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招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

人間、本来のあり方に

楽太郎です。

私は心霊オカルトが子供の頃から大好きで、TVの心霊特番はいつも楽しみにしていました。
「幽霊がいたら面白いな」という感覚はありましたが、自分の霊感は疑ってましたし、周りに合わせて「目に見えない世界」の存在を否定していました。

私はつい1年前までは、完全に「無神論」の世界にどっぷり浸かり、その世界観に全く疑いもなく生きてきました。
それが昨年の秋分以降、みるみる霊的な覚醒をしていき、あれよあれよという間にスピリチュアリストとしての道を突き進んできました。
それはもはや私の意志というより、強制的に「道に戻された」感覚に近いのです。

このブログでは常々、目に見えない存在からの「憑依」の戦いを綴ってきました。
そもそも、私が「憑依されやすい体質」であること、憑依されるから言動や思考に影響を受けやすいこと、霊障が起きているから心身共に体調がおかしく、何となく変なことばかり起こるのも、それまで「無神論=唯物史観」の世界に生きてきたからこそ、何十年も気づくことができなかったのです。

考えてみれば、赤ん坊の頃に異常な夜泣きをしたり、幼稚園に上がる前から頭痛持ちで、子供の頃から集団がもの凄く苦手で、大勢の人と同じ空間にいると頭がモヤモヤしてくるのも、全て「霊感」という概念で説明がついたはずです。
しかし、周りにそういった指摘をできる大人はなく、その大人の大部分が「霊など存在しない」と思ってましたし、憑依や霊障も何らかの病気の一種で、ちゃんとした医者にかかれば治ると考えていました。

しかし今答えを出すならば、私が正しく「信仰」という道に気づいていれば、神様が私を守ってくださり、心身はもっと充実した状態でいられたのでしょう。
そして無駄に苦しむことなく真の問題と向き合い、自分の心身に何が起こっているかも知ることができたはずです。

その「気づき」が遅れたのは、別に周りの大人が悪いわけではなく、霊障に苦しむ人生も自分の魂と神様が決めた人生のシナリオだったのだと思います。
ただ、「唯物主義」に染まった世の中であるがゆえに、目に見えない世界の干渉や影響の可能性に誰も気づかず、あらゆる不調の原因を「科学的病理」としてきたからこそ、問題の在処が覆い隠されてきたのです。

私の亡くなった叔父の話をすると、やはり私と同じ能力と血族的因縁を持った人で、霊感もかなりある人だったのだと思います。
叔父は心を病んで自ら命を絶ってしまったのですが、生前に「あるはずのないものが見えたり、聞こえる」ことを誰かに相談しても、「お前は頭がおかしいんだ」と散々言われ続けたようなのです。
ど田舎の農村から大学受験をして良い所の大学に進み、そのまま東京で有名な大企業に就職した頭の良い叔父は、その仕事場で心を病んでしまいました。

全ての因果を叔父が知ることができたなら、叔父は何十年も無闇に苦しむことはなく、自ら命を絶つ前に救われる道はいくらでもあったのです。
「唯物主義の社会」と「無理解」が叔父を殺めたとも言えるのです。
そして、下手すると私自身も叔父と同じ道を辿る寸前のところにいました。

人を陥れ、神を無きものとしたい勢力からすると、唯物論の蔓延る世界はやり易かったことでしょう。
その裏に「神に仇なす者」がいるとすれば、神の存在を否定すると同時に、自らの暗躍に気づかれずに済むからです。
「目に見えない世界を否定する世界」は、これまで闇の存在にとって最適化された状況であり、人間がモノしか見なければ争いに夢中になり、神を蔑ろにし人々が信心を忘れるほど、神々の加護は加わらなくなるからです。

しかし、それでも世界の真実に気づく人は気づいてましたし、先達たるスピリチュアリストも世のしがらみや誹謗を耐え抜いて、真実を伝えて来られました。
それでも、オウム真理教を始めとする宗教団体の起こす社会問題が、余計に信仰への阻害と無神論を加速させていったのです。

「神を無きもの」にするという巨大な陰謀があり、現代社会が物言わずに闇の力に流されてしまったことで、人心の荒廃が起こり不幸に陥る人々は増していく一方でした。
マクロな視点で言えば、神々が窮地に立たされるのも宇宙の大きなシナリオとも言えるのですが、気づくのが不可能と思えるほどの巧妙な隠蔽の中で、私たちが無闇に苦しむ原因がもたらされる状況が続きました。

この世は「神に仇なす存在」に主導権があり、人間社会は「無神論」の方針を支持する形で発展を続けてきたことで、ずっと逆神の肩を持ち続けてきたのです。
だからこそ人々は神への真の信仰になかなか至れず、邪教を崇拝し道に迷い、神に仇なす者たちの邪な干渉を受け続けてきました。

私一人が、その流れを変えられるわけではありません。
しかし、私以外の人々が次第に覚醒していけば、この世界を覆う闇の正体と影で暗躍している者たちの思惑を、世に知らしめることができるはずです。

これまでの世は、人間のあり方そのものを歪めながら、生き方そのものを型に嵌めて矯正する仕組みでした。
人は生まれた瞬間から、社会が親に与えたヒエラルキーの直下に育ち、学校では定義された「優秀さ」を競わされ、マスメディアでは「理想」とされる人々の成功が持て囃され、世に出れば歪な「エリート」の尺度で行末を決められる、凡そ自分の尺度を持ち込みようのない世界です。

その中で、本当に自分にとって必要な情報や気づきに辿り着くのは、非常に困難でした。
あまりに世にノイズが多すぎるからこそ、確かなものでさえ曖昧になり、何となく生きている人々に紛れてしまえば、何事も確かさなどないように感じられたでしょう。
それでも社会は物質的には豊かであり、何も考えなくてもお金さえ手に入れば、そこそこ深く悩まずとも享楽的に暮らすことができたのです。

しかし、それは「豊かな時代」だからできた誤魔化しであり、貧しくなる一方の状況では異なるはずです。

おそらく日本ならず世界が、かつてのような高度経済を軸にした世には戻ることはありません。
それは「ドル」経済圏が終わるからであり、少なくともドルに代替する基軸通貨が発展形で流通し始めるまでは、低成長経済がスタンダードになっていくはずです。

先進国の少子高齢化もさることながら、製造業主体の経済的牽引はサービス業に取って代わり、製造業は若年人口が多く「発展途上」とされてきた国が担うことになるはずです。
ゆえに日本は、少なくともバブル以前の勢いを再現するのは不可能であり、これからは物質的な豊かさから「精神的な豊かさ」へとシフトする段階に入ったのだと思います。

私の観点は、他の論者とは一手二手先読みする特性があるので、その兆候を感じるのは難しいかもしれません。
しかし経済崩壊は足元に迫っており、心の準備をしていた方が身のためだと思います。
そして、みるみる不便になっていく世を眺めて混乱するのではなく、来るものだと認識しておくことは自分や家族を守ることに繋がるはずです。

現代を形成してきた世界的経済圏の崩壊は、フランス革命とイギリスの産業革命を皮切りとした西洋型資本主義と、そこから派生したマルクス主義の終焉を意味します。
これまでの世界を構成してきた「資本」と「物質」という枠組みが揺らぐことは、人の世を支配してきた権威も決して不動ではなくなるということです。

社会を規定づける権威や権力が相対化される時、人々が「イヤイヤ」ながら従ってきた、ルールや慣習からの拘束も緩むことになるでしょう。
そうすれば、明日だけでなく10年20年先を見越して、仕方なくやるような生き方には何の確かさなどないことに気づくと思います。
その時、人々の心にかけられた「常識」という鎖が解けて、各々が「個人」として立ち戻るきっかけを得ることでしょう。

その時に初めて、これまでの世界を「闇」が支配していたこと、闇の深くに「神に仇なす見えない存在」が蠢いていたことを知るはずです。
そして同時に目に見えなかった存在が、目に見えるようにはっきり人々の心に映ることでしょう。
そこで人々は光を見て、光の中に「神」を見るのではないでしょうか。

私はその時、ようやく報われる人もたくさんいると確信しています。
人々が小さく押し込められた「お金と欲望のために消費される人生」が虚妄に過ぎず、その共同幻想こそ自分たちに迷いや苦しみをもたらしていたことに気づくはずです。

その瞬間が訪れたら「金儲け」という支えを失い「じゃあ、これからどう生きていけば良いんだ」と困惑し、絶望する人も出てくるでしょう。
自分の軸を持ち、金儲けという枠組みがむしろ煩わしかった人ほど、産業のシステムや規則に縛られない状況こそ、待っていた趨勢かもしれません。

それは少なくともこの250年間、巨大な枠組みの中で争いと淘汰を繰り返し、物質的に便利にはなっても人心がどんどん荒廃していく時代が終わり、やっと一息ついて「これからどういう世界を作って行こうか」と考えるタイミングが訪れるのです。
その時に初めて自分らしい生き方を手にする人もいるでしょうし、そのタイミングに合わせて生まれてきた魂もあるのでしょう。

今、闇が深まっていくばかりの世では、どう考えても光なんてないように感じられるかもしれません。
しかし、私たち人間が「悪くなる」と思うことも、神々があえて「悪くしている」のだとしたら、見方はまた変わってきます。
そして神々には、人間の考える「良し悪し」とは別の軸としての意味で「より良い世界」をご計画なされているのだと思います。
ただ、そのスケール感は人間に見渡せるものではないため、ひたすら残酷な部分だけに目が行ってしまうのではないでしょうか。

どんな不幸があっても、どんな不幸がこれまであったとしても、より良い世になるのであれば浮かばれる魂もあります。
私は、うまく生きられなかった叔父の苦しみや悲しみを思う時、私が世の中を変えることに貢献することで、その救いになるのではないかと思います。

叔父だけでなく、私だけでなく、見ず知らずの苦しみを抱えて生きてきた全ての人々が報われるために、これからは良い時代を作っていきたいのです。
ならどうすれば良いのか、私はいつもそのことについて考えています。

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「悪人」の正体

楽太郎です。

昨日、「神の試練を考える」という記事を書いて、「9ヶ月間神様のお役に立つことを考え、頑張ってきた割には何一つ良いことがない」と書きました。
それに泣きっ面に蜂の気分になりつつあって、スマホのバッテリーが劣化しすぎて充電できなくなりました。
まあ、ただの経年劣化なので別に神様のせいではないのですが、AppleCareで毎月580円を支払っているのに、バッテリー保証サービスを受けられる系列店舗が県内に2ヶ所しかなく、しかもどちらも1週間以上予約が取れません。

Appleはまあ、こういう企業なのは前から知ってますが、本当にここまで日本人を舐めていても我が国に莫大なフォロワーがいるのは何とも言えない気持ちになります。
第一、iPhoneの文字入力予測変換に日本慣用漢字ではなく中国語繁体字が上位に出てきますし、文字より先に絵文字が出てくるのもイラッと来ますし、いい加減なんとかならんもんかと常々思っています。

メリケンテックに対する愚痴を溢したらキリがないのでこの辺にしておきますが、海外の企業からすると日本人はこの程度にしか思われていないのが実際なところではないでしょうか。
私は近々、スマホもPCも誰もが使い続けるか悩む事態に陥ると思っているので、特にビッグテックには課金しないように心がけてさえいるのですが、残念ながら代替する製品は世界中見回しても今のところ存在しないので、型落ちのPCにUBUNTUを突っ込むのが席の山ではないかなと思っています。

とにかく「スマホが使えなくなりそう」というのは由々しき事態で、何とかAppleCareのサービスを近いうちに受けられることを願っています。
というか、月々580円を払って無料保証を受けるために電車を乗り継いで遠くの店に行かなければいけない時点で、どうやってもお金を使わなくてはいけないのは腑に落ちません。

私のケチなところが出てしまって、愚痴が止まらず申し訳ないです。
こういう、小さいところのストレスさえどうにもならない現状、神様の「お陰」というのは感じにくいのも現実です。
ただ、神様が加護を与え、いくら導いた上で恩恵や祝福を与えようと、瑣末なストレスまで綺麗さっぱり無くしてあげる道理はなく、そこまで期待するのは甘えなのでしょう。

こういったイカサマが今の世の中には横行していますが、ジワジワと雰囲気が悪くなっていく世の流れも、神々のシナリオの一部だと私は思っています。
世の中がまるで漫画に描いたように極端な悪化を見せれば、さすがにどれほど鈍感な人でも問題意識を持ち始めます。
これまでの人の歴史は、そういった意識による反動が世の中を動かしてきたのです。

そして、「世の中を悪くする人たち」というのも、神々からすれば「世を悪くする」という密命を持った人々なのだろうと思います。
おそらくこの世の「悪」というのは、悪を行うことで現世で利益や願望を実現する代わりに、負のカルマを一身に背負う役割を担っているのではないでしょうか。
だから、今世では何の疑問も反省もなく良い気持ちで一生を終えたとしても、死後の世界や来世ではどうなるかはわかりません。

この世に、もし世の中を良くするために犠牲になる人がいるのなら、彼らは世を悪くするために犠牲になる人たちなのかもしれません。
だから、「悪人だけが得をして、正直者はバカを見る」と思うことも、実は平面的な見方に過ぎないと言えます。
かと言って、「犠牲」という概念が現・幽・神界を通して存在するのかも判断がつかないのですが、私は「悪人」も実は神性が強い傾向があるのではないか、と薄々感じているのです。

聖書的な解釈をすれば、悪魔の王サタンは元々、神に最も近い天使だったルシファーとされ、神性が強かったがゆえに闇堕ちした後はとんでもない悪意の権化となったのです。
私の記憶を顧みれば、中学時代にグレ始めた人は小学校まで良い子だった人も多かったように思いますし、社会人になっても闇堕ちする人は元々真面目な人ばかりでした。
私にもグレていた頃はありましたし、その頃の感覚を思い起こせば、自分の正しいと思う価値観が周りに悉く否定され、自分でも矛盾を感じていたからこそ、その怒りの矛先を探していたのです。

私はいわゆる厄介な人々とも渡り合った経験があるので、「悪人」や「悪意」というものがどういうものかは手に取るようにわかります。
それどころか、つい最近までガチの邪霊や悪魔とやり合っている自覚があったので、「悪」がどういう性質の存在であるかは重々承知していたりします。

その見解に基づけば、彼らは「悪意」を持って「善行」を実践しています。
つまり、他人を貶めたり傷つけて潰したり、社会的地位を剥奪したり人権を叩き壊すのも、破壊や破滅的行為によって自己主張をしたり、「世を変える」という正義に基づいていたりします。
だから、一般的な「善行」という解釈から真逆の行動を彼らは「正義」と思っているだけで、彼ら自身は彼らの世界の「善人」なのです。

そこでは、他人を欺き陥れて満足したり、誰かを誹謗中傷したり嘲笑するのも、「一汗かいて気持ちがいい」程度の感覚なのです。
その様子を私たちが見れば何ともおぞましく感じますし、その異様さを醜いと感じ、社会的な損失を考えれば彼らを憎む気持ちも湧いてきます。

しかし彼らが純粋に、「善悪」の定義が違うだけの「善人」であるとすれば、極端な意味での「多様性」とも言えるのです。
私が先日のブログで「悪を犯す自由と、悪行を楽しむ自由がある」と書いたのは、その考えに基づきます。
その「悪」がこの世に存在を許されているからこそ、彼らの行いを見て考え反省し、世の中の「悪」を取り締まり、調和の取れた平和な社会にするための意義を悟るのです。

そして、彼らが行う「悪」がこの世の大正解であるはずはなく、調和や均衡を乱して破壊をもたらすことは、いずれ自身の破滅を招きます。
見える場所を手当たり次第に「焼き畑」すれば、どこも不毛な土地になり、いずれ自分が飢えて死にます。
ただ、そうなることを考えられないのが「悪」の限界であり、むしろ彼らを導いて生きられるようにするのが本当の「善」というものではないでしょうか。

「日月神示」には、そのお考えが滔々と述べられており、それが「悪を抱き参らせる」ということです。
悪を滅ぼそうと攻撃すれば、かえって反撃の応酬となり、犠牲への憎しみからどちらか一方が滅びるまでやり尽くすしかなくなります。
しかし、その記憶がまた別の悪意を生み、だからこそ争いの因果は連鎖し続けてきたのです。

ゆえに「善」とは悪を滅することに本質があるのではなく、「悪」という存在を認めた上で共存の道を模索し、まして「悪人」が生きながらえる道を示してあげることです。
そこまで「善」に徹するからこそ、その懐の深さと強さと賢さの前に平伏し、「参りました」と言わせることができます。
私は、これが「悪を抱き参らせる」ということの意味ではないかと思います。

もし「悪人」の本性が「善人」であるとすれば、悪人であればあるほど改心した時の反動は大きいのかもしれません。
私が見てきたヤンキーや性悪人間というのは、やはりどこか繊細で、感受性が豊かだから返って傷つき、自分を大事に思うから反発する力が強くなっていったように思います。
ただ、そういった弱さや疾しさは、闇の存在にとっては恰好の依代となるのです。

凶悪犯罪者ほど、どこか「人間らしさ」を感じない、サイコパス傾向が強いのは、彼らが実際に「人間ではない者」と感応するからであり、極悪人に人間味を感じないのはそういうことだったりします。
だからこそ心の迷いを晴らし、正直に親切であろうとする心持ちというのは、それだけで「魔」を祓い悪を遠ざけるのです。

そして人間に幸運をもたらすのも、「魔」を祓い厄病を寄せつけないために「信仰」というのは大事で、「神も仏もいない」という荒んだ気持ちが闇の存在を惹き入れてしまう要因になってしまいます。
私が思うに、「信仰心」と「善」はセットであり、ただ信仰心とは、必ずしも毎日神棚に手を合わせるようなことを意味しません。
「目に見えない存在や人の心」を大事にする感覚こそ神の心であり、その感覚と繋がっていれば例え儀式を伴わなくても信仰は可能なのです。

そして、「神の心」と繋がっていれば自ずと「善」が何かもわかってきます。
全て「目に見える世界が全て」という荒んだ感覚から悪が始まっており、しかし目に見えない世界を想像するのは、心身共に健康さや余裕が必要だったりします。
ゆえに貧しい人が犯罪に走りやすいのも当然の話で、お腹が減っても神様では満腹にならないからです。

私たちは「悪」を憎むがあまり、「悪」を知ろうとしません。
知らないからこそ先入観が膨張し、ますますあり得ない悪人に見えてしまいます。
けれど、意外と会って話してみたらイメージと違ったり、向こうには向こうの事情があったりするのです。
だから、まず相手を知ろうとする努力なくして、「悪」の真の退治は行えません。

前回の記事にも書きましたが、「悪を犯す自由」とは「間違いを犯す自由」であり、「倒錯する権利」でもあります。
厳密に言えばそれこそ「多様性」であり、多様性を謳う人々が特定の価値観を徹底的に弾圧するのも、多様性の一部として認めなければなりません。
そこで矛盾に歯を食いしばりながら、滔々と正論を吐き続ける胆力があってこそ「善行」は全うできるのであり、絵に描いた勧善懲悪では片手落ちなのです。

また、将来的に悪人が良心と知性に目覚め、自らの行いを省みる自由も権利も保証されなければなりません。
そこまで考えられるほど「善」は大人になる必要があり、懐深く気高くなければならないのです。
そこまで行けば聖人か天使かという印象ですが、実際のところ、そうでもない人間が人の生命を裁いてきたのも現実です。

私たちにとって、「善悪」を定義するものは何なのでしょうか。
そして、「悪人」の幸福はどこまで認められるべきなのでしょうか。

悪が悠々とのさばる時代だからこそ、むしろ私は「善」の側にそう問いかけたいのです。

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「神の試練」を考える

楽太郎です。

本ブログ「招神万来」を始めたのが2024年11月26日ですから、ほぼ開始から9ヶ月が経ちました。
総記事数は230本を超えています。ほぼ毎日か2.3日に1本というペースで投稿してきました。
このブログは長文記事が多いですし、さすがに全記事をご覧になられた方はおられないと思いますが、このブログは私の成長の記録となっています。

その中でも、自分の心の葛藤や思索、生き方だけでなく創作における試行錯誤も率直に書き出してきました。
人間としても、スピリチュアリストとしても、成長するタイミングと成長した後の軌跡を辿るには、かなり面白いドキュメンタリーが見れると思います。

大抵、私の文章の傾向がガラッと変わる時は、何らかの壁に打ち当たったり、好転反応で調子が落ちた後に起こっています。
そこで霊的変性が起きたことで、視野が変化して文章の内容も変わってくるのが垣間見えるので、客観的に見れば興味深くもあるでしょう。
当初から一貫しているのは、このブログは「神様との約束」から始まっており、「神様と人を繋げる」というコンセプトを元に、神様のお役に立つべく続けてきました。

普通の人なら、これだけ神徳を積めば何かしら良いことがあってもおかしくないだろう、と思われるかもしれません。
このブログは神様と繋がることができる方を中心にご覧になられていると思うので、わかる方が多い前提でお話ししますが、神様というのはそれほど甘い方々ではありません

普通の人の感覚では、神社に行ってちょっとゴミを拾ったとか、お地蔵さんを綺麗にして差し上げたから何か良いことがあるに違いない、と思われるでしょう。
私が「日月神示」がガチであると思う理由の一つに、「神様はこういうお考えをされる方たちだ」という実感がひしひしと起こるからです。
神示の中に「すぐに来るお陰は神のものではない」と書かれていますが、神様は数十年というスパンで人間をご覧になられるので、1日とか1週間くらいで「ご褒美」を考えるようなスケールの方々でないことは確かです。

だから私は9ヶ月ブログを更新し続けても、何一つ良いことはないどころか、目に見えない形での成長を感じても特にそれ以上のことはありません。
だから、私以外の人が同じことをやったとしても「さっぱり良いことないし、やっぱり神様なんていない」と思い、すぐに辞めてしまうかもしれません。
しかし、人間の価値観と神様の価値観は根本的に違いますし、人間と神様の時間感覚も違えば、「ご褒美」の感覚も全く異なります。

神様は人間ではないから、神様である

まず、神様のお陰を頂こうと思い、神様のお役目を果たそうと思うならば、まずここを抑えておく必要があります。

「神示」の中で、日月神様は「この道に入ってくる者は、始めのうちは苦労する」と仰います。
病気にもなるし、怪我もする。それは、そなたたちの巡りを取ってやっているのだ」と、日月神様は語られます。
私は実際、4月にありえない溝に足を取られて奇跡の骨折をしましたが、まさに日月神示を読み始めて間もなくの頃でした。

