招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

進撃の「瀬織津姫」

楽太郎です。

今、「日月神示」の原典をまとめたサイトを急ピッチで作っています。

ここ数日は、日月神示の解読も並行して進めていたので、制作とはかけ離れたことをしていました。
ここ何週間か絵をまともに描く機会がないのですが、今は神様からの優先順位を鑑みると「それどころではない」という感じなのでしょう。
この「日月神示」のサイトを制作しているうちは他のことがあまり目に入らない状態で、サイトもあと一週間はかかりそうです。

これまで、私はインスピレーションを受けて始めたことを30〜40%くらい進捗を上げたら、また別のインスピレーションに従うことを繰り返してきました。
でも私の性格としては一つずつ仕上げてから次のことに取り掛かりたいですし、一気に終わらせたい欲もあるのですが、どうも思惑通りに行かないようです。

これもおそらく神様のお導きとは言え私の本懐は画業であり、全く関係のない方面に突き進んでいるのも不安を覚えるのですが、「作家」である以前に「一人の人間」であり、その人間が歴史的な転換点を迎えつつある今、一個人としてやらなければならないことがあるのだろうと思います。

ぶっちゃけ、「イラストだ漫画だ」と言ったところで、仮に文明が崩壊して食うに困るような状況になれば、それどころではないかもしれません。
腐敗しきった帝国主義が我が国を覆い、文化も民族も解体されようとしている今、現状を続けようとする「日常感覚」は邪気になり始めています。

「このままの世界が何となく続いていく」
「このまま同じことを繰り返していればいい」

その感情は、一昔前の平和感覚に酔っているに過ぎず、偽りの平和の影から悪意が忍び寄っています。
いつか人々は微睡から目を覚まさなければならず、今まさに日本人に覚醒の波が押し寄せているように感じます。

私は、その鍵となるのが「日月神示」であると確信していて、例え人々から脈絡がないように見えたとしても、日本人に最も必要なのは神示に書かれた「精神」そのものだと思います。
そのメッセージが、今の人々には受け入れ難いこともわかります。
しかし、私自身が最初から諦めて「誰もわからないだろうから」と言って、覚醒の芽を摘むのも罪になるでしょう。

日本のマスコミや思想や文壇が退廃したのも、「大衆はバカだからどうせわからないし、高尚なことに金を出すはずがない」という民衆への軽蔑が根底にあり、「バカ向け」の商売ばかりをしてきた知的産業が、国民の白痴化に貢献することで民衆の知的水準を下げてきました。
それによって知的探究心はネットの情報である程度解消される程度のものとなり、出版業界こそ袋小路に入る原因を自ら作り出したのではないでしょうか。

日本人は元々、それほど高尚な思想を持つ国民性ではありませんが、かつてイエズス会の宣教師が日本人を奴隷として海外に売り飛ばし、ローマカトリックが我が国を植民地化しようと企みましたが、豊臣秀吉を始めかつての日本人は本質を見抜く目を持っていました。

しかし、今の日本人の眼は曇ってしまって、押しかけ強盗が申し訳程度に置いていく捨て銭をありがたがり、好き放題に家中を荒らされても声ひとつ上げず、ただ見ているだけです。
抵抗することも抗議することも「悪」だと刷り込まれ、無抵抗こそ「平和の実現」に繋がると思い込んでいるからこそ、我が国はここまで踏み躙られているのです。

だから私は「お前のやっていることは無駄だ」と言われることも承知で、こうして文章を書き「日月神示」の重要性を伝えていきたいのです。
それが例え何にもならないとしても、一人の人間として手を拱いているつもりはありません。

さて、熱く語ってしまいましたが今回の記事のテーマは「瀬織津姫命」に関してです。

日月神示の解読に関してもそうですが、今の時代だからこそ神々が人間に対する向きを変えてきたように感じます。
日月神示にある「三千世界の大洗濯」たる大峠は、神々の世界も我々の世界も基礎から洗い直すことになるそうです。
神様の世界が変わるとしたら、神々を祭祀している私たちのあり方も変わることを意味し、次の世における「神の道=神道」のあり方も変わらざるを得ないはずです。

現代の国家神道や宗教法人の神社経営などを批判するわけではないですが、日本の現行制度では神社仏閣の存続は困難でしょう。
ただでさえ、若者たちの神仏に無関心な傾向が進む中、同時進行で少子高齢化が進み、これまでの氏子体制では維持ができない寺社も出てきています。
ゆえに、日本の宗教的・民俗的な信仰文化を後世に残そうとするならば、宗教上の現行制度も見直される必要があります。

