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招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「神代」のルール

楽太郎です。

今は、「待つのが仕事」だと思っています。
春分明けでエネルギーが高まり、新しいことも始めたのですが、ガクッと動けなくなって久しいです。

おそらくこれは、4月13日の満月を境にまたガラッと変わると思います。
見たところ、このエネルギーの変化は様々な障害や抵抗として顕在化しているようです。
その正体は邪気だったり好転反応だったり色々するようですが、その人それぞれに浄化すべきテーマとして現れているのかもしれません。

私は、過去のトラウマとか後悔の念なんかがブワッと出てくることがあり、強烈なエネルギーが身体を巡ることもあれば、完全にエネルギーが停止して息が詰まったり、不安定な状態にあります。
さすがに病気も疑うのですが、こういう謎の愁訴感はだいたい霊的なものなので、一種の変容が来ているのだと思います。

こう言ったエネルギーの切り替えに起こる不調は、去年の冬至から事あるごとに来てはしばらく身動きが取れない、というのを繰り返してきました。
よく考えれば、この半年くらいはほぼ浄化と好転反応に専念してきたと言えるくらい、魂の変容を優先しています。

その行程はまさに修行と呼ぶに相応しく、自分の人間的な部分を削ぎ落としては新しい自分に変わっていくプロセスそのものでした。
周りから見れば、どんどんダメになっていくように見えてると思いますが、なぜか私は磨きがかけられている実感しかない、という不可思議な状況です。

おそらく、時代はもう「神代」が到来しているので、これまでの人間のルールと神様の世界でのルールにおける、推奨すべき生き方が違うからだと思います。

これまでの人世では、人に使われたり人を使う立場に徹することで対価を得て、それが成功の道でした。
しかし、神様が君臨する治世では、神の求めに応じられる者、魂の輝きで才能を発揮する者が恵みを得るというシステムなのだと思います。

これから、現在の「マネー」がどれほど価値を持ち続けるのかは不明です。
しかし、円やドルの通貨価値がどうなろうと、商業取引に用いられる貨幣が例え「貝殻」や「クーポン」であっても、実質的に価値のあるものと交換できれば経済は成立します。
要は、「実質的に価値のあるもの」が確実にトレードできればビジネスは成立するので、本質的に価値のある商品が手に入る方が遥かに重要です。

今の世の中でも良いのですが、謳い文句や印象だけで「価値がある」と思われているモノは限りなくあります。
それらは世界にモノが溢れ、基本的需要が満たされているからこそ付加価値で持て囃されてきました。
しかし、人々が困窮し、食うに困るとか生活すらままならなくなるならば、付加価値がなく安く基本的機能を満たせるものを求めるでしょう。

その上で、「本物」とはやはり粗製乱造できない、しっかりと精巧に作られたモノであり、長持ちする良品であることが多いのです。
それを作るのは熟練された技術だったり、ノウハウに裏打ちされた才能であったりするわけです。
「本物」は小手先のアイデアでは再現できないからこそ、貨幣自体に価値がない時代には遥かに重要な性質になってくるでしょう。

神の治世では、その才能こそ一人ひとりに与えられた「分身霊(ワケミタマ)」の発露であり、その能力は神の力であるからこそ、人の役に立てるものです。
「分身霊」は今、私たち全ての人の魂に存在します。だからこそ、誰もがきちんと魂を磨けば、才能という神の力を発揮することができるのです。

しかし、これまでの物質中心の時代は、わざと「魂など存在しない」ということにしなければなりませんでした。
魂が存在する、ということは霊的な現象の先に「神」の存在を認めるということです。
「神」が存在すれば、人間が神のように振る舞い、人間界の頂点にいることは許されません。

人間界の頂点にいる者は、思いつきや欲望ひとつで下の人間たちを思うように使うことができました。
下々に命じてある人種を迫害したり、戦争を起こしたり、人間のエネルギーを一極に集めて自分のものにすることもできたのです。

しかし、神が存在すれば、その行動は神に仇なすことになります。
ゆえに必死で「神など存在しない」と証明する必要がありました。目に見えない存在を迷信化し、全ての宗教を眉唾物として扱い、人間の感覚そのものを即物的なものに結びつけてきました。

そうすることで、人々は「目に見える世界」だけが現実であり、その世界だけを信じるようになったのです。
目に見える物質的な世界は、一元的で「お金とモノさえあれば安心して生きられる」というシンプルな世界でした。
幸福も自由も、お金を得る条件さえ揃えれば実現し、人の心もその条件で何とでもなると人々は考えるようになりました。

ある程度は、それで満足して幸せを感じられた人も多かったでしょう。
しかし、目に見えないものを否定することで成立した世界観は、徐々に歪みを見せるようになってきました。

「心」という人間に備わる器官を軽視することで、精神的なものより物質を優先し、理不尽なほど合理的に求められる利益のために、人々は本来の「人間らしさ」を失っていったのです。

それでも、この世を支配する人間からすれば知ったことではないのです。
心を病もうが荒廃しようが、その混迷を利用して金儲けができるからです。
病気になれば薬が売れ病院が流行り、迷う人が増えれば詐欺や悪どい宗教が盛んになり、アルコールやドラッグが捌けます。
そして、戦争になれば気に食わない民族を合理的にジェノサイドし、武器や兵器は飛ぶように売れます。

それが、これまでの「人世」でした。
人間がシンプルに「お金やモノ」だけを信じて生きていれば、そのことだけを考えて暮らせた分、人々は楽に生きられたのです。
いくら頭を使って生きていても、根本的に「自分とは何か、何をして生きていくべきか」を顧みずにいられる以上、人間として本質的な問題を直視しなくて済むからです。

ただし、その時代はもうすでに終わりました。
これから、その物質的な世界は経済の崩壊という形を持って切り崩されていくでしょう。
新しい時代においては、人間の考えるルールよりも、天界のルールが優先されます。

天界のルールとは、因果をもたらすものが人間ではなく、神や霊的存在であるということです。

これまでは、有力者に気に入られるとか、有名大学の肩書きや大企業のコネなど、人間社会の道理が大きな力を持っていました。
力のある人間は、お金や暴力や、有利な条件を振りかざせば因果すら捻じ曲げることができました。

ただし、スピリチュアルな存在が因果を握ることは、人間の身勝手なロジックが通用しなくなることを意味します。
あくまで高次元の存在によって中身が審査され、その結果が現実に跳ね返ってくるということです。

このルールは、人間にとって信じがたいほど残酷なものに映るはずです。
自分が頭で考えて努力したとしても、その成否は上位の存在が決めるのですから全く勝手が違います。
だからこそ、多くの人々は無意識下でその計画に反対し、神代の実現を阻み続けてきたのです。

その感情は邪気となり、邪気は具現化して様々な災いをこの世界にもたらしています。
地震、火災、台風、異常気象、凶悪犯罪、社会の混乱、そう言った災禍は人間の邪気が物質的、霊的にもたらしてきた現象と言えます。

それでも、人間は目を逸らし続けていたのです。
人間を作ったのは神々であり、人間も神の一部であり、そうである以上は神々に逆らって勝利することはできません。
ゆえに、人世は終わっていくしかありません。

そして、その次には神が支配する時代が訪れます。

今の人々にとって、それは全く異質であり受け容れ難いものでしょう。
しかし、権力を持った歪な人間の意志に従う世は終わり、各個人が自立して自由を選択していく時代になっていきます。

因果は神が決めるので、「正直さ」だけが重要になります。
良い心持ちであれば良い結果に、悪い心持ちなら悪い結果になり、ゆえに各々が自分自身を見つめなければ何も進まないでしょう。
悪いところは反省し改善する、そうすることで神の承認を得て、良い循環に戻っていきます。

その世の中では、人を欺いたり搾取するような行為は、いずれ身を滅ぼすはずです。
だからこそ、神代は「弥栄の世」であり、好循環のもの以外は淘汰されていくでしょう。

その世界では、たかだか数百年で絶滅の危機にある人間の作った時代よりも、遥かに悠久の歴史を刻めるように思えます。
日本の縄文時代が1万6千年以上続き、絶えることがなかったのは人々が野蛮で未開だったからではありません。
自分の運命を神に預け、自然と共に生き、恵みを子々孫々まで継承してきたからです。

今こそ、私たち日本人はこの境地に立ち返る時です。
このまま、人間本来の意識を忘れたまま滅ぶべきではありません。

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日本の復権

楽太郎です。

アメリカ経済が崩壊の兆候を見せ始めています。

私のような経済素人でも、関税を高めたら国内供給への締めつけに繋がることくらいわかります。
インフレ下においていくら企業を国内に呼び戻したとしても、海外から製材を輸入しなければ製造ができないので物価高は解消されません。
しかも、報復関税でアメリカの製品も輸出できず、クレジットカードの延滞率が過去最高の国民に消費を下支えする体力はありません。
このままでは、どう考えても最悪の悪循環に陥ります。

アメリカはNYダウとS&P500の数値を見ていると史上最強の経済に思えますが、これはアメリカの悲惨すぎる実態経済を誤魔化し、世界中からマネーを呼び込むために作られた芝居です。
数値を出すたびに修正を繰り返すFRBが、果たしてどれほど真実の数字を出しているのでしょうか。
中国なら鉛筆を舐めるが、アメリカのような先進国がやるはずがない、という根拠はどこにもありません。

好景気に映るアメリカの経済指標を実態が反映しているのか、専門の調査機関しか知り得ないはずです。
果たして、アメリカのインテリジェンスにどこまで白が存在するのか、私は疑わしいです。

マグニフィセント7が主導する生成AIも、所詮は大量の電力と環境資源を消費し、数年しか持たない非効率な処理装置を全世界にばら撒き、荒稼ぎするためのロジックです。
実際、生成AIは完全に赤字産業ですが、投機商品として魅力的だから資金が集まるだけです。

人々は「AIが考えている」と思いたいようですが、あれは全世界のネットから情報を集積し、巨大なデータベースからパターンを引っ張り出しているに過ぎません。
その論法で世界中の富裕層を欺き、資金をアメリカ国内のIT企業に吸収させているのです。

ロシアウクライナ戦争の真の目的は、ロシアに戦争をさせることで、次世代戦争の雛形となるべきAI兵器の技術を完成させ、既存の軍事産業をアップデートさせることでしょう。
アメリカは資金供与を渋る芝居をみせながら、ウクライナに無人兵器を開発してもらう口実を作っているにすぎません。
プーチン大統領はどこまでアメリカの肩を持っているかはわかりませんが、前線から兵を引かないことでウクライナのAI兵器の完成に協力しているように見えます。

中国は、台湾侵攻を外交カードに使ってアメリカ、及び西側諸国に圧をかけています。
しかし、その挑発が逆に近隣諸国へアメリカの影響を強める効果をもたらすとしたらどうでしょうか。

中国が戦争を始めると宣言することで台湾の軍事調達はアメリカ主導となります。
そして、AI兵器に欠かせない半導体産業はアメリカの軍事産業と一連托生になるわけです。
その緊張が続く限り、日本を始めとしてアメリカ産兵器の調達が進み、その利益はアメリカの軍事産業が手にすることになります。

中国もロシアも、アメリカと敵対しているように見えますが、緊張状態だからこそ生じる必要悪があります。
お互いが弱みを握り合う中で、裏で強調路線を共有することで現在の不安定さを均衡させているとしか思えません。

特に産業として軍事と製薬とIT以外に稼ぎ頭のないアメリカは、国体と帝国的支配を維持し続けるために、次世代戦争の覇権も掌握する必要があります。
その覇権を維持したいのは、実はアメリカ自身ではなくアメリカの支配階級を影で操るユダヤロビーでしょう。
彼らは、アメリカ政府が「ロビー活動規制法」なるもので献金によって利権を拡大する政治を戦後から行なってきました。
その仕組みを牛耳っているのは、間違いなくイスラエルの侵攻を支持しているグループです。

これらの金融を支配する集団は、思想的なバックボーンを持たない選民意識の強い人々です。
ゆえに、民主主義や社会主義がどうなろうと知ったことではないのです。
大事なのは金であり、そのシステムを維持するのが至高の目的でしょう。
だからこそ、数多の国家や民族が解体されても、それすら利益の手段にしてしまうのです。

トランプ大統領はマスクなどDSの息のかかった微妙な連中を抱き込んでおかしくなったようにも見えますが、いずれにせよ現状ではトランプ大統領は「グレートリセット」のトリガーを引くでしょう。
彼が本気でアメリカを救おうとしているとしても、妄想の中で破滅を招いているにしても、近い将来に彼が汚名を被ることは決まっている気がしてなりません。

これらは、少し世の中を俯瞰すればわかることです。
皆が現文明はこれからも発展を続けていく、次はAIによる地上のユートピアが実現する、アメリカは復活し、再び覇権を握ると思っているからこそ、崩壊というビジョンを想像することができないでしょう。

今でもほとんどの人々は、総理大臣が交代したら日本は多少マシになるとか、トランプ大統領が国内のDSを倒してくれたらまだ立ち直れると思っています。
よしんば、コロナ前のような景気に戻り、外国人を移住させてでも右肩上がりの経済が復活すると信じています。

しかし、残念ながらそれは夢に終わるでしょう。
それが露と消えることを想像できないくらいには、人々は新しい時代を受け入れ、生き方や考え方を変えたくないのです。


先日、馴染みのラーメン屋に行きました。
ラーメンと餃子のセットからライスが外され、ライスが有料50円になり、セットが100円値上がりしていました。
スーパーでお弁当を買った時は、テーブルに置けないくらい歪な形の容器で、ご飯を持ち上げてみたところエゲツない上底の工夫を見せられました。

物価高だから仕方ない、と今は思えるでしょうが、企業の収益が不況ゆえに目減りし、従業員の給料は上がらず、それでも日常品や食料が値上がりしていけば、生活以外にお金を使えなくなります。
外食産業も、利用機会が減れば当然収益は減ります。企業倒産が増えれば、職を失った人々は余計に消費を絞ります。
不況になれば、求人は減り人々は職に溢れ始めます。そして、どうにか資金を回収しようとあの手この手でグレーなことを仕掛ける業者も増えるでしょう。

人々は薄々勘づいているのではないでしょうか。

日本の企業も良心的というか、安心できるレベルの商売をするところもめっきり減ってきています。
大企業と言えど、平気で消費者を欺きます。寡占企業だから多少のクレームでは動きませんし、居直ったところで消費者に代替手段がないから手出しができないことも知っているのです。
その大企業も、人々の生活インフラの一部になっているから身動きが取れません。
ゆえに、供給者と消費者の双方が牽制し合い、先細りの流れを止めることができないのです。

