楽太郎です。
現在制作中の「HARAEDO」投稿専用のブログのトップイラストが完成しました。
例によって浮世絵っぽいテイストを出しても良かったのですが、あの作風は好き嫌いが分かれそうだということ、自分としては表現の幅が広い方が好ましいと思い、一番目を引くところに置くイラストということで手慣れたテイストにしました。
やはり落ち影だけでもあると違うというか、浮世絵テイストでは一影がつけられないのが感覚的にもどかしかったので、しっくり来ました。
久しぶりに昔の作画工程に戻したので、勝手を思い出すのに苦労しました。
ていうか、憑依&病み上がりで一枚絵を描くのは体力的にしんどかったです。
これまで体調不良が続いて長時間の作業は無理でしたし、だから投稿はラフばっかりになってました。
ただ、腰を据えて絵を描けるのはやっぱりいいなと思います。
私は基本的にワーカホリックですし、特に絵を描く以外に趣味がないので、寝転がっているしかない時間の方が霊障とか呪いとかよりよっほどきつかったです。
私にとっての最大の苦痛は「退屈」なのです。
これを期に、秋津姫命のデザインも変更しました。
何となく、速秋津姫様から創作に前向きな印象を抱かれてない感じがしてましたし、デザインが固まりきらないのもそういうことかなと気になってました。
そこで兵庫県に鎮座する「湊口神社」のサイトにお邪魔して、画面越しに参拝して速秋津姫様のご協力を改めて祈願しました。
すると、固まりきらなかった秋津姫様の髪型に「HUGっと!プリキュア」のルールーのデザインを流用することを思いつきました。
そう言えば、闇堕ち時代のルールーの髪型は何となく「美豆良」っぽかったので、神のお告げだと思いました(?)
そこでデザインもいよいよ固まりつつ、しばらく速秋津姫命について調べていました。
どうやら、速秋津姫は瀬織津姫の「姉」とする説もあるそうで、そう言えばどちらの神も伊弉諾命からお産まれになられているので、面白い説だなと思いました。
私の構想での秋津姫はおっとり系の天然ドジキャラなので、「お姉さん」という属性は強烈に光る気がします。
あと、宮城県亘理郡に安福河伯(あふくかはく)神社という延喜式式内社にも書かれてる古い神社に速秋津姫様がお祀りされていることを知りました。
亘理は震災の被害にも遭った、海辺にある土地です。
しかし神社名の安福河伯は、宮城の一級河川である阿武隈川の古い呼び方だと思います。
「開都(あきつ)」とは港のことですから、古代は神社のあった土地が海岸沿いにあった可能性があります。
亘理が海沿いにあるとは言え、速秋津姫命が阿武隈川の守護神としてお祀りされているのは、やや直感に反します。
河川に祭祀されている祓戸大神と言えば、どう考えても瀬織津姫命っぽいなあ…というのは個人の感想です。
「瀬織津姫命」という神名にしたくないために、他の祓戸三神の神名をスライドしてお祀りしているケースがあるような気がします。
白山権現としてお祀りされている菊理姫命は、瀬織津姫命と速佐須良姫命の変換によるものではないかと私は勝手に想像します。
瀬織津姫命が宗像三女神や弁財天としてお祀りされているのはまだわかるのですが、「女の龍神様」としてお祀りされているケースもあり、なんだかなあと思ったりもします。
ご先祖様が良かれと思って始めた信仰なので、ケチをつけるつもりはないのですが…。
やはり日本の神道史において、本地垂迹よりも飛鳥奈良時代の宗教改革と明治の神仏分離令あたりで発生した信仰の歪みが尾を引いている気がします。
こういうのは、人間が改めようとしなければ改まらないのでしょうが、神も仏も鼻で笑われるご時世ですし、人間がどう頑張ったら見直す機会を得られるのか、想像すると途方もない気持ちになります。
やはり、私が頑張るしかないのでしょうか。
しかし一体どうやって…?

楽太郎です。
長いこと「霊障」に苛まれ、憑依と戦って来ましたが、どうやら終わりを迎えたようです。
ここ1週間ほど妙な風邪を引き、全く何の薬も効かないような頭痛に悩まされていました。
同時期に家族にも霊障としか思えない不調が及んでいて、かなりの危険を感じていました。
「本当にこのまま取り殺されるのでは?」という恐怖と緊張感で、一時も心が休まる時がありませんでした。
どうやら霊というものは、肉体への憑依が難しくなると他のモノに憑依して、攻撃対象の体内に侵入して霊障を起こすことがあるようです。
私はここ何年も風邪を引いたことがなく、最後に体調を崩したのはコロナワクチンを打った時くらいです。
最も霊障が過酷な時期の終盤に、不可思議な夏風邪を引くのもやはり因果だったのだろうなと思います。
その憑依が解ける瞬間もはっきりわかりました。
それと同時に、風邪の症状も一気に和らいで頭痛も快癒しました。
家族に起こっていた霊障も同時になくなり、私もいつもの健康的な波長を取り戻しました。
この憑依との戦い、「お祓い合戦」と言っても良い応酬は2か月ほど続いていました。
その頃のドキュメントは本ブログで辿れますが、これは人間を支配する存在からの「呪い」と言うべきものでした。
私もやるならやるぞと、このブログでも徹底的に相手側を挑発し続けてきたわけですが、私の文章が「魔除け」の一環になっている実感は常にあったのです。
伊弉諾命が亡くなられた伊奘冉命を追って黄泉の国まで赴いた時、豹変した伊奘冉命の放った亡者の群れに追われながら、傍に生えていた「桃」を投げつけて魔を祓います。
そして黄泉比良坂まで辿り着くと、大岩で出入り口を封じて邪気の侵入を防ぎました。
桃は「意富加牟豆美命」、岩は「道反之大神」で、伊弉諾命を守る破邪の力を持った神々です。
私は象徴的な意味で、呪いの者たちに対して桃を投げ岩を置き、破邪をし続けてきたのだと思います。
この戦いがいつまで続くのか途方もない感覚はありましたが、苛烈さが増すにつれ私自身も力をつけ、「いずれ霊力で抑え込めるようになるのでは」という予感がありました。
ああいった魑魅魍魎の類が襲ってくるのは、私の心に幽界への霊線が残っているからです。
しかし彼らの挑発に素直に乗ってしまう私は、霊障を受ける限り憑依の元となる霊線を断ち切ることができません。
そのジレンマ自体はどうにもならなかったのですが、奇遇にも私の波長が上回ることで憑依を抑え込める状態になったのです。
霊障が及ばなくなることで波長が高い状態で維持できれば、いずれ自ずと幽界との霊線は切れていくのだろうと思います。
自己浄化の末に幽界との切断が可能になると考えていたのですが、まさかこう言う形での終わり方があるとは思ってもみませんでした。
この応酬に終止符が打たれることで、私の身体も元に戻ってきました。
正直、ストレスと過緊張で身体がボロボロだったのですが、今は緩んで完全にリラックスできます。
とは言えまだ身体の中にいくつもの波長が入り乱れていて落ち着かないのですが、いずれ収まると思います。
昨日、わりと涼しかったので散歩に行きました。
いつものように川を眺めていると、ふと瀬織津姫様のことを思い出し、感謝して手を合わせました。
公園にある紫陽花を見た瞬間、何故かわかりませんが涙が溢れて思わず立ち止まってしまいました。
紫陽花がとても綺麗で、私はしばらく何かを見て美しいと思うような、感情的な部分で心が動いていなかったことに気づきました。
ふと気がつけば、取り殺される寸前のところで心臓を鷲掴みにされていたのですから、無理もありません。
その緊張が解けて自分の感受性を取り戻した時、ようやく自分らしい波動に戻ることができました。
この「自分らしさ」を取り戻してから、神様からメッセージとして「お許し」が降りてきたように感じます。
これまでの破邪の経験も、おそらく私に課せられた試練の一つだったのでしょう。
私はそれをやり終えたから、ようやく私自身の「感情」を使っていい段階に入ったのだと思います。
それは人間として、私が積み上げてきたものの捨てるところがない部分であり、しかし小我としてエゴに染まりきってはいない素の人格です。
神様からお役目を頂き、実行する時は自分の好き嫌いや感情は後回しになります。
神様がガッとエネルギーを送ってこられるので、私は「そういう気持ちにさせられる」のです。
これに自分の意思で抗わないことが「神に身を委ねる」ということです。
私はこれを導きとし、これまで神の意志の赴くままに行動してきました。
ただ、そこに人間としての心がないかというと、決してそうではありません。
常に疑心暗鬼と葛藤があり、頭と魂と肉体はついて行けても、心の中の感情の部分だけは、いつも一歩も二歩も遅れてついて来ました。
感情をある意味押し殺さなければ神の意志を実行することはできないため、感情の抑圧によって私自身にも自覚のできない心の闇があったのです。
それが、ずっと私の「弱み」でした。
ただ感情は、この時期に囚われると浄化の足枷となる、非常に危険なものでもあったのです。
感情を利用して古い人治の世に引き摺り込み、取り込んで覚醒を阻害するのが邪気の目的ですから、むしろ感情は押し殺しているくらいで丁度良かったのです。
しかし、今になって感情を取り戻して良いようにお告げを頂いたのは、どういう意味があるのでしょうか。
おそらく、私が次元上昇をしていく過程で、ある意味「人を引き上げる」ことができるレベルまで達したからだと思います。
これまでは私情に駆られて失敗する可能性が高かったのだと思うのですが、私がようやく人を導く立場に立てるようになったのかもしれません。
人を助けるには、まず自分の身が安全でなければならず、上にいるから誰かを引き上げることができるものです。
ただ、世に生きる人々全員を引き上げることはできません。
中には、自分で沈むことを選んだ人々もいます。
そうした人々の中から、引き上げることのできる人の手を掴もうとする時、水の底から引きずり降ろす手が伸びてくるでしょう。
私は彼らを払わねばならず、手を伸ばす人を守らなければなりません。
そのために、私は強くなる必要があったのだと思います。
この許しと同時に、奇遇にも私が捨てた過去の作品を見返すタイミングが訪れ、私はキャリアを振り返りました。
そこで、祓戸大神の漫画「HARAEDO」を始め神様のコンテンツ一本でやっていく予定だったのですが、どうやら自分のやりたかったことを掘り起こし、やり直すことも許されたようなのです。
私は近頃、過去のキャリアを抹消して二度と振り返らないと決めたばかりなので、このご提案は正直面食らいました。
新しい時代仕様になるためには、何事も一旦洗い流される必要があるようで、これは何にでも言えるのかもしれず「神世のものは神世仕様として生み出されなければならない」という不文律があるように思えてなりません。
だから、私の作品や構想も一度「土の時代」に被った土埃を払わねばならず、洗い上げた後に使う分なら問題ないものもあるようでした。
(もちろん、完全にボツにせざるを得ないものもあるみたいですが…)
つまり、私は一体どれくらいいるかわからない、潜在的な神世の人々に漫画などの作品を通して導くお役目を新たに与えられたのだと思います。
それは瀬織津姫様を題材にした「HARAEDO」だけでなく、他のアイデアも自由闊達な形で表現して良いのだということです。
「HARAEDO」もそうですが、神様から与えられるお役目やライトワークというのは、徹底した綺麗事だからこそ毒がなさすぎて、人間心理の真髄を抉ることが難しいのです。
私は綺麗事に関して「自分のやり方が通用しない感覚」を何となくもどかしく感じていました。
まるで他人のふんどしを借りているようで、自分の才能を100%発揮しきれない感覚だったのは否定できません。
けれども、あえてこの状況で再び筆を取ることになるならば、それは私が「感情」を自由に使っていいことの許しに繋がっていくのです。
今、その許しが私に降りてきたことを考えると、やはりこれから流れが変わるのだと思います。
精神界の気場が完成し、そのエネルギーを受けた私が憑依を鎮圧することができるようになり、おそらくこの力を使って動き始めた人は他にもたくさんいるのでしょう。
私は以前から、世間の空気が悪すぎて外出しにくい感覚も、いずれ人々の波長も抑え込める日が来るのだろうと予感がありました。
今の空気感がひっくり返るような何かが起こり、人世の気場が割れ神世にスイッチが切り替わる瞬間が近いうちに来るのだろうと。
すでに人間の集合意識には亀裂が入っており、ある段階で一気に崩壊するに違いない、と。
私の体感では、おそらくその分岐点が近いはずです。
それが「2025年7月問題」に言われている大地震かもしれませんし、そうでないかもしれません。
世の崩壊を望むわけではありませんが、いずれにせよ何かがきっかけにならなければ変革は起こりません。
それが発端となって「軽いものほど上に上がっていく環境」は、いずれ砂時計のように反転し、「重い(思いがある)から沈んでいたもの」が世界の上澄を形成する時が来るのだと思います。
そのエネルギーの高まりと変動を、私はひしひしと感じています。
神様がいよいよ、本気を出してこられたように思います。
私はその気迫に慄くことすらありますし、神様のご提案に面食らうこともあります。
特に私を導いてくださる瀬織津姫様には、いつも感謝しても尽くせません。
瀬織津姫様が私に何をさせたいのかを鑑みれば、祓戸大神であらせられる浄化の女神様は、これから世界で起こる再生のシンボルになっていくのかもしれません。
瀬織津姫様は「表に出ていく」つもりであられるようなのです。
瀬織津姫命は、日本の国土に遍く河川の女神でありながらほぼその名を残さず、おそらく意図的に御神名を隠された神様です。
その神様が前面に御顕現しご神威を示されるとしたら、私は瀬織津姫様を描かせて頂くことでその一助となるのでしょうし、とても光栄に思います。
浄化の神として、河川の神として重大な御役目を果たしながら、長い間正しくお祀りされなかった瀬織津姫命という女神は、どことなく努力し尽くしても認められなかった私に重なってしまうのです。
その親近感こそが、私と瀬織津姫様との絆に繋がっているのかもしれません。
だから、これから一緒に花を咲かせましょう、と私はいつも瀬織津姫様に問いかけるのです。

楽太郎です。
先日、「アセンションとは何か」という記事を書きました。
その後、体感を含めて情報を更新したかったので、追記することにしました。
前回の記事で、「これからも地球は次元上昇するかもしれないが、精神界という地球意識の気場は完成したので人間にとってはアセンションは完了した」と書きましたが、この見方はほぼ変わっていません。
ただ、昨今の地球環境の変動、特にラニーニャ現象などによる猛暑を見ていると、「これも地球の次元上昇の一環なのではないか」と考えられるのです。
ゆえに、未だ地球は次元上昇の途上にあると考えられます。
動物たちを眺めていて、ここ数年で習性が変化したように見えます。
カラスも猫も犬も、鴨などの自然動物も知能が上がり共存的になっている印象を以前から持っていました。
これに関して動物学者の方々の見解はわかりませんが、私にはそう感じることがままあるのです。
動物たちの霊性の変化は、地球の次元上昇と関係が深いのではないでしょうか。
「アセンション」という概念が流行り始めたのは2000年代後半で、その頃は「2012年」と言われていました。
実際のところ、霊的次元での変動が始まったのはその頃かも知れず、現世への物質的変換が起こったのは2018年か19年あたりではないでしょうか。
その頃あたりから徐々に酷暑が厳しくなり、2020年にはコロナが流行しました。
中国では、ゼロコロナ政策でマンションの門が施錠されたことで、台風や地震などの災害があっても逃げられない住民がニュースになりました。
また全世界的な山火事や活火山の噴火など、自然環境の劇的な変化は「地球のエネルギーの変動」によるものではないかと考えられます。
そして、地球の環境変化は依然として続いており、おそらくアセンションは未だ進行中と見てよいと思います。
人間に関しては、スピリチュアル界隈で長年言われてきた「人類の霊的二極化」はほぼ完了し、これから具現化する段階に入りますが、その途上における人間の目に見える変化はまだ始まっていないでしょう。
前回の「アセンション概念図」では地球がすでにスッポリと新次元(幽界跡地)に移行したように描いていますが、これに関しては「まだ移行途中で何割かは低次元にある」としたいと思います。
そして、「もうすっかり幽界はなくなってしまった」と思っていたのですが、私への霊的干渉からの体感と世の中の動きを見るに「まだまだ幽界の人たちは元気」という感想に落ち着きました。
