招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「怒り」を捨てるな

楽太郎です。

人伝に聞いたのですが、政府が一律2万円の給付を行うそうです。
というのも、私は国内情勢に関してはあまり見ないようにしていて、その理由は「腹が立つから」です。
この国のために、私なりに考えて日々行動していますが、あまりに出鱈目なことばかり罷り通るのを見ると、正直耐えられなくなります。

私を含め、日本人の一人ひとりがいくら良心を痛めたところで、多数決の良くない部分で社会は変わっていきます。
自民党が小手先で国民にバラ撒きをすれば、低下した支持率も多少は戻るでしょう。
そのカラクリが見え透いていたとしても皆お金は欲しいでしょうし、おそらくどう足掻いても結局は自民党の思惑通りになります。

こうして全てがなし崩しになっていくのを私はただ見ているしかないですし、周りの誰もが疑問も持たずにただ流されていくだけです。
私はこの状況には本当にガッカリしますが、ここで愚痴を言いたいわけではありません。

この国がここまで狂ったのは、おそらく日本を取り仕切る神々のご計画のうちでしょう。
それは日本を一度打ち壊す必要があるからであり、立て直した国を世界の中心に据える意図があるのだと思います。
ただ「日本はどこで間違えたのか」を考えると、おそらくいつからとは言えないほど歴史を遡るはずです。
私は幕末期と明治維新あたりでやらかしたのではないかと個人的に思っているのですが、ややもすれば稲作伝来以降、三千年来の因縁かもしれません。

この国に「国家」という観念が根づき、権威が人々をまとめ上げていく過程において、人間が国家という巨大な力や富を扱いきれた時代はありませんでした。
結局は、中央集権内部の権力闘争でいがみ合い、権力者同士が覇権を取り合い、肥大化した自己顕示欲によって対外戦争を仕掛け、その悪癖に国民はずっと振り回されてきました。

そして、今も尚そうなのです。
ただ、この歴史が遥か未来の人類にとって、「学びの期間だった」と顧みるために起こるのだとしたら、これからを生きる私たちはそれを学びに変えなくてはならないのです。
「学ぶ」ためには、正解を知らなくてはなりません。正解を知るということは、誤りも知るということです

だから、そのご意志を神々から受け取っている人ほど、今ある状況に胸を痛め混乱するでしょう。
私も、あからさまに人々が何も考えずに崖に進んでいく様にはさすがに動揺しますし、それを止める手立てがないことには辟易します。
それでも、頭の中では「これは必要なプロセスなのだ」と言い聞かせるのですが、どうも心が追いつきません。

私は、これは本当にどうにもならないことなのだけれど、自分の気持ちの面だけでもどうにかしたいあまり、「国内報道を一切見ない」という日々を送っています。
それも良いアイデアかと言えばそうでもなく、実は本当の問題は日本にあるのではなく、この現代社会を見て「腹が立つ」という私自身の感情にあるのかもしれません。

「アンガーマネジメント」という心理学講座が注目を浴びて久しいですが、確かに「怒り」という感情は、抱かないようにするほど人生も人間関係もうまくいくのは事実だと思います。
人間が経験するだいたいの失敗には「怒り」があります。
それを表には出さずとも腹の中で抱えていたり、その感情を無意識に抑圧するから変なことになってしまいます。

だから怒りは持たないに越したことはないのですが、普通の人間が社会生活を送りながらそこまで達観できるものなのか、私にはわかりません。
「怒りはない」と自分で思って感じたとしても、それが単に意識に登って来ないようにしているだけのパターンも多分にあるはずです。
そもそも喜怒哀楽は人間に本質的に備わっている心理機構ですから、いくら社会に生きる上で都合が悪くてもなかったことにできるとは思えません。

ただ、考え方としては確かに「怒り」が湧かないようにする方法はあると思います。
例えば、ある日家の前にたくさんゴミが捨てられていたら、「誰がやったのか」と腹立たしくなりますし、もしかして自分の嫌いなアイツがやったのでは、とまで考えます。
これはゴミが捨ててあった場所が「自分の家」だから腹が立ったと言えます。
仮に、このゴミが自分の家の前ではなく他人の家とか、自分の通う学校とかならそれほど怒りは湧かないでしょう。

つまり、「自分がされた」という被害意識によって怒りは湧いてきます。
全く知らない他人の家なら「お気の毒」と思いますし、学校の前なら「他の人も同じ目に合った」と考え怒りもだいぶ相殺されるはずです。
ゆえに怒りの本体は「自意識」に宿り、自我があるからこそ自分に対する不利益に反感を持ちます。

だから人間が怒りを覚えるのは、それに「自分が関わっている」という意識があるからです。
日本人なら、神社に落書きをしてはしゃいでいる外国人を見て憤る人は多いでしょうが、土地の水資源が一企業に握られて住民の飲み水がない国があっても、それほどの怒りは湧かないはずです。
つまり「自分に繋がりがある」と思えることほど、怒りという感情を持ちやすくなります。

これは「自分が所属する」だけでなく「自分が好きなもの」にも通用します。
去年起こったロサンゼルスの山火事に関して「裏の事情」ばかり私は気になっていたんですが、オーストラリアで大規模な森林火災が起こった時、私は火から逃げ惑うコアラを見て胸を痛めていました。
結局、人間は自分の見たいものだけに意識がフォーカスするようにできているので、「正義の怒り」なるものがどれほど絶対かなど疑わしいのです。

だから、日本の現状を憂いあまりに身勝手なことばかりする人たちに対して腹が立つのは、それだけ「日本」を自分のことのように思っているからです。
私が日々のニュースや誰かの言動を見て苛つかないために、この「自意識」を捨てれば良いのかもしれません。
ただそれでは、怒りを失くすために日本人としてのアイデンティティや愛国心を手放すべきなのか、という話になります。

これに関して、私の結論としては「怒りは捨てなくていいし、愛国心も捨てなくていい」と思います。

これからの日本に必要なのは、この国のために本気で怒ることのできる人々です。
しかしその怒りは、決して暴力や批判に向けてはいけません。
怒りは、発散したら消えてしまうものです。SNSを見ればわかるように怒りの感情が一時的に発散されてしまえば、また同じ怒りを同じ手口で発散すれば良く、それによって刹那的に溜飲を下げているだけで物事は決して改まらないのです。

だから本当に必要なのは、怒りを信念に変え実践のエネルギーにしていくことです。
怒りの力も世を変える原動力に変えてしまえば、決して負のエネルギーにはなりません。

無抵抗主義を平和主義と履き違え、非暴力を無抵抗と勘違いした日本人は、今自分たちが虐げられながら嘲笑われていることに気づいていません。
それに気づいた人々が正しく怒ることで、この迫害の時代を終わらせることができるのです。
そして、その志には「日本」という国家観がなくてはなりません。それによって、人々は団結することができるからです。

ただし常に怒りを抱え、目鯨を立てながら腐心して生きるべきではありません、
やはり、どうにもならないことはどうにもならず、なるようにしかならないことは実際たくさんあります。
だから大事なのは、自分の要領を遥かに超えた事象には立ち向かわないことだと思います。

例えば、政府や官庁が諸悪の根源だとして、そこがいくら政治活動をして良くならないのであればと、究極的手段が頭に過ぎる人も出てくるでしょう。
しかし、これまで人類の歴史において「テロリズム」が理想社会を作り出したことはありません。
真の問題は、この世界を作り出している人々の心にこそあり、人々の心を変えない限り形だけを変えようとしてもうまくいかないはずです。

ゆえに政治活動に腐心することではなく、自分がきちんと日々を生きながら正しい心で出来ることをやる以上のことはないのです。
国家の長官を変えるために動くよりも、地元で変な政治家に権力を与えないために票を投じることです。
その小さな積み重ねがなければ、どんな実践も理想も絵に描いた餅なのではないでしょうか。

「怒り」という感情は、表に出さなければ出さないほど良いのは確かだと思います。
しかしその感情を押し殺して不安定になるより、強い感情をバネにして正しい動機に変えていくことです。
その心理的昇華によって、怒りという強いエネルギーは静かに世を良くするために回り始めるのです。

私たちは、悪いイメージによって「悪いもの」を作り出してしまいますが、それが世にあるのはどこかで必要になったからです。
その「悪いもの」も、立場と機会が違えば「良いもの」になったりもします。
「怒り」もそういうものであり、まして今の日本のあり方もそうなのかもしれません。

今が酷く「悪い」と思えるこの国も、ある時を境に「あの頃があったから今がある」と言えるような、そんな日のためにあるのかもしれません。
この災いが立て直しのためであり、陰謀が悟りのためにあるとしたら、その負のエネルギーも正しいエネルギーに変えられるはずです。
おそらく私たちは、今それを試されているのです。

全てが神々のシナリオだとしても、慢心して問題から目を逸らしていれば良いものではなく、かと言って目鯨を立てて世を批判して回れば良いというものでもありません。
その難しい匙加減の中で、自分の感覚や感情を少しずつ実践に変えて世に働きかけていく、それが一番大切なのだと思います。

怒りを抑え、尚且つ怒りながら、正しく怒りを発散させて冷静沈着に生きていく。
その賢さこそが、人々に求められています。

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虚構の世界を抜け出して

楽太郎です。

一昨日の満月もすごいエネルギーの切り替わりでした。
私は「神世の気場と肉体レベルでの連結が起きている」と体感を述べましたが、この見方でほぼ間違いないと思います。
エーテル体の階層が一段上昇したことで憑依や霊障は遠のき、肉体のエネルギーが高まってきています。

ただ、あまり馴染みのない気の高まりなので、この血の気をどう抑え込んだら良いのか戸惑います。
多動的になりすぎて、一つのことに打ち込むには魂が荒ぶりすぎるのです。
その傾向はまだ許せるのですが、干渉が遠のいた憑依体はますます悪意と怒りを増大させながらアプローチしてくるのを感じます。
体感的な影響は減少しながら、闇の度合いが高まっていることで相剋状態にあるような気がします。

こういった憑依体の妨害を肌で感じるたびに、これまでの世界は「神に仇なす存在」が作り出した人間の時代だったことをつくづく痛感します。
この世界の中では、「お金とモノ・目に見えるステータス」があれば人々が靡くシステムだったので、人生として見れば単純でした。
特に自分自身を内省し確立しなくても、学歴と資格さえ持って組織の中でうまく立ち回れば豊かな暮らしができたからです。

オリジナルの個性を発揮せずとも、周りと同じ価値観と生活習慣さえ合わせられたら、深く考えずとも特に劣等感も違和感もなく生きてこられました。
ただ、それは「周りに流される」ことには変わりなく、周りが間違っていたら自分で方向転換することはできません。
そして、いつか間違いに気づいたところで周りの人々も同じように過ちを犯した姿を見て、安堵し傷ついた者同士で肩を寄せ合って生きることでしょう。

これまでの時代は大きな破綻もなく、それでも十分通用していたのです。
しかしこれからの時代、その考え方では致命的になり得るかもしれません。

先日のBloombergのトピックですが、生成AIの処理装置を製造するNVIDIAのファンCEOがEU向けに大きなプレゼンをしました。

NVIDIAのファン氏、A Iの処理速度は2年で10倍に

6月13日現在、ダウ平均は43000ドルで推移しています。
これはトランプ関税が紆余曲折を経てほぼなし崩しになりつつあるためで、市場にその安堵感が広まっており米国株が買い戻しされているからです。
トランプ大統領はSNSを通じてインサイダーめいた発言をしているため、その言葉をほぼ鵜呑みにして市場が動いています。
トランプ大統領も米国株が下がるのは不利益であると一応認識しているようで、そのため海外からの投資は引き留めておきたいのでしょう。

現在、S&P500の時価総額増加分の54%がマグニフィセント7の比率です。
つまり、今の米国株の時価総額の割高感は、ほぼハイテク分野で成り立っているのです。
その要であるNVIDIAは先のニュースで紹介したように飛ぶ鳥を落とす勢いに思えますが、このNVIDIAは生成AI以上に曲者で、長らく循環取引疑惑がある企業です。

循環取引とは、複数の企業などが互いに商品の転売や業務委託などの相互発注を繰り返して架空の売上高を計上することを言います。
日本人の感覚では商法違反になるのですが、不思議なことに米国において循環取引は違法ではないのです。

NVIDIAが主な取引相手とするのはGoogleのAlphabetやMicrosoft、Metaなどのハイテク企業です。
NVIDIAはこれらの企業にGPUを何十万個も販売し、AIのデータセンターに納品します。
取引先のハイテク企業はNVIDIAにサービスなどの名目で対価を支払いますが、どうやらここに粉飾決済の疑いがあります。

NVIDIAのGPUを購入した企業ほどキャッシュフローが伸びていないにも関わらず、設備投資費が爆増しておりどう考えても赤字産業の生成AI事業で減価償却が賄われているはずがないのです。
従って、GPUの購入額と同額の利益を互いに持ち回って、これらのハイテク企業の好況感が演出されている可能性が高いのです。

しかし、こんな世界的なユニコーン企業がグレーな取引でアメリカ株式市場を牽引しているなど、絶対に明らかになってはいけない案件です。
だからこそ「生成AI」が2027年にシンギュラリティを起こすとか、AGIが誕生してAI革命が起きるとか、これから情報処理が10倍になるとか最もらしい宣伝をしなくてはならないのです。

しかし、なぜ学術的に理論が確立されていない開発が現場の開発段階で成功するのか、そもそもシンギュラリティにおける電脳の「意識化」の定義が形而上学的に可能なのかとか、厳密に説明できる状態に未だ人類は到達していません。
しかも、AGIは生成AIとは全く異なる構造で成立するものであり、全世界のサイトをクローリングし知財を機械学習しただけで「思考している」と言い切るタイプのレトリックでは説明できないものです。
だから、生成AIを世界中の電力を使って回しても理論的に汎用AIにはならず、せいぜい正答率が50%を超えるくらいでしょう。

現在の米国株はマグニフィセント7が一本槍で支えている状態ですが、そのカラクリは水面下で循環取引疑惑やポンジスキームなどの危うさを伴っているのです。
実はこうでもしなければアメリカは信用を維持できない財政にあり、国家の崩壊を防ぐために手段は選べないのだと思います。

先日、米国30年債入札で220億ドルに達したという報道があり、高金利が外国人投資家に評価されたと受け取られています。
去年までは金利が高く国債価格が下がっていても米ドルが高くなっていたので、外国人投資家がキャリートレードをして米国債を買っても損失は出にくかったのです。
今年に入ってから国債が低値になり米ドル指数も下げ始めたため、米国債投資は二重の損失を招きやすくなりました。

そして、現在は米国株と米国債と米ドルが同時に買われることで三者が正の相関でなければバランスが取れなくなっているのです。
つまり、株、国債、ドルの相関関係において逃げ場がなくなっていることを示しており、言ってしまえば全面高でなければ株も国債もドルも全て下がるという局面に入っているのです。

