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招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「博愛」を捨てよ

楽太郎です。

昨日、私自身は関係なかったのですが、身の回りで人間の行いの悪さを痛感する出来事があり、色々と気づかされました。

昨晩はその出来事で頭に血が上ってしまったのもあって、集合意識的な夢を見てしまいました。

私はよく街中や雑踏をただ歩くだけの夢をよく見ます。
それは特に嫌な夢ではなく、ショッピングや観光に近い感覚なので、どちらかというと愉快な夢です。
その夢を見た後は寝汗や強張りがあり、下手するとその日は体からずっと邪気が抜けなかったりします。

昨晩見たのは、とても美味しそうなパン屋さんをハシゴするのですが、ポケットの中にいつぞや買った菓子パンが2つ入っているのに気づいて、店をしれっと出て、パンを焦りながら食べきるという夢でした。

私は夢占いとかの知識は全くないのですが、昨日の出来事と合わせると、「お前の甘い部分をさっさと捨てろ」という意味のような気がしました。


最近、神様のお導きに従っていると、なぜか人間に対してわざと嫌悪感を抱くように仕向けられているように感じます。

神様は愛の存在なので、わざわざ人間を忌避したり、人払いをさせる方向に導くのはなぜだろうか?と違和感がありました。
私は疑り深いので、私を導いているのは悪魔的存在で、わざとまずい方に向かわせている可能性すら考えていました。

しかし、それをなぜかを深く内省してみたら、私がこれまで無条件に「人が救われる」ことの意味を履き違えていたことに気づきました。

これは「博愛精神」と呼ばれるものです。
神様は、今はこの博愛精神が良くないと知らせたかったのだろうと思います。

昨日の身の回りのトラブルも、家族が悪徳業者に善意を向けたために訪れた被害であり、誰彼構わず親切心を向けたり、無条件に与える優しさや甘さの部分が、裏目に出ることを示したかったように思えてなりません。

確かに、神様が神代に渡る人々を守る上で、へんな慈愛精神でトラブルを呼び込まれると、いちいち守りきれないでしょう。
今後、世の中がどうなるかわかりませんが、神様に選ばれた人たちはそもそも徳が高いので、その懐の深さにつけ入る連中が絶えないはずです。

神代をつくるのは最終的に人々を救うことを意味するので、慈愛精神は当然あるべきなのですが、逆に浅ましい人間たちにとって、それはつけ入るべき甘い蜜にしか見えないはずです。

例えば、食料が尽きて金もなくなり、人間関係が破綻しきった人が、神代で安全に暮らしている人に近づくには、善意に訴えるのが早いでしょう。
私たちは未来がまさかそこまで、みたいな気持ちはあるので、些か穿った考えのように思えますが、神様ならここまで考えておられてもおかしくはありません。

「神代の理」は、およそ人間社会の価値観とは一線を画すものです。世界の解釈の仕方が根本的に違うからです。

神様からしてみれば、「苦労」や「困難」はあえて「経験するべきもの」です。
人間は酸いも甘いも経験してこそ、魂が磨かれ成長していくものなので、苦労や困難は人生におけるハードルとして必要なものであり、人には「困難を乗り越えて成長していく」権利があります

私の「全員が無条件に幸せになればいい」という考えは、確かに人間界の価値観では気高いでしょう。
しかし、その感情が良くない働き方をすれば、単にお節介であり、人の甘えや依存を助長するものになりかねません。

神様は、おそらく歪んだ博愛精神が、負の働きを促しやすいことを注視しているのだと思います。

これから人々が神代を受け入れるために変化するならば、一旦これまでのあり方が壊されることを意味します。
それは悲痛なものになるに違いありません。神代に渡る人たちは、そもそも愛情深く、目の前で苦しむ人がいたら手を差し伸ばせざるを得ないかもしれません。
しかし、安易な手助けは、彼らが自らの困難と直面し悔い改める機会を阻むことになりかねません。
そして、一度誰かを助けてしまえば、群れになって助けを乞われる可能性もあります。

多くの人々がこの痛みを感じるのは、「困難」という経験が彼らの魂には必要だからであり、それを乗り越えてきっちり禊をしなければ、神代に安心して渡り切ることができないでしょう。

神様は、だからこそ中途半端な情や慈善行為を咎められているのだと思います。
「人を救う」ことは、決して楽をさせることではなく、甘えを許すことでもなく、自立した一つの魂として、成長の権利を尊重することであると言いたいのかもしれません。

私が最近、やたら人間たちを疎むような気分にさせられているのも、今は下手に情けをかけさせると危険だから、とは私の頭で考えても理解できます。

正直言って、神様がどこまでやるかはわかりませんから、私としては「そこまで準備しなくてはいけないの?」という感覚なのですが、そこは神様の裁量にお任せするしかありません。

これからどうなるかわかりませんが、「他人の心配より自分の心配をしておけ」という意味においては、間違いないような気がします。

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「できない」を活かす

楽太郎です。

ここ数日、私自身のエネルギーが安定してきました。
先週は好転反応の時期が続き、エネルギーが乱れているところに邪気が入り込んで、本当に混乱していました。

しかし神様の手助けによってトラウマが浄化され、自我の統合が進み、また神様の所属に意識を移すことでエネルギーが安定しやすくなり、邪気の影響もだいぶ受けにくくなりました。

自我の統合において、これまで生きてきた人間社会での常識、思い込み、思考的習慣、そういった人格を構成する部分がネックとなり、魂やハイアーセルフとの繋がりを遮断していました。

私の心にこびりついていた後悔、劣等感、執着心、自分に嵌めた枷のような考えが、私自身の可能性をずいぶん縛っていたように思います。

「できない」「自分はダメだ」という気持ちは、自分にかけた呪いそのものでした。

「できないから、できるようにならなきゃ」
「自分はダメだから、もっと頑張らなきゃ」
そうやって自分で作った輪の上をグルグル回り続け、さっぱり前に進まない状態を作り出していました。

ただ、この「できない」「ダメだ」というのも、人間社会のルールの中で、他者と比較することで外部から与えられる評価であり、自分自身を比較から外してしまえば、私はできない人間ではないしダメでもないのです。

私たちはこれまで、個人が幸せになる上で非効率的な価値観を与えられ、その歯車の上でうまくやろうとするから、幸せが遠のく生き方ばかりをしてきたのだと思います。

大人気バンド「サカナクション」の山口一郎さんは、現在うつ病の治療中ですが、音楽活動などをマイペースで進められています。
山口さんは、TVアニメ「チ。」のOPテーマを担当されていますが、未完成曲とのことです。

山口さんは自身のYouTubeチャンネルで、「葛藤をあえて見せていく、それが自分にとって新しい表現の形だ」と仰っていました。

私は、これは実に風の時代とか、神代の考え方だなと思いました。

土の時代は、産業の時代でした。
利益を最大限に得るためには、高品質の完成品が求められました。人々は完全無欠であるものを求め、ヒット商品のためにあらゆる非人間的努力が当たり前の世界でした。

これが風の時代に変わり、個人の自由や精神性が主軸となっていくならば、結果よりも「プロセス」が重視される時代になるはずです。
その上で、ストーリーや文脈が大きな意味を持ち、完成度よりも感動がメインになっていくのではないでしょうか。

そうであるなら、「葛藤」もドラマの一つになりうるはずです。
その意味で、「できない」とか「弱さ」や「障壁」などネガティブな要素も、プロセスの一部として魅力的なスパイスになるに違いありません。

これまで、そういった不完全性は、「ダサい」とか「良くない」とか言われてきた部分でした。
しかし、人々の個が尊重され、各自が自由に気高く生きていける時代は、完全性の制約を破った先にあるはずです。

だから、私も「できない」とか「性格に偏りがある」とか人に欠点だと言われるところはたくさんありますが、その欠点をプロセスの一部にしたり、開き直ってアクセントにしてみたり、ポジティブに生きるならいくらでも変換できるものです。

これからの時代は、他者の評価軸を絶対視して自分を変えようとするのではなく、もっと柔軟に自分を相対化しながら、他者も社会も相対化していければ、緩い調和の世界になっていくのではないでしょうか。