アセンションは神々の世界を巻き込んだ霊界の大構造改革であり、確かにその計画において人間の念によって作り出された予備的霊界である「幽界」が、大幅に縮小され整理されつつあるのは事実だと思います。
霊界は仏教的に言えば「成仏した霊の世界」なので、この世に未練を残すような不浄霊は高い波長域に上がっていけません。
その気場にいた不浄霊たちが幽界の解体に伴って場所を追われても、霊性が低ければ改まって上がれない者たちも出てきます。
そして、行き場をなくした不浄霊は地上の現世に大量に移住を始めました。
それが昨今の人間心理の荒廃と、浮遊霊の増加にあるのではないかと考えています。
こういった幽界の不浄霊は、生きていた頃の執着や欲望や怨念をそのまま引きずっているがゆえに高い波長域の霊界に上がっていけません。
その霊体が生きている人間に干渉すれば、その人の本性が増幅され理性的な部分が眠っていきます。
私は人心の変化は「憑依」によるものではないかと考えていて、それは「肩や背中にくっついている」という現象だけではなく、人間の集合意識やソウルグループに干渉することで、霊的には観測しがたい憑依現象となっているのではないでしょうか。
急にキレやすくなった人、自己中心的にしか考えられない人、狂ったように欲望に忠実な人、モノに対する執着が異常な人、およそ「人間らしい心でない」という印象の人々は、そういった影響を受けている可能性があります。
前置きが少し長くなりましたが、新しい概念図を掲載します。
4次元宇宙(現世)の霊的階層の上部に、幽界との接続領域、ここでは「幽界干渉域」があるとしています。
この階層は物質の「エーテル層」とほぼ重なっていて、より物理的なアプローチが可能になっています。
よく「モノに霊が宿る」というオカルト話がありますが、それはこの次元で起こるものです。
人間に対する憑依もそうですが、他の生物にも無機物のモノにも霊的なアプローチは可能です。
私は「細菌」もこの憑依の影響を受けるのではないかと考えていて、昨今のCovid-19も霊的な因果がありそうだなと感じています。
この霊的階層に人間の集合意識の気場があり、人々はこの気場に接続することで精神的なエネルギーを手に入れています。
これまでで言うなら「モノ中心」のモチベーションや競争意識、比較による動機づけなどを促して人々の精神的な柱となっていました。
そして、この気場は徐々に削られてきてはいるのですが、人間の念の総量が大きすぎるために依然支配的で、頑として未だ機能を続けています。
しかし、人間よりも上位の階層の霊や神々は、この気場をいずれ取り去ることを考えておられるように思います。
今の混沌とした世界情勢を作り出したのも、地球環境が破壊され汚染されてしまったのも、人間の拝金主義や唯物史観から生まれたのは事実だからです。
その傾向を改めないことには、地球に次元上昇を起こした理由になりません。
だからこの気場を使うことはいずれ殆どできなくなるのではないか、と私は見ています。
では、この世界がこれまで「悪」に支配されていたのかと言えば、それほど単純な話ではありません。
確かに現代を牛耳っているのは、アメリカ政府のマネーを動かす複数のロビイストグループや、その背後を取りまとめている何者かがいるのは事実でしょうし、彼らが世界の混沌を利用して利潤を得ているのも間違いないでしょう。
しかし、この金融を中心とした経済が今の物質的な豊かさの源泉であり、私たち一般市民はその仕組みを利用して便利さや娯楽を手にしています。
この物質中心の世界を「悪」とするなら、現代人の殆どが悪人になってしまいます。
確かにそのカルマは多少あるにせよ、これまではそうした時代にするという神々の大きな計画があり、単に物質主義の功罪を伴う世界だったのでしょう。
ただそれによって人間の精神的生活や文化が歪みられてしまったのも事実で、日本の伝統文化の衰退や神社仏閣への軽視、宗教的慣習の否定などもあったのです。
ここで、今を生きる現世人を取り巻く状況を考察したいと思います。
ここで言う「霊人」とは現世に生きる人々が輪廻転生をする元となる霊であり、人間の魂の姿であると言って良いでしょう。
その上位にいる「高次元霊人」とは、いわゆる仏や天使と人々が呼ぶ高級霊であり、神に近い存在の霊たちです。
そして、日本の神社に祀られる天津神国津神八百万の神々、仏の中でも菩薩と呼ばれる高位の仏、諸外国の宗教上の神々はこの神界に属します。
人間が古来から信仰してきた自然神や文化神が「正神」であるとするなら、この物質中心の文明を切り拓いて「神が必要のない」世の中にした神々を「逆神」と呼ぶことにします。
日月神示では「神と悪神の戦い」と表現していますが、同じ文脈で「悪神の働きは大神のご計画の一部であって悪ではない」と書かれています。
本来の神々の働きが「陽」だとしたら、逆は「陰」であり、日月神示にはその両方が存在するのが真の理だと言われています。
だからここでは「神の存在に抗う神」として逆神を定義しています。
どんな犯罪者にも検察と弁護側が用意されるように、相反する性質が両立することで公平性が保証される仕組みは存在します。
実際に神々の世界にその構図があるかは別として、あえて逆の役割を演じる存在によって均衡が保たれるのは理に叶っているのです。
そして、その逆神の意志を最も忠実に行う勢力というのが、物質世界への執着の強い幽界的存在です。
おそらく、これまで人間に物質面でのサポートを行い、開発や戦略に対するインスピレーションを与えてきたのは逆神の側です。
幽界的存在はその方針への信仰心が強いために、霊性を向上して高い波長域に行くことを拒むか困難だった者たちであり、彼らの波長の影響をもろに受ける人々がいるのです。
物質次元に対する執着心が強い彼らが同じ波長を持つ人間に干渉することで、幽界を追い払われても人間の肉体を通して現世に居場所を見つけることができます。
そうして低級霊の憑依を受ける人々が増えることで世が荒れ、憑依を受けた人間が生き霊を他人に飛ばし、受けた者同士で呪い合うという地獄絵図が生まれてしまいました。
これらは時代が移行する過渡期だからと結論づけることは可能なのですが、それほど無機質に言い切るには心苦しいものです。
全ては神々よりも上位の神のご意向とは言え、あまりに地上では凄惨なことが起こりすぎていて、私たち人間が現状を慮る心苦しさは、おそらく神々も一緒です。
私は、神様のお気持ちを察するとその感覚に間違いはないのだろうと思ってしまいます。
今現実の世界に起きている出来事、これから起こる出来事も神界、霊界、現界を巻き込む「大いなる学びの過程」なのだと思います。
それは人間だけでなく神様たちにとってもそうで、未曾有のことなのだと「日月神示」には書かれています。
私はスピリチュアル的な言説の中で日月神示は本物だと思っていて、なぜかは具体的には説明しにくいですし「霊的感覚でそう思う」としか言えません。
この書を読めば、神示が出された戦中ではなく戦後80年の今年に当てられていることを何となく実感するでしょうし、なぜかはわからなくてもこれから起こることも大体予想ができます。
この時代もこれまでの時代も、これからの時代も、「正しいか間違っているか」を超越した世界の成長のために必要だったことでしょうし、それは人智を遥かに上回る出来事です。
その「大いなる学び」のために用意されたのが今とこれからの時代であり、その変革たる「大峠」への理解を深めることで、私たちは自分たちの目の前を照らしてゆけるのかもしれません。
【追記】
「日月神示」は岡本天明氏が1963年に逝去されており死後50年以上が経過しているため、現在は著作権が発生していません。
そのため全文を掲載したサイトがあります。
以下のサイトは広告もなく、スマホでも見やすいため是非ご紹介します。
日月神示全文
本サイトの管理人であり、著作者でおられる及川明さんには感謝と共に御礼申し上げます。

楽太郎です。
小沢健二さんのアルバム「So Kakkoii 宇宙」の中に、「失敗がいっぱい」という曲があります。
本アルバムは、小沢さん復帰後初の作品であり、90年代のノスタルジーと反省の気持ちがそこかしこに見えます。
小沢さんは90年代、「渋谷系」文化のカリスマとして一時代を築いたものの、21世紀を前に日本での音楽活動を辞めて渡米してしまいました。
日本での当時最後となるシングル「ある光」は今でも珠玉の名曲なのですが、日本を舞台にすることの失望と自分の命を繋ぐための希望が歌われ、その砕けたガラスのような心が突き刺さります。
小沢さんはこれからも更なる活躍が見込まれる時に突然消えた形となり、世間から好き放題に言われる状態に陥ってしまいました。
その頃の反省もあるのか、やはり頭の良い人だけに謙虚に過去を受け止め、若干弁明も込めつつ当時の自分と人々に「鎮魂」に近いメッセージを送っているように思います。
その中で「失敗がいっぱい」という曲は、キラキラ輝いていた青春時代の甘酸っぱい追憶と、どれだけ歳を取っても捨てきれない泥臭い後悔が見え隠れします。
小沢さんのような華々しいキャリアのある人でも、自分自身を見つめて失敗や後悔の念を素直に表現するのは感服します。
そしてこの曲は、失敗や後悔を避けて通れない私たち人間に対して、純粋な癒しとエールを送るのです。
私も自分自身のことを見つめる時、「もっとこうはできなかったのか」と悔やみます。
他の人からモノにするようなチャンスで上手くやれなかった自分が、時々嫌いになるのです。
そうでなくても自分よりも成功し、良い作品を作って賞賛を浴びている作家に対して、嫉妬の念だけでなく「自分がそうなれなかった理由」を考えたりもします。
私よりも絵が上手いし表現も豊かなのは、私がもう少し早くキャリアを積み始めていればとか、このスタイルを見出して形にしていればと、取り留めのないことを想像します。
しかし、仮に自分が彼らのように立ち回り彼らと同じポジションに立ったとしたら、何の不満もないのか、自分のやり方に絶対の自信を持って自分の生き方を貫けるのか、それはわかりません。
どんなに彼らのようになれたとしても、彼らの立場になり変わることはできないからです。
以前「才能とは何か」という記事に書きましたが、私たちは才能に憧れを抱く時、欲しい分野の欲しい能力を手に入れたいと思います。
しかし才能は自分の地の感性から湧き出るイメージと、自らの身体に備わった技術を通してのみ発揮されるものなので、ガワだけを合わせることはできないのです。
ガワだけをらしくしたところで、本物から湧き出るオリジナリティには到底敵いません。
私が「こういう可愛らしい絵が描きたい」とか「このテイストが再現できないか」とは考えるのですが、それが可能なのはあくまで技術レベルの話です。
私にしか引けない線、私にしか出せない画風があるからこそ、その作風そのものになることはできません。
人様のようになりたいという気持ちは自分らしさの否定から始まり、自分のやり方に満足できないからこそ上手くいっている人に憧れを抱くのです。
誰かに憧れを抱く時に感じる後悔も、自分が過去に上手くやれなかった後悔も、実は同じものです。
結局は今の自分に納得できないから、現在の不満を過去の自分のせいにしてしまうのです。
自分が未熟だったから気づけなかったこと、誰かを傷つけてその過ちをずっと払拭できずにいること、それは時間が経って忘れることはできても過去の失敗そのものを修正することはできません。
ただその過去が事実だとしても、自分の記憶にある過去の出来事は一人称の世界から見たもので、相手や第三者から観測した事実とは異なるかもしれません。
誰が真実を見て、仮に誰もが誤解しているとしても、その真相を知るために当事者を探し出し突き詰めていったとしても、事実に出会える保証はありません。
自分の過去のトラウマ級の失敗だって、他人から見ればとっくの昔に忘れていて、今更どうでも良いことを掘り返すのに興味はないでしょう。
それ以前に、昔の出来事を再確認する術は殆どなかったりもします。
自分が一昔前だから思い出せるようなことでも世間の移り変わりは激しく、当時いた人も土地も社会的背景も今は影も形もないはずです。
消え去ったはずのものに心奪われるのは、あまり健康的ではないかもしれません。
私は少し前、若い頃の仕事場のあった場所を訪ねました。
その頃の職場は酷い環境で、散々いじめられて挙句の果てに病気になってしまいました。
長年そのトラウマもあって、付近に近づくだけでも嫌だったのです。
けれどその時は不思議と恐怖心はなく、かつてオフィスのあったビルに立ち寄った時、かつての面影はなく変わりきっているのを見ました。
まるで狐か狸に化かされたように、目を閉じれば思い出せるあの場所が、魔法のように消えていました。
私はこの感覚を通じて、過去の記憶に囚われる自分の心こそ幻想であり、個人的な執着に過ぎないことを悟ったのです。
されど記憶の痛みというものは根深く、頭ではわかっていても過去を思い出しては苦しみます。
いくら執着や幻想だとわかっていても、心に刻まれた傷や後悔は簡単には消えません。
ならば、これから生きていく中でその痛みを癒やしていくしかありません。
小沢さんの「失敗がいっぱい」という曲は、そんな誰しもある心の傷が本当に誰にもあるということ、そんな痛みは日々の中で癒されていくのだ、と教えてくれます。
「どうして自分はこうなってしまったのか」「あの時こうしていれば今ごろ自分は」と無限に出てくる感情、それは毎日を真っ直ぐ生きていくことで「魂を救う」しかないのだと。
私は、今の自分の上手くいかなさや不遇な気持ちを過去になすりつけるくらいなら、もう少し強かにやっていこうと思います。
過去の記憶というのは、自分が見た主観的なストーリーに基づいており、ある程度脚色されているものです。
他人から見れば全く違うあらすじを、反芻するうちに勝手に信じ込んでいたりもします。
ならば、この「ストーリー」を自分で上書きしてやれば、いずれ一人で納得できるかもしれません。
昔の自分に対して「お前はああだった」と未だに思われているのが悔しいのなら、これからの未来でエンディングを書き換えればいいのです。
別に見返してやろうとか、ギャフンと言わせてやろうとかいうのではなく、自分が過去の出来事にアフターストーリーをつけることで自分の中で美談にしてしまえば、自分の中で別の意味を持ちます。
「あの頃はこうだったけど、あの失敗があったから今うまく行ってるのだ」と、中途半端な挫折物語をサクセスストーリーに変えてしまえば、いずれ後悔する必要はありません。
それはいつ何時でも、誰でも今から始めることができるのです。
そのために過去を振り返りながら生きるのではなく、これから物語を作るために未来に生きることです。
人間が一生をかけてやる殆どの物事は、現実として恐ろしいほど後世に残っていきません。
20年前のホームページが今はほぼ残っていないのはわかりますが、実際の構築物ですら10年すれば跡形もなくなるのですから、まして人の記憶など殆ど残りません。
そんな消えゆくものに心奪われるくらいなら、新たな幻想を自分で作り出せばいいのです。
そして、今を生きていれば誰もがそれを今日から始めることができます。
私には、それが後悔に対する癒しとなり前に進む力になるような気がします。
小沢さんの「失敗がいっぱい」の歌詞の一節です。
「涙に滅ぼされちゃいけない
毎日には笑えないを笑えるにする
力があるから」

楽太郎です。
日々ニュースを眺めていて、世の中は既定路線通り「悪化」していると思います。
「コメ」で関税-Bloomberg
本日のBloomberg日本語版の記事は、胸糞記事が並びました。
トランプ大統領は日本がアメリカ産米の輸入に前向きでないことを理由に、関税の引き上げを仄めかしています。
日本のコメ不足はそもそも、JAが転売業者を挟み価格操作をしているから高騰しています。
その転売された日本米は東南アジアやアメリカなどに輸出されて大量に売られ、現地米の価格が暴落するレベルで流通しています。
国産米の輸出によって政府から補助金がつくためであり、外国に輸出することで利益を上げている人々がいるのです。
それとすれ違うように国内で流通し始めた「カリフォルニア米」を見て、不思議に感じないでしょうか。
7月には参院選があり、国民一律2万円のバラ撒きを公約にした石破自民党はおそらく再度信任を得る形になると思います。
急速に左傾化した自民党と、韓国に誕生した親北朝鮮の李在明政権、国際的な経済制裁を受けていても尚侵攻を拡大するロシア、テクノロジー株が急騰して世界シェアを得つつある中国、アメリカの関税をすんなり飲むことにしたEU。
何か、絶妙なバランスで成り立つこの世界、疑問に感じないでしょうか?
