招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

神統試論・序

楽太郎です。

私が日本の神様の絵を描かせて頂くに当たって、一つの課題がありました。
それは、「同一視される神格を全て別々に考えたとしても、同定可能な神格も個別にするべきなのか?」という点です。

つまり、ある神様を描かせて頂く時には神名の数だけ違う神様として描くことはできます。
ただ、神名は異なるけれど由縁や背景を紐解くと、ほぼ同一の神格を指し示していることもあります。

神様の数だけたくさんの神様をお描きするのも一つの道だと思うのですが、下手すると神様の背景を掘り下げず、適当にお描きしてしまうことにも繋がります。
ある神様のプロフィールを辿っていくと、縁や由来があるからこそ深い理解にも繋がりますし、「こちらの神様とこちらの神様は同じ神格を示している」と結論づけることも可能になります。

例えば、私の崇敬する瀬織津姫命様は、「市杵島姫命・湍津姫命」「天照大御神荒御魂・向津姫命」「罔象女神」「高龗神」と、比定される御神格がいくつも存在します。
ただ、私自身は瀬織津姫命とされる御神格に対し、自然神、産土神としての「淡水を司る女神」であると認識しているため、安易に異なる御神格と同一視することには抵抗があります。

神道を考える上で、「自然神」「文化神」という観点を抜きにして、神様を理解することはできません。

「自然神」とは、私の解釈では「記紀」の天地開闢から天照大御神と素戔嗚命の誓約までの「自然の形象を神格化した神々」を指します。
「文化神」とは、日本に有史以来お祀りされてきた「祖霊神や氏神など、人格に由来する神々」を念頭にしています。

我が国ではその区別がなくても問題なく信仰されてきましたし、私自身も必要な分類だとは思いません。
「自然神」は形象それ自体でもあるので由来をそれ以上辿ることはできず、「文化神」は歴史的事実を把握すれば特定できる神様であります。
神として大まかに捉えて問題はなくとも、由緒を考えると混同することが必ずしも合理的であるわけではないのです。

信仰とは本来多様なものですから、私自身が瀬織津姫様を弁財天様や龍神様と同一視されることに異論があるわけではありません。
「瀬織津姫命は自然神である」という観念は私独自のものなので、例えば「市杵島姫命」様を私がお描きする機会があれば、別の御神格として表現するでしょう。
その表現に違和感のある方がおられるとは思いますが、それが私の神道解釈ですし、信仰に基づいた表現は曲げる必要はありません。

とは言え、現代の宗教法人制度における神道は、地域の伝承や伝統に裏づけされてはいますが、明治政府の神仏分離政策や飛鳥時代の大宝律令の成立と「記紀」の影響などにより、御神格は政治的な意図を持って祭祀形態を変更されてきたのも事実です。

例えば、愛知県豊田市にある「猿投神社」は、社名の「猿投」とは出雲族の信仰対象であった銅鐸を「サナギ」と呼んでいたことに由来する説があります。

ただ、同社は「大碓命」を主祭神とされていますし、社の西側には「大碓命墓」とされる「猿投塚古墳」が存在します。
「大碓命」は、景行天皇の子である双子の兄で、弟の「小碓命」は後の倭建命であると言います。
しかし、考古学的に猿投塚古墳の被葬者は解明されておらず、大碓命の墳墓は岐阜県にある昼飯大塚古墳が有力とされています。

「猿投」が「サナギ=銅鐸」であるとするなら、猿投山一帯は出雲族の銅鐸祭祀の名残がある土地です。
しかし、同社は主祭神を景行天皇の子息である「大碓命」としており、主祭神とされたのも近世以降で、実は古くから猿投山の神をお祀りしていたのではないか、と言われています。
つまり、出雲族の信仰は物部系氏族の伝承に塗り替えられており、ここには政治的な意図を感じざるを得ません。

神社と歴史、歴史と政治は密接な繋がりがあり、それらを切り離して日本人の信仰を考えることはできません。
神社に代々伝わる社伝も、時の人の解釈や作為が働いて創作されることもままあったはずです。

特に日本の神道史を考える上で、大和朝廷誕生後の宗教政策や、推古天皇の律令制度改革に始まり「日本書紀」の成立による氏族への影響などを無視することはできません。
そもそも、国家神道を考える上で肝となる「記紀」ですが、その成立の背景には飛鳥時代の白村江の敗戦、律令制の普及に伴う地方豪族との軋轢などもありました。

朝廷としては、律令制を確立して中央集権化を推し進めたいわけですが、時の天智天皇も頭を悩ませたことでしょう。
そして、地方豪族を取りまとめるために、天皇の血筋を堅固なものとしながら、全国の氏族の正統性を認め、派閥を取りまとめる必要があったはずです。

「日本書紀」は百済や新羅などの諸外国に提示する外交文書である以上、その内容は折紙付きとなります。
そのため、国内の豪族はそれを認めざるを得ず、結果的に各氏族は氏神・祖神信仰の形を変えねばならなかったとも考えられるのです。

ちなみに、「記紀」は日本という国家の成立、天照大御神を中心とした国家神道のあり方を定義したものと考えられています。
しかし、「日本書紀」が正史として文武天皇に献上されたのは公式記録にありますが、「古事記」にはないそうです。

古事記の研究によると、古事記が広く認知されたのは江戸時代、その立役者は国学者の本居宣長であると言われています。
古事記の前文には数々の批判があり、その文体から平安時代後期の可能性が高いそうです。
古事記自体は偽書ではないとしても、少なくとも「日本書紀」の原本などから編纂されているのは事実らしく、日本書記の方が正確な記述は多いそうです。

これらの書物は地方豪族の系統を取りまとめる目的もあったと考えていますが、やはり氏族には氏神信仰があり、それぞれ自らの祖神は絶対であり、簡単に御神名や由来を変えることなどできない、と思ったには違いありません。
だからこそ、記紀には似た構図の話が時代と人物を変えて何度も現れ、似たような境遇の神々が多数存在することになったのだと思います。

その全てが事実と違うということではなく、原型となるような経緯があり、その解釈や伝わり方で各豪族の心象も変わり、また権力差や立場で表現される物語も変わったはずです。
特に日本書紀を編纂したのは藤原不比等とされており、時の持統天皇や政治のゴタゴタも多分にあったでしょう。

その影響を踏まえても、やはり事実に基づくというか、そうではなくても共通認識となる筋道はあって、そこに登場する人物や神格、立場や背景が一致する原型があるように思えてなりません。
この歴史研究の試みは、「書紀を歴史的に紐解き、御神名を整理して神統を詳らかにする」というものです。 
 
これは、神格の混同を避けることにも繋がり、神様のプロフィールをより詳細にするということです。

例えば、和歌山田辺市にある「熊野本宮大社」の主祭神は「家津美御子(けつみみこ)神=櫛御気野(くしみけぬの)命」とされています。
ちなみに、神武天皇の諱は「若御毛沼(わけみけぬの)命」「豊御毛沼命」です。
熊野の社名でわかるように、社は「素戔嗚命」をお祀りしているはずです。
素直に解釈すると、「神武天皇が素戔嗚命である」ということになります。

そんなことがあるのでしょうか?

もう一つ例を挙げると、神武天皇の父である「鸕鶿草葺不合(うがやふきあえず)命」の妃は「玉依姫命」であり、玉依姫の姉の「豊玉姫命」は、鸕鶿草葺不合命の母であるとされます。

鸕鶿草葺不合命の父である彦火火出見命、山幸彦またの名を火遠理とされています。
釣り針を無くして海辺で途方に暮れていたところ、塩椎神に誘われて竜宮に赴き、豊玉姫と恋に落ち子を儲けました。
豊玉姫には龍女の伝説があり、父は綿津見神であるとされます。
火遠理と豊玉姫の子の鸕鶿草葺不合は叔母にあたる玉依姫に育てられ、後に結婚します。

「海幸彦と山幸彦」という話では、山幸彦(火遠理命)は兄から借りた釣り針を海に落としてしまい、途方に暮れますが、自分の剣である「十拳の剣」から千本の針を作って海幸彦(火照命)に渡そうとします。

「十拳の剣」を持つ神と言えば、素戔嗚命でしょう。
素戔嗚命は八岐大蛇を退治する時、十拳の剣で戦い刃が折れてしまいますが、八岐大蛇の尾から「草薙の剣」を見つけ、これを宝とします。

ということは、神武天皇は素戔嗚命であり、祖父の彦火火出見命も素戔嗚命であるとも言えるのです。

しかし、素戔嗚命は天照大御神と同時にお産まれになった三貴子であり、世代が全く違います。
しかし、実在の神社の由来、地域の伝承を加味して記紀の設定を照らし合わせると、奇妙な一致と不合点も明らかになってきます。

こういった複雑に絡まった系統を解していく、繊細な作業になっていくと思います。
こういった事象が起こるのは、書紀編纂時に各氏族の都合を整合性よりも優先した結果ではないでしょうか。

興味深いのは、鸕鶿草葺不合命の妃である「玉依姫命」には、いくつも似た名前の神様がおられることです。
「鴨玉依姫」「櫛玉依姫」「活玉依姫」、姉の豊玉姫も似た名前ですが、「豊」が氏族の「豊氏」の系統を指すのだとしたら、「鴨玉依姫」は「賀茂氏」と繋がりがある可能性もあります。

また、神道には「四魂」という考え方があり、それは「幸魂、奇魂、和魂、荒魂」とされています。
この「幸魂」は「豊」、「奇魂」は「櫛」と表記されるそうで、つまり玉依姫命の神名のバリエーションは、「神魂の現れ方」を表しているのかもしれません。

ということは、一見文脈としては別々の神様のように語られていたとしても、実は同一の神様を別の角度から説明していた、という記述も多分にあるのではないでしょうか。
ゆえに、「鴨玉依姫命」「櫛玉依姫命」「活玉依姫命」を個別の神として表現するのは慎重にならなければなりません。

この試みは、断定するのが難しいことを扱うことになりますが、独断と偏見で強引にやっていこうと思います。
これには、考古学的歴史だけでなく地政学や民俗学、神社の成り立ちなども考慮に入れながら多角的に調べていきます。

これから神道の歴史を辿るにあたり、「日本書紀」の記述を軸にしたいと思います。
両書には神名の表記揺れがあり、その辺を混同すると私自身が混乱するのもあるからです。

なかなか素人には難しい試みですが、無学者なりに大胆なアプローチをしていきたいと思います。
私としても、意外な結論になっていきそうでワクワクしています。

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アナログへの回帰

楽太郎です。

本日、シルクスクリーンの実験に購入した一式が届きました。
以前、版画の世界に足を踏み入れ、そこでビジネスをやっていこうかなという話をしました。
イメージは「浮世絵」なのですが、江戸時代の木版画は今の出版社と仕組みはほぼ同じで、組織的な生産体制によるものでした。

私はこれからの時代、どうなっていくのかわからないからこそ、自分の力だけで成立する制作体制について考えていました。
そこでは、素材の収集から道具作りまで、自己調達が可能なほど望ましいという結論に至りました。

しかし、現代の文明的な生産技術で作られた製品が、DIYするようなものより遥かに性能が良いし、現段階で自己調達よりも安上がりなのも事実です。
ただ、とりあえずは技術的に方法論を確立して、そのあとに代替品を考えればいいかな、と思いました。

最近、なかなか体調が芳しくなくて動けなかったのですが、なぜか身体を動かすようなことにはエネルギーが循環することに気づき、PCに向かうより遥かに調子が良くなります。
これには何か意味があるのでしょうが、とりあえず無意味にでも動いた方が正解なんだろうな、と思っています。

今日はふと思いつきで、10年前くらいに買った筆記用具を引っ張り出して、紙と鉛筆で絵を描いてみることにしました。
ここ10年くらいは本当にデジタル環境でしか絵を描いてこなかったのですが、急にアナログに戻しても勝手が違いすぎて戸惑いました。

