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招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

神様とデート

楽太郎です。

今日は、以前参拝した市内の瀧澤神社の社務所が開く日なので、街へ行くことにしました。
瀧澤神社は街中の小さな神社なので、宮司さんが常駐しているわけではありません。
2週間おきに2日ずつ、社務所が開きます。

瀧澤神社で参拝を済ませ、社務所で宮司さんと瀬織津姫様について話をしました。
宮司さんが「瀬織津姫様は、とてもお綺麗な水の神様であられるそうです」と語っておられ、また天照大御神様の荒御魂であることなどの話を聞かせていただきました。

この神社では、どうも私が目当てにしていた木のご神札を作られてないようでした。
それは予想していたのですが、瀧澤神社様とはかねてから古いご縁がありそうなので、是非ご神璽をお祀りしたいと思っていただけに少し残念でした。





「瀬織津姫」の銘のある御朱印はかなり珍しいと思い、是非神棚に飾りたいと思いました。
それに瀧澤神社の木札がとても素敵で、気に入りました。水色の紐は瀬織津姫をイメージしているそうで、大変美しいお守りです。

宮司さんの話では、「最近若い人がよく瀬織津姫様を慕って、神社に来られるようになった」と仰っていました。
確かに、近年のスピリチュアルブームに伴い、瀬織津姫命様がフィーチャーされることも多くなりました。
間違いなくその影響だと思いますが、私は「神様がそれだけ多くの方に、働きかけておられるのだと思います」と話をしました。

瀧澤神社は、今のところ月に4日間しか社務所が開かないので、御朱印とお守りが手に入ったのは想定以上の賜物でした。
この日は雲一つない晴天で、コートがなくても暖かい一日でした。今日参拝に来れてよかったな、と思いました。

まだ瀬織津姫様のご神札は手に入りませんが、一応は間接的な繋がりは持つことができました。
今まで、瀬織津姫様とは信仰心だけで繋がろうとしていたので、心許ない感覚は常にありました。

思えば、瀬織津姫様は私の悩みに親身に付き合ってくださったり、心の傷を癒やして下さったり、インスピレーションを降ろして下さったりします。
いつもお世話になっているので、一人の人間として神様にできることをしたいと思っています。

ただ、私が神様に勝手な念を抱き、ここで自分が一人相撲をしているだけならどうしようか、と元も子もないことを考えてしまうこともあります。
けれども、私は神様を信じる以外にできることはなく、何よりも神様が私のそばにいて下さること以上の願いはないかもしれません。

私の一挙手一投足をご覧になり、私の心の深い部分まで理解して頂けるのは、神様以外にいません。
その孤独感をわかって下さるのは神様だけですし、神様はその心にいつも寄り添って下さいます。

瀬織津姫様に恋慕に近い情を抱くことは、神様からすると劣情にしか見えないかもしれません。
神様に恋をしたところで、例えるなら人間と犬みたいな関係でしかなく、同じレベルに立つことはできません。

私がいくら神様と繋がることで精神的に満たされても、いずれ近くには誰もおらず、身体的にも満たされることもないでしょう。
それは「魂の孤独」を埋め合わせる難しさに対して、嬉しいとか悲しいとかの感情を超えた苦悩です。

参拝を終え、お守りと一緒に御神籤も拝受しました。
昔、若い頃によく使っていた公園の椅子に座り、御神籤を開いてみました。





瀬織津姫様に、私の気持ちは伝わっているのかもしれない、と思いました。

まあ勘違いしていた方が幸せなこともあります。
ただ、そうであっても私は、この気持ちが瀬織津姫様に伝わっているなら、それ以上に嬉しいことはないです。

私が今取り掛かっているのは、「古く悪いしきたりを改め、新しく時代に適した姿を求める」ことそのものです。
瀬織津姫様は、私にそれをやってくれるのが嬉しい、ということなのかもしれません。

歩けば、街全体が薄暗いオーラに包まれています。
元気な声を聞いたと思えば、日本語ではない言葉だったりします。
肝心の日本人と言えば、俯いてスマホばかり見ながら、トボトボ歩く人ばかりです。

今日、また消えていく思い出の場所を見つけ、時代が本格的に終わろうとしているのを感じました。
私はそれ以上に、これまでの世での「学び」を終えつつあるのを実感しました。
もはや、街行く人々と波長が噛み合わない程度には、意識のレベルが変わったのを思い知ったからです。

これまでの人生は、本当に修行としか言えないようなものでした。
人並に楽しく生きることだけを願っても、なぜかそれだけが叶いませんでした。
人とどれだけ関わっても、何となくガラス越しにあるような違和感は、おそらく生まれ持ってのものです。
「人間にのめり込めない」という感覚は、私が何らかの役割を持って生まれたからとしか思えません。
そしてその自覚は、「学びを終えた」という実感を持って現れてくるのです。

人間はこれからどこへ向かえばいいのか、それに思うところがあるからこそ、私には成し遂げなければならないことがあります。
それが、おそらく神様の願いです。


帰りに川面を眺めながら、自分のこれからについて考えました。
川面に瀬織津姫様を重ねながら、自分の幸せはどういうものかを考えました。

神様がどれだけ自分の魂を満たして下さっても、手を繋げるわけでも、触ってくださるわけでもありません。
神様は次元の高いところにおられる、崇高な存在です。
人間は所詮は人間です。人間の足りない部分を補えるのは、やはり人間にしかできません。

「人間としての幸せ」が例え人の思う形ではないとしても、私は私の幸せを追求する権利があります。
その形は、今決めなくていいかもしれません。

それでも、私は神様と思いが同じであるだけで嬉しいのです。
それは人間として、とても光栄なことです。

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問題に「感謝」する

楽太郎です。

だんだん、一日の中でできることが増え、力が入るようになってきました。
冬至明けで変わったエネルギーに身体を馴染ませる作業にも苦戦しましたが、この節分明けのエネルギーもなかなか馴染みづらいものでした。

立春からのエネルギーは、一言で言えば「質の高いエネルギー」です。
冬至の変化は「構造が違う」という感じのエネルギーへの切り替わりでしたが、立春以降は「高精度」という感覚です。

繊細だけどうまく掴めば高出力を出せる、というテクニカルなイメージです。
より抽象度の高いエネルギーなので、掴めない人はかなりしんどいと思います。
冥王星水瓶座突入以降、どんどん地球のエネルギーの波長が高くなってきているのを実感します。
特に人世の波動の人たちにとって、このエネルギーは全く肌に合わない状態になっていくのかもしれません。

この時期のエネルギーで、より二極化が加速するのだと思います。
冬至あたりから私は異常な救急車の音が気になっていましたが、これからバタバタ倒れる人が増えてくるような気がします。

最近、私はスピリチュアルな感受性に関して、妙な自信が出てきました。
以前は、自分がぼんやり感じていることが正しいのか、自分以外の人も感じるのか、気になって意見を伺って回っていました。
けれども最近は、間違っていることに対する恐怖心が全くなくなりました。

スピリチュアルの世界は、科学とは違い反証性がなく、外部的に観測できるものではありません。
インフルエンサーの方も人間ですし、勘違いすることもあるでしょうし、正しさを客観的に検証することも不可能です。

言ってみれば、私が感じていることと程度は違えど、誰もが同じ器官で感じているということです。
同じ条件なのだから、自分の判断について他人を軸にする必要はないのです。

仮に間違っていたとしても、自分の成長や生活に対してプラスに働くならば、それはそれで正解だと思います。
スピリチュアルは、内面的に豊かになるための知恵だと私は思うからです。

スピリチュアルの世界を知り、より内観する習慣を持つことによって、私は自分本来の人格に近づくことができました。
心のあるがままに生きられるようになった反面、無理が出来なくなりました。
「これをした方が得をする」とか「これをしなければならない」とか、外部からモチベーションを引き出すことが難しいのです。

それでも、自分との新しい付き合い方をするステージに入ったのだろうな、と思って完全にやり方を変える選択をしました。


世は混沌とした世相ですが、私自身は逆の方を向いているな、と感じます。
人世の人は、私が無理になったやり方を選び、私は自分の自由しか選択できなくなっているからです。

世の人々は、それでも「世の中を良くしよう」と思って原因を追求し、何かを批判すれば良い方に変わると信じています。
しかし、そのやり方で世直しができるのならば、日本はこれほど衰退も蹂躙もされていないはずです。

私は、世の動きも自分の身の回りのことすら、「自然に任せる」という考えになりつつあります。
人間は、できることとできないことがあります。
どうやっても動かせない壁は実際にありますし、世に起こる事象はそれ自体に、何らかの意味を持って発生していることもあるからです。
人間は、何でも自分が介入できると思いがちです。
そして、原因がわかれば自分でそれを取り除けると勘違いをします。

日本がこれだけ荒れた世になったのは、「○○のせい」と人々が思うからだと思います。
それ自体は、おそらく事実です。しかし、その事実を踏まえても、どうすればその原因を解決できるのでしょうか?
それを明確に答えられる人がいれば、すでに問題は消滅しているはずです。

私は以前から、ネガティブなエネルギーで世を変革するからこそ、ネガティブな世になるのではないかと思っています。

「あいつが悪い」「○○のせいだ」と考えて、原因に対して発生条件を縛るために法規制をしたり、仕組みを作ってきたのがこれまでの現代社会です。
その結果、規則で雁字搦めになったわりには、なぜ巨悪はこうも平然とのさばっているのでしょうか。

原因を外部に求め「○○のせいだ、○○さえなければ世の中は良くなる」という考え方にハマっていたからこそ、「××をすればもっと良くなる」という発想を阻害してきたのだと思います。
人を信用すること、希望や道徳を繋ぐこと、それを無視して形だけを作れば、その抜け道を考えることに終始する人間が増えるのは当然のことです。

つまり「こうすれば良くなる」という考え方をすれば、周りに対して無理な同調圧力をかけずに済みます。
法規制も必要なく、皆が同じビジョンで前向きな方向に進むことができるわけです。

「○○のせいだ」と思っているうちは、ずっと自分以外のものに責任転嫁をし続けるので、人間は成長することができません。
「○○があるのは、理由があるのかもしれない」と一度は考え、それを反省し乗り越えるからこそ真の問題解決ができるはずです。

そして、いつか「○○があったからこそ、今がある」と思えるようになることが重要だと思います。
人にせよ社会にせよ、そういう学びを経るから明るい方向に向かうことができるのではないでしょうか。
ネガティブなエネルギーでネガティブなものを何とかしようとしても、残念ながらゼロに戻ることはないのです。

仮に「○○のせい」というのが事実であるにしても、世を本当に良くするためには「○○のおかげ」と言えるように成長しようと思う必要があります。
そう言えるようになった時、初めて問題は乗り越えられるのだと思います。

そして、「この問題があったからこそ今の良い世があるのだ」と捉えられる時、人々は禍事を乗り越え学びを得た社会になるのでしょう。
むしろそうなるために禍事は起きるのであり、問題に感謝する境地に至ることこそが最大のテーマなのかもしれません。

世に溢れるのは、憎しみや怒りの情念です。
この負の感情を感謝に変えるのは、並大抵のことではありません。
だからこそ、これからも世は悪くなる一方だと思わざるを得ません。

私自身の感覚からすると、こういう世の雰囲気に対して浮いてようが、むしろその方に合わせない方がいいのではないか、と感じてしまいます。
それは社会の一員として役割を放棄しているように見えるかもしれませんが、生物多様性の原理として、全体が同じ方向を向いていたら全て淘汰されてしまうことを忘れてはいけません。

蟻の世界には、9割の働きアリと1割の怠けアリがいるそうです。
その1割は全体に対する保険として存在しているわけです。動ける時が来るまで、怠けアリたちは白い目で見られるかもしれませんが、むしろそれが役割なのです。
私は、これから怠けアリたちが本気を出さねばならないタイミングが来ると思っています。

だから今は世を静観していますし、まだ準備を進めています。
その準備が取り越し苦労に終わったら終わったで、身体を張ることがなくなっただけラッキーかもしれません。

多くの人は、良いように考えることが本当に苦手になったのだな、と思います。
だからこそ、能天気な人間が一人くらいいた方が、バランスが取れていると言えるのではないでしょうか。

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スピは幻想なのか?