現在、最高値更新を続けるS&P500の時価総額の3割をマグニフィセント7が占めています。
世界中の株式投資の7割がアメリカ市場で行われていると言われており、取引の半分がマグニフィセント7に関わるとされています。
現在、米国ハイテク株の担い手となっているのが半導体装置最大手のNVIDIAですが、いわゆる「生成AI」のブームが世界中の株式を支えていると言っても過言ではありません。
その仕掛け手であるアメリカは、今年1兆2000億ドルという国債利払いに直面しており、GDP比4%近くに達します。
その上国家の経常赤字は1兆8000億ドル、低成長が根強いアメリカ経済の年間GDPは約26兆ドルですから、この状況で莫大な利子を毎年支払わなければなりません。
しかしトランプ政権に代わっても政府の放漫財政は変わらず、国内経済を維持するには外国の投資に頼らざるを得ません。
米国株の時価総額保有率の20%近くが外国人投資家であり、アメリカ国民の純資産約170兆ドルに比べて外国人の所有する株の総額は130兆ドルに達します。
つまり、アメリカは外国に取り入って投資を呼び込まなければ、国体を維持できないほど窮乏しているのです。
そこで出てくるダウ平均に見えるアメリカ株の好調ですが、米国債の10年債利回りが健常化したため高利となり、その分国債価格は下がり続けています。
長期債が高利なのに国債価格が下がり続けているのは、それだけアメリカの将来性が不安視されているからです。
米国の長期債を買っても元々利益率が低いため、安い外国の通貨を借りて米国債を購入しても債権保有者は今は儲からないどころか、ドル安傾向になって逆に負債は増大しつつあります。
アメリカとしては、国債がこのまま下がり続けると国内を支えている外国投資が目減りして経済が持ちません。
そこで債権の唯一の逃げ道である米国株に投資を呼び込み、輸血を続けなければならないのです。
しかし、世に言われるほどAIブームが革命的かと言えば、Androidやパソコンのアプリが誕生した程度で権利問題もあやふやなため、大手を振って商業化できない後ろめたさがあります。
生成AIのシステムは基本的にオプトアウト制で、一斉に世界中のデータや知的財産をスキャンしてデータベースに取りまとめ、それをプログラムで再検出して再構成するだけのアプリにしか過ぎません。
それゆえ知的財産や著作権に対する対応は不十分であり、謳い文句ほど「思考」してはいないためベンチマークでの正答率は50%ほどしかありません。
そんな生成AIブームの申し子であるOpenAIは営利団体への転換も難しかったほど巨額赤字を垂れ流し、その尻拭いはMicrosoftとビッグテックの子飼いが請け負っています。
実際のところ、生成AIのクラウド事業で特筆して儲けているのはハイテク数社に対して循環取引・利益水増し疑惑のあるNVIDIA一社だけであり、あとはAIブームに便乗した補助金目当てのベンチャーくらいです。
それでも米国株を引き上げるために将来性があることにしたいのでAGIが今すぐ完成すると喧伝していますが、当のAI開発はとんでもない金食い虫で、電力や水資源を大量に使う上に開発費も湯水のように溶けていきます。
従って、アメリカはマグニフィセント7のようなハイテク産業に国家の屋台骨を支えてもらっているだけでなく、それ以外に投資を呼び込んだり発展するような国内産業は壊滅的状況にあるのです。
今年、来年と年々迫られる国債利払いが「支払い困難」となれば、世界の中心国であるアメリカがデフォルトするという前代未聞の珍事を引き起こしてしまいます。
そうなれば、世界を牛耳っているとさえ自負しているアメリカの面目は丸潰れです。
そのため、どんな姑息な手を使ってでも金が欲しく、報復関税を全世界に強制してどれだけ顰蹙を買おうがアメリカが潰れるよりはマシという考えでしょう。
しかし、トランプ大統領の関税政策は焼石に水で、アメリカは輸入品の比率が少ないからと言って輸入品の代替は不可能であり、結局は輸入品価格の上昇はインフレを押し上げることになるはずです。
アメリカの製品に報復的関税が掛かれば、アメリカ以外の製品を輸入する国が増えるだけでアメリカの高額化した商品は買われなくなります。
米国債に対する債務不履行の懸念は、いずれ米ドル建ての金融資産の売却を招きます。
反対に、アメリカ経済に安心感が生まれ国債が買われるようになれば、国債に転嫁されていた株が売られ、過大評価となっていたマグニフィセント7を始めとするバブル市場は冷水を浴びることになるでしょう。
ただでさえ経常赤字、財政赤字が肥大するのにGDPは伸び悩み、発展する産業が皆無と言っていいアメリカが関税政策で復活する可能性はほぼありません。
つまり、どう転んでもアメリカ株式市場は大暴落を免れず、いずれ経済も政治も破綻するでしょう。
この飛ぶ鳥を落とす勢いがいつまで続くのか、私は静観しています。
スピリチュアル界隈には「2025年7月問題」というのがあります。
私はこれに関して否定はしませんし、大地震だろうが核攻撃だろうが、カタストロフの危険はこれまでもこれからも起こる可能性が一定数あります。
だから、それらが起ころうが起こるまいが今月に限らず危険性は依然として存在し続けます。
ただ考えて頂きたいのは、阪神淡路大震災、東日本大震災、能登半島沖地震、これらは確かに大惨事でしたが国家の体質が変わるような変化はもたらしていません。
相変わらず左派も右派もどっちつかずに争い、日本は戦後80年間フラフラとアメリカ追従の姿勢を崩していません。
私は、日本にとって根本的な打撃となるのは、いかなる国内経済の破綻よりもアメリカという「宗主国」の喪失のほうが大きいのではないかと思います。
今の日本は明らかな左派政権なのに、米国追従の姿勢が崩れないのは何故でしょうか。
実はアメリカという国はずっと前から自由民主主義を放棄していて、リベラルという名のコミュニストたちを世界中に放ってきたからこそ、歴史上最多の左派政権諸国とアメリカ共和党の共存という歪な国際情勢になっているのではないでしょうか。
それは親米政権であった韓国をアメリカが守りきる姿勢を見せず、むしろ中国のハイテク企業との共栄関係にあるシリコンバレーに見える気がします。
そして国内情勢を見回しても、ロシアや中国との癒着とアメリカとの癒着が同時に進行し、全てアメリカが最も利する形となっています。
どうも「東西新冷戦」というのは茶番で、アメリカや中国やロシアの対立構造をネタに金儲けをしている連中がいるのではないかと私は見ています。
その歪な均衡の果てに、どうも未曾有の世界恐慌が待ち受けている気がしてならず、そのトリガーを引くのはアメリカではないかと思います。
この7月にブラックマンデーを軽く超えるショックが起こるとは言い切れませんが、仮に日本にとっての大事件は地震よりも軍事依存、経済依存、思想信条依存という国家の屋台骨が揺らぐことなのかもしれません。
私は一介のスピリチュアリストとして、何となく最近「地震の気配がない」のが気になっています。
というか最近めっきり地震の回数が減り、何となく自然が穏やかなのが不気味なのです。
それは「タイミングを見計らっている」というより、「世界線が変わったのではないか」と私は感じます。
この空気感の変化は夏至によってハッキリ感じ取れるようになり、それ以前にあった「大難シナリオ」が立ち消えになった可能性があります。
よく考えれば、地球が持続可能な形に変化するには自然環境が変わる必要はなく、むしろ人間だけが変わればいいと考えた方が、地球の次元上昇にとって合理的です。
人々が根本的に変わるタイミングは、これまでの「お金」中心に構築された人生設計の転換でしょう。
拝金主義的な生き方の象徴だったのが西側諸国の資本主義であり、資本主義経済の発展のために自然環境も商業化され換金されていったのです。
この地球が真の意味で平和になるためには、自分たちが利益を得るために武器を製造し、兵器を売るために世界中に戦争の根回しをするような連中に退場してもらう必要があります。
現在の世界を支配するアメリカという帝国の崩壊が、「帝国主義的帝国の終焉」という形で新たな人類史の転換点となるのではないか、そう考えざるを得ません。

楽太郎です。
夏至で「精神界」の気場が整い、その高次元のエネルギーを降ろして使うことができるようになってきました。
ただ、このエネルギーを使うには自分の意志よりも、神様のチョイスが優先されるような気がします。
どうも「才能」に使う力にしては潜在的というか、自覚していない方向に発揮されている気がしてなりません。
私の場合はエネルギーを読み取る能力とか、いわゆる霊能力的な開花に進んでいて、浄霊や浄化のお役目を任されているようです。
私は元々しがない絵や漫画を描いている俗物でしたし、今でも隙があらばナンセンスな漫画を描いて楽しく過ごしたいのです。
けれど、神様から与えられる能力と使命は、自分の予期する形で現れてくれはしないようです。
冷静に考えれば、精神界とは地球意識の統合的なエネルギーの場ですから、共同のものです。
地球意識は人間の「我よし」とする内向きのエネルギーから脱し、人間が破壊し尽くした地球を共有財産にしていく共存共栄の道ですから、神がかったエネルギーが貰えるからと、勝手に自分の手元に引っ張ってくる訳には行かないのかもしれません。
だとすれば、私が「精神界のエネルギーを使って神がかり的モテ講座のサロンを開いて大儲けしよう」と思ったところで、神様がその部分に才能というエネルギーを注いでくれなければ、私は恥を晒して終わるに違いありません。
本来「才能」とは大神の分身霊をお預かりした私たち人間が、自分の魂の力を引き出して使う能力一般を指します。
その才能は言わば神から与えられているものだからこそ、私利私欲のために勝手に発揮することも行使することもできないものです。
私は昔、音楽をやっていましたが好きだからというだけではモノにならず、自己実現的に努力したところで才能が花開くことはありませんでした。
「夢は願えば必ず叶う」とは若者の情熱を食い物にする大人の常套句ですが、才能に関しては努力も知識も技術も自分の望みとは少しズレたところにあるものです。
確かに才能に知識や技術は不可欠です。しかし、自分が好きでやることと得意でやることに対する人様の評価は違うもので、「得意なこと」というのは予め神様から与えられた能力なのかもしれません。
だから、この気場を使って活躍する人がこれから出てくるとしたら、「自分のやりたいこと」と「才能」と「神様の目的」が一致している、そんな人なのかもしれません。
ただ「自分のやりたいこと」というのが曲者で、神様からインスピレーションを受けた物事は、大抵いても立っていられなくなるくらいやりたくなるもので、大して自分の意志や趣味は関係ありません。
例えば「全然好みのタイプじゃないけど結婚してみたら最高の伴侶だった」という話を聞くことがありますが、魂で受けることと意識にはズレが生じているからです。
だから私が文章を書くのも元々好きだったわけではありませんし、霊的能力だって欲しいと思っていたわけではありません。
何もなければ、のんびりと変な漫画を描いてダラダラ生きていたかったのです。
でも、神様はそんな私の意思よりも強い思惑で私を導いて下さるのですから、不思議なものです。
これを「やらされている」と取るのか、「自分がやるべきこと」と取るかは、人それぞれです。
神様と意識が分離している人がこのエネルギーを受け取れば、義務感で何となく渋々やるはずです。
ただ、神様の意志と結びついていれば、意向に沿わないことは認識しつつも自分がやりたいこと、やるべきことと自覚した上ですんなり実行していくでしょう。
ここに「我」を出すか出さないかがポイントで、自己浄化が進んでいる人は躊躇なく神様のエネルギーを受け取り、才能として行使します。
しかし下手に自分のために能力を使おうと思えば、エネルギーの流れを捻じ曲げる分うまくはいかないでしょう。
自分を出さず、素直にエネルギーの流れる矛先に身を任せる人は、全く予想だにしない方向で才能を発揮し始めるはずです。
これまで「才能」は自分のやりたいことの分野で発揮しなければ意味がないと思われてきましたし、そこでうまく評価されなければ自分に才能がないものだと諦める要因にもなりました。
好きなことで認められたいがために、才能を発揮して成功するには良い学校に入ったり、偉い人の弟子になったり、肩書きを得たりコネを作ったり、という仕組みがありました。
その仕組みが確立されていながら認められる人と認められない人が出てくるのは、やり方云々だけではなかったからです。
当然、大した才能も魅力もないのに広告代理店的企画に採用されたことで売れる人もいます。
それとは別に、自分のやりたいことと得意分野が違うために、魂の能力を引き出さずに才能を求めるから、中途半端なことしかできないのも多分にあるでしょう。
私が若い頃はバンドブームもあって音楽を志す友人が多く、私自身もその一人でした。
もちろん突出したセンスを持っている人も、私みたいにからっきしの人間もいました。
今になってみれば、あの頃音楽をやって日本のトップに立つことを夢見ていた若者は今、料理人であったり運送業をしたり税理士をしています。
かく言う私もイラストや漫画を描いていて、それだけでなくスピリチュアリストの真似事まで始めてしまいました。
人生は思うようにいかないものですが、才能はましてそういうものだと思います。
私がいくらギターの神弾きができるようになりたいと思ったところで、その才能の発揮のしどころを用意なさるのは神様で、不要な部分に力をお与えになるとは思えません。
「ギターの神弾きなど死ぬほど練習すれば誰にもできる」と思われるかもしれませんが、その理論で言えば布袋寅泰やCharクラスのギタリストが5万人はいないとおかしいと思います。
「何となく上手くできること」「何となく続けられるから上手くできること」というのは、誰しも一つや二つあるものです。
それに気づくために人生経験は必要で、何事かに挑戦するから向き不向きもだんだんわかってきます。
その中で、やっぱり人よりスルッと上手くできてしまうことがあって、それを突き詰めれば立派な才能になっていきます。
近年では才能開花がビジネス化され、お金や権威に縋れば自分の欲しい才能が欲しい分野で手に入ると人々は錯覚しています。
しかし、才能は自分の好みとは別の軸に存在するものなので、「趣味」を追求することが必ずしも才能に結びつくとは限りません。
「好きも才能のうち」とはその通りだと思いますが、いくら好きでも才能が発揮できないこともあります。
結局は、才能が自分の魂と直結した能力だからこそ、自分の頭で考えて何とかできるものではないのだと思います。
これまで「自分には才能がない」と落胆して、長く夢見たことを諦めていった人たちがたくさんいました。
しかし多くの場合、才能がないのではなく自分の欲しい分野で欲しい能力が発揮できなかっただけで、実は別のところに才能がいくつもあったりするのです。
才能を自分の努力で作り出すか、運良く生まれ持った素質だという思い込みのせいで、自身が持つ天性の能力に気づかずに諦めてしまう人がいます。
けれど、ふと気を抜いて何となく上手くいく物事に気づき、その行為を好きになれば自ずと才能になっていくのです。
このカラクリも、人間の世界が「才能」という神様から与えられた賜物を歪め、金儲けの手段にするために色々と捏ねくり回した結果なのだと思います。
これまで純粋に夢を見て努力する若者や、実際に才能はあるけどそれ以外の能力がない人を食い物にし、食い潰して腐らされた人がどれほどいたのでしょうか。
私の身の回りにも、演劇にしろ音楽にしろ画業にしろ、花形の世界ほど魑魅魍魎の渦巻く世界でした。
私はそういうのが嫌になったから、どこにも属さず何も当てにせず、実力とアイデアだけでのし上がって行こうと思いやってきたのですが、これはこれで全く上手くいきません。
特に今は、純粋に才能や実力だけで注目される時代ではなく、巨大な傘の下で華麗に立ち回る人でなければ成功しません。
権威に気に入られることが最善最速のシナリオであり、それ以外の成功の道は今のところ皆無と言って良いでしょう。
だからと言って、超絶グレーな権力者に縋りつきに行くのが正しく才能を発揮する方法ではなく、それは才能がない人々が成功するために作り出したスキームに頼ることになるだけです。