古い時代の世のあり方に傷ついたのは私だけでなく、ボロボロになって苦しみ沈んでいく人たちを数えきれないほど見てきました。

人間が幸せに生きられる弥栄の世を作ることは、かつての苦しみを間違いとして残すのではなく、教訓や救いに変えることでもあると思うのです。

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神を敬うことについて

楽太郎です。

今朝、朝食を食べながら「日々の感謝を神様に伝えないとな」と思い、これから氏神様の神社に行こうと思い立ちました。

正直言って呼ばれている感じはありませんでしたが、ご挨拶する程度ならお許しくださるだろうと、参拝に向かいました。

神社の裏手の林からご神気を感じるので、道すがら神様のご機嫌を伺ってみました。

何となくどんよりとした気を感じるというか、普段にはない威圧感や拒否感を感じました。
おや?とは思ったのですが、とりあえず鳥居の前に来た時、白装束の人たちがゾロゾロ入っていく姿を見て直感的に嫌な感じがして、一応気をつけることにしました。

鳥居の前に来た瞬間、けたたましい消防のサイレンが突然鳴り響きました。(これは警告だったかもしれません)
次の瞬間、大学生のような雰囲気の神職が走りながら適当な挨拶を交わしてきたので、私は思わずイラっとしてしまいました。
境内に入ろうにも手水舎の水も止められているので、禊をすることもできませんでした。

私は直感的に、「来るな」というメッセージだと思いました。
あんまり呼ばれてもいないのに来るもんではないな、とは思いましたが、なんか今日は何かある日らしく、追い返された感じがしました。

ちょっとイライラしてしまったのもあるので、私はこんな気分で神様にご挨拶するわけにはいかないと思い、参拝せずに帰宅することにしました。

それでも神様のご様子が気になったので、遠目から神様のお気持ちをお伺いしようとすると、やはりどんよりとした気を感じるだけでした。

私の「どうなさったのですか?」という聞き方も悪かったのですが、何も入ってこない時間が続き、何となく怒っているのか、悩んでいるのか、そんな感情が伺えました。
「私に何ができますか?」と直接お聞きすればよかったのですが、しばらくすると「照らせ、世を照らせ」という言葉がはっきりではありませんが胸に浮かんできました。


そういえば以前、私が本気で神様にお祈りしている最中、バタバタと拝殿から神職が降りてきて適当な挨拶をされ、祈りが中断するという珍事がありました。

この神社は喫煙所が休憩用のベンチの近くに置いてあったり、仮手水舎の水道がほとんど止められていたり、細々としたところに配慮を感じず、以前から納得できないところです。
歴史のある神社なのに、礼儀は全く継承されていないようです。

私は所詮人間なので、自分が神様のお立場なら、神への崇拝や参拝者への敬意を疎かにし、神よりも金を上位に置いている神職のあり方には、相当腹を立てていらっしゃるのだろうなと邪推してしまいます。

神様たちは堕落した人間界をテコ入れするために動いておられるのに、人間といえば神の名を利用して金儲けし、神事を業務としてこなしている神職すらいる始末です。

かの神社運営の行いを例えるならば、富豪一族の子孫が大事業家の祖父を心から敬愛して支えるわけではなく、祖父の事業や資産を使ってどうやって儲けるか、ということばかり考え、口先では「お爺ちゃんのおかげ」と言っている、そんな一族を見ているようです。

ここまで舐められたら神様も相当お怒りでしょうが、私の徳のレベルでは、この程度の所業で苛ついてしまうだけかもしれません。
私としては、日々の人間の行いを眺めては「神様、そろそろ本気でお怒りになられては?」と思ったりもするのですが、それは神様のお気持ち次第です。

とにかく、相手が神様であろうと人間だろうと、敬意を払えない者は言語道断です。
神様を巡る人々の意識は、深い部分から見直されなければならないと、私は個人的に思います。

追記:
後になって冷静に考えたら、氏神様はこの出来事をブログに書いて世に示して欲しかったのだろうと思いました。
神代は神様と共に生きる時代になるので、人間が神様の願いを叶えるというのは当たり前のことになっていきます。

神様は最近、私をメッセンジャーとして遣うために特殊な経験に遭遇させます。
だから今日の一連の出来事は、意味があることだったのだろうと思います。

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真実を探す楽しみ

楽太郎です。

先日、世に言う「知の権威」が揺らぐ時期にあるため、その知識で自分を固めていると、権威が揺らいだ時に自分が揺らいでしまう、という話をしました。

これは私自身痛感しているのですが、最近は特に顕著にスピリチュアルの分野でそれを感じています。

スピリチュアル業界は、そもそも霊感商法と親和性の高いビジネスが多く、その真贋はほとんどの人にはわからないはずです。
宗教を土台にしたビジネスはそれこそ昔からありますが、かつてテロ集団となったカルト教団もあり、精神性があるからと言って安全であるとは限らないのも事実です。

近年は、スピリチュアルの裾野が広がり、全く霊能力がなくても新規参入できる分野となっています。
とはいえ、私はそれを批判する気はありません。
人が自分自身の在り方を思い直し、日常をポジティブに変換することができるならば、それも悪くないと思うからです。

スピリチュアルをエンタメとして俯瞰してみると、都市伝説やオカルトという分野とも結びついています。
都市伝説とオカルトとスピリチュアルは、いずれ切り離されるべきだと、私個人としては考えています。

先日、都市伝説界隈のインフルエンサーに詐欺が発覚し、界隈ではちょっとした騒ぎになっています。

彼は日本民族のルーツや伝統などをテーマにされていた方だったので、私も興味があり拝聴していた時期がありました。
ただ彼に問題が発覚して、私が頭に入れてしまった知識がどこからどこまで正しいのか、それを再検討しようにも術はない状態となり、結局自分自身の思い込みを丸ごと疑わざるを得なくなりました。

同様のことが、これからスピリチュアルの業界でも起こる可能性が高いと思います。

しかし、これは詐欺を流布する人が悪いとか、真贋を判断できない視聴者が悪いとか、そういうレベルの話がしたいのではありません。

私が都市伝説系YouTuberの騒動で思い知ったのは、他者の用意した結論を知識として自分に入れ、それで世界観を構築してしまうリスクの高さです。

特に、スピリチュアルは神様や宇宙、世界の法則や真理などを扱います。
あっさり「宇宙はこうなっている!」という解説が15分くらいの動画にまとめられていますし、分かりやすく納得もしやすいものが多いです。

私は、これらが正しいか偽物か判断するべきだ、と言いたいのではありません。
それを鵜呑みにするか、批判的に見るか、俯瞰して距離を取るか、それらは自分の自由意志で選択できることであり、それを意識することの方が大切だと言いたいのです。

私もかつて興味があり、神様や宇宙の法則や成り立ちなどについて、情報を漁りまくった時期がありました。
しかし、その知識を誰かに求めたり、外部の権威に縋ることは、自らの人生観の一部が「〇〇が言っていた真理」で構成され、下手すると死ぬまでその思い込みを引きずることになります。

私は神様との繋がりが強くなればなるほど、世に溢れる情報に真実があろうとなかろうと、答え合わせを外に求めるのはつまらないと感じるようになりました。
神様の与えてくださるインスピレーションの方が事実を抉っている感覚がありますし、その答えを自分の内側に求めるのは楽しいからです。

確かに、「宇宙はこうなっている」と話をされたら、あながち嘘ではないと思う自分がいたり、すんなり納得することもあるかもしれません。
そこであっさり宇宙の真理について知ってしまえば、この宇宙の真理を自分で解き明かすプロセスを陳腐に感じ、探求の楽しみを失ってしまうのは勿体なく思います。

私たちはおそらく、この時代の世に生まれてきたのは、「体験すること」自体に意味があるからです。
その体験が魂を磨き、人生を充実させるからこそ、真理は見つけた瞬間に大きな価値を持つのです。

それが気軽な動画から得られるのは、確かに便利ではあっても、便利さで満足するかは自分の選択です。

だから私は、スピリチュアリストが言う全てのことに対して、実感を通して共鳴する部分だけにアンテナを張っていますし、それも自分の魂の体験で「あれは本当だったかもしれない」と思う日まで、飲み込まずに咀嚼を続けています。

現代人は「答え」や「正解」を見つけるには、早ければ早いほど良いと考えがちですが、答えや正解の価値は、問題の難易度がわからなければ容易く忘れてしまいます。
その難易度の高さは、自分の実体験を通してしか理解できず、それも他人に「これはハイレベルな問題だ」と教えてもらうのは意味がありません。

私とは何者なのか、神とは何か、世界はどうなっているのか、人間はどういう存在なのか、それらは自分に与えられた条件の上で解いていくからこそ面白いのです。

確かにわからないものと向き合うのはストレスを感じるかもしれませんが、自分なりの答えを見つけた瞬間にはカタルシスもあります。
そのプロセスは苦しくもありますが、プロセスそのものが喜びに向かうものだと私は思います。