そして、試行錯誤しながら描いた瀬織津姫様のイラストがこちらです。





瀬織津姫様を描かせていただく時、なぜかどのようなやり方でも瀬織津姫様っぽくなるのは不思議です。
私は本当に神様が見えているのでは?とすら思ってしまいますw

今回、デジタル環境から移行するに当たって、斜めの画台を作るところから始めました。
昔、トレース台があったのですが捨ててしまったらしく、背後から光を当てられないかなと家中の電気製品を漁ってみたのですが、残念ながら諦めました。

急にPCでの描画環境からシフトしたので、「ズームできない」「アンドゥができない」「切り抜き選択による移動ができない」という仕様に戸惑いました。
まあ…こっちの方がデフォルトなんですが…(汗)

しかも、最近はペンを持つ機会もめっきり減ってしまったので、ストロークも鈍ってしまい手が痛くなりました。
とにかく、描いては消し描いては消しで、絵を描くというよりは彫刻に近かったです(笑)


これまで、PCでやるとどうしても波長が乱れて仕方なかったのですが、アナログでやるとなぜか心身共にすごく安定しました。
これは何故かなと思ったのですが、神様がどうやら今後の活動はアナログを優先して欲しいようなのです。

たぶん、予言的なアドバイスもあるのだろうと思います。

これから経済が崩壊して職に溢れる人が増えると、とりあえずという感じでネットで活動する人が爆発的に増えるはずです。
しかし、現時点でプロすら埋もれるほどの超飽和状態なのに、全く無知の人々もどんどん参入してくるでしょう。
きちんと商売をするなら、そこで活動し続ける方がむしろ無謀です。

これから急速に実態経済が冷え込むため、流通がガラ空きになっていくと思います。
空き店舗も増え、賃料は下がるので事業的には進出しやすくなり、イベント事は逆にやりやすくなるはずです。
人々はお金を使わずに暮らそうとするので、逆に催しや物理的な広告は目立つでしょう。

人々が安易に娯楽を済ませようとデジタルに向かう中、流通の世界にあえて打って出ることで、逆にビジネスチャンスを狙えます。
ここまで先が読めると、何をしたらいいのかも自ずと見えてきます。

あと、個人的にデジタルの世界はこれから現体制を維持できなくなってくると思います。

今のネット環境を支配しているのは、アメリカのマグニフィセント7と呼ばれるビッグテックです。
人々は彼らが超絶ホワイトな組織だとは思っていないでしょうが、その通りです。
彼らがインターネットを牛耳っている間、自由な表現も競争も夢のまた夢です。

私がPCで作品を制作してネットに公開する一連の流れは、特定のテック企業数社しか挟みません。
これは実に恐ろしいことで、ほぼ彼らの匙加減一つでやっていけなくなるということです。

その予兆はadobeのサブスクがエゲツない金額になってデザイナーやイラストレーターが泣きを見たように、一企業に作家生命を握られるなど実際あってはならないのです。
だからこそ、私は自前で全ての材料を工面できるくらいには、制作環境を固めようと思いました。

とは言え、周知のためにはネットを使うべきです。
そのため、アナログ作品をアップロードするための撮影機材も必要でしょうし、ポートフォリオサイトも必要だと思います。
現在、その準備も進めています。

ただし、やはりメインは物流としての商業取引になっていくと思います。正直、店舗などの商業活動が停滞するのにネット取引だけ活発というのも考えられませんし、デジタルもそれほど有望ではないと考えざるを得ません。
だから、あくまでサブとして進めていくつもりです。

近い将来、ラジオの周波数帯やスクランブル放送の帯域が解放されれば、メディア展開も可能です。
だからぶっちゃけ、現体制が壊れてくれた方が動きやすくなるのは確かです。

ということで、これからはアナログの方面もやっていこうと思っています。

実は、かなり必死に神様へ「漫画を描かせてくれ」と懇願しているのですが、どうやら順序というものがあるらしく、なかなか取り掛からせてもらえません。

神様は本質を大事にされる方々なので、何よりも順序を優先されるようです。
その感覚は、未熟な人間にとってすぐに腑に落ちるものではないかもしれません。

いつかは漫画に取り掛かれると思うのですが、いつかはわかりません。
それまでは優先すべきことがあるようなので、地道にやっていくしかありません。

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日本人の倫理観

楽太郎です。

昨日の記事では、古代の日本人の死生観から生まれた神道の精神について話しました。
日本人には「罪穢れ」と「祓い清め」の概念があり、その延長に現世利益と神への信仰がありました。

日本人は、世界的に見ても教義的ではない信仰心を持つ珍しい民族であるとされます。
教義がなくても道徳的、宗教的たりうるのは、日本人が脈々と受け継いできた「美的感覚」ではないかと思います。

例えば虫の声は、日本人以外の民族は「雑音」として脳内で処理するため、どちらかというと音楽的な認識の仕方をするそうです。
しかし日本人は、コウロギの「コロコロ」という鳴き声を聴いて擬音化するように、言語野で認識するようです。

寂れたものに美しさを見出す「侘び寂び」の概念、「赤穂四十七士の討ち入り」に見られる「敗者の美学」など、日本人独特の価値観は美意識に基づくものです。

日本人がそういった豊かな情緒を育んでこれたのは、歴史においてあらゆる権威の下に晒され、ルールや常識に押し潰されても屈さず、どこかで強かさや余裕があり、厳しい現実の中に「無常」の世界を見出してきたからではないでしょうか。

つまり、この世界に「絶対」がないからこそ、お上や偉い人物が決めたことだけが全てではなく、自分の美徳や美意識、あるいは損得勘定でうまく立ち回ってでも、生きていくことに価値を見出してきたのかもしれません。

ゆえに、規則やルールを徹底して遵守することが日本人の倫理観ではなく、むしろ内面としての美的感覚や計算によって「道徳」の合理性を理解してきたのが日本人なのだと思います。

だからこそ、今の世に蔓延る「画一的な多様性」という倫理観、「正しくないものは許されない」という正義感は、日本人には本来馴染まないものです。
しかし今、その価値観を信じきり、その偏狭な道徳心で人を弾圧することが「正しい」と思う日本人が増えてしまいました。

日本民族は、かつて大陸経由で渡ってきた移民が列島にどんどん定住し、渡来してきた人々の文明を取り込みながら発展してきました。
日本人そのものが「多様性」を最も体現した民族であり、なぜ本来の思想を発揮させずに西洋的な「画一的多様性」を受け入れてしまったのでしょうか。

今の政府の政策のように、「全ての外国人を受け入れよう」ということが、即ち多様性を受け入れることを意味しないはずです。
日本の国風を理解しない人々がいくらこの国に住み続けても、「日本」が深く理解されると信じていいのでしょうか。
国家のアイデンティティが揺らぐ今こそ、日本人は自分たちの歴史と民族としての本質を見直し、本来の性質を思い出すべきです。

日本人の宗教観も、長いこと唯物史観に染まったせいで、「神様」という言葉を出しただけで眉間に皺を寄せる人も増えました。
戦後に勃興した新興宗教団体が組織的に如何わしかったり、実際に犯罪やテロまで起こしてしまったのも事実で、伝統的宗教も一緒くたにされて悪印象になってしまったのもあると思います。

しかし今なお日本人は、精神的文化観において柔軟な強かさを維持していると私は考えています。

一般的に、「神様」は遥か遠いところから地上を見下ろしていて、その下には善人が死後に行く「天国」があり、悪人は地球の下にある「地獄」に堕ちて永遠に苦しむ、と考えられています。
よく考えれば、このイメージは宗教的にはめちゃくちゃです。けれども、市井の人々はこの死生観でも何の疑問も抱かず暮らしています。

私は、日本人のこの「宗教観の適当さ」は唯物史観に染まったからではなく、ずっとこういった曖昧な死生観を持ち続けてきたのだと思います。

つまり、これも日本人の「現世利益」の価値観に基づいているとも言えます。
これだけ教義的に曖昧だと、「このままでは死後裁きに合う」ことに戦々恐々とし、わざと窮屈な生き方を選ばないための合理的根拠になり得ています。

かつて日本人は、死んだ人の亡骸を山や海辺の洞窟などに葬っていました。
そして、亡くなった人は見えない遠い場所へ向かい、機会があればいつでも戻って来てくれる、と考えていました。

日本神話では、そこは「黄泉の国」とされます。
「ヨミ」は元々「ヨモ」であったらしく、「ヤマ」の語源と親和性があると言われます。

参考として、「日本語の意外な歴史」というブログの記事をご紹介します。

「山」の語源

私は、古代日本人が死者の霊を招く儀式をする時、「霊を呼ぶところ」という意味合いを込めて「ヨミの国」と称したのではないかと考え、「ヨミ」は「呼び」を意味するのではないか、と仮説を立てていました。
ただ、「呼び」のyoは甲類なので、そうとは言えないようです。

しかし、上記のブログにはこう書かれています。

「口を意味するyom-のような語があったということは、遡れば、穴を意味するyom-のような語があった、下を意味するyom-のような語があったということです。yomo/yomi(黄泉)は「下」を意味していた語と考えてよいでしょう。」

「黄泉の国」の他にも、神話的には「根の国」「底の国」という地下世界の概念があります。
これは世界観としては垂直的な階層のように思われるのですが、伊弉諾命が亡くなった伊奘冉命を追って黄泉の国に行った時、死者の群に襲われて黄泉比良坂に岩を置き、出入り口を封じます。

こうして考えると、日本人はやはり「黄泉の国」も地続きの場所であり、高天原も空間的には上部にあるとしても、決して異次元にある世界ではないように思います。

目に見えない世界が、国や場所のようにフラットな延長線上にある意識は、まさに日本人独特のものです。
神も死者も常に身近にいる、という感覚は「お天道様は見ている」という価値観に繋がり、森羅万象に神を見る「八百万」の精神世界を形づくってきたのだと思います。

これこそ真の多様性に至る考えであり、日本が多神教である所以でもあるでしょう。
ただし、全てを受け入れてきたわけではなく、やはり「まつろわぬ」者たちを封じてきたのも事実です。

しかし、まつろわぬ者たちと言えど、例えばヤマト王権にしろ追従した豪族は和合する道を優先してきたのも歴史が証明します。
先の外国人の移住や多様性などの話題に関しても、互いに理解と協力が可能であるのが前提条件であり、「日本」という国の文化への尊重があるからこそ真の意味で日本に根付くことができます。

けれども、日本人と外国からの住民が、互いに深く理解し合うまでに至っていないのではないでしょうか。
だからこそ、私は拙速すぎる社会的な流れを批判しているのです。

日本の神道は、厳密に言えば宗教ではありません。
宗教なら開祖や教義が存在するものですが、神道にあるのは「伝統」「所作」だけです。
ゆえに、神道は伝統的風俗であるとも言われます。

神前に奏上する祝詞も、文面を事実と照らし合わせれば真実かはわかりません。
けれども形式として、少なくとも1500年以上は受け継がれてきた由緒あるものですし、その権威性は計り知れません。

それでも、日本人は神の教えを聞き、導きを受けて有り難く受け止め、その知恵を子々孫々に伝えて繁栄してきました。
教義を軸にして、「正しいか正しくないか」という考えで神を信じてきたわけではないのです。

日本人は、「神様が今どうお考えであられるのか」を常に考え、察しながらお祀りをしてきました。
神様の顔色を読み間違えると、神の「荒魂」が災いを起こすと考えてきたからです。

実は、そういう「目に見えないものを慮る」という感覚こそ、日本人の倫理観の源泉なのかもしれません。

人間の心は目に見えません。愛情も優しさも幸せも心の豊かさも、目には見えないものです。
しかし、「目には見えないものを慮る」からこそ、人の感情の機微を深いところで感じ取ってきたのが日本人なのではないでしょうか。

私は、日本人がその全てを忘れ去ったと思いません。
ただ心の中に眠っていて、それを思い出す機会がこれまでなかっただけなのだと思います。

日本人に備わった道徳心も美意識も、きっとそうなのだと思います。
幸い、古い時代は壊れようとしています。

新しい時代が始まるのなら、これを機に忘れてしまった日本人らしさ、その良いところを思い出し、今まで以上に良い世の中を作って行けたらいいな、と私は思います。

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神と日本人

楽太郎です。

先日、「幽界の消滅について」という記事を書きました。
四次元世界である「幽界」が縮退する代わりに、地球が霊的に次元上昇することで「新幽界」というべき次元に置き換わるのではないか、という話をしました。