成功するために才能が欲しいのか、才能を自覚するから成功する道が欲しいのか、その動機は似て非なるものです。
自分の意図しないところで開花してしまう「才能」というものは、それだけで周りの人を助けて評価を集めることで始まるのだと思います。
才能と評価、需要と成功に関する話は難しいので、長くなりそうですし今回は扱いません。
ただ、今の時代はオリジナリティが求められる風潮ではないからこそ、テンプレートに合わせる器量が求められ、大衆の移ろいやすい気分を推し量れないと何にもならないと思います。
需要と供給のバランスも性質も大きく狂っているからこそ、正論だけでは語り尽くせない状況です。
その環境に迎合するかしないかは人それぞれです。
ただ私はそれをしても新しいことはできないと思うので、愚直に他の道を模索するだけです。
そして、神様は愚鈍な私の斜め上をいくアイデアを下さり、私は半信半疑でそれをやっています。
結局、全てが自分の思い通りにはならないしできないのですが、それがこの世界における「才能」の定義であり、自分だけのレベルで考えていては見えてこない世界です。

楽太郎です。
近頃は次元上昇関連の話と、憑依に関する霊的な話題ばかり扱って来ました。
私自身も仕事や神様とのお約束事もあり、霊障など取っ払ってガンガン動きたい気持ちはあります。
しかし、何の因果か憑依との付き合いが延々と続いています。
先日、「反転攻勢が始まった」の記事で書いたように、夏至以降の次元的な変化によって私の身の回りに起こることも変わりました。
これまで日常的に憑依と霊障はありましたし、習慣的に除霊作業を行ってきました。
私の除霊は「自己浄化」と「ひたすら神仏に拝む」のを基本にしています。
大抵の憑依は自分の平常心と異なる感情を選分け、自分の感情を見つめることで浄化していきます。
あとは、神様や仏様にお願いして連れて行ってもらうことで、私は何種類かの祝詞と般若心経を詠むことにしています。
これまではその除霊方法でスルッと抜けていくことが多かったのですが、困ったことに最近の憑依は祝詞やお経が通用しません。
憑依体の悪意もどんどん強まっているのを感じているため、「神など知るか」みたいなスタンスの方々なのだと思います。
彼らには儀式的な除霊は通用しないので、ひたすら自己浄化で対応していくことになります。
強い憑依はそれだけ身体にとてつもない苦痛をもたらすのですが、そんな彼らにも弱点があるようです。
私が笑ったり、人に親切にしたり善業を行えば抜けて行きやすくなるのです。
彼らは言ってみれば、光に対する闇の存在です。
闇は光で当てれば消えます。彼らは人間が呪い憎しみ合い、苦しんで惑いの中で死んでくれるのを最高の喜びとします。
その対局にある行為こそ、彼らが最も恐れ忌み嫌う「真の喜び」であり、人々の祝福や感謝や愛情を封じ込めるのが彼らの目的でもあるのです。
霊の世界とは「徳=霊性のヒエラルキー」で構成されているらしく、低い霊格の者は高い階層に上がることはできず、高い霊格の者は下の階層には自由に降りていけるようです。
その霊格とは波長域の適合性でもあって、いわゆる「徳の高さ」のようなものが指標になっているように見受けられます。
これを現実的に置き換えてみれば、私が人格を高めて霊性を向上させると、私の意識より下の霊格は私の霊力で抑え込めるようになります。
理論的には、私が霊格を高めるような精進を日々行えば、これらの憑依体は自分の制御下に置くことが可能になるはずです。
祝詞やお経を唱えたとて「神仏など知るか」というスタンスの方々を相手にしているわけですから、霊的制圧が目論見通りに行くのは難しいでしょう。
しかし、それほど強い念を持った霊でも何とか私が日常生活を送れるレベルの霊障で済ませて貰えてるのは、おそらくバックで神様たちが静観しておられるからだと思います。
奇しくも「七難八苦を与えたまえ」という傲岸不遜な記事を以前に書いているのですが、やはりあれ以来霊障が苛烈化しているので「言ったからにはやるんだな?」という神様からの試練が与えられているのだろうと思います。
何であんなことを書いたかというと、勢いで書いてしまったというか、神様に書かされたというか…
そんな経緯で、なぜか霊能者としてのお役目さえも与えられてしまっているのが今の状態です。
私としてはもっと他の才能を発揮したいところですが、神様のご用命ならば仕方ありません。
ただ、この除霊の過程を観察していて興味深いこともわかってきました。
最初、憑依と気づくのは心身に異常を感じるところから始まり、自分自身のエネルギーと違うエネルギーが身体の中にあれば憑依だと認識します。
霊障は私の感情や意識に大した影響をもたらさず、ひたすら身体の不調として現れます。酷い霊障は身体の形が変わるくらいの圧をかけられます。
これまでは身体症状は神仏に祈れば取り去ってもらえましたが、最近の憑依体はかなり頑固です。
それゆえ、何とか自力で浄化する以外にありません。
そこで、私が笑ったり楽しく過ごしたり、人に親切にしたりすると霊障が収まることに気づきました。
だいぶ以前から「邪気が一番苦手なのは愛情なのでは?」と推論を立てていましたが、どうやら闇の者は本気で光の性質を嫌うようなのです。
霊障を受けている時は物凄く体調が悪いですし、気分も最悪で物事を良いほうに考えるのは難しくなります。
だからこそ、そこで自分の機嫌を取り楽しいことを想像して笑い、人に優しくしたり親切にする行為は修行になるのだと思います。
これこそ、神様が私に「七難八苦」としてお与えになられた試練であり、私がより高い次元に行くための修行なのだと思います。
これらの霊障が生じている時は怒りや憎悪などの力強い悪意が私の心に流れ込み、私自身もその波長に気づかず取り込まれてしまう時もあります。
そういう時こそ己を見つめ、自分の正しい波長を見つけて自分の波動に戻していく作業が必要です。
興味深いのは、邪気が浄化されていくと終盤には「悲しみ」や「後悔」の念がグワッと押し上がってくるのです。
私としては、さっきまで何の根拠もなくイライラしていたのに、急に悲しくなって身体がスッと楽になるみたいな、心の病気にしか思えない一連の現象も、憑依と浄化の観点で見れば私の身体の中で憑依体が浄化されていったとも取れます。
人間は物質文明の常識の世界に暮らしていますから、自分が簡単に外部の念の影響を受けて意識も体調も変えさせられているなど思いもよらないでしょう。
ただ憑依は日常茶飯事以上に当然のことで、自我が目に見えない者たちの影響下にあり、それでも目に見える世界を生きる私たちは「自由意志」が存在すると錯覚しているだけなのです。
これらの憑依体が外れる時の悲哀は、ある意味「悟り」の物悲しさでもあると思います。
「般若心経」とは物事は全て形だけのものであって、形は変わるのだからずっとしがみつけるものではないのだよ、と目に見えるものに執着し続ける者たちに諭します。
死んでこの世を離れても尚、欲望や執念や憎悪を捨てきれない者たちがあらゆる霊障を起こしますが、その「色」もまた幻想であると説かれます。
霊の浄化が起こりうるとしたら、この「諸行無常」の悟りこそが悲しみの想念として現れると考えられます。
これまで「苦しめばいい」という憎悪を全てにして存在していた者たちが、そこまで執着する必要のあるものなど存在しなかった、と悟るならばその悲しみはとてつもないかもしれません。
神道における「お祓い」の語源はおそらく「ハレ・らう」であり、文字通り「気が晴れる」ことです。
気が晴れるとは、執念や憎悪やストレスからの解放と手放しであり、ある意味悟りとも言えます。
「祓祝詞」は、高天原におられる祓戸大神に罪穢れを取り去って頂くものですが、憑依体の憎悪や邪念が消え去ることは即ち浄霊を意味します。
ゆえに諸行無常の認識は悟りに至るスタートラインみたいなもので、それは人間にとっても死霊にとっても同じであるはずです。
「これは繰り返す意味がない」と気づく時は、自分がずっとやってきたルーティンに疑問を持ち、それらの行いを俯瞰して見れるようになった時に訪れるものです。
ずっと目の前のことに執着し、同じことを延々とやっているだけで満足しているうちは、真の意味で成長しません。
そこで起こる問題や行き詰まりから脱するためには一段上に上がらなくてはならず、その成長の一環として「悟り」があります。
「こんなことをやっても無駄だ」と悟ることは、これまでのやり方に疑問を持つことであり、ゆえにガッカリもするし懺悔も生まれるでしょう。
それが悟る時の悲哀であり、誰しも悟る前より悟った後の方が後悔が深く、自責の念に駆られるものです。
実は、悟る前よりも悟ってからの方がつらく、悟りきるまでが本当の修行なのだと私は思います。
私に取り憑くこれらの憑依体は「神に仇なす者たち」として、この物質文明を好き放題に作り上げてきた存在だと認識しています。
彼らの影響下にある「お金と力」が大好きな人たちは、この世界が変わることを許そうとしません。
そのために世界中の仕組みがガタガタになっても、何とか通常運転を続けようとしています。
しかし、そのルーティンも執着もいずれ「いつまでこんなことをやっているんだろう」と気づかざるを得なくなる時は来ます。
その「諸行無常」は誰が言い出したわけでもなく、歴然とした宇宙の法則ゆえに形あるものはいつか崩れるのです。
その瞬間の悲哀にこそ「悟り」はあるのでしょう。
しかし、いざその時になって慌てふためかないように天は気づきを与えようとしてきましたし、私もこうしてその一助をさせて頂いています。
「こんなことはいつまでも続かない」というのは誰もが事実だと認識し予期もするものです。
しかし、残念ながらそれをきちんと受け止められる人は決して多くはありません。
それは人間として生きていても死んでいても、大して変わりないのかもしれません。

楽太郎です。
6月21日夏至に「精神界」の気場が完成し、25日の新月から神世の時代が始まったことを実感しています。
以前として世に変革の波は出て来ず、邪気も浮遊霊による霊障も収まる気配はないように思います。
精神界という新たな霊的空間にアクセスできる人々は、こうした幽界的影響から相対的に距離を取っている状態ですが、それゆえに襲いくる邪気の強度は比例して高まっているはずです。
私の体調がとても不安定だなと思うのは、憑依が抜けている状態と霊障を受けている状態では天と地ほどの落差があることです。
憑依を受けている間は殆ど重病なんじゃないかみたいな錯覚すら受けるのですが、それが取り払われると天国にいるような感覚になります。
やはり、普段は精神界に接続していると高い波長の平和的なエネルギーを受けて、何でも許せるような気持ちになるのですが、憑依体の悪意の強さは身体で受けきれないレベルになりつつあります。
正直、もう少し霊障に関しては穏やかになると思っていたのですが、逆にエゲツなくなってきているようで、しかし私が次元上昇にしくじっているわけではなさそうです。
体感としては、これまでになかったエネルギーの高まりの中にあって、「霊障は肉体レベルで抑え込める」という感覚になってきました。
これほど強い霊障を受けるのは、私が常日頃から「神に仇なす者たち」を再三ブログなどで挑発しまくっているからで、これだけ神様と共にお祓い作業をしていたら、それは狙われるだろうという納得感もあります。
この「抑え込める」という感覚がどこから来るのか考えてみれば、これまで憑依に対しては受身的というか、来るものから耐えるという防戦一方の感覚がありました。
ただ最近は少し違くて、私がまるで自分で挑みに行って戦っているような、そんな力強さを感じています。
現実面では具合が悪くて寝ているしかないような時にも、私の霊体は違う次元で目に見えない者たちを相手にやり合っている、そういう印象があります。
常々思うのですが、人間は自我がコントロールしていて、ハイアーセルフが全てを知っており何もかも取り仕切っている、というのは若干違うのではないでしょうか。
ハイアーセルフは「霊界の自我」であって、それは魂として自分で感じ取れるのですが、その魂は自分自身に対して対話的な存在ではなく、むしろずっと沈黙しているように思えるのです。
そのハイアーセルフ自体も、おそらく過去世から因縁のある霊人たちや現世の先祖霊、現代に関わる人々からの生き霊、外的に存在する不浄霊や精霊や神々、そういった雑多な霊的コミュニティが存在していて、その霊団の中心にいるのが霊体としての自分なのではないかと思います。
だから何かインスピレーションを受ける時、特にメッセージや言葉を受け取る時は、最終的に自分の言葉に置き換えられるとしても、その発信源は自分の魂を取り巻く霊団から送られてくるのが殆どで、自分にはない波長だから「メッセージ」としての外部的要素を持ちうるのではないでしょうか。
よく人間は寝ている時に魂が身体を抜け出して、魂の故郷に戻るという話を聞きますが、私たちは霊魂であるのが本来の姿であり、この世は修行のために用意された仮初の仕組みですから、実際の働きがあの世で起こっていると考えるのは辻褄が合います。
スピリチュアルの世界でも「霊主身従」と言われますが、霊界という沈黙の世界に真の自分がいて、その命令を受けたこの世の自分が、「自由に物事を考えて行動している」と錯覚しているだけのような気もします。
日月神示など伝統的な心霊書でも、「霊界で起こったことが現実界に反映される」という話があり、その認識は遍く全世界にあります。
つまり、やはり私たちの本体は目に見えない世界こそにあって、その本当の私が様々な霊人と関わり合い、折衝をしたり反発したりして現実界の私の現象に立ち現れてくるのだと思います。
だから、私が現実界で人間の集合無意識にアプローチし、その背後に蠢く「神に仇なす者たち」を挑発しまくって、目に見えない霊的世界でバチバチにやり合っているというのは意外に考えられるのです。
「争いなんて野蛮だ」と思われるかもしれませんが、おそらくこの世界の浄化は日月神示でも言われている「正神と悪神の戦い」の中で起こっており、人間が平和が良いと言っていても神様たちはおそらく戦っている最中です。
人間のために戦ってくださる神様にばかり戦いを背負わせて、守られている人間が「争いなんてヤダヤダ」と言っているわけにはいかないのではないでしょうか。
だからこそ私は精神界の気場の防衛に参加してきたという実感があるわけですし、今バチバチに戦いをしているという感覚もあります。
ただ先ほど書いたように、この「戦い」も感覚が変わってきて「攻めに転じた」という印象があります。
これまでの防衛的な意識では、やはりどこか耐え忍ぶ部分があり、状況を守り通すことで精一杯という感じでした。
けれど最近は「やってやる」という前のめりな勢いがついてきて、現実の行動もそのエネルギーを受けて積極的になってきました。
この「反転攻勢」の感覚は、やはり精神界の気場の完成と始動において無関係ではないと思います。
おそらく、私が神様たちと共にお祓いをしている相手は、「人治の世界」を支配してきた存在です。
彼らを倒すというより霊的浄化や改心を促して回っているのだと思うのですが、彼らを弱体化させることは「人世の気場」を削り取っていくことを意味します。
つまり、この反転攻勢は盤石すぎて飽和した状態から身動き一つ取れなくなった世界を切り崩し、風穴を開けていくことになると思います。
だから石破総理とトランプ大統領の就任以降、特に何も変わらずダラダラ悪くなっていく世界は、これから霊的次元からの変化が反映していくことになるはずです。
今、この状況でどれほどの人が精神界の気場からエネルギーレベルの変革を行っているのか、私には判断がつきません。
しかし、霊的な次元は時空を超越しているので、参加者が実際に知り合いでなくても霊団としてすでに繋がっていることはあり得ます。
その人々が実際に出会わなくても、霊的次元で済む話なら出会うことはないかもしれません。
そこら辺は神々のご計画の範疇というか、必要な時に必要な者たちが巡り合わされていくのだろうと思います。
先日、国内回帰して復活した小沢健二さんの新曲「演歌がいいから」を聴きましたが、ああいう日本を代表する人が日本文化への憧憬と海外文化への懐疑を直接曲に表現するというのは、感慨深いと思いました。
おそらく、日本の神々からの「温故知新」というメッセージを正しく受け取っている人は思ったより多いかもしれません。
それだけアメリカ始め社会情勢のレベルで「何やってんの」という空気になっているのも現実にあるわけですが、そうでなくとも感性の鋭い人は似たようなインスピレーションを受けているのだと思います。
