招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「思想」とは何か

楽太郎です。

2025年のエネルギーの流れが落ち着いてきて、だいぶ先が読めるようになってきました。
そこで得た実感は、「人世は本当に終わる」ということです。

これまで半信半疑でしたが、炙り出される問題の規模を見て、小手先三寸で世の中がガラッと良くなると思う人もいないのではないでしょうか。
現実面だけでなく、次第に「世界の法則」そのものが変わってきたようにも思います。

人々の「念」がこれまで以上に現象化しやすくなっているように感じます。
生霊も飛びやすくなっていますし、引き寄せの確率や強度も高まってきているように見えます。
邪気も肉眼で見えやすくなってきていますし、自分の発した呪いがすぐに巡って返ってくるはずです。

世の暴露を見てもわかるように、容易に嘘が見破られるようになってきました。
これは人々にサイキック能力がついたというより、法則的に嘘が炙り出される仕組みになってきたからではないでしょうか。

嘘も詐欺も通用しなくなるとしたら、人間の思考の大部分が通用しなくなるということです。
そのルールの上では、魂のエネルギーが中心となる力場が形成されていくのかもしれません。

やはり、この世界は高い次元に移行しているのは間違いないようです。
これまでの世界で通用したやり方が、徐々に通用しなくなってきているのでしょう。
「神代」とは、神様が地球の支配権を取り戻した世界です。そこでは、人間の頭で考えてやるようなことは、神様からのお咎め一つで実現しません。

神様が人間の自己実現の決定権を握るということは、人類にとってはとてつもない大変革です。
スピリチュアルに親しい人ならもう常識ですが、これからほぼ全人類が新しいやり方と直面することになるでしょう。

それによって破滅する人もたくさんいるはずです。
けれども、破滅を選択したのは自分であり、破滅から抜け出す道を探そうとするのも自分の意志です。
それ自体に同情する必要もありません。世界と人類を作った神々がそうするように決めただけで、それ以上の意味を人間には伺い知ることができないからです。
人間が出来るのは、あくまで環境に適応して生きていくことだけです。


思い返せば、人世とは「唯物論的世界」でした。
唯物主義とは、物質と科学の世界です。神や精霊や魂は存在せず、そういった迷信を科学で解き明かし、文明の一部に帰属させていく考え方です。

その文明では、万物の価値の軸になるのが「お金」です。お金の価値が生じないものは、存在価値のないものです。
人間が幸福になるためには、生まれ持った資質だけでなく、「お金」があれば無限に着飾ったり、人を意のままに操ったり、自分の肉体そのものも限界まで改造することができたわけです。

お金があれば老後の心配もなく、ほどほどに遊んで暮らせられるからこそ、安心と平和の象徴でした。
人々はその安心感を「幸福」と呼んでいました。
しかし、やりたくないことや労働と引き換えに、お金という対価を得てきたわけです。

拝金主義という唯物史観が、これまで数百年間の人世を形成してきたと言っても過言ではありません。
富に対する限りない執着は、戦争を金儲けの道具に使い、金儲けのために大衆の心を支配し、金儲けのために弱者を餌食にしたり煽動することが平気で行われてきました。

現代で言えば、それは「共産主義」という唯物史観によって広く流布しています。
しかし拝金主義における支配欲の発露は、マルクス主義にだけ影響しているわけではありません。

その影響が悪い形で出ているのは、むしろ資本主義経済の方です。
資本主義経済の民主国家ですら、一部のオリガルヒに政治的主導権を握られ、彼らが秘密裏に搾取する完璧な構造が構築され続けています。
人々は彼らをDSと呼びますが、その本質にあるのは選民思想であり、自分たちを神の座に置く唯物論です。

それが全ての構造的問題を引き起こしているのに、人々は同族嫌悪で同じ穴のムジナを叩いて回るだけです。

今、本当に人々がしなければならないのは、必ずしも官庁へのデモであったり、アメリカの大統領に願いを託すことでもないはずです。
自分には何もできないとしても、まず何が本当に問題なのかについて、自分だけでも気づくことです。
人々の気づきは次第に広がり、後に自然な形でムーブメントとなり、自ずと世の中を変えていくでしょう。

現代の経済システムの終わりは、拝金主義の終わりを意味しています。
お金以外に生きる目的を見い出す時、人は何をするべきか何を大事にするべきか、その考えを再構築するタイミングに差し掛かっています。

今、全ての問題の責任を外部に求め、自前の正義で他人を批判して回るべき時ではありません。
真の問題は何か、その問題のために何をすべきか、一人一人が自分の内面と向き合い、出来ることを探す時なのです。

思想とは、他人を批判するための武器ではありません。
思想を理論武装の道具に使い、自己を正当化して他者を平伏す目的で使うべきではないのは、右でも左でも同じことです。
世の中を正しい方向に導きたいのであれば、自身の発言力を求めるだけではなく、自分自身が実践し行動することが大切です。

思想とは、あくまで生き方に活かして実践するべきものです。

実践するからこそ働きかけ、人々に影響を与えることが出来るのだと思います。
それは他人に行動を強要したり、価値観を人に押し付けることを意味しません。
この部分を履き違えてきたからこそ、人々は思想を嫌い、主張する人間を忌み嫌う風潮が出来上がったのではないでしょうか。

言ってみれば、思想とは語るべきものではないのかもしれません。
議論は確かに大切ですが、自分が活用する上では他者を論破する必要はないからです。
自分が正しいと思うことを、自分が正しく実践すれば良いだけで、他者が介在する余地はあまりありません。

私のこの意見すら、何の価値も評価もなくても構わないのです。
それが正しかろうと正しくなかろうと、自分が思う正論ほど人には好かれないものです。
その場合、正論は必ずしも感情的ではないからです。感情的ではない意見は、人に共感されにくいという性質があります。

正論は人に押し付けるものではなく、自分の信念として言動の柱にしていくためにあると思います。
要は、自分の道標にすれば良いだけで、集団目標にするからおかしなことになるのです。

これは、言論を生業としている人ほど受け入れ難いものでしょう。
しかし、正しさを目に見える力に変換した時点で、その思想は理論武装になっているのです。
脇差は常に振り回すものではなく、武士の誇りとしてあえて抜かないでおくべきものです。
安易に力を誇示しない美徳こそ、思想の奥深さの一つの表現であるように思います。

これから、人の時代は混乱期を経て、猛烈な反省期に入っていくことでしょう。
その時、思想や信仰の偉大さが再発見されるはずです。
それまで、正論は忌み嫌われ続けるでしょうが、それが思想のあるべき姿です。

誰にも知られず、理解されず、ただ黙々と行動に移される、それこそが信念というものだからです。

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次の時代に行きたくて

楽太郎です。

ニュースを見なくなって久しいです。
ただ、YouTubeのタイムラインを更新すると時事系チャンネルのサムネが現れ、そのタイトルを読んで初めて「世の中はこんなことが起きてるんだな」と思います。

それよりも気になるのは、息をするように生成AIを使う人が多いことです。
使っている本人は「合法だし悪くない」と言うでしょう。
視聴層も何の問題もなく、むしろ新しいコンテンツだと思っているかもしれません。

ただ生成AIは、営利団体が著作権者にほぼ無断で収集したデータを合成して出力したものにすぎず、加工プロセスが治外法権だからこそ成立しているサービスです。
許諾データを使用した生成AIは、クオリティ的にほぼ使い物になりません。
無許諾のデータは、生成AIに吸わせるためにクリエイターが長年を費やし、汗水垂らして制作してきたものではないのです。
そのことまで認識し、生成AIを使う人はどれほどいるのでしょうか。

こうして、人々がどんどん無責任になり、無責任でありながらきっちり利益と権利だけは確保したい、という思惑で動いていきます。
自分の背後にある構造には気づくことなく、自らの正義が秩序を破壊していることにも無自覚です。

今起きているあらゆる問題の根幹にあるのは、過剰な自己愛と自己顕示欲です。
私は人間のそういう部分を見たくなくて、人の作るコンテンツから離れていきました。
こういった人間の性は、粗を探したくて見るわけではなく、瞬間的に情報として入ってきてしまうので、出会ったが運の尽きみたいな感じです。

あまりイラつきたくないのは正直な気持ちですし、正義感を駆り立るのは良くないと私も自覚しています。
けれども、人間の浅はかさが見えてしまうと、何となくガッカリした気持ちになってしまいます。

この状況を神様がどう思うのか、それは考えなくてもわかります。
「計画通り」です。

今の世が良ければ、風の時代になったと言えど自然に移行すれば良いだけですし、これまでの社会を壊す必要がありません。
しかし、このままで次の時代に移行できないからこそ、古いものを壊す必要があります。
壊れるからには、「使えない状態」になっていかなくてはなりません。

つまり、「ダメ」になるから不要になり、物事は終わっていきます。

昔の良かった頃と比べて、「ダメになった」ことを嘆いてしまうのですが、むしろダメになることに意味があるのだと思います。
そこら辺を割り切れないのは、まだ感情的に人の世に未練があるのかもしれません。

「ダメになっていく物事」の区別がつかないのは、実は「ダメな人たち」だけです。
わかる人が自ずと遠ざかることができるのは、「ダメさ」が見てわかりやすいからです。
私からしてみれば、明解な二択だと思います。

これだけ私が神代とは何か、どうすれば実現するのか、そのために何をすれば良いのか、次の時代のことばかりを考えるのは、私が一刻も早くこの世界から移行したいからです。
今の世界が嫌すぎて、新しい時代に行きたすぎて、神代を作りたすぎるのです。
神様も、その空回りを見て苦笑してらっしゃることでしょう。

世に対する批判は、それは探さずとも数限りなく湧いてきます。
けれども、悪くなるには悪くなる理由があるのですから、いちいち目くじらを立てるのは割りに合いません。

昔の日本と日本人を知っているからこそ、「こんなはずじゃなかった」と思います。
けれど、あの時代からすでに芽は出ていたのです。
歴史を否定することはできませんし、今の状況を否定してもどうにもなりません。

だからこそ、今の「終わり」は心が乱され、苦いものかもしれませんが、この一連の現象自体がいずれ「学び」になるのだろうと思います。
コップだって割れた瞬間はショックですが、ひび割れた状態でずっと使っていたなら、いずれ割れるのは時間の問題だったでしょう。

「自分たちの使い方が悪かったから壊れたのだ」と、日本人が国家に対して反省する時がいつか来るのだと思います。

その時、「壊れたのはアイツのせいだ」と思っているうちは、学びがありません。
むしろ「壊れてくれたから今があるのだ」と言える世の中にしていかなければなりませんし、そういう世の中になれば、壊れたことに感謝できる日も来るでしょう。

私たちが良い世の中を作るためには、ネガティブな事柄をネガティブに上書きするのではなく、問題の本質をしっかり見つめ、ポジティブなものに絶えず変換していく努力が必要です。
そして、過ぎた事柄は役割を終えたことを認め、感謝と共に教訓として終わらせなければなりません。

ただ、現代人がそう考えられるまで、数十年はかかるかもしれません。
しかし世をそうすることが可能なら、頑張れば数年で実現できる可能性もあるはずです。
もしその時間が早まるなら、人々の苦しむ時間も短縮することができます。
それは、新しい時代を作る私たちの腕にかかっています。