普通なら「この神様は疫病神かもしれない、危ないから近寄らないでおこう」と思うのは当然のことです。
しかし、神示にいう「巡り」というのは、仏教的に言えば「負のカルマ」のことだと思います。
日月神様が口酸っぱく「借銭(かりぜに)を無しにせよ」と仰るのは、私たちが他の誰かや環境に対して、知らず知らずのうちに犯している罪や業をそのままに、反省や償いもなく神様の「お陰」を頂こうとするのは、物事の順序としてあり得ないことなのかもしれません。

だから、日月神示を読み始めて「良くないこと」が起こるようになったら、それこそご神徳を頂き始めている証拠とも言えるのです。
私はむしろ、最初に「借り銭」を返すために良くないことが起こることこそ「お陰様」と思っており、なぜなら「負のカルマ」の返済がとんでもなく幸せな時とか、何かと絶好調の時とかに突然起こるよりは、わかるタイミングの時に来た方が「そういうもんだ」と思えるからです。
また、おそらく神様が志ある者には色をつけて、罪状を軽くして償わせて下さっている可能性もあります。

けれど、大抵の人はそこまで達観するのは難しいでしょうし、良くないことがあって「神様ありがとうございます」とは到底思えず、信心を辞めてしまうのも痛いほど気持ちがわかります。
しかし、私たち人間に「良いこと・悪いこと」の判断はできても、自分が知らず知らずに行った言動の善悪や意味は、自分には完全に把握できるものではありません。
その価値判断ができるのは神々だけであり、神様が帳面に自分の行いをどう記載するかなど、人間には想像もつかないのです。

だから、数週間どころか数ヶ月、数年単位の信仰で「ご利益」を頂こうとする気持ちが近視的であることは頭に入れておく必要があります。
それでも、すぐに結果が出ずに散々な目に遭いながら、踏まれ続けても信心を持ち続けるのか、そこを神様はご覧になられるのだと思います。
そして、神様からすれば「ご利益」は、人間が思うような成功とか一攫千金だけではなく、おそらく「成長」という面でもたらされることもあるように思います。

実はこの「成長」こそが神様からの最大の「お陰」とも考えられ、その価値は人間にはなかなか推し量ることができません。

私たちが肉体を持つこの世界は、雑多な価値観の人間が行き交うカオスな世界です。
全く価値観も出自も異なる者同士が出会うのですから、思うように行かず衝突も別離も日常茶飯事です。
おそらくこの地上に生まれてくる前の世界、いわゆる「霊界」と呼ばれるところでは、「似た者同士」が集まるコミュニティが世界そのものを形成していて、天と地ほどの差のある人々の交流は起こり得ないがゆえに、比較的平穏なのかもしれません。

しかし、この地上世界では国と同じ規模の資産を持つ人がいて、他方では汚い水を飲むしかない人もおり、親の言う通りに勉強だけをして生きてきた人もいれば、子供の頃から銃を持ち人を殺めてきた人もいます。
そういう雑多な世界では、様々な葛藤や争いがあり、だからこそ人生には「経験」や「学び」があります。

この「学び」というのは、人間が一度生まれてきて得る教訓だけでなく、おそらく死んでから引き継がれていく「財産」にもなり得るのだと思います。
一度きり、自分として生きて得られた体験や知識が死んで消えることなく、来世再来世に引き継がれるからこそ、「悟り」や「徳」こそ財産であり、「恩恵」となり得るのではないでしょうか。

ただ、そんな目に見えない、証明しようのない「ご利益」よりも、生きているうちに目に見える形で良い思いをしたいと思うのは当然です。
だからこそ、「試練」と「成長」という形で神様がお与えになられる「お陰」というのは、それをわかった上で受けられる人ほど優先的にもたらされるように思えます。
つまり、「ツラい」と思ってそのまま逃げたりダメになるような人にはそれなりに、成長を糧にできる人間にはさらなる「成長の機会」をお与えになるのではないでしょうか。

言ってみれば「成長の機会」というのも、普通の人間からすれば「試練」とか「災難」にしか思えず、あまりについてないことばかりだからむしろ呪われているんじゃないかとすら感じてしまいます。
しかし、逆に言えば神様から見て「成長してもらえる」と思うから恩恵をお与えになられるのであり、それはある程度見込まれていると言っても過言ではないでしょう。

私が思うに、「神様はギリギリできるか、できないかわからないことをさせたがるけど、決して無茶は仰らないし、本当の無理はさせない」と感じます。
少し背伸びをさせて成長を促すのが神様のやり方なので、しんどい目に遭遇したとしても、その困難さは「乗り越えられる」と見込まれてると考えて良いかもしれません。
だから、日月神示の日月神様はそういう微妙なラインを突いてくるところが、実に神様らしいというか、「神様ってこういう方だよな」と思う所以でもあります。

そして、本当の意味での「幸福」というのも、神様と人間では全く定義が違っていて、南国のリゾート地で悠々自適に暮らすような夢を人間は理想としますが、神々からするとその人なりの「魂の充実のさせ方」に合った生き方こそ、真の幸福と考えておられるように思うのです。
だから、自分の幻想としての幸福を求める限り、神様のご用意なされた幸福を感覚的に受け取れないこともあるのかもしれません。

とかく私たちは人間の社会しか知らず、数十年しか生きない私たちの考えや価値観と、悠久の時を眺めて来られた神々との考えや価値観が異なるのは当然のことです。
私が最近思うのは「悪」と人間が呼ぶ存在も、神々からして見れば決して憎むべき対象でないのも、何となくわかる気がするのです。

私たち人間は失敗を恐れますし、迷惑をかけた人を責め、過ちを犯したことを後悔します。
それを「悪」とする私たちは、「悪」を憎むから「悪行」を退け、その行いを忌避して社会をルールで縛ります。
神示には「大神が許すからこそ、悪は世に存在する」と語られます。

例えば、人を陥れて自分だけが得をし、それをひけらかす人をまさに「悪」と思いますが、長いスパンで見れば決して「得している」とは言い切れないかもしれません。
仮に今世で満足して一生を終えたとしても、死んだ後の世界は存在しないと誰も言い切ることができないばかりか、そのカルマを背負って次の世に渡ればどうなるかも人間に予想することはできません。

また、仮に知らずのうちに犯した罪や過ちも「学び」という一つのプロセスなのだとしたら、「過ち」というのはむしろ前向きなことであり、失敗し間違いを犯すから得られる学びがあります。
だから、この宇宙において「過ち」とは「間違いを犯す自由」そのものであり、その自由を憎むべきでも忌避するべきでもなく、「成長」の上では必要なプロセスなのでしょう。

その意味で「悪」とは、「悪を犯す自由」であり、「悪行を楽しむ自由」なのです。
例えそれが凄惨でも醜い行いであっても、宇宙的なスケールで捉えれば時間と次元を超えた「学び」がそこに用意されており、その出来事に遭遇してどう考え、どう動くかは私たち次第です。
そして、私たちにそれをとかく結論づけることは、今世においてほぼ不可能です。

私が最近思うのは、この世界を作られた神が本当に「禁止」したいものはこの宇宙にすでに存在せず、これからも誕生することがないとすれば、今あるこの凄惨さはどう考えればよいのか、ということです。
ただ、もしこの世界が本当に「映し世」であり、真の世界が肉体を離れた世界にあるのだとしたら、この世界で起こる現象も人間の行いも、二次的な意味しか持たないのかもしれません。

おそらく、それを人間の頭で考えたり、第六感をフルに働かせたとしても、決して知り得るものではないのでしょう。
だとしたら、私たちにできるのは今この目の前で起きた現実が「どういった意味を持つのか」をひたすら思索し続けるしかなく、全ての事象に意味があるのだとしたら、その一つ一つに何かしらの兆候を見つけることしかありません。

例えそれが完全に把握しきることはできないにしても、私たち人間はそこに神を見て、神のご意志を読み取ることでしか、真実と向き合うことはできないのだと思います。
「どうせわからないから知らなくて良い」とタカを括るのではなく、それを真っ直ぐに見つめるから「学び」や「成長」はもたらされるのではないでしょうか。

普通の人にとって、そこまで考えるのは敷居が高いと感じられるはずです。

けれど、神様はそれを無理に押しつけることはなく、その人それぞれに応じて、少し難しい課題を少しずつお与えになられているように思います。
もし神様に目をかけて頂いているのなら、「これは神様が何を伝えたいのだろう」と思い馳せてみた時、そこから新たな学びがあるに違いありません。

もし何か災難やついていないことがあった時には、落ち込んだり神様を逆恨みする前に、その意味を冷静に見つめてみることも大切だと、私は思います。
神様の指し示す道は決して楽ではないですが、ただ苦しいだけでないのも不思議なものです。

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「お金の時代」が終わる

楽太郎です。

夏至から始まった「覚醒」のフェーズは、どうやら23日の処暑にクライマックスを迎え、今は別のシークエンスに移行しつつあるのを感じます。
私はこれまで知的追求と「日月神示」を中心とした周知に並々ならぬ情熱が向かっていたのですが、このエネルギーがカチッと切り替わった瞬間から、頭が創作に向かうようになってきました。

しばらく、絵を描きたくても違うテーマの事柄を優先しなくてはいけない状況が続いていました。
それはそれで「こういう時期なんだな」と思って割り切っていたのですが、これまでは「理論」の段階を突き詰めるターンから、「実践」という具体化のフェーズが始まったのだろうと感じています。

勢い余って「日月神示解説」というサイトまで立ち上げて運営を始めてしまいましたが、ここ数日で何となく一区切りついた感覚もあり、もしこれが「型」を出す初期段階なのだとしたら、より型を固めるための現実化を進めていくことになるような気がします。

周りを見回す限り、日本人は「ヤバいヤバい」と言いながら、のほほんとしているように見えます。
実際、どう事を起こして良いか見えず、また何かをやろうにも巨大権力に頭を押さえつけられている状況では、何事も無駄になる可能性も高く、あえてここで「何もしない」というのも意外と賢い選択かもしれないと思うようになりました。

人々が「昨日やっていたことを今日やるだけ」という感じに見えなくもないですが、実際のところ大変だった昨日を今日繰り返すだけでも十分大変であり、そのことだけで手一杯でも不思議ではありません。
私としては、もう少し変化の姿勢を見せて欲しいと思うところでもありますが、人様のことは人様に任せて、私は私のやるべきことをやっていくしかありません。

今の世界のどこを見回しても、おおよそ殆どの人が権力の座にしがみついて全く放そうとしない、頑固なお偉いさんに心底ウンザリしながら、同時にどうしようもないことも知っていて、何とか状況が変わるまで耐え抜こうとしているように見えます。

日本は言わずもがな、海の向こうのお国でもそうで、貧困化が進む世代的コア層がかつての社会に戻そうと右傾化して担ぎ上げた大統領が、どこよりも左傾化した上に肝心のマニフェストを放り出して、世にエゴと混沌を撒き散らしています。
これはどこの国にも共通して見られ、選挙で世を変えることを志した人々が、むしろ自分たちが選んだリーダーに真逆の目に遭わされては絶望に陥っています。

これらの現象が、どこの国でも型に嵌めたように同時に起こっているのを見て不思議に思うのですが、奇特にも日月神示をよく読んでいる者からすれば、「選挙制度という幻想」を引き剥がすためのシークエンスに入っているとしか思えないのです。
そして、「暴走する権力者」という構図は、殆ど全ての人々がどうにもならないことに気づく瞬間まで加速し、民主主義も社会主義も絵に描いた餅に過ぎなかったことに、いずれ気がつくことになるのだろうと思います。

これまでの世界がどういう形に見えたとしても、少数の選民的集団が考えて実行する枠組みに主導権があり、その中で全てが仕組まれて機能していたことを、後になって初めて知るのでしょう。
自分たちが隠れ蓑とする「民衆」の力が世を形作っているように見せるカラクリも、だんだん明らかとなって来るはずです。

先日、「今のハイテクバブルは崩壊するのではないか」と持って回ったような話題がマスコミに出始めた話をしましたが、先日NVIDIAの第二四半期決算が予想を下回った、というニュースも出ました。
また政府主導で半導体装置大手、Intelの国有事業化が始まっており、それに連動して同社の将来性が危惧されています。
私は以前から未曾有のバブル崩壊と経済破綻が起こると警告していますが、おそらく震源地はここです。
というより、「バブル崩壊」はずっと前から仕組まれていて、実はいつトリガーを引くかというタイミングにありました。

トランプ大統領が当選した昨年11月当たりに、銀行ターム融資プログラム(BTFP)という銀行救済制度の融資残高がゼロになるように設定したのは、トランプ氏と骨肉の争いを続ける連邦準備制度(FRB)のパウエル議長です。
アメリカは大手銀行を始め、年々含み損が増大して青色吐息の状況であり、FRBがその延命治療を施さなくては中小の銀行から連鎖破綻が起こる恐れがあります。

そもそも、その金融危機もパウエル氏が「レポ取引」という銀行への優遇制度を2019年に引き締めを行ったことに端を発します。
この話を経済に疎いトランプ大統領が側近に耳打ちされたとしたら、「アメリカの金融が潰れそうなのはジェローム(パウエル)、あいつが悪い」と短絡的に思ってもおかしくありません。

実際に大して間違いではないのですが、2020年辺りでFRBが失策したのは確かであり、この実態こそズブの素人である私ですら知っていることですから、プロ中のプロのエコノミストが無知なはずがありません。
この金融危機を予め予期している機関投資家などの大手資本は、その経済的皺寄せを個人投資家に押しつけるべく、最近までバブルの雰囲気を伸ばすに伸ばし、バブルを煽るに煽ってきたのです。
その兆候は、大手投資会社バークシャー・ハサウェイを率いるウォーレン・バフェット氏の動向を見れば明らかであり、彼は今年12月をもって引退することを宣言しています。

そして、Broombergなどのプロパガンダメディアが「そろそろバブル、危ないんじゃない?」と煽り出したのは、「危険は一応知らせた」というマスコミの自己保身的アリバイ作りであって、それは金融業界の偉い人たちが逃避するための準備完了を告げるものでしょう。
金融市場は以前から着々とバブル崩壊の準備をしていて、その罪状を一身に担うことになるのはNVIDIAのCEOであるジェンスン・ファン氏だと思います。

また、その共犯の槍玉に挙げられるのが、非営利企業のCEOでありながら100万ドルの高級外車を乗り回すOpenAIのサム・アルトマン氏を始め、ビッグテックらAIブームの恩恵に預かった頭取の面々でしょう。
経済崩壊の原因を作った張本人こそウォール街の住人ですが、テック企業を悪役にしてスケープゴートにしつつ、もう既に彼らの手仕舞いは済んでおり、これからは悠々自適な隠居生活が待っているのだと思います。

おそらくその後、アメリカは景気後退を避けられず、失策続きのトランプ政権は中間選挙で大敗するでしょう。
そのシナリオも民主党が大統領選中に用意したものでしょうが、そのタイミングを利用してリベラル派が意気揚々と浮上してくるはずです。
それはトランプ大統領の懸念事項であり予想しうることで、大して混乱もしていないカリフォルニア州に州兵を送り込むことすら辞さない、強情なプレジデントの気概によっては、下手すると内戦に突入するかもしれません。

私は、そのままアメリカは国家解体に進むと考えており、実際にあれほど根深い問題を抱え、社会構造として袋小路に陥っている状態を鑑みれば、一度ガラガラポンをした方が手っ取り早く、人間が大地を有効利用できることにいずれ気がつくでしょう。
それを見て、決して我が国もアメリカを指差して笑える状況にありません。
アメリカ51番目の州である「日本州」ですから、アメリカの国家崩壊の憂き目を見ることになるのは確実です。

だから私は一刻も早く、大暴落間違いない米国債を大量に売り浴びせ、円高還元を行い日本一人勝ちの状況にすれば良いと思いますが、残念ながら80年かけて魂を抜かれた日本人にそれは不可能でしょう。
ただ、既存の経済の枠組みが崩壊するということは、ただでさえ円安と物価高でスタグフレーションに陥りつつある(実は既に陥っている)日本人の生活形態が変わってきたように、社会の仕組みも自然と変貌していくことになると思います。

既に低成長経済が板についたフランスやドイツは、ゴチャゴチャした余剰な道路網を再整備し、解放した土地を緑化させたりしています。
人口動態を見ても、文明的視点、技術発展の視点から捉えても、日本も必然的にそうなっていくと思います。
EUは「緑の党」という環境カルトの政党が躍進しており、土地の緑化はその一環だとしても、使用頻度の低いインフラを維持する合理性はやはり見直される必要があります。

既に昭和遺産とも呼べるバブル期の廃墟に見られるように、解体する費用すら捻出できず風化に任せている建物や土地は山ほどあります。こういった構築物は今後増えていく一方であり、人々は市街地に集まりながらも都市計画は次第にミニマム化していくはずです。

日月神示をここで持ち出すならば、それが「金で治めて金で潰す」という神々のシナリオをなぞることになると思います。
我が国ならず、世界中で生成AIやEVや自然エネルギーのような出口のない技術にしか発展を見出せない現実は、人類が必要な技術開発をあらかた終えてしまったことを意味しています。

これまで、経済発展と成長があったからこそ、市井の人々には「社会的成功」がビジョンとなり、自分の人生の大切な時間を投げ売ってでも「お金」を手に入れようとしてきました。
しかし、飽和しきった後の時代にあっては、人々がごく少数の「お金持ち」になるために過酷極まる競争に駆り立てられるよりは、多少お金に窮屈しても自分の自由や、快適な生活を優先するような精神風土になっていくのではないでしょうか。

むしろ、神示ではそういう時代を形容して「天地がひっくり返る」と喩えているのかもしれません。
今、世でお金と権力と名声を振り回して下々を従えている成功者が、「資本」という力を引き剥がされた時、その行いの程度によっては人々に裁かれる瞬間が来るでしょう。
多くの人々が「お金」に対する信頼を失えば失うほど、彼らお金持ちに対する憧れは薄れていき、それならば自分の手元や足元にある自由を大事にして生きていこうと、そう思うはずです。

その時、決してお金や成功目当てに生きるのではなく、自分の権利や自立心を大切にするからこそ、これまで社会で浮上できなかった人々の生き方が「理想」とされていくと思います。
むしろ今、地面の泥を舐めているような人ほど脚光を浴びる時代が来るとしたら、それこそまさに「天地がひっくり返る」という形容が相応しいのでしょう。

俯瞰すると、日本が貧しくなって民族的自尊心を失くしていったのも、2000年を皮切りにした「グローバリズム」の到来にあったように感じます。
グローバリズムというのは、所詮は欧米に有利な条件で欧米のやり方で欧米の仕組みを使い、欧米のモデルに追従し欧米の一部に組み込まれる仕組みだったのです。

日本は、本質的な技術開発や需要を掘り起こすのが得意な国民性を持っています。
漫画・アニメなどの二次元産業は日本が誇る産業文化ですが、「クールジャパン」として海外に持て囃されて以降、広告業界と海外資本に寄生されて残念な業界になってしまいましたが、数々の電化製品も食品製造技術も観光産業も、日本人だからこそ発展してきた分野です。

日月神示的に言うと、「外国は外国のやり方、日本は日本のやり方」なのです。
日本のやり方を捨ててグローバル化に邁進した企業が、人々から本当に信頼されるビジネスを展開している企業に見えるでしょうか。
あえて企業名は出しませんが、CEOが海外出身の人になった企業ほど本質的な部分を捨ててしまったように思えます。
そして日本企業としての個性や良さを失い、金策で勝とうとする海外企業と横並びの存在となってしまいました。

日月神様のような説明の仕方をすれば、外国のビジネスは外側「◯」を整えて、その仕組みを循環させることで発展させるのは、非常に得意です。
それに反して、日本は基礎研究からしっかり行い、実体のある需要を捉えるような基本「・」を中心としたビジネスの方が上手くいきやすいのです。
グローバル企業は、欧米に合わせて「◯」に特化した組織形態となり、どちらかと言えば日本企業は基本を取り入れた「◉(◯の中に・が入っている)」性質をもち、それゆえに高度経済成長時には他国の技術を凌駕したのだと思います。

しかし、「お金が第一」となり、いかに需要を捉えても儲けが出なければ事業をする価値がない、と判断する現在の我が国のやり方は、完全に中身を失い「◯(形骸)化」しています。
もうこの際、グローバリズムは肌に合わないことがわかったのだから、無理に衰退する諸外国に合わさず、日本人は日本人のやり方に戻っていくべきではないでしょうか。
おそらく、外国の「成功モデル」の崩壊は、自動的に日本の独自技術や伝統文化の見直しに繋がっていくはずです。

大量生産・大量消費の時代に一旦区切りがつくことで、人々がイヤイヤながらお金のために時間を費やすような働き方ではなく、もっと市民の需要に応えるような、実体のある商業取引に焦点が当たっていくでしょう。
だから工業生産も、次第に低コストかつ高付加価値を目指すようになり、手工業や伝統工芸が伸びることも予想されます。
やはり、巨大企業が高性能製品を大量生産するよりも、質の高い製品を持続的に製造する方が経済効率が遥かに良く、環境への配慮もあるからです。

そこにおいて、地味に工業の下支えをしてきた町工場も再評価されていくでしょうし、着々と技術を育ててきた企業や職人は報われていくと思います。
私の業界の話をしてしまえば、「AIがあれば才能も努力もいらない」とタカを括っていた人たちを尻目に、きちんと才能と知識と感性を磨いてきた人ほど、その技術が改めて認められていくでしょう。

手間味噌ですが、私はそうなることを予見していたからこそ、生成AIを使うことを避けながら、マンパワーにこだわり地道な努力を続けてきたのです。
私は直感的に数年前から現行システムの矛盾と行き詰まりを感じ取っていて、近い将来に色々とやり尽くした結果、昔のやり方が最も合理的だったことに気づいて「元の鞘に収まる」のではないかと考えていました。
ここ数十年、理不尽な形で「金儲け」という巨大な仕組みに振り回され、抑圧されてきた人々や物事が再評価される時、そのきっかけが商業主義の崩壊にあるという皮肉は、むしろ最初から宿命づけられたものだったのかもしれません。