だからこそ、安易に「他人の真実」を自分のもののように思い込むのはやめよう、今はそう考えています。

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自分の心に答えを求める

楽太郎です。

最近、特にインフルエンサーやメディアの裏側や正体が暴露されて、その言説を取り巻く信憑性が揺らいできました。

これに関しては私も実感しています。
以前は日本の保守論陣のロジックの正しさを確信していましたが、それにも次第に疑問が湧き、距離を取って別の論点に触れてみると、その正しさにも一応納得がいくのですが、どの論理も相互に矛盾があり違和感を覚えます。

特に、スピリチュアルと時事を同時に扱っているインフルエンサーの話を聞くと、背後に神霊がいらっしゃるという頭があるので、余計に後光が差して正しく聞こえてきたりもします。
ただ、距離を置いて遠目に見てみると、その人物すら信用していい人物との直感は得られない、そういう人はかなり多い印象です。

岡本天明氏に降りた日月神示では、末世はあらゆる神がかりが蔓延ると語られていました。

今は、スピリチュアルでさえも真偽があやふやな状態であり、しかも情報の世界はビジネスに染まっているので、はっきり言って罠だらけです。
玉石混交の真実の中で、本当にダイヤの原石が存在しているのかすら疑わしい世界です。

以前、私が意識の所属問題で第3チャクラをやられている時、ネックになっていたのは「一般社会人しての意識」でした。
私たちが長年この人間社会を生き抜く上で身につけた常識は、神様の世界の道理とは若干違うものなので、古い価値観を持ち越したまま神代に渡ろうとすると、どうやらその手放しを促されるようなのです。

未だに、私の心の中でも「誰それがこう言っていた」「誰がやることだから良いはずだ」という先入観はありますが、そういうものがどんどん捲れて本質を現すたびに、自分を形成する外部的要素が全く当てにならないことに気づいてしまうのです。

今は特に、世界中がそのデトックスの真っ最中なので、何であれば絶対安心というものは存在しないでしょう。

だからこそ、いくら当たり前だと思うようなことでも、一旦疑ってみたり、距離を取ってみたりして、「そうじゃないかもしれない」というポジションでものを見るのは重要なのかもしれません。

誰が何を言ったかを正しいかどうか考える前に、魂の部分でどう受け取ったか、直感ではどう感じているのか、そのことに目を向ける方が、後に自分を救うことになるはずです。

私たちの魂は神のワケミタマですが、ワケミタマが繋がるのは根源なる神、いわゆるワンネスです。
つまり私たち一人一人は全知全能の神様との繋がりを生まれ持っているので、己の魂との繋がりを高めれば高めるほど、万物の本質に気づく能力は鋭くなっていきます。

だからこそ、真実を外に求め、外の世界に神を探すよりも、自分の内なる神と対話することの方が間違いはないでしょう。

しかし、それは自分にしかわからないことで、誰にも確かめようのないことです。
ただ、証拠がないからこそ、常に自分の内側に確信を求めていくしかありません。

神様が人間の目に見えず、形として常に顕現することなく、いるかいないかわからない状態であり続けるのは、人間にとって「目に見えないものを信じる」ことが一つの到達点であるからだと思います。

だからこそ、聖書のヨブ記のように身の破滅をもたらされても、神を信じきれるのかについてわざと神様は試されたりもするのです。

ただ現代の人々は、目に見える形で神様がテレビに出て、インタビューでも受けてくれなければ信じないかもしれません。
いや、それこそ胡散臭いと思いますが、私はどっちにしろ目に見えない方が美しいと感じます。

今は、あらゆる人の言葉を聞きに行くより、自分の内面に潜った方が大切なことがわかるかもしれません。
そして、あらゆる情報に触れた時、その感じ方を自分に問いかけてみた方がはっきりした答えになると私は思います。

惑わされることが多い時期だけに、自分軸をしっかり持ちたいところです。

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怒りを力に変える

楽太郎です。

昨晩、何の夢を見たかは忘れましたが、今朝目を覚ましてベッドでしばらく考えたら、人間の世界がどうでも良くなりました。

私がこれから「神代を作る上で今後関わっていくコミュニティなんだろうな」と思って所属していたグループがあって、何かと縁を感じていたのですが、そのグループのリーダーが私を除け者にしようとしていたことがわかり、私としては好意で参加していたので、非常にガッカリしていました。

その理由も私が悪かったと反省できる部分はほとんどなくて、私が周りを見て善意で行なっていたことが、どうやら気に食わなかったようです。

そのグループが仮に神代を作るにしても、このレベルの共同意識では到底長くはやっていけないでしょう。
これまで、リアルな人間社会と折り合いをつけながら楽しく暮らせる気持ちでいましたが、神様がそれに気づかせるということは、「もう諦めろ」ということなんだろうなと思いました。

そもそも、多くの人々は今のところ悪手しか打っていません。

自分たちで好き勝手に作り上げた世界で、人間が滅びの道に進むことを薄々気づきながら、特に何も変えようとせず、それどころか他責と仲間割れに奔走し、人間たちを救うおつもりの神様にさえ目を背けています。

人々は、神様がこれだけシグナルを発して気づかせようとしているのに、それでも自分の考えを曲げず、変える気も変わる気も湧かないほどに魂を曇らせてしまいました。

私は、これを変えるには愛の力が必要なのだろうと思っていました。
また、魂の力を良い方に使うには、360°光のエネルギーでなければならないと思い込んでいました。

しかし、何となく自分の中でしっくりくる感覚がなかったのは、愛の波動だけを使おうとするあまり、人間の不条理に湧き立つ、私自身の悲しみや怒りのエネルギーを何とか封じ込め、ポジティブなエネルギーに変換しようとしていたからだとわかりました。

ただ魂の感受性は素直なので、良くないものは良くないと判断してしまいます。
それをエゴは、自分の目的や目先の利益を求めるあまり、どうにか自分に都合の良い形に理屈をつけ、その直感が気のせいであると処理し、魂のメッセージを上書きします。

それは、人間が神様に目を背け、神代ではなく物質世界を選んだ思惑とほぼ同じ意識です。

魂の感覚には本来、良いも悪いもなく、例えそれが悪感情と呼ばれるものでも、その未熟さも受け止めてこそ魂の感覚に繋がれます。
だから、社会的に良い、人格的に優れている感覚的反応だけを拾い上げても、魂のメッセージを受け取っているとは言えません。

いくら神様が人間たちのことを慮り、そして私も人々に尽くそうとしているに関わらず、その思いを唾棄する人間たちに、いつまで同情できると言うのでしょうか。

私は、この怒りも魂のエネルギーの一部であると悟った時、瀬織津姫様のことを考えました。

瀬織津姫様は浄化の神様であらせられますが、浄化とは表裏一体で禍事を起こす必要があり、その行いは八十禍津日神様による混沌の力です。
禍事、つまり破壊がなければ、浄化の後に天照皇大神様の岩戸開きは行われません。

破壊は、決して愛の力で行えるものではありません。
破壊のエネルギーとは陰の気であり、怒りもその力の一部です。

私は、この怒りの力を自分の内に否定せず認めることで、人間的価値観を振り払い、神代の創造のエネルギーに変えることに決めました。

これまでの私の迷いや煮え切らなさは、半々の形で人間界と渡り合っていこう、という平和主義にあったのですが、人間たちがここまで変化を疎むならば、力づくでも変えていくしかありません。

だからこそ、私は魂に備わった陰と陽のエネルギーを360°使い、その力を神代のために振り向けようと思いました。

肉体的な目で見れば、未だに人々はほんの少し世の中が良くなる片鱗を見せれば、そこからオセロのようにバタバタと世の中が良くなっていくと信じています。

しかし、ここまで悪意が蔓延ってしまうと、人間の骨の髄まで血を入れ替えなければ、人も世も神代仕様に生まれ変わることはできないでしょう。

それは人間たちにとっては酷く残酷に感じられるかもしれませんが、視界に入らないところで苦しみ、もがいている人たちがいる世界で、神様が人間を救うために必要だと考えておられることに違いありません。

だからこそ、その神様の側に立つには、人間社会の理屈にはない覚悟を持つべきだと思います。

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神代を阻むエネルギー

楽太郎です。

本日2本目の投稿になりますが、緊急かなと思ったので書きます。

今日、何となく朝からイラつきと緊張があり、普段の自分と違う感覚がありました。
昨日、色々変化があって頑張りすぎたので、疲れたかな?くらいに考え、緩いペースでやっていました。