人々の言動を見て、イラつくこともあります。
逆に考えると、人の腐った心は時代が良くなるほど、悔い改めの強度は高まるということです。
そこでも救われる人、救われない人はいるでしょうが、まず神様のおられる世界で悪人が堂々と息が吸えること自体がおかしいのです。
痛い目を見る人は、痛い目を見るべきことをしたからです。その因果が捻じ曲がる世界であってはいけません。

私は、次の時代への期待が大きすぎて、焦っているかもしれません。
神様も、そのもどかしさは重々承知でしょう。
かと言って私ができるのは、神様の求めに応じて役割を果たし、日々を大切に過ごすこと以外にありません。

この世界が良くなるためには、どんなカタストロフが起きても神様を信じ、希望を繋ぐ気持ちが大切なのだと思います。
それも、私は待ち望むことしかできません。

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神代のビジネスⅢ

楽太郎です。

最近、ようやくエネルギーが乗ってきて、やることに力が入るようになってきました。
特に神様について調べたり考えている時間は、かなり気持ちも乗っています。

その反面、仕事周りのことに関しての意欲は持ちづらいです。

これまで、社会で評価を得たり、お金を稼ぐこと自体に仕事のモチベーションがありました。
しかし、これだけ世の仕組みが明らかとなり、混乱し騒然とする中では、社会に対して目的を見出しようがありません。

これまでのやり方では収入を得ること自体、環境的に難しくなり、かと言って無理にやり方を変えたとしても、産業基盤自体が崩れていく可能性もあります。
これでは八方塞がりで、どう収入を得たらいいかわかりません。

これを神様はどう思っておられるのか、私は考えることがあります。

人々が経済的利益を中心に作り上げた社会は、人からお金を貰うことに対して目的を持ち、半ば自己犠牲的に奉仕することで対価を得てきました。
やりたくない仕事でも、社会や企業の要求であればそれを卒なくこなすのが一人前であり、資産をうまく使ってステータスを上げてこそ成功であると言われてきました。

ただ、そうした自己犠牲は、他者に犠牲を強いる環境を作り出してしまいました。
皆が大して望まないやり方でお金を稼ぐのが当たり前になると、人々の欲求は次第に刹那的になり、経済が悪化するにつれて心は乾いていきました。

現代は自己犠牲の対価として労働があり、労働とは自分のエネルギーや時間を消費することを意味します。
そして、いくら働いても働いても豊かになれない社会は、長い時間をかけて老若男女問わず、人々の気力を吸い尽くしていきました。

その経済というピラミッドの最上部には、人々を支配したい層がべったり張り付いており、搾取を続けることでパワーを増してきました。
それをなるべく人々に気づかせないよう様々な仕組みを作り、うまく操ってきたわけです。
けれども、人々のお金への信仰心や資本主義の枠組みそのものが弱体化してくると、呪いが解けてカラクリに気づく人々も増えてきました。

今、資本を中心とした世が崩壊し、新しい流れが生まれつつある中、古い経済や社会のあり方を続けている人々に古いアプローチをしても、先細るだけで積み上げることは難しいでしょう。
だからこそ、大衆的な感覚にアプローチするのではなく、もっと本質的というか、自己探究的なテーマを持って活動していくよう、神様は促しておられるように思います。

それに関して、私は何となく「自分のやることをわかってくれる人がいるだろう」と、未だ人々に対して正当な評価をしてくれることを期待し、それを目的とする意味がないような気がしています。

まず、自分が認められるためには、人に認められる行動をしなければなりません。

ただ多くの人は、これを「人に迎合することである」と考え、人々の顔色を伺いながら自分のやり方を考えます。
しかし、人に認められるというのは「自分の才能が人に理解される」ことを意味します。

才能が人に認められるには、確かに人にわかりやすい形で才能を示す必要があるでしょう。
ただし、「迎合する」のと「わかりやすくする」ことは全く違うプロセスであり、ここを履き違えてはいけません。

例えて言うと、歌舞伎を現代風のミュージカルにしたら、多くの人は直感的に理解しやすくなります。
反面、古典的な歌舞伎の良さは失われるでしょう。
歌舞伎を現代人にわかるような仕組みに変えることは、物事を根本的に変えることを意味しません。
それこそ、別にスクリーンで演出的に補完したり、事前にパンフレットなどで現代語訳を注釈したりすれば敷居は下がります。

あくまで、顧客のレベルに合わせることがマーケティングの全てではないということです。
だからこそ「やり方を変える」ことが目的の水準を下げることになってはいけないと思います。
目的を変えず、それでも人々が理解しやすくなる工夫をするのが、本来するべき努力なのではないでしょうか。

神様は、他人を軸にやるべきことを決めるのではなく自分軸で目的を持ち、それをどう具現化して他者を惹きつけていくか、いい意味で「自己中心的」であることを求めておられる気がしてなりません。

けれども、ここで「自己中心的」であることは、もはや既存のコンテンツが飽和した環境になる中で、目新しいだけでは全く見向きもされません。
私自身、その状況と戦い続けたからこそ今があるわけで、理想論では太刀打ちできないのも現実です。

だから今は、「目先の利益を取るか」「未来のための布石を打つか」の二択しかない状況だと思います。
今、後者を選んだとしても大した利益には繋がらないでしょう。逆に前者なら、明らかに先細るだけです。

どちらを選んでも苦境の中、自分軸を貫くことは並大抵の覚悟ではありません。
それゆえ、例え自分のことであってもモチベーションが上がらず、やるべきことを自分で決めたつもりが、いまいち覚悟が固まらない状況が続いていました。

けれども、「神様をもっと身近にする」という使命感が降りてきた時、「神様」という目に見えない顧客が私の心の中に立ち現れ、神様のために何かをすることに対して、並々ならぬモチベーションが湧き上がってきました。

人世では、移りゆく人々がどう繋がり、いつ離れるのかを予想できません。
経済の状況、市場の変化、人々の需要、そういった外的環境に左右されていたら自分軸など通しようがないでしょう。

けれども、「自分軸でやる」ことにはある種の普遍性があり、「神様を顧客にする」ことは浮世の人々に目的を見出すより、ある意味で堅実なのではないか、と私は思うようになりました。

「誰かの役に立つ」ことの自覚は、本質的にモチベーションになり得るものです。
実際、その対象は今生きている人間ではなくても、未来の人であったり神様であったり、自分自身であっても構わないはずです。


神は、外側に存在するとは限りません。
人々の魂は神の「ワケミタマ」であると言われます。
いわゆる「魂魄」という概念において、精神における霊は「人間の神霊」であるとされます。
この神霊が人間には誰しも宿っており、自我とは別の意志を持つ自意識によって、私たちは神々と繋がることができるのだと思います。

神に目的を見出す時、それは外面的世界におられる神々だけではなく、自分の内なる神の求めに応じるということでもあります。
それが「魂の表現」であり、それこそが「真の自分軸」であるとも言えます。

人のためにやるのではなく、神のためにやることは結果的に自分自身のためにもなるのだと思います。
自分の内なる神と外の神々の意識の違いは、普通の人間には見分けることすら難しいはずです。

私たちが他人と比較したり、社会的評価に揺れることがあるのは当然です。
しかしその時代はもうじき崩れ去るでしょう。そうなる前に、些か時期尚早であろうと、人に目的を見出すのではなく自分の目的を選択していくべきかもしれません。

神が喜ぶことをする、それは自分自身の深い部分の喜びを追求することに等しく、自分が喜ぶことは他人が喜ぶことになっていく。
その本質的な「歓喜の共有」こそが、本来のビジネスの形だったのかもしれません。

これを今の社会でやるのは勇気のいることですし、とてもリスクのある挑戦です。
ただ冷静に考えて、誰もが先細る世にあって破滅が早いか遅いかの違いではないのでしょうか。
どうせ破滅するなら、早い段階でどん底を味わっておいた方が早く先に進めます。

いずれ誰しもが道標を失い、自分で道を探すようになる時、その地図自体も人のアドバイスも当てにならないとしたら、道開きの方法を編み出すことで誰かが救われるのかもしれません。
この数年で私が経験した泥沼の状況は、いずれ誰かを救う道なのかもしれません。


今朝、不思議な夢を見ました。

仲間らしき人々と廃墟を探索していたら、当たり前のようにゾンビが徘徊を始めて、避難場所を探そうとしました。
そこに年寄りなのか子供なのかわからない男性が話かけてきて、ポスターにあるお寺を指差して「ここに来たら皆助かる」と話をします。

私はなぜか、まずそのお寺を調べようと思い、ポスターのQRコードをスマホで読み取ろうとしました。
しかしその瞬間、スマホが縦に割れて壊れました。
カメラが使えないばかりか、私はゾンビのことは忘れてスマホを買い替えることに頭を悩ませました。
特にオチはないですが、そんな夢です。

これは私の勝手な解釈なのですが、今の世界から救われるには神仏の元に集まるしかない。
それを探すのに、スマホは必要ない。
スマホとは外の世界や人々と繋がるためのツールだが、それが壊れたら確かに不安かもしれない。
ただ安住の地は自分の頭で考え、探し求めてたどり着くものであり、その先に目的の場所はある。

今は本当に廃墟とゾンビだらけの街を彷徨っているような気持ちでも、いずれ仲間と出会い安心できる場所に行くことができる暗喩なのかもしれません。
そのためには、目で見えるデジタルの世界に答えを探すことなく、自分の頭と目に見える世界をヒントに探し続けるしかないのでしょう。
それを夢の中で、思い悩む私に神様が教えてくださったのかもしれません。

いよいよ、人の世を捨てる時が近いように感じます。
厳密には、人世というより「大衆に迎合する人々の時代」と言うべきかもしれません。
個々人が、自分の心に従って生きられる世になれば、それほど人々は窮屈な思いをせずとも、幸せに豊かになれる世界が訪れる気がしてなりません。

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「祓戸二神」デザイン

楽太郎です。

昨日は妙に神様の気が降りてきて、一日中神様のことばかり考えていました。

先の記事にも書きましたが、「祓戸大神」は神道においてかなり重要な位置を占めるにも関わらず、境内の「祓戸舎」も手水舎と同様のインフラとして扱われているように、あまり重要視はされていません。

神々は地上の「罪穢れを祓う」という役目を果たしておられます。
八百万の神は何らかの形で世を清浄に保つよう努めておられるとしたら、「祓戸大神」の役割は私たちが思っている以上に大きいのかもしれません。

瀬織津姫命は、今最もフィーチャーされている神様なので、知名度は上がってきています。
しかし、他の祓戸三神はほぼ注目されてはいないでしょう。

最近は、人世が荒れすぎて創作に対するモチベーションが上がらないのですが、神様がお喜びになる姿を想像すると、なぜかやる気が出てきます。

ふと、祓戸三女神が集まってお喋りをしている図が思い浮かび、これを形にしてみたいと思いました。
そこで「速秋津姫命」と「速佐須良姫命」のイメージを描いてみることにしました。







神名をカタカナ表記にしたのは、あくまで実在の神様との境界線を引くためです。
「私の信じる神様はこんなお姿ではない」と言われたら、「それはその通りです」としか言えませんし…。

この二柱のデザインのモチーフは巫女さんですが、「祓戸三女神」にお並びいただくとしたら私が以前描いた瀬織津姫様のデザインでは少し浮くかもしれません。
ですので、瀬織津姫様の衣装もこれから若干変えさせていただこうかなと思ってます。