一次産業や流通の業界は人手不足で喘いでいて、経済を支える大動脈にこそ酸素が回っていません。
そして、平常時にこれだけ経済活動が脆弱化しているのに、恐慌と災害に見舞われたらどうなるのでしょうか。
私には、嫌な予感しかしません。

ただ、私には神様の思い描くシナリオが読める気がします。

この状況で日本がユダヤ支配の資本構造を脱し、新たな経済システムをもつ社会体制を確立するならば、恐慌後に荒廃しきった資本国家群を出し抜くことが可能です。

その頃には、世界は凄惨な混乱状態にあるはずです。そこで日本が新しい文明の代替システムを提案することで、世界はその姿勢に追随することになります。
その時、縄文時代より連綿と続く「雛形の国」は、真の姿を世界に見せることになるでしょう。

そのための立て直しが、今日本に求められています。

日本人は明治維新以降、西欧列強に追随するべく帝国主義を採用しました。
しかし、その拡張主義は大東亜共栄圏という名目で他国を侵略し、結局は大戦によって敗北し、今度はアメリカ主導の帝国主義の傘下となりました。

資本主義的な競争原理を組み込んだ社会は、特に明治以降の科学的思考の普及によって、人心よりも物質的な豊かさを求める方向に突き進みました。
大量生産大量消費の時代、祖先が大事にしてきた土地を日本人は易々と現金化し、挙げ句の果てに国土を外国人に売却する世となりました。

この即物的な思考が、我が国の停滞をもたらしたと言っても過言ではありません。
拝金主義を極めた結果、人々は自由もルールも奪われて、弱肉強食の世界に疲弊しきったのです。
そしてこの流れを止めない限り、日本の収奪と衰退は終わることがありません。

日本の縄文時代は1万6千年続いたとされます。
人々は、「原始時代だからそれくらい続く」と思うでしょうが、青森県の三内丸山遺跡は少なくとも5千年前の集落で、その頃には日本国内の海洋交通が確立されていたとされます。
下手すると、2千年前のヤマト政権による日本国の成立以前に、日本人は列島を縦断してネットワークを形成していた可能性が高いのです。

日本人は巨石や山全体を御神体とし、目に見えない存在を自然に見て暮らしてきました。
自然と調和するあり方で荒れ狂う河川を整備し、水のない土地には灌漑を引き込み、植樹して林業を発展させ、豊かな国土からの恵みを代々に渡って享受してきました。

その日本人が、建国して数百年足らずの外国の文明を踏襲し、この数十年で国土の形を著しく変貌させました。
自然環境を「資源」という視点で利益に変換し、再循環を拒む文明のやり方は、もはや全世界的に立ち行かなくなっています。
だから今こそ、口先でも絵空事でもない「環境にやさしい」やり方を取り入れるべきです。

江戸時代には、イギリスが文明国として覇権を握りながら排水設備が未熟な時代に、我が国には上下水道のシステムが確立していました。
自然と共存しながら、安全に暮らす土地作りを実現し、その豊かさを維持する知恵が日本にはすでにあったのです。

その知恵を復活させることは、大量消費に裏づけされた社会システムを代替することに繋がるでしょう。
それを実現するには、現在の大量消費システムの上に築かれている、私たちの生活の仕組みを見直す必要があります。
それはとてつもなく覚悟を伴うことです。
これまでのやり方を捨てることを、人々は極端に嫌うでしょう。

しかし、どの道このままでは欧米諸国と共に沈み、やり方を変えなければ日本人がこの列島に安心して住めなくなる日も来るはずです。
その日、世界で最も歴史のある国「日本」は終わりを迎えます。

それを止めるために、私たちが本気で立ち上がらなければならない時が来ました。
そしてこれが、この国におられる神々のご意向、そして命をかけて国土を守ってきたご先祖様たちの願いではないでしょうか。

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「画霊(えたま)」

楽太郎です。

最近、土の時代に作られたコンテンツの波長に合わなくてなってきました。
私もずっとそう言うのに親しんできて、嫌いになる理由も特にありません。

単純に、私が「面白い」と思う感性が世間とズレ始めているのだと思います。
人々は、もっと感覚的にものを見ていますし、小難しく解釈しなくては読み解けないものをあまり好みません。
今の人は、瞬間的に理解できるものを好む傾向にあるので、私の趣味とは合わないのです。

私も作家の端くれですから、そう言ったコンテンツを作れば喜ぶ人も増えるでしょう。
ただ、それをやったとして自分が納得していなければ、お金や人気のために時間を削っているにすぎません。

働くことで「人の役に立つ」のは、いずれ対価を得られれば役に立ったという証明にはなりません。
確かに、需要があったから供給し、それがお金や評価になって可視化されるのもあるでしょう。
しかし、実際「役に立つ」ことは目に見えづらく、それが精神的なことであればあるほど、顧みられないことでもあります。

例えば、私たちが自動販売機で缶ジュースを買っても、ゴミ箱を設置している場所はあまりありません。
売るだけ売るのは良いとしても、あとのゴミまで責任を取るのはリスクが伴うからです。

タピオカミルクティーが流行っていた頃、ゴミ捨て場が街中になさすぎて、空き缶入れにプラスチックカップが刺さっている光景をよく目にしました。

人は何かを買えばゴミが出ますし、ゴミは捨てたくなるのですが、ゴミを処分するのは手間もお金もかかります。
だからといって、捨てられない場所に無理矢理ゴミを捨てていく人たちもいます。
善意でゴミ捨てをやっていても、自分だけが集中的にリスクを負うので、だんだんバカらしくなってくるのもわかります。

「ものを売る」というのは、それだけで何かの役には立ったことにはなるのですが、売った後の方が実は大切です。
食べたら身体を壊すとか、すぐ壊れる詐欺商品だったとか、壊れた後の修理が不可能とか、「売り上げ」だけを尺度にしていたらこの状況は見えません。

実際、「ゴミを捨てさせてくれる」というだけで、私たちはかなり助かります。消費はさせられるわりには、消費で出るゴミにもコストが生じます。
「役に立つ」とは、往々にして目立たないものですが、なぜか数値で可視化できるものだと人々は思いがちです。

だから、私は売れる、売れないということを軸にして考えることはやめました。
ただ刺さる人には刺さるとか、わかってもらえれば良いというスタンスのものを作ってきました。
ただ、それが絶望的に受け入れられなかっただけで、私が悪いのでも人々が悪いのでもありません。

私は、私の良いと思うことを追求し、表現するのが仕事です。

無理に人様の真似事をして、対価を得るのが仕事であると言い切れないように思います。
とは言え、自分のやり方が今まで以上に通用しない世の中となり、どこを向いて創作するべきかを商売に落とし込むのは至難の業です。

特に絵に関しては、いずれ芸術全般もそうなるかもしれませんが、「人間がやらなくても良い」という評価に差し代わっていく可能性もあります。
絵の微細さ、表現力の豊かさ、描画の正確さ、完成までの早さ、コストの低さで言えば生成AIに人間が勝てる要素が少なすぎるのです。

生成AIがそれだけ優れている、というわけではありません。
世界中の天才クラスのアーティストの作品データを集中学習して、業界トップレベルのクオリティの作品を手前のパソコン一つで合成出力できるようにしただけです。
それどころか、58億もの学習元の作品を評価タグづけし、その膨大なデータを隠れ蓑に権利問題を有耶無耶にしているのです。
そこに権利意識や良識は毛頭ありません。

その上、アーティストが手にするべきロイヤリティを一つとして共有せず、アーティストのビジネスに競合し利益を毀損します。
これを行なっているのは、全く無関係の第三者です。
それでも、お手軽に自分の思う以上の作品を出力できるので、使いたい人はたくさんいます。

この現状に対して「どうかと思う」人々が多いことも知っています。共に活動していたこともありますし、彼らも非常に憤り、嘆かわしく思っていました。
けれど、その良識よりもタダ同然で技術が得られることに人々が流れてしまったのも事実です。

それを後押ししているのは、世界トップシェアの大企業と政府なのですから、どうしようもありません。
残念なことですが、文化芸術の面で相当なダメージが入っていくことは避けられないでしょう。

私も正直、「デジタルイラストは終わった」と思っていました。
クオリティや物量で見れば生成AIに敵わず、それを認めて生成イラストを上描きしているだけの作家もいます。
この業界で、私は真っ当に立ち回れる自信がなくなってしまい、イラストの分野からは離れていました。

ただ、反対に「人間が描くからこそ価値があるのではないか」と考え始めています。

確かに、クオリティの面で言えば生成AIを使うに越したことはないと考える人も多いです。
しかし、権利問題を技術的に抱えた生成AIは、クレジットをつけることができません。

機械学習元の権利者は概ね同意していないはずなので、コピーライトをつけようがないのです。
それだけでなく、「誰が制作したわけではない」ということは、作品にバックボーンがないということです。

よく考えてみましょう。
フランスの現代アーティスト、マルセル・デュシャンが工業製品の便器を逆さまに置いて「泉」という作品を出展した時、そのアート性を担保したのは何でしょうか。
作品の素材自体は、工場で作られた大量生産品です。それを「アート」だと言い切った行為そのものが芸術を意味すると、現代アート界では考えられています。

言語学者のソシュールが提唱した概念に「シニフィエ/シニフィアン」というものがあります。
「シニフィエ」は「意味されるもの」であり、「木」ならば「'木'と呼ばれるもの」を指します。
「シニフィアン」とは「意味する言葉」であり、「'木'と呼ばれるもの」を見た時に「木」と表現する仕組みのことを言います。

つまり、デュシャンの「泉」は、シニフィエとしては「工業製品を逆さにした便座」ですが、シニフィアンとしては「デュシャンが'泉'として表現したもの」になります。
ここで優先されるのは、むしろシニフィアンの方だということです。

仮に、デュシャンの「泉」が屁理屈だと思われていたら、この作品にまつわる逸話は美術史には残っていないはずです。
この現象がアートを定義する上で本質的な指摘だったからこそ、今日も議題に登るのです。

何が言いたいかというと、「誰が描いたかわからない、バックボーンのない作品」は、「シニフィアンが希薄」なのです。

シニフィエは、シニフィエ単体でも鑑賞に耐えうるものです。例えば、車窓から見える景色も意味を知った上で眺めるものではありません。
しかし、車窓から見える景色が、日本三景の松島だったり富士山だとわかれば、印象も意味合いも変わります。

仮に画像生成AIで出力されたランジェリー姿の美女も、名のあるキャラクターの二次創作であろうとシニフィエ単体として成立します。
例えば、二次創作キャラのランジェリー姿を有名絵師がコラボとして描いた、というのであれば話題性は桁違いでしょう。

生成AIは、この「意味合い」という手順をすっ飛ばして、技術や成果だけを手前のものにしようという企みでしかありません。
だから、権利やクレジットや棲み分けを異常なほど避けながら発展してきました。
ゆえに責任の所在を曖昧にし、オリジナルの表現に背乗りし、オリジナルを騙ることでしか正当化できなかったのです。

「シニフィエ/シニフィアン」とは、人間の基本的な認識能力、コミュニケーションの仕組みを指すだけでなく、さらに世界に対するスタンスにも当てはまります。

日本人にとって「シニフィエ/シニフィアン」が最も大きく顕れているのは、「万物に神が宿る」という精神や「九十九神」という概念に見て取れます。
また、古くから「音霊(オトダマ)」「言霊(コトダマ)」という概念を信じてきました。

「良いものには良いものが宿る」
「悪いものは悪いものを引き寄せる」

そういった価値観があるからこそ、「験担ぎ」や「縁起」という風習を大事にしてきたのです。

現代の日本人はだいぶこの感覚を忘れてしまい、ネットでならと不埒な行動を晒し、口汚い言葉を平気で使いがちです。
炎上しなければ良くて、バレなければ何も問題ないと思っています。

しかし、そう思っているのが現代人だけだとしたらどうでしょうか?

スピリチュアルの世界では常識となっている「引き寄せの法則」が起こるとすれば、自分の発した悪態が巡り巡って自分の元に返ってくることになります。
シニフィアンを希薄な状態のまま放置し、軽視し続けることは即ち「音霊言霊の軽視」であり、言葉や意味を粗末に扱えば、古くから日本人が起こると考えていた災厄を招くことになりはしないでしょうか。

現代のシニフィエ過大の状態は、視覚優位の世界であって、バランスが悪い印象を受けます。
誰も言葉を当てはめて考えようとせず、意味を与えて考えないから、現象の裏に背景があることに思い至りません。

言葉は、それ自体に「権利」はありません。
「ありがとう」という言葉は様々な人が自由に使えるありふれたものですが、自分がある場できちんと発すれば、特別な「ありがとう」になります。

それは誰かにとっても、記憶に残る「ありがとう」かもしれません。
これが「音霊言霊」であり、言葉そのものとしてはありふれているのですが、自分がある時に心から発するからこそ、かけがえのない言葉になります。

これは「言葉」だけではないのかもしれません。
ピアノだって、ショパンやバッハを弾く人は数え切れなくとも、その人にしか出せない音色があります。
音楽も理論で言えば、コード進行も楽器も出尽くしていて、それでも新しい音楽は作られ続けています。そもそも、作り手が一人ひとり違います。

大事なのは、「誰がどういう経緯で、どういった過程でこれを生み出したか」なのです。

絵だって、技術的に見れば生成AIに太刀打ちできないように見えます。
しかし、自分で研鑽を積みながらアイデアを具現化して人に伝える、そのプロセスの方が遥かに大切なのではないでしょうか。

「音霊言霊」があるように、人間が描いた絵にも「画霊(エタマ)」が宿り、その表出に本当の価値があり、真の目的を見い出すべきなのかもしれません。

現代人は、利益こそ究極の目標になってしまいました。
何かを得られなければ、何かをする価値がないと考えがちです。お金にならなければ無駄だし、評価されなければ動機にする意味もないと。
そう考えた結果、誰もが自分の足元しか見ていない偏狭な世の中にしてしまったのではないでしょうか。

しかし、本来の目的とは、自分の魂のうちにあるものです。
その魂から発せられる表現が音霊言霊となり、人の魂に伝わるのだと思います。
その「霊(タマ)」は、おそらく人間の行うあらゆる行為に宿るもので、それが芸術活動なら尚更でしょう。

今こそ、生産性や単純な品質でものを測るより、もっと違う尺度でものを見る習慣を身につけるべきかもしれません。
それによって、おかしくなった産業のあり方にも距離を取り、自分だけでもあるべき形に戻していけば、少なくとも間違ったことはしないで済みます。

今、それをするのは理不尽なほど顧みられないかもしれません。
その時、人間が数万年かけて大事にしてきたものにこそ、本当に大切なものがあることを思い出したいと思います。