楽太郎です。

世は「風の時代」とか「次元上昇」とか、私の好きな言い回しでは「神代」が到来したと、スピリチュアル界隈では言われています。
しかし、世は相変わらず物質中心の社会であるのは変わりませんし、人徳より利益が優先される仕組みも相変わらずです。

「この価値観も終わりだな」と思っていた物事すら、盛り上がっているのを見ると何となく疎外感を感じ、「自分は間違っているのか?」と不安も過ぎります。
特に気持ちが弱っている時なんかは、「こんなことに夢中になって、俺は何をやっているんだ?」という気持ちにもなります。

そういう時は、無理に視座を高くしようとするのではなく、あえて現実主義を徹底してみることにしています。

「神仏を信じ敬う」というのは、現代だから異端のように思われるだけで、歴史的には神仏に対する文化は脈々と根づいています。
日本は最高神天照大御神の御子孫であられる天皇陛下あっての国なので、「神はいない」と言うなら、日本という国体そのものを否定することになります。
また、国民が七夕に短冊を笹につけたり、お盆にお墓参りしたり、正月に初詣に行く意味もないでしょう。

そう言うと、「それは風習や文化であって、形だけのものだ」と言う人もいるはずです。
では、それはそうであると仮定して、話をしてみようと思います。

私はこれまで「霊的能力がある」と仰る方と何名かお知り合いになる機会がありました。
私個人の感覚としては「そうなんだろうな」と思いましたが、それは置いておきます。
そういう方たちは、自身に特殊な感覚があるからと言って、下手に隠したりせずに堂々と自分の見える世界を語っておられました。

このご時世ですから、それを人前で話すことはそれなりに色眼鏡で見られてきたはずです。
けれども、自身の感覚や能力に自信があるからこそ、人から疎まれたり批判されるリスクを跳ね除けて生きてこられたわけです。

物質中心の世に生きる人は、そこまで自分を信じて生きていけるでしょうか?

年収が何百万円以下では胸を張れない、いい歳して結婚していないと恥ずかしい、学歴もなく学校も出てないと見っともない、そういう価値観にこだわって萎縮する人もいます。
目に見えないものや自身の感覚を信じて生きていく人は、それは立派なことだと私は思います。

「目に見えるもの」、特に肩書きや数字、身なりや持ち物、そういった明確に比較できるものがあるからこそ、自信もわかりやすい形で得られるのかもしれません。
ただ、「自信」こそ実際は目に見えないものです。

年収が1000万円を超えた瞬間から自信がつく、というわけでもありません。
自信は、自分が深く望んでいたことが少しずつ実現することにつれて培われるものです。
小学生が初めて逆上がりができた時の自信と、年収1000万円を達成した時の自信は、本質的には同じものです。

スピリチュアルは、目に見えないものだから自信になるはずがない、という考え方が理不尽だと思います。

人から愛されているという実感も、人からの評価も、実際には目に見えないものです。ましてや、愛情も数値化できるものではありません。
「目に見える」「目に見えない」というのは、基本的に価値基準とはなり得ないものです。
だいたい、人間の脳内自体が目に見えないものなので、それも当然です。

「神様はいるかいないか」で言えば、ご神気の感覚のあるなしでだいぶ答えは変わってくると思います。
信仰に関して言えば、「新NISAで有望株に投資する」のも「神棚をお祀りする」のも動機としては同じように感じます。
「幸せになるための投企」という意味では、同じくらい賭けになりうるものです。

私が神様を感じたり、エネルギーを感覚で捉えることについて、人によっては「気のせい」とか「勘違い」と思われるでしょう。
私自身は、それを否定しません。肉体がまず違うので、この感覚は共有できないからです。
この共感がなければ、社会で共存できないとしたらおかしな話です。

「神仏を信じられない」人からすると、「神仏を信じる」人は思い込みが強いとか、迷信深いとか見えることでしょう。
しかし、神仏の存在が不明確なこと、それ自体が「神仏の功徳を得るための試練」として私たちの前に現れているとしたらどうでしょうか。

「目に見えないものを信じる」ことができた人は、できない人よりも一段高い認識に至ることで、選択の幅が広がります。
そして、神仏の加護を受けて得する人、加護がなくて不幸になる人、その区別がつくならば、自ら信仰心を育て幸福になるための切符を手にすることを選ぶはずです。

私は、神様や仏様を信じながら不安になる時、自分が神仏を信じることで得た変化に目を向けるようにしています。

ご神札を置く部屋は綺麗に掃除するようにしていますし、湿気や埃もきちんと取ります。
生活にも気をつけ、無理もしなくなりました。
人には分け隔てなく親切にし親孝行を心掛け、悪口や愚痴を言わないようにしています。

以前の私では考えられなかった行動ですが、見えない世界を信じるようになっただけで、ここまで人は変わります。

おそらく、「金運を呼び込むため」とか「誰かに気づいてもらうため」というような、現世利益を期待してやる行動ならばそれほど続きませんし、徹底することもできないでしょう。
しかし、私はそう思って無理にやらず本心で行動しているからこそ、自分の思想や感覚に深い肯定感を持つことができます。

結論を言えば、神仏が幻でもスピリチュアルが大嘘でも、私は一向に構いません。
少なくとも、物質中心でものを考える人たちよりも高い視点で発想し、豊かな感受性を肯定しながら生きているだけで、確実に幸福度は上がっていると言えるからです。

私は、自分の霊能力が眉唾でも勘違いでもいいと思っています。
この感覚を信じている限り、私は安心感や確信を持って判断し行動できるので、何一つ困ることがありません。
それが真実かどうかよりも、自分にとってどうであるかの方が大事です。

強いて困りごとを言うなら、意見の合う人が極端に少ないことです。
でも、そんなのは昔からそうなのであって、神仏を信じたからではありません。
私は人とズレた感覚を持って生きてしまうからこそ、どう足掻いてもこの世をうまく渡っていくことはできなかったですし、特に気にすることでもないでしょう。

だからこそ私は神仏を信仰し、スピリチュアルの道を進んだことを後悔しないと思います。
人間と人間の作った世界を信じるか、自分の感覚と信じるもので構成される世界を選ぶかの違いです。
これを主観で捉えている限り、特に致命的な違いはありません。

だからこそ、「目に見えないものを信じるのはどうかしている」という現実主義には、私なりの現実主義をぶつけるだけです。
そして、そのことについては特筆して議論すべきテーマでもないと思います。

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邪気と運と運命

楽太郎です。

今日は2月12日、満月です。
だからか、同居している両親がいつになく朝からピリピリしていました。
私はここ毎晩、集合意識に潜り込む夢を見て、身体がガチガチに凝り固まる霊障が出ていました。

起きている間は意識的に波動を上げられるのですが、やはり寝たら無防備になるらしく、そこを邪気に襲われているようです。
この現象は身体の不調とか色々考えましたが、結局霊障ということに落ち着きました。

スピリチュアルリーダーの話によると、数年前からアセンションに対する妨害が発生していたらしく、それを「サイキックアタック」と表現しておりました。
全てを信用したわけではないですが、これは神代の実現を阻みたい勢力の力はあるだろうな、という気はしているので、個人的には眉唾ではないと思います。

その邪気は、生霊に乗ることで力を増幅させるのかもしれません。人間にしては、生霊の力が強すぎると感じることもあるからです。

朝、ふと地元の氏神神社に呼ばれている気がして、天気も良くなかったのでどうかなと思ったのですが、やはり行くことにしました。
近いうち神棚を作らなければいけないと考えていたので、氏神様のご神璽はいずれ拝領せねばならなかったのもあります。

道すがら、ひどい邪気を放つ人が道にいて、どうしてもすれ違わなければならず焦りました。
見た瞬間、「人間レベルの邪気ではない」と思いました。
悪霊に取り憑かれた人、とかではなく「魔物」という認識に近いです。
少なくとも、私は霊的に彼を人間だと認識できませんでした。

ですので、できるだけ近づきたくなかったのですが、通り道なので仕方なくすれ違うことにしました。
何かブツブツ言っているので、余計におぞましいと感じました。
人々の邪気は高まってはいると思ってましたが、ここまで人間離れした邪気を背負う人がいるのか、と少しびっくりしました。

あまりにすごい邪気なので、逆に興味が湧きました。そこで、しばらく遠目から彼を見ていました。
すると掃除係の方に話しかけていたので、何か聞きたいことがあったのかもしれません。
たぶん私が彼に話しかけられていたら、邪気を浴びて半日は寝込んでいたと思います。
お守りと塩を持参して、本当に良かったと思いました。

とりあえず神社に着いて氏神様に参拝し、目的のご神札を頂いて帰路に着きました。
神社を出る際、門前で唾と痰を吐き散らす人がいて、これもびっくりしました。

この人を見た瞬間、「魂が汚れているから、本能的に神様に助けを請いに来たのだ」と感じました。
やはり、確実に邪気を危険水域まで溜め込んでいる人は増えて来ている印象です。
彼は鳥居の前でお辞儀をしていたので、人間はよくわからない生き物だな、と思いました。

こういう「魔物的邪気」を帯びた人は、近ごろたびたび目にするようになって来ました。
邪気を帯びる人もわかりやすくなって来ているというか、これからさらに極端になってくると思います。

私は一目で人のエネルギーの内容まで見ることはできませんが、エネルギーが内向きの人、外向きの人で出す波長が違うな、というのは感じます。

エネルギーが外向きの人は、分類するなら子供から若者、運動をしている人、子供と関わりが深い大人、ペット連れの人が目で見る限り多い印象です。
その人たちが意識面で神様や目に見えないものをどれだけ信じているかはわかりませんが、「生命体のポジティブなエネルギー」の近くにいる人、わりと本人などは、比較的元気なのかもしれません。