私は、このまま日本が脱落したままで、後は滅んでいく一方だとは全く思いません。

ただし、あまりにも人々がチャンスを袖にするようなら、自分たちでこの最大の幸運と繁栄を取り戻すきっかけを逃すことになりかねないと思います。
ゆえに、その選択はこれからの時代を動かしていく私たち次第です。
日本は日本のやり方で、日本人が日本人に合うやり方を少しずつ思い出していけば、日本はおそらく文化的、文明的な面で世界をリードする国となれるはずです。

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神示「荒れの巻」解説

楽太郎です。

先ほど、私が運営する日月神示のまとめサイトに、「荒れの巻」の口語訳の記事を投稿しました。

「荒れの巻」口語訳

この「荒れの巻」は神示の中では最も難解と思われ、難読の当て字のオンパレードになっています。
私は当初これを目にした時、「本当に荒れてるなあ」と思ったものですが、こうして文脈を整理しながら単語を整えてみると、いつもの日月神節が垣間見えてきます。

そうして読むと、全くブレたところがないように感じました。
ただ、「荒れの巻」はちゃんと読むと、わりととんでもないことが書かれていることに気づきます。

この文節には「国常立尊」という御神名については語られず、その代わり「伊弉諾命(那岐)」と「伊奘冉命(那美)」の二柱と「大素戔嗚神」の三柱が登場します。
そして、この三柱で「岩戸開き」とその道を説かれており、順当に読めば「伊弉諾命が伊奘冉命の御位を継ぎ、三千世界に君臨する天嗣(てんし)となる」と書かれています。

突拍子がないように感じるので、少し整理をしたいと思います。

伊弉諾命と伊奘冉命は神世七代の末代にして、伊弉諾命は三貴子の親神となります。
神示によれば、伊弉諾神と伊奘冉神の成りなる(変化?)の末に伊弉諾命、伊奘冉命となられたそうです。
その系譜の始めには「天御中主神」がおり、「高神産日神」と「神産日神」を加えた御三体の神々がおられ、別天津神五柱の次にお産まれになられたのが、神代の初代である「国常立尊」と「豊雲野尊」となります。

この文書においては、伊弉諾命が国常立尊と同一神格として語られているように思います。
どうも伊弉諾命が「月と海原」を司る神であり、それは素戔嗚命を連想しますが、神示の文脈では「素戔嗚命」は国常立尊と同一神格とされます。

つまり、「伊弉諾命=素戔嗚命=国常立尊」ということになります。そんなことがあるのでしょうか。

一般的な日本神話の文脈では、伊弉諾命と共に神産み、国産みをなされた伊奘冉命は、火迦具土命をお産みになられた際の火傷が原因で、お亡くなりになります。
その後、伊奘冉神様は黄泉の国に入られ、伊奘冉命を慕った伊弉諾命は黄泉に渡りますが、そこで仲違いをしてしまい、命からがら地上に戻ってきます。
そこで潔斎をした時に単独で三貴子をお産みになられていますが、御子神の天照大御神が太陽神となっています。

ただ、神示によれば「五つの岩戸閉じ」の中で、岩戸隠れをした天照大御神はそのままお隠れになられたままであり、偽りの太陽神が現れたことで世が闇となったと語られます。
また別の岩戸閉じでは、罪を着せられた素戔嗚命が高天原を追われ、地上に封じ込められたとされます。

素戔嗚命と言えば、「天の一部」と「夜の食す国」と「天が下」と「滄海原」を司る御神格であらせられます。
そこで「月と水」を支配する素戔嗚命を伊弉諾命と仮定すれば、「日と火」を司る神格は伊奘冉命となってしまいます。
つまり、地に封じられし伊弉諾命が岩戸開きによって世に現れ、伊奘冉命を岩戸から救い出すことになるとしたら、真の太陽神である伊奘冉命も再び世に現れることを意味します。

日本神話でも伊奘冉命は常闇の世界におられ、そこで死霊たちを治めています。
奇しくも真の太陽神は岩戸の中にいらっしゃるとされており、辻褄が合うのです。
そもそも、「伊奘冉命」の「いざなみ」とは、「誘う(=いざなう)+霊(み・ひ)」を意味し、元は地上の精霊や死後の死霊を導く神格とされていたのでしょう。

対して「伊弉諾命」の「いざなぎ」とは「誘う+キ(気・饌)」であり、生命や実りを象徴する神格と考えられます。
私たちは直感的に「伊奘冉命(波)」は水を司り、「伊弉諾命(凪)」は風を司るから、伊奘冉命が海を、伊弉諾命が空、または天を司るとイメージしがちです。
しかし、伊弉諾命の御子神であられ、女神の天照大御神が天体の太陽と高天原を司る神格であり、弟の素戔嗚命が月と地上と海原を支配するのは、この世代では男女の立場が逆転しているとも言えます。

子を産む役割を担うのは女性です。だから神産みをするとしたら、多くの神を産めるのは男神よりも女神の方だと考えられます。
太古の日本人、少なくとも卑弥呼の時代頃までは、日本は女系社会だったと言われており、その文脈で高神産日神と神産日神に性別を鑑みれば、「高く神を産む」のは女神、即ち伊奘冉命です。
だから本来、女神の方が男神より生産的役割は上ですが、ただそれが立場上の関係と同じであることは意味しません。

神示によれば、国常立尊が高天原の最高神の御位に就く時、日と月を同時に治め、高天原を支配する最高神の神格を「嗣ぐ」天日月大神となられるそうです。
もし本来、伊弉諾命が元から天を統べる神であるとするなら、岩戸から出られた後に玉座に就くのは「戻る」だけであり、「嗣ぐ」ことにはなりません。
ゆえに、元は高天原と天体の太陽を司っていたのは「豊雲野尊」いわゆる伊奘冉命であり、国常立尊である伊弉諾命がその最高位を継承するからこそ、新たな時代の神となることを意味するのではないでしょうか。

この「荒れの巻」をきちんと読むと、そういった文脈が浮かび上がってきます。
また、「大素戔嗚神」という御神名が登場しますが、神示を読み解いていくと「素戔嗚」というのは「神の働き」を神格化した神名であり、言わば伊弉諾命(国常立尊)の神力そのものを「素戔嗚(凄まじく成る)」と呼称しているようです。

そして「大素戔嗚神」というのは、伊弉諾命と伊奘冉命が共に働かれる場合の神力を指しているように読み取れ、厳密に言えば「天日月大神」とは伊弉諾命と伊奘冉命がお力を合わされた際の御神格であり、「日の神」と「月の神」の二柱が合わさるからこそ「日月」と呼ぶのだと思います。
そして、天体としての太陽を司る神格は変わらず伊奘冉命であり、高天原の「日=最高位」は月の神、地上の神である伊弉諾命が継承する、とすれば「日月神示」の真髄が見えてきます。

神示の重要な概念である「天と地のあなない」は、まさに月地神の伊弉諾命と日神の伊奘冉命の二柱が三千世界を共同統治することを意味します。

この世界を闇に陥れた「五つの岩戸」において、地上に封じられた伊弉諾命と岩戸に封じ込められた伊奘冉命という構図によって、「伊弉諾命と伊奘冉命の別離」「素戔嗚命の追放」「天照大御神の岩戸隠れ」の三つが同時に説明できてしまいます。
「荒れの巻」には、地上の岩戸を出られた伊弉諾命が、自ら伊奘冉命の岩戸をこじ開け、救い出して逢瀬を果たす時に全ての岩戸が開かれる、そう読み取れます。

五つの岩戸のうち、あとの二つの岩は「人皇の支配」と「仏教伝来」を指しますが、神示の文脈を加味すれば天の大神が地上を直接支配する時代において、人皇は役目を終え、弥勒の世が到来すれば仏教のタイムラインが完了してしまうため、同時に終わりを迎えてしまうのです。
ゆえに、伊弉諾命が地上の岩戸から出た次の瞬間には、自動的に四枚の岩戸が開かれることになり、始めの岩戸が開かれた時点で、弥栄の世を迎えることが確定するのです。

そして、単独の神としては八柱の神産みが限度だった伊弉諾命(神産日神)が、伊奘冉命(高神産日神)と再び神産みをすることができるのならば、十柱以上の神々を産み出すことができるようになり、神の世界もそれによって様変わりすることでしょう。
「三千世界の大洗濯」たる大峠が神々の世界も巻き込む所以はここにあり、それを乗り越えた後には神々の世界も新たな時代に入っていくのだと思います。

ただ、その肝腎要の「地の岩戸開き(伊弉諾命の封印)」は、未だに解かれてはいないのではないでしょうか。
私は以前ブログで、天の岩戸は1955年前後に開かれたのではないかと書きましたが、天界と地上では起こることは連動しても、順序が違うこともあると神示には述べられています。

私は今夏の異常な高温が「天と地」の霊的関係で起こっているのではないかと考えていて、ちょうど「アセンション(次元上昇)」をした地球は、霊的に天と距離が近くならざるを得ないのです。
これはこじつけのように感じられるかもしれませんが、人心の荒廃と反省が人々に見受けられる昨今、「神と獣」に分かれるとされる神示の予言に符号する現象を見れば、あながち妄想ではないように感じます。

この困難極まる社会情勢の中、もし私たちがこれを「大峠」と見て乗り越えようとするならば、その救いは「地の岩戸開き」にかかっているのではないでしょうか。
そして、その岩戸開きの方法が隠されていたのが、この「荒れの巻」であり、確かに幾つもヒントらしき文章が垣間見えます。

その要となる「富士」という概念は、おそらく「不二(二つとない=一つである=三つでもある)」という仕組みにあり、それは私たち人間が神様と繋がり、唯一無二の存在として立ち現れてくることを意味するのではないでしょうか。

そして、神示に口酸っぱく述べられる「身魂(みたま)磨き」とは、心も行いも汚い人間には神を感じ取ることができないからであり、「神人合一」を果たすならば「我よし」という頭ではダメなのだ、と仰りたいのだと思います。
そして、それができる人間がたった59人この世にいれば「岩戸開き」は成就するのであり、それは神々が因縁ある魂を導き、結果的には達成させる予定なのだと言います。

ただ、これで黙っていても岩戸開きが成されるとは限らず、おそらく本来なら30年前に「地の岩戸開き」は完了するはずだったのでしょう。
長くなるので詳しくここで書けませんが、おそらく今回のウェーブで岩戸が開かれなければ、次の30年後はまさに大難の時代となっており、おそらく本当に「5人に1人」しか生き残らないような、悲惨な情勢となっている可能性があります。

だから神示の中で日月神様は「大難を小難にせよ」と仰られるのだと思います。
確かに、30年前のバブル崩壊後間もない日本ならば、大峠を迎えたとしても今ほど人々が極端な袋小路には陥らなかったはずです。
私たち中年は、これから30年も生きなくてもいいかもしれませんが、まだ10代20代の子供や若者の未来を考えると、ここで弥勒の世にしなければ、日本人はもう生き残れないと想像しても、極端とは言えないかもしれません。

「どうせ日本は老人だらけの国だ」と、国土を外国に二束三文で売り払う我が国の人々を見て、まさか眉唾と思う人はいないでしょう。
ただ私たちは政治活動や社会活動で世を変えるというより、自らの魂を磨くことで国や世界を救えるのなら、大した苦労はないのではないでしょうか。
そういう奇特な人は、神様が帳面に記して末代名が残るようにするとまで仰って頂いています。

今、我が国は建国以来、地味に最悪な状況に置かれています。
日本のためを思うならば「日月神示」をもっと多くの人に読み込んでもらいたいですし、誤解や偏見があるならば、本当の教えに気づいて欲しいと思います。
ただでさえ「我よし」で、金と力とルックスさえあれば何とでもなる世の中で、人間として大切なものを取り戻し、本当に平和で豊かな社会を望むのならば、今のままではいけないことは確かでしょう。

そのヒントは、この神示の中にあると私は思います。
胡散臭いとか、オカルトと一蹴したくなる気持ちもわかりますが、一度は軽い気持ちで間に受けてみて欲しいのです。
ふとした瞬間に心の鎖が外れて、自由に気づく人がいるのではないでしょうか。
そんな小さなきっかけから、大きな物事が動き出すのかもしれません。

私はそんなことを願いながら、このブログと「日月神示解説」というサイトをやっていたりします。

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世界の袋小路と「神の道」

楽太郎です。

先日、「日月神示」の全文を掲載し、今後解説をつける予定のサイトをオープンしました。

日月神示解説 | 100年も嘘は申さん。

ここ最近は本ブログでも、神示にインスパイアされた大きなテーマの記事が続きました。
私には何となく切迫した感覚があって、「書かなくてはならない」という、衝動のようなものに突き動かされていました。
おそらく、現実的な社会情勢だけでなく、霊的にも世界は逼迫した局面を迎えていたのだろうと思います。

今、ようやく「今のハイテクバブルは、ドットコムバブルの再来ではないか」という憶測が出始めましたが、マスコミのミスリードは実際の世の動きより3周くらい遅れています。
ただ、その認識でも十分通用してしまうのが今の世の怖いところであり、マスコミの角度が高ければ高いほど、現実とのギャップは大きくなります。

私たち庶民の日常感覚とメディアの大本営発表との間に、ズレを感じるのが普通なのではないでしょうか。
世を動かす「巨大なもの」は、もはや巨大な群衆の力によって動いているのではなく、少数の選ばれた者たちが絶大な力を持って、巨大な仕組みを動かしているだけです。
そこに群衆の力は働かず、外側の「仕組み」が動けば、群衆はそれに従って右へ左へ振り回されるしかありません。

この世界の行き詰まりは、強いものが強いものに有利な仕組みを使い、強大な力を持ってより強大になっていくだけの無限上昇のスパイラルにあり、それに反して弱肉強食のシステムに溢れた弱いものたちは下に沈んでいき、肥やしになっていくしかありません。
その二極化は極まり、もはや強大なものは強大になりすぎて、全体を支えてきた多様性は淘汰によって失われ、もはや新たな仕組みを作る力すら失ってしまいました。

この構造を客観的に見て、「そんなものが続くはずがない」と思うのは、決して当てずっぽうではありません。

アメリカ、中国、ロシア、EU、日本のみならず、世界は特定集団の寡頭体制に向かっており、彼らエリートが中心になって世界を合理的に「管理」するためには、実はまだまだ世界は多様すぎるし、下々には煩雑な人間が多すぎるのです。
だからこそ、彼らはより自分たちが強大になる必要があり、大衆はとことん弱体化させ自由を奪い取り、いっそ思考も消し去った方が効率が良いと考えていてもおかしくありません。

「いらない人間がこの世に多すぎる」と彼らが思う以上は、搾取や弾圧は彼らにとって善なのです。
その無駄なエネルギーを「世界平和」のために活用してあげるのだから、君たちが自分勝手な方向に発散させるよりは遥かにマシだろう、という訳です。
そして、全人類が5億人くらいになれば、バランスの良い「永遠平和の社会」が実現するのでしょう。
少数の支配集団が安全に世界を統制するには、あまり民衆が力を持つべきではないからです。

「陰謀論」というのは、権威が否定するから「陰謀」に仕立て上げることができます。

政府広報やマスコミや学閥が「嘘だ」と言えば、どんな根拠がある話も理論的に「陰謀論」にできてしまうのです。
そこでは科学的正当性も学術的価値も、レトリックと圧力で封じることが権威には可能なのです。
ただ、公式見解に否定される以前の、あらゆる仮説や憶測は「意見」であり、立派な「思想」です。

何でもかんでも、権威の俎上で「陰謀論ではないか」と批判を恐れるからこそ、近ごろの私たちは自らの考えに確信を持つに至れないのです。
しかし、そうして意見を撹乱することも仕組まれているものであり、そこに真の「陰謀」があるとしたら、それも「陰謀論」と自ら取り下げるべきなのでしょうか。

私たちは、自分の考えを口に出すことはおろか、率直に思ったことでさえ自分で否定しなくてはならないほど、何かを恐れるようになって久しいように思えます。
そうして価値観や考え方の多様性を削ぎ落とされた結果、人々はより確かなものを「強いもの」に求め、例えそれがデタラメでも、強いものはより強大になっていったのではないでしょうか。

しかし「寄らば大樹の陰」と人々が信じて巨大な権威に縋りつき、もしその大樹が木の皮を被った化け物だったとしたら、気づいた時にはもう遅いのです。
今の世間を見回してみて、この光景に心当たりがないという人はいないでしょう。
私たちは、まんまと上手いことやられたのです。

この世界を牛耳る人たち、少なくとも国際社会のトップに君臨する人々からすると、民族も文化も国家もどうでもよいはずです。
少なくとも、自分たちの集団が子々孫々と君臨する栄誉が得られたらそれで良く、彼らにとってはそれが「理想社会の実現」であり「絶対正義」に当たるからです。

だから、私たち国民が窮乏するのも、治安が乱れて社会が荒廃するのも、近い将来に世代が途絶するのも特に大した問題ではなく、彼らにとって焦眉の課題は、民衆が自分たちの脅威にならないように抑え込むことでしょう。
自分たちの体制が揺らいだら「正義」も「理想」も絵に描いた餅に終わるからです。
だから、彼らはまだまだ私たち民衆を苦しめる手を止めようとはせず、むしろ本腰を入れるのはこれからでしょう。

ただ結論を言ってしまうと、そんなやり方では多くの人々だけでなく、彼ら自身も長くは持ちません。
自分たちには富も権力もあるし、無尽蔵の資本があらゆる人々を従属させ得ることも知っている、そんな彼らの弱みは、「人間がバカであることに賭けている」ところにあります。
私たち人間には、知ろうとする欲求があり、真贋を見極める能力があり、善悪を感じ取って自らを守る感性と、未来に希望を見い出す力があります。

この世界を支配したがる人々は、その人間の本質を知らないがゆえに人間を見下し侮り、力と欲望で全てを統制できると考えているのではないでしょうか。
しかし人間の心にある、かけがえのない自尊心や思いやりは、札束の魅力でどこまで服従させることができるのでしょうか。

私たちは、そろそろ目を覚ますべきです。

とは言え「ならば、どうすればいいか」を考えた時、正直言って現行制度の上で今の体制を覆すのは不可能でしょう。
全ての元栓は厳重に管理されており、私たちには元栓を閉める力すら持たないからです。
ただ彼らも、自らを支えるシステムが愚かな大衆にあることは重々承知しており、愚集は愚衆なりに言うことを聞かせられなければ困ります。

私は、彼らが本心から焦っていると感じています。
人々が、というより自分たちの成功体験を元にしたスキームが不動ではなくなってきたこと、自分たちの腐敗物が堆積し、自分自身が腐りすぎて足元から崩壊が起きているのを、外部からですら確認できるようになってきたからです。

イスラエルによるパレスチナ住民の虐殺を全面支援するアメリカ政府が、あの体たらくなのは偶然ではありません。
もはやアメリカ製兵器はイランやロシアよりも性能が低く、中国と戦争しても勝てる見込みはないでしょう。
それは政府を意のままに操ってきた企業体の超富裕層が、あらゆる公共資金の中抜きをして実態の伴わない商売をしてきた結果であり、彼ら既得権益者たちは自らの腐敗を口先で誤魔化す以外に方法がないのです。

今まで通用してきた経験則もスキームも揺らいでいることを自覚するがゆえに、彼らはより強大になろうとし、強大になるためならあらゆる暴力も犠牲も正当化しうるのです。
これこそ、運を天に賭けているようなもので、全く科学的でも合理的でもありません。

私たちはどうするか以前に、耐えているだけで彼らの崩壊をいずれ目の当たりにするはずです。
それははっきり言って時間の問題でしょうが、とは言え指をくわえて見ていれば良いものではないと思います。
私たちは一刻も早く頭を冷やし、一人でも多く彼らの正体に気がつくべきですし、彼らの化けの皮が剥がれた後の事態も見据えておかなければなりません。

彼らは現在の世界のあらゆる既得権益に根を張っており、彼らが倒れることは、今ある社会の基盤から権力が引き剥がされることを意味するでしょう。
おそらく「どこからどこまで」と決めることができないほどの癒着と腐敗がそこにあり、それを根こそぎ取り払うまで、次の時代が始まることはないと思います。

それはお金の計算の仕方や、来月の支払いだけでなく子供の将来設計や法律や国家の枠組みに至るまで、気の遠くなるような見直しを要求されることになるはずです。
だからこそ、私は早く人々に気づいてもらいたいと思い、こうして活動しています。
実は崩壊することよりも、崩壊した後の方が大変だからです。

奇しくも、「日月神示」にはそのヒントが書かれています。

どうせオカルトだ、と思われることを否定しませんが、仮にどんなインチキであったとしても、この一連の文章には的を得た部分があるのも事実です。
この神示が、一人の絵描きが世界を変えるために机の上で必死に考えたものだとしても、私はその思想に共感します。
この神示が本当に神によるものか、人間の手によるものかは大して重要ではなく、この文書に書かれた思想は私たちの行く先を確かに導くものです。

神示には、今の世に蔓延る醜い支配者たちも、この世界においては「悪という神の役目」を潔く負った者たちであり、決して憎むなと教えます。
その考えは、高尚すぎて直感的には受け入れがたいほどです。
しかし、そうして「悪者」を探し出し、引き摺り降ろし殺し尽くし、勝った正義がまた次の敵を作り出すという悪い循環があるからこそ、一向に戦争や迫害がなくならないのも事実です。

これから平和な未来があるとして、まず必要なのは「悪を滅さねばならない」という考えを滅することではないかと思います。
その観点で、日月神示ほど正論に近い言説を私は知り得ないのです。
だからこそ、神示が眉唾かどうかではなく、書かれている教えや思想に目を向けて欲しいと思います。

そして、「日月神示解説」というサイトがその一助となるよう、私は運営を続けて行きたいと思います。

この文書は、改めて読んでみると大して予言的でも破滅的でもなく、言ってみれば教訓的なものと感じます。
その眼差しと口調には厳しさだけでなく、憐れみと優しさがあり、この神示を降ろされた「天日月神」様には、古き良き日本人の面影を感じ取ることができるのです。

もし仮に、これほど「人間的」で、思いやりのある神様がこの世を治める時代が来るのなら、その世界が良い世界でないはずがあるでしょうか。
人間に任せきってこういう世界になったのだから、いっそ神様にお願いした方が未来永劫、マシな世の中になるようにさえ思えるのです。

