ト=透(とお)」即ち常(とこ)世、黄泉の国、霊界(幽界)を示すと考えられます。
「12345678」が八方向の空間、葦原中津国を指すのであれば「9(高天原)」と「10(黄泉の国)」が合わさり10カウントになれば、「成る十(鳴門)」が完成するのです。
「大峠」とは「三千世界の大洗濯」を意味し、高天原・葦原中津国・黄泉の国の建て替え・立て直しのことです。
つまり、「12345678910」の完成(=成る十)こそが神示で語られる「鳴門の仕組み」と考えられ、岩戸開きそのものを示すのです。
ただ一方、これで岩戸開きは完全には達成されないと言われます。
岩戸隠れの時に天照大御神を呼び出すための催しが執り行われた際、天細女命が奏上した巻物には「12345678910」と書かれていたけれども、正しくは「012345678910」でなければならなかったと書かれています。
この「0」というのは日月神示独特のメタファーで、「・(キ)」に対応する「◯(ミ)」であり、外側の様相を示しています。
ここで言う先頭の「0」は、「◯」の真ん中に「・」の入った記号であり、そのまま「神」を意味すると説かれています。
即ち、これまで天照大御神が岩戸から出て世界を支配していても、真の天照大御神はまだ岩戸の中におられるので先頭の「0」が足りなかったのです。
この先頭の「01」と最後の「10」が合わさると「ニ十ニ」になると神示では述べられていますが、正直このロジックは私には説明がつきません。
しかし、こうして揃った「ニ十ニ」が「富士(ニニ)の仕組み」であると述べられています。
この「富士」という言葉と「ニニ」という数字は、日月神示を読み解く上での重要ワードです。
「フジ」は「不ニ(二つとして同じものがない)」という意味と、「神の国の山」が転じて「唯一無二の神が宿る身体」という意味があるように思います。
日月神示のコアとなる「神人」という概念は、ここに通じ、また「岩戸開き」の鍵となるのです。
ゆえに、「鳴門」と「富士」の仕組みが岩戸開きの要であり、それは「012345678910」の「ひふみ=(日月)」が完成することを示します。
何かと謎記号と数字の多い日月神示ですが、こういう読み解き方をすると見えてくるものがあります。
国常立尊大神が支配する「三千世界」とは、八方向の地上世界(葦原中津国)、九(光)の世界である高天原、十(常世)の世界である黄泉の国を意味します。
黄泉の国は、伊奘冉命が黄泉大神として治めているとされます。
しかし黄泉の国と葦原中津国を隔てる「千引きの岩」が取り除かれると、伊奘冉命は伊弉諾命との間にある岩戸が解かれ、二柱がようやく再開して和合すると述べられています。
日月神示の中で語られる「五度の岩戸閉じ」の中で、伊弉諾命と伊奘冉命の別離は「一回目の岩戸閉じ」であったとされます。
伊奘冉命は火加具土命をお産みになった際に火傷を負われて亡くなられましたが、その後に亡くなった伊奘冉命を追って黄泉の国に赴かれた伊弉諾命は、その際に仲違いをしてしまいます。
伊奘冉命は黄泉大神となり、どうやらそのまま黄泉の国を統治し続けられたようです。
日月神示の霊界解説では、地上を巡った「気」が天上まで還らず、横に逸れたことで誕生したのが「幽界」であるとされます。
「大祓詞」では、祓戸大神が祓い清めを行う際、速佐須良姫命が根の国底の国に流れ込んだ罪穢れを「さすらい」消し去るとあります。
記紀の中で、伊奘冉命と伊弉諾命の口論の際、仲を取り持った女神が「菊理姫命」であり、伊奘冉命の妹とも御子神であるとも言われます。
人間は死後、霊界に上がる前に準備段階として「幽界」に上がるという説があります。
心霊学的には人間の念が作り上げた霊的気場であるとも語られ、ここには霊界へ上がる霊も停まれば、地獄的想念を持つがゆえに霊界へ戻れず、不浄霊として残り続けるそうです。
つまり、神界と霊界と現界の間にイレギュラーに発生した霊的階層であるからこそ、改めて大神が統治する必要があったのだと思います。
それは初めから計画されていたのだと思いますが、いずれにしろ伊奘冉命と伊弉諾命は別れ、その間は「千引きの岩」で閉ざされてしまいました。
これが「一度目の岩戸閉じ」です。
二度目の岩戸閉じは、「素戔嗚命に罪を着せた時」とされます。
記紀では素戔嗚命は「天津罪」を犯して高天原を荒らしまくったため、その罰として髪と爪を抜かれて高天原を追放されます。
日月神示と、その前身とも考えられる「大本教」の説話において、素戔嗚命こと国常立尊は厳しく天地を治めたため、その厳格さに反抗した神々によって弾圧され、「艮の方角=日本列島」に封じられたと語られています。
記紀では素戔嗚命の暴虐にお怒りになられた天照大御神が「岩戸隠れ」をなさったので、国常立尊ご隠退の経緯に繋がるのではないでしょうか。
天照大御神が岩戸にお隠れになられ、「騙そうとした神々」が「騙した神」を顕現させて「偽の岩戸開き」をしたと述べられているので、文脈で考えたら天照大御神は「閉じ込められた」と考えた方が自然だと思います。
冷静に考えたら、天照大御神が自ら岩戸に引きこもったのなら、気が改まれば自ら姿を現したはずです。
しかし、「偽の天照大御神」が御顕現なされていることを大御神は知り得ておられるはずで、それでも未だ岩戸の中におられるということは、そこに他意があるようにしか思えません。
四度目の岩戸閉じは、「神武天皇の時」とされます。
大国主命から国譲りがなされ、瓊瓊杵命が天孫降臨をした後にその子孫の神倭磐余彦命は日向を発ち、東征を始め大和に辿り着いて橿原に朝廷を開きます。
この功績を「岩戸に隠した」と神示には書かれていますが、匂わせている感じもします。
ヤマト王権成立以前には「倭国大乱」があり、実際に弥生後期には各地で戦闘が激化したのは考古学的に証明されています。
葦原中津国の豊葦原瑞穂国を平和に治めるためには、この武力による騒乱を鎮める必要があったのだと思います。
そして、実際に「卑弥呼」を擁立し、太陽神祭祀を礎とする宗教国家「大和」が日本各地を政治的に平定していくことになります。
ここで「神の直接統治」ではなく、「天皇の間接統治」が始まったことで、歴史的には「神代」から「人代」へ転換していくことになりました。
しかし、数世代後の大和朝廷は内部の覇権争いと領地争奪の中心となり、平安時代の朝廷の没落から次第に武士の世となっていきます。
この歴史にも「闇」があり、騒乱の時代になっていく過程はある種の岩戸閉じかもしれません。
最後に、神示の中でははっきりと五度目の岩戸閉じは「仏魔の渡来」であると書かれています。
飛鳥時代には日本に仏教が伝来しましたが、そこでは神道保守派の中臣氏と仏教推進派の蘇我氏の間で権力争いが発生しました。
それで朝廷は一時混乱しましたが、その後は仏教が浸透し各地で神仏が習合していきました。
それを日本の神々がどう受け取ったのかは図りかねるのですが、神道とは本来経典がなく、自然信仰に近いために各々の信念や霊的感覚が柱となってきました。
しかし仏教には経典があり、厳密な戒律も存在します。
人々は教えを守るために経典に頼り、そこに救いを求める流れは神道の自主性とは異なる性質もあります。
私自身は神道の導きも仏教の教えも矛盾はないと思っているのですが、「教科書通り」の宗教は神々のお考えとはズレがあるかもしれません。
神仏習合によって日本人に馴染んだ信仰も、欧米の価値観に引き摺られた明治政府の「神仏分離」によって、また違う形に変貌させられてしまいました。
「六度目の岩戸閉じ」があるとしたら紛れもなく「黒船来航」だと思うのですが、とりあえず以上の五回の岩戸閉じが闇の世をもたらしたと日月神示には書かれています。
先ほど、岩戸開きによって「伊弉諾命と伊奘冉命が千引きの岩が取り除かれたことで再会を果たす」と書きました。
それが一度目の岩戸閉じに対応した岩戸開きだとすれば、二度目の岩戸開きは素戔嗚命が罪を背負い、大本教で言う「艮の金神」としての封印が解かれ、国常立尊が「天日月大神」として新たに高天原の王座に就くことを示すと考えられます。
そして、岩戸開きの際には「天照大神・天照皇大神・日の神」が揃ってお出ましになると神示には書かれており、それが三度目の岩戸閉じに対応します。
おそらく、これまで闇の世を支配していた「偽の天照大御神」がご退位なされたので、本物の天照大御神が岩戸から出られ、その頃には高天原の最高位は天日月大神となられた素戔嗚命が引き継いでいるのだと思います。
四度目の岩戸閉じは置いといて、五度目の岩戸閉じに関しては、仏教では「末法の世」が終わると、弥勒菩薩が治める「弥勒の世」が訪れると説きます。
仏教の原典では「弥勒の世」は気の遠くなるほど先の時代を指すのですが、日月神示では大峠が終わり天日月大神が治める時代を「ミロクの世」と呼んでいます。
つまり、「ミロクの世」が近い将来に到来してしまえば、仏教の究極的世界である「弥勒の世」が実現してしまうことになり、仏教のタイムラインが終了してしまうのです。
これは仏教信奉者として由々しき事態というか、自分でも書いていいのかと思ってしまうのですが、とりあえず「日月神示」の解説なのでご容赦ください。
一先ず話を進めますが、四度目の岩戸開きを飛ばしたのは本気で書きたくないからです。
しかし、ここまで書いてしまったら仕方ありません。
四度目の岩戸閉じは神武天皇の折、神が人になり変わる必要があった、と神示には示されています。
かなり濁した書き方になっているように感じますが、要は「神が人となって地上を統治せざるを得ない理由」があったからです。
そして「人が神になり変わって統治する時代」が終了するということは、神が地上と人を直接統治する時代に戻ることを意味し、「人が神の代理として統治する」必要がなくなるということです。
つまり、天皇が政治的役割を終えることを意味します。
もうこれは◯されてもおかしくないのですが、「象徴天皇だからセーフ」みたいな話にならないでしょうか。
もし私が血祭りに挙げられたら、日月神様が責任を持って天国に導いてくださることを期待します。
これらの「岩戸」が何を閉ざしていたのかと言えば、神の道に他なりません。
つまり、神と繋がり自らを祓い清め、清廉潔白に「弥栄」に生きる道が閉ざされたことで、人々は罪穢れ、迷い苦しみ憎み争い、災いや禍事を受けるようになったのです。
だからこそ、日月神示では口酸っぱく「御魂磨き」を勧め、それは改心と悔い改めであると言います。
そして、おそらく現在進行中の「大峠」を乗り越える唯一の術はそこにあり、「神と獣」が分かれた世で「神人=真の臣民」であれと説くのです。
神道では、全ての日本人が「天の益人」とされます。
人間は大神から魂を分け与えた「分御霊(ワケミタマ)」であり、それぞれが神の一柱です。
神とは、大神の配下でありながら家臣でもあり、つまり人々は「臣民」という大神自ら擁する民だからこそ、大いなる加護を授かるのです。
この神示を降ろしたのは、文脈から察するに「天日月大神」の補佐をする「天日月神」です。
神々の世界には「大神」という王の中の王がおり、「神」という王たちが存在するようです。
「地(くにの)日月大神」も同時に存在し、おそらく天日月大神と同神格なのだと思いますが、「地日月神」は「臣民」即ち目覚めた人間たちであると言います。
冒頭とも重なりますが、「日月」は本来「暦」を指し、奇しくも神示の中では具体的な日付が語られていたりもします。
「3月3日」「5月5日」など、艮の金神の調伏儀礼の日とも重なります。
そして何度も強調される「旧暦9月8日」の真意はわかりませんが、何らかの意味があるのでしょう。
それが「五度の岩戸が一斉に開かれる日」なのか、「国常立尊大神が高天原の王座に即位される日」なのか、それは不明です。
日月神が暦(時間)を司るとすれば、その予言が80年前に岡本天明氏に降り、第二次世界大戦の行末と将来における地球の次元上昇、「三千世界の大洗濯」こと大峠の到来、新たな世界を統べる天日月大神のご顕現を言い当てられたとしても不思議ではありません。
神々の世界は地上世界とは異なる時間軸にあり、また時間と空間の概念も異なると言います。
そして、神界や霊界で起こった出来事は必ず地上世界に再現されるとされ、神示の中では「神界の建て替えの真っ最中」だと書かれています。
つまり、80年前にはリアルタイムで神界の洗濯が行われており、それが霊界を通じて80年越しに現世に反映されていくのだと思います。
もし未来の出来事が神界に既に起こっているならば、神々が現代において和気藹々とご活躍されていることを鑑みるに、やはり「悪神」は退き神界には平和が訪れているのだろうと思います。
そして現世を生きる私たちは、その後に続くことになるのでしょうし、続かなくてはなりません。
この世には未だ悪が蔓延り、人々は暗闇の中で進む光を見失い、動揺が広がっています。
そこに差す光が「日=霊=神(ヒ)」の光なのだとしたら、岩戸によって閉じられた神の道はそこに示されているのでしょう。
これから人々が進む道は「神の道」にあり、それは日本人が受け継いできた縄文時代からの自然神への信仰に始まり、産土神や祖神への崇拝、そして「神道」という国家的祭祀にあります。
「天津神」「国津神」「八百万の神々」が坐す多神信仰の国日本は、一神教の国家がもたらす喧騒の歴史とは一線を画し、連綿と刻まれた独自の系譜を持ち、それを「大和(やはと)魂」と称してきました。
その精神こそ、現在の混迷極まる世界に一閃の光を投げかけるのではないでしょうか。
だからこそ、今日「日月神示」が再び日の目を浴び、注目されているのだと思います。

楽太郎です。
昨日の30日、カムチャッカ半島沖でM8.8の地震があり、日本中の海岸に1mから3m規模の津波が押し寄せました。
私はこの通知を受けた時、ついに大地震が起きたのだと思いましたが、よく見ると震度は1程度でした。
よく調べたところ、カムチャッカ半島中央部の火山が噴火したことで、千島海溝プレートが連動し500キロ規模の地殻破壊が起こったとされます。
地震と言えば連想するのが、スピリチュアル界隈で持ちきりだった「2025年7月問題」です。
この地震を持って「7月予言は本当だった」と話題にすることには大した意味はないと思います。
予言が当たろうが外れようが、実際に被害を受けておられる方は国内外問わずいる訳で、下手に話題にして消費するのは私が東日本大震災で被災した当時、被害を見て楽しんでいた人たちと心情的には変わりません。
ただ、完全な憶測に過ぎないのですが、私が「世界線が変わった」と感じていた現象の一つが今回のカムチャッカ沖地震なのかもしれません。
スピリチュアルの界隈では「7月問題」はなくなった、やっぱりあるという議論になっていましたが、これを持って「小難シナリオに置き換わった」と結論づけるのが落とし所なのではないでしょうか。
後出しになるようで恐縮ですが、私は個人的に「九州か北海道の大地震」という情報を以前から掴んでいて、こう言った不安は煽るべきではないので敢えて明言はしてきませんでした。
しかし、千島海溝プレートならば4分の1くらいは言い当てた結果になるのですが、どっちみち後出しじゃんけんに全く意味はありません。
私は春分以前の世界線、タイムラインではこの地震でもっと壮絶な被害が起こるシナリオだったのではないかと思います。
特に起きたのが30日ですし、「やっぱり7月予言なんて嘘だったんだよ」と胸を撫で下ろすタイミングで来る絶妙な間の良さは、やはり仕組まれていたようにも感じます。
夏至以降、私は「何となく何も起こらない気がする」と思い始めて、むしろ日照りの方を心配していました。
それでも日本列島の大半に津波が及ぶというのは只事ではなく、やはり何かあるのだろうと思います。
感覚的に「大難シナリオ」はなくなったのだと思いますし、仮に小難シナリオの悲惨さが筆舌に尽くし難くても、もう一つのシナリオはさらに悲惨である可能性を考えると多少マシに思えるかもしれません。
このシナリオに切り替わった大きな理由は、「目覚めた人々が神々の想定以上に多かった」からだと私は思います。
これまでの数年間の災厄は人々に目覚めを促す「サイン」であり、それは神々が禍事を通じて人々の改心を促していたのでしょう。
そして、変化を望み覚醒の道を選択した人々が多かったからこそ、「もうこの国の連中はこうでもしないとわからん」と、神々から大きな鉄槌を下されるシナリオを回避したのだと思います。
特に、この物価高と米不足と猛暑の中で、避難やモノ不足が起きたら混乱の度合いは想像を絶します。
しかも災害用の備蓄米は市場に放出されているので、転売業者と市民との米の奪い合いも起きたでしょう。
その上に渇水や酷暑の影響もあり、経済的な打撃以上に社会的な混乱は避け難く、今の日本人にそれを行儀よく乗り越えるモラルがあるとは思えません。
私は常々「日本人はこの20年で根本的に変わってしまった」と思っているのですが、こうして日本の国内情勢が悪化してもなお、小難シナリオに進んだことは不幸中の幸いでしょう。
人間の目覚めに関しては、兼ねてからスピリチュアル界隈でも「人類の二極化」が話題となり、次元上昇を境にして魂の選別が起こるという話がありました。
このブログでも長らく扱ってきた「人世」と「神世」の分岐も、同じテーマのものです。