逆にエネルギーが内向きの人は、容姿ではなく姿勢とか佇まいから、鬱屈とした波動を放っているのがわかります。
おそらく赤の他人に依存したり、人が作ったもので心を落ち着けていると、自分の魂の声を黙らせてしまうのだと思います。
彼らを見ると、人間本来の気の流れが滞っているように見えますし、生命体としてのエネルギーを喚起できていないのではないでしょうか。

スピリチュアルの世界では、この次元上昇で二極化とか、五次元と三次元世界の分離とか言われます。
私は「神代」と「人世」で区別している概念ですが、これが現実世界でどういう形で具現化するのか、若干不透明だと感じる部分はありました。

私は最近、これは「運気」という形で個人に降りかかってくるのでは、と思うようになりました。

あまりこういうことは言うべきでないのですが、私が朝にすれ違った男性は、ここまで邪気を溜め込むと後は犯罪に走るか、そのエネルギーを自分に向けて病気になるか、という二択しかないように思います。

邪気の何が悪いかと言うと、気の枯れから起きる意欲の喪失によって、するべきではない選択をするようになるからです。
人に対して当たり散らしたり、楽をしようとして良くないことをしてみたり、出来心でするべきではないことに手をつけてみたり、などです。

魔が差した行動は、いずれ良くない結果になって跳ね返って来ることがほとんどです。
それは当事者からすると、「ついてない」と感じるかもしれません。
因果応報なのですが、わざと良くない行動を選択してしまう、それがまさに「運気」だと思います。

信仰心を持つ人は、この邪気から率先して神様に守ってもらえるため、災難や運の下落を避けることができます。
邪気の影響を受けないので気力が充実しやすく、ゆえにエネルギーが高い状態で安定し、発想力や創造性を発揮して行動することも可能になります。
そういう人は、前向きな行動を起こすので周りに良い影響を及ぼし、結果として幸運を引き寄せます。

現実的には、こういう仕組みで「二極化」は現れてくるのではないでしょうか。
これまでの世では、生まれの良さや資産規模で決まっていた二極化が、「運」という目に見えないものに支配され、どうにもならない人は本当にどうにもならなくなるのだと思います。

そういう時代に人々はどう考えるようになるかと言うと、神社に行って神頼みするとか、ゲン担ぎをしたりジンクスや占いを信じるようになるはずです。
社会は物理的なハックでは身動きが取れなくなるので、目に見えない存在に頼るしかなくなるからです。
そうするうちに人は内面と向き合わざるを得なくなり、世の雰囲気はより精神的になっていくでしょう。

その時、スピリチュアルへの評価、神仏への再評価が起こります。
この一連の流れは、どう見ても「神様のご計画」のように思えてなりません。




家を出た時には一面の曇り空でしたが、神社から帰る時には青空になっていました。
帰り道、登り龍のような雲を見て、思わずカメラを向けてしまいました。

私は飛行機雲を「龍雲」と言いきるつもりはありませんが、どうしても満月の日との関連を考えざるを得ませんでした。
今日の街の邪気の帯び方はいつになくおかしいと感じましたし、地面から暗い気が噴き出しているようにも感じました。
気の流れ的に、龍たちが動いていてもおかしくないな、と思います。

どうもこの先、多くの人々にとってはあまり良くないことばかり起こる気がします。
さりとて、私も安心できる立場ではありませんし、
自分のことをしっかりやっていくしかないでしょう。

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「玉依姫」イラスト予告

楽太郎です。

先日「瀬織津姫命と白龍」のラフをこのブログに上げました。
あれはあれで制作中ですが、次の神様のイラストは「玉依姫命」様です。

瀬織津姫命様と須佐之男命様のイラストの時は、何となくメッセージを受けて描いた感じですが、今回は完全に私の判断です。

「神様と人の距離感を縮める」というミッションに、私が絵描きとして関わることになるとしたら、先日の「繋がれる神様」という記事に書いたように、キャラクター化することでイメージ戦略を取っていく形になるのではないかと考えています。

今でも、記紀の神様がキャラクターになって紹介されている本はありますが、漫画的なテイストになっているコンテンツはあまり多くはありません。
取り回しで考えるなら、キャラクターの立ち絵などあっさりしたイラストを量産した方がいいかもしれません。
一枚絵はそれよりもコストがかかる上、あまり応用が効かないのです。

ビジネス的な展開はさておき、もっと神様のお姿とお名前を周知する戦略もこれから考える必要がありますが、ともかく神様を描き慣れていかなければいけません。

「玉依姫命」様は、私がよく参拝する賀茂神社のご祭神の一柱です。

以前のイラストも参拝後に描き始めたわけではなく、ご縁があったわけでもない状態で描きました。
しかし、こういうのはご縁を頂いてから描くのが筋なんだろうと思い、とりあえず参拝経験のある玉依姫様を描かせて頂こうと思いました。




神様を描かせていただく時、なぜか完全に架空のキャラクターを描く時よりも、デザインや絵面が迷いなく決まるのは不思議です。

こういうことを言うのも何ですが、須佐之男様を描かせて頂いた時はプレッシャーが凄まじかったのですが、玉依姫様を描いてる間は、賀茂神社で触れる優しいご神気に似た、柔らかいエネルギーを感じました。

そこで思い出したのですが、記紀では玉依姫様は豊玉姫命様から託されたウガヤフキアエズ命様をご養育後、同氏とご結婚され神武天皇がお生まれになりました。

賀茂神社では、上宮はウガヤフキアエズ命ではなく賀茂分雷命となっていますし、玉依姫の父上は綿津見大神ではなく賀茂建角身命となっています。
賀茂建角身命様は、賀茂神であり八咫烏神として同社では祀られています。
ここら辺はどういう経緯か、どう解釈すべきかは古史古伝素人の私には判断しかねますが、賀茂神社は賀茂県主の家系の氏神神社ですので、色々な背景があるのでしょう。

神様の世界も興味深いですが、伝承と歴史の中の神様の世界も興味深いです。
これが実際の神界とどう繋がっているのか、私の興味は尽きません。

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フィジカルへの回帰

楽太郎です。

ここ数日、やたらと物質面に目を向けさせるような出来事が続いています。

「お金」はずっと私のテーマですが、具体的に勉強する機会が訪れ、その意識を変えている最中です。
YouTubeを見ていても、大豆由来の粉物で作るお菓子とか漬物とか、なぜか今まで興味がなかった分野のことに興味が出始めています。

あと、筋トレを始めました。
これは数週間仕事から離れていたので、椅子に着くと集中力の低下や持久力が著しく落ちたのを感じてしまうからです。
脚の筋肉も体幹もかなり弱っているのを実感するので、軽いスクワットなどを生活に取り入れるようにしています。

このように、徐々に私の生活のテーマが変わってきています。
「フィジカルへの回帰」と言えば、おかしな言い方かもしれません。

これまで次元上昇のために、数年かけて波動を上げる修行をしてきました。三次元世界や人世への依存心を捨て、抽象度の高いテーマと向き合いながら魂を成長させるためです。
ただ、おそらく地球のアセンションの状態は安定期に入りつつあるのだと思います。
そのため、そろそろ抽象的になりすぎた意識を、大地に根差す準備を始める段階に入ってきたのではないでしょうか。

私にかかるテーマはもう一つあって、それは「日本文化への回帰」です。

これまで、記紀を中心とした日本神界との結びつきも重要なテーマでしたが、古史古伝や歴史への探究心も芽生え始めています。
それだけでなく、日本の食材を使った伝統料理や、古民家や神社などの日本建築にも興味が湧き始めています。

これは、私自身としては「趣味として」情動が高まっているという感覚ではありません。
大豆由来のお菓子を作ることに興味があるわりには、私はそれほど甘いものが好きではないのです。

何か、「使命感のようなエネルギーでやりたいと思わされている」という表現がピッタリ来ます。
神様から入ってくるエネルギーは、だいたいこういう感覚で表に出てくるので、おそらくこれがお役目なのだろうと思います。

では、なぜ「日本文化への回帰」を神様が促すのでしょうか。

ご存知の通り、日本は戦後80年の間に国家の仕組みごと骨抜きにされてしまいました。
途中までは日本人らしさが花開いた良い時代はありましたが、今はご覧のあり様です。神様は、他文化と我欲に汚される国土を見て、さぞかし胸を痛めていることでしょう。

「日本人に日本文化を取り戻して欲しい」というのは、神社仏閣におわす神様だけでなく、神々に限りなく近い遠津祖、日本をずっと守ってこられたご先祖様たちにとっても、心からの願いでしょう。

日本の歴史の中で、自らを犠牲にしても後世を守るために志を貫かれた多くの英霊たちは、今の日本を見てどう思われるのでしょうか。
これから物質文明が衰退し、再び国土が日本人の手に戻るとしたら、ご先祖様たちや日本の神々は、日本を本来の姿に戻してもらいたいのかもしれません。

日本人が日本を取り戻す事業は、「富」という概念を履き違え、金と欲望に使役される奴隷となっていた現代人が、我に返った先に目的意識を取り戻す時、「温故知新」という考え方と共に、日本人の強い光となるはずです。

「モノがなくても、人がいなくても幸せになれる」という考え方は、資本主義が衰退した後の世界では福音になるのではないでしょうか。
日本の古き良き文化は、その役割を十分こなせるはずです。

そして、その需要が高まるということは、そこに「金運」の種が宿っているということです。
例えば、たくあんや漬物は、商品として卸しても大した利益にはならないかもしれません。
しかし、独自の製法で作られた漬物があるとして、作り方のノウハウ自体を商品とするなら、その情報はたくあんを数十年売り続けるよりお金になる可能性もあります。

こういう発想は実に「風の時代」的ではないでしょうか。
たくあんを工場で大量生産して売り捌く、という土の時代の考え方とは明らかに違います。
この情報も、売るべき相手を自分で選び、共有するコミュニティも自分で選択する、商品の価値も自分で決める、その主体が自分自身にあるからこそ、自立した生き方ができる気がしてなりません。

神様は、そうして選択の主導権を自分が握ることで、支配構造から自由に生きていける人を増やしたいのではないでしょうか。
これまでは、力のある人間が専売特許を奪うためにあれこれ工作をしてきたわけですが、個人の力が強くなればその要求も跳ね除けられるはずです。

そのために、神様は人々が「唯一無二の才能を育てる」ことを願っておられるのだと思います。
自分にしかできない、自分しか知らない、そういった特殊技能を武器に世の中を渡り歩いていく、そうすることであらゆる支配から自由になることができるのではないでしょうか。

こう考えたら、文明の崩壊を目の当たりにして一喜一憂することなく、次の時代を見据えて研鑽していく、そのプロセスを有意義に感じることができるかもしれません。

薄暗い世相ですが、私は時代が変わるのが楽しみでしょうがありません。

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変革の風を起こす

楽太郎です。

今朝、散歩していたら川に白鳥がいました。
この白鳥は、数年前から一匹でこの川付近に棲みついているようです。
私はその子を見るたび、「寂しくないのだろうか」と思います。

