楽太郎です。
昨日は、地元の神社で十日戎があり、昨年末に献米をしたので参加してきました。
そこで神社に名札が掲示されており、妙に舞い上がってしまいました。
帰り道でふと落とし物をして、それが考えてみると縁起の良くないことだったので、私は「神様にお叱りを受けたんだな」と思い反省しました。
先日「須佐之男命」様のイラストを描くようどなたからご依頼があり、翌朝から描き始めました。
ただし須佐之男様のイメージから受けるエネルギーが強すぎて、私の霊性では受け止めきれないと判断し、「このままだと須佐之男様を描ききることができない」と感じました。
十日戎にはもちろん以前から参加するつもりだったのですが、神社で神様にイラストの件をご相談し帰宅する間際、あまり縁起の良くないことが起きたので「うかうかしてるとお前には任せんぞ」ということかもしれない、と反省しました。
ただ、あまりに私がへこみすぎたのか、そのあと神様からフォローもあって持ち直しましたが、襟を正せということかと思います。
その数時間後、強い好転反応状態に入りその感覚を内観してみたところ、よく考えれば冬至明けから感じている心身の不調は、地味な好転反応そのものだったことに気づきました。
やたら眠いし波長は乱れがちだし、なぜか疲れてるし低次元に引き戻されるし、何となく「自分が古い自分に戻ろうとしている」という感覚です。
スピリチュアルな好転反応の怖いところは、この不調や混乱を乗り越えられなければ、好転しないどころか退行による運気の低下が起こることです。
この場合「中途挫折の法則」が働くと言われています。
この成長のタイミングで人生における悪癖のような部分に試練が与えられ、それはわりと盲点だったりするので、よほど注意深くなければ開運の芽を自ら摘んでしまいます。
この好転反応の振り幅の大きさや、心身を長期間休ませなければいけない状態に置かれたことを考えると、このエネルギーの変化は相当大きなものだったのかもしれません。
私は以前から、己の魂のエネルギーの大きさに振り回されがちです。
古い話をすれば、私が高校時代に一時期不登校になった時も、自分の魂のエネルギーを制御しきれず、自らの波動に当てられて疲弊していました。
この心のエネルギーの制御は、若い頃には誰しもが掌握しきれないものかもしれません。
ただ、昔はそういうのは「根性がない」とか、時代が下れば「メンヘラ」とか、近年では「発達障害」とか言われてしまう部分です。
あの頃は、そうやって大人たちに絡め取られたものでしたが、自分が大人になり理解をしてしまえば、違う説明の仕方で乗り切れます。
その意味では、時代が変わってよかったのかもしれません。
魂のコントロールについて
心がうまくコントロールできない一つの要因として、この魂のエネルギーと「現実観」に基づくマインドが葛藤を起こしやすいことが挙げられます。
魂から湧き立つ感情・感覚は、その時代のロジックでは不合理なものだったりします。
現実的な「成果」「利益」「正当性」それらが先立つほど、魂のエネルギーは邪魔になってしまいます。
学校、会社、組織、そういった社会的枠組みの中での奔放さは、足並みを乱すだけのものでしかありません。
だからこそ、私たち現代人は魂の感情を抑圧し、周りのために外見だけを合わせて生きるよう、習慣づけられてきたとも言えます。
その歪みがあからさまに露呈していく世相にあって、逆に常識の枠から飛び出せる機会を得るのは、精神性を重んじてきた人々にとって福音となるはずです。
「魂の声を聞く」のは、人が思う以上に難しく勇気のいる作業です。魂は分け隔てなく、無礼講かつ率直な意見を返してくるからです。
社会の枠組みの中で生きていれば、その表現はリスクとなるケースが多く、しかるに魂に対してわざと蓋をし、直感などなかったようにロジックで生きるのが賢い時代になったように思います。
しかし、これからの時代は「魂」が軸になければ生きていくことが難しくなるでしょう。
自分の精神性を貫くこともそうですが、魂を通じて神仏やスピリチュアルな存在と繋がり、その感覚を共有しなければ豊かに生きられない時代になると思います。
その際、現実を生きやすくしようとするならば、魂の向かうベクトルを知り、できる限り魂の向きにそぐわない判断を避け、真っ直ぐ魂のエネルギーを向かわせることが重要になるでしょう。
スケジュールやタスクに追われても、魂の向きに合うかどうかで義務感や苦痛度も異なるはずです。
その魂の方向性は自分自身と対話しながら、動機づけに対してポジションを取ることで、感覚的に変えられる部分だと思います。
過去の出来事や、未来の懸念や社会上の価値観に左右される時は、魂のエネルギーを真っ直ぐに具現化することができません。
そのため、「今ここ」に集中するためにも、今ある自分の深くにある感情に気づき、ここからエネルギーを引き出す必要があります。
心のエネルギーの制御は、自分自身と付き合った経験がものを言います。
その経験は、何十年生きてても自分の心や魂と向き合っていなければ、直感的に深く理解することはできません。
今、私たちは社会的な声よりも魂の声を聞くことで、崩壊していく同調圧力から解放され、新しい時代の生き方を掴めるようになるはずです。
現状、それに気づいている人は少ないかもしれません。
しかし神代を目指す我々、現人神たろうとする人たちは、この生き方の素晴らしさを説き、実際に人々に示すことで変容を促していけるはずです。
おそらく、神様は私たちにそれを期待なされています。
そして、自分たちの背中を見せることで、新しい時代に人々を引っ張っていくことを何より望んでいると思います。

楽太郎です。
今回は、軽くお知らせです。
先日、「瀬織津姫」様のイラストを本ブログに投稿しました。
イラストの投稿は一度限りの企画というか、今回だけで終わるものだと思ってました。
費用対効果とか気にしているわけではないのですが、インスピレーションを受けてやったことなので、自分の意志とは無関係に話が進んだ感覚でした。
そのわりには、けっこう本気でやってしまいました。
該当記事に「シリーズ化してほしい」とのコメントもいただきました。
その時、何となく「素戔嗚命」様が脳裏に浮かんでいて、なぜかはわかりませんでした。
さっき就寝しようと横になった時、これから世のお祓い作業には素戔嗚様が先頭に立たれる、というイメージがビシッと入ってきました。
その時、エネルギー的に受けた印象で言えば「描きなさい」ではなく「描いてくれ」です。
………?
このメッセージが神様のご依頼なら、普通に「描け」でいいのに、と思いました。
なぜ素戔嗚様なのか、神界がどうなってるかなど全く想像もできないのですが、その時入ってきた言葉は「戦意発揚」か「国威発揚」という四字熟語っぽいワードでした。
素戔嗚様とは地域的に関わりがあるので、何かのご縁があるのかもしれません。
よくわからないのですが、何となく保留にすべき感覚もないので、暇を見て進めてみようと思います。
このインスピレーションが本物なのだとしたら、本当にそのうち何かあるのかもしれません。

楽太郎です。
昨夜、だいたい睡眠時間2時間くらいで中途覚醒しました。首の筋肉が痛くて目が覚めるのは久しぶりです。
最近はかなり頭を使ってますし、昨日はブログを2本書いたので、かなり身体が固まっていたのだと思います。
この身体の硬直は、交感神経の働きを高めます。
主に直感や霊感は、身体がリラックスして脳にキャパがないとかなり鈍ります。
「神様と繋がれない」という感覚の時は、だいたい交感神経優位の状態で、チャクラが閉じている状態の時が多いようです。
こういう時ほどネガティブな気分になり、そこから邪気の類を呼び込んでしまうので、自律神経の調整はチャクラの維持と同様に、メンタリティのケアに欠かすことができません。
このブログで急に「健康」に関して扱った方がいいかもしれない、という感覚がしたので、今回取り扱ってみようと思います。
一応、学術的な裏付けはあるのですが、そこまでの説明は省きます。興味のある方はご自身で裏付け作業をされると、確証が得られるかもしれません。
今回扱うテーマは、「自律神経の調整について」です。
神代に生きる人々、現人神を目指す方々は、この数ヶ月で魂の試練を何度か乗り越えてきた方たちだと思います。
私もそうですが、魂レベルで感じるプレッシャーは相当なものでした。
24時間、無意識が動いている感覚があり、しかも日常生活も気を抜けないので、疲労を抱えていた方が多かったのではないでしょうか。
冬至でエネルギーが劇的に切り替わり、年も変わり正月期間も明けたので、身体が追いついていない方もいらっしゃると思います。
ただ、何となくこの数日間は神代勢的には凪の時間に入っているような感覚があり、ゆっくり心身を落ち着けるにはいいタイミングかもしれません。
霊感、それも憑依体質の方ほど、最近の負の波長に引っ張られて身体の不調を感じているのではないでしょうか。
私の体感では、この低い波長を受けるとストレスになります。また、わざと波動を上げようとするにもストレスがかかります。
ストレスは呼吸を浅くし、胸郭周りの筋肉が収縮し、背中や肩や首がコリ始め、脳に酸素と血液が行き渡らなくなり機能が鈍って、交感神経にスイッチが入ります。
この状態が続くと、いわゆる「自律神経失調症」という慢性的な愁訴感を誘発します。
私はこれに関しては罹患してる時期が長かったので、ここでは自律神経を整え、リラックスしやすい身体に戻すためのメソッドを記載します。
今回ご紹介するのは、「上半身のコリ」をほぐすのに私が役に立ったセルフ整体の方法です。
- 脳幹体操(ライオン体操)
- 478呼吸法
- 龍神体操
1.脳幹体操(ライオン体操)
これは「間脳体操」とも呼ばれますが、「ライオン体操」という名称でも知られるセルフ整体です。
- 口を大きく開ける
- 首をゆっくり左右に大きく回す
ライオンが吠えるような動きに見えるので、「ライオン体操」というそうです。
これは首の後頭下筋群の奥にある、第一頚椎あたりの筋肉のコリをほぐし、血流を良くする働きがあります。