その上で、新しい形での「神社文化」が求められてくると思いますし、その精神が今後の日本人に不可欠であると私は考えています。
そのため、私は以前から瀬織津姫命を主祭神とする「瀬織津神社」の創建を一つの目標として、祓戸大神をモチーフにした「HARAEDO」というコンテンツを制作しながら、その実績を足掛かりにしていこうと思っています。

「瀬織津姫命」という御神格は、かなり受難の多い経歴を辿ってきたと思います。
「瀬織津姫命」は中臣大祓詞にある「祓戸大神」の一柱として重要な御役目を果たし、その名を残していながら瀬織津姫命を主祭神として祀る神社は決して多くはありません。

私の自宅には岩手の「早池峯神社」と「瀬織津姫大神」の御神札を祀っています。
かつて早池峰山に降臨したとされる三女神の伝承から「瀬織津姫命」という御神名が受け継がれ、早池峰山麓にある「早池峰湖」には湖水を見つめる瀬織津姫命の神像が建てられています。
仙台の「瀧澤神社」には火防の神として瀬織津姫命が祀られ、岩手や宮城など東北地方にはその御神名がそのまま残っているケースが多いです。

いわゆる「東北」は古くから「白河以北一山百文」と言われ、中央政権から疎まれる「蝦夷」の地でした。
岩手には出雲系の伝承が色濃く残る地域もあり、東北の地が往年の大和朝廷から好ましく思われていなかったのは事実でしょう。
それゆえ、中央政権の睨みが効かない岩手の土地に奥州藤原郷が栄え、「瀬織津姫命」という御神格がそのまま残されたのではないでしょうか。

そもそも、「瀬織津姫命」とはどういった背景を持つ神様なのかを辿ってみたいと思います。

かつて平安時代に栄華を極めた「奥州」の藤原三代は、藤原家の系統ですから「中臣大祓」を奉じた中臣氏を祖とする一族です。
その中臣大祓に「祓戸大神」として瀬織津姫命が登場するので、元々中臣氏の家系は瀬織津姫命という御神格を祀っていたのだと思います。

大祓文中にある「佐久奈太理(さくなだり)」とは、中臣金連が「大石佐久奈太理神」を勧請した「佐久奈度神社」のある琵琶湖畔の「佐久奈谷(現・桜谷)」を意味すると思われます。
京都周辺では、言葉の順序や捩りや訛りがそのまま語形変化に繋がっている場合が多く、若干発音が変化しているのでしょう。

琵琶湖から流れ出る一級河川の「瀬田川」は、京都側では「宇治川」、大阪に差し掛かる辺りで「淀川」と名を変えます。
この瀬田川の流れ出る谷に「佐久奈度神社」が鎮座し、かつて中臣金連が「大七瀬」の祓いをしたとされる鴨川を含む七つの川は、瀬戸川の支流にあります。
ゆえに、大祓にある「速川の瀬」とは瀬田川である可能性があり、かつて平安京に流れ込む災いを封じる祓を行うための「結界」であったと考えられます。

それは本来河川の女神であられる瀬織津姫命を、「饗土(=京戸)の塞の神」として祀ったことに繋がるのではないでしょうか。
だからこそ、祓戸神は「岐(くなど・ちまた)の神」という側面を持ち合わせているのだと思います。

瀬織津姫命は、一般的には「宗像三女神」の市杵島姫命と同一視され、河川に係る神社にも厳島系の信仰が色濃く残ります。
「市杵島姫命」は宗像大社中津宮に坐すとされ、大島の御嶽神社を始原とする御神格であられます。
宗像三女神とは、田島の辺津宮に田心姫命、大島に市杵島姫命、沖ノ島に湍津姫命を祭神としています。

しかし、宗像では「航海や海上安全の女神」として祀られる宗像三女神が、なぜ河川や滝の女神として祀られるのか私は不思議でした。
日本の河川や滝に鎮座する一般的な神格は厳島系で宗像三女神とする以外に、インドの河川の女神である「弁財天(サラスバティー)」や「龍神」や「滝不動」とされることが殆どです。