いくら自分が理解されなくとも、私は自分のやり方を曲げるつもりはありません。
私は、絵に「画霊」を込めて創作を続けたいと思います。

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世直しと「責任」

楽太郎です。

最近、どんどん世間の人々と価値観が乖離していきます。
芸能人の炎上も有名人の不祥事も、話題になる理由はわかるのですが、なぜそれにここまで気持ちを向けられるのかわかりません。

別に、それが良いとか悪いとかジャッジする気持ちもないのですが、あまりに価値観が変わったことに気づいて不思議な感覚になりました。

私も昔は時事問題とか、政治経済軍事に関して追っていましたし、それなりに言論もしていました。
しかし、その言論のソースとなる報道自体が恣意的であり、どういう角度から読み解いても真の正論には至れないことを身を持って知りました。

特に、今の言論人は話者よりもバックボーンの方が強く、政治家同様に環境の都合で解釈をわざと捻じ曲げ、簡単に事実誤認を誘導してしまいます。

学術界の権威とか、インフルエンサーがいくらそれっぽいことを言っていたとしても、いずれにしろ真実かを確かめるには時を待たないといけません。
結局、全てが明らかになった後でなければ、誰が正しいことを言っていたのかはわからないのです。

「信じるか信じないかはあなた次第」という言葉がありますが、これは無責任です。
「私は間違ったことを言っているかもしれませんが、それを信じたのはあなたの責任ですからね?」という念押しに他ならないからです。

その論法なら、どれだけ出鱈目なことを言っても責任は聞いた人の側にあるということです。
本来なら、言葉を伝える側が信憑性を明らかにした上で、誤った情報を伝える可能性に責任を持った上で発言するべきです。
こう言ったロジックで、どれだけデマが正当化され、どれだけの人が巻き込まれてきたのでしょうか。

今の世の中は、情報に関して誰も責任を取ろうとはしません。
新聞もテレビも、間違った情報を伝えても口先だけで居直り、居直っただけで許されるからこそまた偏った情報を流し続けるのです。

それはメディアに携わる人々だけでなく、私たちスピリチュアルに関わる人々も同様です。
「神様がこう仰っておられる」と言えば、「神」という最高権威の名を借りて自分の思惑を押しつけることができます。

自分が人を騙そうとしているとか、本気で信じているとか、勘違いしているとかは問題ではありません。
神の言葉を代弁するということは、話者が神の言葉にも責任を持たなければならないということです。
神様に酷く低レベルなことを言わせたり、倫理的にもおかしいことを伝えるならば、神の名を汚すことになりかねません。

よく、神様の言葉を代弁する役の発信者がいますが、それ自体が悪いと言っているのではありません。
神の代弁者は、「神様はこう言っておられる」ということだけを伝えて終わりでは、下手すると神様の言葉を聞いて誰も実践せず、有耶無耶に流して済まされてしまいます。

神様が「こう伝えて欲しい」と仰ってこられたのなら、メッセンジャーは「はい、それをお伝えすれば良いんですね」で済ますのではなく、自分自身のあり方に重ねてみたところで、自らへの反省と実践を持って神様のお言葉に応えることが大事だと思います。

神様から直観を受け取った時、そのメッセージが正しいかどうかを吟味し、情報の発信者を審神者し、本当に神のご意思かを確かめた上で伝える。
そのプロセスをより洗練されたものにするには、常に自己を研鑽し続けなければなりません。
だからこそ、反省と実践が必要なのだと私は思います。

神様のお言葉を「信じるのはあなた次第」というのは構わないかもしれませんが、自身がその言葉を補強するために検証し、実践した上で発言に責任を持つことで、神様のご意向に砂をかけずに済むのではないでしょうか。

こういった「発言・表現の自由」というのは最大限に尊重されるべきですが、昨今は自由ばかりが一人歩きしてしまって、責任を取ろうとする人はあまりいません。
誰もが情報をゴシップと都市伝説のレベルで捉えているからこそ、信憑性も自己責任であり、「騙された奴がバカ」という風潮を作り出しているのです。

この情報化の時代にあって、無責任な情報だけが無限に飛び交っているからこそ、人々はしっかりした価値観で、筋の通った思想を持つことができないのだと思います。
極論を言えば、現時点で分別がつかなければ今後も情報に振り回され続けるでしょう。
今の世だって、人々は話題の方を向いて右から左に顔を動かしているだけで、誰も根本的に世の中を良くする方法は思いつかないはずです。

「財務省を解体すれば日本は良くなる」と考えて、それが事実かどうかはともかく問題の本質をわざと逸らせることで、有利に働く勢力にも目を向けなくてはなりません。
あえて人々に解決の道を示しているようでも、仮に彼らが救世主のように見えたとしても、そこに裏があるのではないか、と考えるくらいでなければ真実には近づけないのが現代と言えます。

誰かを英雄視し、担ぎ上げて然るべき椅子に押し上げれば、このスターが世界を救ってくれるに違いないと、人々は期待しがちです。
しかし、そうやって権力を握らせた者が誰一人裏切らず、正しく世の中を変えてきたでしょうか?

私たち人間は、いい加減に気づくべきです。
「寄らば大樹の陰」ほど危険なものはありません。

巨大な力に支配された時ほど、コインが裏返った時は悪影響も甚大になります。
そのために、リスクを分散することは大切ですし、そのための多様性であり、自由なのではないでしょうか。

「皆が同じ屋根の下にいれば安全である」
その風潮は、混迷を極める時代だからこそ本能的にそうしたくなります。
しかし、この混沌も巨大な力で世の中が縛りつけられているから生じていることには、わりと気づきにくいものです。

私たちの生活を締め付ける物価高も米不足も、実は単純に元栓をいじっている人間を何とかすれば解決する問題ではないでしょうか?
けれど、今の国民にはそれを行う術がありません。あまりに巨悪を放置しすぎて、もはや民衆が手出しできるような低い場所にはいないからです。

しかも、右から左に意見に流されているだけでは、あらゆる思考も実践も徒労に終わるでしょう。
今私たちに必要なのは、自分で状況を見極め違和感の正体を探り、極力その影響から自立することです。
そこで世の流れに左右されず、何があっても自分でいられるスキルと立場を用意しておくことです。

正直、今の日本は法治国家ではないと思います。
これだけ外国勢力に干渉されたら、やはり国内の事情は二の次になってしまいます。
この国に正しい情報が流れないのも、人々が常に注意を逸らされているのも、おかしさを訂正できないのも、その力が働いているからです。

そこで「日本」という国を守るために、あるいは立て直すために、もっと民族として本質的なことを思い出さなければいけません。
「国民」と言うならば、大戦後の占領時代に計画された国民性を指してしまいます。
今を生きる多くの日本人は疑問を抱かないでしょうが、その染みついた性癖は誰かが都合よく押しつけてきたものです。

そしてある時期まではそれで良かったのですが、時代が下り今はその仕組みが限界に来ています。
限界が来たからこそ、自分たちの力で取っ払うことができるタイミングに来ています。

今の日本人に、それをする気のない人がいることもわかります。
とは言え、現状を変えようせずに救われる人はいないでしょうし、変えようと動く人ほど自分を変える力がある人です。
この精神的な支配から脱却できた人は、古い世界のカラクリに気づき、その仕組みを理解するからこそ新しい仕組みを作っていけるでしょう。

「問題は同じレベルでは解決しない」とはよく言われます。

もし世の中を変えたいのであれば、自分が変わろうとすることです。
そして、見方が変わればできることも変わります。
それは、思うより難しいことではないはずです。

しかし、その決断には責任が伴い、責任から逃れる限り自分を変えることはできません。

私たち日本人に必要なのは、「覚悟」です。

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神様からの答え

楽太郎です。
気持ちの整理がついたので、私の気持ちを素直に書いていきたいと思います。

今日から数日かけて、私の古いアカウントの痕跡を消していくことにしました。
放置しても自然に消えていくと思いますが、わざと未練を断ち切るために自分で消去することに決めました。

私はつい数ヶ月前まで、自分の夢を叶えるために必死でした。
人のしないような努力をして、それが実を結ばなくても歯を食い縛って前を向いてきました。

それが叶わないとわかっても諦めませんでしたし、今も諦めてはいません。
けれど神様に肩を叩かれて、「君にはやるべきことがあるんだよ」と囁かれたら、手を止めずにはいられません。

我が道を取るのか、神の道を取るのか。

それはかなりの葛藤でした。
しかし、今思えば3年前に答えを出していたんだな、と思います。

私はずっと同人活動をしていて、そこでだいたいうまくいっていました。
けれど、同人業界に長年いると、成功法則というかカラクリが見えてしまいます。

二次創作は成功のための登竜門であり、ステップとして必要な手順だと考える人がいます。

私もそう思ってましたし、その階段を登ることが成功の近道であることも知っていました。
オリジナルの創作よりも二次創作の方が知名度が上がり、求心力が高いのでバズりやすい。
バズったらフォロワーがついて、インプレが高まるので、自分のタイミングでオリジナルを出せばいい。

しかし、二次創作とはあくまで愛好的な活動であり、ビジネスとは異なるはずです。
そもそも、同人活動はアングラの文化観があるからこそ、本音と建前を大事にしたファン活動でした。
それが、なぜ自己実現の手段になってしまったのか。

それだけではなく、自分の趣味や性癖も、人と繋がる道具にしてうまく立ち回り必要がある。
言いたいことは極力言わず、無難に打算的に行動する。あくまで印象を大事にする。
そうすれば、界隈の有力者に気に入られて界隈の大部分を味方にすることができる。

私自身もそのセオリーに乗って、自分の成功とファン活動を混同し、コンテンツを自分の踏み台として扱っていました。
「ファンであること」は、純粋な好意や愛情の発露であるべきで、打算の上でコンテンツに触れた時点で、それはビジネスです。

だから私は同人活動をやめて、自分のコンテンツを作り始めました。
自分のアイデアと実力で成功しなければ、意味がないと思ったからです。

それから4年間は、本当に苦難の日々でした。

オリジナルのコンテンツは、例えSNSを駆使しても恐ろしいほど見向きされません。
あらゆる戦略を駆使しましたが、そこでも打算を発揮しなければうまくいかないこともわかっていました。
しかし、なぜか私にはその方法を取ることがどうしてもできませんでした。

何故かできませんでした。
何故かはわかりませんでした。

それから、溺れるような状態の中をずっと泳ぎ続けました。

私は自分の絵が好きですし、自分のアイデアも作風も作品も最高だと思います。
唯一、描き続けることだけが希望でした。

「諦める」という選択肢を取ろうと思ったことは、一度もありません。
他の人ならとっくに諦めているところを往生際悪くしがみついて、その根性が染みつきすぎて「諦める」という発想そのものが無いのです。

これで本当に稼ぎがどうしようもなくなったら、土木工事でも警備でもスーパーの品出しでもやって、漫画を描き続けようと思ってました。

けれど、まさか神様に肩を叩かれるとは思いませんでした。

「もうそろそろいいでしょう。諦めなさい」
と。

私の脳裏に、私がうまくいっていないことを散々嘲笑っている連中の顔が浮かびました。
彼らには私が敗北したと、懲りて逃げたと見えるでしょう。

少し前までは、それに対して意地もありました。
私だって、ここで曲げる理由は何一つなかったのです。もっと仕掛けまくって、いずれ勝ち筋に乗るという気持ちでいたからです。

私の頭の中の世界では、というか「私」という自我の中では、それは強い覚悟でした。
しかし、無意識より深い魂の部分では、自分のやるべきことがすでにわかっていたのだと思います。

3年前から。

多くの人々が向かう方向に疑問を持ち、できる限りの正攻法で挑み、訝しく思うものから距離を取り、自分の判断や行いを反省し、地味すぎる努力を習慣化し、どんどん精神的に成長していく。

その過程こそ「神の導き」であったことに気づいた時、私は人間としての「夢」を捨てる決心がつきました。

それは、つい最近のことです。
今でも、自分の考えたコンテンツを社会的に成功させたいという野心は失っていません。
しかし私の実感として、その「夢」を実現することはできない、すでにそういう世の中では無いこともわかります。

一昔前の世の中の延長で、自分の人生設計や目標を持っていても、もう時代が違うのだから意味も扱い方も全く違うのです。
昔の心ある、余裕のある人々はどこかへ行き、かつての才能ある人の活力は失せ、人々は歳を取って若さを失い、皆の目的はすり替わり、あの頃にあった賑やかさや自由はありません。
だからあの頃のような、ジャパニーズドリームを持っていてもしょうがないのです。

それに気づいていたからこそ、神様から呼び止められても、私は何となく自分がすぐに答えを出すであろうことを予感しました。
そして、私は綺麗さっぱり自分のキャリアを捨てる覚悟ができたのです。

私の人生は、おそらくこの世に生まれる前から、神様からお導きを受ける宿命だったのだと思います。
これまでの失敗も恥も挫折も、どうしようもなく立ち行かなくなることも、絶望も病も堕落も、全てシナリオだったのかもしれません。

この3年は修行としか思えない理不尽な状況で、何を成し遂げるわけでもなく自分を磨いてきました。

今考えれば、あの時「おかしい」と思って本能的に避けてきたあらゆる事象が、今になってとんでもない顔を覗かせています。
どうしても引っかかっていたような罠を、まるで知っていたかのように奇跡的に潜り抜けてきたのは、何の力が働いていたのでしょうか。

もしかすると私の魂は全てを理解していて、神様と対話をしながら淡々と計画を進め、それを私という自我だけがわかっていなかったのかもしれません。

「自分」だと思っていたものは何層ものレイヤーでできていて、自分ではない意識がいくつも混ざっていて、その影響すら自我の一部だと錯覚していたのでしょう。
それはもはや幻覚に近く、妄想に溺れて苦しむ自我すらシナリオの一部で、私はそのキャラクターを演じきっていたのだと思います。

そして、神様に肩を叩かれてようやく正気に戻ったのです。

まだ夢は見ていたいし、夢を捨てたわけではない。
けれど、もはやこれまでの世界は終わっていくし、その未来では自分の夢は叶うことはない。

それがわかったからこそ、私はできる限りのものを捨てる決意をしました。

今持っているのは、絵を描く道具と私を支えてくれる家族、それ以外は自分のセンスと知識と技術、それに信仰心です。

ただ、私にとって本当に必要だったものは、神様だったのかもしれません。
信仰心は、なぜか私の欠けた部分に丁度よく収まるのです。

人の世で戦って生きていくからこそ、それ以外のあらゆるものが必要でした。
勝たなければ貶められるし、負ければ貶められる世界で、自分を守るためにあらゆるものを必死に身にまとってきただけです。