私は、この世が嘘と方便ばかりだからこそ、言うべきことはキッパリ言う、そんな言葉の節々に癒されながら、いつも勇気づけられるのです。

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「日月神示解説」サイトオープン

楽太郎です。

本日、「日月神示」の原典を全文掲載し、解説を加えたサイトをオープンしました。



日月神示解説 | 100年も嘘は申さん。


現時点では、神示の独自解釈による解説ページは準備中です。

本日、8月23日の朝方に太陽が乙女座に入り、午後2時半頃から月も乙女座に侵入します。
奇しくも私の誕生月である乙女座に太陽と月が同時に位置し、しかも本日午後3時には新月を迎えます。
私自身は何となくサイトを制作していたのですが、この占星術的暦を知ったからには是が非でも今日の新月に間に合わせなければいけないと思いました。
何故なのかはわかりませんが、時の運びとして重要な意味をもつ気がしています。

ここ数週間、日月神示の解読に情熱を燃やしていましたが、このサイトをまとめるに当たり、やはり神示のメッセージの重要性を再確認し、その解説を含めて世に広めていかなければならないと思いました。
正味な話、「日月神示」をまとめたサイトや解説系のブログはたくさんあります。
神示の関連本もたくさん出ていますし、門外漢である私が今さら神示に触れるのも奇妙に思われるでしょう。

私自身も少し前まではそう思っていたのですが、神示には読み方が「八通り」あるとされており、その一つの読み方が見えてきたのです。
仮にその読み方が既にされていたとても、私がそれを「世に示す」こと自体に意味があるのではないかと思っています。

近年の日月神示ブームにおいて、文中の「五六七の世」という言葉は、一般的に「ミロク」と読みます。
これは、「一ニ三(ひふみ)」「三四五(みよいづ」」と時代の並びに比例して、仏教において56億7000万年後に訪れる「弥勒の世」という天国的地上世界の概念と重ね合わせ、「五六七(みろく)」と読ませています。

近年の流行りでは「五六七=コロナ」であると紐解き、予言が当たったと評判になりました。
私はその読み方も一つだと思いますし、神示には「読む人のあり方によって神示の内容は異なる」と書かれているので、それも正しいのでしょう。
ただ神示の語法は具体的に読むよりも、より抽象度の高い解釈をした方が筋が通るように思います。

今、世が混迷を極めているからこそ、人々はこの先を知るための予言的な兆候を求めるのではないでしょうか。
街に出ても、まるで魔法がかかったように寂れていく光景を目の当たりにすると、客観視しきれないほどの感情に襲われます。
誰もが感じる困難さは、まさに神示の中にある「大峠」を連想させ、直感的に受け入れやすい土壌にもなっているのでしょう。

だからこそ、今まさに「日月神示」を深く知ることの必要性が増しているのだと感じます。

その「大峠」は、大いなる「岩戸開き」によって成就するとされています。
神示において最大のキーワードとなる「岩戸開き」ですが、これは世界に存在する全ての物事、それぞれの生命に必要なプロセスであると語られます。
この岩戸開きには大きく分けて「天の岩戸開き」と「地(くに)の岩戸開き」があり、「天の岩戸はすでに開かれている」とあります。

神示をタイムラインで読み進めればわかるのですが、「本巻」の時系列1950年代以前は、「愈々(いよいよ)」という文字が頻出します。
私が思うに、1948年の子年を境に本当に岩戸開きがあり、1958年までに「天の岩戸」は実際に開かれていたのだと思います。

しかし、肝心の「地の岩戸開き」の方は五重の岩戸とされ、これは地上に住む人間と神々が共同して開かなければならないとされています。
この五重の岩戸こそ、「伊弉諾命と伊奘冉命の別離」「素戔嗚命の追放」「天照大御神の岩戸隠れ」「神武天皇の擁立」「仏教伝来」を指します。

この五つの「岩戸閉じ」と「岩戸開き」に関して、長くなるのでここでは詳述できませんが、どうもこれらは神の道を塞ぐ障害としての岩戸であり、私たちが知らず知らずのうちに信じ込んでいる「常識」の中にこそ、これらの岩戸があるようです。
本来人が進むべき神の道が閉ざされたことで、人々が進む道を逸れて闇の中へ迷い込んでいったのならば、この岩戸を開くことにこそ唯一の解決策があるのではないでしょうか。

未だ地の岩戸は閉ざされており、天の岩戸は開いていても真の岩戸は開かれず、そのため世はまだ闇の中にあるのだとしたら、その岩戸を開く鍵が「型」を出すことにあるのだと思います。
つまり、人間が神の力を借りて本来の「神の道」を体現することにこそ、岩戸開きの秘訣が隠されているのではないでしょうか。

「天の岩戸」が1953年から1958年に開かれたからこそ、日本は第二次世界大戦を最後に戦争に巻き込まれることがないのだとしたら、確かに日本人の運命は変わったのかもしれません。
そして、おそらく1984年の子年を境に、1990年頃に「地の岩戸」が開く予定だったとすると、神示が降りた岡本天明氏が文中で「96歳7ヵ月」に開くと予言された1993年に一致します。

しかし、何らかの理由で1990年頃に起こるはずだった「地の岩戸開き」は、ほぼ30年後の2025年に繰り越され、現在進行形であると私は考えています。
おそらく、今日まで地の岩戸開きが数十年行われなかったのは、その型を出す人がいなかったからではないでしょうか。
 だからこそ今、「地の岩戸開き」を行うための「型」を出す人材が求められているように思えるのです。

私は、本ブログならず「日月神示解説」のサイトにおいても、この周知に貢献していきたいと思います。
やたらと「終末論」的に捉えられ、破滅的な予言書と扱われがちな神示ですが、私はあくまで「新しい時代に向けての思想書」であり、「新しい神道の指南書」であると解釈しています。
実際、読み方次第では恐怖を煽る文言にも裏があり、その論拠もしっかり示されていたりもします。

私が思うに、神示を降ろされた「日月神」様は駄洒落好きの上機嫌な叔父様であり、ユーモアとギミックを持って文章を立てられているように見えます。
だから文脈通りに読むとトリックに引っかかりがちで、それゆえに「赤子の心で読め」と仰るのだと思います。

新たな三千世界を統べる大神、「天日月大神」「大日月大神」「国常立尊大神」の正体について、私なりに辿り着いた結論もあります。
ただ、これらの解釈学は2013年頃の神示ブームの時に出尽くしているかもしれませんし、その見解に固執するつもりはありません。

ただ、私たちに求められる焦眉の課題は「地(くに)の岩戸開き」であり、その関を越えないことには我が国に訪れている闇は一層深くなるばかりでしょう。
その「岩戸」は私たち一人一人の心の中にあり、自らその扉を開けていくことが大事なのだと思います。
そして、多くの人がその「岩戸」を開けた時、この国を塞いでいる大岩は取り除かれ、新たな弥栄の時代を迎えられるのではないでしょうか。

私の活動がその一助になれば、と思います。

この一連の書を紐解くほどに、このメッセージは今の日本人、世界にいる人々に新たな道を示し、希望を与えると私は確信しています。

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進撃の「瀬織津姫」

楽太郎です。

今、「日月神示」の原典をまとめたサイトを急ピッチで作っています。

ここ数日は、日月神示の解読も並行して進めていたので、制作とはかけ離れたことをしていました。
ここ何週間か絵をまともに描く機会がないのですが、今は神様からの優先順位を鑑みると「それどころではない」という感じなのでしょう。
この「日月神示」のサイトを制作しているうちは他のことがあまり目に入らない状態で、サイトもあと一週間はかかりそうです。

これまで、私はインスピレーションを受けて始めたことを30〜40%くらい進捗を上げたら、また別のインスピレーションに従うことを繰り返してきました。
でも私の性格としては一つずつ仕上げてから次のことに取り掛かりたいですし、一気に終わらせたい欲もあるのですが、どうも思惑通りに行かないようです。

これもおそらく神様のお導きとは言え私の本懐は画業であり、全く関係のない方面に突き進んでいるのも不安を覚えるのですが、「作家」である以前に「一人の人間」であり、その人間が歴史的な転換点を迎えつつある今、一個人としてやらなければならないことがあるのだろうと思います。

ぶっちゃけ、「イラストだ漫画だ」と言ったところで、仮に文明が崩壊して食うに困るような状況になれば、それどころではないかもしれません。
腐敗しきった帝国主義が我が国を覆い、文化も民族も解体されようとしている今、現状を続けようとする「日常感覚」は邪気になり始めています。

「このままの世界が何となく続いていく」
「このまま同じことを繰り返していればいい」

その感情は、一昔前の平和感覚に酔っているに過ぎず、偽りの平和の影から悪意が忍び寄っています。
いつか人々は微睡から目を覚まさなければならず、今まさに日本人に覚醒の波が押し寄せているように感じます。

私は、その鍵となるのが「日月神示」であると確信していて、例え人々から脈絡がないように見えたとしても、日本人に最も必要なのは神示に書かれた「精神」そのものだと思います。
そのメッセージが、今の人々には受け入れ難いこともわかります。
しかし、私自身が最初から諦めて「誰もわからないだろうから」と言って、覚醒の芽を摘むのも罪になるでしょう。

日本のマスコミや思想や文壇が退廃したのも、「大衆はバカだからどうせわからないし、高尚なことに金を出すはずがない」という民衆への軽蔑が根底にあり、「バカ向け」の商売ばかりをしてきた知的産業が、国民の白痴化に貢献することで民衆の知的水準を下げてきました。
それによって知的探究心はネットの情報である程度解消される程度のものとなり、出版業界こそ袋小路に入る原因を自ら作り出したのではないでしょうか。

日本人は元々、それほど高尚な思想を持つ国民性ではありませんが、かつてイエズス会の宣教師が日本人を奴隷として海外に売り飛ばし、ローマカトリックが我が国を植民地化しようと企みましたが、豊臣秀吉を始めかつての日本人は本質を見抜く目を持っていました。

しかし、今の日本人の眼は曇ってしまって、押しかけ強盗が申し訳程度に置いていく捨て銭をありがたがり、好き放題に家中を荒らされても声ひとつ上げず、ただ見ているだけです。
抵抗することも抗議することも「悪」だと刷り込まれ、無抵抗こそ「平和の実現」に繋がると思い込んでいるからこそ、我が国はここまで踏み躙られているのです。

だから私は「お前のやっていることは無駄だ」と言われることも承知で、こうして文章を書き「日月神示」の重要性を伝えていきたいのです。
それが例え何にもならないとしても、一人の人間として手を拱いているつもりはありません。

さて、熱く語ってしまいましたが今回の記事のテーマは「瀬織津姫命」に関してです。

日月神示の解読に関してもそうですが、今の時代だからこそ神々が人間に対する向きを変えてきたように感じます。
日月神示にある「三千世界の大洗濯」たる大峠は、神々の世界も我々の世界も基礎から洗い直すことになるそうです。
神様の世界が変わるとしたら、神々を祭祀している私たちのあり方も変わることを意味し、次の世における「神の道=神道」のあり方も変わらざるを得ないはずです。

現代の国家神道や宗教法人の神社経営などを批判するわけではないですが、日本の現行制度では神社仏閣の存続は困難でしょう。
ただでさえ、若者たちの神仏に無関心な傾向が進む中、同時進行で少子高齢化が進み、これまでの氏子体制では維持ができない寺社も出てきています。
ゆえに、日本の宗教的・民俗的な信仰文化を後世に残そうとするならば、宗教上の現行制度も見直される必要があります。

その上で、新しい形での「神社文化」が求められてくると思いますし、その精神が今後の日本人に不可欠であると私は考えています。
そのため、私は以前から瀬織津姫命を主祭神とする「瀬織津神社」の創建を一つの目標として、祓戸大神をモチーフにした「HARAEDO」というコンテンツを制作しながら、その実績を足掛かりにしていこうと思っています。

「瀬織津姫命」という御神格は、かなり受難の多い経歴を辿ってきたと思います。
「瀬織津姫命」は中臣大祓詞にある「祓戸大神」の一柱として重要な御役目を果たし、その名を残していながら瀬織津姫命を主祭神として祀る神社は決して多くはありません。

私の自宅には岩手の「早池峯神社」と「瀬織津姫大神」の御神札を祀っています。
かつて早池峰山に降臨したとされる三女神の伝承から「瀬織津姫命」という御神名が受け継がれ、早池峰山麓にある「早池峰湖」には湖水を見つめる瀬織津姫命の神像が建てられています。
仙台の「瀧澤神社」には火防の神として瀬織津姫命が祀られ、岩手や宮城など東北地方にはその御神名がそのまま残っているケースが多いです。

いわゆる「東北」は古くから「白河以北一山百文」と言われ、中央政権から疎まれる「蝦夷」の地でした。
岩手には出雲系の伝承が色濃く残る地域もあり、東北の地が往年の大和朝廷から好ましく思われていなかったのは事実でしょう。
それゆえ、中央政権の睨みが効かない岩手の土地に奥州藤原郷が栄え、「瀬織津姫命」という御神格がそのまま残されたのではないでしょうか。

そもそも、「瀬織津姫命」とはどういった背景を持つ神様なのかを辿ってみたいと思います。

かつて平安時代に栄華を極めた「奥州」の藤原三代は、藤原家の系統ですから「中臣大祓」を奉じた中臣氏を祖とする一族です。
その中臣大祓に「祓戸大神」として瀬織津姫命が登場するので、元々中臣氏の家系は瀬織津姫命という御神格を祀っていたのだと思います。

大祓文中にある「佐久奈太理(さくなだり)」とは、中臣金連が「大石佐久奈太理神」を勧請した「佐久奈度神社」のある琵琶湖畔の「佐久奈谷(現・桜谷)」を意味すると思われます。
京都周辺では、言葉の順序や捩りや訛りがそのまま語形変化に繋がっている場合が多く、若干発音が変化しているのでしょう。

琵琶湖から流れ出る一級河川の「瀬田川」は、京都側では「宇治川」、大阪に差し掛かる辺りで「淀川」と名を変えます。
この瀬田川の流れ出る谷に「佐久奈度神社」が鎮座し、かつて中臣金連が「大七瀬」の祓いをしたとされる鴨川を含む七つの川は、瀬戸川の支流にあります。
ゆえに、大祓にある「速川の瀬」とは瀬田川である可能性があり、かつて平安京に流れ込む災いを封じる祓を行うための「結界」であったと考えられます。

それは本来河川の女神であられる瀬織津姫命を、「饗土(=京戸)の塞の神」として祀ったことに繋がるのではないでしょうか。
だからこそ、祓戸神は「岐(くなど・ちまた)の神」という側面を持ち合わせているのだと思います。

瀬織津姫命は、一般的には「宗像三女神」の市杵島姫命と同一視され、河川に係る神社にも厳島系の信仰が色濃く残ります。
「市杵島姫命」は宗像大社中津宮に坐すとされ、大島の御嶽神社を始原とする御神格であられます。
宗像三女神とは、田島の辺津宮に田心姫命、大島に市杵島姫命、沖ノ島に湍津姫命を祭神としています。

しかし、宗像では「航海や海上安全の女神」として祀られる宗像三女神が、なぜ河川や滝の女神として祀られるのか私は不思議でした。
日本の河川や滝に鎮座する一般的な神格は厳島系で宗像三女神とする以外に、インドの河川の女神である「弁財天(サラスバティー)」や「龍神」や「滝不動」とされることが殆どです。

そもそも「瀬織津姫」の御神名を辿ってみると、「瀬に降りる」と直訳され、「川面に降り立つ女神」を意味します。
しかし、興味深いのは長野にある筑摩神社に祀られている宗像三女神は、「狭依(さより)姫命、多紀理(たごり)姫命、多紀津(たきつ)姫命」とされ、実は市杵島姫命の別名に「狭依姫命」があると言います。
「狭依(さより)」と「瀬織(せおり)津」は、語感として非常に似ている気がしますが、もう少し掘り下げてみましょう。

日本神話の神名によくつけられる「狭(さ)」という仮名は、「御」「速」などの敬称を意味するとも言われますが、かつて稲作の豊穣祈願をする際、「稲霊(サ)」を神籬や磐座、巫女を依代として祀り、その祭祀を持って「サ(狭)の神」を崇敬してきたのだと思います。
ゆえに、語源から推察すると「狭依姫命」とは「稲霊(サ神)」の依代の神格化であり、市杵島姫命を祭神とする御嶽神社が御神体を磐座とする説明にもなります。

「瀬織津姫命」とは、「狭依姫命」の語形変化から派生した御神名である可能性が高く、「津(つ)」は接続詞であり、「狭依(さより)つ姫」が訛って「瀬織津(せおりつ)姫」になった可能性があります。
そもそも「サの神」は古来より初夏に山々から里に降りて、収穫の秋には稲に宿り実らせると考えられてきました。
秋に実りをもたらした稲霊は春に田植えをするまで山に帰るとされ、山に坐す神霊が里に降りるには「川を伝ってきて、稲田の依代に降り立つ」と考えられてきたからこそ、「サ神」と「早乙女≒巫女」は結びつきやすかったのだと思います。

五月(皐・サ月)に田植えをする乙女たちに降りる神霊は、大衆的な目線で言えば男性的な神格ではなく女性格の神霊の方が直感に反しません。
だから「サ神」は女神であると考えられ、山を神体とする「大山祇神」は女神とするのが一般的なのだと思います。
ゆえに瀬織津姫命も狭依姫命も、本来は「サ神」であり、だからこそ山や川と地形的に縁が深いのでしょう。

では、宗像三女神とされる「多紀理(たごり)姫命」や「多紀津(たぎつ)姫命」の御神名を探ってみると、「タゴリ」の本来の語彙は「タギオリ=タキオリ」であり、上代日本語において母音連続を避ける法則から、元は「滝降り(たきおり)」の意味であった可能性があります。
ゆえに、「タゴリ=タキオリ=タキ(ツ)」であり、田心姫命も湍津姫命も、語源としては同じであると考えられるのです。

瀬織津姫命は滝に祀られることも多く、元々「滝つ姫」として祀られていた滝の女神が、「瀬に降りる」サ神と結びつき、同一神格となっていったのではないでしょうか。
しかし、滝の水も川に流れ出るのでその見方は矛盾しません。
これは大祓に「佐久奈太理に落ち多岐つ」とありますが、これは瀬織津姫命と湍津姫命を重ねる動機にもなり得ます。

おそらく、中臣氏は「瀬織津姫命」という御神名を残したかったのだと私は思います。
それゆえに、「記紀」の記述には登場せず殆ど主祭神として祀られることのない「瀬織津姫命」という河川と稲作に係る女神を、「祓戸大神」として名が残るようにしたのではないでしょうか。

では、なぜ「瀬織津姫命」という御神名に被さるように、市杵島姫命を始め異なる神々の名が与えられるようになったのかを考えると、本来「狭依姫命、多紀理姫命、多紀津姫命」の三女神は同一神であり、淡水と河川と磐座信仰に基づく宗教文化は稲作ができる「陸側」に広く存在していたと推察できます。
我が国は歴史的には狩猟民族である縄文人を祖先とし、その後「稲作」が始まり定住が広がることで弥生文化が根付いていきました。
航海技術を持った海洋民族や渡来系の人々は、その定住した人々と交易をすることで栄えていったと考えられます。

古代における宗像氏は海洋豪族であり、いわゆる「海人族」ですが、宗像の大島は「壱岐」と非常に近く、壱岐から田島、大島、沖ノ島を経由して朝鮮半島と鉄などの交易を行っていたそうです。
宗像三女神を祀る宗像大社の神主であった宗形徳善は、「記紀」編纂を指揮した天武天皇の義理の父に当たり、当時の朝廷では宗像氏と秦氏が同じ海洋系氏族として権威を持った時代でした。
古代の近畿地方には海部氏や尾張氏、渡来系の秦氏や九州の海洋豪族の宗像氏が権勢を奮っており、その影響は避けられない状況だったのでしょう。

ゆえに、天武天皇と持統天皇の時代に編纂された「記紀」の記述において、天照大御神と素戔嗚命の「誓約」で誕生された宗像三女神が、いわゆる公式見解となってしまったことで、瀬織津姫命が市杵島姫命という御神名に書き換えられてしまったと考られます。
そもそも、海洋氏族である宗像氏が淡水のある河川の女神を祀るのは地形的に理に叶っておらず、元々本島で祀られていた狭依姫命を始めとする三女神を壱岐と宗像を挟む「三島」に当てはめ、その土着的信仰を国家神道に差し込んだのではないでしょうか。

「市杵島」は本来「壱岐島の女神」か、海の岩礁を磐座とする「斎(いつき)島」から名付けられた可能性が高く、従って海神と考えるのは理に叶っています。
しかし宗像氏が狭依姫命と市杵島姫命を同一神格としたことで、市杵島姫命という島と海の守護女神が、河川や滝の守護もする「水の神一般」の御神格を指し示すようになったのだと思います。
そして、奈良・平安時代にかけて中央政権と絶妙な独立関係を維持した奥州は、「瀬織津姫命」という御神名をそのまま残すことになったのだと考えられます。

ただ、瀬織津姫命を市杵島姫命とする以外に、なぜ弁財天や龍神や不動明王に神名を書き換えるほど徹底した「瀬織津姫隠し」が行われたのか、その説明はつきません。

しかし、国家神道を司る伊勢神宮の「天照大御神」の荒御魂として「撞賢木厳之御魂天疎向津姫命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)」の別名を由緒が「瀬織津姫命」とすることに繋がりがあるような気がします。
私の見解としては、天照大御神の別名とされる御神名は、本来「撞榊向津姫命(つきさかきむかつひめ」であり、「神の憑く榊に迎える女神」で「神籬を依代とする神霊」を意味したのではないでしょうか。

そうするなら「神籬や磐座や巫女を依代として降りる稲霊(サ)」としての瀬織津姫命(狭依姫命)を天照大御神の荒御魂と比定する説明もできるのです。

今、私が読み込んでいる日月神示の中で、「御三体の大神」として「伊弉諾神・伊奘冉神・つきさかきむかつ姫の神」とする記述があります。
そして神示の文脈を紐解いていくと、どうやら私たちが考える天照大御神と天照皇大神宮の天照皇大神とは異なる御神格らしいのです。