そもそも「瀬織津姫」の御神名を辿ってみると、「瀬に降りる」と直訳され、「川面に降り立つ女神」を意味します。
しかし、興味深いのは長野にある筑摩神社に祀られている宗像三女神は、「狭依(さより)姫命、多紀理(たごり)姫命、多紀津(たきつ)姫命」とされ、実は市杵島姫命の別名に「狭依姫命」があると言います。
「狭依(さより)」と「瀬織(せおり)津」は、語感として非常に似ている気がしますが、もう少し掘り下げてみましょう。

日本神話の神名によくつけられる「狭(さ)」という仮名は、「御」「速」などの敬称を意味するとも言われますが、かつて稲作の豊穣祈願をする際、「稲霊(サ)」を神籬や磐座、巫女を依代として祀り、その祭祀を持って「サ(狭)の神」を崇敬してきたのだと思います。
ゆえに、語源から推察すると「狭依姫命」とは「稲霊(サ神)」の依代の神格化であり、市杵島姫命を祭神とする御嶽神社が御神体を磐座とする説明にもなります。

「瀬織津姫命」とは、「狭依姫命」の語形変化から派生した御神名である可能性が高く、「津(つ)」は接続詞であり、「狭依(さより)つ姫」が訛って「瀬織津(せおりつ)姫」になった可能性があります。
そもそも「サの神」は古来より初夏に山々から里に降りて、収穫の秋には稲に宿り実らせると考えられてきました。
秋に実りをもたらした稲霊は春に田植えをするまで山に帰るとされ、山に坐す神霊が里に降りるには「川を伝ってきて、稲田の依代に降り立つ」と考えられてきたからこそ、「サ神」と「早乙女≒巫女」は結びつきやすかったのだと思います。

五月(皐・サ月)に田植えをする乙女たちに降りる神霊は、大衆的な目線で言えば男性的な神格ではなく女性格の神霊の方が直感に反しません。
だから「サ神」は女神であると考えられ、山を神体とする「大山祇神」は女神とするのが一般的なのだと思います。
ゆえに瀬織津姫命も狭依姫命も、本来は「サ神」であり、だからこそ山や川と地形的に縁が深いのでしょう。

では、宗像三女神とされる「多紀理(たごり)姫命」や「多紀津(たぎつ)姫命」の御神名を探ってみると、「タゴリ」の本来の語彙は「タギオリ=タキオリ」であり、上代日本語において母音連続を避ける法則から、元は「滝降り(たきおり)」の意味であった可能性があります。
ゆえに、「タゴリ=タキオリ=タキ(ツ)」であり、田心姫命も湍津姫命も、語源としては同じであると考えられるのです。

瀬織津姫命は滝に祀られることも多く、元々「滝つ姫」として祀られていた滝の女神が、「瀬に降りる」サ神と結びつき、同一神格となっていったのではないでしょうか。
しかし、滝の水も川に流れ出るのでその見方は矛盾しません。
これは大祓に「佐久奈太理に落ち多岐つ」とありますが、これは瀬織津姫命と湍津姫命を重ねる動機にもなり得ます。

おそらく、中臣氏は「瀬織津姫命」という御神名を残したかったのだと私は思います。
それゆえに、「記紀」の記述には登場せず殆ど主祭神として祀られることのない「瀬織津姫命」という河川と稲作に係る女神を、「祓戸大神」として名が残るようにしたのではないでしょうか。

では、なぜ「瀬織津姫命」という御神名に被さるように、市杵島姫命を始め異なる神々の名が与えられるようになったのかを考えると、本来「狭依姫命、多紀理姫命、多紀津姫命」の三女神は同一神であり、淡水と河川と磐座信仰に基づく宗教文化は稲作ができる「陸側」に広く存在していたと推察できます。
我が国は歴史的には狩猟民族である縄文人を祖先とし、その後「稲作」が始まり定住が広がることで弥生文化が根付いていきました。
航海技術を持った海洋民族や渡来系の人々は、その定住した人々と交易をすることで栄えていったと考えられます。

古代における宗像氏は海洋豪族であり、いわゆる「海人族」ですが、宗像の大島は「壱岐」と非常に近く、壱岐から田島、大島、沖ノ島を経由して朝鮮半島と鉄などの交易を行っていたそうです。
宗像三女神を祀る宗像大社の神主であった宗形徳善は、「記紀」編纂を指揮した天武天皇の義理の父に当たり、当時の朝廷では宗像氏と秦氏が同じ海洋系氏族として権威を持った時代でした。
古代の近畿地方には海部氏や尾張氏、渡来系の秦氏や九州の海洋豪族の宗像氏が権勢を奮っており、その影響は避けられない状況だったのでしょう。