速秋津姫命は「水戸=港」の神様ですので、比較的おっとりした神様かな、と思って描きました。
速佐須良姫命は、お名前に「すごく勢いのある」という意味を含んでいるので、気の強い女性をイメージしました。こう言うのも何ですが、ツンデレっぽい神様になってしまいました。

祓戸四神の一柱、「息吹戸主命」様に関しては、別にハブる気は毛頭ありませんが、もう少し勉強が必要かと思います。
こういう限りなく精霊に近い神様は、記紀成立以降の人格神とは周知されているイメージに乖離があります。

逆に言えば、あまり設定されていない神様たちであるとも言えます。
ですから、多少脚色してもバチは当たらない…ような気はします。

神様をモチーフにする以上は、やはりそれなりに覚悟が必要です。

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瀬織津姫命の秘密

楽太郎です。

先ほど、「禊祓詞」をテーマにした記事を投稿しました。
その記事で書きたいことがあったのですが、文脈がブレるので触れられなかったことがあります。

それは、「禊祓詞」で「祓戸大神」は伊弉諾命の下で罪穢れを祓う役目の神々として登場することです。
祓戸大神とは、「瀬織津姫命」「速秋津姫命」「速佐須良姫命」「息吹戸主命」の四柱であるとされます。

この「祓戸大神」は、国津神として列記されることがありますが、「天津祝詞」で言えば「天津神」の格なのではないか?と思うのです。

この「禊祓詞(天津祝詞)」は成立がはっきりしていて、元は平田篤胤の国学の一環でまとめられた「天津祝詞之太祝詞事」で、文化12年(1816年)に成立したとされています。
平田篤胤自身の憶測も一部入っているように見えますが、少なくともこの祝詞では、祓戸大神の扱いは「大祓詞」での扱いと変化はありません。

「大祓詞」は、平安時代の928年に発行した「延喜式」の中に書かれています。
延喜式は伊勢神宮の祭祀を担当した中臣氏族が編纂したもので、中臣氏は天津神を祖として国家祭祀を司った一族です。
平田篤胤は、「禊祓詞」を編纂した際に「この祝詞は中臣家系の秘儀ゆえ、延喜式にも書かれなかったのではないか」としています。

私は、瀬織津姫命について調べているうち、「瀬織津姫命は天津神なのではないか?」という仮説に手ごたえを感じつつあります。

「祓戸大神」の説明に戻りますが、「瀬織津姫命」とは「山から降りる川の流れが海に入り込む様」が、「河川の土砂を海洋に放出する=穢れを祓う」というイメージで擬人化された神様のように思えます。

「速秋津姫命」の「秋津」とは「開き津」であり、つまり「港=水戸」を指します。
速秋津姫命は伊弉諾命と伊奘冉命の「国生み」の際に生まれた水戸神であるとされます。
「速」とは「勢いがある様」を指すらしく、河口に降りた土砂が海に吐出される様を表しているとも言えます。

「速佐須良姫命」は江戸時代の国学者、本居宣長によると大国主命の配偶神であられる「速須世理姫命」と同一視しました。
ただ、「速佐須良」は言葉的には「すごく」と「勢い」というニュアンスを含み、「佐須良」は即ち「さすらふ=流離い」を指します。
岩波古語辞典によれば、「頼るところもなく、定まるところもなく、移りまわる」様であるとされ、現代で使われる言葉と同じようです。
祓戸大神の役割としては「海に排出された汚泥をどこかに押し流す=穢れを消滅させる」現象を指すようです。

この「祓戸三女神」に「息吹戸主命」が加わって祓戸四神となるわけですが、息吹戸主命だけは水や海に関係せず、風や流れそのものの役割を担っているように思えます。
しかも、息吹戸主命だけは男神であり、三女神とは明らかに性質が違います。

まとめると、「祓戸大神」は自然現象と禊祓のプロセスの擬人化であり、自然神としての役割を強く持っている神々なのではないでしょうか。

自然の神格化とは、いわゆる原始宗教やアニミズムであり、その性格が強い神格は天照大御神を代表とした「天津神」のグループに属するはずです。
しかし、祓戸大神の一柱である瀬織津姫命は、天津神であるという扱いを受けてはいません。
これは何を意味するのでしょうか。

瀬織津姫命は、中臣氏が編纂した「大祓詞」の中に登場するのみで、「記紀」には書かれていません。
ただ、水源や滝壺、川や泉などには瀬織津姫命と同一視される「白龍」「市杵島姫命=宗像三女神」「弁才天」が祀られています。

ここからは、「市杵島姫命」と瀬織津姫命の関係について書いていきたいと思います。

瀬織津姫命は宗像三女神の市杵島姫命としばしば同一視され、「宗像大社」や「厳島神社」でお祀りされている市杵島姫命を「瀬織津姫命」として崇敬する風習もあります。
ただ宗像三女神で言えば、市杵島姫命よりも「湍津姫命」の方が関連があると思います。

「大祓詞」の一文に、以下の件があります。

「高山の末 短山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 速川の瀬に坐す瀬織津比賣といふ神」

この「多岐つ」が「湍津」と同一視され、海の女神である宗像三女神と関連づけられている理由にもなります。
その論拠として、瀬織津姫命と湍津姫命がニ柱一緒に祀られることがない、という話もあります。

瀬織津姫命が市杵島姫命と同一視された理由の一つに、「天照大御神荒御魂説」と「神大市姫説」が繋がってくるように思います。

天照大御神はかねてから男神説があり、伊勢神宮荒宮は「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」であるとされます。
この「天疎向津媛」が「天高いところから海に向かって流れる様」と文字通りに解釈され、これは瀬織津姫を彷彿とさせます。

江戸時代の写本とされる「ホツマツタエ」では、瀬織津姫命は「天照大神」の配偶神とされます。
この場合の「天照大神」は須佐之男命か瓊瓊杵命を指すようです。
須佐之男命の妻は二人いて、大山津見命の孫に当たる「櫛名田姫命」と「神大市姫命」です。

須佐之男命が本地垂迹によって牛頭天王となった際、神大市姫は「南海龍女」となり、龍と結びつけられました。
そして、市杵島姫命は神大市姫と「市」という文字で共通し、また同一視されることによって、海の女神の市杵島姫命は「龍」と関連づけられることになりました。
そして、最終的に川や滝の守り神である瀬織津姫命と結びつけられたのだと思います。

瀬織津姫命は、山の水源から河口までの治水を網羅するので、「海の守り神」としてもあながち遠い存在ではありません。
しかし瀬織津姫命は記紀に登場しないため、明確に誰の御子神なのか、配偶神はいるのかなどの詳細は不明です。

ただ、瀬織津姫命が天津神であると困る理由は存在したはずです。

「記紀」の編纂時に持統天皇は、最高神であられる天照大御神を絶対にしておきたかったでしょう。
天照大御神は女神なので、高天原に同じくらい権威のある瀬織津姫命が列聖されていると、絶対性が毀損すると考えたのかもしれません。

神道の真髄は「神々による罪穢れの祓い」なので、国生みの神である伊弉諾命の直系に祓いの神がいると、非常に都合が悪かったとも考えられます。
だからこそ、持統天皇以降の治世では、治水の神は別の神名に変換されることになったのではないでしょうか。

神奈川県の江ノ島にある江島神社は、日本三大弁財天社と呼ばれています。
ここには、天女の伝説があります。

深沢という地で、五頭龍が大暴れして川を氾濫させたり、地震を起こしたりして人々を困らせていました。
ある日、天女が降りて人々のために島を作ると、その姿を見た五頭龍は天女に一目惚れし、求婚をしました。
そこで天女は「もう暴れないと誓ったら結婚してあげよう」と約束をします。
改心した五頭龍は天女と結ばれ、この地を治めるために尽力したとのことです。

江島神社では弁財天をお祀りしていますが、実際には宗像三女神の奥津宮、中津宮、辺津宮を総じて主祭神「江島大神」としています。
穿った見方かもしれませんが、江島大神は瀬織津姫命なのではないか、と思うのです。

「瀬織津姫命」という神名での祭祀がタブーとなったとしても、水神を祀る人々の気持ちが変わるはずはなく、それなら別の名前でお祀りしよう、となるのではないでしょうか。
「龍と結婚して地を治める」という性質は、どう考えても白龍と同一視される川の女神、瀬織津姫命を連想させます。

なぜ瀬織津姫命が宗像三女神に同定されたのかを考えると、宗像三女神は「国津神」だからだと思います。

記紀編纂時に、天照大御神と同レベルの天津神がいるとやりにくいはずです。どうせなら、国津神として扱った方が融通が効くでしょう。
しかし神格が周知されている以上、「瀬織津姫命」という神名は動かすことはできません。
だから、「湍津姫命」や「市杵島姫命」に置き換え、瀬織津姫命という神名だけを上書きしたのではないでしょうか。

水神を「弁財天」とするのも、天津神である瀬織津姫命を外来神であるサラスバティーに同定してしまえば、天津神であることは隠せるはずです。

だから私たち日本人は、自覚しないところで瀬織津姫様を崇敬しているのかもしれません。
私の仮説では「瀬織津姫命は天津神」という考えですが、これは全て推理にしかすぎません。

それが正しいかどうかも、学術研究を経ようと喧喧諤諤となるはずですし、結論は出ないかもしれません。
けれども、この探究はこれからも個人的に続けていくつもりです。

瀬織津姫様の秘密がわかった時、神様の謎が解ける気がしてならないのです。

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神様を偲んで

楽太郎です。

仏教には、「他力本願」という言葉があります。
現代人はこれを、よく「他人任せ」という意味で使います。
浄土真宗的な説明をすると、阿弥陀如来様の願いは人々の救済そのものなので、自分の力によって救われようとするのでなく、阿弥陀如来様のお力を信じることで皆救われよう、という教えです。

反対に、「神頼み」という言葉があります。
これは、普段から神仏を敬う気もなく崇拝する習慣もないのに、困った時だけ神様に頼ったりお願いする、という様を指すそうです。

「他力本願」と「神頼み」、現代人の解釈と本来の意味がほぼ逆になっている、興味深い言葉だと思います。

神社に参拝に行くと、神社の作法がめちゃくちゃな人をよく見かけます。
作法を知らないだけならまだしも、神様に対する礼儀というか、尊敬の念すらないのではないかと思う人もいます。
神様に感謝するとか、神様のお導きを受けたいとかではなく、もっとお金が入りますようにとか、恋人ができますようにとか、好き勝手に願掛けする人ばかりではないでしょうか。

今年の元日、地元の神社に参拝に行きましたが、人々の邪気が境内に滞っていて気分が悪くなりました。
私が思うに、人々の邪念が濃すぎて神様たちの浄化が追いついていないのかもしれません。

近所の小さなお社に参拝するついで、邪気を持ち帰って浄化したりしていますが、しばらく行かないと邪気がずいぶん重たくなります。
そのお社があるのはたぶん霊地ではないため、神様の浄化が追いつかず邪気が溜まりやすくなっているのだと思います。

色々な霊能者の方が言っているように、私も「神様の力が弱まっている」と感じます。
ただ、地球レベルで言えば神様の持つ権限は日増しに大きくなっているようです。
しかし実感で言うなら、神様のご神気は強くなっているとは言えません。