首のコリの主な原因は、頚動脈付近にある胸鎖乳突筋が起こしているケースが多いのですが、首のコリをほぐせても首の深い部位のコリは、なかなかほぐれません。
この体操によって脳に近い筋肉が緩むので、常に緊張されている方ほど効果を感じられると思います。
ただし、首のコリがひどい方や頭にあまり血が回っていない方は、できるだけゆっくり慎重にやることをおすすめします。
首の筋が違ったり、目が回って気持ちが悪くなってしまう方もいらっしゃるかもしれません。
やりすぎることはないため、一日に何度やっても良いですし、適宜されると良いかもしれません。
2. 478呼吸法
この呼吸法は、アメリカの医師アンドリュー・ワイル氏が提唱したリラックス呼吸法です。
交感神経が高まると、まず第一に呼吸が浅くなり回数が増えます。これは身体が戦闘・防御体勢を取るからです。
あまりにこれが長時間続くと、横隔膜や胸郭周りの筋肉が硬くなり、自分でも呼吸が浅いことにすら気づかなくなります。
これは無意識に行なってしまうので、意識して呼吸を整えると身体のコントロールを取り戻しやすくなります。
- 4秒で息を吸う
- 7秒息を止める
- 8秒使って吐く
スピリチュアルの好きな方は、ヨガなどをされてる方も多いと思うので、呼吸法はかなりご存知かもしれません。
この呼吸法は、身体の深層筋肉を動かしながら呼吸器官を整えていくので、表層的にストレッチしているだけではアプローチできない深い筋肉にも作用していきます。
この深層筋肉のコリ、主に心臓周辺や腹部のコリは、長年のストレスで蓄積するコリなので、かなり意識下にも影響すると言われています。
私も、呼吸が乱れがちな時はこれで整えます。人間は1分間にできる呼吸数と交感神経が比例するため、呼吸数をセーブすることで神経をコントロールすることができます。
3.龍神体操
これは私が考案した独自のセルフ整体法になります。
私は座り仕事が多いので、背骨が硬くなりがちです。背骨が固まると胸郭が開きにくくなったり、巻き肩になって肩凝りやストレートネックになりやすくなります。
この背骨の運動と、ツボの組み合わせが「龍神体操」です。
やり方としては、まず始めに「肝愈」というツボを押さえる必要があります。
「肝愈」とは、背中の肩甲骨の下あたりにあるツボで、肝機能の他に不安、イライラなどの神経症状に効果があります。
この肝愈を、手を後ろに回して親指で押さえます。詳しく肝愈の位置を知りたい方は、申し訳ありませんが調べていただけますと幸いです。
手が回らない方は、かなり身体が硬い方なので、他のストレッチを行ってから実践してみてください(笑)
- 肝愈に左右それぞれ手を回して親指で押さえる
- 身体をそのまま時計回り、反時計回りにゆっくり大きく回す
この形が、何となく「龍神様」みたいだなと思ったので、このネーミングにしました。
私はこれと1の脳幹体操を合わせたりしています。
これをすることで、肩甲骨周りのコリと背中のハリ、背骨の硬直がだいぶ緩和されます。
肝愈のツボを押すことで背中周りの血行が良くなり、しかもメンタルの改善効果もあります。
これもやりすぎて悪いことはないのですが、急にやると筋を痛めたり、酔ったりするのでゆっくりやることをおすすめします。
とりあえず、今回ご紹介するセルフケアの方法は、以上の3つです。
メンタルの維持は、思っている以上にフィジカルの要素が重要です。
私は、健康の鍵は「血行」と「呼吸」にあると考えています。それに運動と食事と睡眠、規則正しい生活リズム、この全要素が揃えば風邪すら引かないと思っています。
一応私も実践してますが、自律神経の乱れはよく起こります。霊感のある方は脳を酷使しがちなので、よほど気をつけていないと邪気にやられやすくなってしまうと思います。
私も常に頭を使いすぎるので気をつけたいのですが、気づいたら重症になってたりします(笑)
もしお役に立てるのなら、ご活用ください。
他に様々なケア方法をご紹介できるかと思いますので、コメントに書いていただければ何かご提案できるかもしれません。

楽太郎です。
今朝、「神代のビジネスⅡ」の記事を書き終えてから、さてどうしようかと考えました。
どうやら、先の結論であれば今後のビジネスの軸足を神代に移した方が良いのは確かなようです。
しかし、私がこれまで神代にビジネスの軸を置きたがらなかった理由は、別に市場の規模などを考えていたからではありません。
「神代のビジネスⅡ」で裏のテーマにあるのは、慈悲の心、いわゆる「菩薩心」です。
私は仏教にも親しんだ時期が長かったので、仏様は衆生救済を最後まで願われるはずだ、という宗教的な確信がありました。
特に私は浄土真宗の開祖、親鸞聖人に関するお話をよく聞いていました。
親鸞聖人は鎌倉時代末期の最もこの国が荒廃していた時代のお坊様なので、どれだけこの世が荒れ狂おうと、阿弥陀如来様のご本願は救済の手を緩めることはないだろうと考えていました。
それは経済的、社会的に救われるという意味ではなく、せめて精神的、霊的安寧への道は用意されるだろう、と安易に仮説を立てていました。
しかし、先の記事を読んでいただければわかるように、日本神界の結論としては苛烈の一言に尽きます。
人である私には計りかねますが、これまであらゆる時代を越えて神仏が人間に悔い改めるよう諭し続け、それがもはやこれ以上は待てぬ、というところまで待たれてのご判断だったのかもしれません。
私は、その温度差を知り衝撃を受けましたが、それが神様のご意志であるならば受け入れるつもりです。
ただ私がクリエイターとして、これまで制作と表現に込めていたモチベーションは、この菩薩心に根差していたと言っても過言ではありません。
人々を癒したい、人々に気づいてほしい、人々に変わってもらいたい、人々に幸せになってほしい、そういう祈りを込めて作品と向き合ってきました。
しかし神様が救済の手を止め、選別した上で救わないと決めた人間がいる以上、私は一体どうすればいいのか、誰のために作品を作れば良いのか見えなくなってしまいました。
菩薩心や博愛精神は、これからの時代では悪と出ることの方が多いのだろうか。
私がこの数ヶ月、ずっと悩んできたことです。
朝食を取りながら、これだけモヤモヤするのであれば神様にお導きいただく以外にない、と思い神社に行くことにしました。
今日は暖かく、気持ちの良い日差しを感じました。
私の思いつきで神社に歩みを進めたので、神様からは歓迎されないだろうなと思ったところ、久しぶりに道中が全青信号パターンでした。
神社に到着し、神様の前でこれから仕事をどうしたらいいのか尋ねました。
こういう時は、神様はおみくじの文章でよく示されます。500円の「鯛みくじ」というのがあり、そこに意識がパッと行ったので引くことにしました。
この鯛みくじは、縁の輪っかに小さい釣竿の針を引っ掛けて吊り上げるユニークな引き方で、自分で選んだおみくじにかなり集中して釣らなくてはいけないので、「適当に出てきた」という感覚がありません。
なかなか考えられているな、と思いました。
それで、おみくじの内容はこうです。
ここでも、「慎み」という言葉が出てきました。
これは昨年の年末にテーマになったもので、「心真」という記事にしました。
「色」というのは、24色では数えきれないほどの連続的なグラデーションです。
「赤」や「青」というはっきりした一色だけではなく、多様な色があるからこそ移りやすいものです。
それが「欲」というもので、赤が満たされればピンクが欲しくなり、緑が欲しくなり、と際限がありません。
だからこそ、最初に決めた色だけを求めるのが「慎み」となるのだと思います。
このおみくじの文章の中でハッとしたのは「慈しみ」という言葉です。
「慈しみを施せ」と言っておられるのです。
私はこの一文を読んで、自分なりにこう解釈しました。
「慈悲の心は捨ておかなくても良い、菩薩心を持ち続けよ」
そう読み解いた次の瞬間、私の周りを優しい風が通り抜けました。
私はその時、「慈悲は対象を選ぶことができない、それゆえ誰に与えるかを考える意味がないのだ」と悟りました。
この閃きを頼りに、私は考えました。
慈悲の対象を選ぶ必要がないというのは単純で、普遍的なものを目標にすることです。
その意味で、私は「人を救う」という行動にばかり意識が向いていました。
以前、「蜘蛛の糸」という記事に書きましたが、神の救いを手助けすることに私の使命があるのは間違いはありません。
人が救われるかは、本人の意志と神様のご意志であり、私が努力して引き上げる必要がありません。
帰路につき色々と考えながら、近所の公園に足を踏み入れました。
その辺りで、「私は救済を目的としなくていいのだ」ということに気づきました。
「祈りそのものを目的とせよ」という言葉が入ってきた瞬間、街の遠くにそびえる大仏像が真正面に見えました。
私はこんなことがあるのか、と目を疑いました。
「祈りを目的にする」とは、願いを込めて形にすれば良いだけです。
ジタバタもがく人を助けるのは、想像以上に大変なはずです。しかし、私はそれを中途半端にやろうとしていたのかもしれません。
「祈ればいい、ただ祈っていれば良い」という言葉がずっと思念として残りました。
そこに意識を向けると、私が自分自身の作品で何をしようとしていたのかを思い出しました。
私は、ただ祈る気持ちでずっと作品と向き合っていました。誰かに見てほしい、伝わってほしい、わかってほしい、変わってほしい、そういう気持ちを壁に打ちつけるようにずっと続けてきたのです。
これからの表現を考える時、「誰に」「何を」というのは、必ずしも必要のないことかもしれません。
それは人を助けようという意思ではなく、遍く誰かが助かることを祈ればいい、その心をそのまま表現するだけだと気づきました。
普遍的な表現とは、祈りそのものを表現することです。祈りとは、魂からの想いです。
心は祈りそのものであり、表現は心を映せばいいだけです。
それを理解した時、私は物事を複雑に考えすぎていたことに気づきました。
単純な気持ちを表現すればいいだけで、わざと回り道を選ぶような、段取りを気にする必要などなかったのです。
シンプルに、遊ぶように魂の表現をして欲しい。
神様は、人々にそうするように願っておられるのかもしれません。それが、生きるということだと。