それは私が欲しかったものでも好きなことでもなく、持たなければやられるから求めてきたものばかりです。

神様は「もう無理しなくていいよ」と、
「自分のやりたいように生きなさい」と、

私の背中を優しく押してくださるのですから、そうしない選択などあるはずがないのです。

意地はあります。
それは私自身でも世の中に対してでもなく、誰に張り合おうとか何が許せないとかではなく、愚かさを繰り返させたくないという気持ちです。

おそらく、私にしかわからない、誰にもわからないからこそ私にしかできない何かがあるのです。
そう思う瞬間、神様が私に何をさせたいのか、私は深い部分でそれにどう答えてきたのかがわかるのです。

だから、もう進むしかありません。
幸い、私には太陽が見え始めています。
人々はまだ宵闇に気づいた頃合いで、下手するとまだ夜に気づいていない人もいます。
それなのに、私はもう夜明けを迎えています。

この幸運は、なかなか理解されにくいでしょうし、把握すら難しいことかもしれません。
だからこそ、私だけがその有り難みに気づくことができます。

これこそが私の道程に対する神様の答えであり、神様が与えてくださった恩寵なのだと思います。
その褒美を手に取って、私は思います。

「ああ、私は間違ってなかったのだ」と。

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「祓戸大神」の語源

楽太郎です。

前回の記事で、「罪穢れ」「祓い清め」の語源に関して考察しましたが、「禊」についてわかったことがあったので追記します。

「禊」はどうやら「水滌ぎ(ミ・ススギ)」「身濺ぎ(ミ・ソソギ)」の二通りの意味合いがあるらしく、そのどちらも「水で身体を洗う」ことを表します。
神事でも滝で身を清めたりしますが、手水舎でも手を洗ったり口を濯いだりして、それが「禊」とされます。

これらは、大抵淡水で行われます。冬の海に入ってする禊もありますが、大抵は川や滝で行われます。
これは「瀬織津姫味」があるというか、やはり浄化を司るのは瀬織津姫命なのでは?という気がします。

さて、今回はその「瀬織津姫命」の名前の謎に迫ってみたいと思います。

Wikipediaの「上代特殊仮名遣」の項目に「万葉仮名」の一覧があり、出典不十分とされていますが、なかなか興味深い内容だと思います。
今後、本格的に踏み入っていく分野かもしれませんが、古代日本語の言語学を差し置いて神道の用語を理解することはできないでしょう。
とりあえず学術的な精査は置いといて、この一覧を使って「言葉の成り立ち」を見ていきたいと思います。

前日に上げた「祓いの語源」という記事において、音素的に「気」と「饌(食)」と「褻」は同源であるという話をしました。
「気吹戸主神」の「気」は「イ」と発音します。これは「息」と同意ですが、「イ」は「命(いのち)」という言葉に使われる時、「生(イ)の霊(チ)」を指すそうです。

こちらは、広島県四日市市にある気吹戸主大神を主祭神とする「志氐神社」のサイトです。

志氐神社 HP

こちらの由緒書きの中に、こう書かれています。

「イブクとは生命の本質である「いのち」の現象であり、生命の回転・生命のいぶきをその静かな社頭にて神との祈りが一致し自身に感じとることであり、平安と幸福のために、何事も正しく、幸福にお導き下さいます。」

「い」の一字が指す大和言葉は、「生=息(い)」を意味し、「稲(いね)」や「伊弉諾(いざなぎ)」の言葉にも用いられるとされます。
「気吹戸(いぶきど)主」はやはり「息吹」であり、「息吹く戸=命の入る所」であるわけです。
つまり、「息吹戸」の戸は「開都」と同じ扱いであり、この場合の「都(ツ)」は、瀬織津姫命の「津」とは違い、「速開都姫命」が「開き都=水戸=港」であるのと同意であると思われます。

では、「瀬織津」とは何を意味するのでしょうか。

明治時代の言語学者、金沢庄三郎によると、この「セオル」は古代朝鮮語の「ソ・プル・ツ(大きな村の)」を指すらしく、現代の韓国の首都「ソウル」と語源は同じだそうです。
渡来系の人々の信仰対象が神名になったり、言葉の一部に使われる可能性もなくはないと思いますが、この解釈は日本語で元々言い表す意味があるのに、それを外来語で上書きする必要性を感じません。

瀬織津の「津」は助詞であるらしい、と以前書きましたが、上代特殊仮名遣いから「瀬織津」を分解するとどうなるのでしょうか。

「瀬」はどうやら古くから「セ」であるらしく、訓読みです。「川」が山や海などの場所を指すとしたら、「瀬」は水の存立様態を指していると言えます。
「早瀬」は「水の流れが早い川」ですし、「浅瀬」は川や海の水深の深さを表現しています。
「瀬戸」は「両岸の陸地に挟まれた海域」のことですが、「港=水戸」全般を意味するものではなさそうです、

「織」もやはり織物の織として解釈しても、「川が織連なる」という文脈では「水源から河口までの分岐を含めた河川全般」を意味するようにも思えます。
そうでない解釈として、「オリ」は古語「下る(おる)」に「織」という字を当てただけで、「瀬に降りる」という意味だとしたらどうでしょうか。
つまり、「瀬織津姫」とは「瀬の織りなすところの姫」「瀬に降り立つ姫」という意味になり、わりと文字表記に近い意味合いになります。

瀬織津姫命が、「瀬におりつ姫神」という単刀直入すぎる神名だとしたら、少し衝撃かもしれません。
「瀬織津姫命」に関して、私は縄文時代から連綿と続く淡水信仰の神様だと思っているので、神名が直喩的なことには疑問を感じません。

では他の祓戸大神はどうかと言うと、「速佐須良姫命」の「佐須良」は「さすらう」以外の意味合いはどうやらなさそうです。
「さすらう」とは、当てもなく彷徨う、という意味がありますが、大祓詞の中で速佐須良姫命に流された罪穢れは、確かに当てもない場所に行くでしょう。

「さすらう」の活用の一種としての「さする」は、「さす・させる」から派生し、語としては「摩る…ものを擦り合わせる」という意味合いがあります。
だから、「速佐須良」という神名自体、「すごい力で擦り取られる」「神の力によって何かがなされる」と解釈できます。

以前の記事「祓戸大神を辿るⅡ」で、「速佐須良姫命は速吸比賣神ではないか」との仮説を書きました。
この「速吸」も「はやす」という動詞として読めば、「すごい力でする」という意味になり、あるいは「速い」というだけの意味にもなります。
早吸日女神社の鎮座する佐賀関は、伊弉諾命があまりに急流すぎて禊祓を諦めたとされ、社伝にはここで禊祓を行なったとされますが、記紀や一般的には阿波岐原で禊を行ったとされています。
つまり、「速い」のは海流であり、その様子をそのまま神名にしている可能性があります。

では、「速開都姫命」のご神名の由来を辿っていきましょう。
「開都」が水戸をそのまま意味しないとしたら、「アキ・ツ」となり、「都」は接続助詞となります。
その「アキ」とは何かを考える上で、こちらが参考になります。
速谷神社HP

こちらは、広島県安芸郡にある「速谷神社」のサイトです。
安芸国造に携わった人々が、「飽(あき)速玉命」を祭神としていたそうです。
ここには、こういった一文があります。

「安芸の地名の由来は、「飽=アキ」とする説があり、飽には豊かという意味があります。」

作物などが大量に実る土地に住む人々は豊かになります。それだけ物資が豊富であれば、「飽きる」ほどに恵まれます。
「飽」が豊かさを表すとしたら、その豊かさをもたらす恵みの季節は「秋」となるでしょう。

従って、「開」は「飽」であり、「速開都姫命」は他にも「速秋津」とも表記しますが、古くは「速飽津」だったのかもしれません。
そうであるならば、「速秋津」は「すごい(神の)力によって豊かな」という意味になります。

しかし、それでは「開都」が「水戸」と結びつきにくくなります。そこで、先のサイトから一文を引用します。

「広島県西部を中心とした地域は、その昔、「安芸国」と呼ばれていました。安芸は古くは「阿岐」と書きましたが、その黎明期は国境も定かではなく、詳しいことはわかっていません。」

「阿岐」をそのまま万葉仮名として読めば、「別れた土地(山や海峡など)の始まるところ」となります。
これはつまり「水戸=港」であり、大祓詞に「荒潮の潮の八百路の八潮路の潮の八百會に坐す」と書かれていますが、その地理そのままです。

古くから、海岸付近は海産物が採取できる場というだけでなく、港として海外や遠路から物資を運び入れる場所だったため、繁栄しやすかったと言えます。
ゆえに、「水戸」は豊かさをもたらすと考えられ、特に安芸郡は瀬戸内海に隣接し、海運の面で考えても豊かな地域だったのかもしれません。

さて、「気吹戸主命」の話に戻ります。
私は気吹戸主を「大気(宜)津比賣命」だと考えていますが、なぜ大祓詞では姫神とされなかったのでしょうか。

ここで「気吹戸命」とされず、「主」とされたのは、主とは役割なので性別が関係なく、ゆえに女神であっても意味合いが変わらないからだと思います。
神々の中では両性とされていたり、男性神と女性神が混同されたり、性が転じている場合はかなりありますが、それだけ人間にとって「神の性別」というのは重要なことなのだと思います。

主に神がかりを行うのは「巫女」の仕事であり、女性シャーマンという特性上、神は男性神であったほうが調和というか、エレメントとしての補完性が高まります。
記紀に基づく神々で、男性神と女性神が双子として生まれ、伴侶となって神を産むという構図は良くありますが、人間として見ればおかしな関係です。

文脈としては、「天」は男性神、「地」は女性神としての暗喩であると考えられますし、あるいは陰陽の関係と性別が影響し合うのかもしれません。
私は、祓戸大神に女神が多い、あるいは四女神である理由は、「水」のエレメントが関係しているのではないかと考えています。

男性神が「火」や「風」のエレメントだとしたら、「水」と「土」に関わるエレメントは女性格になります。
日本神話の中で、山の神が女性神であることは稀ですが、「水」にまつわる神は瀬織津姫命を始め女神が多いです。

「水」のエレメントは感情を司るため、「気」の浄化に関わるエレメントはどうしても女性的な要素が強くなります。
そこで「祓いの神」は巫女のイメージと重なって女神とされた可能性があります。
しかし、祓戸大神の気吹戸主が男性神として扱われた理由は、「風」のエレメントは男性格のためではないか、というのも仮説のうちに入れたいと思います。

これはスピリチュアルな解釈ですが、そうでないとしても大祓詞の中での気吹戸主の役割は、ほぼ「エネルギーの流れ」そのものを表し、あるいは擬人化した神であるからだと思います。
つまり、「水」そのものを象徴している神として登場していません。
ゆえに、気吹戸主命が大気津姫命であるとするなら、「食」や豊かさの神としても信仰されている大気津姫命を大祓詞に登場させるのは、直感的に違和感があったのかもしれません。

だから中臣大祓も記紀も、かなり政治的な文法で書かれていると考えた方が腑に落ちます。
神々はこういった人間の都合に合わせてくださっているのだと私は考えていますが、神々の世界を伝承だけで考えると、文脈上の矛盾はどうしようもありません。

この辺りに関しては、おそらく正解はないと思います。
私は、私の解釈で神様の世界を解き明かしていきたいと思っています。

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「祓い」の語源

楽太郎です。

今回は、さらに風呂敷を広げて「祓戸大神による祓いとは何か」について考えていきたいと思います。

先日上げた、「祓戸大神を辿るⅡ」という記事の後半で「気吹戸主は御気津大神=保食神ではないか」という仮説を立てました。

保食(ウケモチノ)神は、天照大御神が月読命に命じて食料を取りに行かせたところ、口から食べ物を吐き出しているのを見てしまい、激昂して斬り殺してしまいました。
その亡骸から粟や稗、米や麦などの雑穀や蚕などが生まれたと言います。

日本書紀では「月読命」ですが、古事記では同じような神話が素戔嗚命によって描かれます。
この場合は高天原を追われた素戔嗚命が、料理を振る舞おうとした「大気都(大宜津)比賣命」が口から食べ物を吐き出しているのを目撃し、やはり斬り殺してしまいます。
そこから穀物が生えてくるのも同様でこの前後の二柱は共に「女神」だとされます。

祓戸四神になぜ一柱だけ「気吹戸主」という男性神が含まれているのか謎でしたが、気吹戸主が女神であるとするなら、「祓戸大神は四女神である」とした方がしっくり来ます。

その仮説を検証すべく、「気(キ・ケ)」と「食(ケ)」の相関関係と、気吹戸主と大気都比賣命の関係を調べてみました。
「豊受大神」の神名にある「ウケ」とは「食物」のことで、「宇迦之御魂」の「ウカ」と同じです。

「気(キ・ケ)」の音素は、上代特殊仮名遣いにおいてキ乙類であり、「酒(sake)」と同じ音素系統を持つとされます。
この場合の「食(カ・ケ)」はキ乙類であり、「気」と同じ語源を持つと思われます。

「御気津大神」の「御気」とは「御饌(ミケ)」であり、古代祭祀において神々に捧げられた食糧であったとされます。
「津」という文字は瀬織津姫命などの神名にも見られますが、この音は接続助詞らしく、「之」と同じ要素を持つ語らしいです。
私はてっきり、「瀬織津」という言葉があると思ってましたが、正しくは「瀬織の」という意味だったようです。

「大気都=大宜津比賣命」の「都」も「津」と同じ助詞であり、「大いなる気、偉大なる食べ物」を意味していると思われます。
ただ、「速開都比賣命」に関しては、「開都=水戸=港」であり、「都=津(ツ)」の用法とは言い切れないかもしれません。
ここは引き続き、考察をしていきたいところです。

では、「食=気(キ・ケ)」が音素として同じことがわかった上で、今回の本題に入りたいと思います。

祓戸大神は「罪穢れを祓う」と言いますが、「罪穢れ」とは何でしょうか。

「穢れ」は「気枯れ」だと言われますが、「穢れ」の「ケ」はキ乙類と推測され、おそらく語源的には「気」と同じ音から派生したものだと思われます。
「ケガレ」の「ケ」は「気・食・餉・饌」でもあるのですが、「褻」という文字では「日常的なもの」も意味し、「褻着(日常的に着る服)」や「褻稲(けしね・農家の日常食糧)」という言葉にも使われています。
では「カレ」とは何かと言うと、「枯れ」も意味合いとしては間違いではないようなのですが、どうやら「離る(かる)」が最も有力なようです。