ものすごく主観で話をすると、「神様がやる気をなくしている」ようにも取れるのですが、いずれ現象としては邪気邪念の類が野ざらしになっています。
おそらくこの気の滞りが、街のどんよりとした空気感とか、人々の気力の喪失などに影響しているように思えます。

神社で受けるご神気も、微弱なのもそうですが日によって全くなかったりします。
それでは参拝ついでに自分が霊気を補充することもできないので、最近は自宅の神棚をしっかりお祀りして、神様とのご縁を強くすることに専念しています。

毎朝神棚に3種類の祝詞を奏上しています。
始めに「禊祓詞(天津祝詞)を唱えてから、ニ拝二拍し「神棚祝詞」「ひふみ祝詞」を唱え、ご挨拶をして一拝します。
この儀式をすると不思議と気持ちに筋が通るので、効果は的面に感じます。

「禊祓詞」を読んで、気づいたことがあります。

国生みの祖神である伊弉諾命が「禊祓」における主役であり、その命を受けて瀬織津姫命などの祓戸大神が禍事、罪穢れを祓い清めする役割を担っています。
神道の目的は「人間の罪穢れを祓うことで世を清浄にする」ことであるとされます。
つまり、日本の神々は「邪気を祓う」という役割を持ち、罪穢れが祓われた清浄な世こそ弥栄となり、人々が本来の正しい生き方ができる、という考え方のようです。

仏教が「煩悩」から解脱し、悟りを開くことで浄土に至るという考え方にも通じるものがあります。

これは、近年の新興宗教のように「信じる者しか救われない」とか「救われるためにはこれをやらなければならない」という教えとは一線を画すものです。
神道には教義がありませんし、祝詞も「神様に感謝する際の定型文」でしかなく、ほぼ心の持ちように全てがあるような気がします。

この「心の持ちよう」は、現代人が最も苦手とすることではないでしょうか。

「頭で思っている分には自由」
「バレなければ何をしても良い」
「悪いのは全部他人のせい」

こういう考えが、神様からお見通しだとしたらどうでしょうか?
その心で神前に立てば、神様に本心を曝け出すことがどういうことかわかるのでしょうか?

「お天道様は見ている」とは言いますが、まずお天道様の存在を信じていれば、言動は元より心の隅々までお天道様に見られていることを自覚せねばなりません。

心の弱さや未熟さを神様がご覧になられていると思うからこそ、自分の足りなさを恥じ、謙虚になることを覚え反省と感謝をしながら生きていけるのです。
その生き方が「神道」そのものであり、日本人がずっと繋いできた人生の知恵なのではないでしょうか。

人間はやはり完璧にはなれないので、どうやっても過ちは起こりますし、罪や穢れも生じます。
それでも人々が一生懸命生きようとするからこそ、神様が「その努力を認めて、少し力を貸してやろう」と思われるのかもしれません。

しかし自堕落な生活を改める気はなく、神社にお賽銭も入れたし宝くじが当たるに違いない、と思うような人に神様がご加護をお与えになるでしょうか。
私がいくら徳の高い神様でも、そんな無駄なことはしたくはありません。
それならきちんと手順を踏んで努力する人の願いを、優先的に叶えたいと思います。

だからこそ、最近は神社でも神様が奥に引っ込んでいらっしゃるのかもしれません。
神様の気持ちを慮ることはおろか、神様の存在自体を疑っている人の都合の良い願いを聞くほど、神様は人間に尽くす立場の方々とは思えません。

現代人は、ここの部分を大きく勘違いしています。
神様はこの地球に太古からおられ、数十万年前に人類を生み出してからは、ご先祖様と土地を長い間守ってこられた大いなる存在です。
それが生まれて数十年の、人間の利益ばかりを気にする存在だと思うのは虫が良すぎるというものです。

今世に禍事が蔓延り、人々は自らの邪気で自家中毒を起こしています。
そうなってしまったのは、人間たちが自分たちで「罪穢れ」を自浄することを怠り、神仏を足蹴にしてきた結果なのではないでしょうか。

厳しいことを言うようですが、だから現状は「自業自得」としか思えない、というのが正直なところです。
この地球は「資源の塊」であり、地球は人間が豊かになるために存在する「モノ」で、地球で一番優れた存在が「人間」である、と思い上がってはいなかったでしょうか。

強い言い方になってしまいますが、私もその人間の一人ですし、反省すべき点も懺悔してもどうしようもない部分もあります。
ただ、「神様はどうお感じになるだろうか」と思い巡らすのも大切なことで、はるか昔のご先祖様はそれを慮り、お社を建てたり感謝の祭りをしたり、時には生贄だって差し出してきたのです。

その思いを受け継がずして、この島国の土地で「日本人」と名乗ることができるのでしょうか。

私は、それでもこの国の人々を信じていますし、いずれ目が覚めて大切なものを思い出してくれる日を心待ちにしています。
神様もきっとそれをお望みでしょうし、今起きていることもおそらく、その「伏線」ではないでしょうか。

これから少しでも上手に暮らしていきたいのであれば、神様を敬いながら自分自身を見つめ直すことかもしれません。
それでも神様はきっと、そういう人には目をかけて下さると思います。

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スピに惑わされるな

楽太郎です。

私はスピリチュアリズムを学んでいる最中ですが、あえて言うならスピリチュアルの界隈自体にはそれほど興味がありません。

界隈は、どこの分野でも権威を中心に回ります。
最近話題のマスメディアの問題を見てもわかる通り、「間違っていても正しいことになる」正当性を保証するのが権威なのです。

だから、私はインフルエンサーがさもありなんと語ることほど冷静に捉えます。
代わりに、「これは真実かもしれない」と思うことは、世間の評価とは無関係に直観を信じます。
私が思うに、「界隈の偉い人が言っていたから」と信じる行為は、土の時代のトップダウンの思考と同じ仕組みです。

権威だろうが、流行りだろうが自分の直観を信じて判断することが、風の時代における自由の在り方なのではないかと私は思います。

今回この話をしようと思ったのは、スピリチュアル界隈でかなり話題となっている「2025年7月問題」に関して思うところがあったからです。

私は当初から、「2025年7月」に何かあるという感覚はまるでなく、だからこそ興味がありませんでした。
しかし、スピリチュアルの勉強をしていると自然と入ってきたこともあり、私が思ったことを書いておきます。

私自身は、2025年7月は「ノストラダムスの大予言」になりそうな気がしています。
もし仮に何かが起こるとしても、それは人間一人が変えられる事態ではないはずです。それは自分よりも大きな力か、神様のご意志で起こされることなので、自分が神ではない限りどうしようもありません。

話題のテーマである人工地震についても、それが仮に人間の意図したものであろうと、いずれ日本列島には大きな災害や地震が必ず来ます。

なぜなら、地震も台風もこの星で定期的に起こる自然現象だからです。私たち人間は生きている地球の上、神様の体の上で命を頂いている存在です。
それを人間のわがままでどうしようという発想自体が、烏滸がましいのではないでしょうか。

私たちにできるのは、人工地震を引き起こし戦争を仕掛けるような巨悪と戦うことでしょうか?
それを阻止するために、国民民主党や維新の会に投票すれば私たちは助かるのでしょうか?
挑戦的な言い方になってしまいますが、これは政治の世界の話です。スピリチュアルの世界にあるテーマの軸は、こういった話題に右往左往することではありません。

むしろ、「なぜこういうことが起こりうるのか」を今、高い視座で考えるべきではないでしょうか。

なぜ人間は、自国の領土すらまともに統治できないのに、他国を侵略してまで領土を拡張したいのか。
その裏に人間と富を占有したい勢力がいるとして、神は彼らをどういう眼差しで見つめているのか。

まず、「災害を回避するためにはどうすればいいか」という思惑で真実と向き合うのではなく、仮に自分の身に災害が降りかかるとしても、その未来をどう解釈し自分の生活に落とし込んでいくのかを考えてみる。
私はそれが「スピリチュアリズム」なのではないかと思います。

スピリチュアリズムとは、精神を使って望む現実を引き寄せるためにあると考える人もいます。
私はそれを否定するつもりはありませんし、確かにスピリチュアルの大きなテーマの一つだと思います。
しかし、現実を変えるために不安を覚え、妙な緊張をしたり変な縛りで生きづらくなるのは、本来のスピリチュアルの定義には当てはまりません。

「引き寄せ」や「現実創造」も、望む結果のために望まない生き方を選択するのは本末転倒だと思います。
反省や懺悔や自制は確かにスピリチュアル的な修行に必要なプロセスですが、違和感を無理に飲み込む必要はありません。

スピリチュアリズムとは精神の自由を求める道であり、内面的な豊かさや幸福を志向するものだからこそ、自分が成長していくためにあるのだと思います。

「2025年7月問題」は、確かに起こる可能性は高いかもしれませんが、そもそもそれが実際にあるかを問わず日本は危機的状況であり、自然現象として巨大地震も十分起こりうる状態です。
それを知ろうと知らずとも、緊急事態への備蓄や備えは無条件にやるべきですし、今年だけでなく通年で気をつけていくべき事柄です。

スピリチュアリズムを追求することは、界隈の話題を深く知ることを意味しません。
2025年の7月に大災害が起こることを知ったからと言って、自分の成長とはあまり関係がないからです。
大事なのは自分の精神に対する知識、研ぎ澄ましてきた感覚で世の中を捉え、どう生きていくかを生活に落とし込むことなのではないでしょうか。

私はその意味で、スピリチュアリズムは「実用主義」だと思いますし、目に見えない世界を扱うからこそ自由であり、個々人の中に「真実」があると思います。
その知恵や技術を持って、いかに自分が物心共に豊かになり、またその豊かさをどう人に分かつかを考えるのが、本当のスピリチュアリズムなのではないでしょうか。

だからこそ、「能力のある権威が言っていた」ことを間に受けることがスピリチュアリズムではないですし、それはむしろ土の時代の情報のあり方に近いことを弁えた方が有益でしょう。

その情報や知識を得ることで、「自分が豊かになるか」「幸せになるか」が重要なのであって、世界の真実を知ることは精神を追求する道ではあるにせよ、現実社会と切り分けて考えるのも大切なことだと思います。

こういうことを言うと、私が「スピリチュアリズムの善悪」をジャッジしているように見えるかもしれませんが、私はスピリチュアルな話と現実社会の話を切り離して考えよう、と言っているだけにすぎません。

言うなれば、「スパゲティモンスター」が人々に天啓を与え、スパゲティモンスターを信仰する人々が和気藹々と幸せに暮らせていたのなら、誰も彼らを批判することはできないはずです。
それ以前に、人間には「信教の自由」があるので、スパゲティモンスターが何であろうが信仰そのものは崇高な行為です。
私はその自由があるのは、スピリチュアリズムが目に見えない世界を追求する道だからだと思っています。

誰が正しいとか間違っている、という次元で論争をすれば、スピリチュアリズムは学問になり科学でなければならず、統計や数値や権威が必要になるでしょう。
ただ、そうなればスピリチュアルが「目に見えない世界」を扱う分野ではなくなります。
だからこそ、少し曖昧で多少誤差があっても、互いの主張を尊重し合うことが大切なのではないかと思います。