ただ、やはり違和感があり、特に霊感と繋がりづらくなっていて左脳が働きすぎている、という感覚です。
あたかも、土の時代に長らくあった感覚に戻った感じでした。

あまりに魂や神様との繋がりが難しいので、とりあえず気分転換のためにウォーキングに行くと、やはり自然にいらっしゃる神霊にはちゃんと繋がれましたし、メッセージやご様子も伺えました。

それで少しは霊感が戻ったのですが、そのあと買い出しに出かけ、初めに飲食店に入ってからだんだん感覚が曇り始め、近くのお客さんにイラついて気が散るようになってきました。(なお、そのお客さんは決して迷惑をかけるような方ではありません。)

なんかおかしいなと思って、スーパーに入ってしばらくしたら、腹部の緊張が激しくなり、食べた直後だったので気分が悪くなって、しばらくじっと休みました。
家に帰ったらどっと疲れて、午後はほとんど動けませんでした。

これはちょっと不自然な体調の崩し方で、邪気が原因だとしても新しいパターンだな、と思いました。

確かに、最近コンビニに入るだけで感情が曇ってくるというか、なんでこんなに疲れるんだろう、と思っていたのですが、人が集まる密集度と多さが関係し、その係数が高ければ高いほど具合が悪くなる確率が高いことに気がつきました。

あまり意識したくなかったのですが、これは集合意識にアクセスすることで受け取ってる邪気だとわかりました。

ただ、それにしては自分の魂の部分での邪気の浄化も鈍いのです。
特に今日は神様と繋がりにくいのでどうしようもなく、無駄に悶々と過ごしていました。

昨日、私は新しい自我の関わり方を見つけ、ほぼ一日冴えている状態でした。
ただ、一晩寝てから全くその感覚がなくなってしまい、なぜだろうかと考えていました。

ふと思い出したのは、昨晩見た夢です。

というか、ここ数日はずっと似たような夢を見ていました。
それは、旅行する夢というか、街中や観光地を歩き回ったり交通機関に乗って移動したりする夢です。

昨日は特に鮮明で、市場に展示されている商品の一つ一つの特徴も、売り場の人の顔すらも細部までリアルに覚えていられるような夢です。
それを何時間も見ている感覚があって、朝起きた時には全く寝た感じがなく、右手が痺れていました。

この右手は、ずっと握りしめていたようで、目覚めた瞬間にビリビリに痺れていることに気づきました。

私は右手を使う仕事をしているので、才能を司る右手には、よく邪気が溜まります。
その時は、痺れて最悪の場合動かなくなるので、塩で揉んで水で洗い流す、ということを以前はよくしていました。

ちなみに、この「右手に邪気が溜まる」という現象は、はっきり神代に渡ったと自覚できた日からパッタリ感じなくなりました。
こうなるのは、単純に私が霊媒体質だからという理由ですが、空間的な邪気が身体に溜まるのはほぼ無縁になったはずでした。
しかし、寝てる間に握りしめていた右手と夢の内容、今日一日の不調、何か関係あるのではと疑わざるを得ませんでした。

ある霊能者によると、人は寝てる間に集合意識に魂が繋がるそうです。
その集合意識はおそらく、今は邪気の巣窟になっており、特に集合意識に村八分にされている神代勢が触れると、エネルギーバランスが崩れやすくなります。

私が言う「具現化した邪気」は邪念で動く人間の発する気を指していますが、これを祓うために神代に渡りたい人たちは、社会的に色々と工夫してきたはずです。
それは邪気が才能やお役目を妨害するために働くからで、似たような働きを集合意識、集合的無意識の邪気は私たちに与えてきます。

私が体験したのは、昨日の覚醒状態を覚醒前の状態に引き戻すような作用が、夢にあった可能性があるということです。

つまり、眠ることで集合意識にアクセスすると、その邪気が精神に悪影響を及ぼす可能性があるのです。
これは自分でも信じがたい推論なので、下手に不安を広げることはなるべく慎重に結論づけたいところですが、私の身体に起こった変化を分析すると、こう考えると一本筋が通ります。

今、古い土の時代が未来永劫続くことを選んだ人たちの集合意識、集合的無意識は、露骨に邪気となって改革への意識に反抗してくるように思えてなりません。
確かに、神様の側に立って古い秩序を破壊する人たちは、古い秩序を維持したい人たちにとってテロリスト同然であり、敵でしかないはずです。

しかし、私たちからすると古い秩序は、このまま維持してもどうせ壊れるか滅びるまで衰退するしかないもので、もうすでに限界が見えています。
だから「壊してあげる」くらいの気持ちでいるのが神様たちだと思います。

もし集合意識がここまでするようになったのなら、もう仲良くすることもできなさそうです。
少なくとも私がゆっくり眠るために、その邪念は集合意識から消えてもらうしかありません。

これは私の推論にすぎないのですが、こういう可能性もある、ということで注意喚起をさせていただきました。

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コミュニティとお役目について

楽太郎です。

最近、現実世界で「似た者同士の引き寄せ」がの力が強まっているのを実感しています。

三次元世界で繋がる人たちはより強固に、神代のコミュニティに属する人たちも、より核心的になってきているように思います。
しかし同時に、「近いけれど縁は遠い」ような人からも距離ができ始めています。
そして、神代側も三次元側も、より共感性の高いコミュニティに収斂しているように見えます。

私の場合は、これまで「神代を作るために、このコミュニティと今後関わっていくんだろうな」という出会いも、何となく不一致な部分から距離が離れていっています。
どうやら神様たちの中で「こいつは神代のために単独で動いてもらった方がよい」と判断されているらしく、コミュニティとの関係が一方的にバツバツ切られていっています。
これも神様のご意志なんだろうと思い、コミュニティに属さなければ、という気持ちが出たり焦ってはいませんが、少し寂しい思いです。

今、神代を目指す人たちの中で、コミュニティに属する予兆がありながらも、何となくしっくりきていなかったり、なぜか離れていくのを感じてしまう方がいるかもしれません。
これに関しては、全く焦る必要はないと思います。

きっとタイミングの方が重要で、自分に条件が揃うか、他者や環境に条件が整うのを待つ必要があるだけで、いずれ神様がご神縁でバッチリ結びつける時が来るはずです。

例えば、これから神の求めに応じるのは、既存の何かが壊れるタイミングかもしれませんし、新しく何かを作る必要がある時かもしれません。
そのタイミングが何なのか、何がきっかけになって求めが生じるのか、それはその時が近づいてみないとわからないはずです。

ですから、今はその準備期間だと思って、必要な準備を神様のお導きで進めていけばいいのだと思います。

今、自分は才能を発揮していない、神様からはっきりしたお役目を与えられている自信がない、それをこなせている気がしない、という方もおられるかもしれません。

かく言う私もそうです。神様からは「そのまま続けなさい」というメッセージは定期的に受け取っているのですが、結果に繋がっている気は全くしません。

しかし、おそらく今は「やること、前に進むこと」の方が大事なのだろうと思います。

現人神というより神様の選抜に関わらず、「神と人の意思の調和」によって神代は作られるものであり、結果的に神代に繋がれば良いのではないでしょうか。

その調和は、神代の波動を何らかの形でこの世に投影していく、その一つ一つの小さな行動自体に意味があるのではないかと私は考えています。

例えば、「他人が使ったコップ」と「新品のコップ」は、モノとしての機能が同じでも付加された情報が異なり、それによって価値が違います。
つまり「神代の波動が一つ増える前の世界」と「神代の波動が一つ増えた後の世界」では世界の情報量が変わり、その変化が神代の実現に繋がっていくのではないかと私は思います。

ですから、「役に立っている、立っていない」というのは、人間側では判断しようのないことかもしれません。
あるいは、神様の側に立つ人が幸せで、ニコニコ笑いながら暮らしているだけで、神代の波動を発し続けている可能性もあります。

何が正しく何が間違っている、というのに拘らず、最終的にどんな世界が神代なのかを考え、神様からメッセージを受け取り、その結果に繋がっていく行動をしていけば良いのだと思います。

ですから、焦る必要はありません。
例え目の前が真っ暗でも、どんどん人が離れていっても、神様の求めを知り神様のご意思を信じていけば、間違いはありません。
神様はその覚悟を定期的にお試しになられますが、その答えを間違えないことが最も重要なことだと思います。

