森羅万象から学ぶ
- Category:エッセイ
- Date:2024年12月02日
昨日、氏神様の神社に参拝したおかげでエネルギーが安定し、ぐっすり眠れましたし休めました。
おみくじの内容が嬉しくて、何度も眺めていたのですが、おみくじ番号「9番」も縁起の良い数字みたいです。
「9」は完成や成就を意味するそうです。
これは私自身のゴールを指しているとは思えませんが、ある意味、最後のピースではないかと思っています。
ここ最近、チャクラが乱れて邪気に付き纏われる原因は、私の心にありました。
社会に馴染めず自分を過信して突き進んでいる分にはまあまあ良かったのですが、自分の足りない部分を外の世界に求め、誰かの提示した知識や学問によって、自己の正当性を補強しようとしていました。
けれども、今は真偽が捲られる時代になったので、情報や価値の権威がボロボロと崩れるようになってきました。
そのため、偽物の一部のエッセンスを取り込んだ私の人格や常識は、とても過信できるものではないことに気づいてしまいました。
だからこそ、私の信念や世界観そのものがグラつき始めていたのです。
しかし、この私の心の足りない部分というのは、神様や仏様がおられたら、スッポリちょうど良く収まることに気づきました。
それは、神仏を過信するのではなく、自分の中にいるワケミタマとしての神を信じるということです。
これまで、外の世界に真実を求め、外の世界に目的を定め、外の世界に自分を探していました。
自分の身の回りに起こる現象は唯物論的な因果であり、外の世界の法則で全て説明できると思い込んでいました。
だからこそ、外の世界がグラつけば自分自身もグラついてしまうわけです。
けれども、自分の中に神様を見るということは、自分の魂としての感覚と繋がることであり、身の回りに起こる森羅万象に真の意味を見いだすということです。
今朝、あるお坊さんの説法を動画で拝見したのですが、「仏様は自分の弱い部分に対して、人生を通して試練をお与えになる」というお話をされていました。
つまり、私の「弱い部分」というのは、いつも外に原因を求め、動機づけをし、自分の中に軸を持たず、軸を持たないゆえに己を信じきれない、という部分から全ての課題が提示されていたように思うのです。
それは私が最近特に不安定だったのも、この部分で自信が揺らいでいたことが、現象として現れただけにすぎなかったのではないかと思います。
自分の軸に神様仏様を置くということは、あらゆる身の回りの現象に「これは神様からのどういうメッセージなのか」というのを、絶えず自分に問いかける行為に他なりません。
それは目に見えず、誰も正解を提示してはくれません。自分の感覚と知識が全てであり、その正誤は自分自身の中に求めるしかありません。
それは、あらゆる他責が許されないことを意味します。他者や身の回りの出来事はあらゆる学びを促すために示されることであり、それを通して被る失敗や損失も、学びのために必要なことだったと考えられるからです。
私は、「高い授業料だったなあ」と思うようなこともいくつか経験しましたが、その失敗の大きさも学びの一つなのではないかと思います。
原因を外に求めているうちは、正しく反省することができません。
その原因を自分の中に探し、その意味を知ろうとすることが、神と繋がることなのではないかと思います。
ですから、この考え方を手に入れることが、私の人格における最後のピースだったのではないかと思うのです。
そして、「自分の中に目的を探す」ことは、他者や世の中に対する貢献で果たされることであり、それは決してブレてはいけない部分なのでしょう。
それがはっきりした今だからこそ、私の人生はようやくスタートを切れるんだろうなと感じています。