先日、ベッセント財務長官が今年に償還期限を迎える米国債利払いに対し「債務不履行はあり得ない」と明言しましたが、こう言明しなければならないほどアメリカの財務状況は危機的な状態です。
今のアメリカの経済状態は、これらのニュースを読み解いても身の振り方を考えていられないことがわかり、本当に末期的な状態なのだと思います。

ダウ平均を歴史的な統計から解析して「抵抗線」と呼ばれる大暴落を予測する指標が、最近になってアナリストたちから「1930年大不況規模の抵抗線に触れた」と分析されていたりもします。
少なくともこの3年以内に1930年代にあった大不況がアメリカに訪れることは避けられないように思います。
その経済的ショックは、ただでさえ政治経済共にガタガタの世界経済にトドメを刺すことになるはずです。

こういう話をしたのは、日本がアメリカという国に追従する限り、世界恐慌に巻き込まれる危険度は高止まりし続けるということです。
現在の国内を見渡して、この危機を打ち破るようなきっかけは何一つとしてないように思えます。
石破政権があれだけ支持率を下げても代替する勢力は皆無であり、仮にあったとしてもどうやって変革するつもりなのかビジョンは全く見えません。

私たちは、このまま無抵抗の状態で衰退と混乱の時代をすんなり迎えてしまうように思います。
しかし、スピリチュアルを少し噛んだ人なら、これまでの話が全て「シナリオ」のように感じてしまう方もおられるのではないでしょうか。
高次元の存在が人々に働きかけ、「経済至上主義の時代は終わる」と口酸っぱく伝えてきたのは、この世界の大変革に備えるためだと思います。

「空想の話だ」と思っても構わないのですが、米不足と物価高、給料は上がらず人手不足、働く意欲は全体的に低く、漂う不況感と停滞した空気、これを切り返せるような状況証拠があるのでしょうか。
冷静に、私たちの身の回りにあった日用品のクオリティは下がり、便利なものはどんどん姿を消していき、美味しいものは高い上に店に並ばなくなりました。
私には、残念ながらこのまま沈むシナリオしか見えません。

かと言って、ここで暗い話がしたいわけではなく、これは「時代が刷新される」上での通過儀礼と考えれば良いと思います。
新しいものが生まれ育まれるには、古いものが枯れて朽ちていかなければなりません。
今はどこもビッチリ古いもので塗り固められていて、新しい雑草の一本でも生える隙間がありません。

その証拠に、人々は知っているものにしか興味はなく、昔からあるものにしかお金と時間を使いたがらなくなって久しいのです。
この空気感が壊れてくれないと、変化の風すら起きません。
アメリカ不況に始まる世界秩序の崩壊は、決して悪い意味の変化だけではないと思います。

アメリカの帝国支配が終わるとしたら、私たちが生活に何気なく使っているものも変わっていくということです。
スマホ、PC、オンラインサービス、エンタメ、決算システム。これらのインフラはアメリカという国家が仕切ってきたものです。
その企業が立ち行かなくなり、仮に手のひらを返すようなサービスを始めたら、それでも歯を食いしばりながら私たちはサブスクを払い続けるのでしょうか?

私は、生活に欠かせないとさえ思う「当たり前」を見直す時に来ているのではないかと思うのです。
「今は仕方ない」と思ってやることでも、仮に「良いことしかない」と思っていることでも、良くない流れに加担したり、悪の片棒を担いでしまうことはあるものです。
継続することで暗黙のうちにカルマを貯めることになるルーティンもあり、その習慣はいずれ手放さなくてはなりません。

私が今こうして記事を書くために使っているスマホも、アメリカという国が存立する上で都合良く設計されているものです。
シリコンバレーに拠点を置く企業が独自のアルゴリズムとポリシーで恣意的に運用し、使い勝手も稼ぐ手札も握られている端末を、私たちは「自由の象徴」として嬉々として使っています。
私はアメリカの製品を捨てようとか不買しようと言っているのではなく、徐々に代替する術を見つけ手に入れ、「なるべく離れていこう」という話をしています。

そして、これまで外国資本に流れていた経済を国内や信頼感の高いサービスに切り替える、そうすることで自ずとリスクヘッジは完了するはずです。
いずれ資本主義経済が完全に終わるならば、文明社会への依存度を減らし、経済とは独立した生活圏を構築するための道筋となるでしょう。

今当たり前にあるものが、どこまで残るのかわからない時代が来るのです。
「革新技術は正義」と、鳴物入りで登場したAIBOは代替部品の再生産ができず修理不能になり、ペッパー君はリース料と維持費の都合で大量に倉庫に眠ることになりました。
今ではハイテク機器よりも人間を安く使った方が使い回しが効くことに気づいたため、外国人を大量に移民させています。

文明は、私たちが思うよりも万能ではなかったのです。

これまでの世界は、物質的に豊かな時代だったからこそ「便利さ」が最高の美徳とされましたが、その安直な考えは世に腐敗と搾取を蔓延させ、人々は首も回らない状態に陥っています。
この状況から解放される唯一の手段が「手放し」であり、強制的に引き起こされる「ブレイクスルー」だと思います。

それは現代を生きる我々にとって悲劇そのものかもしれません。
しかし、その苦しみを乗り越えなければ世界は正常化し得ないくらいに歪んでしまったのも事実です。
その痛みは決して不幸ではなく、人々に救済を促すための福音たりうるのです。

私からしてみれば、人々が何となく浮かない顔でぼんやり平凡に過ぎる日々を送るより、一度痛みを味わって全身全霊で幸福を味わえる世の中になれば、今よりもずっと救われる人は多いと思います。
その考えは誰かにとってみれば邪道であり、忌むべきものかもしれません。
しかし、このままどう転んでも人類は破局に向かうでしょう。

真の悪徳とは何か、その悪徳の下で得る安寧とは何なのか、私はそれを考えれば決して今のままが良いとは言えないからこそ、変革の時こそ私たちにとってチャンスなのだと思います。

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始動、今後の方針について

楽太郎です。

今回は、進捗報告になります。
祓戸大神を題材にした漫画シリーズ「HARAEDO」の世界観がどんどん広がっていきます。

日本の神様をモチーフにしたイラストも今後描いていくつもりです。ただ漫画に関しても、ほぼ交互に進めていく感じになると思います。
引き続き制作したものは本ブログに掲載していく予定ですが、この「招神万来」はスピリチュアルなことや時々評論など際どい内容の記事もあるので、メディアとして扱うにはノイズが多すぎます。

以前から「自前のサイトで公開する」という計画はありましたし、徐々に進めてきました。
如何せん絵になかなか取り組めない状況が続き、ポートフォリオサイトを作るにしても「肝心の掲載する絵がない」という何とも言えない状態でした。
今でも神様のイラストは掲載するにはあまりに不足が多すぎて、二の足を踏んでいるのは否めません。

そこで、比較的進捗がある「HARAEDO」関連の作品に特化したサイトを先に作ろうと思いました。
先日、独自ドメインも取得してレンタルサーバーにCMSシステムのWordPressを構築し、とりあえず形だけは作ってあります。

ただ本当に作品数が少なくサイトを彩る素材も足りないので、新規でイラストを描き始めました。



とりあえず、サイト用のトップ絵とキャラクター紹介用の立ち絵を揃えようと思います。



瀬織津姫命の立ち絵に関しては、漫画設定を加味した新作にする予定です。
以前に同立ち絵を本ブログで掲載していますが、あれはかなり初期のテイストなのでリファインされます。
他の祓戸大神のデザインは設定含めて二転三転してきましたが、瀬織津姫様のテイストはわりと一貫している気がします。

これまでの登場人物(?)のラフをまとめると、これから5、6枚は新規立ち絵を描き下ろすことになり、しかもトップ絵も加わるので結構な作業量になります。
あと「HARAEDO」と「祓戸劇場」の新作も構想があるので、わりとこれから忙しくなりそうです。

私が全盛期の頃は1週間くらいで全体をまとめきれる作業感だったのですが、全く無理ができない身体になってしまいました。
従って、ボチボチやることになると思います。
他に色々とやるべきこともありますし、そもそもお金にはならないので最優先事項ではないです。

個人的に「HARAEDO」は集金できるコンテンツだと思うのですが、それに関しては神様は色をつけては下さらないみたいで、そういうところが「らしい」かなと感じたりもします。
とは言え、無名中の無名の作家として駆け出しなのは確かなので、コツコツ実績を上げていくしかありません。

SNSの運用に関しては、全く予定はありません。
自分なりのやり方でシェアを広げていくつもりですし、漫画や絵だけで考えずに柔軟にやっていこうと思います。
日本版ルノルマンカードの制作も進めていますし、他にもちょっと面白いことも考えています。それもボチボチ進めていこうと思っています。

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満月とアセンション

楽太郎です。

本日、6月11日は満月です。
ここ数日、自分のエネルギーがはっきり塗り変わるのを感じていて、この変化と憑依の影響も混ざり合いコントロールが難しい状況が続いていました。
ただ霊障を突き崩すようなフィジカルなエネルギーの湧出が、「血の気」と表現しても良いくらいの生命力となり行動が活性化しています。

どうやら、新しい次元に完成しつつある気場からエネルギーを降ろすには、肉体レベルでの次元上昇が行われる必要があったようです。
通常、肉体は三次元空間の縛りを受けていますが、身体を取り巻く霊体の層は少し上の階層にあります。
スピリチュアル用語で「エーテル体」「アストラル体」と呼ばれる魂のレイヤーに当てはまるのですが、この時期にエーテル体と神世の気場との接合が行われているようです。

私はここ数週間、下手すると何年か憑依と霊障に付き纏われてきたのですが、憑依による別エネルギーを分別できるくらいには客観視できるようになり、その邪気と精神的に距離を取ることで霊障から離脱しやすくなっていました。
しかし、やはり憑依を外すと自分の霊体にダメージが入ったこともわかり、ただ次々と憑依されるためエーテル体の修復が間に合わず、常に魂のレイヤーが損傷している状態が続いていました。
ただエーテル体が次元上昇することで、憑依体の影響範囲、憑依の波長範囲を切り抜けつつあり、それゆえ霊障もかなり収まってきたのです。

肉体が三次元にあるのは変わらないので、仮に殴られたら痛いのは同じなのですが、身体霊が神世に移行したことで憑依体、いわゆる生き霊や浮遊霊の類とは違う霊的空間に入ったのだと思います。
つまり、彼らの干渉範囲とは別の気場にあり、影響の及ぶ周波数帯から離れたため、肉体レベルでの影響が弱まってきたと言うことです。

この時期に「エーテル体の次元上昇」が起こるということは、私が6月21日を持って神世の気場が完成すると予見していた事象が現実味を帯びて来ました。
私自身、ここまで具体的に体感するとは思わなかったのですが、それがまさか霊障の緩和として現れてくるとは予想外でした。
実際、何年か前の体調感に戻ってきましたし、身体のエネルギーの流れが自然になった感じがします。

ここ数週間は、憑依の影響もあって過去のトラウマと長らく戦っていたのですが、憑依体は過去の記憶を思い出させることで人世への執着を促していたのだろうと思います。
この憑依体は悪魔とか悪霊とか一言で言えるような単純な存在ではなく、「これまで人の時代を作っていた者たちの霊」と呼べるものです。
善にも悪にも役割があり、彼らは「物質中心の世を作る」という正義を貫いてきた霊団であり、その手段として神仏や精神性を否定する世を作り上げて来たのです。

だから、霊的に覚醒をしてこれから精神性の高い時代を作っていく、神の声を聞いて働くことのできる人々の気場「精神界=神世」が完成すると、古い時代を形成してきた幽界的存在の居場所がなくなります。
それゆえ、ここ数ヶ月は特に覚醒と浄化を志す人々への妨害が絶えず、あらゆる形で強い干渉があったのは、新しい意識層が霊界に作られるのを阻止するためだったのでしょう。

人間不信、トラウマ、誘惑、チャンス、誤信、トラブル、事故、懐古、情け、裏切り、罪悪感、同調圧力。
誰にもある心の弱いところに付け入って、そこに気持ちが囚われるようでは目覚めや手放しは進みません。
これが「邪気」の働きであり、このトリックを自己反省の中で見破り、自ら手放しと浄化をした人だけが上昇していくことができたのです。

だから、少し気を休めると潜り込まれる危険があり、私はこの緊張感から全く落ち着くことができませんでした。
誰かに依存していたらその人自身が道を外れている可能性もあり、それゆえ疑心暗鬼に駆られながら唯一信じられる、信じなくてはならないのは神仏だけであり、私はその信仰心一つでここまでやって来ました。

私が誰よりも幸運だと思うのは、瀬織津姫命への格別の信仰心というか、恋慕に近い感情と謎の忠誠心があったことです。
この感性は誰にも共有しようのないもので、独特の観念であるがゆえに厳しい中を乗り越えて来れたのだと思います。

ただ、今こうして一瞬楽になったからと言って、これからも楽だという保証はありません。
夏至に神世の気場が完全に開かれれば、全く違う生き方を始める人々もいるはずです。
そこは前人未到というか、人類が足を踏み入れたことのない精神的領域であり、この先は何があってもおかしくないでしょう。

日月神示によれば、この領域に足を踏み入れた者を「神人」と呼び、「臣民」に対する「役員」という表現をしています。
「神人」とは、私がこのブログで当初から扱ってきた「現人神」のことであり、ついに生きながら神を目指す人々が誕生することになります。

人間が「神」になるということは、人間が目を塞ぎたくなることにも目を向け、感情に囚われず神の目で神の力を使うことを意味します。
それができる人間はおそらく一握り中の一握りで、それがあまりに過酷な試練であるからこそ、脱落することも容易にあるはずです。
「神人になることが目指せる時代になった」というだけで、実際に現人神が雨後の筍のように生えてくるわけではないと思います。
それはそれで、新しいハードルがまた生まれたということなのではないでしょうか。

この満月に至るまで、人々が妙な落ち着きを持ち始めているのを具に見ていました。
多くの人々が何かを「覚悟」したというか、安心感にも近い静謐が世にある気がします。
それはまるで判決を待つ被告のような、沈黙の中の静けさに近いような印象です。

おそらく、魂の次元では自分の将来が目覚めと神世にあることへの安堵感、反対にこれから修羅の道を歩むことになる未来への覚悟、その二つの感情が漂っているように思えてなりません。
やはり春分を機に、人々の深層意識はかなりの変化を迎えたのだろうと思います。
私は誰かを見て「この人は神世の人だ」とはっきりわかることはありませんが、それぞれの魂の選択は自分だけが深いところでわかるものではないでしょうか。

私自身も含め、誰が救い確定で誰の下に集まっていけば助かる、みたいなことは誰にもわかりません。
確かに波長の低い人はそのまま負のスパイラルに陥っていく可能性は高いですが、深層心理や魂のレベルはそう簡単にわかるものではないでしょう。
反対に、今キラキラした波長を放っている人がずっとそうであるとは限らないわけで、やはり安易に見分けられはしないはずです。

