招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

神様からの授かりごと

楽太郎です。
今朝、「神代のビジネスⅡ」の記事を書き終えてから、さてどうしようかと考えました。

どうやら、先の結論であれば今後のビジネスの軸足を神代に移した方が良いのは確かなようです。
しかし、私がこれまで神代にビジネスの軸を置きたがらなかった理由は、別に市場の規模などを考えていたからではありません。

「神代のビジネスⅡ」で裏のテーマにあるのは、慈悲の心、いわゆる「菩薩心」です。
私は仏教にも親しんだ時期が長かったので、仏様は衆生救済を最後まで願われるはずだ、という宗教的な確信がありました。

特に私は浄土真宗の開祖、親鸞聖人に関するお話をよく聞いていました。
親鸞聖人は鎌倉時代末期の最もこの国が荒廃していた時代のお坊様なので、どれだけこの世が荒れ狂おうと、阿弥陀如来様のご本願は救済の手を緩めることはないだろうと考えていました。
それは経済的、社会的に救われるという意味ではなく、せめて精神的、霊的安寧への道は用意されるだろう、と安易に仮説を立てていました。

しかし、先の記事を読んでいただければわかるように、日本神界の結論としては苛烈の一言に尽きます。
人である私には計りかねますが、これまであらゆる時代を越えて神仏が人間に悔い改めるよう諭し続け、それがもはやこれ以上は待てぬ、というところまで待たれてのご判断だったのかもしれません。

私は、その温度差を知り衝撃を受けましたが、それが神様のご意志であるならば受け入れるつもりです。
ただ私がクリエイターとして、これまで制作と表現に込めていたモチベーションは、この菩薩心に根差していたと言っても過言ではありません。

人々を癒したい、人々に気づいてほしい、人々に変わってもらいたい、人々に幸せになってほしい、そういう祈りを込めて作品と向き合ってきました。
しかし神様が救済の手を止め、選別した上で救わないと決めた人間がいる以上、私は一体どうすればいいのか、誰のために作品を作れば良いのか見えなくなってしまいました。

菩薩心や博愛精神は、これからの時代では悪と出ることの方が多いのだろうか。
私がこの数ヶ月、ずっと悩んできたことです。
朝食を取りながら、これだけモヤモヤするのであれば神様にお導きいただく以外にない、と思い神社に行くことにしました。

今日は暖かく、気持ちの良い日差しを感じました。
私の思いつきで神社に歩みを進めたので、神様からは歓迎されないだろうなと思ったところ、久しぶりに道中が全青信号パターンでした。

神社に到着し、神様の前でこれから仕事をどうしたらいいのか尋ねました。
こういう時は、神様はおみくじの文章でよく示されます。500円の「鯛みくじ」というのがあり、そこに意識がパッと行ったので引くことにしました。





この鯛みくじは、縁の輪っかに小さい釣竿の針を引っ掛けて吊り上げるユニークな引き方で、自分で選んだおみくじにかなり集中して釣らなくてはいけないので、「適当に出てきた」という感覚がありません。
なかなか考えられているな、と思いました。
それで、おみくじの内容はこうです。





ここでも、「慎み」という言葉が出てきました。
これは昨年の年末にテーマになったもので、「心真」という記事にしました。

「色」というのは、24色では数えきれないほどの連続的なグラデーションです。
「赤」や「青」というはっきりした一色だけではなく、多様な色があるからこそ移りやすいものです。
それが「欲」というもので、赤が満たされればピンクが欲しくなり、緑が欲しくなり、と際限がありません。
だからこそ、最初に決めた色だけを求めるのが「慎み」となるのだと思います。

このおみくじの文章の中でハッとしたのは「慈しみ」という言葉です。
「慈しみを施せ」と言っておられるのです。

私はこの一文を読んで、自分なりにこう解釈しました。
「慈悲の心は捨ておかなくても良い、菩薩心を持ち続けよ」
そう読み解いた次の瞬間、私の周りを優しい風が通り抜けました。

私はその時、「慈悲は対象を選ぶことができない、それゆえ誰に与えるかを考える意味がないのだ」と悟りました。

この閃きを頼りに、私は考えました。
慈悲の対象を選ぶ必要がないというのは単純で、普遍的なものを目標にすることです。

その意味で、私は「人を救う」という行動にばかり意識が向いていました。
以前、「蜘蛛の糸」という記事に書きましたが、神の救いを手助けすることに私の使命があるのは間違いはありません。
人が救われるかは、本人の意志と神様のご意志であり、私が努力して引き上げる必要がありません。

帰路につき色々と考えながら、近所の公園に足を踏み入れました。
その辺りで、「私は救済を目的としなくていいのだ」ということに気づきました。
「祈りそのものを目的とせよ」という言葉が入ってきた瞬間、街の遠くにそびえる大仏像が真正面に見えました。
私はこんなことがあるのか、と目を疑いました。

「祈りを目的にする」とは、願いを込めて形にすれば良いだけです。
ジタバタもがく人を助けるのは、想像以上に大変なはずです。しかし、私はそれを中途半端にやろうとしていたのかもしれません。

「祈ればいい、ただ祈っていれば良い」という言葉がずっと思念として残りました。

そこに意識を向けると、私が自分自身の作品で何をしようとしていたのかを思い出しました。
私は、ただ祈る気持ちでずっと作品と向き合っていました。誰かに見てほしい、伝わってほしい、わかってほしい、変わってほしい、そういう気持ちを壁に打ちつけるようにずっと続けてきたのです。

これからの表現を考える時、「誰に」「何を」というのは、必ずしも必要のないことかもしれません。
それは人を助けようという意思ではなく、遍く誰かが助かることを祈ればいい、その心をそのまま表現するだけだと気づきました。

普遍的な表現とは、祈りそのものを表現することです。祈りとは、魂からの想いです。
心は祈りそのものであり、表現は心を映せばいいだけです。

それを理解した時、私は物事を複雑に考えすぎていたことに気づきました。
単純な気持ちを表現すればいいだけで、わざと回り道を選ぶような、段取りを気にする必要などなかったのです。

シンプルに、遊ぶように魂の表現をして欲しい。

神様は、人々にそうするように願っておられるのかもしれません。それが、生きるということだと。
そういう世を作りたいから人間に変わって欲しかったのだとしたら、本当に神代とはもっとシンプルに捉えていい世界なのかもしれません。

この考えに辿りついた時、今一度自分の本心に立ち返り、本当にやりたかったことは何か、私は問い直してみようと思いました。
誰かのためではなく、自分が癒され、他人も癒されるようなやり方がきっとどこかにあるはずです。

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