また、古い幽界にある地獄的思念の集合場は、次元の縮退と共に居場所を無くし、低い波長域にある物質次元に移動し、その様態が「憑依」という形に現れているのではないか、と仮説を立てました。

人々はナチュラルに邪気を帯び、発するようになって久しいですが、その邪気の根源には「憑依者」が宿主となって悪影響を及ぼしているように見えます。
今、日本には悪意を持った外国勢力が侵入してきていますが、その影響を受けた日本人の中には邪気の媒介者となっている人も見受けられます。
日本が本当に「神の国」であるとするなら、悪しき霊が神の国を蹂躙しようとするのは理に叶っています。

この様子を鑑みるに、「日月神示」のシナリオそのままではないかと思います。
つまり、神の世界、霊人の世界、人の世界の「三千世界」の立て直しにおいて、「日本は一度取り壊される」と書かれています。

その「取り壊し」が、どの程度なのかはわかりません。
しかし、これまでの社会の仕組みの上で、日本人が存続困難な状態に置かれているのは否定できないはずです。

例えば、これから明確に食糧難となった時、耕作放棄地や野山で勝手に食物を採取したり、栽培しようとしても土地の権利者がいるため、法で罰せられる恐れがあります。
土地は不動産なので、生命を繋ぐために自然から恵みを受けようとしても、書類上の権利があるので食べ物にありつくことができません。

自然とは本来、人に恵みを十分なほど与えてくれるのに、人間の仕組みでそれを得られないのです。
江戸時代の天保の大飢饉がほぼ人災だったように、人の作った制度で人が死ぬ、という惨事が繰り返されるのでしょうか。

ゆえに、制度的な面で現体制が変化しない限り、私たち日本人は滅びる流れにあります。
この流れに抗い、どこまで新しい世を作っていけるのかが日本人に問われています。

この世の邪気は、人々が現代社会を生きる上で積み上げた不満や絶望、そこから生まれた罪穢れ、その邪気に悪霊による憑依が加わったものだと思います。

今の拝金主義的な世で、生き方も世界も変わることを許せない感情は、そもそも精神的存在を否定する勢力から発生しました。
下手に科学的な視点は、唯物史観を助長させ、「全て金と人間の力で解決できる」という思想を一般化させました。
そして、物質中心の生き方を変えたくないと思うからこそ、この歪な世を作り出した側である邪霊の影響を受けやすいのです。

今私たちが「邪気」と呼ぶ概念は、近世になるまでは「穢れ」と呼ばれていたものです。
私の解釈では「穢れ」とは「気離り(きかり)」であり、「元気がなくなる」「嫌な気持ちになる」「気を病む」というニュアンスを指したのだと思います。

ストレス過多の現代人は、欲求不満や疲労を常に抱えています。
イライラして人に当たり散らしたり、妬み嫉みで人を攻撃したり、人を騙してでも利益を得ようとします。
心を病んだ人々は、アルコールやドラッグに走り、病院にかかり薬漬けになったりもします。

しかし、物質的に回復条件を満たしただけでは「清め=気呼べ」にはなりません。
「気」というエネルギーを呼び込むためには、疾しい生き方を改め、自然体の心地よい生き方を選ばなくては、病んだ心身を本当の意味で癒すことはできないのです。

だからこそ、現代人には「祓い清め」が必要であり、それは人間本来の性質に立ち返り、自由で健康な精神を取り戻すことです。
そのためには、自然と調和する感覚、神仏や精霊への正しい信仰、目には見えない世界を敬う心が大切です。

日本人は、古くから「自然から生まれ自然に帰っていく」という死生観がありました。
古代の人々は、人が亡くなると亡骸を山や洞窟の中に葬りました。その霊は、山を登って高いところへ帰り、あるいは海を渡って遠い世界に行くと考えていたようです。

その世界観において、人の生きる土地と死後の世界は地続きであり、「遠いところに行くだけ」という認識に近かったようです。
そして、遠いところに行った愛すべき人やご先祖様も、ことあるごとに自分たちの元へ戻って来てくれると考えていました。

その世界は「隠り=幽(かくり)世」であり、ただ単に「見えないだけのところ」だと思われていました。
隠れているだけの世界なので、善人も悪人も等しく行く場所だとされていたようです。
この考え方は、現代スピリチュアリズムにおける「精霊界=幽界」の考え方と一致します。

亡くなられたご先祖様が「神になる」と信じられたからこそ、日本には「氏神信仰」があります。
遠いところに行ったご先祖様は、神様となって子々孫々を助けてくれると考え、その霊をお祀りすることで自分たちに加護を与えて下さることを祈願しました。

土地に恵みを与えて下さる「産土神」は、お祀りすることで幸を与えて下さる一方、ご機嫌を損なうと「荒魂」によって災害や凶作をもたらすため、平和と安寧のためにきちんと「鎮魂」し、祭祀を行うのです。

神様は何でも知っておられるし、あらゆるお力をお持ちだからこそ、自分たちの願いも叶えてくれる、あるいは救いの道を示して下さると人々はずっと信じてきました。

そして実際に、神様は私たちを導き、あらゆるアイデアやヒントを授けて下さいます。
その神様を敬うことは、私たちの心が祓い清められるだけでなく、本来の人間のあり方に立ち返る道でもあるのです。

つまり、これが日本の「神道」です。

国家神道の最高神「天照大御神」は、日本という国の総氏神であります。
ご先祖様が守ってこられた日本という国、厳密に言えば八州の国土が蹂躙され、失われようとしています。

私たち日本人が何をすべきか、それは政治問題に熱心になることでも、新しいビジネスや活動を始めることにある訳でもありません。
一番大切なのは、本当に心の健康さを取り戻し、そのために古い生き方考え方を捨て、本来の自分に立ち返ることです。

自分の本心を知り、魂のレベルからやりたいことを見つけ、それをするために何をすれば良いか、それによってどう人の役に立つのか、その答えを見つけ、見つけた答えだけを信じて生きていくことだと思います。

この世は、これから想像もしていなかったことが次々と起こるはずです。
その時、自分の信じる道が希望となり、揺るがずに強く生きていけるはずです。

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「幽界」の消滅について

楽太郎です。

今日は午前2時に目が覚めました。
その時、身体の強張り具合から、久しぶりに邪気を警戒して目覚めたのがわかりました。

そこでハッとして本日付のNYダウ平均を見てみると、1600ドルの回復を見せていました。
これを見て、やはり邪気と金融はリアルタイムで連動していると思いました。

つまり、土の時代の唯物主義、人世の拝金主義は、「投資」という形を取ったエネルギーとして可視化されています。
それゆえ、投資家たちにとっては「お金」というエネルギーが無限に持続し、拡大発展していかなければならないものになっているのです。
その執着のエネルギーは、趨勢と共に邪気を伴い、また「金」の数値化によって目に見える形になっているのだと思います。

この「物質至上主義」の思念は、精神世界にとって対立する存在です。
ゆえに、このバブルを無限に拡大する意志を持って、新しい時代の到来を潰そうとしているのです。

ただし、この勢いがこのまま続くとは思いません。
邪気と浄化の拮抗は押しつ戻りつしながら、13日の満月で一旦の区切りを迎えると思います。
今の流れを見ても、「グレートリセット」へのシナリオは進んでいくとしか思えません。
私も邪気を次第に認識できなくなりつつあるので、分岐は近いのかもしれません。

思えば、私の感じてきた邪気には「意志」に近い巧妙さがありました。
以前、生霊攻撃を受けていた時も、生霊を飛ばした女性は悪霊に憑依されているのではないか、と薄々感じていました。
今のこの世界でおかしな人が増えていますが、ほぼ「憑依」によって悪霊の影響を受けた人間から邪気というものは発せられているのだと思います。

スピリチュアル界では、長らく「五次元世界になる」と言われてきました。
そして去る11月20日を持って本格的に冥王星水瓶座時代に突入し、五次元宇宙に「次元上昇(アセンション)」するとされています。

これまでの地球は「四次元」だったとされますが、厳密に言えば「三次元=立体宇宙」に「一次元=時間軸」を加えた概念です。
これまでの「四次元」とは「幽界」を指したそうです。「霊界」が五次元の精神界を指すのならば、「神界」と呼ばれるのは六次元以上の世界になると言います。

この「幽界」とは、実は人間の思念が作り出す低次元の霊界だそうです。
人間が死ぬと「幽霊」になる話も、魂が幽界に渡って高い次元の「霊界」に上がっていくか、まだ人間としての執着が強ければ物質次元の地球に残り続けると言います。
霊界は波長が高いので、低い波長の霊は霊界に上がることができず、ゆえに低次元である地球に干渉してきます。

だいぶ以前から世界で歪な状況が発生し、日本人もその煽りを受けておかしな人も増えました。
「この人は日本人か?」という感想を突き抜けて「本当に人間なのか?」と思う人も見かけるようになりました。

私は長年、憑依で苦しんできましたし邪気の影響をもろに受けてきましたが、これは幽界の霊が人間界に移動し、干渉した結果なのかもしれません。
スピリチュアル界では、「幽界が消滅しつつある」とよく言われます。
低次元の霊がどんどん狭まっていく幽界から逃れるために地球に移行してきたのだとしたら、人々が豹変した説明にもなります。

人間は「分身魂(ワケミタマ)」と呼ばれる神の魂の一部を与えられ、この地球で魂の修行をしてまた霊界に帰っていきます。
人間は死ぬと、半霊半物質の幽界でしばらく過ごし、霊界に上がることになります。
しかし、修行に失敗して物心に囚われた魂は、幽界の中に留まり、同じ波長の霊と集まって想念的空間を作り始めます。

幽界において邪悪な思念を持った魂が集まると、そこは「地獄的」想念の場になります。
そして、この幽界が消滅する、あるいは限りなく縮退してくると、この地獄的想念の場も行き場を無くします。

こうして邪霊が人々に干渉した結果が、今の世ではないでしょうか。
つまり邪心の強い人々は憑依を受けていると言え、その憑依は人々が生きる上で「邪気」を呼んだために起こったのです。

人間は生きる上で「罪穢れ」を蓄積していくことは避けられません。
生命あるものから栄養を摂らなければ生きられませんし、身体は疲労し老廃物も出ます。生きるために欲を出さねばならず、欲を出せば迷惑もかけます。

これを浄化するのが、愛であり神々への信仰でした。
けれども、長らく人々はこの浄化を怠り、心身を欲に塗れさせ物心に溺れてしまいました。
そのため、邪霊の類に魂を乗っ取られる人間が増えました。
そして起こる非情な出来事は、人々が魂のレベルで「穢れ」を纏ったために起こっていることなのです。

おそらく、今後この「憑依者」が物理的に封じられていくことになるだろうと思います。

それがどのような形で起こるのか、私には恐ろしくて書くのも憚られるのですが、いずれ邪霊の類がこの世に干渉できない形にされていくのではないでしょうか。

「幽界」とは、ほぼ人間の思念で作られた霊界であるとも言われます。

地球は三次元から四次元にアセンションしたので、これまでの幽界が地球の霊的階層に置き換わることになります。
「幽界」がなくなることで、人間は死んだらすぐに「霊界=五次元世界」に行くことになるはずです。

つまり、霊界は幽界よりも波長の高い魂しか行くことができないので、四次元の地球が幽界的役割を持ち、幽界的次元の人間が死んですぐに霊界に上がるためには、生きているうちに霊格が高くなければならないのです。

これは、考えれば考えるほど恐ろしいことです。
霊格が低い人間は死んだらどうなるのか、それを憶測であろうと気軽に言及できるものではありません。

世に言う「五次元宇宙(この記事の文脈では四次元」、好んで使う言葉でいうなら「神代」という世界は、この目に見える地球そのものが「霊魂の修行場」になるということです。