その因果を握っておられるのは今や神々であり、自分に疾しいことがあれば相応の結果が返って来ることは誰しも覚悟しなければならないでしょう。
これからカルマの精算が人々に求められるのであれば、その過去の行いを自分以外に知る存在があるとすれば、神々だけです。
ゆえに個々人にそれぞれ違う現象が降りかかる、そんな不確定な世界線に私たちは突入しています。

特に、今ある絶対的な権威や正義を司る者が、神々からどう見えているかなど人間には測りかねません。
だからこそ、人やモノや組織に依存せず、自分自身の力で生きていけるように神々はずっと促して来られたのです。
その不安と混乱の時代だからこそ、自分を信じ目に見えないものを信じ、神仏を信じ抜くことが求められているのです。

近いうちに記事に書こうと思いますが、そう遠くない将来、私たちが今当たり前に使っているモノがどんどん消えていくことになるでしょう。
その世界で人やモノや組織に依存していたら、おそらく心が持ちません。
そうなる前に、目覚める人から先に進むべきなのだと思います。

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祓戸劇場「どこの職場も同じ」

楽太郎です。

昨日、瀬織津姫様を題材にした漫画「HARAEDO」の2作目「傘神の禍い」を公開しました。
今日は、以前から登場人物(?)として考えていた、猿田彦大神をプチエピソードにしてみました。

以前、「祓戸大神のお仕事・後日談」として描いた一コマ漫画を「祓戸劇場」としてシリーズ化し、その第一話となります。



猿田彦大神は、「塩土翁命」と同一視されることもある神様です。
塩土翁命は山幸彦(火遠理命)を竜宮に導いた海の神様であり、高天原から降り立つ瓊瓊杵命(火遠理命の父)を高千穂に導いた猿田彦大神と役割を同じくしています。
ここら辺は日本神話の解釈として微妙なのですが、同じ「導きの神」としてニュアンスを重ねました。

猿田彦大神が祓戸社の元締であるのは、「饗土(くなど)の神=塞の神」としての災厄祓除の御働きが祓戸大神と同じ目的であると考えたためです。
「祓詞」「禊祓詞」では、祓戸大神は伊弉諾命を父に宮崎県のみそぎ池で誕生したとされます。
猿田彦大神も御親を伊弉諾命としており、神話的には祓戸大神であられる瀬織津姫命と兄弟である可能性もあるのですが、イメージ的に歳の差は否定できませんでした。

だから、漫画の設定の上では瀬織津姫と血縁関係はない訳ではないけど、家族ではないと言う扱いにしようと思いました。
まあ、家族でもこと仕事になるとシビアな関係になりがちですし、上司と部下と割り切ればどこもパサパサした空気になるので、そういうものではないでしょうか。

ちなみに、祓戸社の現場の仕切りは瀬織津姫に一任されている、という設定です。
上司は手を抜きがちで現場の部下が背負いがちなのは職場あるあるですが、猿田彦様のフォローをさせていただくと、重役の神様との接待で釣りをしなければならず、そこで鯛を釣って献上する約束をしていたし神様の送迎と会議と宴会の幹事とプレゼンの準備もしていたので本当に忙しかった、ということにしておきたい…と思います(汗)

【※追記】

猿田彦大神のキャラクターデザインを描いたので掲載します。

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お祓い漫画「傘神の禍い」

楽太郎です。

祓戸大神をモチーフにした漫画「HARAEDO」の二作目ができたので公開します。





梅雨前ということで、「置き傘」が大量に出る季節になりました。
日本はモノが豊かな国ですから、500円で買える傘を使い捨てても特に惜しくないでしょう。
しかし「モノには魂が宿る」とは昔からの日本人の考え方で、現代人とはだいぶ違います。
かつて皆が口にしていた「もったいない」が今、日本スゲーワードに使われているだけだとしたら、それこそ勿体ないと思います。

さて、こういうメッセージ性の強い作風は「ゲゲゲの鬼太郎」を彷彿とさせますが、実際にこういう話があるかもしれません(汗)

白龍のナギくんですが、以前のキャラデザでは爬虫類感があって絵面にすると生々しさがあるかな、と思ってました。
そこでデフォルメを入れてみたのですが、龍というよりピカチュウ寄りの何か感が出てしまいました。
ナギくんはボコボコにされるタイプの受難キャラなので、多少コミカルでないと痛々しくなりそうです。

通常ならこれくらいの作品は1日半あれば完成するのですが、連日憑依を解きながらチビチビ作業していたので1週間ほど掛かりました。
私は軽い憑依なら自分で祓えるので、しんどくはあるけど特に問題はないのですが、家庭菜園のレタスと観葉植物と生花が邪気を浴びてダメになってしまいました。
どうも植物は動物よりも邪気に当てられやすいみたいです。

「大祓詞」が延喜式に編纂された奈良時代以前は、霊障とか憑依をひっくるめて「禍事罪穢れ」として祓い清めをしていたわけですが、邪気がレタスの成長を妨げ味まで変えることがわかり、お祓いが豊作や国家安寧に結びつく理由がわかった気がします。
空気が悪いところで育ったレタスは、奇形だし味も苦くてこの世の野菜ではない感じがしました。

私の周りだけ世界観が違うのですが、この世界に多様性があるというより、私一人頭おかしくて皆まともであってくれた方が安心します。
この世界は人々が思うよりもオカルティックなのだとしたら、全ての事象について違う説明が可能であり、常識的に生きていたい人々にとっては認識論的ショックから心を守ることができるからです。

あと近況なのですが、個人的にカードリーディングを日常に取り入れて役立ててます。
最近、ルノルマンカードに興味を持って研究を進めています。

ルノルマンカードの絵柄は「希望のカード」という、ドイツで出版された双六ゲームができる36枚のトランプから始まります。
この絵柄は数秘とスートと暗号が元になって決められているのですが、この仕組みを応用して「日本版ルノルマンカード」を作れないか考えています。

今その準備をしている最中で、新しい趣味を見つけた感じがします。
「日本版ルノルマンカード」と言っても、最終的に完全にオリジナルな仕組みのカードになると思います。
カードのイラストは前々から仕事などで描いてみたいと思っていたので、自分の考えたリーディングに自分のイラストをつけられたらワクワクします。

あわよくば商品化などを考えています。これから楽しみです。

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新しい世界の「場」

楽太郎です。

来週から木星が蟹座に入るなど、星の巡り的にも強いスクエアを組み始めて物事の流れが変わる印象があります。
奇しくも6月11日の満月に向けて人々の集合意識が強固となり、同時に幽界の影響力も極大化しているように思えます。
これは夏至に向けて新しい気場が形成されつつあるためであり、この気場が完成するとそのエネルギーを人々が降ろして使えるようになります。

その気場を私は「神世」と呼んでいます。

これまで幽界と呼ばれていた5次元の霊界層は、ここ数年で大幅に縮退しました。
その空いた空間に新しい周波数帯の層が作られ、これまで霊界は人が肉体を離れなければ干渉できない世界でしたが、私たちの住む次元が1次元上昇したことで、生きながらにアクセスできる霊界として立ち現れてきます。

その周波数帯はかなり抽象的で、より根源的なエネルギーと相性の良い気場です。
従って、ある程度浄化された魂にとってはホームグラウンドのように闊達に立ち振る舞えることでしょう。
しかし純粋な精神の場なので、ノイズとなるような波長は弾き出されます。

現在の人間界にはノイズが多すぎるため、この雑念を取り払わなければ純度の高い周波数帯にアクセスすることはできません。
そのため、ここ数年は地球の次元上昇と共に人間界には気づきと浄化が促されてきたのです。

この計画を主導されてこられたのは、私の認識では日本の神々なのではないかと考えています。
ただ、日本の神々だから外国に干渉していないとかいう訳ではなく、日本の神々が外国では「天使」とか「宇宙人」とか、そう呼ばれながら働かれているような気がしてなりません。

都市伝説的に日本は「世界の雛形」という話がありますが、実際に我が国は世界でも類を見ない古い文明史を持つ土地にあり、精神文化として卓越した風土にありました。
日本の「大和」という精神は、グローバリズムや多様性などの小手先のレトリックに止まらない、「あなない(助け合い、和合)」の概念にあるからこそ、今の混迷を極める世界情勢にあって大きな役割を果たせるのです。

その精神の復活と、神々の働きは連動しているように思います。

完全に袋小路に入った文明社会から人々は救い出され、新たな歴史のフィールドに乗ることで人類は存亡の危機を免れるでしょう。
しかし、そのためには世界の構造そのものを変える必要があり、それは決して人間の自助努力でどうにかなるレベルにはありません。
それができるのが神々しか存在し得ないからこそ、今こうして霊界を巻き込んだ変革が起こっているのだと思います。

この新しい気場は、元は「幽界」と呼ばれる霊界の最下層の跡地に作られた訳ですが、そもそも幽界は元々あった次元ではなく、人間が霊界に上がる準備場として自分たちで作り上げた階層であったそうです。
つまり人間の思念、霊体が作り上げてきた世界であり、新しく作り替えられる際にはこの層が取り払われ、それが縮小すると同時に中にいた不浄霊が地上に流入してきました。

それがここ四半世紀に起こった世界的混乱の理由なのだと私は推測します。

特に世界を牛耳るアメリカが特筆して変調をきたしたのが9.11同時多発テロ以降であり、これが起きたのが2001年です。
そして、この頃から声高に叫ばれるようになったのが「グローバリズム」であり、このアメリカ主導の国際秩序に我が国が追従したことで、より日本は衰退への足を早めてしまいました。

これまでの世界を作り出してきた金融中心の文明社会は、18世紀フランス革命を機にロスチャイルド一族の影響下で発展してきました。
近代ヨーロッパの動乱を皮切りにアメリカ大陸に押し寄せた西洋人は、現地住民を殺戮し辺境に追いやり、プランテーションのためにアフリカ諸国から多数の奴隷を集めました。
この国は歴史の汚点を引きずり現在もなお有色人種への偏見が強く、その差別観は経済的な格差として如実に現れています。

この非人道的とも思える歴史を持つ国が、我が国日本が宿主としているアメリカであり、その関係に依存し続けたからこそ現在の日本がこの有様になっていると言っても過言ではありません。
そもそも日本人は縄文時代に大陸から渡ってきた渡来系民族と混血し、弥生時代以降も渡来文化を受け入れ多様性を伴い発展してきた民族ゆえ、民族浄化の歴史は確認できず、やはり諸外国とは異なる精神風土があるのです。

日本は神々との関係が深い国でありながら、幽界の干渉の強い国家の影響を受け入れたせいで、神々との繋がりをほぼ失ってしまいました。
かつて神の住まうとされた山々や土地が、不動産として外国人に売り払われ、ソーラーパネルで埋め尽くされ重金属汚染を引き起こし、日本人が代々守ってきた土地は尊厳を失っています。
これを数千年、「産土神」として人間に祀られてきた大地の神々が黙って見ているはずもなく、この状況を引っくるめての大変革が起ころうとしている気がしてなりません。

私は最近、憑依の規模が日に日に高まっているのを感じているのですが、その強度を推し量るとやはり終局が近いのだろうと思います。

アメリカ経済はトランプ大統領の暴走を抑え込むのに必死ですが、相互関税政策の推進を抑制している間はダウも高値で安定し、見せかけの繁栄を示すことで外貨を呼び込んでいます。
しかしトランプ関税発表以降、米国株と米国債は連動して上下するようになり、これまで「株価が上がれば国債は下り、国債が下がれば株価が上がる」という投融資の逃げ道がなくなってしまいました。
それゆえ、現在の米国債はベア(弱気)相場に突入しています。

アメリカへの投資が懸念を抱かれることにより、円キャリートレードなどでドルを買っていた外国人投資家がドルを売って他国通貨を買い戻すようになると、ドルも値下がりします。
そのため、アメリカ経済はドル安株安国債安のスパイラルに陥り、しかも金利の上昇はより国債価格を下げることになります。
それゆえ、トランプ大統領がFRBのパウエル議長に高圧的に利下げを要求しているのですが、これは高いところから水が流れている事象に物申しているだけに過ぎません。

従って、アメリカ経済は完全に奈落の底に落ちるシナリオに突入したと断言できるでしょう。
世界経済を牛耳るアメリカに追従する日本は、このままでは共に奈落の底に引き摺り込まれます。
残念なことに、この悪しき予定調和を打ち破れる人材は、まだ我が国には一人もいません。

金融経済の世界は、完全に幽界的存在の影響を受けています。

私はそれを、「人世」と呼んでいます。
これまで西側諸国の文明を支配してきた幽界的存在は「お金」という概念によって人類を支配してきた者たちであり、その思惑と人間の欲望は非常に相性の良いものでした。
このシステムが人々を支配し、人々の目的であり幸福の指標とし続ける限り、人間は本来の性質を発揮して自由に生きることはできません。

そして、このシステムが終わりを迎えつつある今、その背後には世界のバランスを元に戻そうとする神々の働きがあります。
そこには日本の神々だけでなく、どうやら各大陸の各地の産土神、人々が「精霊」と呼んでいた存在も活動しているように見えます。
そして、その主導的役割を演じているのが日本の神々であり、我が国の総氏神であられる天照大御神の御働きであります。

日本の神々がこの宇宙的大変革において重大な役割を果たしていることは、私たち「日本人」の使命も大きいということです。
奇しくも、近年はスピリチュアルブームがあり、若い人でも神社に関心を持つ人が増えました。
そして、世界でも突出して優れた精神文化を擁してきた私たち日本人は、この新生した気場に最もアクセスしやすい立場にあるのです。

今こそ、日本人はこの世界の疑惑に気づき、その仕組みから一歩離れて世界を俯瞰し、己の心と向き合う時です。
そこで自分の魂に目覚めた日本人は、新しい時代のエネルギーを手にして、新しい世界の礎を築き始めることが可能になるはずです。

これから「目覚め」を体験する人々は、覚醒の世界線をこれまでの人生で選んだ人たちです。
それゆえ、これから起こる出来事は自分のカルマの延長であり、その気づきと学びの中でより魂を磨ける人たちです。
神々はその人々を祝福し、これからの未来を応援することでしょう。
そして、次の世界はそうした人々が中心になることを、神々は望んでおられるのです。


今回は、当初に書こうと思っていた記事の内容とはどんどんズレていったため、何となくスキゾチックな文章になってしまいました。
とは言え、テーマとしては一貫しているので無意味な内容ではなかったと思います。

今、霊的な妨害が激しく体調を整えるだけでも大変ですが、神様からのお役目も別のところであったりして、なかなか絵が思うように描けません。
最近、面白いアイデアを思いついたので少しずつ進めています。若干ビックリされるのではないでしょうか。