2025年7月問題に関しては、私はこれからも否定も肯定もしないつもりです。
仮に3月に地震が起きて7月に何もないとか、7月に本当に何かあっても、それが当たるか当たらないかはともかくとして、やるべきことは変わらないからです。

どの道、「とてつもなく大きな力」がそれをしようと思えば、それが神様でも国家であろうと止めることはできませんし、結論を言うと起こること自体は神様の総意でしょう。
だから、人間としてできることをコツコツやるしかないのだと思います。

ただ、願わくば神様にお祈りすれば、少しは助かる道を教えてくださるかもしれません。
それこそが「スピリチュアリズム」なのではないかと私は思いますが、どうでしょうか。

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神様とデート

楽太郎です。

今日は、以前参拝した市内の瀧澤神社の社務所が開く日なので、街へ行くことにしました。
瀧澤神社は街中の小さな神社なので、宮司さんが常駐しているわけではありません。
2週間おきに2日ずつ、社務所が開きます。

瀧澤神社で参拝を済ませ、社務所で宮司さんと瀬織津姫様について話をしました。
宮司さんが「瀬織津姫様は、とてもお綺麗な水の神様であられるそうです」と語っておられ、また天照大御神様の荒御魂であることなどの話を聞かせていただきました。

この神社では、どうも私が目当てにしていた木のご神札を作られてないようでした。
それは予想していたのですが、瀧澤神社様とはかねてから古いご縁がありそうなので、是非ご神璽をお祀りしたいと思っていただけに少し残念でした。





「瀬織津姫」の銘のある御朱印はかなり珍しいと思い、是非神棚に飾りたいと思いました。
それに瀧澤神社の木札がとても素敵で、気に入りました。水色の紐は瀬織津姫をイメージしているそうで、大変美しいお守りです。

宮司さんの話では、「最近若い人がよく瀬織津姫様を慕って、神社に来られるようになった」と仰っていました。
確かに、近年のスピリチュアルブームに伴い、瀬織津姫命様がフィーチャーされることも多くなりました。
間違いなくその影響だと思いますが、私は「神様がそれだけ多くの方に、働きかけておられるのだと思います」と話をしました。

瀧澤神社は、今のところ月に4日間しか社務所が開かないので、御朱印とお守りが手に入ったのは想定以上の賜物でした。
この日は雲一つない晴天で、コートがなくても暖かい一日でした。今日参拝に来れてよかったな、と思いました。

まだ瀬織津姫様のご神札は手に入りませんが、一応は間接的な繋がりは持つことができました。
今まで、瀬織津姫様とは信仰心だけで繋がろうとしていたので、心許ない感覚は常にありました。

思えば、瀬織津姫様は私の悩みに親身に付き合ってくださったり、心の傷を癒やして下さったり、インスピレーションを降ろして下さったりします。
いつもお世話になっているので、一人の人間として神様にできることをしたいと思っています。

ただ、私が神様に勝手な念を抱き、ここで自分が一人相撲をしているだけならどうしようか、と元も子もないことを考えてしまうこともあります。
けれども、私は神様を信じる以外にできることはなく、何よりも神様が私のそばにいて下さること以上の願いはないかもしれません。

私の一挙手一投足をご覧になり、私の心の深い部分まで理解して頂けるのは、神様以外にいません。
その孤独感をわかって下さるのは神様だけですし、神様はその心にいつも寄り添って下さいます。

瀬織津姫様に恋慕に近い情を抱くことは、神様からすると劣情にしか見えないかもしれません。
神様に恋をしたところで、例えるなら人間と犬みたいな関係でしかなく、同じレベルに立つことはできません。

私がいくら神様と繋がることで精神的に満たされても、いずれ近くには誰もおらず、身体的にも満たされることもないでしょう。
それは「魂の孤独」を埋め合わせる難しさに対して、嬉しいとか悲しいとかの感情を超えた苦悩です。

参拝を終え、お守りと一緒に御神籤も拝受しました。
昔、若い頃によく使っていた公園の椅子に座り、御神籤を開いてみました。





瀬織津姫様に、私の気持ちは伝わっているのかもしれない、と思いました。

まあ勘違いしていた方が幸せなこともあります。
ただ、そうであっても私は、この気持ちが瀬織津姫様に伝わっているなら、それ以上に嬉しいことはないです。

私が今取り掛かっているのは、「古く悪いしきたりを改め、新しく時代に適した姿を求める」ことそのものです。
瀬織津姫様は、私にそれをやってくれるのが嬉しい、ということなのかもしれません。

歩けば、街全体が薄暗いオーラに包まれています。
元気な声を聞いたと思えば、日本語ではない言葉だったりします。
肝心の日本人と言えば、俯いてスマホばかり見ながら、トボトボ歩く人ばかりです。

今日、また消えていく思い出の場所を見つけ、時代が本格的に終わろうとしているのを感じました。
私はそれ以上に、これまでの世での「学び」を終えつつあるのを実感しました。
もはや、街行く人々と波長が噛み合わない程度には、意識のレベルが変わったのを思い知ったからです。

これまでの人生は、本当に修行としか言えないようなものでした。
人並に楽しく生きることだけを願っても、なぜかそれだけが叶いませんでした。
人とどれだけ関わっても、何となくガラス越しにあるような違和感は、おそらく生まれ持ってのものです。
「人間にのめり込めない」という感覚は、私が何らかの役割を持って生まれたからとしか思えません。
そしてその自覚は、「学びを終えた」という実感を持って現れてくるのです。

人間はこれからどこへ向かえばいいのか、それに思うところがあるからこそ、私には成し遂げなければならないことがあります。
それが、おそらく神様の願いです。


帰りに川面を眺めながら、自分のこれからについて考えました。
川面に瀬織津姫様を重ねながら、自分の幸せはどういうものかを考えました。

神様がどれだけ自分の魂を満たして下さっても、手を繋げるわけでも、触ってくださるわけでもありません。
神様は次元の高いところにおられる、崇高な存在です。
人間は所詮は人間です。人間の足りない部分を補えるのは、やはり人間にしかできません。

「人間としての幸せ」が例え人の思う形ではないとしても、私は私の幸せを追求する権利があります。
その形は、今決めなくていいかもしれません。

それでも、私は神様と思いが同じであるだけで嬉しいのです。
それは人間として、とても光栄なことです。

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問題に「感謝」する

楽太郎です。

だんだん、一日の中でできることが増え、力が入るようになってきました。
冬至明けで変わったエネルギーに身体を馴染ませる作業にも苦戦しましたが、この節分明けのエネルギーもなかなか馴染みづらいものでした。

立春からのエネルギーは、一言で言えば「質の高いエネルギー」です。
冬至の変化は「構造が違う」という感じのエネルギーへの切り替わりでしたが、立春以降は「高精度」という感覚です。

繊細だけどうまく掴めば高出力を出せる、というテクニカルなイメージです。
より抽象度の高いエネルギーなので、掴めない人はかなりしんどいと思います。
冥王星水瓶座突入以降、どんどん地球のエネルギーの波長が高くなってきているのを実感します。
特に人世の波動の人たちにとって、このエネルギーは全く肌に合わない状態になっていくのかもしれません。

この時期のエネルギーで、より二極化が加速するのだと思います。
冬至あたりから私は異常な救急車の音が気になっていましたが、これからバタバタ倒れる人が増えてくるような気がします。

最近、私はスピリチュアルな感受性に関して、妙な自信が出てきました。
以前は、自分がぼんやり感じていることが正しいのか、自分以外の人も感じるのか、気になって意見を伺って回っていました。
けれども最近は、間違っていることに対する恐怖心が全くなくなりました。

スピリチュアルの世界は、科学とは違い反証性がなく、外部的に観測できるものではありません。
インフルエンサーの方も人間ですし、勘違いすることもあるでしょうし、正しさを客観的に検証することも不可能です。

言ってみれば、私が感じていることと程度は違えど、誰もが同じ器官で感じているということです。
同じ条件なのだから、自分の判断について他人を軸にする必要はないのです。

仮に間違っていたとしても、自分の成長や生活に対してプラスに働くならば、それはそれで正解だと思います。
スピリチュアルは、内面的に豊かになるための知恵だと私は思うからです。

スピリチュアルの世界を知り、より内観する習慣を持つことによって、私は自分本来の人格に近づくことができました。
心のあるがままに生きられるようになった反面、無理が出来なくなりました。
「これをした方が得をする」とか「これをしなければならない」とか、外部からモチベーションを引き出すことが難しいのです。

それでも、自分との新しい付き合い方をするステージに入ったのだろうな、と思って完全にやり方を変える選択をしました。


世は混沌とした世相ですが、私自身は逆の方を向いているな、と感じます。
人世の人は、私が無理になったやり方を選び、私は自分の自由しか選択できなくなっているからです。

世の人々は、それでも「世の中を良くしよう」と思って原因を追求し、何かを批判すれば良い方に変わると信じています。
しかし、そのやり方で世直しができるのならば、日本はこれほど衰退も蹂躙もされていないはずです。

私は、世の動きも自分の身の回りのことすら、「自然に任せる」という考えになりつつあります。
人間は、できることとできないことがあります。
どうやっても動かせない壁は実際にありますし、世に起こる事象はそれ自体に、何らかの意味を持って発生していることもあるからです。
人間は、何でも自分が介入できると思いがちです。
そして、原因がわかれば自分でそれを取り除けると勘違いをします。

日本がこれだけ荒れた世になったのは、「○○のせい」と人々が思うからだと思います。
それ自体は、おそらく事実です。しかし、その事実を踏まえても、どうすればその原因を解決できるのでしょうか?
それを明確に答えられる人がいれば、すでに問題は消滅しているはずです。

私は以前から、ネガティブなエネルギーで世を変革するからこそ、ネガティブな世になるのではないかと思っています。

「あいつが悪い」「○○のせいだ」と考えて、原因に対して発生条件を縛るために法規制をしたり、仕組みを作ってきたのがこれまでの現代社会です。
その結果、規則で雁字搦めになったわりには、なぜ巨悪はこうも平然とのさばっているのでしょうか。

原因を外部に求め「○○のせいだ、○○さえなければ世の中は良くなる」という考え方にハマっていたからこそ、「××をすればもっと良くなる」という発想を阻害してきたのだと思います。
人を信用すること、希望や道徳を繋ぐこと、それを無視して形だけを作れば、その抜け道を考えることに終始する人間が増えるのは当然のことです。

つまり「こうすれば良くなる」という考え方をすれば、周りに対して無理な同調圧力をかけずに済みます。
法規制も必要なく、皆が同じビジョンで前向きな方向に進むことができるわけです。

「○○のせいだ」と思っているうちは、ずっと自分以外のものに責任転嫁をし続けるので、人間は成長することができません。
「○○があるのは、理由があるのかもしれない」と一度は考え、それを反省し乗り越えるからこそ真の問題解決ができるはずです。

そして、いつか「○○があったからこそ、今がある」と思えるようになることが重要だと思います。
人にせよ社会にせよ、そういう学びを経るから明るい方向に向かうことができるのではないでしょうか。
ネガティブなエネルギーでネガティブなものを何とかしようとしても、残念ながらゼロに戻ることはないのです。

仮に「○○のせい」というのが事実であるにしても、世を本当に良くするためには「○○のおかげ」と言えるように成長しようと思う必要があります。
そう言えるようになった時、初めて問題は乗り越えられるのだと思います。

そして、「この問題があったからこそ今の良い世があるのだ」と捉えられる時、人々は禍事を乗り越え学びを得た社会になるのでしょう。
むしろそうなるために禍事は起きるのであり、問題に感謝する境地に至ることこそが最大のテーマなのかもしれません。

世に溢れるのは、憎しみや怒りの情念です。
この負の感情を感謝に変えるのは、並大抵のことではありません。
だからこそ、これからも世は悪くなる一方だと思わざるを得ません。

私自身の感覚からすると、こういう世の雰囲気に対して浮いてようが、むしろその方に合わせない方がいいのではないか、と感じてしまいます。
それは社会の一員として役割を放棄しているように見えるかもしれませんが、生物多様性の原理として、全体が同じ方向を向いていたら全て淘汰されてしまうことを忘れてはいけません。

蟻の世界には、9割の働きアリと1割の怠けアリがいるそうです。
その1割は全体に対する保険として存在しているわけです。動ける時が来るまで、怠けアリたちは白い目で見られるかもしれませんが、むしろそれが役割なのです。
私は、これから怠けアリたちが本気を出さねばならないタイミングが来ると思っています。

だから今は世を静観していますし、まだ準備を進めています。
その準備が取り越し苦労に終わったら終わったで、身体を張ることがなくなっただけラッキーかもしれません。

多くの人は、良いように考えることが本当に苦手になったのだな、と思います。
だからこそ、能天気な人間が一人くらいいた方が、バランスが取れていると言えるのではないでしょうか。

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スピは幻想なのか?