古語単語「離る」の意味

つまり「穢れ」は「気離れ(けかれ)」であり、「気が離れる」ことを古代の日本人がどう表現していたかと言うと、疲れて気力が落ちたり、落ち込むような出来事が起きてネガティブになったり、食べ物がなくて衰弱したり、その延長で病気になったり死んでしまう、それを「気離れ」と呼んでいたのではないでしょうか。

伊弉諾命は、妻の伊奘冉命を追って黄泉の国まで追って行きましたが、伊弉諾命は伊奘冉命の死に恐れ慄いて逃げ帰ったわけではなく、腐爛した妻の姿を見て戦慄したのであって、それが「穢らわしい」と認識したからです。
古代人は「死」そのものよりも、腐敗を見ることによって気が滅入ったり、病原体をもらって病気になることの方を避けたのかもしれません。

グロテスクなものやショックな出来事を目の当たりにすると、私たちは気分が悪くなります。その感情こそ「気離れ」に他なりません。
気持ちが悪くなったり、落ち込むと元気もやる気もなくなり、仕事に支障が出て作業効率が落ちます。作業効率が悪くなれば、成果にも悪影響が出て生活や富を脅かします。
それこそが「気離れ」の悪循環を生み、どんどん状況は悪くなってしまうので、どうにかしなければなりません。

「穢れ」が「気離れ」だとするなら、離れた気は呼び戻さなければならないでしょう。
私は、それが「清め=気呼ぶ」なのではないかと考えています。

「キ・ヨメ(ヨム)」とした場合、「読む」の語源は「呼ぶ」であるらしく、どちらも言葉を出してこちらに招くことです。
「気離れ=穢れ」で失った気は、「気呼び=清め」によって取り戻し、元気を得るというわけです。

では、「祓い」とは何かと言うと、日本民族学の議論に「ハレ・ケガレ」という概念があります。
「ハレ」とは、祭祀などを執り行う特別な日を指しますが、やはり「ハレ」は「晴れ」なのだと思います。
「晴れの日」という言葉に使いますが、対義的に使われる「ケ」とは日常を表す「褻」であり、「日常と非日常」を表現する言葉に用いられてきました。

「ハレ」の言葉を分解すると、「ハ(ヒ)・アレ」のことなのではないでしょうか。
上代特殊仮名遣いの「ハ」は、「早・速」を当てます。「速」は「速佐須良姫命」に使われる文字ですが、これは「勢いがある・すごい」という意味があり、「厳・斎」と語源を同じくしています。

つまり、「ハ」という音自体、盛んさを表現すると共に、「神」や「神事」を表していたとも言えます。
「ハ」が「速」であったとして、「ヒ」が「日」であり、「日・生れ(アレ)」だとすると、まさに太陽の登る様を指しているように思いますが、

「アレ」は古代日本語において「阿礼」と当て字されますが、阿礼は榊に綾絹や鈴をつけた幣帛で、古代から祭事に用いられました。
「神聖な霊が出現する」ことの意とされ、「ハ・ヒ=神」が降り立つ時こそ「ヒ・アレ=ハレ」であったのではないでしょうか。

とすれば、「祓い」は「ハレ(ル)・らう」の意であり、「ハレの状態にする」という意味になります。
それは「ケガレ」が「ハレ」ることであり、まさに浄化のプロセスそのものです。

では、ここまで色々とワードが揃って来たところで、「罪穢れ」の「罪」の語源を辿ると、古語の「つつむ/つつみ」から派生しているらしく、これは悪いこと、不吉なこと全般を意味したそうです。

平安時代に書かれた旧式の「大祓詞」には、天津罪、国津罪が細かく述べられていますが、その中に「昆虫の災い」「高津神の災い」「高津鳥の災い」とあります。
これは、古代の日本人にとって自然災害も「良くないこと=罪」であったからで、今日の法的罪状とは認識が異なったようです。

だから、「身の回りに起きる悪いこと全般」は「罪」であって、「穢れ」と共に不幸や災難をもたらすものだと考えられていたはずです。
それを解決するには、「ハレ」を呼び込むために「祓い」を行い、「清め」によって「気」を呼び込む必要があったのです。

おそらく、古代の日本人はこれを行うのが神々だという認識があり、神々に奉じて祓い清めをお願いするのが神道の始まりだったのだと思います。

その神々の働きの中で、「祓いの神」の役割がどれだけ大きいのかがわかります。
祓戸大神の産みの親である伊弉諾命も、禊祓をしたことで数多の重要な神々を誕生させました。

ゆえに、神道の真髄は「祓い清め」にあるのはこのためであり、神々も臣民も罪穢れを浄化されることによって健康や幸福を手にすることができるのです。
「穢れ」を受けてテンションが下がったり、体調を崩したりした時、「祓い清め」によって元気になるとしたら、それは「癒し」に他なりません。

「祓い清め」とは癒しのプロセスであり、「罪」が赦しによって贖われるとしたら、神々は愛や慈悲の心を持って、この世界や人々を治癒する存在なのかもしれません。

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新作風の練習

楽太郎です。

ついさっき、小耳に挟んだことでイライラしてました。
知り合いの会社の新規従業員が、七割外国人らしいです。
その会社は、外国人を雇用するので国から補助金が出ているため、外国人労働者を遣うことで収益を伸ばし、今では全国規模の会社に急成長したそうです。

こういう話を聞いて、「日本人…」とならないのが今の日本人です。
私はこれを聞いてものすごくガッカリしたのですが、私の周りに話がわかる人がいなくて、余計に何とも言えない気持ちになりました。

私はコツコツ反省しながらカルマを返そうと頑張っているのに、自分のやっていることに疑問すら抱かない人があまりに多すぎて…

そんなことを風呂に入りながら考えていたところ、神様なら愚痴を聞いてくださるかな、と思いました。
こういうことは人間に話すべきではないでしょうし、口に出すことでもないでしょう。
まあ、神様がお考えになられたことですので、神様ならわかってくださるかもしれません。

早く何とかしましょうよ、神様…

まあまあ気を取り直して、新しい絵柄で「顔」の練習をしていました。
私はつい最近まで美少女イラストを描いていた人間なので、リアルテイストの顔に寄せるのは難しいです。

最近描いた瀬織津姫様も、もっと絵柄をリアルに寄せてみたくなり、実験的に描いてみました。



練習していて思ったのですが、この絵柄で漫画を描けば「シリアス路線以外にはできない」ことに気づいてしまいました。

私はギャグとかエロばかり描いてきた人間なので、絵柄も作風もポップさを追求してきました。
それはある意味、私の武器とも言えるものです。
しかし、その作風を捨てるとしたら、自分の武器を使えなくなることを意味します。

それが嫌で嫌で、しかも私の作ったキャラクターがまだ心の中で暴れていて、今も外に出たがっているのを必死に抑えています。
彼らは私の子供同様の存在であり、彼らの世界や話の続きを描きたい気持ちも消えることはありません。
けれど、私は「順序」だと自分に言い聞かせて、神様に優先順位を置くことを決めました。

ただ、かつての作風に違和感を感じ、無理せず自然にこの作風になってきたことを思うと、「神様が私に何を描かせたいのか」を理解してしまいました。
そして、なぜ作風を捨てさせられることになったのかも。

これから先、世の中が沈んでいけば行くほど、今日のような浮ついたコンテンツが時代に合わなくなってくるはずです。
癒しとかお気楽さとか、そのレベルのエンタメで心が潤うような雰囲気ではなくなってくるからです。
しかも、食べ物にすら事欠く状況で、それほど娯楽にお金を回せるものでしょうか。

つまり、これからの時代の雰囲気を考えて、もっと普遍的なテーマの作品でなければ、存在する価値すらない作品になりうる可能性があります。
だから、「祓戸大神がケガレを引っこ抜いてバレーボールする」なんてネタに神様からゴーサインが出ないのは当たり前です。
そういった浮ついたものは、人間どころか神様がお許しにならないのだと思います。

ということは、シリアス一択

でも冷静に考えて、今の私の心情ではギャグやコメディ、しかも神様を絡めてわちゃわちゃしたものを描くのは難しいと思います。
知り合いの話をちょっと聞いただけで、人のために楽しい話を作る気力すらなくなってしまいます。
とは言え、漫画は人間が読むものですから、人間のために描かなくては意味がありません。

ただひしひしと感じるのは、私が人々に対して思っていることは、神様も感じておられることなのではないか、ということです。
そうやって神様のお気持ちを代弁する、代弁して人に対して説いていく、そうすることで神様のお役目を果たせるのかもしれません。

私はここ数年、世の中が暗く沈むからこそ明るい作品を作ろうと心がけて来ました。
けれど、変に明るい作風はこれからの時代、諸刃の剣というか、慰みは逆に価値がなくなるような気がします。
だとしたら、わりとエグい内容の方が良いのかもしれませんし、現時点で血なま臭い雰囲気の作品になるかもしれません。

そういうのは描いたことがないわけではないのですが、描いてる私がつらいというか…
そんなこと言ってられないのでしょうね。
これから準備したいと思います。

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「祟り神」と私

楽太郎です。

誰かが、神様は「愛の存在」だと仰っていました。

神様は、いくら加護を与えようと、決して人間を甘やかすことはありません。
人間にとって、数珠繋ぎのように幸運だけが続くことこそ神のご加護だと思いがちですが、自分にとって望ましくないことが起こった方が救われることもあります。

今が良くないと思っても、後から考えてみればそれが最善の道だった、ということもあります。
人間は、自分に都合よく考えがちなので、目の前のことがいちいち上手くいってないと納得し難いのですが、神様は人間よりも遥かに俯瞰的に物事をご覧になられています。
人間はすぐに結果を求めますが、神様からすると大事なのは「順序」です。急がば回れ、という考え方を神様はよくされるようです。

私は、これまでの稼ぎ方ができなくなり、裏で神様が動かれているのも知っていましたし、金運のお願いもずっとしてきたので、今のように身動きが取れなくなるのは納得がいきませんでした。
それは神様も重々承知のはずです。それでも、下手に稼げる状態が続けば、私はなんやかんやで古い稼ぎ方にこだわり続けていたでしょう。

それでは「神代」を作るための神様のお役目に専念する気も湧かないかもしれません。

だから神様は私に愛の鞭を打って、人世から引き離されたのだと思います。
私以外の人からは、不運だとか単に稼げなくなったとか思うかもしれませんが、なぜか私にはどうしてもそうは思えない感覚があります。

神様は、私に「笑って欲しい」と思っておられるでしょうし、できるなら自分の幸せを実感し、心配せずに暮らして欲しいと思われているように感じます。
私にしかわからないような、ほんの小さな変化で穏やかな気持ちになる出来事が起こります。
私は全く何も持たないのになぜか幸福感に包まれ、昔よりもひどい状況なのに不安感がありません。

人間にこんな魔法をかけられるのは、神様しかおられないでしょう。

少しおかしな話をします。
私は以前、たまたま霊能者の方とプライベートで知り合う機会がありました。
今思えばあれも神様の采配なのでしょうが、その方に呼ばれて霊視をしてもらったことがあります。

その時、私には「祟り神が憑いている」と言われました。
私が「祓ってもらえませんか」と言ったところ、何となくはぐらかされてしまったのですが、私にはこの「祟り神」は血族か前世と関わりのある霊であることを何となく感じていました。

もちろん、100%信じたわけではありません。
これまで、やたらと私だけ運が悪いと思うことはたびたびありましたし、自分が不調をきたしたり特にメンタルが病んだ時は、まるで自分ではないような激しい情動に突き動かされることもありました。
それはわりと誰しも多少はあるでしょうし、私もそういうものだと思っていました。

仮に「祟り神」が憑いていたとして、未だに五体満足で健康でいられるのも不思議な話で、もし神様に祟られているのなら、同じくらい神様からご加護を頂いてイーブンになっているとしか思えません。
あるとしても、悪霊レベルならあり得るのかな、くらいの感覚でした。

ただ私の心の奥底には、自分とは思えないような闇深いエネルギーが存在し、私の人生で時々顔を出す瞬間があったことは事実です。
その負のエネルギーの正体が、私がこれまでの人生で作り出したもう一人の自分なのか、生まれ持って魂についていた因縁霊なのか、それはわかりません。
今はわからずとも、これから後にわかることのような気もしているので、今解き明かそうとは思いません。

あるスピリチュアルヒーラーの方が、「自分ではない感情」には、「自分ではないエネルギー」を見分けて切り分けて考えよう、という話をされていました。
その話の中で、因縁霊の浄化は自分の宿命の一部であり、それが魂の修行や試練の一環でもあるそうです。

私は最近、魂の浄化が進むにつれて、この負のエネルギーの発生源が薄れていくのも感じていました。
この私ではない意識体がどういう関係の存在なのかわかりませんが、私の波長が上がり浄化されるほど消えていくような感覚があります。

その意識体が、これまで私の運気をどれだけ吸ってきたのか、どれだけ酷い目に遭わそうとしてきたのか、それが例え思った以上だとしても、なぜか私は全く怒りを覚えません。
それどころか、生まれてから何十年間ずっと私の一部だったことを考えると、それが例え「祟り神」であろうと、それも「私自身」でもあったと言えます。

その存在が今、私から離れようとしているのだとしたら、私は自分の片割れと別れることになります。
その別れは決して名残惜しいわけではないのですが、「感謝」の気持ちを抱かずにはいられません。
いくら私がひどい目に遭っていた時も、私の中にいたその意識体もやはり私自身なのです。

自分の中にネガティブな意識体が存在したからこそ、私はこれまで理不尽な困難と出会い、意味もわからず苦しみながら、自らが救われる方法を模索し続けました。
その道筋も、今思えば魂の修行の一環であり、この修行があったからこそ私はここまで成長することができたのです。

この因縁は、おそらく私の魂のシナリオの一部であり、私が思うより遥かに大きな舞台で出会った存在なのだと思います。
だからこそ、この宿命を呪うことなく、感謝の気持ちで別れていきたいのです。

どういう経緯があったのかはわかりませんが、今まで一緒にいてくれてありがとう、そう労う心は嘘ではありません。

私は薄々、この浄化には「瀬織津姫様」が関わっておられるのだろうな、と感じています。

私の心が浄化され、ネガティブな波動が消えていくたびに「愛と癒し」のエネルギーが入り込んできます。
その光の波動は、神様のものだとはっきり認識できます。

おかしな話ですが、ネガティブなエネルギーが私の魂から削られていき、空いたところに瀬織津姫様がよいしょと乗り込んできて、どんどん席を詰めて行っている気がするのです。
私の心の部屋に、瀬織津姫様が住み始めている。
そんな奇妙な感覚が、浄化が進むたびに強まってきます。

