招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

神代のビジネス

楽太郎です。

先日、3日以上に渡って生じた好転反応によって、私のハートチャクラが開きやすくなった話をしました。

この働きには瀬織津姫様との関係がきっかけにあり、瀬織津姫様は浄化の神様であらせられますので、私の心のトラウマを祓い清め、邪念で見えなくなっていた私自身の心の闇と、心を閉ざすロックと向き合う状況を作っていただけました。

瀬織津姫様は、伊勢神宮で祭祀されている形によれば、天照皇大神様の荒御魂であらせられるそうです。

記紀的な説明をすれば、伊弉諾様が亡くなられた伊奘冉様を思って黄泉の国に下られた際、大勢の亡霊に襲われて黄泉比良坂から逃げ帰り、やれやれと思った伊弉諾様は中の瀬で禊をされました。

その時に八十禍津日神と大禍津日神の二柱が垢から生まれ、同じ禊の最中に三貴子、天照皇大神と素戔嗚、月読の三柱がお生まれになりました。
江戸時代の国学者、本居宣長によると八十禍津日神は瀬織津姫と同一視され、八十禍津日神は天照皇大神の天岩戸隠れをした際に起きた災い、天岩戸開きによる浄化は瀬織津姫の働きによるものだそうです。

つまり、和御魂の天照皇大神、荒御魂の瀬織津姫、八十禍津日神は同一の神格であらせられるということです。

この話をしたのは、私が瀬織津姫様のご加護によって心の浄化が起きた際、私自身の問題が過去の因縁めいた失敗と如実に向き合わざるを得なくなったことは、八十禍津日神様の災い、つまり天岩戸隠れに喩えられるのではないかと思ったからです。

天岩戸が開かれる時、天照皇大神様が姿を現し、私の問題は須く解決に向かうはずです。その浄化の働きを助けて下さっているのが、瀬織津姫様ではないかと私は考えています。

私の心にとっての天照皇大神様の光とは、才能を持って人に愛を与え、幸せにしていくことだと思います。

しかし、私は全く才能の上で今まであまり受け入れられてこなかったというか、開き直って挑戦的なことをしてきたせいもあって、わりと私のキャリアは受難そのものでした。

ただ、この浄化と解放の中で、私が人様から受け入れられないことで心にかけた封印は、愛の表現に向かうことで解かれる、というメッセージを受けているのかもしれません。

今は商売がうまくいかないのは当たり前

今、まさに神代をこれから作っていこうという段階にあって、まだ古い土の時代の社会や経済は、壊れきってはいません。
この崩壊は、まさに八十禍津日神様の起こす災禍のお力であり、崩壊しきらなければ瀬織津姫様の浄化のお仕事も捗らず、天照皇大神様が姿を現すこともままならないでしょう。

その移行期にあって、魂の修行をしている最中の私たちは、古い時代のやり方をある程度続けながら収入を得ています。

それは心苦しいことではありますが、まだ新しい時代の経済の形が見えていませんし、それも今の形が壊れきらないと作ることすら難しいので、手も足も出ないのは仕方のないことです。
正直な話、これからの世は「どこまで壊れるかわからない」ので、下手に挑戦すると取り越し苦労になる可能性もあります。

だから今は、というよりあと数年は、堅牢なビジネスプランを立てるのは難しいかもしれません。
その都度その都度、臨機応変に人に対して必要なものを提供し、あるいは協力して必要なものを作っていく、ということになると思います。

そうであれば、誰もが一旦、自らの働き方や稼ぎ方を見直すことになるのでしょうから、今は手元に何も持たず、何も築き上げることができていなくても、スタートラインに立つのだから不自然なことではない、とも言えます。

「あいつは俺よりうまくやってる」という比較対象も壊れることすらあるのですから、過去の失敗や劣等感を引きずって、「自分にはできない」という思い込みを持ち続ける必要もなくなるということです。

神代のビジネスに必要なもの



神代は、おそらく現在の大投資家や資本家が政治家と共謀し、経済を作るシステムと全く違う形になるでしょうから、企業の権威やネットワークもどこまで信頼性を担保できるのか、本当に未知数です。

その意味で、ビジネスのあり方が根本的に見直されていくはずです。

ただ、大昔から歴史を通して商売は、「欲しいと思う人に自らサービスを提供し、対価を得る」という基本的な構造があるので、結論としては「人の役に立つことをしていれば生きていける」のは変わりありません。

私は下手にうまくやろうと思い、わざと人に迎合することをやってきましたし、かと言ってウケないならと開き直って好き勝手やってきましたが、どちらもうまくいきませんでした。
ただ、それでも世の中を明るくしたいとか、人を幸せな気分にしたいとか、そういう思いはあったつもりです。
問題は、それをダイレクトに人に伝わるような形になっていないことだったかもしれません。

「人の役に立つ」のは単純ですが、その塩梅が難しく、「人の役に立ってない」現実も正しく直視する必要があり、お節介をしていればいいというものでもないのです。
けれども、「人を幸せにしたい、愛を伝えたい」思いからの行為は、おそらくあり余ることはないでしょう。

それが少人数であろうと、例え一人であろうと、仮に自分一人であっても、誰かが自分が行った仕事で救われることの方が、大儲けするよりも大事なことなのかもしれません。

これまでの時代で、稼げない人は役立たずとか、儲けが少ない人は無能とか、そんな目で見られるのも気が引けるので、商売は利益を上げるために何でもするのが常識でした。
ただ、これからはもう少しやり方を選んでいい時代になるのだと思います。

例え大収益を得ずとも回っていく経済になるのなら、最も回るのは思いやりやコミュニケーションのはずです。
その上で人に役に立つ方法は何か、改めて考えてみるには良い機会なのかもしれません。

自分の才能は役に立たないかもしれないとか、そもそも才能なんてないかもしれないという気持ちは一旦置いておいて、それでも自分の好きなことや得意なことで、誰かを笑顔にすることを考えていればいいのだと思います。

今、特に新しいことを頑張って始めなくてもいいのかもしれません。
ただ、「才能を使って人の役に立つ」ことの具体的な方法を、手探りで編み出していく段階なのでしょう。

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