私は以前から、これまでの「人世」は終わるから、次の「神世」に移行しよう、という話をしてきました。
神世に行くためには、「我良し」の考えを捨て、自己浄化を進めながら上位存在、いわゆる神と繋がっていくことが大切です。
神世に進めればおそらく将来は開かれるのですが、引き続きお金やモノやステータスなど、拝金主義によって作られた価値観を信仰し続ける人は、「人世の崩壊」と共に沈没していくはずです。
これは高名なスピリチュアリストであるバシャール氏が「ネガティブ列車」と「ポジティブ列車」と呼んだ人類の霊的二極化であり、言わば魂における人類の選別です。
奇しくも80年前に岡本天明氏に降りた「日月神示」では「神と獣に分かれる」と示されています。
そこでの神とは謂わゆる「神人」であり、自身の神と繋がった人々のことです。しかし神に繋がるのが人間本来の状態であり、神と繋がらない状態の人間はただの欲望を持つ肉体であり、ゆえに「獣」なのです。
これまでの世は消費経済だったので、より上手く稼いでより上手く消費した人がクールに見えるように社会的風潮が作られ、そういう雰囲気に社会全体が加工されていました。
人々はその成功者をモデルにして今風の生き方を築き上げ、その成功スキームを指針にしながら集団化していったのです。
そこに精神性や思想があるのかと言えば、より感覚的な欲望に傾倒し、自分が望まなくても自らの将来的利益のために行動することすらありました。
しかし、現代はそれほど景気の良い時代でもなく、モノもサービスも飽和し、誰もが歳を取って改めて興味を覚えることも減ってしまいました。
経済、社会構造共に形骸化していく中にあって、拝金主義以外に行動原理を知らない人々は、仮に立ち行かないとわかっていても過去のスキームを踏襲し続けるしかないのです。
その原動力は「欲望」であり、むしろ善悪や社会規範は金儲けや利得の邪魔になるので、余計に「我良し」の考えに染まっていきます。
それに対して精神性やモラル、自分自身を本当の意味で大事にする人というのは、この欲望と消費のシステムに不一致だからこそ外れていってしまうのです。
ゆえに、形骸化し続ける消費構造に執着し、自身の利益や欲求を優先する人々との乖離はここで起こります。
「目に見えないもの」を選んで形骸化した世界を否定するか、「目に見えるもの」を選んで形骸化する世界を肯定するか、ここに「神と獣」の境目があります。
これまで、その社会的様相は「貧富」という形でも現れてきました。
全てとは言えないまでも、やはり金儲けには人心は返って邪魔になるのが世の常だったのです。
利益を最大化するには人間を人間として扱っているとコストがかかり過ぎるため、そう言った手段を取らない人間ほど社内でも業績を上げ、組織でも社会でも階層を登っていく仕組みがありました。
下の人間は自分も成功したいので、そのサイコパス的モデルに敢えて追従しようとします。
利益を最大化するための「サイコパスモデル」に人々が染まっていった結果、モノ作りもサービスも口だけになり、その上にしっかり利益は回収しなければならないからこそ、そのやり方を徹底した組織によって歪な経済になっていったのです。
そうやって歪んでいった社会が「人世」であるとするなら、精神性を重んじ新たな世界を創出しようと踏み出す人々が「神世」の中心となっていきます。
それまでの世が「貧富」の二極化を促す世の中だとしたら、これからの世は「善悪」の二極化となる時代です。
地球が次元上昇をした「五次元世界」、私の言い方ならば地球意識の気場である「精神界」が中心となって起こる時代は、これまで人治の世界にあったような因果律ではなく、人間より上位の存在が主導権を持ち因果律を握ることになる時代です。
これまで阿漕なやり方でも人々を騙し通せれば大金を得られ、社会的地位が手に入り権力も持てた時代だったからこそ、善悪による因果は人間の作為によって歪めることもできたのです。
被害者も告発者も金を握らせれば黙らせることができ、社会的な圧力や実際の暴力によって抗議を完全に封じ込めることもできたからです。
ただ昨今のSNSの使い方にも見られるように、人間としての精神性を元にその因果を跳ね除け、その意志の裏で神々が守護をつける時代になりました。
それゆえ、悪どいことはまず見抜かれ、立場関係なく批判される時代になりつつあります。
人々の心に徐々に神性が芽生え、見え透いた欲望はすぐに指摘されてしまうからこそ、これから悪は栄えない時代になっていくはずです。
従って、「善良さ」や「誠実さ」を人々は好むようになり、逆に悪どさや我良しの感覚は忌避されていき、欺瞞を見抜く速度も速くなるため悪人が利益にありつけなくなります。
それゆえに、社会的な実相として「神と獣」はほぼ行動規範として現れ、獣は傍若無人であるが故に理性ある人々に嫌われ、闘争を好むので同類と無益な争いを続けるでしょう。
彼らはそうやって善良な人々から忌避され、いずれ社会の主流から外れていくはずです。
もし世界の支配構造が変わり、神々が主導権を握るならば「福徳」も「金運」も人間より上位の存在によって配分されるでしょう。
これまでの「金運」は貨幣そのものを指しますが、新しい金運によってもたらされるのが人徳によるものだとすれば、それは返礼品やサービスや人間関係の豊かさかもしれません。
それによって得るのは結果的に「富」になりますが、貨幣の授受を出発点としない点が以前と異なります。
その富が神々の分配によるものだとしたら、鍵となるのは「人徳」であり「善良さ」です。
我良しという考えを悔い改め、どれだけ他人を慮り環境に気を遣い、自分以外のものに奉仕できるかです。
それは人の目に見えて得をする「陽徳」と、誰にも知られない「陰徳」があり、仏教では陰徳こそ真の徳であるとされます。
多くの人は、「徳」を積んでも「得」にならないと考えるがゆえに、得になることしか考えません。
しかし、神々の世界では人間が知らないこともしっかり帳面につけているので、陰徳が何にもならないように感じてもいずれ何かの形で必ず現れるのです。
最近、スピリチュアル界隈で「宇宙銀行」という概念が流行っていますが、あれは陰徳に対する天の仕組みそのものです。
「業(カルマ)」にも良いカルマと悪いカルマがあるように、善い行いも必ず自分に返ってくるのです。
ただ、人間はやはり目に見えるものが確実に思えますし、結果も早く欲しがるものです。
それでも長いスパンをかけて、あらゆる障害を乗り越えて一つのものを信じ、一つの行いを続けることが人間としての立派な修行になっていきます。
そうして徳を積むことが今世に生まれてきた魂の目的であり、決して楽に気持ちよく生きるためではありません。
そして、自分だけが気持ちよく生きるため、我良しとする人々の行いによって社会は混乱し、制度が歪められ社会規範が崩壊しています。
彼らは自分の正しさをアピールするために強引にルールすら曲げようとしますが、そのやり方もじきに通用しなくなるでしょう。
それを見て心ある人々が反省し改善しながら、教訓を元に人間が人間本来のあり方に戻っていくのが、これからの世界なのです。
「我良し」という考えで欲を持てば、叶わぬ不満は邪気となり、邪気は邪霊を呼び自分自身が目に見える悪鬼となっていきます。
これは決してオカルトではなく、実際に人間としての心を失っている人たちの行動が証明しています。
彼らをあくまで「極端な自由さを持った人々」にしようとする風潮こそ、真の悪意が潜んでいるのです。
神々がそれを見て良しとされるはずはなく、やはり彼らもいずれ浄化を求められていくはずです。
「人類の二極化」と言いましたが、一度運命のルートが決まったからと言って、何をどう足掻いても不幸にしかならない宿命が存在するとは、私にはどうしても思えません。
いかなる悪を行おうと、その悪は宇宙を作った大神が許されているから存在したことで、悪は悪として許されなければなりません。
しかし、それは「懺悔と贖罪」を持ってきちんと償われるべきものです。
きちんと改心し、全てを理解した上で出直す分には、新しい時代の生き方は誰にでも開かれるような気がします。
人間には「自由意志」が存在し、それは小我の考えではなく「神の影」による魂の自由であると「日月神示」では語られています。
私たち人間一人一人は、大神から魂を分け与えられた「分御霊(ワケミタマ)」であり、各々が神の一柱に他なりません。
いかに邪神と言えど神は神、誰もが光を取り戻せる可能性を私は信じています。

楽太郎です。
先日、「悪霊の正体」という記事の中で、私の過去のカルマの一現象として父の憑依があり、そこから呪いを受けているという話をしました。
その後、私の自己浄化が進むにつれて父も正気を取り戻し、いつもの親子関係に戻りました。
この山を乗り越えたから過去の私の行いが精算されたというと、それほど単純な呪いを父にかけていた気はしないので、まだまだカルマは精算して行かなければいけないのだと思います。
今回の霊障が軽くなったのは、一つのウェーブが終了したに過ぎず、まだ違う形でカルマの精算は迫られてくるのでしょう。
私はこの数年かけて、長年積み上げてきた「負のカルマ」を精算する流れにありました。
「業(カルマ)」とは仏教用語で、一般的には悪いものばかりを指すように扱われますが、「因果応報」という「自分のした行いは何であれ自分に返ってくる」という宇宙法則の中では、良い行いも悪い行いも全て「カルマ」です。
良い行いも悪い行いも「報い」としていずれ起こり、悪い行いの報いから今世で逃げ切れたとしても、来世に持ち越せば次はもっと理不尽な不幸に見舞われることになります。
だから、早いうちに悪いカルマは返済し、これから悪いカルマを積まないために改心して気をつけて生きていけば良く、背筋を正して生きていくのに越したことはありません。
もちろん、今の人生における人格では、過去世の自分の行動の責任を取ろうにも赤の他人のように思えますし、他人の尻を拭くようで理不尽にも感じるでしょう。
しかし、現世の自我こそ「仮初」のものであって、本体は霊体であり魂です。ゆえに、仮初の自分が理不尽な目に遭い苦痛を味わうことが、自分が過去世に他人に味合わせた苦痛の再現となるのです。
「覆水盆に返らず」という諺がありますが、器に入れた水が溢れたとして、また水を入れても同じ状態の水にはなりません。
一度溢れた水はもう取り返しがつかないので、水を器から溢さないように気をつけるのがベストです。
これは人生にも対人関係にも言えることですが、誰かを傷つけて関係が完全に戻ることがあまりないように、人を常に思いやる努力をすることが大切です。
私は父との関係について反省し改心したつもりですが、それでも過去の過ちは消えるわけではありません。
だからこそ少しずつ懺悔しながら、父を慮り父から赦しを得ることに感謝しながら、関係を大切にして行こうと思っています。
しかし、こういうことは10代の思い上がった若者にはわかりませんし、ましてや後期高齢者になってもわからない人はザラにいます。
特に唯物主義で現金主義の現代では、こんな話は忌み嫌われて誰もが耳を塞ぎたがります。
だから誰も語らず、高名なお坊さんが言うから説得力のあることで、普通の人はこの法則に気づく機会すらありません。
私が「人を思いやることが第一」だと気がつくまでには相当な道のりがあり、それも多くの人々に迷惑をかけてきたからこそ、ここまでカルマを溜めてしまったと言えます。
これまでの時代が酷かったので不可抗力と言えばそれまでなのですが、悪いことをして迷惑をかけたのは事実であり、「知らなかった」で罪は帳消しにはなりません。
近現代は人治の世だったので、「知らなかった」と言えば「じゃあしょうがないな」で許される世界だったのです。
けれど宇宙法則は継続しているので、人間の世界で許されて悠々自適に人生を終えても、来世はどうなるかなど人智は及びません。
その罪の重さ、どういう経緯で罪を償うのか、それは神々だけが説明ができることです。
ゆえに、現世で良い思いをしただけの悪人が死後どうなるかは、人間に推し量れるものではありません。
私たち人間は、こうして生きているだけで知らず知らずのうちにカルマを溜めてしまうのですが、神道的に言えば「罪穢れ」です。
罪穢れは祓い清めることで取り払われ、晴れて健康で幸福な人生を歩むことができます。
けれども、自ら行いを悔い改めようとしなければ、負のカルマも罪穢れも蓄積していくだけです。
私は仙台在住ですが、東北では2週間近く危険水域の猛暑が続いています。
近所の川も干上がり始め、渇水の心配もあり、このままでは田畑に水を供給できず農産物の不作も懸念されます。
人類は宇宙にフロンティアを求めて火星に移住しようとしていますが、それ以前に日照りで水不足に陥る状況すらまともに手を打つことができません。
私は今、自分だけでなく日本人全体に「カルマの解消」が迫られており、この夏の猛暑もその一環のような気がしています。
それどころか、2020年ごろから日本には良くないことしか起こっていません。
パンデミックや情報社会特有の混乱、社会制度の悪用、外国人移民によるトラブル、能登半島沖地震、インフレに伴う物価高、人工的な米不足。
災害は置いておいて、社会の混乱は日本人が自分たちで何とかできた範疇の事柄です。
政治に関しては我関せずかマスコミの言う通りに投票して今の状況にあり、社会全体のモラルの低下も日本人がまともな思想を持たずにやってきたからです。
一人一人が自分に芯を持って物事を判断して行動していれば、このような状況は回避できたはずです。
自然環境に関しては、「天気」というくらいですから神様のご気分次第です。
それでも、減反を放置して米を食べてこなかった日本人が、今になって米が高くて食べ難くなり、この日照りで稲が不作となればいよいよ「天罰」の気配すら出てきました。
日本人はこれまで食べ物を大量に作ってそのまま捨てるような飽食の時代が長く続いてきたので、食後のデザートはおろか日に日におかずが一品ずつ少なくなっていく生活に直面しているのは、何の因果でしょうか。
これはどう考えても巡りのようにしか思えず、私たちはこれまでの生活で蓄積してきた「負のカルマ」を返済していくフェーズに入っているのかもしれません。
先日の記事で書いたように、因果応報による不幸や災難は、宇宙法則なので神々の守護を貫通するのです。
そして、おそらく負のカルマは善のカルマ、即ち善業を積んだことによる福徳によって相殺される性質ではない気がします。
例えば、某有名アイドル始め芸能人がスキャンダルで引退することが相次いでいますが、「あんなに色々な人を楽しませたのだから無罪放免にすべきだ」と言う人はあまりいません。
実際、過去に色々やっていた人は社会的信用を失くすことで報いを受ける結果になりました。
過去に良い行いをしたからと言って悪い行いが無くなるわけではなく、やはり「悪いことは悪い」のは人治の世界でも変わりません。
「良い行い」をして人々から得た対価によって富や幸福を手に入れることと、「悪い行い」をして人を陥れて得をした罪は、全く違う性質の事柄です。
だからこそ、「負のカルマ」は負のカルマとしての返済を求められるのだと思います。
それは結果的に自分の善業すら汚してしまうものになり、実際に問題を起こした有名人に対して「ファンだった」とすら言えない空気になってしまいました。
おそらく、カルマの解消は神々から求められる時、応じた瞬間に発動するものなのだと思います。
「応じる」というのは、霊的次元の話であり現世における人格的反応を必ずしも意味しません。
借金の借用書を出された時に、お金を借りたのは自分なのだからと、大人しく有り金を差し出すか物品の差押えを選ぶかは本人次第です。
借金の取り立てから逃げ続けることもできますし、借金のアテを他の金融業者に頼ることもできますし、「金なんて借りてない」と開き直って暴れ回ることもできます。
ゆえに、借入の返済は素直に借金を返す良心のある人から先に始まります。
おそらく、それは霊的な次元における「カルマの返済」に関しても同様であり、悪人ほどカルマの返済時に起こる不幸は後回しになっていくはずです。
しかし、後回しにしている間も借金をし続けているようなものなので、神々からすれば利子がついていくことでしょう。
それは「罪を償おうとしない」という負のカルマに繋がっていくからです。
従って、カルマの解消が遅ければ遅いほど降りかかる不幸は大きくなり、破産した時の悲惨さも目を当てられなくなるでしょう。
私のカルマの返済状況を見てもかなり酷いものだと思うのですが、私自身全く善良に生きてきたとは言えないまでも、私以上に酷い行いをしてきた人々はザラにいます。
下手すると、地獄に堕ちるだけでも足りないような状況に陥る人だっているはずです。
こういう話をすると、ニーチェが「ツァラトゥストラ」に語らせた弱者のルサンチマンみたいに見えますし、「言っても実際そうはならないでしょ」という感じになるのもわかります。
これまでは人治の世界だったので、被害者の告発も問題の提起も誰かに金を握らせれば封じ込めましたし、当事者を全員この世から消してしまえば最悪なかったことにできたのです。
しかし、それは「今までの時代は」の話です。