小沢健二さんに関しては往年のファンで、復帰以降も新曲共によく聴いています。
単なる感想ですが、「東大900番講堂講義」あたりで小沢さんの癖が出たというか、ファンというより日本人なら誰もが「ラブリー」とか「愛し愛されて生きるのさ」みたいな底抜けに明るいポップソングを歌って欲しいと思っているのでしょうが、そこで我を出すあたり小沢さんらしいなと思います。
ただ、やはりどの曲も破天荒な楽観主義と人生讃歌が小沢さんの作品の真髄にあって、今何となく「この世界がつまらない」と思って生きる人々には良いカウンターになると思います。
そう言ったパンクさが今の時代には必要であり、神様はこの世を変えうる人々にそのメッセージを送っているのだと思います。
「日本人よ、今こそ飾り立てられた古い衣を脱ぎ捨て、心地良い大和の衣を着直そう」と。

楽太郎です。
今、瀬織津姫命の「おみくじゲーム」を作っています。
「Scratch」という教育用プログラミングツールがあって、なんとノンコードでゲームが制作できるというものです。
以前からUNITYやRPGツクールなどでゲームを作るのが趣味だったので、わりと楽しくやってます。
Javascriptでやればもっと簡単にできたのですが、あえてブラウザゲームにすることにしました。
「HARAEDO」投稿専用のブログを作るに当たって、ミニゲームのようなアプリを客寄せ程度に実装しようと思い立ち、気がついたら「WEBおみくじ」を作っていました。
当初は「ナギくんのお遣い競争」みたいなタイトルのすごろくゲームを制作していたのですが、Scratchの仕様をマスターするために簡単なアプリを作り始めたところ、一応動くくらいには出来上がりました。
画像素材もちゃんと一から作って、キャラ画像は元より背景の神社に至るまできちんと作ってます(笑)
漫画の本編より先になぜ周辺部から作り込み始めたのか、自分でもわかりません。
「簡単なところからやろう」と思っているわけではないですが、どうも瀬織津姫様がご自身のおみくじゲームを作って欲しいとしか思えない…
というのも、「おみくじゲームを作ってみよう」と思い立って3日くらいでここまで具体化しました。
瀬織津姫命とナギくんのプチキャラも、思ったよりすぐ形になりました。
私はこういうの描くのが得意なんだなと改めて思うのですが、私の好みとしてはあまり主線が強くない絵を描きたいです…
おまけでプチキャラの立ち絵を掲載します。
私は長らく同人をやってきた人間なので、こういう絵を描くと「アクリルキーホルダーを作りたい」と思ってしまう性質があります。
シールとかアクリルスタンドとか缶バッジとか、長テーブルに並べる私の姿を想像したり…
ただ、この作品は実在の(?)神様をモチーフにしているので、自分で勝手に色をつけるわけにはいきません。
下手するとバチが……(汗)
瀬織津姫様も私のキャリアの将来を案じてお力を貸して頂いていると思っているので、神様にご無礼なことはしたくないものです。
とは言え、需要があればという気持ちもあります。
とりあえず、瀬織津姫様の新規立ち絵も制作中ですし、そのイラストは完成次第またネットプリントで印刷可能にしてみようかと思います。
神様は私の専売特許にはできませんから、なるべくオープンな感じで作品を作っていきたいと思っています。

楽太郎です。
今朝、不思議な夢を見ました。
深夜の小学校を歩いていて、中学校の頃の担任とすれ違いました。
今ではお互いにいい歳になってますから、私の記憶の反映か空似だと思います。
購買部が開いていて、そこが玩具売り場のようになっていましたが、校舎全体が暗く誰もいません。
玩具を覗くと、「SDガンダム」のプラモデルが埃を被って山積みになっていました。
SDガンダムは私の子供時代を象徴するコンテンツだったので、酷く懐かしかったのですが不思議と興味が沸きませんでした。
場面が変わって、クリーチャーと女性が戦うバイオハザードのような映像を見ました。
怖いとかいうより「前に見た感じがする」と思って私はモヤモヤしていました。
その映画はVHSとしてデッキから出てきて、レンタルビデオだったようで、これまた懐かしくなりました。
けれどVHSはもうほぼ流通しておらず、私の記憶の中の存在であり、過去は過去のもので懐かしく愛おしいのですが、私の心は動かないのです。
本日6月25日、厳密に言えば夜が新月です。
私はこの夢を今朝見て、心理的に古い世界から抜け出たのだとわかりました。
おそらく、この新月から「神世」が動き出すことになるのだと思います。
ここ数日、自分の肉体レベルで徐々に邪気や憑依を抑え込み始めていました。
これまで、そう言った悪影響は肉体を通じて心や思考に到達して、あれこれと私の意識に介入してきていました。
私はこの影響をモロに受けて、病気になったりおかしな言動をしてしまうこともあったのですが、まさかそれを霊障などとは自覚しようがなかったのです。
これまでの物質主義の時代は、科学的でない見解は眉唾物とされ、白い目で見られる風潮がありました。
それらは迷信であり、その迷信を信じるような人は病気で、病気だからこそおかしな目に遭うのだ、と思われていました。
そうして「精神医療」というものが普及して、心の問題は医者に頼るようになりました。
私もかつて鬱病で長年苦しみましたが、実際に投薬治療で寛解したとは言えず、今思えば霊障以外に考えられません。
そして、今ではそれらが憑依であったことを知り、憑依してくる存在が何かを知っているからこそ、真の対処ができるようになりました。
もちろん、全ての精神疾患が霊障だと言うつもりはありませんし、精神医学を否定するわけではありません。
しかし、そういう解釈が全ての世界だからこそ、真の問題解決に辿り着けなかったことを理解したのです。
そして、私を苦しめてきた憑依体はこれまでの物質主義、経済至上主義の時代を作り上げてきた存在であり、人の欲望を支配し自らの利益と思惑を水面下で浸透させてきた勢力です。
その連中になぜ私が狙われ続けたかと言うと、私が「命(みこと)持ち」として天界からの使命を与えられ生まれてきた人間だからとわかりました。
こう言うと私自身を特別に持ち上げている言い方になってしまいますが、そうではなく「命持ち」の人々はかつて、街中ですれ違えるくらいにはたくさん目にすることができたのです。
彼ら「命持ち」は、神界に近い霊界の記憶を残して生まれてきた人々が多かったので、純粋で優しい人ばかりでした。
生まれ持って感性が豊かで善良な性格であるため、成長して世間に馴染む過程で世の邪気に当てられてしまい、その性質を変えやすかったのです。
感性が純粋なので、闇に染まると闇に染まり切ってしまい、実際に罪に染まるか病気になるか、様々な形で魂を曇らせた人がたくさんいました。
魂が限りなく白に近い状態で生まれたからこそ、多様な色に塗れたこの世界の色に染まり、本来の色を保ち続けるのは困難だったのです。
神の使命を背負って生まれながら、その使命に目覚めることなく埋もれてしまった人が多く存在していて、「命持ち」、いわゆるスターシードと呼ばれる人々自体、それほど珍しいわけではありません。
そんな彼らも、最近は誤情報や変な思い込みに惑わされて覚醒の妨害を受け、新しい気場の解放に立ち会えない人も出てきてしまいました。
その中で私だけが稀有みたいに見えるのは、それだけ多くの脱落者がいて、私はコテンパンにやられながら意地だけで残った、という感じに近いです。
それは運命とか才能とか言うより、私が性根から捻じ曲がって我が強いため、「負けてたまるか」という気持ちだけでここまでやって来ただけなのです。
逆に言えば、私が決して純粋無垢ではなく天邪鬼だったからこそ、何があっても穿った目で見て反発し抵抗して来たのだと思います。
私が下手に意地汚いからこそ、ここまで残ったとも言えます。
これまでたくさんの命持ちがいたでしょうし、実際に私も数多く出会って来ましたが、だいたいが魂を曇らせてしまいました。
だから、私だけが特別で優秀な訳ではないのです。
これまでの世界が「金とモノ、ステータス」が全ての社会で、物質的に目で見える事柄しか存在しないような空気にすることで、心や魂を軽視し神をなきものにしようとする働きがありました。
「なぜ神がいながらそう言う世になったのか」という問いに対して、極論的に言えば「人類の学びの過程であるべきカリキュラム」と一言で言い切れます。
ただし、私を始め命を捨てる寸前まで叩き落とされ、現に様々な理由で命を失った人々が膨大な数に及ぶ中で、そう言い切ってしまうのはあまりに短絡的かもしれません。
物質中心の世は確かに便利な機械や道具に溢れて、欲望を満たすシステムも充実していて、その中で豊かに生きようと思えば夢もありました。
人々は決して嫌々働いてきた訳ではなく、それだけやり甲斐もあり、努力に応じた報酬も豊富にあって、賑やかで楽しくもあったのです。
だから一概にこの文明が悪いとは言い切れず、ゆえに「学びのプロセス」と位置づけて良いと思います。
そこで我々がどんな「学び」をするかと言うと、物質中心の豊かさを追い求めたところで、決して個人の幸福も世の平和も理想も実現しえない、という教訓なのだろうと思います。
今、目に見えるシステムとしての「お金」があらぬ形で暴走し、人間たちの意思を超えた仕組みとして文明全体を破綻させつつあります。
少数の選民意識を持つエリートたちが、自らの欲望のままに戦争を起こし、バブルを起こし、制度を歪め、貧富の差を拡大させ、文化も秩序も混沌に追いやっています。
この時代が終わる時、それを目の当たりにした人々は「お金やモノだけ追い求めても、どうにもならなかったんだな」と気づいて、新しい豊かさの模索を始めるでしょう。
その諸行無常にこそ学びがあり、その知恵に立って初めて新しい文明が立ち現れてくるはずです。
地球を散々掘り返して汚し荒廃させ、そうして惑星を廃棄寸前まで使い込んだ人類が反省し、考えと行動を改め再び地球と共存する道を歩み始めるのです。
そして、この転換期に新しい世界を作り出す存在として「命持ち」が、この時代に集中するかのように生まれてきました。
一般的な言葉で言えば「スターシード」と呼ばれる人々は、この時代を変革するために天から送り込まれてきた魂たちです。
しかし前述の通り、その多くが芽を出さないまま埋もれていってしまいました。
それで神々の計画は影響があったのかと言うと、おそらくそれも神々の計画のうちで、現時点でスケジュールは寸分違わず遂行されているはずです。
私がよく例に出す日月神示は、80年前の戦中に岡本天明翁に降ろされたものですが、実はよく読んでみると第二次世界大戦時より現代の方が表現と一致します。
その啓示において、「世界の大峠」が九分九厘まで神によって不利な状況になることも示されているのです。
暴走するユダヤマネーにトチ狂ったアメリカが、さらにトチ狂ったイスラエルのイランへの挑発をサポートし、あわや中東戦争になろうとしている今、そのアメリカは莫大な国債利払いを払いきれるかどうかわからない状況で、誇大宣伝と共に各国の政治に介入して制度をアメリカ有利に作り替え、これからも帝国的支配を維持するつもりでいます。
現在の世を見回して、昔のように良くなると思う人は皆無でしょうし、軽く世相を眺めただけでは時代の趨勢を読むことはできません。
どう考えてもこれから世界は終わる、というギリギリのところまで人類と神々は追い詰められるように見えるでしょうが、そのことも「日月神示」には示されているのです。
その神々の計画の中で、数々の目覚めを体験した人々が今、たくさん出てきているのを私は知っています。
かく言う私もその一人としての自覚はあり、この時代を変えるための命持ちは確かに存在します。
スピリチュアル業界の言い方をするならば、私たちは「アセンション(次元上昇)」の導き手であり、人類の意識的発展を促すべく宇宙から送り込まれたエージェントであります。
この夏至に完成し、今宵の新月から始動する新たな精神の気場を「精神界」と私は呼ぶことにします。
これまで「神世」と私が呼んできた世界は、この精神界の気場を使う人々が神と共に繁栄する時代と位置づけます。
この精神界は、かつて「幽界」と呼ばれていた霊界の最下層が取り払われ、その霊的空間に地球の霊的次元が上昇したことで出現しました。
その霊的な場は「地球意識」に共鳴しやすく、それゆえに地球の神々の意識と感応しやすいのです。
これまで人々は幽界的なエネルギーに依存し、人間の集合意識は低い次元にありました。
しかし、この精神界と接続し、地球意識と同調して思考し活力とする人々は、人間の集合意識とは異なる気場に属して暮らすことになります。
そう言った特殊な感性を持った人々は、今の段階では社会的にほぼ埋もれているはずです。
あまりに意識が高すぎて、これまでの世では根を張れなかった、むしろ根を張らなかった気合いの入った人たちであり、下手に力を持っていないからこそ新しい時代を切り拓く力があるのです。
そう言う人たちがいよいよ動き出し、活躍し始めるフェーズに入って行きます。
この時代に立ち会うために生まれてきて、これまでを耐えてきた人々も多かったはずです。
そして、今を生きる子供たちやこれから生まれてくる子や孫は、新しい時代を生きるためにこの霊的世界を共有していくのです。
全てが光り輝くまでに、いくつの深い闇を通らなければならないのか、それは想像できません。
これから私たちは文明の崩壊を具に見ることになるはずです。それは目も当てられない状況になるかもしれませんし、決して明るいものだけを見ていることはできないでしょう。
しかし、いずれ光に満ちた弥栄の世を作るために、これら神の命を授かった人々の活躍なくして訪れることはあり得ません。
その困難を乗り越えられる魂だからこそ、これからの時代を担っていくのだと思います。
【追記】
ここに「アセンション(次元上昇)概念図」を掲載します。
科学的に言えば、「次元」とは空間的な軸を指し示しており、決して「霊的なレベル」を意味する概念ではありません。
だから「5次元宇宙」と言う呼び方も私としては直感的ではないと感じるのですが、一般用語に準えることにしました。
今の物質次元が空間的に「4次元」であると位置づけ、そこに変更はありません。
霊的次元では上のレベルを「5次元」とし、そこを「霊界」と取ります。
日月神示では神界、幽界、現界という概念になっていますが、私としては幽界は霊界の最下層に位置しており、今はその階層が取り払われて地球霊の気場になっていると捉えています。
幽界の縮退の根拠については、霊能者の話を無闇に信じた訳ではなく、実際に「地縛霊」の減少と共に浮遊霊の増加と、憑依と霊障による生き霊の大量発生を認識しているからです。
実際に私は死んでいる訳ではないので霊界のことは知り得ないのですが、現実界でこのような霊的次元の変化を察するに、幽界で何かが起こっていると考えて間違いないでしょう。
奇しくも、この数年のスピリチュアル業界の話題は「地球の次元上昇」であり、地球霊魂の位相的変化は私自身も体感しています。
ゆえに、惑星規模の気場の変化は間違いなく起こっていると思います。
これらを総合すると、幽界消失と地球の次元上昇は無関係ではなく、幽界の位置に地球霊魂が新たな気場を創出したと考えれば辻褄が合います。
「地球霊魂」とは、言ってみればこの地球の土地それぞれの精霊の霊団であり、私たちが産土神として接する大地の神々との繋がりもある星の集合霊です。
惑星規模の霊団の上昇が「アセンション」という位相変化であり、この霊界の再構築をそう呼んでいたのではないか、と考えています。
ゆえにこの次元上昇は完了しつつあり、その始動の時を迎えたと私は見ています。
地球はこの先も霊的に上昇し続けるかもしれませんが、人間からすれば「精神界=地球意識の気場」の確立をもってアセンションは完了したと捉えて良いはずです。

楽太郎です。
昨晩、夢を見ました。
東京タワーの内部がビルの避難階段みたいになっていて、私は高所恐怖症なのでビクビクしながら登って行きます。
土地に足場が緩い箇所があったり難所もありましたが、意地悪そうな若い女性と踊り場ですれ違いそうになりました。
私は彼女から妨害を受けそうな気がして、咄嗟に虫除けスプレーを周りに噴射して、彼女が咳き込む隙に階段を駆け上がりました。
頂上付近の踊り場にある窓枠にはガラスが嵌め込まれてなかったので、そのまま外の世界が広がっていて地上が見えました。