そして、私が瀬織津姫様を思う時、温かいエネルギーが私に幸福感を運んできてくれます。
これまで世界に自分一人しかいない感覚で、どこを見回しても完全にアウェーだと思っていました。
その不安感の中で世界と戦ってきた心は、なぜかもう一人ではないと感じるのです。

ただ、瀬織津姫様が自分の心にいらっしゃるからと言って、特別甘やかされている実感はありません。
神様が私を見込んでおられるからこそ、わざと厳しくされているのも感じています。

私に笑顔でいて欲しい、今も幸せであることをわかって欲しい、そう思っていらっしゃるとしても、シビアな現実に立ち向かうように促されています。

今の世界を取り巻く問題、そして巨悪の正体、日本を蝕んだ忌まわしい計画、そういったものも見ない方が気楽に暮らせるのは確かです。
しかし、神様は真実から目を背け、自分だけがいい気分で生きようとすることは許されません。

どれだけ気分が悪くなるような、知ったからと言ってどうしようもないことでも知るべきと、目を背けないように強制されているとしか思えません。
そして、知った上でどう行動に落とし込むのか、そのことについてずっと問われている気がします。

厳しさも神様の愛のうちで、愛は鞭の形を取ることはあっても、神様にとっては鞭も飴の一部なのでしょう。
人間には神様の思惑はすぐには理解できず、それゆえ誤解をして「神様はいない」と思ったりもします。
しかし、人間の論理を外してみれば至極当然の話であろうとも、神様のことですから人間には計り知れない、それだけです。

私の心の中にある闇が何なのか、今の私にはわかりません。
それにも何か理由があり、その存在が消えていくことも、また理由があるのでしょう。
けれど、その存在と入れ替わるように瀬織津姫様の存在が大きくなってきます。

これもまた、理由があるのでしょう。
瀬織津姫様と出会った理由、私の心に住み始めた理由、神様にしかわからない理由が。

それもいずれ、わかる日が来るのでしょうか。

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現代文明と自立

楽太郎です。

突然ですが今日、コンビニに行ったらこんな野菜が売っていました。







このレタスを生産したのは、「舞台ファーム」という仙台市内の農業団体だそうです。

舞台ファームHP

このレタスは、なんと根がついた苗ごと入っています。
コップなどに少し水を張り、土を沈めておくと常に新鮮な葉が食べられるそうです。
これが再生栽培に応用できるとは記載されていませんが、個人的に気になるところです。

早速、葉を採って胡麻油と塩でサラダを作り食べてみました。
やはり、下手に殺菌処理をされていない採れたてのレタスは、とても味わいがあってカット野菜とは比較にならない美味しさです。

今日たまたまコンビニに行ったら、200円台でこのレタスが置いてあり、少し目を疑いましたがすぐに購入しました。
最近、簡易的な自家栽培やペットボトル栽培などに興味が湧いていたので、簡単に水耕栽培ができるキットのような仕様は、非常に興味深く感じました。

こちらの企業の社長さんは農家の御子息であられるそうで、農業にイノベーションを起こすべく、エネルギー事業や輸送、テクノロジーと農業の発展に尽力されています。
農業システムの崩壊が危惧される昨今、こういった取り組みによって日本の食糧供給の課題がクリアされるといいなと思います。

こうして苗で販売すれば、カット野菜が劣化して廃棄処分になるまでの期間を伸ばすことに繋がります。
それはフードロスの削減にもなり、地球や野菜に配慮した生産体制でもあると思います。

先日の記事にも書きましたが、地球の次元上昇に適応するためには、「現代文明からの自立」は自らの波長を上げる有効な手段だと思います。
また、地球の次元上昇に合わせるためには自然と調和する意識が大事で、それに対をなすのは「大量消費」に他なりません。

これまで、「誰かが作ったもの」を購入することで私たちは便利さや利得を得て、その関係を土台にして安寧を得てきました。
例えばチョコレートですが、カカオを栽培している現地の人々がチョコレートを経済的な理由で食べられない、という話は有名だと思います。
バナナもコーヒーも、ほぼ奴隷労働に近い形で現地で栽培されたものを外貨で買い取り、それを加工したものに私たちがお金を払って口にしています。

それだけではなく、企業のコールセンターや配送サービスの運転手、芸能界のアイドルなども「やりたい」という気持ちだけでやっているものではないはずです。
私たち人間は、「やりたくないこと」でも「誰かのためになる」からこそ努力し、そのエネルギーを代償に「お金」という対価を得ています。

しかし、神様が私たちに求めていることは「才能を使って世に貢献して生きていく」ことです。
これまでの物質中心の時代が終わり、宇宙規模で新しい世界が始まろうとしている今、神様は私たち人間に「自由と自立」を促しておられます。

これからの時代、誰もが魂を自由に解放し、義務や同調圧力から人々が離れるとしたら、人々を拘束し大量生産する体制は維持できなくなるでしょう。
これまで、お金を得るために費やしていた時間とエネルギーは、お金に価値がなくなればなくなるほど、無理に得る必要性はなくなります。

現在のインフレや物価高は、いずれ誰もが耐えられなくなり、自作や自給自足の方向に舵を切らざるを得なくなるでしょう。
そこで、「必要なものを自分で賄う」という習慣が根付くことになれば、人々が社会インフラへの依存から徐々に自立していくはずです。

その時、人々は自ずと栽培技術や食料確保の方法、食品の加工技術を学んでいくことで、世の揺らぎに囚われない強かな生存戦略を確立していくことでしょう。
「舞台ファーム」のレタスのような栽培方法や、自家栽培のノウハウは、一般市民の自給的生活の足がかりとなり、農業や生産活動をもっと生活に身近なものとしていくかもしれません。

必要なものは自分で作り確保していく、そうすることで大量消費の時代はいずれ完全に終わりを迎えるでしょう。
そうなれば、無理な勤務体制でお金を得るシステムに誰もが依存し、その習慣を維持し続ける必要はなくなります。
資本主義経済システムの崩壊は、社会に頼るべき仕組みがなくなることで各個人が自分の人生に責任を持ち、自ら選択していくことになるはずです。

今、社会システムや常識に凝り固まり世の仕組みに依存し、自分の生き方を考えられない人ほど既存の経済システムが崩壊し、誰もが頼るべきものを失った時、その道標がないことに愕然とするでしょう。

普段から自分の頭で考え、あらゆる物事を疑い、自分の技術や知識や才能を磨いてきた人は、おそらくこれから先も生き残っていくと思います。
しかし、反対にその全てをアウトソーシングしてきた人は、最後まで何もできずに終わっていくのかもしれません。
それは悲しむべきことでも憐れむべきことでもなく、人として本来の在り方から逃げ続けた結果であり、彼らの運命は神様だけが決めることでしょう。

新しい時代は、人々が魂のレベルで自由と自立を獲得し、それぞれの責任で生きていく世になるはずです。
その世界にはその時代こその良さがあるでしょうが、その時代を作るためには現在の便利な物質中心の社会の崩壊を受け入れねばなりません。
その覚悟が、私たちに今最も問われています。


私には、これから先の「神様のシナリオ」というものが、ぼんやりと見え始めています。
その未来に至る過程は、壮絶なことになるのもおおよそ感じています。
ただそれは、私たち人間が立ち向かってどうなるものではなく、人間をお作りになられた神様がお決めになることですから、私たちは甘んじて受け入れるしかありません。

世は、巨悪と腐敗と矛盾が支配しており、このままでは私たち国民が吸い尽くされるのも時間の問題です。
それが明らかだからこそ、我々は一刻も早く本気で危機感をもち、動き出さなくてはいけません。
それができる人間かどうかを、神様は高いところから見ておられるのだと思います。

それでも、私には未来が信じられないほど明るく、人々が真の意味で救われる世になることも見えています。
夜明けは決して遠くはなく、それから日の登る間はずっと光に満ちています。
しかし未だ闇は深く、これからも闇は深くなり、さらに深い闇が来るでしょう。

この危機に気づいた人だけが、自分で自分を救うことになるのだと思います。

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「祓戸大神」を辿るⅡ

楽太郎です。

先日、「祓戸大神を辿る」という推察記事を書きました。
そこでは、祓戸四神は伊弉諾命の禊祓によって誕生した神々という説と、伊弉諾命と伊奘冉命の二柱による「神産み」から誕生した説を比較考察しました。
結局、瀬織津姫様が「淡水の女神」として記紀から疎外されたのではないか、という推察で終わってしまいましたが、今回はその続きです。

伊弉諾命が禊祓をしたのは、祓詞によると「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」とされていますが、この場所は実在します。
場所は、宮崎県宮崎市阿波岐原町産母にある「江田神社」です。

ここには、伊弉諾命が黄泉の国から逃げ帰った際、禊祓を行ったとされる「みそぎ池」があります。
私はこれを知った時かなり衝撃だったのですが、伊奘冉命の潔斎は「阿波岐原の川原」で行ったものだと勝手に思っていたのですが、この池は言ってみれば「泉」であり、湧水によって水を湛えている場所です。

祓戸大神は早瀬に乗せて罪穢れを海原に放って浄化する、というお仕事をされるので、てっきり伊弉諾命の穢れは川に流されたものだと想像していました。
少なくとも、溜池のように見えますし、水が流れているようにも見えません。
しかし、「みそぎ池」の近くには「みそぎ御殿」と呼ばれる古代の祭祀場があり、この御池も巫女や神職が禊を行った場所であると考えられます。

実は、伊弉諾命が黄泉の国から戻り、禊祓を試みた場所はここが最初ではありません。

佐賀関の「早吸名門(はやすいなと)」で禊をしようとしたところ急流すぎたので、阿波岐原のみそぎ池まで移動したとのことです。
しかし、佐賀関は大分県の国東半島の根本あたりであり、阿波岐原は宮崎県宮崎市です。
地図を見なくてもわかりますが、佐賀関から阿波岐原まで県境を越える距離です。

果たして、黄泉の国から穢れを負った状態で、何十キロという距離を移動できるものなんでしょうか…?

それはさておき、今回特筆したいのは「早吸名門」と呼ばれる場所です。
海沿いに「早吸日女神社」が建立されていますが、この神社の御神体は「伊弉諾命の宝剣」であるそうです。

早吸日女神社の社記及び「豊後国史」によれば、伊弉諾命が禊祓をしたのはこの「早吸名門」であるとされ、そこにいた二柱の姉妹神「白浜神と黒浜神」の導きを受け、後に「速吸(はやす)比咩神」を祀ったとされます。
それが伊弉諾命の「御神剣」が御神体とされている経緯と言えます。

この「早吸日女神社」の御祭神は、「八十禍津日神、神直日神、住吉三神(底筒男神、中筒男神、表筒男神)、大地海原諸神」の六柱であるとされます。
御祭神が六柱となったのは平安時代前期とされており、それ以前は「速吸比咩神」一座であったとされます。

奇しくも伊弉諾命の禊祓を行った地には、海の女神「速吸比咩神」が鎮座されていました。
私は、この「速吸比咩神」は、速佐須良姫命なのではないか、と考えています。

阿波岐原で禊祓をしたのは池であり、この御池からは三貴子が誕生しています。
その時、同時に祓戸大神も誕生していることになりますが、なぜか早吸日女神社の御祭神には本居宣長によって瀬織津姫命と同一視された「八十禍津日神」が、気吹戸主と同一視された「神直日神」がお祀りされています。
祓戸大神の「速開都姫命」は、二柱神の神産みから速開都比古と双子としてご誕生されていますが、上記の神々とは兄弟に当たります。

「住吉三神」も禊祓によって誕生した神々ですが、対になる神々として「綿津見三神」が誕生されました。
「綿津見三神」は、海の表面、中層、海底の穢れを祓うとされます。
この神々の役割こそ、「大祓詞」による「速佐須良姫命」の働きそのものではないでしょうか。

つまり、「早吸日女神社」にお祀りされている「住吉三神」とは速佐須良姫命と比定が可能であり、ゆえに「早吸日女神」に置換することができると考えられます。
ただ、「早吸日女神社」には二柱の幼い姉妹神の伝説から始まりますが、神武天皇の時代に「黒砂神」と「真砂神」という海女の姉妹神にまつわる故事もあります。

この神々は「砂浜」に関する神名がつけられていますが、「二柱」と「水戸=港」の関連から推察すると、「速開都姫命」との関連も考えられます。
とするなら、「速開都姫命」は「速佐須良姫命」との姉妹神であった可能性もありますが、即「白浜神」「黒浜神」に結びつけられません。
海岸の「黒砂」は、玄武岩を含んだ文字通り黒い砂で、海底の砂に当てはめることはできないからで、無理に考えるとしたら「速開都比古命」がどちらかの神と同一視することは可能です。

このように、祓戸大神は同一視できる神々が点在しており、なかなか本体となる神様の姿は見えてきません。
おそらく、何の文脈を中心にして考えるかで軸となる神格は決まるような気がします。

ちなみに、本居宣長の祓戸大神の同定説を辿り、興味深いことに気づきました。
本居宣長は速開都姫命を「伊豆能賣」としましたが、こちらの神様は「神」がついていたりなかったりするそうです。

大祓詞の中に「伊頭の千別きに千別きて」とあり、「伊頭」とは「御陵威(みいつ)=激しい勢い」という意味で、「厳島神社」の「いつき(厳、斎)」と語源が同じだそうです。
「激しい勢い」は「速」という文字に代替され、速開都姫命、速佐須良姫命の「速」という神名の一部となっています。

つまり、「速」と「斎」は語源的には同じ意味である可能性があります。
「伊豆能賣」は、伊弉諾命の禊祓によって神直日神と大直日神と共に誕生した女神ですが、この神名自体が「神降ろしをする巫女」そのものを指している説もあるそうです。

「伊豆能賣神」を主祭神とする神社は、福岡県北九州市の遠賀川周辺に複数あります。
少し南に下ると福岡市がありますが、そこにはかつて「伊都国」があったとされる糸島があります。
この「伊都」と「伊頭=伊豆」と「いつき(厳・斎)」の語源的な関係が気になっています。

糸島近辺には宗像市があり、宗像三女神と言えば「市杵島姫命、田心姫命、湍津姫神」であり、ここでも瀬織津姫命と繋がるのですが、ひとまず置いておきます。

福岡市水巻町にある「伊豆神社」の社伝よると、主祭神を「闇龗神、罔象女神、…神直日神、大直日神」となどの水と祓に関する神々が名を連ねます。
ここで調べていて気になったのは、境内社の「保食神社」の祭神に「御気津神」という神名があったことです。