おそらく、2020年以降この国にカルマの精算が迫られているからには、もはや神々に対して言い逃れが許されない状況が始まっているのだと思います。
「因果応報」が規則通りに発動する世界線になったからこそ、「絶対的権威」とされていたものが容易に脱落していく世となってきました。
その厳格さは、これまでの時代にはなかったことです。
「日月神示」では、国常立神が高天原を再び支配することによって未来永劫の「弥栄の世(ミロクの世=神世)」が始まるとされます。
それまでの三千年は「闇の時代」であり、神の道への岩戸が閉ざされたことによって訪れたと言われます。
そして、「天照大御神の岩戸隠れ」の時、騙そうとした神々が騙された神を引っ張り出したことで、その一つは起こったと語られます。
もし高天原の最高神が大日月大神たる国常立神に代替わりし、或いは地球を支配する神格が変わるならば、この世のルールが厳格な形に変わっても不思議ではありません。
そして神示の中で日月神が語るように、「大峠」は魂や霊界を中心として起こるものであり、そのキーワードが「改心=祓い清め」であると言います。
ゆえに大峠というのは、人類の歴史上最大の「負のカルマの精算」であり、それを乗り越えて借金ゼロにして始まる世界が「弥栄の世」なのではないでしょうか。
借金の取り立てに訪れる怖い人は、実際に悪いかどうかはともかく「金を貸した事実」があるから借入主に返済を迫るのです。
借金取りに来るような人は強面ですし、怖いので不幸にも感じるかもしれず、それは現実には「禍事」のように見えるでしょう。
禍事が起きれば呪われているとか、どうしてこんな不幸が起こるのかと嘆きたくなるはずです。
しかし「禍事」というのは、悪いことが世に起こることで世を正常に戻す働きがあるのです。
「禍」という漢字は、古代の中国で骨を焼いて吉凶を占ったことに由来します。
それに日本人が「マガ」と当てたのは、どうやら「関節は曲がる」からだそうです。
つまり、日本人からすれば禍事は「物事が曲がること」、即ち自然に上手くいっていた流れが歪み、上手く行かなくなることが「災い」として考えられたのだと思います。
イメージの話をすると「真っ直ぐに伸ばした関節は曲がることもあり、曲がったら自分の力で真っ直ぐに伸ばせる」のです。
物事が曲がることで悪い出来事が降りかかるならば、「曲がったことを知らせる」のが禍事であり、物事が捻じ曲がっていることを象徴するのが「悪」の役割です。
だから、私たちの目の前に起こる不幸、「禍事」は祓い清めのきっかけのために起こるものであり、罪穢れの危険値を知らせるものなのです。
だからこそ、自らに悪事が起きれば犯人探しや責任の追求をして終わらせるものではなく、人々が本当にしなければならないのは自己の反省と実践です。
自分たちが知らずのうちに積み上げた罪穢れゆえに自らに降りかかる災いや禍事だからこそ、その罪と向き合って償っていくことが求められます。
それは「全く自分には関係がない」と感じるかもしれませんが、罪の形が違うだけで災いが降りかかる以上、やはり何がしかの因果はあるのです。
この「カルマの解消」の時、口だけや気持ちだけで罪と向き合っても意味はありません。
思考と言葉と行動、つまり身口意が一緒になっているからこそ、実際に身の回りの後片付けが進みます。
それは心を正しく持ち、自分の行いを受けきるくらいの気持ちでなければ難しいでしょう。
おそらく、大切なのは「もう悪いことはしません」という禁則を立てることではなく、「自ら繰り返さない状況にすること」です。
即ち環境を変えるために動くことが償いであり、罪滅ぼしであり実践となるのです。
おそらく、この日本に降りかかる「禍事」は、これから無神論者でも「なんかあるんじゃないか」と思うレベルまで現象化していくはずです。
そして全人類が「神は存在する」と思うところまで行かなくても、大抵の人が今までのやり方に懲り懲りする程度には反省させられそうな気がします。
そこで日本人を始め世界中の人々が懺悔をしきれば、状況を悪くするような物事が見直される以上、それからは明るい世となっていくはずです。
私はこの数ヶ月、特に夏至以降は特に「非日常感」があって、何となく現実感が薄いというか、日々の冗談のような悪いニュースに共感する気持ちも以前とは違います。
何となく神秘の世界に入っているような、そんな不思議な感覚です。
これが新しい世界に差し掛かるからこそ起こっていることだとしたら、やはり「大峠」は始まっており、神世は近いのだと思います。
ただ、それまでの辛抱がどれくらいか、いつまで続くかは誰にもわかりません。

楽太郎です。
本ブログは、もともとスピリチュアルなテーマを扱う目的で開設しました。
私の本業は絵描きですし、言説とはあまり相性の良くない職種であるため、完全に身元を隠してやっていくつもりでした。
しかし去年の年末にインスピレーションを受け、「瀬織津姫命」のイラストを描いてブログに投稿したのをきっかけに、少なくとも本業に関しては明かさなくてはいけなくなりました。
絵描きというのは世間的には花形の職業ですから、本ブログでも長文の記事よりイラストや漫画を掲載した方が上手くいくでしょうし、実際その方が更新を楽しみにされる方も増えると思います。
私も実はそうしたいのも山々で、絵を優先できれば自ずと生活は充実していくはずです。
しかし、私自身は神様のお導きを受けているという自覚はあるので、その優先順位に従えば「絵や漫画は最後尾」になってしまいます。
だから私も正直、苦虫を噛み潰す気分で一つ一つの行動を決めているのですが、自分の創作を最優先にしたい気持ちとお導きの内容との食い違いには、葛藤すら覚えます。
私が優先的にしなければいけないのは、このブログを利用した啓蒙活動と霊的な修行のようです。
本ブログはバズるとか話題になるという枠組みを目的にしておらず、縁ある少人数の方々にインスピレーションを配れたらいいなと思ってやっています。
その縁ある人というのは、おそらく神々が引き寄せた人たちで、そこで起こる気づきに何らかの霊的な意味があるのだと思います。
今は肌感覚でも霊感的にも、世界は重要な局面にあると感じていて、神のお導きを受けるタイプの人というのは時期的に、何らかの霊的なミッションに重点が置かれているのではないでしょうか。
夏至で「精神界」という地球意識の気場が完成し、その稼働が始まっていく中でやはり妨害も苛烈になっていますし、その一つの手段として混乱を誘発するような仕手も激しくなっています。
ライトワーカーにはそのお役目も与えられている時期であり、尚且つ地球の次元上昇に貢献する人たちなので、自分自身の霊的な浄化と成長も同時に促されているように感じます。
だから思うように身動きが取れない時期なのは、霊的なシークエンスが優先されているからで、「今はそういう時期だ」と考えるしかありません。
冷静に考えて、人類と地球の命運を左右する時期にイラストだ漫画だと頭を回す時間は、確かに優先順位は低くなるかもしれません。
私も「お前は何をやっているんだ」と思われているのは、重々承知しているのです。
けれど、この世界は人間が思うよりずっとシンボリックな世界で、言ってみれば「呪術的」なのです。
天界や霊界が地上世界と連動するためには、この世で「現象」というシンボルが動くことによって意味づけが行われ、そのロジックが上の次元に反映していきます。
反対に、天界や霊界から物事が地上に降りる時には、神々に意味づけされたシンボルが地上世界に現象を起こすことで、地上に高次元の意志が反映されます。
つまり、上位世界と地上を繋げるには「儀式」が必要で、それは実際に神棚を拝むとかペンタクルを描くとかいうことだけでなく、霊的に意味づけされた手順を現象化することを意味しています。
その「意味づけ」を与えるのは人間より上位の世界に住まう存在であり、そのロジックは人智を超えているため普通の人間の感性では理解が及ばないでしょう。
ゆえに、側から見ても自分自身からでも、「何をやっているんだ?」という感覚を覚えるのは自然なことで、けれども霊的なトリガーを引かなければ天界の意志は地上に降りてこないので、不思議なことをさせられている気分になるのです。
正直言って、人間として常識人であればあるほど、このナンセンス感に疑義を覚え、耐えられない人もいるでしょう。
そうした「常識人」は人間社会の枠組みに適応しきった人が多いので、その分目に見えるものに思考を委ねる傾向があるように思えます。
それを乗り越えて「目に見えない力」を感じて動くには、やはり常識を捨てなければならない部分もあります。
ここで言う「常識」とは、唯物論を中心とした科学と社会経済の枠組みの思考であり、それがあるから宗教も神秘も胡散臭く見られる原因を作り出してきたと言っても過言ではありません。
現代は、人類史上かつてないほどの「無神論」の時代です。
例えば、昔は河川が氾濫すればどうしようもない災害となったので、祠や神社を建てて神様にお祈りをしていました。
しかし治水技術が発達し、土木工事が機械で行われ完璧な護岸工事がなされることで、神仏に願わずとも人間の力でどうにかできるようになりました。
そうすると、訳の分からないところに立っている古いお社は、土地の無駄だし取り去ってしまおう、となるわけです。
そうして人々の記憶から祭祀の意義は消え去り、意識から神々への祈りは薄れていきました。
受験も恋愛も叶いにくいので神様にお祈りはしますが、スマートデバイスやお金やルックスがあれば人間社会で叶わない願いは殆どありません。
人間が人間に頼れば全ての願望が叶う世の中になったから神は不用となり、目に見えない存在が嘲笑われる世となったのです。
しかし、人間が用を足せれば神の手が必要なくなっただけで、神々の存在が消えるわけではありません。
「神はいない」と人々は思います。
現に神仏にいくら願掛けをしても叶わないこともあり、いくら善良に生きていても悪魔のような連中に踏み躙られて終わっているではないか、と。
確かにそれは一理ありますし、私もかつてはそう思っていました。
しかし、神とは「人間」ではないので、人の世の価値観や論理をそのまま高次元の存在に当てはめて考えるべきではありません。
神というのは、人間ではないから神なのであり、人間の期待や幻想を叶えるために存在するわけではないのです。
神は、霊能力がある人でも知覚するのは難しいと言われます。
人間が幽界にいる不浄霊や霊界からの存在を感じ取れるのは、地上にある程度近く低い次元に現れるからです。
神々はそれよりも高い次元にある存在なので、人間からしてみればより抽象度が高くなります。
つまり、地上世界と神々との間の次元的な隔たりが大きく、神の波長が高すぎるがゆえに世に現れにくいと言えます。
では、神々がもっと姿を現せば人間は信仰心を持ち神々の言うことを聞くのに、なぜそうなさらないのでしょうか。
私が思うに、神々は人間と隔たる状況をわざと作り出し、あえてそうしているのだと思います。
「神が存在しない」かのように見えれば、神の存在について人々は疑心暗鬼になります。
誰もが確信を持てなくなるのを利用して、逆に神が存在するかしないか判断できない微妙な立場に、むしろ人間を置いているのです。
その環境に置かれた人間は、自分の経験と思考を元に神が存在するかしないか判断しますが、神々はむしろそれをご覧になられているのでしょう。
つまり、それが神々の基本的なスタンスです。
そうして心から神を信じるか、目に見えるものよりも目に見えないものを大切にする心があるのか、人間を試されるのです。
そして、それでもあえて神を信じる者を選り分け、深い信心を持つ者には神の恵みを与えます。
そうするのは、人間という存在が「目に見える世界」への執着から離れ、「目に見えない存在を信じる」というプロセスに至ることが魂の成長であるからです。
つまり、「信仰心を持つ」こと自体が人間として一段上のステージに上がることを意味するのです。
それが人間がこの地上に生まれてくる一つの目的であり、それを身を持って知ることが魂の成長になるのだと思います。
この一連のプロセスは、普通の人間には高度すぎて大抵は理解できません。
そんなことより、新しいゲームを買って遊んでいた方が楽しいですし、お金を稼ぐために頭を巡らせた方が実際に得です。
しかし、なぜ人間がこの世に生まれてきたかと言えば、理不尽なことだらけの地上世界で「人間」としての体験を積み重ねることで「人生」を知るためです。
この世には不遇にも早逝する人もあれば、何の苦労もなく一生遊び倒して死んでいく人もいます。
人間心からすれば不公平に見えますし、不公平であるがゆえに「神も仏もない」と感じます。
それでも、それぞれが一つの人生にテーマがあり、その課題を履修して命を終え、魂はまた次の学びへ向かっていきます。
その本当の意義は、普通の人間から見てわかるものではありません。
これが「輪廻転生」と言われるものです。
そして人生というのは、同じことを繰り返してもあまり長く続きません。
いくら遊び倒していても、怠惰な生活を送っていても時代的にいつか終わりは来ます。
今は社会的に成功していても、いつ転落するかわからず市場も経済も様変わりしていきます。
まだ若いと思っていても、いずれ歳を取り「ああはなりたくないな」と思っていた老いに一歩ずつ近づいていきます。
人間は自分が思う以上に儚く、一生なんてあっという間に終わります。
自分の肉体は永遠に維持したいと思いますが、身体はすぐに衰え傷つき病むもので、基本的に使い捨てられる運命にあります。
その宿命を人間は受け入れがたいがために何とかしようと努力しますが、宇宙の摂理には抗えません。
人間にしろ電化製品にしろ、新しいものは何でも新しいうちは良いのです。
しかし、経年劣化するのは宇宙の法則で、古くなれば壊れて使えなくなっていきます。
ただ、古くなっても変わらない部分があるとしたら、それが本質というものです。
そして、時間と共に味わいが出て、古くても良いのが「本物」です。
現代人はなかなかこの論理に気づかず、納得できないのです。
常に新しいモノ、新しい刺激を求めてそれに時間も興味も使っているからこそ、「不変」というものに気がつきません。
そして「普遍であり不変」であるのが神であるからこそ、儚く移りゆく人間の心には理解が及ばない存在に見えてしまいます。
今の人々は、科学技術とお金があれば何でも願いが叶うと思っています。
しかし、水田に水が張れなくなるほどの今夏の日照りについて、人類としてなす術があるのでしょうか。
そもそも、降雨も山からの湧水も人間の手が一つも及ばないものを、人間は当然の如く享受していながら、自分たちの思うようにはできないという限界に気づいていません。
中国のように日本も降雨ロケットを飛ばして、この夏の日照りを解消するべきなのでしょうか。
こういう時に昔の日本人なら、雨乞いの儀式をして神々にお祈りしてきました。
それで実際に救われてきたからこそ、何万年も「信仰」という文化は絶えなかったのです。
何が変わるべきで、何が変わるべきではないのか。
何を変えるべきで、何を変えてはならないのか。
その答えの先に、神様はいます。

楽太郎です。
今、個人サイトを3つ制作していますが、そのうち1つは完成しつつあります。
ただ、このサイトは「保管庫」あるいは「ポートフォリオ」みたいな形で使おうと考えており、実際にコンテンツで集客するには長い道のりがあると思います。
いくつか自作品の宣伝手段は考えていますが、多くの人が採用するような正攻法は採用しないつもりです。
SNSや投稿サイトなどを使えば良いのでしょうが、敢えて独自路線でやっていこうと思います。
私はこれからインターネットの世界は様変わりすると考えていて、つまり「崩壊」を予感しています。
「タダほど怖いものはない」という言葉がありますが、「タダ」であるからこそ立ち行かなくなっていくと考えていて、そう予想する以上は通常の手法を使わないつもりです。
今回は愚痴も含みますが、その話をします。
地上波のTVは、基本的に無料です。
無料だからこそ視聴率が軒並み20%台という時代があって、つまり人口で言えば2500万人ほどが同じ番組を見ていました。
今ではYouTube100万再生で「大バズり」という世の中ですから、メディアの規模が違います。
無料放送だからCMを挟みますが、国民の5分の1が見るCMが効果絶大でないはずはなく、費用対効果は絶大だったでしょう。
もちろんTVはつけたら時間の許す限りタダで流れるものだからこそ、国民にプロパガンダや価値観を意図的に植えつけるにはうってつけの政治装置でした。
ワイドショーやニュースで政権や政治を批判すれば、お茶の間の国民は「その通りだな」と思ったことでしょう。
同様に社会的な流行も雰囲気も、TVを中心としたマスコミが作り出す趨勢が猛威を振るう時代が続きました。
今やTVすら家に置かない家庭も増え、端末さえあればほぼ無料の「インターネット」に接続すれば、AppleやGoogleやAmazonのロゴは必ず目にすることになります。
多くの人々は、アメリカ合衆国の有数のホワイト企業がまさかコンプライアンスを自らかなぐり捨て、サービスをわざと改悪するなどあり得ないと考えるはずです。
こんな記事が、イギリスの経済誌「エコノミスト」に掲載されました。
AI is killing the web.