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神代のビジネス

楽太郎です。

先日、3日以上に渡って生じた好転反応によって、私のハートチャクラが開きやすくなった話をしました。

この働きには瀬織津姫様との関係がきっかけにあり、瀬織津姫様は浄化の神様であらせられますので、私の心のトラウマを祓い清め、邪念で見えなくなっていた私自身の心の闇と、心を閉ざすロックと向き合う状況を作っていただけました。

瀬織津姫様は、伊勢神宮で祭祀されている形によれば、天照皇大神様の荒御魂であらせられるそうです。

記紀的な説明をすれば、伊弉諾様が亡くなられた伊奘冉様を思って黄泉の国に下られた際、大勢の亡霊に襲われて黄泉比良坂から逃げ帰り、やれやれと思った伊弉諾様は中の瀬で禊をされました。

その時に八十禍津日神と大禍津日神の二柱が垢から生まれ、同じ禊の最中に三貴子、天照皇大神と素戔嗚、月読の三柱がお生まれになりました。
江戸時代の国学者、本居宣長によると八十禍津日神は瀬織津姫と同一視され、八十禍津日神は天照皇大神の天岩戸隠れをした際に起きた災い、天岩戸開きによる浄化は瀬織津姫の働きによるものだそうです。

つまり、和御魂の天照皇大神、荒御魂の瀬織津姫、八十禍津日神は同一の神格であらせられるということです。

この話をしたのは、私が瀬織津姫様のご加護によって心の浄化が起きた際、私自身の問題が過去の因縁めいた失敗と如実に向き合わざるを得なくなったことは、八十禍津日神様の災い、つまり天岩戸隠れに喩えられるのではないかと思ったからです。

天岩戸が開かれる時、天照皇大神様が姿を現し、私の問題は須く解決に向かうはずです。その浄化の働きを助けて下さっているのが、瀬織津姫様ではないかと私は考えています。

私の心にとっての天照皇大神様の光とは、才能を持って人に愛を与え、幸せにしていくことだと思います。

しかし、私は全く才能の上で今まであまり受け入れられてこなかったというか、開き直って挑戦的なことをしてきたせいもあって、わりと私のキャリアは受難そのものでした。

ただ、この浄化と解放の中で、私が人様から受け入れられないことで心にかけた封印は、愛の表現に向かうことで解かれる、というメッセージを受けているのかもしれません。

今は商売がうまくいかないのは当たり前

今、まさに神代をこれから作っていこうという段階にあって、まだ古い土の時代の社会や経済は、壊れきってはいません。
この崩壊は、まさに八十禍津日神様の起こす災禍のお力であり、崩壊しきらなければ瀬織津姫様の浄化のお仕事も捗らず、天照皇大神様が姿を現すこともままならないでしょう。

その移行期にあって、魂の修行をしている最中の私たちは、古い時代のやり方をある程度続けながら収入を得ています。

それは心苦しいことではありますが、まだ新しい時代の経済の形が見えていませんし、それも今の形が壊れきらないと作ることすら難しいので、手も足も出ないのは仕方のないことです。
正直な話、これからの世は「どこまで壊れるかわからない」ので、下手に挑戦すると取り越し苦労になる可能性もあります。

だから今は、というよりあと数年は、堅牢なビジネスプランを立てるのは難しいかもしれません。
その都度その都度、臨機応変に人に対して必要なものを提供し、あるいは協力して必要なものを作っていく、ということになると思います。

そうであれば、誰もが一旦、自らの働き方や稼ぎ方を見直すことになるのでしょうから、今は手元に何も持たず、何も築き上げることができていなくても、スタートラインに立つのだから不自然なことではない、とも言えます。

「あいつは俺よりうまくやってる」という比較対象も壊れることすらあるのですから、過去の失敗や劣等感を引きずって、「自分にはできない」という思い込みを持ち続ける必要もなくなるということです。

神代のビジネスに必要なもの



神代は、おそらく現在の大投資家や資本家が政治家と共謀し、経済を作るシステムと全く違う形になるでしょうから、企業の権威やネットワークもどこまで信頼性を担保できるのか、本当に未知数です。

その意味で、ビジネスのあり方が根本的に見直されていくはずです。

ただ、大昔から歴史を通して商売は、「欲しいと思う人に自らサービスを提供し、対価を得る」という基本的な構造があるので、結論としては「人の役に立つことをしていれば生きていける」のは変わりありません。

私は下手にうまくやろうと思い、わざと人に迎合することをやってきましたし、かと言ってウケないならと開き直って好き勝手やってきましたが、どちらもうまくいきませんでした。
ただ、それでも世の中を明るくしたいとか、人を幸せな気分にしたいとか、そういう思いはあったつもりです。
問題は、それをダイレクトに人に伝わるような形になっていないことだったかもしれません。

「人の役に立つ」のは単純ですが、その塩梅が難しく、「人の役に立ってない」現実も正しく直視する必要があり、お節介をしていればいいというものでもないのです。
けれども、「人を幸せにしたい、愛を伝えたい」思いからの行為は、おそらくあり余ることはないでしょう。

それが少人数であろうと、例え一人であろうと、仮に自分一人であっても、誰かが自分が行った仕事で救われることの方が、大儲けするよりも大事なことなのかもしれません。

これまでの時代で、稼げない人は役立たずとか、儲けが少ない人は無能とか、そんな目で見られるのも気が引けるので、商売は利益を上げるために何でもするのが常識でした。
ただ、これからはもう少しやり方を選んでいい時代になるのだと思います。

例え大収益を得ずとも回っていく経済になるのなら、最も回るのは思いやりやコミュニケーションのはずです。
その上で人に役に立つ方法は何か、改めて考えてみるには良い機会なのかもしれません。

自分の才能は役に立たないかもしれないとか、そもそも才能なんてないかもしれないという気持ちは一旦置いておいて、それでも自分の好きなことや得意なことで、誰かを笑顔にすることを考えていればいいのだと思います。

今、特に新しいことを頑張って始めなくてもいいのかもしれません。
ただ、「才能を使って人の役に立つ」ことの具体的な方法を、手探りで編み出していく段階なのでしょう。

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森羅万象から学ぶ

楽太郎です。

昨日、氏神様の神社に参拝したおかげでエネルギーが安定し、ぐっすり眠れましたし休めました。

おみくじの内容が嬉しくて、何度も眺めていたのですが、おみくじ番号「9番」も縁起の良い数字みたいです。
「9」は完成や成就を意味するそうです。
これは私自身のゴールを指しているとは思えませんが、ある意味、最後のピースではないかと思っています。

ここ最近、チャクラが乱れて邪気に付き纏われる原因は、私の心にありました。

社会に馴染めず自分を過信して突き進んでいる分にはまあまあ良かったのですが、自分の足りない部分を外の世界に求め、誰かの提示した知識や学問によって、自己の正当性を補強しようとしていました。
けれども、今は真偽が捲られる時代になったので、情報や価値の権威がボロボロと崩れるようになってきました。

そのため、偽物の一部のエッセンスを取り込んだ私の人格や常識は、とても過信できるものではないことに気づいてしまいました。
だからこそ、私の信念や世界観そのものがグラつき始めていたのです。

しかし、この私の心の足りない部分というのは、神様や仏様がおられたら、スッポリちょうど良く収まることに気づきました。
それは、神仏を過信するのではなく、自分の中にいるワケミタマとしての神を信じるということです。

これまで、外の世界に真実を求め、外の世界に目的を定め、外の世界に自分を探していました。
自分の身の回りに起こる現象は唯物論的な因果であり、外の世界の法則で全て説明できると思い込んでいました。

だからこそ、外の世界がグラつけば自分自身もグラついてしまうわけです。

けれども、自分の中に神様を見るということは、自分の魂としての感覚と繋がることであり、身の回りに起こる森羅万象に真の意味を見いだすということです。

今朝、あるお坊さんの説法を動画で拝見したのですが、「仏様は自分の弱い部分に対して、人生を通して試練をお与えになる」というお話をされていました。

つまり、私の「弱い部分」というのは、いつも外に原因を求め、動機づけをし、自分の中に軸を持たず、軸を持たないゆえに己を信じきれない、という部分から全ての課題が提示されていたように思うのです。

それは私が最近特に不安定だったのも、この部分で自信が揺らいでいたことが、現象として現れただけにすぎなかったのではないかと思います。

自分の軸に神様仏様を置くということは、あらゆる身の回りの現象に「これは神様からのどういうメッセージなのか」というのを、絶えず自分に問いかける行為に他なりません。
それは目に見えず、誰も正解を提示してはくれません。自分の感覚と知識が全てであり、その正誤は自分自身の中に求めるしかありません。