ただ、鳥たちは人間のように遠慮しながら生きる動物ではないので、何の不満もないのかもしれません。
時折、鷺や鴨たちと一緒にいるので、寂しくはないかもしれません。

鳥たちは他の種族でもこうして群れて共存できるのに、肌の色や生まれが違うだけで分かり合えない種族もいるのは、皮肉なことです。

川辺で、鴉が餌を探していました。
鳥たちは、餌を探す行為を「生きるために仕方ない」とは思っていないでしょう。

「生きることは義務だ」と思うような生物は、そもそも長い淘汰の中で生き残ることはできなかったはずです。
人間以外の動物は、自分が生きること自体に目的や喜びを見出し、その行為を面倒くさがることはないでしょう。

しかし、人間は違います。
ものを食べるために、家賃を払うために、やりたくないことをしたり、死なない選択をするために、仕方なく毎日を生きていたりします。
そうやって自分たちの社会を生きづらいものにした結果、子供たちが減り若者たちは活気を失い、自分たちではどうしようもなくなってしまいました。

その穴を埋めるために外国人を呼び込み、日本の文化や国土を投げ売り、日本人は米も満足に食べられなくなっています。
私は、もうこのまま行くところまで行くのだろうな、と静観しています。

この世には、「禍事」が浄化という形で溢れています。

人々はまだ、世の中が選挙一つでひっくり返るとか、アメリカの大統領が諸悪の根源をぶっ潰してくれる、そうすれば全てが良くなると思い込んでいます。
噴出する世の悪事を正義感で叩いていけば、いずれ世の中は正常になり、発展する社会に戻ると信じています。
しかし、私からして見れば、そうならないのも神様のご計画の一部です。

神様は、仏教に「天魔」という概念があるように、悪魔意識を巧みに利用されているように見えます。
日本の新紙幣は、私は始め「持ちたくない」とすら思いました。
あれは、日本人の価値観に背くデザインだと思いますが、あのセンスの悪さが逆にお金に対する執着心を阻害する効果があるかもしれません。
それを狙ったのなら、あえて良くない波動を紙幣に込めたことで、人々の意識は変わざるを得ないはずです。

この場合、日本の金融を牛耳る権力集団の悪意を逆手に取った、神々の奸計であるとも言えます。
同時に、世のスキャンダルはわかりやすい形で炎上します。
大衆は自らの正義感でこの問題を叩きますが、その「正義」も「悪意」も神様は禍事に使っておられるように思います。
そこには、あらゆるタイミングの一致や偶然も関わっているように見え、それらが噛み合うことで社会の禍事が顕在化しているように見えます。

つまり、人間社会で起こる「禍事」は、「悪意」「正義」「偶然」という三つの要素を歯車にして噴出しています。

神様がお力を示される時は、主に自然現象や偶然が多いのですが、時に人間の心も利用されます。
もちろん本人の自由意志でしょうが、そう仕向けることは神様なら可能なはずです。
そうして、人間界の禍事と浄化は、あくまで人間同士の次元で起こし、解決させようとしている気がしてなりません。


これから時代が変わり「神代」になる前提の話をすれば、私は人世の崩壊時には明治維新や戊辰戦争のような内戦もありうるのではないか、とかつては思っていました。
しかし、神様と繋がり神様のお顔を伺う限りは、より文化的かつ合理的なイノベーションによって世を塗り替えていって欲しい、と思われているように思えてなりません。

それは、これからの世に勝海舟や西郷隆盛が必要というより、むしろ福澤諭吉や渋沢栄一のような実業家に世の変革を担ってもらいたいのではないか、と思うのです。

神様のお力なら、自然の力を利用すれば諸悪の根源を物理的に抹殺することは容易でしょう。
しかしそれをしないのは、神の力だけで人の世界を変えることに意味がないからではないでしょうか。

神様は、人間が自分たちの力で変化を起こし、世を立て直すことが必要なプロセスだと考えておられるのだと思います。
人間がどういう世界が新しい世界に相応しいかを考え、その目的のために自分たちで社会を変えていく、その手順を踏まずして神代は訪れないということでしょう。

だから、多少醜い争いや汚行に心が磨り減ろうと、それに目を背けず、人間たちが自分たちで社会をどうしていくかを考えなければならないのだと思います。


今日、アップされた「日月神示」の朗読動画で、興味深い一節がありました。

日月神示・梅の巻「第十八帖」 | シンジツヲツナグ

おそらく著作権侵害には当たらないと思うので、ここに本文を転載します。

第18帖

「自分で自分のしていること分かるまいがな、神がさしているのだから人間の頭では分からん、仕組み通りに使われて身魂の掃除の程度に使われて、使い分けられているのじゃぞ、早く人間心捨てて仕舞って神の申す通りに従って下されよ、それがお主の徳と申すものじゃぞ、一家の為めぞ、国の為めぞ、世界の民の為めだぞ、天地の御為めだぞ、今までに無かったこと今度はするのじゃから、合点出来んのも道理じゃ、道理じゃ、始めは戦いで争で世の建て替えする積りであったが、あまりに曇りひどいから、戦ばかりでは隅々までは掃除出来んから、世界の家々の隅々まで掃除するのじゃから、その掃除中々じゃから、戦許りでないぞ、家の中キチンと食物大切にするのが、開の御用と申してあろうがな、今度の岩戸は、開っぱなしじゃ、褌要らんと申してあろう」

この節に日月神様や日本の神々の温度感が集約されていると思います。
神様は、人間を間引いて世を変えるおつもりというより、命までは取らずとも人間に心を改めて貰えたらそれが何より、と考えておられるのだと思います。

だからこそ、神様は文化的、精神的な面で、平和的に平和な世を作っていって欲しいのだと思います。
神様が私に「闇の勢力と戦え」と仰らない理由の一つであり、それは人々の心の変化で起こせるものだからだと思います。

神代は、神様の愛と人類の友情で繋がる世界であると私は思っています。
だから、心で世の中を変えていく、それが全てではないでしょうか。

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「お金」のブロック

楽太郎です。

今日は、久しぶりにガクッと来ました。
昨日まではわりと普通だったのですが、久しぶりに好転反応というか、エネルギー的な不調が来ました。
こういう時はジタバタすると長引くので、大人しく本などを読んで勉強する時間に充てることにしました。

今、「金運」に関する本を読んでいます。
これまで、金運に関する本を自ら買うほど「お金が欲しい!」と思ったことがないので、ある意味新鮮です。

私は、お金が嫌いではないですし、たくさんあるとやっぱり嬉しいです。
けれど、確かにお金持ちに対しては偏見があるかもしれません。
それは、お金持ち自体が嫌いなのではありません。

「大金を持つに値しない器の人間に、金持ち自慢されるのが嫌」なのです。

例えば、月収1000万円と宣うインフルエンサーが、薄っぺらい綺麗事を言いながらネックレスをジャラジャラさせている、みたいなのが気に食わないですし、「お金持ち」にはそういうイメージが付きまとっています。

ただし、「世に貢献した結果、富を得た人」という意味でのお金持ちなら心から納得します。
北野武監督や桑田圭佑さんが大富豪であるのを、批判する気になるはずがありません。
「徳のある成功者としてのお金持ち」と「世をうまく渡って成功した金持ち」とはニアリーイコールの関係です。

私はお金持ち云々以前に、人物の素性を見るので「お金を持つに値しない権力者」が嫌いなのです。
けれど、わざわざ金持ち自慢をするような人は、残念ながらそういう人たちばかりです。
ゆえに、それを一般化してバイアスをかけてしまうのだと思います。

この本の中にも資産形成の話が出てきますが、「これをしたから私はこう上手くいった」みたいな話は「自慢じゃん…」と思ってしまいます。
しかし、お金持ちを「即物的」と思ってしまう先入観こそ、私の「お金意識のブロック」であることに気づきました。

冒頭にも述べましたが、私は「お金持ちは人徳も併せ持つべきである」という「ノブレス・オブリージュ」的な価値観を根強く持っています。
ただ、資産家の子息として生まれたり、宝くじが大当たりしてお金持ちであるのと、人徳は全く関係がありません。

お金はただのシステムなので、モノとして集まってくるだけの道具です。
お金持ちは、トンカチを大量に持っているようなものなので、大工の棟梁である必要がありません。
私は、どうもその部分を履き違えてしまいがちです。

私はずっと、「幸福とは心の問題である」と思ってますし、今もそうです。
しかし、家もなく暖房も食事もない状態では「心の問題」では済まされません。
現実的に手段としてお金が必要なのはわかっているのに、なぜかその部分が抜け落ちているのです。

この現実離れした理想の高さ、悪く言えば世間知らずさが、私が金運に恵まれなかった一番の理由なのではないでしょうか。

下手に人間を見てしまうからこそ、低俗なマウントを見て「ああはなりたくない」と思っていました。
お金自体に汚いイメージを抱くというより、大金を手に入れたら彼らと同じ人間になるのではないか、という抵抗感があったのかもしれません。

自分がお金持ちになれば、彼らと同じカテゴリの人間に見られてしまうのが嫌とか、彼らと同じカテゴリに入るくらいならお金持ちになりたくないとか、言語化すると感情的な理屈です。

しかし「お金持ち=成金」でないので、その図式は絶妙に間違っています。
このバイアスこそが私の「お金意識のブロック」になっていたのだと、改めて思いました。

私はたぶん、力を持っている人間が好きではないのだと思います。
これまで意識したことはなかったのですが、確かに私は影響力のある人物ほど距離を取って観察する癖があります。
そういう人ほど裏がある、という先入観は確かにあるかもしれません。

冷静に、権威や影響力を良い方向に使う人ばかりなら、今のような世の中にはなっていないわけです。
どんなお金にまつわるメソッドを実践し、神様から金運を授かろうと、成功者が必ずしもメリットだけを人々にもたらしているわけではないでしょう。

これまでの土の時代は、特に力を自分中心に使う人物ばかりだったからこそ、力の集権と資本は密接な関係にありました。
力を持つ人間はお金も握るので、デメリットの側面も大きく出てしまうはずです。
それを強行するのは社会的強者がほとんどなので、私はどうしても警戒感を持ってしまうのです。

けれども土の時代は終わり、古い経済システムはこれから崩壊を迎えるはずです。
その頃にはお金のルールが変わり、システムが変われば私にもチャンスがやって来るかもしれません。

私の読んでいる金運の本は、神様が主導権を取り戻した世界では、さらに有効な方法論になる可能性もあります。
一部の金持ちが汚いことばかりをやってきたのは事実でしょうが、仮に私がお金持ちになった時、彼らと同じ振る舞いをするかは私自身の問題です。

「そうならない自信がある」のなら、私はお金持ちになる覚悟が定まりますし、心のブロックは解けるはずです。
お金をエネルギーとして肯定し、そのエネルギーを蓄えた自分は内面も豊かさを固持し、他人にために自分の富を手放すことを躊躇なくできるのか?