要約すると、生成AIコンテンツの増加により現在ネットの検索トラフィック数、つまり検索をかけてサイトを経由する数が15%減少しているそうです。
要するに、ChatGPTなどがWEBをクローリングしてサイト上の情報を拾ってアプリ内で再構成するため、実際に記事元のサイトを訪問する回数が激減しているのです。
WEBサイトの運営は主に、アフィリエイトや広告枠を出すことで資金を得ています。
しかし、ユーザーがサイトを訪問せずに欲しい情報が手に入れられたら、わざわざ検索してサイトを見に行く必要がありません。
コンテンツ提供者は、言い方は悪いですが内容は盗まれるけれど、対価も得られないどころかクローリングBOTをブロックする手段が限られており、しかも対策に自ら資金を投じなければなりません。
その上、訪問数が減ればアフィリエイト収入や広告費も減少し、サイト運営は難しくなります。
今のTVはハードディスクに録画して後で見る人が増えたので、CMはほぼスキップすると思います。
スポンサー側はCMを見てもらうために番組に資金を提供しているので、物理的にCMが見られなければスポンサーになる意味が殆どありません。
同様に、インターネットにおいてもWEB広告が消費者にアプローチできなければ、出稿する意味もあまりなくなります。
だいぶ前ですが、iPhoneのOSに「広告非表示機能」がつきました。
私たちはアプリを使うにしても、邪魔な広告を見ないようにするためにサブスクに入会するほど、広告を「悪者」のように見てしまう習慣がつきました。
確かにネット上の広告は大きすぎる上に多すぎるので、若干悪質性すら感じるようになって久しいです。
だからユーザーは、不快な広告を見ないためのサービスすら求めるようになってきました。
まるで広告が「人質」のようになったことで、広告を出稿する企業は大した費用対効果を生んでいないのではないでしょうか。
WEB広告を出すにはGoogleなどのアフィリエイトに登録すれば手早いですが、やはりGoogleに手数料を支払う必要があります。
しかし、サイトに広告を出してもAIが要約するからサイトへのトラフィックは減り、そもそもネットに広告を出せば邪魔者扱いされてまともに見てもらえません。
けれど、インターネットを広告塗れにして広告に対する相対価値を低下させたのも、AIBOTを走らせながら物理トラフィックを減少させているのもGoogleであり、広告主はそれでも同社にみかじめ料を支払ってWEB広告を出しているのです。
私はこの状況を俯瞰すると、「まんまとやられたな」と思います。
そもそもGoogleは2000年代初め、検索能力の精度が高くアプリとして軽快だったために、検索エンジンを備えたChromeはブラウザとして人気になりました。
当時のインターネットは「フリーミアム」の楽園だったので、有志が作った無料のアプリが豊富でした。
しかし時は経ち、かつてのベンチャーが今は業界の寡占企業となり、大企業となったが故に殆どのアプリが課金制になりました。
それらのテック企業がやっていくには、アプリの無料部分を制限して完全版に課金させるか、広告主からスポンサードを貰いながら「広告を悪者」にして非表示機能をプレミアムでつけるのがフォーマットになっています。
けれど、アプリ開発は一度完成してしまえば、追加機能を作らない限りはシステムの保守さえしていれば良くなるので、やることが限られてきます。
それゆえ、MicrosoftのWindowsでも GoogleのYouTubeもAppleのiTunesも、歳末の道路工事のようにやる必要のない改悪を続けるせいで、どんどん利便性が悪くなってきています。
けれども、ビッグテックにでもなってしまえば競合他社は簡単に捻り潰せるか買収できてしまうので、後はユーザーにサービスの代替を許さなければシェアを確保できてしまいます。
アメリカとEUがIT面で仲が悪いのも、ビッグテックがEU圏内のIT企業を軒並み駆逐してしまうからです。
日本にITが育たないのは別の理由があるのですが、日本のITはシリコンバレーの背中を見ているために追従しかできない体質でもあるのです。
従って、現在のインターネットはほぼアメリカという国家の独壇場であり、それに対抗して中国は自国の通信網を完全に遮断していますが、やっていることはシリコンバレーと同じです。
インターネットは、もはやフロンティアではなくビッグテックの「帝国」の支配下にあります。
私たちは米国製のOSによってWEBに接続し、米国製の検索システムを使い、米国有利のデジタル環境を甘んじて受け入れています。
日本は毎年莫大なデジタル赤字を抱えていますが、誰も問題にしようとはしません。
私たち日本人は、IT革命を経験する際に「無料の便利さ」を堪能しました。
しかし、コストが低くリスクも小さくビジネスチャンスが大きいからと群がったのは良いものの、今では営業するにも作業するにも調べるにも交流するにも広告するにもアメリカのテック企業のサービスに依存せざるを得ません。
大抵の日本人はそれで困らないのでしょうが、これらのテック企業の行いを果たしてどこまで看過できるのでしょうか。
少し前に、SNSのBlueskyで画像処理ソフトを提供する Adobeがアカウントを創設した時、なぜかそのまま炎上するという騒ぎになったそうです。
Adobeは画像生成AIをサービスに組み込んだ分、サブスクを高額化したために、長年支持してきたユーザーからの顰蹙を買っています。
イラストレーターとしてやってきた私からすると「まさかあのAdobeが」という印象です。
クリエイターのためのツールを提供して手堅い実績を積んできた企業が、クリエイターの著作物を一方的に学習して出力するだけの機能のために、クリエイターに経済的圧力をかけるなど想像もできませんでした。
今のデジタル環境に詳しい方なら眉唾には思われないでしょうが、MicrosoftもGoogleもAppleもMetaもいつまでユーザーフレンドリーな環境を維持するかは不透明な状況です。
Adobeの手のひら返しのように、業界標準を作っているような企業にやられると手も足も出せません。
すでにGoogle検索はスポンサードのサイトが上位に張り付き、アフィリエイト率の高いサイトが優先的に表示され、ヒット数の少ない個人サイトは殆ど引っかかりません。
余談ですが、本ブログのようなブログサービスが検索に乗るためには最低3か月、通常半年は更新を続けなければなりません。
けれど検索にスポンサードを払って検索上位に張り付いているサイトは、そんな地味な努力をしません。
ゆえに、生きた情報を更新し続けるようなブログは、現在のインターネットにおいては隅に追いやられています。
徐々に、「インターネット」は死に体になりつつあるのです。
今では生成AIで作られたコンテンツが氾濫し、個人の生の仕事は埋もれる傾向にあります。
人々は殆ど自分の使うSNSのタイムラインしか見なくなり、WEB検索機能に関しては冒頭にお話した通りで、そのアルゴリズムも寡占企業のブラックボックスにあります。
おそらく、新しいWEBメディアが誕生するくらいでしか開拓できる要素は残されていません。
そして生成AIによる偽サイトやディープフェイク、身元不明のコンテンツの氾濫によって正しい情報へのアクセスが困難になりつつあります。
上記リンクの記事では、Googleが「WEB全体のトラフィックは増えている」と言っていますが、正確性の高い良質なサイトへの物理アクセスが減少していることが問題なのです。
私は近い将来、ビッグテックの悪政に耐えうる者だけがインターネットを使う時代が来るのではないかと懸念しており、デジタルから離れる流れも起きてくるのではないかと感じます。
私はこれから事業を進めていく中で、デジタルの世界にどれほど可能性があるかについては懐疑的です。
しかし実地のビジネスの世界こそ飽和しきっている上に押し寄せる不況の波、どう打って出るか悩ましい部分があります。
デジタルはコストが低いからこそ進出しやすいけれど進める道が限られている中、それでも毒を皿まで食うのか、毒を食らわず草を食うのか、究極の選択が迫られています。
私が自分で作品を作らなくても無料で見られる作品は山ほどありますし、それこそイラストなどは生成AIでタグ打ちすれば好みのものが出力されます。
この「何をやっても無駄」感のある状況の中で、自分がしたい生き方を叶えるには、多少不利だとわかっていても進まなければなりません。
世の中を見ればわかるように、改めて群がるような需要はあまりなく、モノやサービスが飽和しているからこそ、「需要のために働く」のではなく「お金を稼ぐために働く」という目的にすり替わっている部分もあります。
世が差し迫ってくると、お金を稼ぐのも困難になるためできるだけ労せずに利益にあり着こうとし始めます。
そうして公的資金や公共事業、有力企業の傘下に入ってお零れに預かることが一種のハックとなっていきます。
経済は右肩下がりになっていくのに、企業業績を維持するためには無理に利益を作らなければいけません。
高齢の従業員がどんどん離脱していく中で若者はなかなか入ってこないために、わざわざ外国人を呼び込んで今のやり方を続けているのが日本企業です。
儲からなければ畳むしかないのが資本主義の世界なのですが、そうすると暮らしていけなくなるから需要を創出し続けなければなりません。
「走るために走らなければいけない」状況にありながら、それにも限界があります。
私の漫画やイラストを稼業にしたい思惑だって、需要があるからやっているわけではなく、供給を成り立たせるために消費者を探しているのです。
この歪な取引関係の中で、敢えて打って出ていくのも自分の我儘であることは承知していますが、理想を叶えるためには無謀でもやっていかねばなりません。
だから、これまでの「当たり前」の方法を取っていけば、確実に浮上するのは不可能でしょう。
それゆえ、着想のレベルから斬新でなければならず、手段も特殊でなければなりません。
プラットフォームに最適化された立ち回りをこなせる自信がないなら、既存の方法でやるのは難しいと考えて良いと思います。
どうやって行けば良いのか悩むこともありますし、時に「もっと世の中が壊れてくれた方が動きやすい」と思うのは本音なのですが、世の不幸を待っているのは不健全です。
とは言え、おそらく私の予想通りになっていくでしょう。
新しい何かを始める時というのは、既存のものを壊して無理に進まなくてはならない、というイメージがあります。
しかし、草の根も生えないほどビッチリと塗り固められた土壌で、個人が壊せる範囲は微々たるものです。
ただ、これから起こるのは巨大構築物の自壊であり、待っていれば自然に崩れていくはずです。
私はその合間を縫って進めば良いだけで、自ら巨大な壁を打ち壊して進む必要はありません。
その知恵を働かせた方が、身体を張るより何倍も上手くいくでしょう。
私はデジタル環境に慣れきっていますし、MicrosoftのSurfaceを使って制作しているので、正直言ってデジタルの世界がおかしくなっていくのは心苦しいのです。
けれどアメリカという国家が信用を失う日は近く、同国の中枢にある企業体がいつまで行儀良くしているかについて、私には不信感しかありません。
だからこそニュートラルにものを考え、臨機応変にことに当たっていくつもりです。
そのやり方は自分で考えなければいけませんし、上手くいく保証は皆無です。
けれども、そこから挑んでいかなければ道が開けないことを覚悟しています。

楽太郎です。
ここ数日、家庭が少し荒れていました。
父はわりと我良しでマイペースな性格なのですが、ここ数日はまるで人が変わったかのように怒りっぽくなり、同居している母にも当たり散らすようになっていました。
私も特によくわからないことをしながら実家にいるものですから、父の心象が良くないことも知っているのですが、それにしては機嫌が悪すぎるのです。
あまりにも近寄り難いので理由も聞けずにいたのですが、父の後の風呂に入った時、妙な体臭があることに気づきました。
これまであまり嗅いだことのない匂いというか、魚のような生臭さで、汚い水の中に生息していそうな生き物の匂いがしました。
私はこれを嗅いだ瞬間、「人間のものではない」と気がついて、どうやら父の豹変は憑依によるものではないかと考えるようになりました。
だからこの数日はどうにか人知れず父の除霊を試みていたりしたのですが、ようやく問題はそこにないことに気づきました。
というのも、別に父の機嫌が悪いくらいでは慣れたはずなのですが、今回に限っては父と自宅にいる間は首肩が異様に凝るし頭も痛くなってきます。
つまり霊障が激しくなるので、どうも父を中心として邪気が降りかかってきているのです。
だから何とか父を祓えないか色々やってみたのですが、どうやらこの霊障は「巡り」つまりカルマ、因果応報であることがわかりました。
私の話をすると、思春期の頃に父との関係は最悪でした。
当時は反抗期でしたし、私も少しはグレていた部分もあったので父に対する風当たりは相当強かったと思います。
子供ながらにテコでも動かない父の鈍感さには腐心していましたし、全く心が通い合わない親子関係だったので、正直言うと父のことを「呪って」いたのだと思います。
私も母も潜在的に霊能力があるので、そういう人間が人を恨むと呪力も強くなります。
父は根っからカラッとした性格の人なので、ネチネチ腹を立てることはあまりしないはずですし、この種の憑依が起きたのも私たち母子と長年暮らしているうちに憑依体質に変化したのだろうと思います。
父に取り憑いているのは「蛇(オロチ)」の邪霊で、生臭い体臭も爬虫類系の霊による性質だと考えれば辻褄が合います。
それが私が父にかけた呪いとどう関係があるかと言うと、この「蛇」というのは私から発せられた呪いそのものであるということです。
つまり、私が過去に父にかけた呪いが憑依という形で「巡り」となり、私に降りかかってきたのです。
どうもカルマや因果応報としての「巡り」というのは、宇宙法則なので神にも捻じ曲げられません。
いくら神仏を慕い加護を受けていると言えど、宇宙法則が優先されるので言ってみれば「カルマはいかなる守護も貫通する」のだと思います。
だから、最近の霊障が何となく祝詞やお経が通じないのも、自分の放った邪気が自分に戻って来ているだけだとしたら、加護をすり抜けるのも理解できるのです。
私は確かに昔からロクなことをしてこなかったのは認めているので、何が返ってきてもおかしくないな、と思います。
それはとても反省してますし、だから父に与えた呪いが今の自分に返ってくるのもしょうがないと思うしかありません。
おそらく、しばらく経てば父も元に戻るでしょうし、親子関係も自然になると思います。
だから心配はしていないのですが、それまで自分の発した呪いを甘んじて受け続けなければならないという期間を過ごすことになりそうです。
霊的な解説をすると、この「蛇」というのは実在のヘビとは実際に繋がりはないと思います。
生き物としてのヘビは確かに霊性が高いのは事実なのでしょうが、ヘビそのものに悪霊の性質がある訳ではありません。
それで言ったら悪霊の化身とされる「狸」や「狐」も実際に悪い動物になってしまいますが、全くそんなことはないのでイメージが実在の生物に当てられているだけでしょう。
ただし、「蛇的な性格」の死霊がどんどん動物性を増していけば、実際の蛇の霊も取り込んで半妖となっていく場合もあるかも知れません。
大抵の「動物霊」と呼ばれるのは元は人間で、動物的性質と深く感応すれば動物に限りなく近づくこともあるのではないでしょうか。
私がよく引用する「日月神示」にも、邪気邪霊の類として「蛇(オロチ)」「金毛(※狐のこと)」「邪気」と三つの分類が示されています。
以下に写真を示しますが、私が愛用するルノルマンカードには「蛇」「狐」「鼠」のカードがあり、それぞれが日月神示の三分類に対応しています。
ルノルマンで私が占う時にはこれらのカードが危険を知らせるので、身を守る役に立っています。
体感的に邪霊の特性で言うと、「蛇」は憎悪と執着です。
かなり粘着した強めの邪気なので、身体的な攻撃性は高いです。主に腹に留まって長期間悪さをします。かなり感情的な念が強くあまり理屈が通じません。
より本能に近い悪感情を元にしているので、人間的な心を持っておらず、その辺が実に爬虫類的です。
これが「お金」や「名誉」に対する執着と出たら、俗に言う「レプティリアン」みたいな人格になるかもしれません。
