招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

神様がいらないもの

楽太郎です。
先の記事とは別に、今朝の話を書きます。

私の近所に、よくお詣りする小さなお社があるのですが、そこで手を合わせるたび「何か出来ることはありませんか」と尋ねるようにしています。
普段からご加護をいただいているので、特にお願いすることもないからです。
そのたびに、急に「ズシン」と肩が重くなるのですが、私はこれが念の類だとわかっていたので、その都度浄化してきました。

特に今朝は肩が異様に重くなり、これは邪気に近いものだと感じました。
神様は、これを私に預けることで「持って行ってくれ」と仰られているのだと思います。

前々から感じてはいたのですが、私は邪気を吸い取ることで、自動的に磁場調整をしているようなのです。

以前お茶飲みグループに参加していたのですが、小一時間話をしただけで買い物ができなくなるほど疲労困憊し、他のメンバーが逆に元気になって帰っているのを見ると、私が何かを吸い取っているんだろうな、というのは感じてました。

よく考えれば、昔から私が所属する集団は、私がいるうちは人が集まって盛り上がっていくんですが、嫌気が差して私が一旦外れると、一気に人が離れていく現象をよく見ました。
私自身、丁重に扱われたことは一度もないのですが、私が波長を上げる役割に使われてきたのは、何となく感じてました。

だから安易に人と関わるのはやめにしましたし、自然界は邪気を発しないし私の気を吸い取らないので、気持ちが良いです。
とは言え、神様から浄化するように預けられた念の正体は、散歩しながら気づくことになります。

ある瞬間、公園に死体が山積みにされているビジョンが浮かびました。それは爆撃とか戦争的なものだと感じました。
次の瞬間には、敵国の兵士が街に来たら、と考えていたので、間違いなく戦争関連です。
軽く動揺し、「これは未来のビジョンか?」とも思いましたが、よく内観すると先ほど神社から背負ってきた「念」だとわかりました。

神社からこの念を背負ってきたということは、誰かが戦争恐怖の念を持ってお詣りをされた方がいたのだと思います。
例えば、「敵国が攻めてきませんように」という願いをかけたのもしれません。

私としてはその不安もわかるのですが、私にその念を神様が背負わせた理由が何かあるのだと思います。
神様は最近、人々の念を弾き返すようになっているので、神様視点で言えば「いらないから持って帰ってくれ」ということだったのだと思います。

このビジョンは人々の恐怖思念、言ってみれば妄想であり、「こういう不安があるから救ってくれ」という願いは、言い方は悪いですが神様的には取るに足らないでしょう。
神様は、実践可能な願いは優先的に聞くようですが、不安から捻出された願いはどうしても後回しにしたいはずです。

例えば、「私は平和のためにこういう活動をしているので、お力をお貸しください」という願いなら神様も共感できますが、「この街に敵国が攻めてこないようにお守りください」というのは、神様であろうと持て余す気がします。

私はしばらく考えて、「街にミサイルが落ちてくるより、もっと現実的なカタストロフなんていくらでもあるよな」と思ったので、やはり邪念の類だと判断しました。

こういう邪気は、ご神気の感じる場所や河辺で解放するようにしています。
河辺に行くと、そこに一羽の白鷺がいました。
鷺は神様の遣いとも言われているので、一緒にお祓い作業に付き合ってくれるのかな、と思いました。

ただ、じっとして浄化を待っているうち、寒すぎてトイレに行きたくなり、とても我慢できなくなって邪気が残るのは承知で帰途に着きました。
帰ってきたら、やはり邪気が残ってるなという感じです。これから塩風呂にでも入ろうと思います。

心理学では、「人間の不安は9割取り越し苦労である」と言われます。
今の世に溢れる不安や恐怖の、どれくらいが確実性が高く、どこまでが妄想なのかと疑問に思います。

人間は不安も怒りも、感情自体を娯楽にして消費してしまいます。
そうやって妄想に囚われているうちは、本当の意味で現実的な対応ができません。
私が神様なら、こういう妄想を受け取っても困るでしょうし、だからこそ仕方なく突き返すしかないのだと思います。

「人間たちよ、わかってくれ。願いと妄想を履き違えてくれるなよ」

そんな神様の嘆きが聞こえてきそうです。

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