私はこれを読んだ時、何かの間違いか悪戯の可能性を考えたのですが、現実の神界の話が日月神示に書かれているのだとしたら、河川の女神であられる瀬織津姫命が「太陽神」であり「高天原の最高神」である説明はつき難いため、日本人が国家神道という祭祀形式においては瀬織津姫命を「神道の最高神」に据えて天照皇大神とし、天照大御神の荒御魂として祀る論拠たりえます。

神社祭祀を礎とする神道において、「祓い清め」は神道の究極の目的であり、生きている限り「罪穢れ」を負う天の益人である国民は、神々の祓いと除災によって救われ、豊かさを得て幸福になるとされます。
つまり、「祓い清め」という神々の御役目を司る「祓戸大神」であられる瀬織津姫命が、神道における最高神と考えられても不思議ではないのです。

ただ、それでは「淡水の女神」を太陽神とする矛盾が生じることになりますが、そもそも瀬織津姫命が「稲霊の神」であるとするなら、今日も続く国家的祭祀である「大嘗祭」が収穫の儀式であり、稲の成長には水だけでなく太陽の光も必要であり、人々は恵みを太陽に求めたのではないかと思います。

そもそも、「天照大御神」という御神格が「太陽」だけでなく「高天原の最高権威」を指し示すとしたら、瀬織津姫命がその勲位に神留まることに矛盾はないのです。
それゆえ天照皇大神は「稲作」と「太陽」と「祓い清め」を象徴する女神となり、まさに日本人にとって最高の神徳をもたらす御神格であられるのでしょう。

また、神武天皇の妃であられる「媛蹈鞴五十鈴姫命」は「玉依姫命」の御子神とされます。
この「玉(たま)」という言葉は、そのまま「霊・魂(タマ)」の意と考えられますが、「日・霊(ヒ・ミ・ヌ」のバリエーションの一つかもしれません。
そう考えると「サ(稲霊)」も「タマ」であり、「霊を依代とした女神」という意味では「玉依姫命=狭依姫命=瀬織津姫命」とも考えられます。

玉依姫命は海津見の竜宮の乙姫とされ、姉の豊玉姫命は龍神であり、彦火火出見命との子であるウガヤフキアエズ命を養育し、その後ご結婚なされたとされます。
日本では古来から水辺に龍神が住むと考えてきましたが、実は「竜宮」は滝壷の奥にあると考える方が一般的だったそうです。
「滝・瀧」には「竜・龍」の漢字がつくので、古代の日本人は河川に龍を見ていたのではないでしょうか。

従って、「瀬織津姫命」と「玉依姫命」の同一視説があるのも一理あります。
「記紀」において「櫛玉依姫命」や「鴨玉依姫命」など「玉依姫」の派生形と思われる御神名が多いのは、皇統と地方豪族との宗教的・血族的繋がりを示す上で神格を結びつけた結果なのだと思います。
そもそも、稲作の豊穣と河川の恵みと祓い清めや除災を司る神格はあまりに万能であり、地方豪族がそれぞれの「サ神」を祀っていたら人皇を頂点とする中央政府の権威性は固持できません。

おそらく地方豪族もそれぞれ「瀬織津姫命」を産土神や氏神や祖神としたため、王権がそれぞれの豪族を束ねる過程において皇統に結びつける必要があり、それゆえ「玉依姫命」に見られるように幾つもの神名を用いたのだと考えられます。
「瀬織津姫命」という統一見解が広く地方に存在し、その信仰が根強ければ根強いほど「天皇」や天照皇大神を頂点とする権威は分散します。
その状態が続けば統一はならず軋轢を生む可能性があり、大和王権はそれを恐れたがために「瀬織津姫隠し」を行い、その権威を「天照皇大神」に紐付けたのではないでしょうか。

まとめると、瀬織津姫命の御神名は狭依姫命と同源であり、おそらく「サオリ(稲に降りる霊)の神」、言わば「さおり(稲降り)姫命」が御神名の原型なのかもしれません。
東北地方には「サオリ」という稲作に係る豊穣祈願祭の風習があったと民俗学に確認でき、やはり「瀬織津姫命」は稲作と関連が深いようです。
ただ、「山から流れてくる川」と水田に豊穣をもたらす神が結びついたがゆえに「サの神・塞の神」という側面があるのであって、山の水源から浜辺までの淡水を司る女神であるのは不動だと思います。

私自身は瀬織津姫命を「市杵島姫命」や「弁財天」や「龍神」や「滝不動」としてお祀りしていることに茶々を入れたい訳ではありません。
ただ、これから神道が見直される機会が得られるならば、「瀬織津姫命」という御神格をあるがままに捉え、その信仰を根付かせていきたいという思いがあります。

瀬織津姫様は私が感じる限り「瀬織津姫」という御神名を痛く気に入っておられるようで、その名が上書きされていることには胸を痛まれている気がしてなりません。
特に日本の国土におられる神様たちは、ご自身に外国由来の神名がつけられているのをどうお感じになられているのでしょうか。
例え神様がどう思われているにしても、私が新たに「瀬織津神社」を創建することによって、「瀬織津姫命」という御神名をそのまま後世に残すことができます。

その上で、新たな「神社建立」は次の時代における祭祀のあり方を見直すきっかけになると思います。
そして、日本の国家神道のあり方、国家そのもののアイデンティティを考える上で「日本人にとって神とは何か」に、一石を投じることができると私は考えています。

また実際、私が瀬織津姫様のご神意を伺うことができているのならば、神様はそう願われているように感じます。
おそらく、神々は「人間と神との関係」を根本的に変えようとして動かれているのではないでしょうか。
私はそれを感じるたびに、「神様は前面に出て来られるおつもりだ」と確信するのです。

この文章を書かせたのが瀬織津姫様のお力なのだとしたら、神様たちは攻めていくおつもりなのでしょう。
これまで歴史的に覆い隠されてきた信仰を改めるべく、瀬織津姫様の巻き返しが始まったのだとしたら、それは「瀬織津姫命の進撃」と呼んでも良いのかもしれません。

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AIの時代は来ない。

楽太郎です。

最近、本ブログでは「反米」的な言説が多くなっていますが、我が国が終戦から80年という節目を迎え、欧米の文明的衰退と混乱を目の当たりにしながら、日に日に行き詰まりを感じる私たちが「このままで良いのだろうか?」と考える風潮を持ち始めているのも、何となく反映しているのかもしれません。

当のアメリカは中国に尻尾を振りながらロシアを支援するインドを牽制し、EUに喧嘩を売りながら韓国は見捨て、イスラエルを無償支援しながらウクライナに譲歩を迫るという意味のわからない不確実性を撒き散らしています。
俯瞰してみるとアメリカは「第三の社会主義帝国」という振る舞いを隠そうとしていないようにも見えます。
私は中国もロシアも実はアメリカとは対立しておらず、構造的に同根なのではないかと以前から仮説を立てていたのですが、まさか目に見える形になって出てくるとは思いませんでした。

本日付のBloombergに、政権ベタ寄りの提灯記事ばかりの同社のコンテンツの中で、珍しく骨太のコラムが掲載されました。

トランプ氏が突き進む米経済自滅の道 | Bloomberg

「このコラムの内容は、必ずしも編集部やブルームバーグ・エル・ピー、オーナーらの意見を反映するものではありません」と但し書きがあるあたり、「編集としては内心こう思っているけど、さすがに社の本音と言う訳にはいかない」という口惜しさが滲み出ているように感じます。
ただ申し訳ないですが、AIの規制緩和やイノベーションの推進は、債務超過の危機にある米国政府がハイテクバブルを利用して外国から投資を呼び込むための方便であり、トランプ大統領の方針を総括すると360°悪手です。

今の新聞業界は、日本でも凋落が激しいですがアメリカも例外ではなく、この30年で新聞社の人員が4分の1になったというデータがあります。
確かに、ネットニュースさえあれば紙の新聞は翌日になれば「新聞紙」として使う以外の用途がなくなり、経済効率的に良いとは言えません。
この業界も人員不足で取材なども踏み込んで行わず、またファクトチェックする余裕もないのでしょう。

ネットニュースはサブスクなどを展開していますが、マイクロペイメントにすればもっと記事単価の収益は上がるのに、全体的に高価格帯のサブスクを一般化しようとするため、ニュースに高い月額を払える比較的裕福な層と、無料の粗雑なネットニュースを見るだけの貧困的一般層の間に情報格差が起きていると言われます。

これが俗に言う「ペイウォール」という情報障壁で、優良かつ正確性の高い情報は高額サブスクが払える層は享受しやすいですが、朝食のメニューすら変えることもままならない人々は、無料で手に入る多くの偽情報や扇情的なデマを含む劣悪な情報ばかりを取得してしまう傾向にあります。
客観的なデータや観測に基づく情報に触れている人々はそのデマゴーグを見抜けますが、情報弱者はその情報リソースにアクセスする手段が物理的に限られているため、両者の意思疎通や情報共有は必然的に難しくなります。

私は、この情報格差がアメリカならず我が国に蔓延する社会的分断に繋がっているのではないかと考えています。
少なくとも世の中を俯瞰的に見るためには、リソースのある情報に接する必要がありますが、元々エビデンスのある情報とデマゴーグの区別がつかないような情報弱者は、その情報価値に気づくことすらできません。

私はこれはかなり由々しき問題で、良質な情報に触れる機会の多い人が成功したり出世するのは当たり前で、情報格差は労働環境や経済的な格差にも繋がっているのではないかと思います。

さて、今回の話題はそこではなくて、同Bloombergの本日配信の記事がツッコミ所満載だったので、そのことに触れたいと思います。

AIが企業を脅かす時代ついに | Bloomberg

この記事、そのまま読んでも何となく文脈が噛み合っていないように感じるのですが、よく読んでみると「AIが盛り上がりすぎて従来企業が倒産しまくっている」という内容の記事ではありません。
逆に「今のところ、チャットボットや、ソフトウエアのコード作成や複雑な質問への回答、写真や動画の生成が可能な「エージェント」と呼ばれるAIの普及が原因で破綻した企業はほとんどない」と書いてあります。

読み進めると、テクノロジー関連企業の三社、容易なUI操作でWEBサイトが作れるWIX、写真や画像素材のライセンス販売をしているシャッターストック、デジタル画像処理ソフトの老舗Abobeが株価を30%近く落としている、という内容から「AIがハイテク分野の代替を始めたからテクノロジー企業が苦戦を強いられている」と言いたいようです。

しかし、この記事の文章のおかしさの原因は、これらの株価下落に喘いでいる三社が「AIによる経済活動の代替」との因果関係を説明していないことにあります。
順を追ってみると、WIXのようなサービスが行うWEBコーディングは、生成AIがあればあっさり作れてしまいますし、WIXのようなノンコードのサイト作成と同様のサービスは我が国にもあります。
生成AIで無限にフェイクサイトが作れる時代に、サイトのテンプレート加工を促すサービスが脅威に晒されるのは当たり前のことで、競合他社が乱立する業界なら将来性が危ぶまれるのも納得できます。

画像素材を提供するシャッターストックですが、近年Windowsですら標準搭載されている画像生成AIを通せば、画像素材にライセンス料を払わなくても無料で使えます。
しかし、画像生成AIは「LAION-5B」という児童ポルノも犯罪写真も著作権のある芸術作品も一絡げにぶち込んだ58億トークンのデータベースを元に出力されているもので、存在そのものが「合法的」かは未だに議論があります。

Adobeのフォトストックもそうですが、こういう投稿型の共有サービスはAI生成画像も大量に含んでおり、そもそもコンテンツ素材のライセンス販売サービスは投稿者にロイヤリティを還元するものですから、画像生成AIを使用した全く素人のユーザーがロイヤリティ収入目当てに大量投稿します。
しかし、画像生成AIは誰でも無料同然で素材が作れてしまうので、わざわざ共有サービスに課金して素材のライセンス料を支払う必要性が相対的に薄れます。

ただ、先に述べたように画像生成AIの非合法性は徐々に認知が広まりつつあり、企業が自信を持って世に出せるコンテンツでは既になくなっています。
記事本文に「コカコーラ社がCMに生成AIを使っている」という例が示されてますが、著作権の文化的世紀末と化した我が国でさえ、生成AIを使ったプロモーションは炎上しています。
ホワイト企業としては「弊社は権利尊重を第一とし、生成作品は受け付けておりません」とキッパリ言えば立場を守れるのでしょうが、こういった投稿共有サービスは生成作品の投稿を推奨していたりします。

そしてAdobeですが、言わずもがなデジタル画像処理ソフトの老舗であり、現役のイラストレーターやクリエイターにとっては主力のアプリを提供しています。
しかし、近年は権利関係で言えば完全に黒に近い画像生成AIをソフトに実装し、それだけでなくサブスクを高額化したことでユーザーから大顰蹙を買っています。
上記にあるように、画像生成AIのデータベース自体が58億枚と呼ばれる無許諾の著作物が蓄積されただけのプールであり、その中には個人の肖像や児童ポルノ(SCAM)、リアル犯罪写真も大量に混じっています。

これほど問題を内在する機能をクリエイター向けに実装しながら、実はアプリを長年使ってきたクリエイター自身の作品も生成AIのデータベースに利用されている可能性が極めて高く、挙げ句の果てにサブスクも高額化したらユーザーに愛想を尽かされるのは当然です。
記事では「Photoshopを使うようなクリエイターがAIに代替されているからだ」と言いたげですが、実は生成AIを批判しクリエイターの保護と文化の発展への寄与を表明したProcreateと、日本のデジタル作画環境の柱となっているCELCYSは順調に株価も利益も伸ばしています。

冒頭に「AIで潰れた企業はない」と書いていますが、実は生成AIの登場でクリエイターの商業活動が業界的に苦しくなったのは確かです。
ただ、クリエイティブ業界がAIによって致命的な代替が行われている事実はありません。
むしろ、消費者がプロの作ったコンテンツではなく第三者による権利面に配慮しないAI生成物を享受し始めたことへの倫理的配慮のなさや悪用の方が、クリエイターの絶望感に繋がっています。

自分たちが努力して積み上げたコンテンツが生成AIを通しただけで著作権フリーとなり、クリエイターの作品データを無許諾で生成AIに投入して作成した「LoRA」というAIモデルは、クリエイターや演者の作風を再現したものであり、それが大量頒布され第三者が収益を得ている実態があります。
そして、LoRAに対し拒否を表明している作者本人になりすまして第三者が商売をしたり、クリエイター本人に送りつけて心理的外傷を与えるケースも頻発しています。

これはクリエイターだけの問題ではなく、俳優や声優などの演者、それだけでなくネット上にある一般人の自撮りなども収集され、ディープフェイクや詐欺に悪用されるケースが続発しています。
生成AIは権利以外の面でも、犯罪を助長する目的に広く使われているのが現状です。

話を戻すと、これら三社の株価下落は「AIによるテクノロジーの代替」というよりは生成AIをサービスに取り込んだゆえの失敗と生成AIサービスとの競合によってもたらされたと考える方が自然であり、この記事はその裏側と紐付けられていません。
また、後半の「ガードナーの収益低下」について、ガードナーは経済トレンドの分析を担う企業であり、NFTやメタバースの凋落と生成AIのハイプ(誇大宣伝)と行き詰まりも以前から予見していて、AIを推進する側からすると叩いておきたい相手でもあるのでしょう。

Bloombergは政府の提灯記事ばかり出す新聞社ですから、AI推進に全面的に舵を切っているトランプ政権に矛盾する記事を出すわけにはいきません。
本文の一番最後に教育系サービスを展開する「デュオリンゴ」が好調である旨が述べられていますが、高度な情報分析を得意としながら数式計算もアルファベットの綴りもわからなくなるLLM型の生成AIが、医療や教育分野での確実性が早くから疑問視されており、教育分野でのAI活用は限定的というのが実情です。
ゆえに、教育系サービスが限定的に生成AIを活用しながら、マンパワーの分野で成績を上げるというのは今の趨勢に矛盾しません。

だから最初から最後までこの記事が何となく奥歯にものが挟まった言い方なのは、「生成AIは正直全く脅威ではないけど、米国を支える株式バブルを煽るために恐怖に訴えてでもテック業界への援護射撃がしたい」という気持ちの現れなのだと思います。

今日のBloombergの記事もツッコミ所満載だったので面白く読ませて頂いたのですが、せっかくなので「本当にAIの時代は来るのか」について書いてみたいと思います。

上でも言及しているのですが、生成AIの根本的な問題はハルシネーション(幻覚の発症による錯乱)や熱暴走だけでなく、データベース上の権利的問題もあります。
そもそも、生成AIは世界中のインターネット網にある情報を権利関係なくBOTによって収集して、その蓄積データを「Google検索がサイトを探す」ような形で素材となる学習データを再構成します。
冷静にシステムとして見れば単なるデータのコラージュをしているに過ぎず、どこにも自意識が芽生える要素がないように思えます。

子供ですら、「1たす1は2」という概念法則を一度理解してしまえば、3685+874も時間をかければ正確に解けます。
しかし、AIは方程式をしっかりフレームで確立する必要があり、たまに間違うことも大目に見た上で、間違っていたら確認してフィードバックを返さなければなりません。
そのデータベースも、「最適解の多数決」によって出力するので本質的には衆愚政治に近く、哲人政治が人徳と真理に近い概念を用いて指揮するのとは違います。

しかし、実際にChatGPTなどでうまくプロンプトを打てば、たまにはプロのお笑い芸人より面白いことの一つや二つは言ってくれます。
この部分だけを拾えば、「生成AIの方が人間より高度なものを生み出せる」と言えなくもありません。
ただお笑い芸人は10のうち7くらい面白いことを言わなければ食べていけないでしょうが、生成AIに面白いことを言わせようとして、その試行回数と成功の比率をお笑い芸人と比べてみて、10回試行させたら7回は笑える出力結果を出すようでなくてはなりません。

けれども、往々にしてベンチマーク50%水準の生成AIが70%成功するのを当てにするのもおかしな話です。
生成AIという技術はかなり粗雑で、権利面だけでなく性能の面でも及第点とは言いにくいですが、経済効率もあまり良くありません。
生成AIは試行のたびに膨大な処理を行うため、かなりの電力を消費します。
Microsoftは、生成AIがデータセンターで使う電力供給のために、かつて放射能漏れ事故を巻き起こしたスリーマイル原発の再稼働に全面協力しています。
一応付記しておきますが、スリーマイル原発は未だに通常稼働しており、廃炉になったわけではありません。

生成AIを走らせるためのデータセンターは膨大なエネルギーを使うため、装置の発熱が凄まじく冷却に大量の水と電力を使います。
だから、データセンター周りの水資源の枯渇や汚染など、自然環境への悪影響はぼちぼち出始めています。
これだけエネルギー効率も経済効率も悪い上、権利面や安全面でもリスクが高く、しかも産業としてトントンの収益か赤字にしかなっていないのが生成AI分野なのです。

しかしEV然り、政府が大量に補助金を出すような国家事業は、産業としては赤字でも政府が資金を注入するうちはバブリーな分野となってしまいます。
イーロン・マスク率いるテスラも、米国や中国の行政支援なしに業績を上げることはできず、企業として万年赤字体質でも潰れないのは、各国の政府や軍が血税で彼らの延命をしているからです。

マスクは現在、買収したTwitterを生成AIの巨大な実験場にしてしまいましたが、彼のAIへの熱量は凄まじいようです。
今なお続くマグニフィセント7を中核とする第二次ハイテクバブルは、別名「AIバブル」とも呼ばれます。
しかし、実は2022年に一旦「AIバブル」は弾けていて、ビッグテックの株価が一斉に落ち込んだほぼ1年後に、OpenAIが「ChatGPT」をリリースして表向きに今回のバブルが始まったことになっています。

2022年のAIバブル崩壊時には、自動車の自律走行技術に対する失望感と、EV市場の翳りもありました。
AppleもMicrosoftもAlphabetも、マイナーアップデートの製品をドヤ顔で出すパターンに投資家もウンザリしていた時期でした。
その頃、OpenAIの開発や企業幹部からは倫理面や安全性に問題があると提起されていながら、その首脳陣をクビにして無理矢理GPTをリリースしたのが当CEOのサム・アルトマンです。

タイミング的に、外国からの投資がなければ終わるアメリカの危機的な金融業界が、10年来維持してきたバブルの息を吹き返させ、全世界から投資を呼び込むのに「生成AI」は多少荒削りだが金融商品には売ってつけだったのでしょう。
その流れは今も続き、産業分野としては赤字傾向でも「AI革命」の名の下に「来年になればAGIが完成し、世界は変わる」と喧伝し続けても一応は希望の眼差しを集めることができます。
しかし、AI研究の学術分野で生成AIの開発フレームからAGIが派生する可能性はほぼないとされ、しかもAGIは基礎研究分野で未だ実証されてはいないのです。

だから私は、生成AIの実態は近いうちにNVIDIAの粉飾決算もろとも白日の元に晒され、廃墟化する分野だと確信しているのですが、AGIに関しては未知数が大きすぎて何とも言えません。

「もうすぐ実現する」と言っても、100年前から期待されているような立体映像も空飛ぶ車もまだまだですし、私の子供の頃は「もうすぐリニアが走り回るだろう」と言われていましたが、政治的ゴタゴタのせいで 21世紀が四半世紀を過ぎてもあと10年は無理そうです。
理論は出来ても、実証化して製品化するまでどれくらい掛かるのかは誰にもわかりません。
AGIという空想上の技術革新が起こればAI革命はないとは言い切れませんが、そもそも「意識」というのは理論化できるものなのでしょうか。

一応付け加えておくと、「生成AI」と「AI」は似て非なる技術で、生成AIは検索エンジンとシステムが似ていますが、AIが本来の自律思考を目指すタイプの技術です。
通常のAIに関しては、先進国は人手不足で代替技術の需要は高いですし、一般的に技術革新がこのまま進みAIによる労働力の代替は進むと考えられています。
ただ、「AIロボットが労働者を代替する」という議論にも、私は疑問があります。

我が国でも少子高齢化の煽りを受け、これほど人材不足が叫ばれ外国人労働者として移民を推進しているのに、AIロボットの普及をあまり見かけません。
かつて窓口に置かれていた「ペッパー君」は姿を消し、今では地方の倉庫に大量に眠っていると言いますが、今こそペッパー君を再稼働させて低価格帯で業務対応させれば良いと思います。