「金毛(狐)」は、嫉妬心が強く野心的で、巧妙な悪意を働かせます。
よく「狐に化かされる」と言いますが、金毛は人を欺き誤解させ、時によっては無関係な者同士を同士討ちさせたりします。
おそらく悪霊自身はそれを見て嘲笑っています。それほど悪質なのですが蛇ほど攻撃性は高くなく、どちらかと言えば享楽的です。
SNSとかで人を釣って楽しんでいる系の人のイメージに近いです。実際、この手の憑依にかかって世を掻き回しているインフルエンサーは多いと思います。
この悪霊は肩首周りから頭部に感じやすいです。後頭架筋あたりを狙ってより内部に入って来ようとします。
ルノルマンの「鼠」に関しては、ほぼ霊体としての実態はないか弱すぎて形を成していないケースが多いのではないでしょうか。私はそのまま「邪気」と読んでいます。
「邪気」とは、陽気陰気とあるように攻撃性が高い負の念です。これは悪霊に限らず残留思念や気場にも現れて、人々の感情を「何か嫌な気持ち」に誘います。
その「嫌な気持ち」に引っ張られて、人間は妙な反応を起こすようになります。
その場所を避けたり、人を嫌って非難したり、虐めたり喧嘩を売ったりしたくなるため、このエネルギーの影響を知らずのうちに受けている人が多い印象です。
「鼠」と出るくらいなので、チーズをちょこちょこ齧るようにエネルギーを少しずつ奪っていきます。
大意は感じないのですが、小さな搾取も重なれば損害になってくるので、やはり対応はしなければなりません。
私にとって邪気は肌で感じることが殆どで、主に身体現象として現れます。
手足の痺れや肩凝り、頭痛や冷や汗などの症状になりやすいので、私はずっと病気持ちなのだと思っていました。
これらの邪気が好き勝手に動き回るには、唯物史観の世はさぞかし居心地が良かっただろうなと思います。
お釈迦様が悟りをお開きになる直前、「第六天魔王」という仏魔が誘惑をして悟りを妨げたと言います。
仏教には「天魔」という概念があり、仏道に試練を与える存在として「魔」が定義されており、世にある邪悪や欲望は悟りの境地に強く立ちはだかるからこそ、より強い信心に至るのだと教えます。
私はこの考えこそ「日月神示」にも示されている「悪」の定義そのものであり、全てが全宇宙を支配する大神の一存であるからこそ悪も必要なものとして存在しており、善一方では成り立たず、それゆえに「善と悪とのあなない(和合)」が必要であると説きます。
私たちは邪気邪霊の類は消し去ろうとしますし、悪もこの世から滅ぼせば平和になると考えます。
しかし、悪は「必要悪」だから宇宙の秩序の一部として存在するのであり、決して憎むべき存在だからこの世の悪を糺す必要があるのではないと思います。
日月神示の中では、「悪が表に出るのが良くないのだ」と言います。
確かに、指定暴力団が芸能界や繁華街などで融通を効かせる分には「龍が如く」の世界だと思えますが、メディア系企業と手を組んで仕掛けるようになってくると、世の中の露悪性は一気に高まるでしょう。
今の日本も世界も、社会の露悪性の高さは皆薄々わかっているのだけれど、そこに資本と権力が集中するから誰もが黙って従わざるを得ない世の中になっているのです。
悪が表でも裏でも、融通を効かせまくっているから問題になるのだと思います。
ちょっと危険な話が続きましたが、そろそろまとめます。
私が思春期の頃に父にかけた呪いは、「蛇」の様相を呈して私に返ってきました。
呪いとはカルマであり、自分が招いた因果応報であるので信仰も加護も素通りします。
それは甘んじて受けるしかなく、ただ自分が反省し懺悔する以外には早く消し去る方法はありません。
こう言った邪気邪霊が私に襲いくるのは、一重に私の心に同じ火種があるからです。
火種も煙も外にあるものだと思いがちですし、実際に外でこれらの現象はよく見られるので自分の中にはないと錯覚します。
ただ火のあるところに煙は立たず、自分の火種と外にある火種が同じ系統のものだからこそ、自分の心にも煙が立ち、火種も煙も外部の延焼を呼びます。
自分の中に蛇や狐や鼠の心があるからこそ、彼らがやって来ます。
従って、その火種を綺麗に消し去れば煙も立たず、心の中にある蛇穴も獣道も塞いでしまえば入って来れません。
これが「自己浄化」であり、神道で言う「祓い清め」であります。
「祓い」とは、「神様に邪気や邪念を取り去って頂く」ものであるとされ、外部的な働きになります。
一方「清め」とは内部的な働きであり、自分で行うものとされます。
身体は自分で洗わなければ綺麗にならないように、自分で心を禊がなければ浄化できないのです。
ゆえに「祓い清め」というのは、神職さんに大麻を振ってもらうだけでは成就しません。
この真の「祓い清め」を、現代では誰もが行おうとせず、自分で自分を清めなくなってしまいました。
一人一人が邪気邪念を祓い清めなくなったことで、その悪感情は伝染して世に蔓延していきました。
おそらく、その一端が今の世に現れているのだと思います。
世に罪穢れが満ち、神々の祓いも願われなければ行われないものであるが故に、自然現象の中での浄化作用では追いつかなくなったのです。
だからこそ、祓いを神様にお願いするだけでなく、自分で自分を清める努力も必要です。
私だけでなく、誰もが自分で自分の汚したものは拭き取り、出したゴミはきちんと片付けなければなりません。
それは面倒くさくて自分が汚したことに後悔もするのですが、それと向き合わなければ負のカルマという借金をチャラにはできません。
貯金は借金を残したまま蓄えることができないように、おそらくカルマも幸運もそういうものなのだと思います。
悪いカルマを返済し終えた暁には、きちんと良いカルマが蓄積される仕組みなのだと思います。
それがわかる以上は、涙を流してでもコツコツ返していくしかありません。

楽太郎です。
スピリチュアル業界には「2025年7月問題」というのが数年前から話題になり、昨今は「あるかないか」という議論が活発になりました。
本ブログでもその件に関して何度か取り上げていますが、その「7月」も残すところあと1週間です。
予言されていた天変地異が起きなければ困る人などいようはずがないので、何も起こらないなら起こらないに越したことはありませんし、タイムラインや世界線が切り替わったとしても結果論に過ぎないので、そのことについて議論しても意味がないと思います。
私の感覚では、確かに春分点頃までは「地球が荒れている」感覚がしてましたし、「何もない気がする」ようになったのは夏至以降です。
個人的にはこのまま「7月問題」は有耶無耶になる可能性が高いと感じているのですが、それでも南海トラフしかり地震もあらゆる災害に関しては「いつ何時起こってもおかしくない」ものなので、引き続き防災意識を持っておく必要があります。
この夏はどんな災害よりも目に見えるのは酷暑による旱魃や水不足、日照被害による農作物への影響です。
すでに猛暑で水田に水が張れなくなり、今年の稲作への影響も危惧され始めました。
この毎年の酷暑に関して、私は現代科学が提唱する「地球温暖化」は大して関係ないのではないかと感じていて、おそらく地球の次元上昇の一環で起きている現象ではないかと見ています。
それに関して話すと長くなるので割愛しますが、あと数年すれば普通に戻るか、むしろ寒冷化し始めるのではないかと思っています。
現在の世界を巡る変動を考える時に、私が指針としているのは第二次世界大戦末期に画家で宗教家の岡本天明氏に降りた「日月神示」です。
この日月神示は、おそらくいくつものタイムラインの話がごちゃ混ぜになっていて、前期の神示は確かに第二次世界大戦の行末などを記述しているように思います。
しかし、天明氏の自動書記は戦後にも断続的に起きていて、最後の筆記は1959年とされています。
この啓示が降りる時、天明氏の右腕に激痛が走り、自動書記が猛烈に降りた後に書かれた神示は数字と仮名が入り混じった難解な暗号文で、それを解読するのに数年を要したとされます。
ただ、暗号文を無理矢理こじつけたにしては一貫して筋が通っていて、しかも理路整然としている上に含蓄に富み、同じ文脈の話が何度も現れるという、仕込みにしては不可思議な内容でもあります。
私は岡本天明翁を疑う気はないのですが、仮にヤラセだとしても本文の内容は非常に示唆に富み、思想哲学として読んでも第一級であると思っています。
私は10代の頃に哲学にかぶれて、ニーチェやハイデガーやフッサールやフーコーを読み漁ったものですが、その後に出会った仏教哲学すら内包する、深淵な宇宙観が示されていると感じています。
その中でも、「善と悪との和合」や「自己浄化の敢行」「◯(外殻)と・(基点)の仕組み」は、この神示の中では綺羅星の如く輝く部分です。
私はこの神示が何を根拠にして「誠である」と感じるのか、自分でもはっきり説明がつきません。
私が言葉で解説しても矛盾が生じてしまう部分もあり、一概に全て読み切れている確信はありません。
しかし「外国が一斉に日本に攻めてくる」とか、「日本人にも外国の魂を持った者がいる」とか「日本人の魂をワヤにした悪の仕組み」とか、どうも今の我が国に起きている状況に妙に当て嵌まる部分もあるのです。
だから、何となく私はこの神示は現代に向けられているものではないかと思っていて、神示にも「100年も嘘は言わんぞ」「計画を1日遅らせると1000日延びる」とも書かれていて、日月神様でも不確定未来という概念によって大幅に前後する可能性を予め述べられています。
「子の年を挟んで10年が大峠」という一文は有名ですが、2020年の年明けから間もなくコロナのパンデミックが始まり、この頃から世界が不穏な空気に包まれ始めました。
パンデミックも収まらぬ2021年にはロシアによるウクライナ侵攻があり、未だに各国に戦火が拡大しています。
「辰の年は良い年ぞ」とありますが、昨年2024年の秋分点で実質的な地球の次元上昇が始まったと私は見ていて、その頃にスピリチュアルの「スピ」の字にも興味がなかった私が急速に霊的覚醒を始めた時期と重なります。
私が個人的にゾッとしたのは「辛酉の日に気をつけよ、怖い日ぞ」と書かれていて、ちょうど直近の辛酉の日というのは2025年6月21日で夏至に当たります。
本ブログでも夏至の環境変化はリアルタイムで解説しているのですが、その「怖い」というのは大事で重要であるという意味にも取れるのです。
このように、日月神示は私の霊的感性にバッチリ合う面が多く、私はかねてから「日月神示とは何なのか」を考えてきました。
この日月神示を降ろした「日月神」とは、千葉県成田市にある麻賀多神社の摂社に祀られる「天日津久神」と同一神であるとされます。
啓示を受けた岡本天明氏によれば、日月神とは大本教にも信仰される「国常立命」であり、これまで封印されていた大神であったと言います。
しかし神示の内容を良く読んでみると、どうも国常立命とは「素戔嗚命」と同一神であるようにも読み取れ、世界の闇と罪穢れを背負っておられた大神として語られています。
この啓示を降ろした日月神が、一般的に「国常立命」であると考えられていますが、文脈を読む限り「この方」とされる一人称にはブレがあって、どうも「国常立命の眷属」に坐す位の高い神格なのではないか、と私は考えています。
では麻賀多神社の天日津久神とはどういう神格か考えてみると、「天と地が和合するのが日月である」という文章から鑑みるに、「日」と「月」は必ずしも天体としての太陽と月を指し示していないのではないかと思います。
日月神示は駄洒落にも似た捩りや複数のミーニングが多用されていて、必ずしも表現通りの意味には取れない部分もあります。
日本神道における「日(ヒ)」は、そのまま太陽を指し示すことも多いのですが、「火」や「霊」の仮名遣いであることもあります。
ただ、日本語の発音から考えると「火」は乙類に属し、語源的に「日」と「霊(ヒ)」の発音は甲類とされ同じとされます。
例を挙げれば、「神直日神」や「八十禍津日神」の「日」は「霊」と同じ用法です。
「日月とは火水である」とも本文には書かれているのですが、「火」は語源的に「日」ではないので捩りの可能性があります。
おそらく、「日=霊」とは「天=神界」のメタファーであり、意味的には「日(=天)と月(=地)の和合」が日月の意味なのではないでしょうか。
では「月」とは何かと言うと、「嗣(つぎ)」ではないかと私は思っていて、「日を嗣ぐ=天を継ぐ」のが地を司る国常立命であるからこそ、「天地の和合した新たな世=ミロクの世」となると考えれば、辻褄が合うのです。
日月神示の中で繰り返し現れる「てんし様」という言葉は、おそらく「天嗣(てんし)」であって、「天の王権を継承した神格」という意味を持つのではないでしょうか。
よく考えれば、昼には天に聳える「日」は夜になれば「月」となります。
「日」を「嗣ぐ=次(つぎ)になる」から「月(つき)」であり、天は太陽から月へと二つの天体が入れ替わることで地球を照らします。
つまり、天を司る太陽を継ぐのが「地球」になることの比喩を「日嗣(ひつき)」とするなら、「国常立命が天の王権を嗣ぐ=天嗣」になることを意味すると考えられます。
話が逸れますが、伊勢神宮に祀られている天照大御神の荒御魂であられる天疎向津姫命を、複数の「御鎮座伝記」と言われる由緒書きや歴史書の中で「瀬織津姫命」であるとする謎があります。
私の感覚からすると瀬織津姫命は河川と淡水を司る自然神であり、稲作や除災の信仰と合わさって祓戸大神となった経緯が考えられるのですが、河川の女神を太陽神に準える理由がわかりませんでした。
しかしよく考えると、神々が住まう「高天原」と言われる神界そのものが「天」であり、天を司る最も強い「神霊=日」は、天を照らす大神(=太陽)に他なりません。
ゆえに、天照大御神を「高天原で最も高位の神」だとするならば、祓戸大神であられる瀬織津姫命であっても説明はつくのです。
奇しくも、神道は「祓いに始まり祓いに終わる」と言われており、「祓い清め」という神道の総本山こそ伊勢神宮であります。
神道関係者にボコボコにされそうな気もしますが、「荒御魂」とは「現(あら)御魂」であって、伊弉諾命の禊祓の時に生まれた三貴神と、祓戸大神が同時に生まれたことになっているのは、瀬織津姫命が天照大御神の一つの顕現であると取ることもできます。
そして、その「天を嗣ぐ」のが国常立命であるとするなら、大地の神格そのものである国常立命が高天原を治めることとなり、天と地が同一神によって統治されることになるのです。
私には、これが「日月神示」に示された「大峠」の後の「ミロクの世=神世」の真相ではないかと思います。
つまり、私たちが「素戔嗚命」と同定していた神格は長らく「艮の金神」として忌避されてきた「国常立命」とされる大地の大神であり、それは大本教でも示されていたように、日本の歴史の中で封じられてきた神格に他なりません。
確かに、素戔嗚命も高天原であらゆる暴虐を働いた後に天を追い出され、数々の業績を残しながら最終的に大国主命に王位を譲り隠居同然となります。
私は「記紀」は政治的事情で恣意的に創作された部分が多いと思っているので、日本神話の正統性として疑問を感じてはいるのですが、共通点は確かに存在します。
先ほど、この啓示を降ろしたのは日月神のご眷属の神格ではないかという話をしました。
では、啓示を降ろしたこの御神格をどう考えれば良いでしょうか。
「日嗣」とはそもそも、天照大御神を祖神とする天孫族の皇胤に用いられる言葉です。
日本神話において、大国主命から天照大御神に国譲りがなされた後、「国津神」として天孫たる瓊瓊杵命に高千穂まで案内をした「猿田彦大神」こそ、天照大御神以前の「古い太陽神」であり「日嗣」いわゆる天の王権の継承に貢献した神なのではないでしょうか。
また、同じ役割を神武天皇の東征時に行った「八咫烏=賀茂建角身命」は、一説には三嶋溝杭命と同一視され、役割を「日月神」とされることがあります。
どうも、古い太陽神でありながら道開きの神であり導きの神である猿田彦大神が、この啓示に一役買っているのではないかと感じています。
というのも、一気に胡散臭い話になるのですが私の感じる猿田彦大神様と日月神示から感じ取る御神格の雰囲気がそっくりというのが…
この部分は聞き流して頂いて構いません。
最後の方は完全な妄想になってしまいましたが、日月神示では「旧暦9月8日」という日付が特筆して述べられています。
新暦で言うと10月28日であり、私は2025年7月よりもこっちの方が何かあるのではないかと思わざるを得ません。