そういう世を作りたいから人間に変わって欲しかったのだとしたら、本当に神代とはもっとシンプルに捉えていい世界なのかもしれません。
この考えに辿りついた時、今一度自分の本心に立ち返り、本当にやりたかったことは何か、私は問い直してみようと思いました。
誰かのためではなく、自分が癒され、他人も癒されるようなやり方がきっとどこかにあるはずです。

楽太郎です。
これから金融経済を中心とした物質文明に、一つの区切りがつくことは、どうやら間違いないようです。
私が想像している「神代」という新しい時代は、神や霊魂という、これまで科学で隅に追いやられた根源的概念が見直され、主軸となっていく時代だと思います。
そこでは、引き続き人間は地球という大地の上で物質を操りながら、これまで以上に目に見えない存在や価値観を尊重する、調和的な世界が到来すると予想します。
この世界に渡るには、「才能」と「信仰」の二つの要素が必要であるとされ、神代に渡りたい人々はその導きに従い、各々が試練を経験してきました。
「才能」と「信仰」という両輪が神代に渡るための歯車だとしたら、絶妙にその二つが噛み合っている人は少ないのではないか、と私はずっと実感がありました。
「才能」はあって、技術やセンスを磨いているけれど、目に見えるものしか信じられず「信仰心」がない人。
「信仰心」はあり、神仏に祈りを捧げているけれど、いまいち自分のやりたいことを追求できず、才能を埋もれさせている人。
わりと世に溢れているのは、片輪しか回せないタイプの人ばかりではないか、と常々考えていました。
ともすれば、神代に渡る人は想像以上に多くないのではないか、とうっすら疑念があり、その母数で果たして文明を維持できるのか、具体的に神代の社会構造について頭を巡らせたりしていました。
これに関して、先日私の指針としている方から、お導きがありました。
神様は、もう神代に渡った人々の総数を気にされていないかもしれません。
神代勢は一つのまとまりとして、神のご計画の中で回していく方針であり、人世からのサルベーションはもはや時間切れに近い。
この内容は、神様の温度感を知る上でかなり衝撃的でした。
私の文明観では、全国津々浦々にいる神代に渡った人々がどれだけ集まろうと、文明水準を維持するのは難しいのではないかと思っていました。
しかし、神々にとっての優先順位は「文明の存続」にはないのかもしれません。
神のご計画では、そのうち神代と人世の連結はほぼ切り離され、神代の母数の中でのみ発展させていく方向になるとも考えられますし、いつまでも往来が可能である保証はどこにもありません。
これは、私にとって考えを改めさせるには充分な情報量でした。
私の仮説では、日本神界におられる菩薩は、人の世に残った魂を何らかの形で救済するよう願われ、その道筋を残されるのではないかと考えていました。
衆生救済の慈悲の心は、例え神仏を足蹴にする輩にも覚醒の光を残されるのではないか、と。
人間には自由意志があり、その自由意志には新たな世界の扉を開く自由が保証されているはずだ、と考えていました。
しかし、これはどうやら見当違いのようでした。
神様からすると「今から悔い改めるほど悠長な時間はない」のだと思います。
もはや、神代に渡るか渡らないかの時間切れはもうすぐで、サドンデスや敗者復活戦のような余興はない。
選別が完了したら強制的に篩い分けが始まり、そこで起こる崩壊は、文明の維持を優先して行われるわけではない。
私はこれに気づいた時、自分の見通しの甘さと神様との温度差に驚愕し、考えを改めさせられました。
もし、これまで同様の文明観で生活を維持しようとすれば、働き方や商売の仕方も根本的に見直さなくてはならないでしょう。
かつて、「お金=マネー」を所有しているのは一般大衆でした。マネーを得るためには、大衆に顧客をどれだけ増やせるか、戦略を取りターゲッティングをしなければ、商売として成り立ちませんでした。
そこには、権威的な内向きの「欲望の潮流」があり、その流れを読んで釣糸を垂らす必要がありました。
しかし、この「欲望の潮流」が消失する世界になるならば、これまでのビジネスのあり方が根本的に変わることを意味します。
「金運」はもはや神様たちが握っている、と言われています。
神様は、基本的に人間のロジックでは動かれません。善悪や優劣といった軸ではなく、徳の高さや魂の輝きを神様は重視されます。
私が神様の顔色を伺ってみて感じたのは、もはや「儲け」という、人にとって当たり前の価値観ですら通用しない世界をご計画されているのではないでしょうか。
となれば、人世にアプローチをかけるビジネスはもとより、「儲け」を念頭にしたビジネスプランですら無力化される可能性もあります。
私は個人的に、ここまで神様が文明に深くメスを入れるとは考えていませんでした。
それは「資本主義経済」までも終わることを意味するからです。
資本主義が終われば経済は劇的に変化し、今の街の形すら変わるかもしれません。
神様がそこまでやるとは想像だにしなかった、私はやはり甘かったのだと思います。
神様が金運を支配し、それを神に選ばれし人間に分配なさるとしたら、私たちは神様のご意向を逆算しながら、これからの仕事を考えるべきなのかもしれません。
おそらく、今わずかでも人世に残している商業的アプローチは引き揚げ、神代の市場に振り向けた方が今後の安定に繋がるとも考えられます。
そこでは、「利益」を軸としたビジネスモデルではなく、「貢献」という目に見えない尺度で経済が回っていく仕組みなのかもしれません。
だからこそ、神様は私たちに「才能」と「信仰」が必要だと仰られたのだと思います。
才能があれば、モノに依存しなくても技術で生きていける。信仰があれば、神の声を聞いてどんな時でも生き残れる。
神様がこれまで発してきたメッセージの意味が、一本の線になって見えてきます。
それは高い熱度の意志であり、私はこれをもっとぬるい感覚で捉えようとしていました。
これに気づいた時、戦慄すると同時に覚悟を問われているように感じました。
「今まで通りの生活」が目に見える形で変わっていき、それが目に見えてこないうちは誰もこの温度差に気づかないかもしれません。
しかし、ずっと神様は一貫してこの生き方を提示してこられたのです。
「時間がない。早く準備を終わらせなさい」
神様が私たちに要求しているのは、どうやら一つのようです。

楽太郎です。
先の記事とは別に、今朝の話を書きます。
私の近所に、よくお詣りする小さなお社があるのですが、そこで手を合わせるたび「何か出来ることはありませんか」と尋ねるようにしています。
普段からご加護をいただいているので、特にお願いすることもないからです。
そのたびに、急に「ズシン」と肩が重くなるのですが、私はこれが念の類だとわかっていたので、その都度浄化してきました。
特に今朝は肩が異様に重くなり、これは邪気に近いものだと感じました。
神様は、これを私に預けることで「持って行ってくれ」と仰られているのだと思います。
前々から感じてはいたのですが、私は邪気を吸い取ることで、自動的に磁場調整をしているようなのです。
以前お茶飲みグループに参加していたのですが、小一時間話をしただけで買い物ができなくなるほど疲労困憊し、他のメンバーが逆に元気になって帰っているのを見ると、私が何かを吸い取っているんだろうな、というのは感じてました。
よく考えれば、昔から私が所属する集団は、私がいるうちは人が集まって盛り上がっていくんですが、嫌気が差して私が一旦外れると、一気に人が離れていく現象をよく見ました。
私自身、丁重に扱われたことは一度もないのですが、私が波長を上げる役割に使われてきたのは、何となく感じてました。
だから安易に人と関わるのはやめにしましたし、自然界は邪気を発しないし私の気を吸い取らないので、気持ちが良いです。
とは言え、神様から浄化するように預けられた念の正体は、散歩しながら気づくことになります。
ある瞬間、公園に死体が山積みにされているビジョンが浮かびました。それは爆撃とか戦争的なものだと感じました。
次の瞬間には、敵国の兵士が街に来たら、と考えていたので、間違いなく戦争関連です。
軽く動揺し、「これは未来のビジョンか?」とも思いましたが、よく内観すると先ほど神社から背負ってきた「念」だとわかりました。
神社からこの念を背負ってきたということは、誰かが戦争恐怖の念を持ってお詣りをされた方がいたのだと思います。
例えば、「敵国が攻めてきませんように」という願いをかけたのもしれません。
私としてはその不安もわかるのですが、私にその念を神様が背負わせた理由が何かあるのだと思います。
神様は最近、人々の念を弾き返すようになっているので、神様視点で言えば「いらないから持って帰ってくれ」ということだったのだと思います。
このビジョンは人々の恐怖思念、言ってみれば妄想であり、「こういう不安があるから救ってくれ」という願いは、言い方は悪いですが神様的には取るに足らないでしょう。
神様は、実践可能な願いは優先的に聞くようですが、不安から捻出された願いはどうしても後回しにしたいはずです。
例えば、「私は平和のためにこういう活動をしているので、お力をお貸しください」という願いなら神様も共感できますが、「この街に敵国が攻めてこないようにお守りください」というのは、神様であろうと持て余す気がします。
私はしばらく考えて、「街にミサイルが落ちてくるより、もっと現実的なカタストロフなんていくらでもあるよな」と思ったので、やはり邪念の類だと判断しました。
こういう邪気は、ご神気の感じる場所や河辺で解放するようにしています。
河辺に行くと、そこに一羽の白鷺がいました。
鷺は神様の遣いとも言われているので、一緒にお祓い作業に付き合ってくれるのかな、と思いました。
ただ、じっとして浄化を待っているうち、寒すぎてトイレに行きたくなり、とても我慢できなくなって邪気が残るのは承知で帰途に着きました。
帰ってきたら、やはり邪気が残ってるなという感じです。これから塩風呂にでも入ろうと思います。
心理学では、「人間の不安は9割取り越し苦労である」と言われます。