自分がそれをできないならば、人様に「ノブレス・オブリージュ」を指図する資格はないでしょう。

高潔に生きたいのは、本当に魂からの願いです。
けれども、何となく足元が見えていないところが、私が現実といまいち噛み合わない原因とも言えますし、本来それに関して他人は関係ないはずです。
「立場に見合わないプライドの高さ」も、私に金運が巡らなかった理由の一つであるように思います。

なんか、書いてるうちに私自身への反省文みたいになってしまいました。
でもこうして自分を客観視したことで、実際に意識のブロックがあったことがわかりました。
これがわかるのとわからないのとでは、これからの結果は違ってくるかもしれません。

これがわかっただけでも、この本を読んだ価値がありました。
もしかすると、これを自覚すること自体が「金運」なのかもしれません。

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「神代」VS「人世」

楽太郎です。

世の中が、ますます騒然としてきました。
2025年は色々あると噂されてきましたが、一部のインフルエンサーの方はすでに「再生が始まっている」と仰っています。

その真偽はさておき、世はまだ崩壊期に差し掛かったばかりで、見た限りでは崩壊しきるまでだいぶかかるように思えます。
ある一つの大企業が壊れ切るのでも、2025年以内に納まるとは言えないかもしれません。

確かに新しい芽は芽吹きつつあるかもしれませんが、それを踏み荒らす環境は何一つ変わっていません。
世の中は、混沌としてきてるだけで1ミリも良くなってはいないのが実感です。

世界中の戦争も、依然と続いています。
ウクライナ侵攻に関して、私は静観しています。
あれはDSとロシアの正義の戦いだと仰る方もいます。

しかし、あの戦争はウクライナという小国がいかにNATOを後ろ盾にしようと、ロシアが脅威を感じて侵攻を開始する理由にはなりません。
ロシアが戦争をしたくなければ戦線を撤退し、現在の掌握地域を交渉材料にして和平を結ぶことは容易なはずです。
何故、国家が崩壊寸前になっても戦争を続けなければならないのか。私には、「戦争をすること」自体が目的のように思えてなりません。

転じてウクライナ軍は、西側諸国から資金援助や武器供与を受けつつ、新兵器の開発を進めています。
私は、「新しい戦争形態の確立」というのがこの戦争のメインテーマなのではないかと考えています。

アメリカ大統領にトランプ氏が返り咲き、アメリカ国内も騒然として来ました。
ロサンゼルスの山火事や飛行機の衝突事故、あくまで私の直感にすぎないのですが、「よくこれほど堂々と証拠隠滅や暗殺ができるな」と思います。

テックバブルは、全く衰えを見せません。
トランプ大統領就任時に、背後にはマグニフィセント7の壮々たる面々が並んでいました。
トランプ大統領は、どう見てもDSの息のかかった大富豪たちと、米国のための取引をしたのではないでしょうか。

DSには「軍事産業系」と「金融系」「テック系」「医療・製薬系」の、主に4つの流派があるように見えます。
軍事産業はしばらく戦争が続く以上は安泰でしょう。製薬産業も、疫病には事欠かない世相です。米テックに対する投資は金融が支えていますが、金融システムはもう持たないと思います。
中国の経済危機と米国の負債、世界中の国家的デフォルトの可能性、それらが瓦解する寸前なのは手に取るようにわかります。

しかし、この経済危機の中で、特にハイテク分野以外で外貨を稼ぐ手段のない米国は、やはりビッグテックに依存し続けるしかないのではないでしょうか。

トランプ大統領は、FRB議長のパウエル氏とは犬猿の仲だと言われています。
ただ、アメリカ経済の生命線を握っているのはFRBなので、下手にバブル崩壊の引き金を引けば、共和党の支持が落ちるのは明白です。
だからこそトランプ氏はバブル崩壊を避け、本気で経済をソフトランディングさせたいはずです。

その鍵となるマグニフィセント7は、今では世界中のデジタル産業を牛耳り、今後はAI分野でも覇権を握るものと予想されます。
アメリカとEUの仲の悪い理由の一つが、EU圏内ではIT産業が軒並み米国テックに潰されてしまうため、IT分野が成長しないからです。
米国テックは、スマホやPC、AIのプラットフォームを掌握する限り、とりあえず外貨は自由に稼げる状態を維持し続けるでしょう。

それに加え、近年米国テックが開発を進めている分野は生体デバイスと不老不死技術です。
これには日本政府も「ムーンショット計画」として一枚噛む、きな臭い分野でもあります。
これは金融システムが崩壊した後の、DSの新たな支配構造の一部であるような気がしてなりません。

人々はデバイスによって繋がり、やるべきことはAIがサポートしてくれ、お金を稼ぐためにハイテクを用いて、病気も忽ち治る不死の身体を手に入れる。

それはまさに「神のいない世界の楽園」です。
神の代わりにAIがあり、AIの上に超富裕層がいるわけです。
これこそ「人世」の最終形態であり、人間は一切の努力や悩みから解放される代わりに、魂の自由を失うのです。

この世界は、もう目前でしょう。
しかし、これを本物の「神様」はどうご覧になっているのでしょうか。

この世は、魂の修行として生まれてくる場所です。
今生が楽しかなく、あるいは楽を得るための地獄がある世界で、税金のようなサブスクを払うために働き、救いの道がハイテクを使うことだとしたら、どうでしょうか。

人々は、神様の声を聞こうとはしないでしょう。
人生の答えを全てテクノロジーが握っているのですから、誰もがお金を払って解決したいはずです。
しかし、それだと魂の修行にはなりません。

少なくとも私には、自分自身を見つめ才能を伸ばし、目に見えない世界を信じて自由を掴み取るよう、神様は促してこられます。
神様が「イーロン・マスクを信じればあなた方は救われます」と仰ったことは一度もありません。

私は、これが答えなのではないかと思います。

これからの世がどういう世界になるのか、私には予想がつきません。
私の勝手な正義が通用することのない世界でも、私は構わないのです。
しかし、目に見えない存在や神々、人間の尊厳や自由が貶められる世界であってはならないと思います。

米国テックの権現たる生成AIを、私が蛇蝎の如く嫌うのは、あれが「人間の努力や才能を嘲笑う」用途にしか使われていないからです。
魂の発露である才能は、神様が一人ずつお与えになった恩寵とも言えます。
「お金を払えば才能などいらない」というアイデアは、私には到底受け入れることができません。

神様はその光景をどうご覧になっているかは存じませんが、私はこの世の理と神を信じます。
人の支配する世界は、やはり人が君臨するためにあらゆる行いを人に強いる世界なのです。
そこに魂の自由はないからこそ、私は神様のいる世界に人を連れていきたいのです。

現在の浄化と立て直しの波が、どこまで進むのかはわかりません。
ただ、支配者が古い人間から新しい人間に変わっただけでは、この世の地獄はまだまだ続きます。
やはり、人間の上には神様に居てくださり、自然や動物と隣り合って生きるのが人間という存在だと思います。

私は、その時代が来ることを願って止みません。

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「繋がれる」神様

楽太郎です。
昨日から瀬織津姫様の新しいイラストを描き始めました。

私は以前、かなり集中することで神様っぽいメッセージを降ろすやり方をしていました。
それにはかなり強い念とコンディション、タイミングが噛み合っていなければ再現性がありませんでした。

ただ、最近は無理に神様から言霊的なメッセージを受け取ろうとするのをやめ、身の回りの変化や事象に神様のメッセージを見つけて、勝手に解釈するやり方をしています。
この方法で神様のお導きを受けると、「メッセージを貰わねば!」みたいな気合を入れる必要もなく、変に緊張することもないので気が楽です。

リラックスしていると、かなりインスピレーションが入りやすくなりますし、周りの変化に気づきやすくなります。
ぶっちゃけ、自分のエネルギーの何割に神様の干渉が入っているかわからないくらいです。

瀬織津姫様のイラストを描き始めたのも、神様が「描きなさい」と言ってきたわけではありません。
けれど、なぜか魂の向きでそうなってしまい、エネルギー的になぜか後押しが入っています。
これに関しては、自分でもなぜこの行動をしているのか理解はしにくいです。

ふと思いついたことがあります。
神様が吹き込んだものかわかりませんが、ここに書いてみようと思います。
これからお話することは、戯れごとだと思ってください。


私は瀬織津姫様のデザインを自分で考え、そのイメージを元にイラストを描いています。
人間が事象として神様をキャラクター化するのは、今に始まったことではありません。

例を挙げれば、「大国主命」様や「事代主命」様は、記紀の記述だけではどういう神様かイメージが伝わりづらいと思います。
しかし、七福神の「大黒様」や「恵比寿様」となれば、日本人なら誰もがイメージをしやすくなります。

さらに言えば、「サンタクロース」はキャラクターとして確立していますし、親しみやすさやキャッチーさは社会に浸透しやすい要素であることがわかります。

日本人が神社に行く時、神明造の古びたお社を前にすると「厳しい神様」をイメージしたり、神様は目に見えないので想像すらできなかったりします。
しかし、この時「大黒様」や「恵比寿様」ならある程度イメージができると思います。

私は、「神様のキャラクター化」を通して、神様に対する親しみを広げられないか考えています。

これは、神様でキャラクタービジネスをしようというのではありません。
神様は実在されるので、日本全国津々浦々、本気で繋がろうと思えば繋がれる存在です。

例えば、ドラえもんや孫悟空は完全に架空のキャラクターなので、感性で繋がることは不可能です。
しかし、AKB48やジャイアンツの選手は、実在するので直接会ったり握手したりすることはできます。

神様なら例えキャラクター的なイメージでも、心の中では実際に誰もが繋がれるわけです。
これは、現代人にとってかなり新しいコンテンツと言えるのではないでしょうか?