とは言え、「何かある」と災害を待つ心が悪であると神示には書かれているので、改めて振れ回るつもりはありません。
気になるのは、神示の中に「保食神がお怒りぞ」と書かれていて、昨今の食料事情を鑑みるに神様がお怒りでもおかしくないと個人的に思います。
物価高だからと売れ残る生鮮食品はそのまま廃棄され、食べ物に困る人もいる中で飽食を続ける人もいます。
特に、どうも人為的に引き起こされ価格操作もされているとしか思えない米不足と、この猛暑で「水田に水がない」という状況、私には何となく嫌な予感しかしません。
神々が世界で主導権を握る時代が来るとしたら、人間の欲望と利益追求のために摂理も倫理も捻じ曲げてきた人治の世界は、根本的に手直しが入るようにしか思えません。
そして、それは実際に世界経済の動乱という形で現象化しており、それは日月神示にある「三千世界の立て直し」の一環であるようにも思えます。
それを肌身で感じるからこそ、理屈を超えて日月神示が「真の啓示である」と間に受ける部分であり、それは具体的に説明はしきれないのですが、妙な説得力を感じるのです。

楽太郎です。
瀬織津姫命の新しい立ち絵が完成しました。
そう言えば、先日の参院選で自公が過半数割れとのことで、私はてっきり石破総理のニンマリとした顔を想像していたので、意外でした。
下馬評では過半数割れが見えていたのですが、私は一律2万円の給付を貰いたい人が力を見せるんだろうなと思ってました。
あと、たぶん自民にはディープな人たちがバックにいると思っているので、もう少し石破さんを泳がせるつもりなのだろうと見ていました。
このニュースを見た私の脳裏に、「あなたは常日頃から"日本を何とかしたい"と言っているわりには、日本人のことをあまり信用していませんね」という声が聞こえました。
どなたのお声なのかは、ご想像にお任せします。
ただ、日本の政局がどうなろうと魔法がかかったようにはならない気がします。
とは言え、アメリカに関しては現実的に考えてもスピ的な結論でもぶっ潰れる予感しかしないのですが、日本に関しては本当に読めません。
たぶん、それは今後の日本人の働き次第ってことなのだろうと思います。
あと、わりと日本は海外よりも民主的な投票システムが確立しており、数値の上で誤魔化しはないのだろうなと感じました。
自民の総裁選システムは正直言って胡散臭いですし選挙は言わずもがな酷い状況なのですが、投票だけは公正に行われるのが救いだと思います。
熱い時代になってきました。
そうそう、瀬織津姫様の新しい立ち絵が完成しました。
以前の浮世絵風のテイストはあれで気に入っていたのですが、一影が入れられないストレスと、入り抜きが強い線はどうも苦手で、浮世絵っぽさはテクスチャに頼ることにしました。
塗りは何の変哲もないアニメ塗りですが、最近気づいたのは私の線画のタッチと塗りの好みが合わなすぎて、これくらいの塗りの方が線画と釣り合うということです。
私は妙なとこで見栄っ張りなので、「手を抜いている」と思われたくないがためにゴチャゴチャした塗りを入れたがる癖があるのですが、それが逆に私の作風の邪魔になっていたようです。
やたらと手を入れたくなるのは性格なので、私が育てる植物は大抵水をやりすぎて根腐れを起こします。
そりゃ「愛情が重たい」と敬遠されて異性に逃げられるわけです。
まあ冗談はさておき、瀬織津姫様がこの絵を見てお喜びになられることを願っています。
瀬織津姫様への愛情表現が神様のご迷惑になってないといいなと思います。
後日、改めてネットプリントに登録して、私の部屋に飾ってある瀬織津姫様の古いイラストを更新したいと思います。
暑い中出かけるのも億劫な日が続きますが、皆様ご自愛ください。

楽太郎です。
以前、「アセンションと霊界再編」という記事で、概念図を元に地球の次元上昇の意味について解説しました。
その中で、なぜ地球が次元上昇するかという目的に関しては触れていませんでした。
おそらく、これまでの地球における人類の魂の学びの過程で、物質文明における功罪があまりに露骨に現れたのは「環境破壊」という側面です。
人類には既に水爆や放射能兵器、遺伝子改変技術や人工ウイルス、近年では人工知能なども脅威となりつつあります。
しかし、昨今の高度技術に反比例する人類のモラルハザードは、COVID19のパンデミックを見てもわかるように「誰も大惨事に対する責任を追求されない」事態も引き起こしています。
私が思うに、人類を破滅する脅威を抑制するほどの人治の能力があまりに不足しており、モラルハザードはそのまま人類滅亡に繋がる恐れすら生じています。
もちろん、地球に存在するのは人類だけではないので、文明が崩壊した後の地球の汚染に関する問題もあり、他の生態系に対する影響も計り知れません。
そこで、物質文明に対する「進化のカリキュラム」を終えると同時に、宇宙的均衡を取り戻すために人類の霊的覚醒と神々の再支配が始まろうとしているのだと思います。
これまで人治の世界が続き、自然の摂理すら捻じ曲げられてきたのは、一重に人間よりも上位の存在が人間の行いを黙認してきたからです。
この状況はおそらく3000年以上続いてきたのでしょうが、この歴史はまさに侵略と征服と戦争の繰り返しそのものでした。
しかし、その歴史のプロセスを終了するならば、人類を支配する権限が神々に再委譲されなくてはなりません。
これまで、その支配権は主に人間側の権威と、「神に仇なす者たち」の手中にありました。
その主導権を取り戻すと同時に、神々が人類の霊性を引き上げ、低次元に神性を送り込む方法の一環として「地球の霊的レベルを上昇させる」という手段に至ったのだと思います。
そして地球の霊性を上げる大事業の一部として、これまで人間が自分たちで霊界の最下層に作り上げてきた「幽界」という霊的気場があり、その階層を取り払って地球霊が新たに気場を作り出す作業を始めました。
それが私の言う「精神界」であり、6月の夏至でほぼ完成に至ったと見ています。
この精神界こそ次元上昇した地球霊魂の作り出す霊的気場であり、「地球意識」という新たな集合意識に繋がる高い波長域なのです。
前回の記事で、「いずれ集合意識の気場は崩壊し、人々は精神界の気場を使い始めるようになるのではないか」と述べましたが、これに関して補足があります。
まるで今生きている人々の集合意識が壊れ、誰もが右往左往する中で「精神界」にだけ救いがあるように受け取られかねません。
人間誰もが集合意識にアクセスするにしても、行動原理において精神的エネルギーを抽出する気場として集合意識は存在します。
ただし、人間個人の行動原理が100%「集合意識からのエネルギー」であることは殆どなく、肉体的な活力や魂からのエネルギーも使って人々は生活します。
集合意識とは言わば、社会的なエネルギーを交流させる場であり、「共同幻想」と言い表せるものです。
例えば、男なら一生のうちにマイホームを持つとか、三十路前には結婚して幸せなゴールをするとか、特に何の根拠はないけどその実現のために人々が死力を尽くそうとするような、強烈な動機を持つ社会通念です。
これはわりと侮りがたいエネルギーで、幼少期には貧乏で虐げられたけど、社会的に成り上がり業界に君臨するほどにまでなった人もいるくらいです。
良くない出方をするならば、鬱屈とした雰囲気から生まれる社会的リンチや迫害、社会に対する憤怒の捌け口としての戦争や差別など、人間の集合意識は目に見える社会現象となることもあります。
今回の解説では、次元上昇後に起こる集合意識の崩壊と、精神界のアプローチがどのようにして起こるかを扱います。
始めに、人間が精神的なエネルギーを肉体に反映させて具現化する時、二つの方法があります。
①集合意識からの動機づけ
②自己の魂からの動機づけ
①の集合意識は先ほど述べたように、社会通念として言説化され可視的な条件による動機づけとなるパターンが殆どです。
他に無意識のレベルから起こる共同幻想も存在しますが、これらの集合意識はそれ自体として客観視されることはあまりないため、ほぼ暗黙の領域で起きていると考えて良いと思います。
②の自分の魂を由来とする動機づけは、今回のテーマでもあります。
人間は村社会を形成する以前は、だいたい自分自身の肉体的欲求を活力にして来ました。
そのエネルギーも、精神面では己の「魂」を通じて生命力として獲得しながら、人類の祖先は過酷な自然を生き抜いて来たのです。
今でも、大して考えずに肉体的な欲求から溌剌と活動する人もいますし、社会性はあまりなくても自由闊達にのびのびと生きている人もいます。
近現代の人々は集団的な制度の中で生きるからこそ、「共同幻想」という動機を手に入れ行動するメリットがありますが、集団に属さなければ自分の中に動機を見出して十分生きられる存在です。
しかし、この共同幻想を主体として行動しなければならなかった理由は、一重に「共同幻想を共有しない人間は集団に適応できない」からです。
それゆえ、欲しくもないブランドのバッグを買ったり、行きたくもない高偏差値の学校を受験しなければならない立場に置かれる人もいたでしょう。
さて、ここまで説明した上で図解します。
「霊的具現化の構図」と題をつけましたが、平たく言えば「人間がどこから気力を持ってくるか」という話です。
先に述べたように、共同幻想を擁する集合意識は、理想や欲望を共有しながら同時に「同調圧力」も内包します。
希望だけでなく、不安や義務なども伴って共同幻想は支配力を持ち、人々の選択を左右します。
この一連の働きを「外部的喚起」と称します。
それに対して、上の②でも述べた「魂からのエネルギー」は、肉体的レベルだけでなく精神的、霊的な次元からの動機づけを伴います。
個人を主体とした独立したエネルギーの供給システムを、「内在的喚起」と呼称することにします。
人間一個人が、なぜ精神的なエネルギーを自給できるかと言うと、「魂」が物質界とは別の次元と繋がっているからです。
自分の意識として知覚できる自我を「小我」とするなら、スピリチュアル的に「ハイヤーセルフ」とか「ガイド」とされる超自我は、「大我」という大枠の自我の中にありますが、それらは一言で言えば「魂を取り巻く霊団」です。
私たち個人の霊魂というのは、実は一つで独立して存在するというより、あらゆる相が寄り集まって機能していると言えます。
人は一般的に生活する中でも、他人の思念や生き霊、相手の守護霊や土地の霊と無意識に交信をしながら、様々な現象に出会い思いを巡らせます。
目に見える世界だけで説明すれば、「なんかついてない」と思うことや、奇妙な巡り合わせなどが偶然に起こるように思えますが、それらは目に見えない次元での干渉もあるのです。
この「大我」を巡る霊体の種類に関して、これだけの例が挙げられます。
- 仲間内の生き霊
- 過去世の因縁霊
- 血族の先祖霊
- 民族としての遠津祖霊
- 霊団で立場のある守護霊
- 最も高次元にいる守護神
これらが「大我」という枠組みの中にあって、個人は様々な念や導きを無意識に受け取ります。
しかし、霊的なアプローチというのはかなり大雑把なもので、ある時には小我の行動が先立つこともあったり、大きなシナリオでは大我が支配的だったりもします。
そしてこの大我の中心にいる「魂」とは、全宇宙の霊魂の母体となる「大神」から与えられた「分御霊(わけみたま)であり、言わば神の一柱でもあるのです。
現代人が「私は神だ」と言えば完全にギャグになってしまいますが、それは「神などそこら辺にいる訳がない」という常識があるからです。
しかし、人間それぞれが一柱の「神」なのだとしたら、全く条件は変わります。
私たち一般市民は、ただ働いて消費して年を重ねて老人ホームで死んでいくような、設計された生き物であるかのように思い込まされているだけです。
もし目覚めれば誰しもが現人神になれるような器でありながら、「そんなはずはない」と思い、思い込まされているから「神である」という認識に至れないのです。
だからと言って、全ての人が特殊な神通力を使えるようになる訳ではないでしょうし、神としての自覚が芽生えても変わるのは心境に過ぎないかもしれません。
しかし神だという自覚は、適当な権威や流行に振り回され、理不尽な環境に依存して人生を浪費してしまうような生き方を改めて、自己を尊重し無碍にしないことへの信念となり得るものです。
そして大神から別れた分霊である以上、神性のエネルギーも魂の根源から湧き上がってきます。
あらゆる業界にいる「天才」と呼ばれる人々、どう考えても天から遣わされたとしか思えない奉仕精神に満ち溢れた人は、この神性を発露していると言っても過言ではありません。
彼らがある意味オリジリティを発揮しているように見えるのは、自身の魂から引き出した独自の神性を使っているからです。
つまり、自らの神性に繋がることが「才能」の発露であるとも言えます。
これまでは、①集合意識からのエネルギー、②魂からのエネルギーの二種類で動機づけをほぼ賄ってきた人類ですが、次元上昇した世界では「③地球意識からのエネルギー」が加わります。
①と②のエネルギーは、自らの利益のために自由に使うことができ、使い方によっては我田引水のような、「我良し」の環境を作り出すことにも使われていました。
しかし、新たな地球意識の気場である「精神界」が開かれたことで、新たな周波数のエネルギーを地上に降ろすことができるようになりました。
これが地球の次元上昇によって構築されたものである以上、この高い波長域は「相互精神」に基づく性質があります。
つまり、「人のため」「地球のため」と奉仕や愛情に深い動機をもつ時、この気場からエネルギーの供給を受けることができるのです。
これまでの「我良し」という思惑ではアクセスできない気場であり、それゆえ条件づけられた人にしか開かれないと言えます。
その条件は、深いレベルからの「自己浄化」と密接な関係があります。
そもそも、全ての優先順位において自分が最上位に立つような人は、地球意識を持ち合わせるのが難しいと思います。
それ以上に目に見えない世界を信じ、自分より上に霊的存在や神々を置いて敬い、その導きに謙虚になろうとする者でなければ浄化も覚醒も進みません。
従って、この新しい霊的気場を使えるか使えないかは完全に「本人次第」であり、それには覚醒に至るまでの精神的な修行も必要なのです。
確かに、春分点や5月の満月でどうやら「人々の線引き」が行われたのは間違いなさそうなのですが、「地球意識」という概念を知った時点で、すでに地球意識にアクセスできるタイムラインにいるのかもしれません。
「なんか面倒くさそうだから別にいい」と大抵の人は思われるでしょう。
しかし前回の解説で述べたように、今後はこれまでの拝金主義、物質主義を中心とした「共同幻想」は崩壊していくと思います。
人間の集合意識全般が、というよりは古い共同幻想が解体されていくはずです。
なぜなら、これまでの文明を形成してきた資本主義という金融システムが、これから轟沈していくからです。
目に見える形では、アメリカを中心とした西側陣営の混乱と崩壊、社会主義帝国連合の瓦解という形で現れてくると思います。
それほど動乱の世となれば、これまでの成功法則をなぞる人生に意味は成さなくなります。
そう言った成功のフォーマットが失われた社会では、個人の幸福や目的に人々はフォーカスするようになるはずです。
これまでの時代の闇が浮き彫りになり、人々に教訓と後悔を突きつける時、誰もが新しい目的意識を探し求め、より良い世界を作り出すために相互精神に目覚めていくことでしょう。
そのために開かれた気場が「精神界」です。
私には全てが神々によって計画されながら、決して平坦でも美しくもないこれまでの世界があって、しかしその道を辿ることでしか人類の正しい進化はないのだと、この仕組みを見て改めて考えさせられます。

楽太郎です。
今朝、散歩中に喉が渇いたので自販機に寄ろうとしたところ、女子高生が立ち止まってジュースを買い始めました。
私はそれを斜め後ろから見て、気づかれないといいなと思いました。
何故なら、彼女から見れば中年男性が自分を眺めているように見えるかも知れないと思ったからです。
それは自意識過剰なのだと思いますが、今の私が中年でいかにも怪しく見られそうだ、という認識から生まれる不安ではないことに、しばらくして気づきました。
私が子供や少年少女を見て、特に年頃の女の子に対して自分があたかも汚れた存在で、何となく自分をモンスターのように感じるのは、今に始まったことではありません。