今の世に溢れる不安や恐怖の、どれくらいが確実性が高く、どこまでが妄想なのかと疑問に思います。
人間は不安も怒りも、感情自体を娯楽にして消費してしまいます。
そうやって妄想に囚われているうちは、本当の意味で現実的な対応ができません。
私が神様なら、こういう妄想を受け取っても困るでしょうし、だからこそ仕方なく突き返すしかないのだと思います。
「人間たちよ、わかってくれ。願いと妄想を履き違えてくれるなよ」
そんな神様の嘆きが聞こえてきそうです。

楽太郎です。
今朝、起きると身体のエネルギー機構が変わり、体調が安定していました。
冬至以降、新しいエネルギーの落とし所がわからず、妄想的に感情が暴走しがちでした。
地球的なエネルギーがまだ身体に馴染まないため、気が枯れた状態が続き、年末年始は人々の集合意識の波長と合いやすくなってました。
今、人々の波長がかなり下がっているため、そこにチャンネルを合わせると、波動が一気に下がるようです。
そのため、年末年始はかなり意図してチャンネルを人に合わせないようにしなければいけませんでした。
そのエネルギーの捉え方が、最近徐々にわかってきました。
どうやら、人間と同じ思考レベルで意識を持たない点が重要なようです。
私の体感では、冬至以降のエネルギーを身体に落とし込むポイントはハートチャクラで、ここに熱源を感じるようになったため、おそらくこのエネルギーを使わなければ行動に落とし込めません。
このハートエネルギーは主に愛の波動であり、言ってみれば感情のエネルギーです。
私は水のエレメントが強いので、この衝動を制御しない限り、コントロールが難しいようです。
この数週間は感情の暴走が激しかったのですが、これを自我の働き、特に思考の部分で抑え込んでいたため、交感神経が働き身体が硬直した状態でした。
この「思考の抑制」が基本的に悪循環で、人間の常識レベルで考えている以上、このエネルギーの停滞から抜け出すことができなかったように思います。
人間の思考にチャンネルを合わせないためには、人間より一段上に意識を置くのが有効です。
これは、「人間を相対化する」意識をもつことです。
難しいかもしれないので、例を出します。
私は野鳥をよく観察しているのですが、その鳥たちは可愛いだけではないですし、例えば糞をそこら中に撒いたりします。
命を落とせば、人間が取り除かない限り他の生物に散らかされたり、腐敗したり骨を残したりします。
生物は、陽気な一部分だけを切り取って眺めることはできません。
人間に関しても同様です。
人間は花壇を作ったり、善意で清掃をしたりして街を綺麗にする人もいれば、ゴミを捨てたり落書きをする人もいます。
私たちは動物たちと同じように、肯定的に感じられる部分と、否定的に感じられる部分があります。
しかし、動物たちが捕食したり排泄することが自然であるように、人間のあらゆる行いにも実は裏表がありません。
この「人間の行いには裏表がない」という見方は、人間としての善悪や価値観に囚われているうちは、納得することが難しいでしょう。
ただ神様の目線では、人間が盗みをするのも、動物がゴミを漁るのと大差ないように感じられるはずです。
神様からして見れば、人間が徳の高い者ばかりでないことは重々承知のはずです。
人間に主眼を置くと許されないように思えても、一歩引いて生物として見れば、わりとどうでも良いことは多いかもしれません。
私たち人間は特に、綺麗な一面だけを切り取って眺めているわけにはいきません。綺麗なもの以外の部分を見てこそ、全体がわかるからです。
つまり、「人間より一段高いところに意識を置く」とは、人間を一種の生物として捉え、そこに価値判断の主眼を置かないことです。
それを思考で制御しようとすると、逆に難しいかもしれません。
第6チャクラ、いわゆる「サードアイ」に脳の力点を置くと掴みやすいかもしれません。
現代人の思考は主に扁桃体を中心に活動しているので、松果体に意識を持っていくと調整しやすいと思います。
「現代人は松果体が石灰化している」とは言われますが、人々がいつまでも意識を変えることができないのは、扁桃体中心の思考や習慣を変える方法がわからないからかもしれません。
まとめると、ハートチャクラの活性エネルギーを制御するにはサードアイを力点とした意識に置く、というのが私が見つけた冬至以降のエネルギーを身体に落とし込む方法です。
冬至で全体的なエネルギーが変化しましたが、その環境エネルギーを私の身体に変換する際、私独自のシステムを確立する必要があっただけで、他の人も同じ仕組みとは限りません。
私は水のエレメントが強く、何かと感情が暴走しやすいため、心身のエネルギーバランスには昔から苦労しました。
それがようやく落ち着いた状態になり、身体に落とし込むコツを見つけたので、メモがてらブログに書くことにしました。
今、新しいエネルギーに対応しにくいと感じられてる方は、必ずしも参考になるとは限りませんが、何らかのきっかけにしていただければ幸いです。

12月24日の朝、瀬織津姫様ともっと繋がる方法はないかなとぼんやり考えていたら、瀬織津姫様の画像を待ち受けにしたらどうだろうかと思いつきました。
次の瞬間に「私を描きなさい」という言葉が入ってきて、私は衝撃を受けたと同時に動揺しました。
立て続けに「私を描いてブログに載せなさい」と、かなりはっきり言われた気がしました。
私は声を聞くほど能力は高くないので、実際に声が聞こえたわけではないです。
そういうエネルギーというか、思念が入ってきたという表現に近いです。
これは私には絶対に思いつく発想ではないので、これがいわゆるインスピレーションというものなのだと思います。
やりたいかやりたくないかで言えば、確実にやりたくない部類の事柄です。
ぶっちゃけ得する事が一つもないからです。
私の本業は絵描きです。
「楽太郎」というアカウントでは、スピリチュアルや思想に関することしか扱う気がありませんでした。
だから、このアカウントで瀬織津姫様のイラストを上げることのリスクがまず頭を過りました。
絵師というのは、今の世では非常に微妙な立場です。
本業の名義でこのイラストを上げても、誰も意味がわからないでしょう。その代わり、楽太郎アカウントならある程度意味が通じます。
神様は、もっと私に神代界隈でうまくやって欲しいのだと思います。
初めは、リスクを感じて「瀬織津姫様が喜ぶならやるか」みたいな気持ちがありましたが、よく考えたら神様が私のために直々にインスピレーションを降ろして下さったので、神様のためを思って渋々やるべきではなく、私のためになることだったのだと思います。
ところが、渋々ながら着手したところでやめることができなくなりました。
思いつきで始めたことほど後でどうでも良くなりがちですが、ずっと優先順位のトップにあるという不思議な状況が続きました。
不安定な体調を整えながらじっくり進め、ようやく完成したのでここにアップします。
制作の裏話ですが、なぜ瀬織津姫様がこのお姿になってしまったかと言うと、最初は朗らかながらキッパリものを言う大人なタイプの女神様を念頭に置いていました。
けれどある時、かの神様がいらっしゃる神社を調べていて、関連のお社を画像で見た瞬間、「ああ…」となってしまいました。
想像していたような立派なお社と言いがたく、何となく、まあ親近感の湧く光景が広がっていました。
お社も小さいのですが、山からの湧水が減ってしまったらしく、小さな川が側にあるくらいなのです。
私の好きなアニメ、「あの日みた花の名前を僕達はまだ知らない」の「めんま」というキャラがいるのですが、その光景を眺めていると、めんまに似た小柄な女神様が小川のほとりで、足を水辺でぱちゃぱちゃしてる姿が思い浮かび、しばらく悶えました。
完全に漫画の世界の妄想に過ぎないのですが、とてつもなく愛おしさが込み上げてきました。
ここは私の頭がどうにかなってる部分なので、まともに受け取らないでいただきたいです。
以前の女神様像が吹き飛んだ瞬間、仮にこれを自分の思った通りに表現すれば、バチが当たるんじゃないかと思いました。
けれども、神様は常々「才能を生かせ」と仰るので、ありのままの自分らしさを前面に出せば、これが神様の望まれる魂の表現になるのかなと思いました。
ただ、ずいぶん葛藤はありました。
こういう表現が苦手な人はいるでしょうし、自由に表現した上で新しい界隈に好かれなくても、才能はどうしても他人の好みに合わせられないので、まあしょうがないかなという感じです。
このブログは瀬織津姫様に奉納している形になっているので、軽く業務報告書みたいな感じになってるようです。
とりあえず、神様のオーダー通りに納品はしたので、あとは野となれ山となれです。
私は神様には逆らいません。
もしお気に召しましたら、スマホの壁紙にでも使ってください。

楽太郎です。
年末、私がご加護を受けている、おそらく瀬織津姫様からインスピレーションが降ろされました。
その内容は、提示した時のサプライズのために伏せておきますが、受けた瞬間はかなり困惑しました。
インスピレーションは、降りた瞬間にはテンションが上がり、やるしかないという気持ちになるのですが、この時はさすがに動揺しました。
あまりにオーダーがパンクすぎるというか、自分でも抵抗してしまうほど突拍子もないアイデアだったからです。
けれど私は直感第一主義ですし、神様の仰ることは絶対だと思っているので、やらざるを得ないんだろうと思いました。
ただインスピレーションというのは恐ろしく、「やらなくては気が収まらない」感覚になります。
他に急を要することがあるにも関わらず、なぜか手をつけ始めてしまい止まらなくなりました。
やり始めたらやり始めたで、迷いも一切湧かずにスラスラできてしまうので、余計に戸惑いました。
けれど進めるうちに、自我が出てきてしまい「これを世に出したら、自分はさらにまずい状況に置かれるのでは?」と考え、徐々に不安になってきました。
結論を先に言えば、神様のほうが一枚も二枚も上手でした。 もうやらざるを得ない、出さざるを得ないところまで話を持って行かれてしまいました。
けれど、自分のリスクを考えたらゼロではありません。これまでの常識で自分を考えるなら、どう考えても藪蛇にしか思えません。