楽太郎です。

世は「風の時代」とか「次元上昇」とか、私の好きな言い回しでは「神代」が到来したと、スピリチュアル界隈では言われています。
しかし、世は相変わらず物質中心の社会であるのは変わりませんし、人徳より利益が優先される仕組みも相変わらずです。

「この価値観も終わりだな」と思っていた物事すら、盛り上がっているのを見ると何となく疎外感を感じ、「自分は間違っているのか?」と不安も過ぎります。
特に気持ちが弱っている時なんかは、「こんなことに夢中になって、俺は何をやっているんだ?」という気持ちにもなります。

そういう時は、無理に視座を高くしようとするのではなく、あえて現実主義を徹底してみることにしています。

「神仏を信じ敬う」というのは、現代だから異端のように思われるだけで、歴史的には神仏に対する文化は脈々と根づいています。
日本は最高神天照大御神の御子孫であられる天皇陛下あっての国なので、「神はいない」と言うなら、日本という国体そのものを否定することになります。
また、国民が七夕に短冊を笹につけたり、お盆にお墓参りしたり、正月に初詣に行く意味もないでしょう。

そう言うと、「それは風習や文化であって、形だけのものだ」と言う人もいるはずです。
では、それはそうであると仮定して、話をしてみようと思います。

私はこれまで「霊的能力がある」と仰る方と何名かお知り合いになる機会がありました。
私個人の感覚としては「そうなんだろうな」と思いましたが、それは置いておきます。
そういう方たちは、自身に特殊な感覚があるからと言って、下手に隠したりせずに堂々と自分の見える世界を語っておられました。

このご時世ですから、それを人前で話すことはそれなりに色眼鏡で見られてきたはずです。
けれども、自身の感覚や能力に自信があるからこそ、人から疎まれたり批判されるリスクを跳ね除けて生きてこられたわけです。

物質中心の世に生きる人は、そこまで自分を信じて生きていけるでしょうか?

年収が何百万円以下では胸を張れない、いい歳して結婚していないと恥ずかしい、学歴もなく学校も出てないと見っともない、そういう価値観にこだわって萎縮する人もいます。
目に見えないものや自身の感覚を信じて生きていく人は、それは立派なことだと私は思います。

「目に見えるもの」、特に肩書きや数字、身なりや持ち物、そういった明確に比較できるものがあるからこそ、自信もわかりやすい形で得られるのかもしれません。
ただ、「自信」こそ実際は目に見えないものです。

年収が1000万円を超えた瞬間から自信がつく、というわけでもありません。
自信は、自分が深く望んでいたことが少しずつ実現することにつれて培われるものです。
小学生が初めて逆上がりができた時の自信と、年収1000万円を達成した時の自信は、本質的には同じものです。

スピリチュアルは、目に見えないものだから自信になるはずがない、という考え方が理不尽だと思います。

人から愛されているという実感も、人からの評価も、実際には目に見えないものです。ましてや、愛情も数値化できるものではありません。
「目に見える」「目に見えない」というのは、基本的に価値基準とはなり得ないものです。
だいたい、人間の脳内自体が目に見えないものなので、それも当然です。

「神様はいるかいないか」で言えば、ご神気の感覚のあるなしでだいぶ答えは変わってくると思います。
信仰に関して言えば、「新NISAで有望株に投資する」のも「神棚をお祀りする」のも動機としては同じように感じます。
「幸せになるための投企」という意味では、同じくらい賭けになりうるものです。

私が神様を感じたり、エネルギーを感覚で捉えることについて、人によっては「気のせい」とか「勘違い」と思われるでしょう。
私自身は、それを否定しません。肉体がまず違うので、この感覚は共有できないからです。
この共感がなければ、社会で共存できないとしたらおかしな話です。

「神仏を信じられない」人からすると、「神仏を信じる」人は思い込みが強いとか、迷信深いとか見えることでしょう。
しかし、神仏の存在が不明確なこと、それ自体が「神仏の功徳を得るための試練」として私たちの前に現れているとしたらどうでしょうか。

「目に見えないものを信じる」ことができた人は、できない人よりも一段高い認識に至ることで、選択の幅が広がります。
そして、神仏の加護を受けて得する人、加護がなくて不幸になる人、その区別がつくならば、自ら信仰心を育て幸福になるための切符を手にすることを選ぶはずです。

私は、神様や仏様を信じながら不安になる時、自分が神仏を信じることで得た変化に目を向けるようにしています。

ご神札を置く部屋は綺麗に掃除するようにしていますし、湿気や埃もきちんと取ります。
生活にも気をつけ、無理もしなくなりました。
人には分け隔てなく親切にし親孝行を心掛け、悪口や愚痴を言わないようにしています。

以前の私では考えられなかった行動ですが、見えない世界を信じるようになっただけで、ここまで人は変わります。

おそらく、「金運を呼び込むため」とか「誰かに気づいてもらうため」というような、現世利益を期待してやる行動ならばそれほど続きませんし、徹底することもできないでしょう。
しかし、私はそう思って無理にやらず本心で行動しているからこそ、自分の思想や感覚に深い肯定感を持つことができます。

結論を言えば、神仏が幻でもスピリチュアルが大嘘でも、私は一向に構いません。
少なくとも、物質中心でものを考える人たちよりも高い視点で発想し、豊かな感受性を肯定しながら生きているだけで、確実に幸福度は上がっていると言えるからです。

私は、自分の霊能力が眉唾でも勘違いでもいいと思っています。
この感覚を信じている限り、私は安心感や確信を持って判断し行動できるので、何一つ困ることがありません。
それが真実かどうかよりも、自分にとってどうであるかの方が大事です。

強いて困りごとを言うなら、意見の合う人が極端に少ないことです。
でも、そんなのは昔からそうなのであって、神仏を信じたからではありません。
私は人とズレた感覚を持って生きてしまうからこそ、どう足掻いてもこの世をうまく渡っていくことはできなかったですし、特に気にすることでもないでしょう。

だからこそ私は神仏を信仰し、スピリチュアルの道を進んだことを後悔しないと思います。
人間と人間の作った世界を信じるか、自分の感覚と信じるもので構成される世界を選ぶかの違いです。
これを主観で捉えている限り、特に致命的な違いはありません。

だからこそ、「目に見えないものを信じるのはどうかしている」という現実主義には、私なりの現実主義をぶつけるだけです。
そして、そのことについては特筆して議論すべきテーマでもないと思います。

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邪気と運と運命

楽太郎です。

今日は2月12日、満月です。
だからか、同居している両親がいつになく朝からピリピリしていました。
私はここ毎晩、集合意識に潜り込む夢を見て、身体がガチガチに凝り固まる霊障が出ていました。

起きている間は意識的に波動を上げられるのですが、やはり寝たら無防備になるらしく、そこを邪気に襲われているようです。
この現象は身体の不調とか色々考えましたが、結局霊障ということに落ち着きました。

スピリチュアルリーダーの話によると、数年前からアセンションに対する妨害が発生していたらしく、それを「サイキックアタック」と表現しておりました。
全てを信用したわけではないですが、これは神代の実現を阻みたい勢力の力はあるだろうな、という気はしているので、個人的には眉唾ではないと思います。

その邪気は、生霊に乗ることで力を増幅させるのかもしれません。人間にしては、生霊の力が強すぎると感じることもあるからです。

朝、ふと地元の氏神神社に呼ばれている気がして、天気も良くなかったのでどうかなと思ったのですが、やはり行くことにしました。
近いうち神棚を作らなければいけないと考えていたので、氏神様のご神璽はいずれ拝領せねばならなかったのもあります。

道すがら、ひどい邪気を放つ人が道にいて、どうしてもすれ違わなければならず焦りました。
見た瞬間、「人間レベルの邪気ではない」と思いました。
悪霊に取り憑かれた人、とかではなく「魔物」という認識に近いです。
少なくとも、私は霊的に彼を人間だと認識できませんでした。

ですので、できるだけ近づきたくなかったのですが、通り道なので仕方なくすれ違うことにしました。
何かブツブツ言っているので、余計におぞましいと感じました。
人々の邪気は高まってはいると思ってましたが、ここまで人間離れした邪気を背負う人がいるのか、と少しびっくりしました。

あまりにすごい邪気なので、逆に興味が湧きました。そこで、しばらく遠目から彼を見ていました。
すると掃除係の方に話しかけていたので、何か聞きたいことがあったのかもしれません。
たぶん私が彼に話しかけられていたら、邪気を浴びて半日は寝込んでいたと思います。
お守りと塩を持参して、本当に良かったと思いました。

とりあえず神社に着いて氏神様に参拝し、目的のご神札を頂いて帰路に着きました。
神社を出る際、門前で唾と痰を吐き散らす人がいて、これもびっくりしました。

この人を見た瞬間、「魂が汚れているから、本能的に神様に助けを請いに来たのだ」と感じました。
やはり、確実に邪気を危険水域まで溜め込んでいる人は増えて来ている印象です。
彼は鳥居の前でお辞儀をしていたので、人間はよくわからない生き物だな、と思いました。

こういう「魔物的邪気」を帯びた人は、近ごろたびたび目にするようになって来ました。
邪気を帯びる人もわかりやすくなって来ているというか、これからさらに極端になってくると思います。

私は一目で人のエネルギーの内容まで見ることはできませんが、エネルギーが内向きの人、外向きの人で出す波長が違うな、というのは感じます。

エネルギーが外向きの人は、分類するなら子供から若者、運動をしている人、子供と関わりが深い大人、ペット連れの人が目で見る限り多い印象です。
その人たちが意識面で神様や目に見えないものをどれだけ信じているかはわかりませんが、「生命体のポジティブなエネルギー」の近くにいる人、わりと本人などは、比較的元気なのかもしれません。