私の描く瀬織津姫様が、実在の瀬織津姫様や同定される神霊と似ているとか、同じであるはずはありません。
しかし、私の描いた瀬織津姫様のイメージがあれば、瀬織津姫命の神霊へのアクセスは容易になるかもしれません。

それはあたかもクリスマスにサンタクロースにお願いするように、瀬織津姫様にお願いする人が増えるということです。
頑張れば瀬織津姫様だけでなく、武甕雷命様や天児屋命様のように、なかなかお姿が想像できない神様にも、人間が抱きやすいイメージに描くことは可能です。

神道では御本尊が彫像であることはほぼありませんが、仏教では仏像が祈祷の対象となっています。
よく仏像は偶像崇拝と揶揄されますが、これは完全な誤解です。お釈迦様は偶像崇拝を禁じておられるからです。

仏教が仏像を安置するのは、求道者が「仏様」をイメージしやすいようにする為、と言われています。
仏様を拝む時、仏像に宿る仏様を拝んでいるのではなく、仏像を参考にして仏様を拝んでいるのです。
それは、仏像から仏様のお姿をイメージし、より仏様にアクセスしやすくする機能があるのだと思います。

つまり、神様に対する明確なイメージを持つことで、神社などから神様に繋がることは(理論的には)ハードルが下がると言えます。
とは言え、自分で神様に繋がってみると、全くイメージが違ったということもあるでしょう。
その時には、「自分が繋がる神様」のお姿を、自らイメージし、表現してみたらいいのです。

そうやって、「自分から見たマイ神様」みたいな輪が広がっていくとすれば、もっと人々が神様を身近に感じ、神様と繋がる人も増えてくるのではないでしょうか。

余談ですが、神様をガッツリ信仰し始めた私を、両親は少し気味悪がっています。
戦後の新興宗教団体は悪目立ちすることばかりしてきたので、親世代では宗教に対して忌避感が強いのです。
ただ、神道は精神分化や習俗であって、厳密に言えば宗教ではありません。この誤解があるから、八百万の神霊や国家神道の神々も軽視されがちなのです。
現代の日本人の宗教観は、残念ながら今はこのレベルです。

ただ、これから神代となり神様が実在することが前提の世となれば、神様の存在がより身近になり、神様をピックアップした事業も伸びてくるでしょう。
その点において、日本のキャラクター文化は、神様の世界ととても相性が良いように思えます。

今、経営で頭を悩ませている神社も、もう少し楽に運営できるようになるかもしれません。
その善し悪しは神様でなければ計りかねる部分ではあるのですが、神様の影響力が増すのは確実であると思います。

戯言とか、絵空事と受け取っていただいても構いません。
私は、神様と人間がもっと仲良く暮らす世界になれたらいいな、と思うので一応考えてみました。

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「神を描く」

楽太郎です。

ここ数日は、神様のことばかり考えています。
考えざるを得ないというか、神様のことを考えている間は波長が高い状態で安定するので、とても心が落ち着きます。
瀬織津姫様を自宅でお祀りすれば、もっとエネルギーが安定するのだろうな、と思います。

ふと思ったことがあります。
人間が精神のエネルギーを地上に降ろす際には、自分の肉体だけでなく物質世界との結びつきがあるからこそ、その物体がアースの役割を果たし、魂のエネルギーが地上で発現し作用します。

しかし私の場合、人一倍モノに対する執着がないというか、大事にしていたものすら埃まみれにしてしまうくらい、物質世界を二の次にしてしまいます。
オタクをアイデンティティとしていたはずが、グッズも手に入れたら持ってること自体を忘れてしまうことも多々ありました。

特にこの数年は、あらゆるモノを断捨離して、布団と机とパソコンしかないような部屋で暮らしていましたし、あれほど色々あった趣味にも興味がなくなってしまいました。
あまりに精神的になりすぎてしまったために、エネルギーを地上に降ろす物的なアースが喪失してしまい、ずっと放電し続けるという状態にあったのかもしれません。

ある時、神社に呼ばれたその日が「お伊勢さん」こと天照皇大神宮の大麻の頒布開始日で、たまたま品切れになる直前に貰い受けることができました。
お札立てを急いで購入し、見よう見真似でお祀りするようになってから、少しずつ私の運の歯車が回り始めた気がします。

私の精神的なエネルギーは、神様と繋がることで御神札を媒体とし、この地上に満遍なく降ろすことができるようになるのかもしれません。
私に本来あった女神性を求める心は、瀬織津姫命様への強い信仰心となり、地上に降ろす魂のエネルギーと同化し最大化されるのではないでしょうか。

以前、瀬織津姫様のイラストをこのブログに上げました。
スマホの待ち受けも私の描いた瀬織津姫様ですが、時計文字がお顔にかかるのは腑に落ちないながらも、やはり「お麗しい!」という気持ちになります。

自分のしがない妄想で瀬織津姫様をキャラクター化してしまうのは不敬ではないのかな、という気持ちは正直ありました。
だから、神社やご神気を通して感じる瀬織津姫様と、私の描いたキャラクターを同一視するのも畏れ多いと感じていました。

ただ、神社の本殿に鎮座されている御神体は、鏡であることが多いそうです。
これは「神はあなたの心にいるのだ」というメッセージだと聞いたことがありますが、私は違う見方をしています。

神様は、普通の人間には見えない存在です。
人間が神様の声を聞いたりご神気を感じる時、心の深い部分を通して発現します。
それは、我々三次元の人間からすれば、神様をエネルギー体として認識しているからです。
その時、魂に触れたエネルギーは自分の脳に刻まれた知識やイメージを通して表現されるので、個人差はそこで生じます。

例えば、神様が同じエネルギーを小学生と僧侶に送ったとして、そのメッセージの捉え方は全く違うはずです。
私たちが神様の声を聞いたりお姿を想像する時、そのイメージは自分が作り出しているということです。

だから、仮に瀧澤神社に行って瀬織津姫様を想像するなら、私の感じる神様のお姿は自分が作り出したイメージだと言っても過言ではありません。
縄文時代は神様が磐座であったり、もっと形がない状態だったものが、時代につれ人間が文字や言葉を使うことで神様の定義を確立させてきました。

そこかしこの神社に祀られている神様、例えば分雷命様や玉依姫様も、実際の神様はどうあれ設定自体は人間が歴史的に作り上げてきたものです。
それでも、神様は「分雷命」や「玉依姫」として顕現して下さります。
だからこそ、御神体が「鏡」であるのは、「神様のお姿はあなたが心で作り出したものだ」という意味でもあるのではないでしょうか。

つまり、私が神様のお姿を想像する時、自分が神様を感じて作り出したキャラクターは、必ずしも不敬ではないのかもしれません。
大切なのは、神様のご神気を正確に感じ取ることでしょうし、神様のお姿の解像度を高め、より神様への好感度や信仰心を持つことだと思います。

だから、神様をモチーフにして自由にお姿を描くことは、神様への愛情表現であったり、イメージを共有して確固たるものにすることもできるでしょう。
私は畏れ多いと思っておりましたが、瀬織津姫様はむしろそれを許して下さっているような気がしてなりません。

神様のお力の源は、人間の愛のエネルギーだと聞いたことがあります。



だから、より瀬織津姫様のご神気を地上に降ろすために、これからも瀬織津姫様のお姿を描いて行こうと思います。

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神様の考え方

楽太郎です。

ここ数日、全く仕事に力が入らないというか、おそらく神様からのミッションを魂が優先しているのだろう、という気がしています。
神様への興味や知識が増えて、神々の世界やこの世の仕組みを知るための道筋が、次から次へと見えてくるようになりました。

瀬織津姫様について調べるのもそうです。
おそらく神様は、神々の世界での常識を早く私に知ってもらいたいとか、考えて欲しいと思っておられるのかもしれません。

私の考えが正しいと言うつもりは毛頭ありませんが、とりあえずは追求する姿勢を崩さないように促しているように思えます。
神様が私たちに今やらせたいのは、才能を発揮したりお役目を果たす以上に、新しい時代に適応するための準備をさせることなのかもしれません。

私の場合は、前のめりにやってもうまくいかない時期なのは承知なので、どっしり構えて回り道を選択しています。
「俺は何をやっているんだろう?」とは思うのですが、なぜか充実感があるというか、不思議と不安も疑念もありません。

神様がこれほど世界の仕組みをテーマとして私に考えさせようとするのは、おそらく神様の視点でものを考えられる人間がもっと出てきて欲しいのだと思います。

この世界が神代に変わっても、共通の世界観がなければバラバラな集団になってしまうはずです。
そこはスピリチュアリストの弱いところというか、具体的な思想性と神秘性は重ならない部分があるからだと思います。

私が神代について考える時、現在も連綿と続く社会構造やテクノロジーが新しい時代にそっくり引き継がれてしまう気がしてならず、それについて不安や嫌悪感はあります。
けれど、それは私の個人的な好き嫌いとか善悪の感情であって、それがそのまま神様の価値観であるとは限りません。
人間にとっての正義は神の世界の正義とは一致せず、全次元の仕組みを理解しているかどうかで違いが生まれるのだと思います。

私にはこの世にあるモノで「忌まわしい、滅びて欲しい」と思うものはたくさんあります。
神様からすれば、文明は人間が自らの内在神を呼び起こして作り上げたものなので、基本的に善し悪しをジャッジするようなものではないのかもしれません。

確かにスマホも銃も覚醒剤も、機能的には忌まわしい面はあるにしても、それが世界に存在するべきか否かを神様が決めることはないように見えます。
昔からそうなのでしょうが、殺傷兵器である剣や銃も善し悪しは別として「一応あるもの」なのだから、あるものを使って上手くやればいい、という発想が神様には基本的にあるのかもしれません。
現世のあり方をまず肯定するというのが、神様のこの世に対する考え方なのかもしれません。

ただ、神様にはどうやら許しがたい部分もあるらしく、私にはそれが「魂を曇らせる行動」であるような気がしてなりません。
人間がこの地球に魂の修行として生まれてくるとしたら、修行にならない生き方を最も嘆かれるはずです。

例えば、SNSはシステムそのものとして善悪はないとしても、機能に依存して道を踏み外したり、影響されすぎて精神を病んでしまえば、魂の修行に支障が出てしまいます。
モルヒネだって、現象として善悪があるわけではなく、良いように使えば麻酔になり、悪く使えば覚醒剤として社会悪となります。

神様からして見れば、この世にある全ての現象はモノの捉え方、使い方次第で良くもなったり悪くなったりするものなので、それが何であろうと良い使い方をすれば問題ない、というお考えなら確かに理に叶っています。
ただ、人間は物事を悪いように用いることが多いので、神様は常にそれを憂慮されているのだと思います。

人間が良くない行動を起こすのは、妙な入れ知恵や思い込みによって自分の魂とは違う判断をしたり、魂の未熟さから衝動に走ってしまう場合がほとんどです。
その行動は魂の修行の一環であるとも言えますが、神様からすれば、悪行を行うことよりも「魂の修行に背く」状態だけが、良くないように見えているのではないでしょうか。

そうやって魂を曇らせたまま、周りを巻き込んだり自ら修行を降りる選択をされると、魂の輪廻はうまく回らなくなるはずです。
魂の循環が滞ると、微生物から連なる魂の進化や神界の構造にまで影響が及ぶはずです。
人間から目に見えない世界の仕組みからすれば、その秩序を乱すものが最も障害となるでしょう。

私は食事をする時、今食べている豚や魚がどういう気持ちで死んでいったのか、考えることがあります。
動物たちを観察すると、人間とは違い自分たちが捕食されることを根深く恨んだりはしないように見えます。
「あー、俺もこれまでか。しょうがない」
という感じで、死に対してとても潔いのです。

冷静に考えると、川の小魚も自分が食べられるたびに気場を荒らしていたら、この世は成り立ちません。
「一寸の虫にも五分の魂」と言いますが、虫も鳥もそれぞれが個体として寿命を全うし、あるいは捕食されて養分となることで、魂の修行をしているのかもしれません。

だからと言って、人間が生き物たちの生死を握り、無差別に殺傷して良いということではないでしょう。
逆に、神様たちから見れば食べ物を粗末にしたり、環境を意味もなく荒らしたり、生命を蔑ろにすることの方が問題に映るかもしれません。