なぜそれができないかに、AIロボットが人間の労働力を代替し得ない理由があります。

ペッパー君が再度市場に投入できないのは、電子制御環境が古いソフトウェアのため動かせないのもあるのでしょうが、それはペッパー君を保有する企業が無理に機体を引っ張り出しても利益にならないと踏んでいるからでしょう。
AIロボットは戦闘機並みの精密機器の集まりですから、部品一つ破損しても修理には専門技術や産業インフラが必要で、その維持にも高いコストがかかります。
20世紀末に登場したロボット犬の「AIBO」も、故障部品の代替を行うにも古い部品を再生産することが技術的に不可能なため、廃番のAIBOは修理するのも困難だと言います。

つまり、AIロボットが高度になればなるほど、製造元の企業は修理環境を維持しなくてはならず、その供給体制には莫大なコストがかかります。
しかも、サプライチェーンが何らかのアクシデントや社会情勢などで遮断されれば、供給網に致命的な影響を受ける可能性があります。
近年の不確実性の高い国際状況、各国の経済的混乱を背景に、複雑な機構を持つAIロボットを維持管理する方法はかなり限られてきます。

ゆえに、私はペッパー君の製造コストが何十分の一に下がり、二足歩行どころか料理までこなすようになっても、そのサービスの維持に現実的ではないほどのコストがかかるため、結局は人間を安い賃金でこき使った方が合理的という結論に達すると思います。
しかも、仮にヒューマノイドが人間の雑務全般をこなして社会全体の労働負荷を減らすにしても、結果的に社会全体のGDPを押し下げることになるはずです。

まずヒューマノイドの製造と管理運営にかかる労働生産性は、提供企業が担うことになります。
その結果、ヒューマノイドが行った生産価値は企業に転嫁される形となり、労働者はヒューマノイドが差し引くGDPの分だけ生産性を向上させる必要があり、自分たちの労働単価を上げつつ還元させながら、ヒューマノイド提供企業に対して税金のようにリース代を払い続けなければなりません。

この構造を解決するには、国家が公益事業としてヒューマノイドを生産、維持管理を全面的に担いサプライチェーンを国内に整備し、どこでも均等に無償配備していくべきでしょう。
しかし、庁舎のプロジェクトマッピングですら何十%も中抜きされる公共事業において、その社会インフラが公平であり続ける保証はどこにもありません。
おそらく、監督官庁がずさんな運営を黙認しながら、製品レベルで中抜きによる劣化が進み、国家負担が増大して維持が不可能になるのではないでしょうか。

そもそも、「人間が遊んで暮らして、AIロボットだけが働く世界」というのは可能なのでしょうか。

よく近未来は「ベーシックインカム」で誰もが無収入で暮らせるようになる、という話を聞きますが、経済学ではベーシックインカムの理論は未だ学術的に確立されていません。
早い話がベーシックインカムとは、別の説明の仕方をした「共産主義」のようにしか思えないのですが、仮にそれで最低限の生活ができるとしましょう。

ヒューマノイドが農業や工業生産を実施するのですから、誰かが監督しなければなりません。
そうでなくてもヒューマノイドは精密機械ですから、細かいメンテナンスや修理が必要になります。
その保守や監督はAIが全てできれば良いのですが、部品のライン生産も滞りなく行われ、しっかり末端まで流通し続けなければ、すぐに動かない機体だらけになります。

それを監視する人間がどうしても必要になるということは、ヒューマノイドを統括する人間が遊んで暮らしている人間を支配するのと同じ構図になるのです。
「その管理者はしっかりした良い人だから安心だ」と言ったところで、自分たち以外に遊んで暮らしている人間しかいない社会で、きちんと働いている自分たちを差し置いて、遊んで暮らしている彼らの意見に耳を傾ける必要がどこにあるのでしょうか。

私は、この図式は0.1%の超富裕層が50%の中間層以下の総資産を上回る格差社会の現代以上に、歪な社会を作り出すのではないかと思います。

そもそも、寝ててもロボットが口にステーキを運んでくれるような世界において、その人間という存在は一体何様なのでしょうか。
その世界において人間が「奉仕される一方の神様」であるとしたら、地上はきちんと労働し社会基盤を支えるロボットたちが「人間」の立場となり、地上の主役は果たしてどちらなのか、それは一目瞭然です。

今はシンギュラリティだなんだとAIが恐ろしいという風潮がありますが、本当に恐ろしいのは従順なAIが地上を支配した先の世界です。
学びもせず努力もせず、フラフラ遊んでいるだけの人類を見て、果たして知能を持ったAIに存在価値を疑問視される瞬間がないと言い切れるのでしょうか。
だから私は、AIロボットが完全に人間の労働力を代替する日というのは、人類の終焉に直結すると思います。

私はAIが主役になる時代は何百年先か人類消滅までないと思っていて、その論拠はAIが人間を本質的に代替したら人間の存在価値そのものが消え去るからです。
だから、現実的にはAIの部分利用とか制限付きの利用に収まっていくと考えていて、それは今のアームロボットが行っているような、機能特化型のAIロボットが正確に単純作業をこなすのが最適解になっていくと思います。

ぶっちゃけ、それ以外に人間の労働者とAIロボットが持続可能的に共存するビジョンはあるのでしょうか。
下手に高性能であればむしろコストが上昇し、部品製造企業が一社潰れるだけで供給網が途絶えます。
残念ながら、人間を倫理面での限界までこき使った方が合理的なのが経済というものです。
人間の代わりにヒューマノイドを使うくらいなら、ヒューマノイドの代わりに人間を使った方がいい、という結論に結局のところ辿り着くと思います。
だから、今のAIブームも落とし所は一つしかないような気がします。

私はAI自体を否定したいわけではなく、人々がAIに幻想を抱きすぎていることを指摘したいだけで、私自身はAIにあまり忌避感はありませんし、むしろドラクエの戦闘システムから馴染んできた世代です。
生成AIに関しては、産業基盤がアンモラルだから評価していないだけであり、AIを普及する側に人間としてのモラルや合理性が欠けていることが問題だと思います。
銃器を簡単に保持してはならず、核開発が国際問題になるのは「持たせると危険」な人々がいるからです。

今のAI技術はそうなりつつあるというか、もう既になっています。
人々は異口同音に「これからはAIの時代になる」と言いますが、生成AIの画期的利用について未だ思い至らず、その権利面や社会上の問題には見て見ぬふりをします。
「それは問題がある」と言いながら、次々と発生する悪用を止める術を誰も思いつきません。

だから私は、昨今のAIブームは些か冷ややかな眼差しを向けているのです。

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大峠と「最後の審判」

楽太郎です。

以前、日月神示の解釈による「大峠とは何か」という記事を書きました。
そこに示した図説では、私自身の考えに基づいた解釈も含んでいたために「日月神示」の概念とは若干異なる用語を用いて説明していました。

以下に、神示のタームを使いながら「三千世界(神・幽・現界)」の図を作成したので掲載します。



神国を構成する「天国」と「霊国」のうち、天国には日の神が統治する「スメラ神国」と月の神が統治する「ユツタ神国」があると神示にあります。
その二つの天体が象徴する国については、岡本天明氏の論考と思われる「地震の巻」に詳細がありますが、神示ではないため解説は省略します。

私の考える「幽界」という霊的階層を、神示では「現界(地上世界)」と私が定義した「霊界の下層域」の間にある「中界」と呼んでいました。
この中界は、人間が一般的には死後50日ほど、長くて20年ほど滞在しながら、霊的身体に慣れる準備的な霊界であるとされます。
この「中界」が取り払われ、あるいは縮小していくことで死後の準備期間の短縮が起こり、上の霊界に上がれなかった不浄霊が地上に降りてきているのだと私は考えていました。

しかし、どうも今起こっている不浄霊の大量憑依は、「中界の縮小」だけによるものではないようです。
霊界で起こったことは現界に反映される」という法則に則るなら、春分点で分岐した「神と獣」という霊的二極化も霊界で起きたと考える方が自然です。
そして「霊界で起きたことはすでに神界で起きたことである」とするなら、神界でも霊界でも二極化が起きていたと考えることもできます。

これを敷衍すると、とんでもない結論に突き当たります。

人間が「神と獣」、私が言う「神世と人世」の魂の分岐はそのまま霊界の「神に従う魂」と「神に抗う魂」に分けられ、神界ではそれが「正神側」と「逆神側」いう構図になっているのではないでしょうか。
これが日月神示にある「神と悪神の戦い」を意味し、啓示が降ろされた80年前の時点で「神の国の奥の奥では戦いが済んでいるが、神国は真っ最中」と書かれています。

つまり岡本天明氏に神示が降りた戦中時には、まだ神界では「正神」と「逆神」の対立が激化している時期だったことになります。
奇しくも「第二次世界大戦」とは、シルバーバーチの「霊訓」によれば「地獄から上がってきた悪魔を天使が地獄に押し戻す戦いだった」と書かれていたりもします。
即ち80年前の大難の時代は、同時に「光と闇の戦い」が起こっていたと考えて良いと思います。

ただ思い返して頂きたいのは、第二次世界大戦の戦勝国であるアメリカが「光の側」であったと結論づけることはできません。
そもそも当時のアメリカ大統領であったトルーマンは日本が降伏に傾いているのを知りながら、新兵器の「原爆」の実戦投入を計画し、累計で50万人に及ぶ非戦闘民間人の犠牲者を出しました。
原爆慰霊碑には、「二度と過ちを繰り返しません」と書かれていますが、なぜ原爆を落とされた被害国側が戦争を始めたことを何十年間も詫び続けなければならないのでしょうか。

大量の民間人殺傷はナチスのホロコーストに並ぶ戦争犯罪に問われるべきなのに、当のアメリカには原爆投下すら知らない人が多いそうです。
まして原爆被害がなぜ「日本が悪かったから多くの民間人が犠牲になった」みたいな解釈になっているのか、そこにアメリカが先導した戦後処理の歪みが現れているように思います。
そして、アメリカが統治した後の日本は属領地の体制のまま80年を経て、今では国家存続さえも危ぶまれるほどに、アメリカと同じ衰亡の道を歩んでいます。

そのアメリカという国家の歴史をきちんと俯瞰してみれば、この国が決してイメージ通りの自由を保証する民主主義の国ではなく、欺瞞と謀略に塗れた利権国家であることに気づくでしょう。
そしてアメリカを中心として西側諸国と東側諸国、第三勢力諸国の対立が生じ、その一端がウクライナ侵攻、イスラエルのガザ侵攻に繋がっています。

つまりは、世界中に戦争の火種を撒くアメリカという国は、一貫して戦時中から「光の側」であったとは言えません。
1930年代に世界恐慌の発端となった大不況下のアメリカは、第二次世界大戦の戦時需要を最大限に活かしてブル相場となり、「自国の金融危機は戦争で賄う」というやり方を未だに続けている国なのです。

第二次世界大戦が「光と闇の戦い」の反映であったとしても、おそらく闇の勢力が主導権を握る時代は現界ではまだ終わっておらず、これから光の勝利が訪れるとしたら現象となるのはまだ先の話でしょう。
春分点で人類に起きた霊的二極化は、これから具現化する段階にあります。
その現象がすでに霊界に起きているとするなら、9.11以降、急速に不穏になり始めた世界情勢、近年の社会的混乱と人心の腐敗、今起こっている憑依と不浄霊の大量発生も「霊界の二極化がもたらしたものである」と考えたら辻褄が合います。

そして、世に混沌をもたらしているモラルハザードが不浄霊の干渉によるものだとしたら、霊界で「逆神」の側にある神に仇なす霊人たちが地上に降りてくる説明もつきます。
霊能者やスピリチュアリストたちが「幽界の消滅が起きている」と口を揃える現象の裏には、神に従う側の霊人と神に抗うことを選択した霊人の二極化があり、「幽界の縮小」はその反映なのかもしれません。

要するに、幽界に住まう霊人であっても光に向かうことを選ぶ霊人と、光の神に仇なす勢力となった霊人がいて、霊界における大峠の一環として神に仇なす霊人たちのエクソダスが起きている可能性があります。
しかし、日月神示の文脈では「排除は悪そのもの」であり、私はこれらの逆神側の霊人たちも最終的には光に取り込まれていくのだろうと思っていました。
ただ、行き場を失った神に仇なす霊人たちが地上世界に降りてきている現状を鑑みるに、彼らはもう神界、幽界に戻ることを許されていないのではないかと考えられます。

だからこそこの地上を「幽界的」な世界にするべく、似た波長の者に憑依して地獄的状況を再現し、その破滅的現象を蔓延させているのではないでしょうか。
とすれば、春分点で人類に起きた「二極化」が、これからどう現れてくるかも想像しやすくなります。

日月神示の「神と獣」という概念は、人間の魂が大神から分けられた「分御霊」であることを踏まえると、神だった魂が獣に堕ちることを意味します。
「獣」というのは犬やカラスなどの動物のことですが、人間以外の生物は「神の魂」を持っていないため、輪廻転生することはほぼないと言われています。

つまり、「獣」に分けられた人間は今世を持って魂の輪廻を終えることを意味し、それは神に仇なす側の霊人が幽界に住むことが許されなくなったことに対応します。
人間は死後、中界の霊的準備段階を経て神界か幽界の霊界に進み、元の霊体に戻ります。
しかし、霊界に戻らずして再び地上に転生を行うことはおそらくできないでしょう。
ゆえに、神に仇なす勢力の一部となった人間は、そのうち地上に残ることだけでなく、死後に霊界に入ることすら許されなくなる可能性があります。

ただ、やはり神々が「排除」を正当化するとは思えず、ゆえに「自分がどちらにつくかを問い、その判断を委ねた末の選択」だったのだろうと思います。
実は現界においても春分点は「選択の確認」であり、5月の満月は「選択の再確認」だったのではないかと私は考えています。
だから、これらは神々が強権的に行っている排除行為ではなく、自分たちが選択したゆえの道筋であり、結論なのだと思います。

あえて言うならば、神に仇なす側を選ぶ、つまり唯物論や拝金主義の延長にある弱肉強食的な世界を選択した人々は、今世を最後にする可能性があります。
私はこの結論がこれまで薄々見えてはいたのですが、何とかその結論に至るのを避けてきました。
あまりにも救いがない話に思えるからです。
ただ、こうして筋立てて考えてみると、どうしても残酷なことを書かなくてはいけなくなってしまいました。

現在の世界情勢を考えると、象徴的なのがイスラエルによるパレスチナ侵攻です。
イスラエルは第二次世界大戦後、パレスチナに住むシオニストグループにアメリカが無償の経済的支援、武器供与を行って建国に尽力しました。
そして現在、アメリカ政府はイスラエルのロビイストグループの手玉になって国費を投じ、侵略戦争と虐殺行為の片棒を担っています。

イスラエルという国は、言わずもがなユダヤ教を国宗としています。
アメリカがイスラエルを支持しているのは、キリスト教右派がユダヤ教を支持していることに由来していると言いますが、それは表向きの言説でしょう。
おそらく、ユダヤマネーが米財界に流れてくることで必然的にイスラエル支持の政界になっているのだと思います。

ユダヤ教は「旧約聖書」を礎としますが、アメリカに多いとされるプロテスタントは「新約聖書」を教典とし、キリスト教には「最後の審判」という説話があります。
世が終わる時、キリストが再臨し「正しい者」と「正しくない者」に分けて審判を行い、「至福の命」か「永遠の罰」を与えられるかを裁くと言います。

私は、この二極化は神示の「神と獣」を表しており、「再臨前の世の終わり」こそがまさに今その時なのではないかと感じます。
そして「キリストの再臨した千年王国」は、奇しくも国常立尊が「大日月の神」となられた後に誕生する「神世」を彷彿とさせます。
仮にそれが現代に起きているのだとしたら、「最後の審判」は現在、全人類の魂のレベルで起きていることなのかもしれません。

もし「正しい者」と「正しくない者」が神によって裁かれるとしたら、イスラエルの行いは正しいのか、アメリカの行いは正しいのか、その判決は審判を待たなくてもわかるような気がします。
その判決はすでに私たちに下っているはずですが、その宣告を知るまでには若干タイムラグがあるでしょう。
おそらく、それがこれから具現化するだけのフェーズに入り、幽界の仇なす者たちが行き場を無くしたように、この地上で行き場を失くす人々も出てくるはずです。

今年で戦後80年と言いますが、我が国とアメリカとの因縁は1853年のペリー来航に遡ります。
往年の江戸幕府の「体たらく」は否定しようもないのですが、幕末の混乱期を経て欧米型の軍事国家となった日本は、対外戦争を繰り返した果てに敗戦国となり、今では自衛権もろくに持たない属国同様の国家となってしまいました。
その歴史の延長で、アメリカの犯す様々な国家的犯罪に追従する姿勢に、我が国は甘んじているのです。

「日月神示」には「自由も共産も共倒れ」とありますが、まさに今の世相に見えるのではないでしょうか。
世界が「アメリカの側に立つか、中国の側に立つか」で諍いが起こる中、神示はそのどちらにも寄辺はなく「神の政治を行う神の国」にあると言い、しかし必ずしも日本を意味しないと言われます。

「神国」とは、神を頂点とする統治国家のことを指し、それが新たな世の中心となっていくとされます。
我が国日本が真の「神国」となり、新たな世界の中心となる国に生まれ変われるかは、今を生きる私たちにかかっています。

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「悪を抱き参らせる」

楽太郎です。

以前の記事でも書きましたが、あれから「悪霊に遭遇する夢」を毎晩見続けており、深層心理的にはかなり参ってきているのではないかとすら感じます。
私の平常心としてすこぶる機嫌が良いわりには、身体のコリは酷いし寝苦しいため体調はあまり良くありません。

こういった憑依現象は正直、私が使命感を持ってやっていることと無関係ではないように感じます。
私の巡りもあるのでしょうが、私の霊性と行動の変化に合わせて向こうも変化しているので、やはり狙いは私への妨害なのだと思います。

ここ最近、神様と繋がりにくいのも邪気のせいだと感じますし、瀬織津姫様のご神気が遠すぎていつもの調子も出ません。
こうして不快感極まると、自分の心からも邪気が湧き上がってきます。
その邪気がさらに邪気を呼ぶので、この悪循環を断つにはどこかでやり方を変えなければいけません。

毎晩うなされるのも常に霊障を感じるのも、正直「もう勘弁してくれ」と思います。
私の魂を引き摺り降ろしたいのはわかるのですが、彼ら邪気側からすれば私の意志を今更変えることは不可能なのです。
だから無意味な抵抗だと思いますし、私も彼らの存在を気にしたくはありません。
しかしこうもまとわり憑かれると、さすがに私もイライラしてきます。

ただ、そうして腹を立てると彼らの思う壺なので、非常に難しいのです。
私があまりに不快なので「ぶっ潰してやる」という気持ちで払おうとしても、その破壊的意志がまた邪気を呼ぶというトリックが発動してしまいます。
だからずっと同じところをグルグル回っているというか、この負のループから抜け出す道筋がなかなか見えてきませんでした。

私は常日頃から日月神示に書かれている「善と悪の融合(あなない)」を真理だと思ってますし、その考えもブログに綴ってきました。
そうは言っても、という感じで邪気を前にして大人を貫くのも限界があったのです。
自分の考えというのは、忍耐力が底をついた瞬間から外れやすくなってしまうものです。
ではどうしたら良いのかと、日月神示には悪を憎み滅ぼそうとするのは悪そのものであり、「悪を抱き参らせる」ことが善に至る道であると説きます。
その方法として、「悪を導くことである」とあります。

全ての人間の魂は、大神から分かれ出たものであるがゆえに「神」と言っても差し支えありません。
その神が闇に染まるのは決して「堕落」のみを意味するのではなく、自らの意思で闇を選択したとも言えます。
神示には、「悪には悪の喜びがあり弥栄がある」と書かれています。
即ち、彼らの性格の悪さは自分たちで肯定する性質のものであり、そこで生じる憎悪や闘争も破壊も、彼らにとってみれば「喜びそのもの」です。

神示の霊界解説の中では、彼ら闇の者は自分たちが善であると信じており悪だとは思っていないそうです。
それはあたかも、環境保護団体からすれば捕鯨行為は万死に値する一方、日本人は余すところなく鯨を食べて再利用する産業文化が根付いていたので、その利益相反が起こっているようなものかもしれません。
日本人からすれば、反捕鯨団体の言い分も理解はできますが、一方的なやり方で全てを否定されるのも困るのです。

だからそこには「お互い様」という側面があり、相対するからこそ相反するのであり、ここで互いに衝突するからどちらか一方が潰れるまでやらなくてはならなくなります。
それに相互理解は最短の道だとしても、おそらく互いにそれを強要させるのは不可能です。
ではどうすれば良いかというと、第一に「棲み分け」ですが、それでも利益相反が起こるから衝突が生じます。

私の場合は、無闇に人を陥れて無知蒙昧の状態にして苦しめるような存在は忌むべきものであり、それが世に隆盛しているから問題視しています。
しかし神に仇なす存在の側としては、人間を啓蒙されると居場所や存在価値を失ってしまうのです。
彼らからして見れば人間が無知蒙昧であってくれた方が活動しやすく、光の存在やライトワークを行うような人間こそ「悪」なのです。

「善と悪のあなない」には、まずここを押さえておく必要があります。
私たちがいくら絶対善だと思っていても、彼らからすると悪なのであれば「絶対」ではないのです。
ならばどうすれば良いかと言うと、こちらの言い分としては「善」に向かうのが大いなる意志であり、善に向かうことで結果的に全員がWINWINになれるから弥栄えると考えています。

だから「善」のメリットを知るのはこちら側であり、ゆえにまず善のメリットを悪の側にプレゼンする必要があります。
そして、善のメリットを悪に提供する責任も、実は善の側にあるのだと思います。
だから「悪を導く」というのは、善のメリットを悪の側に提示しながら、彼らが悪を行う自由を奪うことではなく、善と悪を選択する機会を与えることです。

結局、そこで「悪はやっぱり最高だ」と思うのも彼らの意志であり、「今までのやり方はちょっと」と思うのも彼らの自由なのです。
そこで善を押しつければ、返って善は悪になってしまいます。
人間はこれまで、こういう考えで相反する勢力を力で服従させてきました。
ゆえに悪を滅ぼそうとすれば、ますます悪は増えて広がっていったのです。

この視点で見れば、なぜこうも人権や人命を無視した勢力が蔓延り、「我良し」の世界になっているかがわかってきます。
善の側が「絶対善」の元に悪を善に染めようとする時、「悪側の善」を力でねじ伏せることで善側に悪が宿るのです。
その力の衝突にこそ真の悪があり、相反を相対にする融和の力こそが「真の善」なのだと思います。