続報にご期待下さい。

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僕が僕であるために

楽太郎です。

6月11日には満月、21日の夏至を控え、いよいよ神代の気場が整いつつあるのを実感します。
同時に人々の労働意欲が形骸化し、動機となるエネルギーの部分が空洞化して希薄になってきたように見えます。
そして気場の完成を阻止しようと、これまで以上に霊的な妨害が激しくなっています。

神代の分岐点から「邪気」は認識しづらくなっていたのですが、そのネガティブな波動は「憑依」という形で襲ってきます。
邪気は肌感覚に近い部分で影響を感じていたのですが、憑依はより内面的な影響をもたらしたりします。
突然悲しくなったり、何の根拠もなくイライラしたり、自分の通常の波長をしっかり認識していなければ、この影響を見極めることができません。

私が憑依の影響を最も強く受けるのは、睡眠中です。
人間はスピリチュアル的に言えば、睡眠中に「魂の里帰り」をすると言われています。
魂が高次元に一旦戻り、意識の調整を行っている間は肉体がガラ空きになることを意味しますが、そうである以上に意識が働いていなければ霊的な防御は弱まるでしょう。
つまり、魂との繋がりが最も薄くなった睡眠中を見計らって、悪鬼悪霊の類が身体を乗っとろうとして憑依しに来るのです。

だいぶ前からブログにも書いていたのですが、睡眠中に人間の「集合意識」に潜り込む夢を頻繁に見ていました。
その夢は、行ったことのない街や店舗、廃墟などをひたすら巡るという夢で、棚の商品の種類も鮮明に思い出せるほど具体的です。
そこには全く象徴性も過去の記憶との関連もなく、ひたすら別の世界の街並みを旅するだけの内容です。

この夢を見た次の日には、決まって身体が動かないほど痛く、全身の筋肉が硬直しています。
私はこれをずっと自律神経失調症とか、副腎疲労とか思って医学的な対処をしていたのですが、最近になってこれは霊障だと気づきました。

私が就寝中に憑依を受けている間、その憑依体とは霊的に繋がるために記憶やビジョンを共有していたのだと思います。
つまり、私に対して憑依してきた霊体とは人間の集合意識、つまり「人世」そのものだと言っていいと思うのですが、その奥にいるのは人世を作ってきた幽界の存在、人々の集合意識を支配してきた闇の存在です。

私がこうして寝込みを襲われるのも、新しい時代の創造を妨げるためであり、神代の実現を阻むためです。
現に異常な霊障を抱えるせいで、仕事はおろか日常生活すら支障をきたす状態にありました。
ただし、この憑依にも一つメリットはあって、毎日コツコツ憑依を取り除くたびに少しずつ霊力と霊的直感が向上するのです。

このブログを始めの方から読んでいただくとわかるのですが、最初の頃はスピリチュアリズムを聞き齧ったレベルで何となく書いていたのですが、どんどん具体性が上がり内容も実感を持つようになりました。
それは私が神代に上がるために自己浄化と探究を続けてきただけでなく、憑依と霊障を取り払いながら霊的覚醒を積み上げてきた軌跡とも言えるのです。

この半年間は特に、現実的には悩みの原因となるようなしがらみを積極的に手放し、むしろどんどん悩みや不安から解放されていくはずが、霊障による不調は逆に増えていきました。
憑依は魂のレベルでプレッシャーとなり、また神代に上がれないかもしれない不安や焦燥感も相まって、自分の意識の及ばないところに常に軸足を置いている感覚がありました。
そのため、何となく日常に空白感があるというか、現実に気持ちがない状態がずっと続いていたように思います。

この私の感覚や思想は、おそらく他のスピリチュアリストとは相容れない部分も多いと思います。
私自身、スピリチュアル業界や界隈の話題には全く関心がなく、あまり積極的に調べたいとも思いません。
スピリチュアリズムとは「実践」であり、直感を信じて生きる道そのものだと考えているからです。
だから、業界的な常識よりも知的好奇心とか、理論的な価値に重きを置いています。

ゆえに「自分はなんか違う」という感覚は常にありますし、「間違っている」と思われることも多分にあるのだろうとは感じています。
しかし、スピリチュアリズムとは「内的探究」そのものであり、自分の主観で全ての事柄が説明でき、その実践でより良く生きられるならばそれで良いと思います。
不安になることもままあるのですが、だからと言って納得がいかない概念や説明を腹に据えるのは難しく、だからこそ腹落ちすることが大切だと思っています。

あらゆるスピリチュアル的な議論において、批判の目を向けられるならば私も批判の応酬をしたくなる気持ちもないわけではないです。
ただ極論を言ってしまえば、人間風情がどう目覚めようと高次元の存在からはどう思われているかを完全に把握する術はありません。
つまり、私たちが何が正しい、間違っていると議論したところで、神様からすれば「全部違う」と思われている可能性もゼロではないのです。

だから、スピリチュアリズムにおいて客観的な真実性や証明というのはほぼ意味をなさないのではないか、と私は思います。
客観的に全てが法則的に説明可能ならば、それは「科学」です。科学は唯物史観であり、唯物主義はスピリチュアリズムの対極をなす存在です。
ゆえに、スピリチュアリズムの定義から考えれば、あえて主観的で独断専行でも問題がないのです。

私たちは、自分が勝たなければ正しいことにならない、と錯覚しがちです。

「僕が僕であるために」という尾崎豊の曲があります。
その中に「僕が僕であるために、勝ち続けなきゃならない」と歌詞にあります。
昔はこの曲を聴いて、世間の同調圧力に抗わなくては自分が飲み込まれ、自分らしく生きるためには力をつけなくてはならないと思い込んでいました。

ただ今考えれば、同調圧力と戦っている時点で圧力勢力と同じ価値観を共有しているわけで、つまり同じ穴のムジナだから争う必要があるのです。
「問題は同じレベルでは解決しない」とはアインシュタインの言葉ですが、問題意識のレベルを一段高くしてみるとあっさり解決の糸口が見えてしまう、というのはよくある話です。

私が思う「僕が僕であるために」一番大切なことは、「争わない」ということだと思います。
つまり、戦わなくては自分でいられないような状態から抜け、戦わなくても自分でいられる状態を作り出すことです。
戦っても戦わなくても、勝っても負けても自分でいられる方法を探すのがベストなのではないか、と私は思います。
そして、勝たなければ手に入らなかったものも、戦わなくても手に入る方法を探せばいいのです。

「戦わずして勝つ」とは孫子の兵法ですが、戦えば確実に何らかの損害は被るので、できる限り戦わないに越したことはありません。
それでも守るべきものや得る必要のあるものはあります。
それを近現代の人々は「無抵抗主義こそ平和主義」だと勘違いし、戦わない美学を祭り上げたせいで大事なものがどんどん奪われていきました。
ただ、戦うとは必ずしも相手を攻撃し傷つけるということではありません。

戦うとは、自分を貫くことであり自分を守るということです。
相手に対して正義を強制することではなく、正しさというロジックで論破することではなく、自分の信念を曲げないということです。

実は正しいか正しくないかは、時間と共に証明されることの方が多いのです。
20世紀初頭にラジウム水が身体に良いと販売されたり、他にもチクロという発癌性甘味料も建築資材のアスベストも、後の時代になるまでは誰も疑いなく使用していました。
それが「間違っている」と人々に啓蒙するには、時の巨大権力と全面対決しなければならなかったのです。

しかし今の巨悪が蔓延る時代、一つ一つのことに目鯨を立てて争っていたのでは埒が飽きません。
だからこそ、戦うよりも逃げる、戦わないという選択を取る方が自分を守れます。
そして自分だけは正しい方法を取り、自分以外の人がどれだけ間違っていたかは時間に証明させれば良いのです。

もし自分のやり方が本当に正しければ、最終的に自分が生き残るだけです。
その姿を見て、人々は何が正しかったのかを知ることができます。
それは正しさや運の良さ以上に、優秀さや先見の明を発揮することで、勝利で得られたものに近いものを最終的に手にすることができるはずです。

正義には強さではなく、優秀さを用いて事実を持って証明するべきです。
「良いもの」はどんどん広まっていき、やがて間違いや欠点を補って世の中を修正していきます。
それが本当にクレバーなら人々はそのやり方に憧れ、誰も傷つくことなく問題は解決します。

代替」こそが問題解決の唯一の方法であって、問題を根本的に無くそうとする発想は究極的にジェノサイドに行きつきます。
ナチスドイツのホロコースト、現代イスラエルのガザ侵攻、その根元に共存の意志はなく有か無かの二元論しかありません。
有か無かとは「勝つか負けるか」であり、そのレベルで考えているうちは平和など実現しません。

今の世界に必要なのは絶対正義ではなく世を良くする「良いアイデア」なのに、そこに思い至らないから争いが絶えないのです。

だから私は、人と論争することに価値があるとはあまり思いません。
人の意見にインスパイアされたことを自分で考えて勝手にそうすれば良いだけで、他人を凹ませなくてはならない道理は一つもありません。
ゆえに私は何を言おうと自由なはずですし、自由がゆえに攻撃はされるでしょうが、それに抗わないことが私が私である唯一の方法です。

ただ、間違っていると自分が気づくのも大切ですし、他人の意見を聞くべきではなく、世の中に何もしないというのも違います。
自分の目的や信念のためには、やむを得なければ論争や理論武装も手段として取るべきですし、戦いから逃げることが正解なのではないことは先ほど書いた通りです。
私たちはとりあえず自分を守るべきであり、自分を守るために力をつけないといけません。決して誰かを打ち倒すためではなく、逃げ道を作るためでもありません。

憑依と霊障の話から、だいぶテーマが大きくなってしまいました。
この霊的妨害も、これまでの物質文明を維持してきた古いエネルギーが新しい時代のエネルギーの前では壊れるしかなく、ゆえにこちらと拮抗するのも当然なのです。
私は「人世をぶっ壊してやろう」と思っているわけではないですが、この賞味期限の切れた世界が役割を終えない限りは新しい世界は来ないので、私からすれば致し方ないという印象です。

だから神様と共にあることを決めた人間としては、神様がそう願われるのだからと割り切って攻撃を受け切るしかないと思っています。
しかし、その対価として尋常ならざる霊的抵抗力を身につけつつあるため、悪いことばかりではないような気がします。
私が神様と一緒に作りたいのは戦いも争いも必要のない世界であり、その世界こそ「才能」が正義に変わって正しさを証明する時代です。

それこそが神代、弥栄の世であると思います。

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人の「神性」について

楽太郎です。

追加で販売開始した備蓄米が入手困難だそうです。
その件について家族とも話し合うのですが、私は米が今後食べられなくなる可能性が高いため、節米と代替食品への切り替えを家族に勧めています。
しかし、この危機感はなかなか説得しても理解してもらえず、何となく米は通常の価格に戻っていくだろう、という楽観的な考えを改めてもらうことができません。

両親は「お金さえあれば、米は食べ続けられる」と言います。

しかし現在の米不足の状況を鑑みても、買えるところがなければお金をいくら持っていても買うことができません。
実はそれが問題で、東日本大震災の時にはカップ麺を買うために雪の中を2時間も列に並びました。
買うためには売る側がいなければならないため、ものを売る側に売れるものがあるような状況でなければ、そもそも買うことはできません。

仮に米がこれ以上高騰して本当のお金持ちだけが米を買える状況であれば、一般市民はお金持ちが出す金額より高いお金を出さなくては米を買えなくなります。
お金持ちがようやく懐に入れられるような希少品を、一般人がどうやって手に入れるつもりなのでしょうか。

この構図をなぜか理解できないようで、どう説明しても「もしも」の話が通じず頭を悩ませています。
私が家族を引っ張っていかなくてはならないのは理解しているため、生命に関わることである以上、食糧難に自分も家族も巻き込まれないようにするのに骨が折れます。

「米がないなら小麦を食べればいいじゃない」とシリアルやパン食、パスタ類を考えている人がいますが、トランプ関税が発動すれば小麦が今の価格水準である保証はどこにもありません。
アメリカという国は日本人がどうなろうと知ったことではないので、遺伝子組み換えの小麦ですら平然と輸出しますし、その価格を操作して自国に都合の良い取引をし、日本人にどんな影響があるかなど考えてはくれないでしょう。

私たち日本人は、この国で生きていくにはどうしたらいいかを本気で考え直さなくてはならない時に来ています。
しかし、この危機感を抱いて動く人は今のところあまりいません。
むしろ、不安はあるけど何となく良くなっていくような気がするとか、そこまで変わらずにこの日常感がダラダラ続くと思っているのではないでしょうか。

この「何となく今の時代が続いていく感覚」は、私が自分を浄化するプロセスで体感した「邪気」の一種でした。
この感覚に包まれるとスピリチュアルなことはどうでも良くなり、物質中心の経済は何の変化もなく続き、人間も時代も変わることなく同じ日常の中にあり続けるのではないか、という錯覚に陥ります。

この感覚は魔法にかかったように現実認識が麻痺した状態となり、この国を取り巻く状況に良い兆候が何一つないのにも関わらず、薄っすら世の中が良くなっていくような気さえしてきます。
そして昔のようにショッピングモールは賑わい出し、物価上昇も収まってラーメンも普通に食べられる時代に戻る、そんな幻想を抱き始めます。

それが「錯覚」だとわかるのは、きちんとニュースを分析し、目で見える現実の社会を具に見るからこそ、「そんなことはあり得ない」と理解するのです。

この邪気は禍々しさや攻撃性がなく、むしろ生温かい優しさに包まれているからこそ、取り込まれた時に何となく安心感を覚えます。
その安堵に引き寄せられることによって、現実の問題を直視する動機を失い、疑問を抱くことや思考そのものを停止させてしまいます。

よく考えれば、この種の邪気は非常に巧妙だと思います。

邪気は本質的に人を不幸に引き摺り込むのが目的であり、結果的に陥れられるのなら痛みや苦しみを感じさせる必要がないのです。
そして、邪気の真の役割は人間の「覚醒を阻むこと」であり、人間がきちんと邪気を分別し、一直線に覚醒するだけなら邪気は存在する意味がなくなります。
「悟り」の対極にあるのが邪気であり、つまり地球上の全人類がお釈迦様のようなら世界に邪気は存在し得ないからこそ、その妨害が唯一の存在意義なのです。

私は最近、特に「憑依」について考える時、これまでの物質中心の社会、お金というシステムに支配された時代を牛耳ってきたのは「神に仇なす者たち」だと確信します。
それは悪魔とか単純なものではなく、神を退け幽界の影響力を隅々まで巡らせるような、巨大な悪意を持った存在です。

その悪意は、戦後の日本に蔓延りこの四半世紀で特に肥大化したように思います。
少なくとも20年前の日本人は、もっと素直に「才能」を評価し、他者との違いも寛容に受け止める自由な雰囲気がありました。
しかし、今の日本人は他人との違いが許せず、自分のルールに合わない者に容赦なく批判を浴びせるようになりました。
グローバリズムとか、多様性の時代とか言いますが、時代の雰囲気とは全く逆です。