ただ、人間の目からは無謀にしか思えないことを、どうやら神様はやって欲しいようなのです。
一体、なぜでしょうか。
スピリチュアル的な説明を一切なしに語るならば、次の時代の社会経済は新しいものが出てくることで古いものが淘汰されます。
このあらゆるコンテンツが飽和した世界にあって、世界観が変わるようなパンクムーブでなければ、おそらく何の影響力も発揮することができません。
それは神様の加護があるなしに関わらず、文明水準のレベルも関係なく、斬新さはどうしても必要なことです。
神様は、神代や新しい世界を作る人たちに、魂そのものの表現をしていくことを期待されています。
それは「才能」と呼ばれるものです。
才能とは、人間が神様からワケミタマを与えられ、生まれ持った環境によって条件づけられ、後天的に発揮しうる特殊技能のことです。
それは誰もが一人ひとり異なり、唯一無二の個性となりうる能力です。
神様は、人間がその能力に気づき、堅実に向上させながら使命感を持って行使されることを望んでおられるでしょう。
その「才能」はおそらく、貴賤がありません。
個性に貴賤がないように、才能にも必要不必要がないのだと思います。
それを発揮させるのも才能のうちであり、必ず何らかの形で人に役立つようにアレンジする必要があります。
それが社会的に受け入れられた時、私たちは才能によって財運を得るのだと思います。
その財産は自らの力で手に入れたものなので大事にするでしょうし、使い道も慎重になるはずです。
その資産で自分が豊かに暮らし、安定した生活の中で充実感を得ながら生きていれば、人は幸せになれるようにデザインされているように思います。
しかし、多くの人々は自分の才能に気づかず、伸ばすことも発揮することもしないまま、社会の枠組みの中でお金を稼ごうとしてきました。
それは何が悪いというわけではないでしょうが、才能を追求するのは困難を伴います。
人間は、意外と自分自身と向き合うのが苦手です。
自省をすればするほど自身の孤独性と向き合い、個性を追求すれば周りに合わせられなくなります。
多くの人は、そこまでするほどの目的や勇気を持つことができません。
もし、今の社会の枠組みが崩れ去るならば、誰もがその本質と向き合わざるを得ないのに、です。
その才能を発揮するのも、非常に勇気がいることです。魂からの表現をすれば、誰にどう評価されるかは想像するだけで恐ろしいものです。
正直に自分を曝け出せば晒すほど、受けるダメージは大きくなります。
ただ、そこを乗り越えなければ真の才能を発揮することができません。
私が直面した恐怖は、この生傷ができた時の痛みが想像できたからです。再起不能になるくらい打ちひしがれるかもしれません。
けれど、個性は初めから受け入れられるとは限らず、挑戦するからには既存のものを壊し、それゆえ批判も当然考えられることです。
当たり前のことを無難にこなすのは、別に才能如何は関係ありません。それはただの技術や方法に過ぎず、他者に再現不可能であるがゆえの才能だからです。
私は先日、高千穂の夜神楽の動画をたまたま拝見し、その芸術性の高さもさることながら、神様を題材にした自由な表現に驚きました。
ご先祖様たちがかつて楽しまれた演劇は、神様を面白おかしく演じ、しかも濡れ場まである奔放な娯楽でした。ただ神楽なので、元から神様に奉納するためのものです。
伊弉諾様と伊奘冉様がイチャつくのを観客が面白がる自由さを、見物なさる神様がお認めになるならば、おそらく人間界の常識を超えた文化観が神様の世界に存在するのでしょう。
神様は、おそらく才能の表現に貴賤はなく、魂から発せられた表現を重んじられるのだと思います。
私の敬愛する瀬織津姫様も、「弁才天様」とお呼びしたほうが実は繋がりやすいのですが、弁才天は元々インド神話のサラスヴァティ神ですし、いかに河川や技芸の神様であろうと習合しすぎです。
それでも神様は呼び方には特にこだわっておられないようなので、表現の貴賤はやはり人間界にしかない価値観なのだと思います。
確かに、常識的に考えたらやらなくていいことはたくさんあります。
しかし個性とは発揮せずにはいられないものであり、才能もまた表現せずにはいられないところから始まります。
個性を発揮せずとも、才能を表現せずとも私たちは生きていけます。少なくともそうせずに生きていける世の中であれば、です。
これからの時代は、それをした方が有利に働くというか、あえてそうした方が楽しい世の中になっていくのだと思います。
誰もが他人の目を気にせずに好き勝手にでき、それが受け入れられる土壌があるとしたら、人は喜びを共有しようとするはずです。
今はまさに過渡期なので、抵抗心は最も強い時期かもしれません。ただこれを乗り越えなければ、誰も後に続かないのでしょう。
私は、もう少し時間はかかりますが、それをやるつもりです。
「自分らしくある」とは、最大限のリスクを負います。
しかし、そのハードルを乗り越えてこそ、自分を活かしながら生きていけるのだと思います。
これからの時代には、そういう挑戦が必要です。

楽太郎です。
新年、明けましておめでとうございます。
先ほど、初詣をしてきました。
今朝は晴天で、それほど寒くはありませんでした。
神様も、日本人に出来るだけ初詣に来てほしい、そう思ってこの天気にしているような気がしました。
地主神様の神社に初詣に伺ったのですが、参拝者が路上に溢れんほどの行列でした。
本神社とはご縁ができて今年初めてなので、例年との比較はできません。ですが、このご時世なので皆さん気合いを入れて初詣に臨んでおられるように感じました。
初詣の参列に並びながら、神様の雰囲気を伺ってみました。
いつにもまして、神様は表情を隠しておられるように見えました。
迎える空気があるでもなく、拒むでもなく、何も言わず淡々と参拝者を眺めておられるように感じました。
参列中、2回ほど「龍か?」と思う瞬間がありましたが、私はそういうのは目に見えないので、凝視したところで気のせいにするしかありませんでした。
ただ、行列の中で何回か吐き気を覚えました。
境内に入っても、何となく異様な雰囲気がしました。これは、紛れもなく参列者の邪気だと思いました。
誰も傍に手水舎があるのに手を出しませんし、きちんと礼をして鳥居をくぐる人もまばらでした。
神様がマナーに厳しく人を見ているとは思いませんが、私はこういうところもジッと見ておられるのだろうと考えていました。
神様はおそらく、この初詣に訪れた人の内面を注意深く観察されているのだと思います。
それはマナーだけでなく、普段の心持ち、神仏を敬う気持ち、参拝を通して何を願っているのか、それを一人ひとり丁寧に判断しているように感じました。
私とて例外ではなく、心の隅々まで見られているんだろうな、と思っていました。
ですからいつも以上に周囲に気を遣いましたし、その一挙手一投足も観察されている自覚でいました。
参列者の邪気に当てられて心が乱れがちだったので、ずっと神様のことばかり考えていました。
本殿が近づいた瞬間、ふっと頭が軽くなって第4チャクラが開きました。ご神気に当たるとやはり楽になるようでした。
拝殿につき、祈願をしてる最中に後ろから邪気を当てられ、心が乱されて邪念が入ってしまいました。
祈願が終わると心がスッと軽くなりましたが、境内の邪気が強すぎて長居はできないなと思いました。
話は遡りますが、今朝起きると身体に変化があり、妙にハートチャクラからエネルギーを感じました。
第4チャクラに意識を集めると、肚にエネルギーを貯めることができ、身体がどっしり構えられるようになりました。
この身体の仕様は、冬至以降に変わったエネルギーの捉え方のようです。
それが元旦に掴めたため、身体のエネルギーの循環が良く、参拝に向けて瞑想もして、体調をバッチリ整えてから初詣に向かいました。
それでも、参列で気が遠くなりそうなほどの邪気を感じました。
参列されてる方のお一人お一人は、きっと善良な方が多いでしょう。しかし集合意識に混ざると、なぜか邪気になってしまうようなのです。
私が感じた邪気は、「我良し」というエネルギーです。
その意識にチャンネルを合わせるとまずいと思ったので、ずっと本殿や景色に目を移し、神様のことを考えていました。
気分が悪くなったものの、これは私の感覚の問題です。
人々をジャッジするような身分でもありませんし、する気もありません。
それは今日、参拝者をご覧になられた神様がなさることです。
私だって、神様から隅々まで心を覗かれたら、及第点をいただけるかわかりません。
疾しい心を出さないように努めているだけで、疾しさはあります。言ってみれば、巫女さんに邪念を抱かないことすら難しいです。
そんな私ですから、神様がどこまでお許しになるかで結果はだいぶ変わるでしょう。
ただ、何となく神様は多くの人に良い回答を用意しないだろうな、と感じました。
私が変わったからか、人々が変わってしまったからか、この異様な邪気の強さは何とも言いようがありませんでした。
数日前、年末の買い出しでスーパーに行ったら、やはり空気が悪すぎて吐きそうになり、買い物を中断して外に出ました。
お茶を買い、ベンチで気を整えながら、もはや人混みも苦手になった自分に気づき、途方に暮れました。
気づけば、消防車と救急車のサイレンがひっきりなしに聞こえてきます。
誰もが、今の世に疑問や恐怖を感じているはずです。
人々が不安にさらされ、不安だからこそ何かにすがり、自分や身内の助けを願うでしょう。
もちろん私もその一人ですが、神前の私たちを神様はどう見られたのでしょうか。
こういう時に周りを見られるのか、自らの行いを反省できるか、神頼みして終わりではなく、きちんと努力を続けられるのか。
私が神様のお立場なら、ここを念入りに見ます。
元日の参拝の様子だけでなく、その後の心持ちもしっかり見定めて、神様はご加護を与えるかどうか決断を下すのではないでしょうか。
少なくとも私ならそうします。
2025年は予言云々関係なく、政治経済や社会情勢が混乱する可能性が非常に高いです。
何らかの災害も起こるでしょう。ただ、「自分のところにだけは来ないでくれ」という気持ちだと、危ないかもしれません。