そこで修行を放棄した魂は、早い段階でこの世界からパージされるはずです。
それゆえ、因果を知り正しく修行に向き合う魂しか生きていくことができず、輪廻が許されない時代になるのかもしれません。

仮に、悪鬼悪霊の類が幽界の消失によって淘汰され、あるいは質の低い魂が輪廻を絶たれるとしたら、天界の構造改革を日月神示では「大洗濯・大掃除」と表現していたのかもしれません。
そして、邪霊の干渉が人間界に及ばなくなるとしたら、それこそ善良な人々による「弥栄の世」は完成する、ということなのではないでしょうか。

幽界とは、半霊半物質の世界とされているので、自分の思念が具現化しやすい世界です。
良い心持ちであれば良い結果に、悪心を出せば悪い現象となって立ち現れてくるはずです。
その世界では、どう考えても心根の腐った人は生きていけないかもしれません。

特に、人を欺き奪い支配し顧みない、そう言った人々は天がお許しにならず、自らの因果で暗い世界に堕ちていくことになるのではないでしょうか。


今回の記事は、何となく重たい内容になってしまいました。

終わりに、「幽霊はいなくなっていく」という話をしたいと思います。これも、やはりスピリチュアル界ではよく話されていることです。

幽界が消滅すれば、地球に近い波長の次元にいる「幽霊」は、存在することが難しくなるのかもしれません。
10年前あたりから、「戦国時代の亡霊を見なくなった」という噂が立ちましたが、もしかすると古い霊魂から上がっていった可能性もあります。

そう言えば以前、近所の山にハイキングがてら登った時のことを思い出します。
その日、小学生たちがその山の広場に遠足に来ていました。

私は人霊に周波数が合わないらしく、あまり「幽霊」という存在は頑張らなければ認識できません。
墓地とか行っても普通の感覚がしますし、むしろ林や山などで精霊とか自然霊に近い存在はよく感じます。
ですので、日常生活の上で人の気配を持った霊を感じることは稀です。

その時、その方が広場の小学生たちを高台から見下ろしているように感じました。
おそらく、見守っておられたのだと思います。

奇しくも、この山は古戦場になっていた史跡でもあります。
私が高い波長の人霊だと思ったのは、その方がこの土地を見守り、人々を守る守護神のように立たれていたのを感じたからです。

これまで幽界にいた霊魂は、人間の守護神がいる霊界層「五次元」に近づくほど、守護神の格に近くなっていくはずです。
私には、そういった英霊が神様の下で人々や土地を守ってくださるなら、これからの地球はずっと良い場所になるのではないかと思います。
遠い未来、確かに「ミロクの世」が実現するのは決して眉唾な話ではないかもしれません。

しかし、それまでの道が「大峠」です。
覚悟しなければなりません。

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科学とスピリチュアル

楽太郎です。

世が混迷を深め、精神的に持ち崩す人も増えてきました。今以上に精神科などの病院も混み合うことになると思います。

かく言う私も、近年はだいぶ精神的に不安定でした。
自分の努力が報われないとか、世の中がおかしくなりすぎているとか、外的要因はいくらでもありましたし、スピリチュアル云々関係なく何かに縋りたい思いは常にありました。

このブログを誰かが読んで、「こいつは大丈夫か?」と思われるのも覚悟しています。
それでも私はこの世界を良くしたいという思いで活動してきたのは事実ですし、自分の言葉には責任を持っているつもりです。

精神医学には、「メサイアコンプレックス(救世主妄想)」という病理があるそうです。
もしかしたら、私もそうであると思われているかもしれませんので、一応説明しておきます。

この病には、これらの特徴があるそうです。

  1. 終末論的である
  2. 自身を崇高な存在と思い込む
  3. 自分の正義を絶対視している
  4. 言動が否定的かつ暴力的である

私自身を客観視してみると、全部似てはいるけど厳密には違うように思えます(個人的に)。

1.の終末論的考えは、むしろ「これから新しい世になる」とずっと言ってきたつもりですし、確かに半分は当たっているのですが、逆に前向きなのではないでしょうか。

2.の「自分を崇高な存在だと思い込んでいる」は、私が世の中に貢献したいというのは事実ですし、大きなことを成し遂げたいという気持ちが誇大妄想だと言われたら、そうかもしれません。
しかし、それなら「僕は大谷選手みたいなプロ野球選手になる」と夢を語る小学生は病人になってしまいますし、大の大人が「俺は大谷翔平だ」と言っていたらという話です。

確かに、私は過去世において地球にはいなかったとは思ってますが、だからと言ってそれで偉ぶっているわけではないので、まあ見逃してください。

3.の「自分の正義を絶対視している」ですが、信念の強さをそう受け取られても仕方ないかもしれません。
ただ、この診断基準はあくまで「病理」であって、人間の個性を病的カテゴリに当てはめるものではないはずです。
あと、私の思想的には「悪と和合しよう」という考えは一貫しているつもりなので、悪と戦っているわけではないのはご理解いただきたいです。

4.の言動の暴力性ですが、誰も私の私生活を存じ上げないと思うので何とも言いようがありません。
このブログではかなり批判的なことばかり書いていますが、必ず改善の落とし所をつけているので、少なくとも言いっぱなしということはないはずです。

このように病理に対して自己診断してみましたが、私は専門医のノウハウは持ち合わせていないので、クリニックで診療を受けたら違う結果にはなるかもしれません。
しかも、仮に私が妄想性の精神疾患だったところで、それで問題があるとは思えません。
病理がまずいのは、その症状が進行すると自他に悪影響を及ぼすからです。

確かに、まともに働いていない上に親の脛をかじっている現状、「誰にも迷惑をかけてない」と言えないことくらいはわかりますが…(汗)

この世がどんどん荒れてきて不安定になればなるほど、精神的な救済を求めるのは、人として自然なことです。

脳科学者の中野信子氏によれば、女性が占いやスピリチュアルに傾倒しやすい理由は、「セロトニン不足傾向」があるからだそうです。
女性は男性よりセロトニンの生成量が75%だそうで、不安傾向ゆえに指導的な言説に惹かれやすいそうです。

占いは脳科学的に「自己成就予言」という処理が働いており、「こうなる」と思ったことを無意識に実現させてしまう、という心理だそうです。
「あなたはこういう人ですね。こうしたら良くなりますよ」という言葉を間に受けたら、なぜかその通りに動いて状況が変わった、ということらしいです。

今流行りの「引き寄せの法則」にも近いと思うのですが、それは置いておきましょう。
私はこれまでコテンパンにされてきたのもあって、セロトニン生成量は男性としては少ないかもしれません。
それゆえ、神やスピリチュアル、占いに傾注するのも明確な説明になるかもしれません。

しかし、科学的な説明ができるからと言って、それ以外の「非科学的な説明」は意味ないか、と言うとそうではありません。
科学的、医学的な説明ができるから、神やスピリチュアリズムが全て眉唾ゆえに意味がない、という話にもならないはずです。

論理学の世界には、「消極的事実の証明」という概念があります。
これは、「悪魔の証明」と似ているのですが、悪魔の証明は「ない」と主張した人に対して「ない証拠」があることを証明せよ、という立証責任の転嫁を指します。

「消極的事実の証明」は、「証拠がない」ことは「ない証明」にすることはできない、という論理学上の鉄則です。

何が言いたいかというと、科学的立場から「神やスピリチュアルな存在を証明する手段がない」としても、それが即ち「ない証明」にはならないということです。
古代のローマ法において、「証明は主張する者にあり」とされたように、科学を持って「神やスピリチュアルが存在しない」とするなら、その不在の証明をしなくてはならないのは科学の方にあるのです。

だからこそ、昔のオカルト番組では「科学では解明できない…」という前置きがありました。
まあ、近年の量子力学では若干スピリチュアルの領域に足を踏み入れつつあるのも否定できませんが、それも置いておきましょう。

私は、科学もスピリチュアルも、この世界を説明するロジックとして相反するものではなく、並列して存在していても問題はないと思います。
特にこの世界を霊的に解釈するなら、全て「波動=エネルギー=気」で説明できると思っていますし、そのロジックで説明したとしても、真実に辿り着くと信じています。

同時に、同じ現象を科学で説明して別の結論になっても、どちらが間違っているということではなく、「真実性」の価値によって変わると思います。
科学の真実性が高ければ、工学でも医学でも物質的に解決できる手段が生まれ、スピリチュアルの真実性が高ければ人の心の中で解決ができるのです。

プロセスはどうあれ、「真実に辿りつければ良い」のです。
だから、「科学以外の考えはありえない」という排他性は、思想統制に繋がる以外の価値はありません。

正直、スピリチュアリストの中でも私ほど理屈っぽい人間はいないかもしれませんし、万が一スピリチュアリズムが全て眉唾で、自分の妄想だった場合でも、その保険として「リアリズム」の伏線は常に残しています。

自分の心理が「自己成就予言」に裏打ちされており、私の直感が確証バイアスだったとしても、その予防線として「根拠はどうあれ成長し、幸せになる」というプロセスを大事にしています。

私にとって、スピリチュアリズムとは「良く生きるための知恵と実践」であり、本当かどうかよりも実利の方が重要です。
私が他のスピリチュアリストに物申したくなる時は、信仰の真実性ではなく「人としてのあり方」です。
この世界がどういう仕組みでも、それにこだわるつもりは毛頭ありません。しかし、いくらスピリチュアリストであろうと、成長しない生き方には賛同できないだけです。

人は、成長すればするほど幸福に近づく生き物だと思います。
過去から学び、知恵を集積させるからこそ、人を助けより良く生きられるからです。

結果的にどうやってそうなるかよりも、どうしようともそうなれた方が良いのです。
だから、私は科学だけが正しいとか、スピリチュアルだけが本当に正しいと言うつもりはありません。

ここまで小理屈を並べて、私はやはり気の触れた人間に思えるでしょうか。
まあ、そうであっても私は成長を続けていますし、充分幸せなので特に問題はないはずです。


親不孝をしている以外は…(汗)

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「悪」とは何か

楽太郎です。



近所の公園の桜が、徐々に咲き始めました。
この株はまだ蕾ですが、一部は8分咲きの桜もあります。

今年の桜を眺めていて、何となく違和感があります。花に元気がないというか、生命感をあまり感じません。
去年から冬の間の異常気象を鑑みても、木々としては調子が崩れるのもわかるのですが、なぜか今年の桜はパッと咲いてすぐ散りそうだと思いました。

何故だろうかと考えたのですが、大地のエネルギーが枯渇しているように感じます。
これも理由は考えてわかるものでもありません。ただ、この様子を見ていると今年は野菜や果物の実りはあまり良くないかもしれません。
これは直感にすぎないので、実際にどうなるかはわかりません。

最近、街ゆく人々を観察しながら、めっきり邪気の周波数に合わせることができなくなり、認識しにくくなりました。
それゆえ、「この人はすごい邪気を放ってる」という感想すら抱かなくなりました。
私がこの能力に目覚める前に、目に入る全ての人に感じていた「普通」の感覚です。

だから私としては外出もしやすくなりましたし、人間に対して違和感も感じづらくなりました。
しかし、やはり人々と自分には圧倒的にズレを感じる部分もあります。

東日本大震災の時、私は仙台のビルの一室で罹災しました。
あの時は正直死ぬかと思いましたが、とりあえず非常口から降りて下の公園に避難しました。
その公園では、皆が焦って着の身着のままで出てきたので薄着の人もいました。

3月11日、小雪が舞っている中、私たちは怯えながら途方に暮れました。
しかし、同じビルに入っていた会社の人々が何となくヘラヘラしているのを見て、私は「大変なことになったのに、何故笑っていられるんだ?」と思いました。
そして私たちが集団で避難しようと動き始めた時、彼らは半壊のビルの中へ、業務を再開するために戻って行きました。

人は急激な変化が起こった時、正常バイアスが働いて逆におかしな行動を取ることがあります。
震災によって人々が混乱する中、変化を受け入れられず何をすれば良いのかわからなくなった彼らは、さっきまでやっていたいつもの行動を選択することで、安心しようとしたに違いありません。

