招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

神を敬うことについて

楽太郎です。

今朝、朝食を食べながら「日々の感謝を神様に伝えないとな」と思い、これから氏神様の神社に行こうと思い立ちました。

正直言って呼ばれている感じはありませんでしたが、ご挨拶する程度ならお許しくださるだろうと、参拝に向かいました。

神社の裏手の林からご神気を感じるので、道すがら神様のご機嫌を伺ってみました。

何となくどんよりとした気を感じるというか、普段にはない威圧感や拒否感を感じました。
おや?とは思ったのですが、とりあえず鳥居の前に来た時、白装束の人たちがゾロゾロ入っていく姿を見て直感的に嫌な感じがして、一応気をつけることにしました。

鳥居の前に来た瞬間、けたたましい消防のサイレンが突然鳴り響きました。(これは警告だったかもしれません)
次の瞬間、大学生のような雰囲気の神職が走りながら適当な挨拶を交わしてきたので、私は思わずイラっとしてしまいました。
境内に入ろうにも手水舎の水も止められているので、禊をすることもできませんでした。

私は直感的に、「来るな」というメッセージだと思いました。
あんまり呼ばれてもいないのに来るもんではないな、とは思いましたが、なんか今日は何かある日らしく、追い返された感じがしました。

ちょっとイライラしてしまったのもあるので、私はこんな気分で神様にご挨拶するわけにはいかないと思い、参拝せずに帰宅することにしました。

それでも神様のご様子が気になったので、遠目から神様のお気持ちをお伺いしようとすると、やはりどんよりとした気を感じるだけでした。

私の「どうなさったのですか?」という聞き方も悪かったのですが、何も入ってこない時間が続き、何となく怒っているのか、悩んでいるのか、そんな感情が伺えました。
「私に何ができますか?」と直接お聞きすればよかったのですが、しばらくすると「照らせ、世を照らせ」という言葉がはっきりではありませんが胸に浮かんできました。


そういえば以前、私が本気で神様にお祈りしている最中、バタバタと拝殿から神職が降りてきて適当な挨拶をされ、祈りが中断するという珍事がありました。

この神社は喫煙所が休憩用のベンチの近くに置いてあったり、仮手水舎の水道がほとんど止められていたり、細々としたところに配慮を感じず、以前から納得できないところです。
歴史のある神社なのに、礼儀は全く継承されていないようです。

私は所詮人間なので、自分が神様のお立場なら、神への崇拝や参拝者への敬意を疎かにし、神よりも金を上位に置いている神職のあり方には、相当腹を立てていらっしゃるのだろうなと邪推してしまいます。

神様たちは堕落した人間界をテコ入れするために動いておられるのに、人間といえば神の名を利用して金儲けし、神事を業務としてこなしている神職すらいる始末です。

かの神社運営の行いを例えるならば、富豪一族の子孫が大事業家の祖父を心から敬愛して支えるわけではなく、祖父の事業や資産を使ってどうやって儲けるか、ということばかり考え、口先では「お爺ちゃんのおかげ」と言っている、そんな一族を見ているようです。

ここまで舐められたら神様も相当お怒りでしょうが、私の徳のレベルでは、この程度の所業で苛ついてしまうだけかもしれません。
私としては、日々の人間の行いを眺めては「神様、そろそろ本気でお怒りになられては?」と思ったりもするのですが、それは神様のお気持ち次第です。

とにかく、相手が神様であろうと人間だろうと、敬意を払えない者は言語道断です。
神様を巡る人々の意識は、深い部分から見直されなければならないと、私は個人的に思います。

追記:
後になって冷静に考えたら、氏神様はこの出来事をブログに書いて世に示して欲しかったのだろうと思いました。
神代は神様と共に生きる時代になるので、人間が神様の願いを叶えるというのは当たり前のことになっていきます。

神様は最近、私をメッセンジャーとして遣うために特殊な経験に遭遇させます。
だから今日の一連の出来事は、意味があることだったのだろうと思います。

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