「心真」 Category:エッセイ Date:2024年12月27日 楽太郎です。 25日に仕事を一区切りつけて、昨日から身体を休ませることにしました。 ただ、私はワーカホリックというか、仕事以外に特に趣味もないので、横になっても何となく退屈でした。 YouTubeで動画を眺めたりしましたが、もはやこの社会で作られるエンタメにはほとんど興味がないことに気づき、少し落ち込んだりもしました。 昨日の朝、冬曇りして薄暗さがある街を歩きました。 最近感じるのは、街全体から漂う空虚感です。 空は確かにどんよりしているのですが、光量がなさすぎるというか、不自然な暗さを感じました。 人からは重苦しい気が出ているように見えたので、あまりチャンネルを合わさないようにしていました。 街の不況感、店のサービスの悪さ、人の殺伐とした雰囲気、これらを横目に見ると、日本人はそろそろ限界ではないかと思います。 この国をどうにかしたい、という思いから自分なりに考え、この数年ひたすら行動してきました。 しかし、学べば学ぶほど腐敗の根深さを知り、ついに「立ち向かえる相手ではない」と理解した時には、腰が砕けそうにもなりました。 今でも、その口惜しさは消えません。 ただ、この人間社会が存続するならば、私はいずれ野垂れ死ぬでしょう。 どうせくたばるなら、いるかいないかわからないお天道様に運命を預ける以外ないと決めました。 ここまで手に負えなくなった世界を何とかできるのは、神様以外にいないと思えるからです。 けれど私には確信がありませんでした。 他人を眺めては気持ちが揺れ動く日々、街の雰囲気や社会の不条理に引っ張られるのも、自分に芯がないからです。 とは言え、これから崩壊していく未来だけが如実に見える世界で、何が残るのかを考えるならば、未来など想像しようがないとも思えました。 私の心は澱み、暗く沈んでいました。 今日、街へ行く用事があり、ついでに氏神様の神社に行くことにしました。 自分が悩んでいることはわかっているので、参拝したらおみくじを引くつもりでした。 そのおみくじの結果はこうです。 このおみくじを引いた時、これは確かに神様のお言葉だと思いました。 私の優柔不断さや煮えきらなさは、まだ人間社会にどう向き合っていいかわからないことにあるからです。 人間社会に傾けば神様のご意志に背き、神様のご意志に従えば人間社会から反発されるのが目に見えています。 その板挟みを一体どう判断したらいいのか、私にはわかりませんでした。 けれど、このおみくじにある「慎み」という言葉にヒントが隠されている気がしました。 「慎み」とは「心の真」と書きます。 なぜ「真の心」が謙虚さや節制を表す「慎み」となるのか、それが疑問でした。 「慎み」が謙虚さを表すなら、「足るを知る」ことが「心の真」となるのだろうか、とも考えました。 ただ、何となくもう少し考えたいなと思い、遠回りして帰ることにしました。 道すがら、少年時代によく通っていた書店にフラッと寄ってみました。 私の10代は悩み多い時期だったので、文学書や哲学書をここで買ったり、立ち読みしたりしていました。 何か新しいことに興味を持ちたいとは思いましたが、並んでいる本の傾向を見て、日本人が本を買わなくなった理由が何となくわかりました。 知識は欲しければネットに繋げれば適当に手に入ります。でもお金を出して紙の本を買うと、手元にモノが残ります。 本は、情報ではなく知識であり、学習というより体験です。 今の出版はビジネスに偏り、学閥的・業界的な知識を提供し、権威づけを再定義する機能があります。 そこにあるのは情報に過ぎず、その体験では精神性を得ることができません。 精神性の体得を反故にする代わりに、知的な敷居を下げ恣意的な情報を取得できるようにした結果、ネットで得られる情報と大差がなくなり、わざわざ嵩張る本を買わなくなったのではないでしょうか。 私は10代の頃に読んだ岩波文庫や哲学書の列を眺めながら、もう一度読み直したいなと思いました。 ここ十数年の精神性をかなぐり捨てた本には魅力を感じなくなったからです。 ある一冊の哲学書を手に取り、貪るようにニーチェやフーコーを読んだあの頃の気持ちに戻り、また抽象的なことに没頭したくなりました。 けれども、その棚の近くにあったのは、「スヌーピー」の登場する漫画、チャールズ・M・シュルツ作の「PEANUTS」の解説本でした。 私はこれを見て、ハッとしました。 私が中学生の頃、漫画本以外に初めて買った活字の本が「PEANUTS」の解説本で、「いいことから始めよう」という本でした。 やはり漫画ではあったんですが、そこで人生哲学と出会い、小難しいことを考え始めた時期もあって、哲学にのめり込むきっかけになりました。 この本はその流れを汲むもので、やはり簡易的にチャールズ・M・シュルツの人生哲学を扱った書籍です。 これを手に取った瞬間、懐かしさと共にインスピレーションが湧いてきました。 「PEANUTS」こそが私の「初心」とも言うべきもので、思えばそれから数十年かけて人生について学び、そして再び迷ってこの地点に戻ってきたのです。 「慎み」を「真の心」とするならば、それは「初心」なのだと思います。 初心だから謙虚であり、謙虚だから驕らず、驕らないから正直なのです。 神様が私に伝えたかったのは、まさに「初心に帰れ」ということに他ならないと思いました。 そのことに気づいた時、あらゆる迷いが氷解したのです。 今まで積み上げようとしたものが積み上がらなかったこと、積み上げたものが崩れて何も残らなかったこと、今の世の中に積み上がっているものが気に食わず、今でも自分で崩して何かを積み上げようとすること、私はずっとそれらに執着していました。 数十年かけて人の世で蓄積した情念は、神様がずっと「これからの時代には必要ない」と仰られていたものです。 それを捨てるのは「初心に帰る」だけでよかったのです。 あの頃、私はこれからだと思っていたし、何にでもなれると思っていました。 社会の歯車は壊せると思っていたし、新しい常識を作り出すこともできると思っていました。 時代が変わり方向性を見失っても、あの頃みたいに新しく何かを始めればいいじゃないかと、そう思えたのです。 数年ぶりに紙の本を買い、帰途に着きました。 雪が降り凍えるような街の中、私は神様に感謝していました。 神様がいるかはわかりませんが、インスピレーションを受けて行動している限り、私はどんどん成長し内面が豊かになっていきます。 それはこの未来が見えない時代にあって、私に自信と希望をもたらします。 この凍える道の途中で、目に見えないエネルギーとの繋がりを感じるほど、私の胸は熱くなっていました。 その気持ちは、私の少年時代にあった心そのものでした。 私は数十年かけて人生を一周し、スタート地点に戻ってきたのです。 それが今日、この瞬間でした。 それがわかった瞬間、自分がこれからどう生きていけばいいのか見えてきました。 なんてことはない、「自分らしくあればいい」だけです。 あの頃のように、傍若無人に自分を貫こうとしている心であれば、良いだけだったのです。 PR