「御気津神」とは、文字を変えれば「御食津(みけつ)大神」を指すらしく、「宇迦御魂」「豊受大神」「大宜都比売神」と同一視されるそうです。
古代語における「ケ」とは「食物」のことでもありますが、「気=氣」のことでもあります。
そして、この「御気津神」は罪穢れを祓う神であるとされます。
つまり「御気津神」は、祓戸大神の「気吹戸主」である可能性が高いのです。

意外なルートから気吹戸主様の正体が掴めそうになってきました。
それにしてもこの「大宜都比売神」というのも興味深く…。

今回は長くなったので、この辺で。
「祓戸大神」を辿る旅は、まだまだ続きます。

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「祓戸三神」新案ラフ

楽太郎です。

イラストの前に、近況について話します。
年末に購入した千両の枝から芽が伸びてきたので、プランターで発根できないかなと考え始めました。

とりあえず植木鉢と培養土が家にあったので、千両から実を取って鉢に植えました。
そして茎から発根するための作業を明日から始めます。

ここ最近、災害準備をしなければならないという気がしているのですが、私に降りてくる内容がどんどん原始的な発想になってきている気がします。
千両を植え直したのも、自家栽培に興味が湧いてきたからです。
あとは自家発電、自作浄水器などを DIYできないか考えています。

なぜこんなことが急に気になり出したのかわかりませんが、仮に必要になるにしてもマンションで家庭菜園を作ること自体、たかが知れています。
食料危機になっても、これしきの収穫量では何も作れません。
これが神様のお導きだとしても、これをフルに実践したからと言って救われるとはどうしても思えません。

私の場合、非常事態のために準備することよりも、知識や情報を役立つ形にしておくこと、そのものに必要性があるような気がします。
これがお導きであるとして、その理由がノウハウの蓄積以外にあるとしたら、こういった生活の知恵や自然の知識を学ぶこと自体が、波長を高めることに繋がっているのかもしれません。

地球は次元上昇を始めたため、自然や地球に波長を合わせた生き方をしなければ、生活のレベルで地球の次元に合わせることができません。
現代社会を生きることは、既成の技術やモノに頼って生活することであり、それは人間社会に依存することを意味します。
地球とは反対に、人間社会は次元上昇に置いていかれているので、人間社会に生活や思考の水準を合わせている限り、自ずと波長が下がっていきます。

波長が下がることは邪気を呼び込み、心身共に蝕まれ運気も下がっていくでしょう。
地球の霊性に合わせるためには、いずれ人間社会に依存し続けるわけにはいきません。
この先、人間社会に生活を依存させていると生存確率が下がるだけでなく、何か災害や経済の崩壊が起きた場合、急に自然から糧を得ようとしてもすぐには対応できないでしょう。

人の世にどっぷり浸かっている人ほど、今の生活が壊れるとは思っていないので、そういう人ほど非常事態になった時の備えが甘くなるはずです。
そうならないように、神様が今のうちから危機意識を高めて準備させようとしているのかもしれません。

災害準備というより生存戦略として知恵を身につけることは、社会に何があっても自力で生き残ることを意味します。
それは人世からの自立であり、地球への適応です。そのための努力が、自分の波動を上げることに繋がらないはずはありません。
こうして生活の知恵を身につけていくこと自体がアセンションに繋がる行為であり、波長を上げれば邪気は寄りつきにくくなるでしょう。

従ってもしもの時のための準備は、例え緊急事態に大して役に立たなくても、次元上昇に適応するという点では有効な手段なのかもしれません。
まあ個人的には、社会が機能停止した後にどうしても持続的に必要になっていくような気もしますが…。


さて、本題の「祓戸三神」の新デザインのラフが出来ましたのでお見せします。







以前、「瀬織津姫命」の新デザインによるイラストを上げたので、他の祓戸大神三柱になります。

瀬織津姫命のイラストが以前の萌えキャラっぽいテイストから大人っぽい絵柄に変更になったので、その作風に合わせました。
だいぶ印象が変わった神様もいらっしゃると思います。

速開都姫様は、なかなか髪型が決まらなかったのですが、萌えデザイン版のセオリツ姫様の髪型を拝借したらしっくり来ました。
新デザインは若干リアル志向なので、弥生・古墳時代のファッションに「髪を切る」という概念があまりないように思い、下手に現代風にすると説得力がなくなる気がしました。
やはり前髪がないとキャラデザインは難しいです。

気吹戸主様はとある理由で完全に人間体(?)となったので、以前の「神直日神に変身する」という設定は使えなくなりました。
神直日神様は、かなりお気に召されているような気がするので、どこかで登場するかもしれません。

速佐須良姫様は、どうしても「ツインテールとツンデレ」だけは外すことができませんでした。
神様がツインテールにするのかは置いておいて、記紀にも記述がない速佐須良姫様を、王道ツンデレキャラとして再定義した私の功績は認められるべきではないでしょうか(?)
バチが当たらないと良いですが…

「祓戸大神」の漫画展開について構想が進行中です。

当初は、オリジナルの神様を立ててメインに動いてもらおうと思っていました。
その話では、創作の神様を主人公にして、レギュラーの役回りで祓戸大神たちに活躍してもらおうと思っていました。
その上で、気吹戸主は老獪な仙人のようなイメージの神様として描こうと思っていましたが、その設定では不思議と作業が進まず、何をやってもしっくり来ませんでした。

「もしかして設定が神様に受け入れられてないのでは?」と思い、瀬織津姫命を主人公に据えてオリジナルの少年神を気吹戸主に動かしてみたところ、スルスルと創作が進み始めました。
そのため、気吹戸主様のデザインは少年神の移行によるものです。

神様をモチーフにして創作していると、こういうことは良くあります。
神様がお気に召さなければ突然PCが落ちたり、急に具合が悪くなったり、進行困難になったりして作業が進まなくなります。
ですから、「この設定ならOK」ということかと思います。

…ていうか、主人公が瀬織津姫様じゃなきゃ許してもらえないんだ…

というわけで、漫画の主役は先日描いた瀬織津姫様のビジュアルそのままに、活躍して頂く形になりそうです。
ストーリーはかなり悩んだのですが、「大祓詞」からヒントを得ました。

「大祓詞」は、皇御孫命が日本を安国と定め、天津神国津神と八百万の神々を統べ、安寧のために人々の罪穢れを祓うという内容となっています。
そこで祓戸大神の役割は、太祝詞を聞く天津神・国津神・八百万の神々と人民の罪穢れを祓うことです。

大祓詞は、神社では二拝二拍一拝の前に祓詞と共に奏上される風習がありますが、これは神前で邪気を祓ってから神様をお呼びするためです。
つまり、祓詞自体はコース料理の食前酒みたいなもので、コンディションを整える役割があります。
神々にとってコンディションを整えてくれる祓戸大神は、私の勝手な解釈では「地球のお医者さん」みたいな存在で、心身共に神々の健康管理をしているのかもしれません。

つまり「神様版ブラックジャック」みたいなお助け系の話になっていくんじゃないかなあ…と思うのですが、あくまでヒューマン(?)ドラマみたいなテイストになるかもしれません。「ショムニ」みたいな(古いのしか思いつかない)
その辺は自分で描き始めてみないとわかりませんが、神様も相当愚痴が溜まっておられるような気もしないでもないので、神様の気分次第で内容が変わる可能性も高いです。

とは言え、「神様のお気持ちを代弁する」形の漫画になりそうです。
あまり説教くさい内容にはしたくないですが、それも神様のお気持ち次第です。

神様をモチーフに創作していると、アイデアが降りる前にはエネルギーがガッと来て気持ち悪くなったり、設定がまずいと気持ち悪くなったりするので、思うように制作できないのが難しいところです。
こんなわけで、こう言った話を考えています。もうしばらく準備はかかりますが、私としても楽しみにしています。

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「祓戸大神」を辿る

楽太郎です。

春分の日を境に、上昇気流のエネルギーの高まりを感じてテンションが上がってきて、むしろ上がりすぎて波長が不安定になっています。
今日、ようやく創作に本腰を入れられる気がしていましたが、まだ準備すべきことはありそうです。

私が「神様の絵を描く」と誓ったものの、一枚絵だけを描くことに集中しきるような器ではなく、やはり漫画を描きたい気持ちがどうしても抑えられません。
神様がその意を汲んで下さったのか、「祓戸大神」をテーマにした漫画のアイデアが降ってきました。
ただ、肝心の「祓戸大神が何をするか」がいまいち掴めず、漫画のテーマがまだ絞りきれていません。

以前の「ケガレを引っこ抜いてバレーボールする」というアイデアは嫌いではないのですが、あのコミカルさではギャグに振るしかありませんし、00年代後半の百合アニメのようなノリも、あまりピンと来ません。

ということで、一日中頭を抱えながら試行錯誤していたのですが、たぶん頭を抱えている時点でダメです。
今日のところは打ち切りにして、頭を冷やすことにしました。

「祓戸大神」の漫画を作るに当たって、祓戸四神とは何かを考えています。

「大祓詞」には瀬織津姫命、速開都姫命、気吹戸主、速佐須良姫命が「祓戸の大神たち」として登場しますが、「速開都姫」以外は記紀に登場しません。
しかし別の「祓詞」では伊弉諾命が阿波岐原で禊祓をした時に誕生した神々であると記述されています。

ただ、この潔斎で誕生した祓戸の大神は、記紀的な解釈では「住吉三神」「綿津見三神」「神直日神、大直日神、伊豆能売」が誕生したとされますが、「延喜式」に由来する大祓詞とは内容が異なります。

ちなみに大祓詞には旧式があって、現在主流となっている大祓は1914年内務省制定のものです。
旧式は平安時代の中臣祭文と呼ばれるもので、「延喜式」に記されたものです。
この大きな違いは、「天津罪国津罪」に具体的な例示がなされていることです。

ちょっと興味深かったので、その部分を抜粋してみます。

「天津罪と 畦放 溝埋 樋放 頻蒔 串刺 生剥 逆剥 屎戸 ここだくの罪を 天津罪と法別て

国津罪と 生膚断死膚断 白人胡久美 己が母犯罪己が子犯罪 母と子と犯罪子と母と犯罪 畜犯罪 昆虫の災 高津神の災 高津鳥の災 畜仆し蟲物為罪 ここだくの罪出でむ」

字面だけでウッとなります(笑)
古来ではこの祝詞は神前にいる人々に向けたものでしたが、いつしか神様に対してお唱えする形になったそうです。
昔、自分たちが聞いていた祝詞を神様になっても聞きたい、みたいな感じかもしれません(?)

ともかく、大祓詞は伊勢神宮など大きな神社では年に二回の晦日や月に二回など、頻繁に大衆が耳にするものです。
「串刺し」「生剥ぎ」「母と子を犯す」など、子供たちも聞く中で「さすがにどうか」と大正時代に論題に上がったのかもしれません。

昔はこういう犯罪がたくさんあったのでしょうが、「生剥」「逆剥」などは、家畜の皮を生きたまま剥ぐことを禁ずるもので、人間相手でないのは少しホッとします。
「畜仆し蟲物為罪」は、呪術で家畜や人を呪い殺すな、ということらしいです。
さすがに近世で呪術をやる人はだいぶいなくなったので、罪状も一般的ではなくなったのもあるでしょう。

ここで書かれている「天津罪」の「畦放 溝埋 樋放 頻蒔 串刺」は、水田や畑の破壊行為を指すと思われます。
国津罪に比べると、大量の人々の人命に直接関わるので、それだけ重大事と見なされたのでしょう。
稲作におけるタブーを鑑みると、これらの罪の定義は弥生時代以降の価値観であるように思えます。

もしかすると、飛鳥時代の律令制度の確立以前は、この祝詞を人々に聞かせることで、「こういう行為は罪に当たりますよ」と知らしめる機能が大祓詞にはあったのかもしれません。

私たちが「日本の神様」をイメージする時は、美豆良と呼ばれる結い方や、麻の貫頭衣を着ています。
この服装は弥生時代、古墳時代に一般的だったファッションです。
その頃に「国造り」が行われたので、その風俗がイメージとして残るのは当然かもしれません。

さて話を戻しますが、「祓戸大神は誰か」というのが気になります。
「大祓詞」には祓戸大神たちの出自に関する記述はありませんが、「祓詞」に伊弉諾命が「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊ぎ祓い給ふ時にあれ坐せる祓戸の大神たち」とあります。
つまり、伊弉諾命が黄泉の国から戻ってきて「禊祓」をした時に誕生した神だとされています。

江戸時代の国学者、本居宣長は瀬織津姫命を「八十禍津日神」、速開都姫命を「伊豆能売神」、気吹戸主を「神直日神」、速佐須良姫命を「須勢理姫命」に当てています。
速佐須良姫命を須勢理姫命に同定しているところで、私は若干腑に落ちない説でありますが…

しかし、「速開都姫命」だけは、「速開都比古命」と共に伊弉諾命と伊奘冉命の神産みによって誕生した神です。
祓戸大神が「禊祓」から産まれたとするのに、「神産み」の神が混ざっているのは不思議な気がします。

ならば、ここで「祓戸大神は禊祓ではなく、神産みで誕生した神々ではないか?」と仮説を立ててみたいと思います。
参考として、「神産み」によって誕生した神々とその役割をここに抜き出してみたいと思います。

  • 天鳥船神…船の神様
  • 石土毘古神…石の神様
  • 大山祇神…山の神様
  • 大綿津見神…海の神様
  • 久々能智神…木の神様
  • 志那都比古/比売神…風の神様
  • 野槌姫命…草の神
  • 速開都比古/比売神…港の神様
  • 火之迦具土神…火の神様
  • 泣沢女神…涙の神様

「泣沢女神」で「?」となりませんか?
泣沢女神は、伊奘冉命が火之迦具土神を産んだ際、妻の死を悲しんだ伊弉諾命の流した涙から産まれた水の女神です。
これらの「自然神」とも呼べる並びの中で、「泣沢」というのだから「川の神様」であっていいはずですが、なぜか山や海や港はあるのに「川」がありません。

そう、「川の女神」と言えば「瀬織津姫命」です。
「速開都姫命」はそのまま港の神、「気吹戸主」は「志那都比古/比売=風の神」、「速佐須良姫命」は「大綿津見神=海の神」と比定することができます。
しかし、神産みの中には「川」という概念がないので、比定できる神様がいません。
(一応、「泣沢女神」も「沢」が入っているので、川の女神とすることもできますが、一般的ではありません。)

神産みで誕生した淡水の神には、「弥都波能売神=井戸の神」や速開都夫妻の子「天之/国之水分神=雨と川の水を分配する神」が存在しますが、「川の神」ではありません。
「川の神」で最も有名なのは、「高龗神」です。「龗」は古い意味での「龍」のことで、高い山の谷間から降り立つ水流を表現しています。
川や滝にお祀りされている「龍神」を思い浮かべますが、「高龗神」は伊弉諾命に首を切り落とされた火之迦具土から誕生した神であり、伊弉諾命から産まれたとは言えません。