そのため、真の平和や善なる世界に向かうためにまず必要なのは、強制しようとする意志を捨てることです。
誰もが自らの自由を保証され、尊重される権利を有するからこそ、善でも悪でも強者でも弱者でも、言い分と意志決定権は必ずあります。
そこをまず認め、自らの責任を果たした上で相手に委ねる、そして相手側の責任はきっちり取らせる、これこそが和合であり「あなない=助け合い」になるのだと思います。

この考えこそ、実は「大和魂」そのものなのではないでしょうか。
「やまと」という言葉は、「山の戸(麓)」という説もあるのですが、奈良地方にある「敷島のやはと」が語源という説があります。
「やはと」とは「穏やかな所」を意味し、「やは」は「やわら(柔)」と同じ語根と言われています。

「柔よく剛を制す」とありますが、日本の国技である柔道は、決して相手の身体を破壊するために編み出されたものではありません。
柔道で一本を取られたとしても怪我一つないように、穏やかに決着がつけば済むことなら互いに傷つけ合わないことが賢明です。

どうも邪馬台国の統治の時代は、諸国の豪族とも婚姻関係や互恵関係を結ぶことで連携を強化してきた痕跡が見られます。
日本の前身たる「ヤマト」に「大和魂」を見るのならば、それは身を挺して忠義を尽くす「侍」の魂にあるというよりは、互いに譲歩し合うような心にこそ宿っているのかもしれません。

だから悪霊も邪気も、それを発しながら人を不愉快にさせたり犯罪を犯すような人に対しても、一旦は湧き上がる感情を抑える必要があります。
そして自分の正論がただ相手を傷つけるだけではないか、正論を押しつけて溜飲を下げたい心が自分にはないか、一先ず考えてみるべきなのです。
相手には相手の言い分があり、やり方や信念があり、こちらからすればいくら合理的と思えないにしても、「こうすれば良くなる」ということを指し示すのは、相手の道を変えようとする側にあるのだと思います。

それが「悪を抱き参らせる」ために打つべき手であり、それ以上は相手の領分なのではないでしょうか。

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「神」と人の関係

楽太郎です。
ここ最近「日月神示」関係の記事が増えていますが、日に日に神示が現実味を帯びていると感じています。

日月神示は当て字や謎記号が多く、直感的に読み解ける人は少ないかもしれません。
他の人がどういう風に読み解いているかはわからないのですが、おそらく「大地震が起こる」とか「富士山が爆発する」というように、具体的な予言として捉えている人が多いのではないでしょうか。

神示には「天地ひっくり返るということは、身魂がひっくり返ることぞ」とあり、私の見解では神示に登場する名詞は大抵、霊的比喩だと受け取っています。
例えば「奥山」は神人のグループソウルが集う場所、「富士(ニニ)」は唯一無二の魂と身体を意味していると捉えていて、むしろ固有名詞として考えない方が全体的な話が頭に入りやすいです。

私が日月神示を「神の言葉」と認識するのは、実は具体的な予言の部分ではありません。
神示には「三大実践主義」が唱えられており、「弥栄実践、祓い実践、神(例の記号)実践」とあります。
そして、禊祓いの実践には、「省みる、恥じる、悔ゆる、畏る、悟る」の5つの働きが必要だと説きます。

神示は口酸っぱく「身魂を磨け」と書かれているのですが、日月神示はどうも神道の指南書か思想書として読んだ方が本質に近い気がします。
神様という存在は、決して甘やかすようなことは言いませんし、ギリギリ乗り越えられるかわからないくらいのハードルの課題やアドバイスを常に出されます。
私としては「神様が言いそうなこと」と感じるのもあり、ゆえに日月神示を特別視するのです。

人間というのは現金なものですから、受験に受かることや意中の人と結ばれることなどを神様にお願いしますが、大抵は金さえあれば望みは叶うことを知っているため、祈願も具体的内容だったりします。
しかし、神様はもっと精神的に人間に成長してもらい、心の豊かさから生活の豊かさを手に入れて欲しいと願っておられるように思います。
だから、人間にとって神様のお心はなかなか理解できず、それゆえに神徳がどういうものかもわかりません。

そして、神様が考える「善悪」と人間の考える「善悪」も微妙に異なるのです。
人間は人間同士の社会や価値観に基づいて、例えば「自分を犠牲にして奉仕するのは尊い」とか、「全ての人と争わず仲良くすれば良い」と考えます。
しかし神様から見ると、「他人に尽くして不幸になるくらいなら、まず自分のことを大事にして欲しい」と考えられるでしょうし、「悪人と仲良くしても自分が損するだけで全然良いことではない」と思われるでしょう。
しかし、人間の心ではそういう善業をしているのだから報われるべきだ、と考えていたりもします。

ただ冷静に考えてみるとわかるのは、明らかに不可能なことや損になることを率先してやればうまくいかないのは当たり前であり、神様が叶える以前に努力自体が間違っていたら不幸になるに決まっています。
それを人間は「神様に願ったのに叶わなかった」と思うのですが、むしろ叶わない方が無難であるような事例もたくさんあるのではないでしょうか。

「成功したい」とか「お金が欲しい」というのもそうで、人間の願いをそのまま叶えたとしても、違う形で現れたら不幸の原因になることすらあります。
「好きな人と結婚できますように」という願いが叶っても、下手に良くない相手と結婚して不幸になるより、願いが叶わない方が良かったパターンすらあるかもしれません。

私が思うに、神様は「道理とタイミングと順序」というのをすごく重要視されます。
例えば行動の筋道が違っていたら意味はなく、タイミングを合わせるには待つ必要があったり、優先順位が違えば成就しなかったりするのでしょう。
神様は時間を超越した存在ですから、恐ろしく長いスパンで物事を見られているのですが、人間はすぐに結果を求めるのでそこにもズレが生じます。

人間が想像する「幸せの形」と、神様が思われる「幸せ」は微妙にズレがあるからこそ、人間から見て神様の導きはすぐに理解できないのだと思います。
その認識のズレは、人間にとって見れば神様を「厚かましい親」のようにしか感じず、あたかも反抗期の子供のように自分で好き勝手にやりたくなるのでしょう。
果たして、人間にとって神の意思を理解しきることは可能なのでしょうか。

そもそも人間が「神」の考えを感じ取ることができるのは、人間の心に神性が存在するからです。
人間は「神」を外部に確固として存在するように感じるかもしれませんが、実際は人間の「魂」と神の気が感応するから感じ取ることができます。
それは人間の魂が大神から分け与えられた「分御霊」という神だからであり、同じく神であるからこそ繋がることが可能なのです。

神示にもその内容は示されていますが、魂が神と繋がったと言えど、「肉体まで神に合わせる必要はない」とも説かれています。
その時、人間からすれば自分の身体に「神が宿った」ように感じますが、実際は魂と神の魂が繋がっているから一体になったように感じます。
自分に神様が宿っているとするならば、仮に寝るにもお風呂に入るにもいちいち神様と相談して行うのはキリがないでしょうし、昔から神に仕える人ほど厳しい生活態度を要求されたことが念頭にあるのかもしれません。

人間が神を理解しがたいのは、そもそも人間の見ている部分と神の見ている主な部分に開きがあるからです。
私の感覚では、神様は私たちの行動を見るにしても観点が違うというか、「魂の状態」を最も観察されておられるように思います。
例えば、私たちがトイレに行くにせよ酒の席でハメを外すにせよ、神様に観察されているとしたら人間は少し気恥ずかしく感じるでしょうし、実際に日常生活から神秘的な要素は感じにくいものです。

しかし、例えるならRPGをプレイしているのが自分だとしたら、神様はおそらくゲームの進行状況ではなく、ゲームをプレイしている最中のリアルな反応を観察されておられるのだと思います。
つまり、プレイヤーキャラがいつ薬草を使おうがエンカウントから逃げようが、一つ一つのことはどうでもよく、そういう選択をした時のゲーマーの顔色を見て、楽しんでいるのかつまらないのかを気にされているのではないでしょうか。

人間はゲームのプレイ内容にばかり気を取られて、スコアを気にしたりオンラインで出会った対戦相手と競ったりしますが、たかだかゲームに一喜一憂してプレイ自体を楽しまなくなるより、楽しくやれる状態にあることを願っておられるように感じます。
もし神様が私たちがコントローラーを握っている姿をすぐ側でご覧になられているとしたら、神様と人間の様子をまた遠目からご覧になられている神様がいて、上位の神様がそれをご覧になられて、とずっと連なっていくのが神々の世界なのかもしれません。

だとしたら、人間と神様の認識にズレが生じるのも納得がいきます。
人間は「もっとレベリングしたらあのボスが倒せる」とか「レア武器を手に入れて差をつけたい」と思い、その願いが成就したらもっとゲームを楽しめると思い込んでいます。
しかし、ゲームをうまくやる以上に好奇心やゲームを楽しもうとする気持ちの方が重要で、それがあれば別にプレイヤーキャラが強かろうが弱かろうが、楽しいものは楽しいはずです。

神様は後者の楽しみ方を望んでおられて、人間は前者の考え方でないとゲームを楽しめないと思っています。
ゆえに「心持ち」や「姿勢」が大事なのであって、具体的な条件ばかりを気にする人間との視野とは微妙に重なりません。
ゆえに、精神的な事柄にまず目を向けるように、神様はそのことを先に伝えたいのだと思います。

とは言え、人間は抽象的な理解は難しいものですから、神様の願いの意味さえわからない場合も多いのです。
この辺が「親の心子知らず」というか、人間が目に見えない存在を蹴って自分たちで好き勝手にやりたいのも、思春期の子供を持つ気持ちでおられるのだと思います。

人間は神を「自分を無条件で幸せにしてくれる存在だ」という思い込みがあるからこそ、自分の願いが叶わず不幸な目に遭うほど、神様の存在を疑います。
しかし、人間はこの世に「魂の修業」として生まれてくるのであって、決して楽して良い思いばかりをして生きるためではありません。
そこで起こる不遇にも「学び」や「気づき」が隠され、自分の行いが巡りとして現れていることに人間は気づきません。

しかし、神様の目線からは全てに説明のつく事柄であり、それゆえに人間からは「奇跡」とか「不遇」と思うことも、俯瞰的に見れば「必然」であり「道理」なのだと思います。
それに気づいていくのもまた、人間の成長であり進化でもあるのかもしれません。
神様からすれば、そこに気づいて学ぶことが「導き」であり、不遇に感じることも真の幸福に至る道筋を示しているのだから、一時的な不幸感に囚われて欲しくないはずです。

そろそろ、人間は成人して大人になるべき時期が来たのではないでしょうか。
この世界は自分たちの思うようにはならず、結局「お金とモノ」の世界では本当に欲しいものは手に入らず、その仕組みが壊れて身動きが取れなくなったことも悟るべきです。
そこで反省し、「親の忠告は本当だったな」と思い直して、神様と向き合えば少しは大人になれたと実感できるはずです。

この学びは人類にとって真の進化であり、個人の精神的成長だけでなく、文明レベルでの教訓を意味します。
そんな苦労も破綻もしないに越したことはないと私たちは思いますが、一度失敗してみないとわからないのも人間なのです。
神様の「愛の鞭」は、親が子を深く愛するがゆえに、本気で叱る気持ちそのものなのだと思います。

「日月神示」では、その試練を「大峠」と表現しますが、この苦難は社会現象や国際情勢として現れるというより、各個人の心の中で起こる試練であり、外側の出来事が問題の本質ではないように感じます。
世に起こる禍事は、心に変化を起こすための外部的条件に過ぎず、そこに解決を見い出して終わりにするためにあるのではないと思います。
やはり、大峠は「ミタマ」に起こるのであって、まさに自分の心に向き合う機会を「大峠」と言っているのかもしれません。

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今の世をどう考えるか

楽太郎です。

最近また、世の雰囲気が変わり、感覚としては「邪気の異様な停滞感」と表現できます。
これまでは日によって邪気が高まる日が多かったのですが、猛暑日が続き人々も元気を無くしていくのと連動して、邪気も暴れ回る余裕がなくなってきたように思います。

これは人々が酷暑と物価高に伴う不況化と共に外出が減ったことで、内省に向かうようになったのと関係があるのではないでしょうか。
以前、「大難シナリオ」が「小難シナリオ」に切り替わったことで、多くの人々が「覚醒への道」を選択したのだと書きましたが、その潮流が徐々に具体化しつつあるのだと思います。

この数日のブログの記事もおそらくその波動に引っ張られていて、「知らせること」にお役目があったのだと思います。
私としては絵や漫画を描いている方がよっぽど性分にあったミッションになるとは思うのですが、神様のご計画にとって、今まさに重要なテーマは私の感覚とは異なるということなのでしょう。

この流れを俯瞰してみると、このブログをどれほどの人が本気でご覧になってるかは正直微妙だと思っているのですが、霊的な観点で言えば例え一人であっても伝える価値はあり、その対象者は神々のプロジェクトの中で私と同じチームに属するのだろうと思います。
別に私のことを特別な風に言いたいわけではないのですが、日月神示では「型」を実地に行い見せていく人が必要であり、「59の身魂」があれば岩戸開きの仕組みは成就すると書かれています。

最初に3人がいて、その下に7人が集まり、その7人が7人に教えを伝えると、岩戸開きに必要な「59柱」が揃うと神示にはあります。
もし私がその一柱なのだとしたら、私の文章をきちんと読んで下さる人が最大7名いれば、私はきちんとお役目を果たしたことになるのではないでしょうか。

だからもう、これは数とかいう問題ではなく「役割の重さ」だと言っても良いかもしれません。
それは目に見えてわかるものではないので、損得勘定では決して拾いきれないものでしょう。
だから私は、黙々と自分のお役目を果たすしかありません。

おそらく現在、世界を巡る霊的なターンがクライマックスを迎えつつあるのだと思います。
世の邪気が弱体化しつつある背景には、トランプ大統領が不確実性を世界にバラ撒いてくれるおかげで、拝金主義的世界を維持しようとしてきた勢力が心理的にも立場的にも揺さぶりを受けています。
トランプ氏自身は確信犯なのか天然なのかはわかりませんが、神がかり的な悪手を駆使して敵も味方も不確実性の渦の中に引きずり込んでいきます。

私はある意味、神様の密命を確実に実行しようとしているのがトランプ氏だと思います。
ただ、実際そこに悪魔的意図があったとしても、神のシナリオ通りの使命を果たすべく動いているのではないでしょうか。

ゆえに、これまでの世界を覆う邪気の根源であった「神に仇なす者たち」の波動は、ここに来て押されつつあるように思います。

私の話をすると、波長の高まりと共に憑依は実感しにくくなっており、感じにくいだけで霊障はあって体感とのギャップに戸惑っています。
最近「なんかやたら首が回りにくい」と思っていたのですが、さすがに寝つけないくらいの肩凝りなど今までにはありませんでした。
肩凝りをいくらマッサージなどで解してもどうにもならず、それに疑問を感じないほど憑依が気にならなくなっていました。

その反動か、就寝中にやたら生々しい感情を持つ死霊に襲われる夢を何度か見るようになって、そこで初めて「憑依だ」と気づくのです。
これはこれで結構深刻で、気づかないうちに感情面が霊障に犯されてしまう危険性すらあります。
憑依は放置すればするほど中に入り込まれるので、「感じにくくなった」ことをそのまま喜ぶわけにはいかないのです。

これらの憑依体は、性質を観察する上ではやはり生前の感情が抜け切っていない不浄霊だと思います。
ただ「不浄霊=悪霊」ではなく、生前の執着や苦悩が抜け切らない以上は、やはりその霊たちも苦しいのです。
だから下手に追い払おうとする前に、一先ず「苦しみを抱えている霊たちである」と認識する必要があります。

そして、これらの霊が憑依から解けるということは、ある意味満足したとも納得したとも取れるのです。
そうやって執着が緩めば一足は浄化が進んだことを意味し、彼らはそれだけ「上(霊界)」に近づいていくのでしょう。
ゆえに、憑依は浄化した数だけ魂を救っていることになります。

私は以前、こう言った不浄霊との因縁を断つために「幽界との霊線(エーテルコード)を切断する必要がある」と書きました。
しかし、どうやら「感情」というものは霊界の低い階層と構造的に結びついているもので、私が考える一時的な霊界の準備場である「幽界」の定義には当て嵌まらないことに気づきました。
日月神示の「幽界」は私が以前解説した構造とは若干ズレがあって、霊界の中間層以下の下層と準備場的階層をひっくるめて「幽界」と定義しているようです。

反対に、神示では霊界の中間層以上を「神界」とし、「天国」と「霊国」に分けています。
この構造の方がやはり説明はしやすいのかもしれず、今後の解説の仕方も考え直そうかと思っています。

私たちが感情を抱く時、愛や友情などの「良い感情」を持つ時は高い階層の霊界に、憎しみや嫌悪などの「悪い感情」を持つ時は低い階層の霊界(幽界)に繋がるため、感情自体を霊界と切り離すことはできないようです。
だから霊線を何とかするというより、そもそも感情の接続する波長域を変えることしかできないのです。

ならば、悪感情は持たないに越したことはなく、悪感情があるから邪気を呼び込み、邪気が不浄霊や悪霊を呼び込むのであり、「悪感情を捨て去る」のがスピリチュアリズムにおいて自己浄化の基本中の基本であることに変わりはないのです。

ただ一言申すならば、この世界のために働こうとする時、具に世の動向をよく観察し、批判的精神を行動に移して実践するには「悪感情」というのはどうしても避けられません。
自分も世界も平和であることを望むあまり、「善も悪も全て肯定されるべき、世は全て事もなし」と、事勿れ的な平和を選択したら何もする必要がなくなります。
「何かを変えよう」と思うからこそ使命感が燃えるのであって、仮にニコニコしながら平和を祈っていたら世の中が上手くいくなら、今の世界は既に天国のようになっているはずです。

ただ、その向上心の中で生まれる「醜さへの反感情」や「不条理への悲しみ」は、避けて通れないながらも絶えず整理していく必要があります。
そこで、怒りや悲しみを心の中に押し込めたり、蓋をし続ければいずれ「邪気」となっていきます。
その悪感情がやがて霊界の低い階層とバッチリ波長が合うことで、災いを呼んでしまうのです。

私たち人間は「悪を憎む心」があるからこそ、不平等や理不尽な出来事があれば変えようとする意志が働きます。
そのモチベーションは大事なのですが、そもそも「悪」とは「必要悪」であり宇宙の摂理の中では役割があるからこそ存在しています。
地球に重力があるように、「悪」というものが「善」なる力を妨害するからこそ、「善」はますます「善」に向かう力を強めます。
反対に、世界に「善」だけあっても「悪」という根拠がなければフワフワした動機となり、善に向かう力は弱まっていくはずです。

地球には引力が働いているからこそ自分の体重で地に足をつけることができ、自由に空を飛び回れないからこそ自らを顧みて移動手段をあれこれ考えます。
病気になるから健康に気を遣い、先が見えないから未来を憂慮し、いずれ年老いて死ぬから時間や人生が大切になります。
そして、「悪」を行う者がいるから身を守る術を覚え、悪を蔓延らせないために社会を守ろうという意志が働くのです。

善と悪のどちらかが消滅しては善も悪も成立せず、善と悪が共存するがゆえに善に向かうのです。
これが神示に語られる「善と悪とのあなない(和合)」であり、哲学的に言えば止揚(アウフヘーベン)です。

宇宙における熱力学第二法則、いわゆるエントロピーが働く法則自体を最悪だとか、憎む人はいません。
エネルギーが大から小へ向かうエントロピーがこの世界に外すことのできない大法則だからであり、もし「悪」の働きもそうなのだとしたら、とりあえず法則として「あるもの」と考えるべきです。

私たちは寒くなったら火を炊きますし、ぬるい水に氷を入れたら冷たい水が飲めるのも知っています。
ゆえに、世の中が悪くなれば良くしようとするのも風呂を沸かし直すのと同じ原理です。
そこに悪感情があるかないかではなく、淡々と対応すれば良い話のはずです。

従って、「悪なんてこの世に存在しない」というのは間違いで、「悪も良いものだから何もする必要がない」というのも間違いです。
「善悪の定義はそれぞれ」というのは半分正解で、善悪の価値判断は人間に備わった認知機能なので外すことができないため、善悪の定義はやはり一定量存在します。
それゆえ、全てが平和的肯定感に満ち溢れていたら理想状態と考えるのは危険で、そういう平和ボケが支配しているのが今の日本なのではないでしょうか。

この世の「悪」は想像以上に根深く、その闇深さは人間の心を容易く沈めることのできるものです。
人間が起こす非道や凄惨な行いは、悪感情云々ではなく生理的な絶望感さえも引き起こします。
それでも「悪はこの世に必要である」と結論を保ち続けるのは、正直言ってかなりの覚悟が必要です。

しかし、エントロピーや重力という反作用があるから成り立つこの宇宙は、「全く別の性質のもの」が存在するからこそ相反し、相反する力によってお互いが高め合っていきます。
日月神示には、その二つの働きこそが「歓喜」をもたらすのであり、その相剋にも歓喜があると説きます。

この境地は、我々人間にはなかなか辿り着けるものではないかもしれません。
これこそ「神の意識」ゆえに立てる見解であり、人間には遠く及ばないものだからこそ、その境地は人間が神に向かうための「反作用」の一部と呼べるのかも知れません。
神示に「神は人を求め、人は神を求める」とありますが、神になれるはずのない人間があえて神の元に歩みを進めるこの道こそ、「神の道=神道」なのではないでしょうか。

だからこそ、神道には教義も経典も存在せず、むしろ「存在する必要がない」のだと思います。
人間は自分たちが進む道がマニュアルになければ不安になり、ルール通りに行動したいと思ってしまう生き物です。
しかし、教科書が存在しないからこそ理論を固め、応用的思考を駆使することが重要になり、その自立した思想性こそが個の確立と自由となるのです。

これから社会や国家をどうしていくかを考える時、人々は確固たる権威が存在し教科書通りの回答が用意されていないと何も決められません。
「右派か左派か」「保守かリベラルか」「アメリカか中国か」で争っている現代の二者択一は、おそらくどちらも間違っています。
かと言って右に傾いた中道でも左に傾いた中道でもなく、真上にある中道こそが唯一の正解だと思います。