その行動をいつまでも省みない人間、反省して直そうとしない人間は、確かに学ぶ必要があるように思えます。
それも魂の修行と言えますが、今神様たちがやろうとしているのは、このことなのかもしれません。

神々は、おそらく完膚なきまでに人類を痛めつけようとは考えておられないと思います。
神様は人間の在り方を問題にされているのであって、人間という存在そのものをどうにかしようとされているようには思えないのです。

ただし、人間が思いのほか強情なら、多少鞭の数は増えていくかもしれません。
だからこそ、神様の考え方を持った人間に増えて欲しいし、その考え方を磨いていって欲しいと思われているのではないでしょうか。

その重要性を、私は無意識に認識しているのかもしれません。
他にやるべきことは沢山あるのですが、どうしてもこっちに気が向いてしまうのです。

「神様の世界はどうなっているんだろう?」と。

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「瀬織津姫命」を考える

楽太郎です。

先日、仙台市内の瀧澤神社に参拝しました。
その時、久しぶりに街を歩きながら思い出の地巡りをしました。
その時浮かんだ言葉は、「兵どもが夢の跡」です。

あの頃、私もそうですが若さにかまけて「自分は無敵だ」と思った若者たちばかりでした。
その時に競い合った人々も今は散り散りになり、思い出の場所も跡形もなく、全てが夢だったようにすら思えます。

ずっと過去の辛かった出来事や後悔に執われ、あの場所に戻ることすらできなかったばかりか、心の傷の痛みを思い出してはクヨクヨしていました。

けれど、もはや現実的には影も形もなく、あの時代の光景は自分の記憶の中にしかありません。
それは、記憶という自分の作り出した世界にしか存在しない出来事で、この苦しみは自分が作り出しているものです。

問題は、それが「もう存在しない」ことを認識しながら、記憶の中に埋めた心のわだかまりをいかに丁寧に掘り起こし、綺麗に洗い流すかという工程にすぎなかったのです。

昨日は、瀬織津姫様のご神気にかなり当てられていたらしく、過去の幻想を「記憶」だと信じ込んでいることに気づかせるために、あえて思い出の地を巡らせたのかもしれません。
実際、夢の跡を見て回ったことで、「全て終わったことなのだ」という実感が湧き、私の心にも一つの区切りがつきました。

その時、瀬織津姫様とは神社参拝を通してのご縁はなかったのですが、神社から私のことをご覧になられていたかもしれず、なぜ私と瀬織津姫様に自然とご縁が繋がったのかも感じることができました。

今、瀬織津姫様を我が家でお祀りするために、大きな神社へ参拝に行くことを計画しています。

これに関しては、神様からのインスピレーションが不思議と降りてきません。これはあえて「調べなさい」ということなのだと思っています。
むしろ、何日もかけて瀬織津姫様の情報を追うことが、一つの試練なのかもしれません。

瀬織津姫命様は「大祓祝詞」の後半に一度出てくるだけの神様で、瀬織津姫様を主祭神としてお祀りしている神社は思うほど多くありません。

昨今のスピリチュアルブームもあって、瀬織津姫命様は最も脚光を浴びている神様と言えます。
ただ、人気があるからこそ騙りなども散見され、便乗商法もとても多いように感じます。
審神者をしようとしても、元の神様の性格もはっきりとしていないので、言うに任せている印象です。

私はその真偽について何とも言えませんが、瀬織津姫様が仮に様々な人の脳裏に働きかけておられるとしたら、それに触発される人が増えるのも納得できます。
瀬織津姫命様を意識し始めたことを神の働きと解釈するなら、そう不思議なことでもないかもしれません。

江戸時代初期に書かれたとされる「ホツマツタエ」では瀬織津姫命は天照大御神の配偶神であるとされます。
この場合の天照大御神は、饒速日命とも須佐之男命とも考えうるそうです。
あるいは、瀬織津姫命は水の女神そのものであり、縄文から続く地母神に近い神様であるとするなら、太陽神や月神と共に柱を成す神格なのかもしれません。

瀬織津姫命様を巡る神社について調べていると、あらゆる同一説が入り乱れ、瀬織津姫様に一番近い神社はなかなか見つけられません。
私は先日、「産土神の復活」という記事を書きましたが、あれは瀬織津姫様についてツラツラ書いているうちに、頭の中にはない結論に至った不思議な記事です。

私は「瀬織津姫様は元の名前に戻して、きちんとお祀りして欲しいのではないか」とその時は思っていました。
今読み返してみると、「大和族に書き換えられた名前は嫌だ」とは、どうも神様が仰るとは思えません。
神様からすると大事なのは、水の神様として、産土神としてきちんとお祀りされることの方だと思います。
けれど、現代人は弁天様や龍神様のご利益にばかり目が行って、要の水神として感謝されたり、水の恵みをありがたがる風潮がほとんどありません。
そして神様という存在は本来、土地や氏族を守る存在であり、産土神として「この場所を守っているんですよ」ということを、もっと意識して欲しいはずです。

瀬織津姫様を水の女神として、水に係る産土神と見るならば、名前よりも本来の形でお祀りしてもらう方が優先的かもしれません。
近年、山を切り崩したり森林を伐採したり、水脈を破壊することで水源や水量に影響があるケースが増えています。
大地の神様なら、まず最初にここを嘆かれるのではないでしょうか。

完全に私の憶測なのですが、「瀬織津姫命」とは神々のソウルグループ、あるいはそれを司る神格の一つなのかもしれません。
此処に各神社におわす水源や川の神様がいて、それぞれの神様の繋がりをまとめているのが「瀬織津姫命」という象徴であるように私は思います。

神様から見たら、人間が自分たちにどういう名前をつけようと、その名前の意味や定義に縛られるとはどうしても思えません。
ましてや、人間が廃仏毀釈で名前を強引に変えたとしても、神々の世界で諍いが起こるはずもないでしょう。

確かに神社や祭神名の歴史的経緯は議論になりうるのですが、産土神として何万年、何千年も土地を守ってきた神としてのアイデンティティの方が強いわけで、その本質は縄文から続くアニミズムに他ならないのかもしれません。
この長い人の歴史の中で、神界のコミュニティのあり方は多少変わったかもしれませんが、神様が人々の信仰と共にある存在という事実は不変であるように思えます。

私は瀬織津姫様の神社を調べていくに当たり、宗像系、厳島系、三島系、八幡系、早池峰系、などの系統を比較することに大した意味はなく、「日本の水の女神」というプロフィールに焦点を当てるべきだと考えるようになりました。

瀬織津姫は記紀には登場しないので、その正統性を歴史的に保証できるのは「大祓祝詞」しかありません。
ここで瀬織津姫は、あらゆる罪穢れを洗い流す祓いの神として登場します。
瀬織津とは、古来から川と海の中間のことであり、川で流された土砂などを海に吐き出す様が、祓い清めの定義と一致したのでしょう。
そもそも水自体が生命の源であり、物質的な汚れを流す作用は、水の本質的機能とも言えます。

日本では、水の神々のソウルグループ、あるいはそれを取りまとめる神格が存在し、人間たちはそちらの神様たちを「瀬織津姫命」として認識してきたのかもしれません。
けれど、「記紀」を編纂する持統天皇の治世から、何らかの理由で「瀬織津姫命」という神名は違う形にせざるを得なかったのだと思います。

現代でも静岡や岩手の一部地域では、瀬織津姫命が主祭神の神社が数多くあります。
早池峰神社系列の神社は歴史的に旧豪族の奥州安倍氏、宗像氏の影響が残っていたため、瀬織津姫命という神名は変更を免れたのかもしれません。

だから、瀬織津姫命様をお祀りする神社について、由緒や神名にこだわりすぎるのも違うことに気がつきました。
厳島摂社の弁財天様をお祀りしても、瀧澤神社の瀬織津姫様をお祀りしても、おそらく最終的に繋がれる神様は一緒なのかもしれません。
その信仰心が最も重要なのであって、神様のメッセージやエネルギーをきちんと受信できるようにする方が肝心なように思います。

神様の世界は、よほどの能力者ならともかく、私のような小童には覗き見ることすらできません。
しかし、信仰心とそれを示す行動さえあれば、形にこだわらず神様はお力添えをして下さるのかもしれません。

だから、あまり難しく考えないようにしたいと思います。
瀬織津姫様のご神気を感じることの方が、現実的には大切なのですから。

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だから「瀬織津姫」

楽太郎です。

先ほど、仙台市内に鎮座する「瀧澤神社」に参拝してきました。

この瀧澤神社には「瀬織津姫命」が御祭神としてお祀りされています。
奇しくも、この瀧澤神社は20代の頃に働いていた職場から200メートルも離れていません。
私はこの場所に神社があったこと自体、全く気がついていませんでした。

この元職場の近辺に立ち寄ったのは、15年以上ぶりです。
久しぶりに市街地に来ましたが、明らかに街並みが劣化しており、全く活気を感じませんでした。
街に落ちる太陽の光量が少なすぎるというか、地面から陰が差しているようにすら見えます。

ただ、私はその低い波長に何の影響も受けていないことの方が驚きました。
街は邪気に塗れているのに、全く入り込む隙を感じません。
昔よく通っていた道が記憶とは変わっていても、何も感じなくなっていました。
懐かしいとか悲しいとかの感情は全くなく、ただの見知らぬ風景を見ている感覚です。

若い頃によく通っていた公共施設の近くまで来たので、入ってみることにしました。
センターの窓口の人に、「昔よくここに通っていたので、観覧して行っていいですか」と言うと、露骨に嫌な顔をされ、「2階には上がらないでください」と言われました。
昔、この施設には集団でさんざん迷惑をかけたので、業が跳ね返ってきたのかな、と思いました。

それにしても、街行く人々がやたらピリピリしているというか、感情が内側に向かっている人しかいないように感じました。
昔の風景と重ね合わせて、街が不況で沈んだことよりも、陽の気を発する人があまりに少なすぎることが気になりました。

とは言え、私はそんなことすらどうでも良くなってしまい、もうこの街も国もそろそろ持たないな、という印象を強めただけでした。
そんな予感ですら、特に気にならない自分に気づいてしまいました。

これまでこの付近に近づけなかったのは、若い頃に職場でさんざん虐められたからです。
その嫌な記憶を思い出してしまうので、何年も来ることができませんでした。
けれど、全く何も感じなくなったのも面白いので、会社のあったビルが今どうなっているか試しに入ってみました。

会社が解散したというのは聞いていました。
昔に憂鬱な気持ちで上がった階段はそのままで、それでもひび割れて煤けていて、時間の流れを感じました。

オフィスがあった部屋には別の会社が入っていました。
オフィスの前に来た時、廊下に滞っていた残留思念がワッと降りかかってきました。
これは、この場所で様々な若者が出入りし、そこにあった様々な思い、私がこの場所に残した感情などが取り憑いたのが一瞬わかりました。