特に自然災害は、人の意志ではどうにもなりません。そこでは人間は無力そのもので、起こすのは神様と地球の気分次第です。
それでも、神様はできる限り人々が助かるために、ご加護をお与えになろうとしています。
誰が加護を受けるに相応しい人間か、それは神様がお決めになられることですが、もちろん人間はその資格を得るために努力を重ねなくてはなりません。
「自分だけが助かろう」という気持ちでは、その人は真っ先に弾かれるかもしれません。
私自身、それを肝に銘じながら神様と人のために何ができるか、自らに問い続けようと思います。
今年もできる限り、神様との共同作業であるこのブログを発展させていきたいと思います。
今年一年、どうぞよろしくお願いします。

楽太郎です。
今年も最後の日となりました。
思えば、今年の前半は迷走から始まり、秋分を機に精神性がガラッと変わり、急激にスピリチュアルに目覚めていきました。
それから3か月の間に神の存在を信じるようになり、自分の使命を確信し「神代をつくる」ことを決意するとは、夢にも思いませんでした。
思えばこの3年は何をやってもうまくいかず、その原因も世に対して逆張りを続けてきたからで、知らず知らずのうちに、魂はずっと次元上昇の準備をしてきたのでしょう。
これまで、自分のエゴで汚いことも平気でやれましたし、道を外れたことすら何十年もしてきたはずなのに、一気にここ数年で軌道に戻された感じがします。
おそらく、私は土の時代にうまくやれたとしても、このシフトの時までに準備を整え、いずれにせよ神の計画に参加する定めだったのだと思います。
ところが、この神の計画に魂の成長を無理矢理合わせる形になったため、この3年間は修行に全振りしなければならず、社会人として全く何の財産も築き上げることができませんでした。
今でも、自信のなさや不安が払拭できたわけではありません。
人間としての無力感は根強く、この数日は自我のロックが緩んだため、どんどん自信のなさや不信感が湧き出てきています。
これは、私の感じ方では魂のレベルが落ちているように見えるのですが、おそらく己の波動を上げるために今まで背伸びをしてきたのだと思います。
背伸びをした分、背は高く見えますが力を抜けば普段の姿勢に戻ります。
その観点で見れば、人格の統合が起きているのかもしれません。
ただ、不安がよぎるたびに浮かぶのは、「世の中は唯物史観のまま高度な文明を謳歌し、古い精神性を持つ自分はこのまま弾き出されて死ぬのでは?」という恐怖です。
経済は目に見えて悪化し混迷は深まり、世界から秩序が失われようと、今の堅固な支配構造だけが残り、大切な人を守れずに淘汰される未来を想像し、私は時に震え上がります。
私は世に対して、公平な和気藹々とした空気で一緒に暮らしたかっただけなのに、見ず知らずの人から受ける暴力に立ち向かうため、なぜ戦いを始めなければならなかったのか、それが悔やまれてなりません。
日本人は、この十数年で全く違う民族のようになってしまいました。
日本人が変わってしまったことを信じられず、だからこそ世を変えようと抗ってきました。
現在のうまくいってる側の日本人は、それでいいのかもしれません。
しかし精神性のある、かつての日本人のような人たちは、この国に未来を見ることはできないはずです。
このブログでたびたび言っていますが、私はどの道この社会では生きられないのだから、一か八か神様に賭けて真正面から挑んでやろうと思っています。
岡本天明翁に降ろされた日月神示では、「大阿呆になれよ、逆の阿呆になるではないぞ」とあります。
ここでいう「大阿呆」とは精神性のある人間のことであり、学歴階級社会を駆け抜けてきたような、莫大な資産や権力を持っている唯物論者とは真逆の存在でしょう。
その意味で、私はすでに大阿呆です。土の時代に精神性を持つことで幸せになれなかった人間だからです。
ただ逆の阿呆が賢き唯物論者たちのことを指すのなら、日月神様は少なくとも「そうなるなよ」と仰られてるのだと思います。
私に刻まれたこの無力感は、何も持っていない劣等感、喪失感に加え、挫折体験によって自らかけた「呪い」に他なりません。
持つものが優遇され、持つからますます成り上がっていく世界で、持たざるからこそ自他共に刻んだ「落伍者の烙印」です。
仮に、これまでの時代が変わるならば、呪いや烙印にかけられた術者の力は消失するのではないでしょうか?
そうなれば無力感という心の闇は薄れ、自分を縛る鎖は打ち破ることができるはずです。
私たちは完璧な魂を持って生まれ、それぞれの条件で発揮できる才能を持ち合わせているのに、能力を発揮させないように後天的に細工されてきたのだと思います。
人間が生まれ持って自由に未来を選択し、それぞれの目的に才能を持って実現していくならば、人々は自信に溢れ充実した人生を手に入れられるはずです。
もし、それを実践する人が多いとしたら、困る人がどこかにいるかもしれません。
賢い大衆は強権的にコントロールできなくなり、欲望に右往左往してくれなければ、ビジネスもやりづらいでしょう。
私たちはどこか古い時代のある時期に、劣等感に苛まれるようプログラミングされ、心の穴を埋めるためにお金や時間を使うように仕向けられたのだと思います。
けれど、その時代は人々が目覚めれば自ずと終わるはずです。
私たちは、誰もがその覚醒が可能な魂の持ち主だからです。誰もが神のワケミタマを与えられているとしたら、人は遍く神の一柱に他なりません。
自らの中に神を見るならば、人の作り出した理は所詮、人が作り出したものだと思えるはずです。
己を神だと自覚してしまえば、「神」という存在は特別ではないと感じるはずです。
「神」を畏れ多き存在だと敬遠するのは、自らを人間だと思うからです。
私たちは自らを大いなる神の一部だと知ることで、無力感という闇を深い部分から照らせるはずです。
私たち人間がこの目覚めに至れない理由は、自身の神性に目覚めれば目覚めるほど、「孤高」となっていくからです。
孤高とは、群れから離れることを自ら選択し、唯一無二の宿命を生きる道です。
誰かに寄りかかることも、真似することもできない生き方は、強い覚悟と勇気が伴います。
だからこそ、多くの人はそこに立ち向かえず、奴隷的な生き方に甘んじてしまいます。
私たち一人一人は、生まれ持って孤高の道が用意され、唯一無二の才能が発揮できるように生かされていきます。
だからこそ、外にあるものに依存せず、選択を誰かに委ねきらず、自分自身の心だけを頼りに前に進んでいけば、必ず道は拓けるはずです。
ただ、その自覚に至れたとて全てが見通せるわけではないでしょうし、目の前にある社会がガラッと変わるわけでもないでしょう。
しかし、この社会は意識の集合体なので、洗脳から解き放たれる人が多ければ多いほど、変革の波は広がるはずです。
それが新しい時代を作る鍵であり、古い時代を乗り越えていく道なのだと思います。
来たる2025年は、その挑戦が本格的に始まる年だと感じます。
私は、ずっとその準備をしてきました。
不安は正直ありますが、いよいよだと思います。
もう後戻りはできません。

楽太郎です。
25日に仕事を一区切りつけて、昨日から身体を休ませることにしました。
ただ、私はワーカホリックというか、仕事以外に特に趣味もないので、横になっても何となく退屈でした。
YouTubeで動画を眺めたりしましたが、もはやこの社会で作られるエンタメにはほとんど興味がないことに気づき、少し落ち込んだりもしました。
昨日の朝、冬曇りして薄暗さがある街を歩きました。
最近感じるのは、街全体から漂う空虚感です。
空は確かにどんよりしているのですが、光量がなさすぎるというか、不自然な暗さを感じました。
人からは重苦しい気が出ているように見えたので、あまりチャンネルを合わさないようにしていました。
街の不況感、店のサービスの悪さ、人の殺伐とした雰囲気、これらを横目に見ると、日本人はそろそろ限界ではないかと思います。
この国をどうにかしたい、という思いから自分なりに考え、この数年ひたすら行動してきました。
しかし、学べば学ぶほど腐敗の根深さを知り、ついに「立ち向かえる相手ではない」と理解した時には、腰が砕けそうにもなりました。
今でも、その口惜しさは消えません。
ただ、この人間社会が存続するならば、私はいずれ野垂れ死ぬでしょう。
どうせくたばるなら、いるかいないかわからないお天道様に運命を預ける以外ないと決めました。
ここまで手に負えなくなった世界を何とかできるのは、神様以外にいないと思えるからです。
けれど私には確信がありませんでした。
他人を眺めては気持ちが揺れ動く日々、街の雰囲気や社会の不条理に引っ張られるのも、自分に芯がないからです。
とは言え、これから崩壊していく未来だけが如実に見える世界で、何が残るのかを考えるならば、未来など想像しようがないとも思えました。
私の心は澱み、暗く沈んでいました。
今日、街へ行く用事があり、ついでに氏神様の神社に行くことにしました。
自分が悩んでいることはわかっているので、参拝したらおみくじを引くつもりでした。
そのおみくじの結果はこうです。
このおみくじを引いた時、これは確かに神様のお言葉だと思いました。
私の優柔不断さや煮えきらなさは、まだ人間社会にどう向き合っていいかわからないことにあるからです。
人間社会に傾けば神様のご意志に背き、神様のご意志に従えば人間社会から反発されるのが目に見えています。
その板挟みを一体どう判断したらいいのか、私にはわかりませんでした。
けれど、このおみくじにある「慎み」という言葉にヒントが隠されている気がしました。
「慎み」とは「心の真」と書きます。
なぜ「真の心」が謙虚さや節制を表す「慎み」となるのか、それが疑問でした。
「慎み」が謙虚さを表すなら、「足るを知る」ことが「心の真」となるのだろうか、とも考えました。
ただ、何となくもう少し考えたいなと思い、遠回りして帰ることにしました。
道すがら、少年時代によく通っていた書店にフラッと寄ってみました。
私の10代は悩み多い時期だったので、文学書や哲学書をここで買ったり、立ち読みしたりしていました。