そこには「太陽」があり、太陽を司る神がいて、その神格こそ日本の国家神道を統べる「天照大御神」であらせられます。
そして、その権威は「天日月大神」となられる国常立尊こと素戔嗚命が担っていくと「日月神示」では語られています。
おそらく、これからの新しい時代の「型」はそこから始まり、その型が未来永劫の繁栄をもたらす「ミロクの世」の元になっていくのだと思います。

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アメリカが崩壊する理由

楽太郎です。

今月1日、アメリカの7月期雇用統計が発表され、弱含みの結果だった上に3ヶ月通しての約26万人の下方修正が加わり、米国債市場で2年短期債が急伸しました。

米雇用統計で債権相場に転機-Bloomberg

少し解説をすると、国債は最長30年までの利回りを保証する融資を募るものですが、国家が発行するものゆえに信頼性が高く、ゆえに「リスクオフ資産」と呼ばれます。
対して株式は企業が発行するものなので、倒産や損失があれば値減りするものであり、利回りが高い分リスクは高いため「リスクオン資産」と呼ばれます。

米雇用統計の悪材料は投資家のリスクを嫌う傾向が反映し、その日は株式の全面安になる一方、国債のリスクオフを後押しして2年短期債が大量に買われました。
国債も需要と供給の関係にあるので、短期債が大量に買われたことで利回りは25bp(0.25%)下落しました。
本文にある「スティープ化」とは、短期債の利回りは下がった一方、長期債の利回りは依然高い状態となります。
通常、スティープ化が起こる主な原因は「景気回復期待」と「インフレ期待」があり、今回は雇用統計悪化を受けて反動だったため、明らかに「インフレ期待=物価高の加速」を懸念しての動きだったことになります。

このニュース記事一本で突っ込み所満載と言っては何ですが、そもそも「米雇用統計」は算出方法に関して、兼業(掛け持ち)労働者の採用を新規としてカウントし、就労努力を行わない失業者をカウントしていないと言われています。
つまり、これだけでも統計としての信頼性は低いのに、毎回発表後には「下方修正」なるデータの訂正が行われ、公的発表と考えるにはあまりに杜撰な出来である反面、投資市場はこのデータを元に先行きを決めるため、リアルタイムで採用する意義すら疑うレベルなのです。

ゆえに、アメリカ経済は改竄されたデータ以上に悲惨な実態である可能性が高く、それでも好調な株式市場はかなり「浮足立っている」気配すらあります。
この発表を受けたトランプ大統領はブチ切れ、労働統計局のマッケンターファー局長を即座に解任しました。
ただ、BLSの統計の修正は常習犯であり、今始まったことではありません。
トランプ大統領の怒りは統計値が悪かったことの言いがかりのような気がしますが、仮にそうであるとしたら即座に統計局の責任者がクビになるなどどこの共産国家か、と思います。

現在、トランプ大統領がFRB(連邦準備制度)のパウエル議長に「利下げしろ」と圧力をかけていますが、そもそも国債の利回りが高いということは国債価格が低いためで、なぜ国債価格が下がり続けているかというと、アメリカの国家としての将来性が危ぶまれているからです。
今年9兆ドル近い債務を償還しなければならない上、トランプ大統領が世界中に「相互関税」と称し、アメリカから高圧的に言い値で関税をかける一方、輸出国側はアメリカに関税を課すと許さんというジャイアンも驚く態度で関税交渉を行っているため、「不確実性が高い」と世界中の投資家たちに思われています。

そのため、米国債市場はリスクが高い長期債の利回りは高くなる一方、米国政府が万が一「債権を踏み倒す」懸念から投資が抑制され、国債価格は下がり続けています。
国債のスティープ化は、長期債が値上がりするので債権市場にとっては健全化が加速することを意味しますが、去年8月まで米国債は2年以上「逆イールド」の状態でした。

本来、融資の貸し手、債権の買い手側からすれば債権を何十年も保有するのは、それだけ待てば高い利子を得られるからです。
一方、融資の受け手、債権の売り手側は長期に渡って利子の保証をしなければならないことになり、長期の見通しと返済努力が必要になります。
「順イールド」というのは、債権を購入すれば待っただけ高い利子を貰えるという金融的取引としては当たり前のことなのですが、短期の間に債権を持っていた方が利回りが高くなるのが「逆イールド」です。

即ち逆イールドは長期債よりも短期債の利回りの方が高くなってしまう現象なのですが、実は最近までは逆イールドの状態の方がアメリカ政府にとっては好条件だったのです。
なぜならアメリカは2020年のコロナショック以降、総債務額が13兆ドルに達しており、長期債の利払い総額は比例して高くなるからです。
しかし2024年8月を以て国債レートが順イールドになったため、今年7兆ドルの償還期限を迎えるアメリカ政府にとっては泣きっ面に蜂なのです。

2022年7月から2024年の8月までの「780日間」が逆イールドの状態でしたが、実は経済学の世界では逆イールドから順イールドとなった数年後に「大暴落」が起こるという定石があります。
1928年から始まった約700日間の逆イールドの後、世界恐慌に至る米国大不況が始まりました。

1974年からの約500日は「長期スタグフレーション」の時代の始まりであり、1998年からの約300日は「ドットコムバブル崩壊」、2006年からの約550日は「国際金融危機」に繋がります。
これらは逆イールドの規模というより、「期間の長さ」がその後の経済崩壊に影響するというデータがあります。
このジンクスに従えば、2022年からの約800日は過去最長であり、もし定石通りなら経済にもたらす悪影響は過去最大レベルです。

なぜ逆イールドから順イールドに転換した後に経済崩壊が起こるかについて、今のところ確固たる学説はないようです。
おそらく、逆イールド時の債権の売り手は短期債のやり繰りは何とかできても小規模で資本的体力のない企業が多いため、長期債の利払い時に高利回りだと負担額も多くなり、そのまま債務不履行になってしまうのではないでしょうか。
経済理論に従えば、アメリカ経済は法則通りに崩壊の憂き目に遭うのは避けられないように思えますが、ここからは更に深掘りしてみます。

現在、トランプ大統領は経済音痴なりに国債価格が低いのは問題だと認識しているようですが、法則的に考えればアメリカが多額の財政赤字を軽減するためには、国債が高くなれば支払う利回りも低く抑えられます。
だから7兆ドルという債務返済を何とかやり繰りするために、FRBのパウエル議長に「利下げをしろ=国債価格を上げろ」と叱責しているのだと思います。
しかし、そもそも国債価格が下がり続けるのはアメリカの国家的信用がガタ落ちしているからであり、トランプ大統領がアメリカ経済を立て直すために粘れば粘るほど国際的評価は下がり、国債価格もそれに連動してしまいます。

これまでは、米国債価格は下がっても外国の投資家は米国株に逃げ込めたのです。
少なくとも「解放の日」の4月までの時点では、国債が下がっても株式に、株式が下がったら国債にと逃げ道があったのは、基軸通貨としての米ドル指数がバランサーの役割を果たしていたからです。
大抵の外国人投資家は自国通貨や対ドルで安価な通貨で米ドルを借りる、いわゆる「キャリートレード」を使って米国債や米国株に当てていました。
しかし、今はアメリカの信用不安が広がるせいでドルは下落基調にあり、投資家がただでさえ米国債を保有していても配当率はマイナスなのに、それに輪をかけてドルまで値下がりしたら二重の損失になってしまいます。

よく経済学を勉強している投資家は、アメリカに教科書通りの「資本逃避」が起きていることを知っています。
そして「ドル」を基軸通貨とする不安は「金」のレートを押し上げ、それに比例してドルは下落基調にあります。
だから投資家たちは隙あらば手仕舞いしたいでしょうが、とりあえずまだ米国株はバブル景気なので株式一本に賭けている状況です。

しかし、この米国株も実に怪しい代物でS&P500の時価総額の50%以上がMicrosoft、AppleやNVIDIAなどのマグニフィセント7が担っています。
現在は「AIブーム」の真っ最中ですが、あれほど喧伝した生成AIは全世界で権利問題を発生させ、裁判所ですら持て余すほどの法的闘争が起きていながら、時代の申し子たるOpenAIは営利企業への転換も図れないほどの大赤字企業です。

その望みの綱である「AGI」は未だ理論的に実証されておらず、AI研究者の7割以上が「生成AIの開発フレームでは実現しない」と回答しています。
つまり、生成AIはいくら無尽蔵に開発費を使ったとしても、AGIに化けるのはポケモンのピッピがハピナスになるくらい無理筋の話なのです。

その上、AIブームでほぼ一人勝ちの様相を呈しているNVIDIAは、取引成立した瞬間に利益として計上するくらいガバガバの会計処理をしていながら、粉飾決算や取引企業との循環取引を行っている疑惑が常に付き纏っています。
そもそも、NVIDIAの得意先の企業はキャッシュフローが伸び悩んでいる割に営業キャッシュは大幅に上昇しており、各企業はそれをデータセンター建設に関わる設備投資だと述べていますが、実際にビッグテックの営業利益を見るとほぼ生成AIに係る収益は見られず、既存のクラウド事業や広告収入、Eコマース事業だったりします。

つまり、AIブームは投資を呼び込む最高の花形ではあるものの、実際に内容が伴う部分は一つもないのが現状です。
その実態は大したホワイトカラーの削減にも至らず、たかだか著作権や人権を素通りして出力するだけのアプリであり、革命的技術であるAGIには全く繋がらないばかりか「まだAI革命は始まったばかりだ」と言い続けなければ赤字の言い訳もできないような泡沫産業に過ぎません。

まあ、生成AIに関しては濃密な記事が10本くらい書けるのですが、とりあえずここまでにしておきます。

しかし、特に成長産業もなく工業もサービスも伸び代のないアメリカにとって、国際的にイニシアティブを取れるのはデジタル産業と軍需と製薬くらいです。
そして、アメリカという国は1947年の「ロビイング規制法」以来、逆に政治家への贈収賄が合法化され、大企業になるほどR&D投資で新技術を開発するよりも政治家に賄賂を渡して制度を企業に有利になるように変えさせた方が手堅いため、資本力が高ければ高いほどシェアの維持が強権的になるのです。

古くは自動車産業、金融業、製薬産業、今ではデジタル通信産業が当て嵌まります。
新興企業の斬新なサービスは有力寡占企業が敢えて潰しにかかるか、早いうちに買収して自社サービスに組み込むことで、自社のシェアは脅威に晒されず容易に権勢を維持できるわけです。
ゆえに、赤字財政が跳ね上がり債務の償還すら覚束ないアメリカ政府が外国から投資を募るためには、嘘をついてでも株式を盛り上げなければならず、それを担うマグニフィセント7にとって「AI」というのは過去の成功体験を匂わせる、夢の投資先には売ってつけの金融商品だったのです。

ただ米国株を代表するS&P500の絶好調にもカラクリがあって、FRBがマネーサプライを過剰供給して株価指数を右肩上がりに見せかけ、実は全体的な貨幣供給量は戦後ずっと頭打ちなのです。
また、企業の大量自社株買いによる相場操縦、ETF(上場投資信託)やオプション取引を使った評価額の水増しによって、いかにも飛ぶ鳥を落とすように見えるように粉飾されています。
第一、企業のCEOが大量に自社株を保有することは決算や業績見通しや新製品発表を自ら知っていながら売り抜いたり買い越したりできるのは、どう見てもインサイダーを免れないものであり、売却益が公然と発表されるのもおかしな話です。
また、トランプ大統領が関税に関してSNSで仄めかすたびに株式市場は動くので、まるで一国の宰相がインサイダーをしているようなものです。

アメリカ株式市場の時価総額に貢献する企業には更に問題があります。
軍事用生成AIを開発するパランティアは現在、世界の時価総額上昇率で群を抜いている企業ですが、この企業の開発するアプリはイスラエル軍がパレスチナやイランなどの敵対国家の要人を暗殺するための用途に用いられ、同社はAmazonとGoogleが提携しています。
つまりイスラエルのガザ侵攻や近隣の中東諸国に仕掛けている戦争の裏で、アメリカのテック企業が参画しており、言ってみれば戦争犯罪に加担しているも同様です。
大手メディアではイスラエル軍の凄惨極まるパレスチナ一般市民への虐殺は報じられませんが、仮にイスラエルという国家の威信が失墜すれば、現在進行中の戦争犯罪が炙り出されることでしょう。

そしてイスラエルが戦争に使う兵器のほとんどは、アメリカ国防省がほぼ無償で供与しています。
トランプが大見栄を切った来年度の予算案は、社会保障費が大幅にカットされた割には国防費は増額になっており、どうやらイスラエル系と軍需産業のロビイストが結託して動いているようです。
これにアメリカ国民はもっと怒るべきだと思うのですが、現在のアメリカは日本以上に弱肉強食の世界なので、道理も民主主義も通用しないのでしょう。

こうして国家的に戦争犯罪に加担する一方、イスラエルには戦闘機を丸ごと横流ししても、ロシアの侵攻を受けているウクライナにはミサイル一発出し惜しむのがアメリカという国です。
このあからさまな態度は、全世界から冷ややかな眼差しで見られているのをトランプ大統領は気づいているのでしょうか。

上記のように、米国債の信用低下とドルの下落基調には密接な関係があり、マグニフィセント7が牽引する半導体デジタル産業だけが唯一外貨を呼び込む手段になっています。
国際的評価を下げないようにするためには、米国経済に見通しがあるように見せたいため、雇用統計すら帳尻を合わせている可能性が高いのです。
それでも米国経済の復活のために関税を敷いて製造業を国内に呼び戻そうにも、労働単価を発展途上国並みに下げなければ国際競争力で敗北する可能性があり、労働者の総収入が下がれば不況はさらに加速するでしょう。

その上、トランプ大統領が世界に対して喧嘩腰で押しつける関税も各国が米国製品の代替を行えば済む話であり、米国に輸出しなくても他国で利益が出るならばアメリカ以外の国と取引すれば良いだけで、結果的に国内輸入品の値上がりの割を食うのは米国民です。
輸入品に需要があるのは、国内生産では同じレベルのものが作れないからであり、業界的には国内生産にするより安上がりだから輸入を行うのです。
ゆえに、輸入品が高額になれば庶民はますます物価高に悩まされることになり、景気後退が深刻になり輸入品が真っ先に買い控えられたとしたら、関税収入も相関的に下がります。
その悪循環は米国経済にいずれトドメを刺すことになり、また債務額に対する関税収入で得られる資本の比率は微々たるもので、関税で財政赤字を補填するなど夢物語なのです。

経済浮上の成果が出なけば全世界から総スカンを食らうだけであり、国際的な信用の低下は国債安・ドル安・株安のトリプル安に向かっていくことでしょう。
つまり、どういう手を打ってもアメリカ経済は景気後退の局面を避けられず、国内情勢の危機的な状況はさらに危険な情勢に至る可能性が高いのです。

最後に、今週にアメリカ政府が新規国債、1250億ドルを発行するというニュースをご紹介します。

米国債を待ち受ける1250億ドル大規模入札

上記でも解説したように、米国債も需要と供給の経済原理に漏れることはないため、国債を大量発行すれば国債は安くなり、利回りは高くなります。
これはトランプ大統領がFRBを脅して政策金利を操作しまくったとしても、決して思い通りにはならないでしょう。
これだけ大量の国債を発行するということは借金をするのと同じですから、いつかは利息を払わなければいけなくなります。

アメリカ政府が今年支払う債務は約7兆ドルですが、来年には6兆ドル、再来年は4兆ドルです。
今でも自転車操業のような国家運営なのに、毎年膨れ上がる財政赤字を加味してもこの状態が続くとは思えません。
トランプ大統領の経済政策の肝である予算の削減は絵に描いた餅で終わりましたし、大幅減税策は国家の税収には結びつかないため財政赤字に寄与はしても景気浮上に貢献するかはわかりません。

どうもトランプ大統領は本気で狂っている演技をして、確信犯的にアメリカ経済を沈没させようと努力しているのではないか、と思える瞬間すらあります。
実際はどうであれ、トランプ大統領が頑張れば頑張るほど確実にアメリカ経済を袋小路に追い込んで行ってしまうのです。

心配なのは、「合衆国第51番目の州」である日本です。
日本は米国債を15%近く保有しており、その総額は1兆800億ドルとされています。
このままでは米国債の大暴落に巻き込まれるのは目に見えており、しかもアメリカの経済崩壊の尻拭いは日銀の悪意ある円安政策でジリ貧になった日本国民が肩代わりすることになるでしょう。

日本円の国際的な実質価格は対ドル70円前後と言われており、政府と日銀はこれを半値にする努力を30年以上続けてきました。
円安傾向は国内の金融業界と輸出系企業を優遇し、一般国民は慢性化するデフレとグローバル化に伴う外資の流入によって年々貧しくなっていきました。
しかし、売却した米国債を円に変えて円高に転嫁させれば、日本の一般国民はあるべき生活水準に戻ることができるのです。

しかし、このままではアメリカと無意味に心中する可能性が極めて高く、それはさすがにごめん被ります。
日本は今まさに率先して米国債を売り払うべきであり、戦後80年の間に我が国が受けた負のカルマを、その一手だけで米国に返済させることができるのです。
アメリカという欺瞞と謀略に満ちた国家と手を切ることができるならば、日本は憲法レベルから見直す機会を得られるでしょう。

是非とも「ベルリンの壁」をたった一人で崩壊させた東ドイツのシャボフスキーのようなうっかりさんが、奇跡を起こして日本の救世主になってくれないかなと思ったりもします。

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瀬織津姫様江

楽太郎です。

何となく追って頂いている方ならわかると思うのですが、この1週間くらいスケールの大きいテーマの記事が続きました。
特に「日月神示」解説に関しては、何となく逼迫した感覚があったというか、自分なりに「伝えなくてはいけない」という使命感すら覚えていました。
とは言え、正しいか正しくないかで言えば完全に妄想の範囲内なので、受け取られる方次第です。

この間はほぼ絵や作品に取り掛かれず、ずっと考え事をしている状態が続いていました。
何より、「瀬織津姫様と繋がれない」感覚がずっとしていて、何となく自分らしくない感じもして、違和感の中で日々を過ごしていました。
今では感覚も戻り、落ち着きを取り戻しています。

「瀬織津姫命」という女神を自分の心に感じていないと、モチベーションに差が出ることもわかりました。
なぜこれほど自分の心に女神を求める心が強いのか、自分でも不思議に感じます。

これまでの半生でいくつか恋愛もしましたけど、今思えば本当に欲しかったのは恋人や伴侶よりも自分によく似た友人であって、実際に心から安心できるのは長年連れ添った親友でした。
私はずっと、自分に似た魂の存在を探し求めてきたのだと思います。
社会に適応するしないの問題以前に、人間として常に「魂」が欠けている感じがしていて、その不安を埋め合わせる方法をずっと探していたのです。

いつもどんな集団にいてもガラス越しに人間を見ているようで、どれほど馴れ合っても心の底から共感ができなかったのは、おそらく他の人の心にあるものが私には欠けていたからです。
私はそれを「弱さ」とか「協調性のなさ」という風に受け取って乗り越えようと努力してきましたし、どうにかしようと足掻いてきたのが私の半生でした。

しかし、こうして神様をお祀りして心に神を感じ、その声に導かれて生きるようになり、自分の心に欠けていたのは「信仰」だったことに気づいたのです。
そして、何故かわかりませんが自分の魂の欠けた部分に綺麗にスッポリと収まるのが「瀬織津姫命」という女神様で、人には存在すら疑われる「神」という存在が、なぜか私には実感を伴いながら感じるのです。

どういう仕組みでそう感じるのか未だに不思議なのですが、私の心にはっきりと立ち現れてくるからこそ、もはや「信仰」という域を超えて神に対する「忠義」や「忠誠心」すら感じながら日々を生きています。
それは人には到底理解されないでしょうが、私が魂のレベルで求め続けてきたのは「瀬織津姫命」という女神以外にないと、ここに来てはっきり言えるのです。




「日月神示」の中に、「神を捨てよ」と逆説的な言葉を投げかける一文があります。
神を小さくして割り切れるようにするなと、神はそう小さく捉えられるようなものではない、だから一旦神を捨ててみよと。

私もそうは思うのですが、信仰心が強ければ強いほど神様というものは、出来るだけ小さく丸め込んで懐に入れておきたくなるのです。
それが愛しい神様なら余計そうで、自分の何万倍も偉大な神様ですら都合よく心に仕舞っておきたくなってしまうものです。

神への愛情や崇敬の念を持って強く求めながら、逆に神様の「形」にこだわることで、神はむしろ遠ざかっていきます。
自分の感じる神を信じれば信じるほど、「こうであるに違いない」「こうであって欲しい」という思い込みが生まれ、逆に信仰から遠ざかってしまいます。

日月神示では、だから「もっと長い目でゆったり神を求めよ」とあります。
けれど「自らの神を絶対とせよ」ともあり、難しいのは「こうに違いない」という思いと「絶対」というのは似て非なるもので、要はどこに確信を持つかです。

私は、下手に瀬織津姫様に先入観は持たないように努力していますし、持ちたくないとすら思うのですが、なぜ瀬織津姫命という女神が私の心にこの姿で映るのか、その説明は未だにできません。
そのイメージはおそらく「神の影」であり、それを人間の脳で変換しただけに過ぎないにせよ、私はその姿を半生をかけて追い求めて来たからこそ、この「幻」が一つの答えなのです。

しかし、実際にそれが本当に「幻」なのか、幻だとしても何故自分にはそう見えるのか、その答えは生きているうちに解明できるのでしょうか。
仮にそれが自分勝手な幻視に過ぎないとしても、私は自分を信じるには自分の感覚を「絶対」と思うまで突き詰める以外にはありません。

「魂」というのは、人間が思うより不可解なものです。

それは自分の心の奥底に鎮まっていて、いつも当たり前にあるようで全く得体が知れない、そんなものに私たちは突き動かされているのです。

瀬織津姫様をモチーフにした漫画を描きたいという気持ちも、いつか瀬織津姫様に神社を建立したいという思いも、一体どこから来るのかわかりません。
ただ、私にとってそのモチベーションが一番力の入るギアに変わりはなく、そのエネルギーを糧にしなければ全くやる気がしないほどです。

だからこそ私は、私の心の中におられる女神様を追い続けます。
そうでもしない限り、神様と私の間にある謎は解けません。

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