よく考えれば10代の頃から変わらない感覚で、「自分が汚れた存在である」という認識が心に染みついているからこそ、その後の人生は「汚れ」に塗れることで汚れを克服しようとしてきたように思うのです。
それは、おそらく私が人間としてこの世に生まれ落ちた時にできた、魂と肉体との何らかのズレなのでしょう。
「自分と他の人たちは何となく違う気がする」という肌感覚は、どこの集団に属しても何をしていても、何となくガラス越しに眺めているような違和感に繋がっていました。
その不一致感を埋め合わせたくて、何でも必死に取り組んできたし、過剰適応のような状態はいつも上手くいかない原因にもなっていたのです。
先日、私はようやくLINEのアカウントを削除することが出来ました。
30年来の友人がいたのですが、どうもこれから繋がって行けそうにないと判断し、過去の禊をするつもりで全ての交友関係も同時に断つことにしました。
私も人間ですから、胸が痛まないわけではないですし、そこまで思い切る必要があるかとは思いました。
けれど過去の記憶を引き継ぎ、これまでの自分と繋がり続けることは、過去に囚われることと同じかもしれない、と考えました。
意を決して前に進むためには、過去に後ろ髪を引かれるような思いが強すぎるのです。
古い友人も、またいつか会える日を楽しみにしてましたが、そんな日を待つ月日がそのまま立ち止まる時間になるとしたら、いっそのこと振り切ってしまおうと思ったのです。
自分の半生を思い返すと、バカなことばかりやってきたと思いますし、色々な人に迷惑をかけてきました。
それに関して全く弁解の余地はないのですが、自分がそれだけバカだったからこそ、ここまで生暖かい目で適度に突き放して見てくれた人たちに対して、感謝の気持ちが湧いてくるのです。
私は確かにロクなことはして来なかったのですが、それでも痛い目を見て思い知り、物分かりが良くなる程度には賢くもなれました。
自分が何となく「他人と違う」という感覚は、どれだけ経験を積み重ねても結局は変わらず、そんな自分を受け止めることでしか真っ直ぐに生きられないことも、十分理解することが出来ました。
それが分かるまでは痛い目を見続けるしかなかったのですが、これまでの半生は私がこの答えに辿り着くことに意義があったのだと思います。
今思えば、私は自分ではない「何者か」になろうとし、誰かのようになれたら上手く生きられるような気がしていました。
自分に対する劣等感は、誰かの上位に立つことで埋め合わせようとし、それも何者かになれたら優秀であると認められ、自信を持って生きられるのではないかと思っていたのです。
けれど、私がなりたい「誰か」という虚像を追い求めたところでしっくり来る自分には出会えず、努力をして優秀さを認められようとしたところで、自分が心から欲しいものを手に入れることは出来ませんでした。
結局、自分はどこへ行っても自分で、いくら他人になり変わろうとしても自分のままで、もし自分が自分であることに納得が行く瞬間があれば、その場で自分探しの旅が終わってしまうことを、身をもって知ることができたのです。
ただ、この「自分ではない何者かになりたい」という不足感は、私が生まれた時からある不満とはどうしても思えません。
この日本という社会で育っていく中で、「人間は常に何者かにならなくてはいけない」という強迫観念がありはしないでしょうか。
事あるごとに他人と比べられ品評されるのが当たり前で、誰に憧れて誰のようになりたいかを問われ、その存在に近づくことを同じくらいの年頃の子たちと競わされてきました。
それで「できる」とか「できない」とか勝手にラベリングするのは、決まって偉い大人たちでした。
子供はそれに従うべき存在で、そういう型に嵌るべき生き物であるかのように扱われてきました。
けれど、大人になった今冷静に思い返してみると、そんな大人たちの思惑などたかが知れていて、きちんとした哲学があった訳でもないでしょう。
その仕組みがあまりにも当たり前に機能するからこそ、優劣というレッテルがあたかも真実であるように見え、その評価軸が人々の人生を振り分けてきたのです。
そうして「何者かにならなければ価値がない」という思い込みは、想像以上に人々の心に影響を及ぼしてきたように思います。
私が小学生の頃、事あるごとに嫌がらせをしてくる男の子がいました。
彼とは仲良しのつもりでいたのですが、何故こんな意地悪ばかりしてくるのか不思議でした。
ある時、先生の前で私へのイジメを見られたその子は、目の前で先生から咎めを受けました。
「何でこういうことをするの」と先生が問い質した時、その子は「絵がうまいのがずるいと思ったから」と言って泣き始めました。
私はそれからいい歳になるまで、その涙の理由がわかりませんでした。
私は確かに子供の頃から絵を描くのが得意でしたが、それは単に好きで毎日絵を描いていたからです。
当時思ったのは、「絵を描けばうまくなるのだから、描けばいいのに」という感想しかありませんでした。
けれど、後々に「努力はしたくないけど結果は欲しい」「打ち込めるほど好きになれるものがない」ことで、他人に嫉妬するタイプの人がいることを知りました。
彼とは中学まで一緒だったのですが、卒業文集に「将来は画家になりたい」と書いていましたが、ただの一度も彼が絵を描いている話も聞いたことはないし、彼の描いた絵を見たこともありませんでした。
彼のその後の人生はわかりませんが、「絵を描く才能」に対する憧れの感情を、憧れのままに終わらせないで大人になれたことを願うばかりです。
今でも考えるのは、憧れるのなら憧れに近づく努力をするべきだし、ただし憧れの存在に近づいても他人そのものにはなれないのだから、どこかで自分に納得して落ち着けばいいと、それだけのことです。
けれど、一生をかけてもこの結論に辿り着けない人はいます。
憧れている何者かになれないなら、何か他人にマウントを取れるようなステータスを身につけて、あわよくばそれで満足できると錯覚する人もいます。
「何者かになりたい」という憧れと、「何者かにならなければならない」という強迫観念は、結局は「自分はこのままではダメだ」という感情の裏返しです。
その不安感も、自分が素の状態で生きてありのままに認められない不満から生まれていて、人々が予め与えられた条件を満たせなければ社会的報酬を得られない仕組みにあります。
だから人間は、自分自身として生きていくために「自分以外の何者かにならなければいけない」という条件を満たすために長い旅を始めるのです。
その歪んだ探究は、「何者かである者への嫉妬」という形でも現れます。
有名人や才能ある人の隙をついて、叩けるならば叩きたいという感情も実はここにあります。
自分が自分として確立され、その自分自身に満足していれば他人はわりとどうでも良く、どんな優秀な人であろうと条件が合えば協力し合えるような、そんな感覚になるはずです。
けれど、「才能がある」とか「優秀である」というだけで、他人に嫉妬し怒りを晴らすために一方的に攻撃する、その心理が健康的と言えるのでしょうか。
しかし、今の日本人にこういう人が多いのは、この学歴社会や勝ち負けの仕組みがあまりに歪だったからこそ、不健全な価値観が現象化しているだけのように思えます。
そもそも、「何者かにならなければいけない」という観念そのものが正しいのでしょうか。
小学生の頃に「エジソンのようになりたい」と学校で思わされたとしても、正直に発明王を目指す人はたぶんいません。
けれど「年収1千万円のインフルエンサーになりたい」とか「フォロワー10万人の絵師になりたい」と思う時は、大抵はモデルが実在します。
それが真実の姿はともかく、その人の真似をして同じようになろうとし、自分の形がなくても理想が叶えられたら満足する、そんな気さえしてしまうのです。
けれど、結局はどこまで行っても自分は自分で、自分が自分である延長にしか自分の幸せは存在しません。
それなのに、自分ではない誰かになれた方が幸せになりそうな気がするのは、本当の自分が見えていないからではないでしょうか。
私たちは常に比較されすぎて、「どれだけ比較されようと肯定するしかない自分」を見つけるまでになかなか至れません。
今の世の中は特に失敗も許されず、最短最速の結果を求められ、しかもその最適解がフォーマットとして既に出来上がっています。
ヨーイドンで走り始めた1回目のレースで勝負がついてしまうような世の中で、どうやって自分を見つけろと言うのでしょうか。
私は、誰もが「何者かになろうとしなくていい」し、何者にもならない自分を見つけるために、あらゆる経験や失敗が許されるべきではないかと思います。
実はそんな世の中の方が、人間はおおらかに他人の失敗を認められますし、「お互い様」と言える空気になるはずです。
人生において結果を残すような人間になろうとし、それを強迫観念として抱いているからこそ、人生に失敗が許されず、何も持たない自分の劣等感から他人に嫉妬する心も生まれるのです。
右を見ても左を見ても同じゴールを目指している競争相手しかいない世界は、とんでもなく窮屈です。
しかしこれまでの世は、残念ながらそういう方向に向かい続けていました。
人々がもっと人間らしくのびのびと生きるには、常に他人と比較されなければ生きる価値が見出せない空気は障害にしかならないと思います。
そもそも人は社会の歯車として作られるのではなく、誰しもが幸せを願われて生まれてくる大切な命です。
祝福されて生まれてきたからこそ、当たり前のように幸せになれるのが自然な社会のあり方です。
それなのに、数値化されたステータスで選別され、工業製品にも似たラインで一生が決まるのは、どう考えてもおかしいのです。
ただ実際にそうであっても、人間の一生や幸福はその仕組みの中で完結するわけではありません。
いくら自分の生まれや育ちが気に入らなくても、いつでも幸せになろうとすることはできます。
仮に社会という工場の中で溢れた部品だとしても、自分という存在はそれだけで完成されているのです。
どれだけ未熟でもポンコツでも、完成品は完成品であり、その性能はともかく完全に機能はするのだから、それで自信を持って生きればいいのです。
私はこの半生を通じて、自分はやはり不良品だと思いますし、ポンコツすぎて色々な人に迷惑をかけたことに反省もします。
ただ、その不足感も世が世なら問題にならず、私が受けたような迷惑すら物ともせず、「お互い様」と言い合えるような雰囲気になっているはずです。
それが失敗を許されず、責任を押しつけ呪いを掛け合うような時代は、そろそろ終わりにするべきなのではないでしょうか。
私は散々痛い目を見た分、人様の失敗には寛容な方です。
私が目にする大抵の失敗は、大なり小なり私も経験してきたからです。
だからいつまでも失敗を責める気はありませんし、反省して出直す分には見守るつもりです。
それは何より、これからを生きる若い人や子供たちに窮屈な思いをさせたくないからです。
失敗もしていいし、どんどん苦い経験もしていって欲しいのです。
失敗もしたことないような綺麗な人生の中では、他人をおおらかに許すことなど到底できません。
私はこれから、改まって「何者か」になることもなろうとすることもないでしょう。
ただし、自分自身でありながらこの社会に生きられるような、誰かの役に立つ落とし所を見つけて行きたいと思います。
そしてあわよくば、私の歩んできた道を同じように歩いてくる若い人たちに、声を掛けられるくらいの人間になりたいと思います。
その時に掛ける言葉は、すでに用意しています。
「何者かにならなくていい、自分であれ」と。

楽太郎です。
ここ最近、私自身の「感情」について見つめ直す機会が訪れていました。
近所の公園の造成工事が、半年前に完成していてもおかしくないのに未だに敷石の一つもなく、草木一本植え終わっていません。
コンビニの棚には変わり映えしない品ばかり並び、品質も量もどんどん落ちていくのに値段だけが跳ね上がっていきます。
皆が無気力になり言い出すリスクを避け、何も言わず何もしないからこそ、世の中はますます力あるものたちの思惑通りになっています。
そこに関わる個人は良しとしていなくても、組織や社会が決めたことであれば従わざるを得ません。
その当事者を一概に責められないでしょうが、かと言って加担している事実を無関係にすることもできないでしょう。
その組織や社会も、彼らだけでなく私をも巻き込んだ上で、もしかするとどうにもならない流れの中にあるのかもしれません。
こういう光景を毎日見ていると気にしないフリをするのも難しくなり、いい加減に何とかならないのか、と遺憾の意が込み上がってきます。
実際に怒ってはいなくても、積み重なる猜疑心で腹の底では抱えきれない怨念を抱え込んでいるのかもしれません。
どこかで理不尽さを感じている人々も、私自身もこの世界が変わる日を心待ちにし、一刻も早くその時が来て救われることを願っているように思います。
私に降り掛かる霊障に関しても、いつ終わるのかという気持ちはあります。
「いつか」終わるのはわかります。けれど、その「いつ」なのかが重要にも関わらず、出口が見えないゆえに不安や疑念は付きまといます。
いつか状況が変わる日を待ち日々を耐え忍びながら、それでも目に見える光景は何一つ変わらず、人々は依然として変わる兆しを見せません。
そのもどかしさと焦りの中で、私は神様に「早く時代を変えてくれ」と願い続けています。
しかし、もし神々が時代を変えようと事を起こしたとして、それが必ずしも私が望む形の変化であるとは限りません。
例えば、3人に1人くらいが亡くなるような世となれば、確かに時代は変わるし世界も変わるでしょうが、それは決して私が望むような光景ではありません。
だから「世を変えて欲しい」という願いには、ある種の理想、言い方を変えればエゴが潜んでいます。
「変革の夢」には個人的な条件づけがあって、その願いが叶うことを神様に求めているのです。
果たして、そんな一個人の願いを神様は受けられるのでしょうか。
この世界に感じるもどかしさは、私だけが特別に感じているわけではないはずです。
他の大多数がおかしいと思っているし、出来れば変わって欲しいと思っているでしょう。
誰もが自分自身が正しいと信じ、「こうすれば世は良くなる」と考えています。
けれど、その考え方に固執しているうちは、目の前で一向に変わらない物事がもどかしくなり、顔色一つ変えようとしない人々を憎らしくも感じるかもしれません。
そんな私自身に、「我良し」の感情がないと言い切れるでしょうか。
世の中が綺麗に変わることを自分で「善」だと感じても、それが他の当事者にとっては悪夢かもしれません。
同時に、彼らにとっての楽園は私にとっての「地獄」だったりします。
どちらが正しくこの世に相応しいか、で言えば私も彼らも等価の存在です。
神様からすれば、善も悪もその時代ごとに必要な役割を与えているだけで、本来なら優劣も要不要もないはずなのです。
そんな世の中に、私は意固地になって「間違っている」とぶつけ、躍起になって自分の正しさを証明したくなります。
一刻も早く証明して溜飲を下げたいけれど、世が一向に改まろうとしないからもどかしくなり、どうなっているんだ、早くしてくれと焦りの感情が湧き上がってきます。
それは完全に「我欲」であり、欲であるが故に叶わぬ苦しみを覚え、苦しむからますます救いを求めるのです。
では、この苦しみは我欲を捨てれば良いのかと言えば、その前に気をつけるべきことがあります。
世は「諸行無常」であり、結論を言うといずれ時代は変わりますし、世も変わっていくでしょう。
おそらく、私が神様から受けているメッセージの通りに世は移ろい、結果的にそうなっていくはずです。
しかし問題は、「それがいつかわからないから、耐えられそうにない」と感じて不満に思うことにあります。
つまり、我欲があるから「自分の思い通りにならない時間」を耐えるのが苦しいと感じています。
例えその動機が「世を良くしたい」という善意であっても、我意は我意なのです。
ではその我欲を持って願いが叶わないのは不自然なことかと言えば、願望が叶わないのは世界のデフォルトです。
それが個人の手に負えない巨大なことで、特に不特定多数の人が関わる世であれば尚更です。
そういった念では動きようのないものを動かそうとし、それを望むから叶わず、叶わないという不満が邪気になります。
では、一個人の力では到底及ばない物事はどうしたらいいのかと言うと、それこそ超常的な存在に頼るしかありません。
つまり、神に委ねるしかないのです。