夢の中とは言え、私は高いところが苦手なので震え上がりました。
私がなぜこの塔に登ったか考えた時、最上階の出口からさらに屋上に出られるからだったことを思い出しました。
昨日は夏至でしたが、昼間の夏至点を境に身体が不調をきたしました。
朝一番に理髪店に行って、帰宅して絵を描き始めたところ、次第に身体中が緊張して酷い汗をかくようになりました。
あまりに体感したことのない具合悪さだったので、ルノルマンカードを引いてみたところ「鼠」が出ました。
私の読み方では、鼠は「邪気」と取ります。
邪気は身体にかじりついて私のエネルギーをコソコソ持っていくので、鼠のカードが出た時は注意します。
しかし、昨日から今日にかけての邪気の襲い方は尋常ではなかったというか、最近は邪気をほぼカットアウト出来ていたので霊障としてハッキリ出たことには驚きました。
おそらく夏至で「神世」の気場が完成したため、片足だけ踏み込んでいた気場にもう一方の足を乗せようとした時、足が一時的に浮くのを見計らって邪気が妨害をしに来たのだと思います。
以前、神世の波長と同調する時、肉体のすぐ外側にあるエーテル体も次元上昇するという話をしました。
エーテル体が波長を上げる時はいつでも不安定になりがちなので、弱り目の時だからこそ全力で襲いかかって来たのだと思います。
昨晩はほぼ1時間おきに目が覚め、その度に汗だくで喉がカラカラだったため、一晩で水を4リットルほど飲んでいました。
私は特異体質であることを自認しているのですが、どうやら私は邪気を取り込むと水分にして放出すれば浄化できるみたいです。
こう言った「目に見えない何かとの戦い」をこの数ヶ月間、ずっとやってきました。
自分でもやっている自覚には半信半疑で、優先順位のおかしさは常に感じていました。
これらの霊障を振り払うことで、本当に「神世」の創造に貢献できるのか疑問を感じずにはいられませんでした。
ただ、どうやら私は神世の気場を邪気邪念の類から守るお役目を与えられているようで、常に気場から半分身体を乗り出して「お祓い」をしているようなのです。
つまり、神世のゲートキーパーのような役割であるようで、それゆえ邪気と真正面から対決することが多いのだと思います。
よくある「スターシード」系の話でライトウォーリアという概念がありますが、こう言った戦闘や防衛の使命が私にあったようです。
よく考えれば、私がお導きを頂いている瀬織津姫様はお祓いの神様ですし、私との相性もそれで説明がつくのかも知れません。
瀬織津姫命は祓戸大神である以上「塞の神=饗土の神」であり、猿田彦大神のように土地の境界で妖や災いの類を防ぎ、迷える者に導きを与え結界の中にいる人々を守り、幸を与える存在です。
その神々にとって「日本」という国土が最大の結界であり、すなわち日本人全員が塞の神によって守護されていると言えます。
私は、その瀬織津姫様のご加護を授かっている一人であり、それゆえ「神世」の防衛を通して日本の国土の守備に参加させて頂いているのだと思います。
それは大変光栄なことですが、私としては目に見えない地味な働きではなく、どう考えても才能を発揮して実際にムーブメントを起こして世に貢献した方が力を発揮できると思いますし、なぜこういう形なのか正直腑に落ちない部分もあります。
しかし、それは私一個人の考え方なので神様のご意志に従うだけです。
兎にも角にも、人間の心でやるべきことを決めていたら、神様から与えられるお役目は果たせません。
思えば、私が瀬織津姫様のお導きを受ける時、その基本が「断捨離」から始まります。
手放せるかどうかギリギリのところで、あえて選び取る必要のあるものだけを残して他は全部捨てる、その思い切りを受け止めるのはいつも悩みます。
けれど考えてみれば、この世の中は間違ったものが多すぎて、多少なりとも手に取ればカルマになってしまうものばかりです。
そのため間違ったものは一先ず言語道断として、できるだけ正しい形のものを選び取ろうとすれば、誰も箸にかけないようなものばかり選ぶことになります。
だから、私のことをよく観察される方は「もっと要領の良い方法なんていくらでもあるのに」と思われるでしょうが、私もそれは重々承知ながら、神様の意図を汲めばできないことがとても多いのです。
けれど私を守護して下さる瀬織津姫様は浄化の神様ですから、私が進んで穢れを受けに行くことに賛成されるはずがありません。
人間として考えれば、神の意思で自分の選択を決めるなどどうかしてる、と思われるでしょう。
しかし、今の時代だからこそ神の声をきちんと聞かなければ迷うことになるはずです。
もはや人間の頭で考えてやるようなことは全て袋小路に入って、何をやっても地雷を踏むかどん詰まりに陥るかしかないと思います。
先を見れば蜃気楼で、それを望む足元には穴が空いている、そんな危険な状態ならば多少不自由でも安全な道を歩めた方が良いはずです。
それをコッソリ神様は教えて下さるのですから、むしろ人間は神様の声にもっと耳を傾けるべきなのです。
「それで本当に報われるのか」と思われるかもしれません。
しかし、人間の頭で考えても神様のご指示を受けても不確定性はほぼ変わりません。
未来が見えないのも、結果に裏切られる確率も同じです。だから、どの道行き当たりばったりなのが人生なので、特に気にする必要はないでしょう。
神様を信じられるかどうか、というのは人間にとって永遠のテーマです。
最近、アメリカの歴史について知ったのですが、北米大陸の先住民だったいわゆるインディアンの方々は入植者の白人たちに計画的に抹殺された歴史があります。
民族浄化と言って良く、先住民族を「矯正」するために施設に収容して思想洗浄を行い、白人の文化を学びキリスト教に改宗しても全く差別は改善しなかったそうです。
北米南東に暮らしていた先住民は、何百キロと離れた荒野に強制的に移住させられ、食糧もろくに手に入らず衰弱死する人々が多数出る中、カリフォルニア州の白人たちは先住民族に武力を差し向けて虐殺を行いました。
インディアンの主な食料だったバッファローを絶滅寸前まで追い込んだのは、ハンターが娯楽目的で彼らの食料を奪うことに州が賞金を出していたからです。
大事な食料のバッファローも殺され、ろくに食べるものもなく荒野に放置された先住民たちは徐々に弱体化し、銃を持って襲いかかる白人たちによって計画的に殺されていったのです。
ヨーロッパ人が大航海時代を経て入植したあらゆる土地で、このような凄惨な虐殺が行われました。
インカ帝国を致命的に追い込んだのは、大陸の白人が持ち込んだ病原体に対して、現地の人々は免疫を持っていなかったからだと言われています。
アメリカ大陸の先住民がそれぞれに信仰する神々に祈ろうと感染によって死に絶え、私利私欲のままに虐殺と迫害を繰り返す白人が病気にかからない様子は、「白人こそ神に選ばれているからだ」と信じたことでしょう。
私は、この出来事を鑑みるとさすがに「神はいるのか」と思ってしまいます。
ヨーロッパ人が侵略と入植と奴隷制を拡大しなければ、今の世界はもっと多様性があったのではないでしょうか。
日本だって、西欧列強に加わらなければ数多の戦争を経験せず、現在のようにアメリカから属州扱いされていなかったはずです。
反面、西洋文明の持つ物質主義によって規格性のある便利な世の中になったのも事実ですが、その代償の大きさを考えずにはいられません。
海外のスピリチュアリストほど「神々」という概念を使わず、「宇宙人」という表現で高次元存在を語るのは、一神教であるキリスト教に対する感覚的な後ろめたさがあるからではないか、と私は邪推してしまいます。
ユダヤ教の聖地エルサレムのあるイスラエルが起こす戦争によって、第五次中東戦争勃発の危機にあり、まして世界大戦の口火すら切られようとしています。
ユダヤ教からするとイスラム教は邪教であり、一神教だからこそ絶対神が二柱いてはならないのです。
日本には「八百万の神」がいて、仏もいればキリストもアラーも天使も精霊もいます。
しかし一神教の世界観では、多様性のある霊的世界を想像しにくいのではないでしょうか。
私は高次元存在を「宇宙人」と表現しても何の問題もないと思います。
しかし、「神」という人間の上に立つ絶対存在があるからこそ、人間としてのタブーや真に目指すべき理想が設定できるのではないでしょうか。
これまで、一神教を主軸にした帝国主義が世界を形作ってきました。
北米大陸で迫害された先住民族の神も、日本の八百万の神々でさえ物質文明の下では、無きもの同然にされてしまいました。
「神が本当に存在する」のなら、そもそもこんな理不尽な世にはなっていない、ゆえに神など存在しない、そう言われても納得せざるを得ません。
しかし私の感覚では、神様の世界も一枚岩ではないようなのです。
それぞれの神様に個性があり思惑があり、最終的な目的は一つなのでしょうが、微妙に噛み合わない部分も見受けられます。
日月神示において、神界で起こったことは現界で起こると書かれており、シルバーバーチの霊訓にも霊界で起こったことが人間界で起こる、と書かれています。
つまり、私たちが神様を信じられなくなるような理不尽な出来事は、神様の世界で起こったから現実の世界に立ち現れている可能性があります。
だから私たちの信じる日本の神様は、これまで何らかの理由で思うように動けない状態だったのかもしれません。
もっと何か大きい意志の力と、邪悪な手札が通用する環境にあったために神々でも押さえつけられていたのが、これまでの世界だったのだと思います。
日月神示では、「誤った岩戸開き」によってそうなった世界を改めるために、「三千世界の大洗濯」が行われると書かれています。
三千世界とは、神界、幽界、現界を指し、幽界とは「幽り世」のことで私の言う霊界です。
こうして地球は実際に次元上昇を果たし、「精神界」とも言うべき神世を作る気場が完成した今、新たな世界が始まろうとしているのだと思います。
これまで、北米大陸の産土神はどういう目で白人たちをご覧になられていたのでしょうか。
そして、日本の土地を何万年も守ってきた八百万の神々は、現在の日本の国土を眺めてどう思われるのでしょうか。
それは人間には考えたくないことかもしれません。
しかし、この変化は世の中を元に戻し、浮かばれるべきものが浮かばれるためには必要なプロセスだと思います。
これまで、どれだけ無垢に生きようとしてきた人々が虐げられ食い物にされてきたのでしょうか。
それは人間が人間を支配する世であったからであり、人間の上に神がいなかったからです。
しかし、これからは違います。
やはり人間には、神様が必要なのです。

楽太郎です。
本日6月21日、いよいよ待ちに待った「夏至」が訪れました。
現在の体感ですが、これまでの季節分点で起こるエネルギーの変化は、外部的な流れに合わせるのに苦労することが多かったように思います。
しかし今回の夏至は、感じたことのないエネルギーの変化にぶち当たるというより、今まで捉えようとして捉えきれなかった流れをしっかり掴めるようになった、という感覚に近いです。
ゆえに、すでに自分の中にあった不安定なエネルギーにしっかり乗ることができるようになった、という表現が最もしっくり来ます。
だからこれまでの節気であった「合わせさせられている」強制感はあまりありません。
つまり、これまで半分足を踏み入れていた気場だからこそ、エネルギーの変化に違和感を抱くことはないのだと思います。
日常の中でこの数日、「らしくない」感じの変化を起こしている人も目にするようになりました。
これまでやたら感情的だった人が大人しくなり、少し理性的に振る舞い始めました。
いつもフワフワした短文を書いていたような人が、急に抽象的な長文を書くようになったのを見ました。
これはどう考えても「火」のエレメントの変質であり、要は「形而上学的なエネルギーの強まり」です。
火のエレメントは、純度の高い正の働きをする時に哲学的な様相を持って現れます。
神性というのは哲学的なエネルギーですから、人々の思考の抽象度が高まるのは理に叶っています。
このエネルギーの純度の高さと強度を観察するに、この分点から人々に意識改革が起こって来るのではないかと思います。
これまで違和感に気づきながら、モヤモヤしていた状態から思考がクリアになり、思いもつかない発見やロジックを見出して突破口を開き始める、そんな気がします。
実は、私は春分あたりから何となく「世界線が変わったのではないか」と疑念を抱いていました。
それは私が体感的に神世のエネルギーと触れ合っているだけでなく、2025年問題にあるような不慮の出来事がタイムラインから遠ざかっているような気がしていたのです。
半年前あたりには、崩壊する建物や廃墟、死して蠢く人々など、夢にしろ白昼夢にしろ不穏なビジョンがたびたび見えていました。
しかしこの数ヶ月、ほぼそういう予知は感じなくなり、むしろ別の形でソフトランディングするのではないか、という感覚の方が強くなって来ました。
とは言え、2025年7月問題を否定する要素はありませんし、日月神示では「旧暦9月6日」ということがしきりに言われており、そうでなくても南海トラフなどの自然災害のリスクは依然あります。
ただ感じるのは、神々が「災害やカタストロフで人々を変革する」というシナリオを選ばなかったのではないか、と私は何となく感じています。
この「平和的なエネルギー」は温かく優しい反面、鋭くて強い部分もあります。
少し邪な感情がある人がこの気に触れると混乱するでしょうし、生理的に受け付けない人も中にはいると思います。
けれども、このエネルギーを受け止めることができた人は、おそらく内面から湧き上がる力に押し上げられ、思ってもみない衝動で行動を起こし始めるような、そんな印象を抱きます。
現に、私はどんどん多動になってきており、多動だけど決してやり散らかす訳でもなく、小さいことを一つひとつ片付けながら廻る、という感覚に近いです。
これまで感じていた霊障や憑依は、私がお祓いや自己浄化によって因縁を断ち切る前に、波動が強まって自分の「気」で邪気を抑え込めるようになったことに気づき、少し驚いています。
おそらくこれが、「神世の気場を使う」ということです。正しく神を感じ、神の力が宿るという感じがします。
しかし反面、自分の気が強まりすぎて肉体的になっているというか、逆にスピリチュアル的な部分が感じにくくなって来ました。
これまで、精神的なエネルギーで駆動してきたからこそ、神や霊的感覚を強く感じていました。
ただ神世の気場に入ると、「身体と魂と神性が一つになる」ようで、言ってみれば神様と自分の意識が分離した状態にある必要がないのです。
ゆえに、これまで以上に自分らしくあり自由でありながら、神の意志は強く神の意識の中で行動している、そんな実感があります。
ゆえに、この気場のエネルギーを汲み取る人ほど、神を意識しなくなる気がします。
それは無神論、物質主義に堕ちることではなく、神を宿すからこそ神に無自覚となり、神を忘れながら神の声を聞く状態になります。
だからこそ神を特に意識しなくなり、信仰心や宗教的習慣は相変わらず大切なのですが、それだけに頼ることはなくなるかもしれません。
「神世」という気場が完成し、このエネルギーを降ろして使う人が増えるにつれ、占いや宗教などスピリチュアルな知識に関して無頓着でありながら、優秀な感性を持ったスピリチュアリストが誕生していくことになると思います。
これまで「気づき」をしていた人々がいよいよ目覚めて、覚醒を深化させていくフェーズの中で、神性を取り戻して生き方を変えていく人も増えていくはずです。
私は、この変化はどんなカタストロフよりも世を変える力となっていくのではないか、そう感じずにはいられません。
しかし、これら「目覚める世界線の人たち」に神世の気場が開かれるとして、去年の冬至点以降「目覚めを選ばなかった人たち」がどうなるかは正直わかりません。
これは神々が何度も念押しした確認事項で、いわゆる五次元世界との分岐、日月神示で言う「神と獣の道」で破滅的な方をあえて選んだ人々を神々はどうするおつもりなのか、人間である私には図りかねます。
ただ神様がなされることには無駄がないので、やはり何かしらの意味があるのだろうと思います。
私が長らく戦ってきた憑依と霊障は、ここ数ヶ月の話ではなかったのです。
生まれてこの方、憑依から抜け出せたことが殆どなかったと言っていいくらいです。