ゆえに、天武天皇と持統天皇の時代に編纂された「記紀」の記述において、天照大御神と素戔嗚命の「誓約」で誕生された宗像三女神が、いわゆる公式見解となってしまったことで、瀬織津姫命が市杵島姫命という御神名に書き換えられてしまったと考られます。
そもそも、海洋氏族である宗像氏が淡水のある河川の女神を祀るのは地形的に理に叶っておらず、元々本島で祀られていた狭依姫命を始めとする三女神を壱岐と宗像を挟む「三島」に当てはめ、その土着的信仰を国家神道に差し込んだのではないでしょうか。

「市杵島」は本来「壱岐島の女神」か、海の岩礁を磐座とする「斎(いつき)島」から名付けられた可能性が高く、従って海神と考えるのは理に叶っています。
しかし宗像氏が狭依姫命と市杵島姫命を同一神格としたことで、市杵島姫命という島と海の守護女神が、河川や滝の守護もする「水の神一般」の御神格を指し示すようになったのだと思います。
そして、奈良・平安時代にかけて中央政権と絶妙な独立関係を維持した奥州は、「瀬織津姫命」という御神名をそのまま残すことになったのだと考えられます。

ただ、瀬織津姫命を市杵島姫命とする以外に、なぜ弁財天や龍神や不動明王に神名を書き換えるほど徹底した「瀬織津姫隠し」が行われたのか、その説明はつきません。

しかし、国家神道を司る伊勢神宮の「天照大御神」の荒御魂として「撞賢木厳之御魂天疎向津姫命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)」の別名を由緒が「瀬織津姫命」とすることに繋がりがあるような気がします。
私の見解としては、天照大御神の別名とされる御神名は、本来「撞榊向津姫命(つきさかきむかつひめ」であり、「神の憑く榊に迎える女神」で「神籬を依代とする神霊」を意味したのではないでしょうか。

そうするなら「神籬や磐座や巫女を依代として降りる稲霊(サ)」としての瀬織津姫命(狭依姫命)を天照大御神の荒御魂と比定する説明もできるのです。

今、私が読み込んでいる日月神示の中で、「御三体の大神」として「伊弉諾神・伊奘冉神・つきさかきむかつ姫の神」とする記述があります。
そして神示の文脈を紐解いていくと、どうやら私たちが考える天照大御神と天照皇大神宮の天照皇大神とは異なる御神格らしいのです。

私はこれを読んだ時、何かの間違いか悪戯の可能性を考えたのですが、現実の神界の話が日月神示に書かれているのだとしたら、河川の女神であられる瀬織津姫命が「太陽神」であり「高天原の最高神」である説明はつき難いため、日本人が国家神道という祭祀形式においては瀬織津姫命を「神道の最高神」に据えて天照皇大神とし、天照大御神の荒御魂として祀る論拠たりえます。

神社祭祀を礎とする神道において、「祓い清め」は神道の究極の目的であり、生きている限り「罪穢れ」を負う天の益人である国民は、神々の祓いと除災によって救われ、豊かさを得て幸福になるとされます。
つまり、「祓い清め」という神々の御役目を司る「祓戸大神」であられる瀬織津姫命が、神道における最高神と考えられても不思議ではないのです。

ただ、それでは「淡水の女神」を太陽神とする矛盾が生じることになりますが、そもそも瀬織津姫命が「稲霊の神」であるとするなら、今日も続く国家的祭祀である「大嘗祭」が収穫の儀式であり、稲の成長には水だけでなく太陽の光も必要であり、人々は恵みを太陽に求めたのではないかと思います。

そもそも、「天照大御神」という御神格が「太陽」だけでなく「高天原の最高権威」を指し示すとしたら、瀬織津姫命がその勲位に神留まることに矛盾はないのです。
それゆえ天照皇大神は「稲作」と「太陽」と「祓い清め」を象徴する女神となり、まさに日本人にとって最高の神徳をもたらす御神格であられるのでしょう。