けれど、建物は事実上の半壊状態であり、その時にはすでに大規模停電が発生していたはずです。
彼らがその後どうしたかはわかりませんが、公園でもう炊き出しの準備を始める人もいて、色々な人がいると思いました。

今、街ゆく人々から感じるのは、その震災時の違和感です。
非常事態だし危機感を感じて動くべきなのに、わざと変わらない行動を選択し、安心しようとしているように見えます。
中途半端に戯けたり、怒ってみたりして行き場のない感情を発散させて、腑に落ちたフリをしているのではないでしょうか。

多くの人は、私の方がおかしいだろうと言うかもしれません。
焦りはあるけど何をしたらいいかわからないし、ジタバタしたところでしょうがない、という感覚なのでしょう。

ただ、私には人々が半壊したビルに戻っていった会社員を想起させて、何となく不気味に感じるのです。

思えば、あの震災が日本の岐路でした。
あの辺りからデマが説得力を持ち始め、日本の腐敗が一気に進行し、少しずつ日本人が正常な感覚を失っていきました。
時代に変化のトリガーがあるとするなら、新型コロナの流行と同じくらい、東日本大震災は日本人の霊格に強い影響を与える出来事でした。

そこには得体の知れぬ大きなシナリオがあり、そのシークエンスの一つだったのかもしれません。
厳密には良いとか悪いとかではないのでしょうが、果たして、あの頃日本人は正しい判断をしたのでしょうか。

今の世は良くない、というのは誰しも感じます。
しかし、今の世の混乱は「禍事」という形で、これまでの人の世のカルマの積み重ねによってもたらされたもののはずです。
自分が気持ち良く生きてきた暮らしの裏には、負の責任はずっと累積し続けてきたのです。

それは少しずつ、気づかないレベルで進んできたからこそ、誰もが「自分は関係ない」と思えました。
けれど、今こうしてその因果が顕在化している時、見て見ぬふりをすることはさらに罪を積み上げることになります。

そのカルマを解消しない限り、人と世を改めることはできず、人と世を改めることがカルマの解消になるのです。
ゆえに、今の世を見渡して疑問を持ち、問題をしっかり直視し、例え自分が全てを変えることはできなくても自分を変え、それによって行動を変えていく、それが世界を変えていく第一歩になるはずです。

世の中には巨悪があり諸悪の根源で、彼らを打ち倒さなければ平和も安寧もない、と考えるのは正しくもあるのですが、それでは平和も安寧も実現しません。

「悪」とは、悪というこの世に必要な因果を背負っているだけの人々にすぎません。
悪が犯す罪、罪によって生じる災いや禍事も、この世を糺すために世を乱す役目を持っているのです。

私たちが「彼らは間違っている」と思い、糾弾し世を糺していくことも社会にとって重要なことです。
しかし履き違えてはならないのは、間違っていることをしている人々は、「間違ったことを正しく行っている」のであり、それも天の道理の下では必要なことだということです。

岡本天明翁が書き記した「日月神示」において、「悪とは我よしの事ぞ(青葉の巻・第八帖)」とあります。

私は「日月神示」はどうやら本物らしい、と認めざるを得ません。
今の状況をここまで的確に説明するテキストは、スピリチュアリストの文章でもあまりありません。
そして、私自身この書を降ろされた神様とのご縁も感じるのです。

「黄金の巻第五巻・第九十七帖」にある一文を紹介します。

「悪も神の御働きと申すもの、悪(あく)憎むこと悪じゃ、善を憎むより尚悪い、何故に分からんのか、弥栄と言う事は歩(ほ)一歩づつ喜び増して行く事ぞ」

同・第九十六帖。

「善と悪との動きを心得なされよ、悪は悪ならず、悪(あく)憎にくむが悪、神の理(みち)は弥栄えぞ」

「日月の巻・第九帖」ではこう書かれています。

「何事も持ちつ持たれつであるぞ、神ばかりではならず、人ばかりではならずと申してあろうが、善一筋の世と申しても今の臣民の言っている様な善ばかりの世ではないぞ、悪(ア九)でない悪とあなない(融合)ているのだぞ、このお道はあなない(融合)の道ぞ

日月神示では、悪とはこの世の働きにおける一つの側面であり、善は悪(ア九)を改心させ和合することで「弥栄の世」となると説かれています。
悪を滅して世を糺すために「三千世界の大洗濯=大峠=神と悪神の戦争」が起こっているとされますが、その目的は「悪の改心」であるとのことです。

このように、悪とは必要悪であり、世界のめぐり(因果)の中では「陰」であるとされます。

私たち人間は、悪を滅ぼすためには悪を根こそぎジェノサイドしなければならないと考えます。
そう考えるから、「浄化すべき対象」を選択し、選択できなければ手当たり次第に殺戮をしなければなりません。

こうして起こっているのが戦争です。
しかし、弥栄の世に至るために必要なのは「あなない(助ける)」であると日月神示では説かれています。

「弥栄の世」は「ミロクの世」とも呼ばれますが、弥勒菩薩とは遥か未来、人を慈悲によって救済する仏であります。
この「あなない」とはまさしく「慈悲」であり、例え世界を混乱させたのが悪神であろうと、神の目的は「悪の救済」に他ならないということです。

私たち日本人は今、「あいつが悪い、これが諸悪の根源だ」と問題探しに躍起になっています。
かくいう私もそうです。それらしき原因がわかれば、そこに世を悪くした責任をなすりつけ、自分はさも問題がなかったかのような顔をします。

しかし、本当に一から十まで悪人だけが悪の権化であり、悪事の責任があるのでしょうか。
無碍の人々がその悪を支え、悪事の一端に力を貸したことは本当になかったのでしょうか。
そのことを深く、反省すべき時にいます。

その罪に心当たりがあれば、私たちはこの世界を荒らした責任に対して、反省して後片付けをし、元に戻していく必要があります。
それが、神様がお造りになられた地球という星に対する、人間の責任なのです。

何をしたらいいかわからない、それは皆そうです。
何もできないかもしれない、それも同じです。

しかし、こういう時こそ神様に手を合わせ、とりあえず反省するところから始めてみたらどうでしょうか。
きっと神様はその心持ちを認め、ヒントを与えてくださるに違いありません。

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「神代」のルール

楽太郎です。

今は、「待つのが仕事」だと思っています。
春分明けでエネルギーが高まり、新しいことも始めたのですが、ガクッと動けなくなって久しいです。

おそらくこれは、4月13日の満月を境にまたガラッと変わると思います。
見たところ、このエネルギーの変化は様々な障害や抵抗として顕在化しているようです。
その正体は邪気だったり好転反応だったり色々するようですが、その人それぞれに浄化すべきテーマとして現れているのかもしれません。

私は、過去のトラウマとか後悔の念なんかがブワッと出てくることがあり、強烈なエネルギーが身体を巡ることもあれば、完全にエネルギーが停止して息が詰まったり、不安定な状態にあります。
さすがに病気も疑うのですが、こういう謎の愁訴感はだいたい霊的なものなので、一種の変容が来ているのだと思います。

こう言ったエネルギーの切り替えに起こる不調は、去年の冬至から事あるごとに来てはしばらく身動きが取れない、というのを繰り返してきました。
よく考えれば、この半年くらいはほぼ浄化と好転反応に専念してきたと言えるくらい、魂の変容を優先しています。

その行程はまさに修行と呼ぶに相応しく、自分の人間的な部分を削ぎ落としては新しい自分に変わっていくプロセスそのものでした。
周りから見れば、どんどんダメになっていくように見えてると思いますが、なぜか私は磨きがかけられている実感しかない、という不可思議な状況です。

おそらく、時代はもう「神代」が到来しているので、これまでの人間のルールと神様の世界でのルールにおける、推奨すべき生き方が違うからだと思います。

これまでの人世では、人に使われたり人を使う立場に徹することで対価を得て、それが成功の道でした。
しかし、神様が君臨する治世では、神の求めに応じられる者、魂の輝きで才能を発揮する者が恵みを得るというシステムなのだと思います。

これから、現在の「マネー」がどれほど価値を持ち続けるのかは不明です。
しかし、円やドルの通貨価値がどうなろうと、商業取引に用いられる貨幣が例え「貝殻」や「クーポン」であっても、実質的に価値のあるものと交換できれば経済は成立します。
要は、「実質的に価値のあるもの」が確実にトレードできればビジネスは成立するので、本質的に価値のある商品が手に入る方が遥かに重要です。

今の世の中でも良いのですが、謳い文句や印象だけで「価値がある」と思われているモノは限りなくあります。
それらは世界にモノが溢れ、基本的需要が満たされているからこそ付加価値で持て囃されてきました。
しかし、人々が困窮し、食うに困るとか生活すらままならなくなるならば、付加価値がなく安く基本的機能を満たせるものを求めるでしょう。

その上で、「本物」とはやはり粗製乱造できない、しっかりと精巧に作られたモノであり、長持ちする良品であることが多いのです。
それを作るのは熟練された技術だったり、ノウハウに裏打ちされた才能であったりするわけです。
「本物」は小手先のアイデアでは再現できないからこそ、貨幣自体に価値がない時代には遥かに重要な性質になってくるでしょう。

神の治世では、その才能こそ一人ひとりに与えられた「分身霊(ワケミタマ)」の発露であり、その能力は神の力であるからこそ、人の役に立てるものです。
「分身霊」は今、私たち全ての人の魂に存在します。だからこそ、誰もがきちんと魂を磨けば、才能という神の力を発揮することができるのです。

しかし、これまでの物質中心の時代は、わざと「魂など存在しない」ということにしなければなりませんでした。
魂が存在する、ということは霊的な現象の先に「神」の存在を認めるということです。
「神」が存在すれば、人間が神のように振る舞い、人間界の頂点にいることは許されません。

人間界の頂点にいる者は、思いつきや欲望ひとつで下の人間たちを思うように使うことができました。
下々に命じてある人種を迫害したり、戦争を起こしたり、人間のエネルギーを一極に集めて自分のものにすることもできたのです。

しかし、神が存在すれば、その行動は神に仇なすことになります。
ゆえに必死で「神など存在しない」と証明する必要がありました。目に見えない存在を迷信化し、全ての宗教を眉唾物として扱い、人間の感覚そのものを即物的なものに結びつけてきました。

そうすることで、人々は「目に見える世界」だけが現実であり、その世界だけを信じるようになったのです。
目に見える物質的な世界は、一元的で「お金とモノさえあれば安心して生きられる」というシンプルな世界でした。
幸福も自由も、お金を得る条件さえ揃えれば実現し、人の心もその条件で何とでもなると人々は考えるようになりました。

ある程度は、それで満足して幸せを感じられた人も多かったでしょう。
しかし、目に見えないものを否定することで成立した世界観は、徐々に歪みを見せるようになってきました。

「心」という人間に備わる器官を軽視することで、精神的なものより物質を優先し、理不尽なほど合理的に求められる利益のために、人々は本来の「人間らしさ」を失っていったのです。

それでも、この世を支配する人間からすれば知ったことではないのです。
心を病もうが荒廃しようが、その混迷を利用して金儲けができるからです。
病気になれば薬が売れ病院が流行り、迷う人が増えれば詐欺や悪どい宗教が盛んになり、アルコールやドラッグが捌けます。
そして、戦争になれば気に食わない民族を合理的にジェノサイドし、武器や兵器は飛ぶように売れます。

それが、これまでの「人世」でした。
人間がシンプルに「お金やモノ」だけを信じて生きていれば、そのことだけを考えて暮らせた分、人々は楽に生きられたのです。
いくら頭を使って生きていても、根本的に「自分とは何か、何をして生きていくべきか」を顧みずにいられる以上、人間として本質的な問題を直視しなくて済むからです。

ただし、その時代はもうすでに終わりました。
これから、その物質的な世界は経済の崩壊という形を持って切り崩されていくでしょう。
新しい時代においては、人間の考えるルールよりも、天界のルールが優先されます。

天界のルールとは、因果をもたらすものが人間ではなく、神や霊的存在であるということです。

これまでは、有力者に気に入られるとか、有名大学の肩書きや大企業のコネなど、人間社会の道理が大きな力を持っていました。
力のある人間は、お金や暴力や、有利な条件を振りかざせば因果すら捻じ曲げることができました。