そこで襲う憑依体は、明らかに「神に仇なす者たち」の部類であり、私を苦しめてきた霊団が現在の人間社会を作り出した者たちと同一存在なのは確信しています。
彼らの支配する「お金とモノ」の世界は、単純な幸福のメカニズムでありながら、精神的な豊かさを否定し神を無きものにする思惑がありました。
人間は「細胞で作られたロボット」であり、魂など存在しないからこそ神も存在せず、あらゆる精神的事象も物理現象であり、科学的処方で全てがコントロールできることにしたかったのです。
そうすることで医療や製薬、果てには電脳の分野で人間を金づるにし続けることができます。
人間の精神活動も肉体活動も、全てを「消費活動」に結びつければ、人生を通じて経済システムの歯車として搾取し続けることは可能でしょう。
これが「神に仇なす者たちの計画」であり、私たちはまんまと術中にハマっていたわけです。
あらゆる悩みも、自分らしく生きられない苦悩も、「人間はお金を稼ぐ生き物である」という思い込みと幸福への義務感から生じてきたのです。
ただ、それも間もなく終わりを迎えます。
金融を主軸とした経済文明は全世界で修正不可能な状態に入りつつあり、少なくとも3年以内に世界経済の中心にあるアメリカは崩壊するはずです。
私は、我が国に自然的なカタストロフが起こらずとも、日本という国家の傘となり柱となっているアメリカが崩れることの影響の方が決定的なのではないか、と思っています。
ゆえに近年スピリチュアル業界を騒がせてきた「2025年問題」は、カタストロフと変革による立て直しを矮小化している印象を拭い去れませんでした。
現実的にこうして未曾有の変化が予測できるのに、いつ起きてもおかしくない自然災害や食糧危機にばかり気を取られるのもおかしな話だと思うのです。
仮に、iPhoneが使えなくなるとかGoogleがサービスを停止するとか、そう言った具体的なことが起こる可能性もありながら、そうなった場合のことを考えている人はあまりいません。
神世の気場はかつて「幽界」と呼ばれていた、霊界の最下層を払拭して新たに作り出した波長の高い霊域です。
地球が次元上昇することで、現界と呼ばれる物質次元は霊界により近い場所に位置することになります。
神々がこの気場を作るために幾年もかけて幽界を整理し、世の邪気を浄化し続けて来ました。
私自身もそれに参加して気場を作り上げてきたのは、人の世を形成する「神に仇なす者たち」の領域を削り取っていくことを意味しました。
そして、その気場がいよいよ完成したということは、神々のご計画は寸分違わず遂行され、古い秩序が滅び新たな世界が生み出されることを意味します。
つまり神々の奪還であり、神に仇なす者たちの退却です。
私は、ずっとこの時を待っていたのだと思います。
これまで何十年も耐えてきた日々は、この時を体験するための準備だったのでしょう。
何の因果かはわかりませんが、私は使命を持ってこの時代に立ち会うことになっていたようです。
私の半生はかなり酷いものでしたが、それも報われる時に来たのかもしれません。
私は、私をこれまで苦しめてきた人や目に見えないものに対して、滅べばいいとは思っていません。
全ては神々より大いなる神のご意志であり、悪も闇もその一つの役割を演じてきただけに過ぎないことを理解しているからです。
むしろ、わかりやすい形で滅ぶよりも、気づいて改心し、反省しながら余生を淡々と生きてくれれば良いと思っています。
彼らの行いに対して懲らしめられるべきとは思いますが、滅んで欲しいと願っているわけではありません。
彼らのことは大嫌いですが、私としては嫌いな部分がなくなればそれで良いのです。
私はやはり、人間というものを放って置けません。
人間たちは私をコテンパンにしてくれましたが、私の頼りにする人も大切な人も、皆同じ人間です。
その愛憎の中に生きていることが人間である証であり、人間である以上は彼らのために生きることになるのです。
人間は嫌なところも沢山ありますし、正直疲れます。
けれど、人間に嫌悪しながら、それでも愛してしまうのが私の人間たる由縁です。
そんな彼らのために生きることが私の使命であり、また神様もそうするように願っているように思えてなりません。
なぜこんな運命を背負うことになったのか、一生かけてわかるものでしょうか。
ただ一つ言えることは、そのうち報われる予感がするのです。
それがどんな形なのか分かりませんが、決して悪くはならない、そんな気がするのです。

楽太郎です。
6月21日の夏至を前に、「追い込み」に近いものを感じています。
「憑依」の連鎖を断ち切るために霊線を解いていく作業は、やはりこの時期に必要な工程だったのは間違いありません。
正直、思ったより火星獅子座の脱却の影響がそれほど決定的ではなかったようなのですが、霊障のアプローチがまた変わって来たのを感じています。
「お祓いとは何か」でも書きましたが、この霊線というものがポイントで、自分の心にある縁が良いものも悪いものも引き寄せます。
すでに次元上昇した世界において、「因果」という霊的な法則は原因から結果までの時間的距離が縮まっているのです。
人間の社会はほぼ人治で成り立っているので、多少この因果を意図的に歪めることができます。
お金や権力があれば人を動かして結果を握り潰したり、事実をもみ消して最初からなかったことにもできるのです。
しかし、それは因果律の発動を遅らせることができるだけで、宇宙の法則を変えているわけではありません。
人為的に歪めることのできる因果も法則から逃れることはできず、力が及ばなくなれば自ずと因果律は発動してしまいます。
以前ならば永久に揉み消せたような著名人の不祥事が明るみに出て、業界だけでなく社会全体が揺らいだように、人治の世界にも限界が訪れているのです。
それは神や宇宙の力が強まってきたことの証であり、今後ますます強まっていくはずです。
奇しくも、良いことも悪いこともすぐに現象化しやすくなったことで、自分の心にその原因があれば現象を引き寄せやすくなります。
仮に引き寄せてしまう何かがあるとしたら、その原因をしっかり見定める必要があります。
人の心にある疾しさは、幽界の下層にある悪意との因縁が生じ、それは当然私の心にもあります。
従ってこの部分を浄化しないことには、永遠にこの悪意から逃れることはできません。
意外と、誰しもこういった「疾しさ」を抱えながら、その悪意を無意識に隠蔽するため自分の闇には気づけないものです。
顕在意識では、自分があたかも浄化が進んでいて心に疾しさがないと思っていても「自分の心は清らかだ」という思い込みがあるからこそ、それが見えないこともあると思います。
「争いごとは嫌だ」とか、「あの人は未熟だ」とか自分が安定した状態にあるために他人を忌避し、そこで起こる嫌悪に関しては「自分の波長を高く保つための正しい反応だ」と考えがちです。
しかし、ここに潜む嫌悪感にこそ他者に対する対立軸があり、他人を蔑み忌避する薄暗い感情が横たわっています。
例え嫌悪を押し殺して波長を安定させても、それでは浄化された高い状態の心とは言えません。
そこに気づかない限り本当の浄化には至れず、またあまりに足元の見えないところにあるが故に誰もが陥りやすい闇なのではないでしょうか。
私は最近、この闇が自分が思うよりも遥かに大きく、また根深いものであることに気づきました。
ただ、自分の心の底で抱いている分には自分が損するだけなので構わないのですが、もしこれが一旦表に出てしまったら取り返しのつかないことになっていたと思います。
私の弱点はだいたい義憤として現れることが多いのですが、その義憤も自分の歪んだ感情を理屈にしただけに過ぎないものです。
己の劣等感や嫌悪感を、あたかも社会正義であるように正当化して、嫌悪の対象が悪であるかのように語る癖があります。
それらは基本的に、自分にとっての都合だけで善悪を決めているに過ぎません。
ここに無自覚であればあるほど「正義」や「信念」は排他的になるため、危険なのです。
私は、先日のブログで「国内のニュースは腹が立つから見ない」と書きましたが、他に見ないようにしているのが、国内のエンタメコンテンツです。
私もクリエイターの端くれですから、思想もありますし技術的に作品の良し悪しは考えます。
しかし、それ以前に近年のコンテンツに対する忌避感には、劣等感や嫉妬心も多分にあると思います。
私は長年やっているわりに無名の作家ですし、むしろ最近わざとキャリアを巻き戻すことさえしました。
それは必要に駆られたとは言え、決して口惜しさがないわけではありません。
人気があって勢いのある作家に対して嫉妬心は当然ありますし、「なぜ彼らのようになれなかったのか」と残念に思う心もあります。
ただ、ここで抱く劣等感は「自分が望む状態にない」ことの自覚から起こるものです。
それは私の意識があろうがなかろうが起こる感情であり、つまりは「自分がうまくいっていないから羨ましい」という動機なのです。
仮に自分が上手くいっているという自覚があるならば、成功している人や優秀な人を眺めても自分と同じかそれ以上に見え、尊敬すらできるでしょう。
まして、その違いを「個性」と認め協力を要請したり、共存共栄の道すら模索するはずです。
しかし、ここに不満が生まれると、どうしても自分が正しく相手は間違っているという理屈をつけたくなります。
相手がいかにも才能があり、幸運で、若くて、性格が良く、良い生活をして、精神的に豊かで、健康で、平和な環境で、お金に恵まれ、良いところに住み、友人に囲まれ、温かい家庭もあり、異性との付き合いもあり、社会的な評価を得て、確かな将来性もある、そんな風に見えてしまいます。
そんな人が自分をさて置いて幸せになっていくのが妬ましいから、どうにか間違っていることにして、あたかも不幸になる道筋を歩んでいるように考えて溜飲を下げたくなります。
しかし、その相手が例えそうだったとしても、自分が相手の不幸を望み糾弾し、足を引っ張ったところで自分の状況が良くなるわけではありません。
私は、この感情が全くないと言ったら嘘になります。
自分よりも若くて新進気鋭の作家が成功し、自分の作品よりも遥かに良い傑作を世に出しているのを見て、心が揺らがないはずがありません。
こういった状況は、絵描きでなくても誰にもあることでしょう。学生でも会社員でも、ましてや子供にすらある、誰しもが持つ嫉妬心です。
実は、これに対する処方箋は「自分も負けないように頑張る」ことではないのです。
負けないようにいくら努力したところで上には上がいますし、それどころか自分にない部分は全て羨ましくなるのが人間だからです。
全ての要素を兼ね備えることは実際に不可能で、いくら完璧人間になれたとしても完全な達成感に至ることはできないでしょう。
では、この無限に湧き出る嫉妬心に対してどうしたら良いのでしょうか。
それは、「自分が嫉妬している」ということを絶えず自覚し続けることだと思います。
人間は、無自覚なことは死ぬまでやり続けてしまう生き物です。
どんな癖も病気も、とりあえず自覚しないことには対処しようがなく、自然と良くなることは稀です。
これは人格に対してもそうで、例えば「自分は嘘をつかない」と思っていても、嘘をついている自覚がないだけで実際に嘘つきな人はたくさんいます。
まず、このスタートラインに立たなければ話になりません。
ただ、「自覚する」という作業を続けることで、徐々に改善も対応力も深まってくるものです。
私が他の絵描きを見て、「この人は良い絵を描く、悔しい」と思った瞬間、「どうせこいつは消える」と思いたくなる心が浮上する前に「ああ、俺は嫉妬しているんだ」と自覚すれば、「この人は良い絵を描いて羨ましい」と素直に認めることができます。
この心のプロセスを歪めないように真っ直ぐ元に戻すだけで、嫉妬心は正しい形でモチベーションに繋げることができるのです。
これは、「嫉妬しないようにしよう」と思うよりもずっと精神的には健全な考え方です。
自分の負の感情は抑圧してもかえってストレスになるだけで、負荷をかけたところで不満の種が消えて無くなる訳ではありません。
むしろ、負の感情はきちんと表に出してあげて、口や手に出る前に心で受け止めるだけでわりと抑え込めるものです。
これは実際に勇気がいることなのですが、痛みを伴うからこそ、この心理機構に向き合える人はあまりいません。
大抵の人は嫉妬心に無自覚で、感情を歪めた結果もう解くことができないくらいに絡まり、雁字搦めになる人ばかりです。
実は、世の中で狂っていく人ほどこの術中にハマって抜け出せなくなるのです。
「他人が羨ましい」という気持ちは、自分が今の自分に納得がいかないからであり、自分が欲しいと思う状況が作り出せないことが自ずとわかるからこそ、その先を行く人が輝いて見えてしまいます。
「隣の芝生は青く見える」ものですが、大抵の場合は自分の庭の芝生も十分青かったりもします。
もしかしたら、私が他の人を羨ましいと思う時、自分も誰かから羨ましいと思われているかもしれません。
自分にはないものを欲しがるのが人間というもので、自分が違う状況で同じことをやったら同等に上手くできるかもしれず、そうならないのは自分がそうするつもりがないだけだったりします。
私には私の事情があり、やるべきことがあるからこそ違う道を選べないとか、個性や信念があるからそうなれないだけのことを、真剣に嫉妬するべきではないのかもしれません。
そうして当たり構わず羨ましがるのは、どこかしら「不幸感」を抱えているからです。
自分が最高に幸せだと思い、満足していたら他人のことはどうでもよく見えるものです。
だから問題にすべきなのは自身の心の煮え切らなさであり、自分の環境に対する不満であり、そう言った納得がいかない部分を突き詰めてみることです。
これは思ったより難しく、勇気のいることです。
けれどこのプロセスを辿らないことには、自分の心の闇ときちんと向き合うことができません。
私は、その闇が思ったより大きく問題が複数あることに気づきました。
そのわだかまりを浄化しないことには、自分の悪意を芯から取り去ることができません。
これは一朝一夕ではできない作業ですが、どうやらこの道を通らなければならないようです。
「自分を正しく認める」というのは、考えている以上に難しいことです。
人生は思うように行かないのがデフォルトであり、不満を覚えない生き方などそう易々とできるものではありません。
けれども、どこかに必ず肯定できる道筋はあるはずです。
こんなつまらないことで躓くようでは、私を導いて下さる神様に正面から顔向けすることはできません。
「神世」というのは、ずっと志が高い世界なのだと人々に思わせなくてはなりませんし、「こんなものだ」と思われたら神様に恥をかかせることになります。
そのためにはまだまだ自分と向き合い、心を磨いていかなくてはなりません。

楽太郎です。
先ほど「お祓いとは何か」という記事を上げたばかりですが、少し話したいことがあります。
このブログをどの程度の方がご覧になられているかはわかりませんが、おそらくこの文章を読まれている方は私と同じ世界線にいます。
スピリチュアル界隈でこの数年トピックの中心だった「次元上昇(アセンション)」は最終局面を迎えています。
私が「分岐」とか、「神世に渡る」という表現にピンと来られない方も、自分には関係ないと思われる方に対しても、この文章を書きます。
このブログに辿り着かれた方は、明るい未来が待っている可能性が高いのです。
今が不安でどうしようもなくても、疑心暗鬼に駆られて身動きが取れなくても、関係ありません。
今抱えている苦しみは変化と手放しによるものであり、それは乗り越えれば良いだけのものです。
むしろ、乗り越えられるからこそあなたにその課題が与えられているのであり、課題を乗り越えるという一つの道が示されているのだから、難しく考えずに目の前の壁を乗り越えれば良いのだと思います。
「手放し」や「浄化」は、おそらく地球上に住む全ての人がいずれ、多かれ少なかれ体験することになるはずです。
その機会がいつか誰にも訪れるとしたら、自分で理解した上で先んじて出来るのならばやっておくに越したことはないと思います。
それは、後になるほど克服が難しくなり、立ち直りも難しくなる、そんな予感がします。
私がこんな話をしようと思ったのは、ここに来て諦めてしまった人がいるような気がしたからです。
ただ、世界線の分岐のゼロ地点に立ったくらいで、自分が明るい世界か暗い世界を選んだかなど自覚できる人は殆どいないと思います。