あらゆるビジネスが「人を楽しませること」を基準としなくなり、いかに低コストで最大の利潤を産むかを重視し、結果が伴わないものは悉く価値がないと切り捨てます。
そうして人々に必要な物資もサービスも縮小していき、人を楽しませるという目的は形骸化していきました。
「人が楽しむ=評価=数字」であり、数字にならなければ人にとって価値はなく、その意味で奉仕精神は利益に反することになり、ビジネスの精神的側面は徐々に削られて行きました。
むしろ「おもてなし精神」は、企業による過剰なサービスの強制として横行しています。

この精神文化の衰退こそ、日本が経済において推進力を失った根本原因であり、この病理に至った理由こそ「拝金主義」という価値観にあったのではないでしょうか。
日本人は高度経済成長期以前からお金が好きな民族であったとは言え、わりと「日本人らしさ」の中で、豊かな発想を育てる風土がありました。
しかしこの四半世紀、その空気が薄れていったと感じるのは私だけでしょうか。

私が同世代の人々を見回して感じるのは、若い頃はもっと自由闊達で純粋な目で世の中を見て、違和感を情熱に変える力を持っていた印象が、今は消え失せてしまったように見えることです。
私も彼らも時代の軋轢の中で、真面目で優秀な人ほど潰され、自由にものを言う人ほど口を塞がれました。
高潔な人ほど権力に取り込まれ追従せざるを得なくなり、信念を貫く人ほど病んでいきました。

彼らが今どうしているかを見回すと、かつての面影を残した人はほとんどいません。
その姿を見ると、人間の良い部分ほど潰されていったようにも感じるのです。
彼らは才能豊かな人たちばかりでしたが、企業や社会のあり方では下手な利用のされ方に巻き込まれてしまったように思えてなりません。

「才能」とはおそらく人間に宿る神に最も近い性質で、その心こそ「神性」そのものです。
才能を発揮することや、愛に目覚めたり人生の悟りを得ることは、自らの神性による力です。

もしこの世界が神性を封じ込めることで成立していたとしたら、邪気が人々の目覚めを阻害する理由になり得ます。
唯物的な経済システムの中では、人間の心よりもロジックが通用した方が大衆をコントロールしやすいからです。

この世界を牛耳る存在が「神に仇なす者」であるならば、人々の覚醒の芽を摘み取り無知蒙昧な状態にしておくことは、自分たちの支配を行う上で最も理想的なはずです。
だからこそ元々神性の強い人々、素直で心ある優秀な人たちほど、これまでの世界では踏み躙られる存在であり続けたのではないでしょうか。

私もその一人と言うには烏滸がましいのですが、これまで息をするように人を陥れるタイプの輩とは戦ってきました。
だからこそ彼らの思考パターンはだいたい読めますし、読めるからこそ先んじて手を打つ方法も熟知しています。
ここまでタフになるには相当な生傷を受けましたが、こうでもしなければ自分を守って来れなかったでしょう。

今でも、神性とかけ離れた性質の人ほど階層構造をのし上がる社会であるのは変わりません。
しかし、その時代を終わらせるために私は神様を信じて行動しています。
そして時代は新しく切り替わりつつあり、これからは神性を大事にする人々の世界になっていくだろうと感じています。

現在の拝金主義的な経済システムは、目に見えて限界を迎えています。
その頂点にいるヒエラルキーの人々は、「金と権力」に特化してきた人々であるため、精神性やモラルに欠ける傾向にあります。
その所業は金と権力があったから見過ごされてきたようなもので、権威が崩れるような出来事があれば全てが明るみになるでしょう。

それを見て、人々は初めて気づくのだと思います。
自分たちが美しく飾り立てられた虚像を理想にしてきたことに。
そして、自分たちが人間本来の性質を蔑ろにして、神という存在に唾を吐いてきたことを。

「これからそれを思い知ることになる」と言えば、脅しのように聞こえてしまうでしょうか。
ただ、それはこれまで自分の心を守るためにずっと耐えてきた人々からすると、決して怖い話ではないと思います。
むしろ福音であり、これからはやっと自分らしく素直に生きられる時代になるというなら、救いになるはずです。

私は自分の過去だけでなく、自分らしく生きようとして踏み躙られ、心を病み生きることすら諦めようとした人々を思えば、どうしても時代を変えたくなるのです。
私なんかよりも才能も人格も優れた人はゴマンといましたが、世の中に抗えなかった人々もたくさん見てきました。
新しい時代はそういった人が純粋に認められ、誰もが自由に表現をできる世界にしたいのです。

私一人でもやる、という気持ちですが私の後ろには神様がいてくださると信じています。
未来を生きる子供たちには、その自由な空気の中でのびのびと成長して欲しい、そう願ってやみません。

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七難八苦を与えたまえ

楽太郎です。

「我に七難八苦を与えたまえ」という言葉を残したのは、戦国時代の山陰地方の武将、山中鹿之介(幸盛)です。

明治時代の教科書では、楠木正成と並び武士道の象徴とされた人物で、主君の尼子氏再興のために下野しても三度立ち上がり、毛利軍との熾烈な戦いに挑んで散っていきました。
この言葉は、仏教の経典「仁王経」に「七難即滅七福即生」とあり「困難とは幸福である」という意に基づきます。
山中鹿之介は、かねてより「自分が出会ったことのない困難によって自分を試したい」と語っていたそうです。

同じ言葉に、江戸時代の陽学者、熊沢蕃山が残した「憂き事の尚この上に積もれかし限りある身の力試さん」という和歌があります。
熊沢蕃山は備前岡山藩の改革を行いましたが、守旧派の反対に遭い退藩した後、幕政に対する批判を行いましたが、下総に幽閉されてしまいました。
この歌は、「困難がこれよりもっと降り掛かればいい、自分の限界を試してやる」という意味です。

困難は大抵の人が可能なら避けたいと思うものですし、仮に目の前に立ち現れても見て見ぬふりをして逃げ出す人もいます。
ただ困難とはきちんと向き合えば自分が成長するチャンスであり、克服する術を身につけるからこそ困難なことも困難ではなくなります。

最近、この期に及んで古い時代のエネルギーが行方を阻み、そういった圧力のような念を掻き分けながら進んでいる感覚がします。
新しい時代のエネルギーと拮抗している状態は、少なくとも11日の満月までは極大化するはずです。
この妨害は、以前のように人世に引き戻すエネルギーではなく、単に進行を阻むだけですが強力な逆風になっています。
今は相剋状態の最終段階であり、そのゴールはおそらく6月21日夏至、いよいよ神代の気場が完成する時を迎えます。

ここ数週間、私はずっと忘れていたような記憶が蘇っては、そこから沸き起こる感情と戦っていました。
これはこの時期特有の妨害のようにも感じられますが、ある見方をすれば「過去の自分との統合」であり、未練や罪悪感、後悔などの感情を乗り越えて新しい自分を確立するための試練とも考えられます。
この試練を乗り越えることで、過去の自分に感情的な区切りをつけ、新しい時代に合った新しい自分になれるのだと思います。

私の半生を振り返ると、人がしなくていいような苦労ばかりをあえてしに行ったようにすら思えます。
10代の頃は本の虫で、イーゼルより重いものを持ったことがないような内気な美術学生でした。
それが20代になって音楽を志し、同時にショーイベントにも携わり、人と殴り合うことも厭わないような体育会系に変貌し、全く逆方向の人生を歩み始めました。
なぜそこまで自分を壊して違う自分を探し続けたのか、今でも理由はわかりません。

この経験が自分に必要だったのかを今でも考えるのですが、もし自分がずっと10代の頃から絵を描き続けていたら、それはそれで今の自分にはなっていなかったでしょう。
あの頃のように草花に心通わすような繊細な心を持ち続けていたら、ある意味ここまでタフにはなっていないでしょうし、社会的な成功を手に入れていたら守りに入るような人間になっていたかもしれません。

そう考える時、大事なのは今の自分を肯定できるかどうかであり、仮に今の自分に認める要素がないくらい落ちぶれたと思っていたら、過去を思い出して自分の人生を後悔するだけだったはずです。
今でも落ちぶれてないわけではないのですが、こんな自分でも自分の知識や経験、実力やセンスに自信があるからこそ、これだけ冷静でいられるのかもしれません。
それは私が常に向こう見ずに行動してきたからですが、その経験が今頃になって自分の身になっていたことに気づくのです。

人は努力を嫌いますし、困難とは出会わないに越したことはないと考えます。

それは人間としての本質に近いと思うのですが、ただ人間は問題に直面し、それを乗り越えることで成長していく存在です。
人間の人格はそうやって磨かれていくものであり、成長できる課題から逃げ回っていたら、いつまで経っても考え方は幼いままです。
どんなに高齢でも「我良し」の人はいますし、歳を取っているから大人なわけではありません。

近年は、努力や勉強をせず成功を納めるほどクールだという風潮が広がったため、困難に前向きな考え方はものすごく嫌われます。
それゆえか、人生をとっくに折り返したはずの年齢の人でも、若気の至りが抜けてないような浮ついた感覚を変えない人もいます。
それは個性で構わないとは思いますが、人間として成長が止まるということは、自分の身の丈より大きな問題とぶち当たる機会がないということであり、挑戦も気づきも進歩も存在しないことになります。

霊界から見れば、この世は「刑務所」だと言う人がいます。

確かに、肉体を持ち生まれつき条件づけられた環境の中で、何一つ思い通りにいかない人生は何かの罰のようにも感じます。
私たちは肉体という「檻」の中にあり、自由はその檻の中にしかないわけです。
人間は魂の修行をするために生まれてくると言われますが、その艱難辛苦も刑期だと思えば納得が行きます。

しかし、私たち人間は神々から「分身霊(わけみたま)」を受け取った神の一柱です。
魂としては神に近い完全な形でありながら人間として生まれ落ちたことで、本来の魂の状態に「曇り」を受けてしまいます。
男に生まれたら魂の女性的な部分は眠り、女に生まれたら男性性は眠り、その人生で求めるべきものと対極の性質で生まれるとしたら、その魂の制約は心のシコリとして残ります。

そういった条件づけと現実社会の軋轢の中で、生まれる前には完全な輝きを放っていた魂も、どんどん曇っていきます。
あるいは、過去世を何度か経験しても取れないような曇りがあり、その汚れを拭い去るために何度も転生してきたのかもしれません。

そういった「魂の曇り」は、やはり自分自身の内面を磨くことで浄化され、本来の輝きを取り戻していくものなのではないでしょうか。
その曇りは、綺麗な布で拭く程度では磨かれず、研磨剤をかけてヤスリでゴシゴシ削らなければ磨かれないからこそ、人生には困難が付きまとうのかもしれません。
ゆえに、人生が思い通りに行かないのは魂を磨くチャンスであり、きちんと魂を磨こうとすれば人間として卓越していくことができます。
それが過去世からの「カルマ」の解消であり、そのために輪廻転生が起こっていると考えて差し支えないでしょう。

しかし、こういった宗教観は現代ではほぼ通用しませんし、よしんば何の苦労もなく死ぬまで悠々自適に暮らせるのが理想だと人々は思います。
それができるのは「力」と「お金」であり、それを手に入れてからが人生とすら考えています。
それならば、どんなに汚い手を使ってもお金を手に入れられたら良いでしょうし、どんな手段を使っても強力なコネを作ろうとなります。

そう言う人は、実際に世の中にたくさんいます。
ただ、そういう人が人格者に見えるかというと、そうではないでしょう。
やはり、人生の課題と向き合ってきた人の感覚や考え方は俯瞰的ですし、実感も伴っています。
人はそういう人に信頼を感じるもので、わりと肩書きで靡きがちな人でもいずれ気がつくのです。

こういった人生の課題に前向きに挑んできた人は、未来の不確実性に対しても前向きです。
だからこそ新しいことに挑戦して学び、さらに実績を積み上げていけるのだと思います。
これこそが人生の王道であり、この生き方なくして成長はありえません。

「我に七難八苦を与えたまえ」という言葉は、自分の実力を試すチャンスが得られることで、自分が成長する喜びを手にすることができる、という意味なのではないでしょうか。
ゆえに「困難を迎える」ことそのものが恵みであり、その恵みが「幸福」への道となるのです。
神から与えられし試練は、神様から捨て置かれるような人にはやって来ないでしょうし、成長と救済の手が差し伸べられるからこそ課題が与えられるとも考えられます。

神仏に祈る際にはただ願いごとを言えばいいものではなく、何かの課題に対する意志を表明し実際にそれに取り組むからこそ、それでは神様が願いを聞いてやろう、となるのです。
冒頭の山中鹿之介は、滅亡した尼子氏を再興したいという不屈の意志を持ち、その願いを成就させるためならどんな困難でも乗り越えてみせる、という誓いを神様に掛けていたのだと思います。

それほど強い願いだからこそ何度失敗してもお家再興のために立ち上がったのであり、現代人である私たちでも尚、その勇姿を知り憧れの眼差しを向けるのです。
それは実際に願いが叶ったかどうかではなく、生き様として人々に示唆を与えるからこそ、私たちの胸にこの言葉が響いて来ます。

私も人にはないような経験をたくさんしましたし、言ってみれば苦労人には変わりないのですが、だからこそ今さら大きな困難が来てもそれほど動じないかもしれません。
こう言えるのも自信の一つであり、経験が財産になっていると思います。

見た目としては誇れなくても、その真の価値は目に見えないところに現れる、そういうところで「困難」に対する不屈の精神は、私にとって一番の才能なのかもしれません。

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人は神様と共に

楽太郎です。

昨日は一日中雨が降っていたせいで、近所の川が増水していました。
いつもはキラキラして流れている透明な川面は、茶色く淀んで強い流れとなっていました。
この河川はきちんと護岸工事がされているので、これまでも氾濫することはありませんでした。
しかし、昭和以前の時代なら水害に見舞われたことは度々あったかもしれません。

いつもは澄んだ川が増水するとまるで別の様相となってしまう姿は、かつて河川が「龍」に例えられたのもわかる気がします。
普段は生活用水に使い遊び場にもなる川辺が、ある時には住民に牙を剥くとしたら、恐怖そのものです。
ゆえに、自然の恵みとして川の神に感謝する一方、水害にならないために神を鎮め祀るのも納得できます。

各地方に自治体や藩が置かれ、かつては豪族が地方を治めていましたが、それ以前では村や集落の及ぶ範囲で何キロ、数十キロに及ぶ河川の治水工事をすることは困難だったはずです。
川辺は生活や農耕に適した環境でありながら、雨などが降ると氾濫し、村を飲み込んだことも度々あったでしょう。