何か新しいことに興味を持ちたいとは思いましたが、並んでいる本の傾向を見て、日本人が本を買わなくなった理由が何となくわかりました。
知識は欲しければネットに繋げれば適当に手に入ります。でもお金を出して紙の本を買うと、手元にモノが残ります。
本は、情報ではなく知識であり、学習というより体験です。
今の出版はビジネスに偏り、学閥的・業界的な知識を提供し、権威づけを再定義する機能があります。
そこにあるのは情報に過ぎず、その体験では精神性を得ることができません。
精神性の体得を反故にする代わりに、知的な敷居を下げ恣意的な情報を取得できるようにした結果、ネットで得られる情報と大差がなくなり、わざわざ嵩張る本を買わなくなったのではないでしょうか。
私は10代の頃に読んだ岩波文庫や哲学書の列を眺めながら、もう一度読み直したいなと思いました。
ここ十数年の精神性をかなぐり捨てた本には魅力を感じなくなったからです。
ある一冊の哲学書を手に取り、貪るようにニーチェやフーコーを読んだあの頃の気持ちに戻り、また抽象的なことに没頭したくなりました。
けれども、その棚の近くにあったのは、「スヌーピー」の登場する漫画、チャールズ・M・シュルツ作の「PEANUTS」の解説本でした。
私はこれを見て、ハッとしました。
私が中学生の頃、漫画本以外に初めて買った活字の本が「PEANUTS」の解説本で、「いいことから始めよう」という本でした。
やはり漫画ではあったんですが、そこで人生哲学と出会い、小難しいことを考え始めた時期もあって、哲学にのめり込むきっかけになりました。
この本はその流れを汲むもので、やはり簡易的にチャールズ・M・シュルツの人生哲学を扱った書籍です。
これを手に取った瞬間、懐かしさと共にインスピレーションが湧いてきました。
「PEANUTS」こそが私の「初心」とも言うべきもので、思えばそれから数十年かけて人生について学び、そして再び迷ってこの地点に戻ってきたのです。
「慎み」を「真の心」とするならば、それは「初心」なのだと思います。
初心だから謙虚であり、謙虚だから驕らず、驕らないから正直なのです。
神様が私に伝えたかったのは、まさに「初心に帰れ」ということに他ならないと思いました。
そのことに気づいた時、あらゆる迷いが氷解したのです。
今まで積み上げようとしたものが積み上がらなかったこと、積み上げたものが崩れて何も残らなかったこと、今の世の中に積み上がっているものが気に食わず、今でも自分で崩して何かを積み上げようとすること、私はずっとそれらに執着していました。
数十年かけて人の世で蓄積した情念は、神様がずっと「これからの時代には必要ない」と仰られていたものです。
それを捨てるのは「初心に帰る」だけでよかったのです。
あの頃、私はこれからだと思っていたし、何にでもなれると思っていました。
社会の歯車は壊せると思っていたし、新しい常識を作り出すこともできると思っていました。
時代が変わり方向性を見失っても、あの頃みたいに新しく何かを始めればいいじゃないかと、そう思えたのです。
数年ぶりに紙の本を買い、帰途に着きました。
雪が降り凍えるような街の中、私は神様に感謝していました。
神様がいるかはわかりませんが、インスピレーションを受けて行動している限り、私はどんどん成長し内面が豊かになっていきます。
それはこの未来が見えない時代にあって、私に自信と希望をもたらします。
この凍える道の途中で、目に見えないエネルギーとの繋がりを感じるほど、私の胸は熱くなっていました。
その気持ちは、私の少年時代にあった心そのものでした。
私は数十年かけて人生を一周し、スタート地点に戻ってきたのです。
それが今日、この瞬間でした。
それがわかった瞬間、自分がこれからどう生きていけばいいのか見えてきました。
なんてことはない、「自分らしくあればいい」だけです。
あの頃のように、傍若無人に自分を貫こうとしている心であれば、良いだけだったのです。

楽太郎です。
冬至でエネルギーがきっぱり切り替わり、先日のブログでも書きましたが、人生のテーマが刷新されました。
これまで、私は人の目や評価を気にしながら、それに合わせたり過剰に適応しようとすることで、自分の軸にしていました。
しかし、神様的にはその依存性は度し難いらしく、瀬織津姫様から浄化を促されています。
私の過剰適応に伴う努力性や献身性、悪く言えば自己犠牲的な生き方は、「自分を大事にする」とは程遠いものでした。
うまくいかないことがほとんどでしたし、だからこそ周りを責めたり、社会を責めたりしました。
けれど本当に問題なのは、目的意識を常に外側に求め、結果を他者から与えられるのを待つ態度そのものにありました。
そこにある劣等感は、人の世が作り上げ、長い時間をかけて刷り込んできた「欠落感」から派生したものです。
私たち人間は、生まれ持って頭ごなしに否定されるべき要素など持ち合わせていません。
しかし、人間社会はその性質を評価し、分類して要改善とすることで、人々の天性を抑圧してきました。
私たちは長い間、「価値のある人間と価値のない人間がいる」と信じ込まされてきました。
そして大抵の場合、人は自分を価値のない人間だと思い込んでいます。
価値のある人間は、他者と比較して優れた者だけに与えられた資格であると信じています。
しかし、私たち一人一人に与えられた「ワケミタマ」は、神の一部、神の一柱でもあります。
ところが、人間には魂など存在せず、それこそ動物やモノと同等の生物であることにすれば、神を否定したい人々や存在からは都合がいいでしょう。
「魂」や「霊」を否定することが可能なら、その延長にある「神」も否定することになります。
だからこそ、彼らからすれば人間が「細胞でできたロボット」でなければならないのです。
けれども、誰もが神のワケミタマであり、「誰もが価値がある」ということになれば、人の弱みはだいぶなくなるはずです。
誰もが自分に誇りを持ち、心の声を聞き、真贋を見分ける感性があれば、闇のつけ入る隙はなくなります。
私たちの本来の姿、生き方はそこにあり、「目覚め」とは自分が神から祝福された魂であること、分け隔てなく自由で幸福になれる魂であると理解することにあります。
私の半生を貫く苦悩は、他者と比較し優劣を他者か自分がジャッジし、外側の価値観で己を反省し、自らの目的や動機にしていたから起こるものでした。
しかし、その「根拠」としてきた外圧は、すでに崩壊のフェーズに入っています。
私たちは、仕方なく外側の仕組みに寄りかかる時代から、自分の足で立って世を歩いていく時代に移ろうとしています。
この冬至、私に与えられた課題は「人の世の価値観から解き放たれる」ことでした。
中でも、社会の常識というより、自分の心の動機づけに使用していた「思い込み」、とりわけ「妄想」とさえ言える部分です。
これは私の深いところに染み込んだ思考癖でもあるので、簡単に変えるのは難しく、わかっていても同じことを繰り返してしまいます。
私はこれまで「神から与えられた役目」とは、人々の願いを叶えたり、役に立つことだと思っていました。
私の生業もその延長にあり、人間を中心に考えることが神のご意志だと信じてきました。
けれども、神様は必ずしも全ての人間を救うおつもりはないようです。
むしろ、振り払うべき人間を選ぶために、神様はこれまで入念な準備をしてこられたようなのです。
もちろん、人に奉仕して人を助けるのは前提なのですが、神様にとっては全てではないように思います。
大切なのは、人よりも神様のご意志を優先することなのかもしれません。
「人のため」を思ってやることと「神のご意志」で行うことは必ずしも一致しません。
その部分を混同せず、それが神様のお選びになったことなのかを注意深く察する必要があります。
そう考えると、私は自分の立場やなすべきことがわかってきました。
意思決定の上で重要なのは、「神の優先順位」に他ならないということです。
人の世の価値観より神の道理を優先すること、他者ではなく自分、自身の信念よりも神を優先することです。
これに気づいた時、私は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出しました。
悪人のカンダタはある日、気まぐれで蜘蛛を助けますが、カンダタが死んで地獄に堕ちると、仏様が蜘蛛の糸を地獄に垂らして極楽へ上がれるチャンスをお与えになります。かつてカンダタが蜘蛛を助けたのを、仏様がご覧になられたからです。
私が蜘蛛だとしたら、カンダタが助かるかは蜘蛛である自分が決めることではないはずです。
地獄に堕ちる選択をしたのはカンダタ自身ですし、カンダタを裁いたのは仏様です。
蜘蛛は、自分の役割で糸を垂らしたにすぎません。
私は人の目を気にするあまり、自分自身のやり方に徹することに気後れしていました。
人々はどう思うか、これをやればどうなるか、神様はこれをどう見るだろうか、そればかりを気にしていました。
しかし、私は己に与えられた役割をこなせばいいだけで、それがどういう意味を持つか、どれだけ世に貢献するのかまで考える必要がありません。
それを決めるのは、関わった人たちかもしれませんし、神様かもしれません。
自分が何をすべきか、役割とは何か、それを難しく考える必要はなく、神様が降ろしてくるものを信じて自分なりにやればいいのです。
それがわかった時、急に気持ちが楽になりました。
人は自分にできることは知れてるので、下手に全てに責任を感じる必要がありません。
人間にできないことは神様の世界の話であり、今は神様にしかどうにもない時だからです。
だから、今は自分自身に集中してていいのです。
むしろ、これから局難が来ることは想定できる以上、今は地盤固めに勤しむべきでしょう。
今、地球の次元上昇は思っている以上に早く、上昇しなかった人々をどんどん引き離しています。
この大衆にチャンネルを合わせると、自らの波長がどんどん下がっていくのを感じます。
それほどまでに人の世は、神からも地球からも見放されているように思えます。
こういう時こそ、はっきり目的意識を持ち、波長を落とさないように心がけるしかありません。
冬至でエネルギーが変動し、覚束ない感覚もありますが、幸いにしてこれから年末年始を迎えます。