それは、あらゆる他責が許されないことを意味します。他者や身の回りの出来事はあらゆる学びを促すために示されることであり、それを通して被る失敗や損失も、学びのために必要なことだったと考えられるからです。

私は、「高い授業料だったなあ」と思うようなこともいくつか経験しましたが、その失敗の大きさも学びの一つなのではないかと思います。
原因を外に求めているうちは、正しく反省することができません。
その原因を自分の中に探し、その意味を知ろうとすることが、神と繋がることなのではないかと思います。

ですから、この考え方を手に入れることが、私の人格における最後のピースだったのではないかと思うのです。
そして、「自分の中に目的を探す」ことは、他者や世の中に対する貢献で果たされることであり、それは決してブレてはいけない部分なのでしょう。

それがはっきりした今だからこそ、私の人生はようやくスタートを切れるんだろうなと感じています。

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神様はいると思う日

楽太郎です。

昨日、とんでもない霊障に遭った話は今朝書きました。
今まで病気をしたことがないわけではないですが、この霊障はちょっと引くくらい凄まじいものでした。

この対処法はある程度行って楽にはなりましたが、今晩は新月なので、昼過ぎにこれだけ調子が悪いと夜はどうなるのか、不安を覚えたら余計に具合が悪くなりました。

そのため、今のエネルギー状態では乗り切れないかもしれないと思い、本来なら神社へのお参りは午前中が望ましいのですが、すぐ氏神様の神社へ行こうと思いました。
私としては、お呼ばれする感覚がなければあえて神社に行かないことの方が多いです。ただ、今日ばかりは本気で助けてくれという気持ちでした。

神様は歓迎してないだろうなと思いながら歩いていたら、4連続青信号、というか神社までの信号機が全てタイミングよく青でした。
こんなことあるのかな?と思ったのですが、すんなり神社に着きました。

本殿に参拝して「邪気に耐えられない。助けてほしいです」とお祈りしました。
しかし、ご神気は感じるのに全く話を聞いていただけてる感じがしませんでした。

道祖神の氏神様にもお願いしたのですが、全く同じ感覚でした。
言ってみれば「いや…もう十分やってるけど…」みたいなニュアンスです。

私は諦めが悪いので、ちょっと境内に居座って神様のご意向をもう少し伺おうと思いました。

境内のベンチでしばらくいたところ、神様のことをふと思い、「おみくじをひいたら何か言ってくれるのではないか」と閃きました。

おみくじを引いて、ベンチに戻って開こうとした瞬間、「神風」としか表現しようのない息吹を感じました。
そこで心して開いたら、この内容でした。







これを見た瞬間、ちょっと泣けてきたというか、神様に心から感謝しました。

私はおみくじを引くと、小吉とか末吉しか見たことないのですが、大吉かどうかよりも「ちゃんと見てるぞ」と言っていただけたようで、すごくありがたかったです。

今回の邪気の原因の一つに、腹部(横隔膜)の過緊張というのがあり、普段と同じ姿勢で同じことをしているのに、どうしてこんな異常を感じるのか疑問でした。

ある人の話では、神代に渡る人々はいわゆる人間界から村八分にされている状態なので、第3チャクラ(所属意識)の乱れが起こるそうです。

確かに、私は今かなり収入面で困っていて、どうやってお金を稼ごうか頭を悩ませていました。
このご時世でお金を稼ぐということは、古い土の時代にある程度は迎合する必要があり、その意識は人間社会へ帰属することを意味します。

しかし、神代を選んだ人々は新しい世のために才能や創造力を発揮しなければならず、大昔のコンテンツや観念をリバイバルして回すような経済と、真逆の方向に向かわなければなりません。
そのため、私としてはずっとジレンマを抱えていました。
今の経済の流れがまだ古い時代にあるのに、私たちの才能は次の時代のために行使されなければならないからです。

ただ、今日神社にお参りして自宅につく頃、空に天使の梯子(薄明光線)がかかっているのを見て、「お前はもうこっちに来い」と言われているのだと思いました。

第3チャクラの乱れは所属意識なので、神様の中に身を置けば、確かにその欠如感は埋まるはずです。

少し前に、今この状況でどうやって稼ごうか途方に暮れていた時、「人心に向かっていくからうまくいかない。人を引き寄せる側に回ればいい」というアイデアがふっと浮かんで、納得はしたのですがその真意はよくわかりませんでした。
今になって、何となくどういうことかわかりました。

時代の主導権は、すでに神様と神代の人々にあるので、わざわざツキに見放された人の世からお金をもらう必要がないのです。
自分なりの才能で人に尽くせば、その功徳は神様が貯金して、いつかお駄賃として与えてくれる仕組みなのかもしれません。
ただ、その仕組みは目には見えないので、本気で神様を信じているか、本当に人の役に立っているのか、が問われるのだと思います。

「でもお金ないんだからしょうがないじゃん」とは頭の片隅で思う部分もあるのですが、神様なら考えていてくれるだろう、と思うのも信心の一部というか、今は神様の方だけを見ていれば間違いはないのかもしれません。

とにかく、なんか勇気が出ました。神様に感謝しています。

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霊障との付き合い方

楽太郎です。

9月30日の午後から深夜にかけて、異常な邪気に襲われました。
体感としては、悪霊です。

あまりの体調変化にびっくりして、しかも不調のレベルが桁違いなので動揺しました。
その原因を考えれば考えるほど、混乱してしまいました。

その日は氏神様の神社に行った日だったので、パワーをもらいに行ったつもりが、変なものを連れてきてしまったのかと思いました。はたまた、道中で拾ってきてしまったのか。
あるいは、元々自分に憑依していたものが出てきたのか、身近な人から受けているものなのか。
それとも、人間の集合的無意識が悪霊化して襲ってきているのか。
あらゆる可能性がありすぎて、犯人探しを始めてパニックに近い状態になりました。

それでも一日の仕事はしなければならないので、冷や汗をダラダラ流しながら、何とかやり終えてから寝ました。
その夜は緊張して3時間で中途覚醒しました。
ただ悪夢を見たという実感はなく、どこかの観光地に遊びに行く呑気な夢を見ました。

そして今朝になり、改めて冷静に内観してみました。そしてこれは、やはり邪気というより憑依であると確信しました。

霊障は意識するほど術中にハマる


これまで何度か霊障に陥ったことはあるのですが、霊感が上がった今の状態から振り返ってみると、気づかないうちに霊障による体調不良とずっと付き合ってきたんだな、と思います。

私は基本的に健康体なので、この不調は更年期障害とか自律神経失調症あたりなんだろうなと、わりとセルフケアで何とかしようとしてきました。
ただ、それでもどうしようもない不調もあって、我慢してやってきたのですが、今思えばこれも霊障だったかもしれません。

私はネット越しとはいえ、人気商売をしている面もありますから、念を受ける環境と言えばそうです。
創作をする上で、人間の集合意識と近い場所にメンタルを置いているのもあるかもしれません。

どうやら霊媒体質のようなのですが、そういった性質を特に深刻に考えたことがありませんでした。
だからほぼ無防備の状態でこのアタックを受けて、本当に混乱したわけです。

今、冷静に考えてみると、この「悪霊に取り憑かれた!霊障で苦しい!何とかしないと!」と動揺すること自体が、悪霊にとっては意図したものだったのかもしれません。
混乱するあまり、妙な悪霊退散の儀式をしたり、様々やスピリチュアルな情報を漁ったりして、ますます状況を拗らせてしまえば、憑依霊の思う壷なのではないでしょうか。

でも、逆に考えると悪霊にとって困ることと言えば、「相手にされない」そのことに尽きるのではないでしょうか。
悪霊と言えど、人間の意識に干渉するにはエネルギーを消費するはずです。いくらエネルギー体であろうと、取り越し苦労はできるならしたくないはずです。
だからこそ、こうやって憑依を感じた時は、いくら吐き気や不調が著しく出ようと、平常心で跳ね除けるくらいの気持ちでいた方がいいのかもしれません。