ただし、スピリチュアルな存在が因果を握ることは、人間の身勝手なロジックが通用しなくなることを意味します。
あくまで高次元の存在によって中身が審査され、その結果が現実に跳ね返ってくるということです。

このルールは、人間にとって信じがたいほど残酷なものに映るはずです。
自分が頭で考えて努力したとしても、その成否は上位の存在が決めるのですから全く勝手が違います。
だからこそ、多くの人々は無意識下でその計画に反対し、神代の実現を阻み続けてきたのです。

その感情は邪気となり、邪気は具現化して様々な災いをこの世界にもたらしています。
地震、火災、台風、異常気象、凶悪犯罪、社会の混乱、そう言った災禍は人間の邪気が物質的、霊的にもたらしてきた現象と言えます。

それでも、人間は目を逸らし続けていたのです。
人間を作ったのは神々であり、人間も神の一部であり、そうである以上は神々に逆らって勝利することはできません。
ゆえに、人世は終わっていくしかありません。

そして、その次には神が支配する時代が訪れます。

今の人々にとって、それは全く異質であり受け容れ難いものでしょう。
しかし、権力を持った歪な人間の意志に従う世は終わり、各個人が自立して自由を選択していく時代になっていきます。

因果は神が決めるので、「正直さ」だけが重要になります。
良い心持ちであれば良い結果に、悪い心持ちなら悪い結果になり、ゆえに各々が自分自身を見つめなければ何も進まないでしょう。
悪いところは反省し改善する、そうすることで神の承認を得て、良い循環に戻っていきます。

その世の中では、人を欺いたり搾取するような行為は、いずれ身を滅ぼすはずです。
だからこそ、神代は「弥栄の世」であり、好循環のもの以外は淘汰されていくでしょう。

その世界では、たかだか数百年で絶滅の危機にある人間の作った時代よりも、遥かに悠久の歴史を刻めるように思えます。
日本の縄文時代が1万6千年以上続き、絶えることがなかったのは人々が野蛮で未開だったからではありません。
自分の運命を神に預け、自然と共に生き、恵みを子々孫々まで継承してきたからです。

今こそ、私たち日本人はこの境地に立ち返る時です。
このまま、人間本来の意識を忘れたまま滅ぶべきではありません。

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日本の復権

楽太郎です。

アメリカ経済が崩壊の兆候を見せ始めています。

私のような経済素人でも、関税を高めたら国内供給への締めつけに繋がることくらいわかります。
インフレ下においていくら企業を国内に呼び戻したとしても、海外から製材を輸入しなければ製造ができないので物価高は解消されません。
しかも、報復関税でアメリカの製品も輸出できず、クレジットカードの延滞率が過去最高の国民に消費を下支えする体力はありません。
このままでは、どう考えても最悪の悪循環に陥ります。

アメリカはNYダウとS&P500の数値を見ていると史上最強の経済に思えますが、これはアメリカの悲惨すぎる実態経済を誤魔化し、世界中からマネーを呼び込むために作られた芝居です。
数値を出すたびに修正を繰り返すFRBが、果たしてどれほど真実の数字を出しているのでしょうか。
中国なら鉛筆を舐めるが、アメリカのような先進国がやるはずがない、という根拠はどこにもありません。

好景気に映るアメリカの経済指標を実態が反映しているのか、専門の調査機関しか知り得ないはずです。
果たして、アメリカのインテリジェンスにどこまで白が存在するのか、私は疑わしいです。

マグニフィセント7が主導する生成AIも、所詮は大量の電力と環境資源を消費し、数年しか持たない非効率な処理装置を全世界にばら撒き、荒稼ぎするためのロジックです。
実際、生成AIは完全に赤字産業ですが、投機商品として魅力的だから資金が集まるだけです。

人々は「AIが考えている」と思いたいようですが、あれは全世界のネットから情報を集積し、巨大なデータベースからパターンを引っ張り出しているに過ぎません。
その論法で世界中の富裕層を欺き、資金をアメリカ国内のIT企業に吸収させているのです。

ロシアウクライナ戦争の真の目的は、ロシアに戦争をさせることで、次世代戦争の雛形となるべきAI兵器の技術を完成させ、既存の軍事産業をアップデートさせることでしょう。
アメリカは資金供与を渋る芝居をみせながら、ウクライナに無人兵器を開発してもらう口実を作っているにすぎません。
プーチン大統領はどこまでアメリカの肩を持っているかはわかりませんが、前線から兵を引かないことでウクライナのAI兵器の完成に協力しているように見えます。

中国は、台湾侵攻を外交カードに使ってアメリカ、及び西側諸国に圧をかけています。
しかし、その挑発が逆に近隣諸国へアメリカの影響を強める効果をもたらすとしたらどうでしょうか。

中国が戦争を始めると宣言することで台湾の軍事調達はアメリカ主導となります。
そして、AI兵器に欠かせない半導体産業はアメリカの軍事産業と一連托生になるわけです。
その緊張が続く限り、日本を始めとしてアメリカ産兵器の調達が進み、その利益はアメリカの軍事産業が手にすることになります。

中国もロシアも、アメリカと敵対しているように見えますが、緊張状態だからこそ生じる必要悪があります。
お互いが弱みを握り合う中で、裏で強調路線を共有することで現在の不安定さを均衡させているとしか思えません。

特に産業として軍事と製薬とIT以外に稼ぎ頭のないアメリカは、国体と帝国的支配を維持し続けるために、次世代戦争の覇権も掌握する必要があります。
その覇権を維持したいのは、実はアメリカ自身ではなくアメリカの支配階級を影で操るユダヤロビーでしょう。
彼らは、アメリカ政府が「ロビー活動規制法」なるもので献金によって利権を拡大する政治を戦後から行なってきました。
その仕組みを牛耳っているのは、間違いなくイスラエルの侵攻を支持しているグループです。

これらの金融を支配する集団は、思想的なバックボーンを持たない選民意識の強い人々です。
ゆえに、民主主義や社会主義がどうなろうと知ったことではないのです。
大事なのは金であり、そのシステムを維持するのが至高の目的でしょう。
だからこそ、数多の国家や民族が解体されても、それすら利益の手段にしてしまうのです。

トランプ大統領はマスクなどDSの息のかかった微妙な連中を抱き込んでおかしくなったようにも見えますが、いずれにせよ現状ではトランプ大統領は「グレートリセット」のトリガーを引くでしょう。
彼が本気でアメリカを救おうとしているとしても、妄想の中で破滅を招いているにしても、近い将来に彼が汚名を被ることは決まっている気がしてなりません。

これらは、少し世の中を俯瞰すればわかることです。
皆が現文明はこれからも発展を続けていく、次はAIによる地上のユートピアが実現する、アメリカは復活し、再び覇権を握ると思っているからこそ、崩壊というビジョンを想像することができないでしょう。

今でもほとんどの人々は、総理大臣が交代したら日本は多少マシになるとか、トランプ大統領が国内のDSを倒してくれたらまだ立ち直れると思っています。
よしんば、コロナ前のような景気に戻り、外国人を移住させてでも右肩上がりの経済が復活すると信じています。

しかし、残念ながらそれは夢に終わるでしょう。
それが露と消えることを想像できないくらいには、人々は新しい時代を受け入れ、生き方や考え方を変えたくないのです。


先日、馴染みのラーメン屋に行きました。
ラーメンと餃子のセットからライスが外され、ライスが有料50円になり、セットが100円値上がりしていました。
スーパーでお弁当を買った時は、テーブルに置けないくらい歪な形の容器で、ご飯を持ち上げてみたところエゲツない上底の工夫を見せられました。

物価高だから仕方ない、と今は思えるでしょうが、企業の収益が不況ゆえに目減りし、従業員の給料は上がらず、それでも日常品や食料が値上がりしていけば、生活以外にお金を使えなくなります。
外食産業も、利用機会が減れば当然収益は減ります。企業倒産が増えれば、職を失った人々は余計に消費を絞ります。
不況になれば、求人は減り人々は職に溢れ始めます。そして、どうにか資金を回収しようとあの手この手でグレーなことを仕掛ける業者も増えるでしょう。

人々は薄々勘づいているのではないでしょうか。

日本の企業も良心的というか、安心できるレベルの商売をするところもめっきり減ってきています。
大企業と言えど、平気で消費者を欺きます。寡占企業だから多少のクレームでは動きませんし、居直ったところで消費者に代替手段がないから手出しができないことも知っているのです。
その大企業も、人々の生活インフラの一部になっているから身動きが取れません。
ゆえに、供給者と消費者の双方が牽制し合い、先細りの流れを止めることができないのです。

一次産業や流通の業界は人手不足で喘いでいて、経済を支える大動脈にこそ酸素が回っていません。
そして、平常時にこれだけ経済活動が脆弱化しているのに、恐慌と災害に見舞われたらどうなるのでしょうか。
私には、嫌な予感しかしません。

ただ、私には神様の思い描くシナリオが読める気がします。

この状況で日本がユダヤ支配の資本構造を脱し、新たな経済システムをもつ社会体制を確立するならば、恐慌後に荒廃しきった資本国家群を出し抜くことが可能です。

その頃には、世界は凄惨な混乱状態にあるはずです。そこで日本が新しい文明の代替システムを提案することで、世界はその姿勢に追随することになります。
その時、縄文時代より連綿と続く「雛形の国」は、真の姿を世界に見せることになるでしょう。

そのための立て直しが、今日本に求められています。

日本人は明治維新以降、西欧列強に追随するべく帝国主義を採用しました。
しかし、その拡張主義は大東亜共栄圏という名目で他国を侵略し、結局は大戦によって敗北し、今度はアメリカ主導の帝国主義の傘下となりました。

資本主義的な競争原理を組み込んだ社会は、特に明治以降の科学的思考の普及によって、人心よりも物質的な豊かさを求める方向に突き進みました。
大量生産大量消費の時代、祖先が大事にしてきた土地を日本人は易々と現金化し、挙げ句の果てに国土を外国人に売却する世となりました。

この即物的な思考が、我が国の停滞をもたらしたと言っても過言ではありません。
拝金主義を極めた結果、人々は自由もルールも奪われて、弱肉強食の世界に疲弊しきったのです。
そしてこの流れを止めない限り、日本の収奪と衰退は終わることがありません。

日本の縄文時代は1万6千年続いたとされます。
人々は、「原始時代だからそれくらい続く」と思うでしょうが、青森県の三内丸山遺跡は少なくとも5千年前の集落で、その頃には日本国内の海洋交通が確立されていたとされます。
下手すると、2千年前のヤマト政権による日本国の成立以前に、日本人は列島を縦断してネットワークを形成していた可能性が高いのです。

日本人は巨石や山全体を御神体とし、目に見えない存在を自然に見て暮らしてきました。
自然と調和するあり方で荒れ狂う河川を整備し、水のない土地には灌漑を引き込み、植樹して林業を発展させ、豊かな国土からの恵みを代々に渡って享受してきました。

その日本人が、建国して数百年足らずの外国の文明を踏襲し、この数十年で国土の形を著しく変貌させました。
自然環境を「資源」という視点で利益に変換し、再循環を拒む文明のやり方は、もはや全世界的に立ち行かなくなっています。
だから今こそ、口先でも絵空事でもない「環境にやさしい」やり方を取り入れるべきです。

江戸時代には、イギリスが文明国として覇権を握りながら排水設備が未熟な時代に、我が国には上下水道のシステムが確立していました。
自然と共存しながら、安全に暮らす土地作りを実現し、その豊かさを維持する知恵が日本にはすでにあったのです。

その知恵を復活させることは、大量消費に裏づけされた社会システムを代替することに繋がるでしょう。
それを実現するには、現在の大量消費システムの上に築かれている、私たちの生活の仕組みを見直す必要があります。
それはとてつもなく覚悟を伴うことです。
これまでのやり方を捨てることを、人々は極端に嫌うでしょう。