逆にエネルギーが内向きの人は、容姿ではなく姿勢とか佇まいから、鬱屈とした波動を放っているのがわかります。
おそらく赤の他人に依存したり、人が作ったもので心を落ち着けていると、自分の魂の声を黙らせてしまうのだと思います。
彼らを見ると、人間本来の気の流れが滞っているように見えますし、生命体としてのエネルギーを喚起できていないのではないでしょうか。

スピリチュアルの世界では、この次元上昇で二極化とか、五次元と三次元世界の分離とか言われます。
私は「神代」と「人世」で区別している概念ですが、これが現実世界でどういう形で具現化するのか、若干不透明だと感じる部分はありました。

私は最近、これは「運気」という形で個人に降りかかってくるのでは、と思うようになりました。

あまりこういうことは言うべきでないのですが、私が朝にすれ違った男性は、ここまで邪気を溜め込むと後は犯罪に走るか、そのエネルギーを自分に向けて病気になるか、という二択しかないように思います。

邪気の何が悪いかと言うと、気の枯れから起きる意欲の喪失によって、するべきではない選択をするようになるからです。
人に対して当たり散らしたり、楽をしようとして良くないことをしてみたり、出来心でするべきではないことに手をつけてみたり、などです。

魔が差した行動は、いずれ良くない結果になって跳ね返って来ることがほとんどです。
それは当事者からすると、「ついてない」と感じるかもしれません。
因果応報なのですが、わざと良くない行動を選択してしまう、それがまさに「運気」だと思います。

信仰心を持つ人は、この邪気から率先して神様に守ってもらえるため、災難や運の下落を避けることができます。
邪気の影響を受けないので気力が充実しやすく、ゆえにエネルギーが高い状態で安定し、発想力や創造性を発揮して行動することも可能になります。
そういう人は、前向きな行動を起こすので周りに良い影響を及ぼし、結果として幸運を引き寄せます。

現実的には、こういう仕組みで「二極化」は現れてくるのではないでしょうか。
これまでの世では、生まれの良さや資産規模で決まっていた二極化が、「運」という目に見えないものに支配され、どうにもならない人は本当にどうにもならなくなるのだと思います。

そういう時代に人々はどう考えるようになるかと言うと、神社に行って神頼みするとか、ゲン担ぎをしたりジンクスや占いを信じるようになるはずです。
社会は物理的なハックでは身動きが取れなくなるので、目に見えない存在に頼るしかなくなるからです。
そうするうちに人は内面と向き合わざるを得なくなり、世の雰囲気はより精神的になっていくでしょう。

その時、スピリチュアルへの評価、神仏への再評価が起こります。
この一連の流れは、どう見ても「神様のご計画」のように思えてなりません。




家を出た時には一面の曇り空でしたが、神社から帰る時には青空になっていました。
帰り道、登り龍のような雲を見て、思わずカメラを向けてしまいました。

私は飛行機雲を「龍雲」と言いきるつもりはありませんが、どうしても満月の日との関連を考えざるを得ませんでした。
今日の街の邪気の帯び方はいつになくおかしいと感じましたし、地面から暗い気が噴き出しているようにも感じました。
気の流れ的に、龍たちが動いていてもおかしくないな、と思います。

どうもこの先、多くの人々にとってはあまり良くないことばかり起こる気がします。
さりとて、私も安心できる立場ではありませんし、
自分のことをしっかりやっていくしかないでしょう。

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「玉依姫」イラスト予告

楽太郎です。

先日「瀬織津姫命と白龍」のラフをこのブログに上げました。
あれはあれで制作中ですが、次の神様のイラストは「玉依姫命」様です。

瀬織津姫命様と須佐之男命様のイラストの時は、何となくメッセージを受けて描いた感じですが、今回は完全に私の判断です。

「神様と人の距離感を縮める」というミッションに、私が絵描きとして関わることになるとしたら、先日の「繋がれる神様」という記事に書いたように、キャラクター化することでイメージ戦略を取っていく形になるのではないかと考えています。

今でも、記紀の神様がキャラクターになって紹介されている本はありますが、漫画的なテイストになっているコンテンツはあまり多くはありません。
取り回しで考えるなら、キャラクターの立ち絵などあっさりしたイラストを量産した方がいいかもしれません。
一枚絵はそれよりもコストがかかる上、あまり応用が効かないのです。

ビジネス的な展開はさておき、もっと神様のお姿とお名前を周知する戦略もこれから考える必要がありますが、ともかく神様を描き慣れていかなければいけません。

「玉依姫命」様は、私がよく参拝する賀茂神社のご祭神の一柱です。

以前のイラストも参拝後に描き始めたわけではなく、ご縁があったわけでもない状態で描きました。
しかし、こういうのはご縁を頂いてから描くのが筋なんだろうと思い、とりあえず参拝経験のある玉依姫様を描かせて頂こうと思いました。




神様を描かせていただく時、なぜか完全に架空のキャラクターを描く時よりも、デザインや絵面が迷いなく決まるのは不思議です。

こういうことを言うのも何ですが、須佐之男様を描かせて頂いた時はプレッシャーが凄まじかったのですが、玉依姫様を描いてる間は、賀茂神社で触れる優しいご神気に似た、柔らかいエネルギーを感じました。

そこで思い出したのですが、記紀では玉依姫様は豊玉姫命様から託されたウガヤフキアエズ命様をご養育後、同氏とご結婚され神武天皇がお生まれになりました。

賀茂神社では、上宮はウガヤフキアエズ命ではなく賀茂分雷命となっていますし、玉依姫の父上は綿津見大神ではなく賀茂建角身命となっています。
賀茂建角身命様は、賀茂神であり八咫烏神として同社では祀られています。
ここら辺はどういう経緯か、どう解釈すべきかは古史古伝素人の私には判断しかねますが、賀茂神社は賀茂県主の家系の氏神神社ですので、色々な背景があるのでしょう。

神様の世界も興味深いですが、伝承と歴史の中の神様の世界も興味深いです。
これが実際の神界とどう繋がっているのか、私の興味は尽きません。

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フィジカルへの回帰

楽太郎です。

ここ数日、やたらと物質面に目を向けさせるような出来事が続いています。

「お金」はずっと私のテーマですが、具体的に勉強する機会が訪れ、その意識を変えている最中です。
YouTubeを見ていても、大豆由来の粉物で作るお菓子とか漬物とか、なぜか今まで興味がなかった分野のことに興味が出始めています。

あと、筋トレを始めました。
これは数週間仕事から離れていたので、椅子に着くと集中力の低下や持久力が著しく落ちたのを感じてしまうからです。
脚の筋肉も体幹もかなり弱っているのを実感するので、軽いスクワットなどを生活に取り入れるようにしています。

このように、徐々に私の生活のテーマが変わってきています。
「フィジカルへの回帰」と言えば、おかしな言い方かもしれません。

これまで次元上昇のために、数年かけて波動を上げる修行をしてきました。三次元世界や人世への依存心を捨て、抽象度の高いテーマと向き合いながら魂を成長させるためです。
ただ、おそらく地球のアセンションの状態は安定期に入りつつあるのだと思います。
そのため、そろそろ抽象的になりすぎた意識を、大地に根差す準備を始める段階に入ってきたのではないでしょうか。

私にかかるテーマはもう一つあって、それは「日本文化への回帰」です。

これまで、記紀を中心とした日本神界との結びつきも重要なテーマでしたが、古史古伝や歴史への探究心も芽生え始めています。
それだけでなく、日本の食材を使った伝統料理や、古民家や神社などの日本建築にも興味が湧き始めています。

これは、私自身としては「趣味として」情動が高まっているという感覚ではありません。
大豆由来のお菓子を作ることに興味があるわりには、私はそれほど甘いものが好きではないのです。

何か、「使命感のようなエネルギーでやりたいと思わされている」という表現がピッタリ来ます。
神様から入ってくるエネルギーは、だいたいこういう感覚で表に出てくるので、おそらくこれがお役目なのだろうと思います。

では、なぜ「日本文化への回帰」を神様が促すのでしょうか。

ご存知の通り、日本は戦後80年の間に国家の仕組みごと骨抜きにされてしまいました。
途中までは日本人らしさが花開いた良い時代はありましたが、今はご覧のあり様です。神様は、他文化と我欲に汚される国土を見て、さぞかし胸を痛めていることでしょう。

「日本人に日本文化を取り戻して欲しい」というのは、神社仏閣におわす神様だけでなく、神々に限りなく近い遠津祖、日本をずっと守ってこられたご先祖様たちにとっても、心からの願いでしょう。

日本の歴史の中で、自らを犠牲にしても後世を守るために志を貫かれた多くの英霊たちは、今の日本を見てどう思われるのでしょうか。
これから物質文明が衰退し、再び国土が日本人の手に戻るとしたら、ご先祖様たちや日本の神々は、日本を本来の姿に戻してもらいたいのかもしれません。

日本人が日本を取り戻す事業は、「富」という概念を履き違え、金と欲望に使役される奴隷となっていた現代人が、我に返った先に目的意識を取り戻す時、「温故知新」という考え方と共に、日本人の強い光となるはずです。

「モノがなくても、人がいなくても幸せになれる」という考え方は、資本主義が衰退した後の世界では福音になるのではないでしょうか。
日本の古き良き文化は、その役割を十分こなせるはずです。

そして、その需要が高まるということは、そこに「金運」の種が宿っているということです。
例えば、たくあんや漬物は、商品として卸しても大した利益にはならないかもしれません。
しかし、独自の製法で作られた漬物があるとして、作り方のノウハウ自体を商品とするなら、その情報はたくあんを数十年売り続けるよりお金になる可能性もあります。

こういう発想は実に「風の時代」的ではないでしょうか。
たくあんを工場で大量生産して売り捌く、という土の時代の考え方とは明らかに違います。
この情報も、売るべき相手を自分で選び、共有するコミュニティも自分で選択する、商品の価値も自分で決める、その主体が自分自身にあるからこそ、自立した生き方ができる気がしてなりません。

神様は、そうして選択の主導権を自分が握ることで、支配構造から自由に生きていける人を増やしたいのではないでしょうか。
これまでは、力のある人間が専売特許を奪うためにあれこれ工作をしてきたわけですが、個人の力が強くなればその要求も跳ね除けられるはずです。

そのために、神様は人々が「唯一無二の才能を育てる」ことを願っておられるのだと思います。
自分にしかできない、自分しか知らない、そういった特殊技能を武器に世の中を渡り歩いていく、そうすることであらゆる支配から自由になることができるのではないでしょうか。

こう考えたら、文明の崩壊を目の当たりにして一喜一憂することなく、次の時代を見据えて研鑽していく、そのプロセスを有意義に感じることができるかもしれません。

薄暗い世相ですが、私は時代が変わるのが楽しみでしょうがありません。

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変革の風を起こす

楽太郎です。

今朝、散歩していたら川に白鳥がいました。
この白鳥は、数年前から一匹でこの川付近に棲みついているようです。
私はその子を見るたび、「寂しくないのだろうか」と思います。

ただ、鳥たちは人間のように遠慮しながら生きる動物ではないので、何の不満もないのかもしれません。
時折、鷺や鴨たちと一緒にいるので、寂しくはないかもしれません。

鳥たちは他の種族でもこうして群れて共存できるのに、肌の色や生まれが違うだけで分かり合えない種族もいるのは、皮肉なことです。

川辺で、鴉が餌を探していました。
鳥たちは、餌を探す行為を「生きるために仕方ない」とは思っていないでしょう。

「生きることは義務だ」と思うような生物は、そもそも長い淘汰の中で生き残ることはできなかったはずです。
人間以外の動物は、自分が生きること自体に目的や喜びを見出し、その行為を面倒くさがることはないでしょう。