おそらく、これから世に言う5次元世界、私が言う「神世」にアクセスする人たちの大半は、宇宙や神々のことに対してマニアックな知識を持った人たちではないと思います。
その世界に住む人々はこれからの時代の中心になる世代であり、決して占いや宗教に精通した人々ではないはずです。
なぜなら、神々は自分たちが前面に出てくることを必須とは考えておられないように思えるからです。
むしろ時代の中心になる人々は神や宇宙を特に意識しない、それでいて天然のスピリチュアリストであり、天然であるからこそ自らの魂と繋がり神の声を聞く、そんな人々であると思います。
だから、昨今のスピリチュアル界隈にあるような共通認識が教養となる時代ではなく、神の意志を自分の心に宿す人々が自由に作り出す、真の多様性の時代になっていくはずです。
その世界において最も重視されるのは「魂の質」だけであり、誰もが魂を見通せば嘘偽りが通用しないからこそ、素直さや正直さが尊ばれると思います。
その世界に息づくのは、これから生まれてくる子供たちだけでなく、これまでを生きてきた老若男女も可能であり、その資格を得るためには本来の素直な心に戻らなければなりません。
素直な心とは、邪念も余計な思考もない魂からの反応であり、子供の頃に当たり前にあった感覚そのものです。
その変化を促すために、私たちは神々から気づくきっかけを与えられて来ました。
この沈んでいく世の中も、いつまで経っても「これで良い」と思っていたら、次の時代を作ろうとはしないでしょう。
現に、「何も変える必要はない」と思う人たちがいることで、より世は行き詰まりを見せています。
この状況を見て「変化が欲しい」と思う心を、神々は待ち望んでいたのです。
そして、その気づきを受け入れた人には道が開かれています。
この道を進むために、辛い判断を要求されている方もいらっしゃるでしょう。
変えたいし変わりたいけど何をしたらいいかわからない、と思われる方もおられると思います。
その迷いを感じられたなら、自分の心の奥底にある熱い感覚に問い質してみて下さい。
私は、最近になって昔のことを思い出します。
近所に駄菓子屋があって、その店のおばさんはよく困り顔で私を諭してくれました。
大人たちは、子供たちが喜ぶように安心するように色々なことを考えて、私たちに全てを惜しみなく与えてくれました。
あの頃の大人たちはとても頼りになったし、私は安心して子供時代を過ごすことができました。
その経験を、今でも感謝しているのです。
反面、自分がそんな大人になれたのかと問うと、決してそうではありません。
残念ながらあの頃のような、頼りがいのある大人にはなれませんでした。
けれども、これからの時代は違うかもしれません。
今を生きる子供たちのことを思えば、とても不憫でなりません。
そして、これからさらに激動の時代を生きることになるはずです。
私はずいぶん牧歌的な子供時代を過ごした自覚があるので、余計に子供たちを気の毒に思い、何とかしてあげたいと思ってしまうのです。
ただ、現代の子供たちはあえてこの時代を選んで生まれてきた、そんな気がします。
そんな大変な時代に子供たちを守る親世代も、きっと何かしら天命があるのだと思います。
新しい時代、新しい国にするために、あえて負債を背負って生きていく人々がいます。
私は、そう言う人たちの中にこそ新時代のキーパーソンが隠れているのだと思います。
かつて、私が出会ったたくさんの若者たちは、純粋で希望に溢れていて、野心家でちょっとバカっぽい人たちばかりでした。
そう言う人たちほど打たれ弱く、世間の邪悪さに耐えきれず自分から純粋さを捨ててしまったり、病んでどうしようもなくなってしまいました。
彼ら同世代の大半は腐ってしまったのも知っているのですが、それでも私は待っているのです。
あの頃、目をキラキラ輝かせて夢を語っていたのは、単に自分が有名人になりたいだけではなく、自分の理想を叶えることにあったはずです。
その夢を再び胸に抱いて、彼らがまた目を輝かせる日を私は待っているのです。
友よ、僕たちはかつて、あんなに天使みたいだったじゃないか。
悪魔の作った時代は終わるのだから、天使に戻ってやり直そう。
私は、それだけを伝えたいのです。
これからを生きる子供たちに、狼狽える大人たちの姿でなく、子供の頃に見たしっかり自分の足で立つ大人の姿を見せるべきなのではないでしょうか。
そのために、大人として優柔不断な姿はどうしても見せられません。
では、どうしたらいいのか。
本来の自分に還ろう。
今からなら、きっとそれができる。
別に私の話を信じられなくても構わないのです。
ただ、その心に問い質してみて欲しいと思います。
これからどうなるのか、どうしたらいいのか。
その答えはあなただけのものです。あなただけのものだからこそ、あなた自身で判断してもらいたいのです。
私は、目の輝いている大人を見たくなります。
あの頃のように、無邪気なバカたちともう一度出会って、夢を聞いてみたいのです。

楽太郎です。
6月21日に太陽が蟹座に入り、夏至となります。
それを前にしてか、本日17日には火星が獅子座から乙女座に入ります。
火星は昨年11月4日に獅子座に入り、12月には逆行となりました。戦いの星である火星が獅子座に入る時期は、「闘争や自己表現」がテーマとなります。
それが6月17日あたりで滞在を終えます。
奇しくも、先日11日の満月を境にエーテル体と神世の気場が接続し始めたのを体感してから、憑依による霊障が遠のくのを確信しました。
しかし、それに比例して悪意の密度が高まり、憑依としては高度な対応が必要になって来ました。
思い返せば去年の火星獅子座入りあたりからスピリチュアルな話題に目覚め、その時期あたりから「神世」という概念を意識して色々と学び、実践と自己浄化に取り組むようになりました。
そして、絵も言われぬ謎の霊障がその頃から付き纏い始め、不調の中で内省を極める過酷な日々が続きました。
生霊だけでなく呪いによるものや、悪霊よりも大きな力を持った存在、あらゆる憑依を体験しました。
今考えればこれも私に課せられた修行の一種だったのでしょうが、この憑依との戦いも火星乙女座入りを気に終わるかもしれません。
というのも、一昨日からかなり類を見ない霊障に襲われて、それを振り解くには新しいアプローチを試みなければならなかったからです。
これらの霊障が顕著になった昨年末の火星獅子座入りと、12月21日の冬至点とは無関係だったとは思えません。
神世への選別が始まったのと同時に苛烈化した霊障は、やはり次元上昇を妨げる目的があったのだろうと思います。
そして、火星獅子座期が終わる頃に急に熾烈になった憑依は、おそらくこれが「最後の山場」なのだろうと思います。
今回がなぜか「最後」だと思う理由は、この憑依を呼び寄せている原因が何となくわかったからです。
それは、私の中に幽界の存在を引き寄せる「幽界的観念」があるからであり、つまり私に「悪意」があるということです。
人の不幸を望み、破滅を喜ぶような浅ましさが私の心にあるからこそ、悪魔的な存在を引き寄せてしまっていたのです。
魂が同じ性質によって引き寄せられることを、スピリチュアル的には「エーテルコード」と言いますが、日月神示的な言い回しで「霊線」と呼ぶことにします。
私の心に「何かを憎む心」があるから、その憎悪に幽界的存在が感応し、魂の霊線を辿って憑依が可能になるのです。
この「霊線」を断ち切ってしまえば、原理的には幽界からのアプローチを止めることができるはずです。
そのためには、私の心にある「幽界的部分」を浄化し、つまりは憎悪や悪意を私の心から消していくことです。
ただ、このレベルの手放しは一朝一夕でできるようなものではありません。
それでも、この霊線が私の心に残り続ける限り、いくら魂が神世にあっても憑依は続いてしまうのでしょう。
私は、この憑依に関して基本的に間違った認識をしていたようです。
憑依に対して「祓い」を行う時、その感覚は「除霊」に近いものでした。「祓法によって邪霊を払い除けよう」とすることは、そこに敵愾心をどうしても発生させてしまいます。
自分の身体の不調も精神的な不安定さも、「邪霊のせいだ」と思えば思うほど、幽界的存在との対立を深める要因になっていたのだと思います。
要するに、私が霊障を問題視して憑依を邪魔なものとして認識するから、延々とやり合うことになるのです。
それはむしろ幽界側にとっては望ましい状況で、互いにやり合っているうちは私の覚醒や進行を妨害することができるはずです。
だから、この関係を断ち切るためには、私が常日頃から抱いている私自身の攻撃的な欲望をよく内省する必要があったのです。
私が常日頃から抱く「腹立たしさ」の正体は、単に「悪を憎む心」にあります。
あらゆる不正や欺瞞が横行し、それを取り締まる気配も希薄で、人々がその状況を黙認していることへの怒りです。
先日の「怒りを捨てるな」という記事でお話したように、この怒りの感情も浄化して正しい動機にするなら全く問題はありません。
しかし、「浄化できない怒り」というのが問題で、例えば目の前を歩いている人が突然ゴミを投げ捨てるとか、人に罵声を浴びせているのを目撃するとか、そういった直感的な怒り、感情として自然に抱いてしまう怒りをどう処理するのか、という課題が依然として残り続けるのです。
その「何かを悪として憎む心」が自分のエゴイズムから発生するならば、自分自身を内省し浄化していく必要があります。
究極的には、「悪を悪と認識しない」レベルまで意識を持って行ければ、悪に対して過剰な憎悪を抱くことはなくなるでしょう。
ただ、考え方として悪の存在がこの世にあるべきシステムの一部であるにしても、その悪を完全に許し切れるのか、あるいは悪事がもたらされたことに感謝し、「悪事に対してありがとう」と言えるほど達観できるのか、という現実的なハードルをどう考えたら良いのでしょうか。
思い返せば、女子高生を拉致して監禁しレイプして暴行死させた上、遺体をコンクリート詰めにして沈めた少年グループ、ある会社に侵入してガソリンを撒いた上に火を放ち、逃げ惑う人々を刺して数十人を犠牲にした男、この有様をどうすれば「悪業を行ってくれてありがとう」と考えられるのでしょうか?
私はこれを思う時、悪は滅するには生温いとすら感じますし、できれば永遠に地獄の炎で焼かれて欲しいとすら思います。
しかし、それを人間の感覚ではなく宇宙や神々の視点で考えるならば、「これも世の摂理としては必要なことだった」と言えるとしたら、これらの出来事はどう解釈したら良いのでしょうか。
常々、人を貶め暴利を貪る連中ばかりが表通りの真ん中を歩くような、不条理極まりないこの社会を私は苦々しく思って来ました。
ただ、これも神々が「必要なプロセスだ」と仰るのだとしたら、その意味を考えてみたいのです。
私はこれを考える時、「水槽」が頭を過ぎります。
今、この社会において「ホット」なのは、権力とお金とステータスを持ち、軽快に生きる人々です。
彼らは物質や目に見える価値観に対して非常に強いパッションを持っているからこそ、この弱肉強食の社会を勝ち上がってこれたのでしょう。
彼らが水槽の中にある「熱湯」なのだとしたら、温かい水ほど軽いので水槽の上層部に溜まります。
彼らのようには物質主義の競争社会を勝ち上がれなかった人々は、温度が低い分底部に沈み滞留します。
それが世に言う「勝ち組負け組」であり、これは水槽の上澄の人々が名付けた仕組みです。
この上層に上がるために、私たちはこれまで目に見える価値観を追い求め、ステータスを必死で手に入れようとして来ました。
しかし、それほど単純な世界ではないのです。
水槽の中も循環し、高温と低温の水、淀んだ水と澄んだ水、色のついた水と透明の水、様々な水質が同じ水槽の中にあります。
私たちが社会を認識する時、この水槽全体を俯瞰してものを考えることが殆どできません。
どこかの位置の水を抽出して、そのサンプルを複数揃えて分析するに過ぎないのです。
そして「悪」とは、この水槽の中で最も淀んだ熱い汚水に宿るものであり、それがある時に別の水域へ紛れ込んで禍事を起こすのだと思います。
ただ、それは水槽全体で見れば、一定量の淀みの中で特に高い濃度の汚水であるだけで、その水が水槽の淀みを吸収している分、他の水質はクリアでいられるのです。
確かにこの汚水が清浄な水に流れ込めば、そこに悲劇を見出してしまうでしょう。
しかし全体で見れば、いずれ「起こる可能性がある」現象であり、そこで起こらずとも別の場所、別の形、別のタイミングで起こったはずです。
ゆえに、俯瞰した視点で考えれば混沌とした現実世界において、全く理不尽なことが起きるのも世界のバランスの中では必然とも言えるのです。
私たちは、こういった悲劇を繰り返さないために啓蒙活動をしたり、社会保障を作ったり法律を変えたりしますが、未だ犯罪そのものを撲滅することはできません。
「悪」という水槽の中の不可分な「淀み」を全て攫い出し、綺麗な透明の水だけにすれば平和的理想の社会が実現すると人々は考えます。
しかし、水は自ずと変質していくものであり、どんな清水も淀めば腐ってしまうのです。
こう考えると、「悪」とは必然的に存在してしまうものであり、必要悪こそが悪そのものとも考えられます。
従って、悪人や犯罪は確かに許しがたいものであっても、その個人的感情から上の視点に立ち、全体から意味を考えることこそ大事なのだと思います。
これが人だけでなく、悪霊や邪気といった類の存在もこの世界のシステムの一部なのだとしたら、その働き自体はこの世に必要なものでしょう。
例えば、私たちが全く身体を気遣わず適当な生活をすれば、いずれ風邪を引いて身体を壊すように、この世にウイルスが存在するから健康に気を遣うようになります。
同じように、マイナスの働きがあるからこそマイナスがあることに気づき、気づきがあればゼロに戻そうともプラスにしようとも考えます。
「悪」とは、バランサーの方側を受け持つ存在にしか過ぎないのではないでしょうか。
私は憑依に気づいた時、「祓い」によって悪霊や邪気を遠ざけようと考えていました。
しかし、祓っても祓っても終わることのない憑依の中で、本当に祓わなければならないのは「自分」だったことに気づいたのです。
私が憑依を払い除ければ済むと思うことは、自分は清浄な存在で何も悪くなく、霊障を受けるような心当たりも責任もない、と考えているのと同じです。
その考えにこそ「悪」が宿り、それゆえにこの「悪心」を断ち切らなければ根本的な祓いにはならなかったのです。
神仏に「祓い」を祈願する時、自分の外側にある厄や邪気を何とかしようと考えがちですが、本当の祓いとは自分自身に対して行わなければならないのだと思います。
自分に疾しさがあるから、その霊線を辿って疾しい存在が近寄って来るのです。
それならば、自分の疾しさそのものを浄化すれば、その霊線は断ち切れるはずです。
ここまで考え至り、私はこの世の「悪」に対してどういう感情を持てば良いのか、見えてきた気がします。
よく考えれば、神道の「祓い」も仏教の「供養」も、煩悩や邪気を浄化することで心を平穏に保ち、幸せに生きるというテーマは同じです。
それは死霊だけでなく、今を生きる自分自身の心にも大切なことです。
浮かばれぬ感情や念によって起きる執着は、肉体があろうがなかろうが手放しが必要なものであり、それゆえに祓い清められることで浮かばれるのでしょう。
日月神示にある「悪を抱き参らせる」とは、悪意への供養、救済であり、世界の罪穢れを請け負った存在に対する癒しなのだと思います。
それこそが「悪との和合」であり、悪を滅ぼす悪にならずに悪を善とする実践となるのです。
「供養こそが救済」と言う考え方において、神道も仏教もほぼ一致します。
それゆえ、飛鳥時代に仏典が日本に伝わった時、神道との共存が図られたのは宗教的目的が一致していたからかもしれません。
神道の究極の目的は「祓い清めによる救済」であるからこそ、人間は真の幸福のために魂の浄化を神々に促され続けるのです。
だから私は、少し時間はかかるかもしれませんが、この怒りをコツコツと浄化していくことにしました。
人の揚げ足を取りたくなるのは性格ですし、その性格の悪さが傍若無人な批判癖に繋がっているとも言えます。
この頑固さが悪を作り出し、私の心に憎しみや怒りを生み出しているのだとしたら、本当の原因はここにあるのです。
いつかこの感情を祓い清められた時、目の前で起こる悪事に達観しながら、「ありがとう」と言える境地にも至れるのかもしれません。
そこまでできたら仙人か神様の領域ですが、いざそうなってみるのも面白いかもしれません。