しかし、どの道このままでは欧米諸国と共に沈み、やり方を変えなければ日本人がこの列島に安心して住めなくなる日も来るはずです。
その日、世界で最も歴史のある国「日本」は終わりを迎えます。

それを止めるために、私たちが本気で立ち上がらなければならない時が来ました。
そしてこれが、この国におられる神々のご意向、そして命をかけて国土を守ってきたご先祖様たちの願いではないでしょうか。

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「画霊(えたま)」

楽太郎です。

最近、土の時代に作られたコンテンツの波長に合わなくてなってきました。
私もずっとそう言うのに親しんできて、嫌いになる理由も特にありません。

単純に、私が「面白い」と思う感性が世間とズレ始めているのだと思います。
人々は、もっと感覚的にものを見ていますし、小難しく解釈しなくては読み解けないものをあまり好みません。
今の人は、瞬間的に理解できるものを好む傾向にあるので、私の趣味とは合わないのです。

私も作家の端くれですから、そう言ったコンテンツを作れば喜ぶ人も増えるでしょう。
ただ、それをやったとして自分が納得していなければ、お金や人気のために時間を削っているにすぎません。

働くことで「人の役に立つ」のは、いずれ対価を得られれば役に立ったという証明にはなりません。
確かに、需要があったから供給し、それがお金や評価になって可視化されるのもあるでしょう。
しかし、実際「役に立つ」ことは目に見えづらく、それが精神的なことであればあるほど、顧みられないことでもあります。

例えば、私たちが自動販売機で缶ジュースを買っても、ゴミ箱を設置している場所はあまりありません。
売るだけ売るのは良いとしても、あとのゴミまで責任を取るのはリスクが伴うからです。

タピオカミルクティーが流行っていた頃、ゴミ捨て場が街中になさすぎて、空き缶入れにプラスチックカップが刺さっている光景をよく目にしました。

人は何かを買えばゴミが出ますし、ゴミは捨てたくなるのですが、ゴミを処分するのは手間もお金もかかります。
だからといって、捨てられない場所に無理矢理ゴミを捨てていく人たちもいます。
善意でゴミ捨てをやっていても、自分だけが集中的にリスクを負うので、だんだんバカらしくなってくるのもわかります。

「ものを売る」というのは、それだけで何かの役には立ったことにはなるのですが、売った後の方が実は大切です。
食べたら身体を壊すとか、すぐ壊れる詐欺商品だったとか、壊れた後の修理が不可能とか、「売り上げ」だけを尺度にしていたらこの状況は見えません。

実際、「ゴミを捨てさせてくれる」というだけで、私たちはかなり助かります。消費はさせられるわりには、消費で出るゴミにもコストが生じます。
「役に立つ」とは、往々にして目立たないものですが、なぜか数値で可視化できるものだと人々は思いがちです。

だから、私は売れる、売れないということを軸にして考えることはやめました。
ただ刺さる人には刺さるとか、わかってもらえれば良いというスタンスのものを作ってきました。
ただ、それが絶望的に受け入れられなかっただけで、私が悪いのでも人々が悪いのでもありません。

私は、私の良いと思うことを追求し、表現するのが仕事です。

無理に人様の真似事をして、対価を得るのが仕事であると言い切れないように思います。
とは言え、自分のやり方が今まで以上に通用しない世の中となり、どこを向いて創作するべきかを商売に落とし込むのは至難の業です。

特に絵に関しては、いずれ芸術全般もそうなるかもしれませんが、「人間がやらなくても良い」という評価に差し代わっていく可能性もあります。
絵の微細さ、表現力の豊かさ、描画の正確さ、完成までの早さ、コストの低さで言えば生成AIに人間が勝てる要素が少なすぎるのです。

生成AIがそれだけ優れている、というわけではありません。
世界中の天才クラスのアーティストの作品データを集中学習して、業界トップレベルのクオリティの作品を手前のパソコン一つで合成出力できるようにしただけです。
それどころか、58億もの学習元の作品を評価タグづけし、その膨大なデータを隠れ蓑に権利問題を有耶無耶にしているのです。
そこに権利意識や良識は毛頭ありません。

その上、アーティストが手にするべきロイヤリティを一つとして共有せず、アーティストのビジネスに競合し利益を毀損します。
これを行なっているのは、全く無関係の第三者です。
それでも、お手軽に自分の思う以上の作品を出力できるので、使いたい人はたくさんいます。

この現状に対して「どうかと思う」人々が多いことも知っています。共に活動していたこともありますし、彼らも非常に憤り、嘆かわしく思っていました。
けれど、その良識よりもタダ同然で技術が得られることに人々が流れてしまったのも事実です。

それを後押ししているのは、世界トップシェアの大企業と政府なのですから、どうしようもありません。
残念なことですが、文化芸術の面で相当なダメージが入っていくことは避けられないでしょう。

私も正直、「デジタルイラストは終わった」と思っていました。
クオリティや物量で見れば生成AIに敵わず、それを認めて生成イラストを上描きしているだけの作家もいます。
この業界で、私は真っ当に立ち回れる自信がなくなってしまい、イラストの分野からは離れていました。

ただ、反対に「人間が描くからこそ価値があるのではないか」と考え始めています。

確かに、クオリティの面で言えば生成AIを使うに越したことはないと考える人も多いです。
しかし、権利問題を技術的に抱えた生成AIは、クレジットをつけることができません。

機械学習元の権利者は概ね同意していないはずなので、コピーライトをつけようがないのです。
それだけでなく、「誰が制作したわけではない」ということは、作品にバックボーンがないということです。

よく考えてみましょう。
フランスの現代アーティスト、マルセル・デュシャンが工業製品の便器を逆さまに置いて「泉」という作品を出展した時、そのアート性を担保したのは何でしょうか。
作品の素材自体は、工場で作られた大量生産品です。それを「アート」だと言い切った行為そのものが芸術を意味すると、現代アート界では考えられています。

言語学者のソシュールが提唱した概念に「シニフィエ/シニフィアン」というものがあります。
「シニフィエ」は「意味されるもの」であり、「木」ならば「'木'と呼ばれるもの」を指します。
「シニフィアン」とは「意味する言葉」であり、「'木'と呼ばれるもの」を見た時に「木」と表現する仕組みのことを言います。

つまり、デュシャンの「泉」は、シニフィエとしては「工業製品を逆さにした便座」ですが、シニフィアンとしては「デュシャンが'泉'として表現したもの」になります。
ここで優先されるのは、むしろシニフィアンの方だということです。

仮に、デュシャンの「泉」が屁理屈だと思われていたら、この作品にまつわる逸話は美術史には残っていないはずです。
この現象がアートを定義する上で本質的な指摘だったからこそ、今日も議題に登るのです。

何が言いたいかというと、「誰が描いたかわからない、バックボーンのない作品」は、「シニフィアンが希薄」なのです。

シニフィエは、シニフィエ単体でも鑑賞に耐えうるものです。例えば、車窓から見える景色も意味を知った上で眺めるものではありません。
しかし、車窓から見える景色が、日本三景の松島だったり富士山だとわかれば、印象も意味合いも変わります。

仮に画像生成AIで出力されたランジェリー姿の美女も、名のあるキャラクターの二次創作であろうとシニフィエ単体として成立します。
例えば、二次創作キャラのランジェリー姿を有名絵師がコラボとして描いた、というのであれば話題性は桁違いでしょう。

生成AIは、この「意味合い」という手順をすっ飛ばして、技術や成果だけを手前のものにしようという企みでしかありません。
だから、権利やクレジットや棲み分けを異常なほど避けながら発展してきました。
ゆえに責任の所在を曖昧にし、オリジナルの表現に背乗りし、オリジナルを騙ることでしか正当化できなかったのです。

「シニフィエ/シニフィアン」とは、人間の基本的な認識能力、コミュニケーションの仕組みを指すだけでなく、さらに世界に対するスタンスにも当てはまります。

日本人にとって「シニフィエ/シニフィアン」が最も大きく顕れているのは、「万物に神が宿る」という精神や「九十九神」という概念に見て取れます。
また、古くから「音霊(オトダマ)」「言霊(コトダマ)」という概念を信じてきました。

「良いものには良いものが宿る」
「悪いものは悪いものを引き寄せる」

そういった価値観があるからこそ、「験担ぎ」や「縁起」という風習を大事にしてきたのです。

現代の日本人はだいぶこの感覚を忘れてしまい、ネットでならと不埒な行動を晒し、口汚い言葉を平気で使いがちです。
炎上しなければ良くて、バレなければ何も問題ないと思っています。

しかし、そう思っているのが現代人だけだとしたらどうでしょうか?

スピリチュアルの世界では常識となっている「引き寄せの法則」が起こるとすれば、自分の発した悪態が巡り巡って自分の元に返ってくることになります。
シニフィアンを希薄な状態のまま放置し、軽視し続けることは即ち「音霊言霊の軽視」であり、言葉や意味を粗末に扱えば、古くから日本人が起こると考えていた災厄を招くことになりはしないでしょうか。

現代のシニフィエ過大の状態は、視覚優位の世界であって、バランスが悪い印象を受けます。
誰も言葉を当てはめて考えようとせず、意味を与えて考えないから、現象の裏に背景があることに思い至りません。

言葉は、それ自体に「権利」はありません。
「ありがとう」という言葉は様々な人が自由に使えるありふれたものですが、自分がある場できちんと発すれば、特別な「ありがとう」になります。

それは誰かにとっても、記憶に残る「ありがとう」かもしれません。
これが「音霊言霊」であり、言葉そのものとしてはありふれているのですが、自分がある時に心から発するからこそ、かけがえのない言葉になります。

これは「言葉」だけではないのかもしれません。
ピアノだって、ショパンやバッハを弾く人は数え切れなくとも、その人にしか出せない音色があります。
音楽も理論で言えば、コード進行も楽器も出尽くしていて、それでも新しい音楽は作られ続けています。そもそも、作り手が一人ひとり違います。

大事なのは、「誰がどういう経緯で、どういった過程でこれを生み出したか」なのです。

絵だって、技術的に見れば生成AIに太刀打ちできないように見えます。
しかし、自分で研鑽を積みながらアイデアを具現化して人に伝える、そのプロセスの方が遥かに大切なのではないでしょうか。

「音霊言霊」があるように、人間が描いた絵にも「画霊(エタマ)」が宿り、その表出に本当の価値があり、真の目的を見い出すべきなのかもしれません。

現代人は、利益こそ究極の目標になってしまいました。
何かを得られなければ、何かをする価値がないと考えがちです。お金にならなければ無駄だし、評価されなければ動機にする意味もないと。
そう考えた結果、誰もが自分の足元しか見ていない偏狭な世の中にしてしまったのではないでしょうか。

しかし、本来の目的とは、自分の魂のうちにあるものです。
その魂から発せられる表現が音霊言霊となり、人の魂に伝わるのだと思います。
その「霊(タマ)」は、おそらく人間の行うあらゆる行為に宿るもので、それが芸術活動なら尚更でしょう。

今こそ、生産性や単純な品質でものを測るより、もっと違う尺度でものを見る習慣を身につけるべきかもしれません。
それによって、おかしくなった産業のあり方にも距離を取り、自分だけでもあるべき形に戻していけば、少なくとも間違ったことはしないで済みます。

今、それをするのは理不尽なほど顧みられないかもしれません。
その時、人間が数万年かけて大事にしてきたものにこそ、本当に大切なものがあることを思い出したいと思います。

いくら自分が理解されなくとも、私は自分のやり方を曲げるつもりはありません。
私は、絵に「画霊」を込めて創作を続けたいと思います。

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世直しと「責任」

楽太郎です。

最近、どんどん世間の人々と価値観が乖離していきます。
芸能人の炎上も有名人の不祥事も、話題になる理由はわかるのですが、なぜそれにここまで気持ちを向けられるのかわかりません。

別に、それが良いとか悪いとかジャッジする気持ちもないのですが、あまりに価値観が変わったことに気づいて不思議な感覚になりました。

私も昔は時事問題とか、政治経済軍事に関して追っていましたし、それなりに言論もしていました。
しかし、その言論のソースとなる報道自体が恣意的であり、どういう角度から読み解いても真の正論には至れないことを身を持って知りました。