川や滝の傍にお祀りされている神様は、「龍神」や「不動明王」、「弁財天」がよく思い浮かびます。
「弁財天」はインド由来の川の女神ですが、よく比定される厳島神社系の宗像三女神、「市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命」は海と航海の女神であり、淡水や川を象徴しません。
しかも、宗像三女神の父は素戔嗚命なので、伊弉諾命から誕生したわけではないのです。

私は、瀬織津姫命を祀る神社を全国に調べてみて、明らかに淡水に関わる神様に海の神様がお祀りされていることに違和感がありました。
川や滝は、山の山頂付近に水源を持ち、高いところから低いところに流れて海に流れ出ます。
しかし、最終的に水が向かうところの海の神様が、川や滝の神様としてお祀りされているのはどうも納得がいきません。

「いや、昔の人は川の水も海の水も皆同じ水だと思ってたんだよ」と言うかもしれませんが、子供でも淡水と海水の区別はつきますし、川や滝や泉に航海の神様をお祀りするのも、直感的にはおかしいように思います。

つまり、中臣祭文の「延喜式」の時点では瀬織津姫命が祓いと川の女神として記述されても、「記紀」ではやはり意図的に「川の女神」という概念は外されているように思えてなりません。
「記紀」の成立年代は、持統天皇による天照大御神の神格の確立に当たる時期であり、その時に「瀬織津姫命」の名は秘匿された可能性が高いのです。

以前、「神の語源」という記事に書きましたが、「カミ」という語源は山の水源にルーツがあり、「川上」の概念が「神」に結びついたという話をしました。
天照大御神は日本の総氏神であり、太陽神として不動の信仰対象であるのは否定しませんが、「神」のルーツに「水源や川」が関係していることと、持統天皇の宗教改革は関連しているような気がしてなりません。

ただ、中臣祭文の大祓詞に基づく伊弉諾命の禊祓で産まれた祓戸大神と、伊弉諾命と伊奘冉命の神産みから産まれた天津神と、どちらが正しいかとか優先すべきかという話にはならないと思います。
そのどちらも「物語的解釈」であり、文献学的、歴史的な問題にしか過ぎないからです。

これらの「神々の由緒」をフィクションとして転用する上では、自由に発想して解釈して良い部分だと思いますし、おそらく学術的に議論を始めてもすぐには結論はつかないでしょう。
ただはっきりしているのは、「記紀」や神社祭祀の歴史においては、「瀬織津姫命」という神が正当な評価を受けて来なかったことは確かです。

すごく大切なことで、誰もが失念してはいけないことなのに、人間の都合で隅に置いやられる事例は私も身近に感じるゆえに、だから瀬織津姫様に親近感が湧くのかなあ…と思ったりします。

やっぱり、瀬織津姫様しか勝たんな

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日本の分岐点

楽太郎です。

本日、春分の日ですが、やはりエネルギーの切り替わりが激しく、横になっているのも身体の重さを感じるくらいでした。

今日は何もしないでおこうと思ったのですが、横になっていると線香の匂いがしてきて、そう言えば今日はお彼岸の中日であることを思い出しました。
ちなみに、窓は閉め切っているので線香の煙が入ってくることはありません(笑)
母の買い物に付き合う形で、お彼岸用の生花を買い、軽くお供えをしてお経を上げ、ご先祖様を供養させていただきました。

いつもお世話になっているご先祖様が、喜んでくださると良いなと思います。

私は先日、ビジネスとしてはノープランでありながら開業届を改めて提出し、「楽太郎」として事業を始めました。
個人事業主として以前の屋号で始めた時は、もうちょっと事業戦略があったのですが、今はその時よりも何をしていいかわからないという、よくわからない状況です(笑)

けれど、これが神様からのお導きによるものであり、私の魂の本来やりたかったこと、やるべきことなのだとしたら、今の私が多少腑に落ちなくとも選択すべきことなのだろうと思います。

以前描いた私の絵や漫画も、改めて見直すと肩の力が入りすぎているというか、多少無理をしている感じがします。
悪くはないのですが、「これは確かにウケないかもしれない」と思ってしまいます。
その直感は冷徹というか、本当に自分の感性なのか疑わしくなります。

何となく、自分の中に自分じゃない心が芽生え始めて、それは自我が剥ぎ取られた自分の心なのか、それとも自分ではない誰かの心なのか、その判別はできないのですが、ちょうど良い塩梅で「統合」が起きているように感じます。

今の世を見回してみて、以前ほど人々が忌々しいと感じなくなりました。
単純に、前ほど邪気を受けないため敵対心を持つ必要がなくなったからだと思います。
その邪気も、人の心が邪悪だから発生しているわけではなく、人々の精神的エネルギーが停滞しているから起こってくるものです。

元々、この邪気を発する人たちも、努力して土の時代に適応した真面目な人たちであり、ずっとフワフワ生きてきた私よりは、ある意味正しい人生を送ってきた人たちとも言えます。
私は彼らに対して、やっかみや妬みを感じることはありませんが、新しい時代に合わせない、合わせようとしないから神様が立ち退くことを望んでおられるのであって、神様のご意志に従わないことが罪なのだと思います。

私も土の時代の人々には散々な目に遭わされましたが、それがあるから私は学びを経験し、彼らとは違う道から上を目指しています。
これも一つの宿命だったと言えますし、彼らにも宿命があるのだと思います。
少なくとも、今では恨み節が不思議と湧かないというか、「罪を憎んで人を憎まず」だなと思っています。

人々は互いが批判されることを恐れて、慇懃無礼ながらも何事にも穏便に済まそうとします。
競争社会だけでなく、互いが評価し合い金銭を授受するような力関係も、世の中をギクシャクさせる仕組みになっていました。

日本人は自分たちが「理想」とするシステムに雁字搦めとなり、互いを監視するようになりました。
その仕組みによって、日本人の敵が日本人になり、日本人を害し自分が利得を得るために、日本人を食い物にし、日本のあらゆるものを外国に売り払う人々がいます。

どこかで、「日本人も日本もどうでもよい」と思わせる何かがあったのかもしれませんが、その助長を止めることができなかった理由にも問題があるのです。

この国の今のおかしさは、本当に価値のあるものに金が流れるのではなく、金の流れるところに人が集まっていく構図にあります。
流行りもトレンドも、「流行らそう」という企画のもとに始まるからこそ、本当に価値のあるものが流行らないのです。
この中身のなさは、人々が頭で考えた「理想」の形ばかりを追いすぎて、自分たちの感性や心をお座なりにしてきた結果ではないでしょうか。

今思えば、これらはただの「甘え」でした。
世の流れに乗っていれば間違いはなく、皆で渡る赤信号は、皆で渡っているから「青」と同義である。
そうやって責任を集団に負わせることで、責任を自分が負う必要も感じず、ゆえに気楽に生きてこれました。

自分の頭で考えなくてもそこそこ楽しく生きていける、いつまでも神様仏様は私たちをニコニコ見守っていて、地球はいつまでも無限の恵みを与えてくれる。
そう安心しきって、自分たちの文明が百年も千年も何となく続いていくという妄想に囚われていただけです。

だから自分の人生や他人の利害や、地域や国や地球の未来について、大して考えなくてもいいと甘えていたのだと思います。
それが最近になって、ようやくマズイと気づく人々が増えてきて、いい加減に目を覚まし始めたように見えます。

私を含め、この日本の悪い流れを止められなかったのは、私たちが無知や無関心のまま知ろうとしなかったことにもあります。
ただ知ったとて、いくら止めたくても悪い流れが大きすぎて抗いようがなかったのも事実です。
「ああすればよかった、こうすればよかった」というのは、正直数えきれないほどあるのですが、過去に遡って解決はできないので、これから何とかしていくしかありません。

人々の邪悪さが問題なのではなく、人々の価値観や生き方に対する考え方が偏っていただけで、何が悪いということもないはずです。
強いて言うなら、この流れを作って人命を肥やしにしてきた人々がいるということでしょう。
しかし、彼らが作ったシステムに安寧を覚え、私たちが生活を介して加担してきたのも事実です。

この世の「悪」を終わらせるのではなく、「悪習」を終わらせればいいだけです。
そこに、血を流す必要は全くありません。
人々が、根こそぎ反省し心を入れ替えれば、誰も血を流さずに済むからです。
悪い人間は、引きずり下ろせば自ずと滅びます。

もし新しい時代を作るなら、救世主に全てを担わせて大衆が救われるような革命ではなく、人それぞれが世を救う行動を起こせば、誰も命を落とさずに革命を成し遂げることは可能でしょう。
そのために、どこかの救世主に寄りかかるのではなく、自分自身が救世主たろうとすることだと思います。

「それが絵空事かどうか?」は、これからの人々、日本人の心にかかっています。
この春分がそのきっかけになるといいな、と思っています。

その変革の一助になるべく、私はやっていくと神様に誓いました。
何ができるか、何をすべきかは未だにわかりませんが、こう考えている人間が私一人ではないことを確信しています。

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「呪い」を越えて

楽太郎です。

ここ一週間以上、好転反応状態が続いています。
多少動けるようにはなってきたものの、本流は「浄化」だと思います。
昨日は半日歩き回ったこともあり、クタクタになって早めに寝ました。
最近はかなり夢占い的な夢を見ることが多くなり、実際に夢占いにかけて意味がわかる内容ばかりです。
そこで見る夢は、ほぼ悪夢です。

この悪夢を見ることで、無意識に気づきと浄化が行われているのだと思います。
今朝は、姪に「これから世の中は悲惨なことになる」と吹き込んだ私を、兄に酷く説教される夢を見ました。
あと、私と共通の上司に酷い目に遭わされた同僚がいたのですが、彼が放送局からずっと上司の悪口を言っている、という陰鬱な夢です。

これは夢占い以前に、近い現象を目の当たりにしたというか、リフレインにしか過ぎないような気がします。
この記憶も浄化の対象なのだとしたら、私の人格は洗いざらい清められているのでしょう。

昨日も街を歩くと、以前よりシャッターを閉めたお店が増えていました。
元気な声を聞けば、だいたい日本語ではありません。
このままでいいのか?と、どれだけの日本人が思っているかはわかりませんが、私はどの道「長くは持たない」という結論は変わりませんでした。

「この日本は、そのうち我々のものになる」と思っている人たちも、譲り渡したい日本人もいるでしょう。
それは人の世の理なら、そうなっていくでしょう。

しかし、私は神様が動いていらっしゃるのを知っていますし、その兆候はあらゆる現象として可視化されています。
人の世の理なら、単なる偶然や自然現象、あるいは極端な陰謀にしか見えないはずです。
それがわかるからこそ、私は静観を続けています。

この「人世」が解体されるにつれて、自分のエネルギー状態はどんどん上がってきています。
頭から押しつけるように感じていた重圧は、時に自分で振り払えそうに感じる時もあります。
特に昨日は、神様とのシンクロ率が高く邪気をフルカットしていました。
私の人生に、徐々に光が差し始めているように感じます。

私が身動きが取れなかったのは、魂を押さえつけるような価値観に世間が支配されていたからです。
だいたい、誰もが一時期に一つの物事に夢中になり、大勢で同じようなものを一斉に求める風潮が、私には理解できませんでした。
「お前は遅れている」とか「お前はなんか違う」と言われるのは悲しくも慣れてしまうのですが、私も無理して皆が求めるものを欲し、手にしても何となく違和感があるのです。

「皆こうでなければならない」という意識に対して、人々は頭で「それぞれ自由にやっていこうよ」という風潮も、世の中にはかつてありました。
「個性を大事にしよう」とか「多様性を育もう」とか言うわりには、人々はお互いの違いを感情的に許せないままでした。
結局は皆が同じでなければ不安で、それゆえに個性を出す人間は感情的に潰したくなる空気が、相変わらず漫然とあったのです。

そこで純粋な気持ちで思ったことを言い、思った通りに生きれば、かなりの割合で総スカンを食らいました。
私にだって善悪はありますし、迷惑にならないことを選んで行動しているつもりなのに、やることなすことが裏目に出ます。
それがなぜかずっとわからず、さりとて周りに合わせなければなりません。人の言うことを鵜呑みにして何とかやろうにも、その方がむしろうまくいかないのです。

私にかけられた「人世の呪い」は、こうして完成しました。
何度も心を病み、何度も立ち直って人間社会と向き合っても、人の世はいつも違う呪いをかけてきました。

今、その呪いを完全に解く最終フェーズに入っています。
その呪いを解けきった時こそ、私が本来のありのままの魂を取り戻す時です。

この覚醒は、春分の日が一つの区切りになるのでしょうが、おそらくその後も浄化は続くはずです。
人の持つ魂は、おそらく初期状態が完璧な状態なのだと思います。
しかし、肉体を与えられ、男か女として育ち、人として生きる学びの過程や日々の生活の中で、魂は曇っていきます。
その曇りを磨けば魂は輝きを取り戻すのですが、その浄化は簡単なものではありません。

だから、これから先も「魂を磨く」ということは、「学び」と「浄化」を交互に繰り返していくことになるでしょう。
それが一生を終えるまで続くのだとしたら、覚醒は一度したら終わりというものではなく、何度も何度も重ねていくのだと思います。

私は、自分らしさを出せば出すほど、「人から批判されるのではないか」「誰からも見向きされないのではないか」と自分で自分を抑制してきました。
この抑圧こそ、私が本来のエネルギーを循環させ力を発揮できなかった最大の要因です。

確かに、人の世でやっていくには「評価されない」のは死活問題で、評価を勝ち得ていかなければならないのですが、反対に自分を偽って成果を出しても幸福になることはできませんでした。
その同調抑圧で形成してきた社会が立ち行かなくなるとしたら、それに合わせる意味すら無くなります。
この板挟みから解放されるタイミングがこれから来るのなら、他者の評価を越えて、私の自由な表現を追求していけるターンに入ります。

「人世の呪い」は、私を長い間苦しめましたが、その呪いをかけた人世は、自らの呪いで自家中毒を起こし、これから手も足も出せなくなるでしょう。
その時、呪いから解放された私の魂は、最大限の力で動き回れる時が来るはずです。

そのエネルギーは、何かに合わせるために形を変えることもないため、波動が強ければ強いほど運やお金や人を巻き込んで行くはずです。
結果的に「世のため人のため」に無理して奉仕するよりも、よほど役に立つことができると思います。

先ほど、神様の声が心に響きました。

「これからは、立ち回れる範囲で暴れなさい」

これ以上、ありがたいお言葉はありません。
神様、恩に着ます。

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