そこで新しい気持ちに切り替えて、2025年という局難に立ち向かう準備をするには、うってつけの時期かもしれません。

楽太郎です。
今回は、結論のない話になるかもしれません。
作品制作中、かなり心身を酷使していたせいもあって、昨日からはなかなか身体のしんどい状態が続いていました。
おそらく制作期間と冬至前のエネルギー変動、魂の成長や浄化作用もあり、脳や神経に対するダメージは想像以上だったかもしれません。
昨夜、食いしばりと共に激しい寝汗で起きて、着替えて寝直しました。
いくつか生々しい夢を見た後、うっすら目覚めると、私の頭にはない言葉を私自身で翻訳しながら、自己反省を始めていました。
その時の記憶ははっきりしていませんが、私のこれまでの生き方について言及されていたように思います。
そこでは、私が過剰に周りや社会を意識し、先回りして合わせようとしたり、逆に極端な反発をしたり、そういうことで社会生活がうまくいかなかったことが話になってました。
なぜ、それほど過剰適応とも思える行動すら取ってきたかと言えば、私がいつも「人と違う」という感覚に根づいていたからです。
未だにそうですが、何をやるにしても人より頭一つ分できてしまうか、できないかのどちらかです。
できてしまうことで過剰に期待され嫉妬されやすい反面、できなさすぎて邪険にされ疎外されます。
この「ズレ」が魂由来の性質だと今では割り切れるのですが、子供の頃からつい最近まで、私はただ社会で生きづらいだけの宿命を背負った人間なのだと思っていました。
しかしスピリチュアルと出会い、神様と繋がれるようになってから、私が何者なのか、私がどう生きていけば良いのか、大まかな部分を捉えることができました。
私の魂の宿命は、おそらくこうです。
私の魂はかつて天界にいたもので、何らかの使命を担って地上に降り、血族の因縁を晴らすために両親から肉体をもらい、これから神代の創造に携わるシナリオが与えられているようなのです。
私は輪廻転生を繰り返した魂と違い、「人間」として生きた経験がないためか、これまで人間の感覚が乏しい状態で生きてきました。
0歳から記憶があるのも、身体の使い方がわからないのも、いわゆるHSPなのも、人間の粗暴さが理解できないのも、やたら物事を抽象的に捉えたり、人が覚えていないようなことをはっきり思い出せるのも、様々な性質が「自分は魂の種類が違う」と考えれば、全て納得できることでした。
その「ズレ」の正体をはっきり指摘されないまま、「ダメなやつだ」とか「へんなやつだ」と思われるだけだった私は、その劣等感を埋め合わせるために過剰適応とも言える行動を繰り返してきました。
努力家だとか頑張り屋とかよく言われましたが、今考えれば過剰適応の一つの傾向でしょう。
現実離れした理想のあまり、そのために自分を追い込むことを躊躇わず、私はいつも身体の不調を抱えていました。
私の不幸感の源は、何となく慢性的な疲労感から来ていることはわかっていました。
瀬織津姫様と出会い、心の浄化を手伝っていただき、私はだいぶトラウマが軽減されたと思います。
あまりに心の傷が深く、閉ざした部分が大きかったため、私は自分の心を真正面から捉えることができずにいました。
瀬織津姫様にその浄化を促していただくことで、私は過去の記憶に責められる苦痛から抜け出すことができました。
そして今朝、私は過剰適応という価値観を捨て、「自分軸で生きる」というテーマに出会いました。
今日はずっと腰が痛く、チャクラが完全に乱れ邪気が侵入して、わりとどうにもならない一日でした。
既存の価値観の離脱を迫られたことで不安になり、第二チャクラがやられたのだと思います。
私はこれまで、人を見て先回りしてものを考えて行動していたので、自発的な動機は持ちにくかったのだと思います。
それは人への執着であり、世の価値観への執着です。
瀬織津姫様は常日頃から「自分を大事にして」と仰る方ですから、その依存は浄化せざるを得ない部分だったのだろうと思います。
それは私にとって良い方向への変化であるとしても、自発的動機を持ちにくかった私としては、他人軸を捨てたらどう行動していけばいいのか見えてこない部分があります。
私は世の物事はこうだ、とある程度は言えるのですが、こと自分が経験したことのないものには奥手になります。
長々と書きましたが、これらの文章を結論に導くことはまだできないようです。
私は「心の赴くままに」とか「直感に従う」行動原理を覚え始めたばかりです。
この冬至が、あらゆる方面に対してターニングポイントになったように、私もこれまでと別の私となり、新たに生き始める段階に入ったのだろうと思います。
ヤドカリは、古い殻を捨てたら新しい殻に引っ越すまで丸裸になります。
今の私はその状態のため、無防備になりますし、外部からの影響をもろに受けます。
古い殻を持っていた頃は、まだ自分の方向性に強気でいられたのだと思いますが、こうして自由になってしまうと、逆に自分を縛るものが欲しくなってしまいます。
でも古い殻に戻るわけにはいかず、新しい殻は自分で探すしかありません。
私は当面、それが課題になりそうです。

楽太郎です。
昨日、ようやく作品が完成しました。
この数週間は、神様と二人三脚で仕事をしていました。
おそらく瀬織津姫様だと思うのですが、本当に献身的にサポートしていただきました。
私の作品や仕事自体は、それほど大っぴらに誇れるものではないのですが、それでも神様が後押ししてくださるということは、おそらく「才能や商売に貴賤はない」と神様が考えておられるからだと思います。
この作品がどういう評価を受けるかとか、そもそもお金になるのかとか、社会の価値観で考えるならばどうなるかはわかりません。
それでも、「神様がついてくださっている」という気持ちがあるから、気をしっかり持って最後までできました。
人の世の経済ではそもそもうまくやれるとは思っていませんが、困りごとは神様に頼るべきです。
神様が「やれ」と仰っているのですから、いずれ悪いことにはならないでしょう。
今朝、早起きをしたのでちょっと調べ物をしていたら、今日の冬至の朝日は特別な意味があるらしく、スピリチュアル界隈もお祭りムードのようでした。
日の出を是非見ようとコーヒーを淹れて、ベランダで待ち構えてましたが、雲が厚くてなかなか顔を出してはくれませんでした。
雲をなぞるように光が昇ってくると、後光が差してきて、とても神々しい光景となっていきました。
そしてお日様が顔を覗かせると、いつもに増して眩しさを感じ、直視することができませんでした。
その時、天照大御神様に「幸せになれますように、ついでに人類も」とお祈りしました。
この写真はかなり切り取ったので画質が良くありませんが、雰囲気を感じ取っていただけたら幸いですw
昨日、作品を仕上げてから、正直言って商売としてうまくいく自信はないのですが、なぜか不思議と怖くないなと思いました。
「神様がいる」というのは、人によっては気のせいに思えるかもしれません。
例えば錯覚とか思い込みとか、神の声が聞こえたらそれは脳の病気とか、そういう風に言う人もいます。
でも、客観的に考えて今、「神様を信じている人と神様を信じていない人のどちらが幸せなのだろう?」という観点だと、人の力でこの人間社会を勝ち抜こうと思う人たちほど、プレッシャーや不安を抱えているのではないでしょうか。
私は、神様と繋がる感覚が例え錯覚であろうと、神様の言いそうなこと、そのアイデアに従って生きていくことで自分の成長を感じ、自信を得てどんどん精神的に豊かになる自分がいます。
神様のいない世界を生きている人は、この部分を人間の力で補わなくてはならないため、よりお金を稼がなければいけないでしょうし、より人をうまく使ってやろうとか、もっと努力して成果を出さなくては、と思うはずです。
しかし、現実の不確実さで言うなら、神様を信じていようがいまいが、大して変わりません。
街はクリスマス商戦の真っ只中なのに、全く浮かれたムードを感じませんし、売る側の人からも何となく本気を感じません。
世の中の雰囲気の悪さを感じるほど、不安な人は「自分で何とかしなければいけない」と思うでしょう。
しかし、人間の努力には限界があります。極論を言ってしまうと、生死を分けるのは気の持ちようとか、運だったりするわけです。
どうせ結果が同じなら、神様を信じて楽しく生きていたほうがいいのです。
地球の次元上昇が眉唾だろうが、隕石が降ってきたり大地震が起こるにしても、映画みたいに人間の力で何とかできるものではありません。
人間は、これまで目に見えるものやデータをエビデンスにしなければ、発言力が得られませんでした。
「目に見えない」ものは錯覚で、「目に見えるもの」だけが実在する唯物論の延長から、各々が我田引水に励むことで混迷が起きていることを、人々はいずれ知ることになると思います。
もしこれから新しい時代、もしくは「神代」になるとしたら、それは「目に見えないもの」が「目に見える」ようになる時代なのだろうと思います。
目に見えないものが見える世界は、誰もが霊能者になるという意味ではなくて、目に見えないものを信じ言葉にする人が増えることで、それがより人の目につき、目に見えない世界がどんどん現実の価値観になっていくことを意味します。
昔、日本各地にコンビニよりも神社仏閣が建てられたのは、人々にとってその「目に見えない世界」が現実であり、共にあったからです。
その時代になることは、革新ではなくて温故知新であり、元に戻るだけです。
私たちは神様のいる、安心できる世界を作ることで、人々の心から言いようのない不安を消し去ることができるのだと思います。
それを私は「神代」だと信じていますが、誰が何と形容しようと、最終的にその世界になれば多くの人々が楽に生きられる時代になると思います。
だから私は心配はしていません。これから世の中が悪くなろうと、私は幸せになれる自信がありますし、世の中を変えていけると思うからです。
追記:
本日からコメント欄を解放します。
冬至が明け、新しい時代の流れを感じます。私も色々とやり方を変えていくタイミングかもしれません。
コメントお待ちしています。