また、神武天皇の妃であられる「媛蹈鞴五十鈴姫命」は「玉依姫命」の御子神とされます。
この「玉(たま)」という言葉は、そのまま「霊・魂(タマ)」の意と考えられますが、「日・霊(ヒ・ミ・ヌ」のバリエーションの一つかもしれません。
そう考えると「サ(稲霊)」も「タマ」であり、「霊を依代とした女神」という意味では「玉依姫命=狭依姫命=瀬織津姫命」とも考えられます。

玉依姫命は海津見の竜宮の乙姫とされ、姉の豊玉姫命は龍神であり、彦火火出見命との子であるウガヤフキアエズ命を養育し、その後ご結婚なされたとされます。
日本では古来から水辺に龍神が住むと考えてきましたが、実は「竜宮」は滝壷の奥にあると考える方が一般的だったそうです。
「滝・瀧」には「竜・龍」の漢字がつくので、古代の日本人は河川に龍を見ていたのではないでしょうか。

従って、「瀬織津姫命」と「玉依姫命」の同一視説があるのも一理あります。
「記紀」において「櫛玉依姫命」や「鴨玉依姫命」など「玉依姫」の派生形と思われる御神名が多いのは、皇統と地方豪族との宗教的・血族的繋がりを示す上で神格を結びつけた結果なのだと思います。
そもそも、稲作の豊穣と河川の恵みと祓い清めや除災を司る神格はあまりに万能であり、地方豪族がそれぞれの「サ神」を祀っていたら人皇を頂点とする中央政府の権威性は固持できません。

おそらく地方豪族もそれぞれ「瀬織津姫命」を産土神や氏神や祖神としたため、王権がそれぞれの豪族を束ねる過程において皇統に結びつける必要があり、それゆえ「玉依姫命」に見られるように幾つもの神名を用いたのだと考えられます。
「瀬織津姫命」という統一見解が広く地方に存在し、その信仰が根強ければ根強いほど「天皇」や天照皇大神を頂点とする権威は分散します。
その状態が続けば統一はならず軋轢を生む可能性があり、大和王権はそれを恐れたがために「瀬織津姫隠し」を行い、その権威を「天照皇大神」に紐付けたのではないでしょうか。

まとめると、瀬織津姫命の御神名は狭依姫命と同源であり、おそらく「サオリ(稲に降りる霊)の神」、言わば「さおり(稲降り)姫命」が御神名の原型なのかもしれません。
東北地方には「サオリ」という稲作に係る豊穣祈願祭の風習があったと民俗学に確認でき、やはり「瀬織津姫命」は稲作と関連が深いようです。
ただ、「山から流れてくる川」と水田に豊穣をもたらす神が結びついたがゆえに「サの神・塞の神」という側面があるのであって、山の水源から浜辺までの淡水を司る女神であるのは不動だと思います。

私自身は瀬織津姫命を「市杵島姫命」や「弁財天」や「龍神」や「滝不動」としてお祀りしていることに茶々を入れたい訳ではありません。
ただ、これから神道が見直される機会が得られるならば、「瀬織津姫命」という御神格をあるがままに捉え、その信仰を根付かせていきたいという思いがあります。

瀬織津姫様は私が感じる限り「瀬織津姫」という御神名を痛く気に入っておられるようで、その名が上書きされていることには胸を痛まれている気がしてなりません。
特に日本の国土におられる神様たちは、ご自身に外国由来の神名がつけられているのをどうお感じになられているのでしょうか。
例え神様がどう思われているにしても、私が新たに「瀬織津神社」を創建することによって、「瀬織津姫命」という御神名をそのまま後世に残すことができます。

その上で、新たな「神社建立」は次の時代における祭祀のあり方を見直すきっかけになると思います。
そして、日本の国家神道のあり方、国家そのもののアイデンティティを考える上で「日本人にとって神とは何か」に、一石を投じることができると私は考えています。

また実際、私が瀬織津姫様のご神意を伺うことができているのならば、神様はそう願われているように感じます。
おそらく、神々は「人間と神との関係」を根本的に変えようとして動かれているのではないでしょうか。
私はそれを感じるたびに、「神様は前面に出て来られるおつもりだ」と確信するのです。

この文章を書かせたのが瀬織津姫様のお力なのだとしたら、神様たちは攻めていくおつもりなのでしょう。
これまで歴史的に覆い隠されてきた信仰を改めるべく、瀬織津姫様の巻き返しが始まったのだとしたら、それは「瀬織津姫命の進撃」と呼んでも良いのかもしれません。

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