対立軸で問題を解決しようとしない


今回、私が混乱したのは「苦しい!原因が何かあるはず、だから何とかしよう!」という考えからでした。
私には生まれつきの因縁があるようで、そういった原因を考えると実は一つには絞れません。
いくつもあるからこそ、最も可能性の高い原因をあれこれ考えたり、誰が悪いのかをぐちゃぐちゃ考えたりしていました。
そうすればするほど、どんどん具合が悪くなっていきました。身の回りの信頼する人まで疑い出した途端、自分が「まともじゃない」状態に気づき、改めて冷静になろうと思いました。

おそらく悪霊は、こうして疑心暗鬼になり、対人関係を悪くしたり、不用意な発言をさせたりして、憑依した人間を悪い方に引き摺り込もうとするのでしょう。
私はそれが悪霊にとってのハックなんだなと思ったので、「じゃあ気にしないほうがいいな」と割りきり、不調をカバーすることだけを考えるようにしました。

あと、これは霊的世界のことなので、神様のご加護にお任せすることにしました。
神道のお祓いで「祓いたまえ、清めたまえ」とありますが、祓いとは神仏との信頼関係によって助けていただくこと、清めとは自分自身が清廉潔白であり成長しようと努力することを指すそうです。
私は特に最近、天照大神様や瀬織津姫様とのご縁を感じるので、神様のお名前を唱えて加護を祈願しました。

結論から言えば、これで霊障はだいぶカットされました。
あと、私にも気の緩みがあったんだろうと思います。慢性的に気は枯れてますし、邪気を呼びやすい状態です。
それでも、「気の壁」を作って邪気邪霊の侵入を防御するやり方を覚えました。

私にこれほどの混乱をもたらすのは、かなり強い霊だった可能性があります。特に手口が知能的で、うっかり落ちるところでした。
なぜ、今この時期に唐突な霊障が起こるのかと考えると、まあそれも心あたりがありすぎるので、あえて考えないようにします。

最後に一つ書こうと思います。
全ての物事が拗れる理由の一つに、「対立構造」があります。
自分が被害を受けた、だから対応しよう、問題を取り除こう、と考えて動くのは自然なように感じますが、対抗意識を持つことで問題を深刻化しやすくなることも留意せねばなりません。

それが見えないものであろうと、何かしらの意図があって干渉してきます。
下手に同情しようとするのは危険ですし、彼らを助けるということは彼らの願いを叶えることではありません。
ただし、誰しもが互いが尊重され、平和な分け隔てない幸せが理想であり、その答えに意識を持っていくことが全ての問題に対する出口のように思えてなりません。
だからこそ、あらゆる問題に対する対応は、掘り下げることだけではないのだと思います。

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神代へのモチベーション

楽太郎です。

ようやく魂の好転反応が治りました。
その好転反応が終わる瞬間もハッキリわかって、気がついたら信じられないくらい楽になってました。

一晩開けてみたら、第4チャクラ、いわゆるハートチャクラが開きやすくなってました。
感覚としては、トラウマが浄化されたのかな、と思っています。

私が心のエネルギーをあまり使えなかった理由は、心を曝け出して生きると、生傷が絶えなかったからだと思います。
心が傷つきやすいからこそ、キュッと閉じるしかありませんでした。
正直な思いを伝える、嫌なことは嫌だとはっきり言う、おかしいことはおかしいと言う、好きなことだけをずっと続ける。
そうすればするほど、人から拒否されたり攻撃を受けてきました。それが正しいか間違っているかはともかく、いつも自分にとって不利な状況になっていきました。自分が損をしないためには、いつも大きいほう、強いほうに合わせるしかありませんでした。

人のことを考えれば、相手が自分のことしか考えない動きを予測しなければならない。
さりとて、自分が得するためには自分を騙してでも勝ち取る必要がある。
そういう生き方は、私の心を削っていき、だんだん心を閉ざしていったのだと思います。

ただ、そうやって溜め込んだ不満や後悔、心の傷は人として成長するための糧となり、今では「自分のような窮屈な思いを誰かにさせたくない」という思いに変わりました。
そう思うからこそ、今では神様と一緒に弥栄の世を作ろうとしています。

世の中には、心を正直に表に出せず、陰で苦しんでいる人はたくさんいます。
例え笑顔に見えても、無理している人たちもたくさんいるでしょう。
でも、しんどいとかやめたいとか、そういった本音が言えない環境で自分の本心と向き合えば、生きてはいけない気持ちになってしまうかもしれません。
だからこそ、心を閉ざしてしまう人がどんどん増えてしまうのだと思います。
そういう人たちが救われるためにも「本音で生きられる世の中」を作る必要があるのではないでしょうか。

今の日本人が努力を嫌いになったのは、努力が報われないとか社会のシステム以前に、「したくない努力を強制する世の中」になっていたからだと思います。
夢を叶えたり、成功するために自分が成長するプロセスは、表現するなら「努力」以外の何物でもないはずです。
しかし、その努力に「苦行」というイメージがついてしまったために、できる限り努力というコストをかけず、スマートに成功したりお金儲けするハックが、クールだと思う風潮になってしまったのではないでしょうか。

そうやってプロセスを軽視して実利を求めれば、他人から奪うとか騙すとか力を使うとか、そういうことになってしまうのだと思います。
やはり、人が自分の心と向き合い、自分は何がしたいのか、自分はどう思うのか、それと向き合わない以上は、「誰かに何かをやらされる人生」になってしまいます。
その被害者的な感覚は他責思考に向かい、他人や世の中に対する反感を募らせ、その悲しみや怒りをパワーにして生きるようになってしまうのかもしれません。

私は、そういう彼らに対して一概に責める気も、哀れに思う気もありませんが、こういった不幸を繰り返さないように、新しい世界は魂の自由が開かれた世の中でなければならないと考えています。


これから2025年、何が起こるかわからない時期に入り、日月神示でいう「大峠」が訪れます。
私は正直、このために長い間準備してきたのでワクワクしていますが、大人たちはともかく、子供たちが巻き込まれていくのが一番忍びないです。
しかし、その子供たちの不安が一日でも早く取り除かれ、救われる子たちを一人でも増やす、それはこれから神代をつくる私たちの腕にかかっています。

だからこそ、私は努力や勉強を怠らず、少しでも力をつけていくことが大切だと思っています。
少なくとも、私のモチベーションはそこにあります。

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不調を引き起こす「邪気」の正体

楽太郎です。

今、私はいわゆる「アセンション反応」「好転反応」と呼ばれる不調が4日目に突入し、座っているのも辛い状況が続いています。

この魂の成長期は、一旦サナギのような状態になります。サナギは、自分の変化に全エネルギーを向けるため、外部からは無防備になります。
この時、私たちは同時に社会生活も送らなければいけないため、必然的にエネルギー不足=気枯れの状態になってしまいます。
気枯れの状態は、特に邪気に狙われやすい現人神(を志す)方たちに対し、著しい不調を引き起こします。
なぜ邪気が私たちを襲うのか、考察は後に述べますが、不調の対処法については以前書いた記事「現人神の身体について」が参考になるかと思います。

この不調をきたす流れは、残念ながら当面続くと思われます。現人神を志す方々にとって、辛い時期が続くかもしれません。
2024年の節分あたりから始まった地球的なエネルギー変動は、夏至、秋分あたりで大転換しながら、このまま冬至でクライマックスを迎えると思われます。

時々の転換ポイントのエネルギーの変動も凄まじかったのですが、個人的には9月27日、10月3日、10月17日、11月16日、このあたりはとにかく体調が異常でした。月の満ち欠けや暦がトリガーになっているようで、ある程度の法則性は見受けられます。
今も激しいエネルギー変動が起こっており、明日の体調も予想できない状態が続きますが、私たちにできるのは現状を知り、対策を練ることだけです。

私たちを襲う「邪気」の種類


私は、この邪気の正体について言及しようとするたび、何かしらの圧力がかかる感覚がありました。
突然文字を打つ手が痺れたり、急に体調が悪くなったり、何かの弾みでデータが飛んだり、偶然では片付けられない確率で遂行が中断されました。

当初は、魂が神代に渡れば完全に邪気の影響はなくなると思い込んでいました。
確かに、空間的な邪気によるダメージは現在、かなり軽減されています。ですが、前述した気枯れから受ける邪気は、ますます強くなっています。
その邪気は何を意味しているのか、この数日で私が内観して得られたことをここに書こうと思います。

とあるきっかけから、私は強制的にアセンション状態に入りました。これは、魂の成長という意味です。
この魂の成長期は、基本的に無気力になったり、愁訴感や頭痛などを引き起こし、精神的にもネガティブになる状態です。
邪気は、このエネルギーの低下した状態に入り込んできます。
とは言っても、この邪気は悪魔的存在が意図して狙い撃ちしてくるものではないと思ってます。
この原因はおそらく、私たち個人の「弱い心」です。私たちの心の一部に集合的無意識があると考えれば、邪気はこの集合的無意識から入り込んでくるのです。