ものすごくシンプルな結論なのですが、この答えになかなか辿り着けないのが人間というものです。
人間は自分の思考で目の前のことを何とかしようとして、例え目の前にないことでも思考を巡らせ、何らかの手段を取れば解決できると考えがちです。
そのやり方で、大体のことは対処できてしまうからです。けれども、それゆえに「人間の力ではどうにもならないこと」も、何とかできるに違いないと錯覚してしまうのです。
中国では毎年乾季になると、「降雨ロケット」なるものを飛ばすそうです。
ロケットに積載した特殊な化学薬品の反応により、雲の水分を結合させることで一時的に雨を降らせることができると言います。
しかし中国の異常気象はもはや日常茶飯事であり、気候が荒れるのも元を辿れば、度重なる環境破壊に端を発します。
そこで雨を降らせたいからとロケットで気象操作をしますが、地球規模の自然サイクルの中でのバランスは全く考慮されておらず、その行動によってどんな影響があってもおかしくありません。
けれど、人間は知らなければないものだと思いたがる生き物ですから、降雨ロケットの環境への悪影響について語る人がいようものなら、特に中国であれば尚更存在することは許されないでしょう。
科学技術を万能だと信じるのもそうですが、科学的な理論と実践が成り立てば、全てのものがコントロール可能であると人間は錯覚します。
しかし現実の世界では、どのように「バタフライエフェクト」が発生するかを完全に予測できず、それは人智を超えた領域です。
それゆえ、人間が万物を理解して全てのことを成し遂げられるという考え方は、実は身の丈に合っていません。
ここで「神に委ねる」というのは、一見責任を放棄して何もしないことを推奨するように思えます。
仏教には「他力本願」という言葉があり、「他力」という神仏の力を本命とせよという意味ですが、これには「自力を尽くした上で」という大前提があります。
自分のするべきことはしっかりやるのだけれど、自分の手の届かないそれ以上のことはもはや神様に任せるしかないのです。
何もかも自分の意志でやろうとして、目の前のことを一つ一つ思い通りに動かそうとするから、そうならない時に不満が募ります。
当然、自分の力でコントロールできるものとできないものがあり、どこまでも自分の手が及ぶと思うことこそ思い込みであり、実際はそうならないことの方が多いです。
何かを思う通りに事を成そうとすれば我意が宿り、我欲が起こるゆえに不満も覚えます。
その考えに固執するから苦しみが生まれるのであって、そのループから解放されるためには、あえて思考を手放してみることです。
そして、人間よりも大きな物事はやはり神々の領域であることを知り、神様の行う領域に極力口を挟まないことです。
そうして神を信じきるからこそ、自然な成り行きに任せることができるようになります。
これは頭ではわかっても、感覚で理解するのはなかなか難しいでしょう。
人間は考えを行動に移す時、できる限り思想を忠実に実践しようとします。
神に自らの意思を委ねる時は、心で感じることをただ実地に移すという感覚に近いのです。
それは同じように見えますが、人は頭で考えてやることほど我意を行動に移すことが多く、感覚や心で動く時は余計な思考を伴わないものです。
「自分の意思を神に委ねる」というのは、ものすごく不審に感じられるかもしれません。
ただ思い出していただきたいのは、私たちが子供の頃、社会問題や戦争のニュースを眺めながら、自分の無力さを現実に映し見て不安を覚えていたでしょうか。
両親や大人たちが特別頼りになるわけでなくても、何とかなるような楽観的な気持ちでいたし、それは決して世の中に対して無知だったからではないはずです。
心理学では、人間の不安は9割が取り越し苦労だと言われます。
子供の頃に未来に不安があまりなかったのは、無意識に自分より大きな存在に身を委ねていたからです。
自分が小さくか弱い存在だと知っているからこそ、委ねきるしかないことも無意識に理解していたのです。
しかし、大人になれば何にでも責任を持たなくてはならなくなり、できる限り自分の手で何とかしなければいけなくなります。
そうした自助努力の世界にどっぷり浸かることで、「委ねる」ということができなくなっていくのだと思います。
この世界は右でも左でも権威というものはどうも信じきれず、どこを見回しても胡散臭く、疑心暗鬼に駆られて不安に陥ることもあります。
けれど、それを感じているのは自分一人ではなく、自分よりも地位がある人でさえ心の支えがなく、不安を抱えていたりします。
まして人間が千人や万人より集まったところで、誰が先頭に立とうと変えられるものは僅かでしょう。
だからこそ、人間の手が及ばないことには「神の手」を期待するしかありません。
それは全てを捨て、ひたすら神仏に拝めばいいということではなく、自分のできることをやった上で、自分の手では叶えられないことも潔く認めるのです。
そして、願いが叶うことを神仏に託すこと自体、人間としてできる限界のことだったりします。
それ以上のことを願い、人間の限界以上のことを自分で叶えようとすれば、上手くいかないのは当たり前のことです。
世を変えるための戦いも、戦うことそのものよりも「戦おう」とするから辛くなっていき、挑むから相手から挑まれるのであり、進んで出て行かなくても戦わなければならない時は戦うしかありません。
「世を良くしよう」という真面目さは時に愚直さとなり、愚直がゆえに無謀にもなり得るのです。
それは決して、綺麗事だからと全てを肯定する理由にはなりません。
私は、日々のニュースや日常で起こる目の前のことに嫌気が差し、気が滅入る時もあります。
世にある一つ一つのことにも、「どうしてこうなんだ」と「こうすれば良いのに」と考えるほど、自分以外の人が間違っているように感じてしまいます。
けれど、「世が良くなって欲しい」という綺麗な願いも、自分の手の届かぬところにある我欲だとしたらおそらく完璧には叶わないでしょうし、生きる上では単なる重荷になります。
その荷物があまりに重くて一歩一歩が苦しいと感じるのなら、いっそのこと荷物を神様に預けてみたら良いのです。
私たちは自分の力で何でもできると思いがちで、何でもやらなければならないと考えます。
けれど、人間が自分の頭で考えて実現できることはたかが知れています。
おそらく、自分で抱えても神様に持って頂いても、わりと見える景色は変わらないかもしれません。
人間にとって、これは盲点だったりする部分です。
私たちは真面目であるがゆえに、努力を尽くそうとし頑張りすぎてしまいます。
そして、人間としてできる限界以上のことまでやってしまおうとし、疲れてしまうのは神様から見てもやりきれないかもしれません。
神様に身を委ねきれないことは、神を信じきれないことと同じです。
もし安心できないのであれば、人間としての考えを一度手放してみれば、もう少し神様にお任せすることができるかもしれません。
私たち人間が思うようにできることは、本当にごく一部です。

楽太郎です。
藤巻亮太さんのアルバム「北極星」の中に「Blue Jet」という曲があります。
この曲は、かつて宮沢賢治が志した現代版の「雨ニモマケズ」ではないかと思います。
「人は通らない
それでも構わない
ただここに生きて
橋を架けてゆく」
藤巻亮太さんは人気ロックバンド「レミオロメン」のギターボーカルをしていたアーティストです。
藤巻さんの曲は文学性が高く、レミオロメンの頃から一貫して情緒の大切さを表現し、前向きに生きる人々を応援し続けています。
この「北極星」というアルバムはオーケストラを使った曲が多く、特に硬派なコンセプトで作られているように思います。
「Blue Jet」という曲は、誰に見向きされなくても、それゆえに自由を背にして突き進め、というメッセージが込められています。
これが「雨ニモマケズ」だと思うのは、「木偶の棒」と呼ばれ嘲られても信念の赴くままに生きる芯の強さに美を見る感覚と、同じ思想を感じるからです。
私は常々、「見向きもされないな」と思いながらやってますが、決して腐っているわけではありません。
けれども、薄っすら「何にもならないかもしれない」という不安はあり、それでも辞めることができないのは、愚直に信念を追い求める私自身が嫌いではないからかもしれません。
そして、やる必要もなく例え求められなくてもやらざるを得ない、どうしても表現を止めることができない私という存在がいて、それはあたかも飛行機が飛ぶしかないように、当たり前のことをしているだけだったりします。
「Blue Jet」は、空を行く飛行機は何にもない虚空を飛ぶわけではなく、虚無のような広がりを行くことに自由があるのだ、と歌います。
私はこの曲のメッセージを理解した時、レミオロメンの後期の名曲「アイランド」での迷いを突き抜けて、藤巻さんは悟りの境地に入られたのだなと思いました。
世間は、人が見向きもしなければ無駄なことをやっているように思いますし、何にでも利益がついて回らなければやる価値はないと思います。
確かに経済活動という側面で見ればそうなのですが、この社会を成り立たせるにはそれだけで足りません。
需要と供給の枠を超えて必要なものは世の中にあって、誰も知らず目に入りにくいものによって支えられていることはたくさんあります。
その価値は先入観では計り知れず、場合によっては「いらないもの」とされ、隅に追いやられてしまうことすらあります。
私は、皆がスポットライトの方しか見ないからこそ、日陰や闇の中に一粒の光を見つけて、その輝きに目を奪われる行為を愛するのです。
それは例え儚くても光は光であり、作られた電気の明かりではなくて、人が心から放つ生命の光こそ私は美しいと感じます。
けれどそれに気づく人はなかなかいなくて、その寂しさに青い空を見る、それが「Blue Jet」に歌われている景色なのかもしれません。
以前、「素直に生きる」という記事の中で、「再び自分の感情に向き合って創作することを許された」と書きました。
それまでの神様の導きがある種、時期的なものであったことを勘違いをしていたのだと思います。
神様は基本的に人を縛ったり「こうしなければならない」という強制をあまりなさらないように思います。
私はもう「昔の作品に取り掛かれることはないのだろうな」と思い込んでいたのですが、「どうしてもやりたいこと」に限っては、自分の心に嘘をついて止め置くくらいならむしろやりなさい、ということなのだと思います。
最近はフィジカルなパワーの高まりと共に、霊障も落ち着いてきました。
近頃の憑依は祝詞やお経のもつ神性のパワーが通じず、自分の霊力で抑え込むしかありません。
よく「警察が来ようがビビらない」タイプの方がおられますが、そういう人たちに理詰めや宥め聞かせる手口は殆ど通用しません。
そういうタイプには腕っぷしをみせて手出しできないようにするのが最も効率的です。
この構図は、この世でもあの世でも変わりないのかもしれません。
ただ、こういったタイプの邪気を呼ぶのは、私の心にも同じ性質があるからです。
その禍々しい感情に蓋をしながら、蓋をしていたこと自体を忘れがちになります。
この世界を見る上で感じる「悲しみ」の奥に沸々と煮えたぎる怒りがあっても、沸騰して蓋から溢れ出てくるまで鍋が煮えていることに気がつきません。
この世に蔓延る欺瞞や暴力や搾取、それを嘲る人々、私はその闇を照らせるほど強い光を持っていません。
そこで湧き上がる怒りを浄化するほどの力もなく、自分の中に塞いでしまった負の感情は、自ら闇を招く原因となっていました。
結局一旦は蓋を開けてそれを出してみるしかなく、よく冷ました上で灰汁も取り除いていかなければなりません。
その感情は、やはり「表現」するしかないのです。
私は特に、日常生活の中で本音を話せる人は誰一人おらず、世に思うことや自分の感情を誰かと分かち合う機会は殆どありません。
けれど、私は一介のクリエイターであり、誰が目の前にいなくても「人に語る」ことはできます。
それが例え壁打ちだとしても、私の心は押さえ込んでいた感情を「作品」という形に昇華することが可能で、それによって心は浄化されるのです。
闇というものは、ただ光を照らしただけで自ずと消えていくものではなく、闇を分かち光へ導いてあげなければずっと澱んだままです。
闇を照らすには頭ごなしに光を当てるだけではダメで、闇によって闇を宥めて闇の内側を拓かせることから始まります。
毒を持って毒を制することがあるように、水に油を注いでも意味をなさないこともあります。
だからこそ、素直に「それ」を表現することにしました。
それは血生臭く、禍々しい闇の部分です。
しかし、それはある種この世界の真実の姿でもあり、光に照らされた部分だけを眺めても見えてこない部分です。
光は常に明るい方だけに差すわけではなく、遍く闇にも向けられます。
だからこそ、「綺麗事」の偽りを破った先に本当の綺麗事は存在するのだと思います。
何となく矛盾しているように思えますが、善も悪も表裏一体だからこそ、表だけ裏だけ存在する方が歪な世界になってしまいます。
世界を「白」一色で染めようとした今の世を見て、それでも眉唾に思えるでしょうか。
この作品は、いずれ漫画という形式でどこかに出そうと思いますが、おそらく別名義になるでしょうし、本ブログでは全く触れないと思います。
それでも、もしどこかでお見かけしたなら、そっと閉じて記憶を水に流して欲しいと思います。

楽太郎です。
瓊瓊杵命と共に天降り、猿田彦大神と出会い夫婦になった説もある「天細女命」。
記紀の岩戸隠れの段では、天照大御神を呼び出す策として激しい舞を披露し、神々を大いに喜ばせたことで天照大御神がその声に反応し、顔を覗かせたと言われています。
そんな天細女命ですが、一晩中ずっと頭をよぎっている感じがしてて、目が覚めた瞬間に「きっと天細女様が描いて良いと言っているに違いない」と勝手に思いました。
そこで、眠い目もろくに開かないままにデスクに飛びつき、ラフを仕上げました。
こういう脈絡のない強引さとか、唐突な思い込みの強さこそ、スピリチュアリストが異様な図太さを見せるところです。
100年戦争を終わらせたジャンヌ・ダルクも、何だかよくわからない強気であれよあれよと周りを巻き込んで革命を成し遂げてしまったので、ああいう突き抜けた人間こそ今の時代には必要なのかもしれません。
神様のイラストを描かせて頂く時は、神様のお気持ちがあるかないかで進行度が違います。
天細女様は、神社で参拝したことがないのでご神縁はないはずなんですが、なぜか「私を漫画に出しなさい」みたいな念を少し感じていました。
以前、猿田彦様にHARAEDOに出演して頂こうとデザインを起こした時に、天細女様も脳裏によぎって、いずれご夫妻として登場して頂くことになるのかなと思ったりもしました。
猿田彦大神は国津神として瓊瓊杵命一行を出迎えたわけで、妃となった天細女命は天津神ですし、ご結婚なされた後は嫁に頭が上がらない旦那様だったのではないかと想像します。
猿田彦様が日本の「元祖恐妻家」みたいな感じだとしたら、天細女様を外で呼ぶ時は「おい、うずめ」と声を掛けるかもしれませんが、家の中では「うっちゃん」とか呼んでたら萌えるなあとちょっと思いました。
日本神話をネタにして、ここまでオタクの妄想を拗らせる人間もなかなかいないかもしれません。
天細女命は、岩戸開きや猿田彦大神の出迎えの時も「記紀」での描写はとても卑猥な感じがするので、神様的にはどうお感じになられているのだろう?と常々思っていました。
そこで私が面白がって天細女様をカリカチュアライズしても、おそらくコンプラ的にハリウッド・ザコシショウの誇張しすぎたモノマネを凌駕する本家の癖みたいな感じで、「記紀」の突き抜けた描写を超えることはできないと思います。
ですので冷静に考えて、神様ですからきっとご立派なお姿でしょうし、真面目な印象で描かなければ失礼に当たると思い、「女将」のようなイメージでデザインさせて頂きました。
奇しくも、天細女命は芸能や芸術の神様として信仰されておられるので、漫才師の内海好江師匠のようなピリッとした厳しさのある大和撫子を想像しました。
このイメージだと、猿田彦様も余計にSiriに敷かれていそうだなと思ったりもしますが、そんな妄想をお許し下さる神様方には本当に感謝いたします。
後々になって、バチが当たらないことを願っています。
本編の制作が一向に進まないのに、登場神のペン入れ&登場待ちだけが増えていきます。
もうちょっと自由に動きたいところなのですが、なかなか…。