しかし、人間は違います。
ものを食べるために、家賃を払うために、やりたくないことをしたり、死なない選択をするために、仕方なく毎日を生きていたりします。
そうやって自分たちの社会を生きづらいものにした結果、子供たちが減り若者たちは活気を失い、自分たちではどうしようもなくなってしまいました。

その穴を埋めるために外国人を呼び込み、日本の文化や国土を投げ売り、日本人は米も満足に食べられなくなっています。
私は、もうこのまま行くところまで行くのだろうな、と静観しています。

この世には、「禍事」が浄化という形で溢れています。

人々はまだ、世の中が選挙一つでひっくり返るとか、アメリカの大統領が諸悪の根源をぶっ潰してくれる、そうすれば全てが良くなると思い込んでいます。
噴出する世の悪事を正義感で叩いていけば、いずれ世の中は正常になり、発展する社会に戻ると信じています。
しかし、私からして見れば、そうならないのも神様のご計画の一部です。

神様は、仏教に「天魔」という概念があるように、悪魔意識を巧みに利用されているように見えます。
日本の新紙幣は、私は始め「持ちたくない」とすら思いました。
あれは、日本人の価値観に背くデザインだと思いますが、あのセンスの悪さが逆にお金に対する執着心を阻害する効果があるかもしれません。
それを狙ったのなら、あえて良くない波動を紙幣に込めたことで、人々の意識は変わざるを得ないはずです。

この場合、日本の金融を牛耳る権力集団の悪意を逆手に取った、神々の奸計であるとも言えます。
同時に、世のスキャンダルはわかりやすい形で炎上します。
大衆は自らの正義感でこの問題を叩きますが、その「正義」も「悪意」も神様は禍事に使っておられるように思います。
そこには、あらゆるタイミングの一致や偶然も関わっているように見え、それらが噛み合うことで社会の禍事が顕在化しているように見えます。

つまり、人間社会で起こる「禍事」は、「悪意」「正義」「偶然」という三つの要素を歯車にして噴出しています。

神様がお力を示される時は、主に自然現象や偶然が多いのですが、時に人間の心も利用されます。
もちろん本人の自由意志でしょうが、そう仕向けることは神様なら可能なはずです。
そうして、人間界の禍事と浄化は、あくまで人間同士の次元で起こし、解決させようとしている気がしてなりません。


これから時代が変わり「神代」になる前提の話をすれば、私は人世の崩壊時には明治維新や戊辰戦争のような内戦もありうるのではないか、とかつては思っていました。
しかし、神様と繋がり神様のお顔を伺う限りは、より文化的かつ合理的なイノベーションによって世を塗り替えていって欲しい、と思われているように思えてなりません。

それは、これからの世に勝海舟や西郷隆盛が必要というより、むしろ福澤諭吉や渋沢栄一のような実業家に世の変革を担ってもらいたいのではないか、と思うのです。

神様のお力なら、自然の力を利用すれば諸悪の根源を物理的に抹殺することは容易でしょう。
しかしそれをしないのは、神の力だけで人の世界を変えることに意味がないからではないでしょうか。

神様は、人間が自分たちの力で変化を起こし、世を立て直すことが必要なプロセスだと考えておられるのだと思います。
人間がどういう世界が新しい世界に相応しいかを考え、その目的のために自分たちで社会を変えていく、その手順を踏まずして神代は訪れないということでしょう。

だから、多少醜い争いや汚行に心が磨り減ろうと、それに目を背けず、人間たちが自分たちで社会をどうしていくかを考えなければならないのだと思います。


今日、アップされた「日月神示」の朗読動画で、興味深い一節がありました。

日月神示・梅の巻「第十八帖」 | シンジツヲツナグ

おそらく著作権侵害には当たらないと思うので、ここに本文を転載します。

第18帖

「自分で自分のしていること分かるまいがな、神がさしているのだから人間の頭では分からん、仕組み通りに使われて身魂の掃除の程度に使われて、使い分けられているのじゃぞ、早く人間心捨てて仕舞って神の申す通りに従って下されよ、それがお主の徳と申すものじゃぞ、一家の為めぞ、国の為めぞ、世界の民の為めだぞ、天地の御為めだぞ、今までに無かったこと今度はするのじゃから、合点出来んのも道理じゃ、道理じゃ、始めは戦いで争で世の建て替えする積りであったが、あまりに曇りひどいから、戦ばかりでは隅々までは掃除出来んから、世界の家々の隅々まで掃除するのじゃから、その掃除中々じゃから、戦許りでないぞ、家の中キチンと食物大切にするのが、開の御用と申してあろうがな、今度の岩戸は、開っぱなしじゃ、褌要らんと申してあろう」

この節に日月神様や日本の神々の温度感が集約されていると思います。
神様は、人間を間引いて世を変えるおつもりというより、命までは取らずとも人間に心を改めて貰えたらそれが何より、と考えておられるのだと思います。

だからこそ、神様は文化的、精神的な面で、平和的に平和な世を作っていって欲しいのだと思います。
神様が私に「闇の勢力と戦え」と仰らない理由の一つであり、それは人々の心の変化で起こせるものだからだと思います。

神代は、神様の愛と人類の友情で繋がる世界であると私は思っています。
だから、心で世の中を変えていく、それが全てではないでしょうか。

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「お金」のブロック

楽太郎です。

今日は、久しぶりにガクッと来ました。
昨日まではわりと普通だったのですが、久しぶりに好転反応というか、エネルギー的な不調が来ました。
こういう時はジタバタすると長引くので、大人しく本などを読んで勉強する時間に充てることにしました。

今、「金運」に関する本を読んでいます。
これまで、金運に関する本を自ら買うほど「お金が欲しい!」と思ったことがないので、ある意味新鮮です。

私は、お金が嫌いではないですし、たくさんあるとやっぱり嬉しいです。
けれど、確かにお金持ちに対しては偏見があるかもしれません。
それは、お金持ち自体が嫌いなのではありません。

「大金を持つに値しない器の人間に、金持ち自慢されるのが嫌」なのです。

例えば、月収1000万円と宣うインフルエンサーが、薄っぺらい綺麗事を言いながらネックレスをジャラジャラさせている、みたいなのが気に食わないですし、「お金持ち」にはそういうイメージが付きまとっています。

ただし、「世に貢献した結果、富を得た人」という意味でのお金持ちなら心から納得します。
北野武監督や桑田圭佑さんが大富豪であるのを、批判する気になるはずがありません。
「徳のある成功者としてのお金持ち」と「世をうまく渡って成功した金持ち」とはニアリーイコールの関係です。

私はお金持ち云々以前に、人物の素性を見るので「お金を持つに値しない権力者」が嫌いなのです。
けれど、わざわざ金持ち自慢をするような人は、残念ながらそういう人たちばかりです。
ゆえに、それを一般化してバイアスをかけてしまうのだと思います。

この本の中にも資産形成の話が出てきますが、「これをしたから私はこう上手くいった」みたいな話は「自慢じゃん…」と思ってしまいます。
しかし、お金持ちを「即物的」と思ってしまう先入観こそ、私の「お金意識のブロック」であることに気づきました。

冒頭にも述べましたが、私は「お金持ちは人徳も併せ持つべきである」という「ノブレス・オブリージュ」的な価値観を根強く持っています。
ただ、資産家の子息として生まれたり、宝くじが大当たりしてお金持ちであるのと、人徳は全く関係がありません。

お金はただのシステムなので、モノとして集まってくるだけの道具です。
お金持ちは、トンカチを大量に持っているようなものなので、大工の棟梁である必要がありません。
私は、どうもその部分を履き違えてしまいがちです。

私はずっと、「幸福とは心の問題である」と思ってますし、今もそうです。
しかし、家もなく暖房も食事もない状態では「心の問題」では済まされません。
現実的に手段としてお金が必要なのはわかっているのに、なぜかその部分が抜け落ちているのです。

この現実離れした理想の高さ、悪く言えば世間知らずさが、私が金運に恵まれなかった一番の理由なのではないでしょうか。

下手に人間を見てしまうからこそ、低俗なマウントを見て「ああはなりたくない」と思っていました。
お金自体に汚いイメージを抱くというより、大金を手に入れたら彼らと同じ人間になるのではないか、という抵抗感があったのかもしれません。

自分がお金持ちになれば、彼らと同じカテゴリの人間に見られてしまうのが嫌とか、彼らと同じカテゴリに入るくらいならお金持ちになりたくないとか、言語化すると感情的な理屈です。

しかし「お金持ち=成金」でないので、その図式は絶妙に間違っています。
このバイアスこそが私の「お金意識のブロック」になっていたのだと、改めて思いました。

私はたぶん、力を持っている人間が好きではないのだと思います。
これまで意識したことはなかったのですが、確かに私は影響力のある人物ほど距離を取って観察する癖があります。
そういう人ほど裏がある、という先入観は確かにあるかもしれません。

冷静に、権威や影響力を良い方向に使う人ばかりなら、今のような世の中にはなっていないわけです。
どんなお金にまつわるメソッドを実践し、神様から金運を授かろうと、成功者が必ずしもメリットだけを人々にもたらしているわけではないでしょう。

これまでの土の時代は、特に力を自分中心に使う人物ばかりだったからこそ、力の集権と資本は密接な関係にありました。
力を持つ人間はお金も握るので、デメリットの側面も大きく出てしまうはずです。
それを強行するのは社会的強者がほとんどなので、私はどうしても警戒感を持ってしまうのです。

けれども土の時代は終わり、古い経済システムはこれから崩壊を迎えるはずです。
その頃にはお金のルールが変わり、システムが変われば私にもチャンスがやって来るかもしれません。

私の読んでいる金運の本は、神様が主導権を取り戻した世界では、さらに有効な方法論になる可能性もあります。
一部の金持ちが汚いことばかりをやってきたのは事実でしょうが、仮に私がお金持ちになった時、彼らと同じ振る舞いをするかは私自身の問題です。

「そうならない自信がある」のなら、私はお金持ちになる覚悟が定まりますし、心のブロックは解けるはずです。
お金をエネルギーとして肯定し、そのエネルギーを蓄えた自分は内面も豊かさを固持し、他人にために自分の富を手放すことを躊躇なくできるのか?

自分がそれをできないならば、人様に「ノブレス・オブリージュ」を指図する資格はないでしょう。

高潔に生きたいのは、本当に魂からの願いです。
けれども、何となく足元が見えていないところが、私が現実といまいち噛み合わない原因とも言えますし、本来それに関して他人は関係ないはずです。
「立場に見合わないプライドの高さ」も、私に金運が巡らなかった理由の一つであるように思います。

なんか、書いてるうちに私自身への反省文みたいになってしまいました。
でもこうして自分を客観視したことで、実際に意識のブロックがあったことがわかりました。
これがわかるのとわからないのとでは、これからの結果は違ってくるかもしれません。

これがわかっただけでも、この本を読んだ価値がありました。
もしかすると、これを自覚すること自体が「金運」なのかもしれません。

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