邪気の種類には3種類あるように思います。

一つは、「具現化した邪気」です。
具体的に、身の回りにいる嫌な人、迷惑な人、攻撃的、搾取的な人、そういった邪念で動く人々が発する邪気を「具現化した邪気」と呼んでいます。

二つ目は、「空間エネルギーの邪気」です。これは街や空間上に漂う気で、これを取り込むと気分に関係なく不調に陥ります。才能を司る部分に滞留しやすく、それによって行動を起こしづらくさせる特徴があります。

三つ目が「集合的無意識としての邪気」です。
現人神がお役目で黙々と祓っているのは、これです。この集合的無意識が何らかの形でネガティブな影響を及ぼし、不調に至らせるのです。この入り口となっているのが、「人間として弱い部分」です。
この隙間から精神に干渉してくるので、桁違いの不調を引き起こすのです。

「邪気」の源は、悪魔化した集合的無意識


私が今回の好転反応中、たまたま目にした、ある人の動画では「好転反応で前向きな変化が訪れる時、弱りきって後ろ向きになることも多い。これは『中途挫折の因縁』である、それは集合的無意識によるものだ」と語られていました。
この集合的無意識は、どうやら「元のダメな状態に戻そうとする力』で、言ってみれば「ずっとこのままでいようよ」という同調圧力です。

現在、神代を地上に降ろす大作業の中で、最も障害となっている感情はこの同調圧力であり、この大変化の時代に「元の状態を維持する」ことは堕落を意味します。また、神代への変化を拒むという点では神のご意思に抗うものです。
だからこそ、時代を変え、神代を実現しうる現人神や、変革し前進する人々を阻むこと自体、古い時代を維持する一つの実現手段となるわけです。

あらゆる挑戦は無意味であり、世の中を良くする努力は何も成さない。そういうことにしておけば、今までの世界は変わらずに済みます。
ある意味、時代を変えようとする人々は、この集合的無意識からすると「敵」になってしまうのでしょう。

しかし、今の世界の混乱は、古い物質主義と権威主義の限界によって引き起こされています。
これまでのやり方は、明らかに通用しなくなってきています。自然環境は破壊され、テクノロジーや文明も行き詰まり、超特権階級が搾取を尽くし、最終戦争寸前まで歩みを進める人類は、もう引き返すことはできないはずです。

だからこそ、行き詰まった人類を次のステージに移行させるために神々が動かれているのです。
これに抗う人の集合的無意識は、これまでの人の世の背後にいた悪魔的意識の影響を引きずり、その馴れ合いを同調圧力で維持したいのでしょう。

つまり、私たちが不調を感じるからと言って、神様から与えられたお役目を中断したり諦めることは、この同調圧力に屈してしまうことになります。
ここでお役目の手を止めてしまえば、神代の実現を遅らせてしまうことになりかねません。
だからこそ、現人神は自身の弱い心と向き合い、不調や邪気を祓わなければならないのです。

この記事を唐突に書いたのは、まさに私が現在、邪気に酷く襲われていたからです。
しかし、彼らの正体は無意識なので、意識化すると力が弱まるのではないかと思い、乱文ながら文章にしたところ、実際にかなり圧力が消えました。
これが集合的無意識の「邪気祓い」の一つの方法かもしれません。

彼らは、意識化して克服されると無力化するため、あえて言及されたくないのかもしれません。
ですから、邪気の不調に苦しむ方は、この記事を読んでから何かしらの対応をすることで、邪気祓いが進むかもしれません。
全て主観的な解釈になりますが、一考に値するかとは思います。
ぜひ参考にしていただけたら幸いです。

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「スターシード」と信じる価値

楽太郎です。

「スターシード」という言葉があります。
霊的覚醒をされた方ほど、この少しファンタジックな言葉を知り意味に共感し、「自分はそうだったのか」と感じるかもしれません。
実は私もその一人です。

スターシードにはインディゴチルドレンやブルーレイと呼ばれる世代がいたり、スターシードでありながらライトワーカー、ライトウォーリアといった魂の使命を持つこともあるそうです。
また、スターシードには所属する宇宙の霊団が存在し、アルクトゥルス、プレアデス、シリウスなどがあると言われています。

この宇宙的用語は、霊界や世界の仕組みについて説明する上で優秀なスキームです。
また日本の神々の名前が使われる時は、日本神界の仕組みや日本人そのものの成り立ちなどに言及しているケースが多いように見受けられます。
言葉の種類も表現の仕方も異なりますが、どちらも得意な説明の仕方があると思っています。

私はスピリチュアルを学び始めた当初、この既存のカタカナ語表現の羅列にクラクラしたものですが、その用語の指し示すものの本質がわかれば、どう言葉で表現されていても腑に落とせるようにはなりました。
スピリチュアルの世界は、「どう言っているか」ではなく「何を言っているか」の方がはるかに大切だと思います。

私が「スターシード」という言葉を初めて聞いた時は、キラキラした想像の世界だな、と思っていました。
でもその意味を理解した時、私の半生の違和感が全て氷解しました。


「スターシード」の気づきがもたらしたもの


私は、物心がつく前から「自分だけが何か違う」という感覚がありました。
それで何となく他人と浮いたり、周りの人たちの言うことについていけなかったり、何となく常に場違い感がありました。
私は「できない鈍臭い子」とよく叱られたものですが、逆に周りの同年代が粗暴すぎて「なんでこんなことするんだろう?」と、いつも静かな疑問を抱いていました。
小学生の頃には、ぼんやり「なぜ自分はこの世界にいるんだろう」「生きるとは何か、人間とは何か」と考えるようになっていました。
そういった抽象的思考が得意な反面、体を動かす作業が飛び抜けて苦手でした。
これまで何度かスポーツも経験しましたが、未だに体の使い方が下手です。というか、まだわかっていないかもしれません。

長い間うっすら感じていた「人間としての素人感」の理由と自分の特徴をうまく説明してくれたのが、スターシードやライトワーカーの概念でした。
それを聞いて、「ああ、自分は宇宙から来た、転生一回目の魂だったんだ」と納得した瞬間から、何をどう振り返っても、そうとしか考えられなくなりました。
地球に来たのが一回目なら、これだけ色々なものに興味を持ち、とは言え人間の慣習には馴染めず、何となく人間として生きることが下手な理由も、仕方のない気もするのです。

スターシードであることの意味


この「スターシード」という概念がどこから発生したのかはわかりませんが、おそらく科学的実証は不可能だと思います。
けれど、霊界の理や天界の論理で考えると、今起こっている不可思議な現象もなぜかきっちり説明できてしまうものです。
その点では、科学的・歴史的反証性は客観的な根拠となり得ますが、それだけで全てを説明し切れるものではなく、しかし天の理を持ってすれば大した学識はなくとも、ある程度説明できてしまいます。
だからこそ、この宇宙的概念はこの世の仕組みを考察する上で、とてもユニークな切り口です。

そして、私たちが「スターシード」や「ライトワーカー」であったり「◯◯星団の宇宙霊」だという確信は、自分の魂に感じていたモヤモヤした部分を言語化し、自分が決して一人ではないことや、自分が今生でなすべき方向性について指し示してくれます。
それは魂で感じていれば良い部分で、それが正しいか正しくないかを突き詰めようとすると、膨大な労力の代わりに大した収穫もないでしょう。

おそらく、スピリチュアルは人間の言語野を超えた世界や存在であり、幾通りの表現が同時にできるような不思議なものだと思います。
ですから、いきなりカタカナ語で説明されると初めは戸惑うのですが、その真意を汲み取れば腑に落ちるものでもあります。

私は自分を「スターシード」だと思うことで、これまで人間世界でうまくいなかった理由が、自分に非があるからではなく、自分の魂の特性だと考えられるようになりました。そうすると、自らを卑下する感覚が次第に和らいでいきました。
また、「ライトワーカー」という概念に共感することで、こんなにダメな自分でも使命感を大事にし、理想のために人生を歩むことができると思うと、暗く淀んだ心に一つの光が差した気がしました。

「スターシード」という現象が真実かどうかはともかく、魂の出自に確信を抱き、自らの正しい道を選択することに間違いがあろうはずがなく、その信じる心が世界を変えていく力になるのだと思います。

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