素戔嗚命の八岐大蛇退治は治水事業に準える説もありますが、少数で護岸工事を行うには人手が足りず、大規模に事業を行うなら資金や資材も必要になったはずです。
村や集落のレベルでは実現は難しく、地方を取りまとめる権力者に陳情し、協力を仰ぐことで治水事業は完了し後世に残る功績となったのでしょう。

それでも、場所によっては治水工事が進まず、近代になるまで手付かずの忌み地も確かに存在しました。
そういう場所ではやはり水神をお祀りして、荒魂を鎮めるような祭祀が行われたはずです。
ただ近代になって土木機械が普及すると、人間の力だけでどこでも計画通りに工事をすることが可能になったので、改めて水神をお祀りし鎮魂する必要もなくなったのだと思います。

人間は自然環境を自分たちで意のままに操れるようになったからこそ、天候や防災などを神仏に願い頼ることをしなくなりました。
同時に自然の恵みに関しても、水道などのインフラが整備されたことで「あるのが当たり前」になり、特に生活の利潤に感謝することもなくなりました。

人間は、自分たちが豊かで安全ならば神仏はなくても良い、と考えがちなのだと思います。

私たちが神社仏閣に行く時、願うのは合格祈願や縁結び、金運招福などで、ほぼ自分たちのことだけです。
人として幸福であるためには、社会や人からお金や権力という恵みを受け取ることになるため、神仏に対して願うのは対人関係になりがちです。
それは善し悪しではないのでしょうが、人間の現金さを神様たちはどうご覧になられているのでしょうか。

私の感じる神様という存在は、目に見えないですが実に理性的で愛情深く、とても献身的です。
本当に人間のことを考えて行動して下さる一方、きちんとお祀りして欲しいと願っておられる気がしてなりません。
神様のお心はなかなか人間には察するのは難しいのですが、神様はやはり神社仏閣で丁重に祭祀されることを望んでおられるように思います。

だから、神社の権利を外国人に売却したり、無人だからと社殿を取り壊してソーラーパネルを建てたり、法人の運営のために営利事業に躍起になったり、そういった神仏を軽視する事態を危惧されているように思えてなりません。
確かに現代は神社の運営も厳しく、人手不足も相まって維持管理が難しいのは事実ですが、現実面だけでなく神様のことを第一に慮る気持ちが大切なのではないでしょうか。

現代の私たちにとって古びた小さな社に見えたとしても、ご先祖様たちが願いをかけて大切に守ってきた遺産であり、神様との約束があったからこそ鎮座されている聖域です。
何も知らなければ古びた無用な土地にしか見えずとも、何百年という時を越えてご先祖様を見守ってきた神様がおられる場所を、私たちが当然のように軽視して良いとは思えません。

今こそ、神々と人間とのあるべき関係を見直して見るべき時ではないでしょうか。
奇しくも、地球は次元上昇をして星の巡りは「風の時代」に突入し、物質文明は終わり精神文化の時代に移り変わっていきます。
人間が本来あるべき心持ちに戻る時、神々は私たちのすぐ身近な存在になることも必然であるような気がします。

私は近所の川面を眺める時、瀬織津姫様のことをよく考えます。
将来、清らかな川の近くに瀬織津姫様の神社を建立することが私の夢です。
それだけでなく、街によくある川と呼べないようなドブ川を再び綺麗な清流に戻せないかと考えています。

それは果てしなく困難な道のりで、正直どうやっていいのかわからないレベルです。
しかし、何十年かかろうとそれを成し遂げた時、瀬織津姫様はとても喜んで下さる気がしてなりません。

「瀬織津姫命」という御神格は、古代において河川が「饗土(くなど)」と呼ばれる境界であり、塞の神としての意味合いから転じて魔を祓い罪穢れを清める存在とされてきました。
しかし河川は山の合間を縫って流れるものであり、山から豊穣の神が田畑に降りてきて収穫を終えると山へ帰り、翌春に再来すると古代の人々は考えました。
その神をお迎えする神事を「サオリ」、山の神を迎える女性たちを「早乙女」と呼びました。

全国にお祀りされる「大山祇神」という山神は、女性であると考えられている土地が多いそうです。
「瀬織津」という言葉は、語源的に「瀬に降る」だと思います。
何が川に降りるかと言えば、「サ=稲」の神ではないでしょうか。

山から降りてくる豊穣の女神は、山から流れる川に沿って田畑にやって来ます。ゆえに瀬織津姫命は「沙織津姫」であり、「サ(稲霊)の神」とも考えられます。
瀬織津姫様は私たちが思っているよりも異なる役割を持ち、想像だにしていない働きをされてきた神様なのかもしれません。

神道は日本政府の神社本庁がほぼ取り仕切っていますが、国家神道と本来の自然発生的な神道は似て非なるものだと私は思います。
日本人は太陽信仰よりも山岳信仰や磐座信仰の方が歴史が古く、それゆえ自然神や「サ神」との関係はもっと根が深く広範囲に渡っていたのではないでしょうか。

そこでヤマト王権は「倭国」を統一するための宗教政策を各地に普及させていきました。
飛鳥時代、大和王朝は国家神道を制定するために、全国に広がる「サ神信仰」を封じる必要があったと考えられます。
それにより、天照大御神を女神とするならば瀬織津姫命は権威が大きく、サ神の男性格である猿田彦大神や大物主、大山祇神などの由緒を変える必要があったのではないでしょうか。

実際に、「瀬織津姫命」が祓戸神以外で主祭神とされる神社は、六甲山を除けば九州南部か東海以北に限られています。
神社にお祀りされている御神格は、わりと人間の都合で左右されていることが多く、古くは記紀編纂時の宗教改革や神仏分離政策の影響をもろに受けています。
そういう政治上のゴタゴタを見直すのも、神様と人間の関係を考える上で外すことはできないかもしれません。

私は、神々と人間との関係がより自然な形に戻るような活動をしていきたいと思います。
そのための試みは多少斬新に見えるかもしれませんが、それが神様からのお役目だと考えています。

人間は物質中心の時代が長く続いたせいで、神様の話をすると怪訝な顔をする人が多いのですが、その感性の方が歴史的にはイレギュラーなのです。
そういった誤解を解きながら、八百万の神々と共にあった日本人との新しい関係も模索していきたい、私はそう思っています。

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「日常」にサヨナラを

楽太郎です。

昔のキャリアが掘り起こされ、チャンスが到来してた件について、綺麗さっぱり清算しました。
今回の件で感じたのは、私が以前いた業界や使っていたサービスに何の思い入れも残っていないことです。
あれほどトップに登り詰めようと必死だったのに、今では別人のように感じます。

この心境の変化は喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか自分でもわかりません。
そして、当時使っていたサービスをアカウントごと消して二度と使わないことにしました。
そう決めたのは、この判断に後悔することはないだろうと思えたからです。

これまでの世界はもう続かないだろう、という感覚が確信に変わってきました。

私の地元も大型ショッピングセンターが潰れて、皆誰もがどこで買い物しているのか不思議になります。
少し離れたところにスーパーがあるだけで、街として機能しておらず、この不便さは田舎と大して変わりません。
10年前にはこういう地域になるとは想像していませんでしたし、残念ながらあまり長居できる土地ではないと常々感じます。

この形容しがたい不況感、息詰まる街の雰囲気、日本語ではない元気な声。
この状況をどうするつもりなのか誰もが答えを出せず、考えないようにしてスマホやTVの画面を見つめているように思えます。
とは言え政治に名乗りを上げる人物は何となくきな臭く、解決の道筋も見えないまま世の中が勝手に変わってくれることを願っている、そんな印象を受けます。

人は誰しも、「自分なんかには何もできない」と思います。

かく言う私もそうで、こんなブログを書いたり漫画を描いたくらいで何かした気になる方が烏滸がましいのです。
何一つ世を変えることはできなくても、これからの混沌の時代を生き抜いていけるために、自分をしっかり立て直してよしんば周りの人を励まし、自分の身の回りだけは健全な空間を作って生きて行こうと思います。

どうせ自分なんかとか皆そうだからとか、そう諦めて何も考えず何もしなければ、いずれ罪を犯しても言い訳をし、自分が同じ目に遭わされても何も言えないような環境に身を置くことになるでしょう。
そこまでして生きていたくないと思うならば、ますます生きてはいけないはずです。
周りがどうあれ自分が生きたいと願うなら、この世界に向き合わなくてはいけない時が来ました。

世はIT全盛の時代、これからは「風の時代」だからとSNSでうまく人間関係を構築し、バズってお金儲けできれば将来は何とかなる、と思っている人で溢れています。
生成AIがあれば自分に技術や知識がなくてもアイデア一つで成り上がれ、自分のセンスとタイミングさえ合えばチャンスは転がっている、と。
しかし、そんな考えは小学生から年配まで誰もが思いつき、誰もが実現できるレベルのことでどうやって成功するつもりなのでしょうか?

人々はビジネスを展開するにはSNSを利用しますが、そのサービスに広告費を出す企業はホワイトな組織ばかりではありません。
ユーザーもどこまで一般人かわからず、相手がBOTか外国の工作員、あるいは反社の可能性もあります。
SNSの運営会社は利益追求のためにディープフェイクや権利侵害やサイバー犯罪を取り締まるつもりはなく、大人でも安心して使えないようなアプリをどうして真っ当な活動に使えるのでしょうか。

そういったどこの馬の骨かわからないユーザーが、インプレ収益欲しさに運営サービスに登録し、何であれ話題になりさえすればお金が入る仕組みのどこに誠実さがあるのか疑問です。

私が活動する上でSNS、特にXを使わないのは、ビジネスをする上で「Xで私をフォローして下さい」と言うと「Xを何の疑問もなくビジネスに使う」と思われたくないのもあります。
現在の旧Twitterは正直言って「魔窟」としか言いようがありません。あの環境では純粋に交流するのも難しく、ユーザー登録を促すのもどうかと思います。
ビジネスにおいてブランディングは重要ですし、信用が大事だからこそ、安易にSNSを広めるリスクを考えざるを得ません。

今のデジタル全盛の時代を担うマグニフィセント7、Apple、Google、Microsoft、イーロン・マスク。
スマートフォンやタブレット、PCを支配する企業は、端末とプラットフォームを支配する限り、経済や市場の主導権はアメリカという国家に握られています。

アメリカはご存知の通り、国家破綻寸前の状態にあり、その巨体を維持するために全世界からお金を引っ張ってくるのに必死です。
現在のアメリカの株式と国債を何とか維持しているのは、マグニフィセント7が時価総額バブルを蒸しているからです。

アメリカが著作権侵害やディープフェイクなどの人権侵害、フェイクニュースを氾濫させる生成AIを全面推しする点について、デジタルデバイスがどれだけ悪用され治安や文化を混乱に陥れても自分たちの責任ではないと言い逃れでき、多少の社会的犠牲は国家存続と利益追求のためなら致し方ないと思っていても不思議ではありません。
アメリカが日本の不動産バブルを潰して経済発展を終わらせたように、アメリカからすれば日本は異民族の住む国外の属州に過ぎません。

私たち日本人がアメリカという国家の支配から自立しよう、とするのは想像以上に困難なことでしょう。
私たちの生活はもはや国際化し、海外からの輸入品や製品がなくては日常は成り立ちません。
アメリカや諸外国のサービスを優先的に使わないという選択もできますが、日本国内のサービスが劣化し、そのサービス網から一手も二手も抜きん出ている外資系企業のサービスは圧倒的すぎるのです。

日本の小売で手に入らない商品をほぼ全網羅するAmazonのサブスクに入会すれば、楽天市場では小売ごとにかかる送料が一括無料になり、また豊富なエンターテイメントを見放題にできます。
その便利さは類を見ませんが、実際にAmazonを使えば使うほど国内の実店舗のモノは売れなくなります。
郊外型大型ショッピングセンターのAEONが地方の商店街を壊滅させたように、巨大資本は産業の多様性に一石を投じる存在であり続けます。

もしこの先、これ以上経済や国際状況が悪化すれば、今こうして日常的に使っているサービスは今の感覚で使えるのか?という点が、私は気掛かりです。

私の地元のスーパーも、数店舗の運営企業が撤退を決めただけで地域住民は買い物すら困難になります。
近年、画像処理ソフトを展開するAdobeがAI実装を期にサブスクを高額化しましたが、その価格帯ではビジネスに支障が出るイラストレーターが続出し、業界が騒然としました。

どんなインフラであろうと、提供するのは企業であり運営は営利目的です。
どれほど綺麗な事業理念であっても、どれだけ地元の経済に貢献していても、儲からなくなれば潰れますし、企業が買収されたら終わりです。
なおのこと寡占企業であり、人々の依存度が高ければ高いほど手の平を返した時は危険なのではないか、と思ってしまいます。

私は最近、寂れていく地元の街を眺めながら、何だかんだ思い出のあるこの土地に愛着があったことに気づきました。
それでも何十年か見てきた中での変わり様と衰退感を思うと、何とかならなかったのかと感じざるを得ません。
その変化はどうにもならないことを頭で理解しながら、「日常」というものは当たり前に訪れるものではないことを痛感するのです。

この街が様変わりしたのも、少子化や長引く不況だけでなく東日本大震災があり、地方を離れた人々がたくさんいたからです。
建物は老朽化しインフラの維持が難しくなり、復旧するにもお金の巡りも健全とは言えませんでした。
そんな中でコロナの流行があり、観光地も商業も大打撃を受けたまま、元に戻ることはありません。

今あるサービスがこれからも永劫あるはずがないのは当然ですが、それは今を生きるからこそ繁栄が続くと錯覚します。
今当たり前にあるものは、「正しいから」今の世の中に溢れているわけではありません。
多少グレーでも、線引きされないラインで収益を上げているから市民権を得られるのです。

かつてCMをバンバン打っていた消費者金融や宝石ビジネスも人材派遣業も、問題はありながらも人々に受け入れられ、それでも黒い部分は黒かったから問題化しました。
後の時代だから「あれはダメだった」と言えるようなことは、時代の空気の中では誰しも口にはできないものです。

私たちが今の時代を変えたいと思い、実際に変えようとするなら今ある日常を自分で手放す勇気を持たなければなりません。
「動物愛護を徹底せよ」と言っておきながら、片手にシシケバブを持って活動することはできません、
そういうところをしっかりしていなければ、何をやっても片手落ちになってしまうでしょう。

私は、これからの活動をしていく上で、多少不利になるとはわかっていながら手段は選ばなければいけないと改めて思います。
人間としてどうあるべきかを問いながら、自分だけはと甘い行動を取ることはできません。
流れは変えられないにせよ、自分がエネルギーやお金を循環させる対象くらいは、きちっと弁えたいと思います。

これからの世を作っていくのは茨の道だと痛いほど感じるのですが、そうでもしなければ人々が黙って泣き寝入りするだけの国になってしまうでしょう。
正直なところ大人はどうにもならないと思います。ただ今の若者世代や子供たち、まだ見ぬ未来の子々孫々のためには何かを成し遂げなければならないと感じます。