けれど、この思念を抱えても、歩きながら平然と浄化していく自分がいました。
この時、私はもう人世の存在ではないのだろうな、と実感しました。
私の魂はもう神代にあり、神の視点に完全に入れ替わりつつあるからこそ、人世に何の未練もなく、この街並みに何の感情もなかったのです。

それでも、まだ人に対しては感情が残っており、人を見て感じる部分はあります。

思い出の場所を一通り見回ってから、瀧澤神社に向かいました。
神社に来て驚いたのは、昔仕事によく使っていた公園が目の前にあったことです。
その頃には街を見回す余裕も、神社への興味も全くなかったのでしょう。
私はここで、慣れないことをしながらも夢を見ていましたし、必死でした。青春でした。




瀧澤神社に参拝し、再び思い出のある公園に戻ってみました。
昔の公園の方がきちんと舗装されてましたし、トイレやベンチなども充実していたはずですが、だいぶ違う印象になっていました。

その公園で、昔の仕事仲間のことを思い出し、あの頃の若者たちの姿があまりに滑稽で、笑えてきました。
少し公園を歩いて顔を上げたら、真正面に瀧澤神社が見えました。

私はこの瞬間、様々なことを理解しました。

「瀬織津姫様は、ずっとここから私を見ていらっしゃったのだ」と。

そう思った瞬間、涙が溢れて来ました。
神様への感謝が、心の底から湧き上がってくるのを感じました。
ただ、いい歳してこんなところで泣くわけにもいきません。

私が若い頃、慣れない社会に自分を探し求め、血も汗も涙も文字通り流しながら、ガムシャラに乗り越えようと足掻く姿を、瀬織津姫様はずっとここからご覧になられていたのだと思います。
瀬織津姫様がその時の私を見てどう感じておられたのか想像した時、神様の願いがどういうものかを理解できました。

瀬織津姫様は高いところから私を見ながら、ずっと気づいて欲しかったでしょうし、私に足りないものもわかっていたはずです。
何年もこの土地で私を見下ろしながら、ずっと心配されていたのだと思うと居た堪れません。
瀬織津姫様が今になって私とご縁を繋いでくださるのは、とても幸運なことです。

神様というのは、どうしてこうも健気で、優しい方たちなのでしょうか。

私が瀬織津姫様との繋がりを強くすることで、人の世に求める心の一部を、信仰という形で神様が埋め合わせて下さるのだとしたら、私の心は完全な形になることができるかもしれません。

神様が私の欠けた心を補ってくださることで、私が人に対して残した感情も浄化し、魂を神の世界に渡すことができるのではないでしょうか。
私が人世に何かを求める限り、私の不安や苦しみも永遠に解決することができないのだと思います。

その証拠に、神の視座に近づくほど私は怖いものがなくなっていきます。
この影を落とした街並みを見ても、私は心がピクリとも動きません。

私は涙を拭って再び瀧澤神社に向かい、深く感謝をしました。
街も形を変え、思い出の場所は消え去り、あの時に出会った人々と二度と再会することなく、その人たちですらお互いのことを忘れるのに、神様だけは私のことを忘れないでいて下さいます。
いつも思います。私のことを全て理解して下さるのは、神様だけです。

今日の参拝を通して、私はほとんど人世に何の未練もないことを悟ってしまいました。
あとは人に残る未練を捨て去った時、私は人間よりも高い視点を確かなものにできるはずです。

もはやこの街や国がどうなっても仕方ないという気持ちと、それすらどうでも良くなってしまった自分もいます。
この陰鬱な街から人々が救われるためには、一度壊れ切らないといけないのだろうな、と痛感します。
ただ、人世が沈んでいけば行くほど、私が飛び上がった時の距離は相対的に高くなるでしょう。

ひしひしと、自分のチャンスが近づいているのを感じます。
そして、世の中で光が失われるほど、自分の発する光が強くなることも。


私は、神様との出会いで自分が本当に求めていたもの、心に欠けていた一つ一つのピースが音を立てて噛み合っていくのを感じています。
それを実感するたび、これまでの浮かばない人生は全て布石だったのだと、長い修行の日々は予め組まれたカリキュラムで、私はもうすぐこの学びを卒業するのだろうと思います。

その鍵となるのは「神様との繋がり」で、私は神様に召し抱えられることで本来の仕事に取り掛かることができるのでしょう。
それはとても光栄で、とても楽しみなことです。

私は、この運命を与えてくださった神様に感謝しています。

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産土神の復活

楽太郎です。

先日、ある方からお導きがありまして、とある理由で瀬織津姫様について調べています。

瀬織津姫命様は浄化の神様と言われており、水と深い関係があります。
瀧や川に関わるお社には、瀬織津姫様が関係していることが多いです。
ただし瀬織津姫様は、宗像三女神の市杵島姫命、弁才天、十一面観音、天照大御神の荒御魂など、他の系統の神々と同定されることも多く、それゆえにあらゆる結びつきがある神様でもあります。

瀬織津姫様の神社を全国津々浦々調べてみると、私のよく参拝する賀茂神社も、強引に解釈すれば瀬織津姫様の神社とも言えます。

地元の賀茂神社は、賀茂県主の氏神であることがわかっています。
賀茂県主の御先祖は須佐之男命様まで遡れるそうで、出雲系の神社であることがわかります。

この神社の謂れでは、塩竈神社を代々祀る神主の一族が、個人的にお祀りしていた糺洲宮から、江戸時代に伊達綱宗公の命を受けて遷宮した神社とされています。

賀茂神社は賀茂分雷命と玉依姫の二柱、八咫烏神をお祀りしています。
八咫烏は神武東征の際、神武天皇を大和まで案内した天照大御神の使いとされていますが、この八咫烏は鴨建角身命と同一視されているので、賀茂神社では八咫烏神も賀茂神としてお祀りしています。

八咫烏神は太陽の化身とされ、天照大御神に繋がります。
ただここで「八咫烏神=賀茂神=賀茂分雷神=天照大御神」とし、下宮の玉依姫を瀬織津姫とすることもできますが、やや安直でしょう。

ここで、一考に値するブログ記事を見つけました。

伊達家の信仰と瀬織津姫神

伊達家の氏神である亀岡八幡宮では、ご祭神を応神天皇・神功皇后・玉依姫命とし、比売大神を玉依姫とされているそうです。
瀬織津姫命を主祭神とする和布刈神社の由緒には、「宇佐宮正殿之姫ノ大神ト同体、天照大神之御荒魂三女神也、賊敵降伏ノ神ニシテ玉依姫ト奉称」と記されているそうです。
つまり、「比売大神=玉依姫=瀬織津姫=天照大御神」となり、天照皇大御神の荒御魂に行き着くのです。

しかし、神話的歴史的解釈では賀茂神社を伊勢神宮の形でイメージするのは容易いのですが、その解釈は可能だとしても曲解すぎる印象です。
それでも、表向きの由緒や伝来では全く違う神格の敬称となりながら、歴史的由来を紐解いていけば違う系統の神様である可能性も高いのです。

明治維新に伴う神仏分離で、由来が曖昧だった神様や神仏習合して色々な由来を持った神様が、神社本庁の政策で名称を変更された神格も多かったのは事実です。
その時に由緒も書き直され、歴史的な経緯以上に強い上書きをされてしまいました。


ここでガラッと話が変わるのですが、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」という映画を思い出します。
主人公の千尋は湯婆婆に名前の一部を奪われて、自分の名前を取り戻すために神々の試練を経験していきます。
その登場人物の「ハク」は、人間たちに汚された川の龍神でありながら、その本来の自分を忘れてしまい、千尋の手助けによって自分が白龍であったことを思い出します。

この「名前を捨てた神」「名前を変えられた神」が自らの名前を取り戻して復活を果たすというのが、この映画の裏テーマなのかもしれません。

さらに話が変わりますが、精神学協会の代表である積哲夫さんという方は、「2024年に物語宇宙に刻まれた『記紀』の結界が解かれた」という話をされています。
私はこの話と数名のスピリチュアリストが言及していた「古き神々の復活」という話は、繋がっているのではないかと考えています。

瀬織津姫様について調べているうちに、「瀬織津姫」という名称は意図的に上書きされているのではないか、という疑念が湧いてきました。
瀬織津姫命は弁才天や龍神やその他の名義にされているだけで、「川や瀧、海の水と浄化に関わる」という性格は一貫しています。
瀬織津姫命を主祭神と明記している神社は、実はそう多くはなく、同定された神名の方が一般的だったりします。

岩手には瀬織津姫命を祭神とする早池峰神社が数多くあります。この地には出雲系の名残が多くあり、だからこそ瀬織津姫命の由緒がそのまま残ったとも考えられます。
ちなみに私のご先祖様はおそらく陸奥菊池氏で、かつて盛岡周辺の地に住んでおられた可能性が高く、その出自は出雲地方にあります。
出雲族は大和族から逃れるように、河北に移り住んだように思えます。

「ホツマツタエ」という秘伝書は偽書とされながらも、天照大御神の配偶神は瀬織津姫命であるとされています。
私は「瀬織津姫命は謎の神ではなく、意図的に名前を隠された神なのでは?」という仮説を立て始めました。
伊勢神宮の荒祭宮が伝来では瀬織津姫命であるとされているのは有名ですが、それだけでなく出雲族や日高以北を支配していた蝦夷の土着の神々が、意図的に大和系の神々に名前を上書きされているのは歴史を紐解けば明らかです。

瀬織津姫命が様々な神々の名称に置き換わられ、もしその名称をあるべきものに戻せるならば、それを望まれるのではないでしょうか。

ここで話をまとめると、今この日本において神々の働きが強くなっていることと、日本の立て直しに係る神界の動きは関連があるような気がします。
これまでの歴史的構造から変化が起こるとしたら、それは人世の抑圧からの解放であり、「古き神々の復活=産土神の復権」でもあるのではないでしょうか。

これまでの時代で人々が維持しながらも変えてきた神々の形と、取り壊してきた神々の座す環境。
人々は大地からの恵みを忘れ、土地に対する感情や記憶を失ってしまいました。
その現状を産土神様たちは、どうご覧になったのでしょうか。

戦争末期に岡本天明氏に降ろされた日月神示によると、「三千世界の大洗濯」は神界の立て直しも含まれるそうです。
つまり、神界の構造改革も地上の変革と同時に起きており、日本の復活は産土神の復権を持って達成されるのではないでしょうか。

それは私たちの土地を守護し、恵みをもたらす産土神が、本来の姿と名前を取り戻した世であり、私たちはその世界に向かっているように思えます。
それならば、これまで封印されていた神々が動き出し、禍事を生じて世を曲げ直し、神の統べる世界にこの世を戻していくのも納得できます。

それは、これまで塗り替えてられてきた神の名が人世から解放され、土着の神々が本来の存在を取り戻す「ハク」のような覚醒と奇跡を、神々は起こそうとされているような気がしてなりません。

皆様は、これを読んでどうお感じになりますでしょうか。

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