日本に愛着があるからこそ、目の前で土地が踏み荒らされていくことが耐えられません。
私一人だけでもと、日々思いを募らせています。

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自由を捨てよ

楽太郎です。

最近、あれだけ世の騒々しさが春先からパタリと止み、天災も人災も目立った現象が目につかなくなりました。
何となく、不気味な平和というか嵐の前の静けさのように感じていたのですが、よく考えると春分を境に世界線の分岐が確定し、神々の選別もある程度完了したからだと思います。
つまり、これまでの出来事は神々が人間に気づきを与えるため、考えを改めさせるために起こしていた現象だからこそ、目覚めた人と目覚めなかった人を選り分ける必要がなくなり、それゆえ「気づき」を今さら促す必要がなくなったからではないでしょうか。

おそらく、その覚醒の度合いで今後起こることは違ってくるのでしょうが、エネルギー的には路線が確定したため後は具現化していくだけのフェーズに入ったのだと思います。
この期に及んで争いを好む人は争いだらけの日常を送ることになり、愛や優しさを配って生きることを選んだ人には温かい日常が待っているのだと思います。

世界にいる人々が、日本人全員が同時に経験するような大きな出来事が起こるとしても、人それぞれの心の持ち方一つで身に降りかかる現象や見え方は異なるはずです。
誰しもが恐れるようなことすら、神や魂の声を聞くからこそ意味を理解し、恐れを捨て前向きに生きていける人もいるでしょう。
そういう人たちに神々の加護はついて回り、祝福を得られた人々が次第に報われるようになるに違いありません。

これは決して「神々が選んだ」わけではなく、全ての人々に気づきの機会が平等にありながら、そのメッセージを無視して考え方や生き方を変えようとしなかった人々が、自ら道を選んだに過ぎません。
それは誰のせいにすることもできず、貧富の差や頭脳の良し悪しも関係なく、神の求めに応じた人々は手放しを決め、手放しを実践することを選んだだけです。

その宿命をどれほど変えることができるのか推し量ることはできませんが、人間には生まれ持って「魂」に備わった今生のテーマがあり、そのテーマに応じて学びがあります。
他人から見れば羨ましかったり悲惨に見えるようなカリキュラムは、その人が独自のテーマを持って生ていくだけで、比較できるものでもなく千差万別です。

ただ、人間には生まれ持った「魂のカリキュラム」が存在することに思い巡らず、やたらと自分と他者を比較し嫉妬したり優越感を味わったりします。
自分より不幸そうな人を見れば「ああならなくて良かった」と思い、どう努力しても得られないものを持つ人に対して狡さを感じて恨んだりもします。

しかし、これまで自分が知らずのうちにかけてしまった迷惑も、他人が無意識にしてきた自慢も、人それぞれが人生という大きな交差点ですれ違うタイミングで演じる役割に過ぎません。
自分の意志かどうかではなく、大きなシナリオの中で違いにロールプレイを行ってきたに過ぎず、その出会いが学びとなるように仕組まれているだけなのではないでしょうか。

人は「運命だ」と思う出会いや、腐った因縁を感じることはしばしばあります。
それは魂に予めブループリントとして描いているシナリオである以上に、そうではない端役としてすれ違うエキストラも、同様に学び気づき合う存在として運命づけられているように思えてなりません。

だから、自分の犯した失敗も他人の罪も許しがたくはあるのですが、誰もがお互い様の存在として迷惑と感謝を掛け合うことで学びを経験するのだとしたら、そこに善悪はないのかもしれません。
もしそれぞれの人が、大きな目に見えないシナリオの中に生きて自分の役割を果たすだけなのだとしたら、私たちにはどれほど「自由」が存在するのでしょうか。

私たちは欲望があればそれを実現し、長期的な計画を実現するために行動します。
目の前の一挙手一投足は自分の意志によるものだと信じ、それこそが自由であると感じます。
しかし、自らが「自由意志」だと思っているものは、どこからどこまでが自由なのでしょうか。

例えば、夏の暑い日には冷やし中華が食べたくなり、クリスマス前には恋人がいないと寂しくなります。
ある人は自分に異性が周りにいなければ生きられないと思い、ある人はお金がなければ不安でしょうがなく、ある人は自分に一人になる環境がなければ耐えられません。
その感覚は人間本来に備わっている欲望というより、社会生活をしていく上で備わった価値観です。

そう感じ考えるように仕向けられる意志もあり、誰かの考えに基づいて型に嵌められた行動は、どこまで「自由」なのでしょうか。
動機があって取る行動の、行動だけに自由があるのか、動機そのものに自由があるのか、その判別は簡単にはできません。

私たちが「自由」だと思ってすることは、実は意味づけや動機づけより大きな枠組みで、予め決められているとしたらどうでしょうか。
自分が「こうしたい」と思って取る行動が、見えない力で差し向けられ、そういう行動を好意的に取らされ、自分がそれを「自由意志」だと思い込まされているとしたら?

つまり、私たちが「自分の意思でやっている」と思うこと自体が錯覚であり、内実は魂のレベルで意味も目的もわかっていて、あえて間違った行動を取らされる、ということもあるのではないでしょうか。
自分が意識できる可視範囲の外側で、自分の魂とあらゆる霊魂が交渉し合い、そのコミュニケーションが偶然を装って現象化しているものを、私たちは「現実」だと呼んでいるのかもしれません。

魂が「学ぶ必要がある」と思うから目の前に困難が現れ、「学び終えた」と思うから離れていく事象があるとしたら、これは「引き寄せの法則」そのものです。
起こる事象は一つでも、人の見方が違えば見える現象が異なるように、それぞれの出会いや出来事はその人にとっての意味だけがあるのかもしれません。

以前、たまたま知り合った霊能者の方が、人に迷惑や感謝をかける出来事があると、その人を守護する存在や先祖霊が干渉して様々なことが起こる、と説明して下さいました。
私も人間は物質的側面よりエネルギー的な影響が強いと思っているので、目に見えない霊的存在の干渉はあると考えた方が腑に落ちます。

大まかな人生の目的は生まれる前に決まっていて、出会う人も関わる人もだいたい決まっているのかもしれません。
ただ不思議なのは、自分の運命はほぼ決定しているように見えて、本気で取捨選択をしながら命がけで行動しなければ道を切り拓けないということです。

人生は決まっているのだから、何となくダラダラしていればそうなるわけではないのが運命の面白いところで、結果だけを見て堕落し切っていれば違う結果となり、しかしその結果も大きなシナリオの一部だったりします。
手を抜くこともガムシャラにやることも、自分の意志次第に思わせておいて、それすら決まっているとしたら、どうやっても自分の意志は「自由」だと錯覚し続けるはずです。

だからこそ、いずれ舐めていたら痛い目を見ますし、上手くいく時は上手くいくし、積み上げたものが意外なところで見出されたりするのだと思います。
それは自分には預かりしれぬ次元のストーリーであり、それは人間に簡単にわかるものでないからこそ、とりあえず自分と向き合いながら生きていくしかありません。

私は神様もこの先のことは知っているけど、あえて知らないフリをして行動されているような気がしてなりません。
神様は時空を超越された存在なので、100年先も千年先もわからないとは思えません。
しかし、それが決まっているからと何もしなければ何も起こらず、それゆえ神様たちも現象を引き起こすまでには至らないはずです。
だから、あえて「わからないフリ」をしてご自身のお仕事に専念されるのだとしたら、納得がいく説明はできます。

神様の世界にも、神様の世界を司る神様がいて、その世界にも神様がおられる、というループが広がっているとしたら、私たちが感じる神様たちも大きなシナリオを知ることは難しいのかもしれません。
私たち人間が自分の意志で悩み迷い、学び悟りながら大きなシナリオには気づけないように、全ての存在が一つのまとまりの一部として動いているだけなのではないでしょうか。

そう考えると色々なことが小さく思えて、誰かを呪ったり憧れたり、嫉妬したり依存したりする関係も、少しは距離を取って考えることができます。
私たちが自分を自由だと思うからこそ、「不自由」な現実が許せなくなり、どうにか変えようと躍起になります。
しかし、その自由は錯覚であり、自分ではないものの自由によって自由と思い込まされているのならば、私たちはそもそも不自由な存在なのです。

その不自由さから自由になろうとするよりも、自由が不自由そのものであることに気づいた時点で、私たちは自由と不自由から自由になることができるのかもしれません。
変にこだわらず雲のように水のように流れに身を任せて生きれば、もう少し私たちは楽に生きられるのではないでしょうか。
かと言って、何もしなければ流れも生まれないのも事実で、気が向くことさえやっていけばとりあえず物事は進むように思えます。

本来なら、もっとシンプルに生きられたはずの人類は、楽か苦しいかという次元を超えた「喜び」としての生き方を後手に回す社会を作ってしまいました。
誰もが窮屈と思い、それでも「こういうものだ」と妥協しながら暮らす中で、その生き方が見直される時にあるように思えてなりません。

そして、その時代の終わりを経験することは、この地上に生きる全ての人にとって「学び」となり、それは救済や罰を超えた教訓を人々に見せることになるはずです。
それは恐ろしいとか変わることが嬉しいとか、その考えで逃げたり出迎えたりするものでもなく、大きなシナリオの中で私たちは「経験させられる」しかないように思います。

私たち日本人は経済的に豊かな社会を作り上げましたが、その代償に失ったものも多く、「平和」について抱いていた甘い考えは、今反省を持って我々の前に立ち現れています。
それをどうするのか、どう改めるかは私たちにかかっています。

だから、私たちに必要なのは「覚悟」、つまり学び取ろうとする意欲なのかもしれません。

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俺たちに明日はある

楽太郎です。
5月27日の新月以降、また新しい局面に入ったように思います。

自分の心の深い部分での統合が進み、同時に人世のエネルギーがより強固にまとまりつつあります。
外部からの干渉の形も変わり、距離を取りながらより強いアプローチに変わっているように見えます。

3月の春分から古い時代のエネルギー、人世からの妨害や引き戻しの作用が強く働いていました。
これは単に霊障を引き起こすだけでなく、昔の生き方や考え方に押し戻すきっかけとなるような出来事で身の回りに現れています。
結論的に言えば、これは神々からの試練というか抜き打ちテストのようなものなのですが、その現れ方はその人の一番弱い部分を突いてくるようなやり方のため、トラップとしては回避しづらいものです。

スピリチュアリズムに目覚め、これまで手放しや浄化に励んできた人でさえ、この時期の誘惑に押し流されてしまった人も多いでしょう。
人世は狡猾なやり方で次の時代を作ろうとする人々を絡め取り、自分たちの世界に引きずり込もうとします。
そのエネルギーは夏至まで極大化し続けるはずです。なぜかと言えば、神代の気場がほぼ完成するのが夏至だからです。

そして、夏至になると神代と人世のエネルギーの相剋状態が崩れ、人世の気場を飲み込み始めるのだと思います。
そうなると、人世のエネルギーは急速に崩壊を始めるはずです。
古い時代のエネルギーがこれほど強い保守的な作用をもたらしていた理由は、新しい時代のエネルギーに対する防衛であり、自分たちの障壁が攻め落とされるから堅守しなければならなかったのです。

トランプ大統領の関税政策は、巷で「Trump Always Chickens Out(トランプはいつも尻込みする)」の頭文字を取って「TACO(タコ)」と言われています。
トランプ大統領が打ち出した「Making America Great Again(すごいアメリカを再建する)」というスローガンも、「MAGA(マガ)」によって「魔が出る」と言われていましたが、現在のところ大した禍事にもなっていません。
児童の人身売買やDSの告発なども有耶無耶になっていますし、関税に関しても何となく元の鞘に収まっているように見えます。

AI処理装置王手のNvidiaの第二四半期の決算が比較的好調だったことで、引き続きマグニフィセント7の牽引するAIバブルは伸びを見せるでしょう。
2027年に誕生すると吹聴される「AGI(自律型汎用AI」は、実のところ生成AIのスキームをいくら加速させても構造的に開発は不可能だとされています。
仮にAGIが開発されたとして、現在のデータセンターを建設し続け、稼働させるために原子力発電を促進させ続ける意味はあるのか、AGIが半期おきに更新されるグラフィックボードに対応できるのかすら未知数です。

米国のシリコンバレーと金融業界の癒着、そこに政党政治を絡めたアメリカ議会、グローバリズムと各国を巻き込む情勢。
これらの出来事を見る限り、変化となる兆候は全て封じ込め、既定路線に描かれたビジョンだけを徹底する流れに思えます。
トランプ大統領は人々が言うように救世主となりうる存在か、と言えば私は疑問に思います。
しかし、この現状維持以外は許されない風潮の中で、そのバランスを壊しうる唯一のファクターであるトランプ大統領が、ここまで抑え込まれているのは一考に値します。

トランプ大統領の行動は、神々の計画にとって重要なトリガーとなっているように思えてなりません。
それはトランプ氏が神の僕であるとかの意味ではなく、神々は彼を動かすことで世界を変えようとしているのだと思います。

もし神代が人世の気場を壊し始めるとしたら、現在の世界のバランスが崩れるということです。
奇しくも夏至を迎えると、スピリチュアル業界を騒がせて止まない「2025年7月問題」が頭をよぎります。
2025年問題に関して、私は変革のインパクトを大地震に置き換えて考えること自体、問題を矮小化しているような気がします。

例え地震が起きたとしてその災厄の影響が年内で済むはずはなく、地震によって経済が完全に停止したとして、復興が終われば日本に巣食っている病魔が綺麗さっぱり無くなっている保証はどこにもありません。
仮に災害が日本を建て直すための契機になるにしても、それは数年数十年かかる規模のことであり、今年に地震が一発起これば全て解決するようにはどうしても思えないのです。
だから、「2025年」に対するフォーカス自体あまり意味を感じないというのが正直な感想です。

つまり、これから起こるインパクトが何であろうと、それをきっかけにして世界の再編が長期に渡って行われるという事象に変わりはなく、どう考えてもそのプロセスを踏まなければ新しい文明はやってきません。
インパクトの契機となるエネルギーの切り替わりが夏至であり、そこから先は何が起こってもおかしくないでしょう。

それが災害であれ経済危機であれ、何が起こるか自体が大して問題なのではなく、来るカタストロフは予め予想し得るものです。
それが何種類かあるだけであって、それぞれ来る可能性、まとまって来る可能性を考えても、備えておくに越したことはないというだけの話だと思います。

物質文明を苗床にして「お金」というエネルギーで保ってきた人世が崩壊することは、その環境で健やかに暮らしてきた人々は避けたいでしょう。
ゆえに、新しい時代の息吹を全て封じ込め、自分たちだけのエネルギーだけであるべき世界を強固にしたいのです。
そのための妨害であり、引き戻しです。

実は、最近私にも引き戻しの力が掛かってきました。
昔の活動が掘り起こされ今更になって、これまでのキャリアで最大のチャンスが訪れています。

ただ、この分野は神様から離脱を促され、泣く泣く諦めて手放したプランです。
ここで過去の活動を再開させれば神様の下での活動は有耶無耶になってしまい、仮に上手く行けばお金儲けの世界に再び戻ってしまうはずです。
神様を信じてやって来たからこそ、ここで成功がチラつき、「お金」や「人気」に目が眩んで舵を切り返すことがどういうことか、私はよく理解しています。

だからこそ人世からの引き留めの目的もわかりますし、私がそれに靡く気持ちがありながらも、神様がこの簡単なテストを私が落とすはずがない、と読んでいるのも薄々感じています。

私は、このチャンスを捨てることにしました。
ここまで神様を信じてきた道のりを諦めることは、私を親身になって導いてきた神様たち、瀬織津姫様に恥をかかせることになるからです。
だから私はこの話を断り、これまでの活動の痕跡を一切残さず撤退することに決めました。

この数週間、私を引き戻そうとする力は決して憎悪や悪意ではなく、優しさや懐かしい思い出として現れてきたため、心を鬼にしなければいけませんでした。
ここで昔の自分に戻ろうとする選択や昔のような生き方を選べば楽になれたのでしょうが、その時代が終わらねばならないからこそ、古き良き記憶を振り切り神様について行くことを決めたのです。

人世に戻ることを選べば、皆と同じやり方をしている以上は大した間違いがなく、上手く行かなくても皆そうなのだからと横並びに肩を抱き合い、互いに慰め合いながら生きていけるでしょう。
しかし、その生き方を人々がなあなあで続けてきたからこそ、今の日本を取り巻く危機と袋小路の現実があり、その負のスパイラルから抜け出すためには独立独歩の道を選択しなければなりませんでした。

42.195キロのうち40キロを走ってきて、なぜ残り2キロで観客の中に入って談笑する必要があるのか、そう考えると戻る選択肢はあり得ません。

ずっと一人で走ってきたからこそ孤独に打ちひしがれ、フルマラソンを達成したところで周りには誰もおらず、誰一人として賞賛の声を送らないであろう、そんなことは予想がつきます。
またゴールした後も、ずっと一人で走り続けなければならないかもしれません。
そう考えるといっそのこと観客に紛れたくもなりますが、ここまで走ってくるのにずっと伴走してくれた神様を裏切るわけにはいきません。

今ホッとした気持ちになることを選択し、しばらくはそれで楽しくてもいずれ上手くは行かなくなるでしょう。
人間が人間たちの力だけで生きていくには限界が来ており、その世界には沸いてくるようなエネルギーが存在しないからです。
人間がエネルギー源を人間に求める限りは搾取と奪い合いが起こり、その中で豊かに生きていくには苛烈な競争の中に身を置かなければならないでしょう。

それが人間の「幸福」や「自由」を指すものではないと神様が考えておられるからこそ、その時代を終わらせようとされているのだと思います。
少なくとも、少数の選民にならなければ奴隷になるしかない世界は、人間が住むべきところではないのです。
今はまだそうは思わなくても、この状況が変わらなければ極端になる一方のはずです。

この先の未来が目に見えない世界だからこそ不安を感じ、目で見えるわかりやすい世界に希望を見て安堵したくもなるでしょう。
しかし目で見える未来は、誰かが考えて描いた設計図であり、その形の未来を大衆が実現させてあげることで得をする誰かがいます。
今の世界を見回して、過去に描いた未来が今どういう形になっているかを冷静に見つめるべきではないでしょうか。

これから訪れる神の治める未来は、私にとってAIと電脳と遺伝子テクノロジーに塗れた、醜悪な世界でも構わないのです。
それを人間ではなく神々がそう望まれるのだとしたら、私個人の好き嫌いや善悪など無いようなものです。
私の意志を神様に委ねるという決意は、その程度では揺らぎません。

しかし、私は人間に従うくらいなら神様を信じますし、神様を信じることは自分を信じるということです。
自分の心の奥深くからの声を聞いて、これまで奇跡としか思えないような道のりを歩んで来ました。
私の心には神の心が映っていると感じるからこそ、今ここで迷いは一切ありません。

目で見える未来だけが確かな未来ではありません。
例え目に見えなくとも、その明日を信じる以上は夢に描いた未来がやって来ます。
「俺たちに明日はある」のです。

むしろ、神様と向き合う私たちのほうに。

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「憑依」について

楽太郎です。

5月13日の満月に世界線の分岐を体感してから、見える景色が変わってきました。
私自身のエネルギーの高まりと感覚の変化は、日常生活に差し支えるほどの混乱を生じさせています。
同時に妨害のエネルギーも強くなってきましたが、おそらく本日27日の新月にまた大きな変化が起こるように思えます。

今回の新月は双子座のエリアで起こり、土星が牡羊座に入って近々のタイミングであることから、自分の人生における課題が一新されるような意味合いが強いと考えられます。
これは1996年4月以来29年ぶりであり、当時も今のように大変革の時代でした。
ちょうどYahoo!の創業が95年であり、PHSが若者に普及し始めた時です。インターネットの黎明期の始まりであり、現在のデジタル時代の幕開けでした。

私は今日の新月から、さらに新しい時代が本格的にスタートするのだと思っています。
29年前に始まったデジタル時代は、現在では過渡期を迎え、世界を自由にするはずのインターネットはアメリカという国家に掌握され、そのインフラは極度に商業化されてしまいました。
それとすれ違うように、地球は次元上昇を完了しつつあり、私の言う「神の世、神代」は実感を持って現れてきました。

私は少しエスパー的な能力があったりするのですが、よく考えれば直感で人の行動や思念を読み取れるということは、スマホでLINEに繋がっていなくても遠隔で人の様子を知ることができますし、神様からのメッセージをきちんと受け取っていればChatGPTに相談する必要もありません。

これらは自然と人間本来に備わっている能力のはずであり、おそらく誰もが習得可能であるような気がしてなりません。
この能力を使えば、特定の営利団体に数十年単位で依存しなくても無料で使いたい放題の機能のように感じるのですが、残念ながら共感する方はおられないかもしれません。

この霊能力と霊力の高まりを実感しながら、精神的な時代の到来を私は確信しています。
眉唾ながら「風の時代」「スピリチュアルの時代」と予言されていた世界に、私たちは実際に足を踏み入れているのだと思います。

ただ、この時代の空気を実感できる人とできない人がはっきり別れ、おそらくできない人の方が大半です。
この分岐点こそ5月13日の満月であり、それまでの生き方考え方が総括され、その結果に応じた世界線を人々は歩むことになります。
この変化の流れは徐々に強まり具現化し、6月21日の夏至を持って完成となるのだと思います。

昨日25日に土星は牡羊座に突入したのですが、ここ最近やたら昔のことを思い出すというか、懐古的な生温い邪気を感じながら自分の課題と向き合わざるを得ませんでした。
今考えれば、私が自分の人生を呪うような後悔の原因を作ってきたのは、決して自分だけが悪かったのではないかもしれません。

私の霊能力が開花したことで、自分の体感するエネルギーを見分けられるようになりました。
そこで自分のエネルギーの性質がわかるからこそ、他人や集団とのエネルギーの共鳴や邪気、生き霊や悪霊などの霊的な干渉を選別することができるようになります。
特に外部のネガティブな波動を持つ存在からの干渉が、これまで私の人生に多大な影響を及ぼしていたことに気づきました。

私は物心つく以前から多感な子で、両親を始め周囲の人からは「ちょっと違う子だ」と思われていました。
幼稚園に上がる前から頭痛持ちで、自分の人生を振り返ると身体の不調や心の不安定さは一種の「霊障」であり、社会や大人たちはそれを弱さや病気と捉えていましたし、私もつい最近までそうだと思っていました。

しかし、こうして自分の心に影響しているエネルギーを紐解いていくと、必ずしも自分の波長だけでそうなっているわけではないことに気づきます。
特に環境による影響の方が大きく、なぜかわからないけどやる気が出なかったり、急に酷く気分が落ち込むような時は霊障だと考えてほぼ間違いありません。

ただこれは私が悪いとか、ネガティブな波動が良くないとか言いたいのではありません。
今こうして状況を理解して改めて思うのは、この唯物的な世界観は霊障をカムフラージュするのにとても都合の良い環境だったな、ということです。

例えば頭痛がする時、目の使いすぎとかストレスとか首肩のコリだと思って薬を飲んだりマッサージをします。
しかしこの原因がネガティブなエネルギーにあることを知らなければ、対処療法のためにお金や時間を使い、根本原因にアプローチすることはできません。
これはあらゆる病気に関してもそうで、病気も霊障以外に過去世から引きずっているものとか、血族由来の因縁で負わされているとか、様々なはずです。

自分の心身に起こる不調は、自分の内面と向き合うためのサインであったりするのに、なまじ薬や病院があるからそこへ行くものだという頭があります。
それで実際に良くなることも多分にありますが、トラブルの原因がエネルギーにあるのに、医療機関にお金と時間を使うサイクルの中から抜け出すことができません。

こういう仕組みも、この世界を唯物論的な構成物だけのものだと思い込ませたい勢力からすれば、上手いこと作られているように思えてなりません。
この世界において神仏や霊的な存在は眉唾物であり、精神的な事柄も全て科学と唯物論で説明ができ、それを信じお金を使えば迷信に惑わされることはない。
そう人々に信じさせることができれば、人々は率先して幸福のためにお金を求めるようになり、神仏を否定し権威を神格化することによって、生命力のある奴隷を手にすることができるわけです。

これをして得をする存在が何かというと、特定の選民的集団か神に仇なす隠れた存在でしょう。

こうして唯物史観のフィルターでカットされてしまった神仏やスピリチュアリズムは、これまでの世界では極めて色物に見られてきました。
しかし実際のところ、宇宙法則の一部に神仏が存在し、霊界はシステムとして稼働し、人間は修行とカルマの担い手としてこの世に存在します。
その仕組みは物理的には証明できず、反面その捉え方でなければ森羅万象を解き明かすことはできません。

真実の追求を覆い隠すことに意味があるとしたら、それは「堕落」以外にありません。
つまり、この世界における目的の喪失にこそ、神に仇なす存在の目的があるのです。
この世界の本質に至らせないことこそが彼らの本質であり、光に対する闇の存在です。

そうすることで、神性を否定し人間本来の能力を封じ込め、お金のために生涯を消費する労働機械に人間を落とし込めるわけです。
人間が人間に依存する世界を作れば、人間は横並びの序列だけを気にするようになり、上には神がいて下には魔物がいる世界に気づくことができません。
そういう世界は、この世界を牛耳っておきたい勢力にとって都合が良かったに違いありません。

この世界には物質的側面と波動的側面があり、実は波動の次元にこそ世界の本質が存在するのです。
ゆえに、その本質を覆い隠してしまえば、人々は真実を知ることなく物質面だけに終始し、覚醒することなく一生を労働に注いでくれるのです。

ただ、この時代も間もなく終わりを迎えます。

もう星の巡りでは新しい世界線に突入しているので、あとはエネルギーレベルで起きていた出来事が地上に反映されるのを待つだけです。
近年「幽界」の消滅が始まっているとか、浮遊霊や生き霊が飛び交っているとか、そう言った霊現象はその一端です。

人々がやたらと取り乱したりイライラしたり、「魔が差した」ようにしか見えない事件が起きたり、悪魔が乗り移っているようにしか見えない人の言動、それらは全て気のせいではありません。
「霊障」とは目に見える死霊が肩に取り憑くという類のものだけではなくて、エネルギーレベルの干渉で起こっているものだからです。

その霊障は憑依と言って差し支えないのですが、幽体が身体に入る以外に念や霊のエネルギーが魂に干渉することも多く、その形は様々です。
そのレベルのことは誰にも日常的に起きていることであり、ゆえに霊能者が改めて言うことはないのだと思います。

近年、スピリチュアルブームで精神世界への興味が広まったのは良かったのですが、「審神者(さにわ)」という部分に注意するスピリチュアリストはあまり多くありません。
審神者とは、メッセージを与えてくれる存在が何者かを見極めることです。
私の見る限り、霊能力のある人が必ずしも高次元の存在と繋がっているわけではないと思いますし、実際にそういう人も散見します。

仮に繋がっているのが高次元だとしても、霊的なメッセージを降ろして言って終わり、というだけでは本気で世を改め人を変えたい上位存在からしてみれば、言った本人が肚に落として貰わないと意味がないでしょう。
実は「審神者」は、目で見てわかることの方が多いです。
スピリチュアルな存在が降ろしたメッセージ自体が誇張的だったり、やたら我欲が張っていたり、そのメッセージを受けた本人がフィルタリングしていたり、それを間に受けて実践することを怠っていたり、見ていてスッキリしない印象を持つことがほとんどです。

神代と人世の分岐がはっきりしてきた今、次第にスピリチュアリストたちの言うことも変わってきました。
ついこの前まではまともなことを言っていたインフルエンサーが、最近は何がしたいのか何が言いたいのかわからない、みたいな状況を散見します。

この時期を境に、精神世界と人間との関係性も変化しているように見えます。
精神世界に繋がれる人はより精神性を求められ、その観念を生き方に降ろすことがテーマになっているのだと思います。
だから混乱が起きていますし、ついて行けない人も多いのではないでしょうか。

スピリチュアルな世界の本格的な到来は、実にシビアな現実に現れていると思います。
私自身、新たな課題に直面して自分でも何をしていいかわからなくなる時があります。
そこで自分に芯を通し、やるべきことをきちんと降ろして忠実に行動できるかが試されています。

神々からすれば、神代に上がるから特別な人材だと思っておられないように感じます。
慢心したり取り違えするような人間は惜しまず弾く、そこに神様は妥協しないのだと思います。
その心の隙間を常に魔の類が狙っていて、隙あらば覚醒の芽を摘み取ろうとしてきます。
だからこそ、油断せず常に己と向き合う緊張感が大切です。

実はこういうことを書くと、私がサイキックアタックや憑依に狙われる可能性が高くなるので避けたいのですが、今回は特に神様からのオーダーで書かざるを得ませんでした。

私は、神様から降りてきたインスピレーションは自分の一部だと思っているので、できる限り実践する方針でいます。
だから神様から降ろされたことは、わりとそのまま形にするようにしています。
ただ、あまりに真正面から正直なことを書いてしまうので、霊的な障害がしばしば発生します。

だから私としては気が進まないのですが、神様には逆らえません。
おそらく、これから神様のインスピレーションを反古にしたり自分のために使うような人は、神様から能力を外されていく気がします。
いくら信仰心があっても、神様に見放されたら元も子もありませんし、私は神様についていくだけです。

ただ神様、できるなら私をもっと強くお守りくださるとありがたいです。
今回は闇の存在について言及しているので、特に…。

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