特に、今の言論人は話者よりもバックボーンの方が強く、政治家同様に環境の都合で解釈をわざと捻じ曲げ、簡単に事実誤認を誘導してしまいます。

学術界の権威とか、インフルエンサーがいくらそれっぽいことを言っていたとしても、いずれにしろ真実かを確かめるには時を待たないといけません。
結局、全てが明らかになった後でなければ、誰が正しいことを言っていたのかはわからないのです。

「信じるか信じないかはあなた次第」という言葉がありますが、これは無責任です。
「私は間違ったことを言っているかもしれませんが、それを信じたのはあなたの責任ですからね?」という念押しに他ならないからです。

その論法なら、どれだけ出鱈目なことを言っても責任は聞いた人の側にあるということです。
本来なら、言葉を伝える側が信憑性を明らかにした上で、誤った情報を伝える可能性に責任を持った上で発言するべきです。
こう言ったロジックで、どれだけデマが正当化され、どれだけの人が巻き込まれてきたのでしょうか。

今の世の中は、情報に関して誰も責任を取ろうとはしません。
新聞もテレビも、間違った情報を伝えても口先だけで居直り、居直っただけで許されるからこそまた偏った情報を流し続けるのです。

それはメディアに携わる人々だけでなく、私たちスピリチュアルに関わる人々も同様です。
「神様がこう仰っておられる」と言えば、「神」という最高権威の名を借りて自分の思惑を押しつけることができます。

自分が人を騙そうとしているとか、本気で信じているとか、勘違いしているとかは問題ではありません。
神の言葉を代弁するということは、話者が神の言葉にも責任を持たなければならないということです。
神様に酷く低レベルなことを言わせたり、倫理的にもおかしいことを伝えるならば、神の名を汚すことになりかねません。

よく、神様の言葉を代弁する役の発信者がいますが、それ自体が悪いと言っているのではありません。
神の代弁者は、「神様はこう言っておられる」ということだけを伝えて終わりでは、下手すると神様の言葉を聞いて誰も実践せず、有耶無耶に流して済まされてしまいます。

神様が「こう伝えて欲しい」と仰ってこられたのなら、メッセンジャーは「はい、それをお伝えすれば良いんですね」で済ますのではなく、自分自身のあり方に重ねてみたところで、自らへの反省と実践を持って神様のお言葉に応えることが大事だと思います。

神様から直観を受け取った時、そのメッセージが正しいかどうかを吟味し、情報の発信者を審神者し、本当に神のご意思かを確かめた上で伝える。
そのプロセスをより洗練されたものにするには、常に自己を研鑽し続けなければなりません。
だからこそ、反省と実践が必要なのだと私は思います。

神様のお言葉を「信じるのはあなた次第」というのは構わないかもしれませんが、自身がその言葉を補強するために検証し、実践した上で発言に責任を持つことで、神様のご意向に砂をかけずに済むのではないでしょうか。

こういった「発言・表現の自由」というのは最大限に尊重されるべきですが、昨今は自由ばかりが一人歩きしてしまって、責任を取ろうとする人はあまりいません。
誰もが情報をゴシップと都市伝説のレベルで捉えているからこそ、信憑性も自己責任であり、「騙された奴がバカ」という風潮を作り出しているのです。

この情報化の時代にあって、無責任な情報だけが無限に飛び交っているからこそ、人々はしっかりした価値観で、筋の通った思想を持つことができないのだと思います。
極論を言えば、現時点で分別がつかなければ今後も情報に振り回され続けるでしょう。
今の世だって、人々は話題の方を向いて右から左に顔を動かしているだけで、誰も根本的に世の中を良くする方法は思いつかないはずです。

「財務省を解体すれば日本は良くなる」と考えて、それが事実かどうかはともかく問題の本質をわざと逸らせることで、有利に働く勢力にも目を向けなくてはなりません。
あえて人々に解決の道を示しているようでも、仮に彼らが救世主のように見えたとしても、そこに裏があるのではないか、と考えるくらいでなければ真実には近づけないのが現代と言えます。

誰かを英雄視し、担ぎ上げて然るべき椅子に押し上げれば、このスターが世界を救ってくれるに違いないと、人々は期待しがちです。
しかし、そうやって権力を握らせた者が誰一人裏切らず、正しく世の中を変えてきたでしょうか?

私たち人間は、いい加減に気づくべきです。
「寄らば大樹の陰」ほど危険なものはありません。

巨大な力に支配された時ほど、コインが裏返った時は悪影響も甚大になります。
そのために、リスクを分散することは大切ですし、そのための多様性であり、自由なのではないでしょうか。

「皆が同じ屋根の下にいれば安全である」
その風潮は、混迷を極める時代だからこそ本能的にそうしたくなります。
しかし、この混沌も巨大な力で世の中が縛りつけられているから生じていることには、わりと気づきにくいものです。

私たちの生活を締め付ける物価高も米不足も、実は単純に元栓をいじっている人間を何とかすれば解決する問題ではないでしょうか?
けれど、今の国民にはそれを行う術がありません。あまりに巨悪を放置しすぎて、もはや民衆が手出しできるような低い場所にはいないからです。

しかも、右から左に意見に流されているだけでは、あらゆる思考も実践も徒労に終わるでしょう。
今私たちに必要なのは、自分で状況を見極め違和感の正体を探り、極力その影響から自立することです。
そこで世の流れに左右されず、何があっても自分でいられるスキルと立場を用意しておくことです。

正直、今の日本は法治国家ではないと思います。
これだけ外国勢力に干渉されたら、やはり国内の事情は二の次になってしまいます。
この国に正しい情報が流れないのも、人々が常に注意を逸らされているのも、おかしさを訂正できないのも、その力が働いているからです。

そこで「日本」という国を守るために、あるいは立て直すために、もっと民族として本質的なことを思い出さなければいけません。
「国民」と言うならば、大戦後の占領時代に計画された国民性を指してしまいます。
今を生きる多くの日本人は疑問を抱かないでしょうが、その染みついた性癖は誰かが都合よく押しつけてきたものです。

そしてある時期まではそれで良かったのですが、時代が下り今はその仕組みが限界に来ています。
限界が来たからこそ、自分たちの力で取っ払うことができるタイミングに来ています。

今の日本人に、それをする気のない人がいることもわかります。
とは言え、現状を変えようせずに救われる人はいないでしょうし、変えようと動く人ほど自分を変える力がある人です。
この精神的な支配から脱却できた人は、古い世界のカラクリに気づき、その仕組みを理解するからこそ新しい仕組みを作っていけるでしょう。

「問題は同じレベルでは解決しない」とはよく言われます。

もし世の中を変えたいのであれば、自分が変わろうとすることです。
そして、見方が変わればできることも変わります。
それは、思うより難しいことではないはずです。

しかし、その決断には責任が伴い、責任から逃れる限り自分を変えることはできません。

私たち日本人に必要なのは、「覚悟」です。

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神様からの答え

楽太郎です。
気持ちの整理がついたので、私の気持ちを素直に書いていきたいと思います。

今日から数日かけて、私の古いアカウントの痕跡を消していくことにしました。
放置しても自然に消えていくと思いますが、わざと未練を断ち切るために自分で消去することに決めました。

私はつい数ヶ月前まで、自分の夢を叶えるために必死でした。
人のしないような努力をして、それが実を結ばなくても歯を食い縛って前を向いてきました。

それが叶わないとわかっても諦めませんでしたし、今も諦めてはいません。
けれど神様に肩を叩かれて、「君にはやるべきことがあるんだよ」と囁かれたら、手を止めずにはいられません。

我が道を取るのか、神の道を取るのか。

それはかなりの葛藤でした。
しかし、今思えば3年前に答えを出していたんだな、と思います。

私はずっと同人活動をしていて、そこでだいたいうまくいっていました。
けれど、同人業界に長年いると、成功法則というかカラクリが見えてしまいます。

二次創作は成功のための登竜門であり、ステップとして必要な手順だと考える人がいます。

私もそう思ってましたし、その階段を登ることが成功の近道であることも知っていました。
オリジナルの創作よりも二次創作の方が知名度が上がり、求心力が高いのでバズりやすい。
バズったらフォロワーがついて、インプレが高まるので、自分のタイミングでオリジナルを出せばいい。

しかし、二次創作とはあくまで愛好的な活動であり、ビジネスとは異なるはずです。
そもそも、同人活動はアングラの文化観があるからこそ、本音と建前を大事にしたファン活動でした。
それが、なぜ自己実現の手段になってしまったのか。

それだけではなく、自分の趣味や性癖も、人と繋がる道具にしてうまく立ち回り必要がある。
言いたいことは極力言わず、無難に打算的に行動する。あくまで印象を大事にする。
そうすれば、界隈の有力者に気に入られて界隈の大部分を味方にすることができる。

私自身もそのセオリーに乗って、自分の成功とファン活動を混同し、コンテンツを自分の踏み台として扱っていました。
「ファンであること」は、純粋な好意や愛情の発露であるべきで、打算の上でコンテンツに触れた時点で、それはビジネスです。

だから私は同人活動をやめて、自分のコンテンツを作り始めました。
自分のアイデアと実力で成功しなければ、意味がないと思ったからです。

それから4年間は、本当に苦難の日々でした。

オリジナルのコンテンツは、例えSNSを駆使しても恐ろしいほど見向きされません。
あらゆる戦略を駆使しましたが、そこでも打算を発揮しなければうまくいかないこともわかっていました。
しかし、なぜか私にはその方法を取ることがどうしてもできませんでした。

何故かできませんでした。
何故かはわかりませんでした。

それから、溺れるような状態の中をずっと泳ぎ続けました。

私は自分の絵が好きですし、自分のアイデアも作風も作品も最高だと思います。
唯一、描き続けることだけが希望でした。

「諦める」という選択肢を取ろうと思ったことは、一度もありません。
他の人ならとっくに諦めているところを往生際悪くしがみついて、その根性が染みつきすぎて「諦める」という発想そのものが無いのです。

これで本当に稼ぎがどうしようもなくなったら、土木工事でも警備でもスーパーの品出しでもやって、漫画を描き続けようと思ってました。

けれど、まさか神様に肩を叩かれるとは思いませんでした。

「もうそろそろいいでしょう。諦めなさい」
と。

私の脳裏に、私がうまくいっていないことを散々嘲笑っている連中の顔が浮かびました。
彼らには私が敗北したと、懲りて逃げたと見えるでしょう。

少し前までは、それに対して意地もありました。
私だって、ここで曲げる理由は何一つなかったのです。もっと仕掛けまくって、いずれ勝ち筋に乗るという気持ちでいたからです。

私の頭の中の世界では、というか「私」という自我の中では、それは強い覚悟でした。
しかし、無意識より深い魂の部分では、自分のやるべきことがすでにわかっていたのだと思います。

3年前から。

多くの人々が向かう方向に疑問を持ち、できる限りの正攻法で挑み、訝しく思うものから距離を取り、自分の判断や行いを反省し、地味すぎる努力を習慣化し、どんどん精神的に成長していく。

その過程こそ「神の導き」であったことに気づいた時、私は人間としての「夢」を捨てる決心がつきました。

それは、つい最近のことです。
今でも、自分の考えたコンテンツを社会的に成功させたいという野心は失っていません。
しかし私の実感として、その「夢」を実現することはできない、すでにそういう世の中では無いこともわかります。

一昔前の世の中の延長で、自分の人生設計や目標を持っていても、もう時代が違うのだから意味も扱い方も全く違うのです。
昔の心ある、余裕のある人々はどこかへ行き、かつての才能ある人の活力は失せ、人々は歳を取って若さを失い、皆の目的はすり替わり、あの頃にあった賑やかさや自由はありません。
だからあの頃のような、ジャパニーズドリームを持っていてもしょうがないのです。

それに気づいていたからこそ、神様から呼び止められても、私は何となく自分がすぐに答えを出すであろうことを予感しました。
そして、私は綺麗さっぱり自分のキャリアを捨てる覚悟ができたのです。

私の人生は、おそらくこの世に生まれる前から、神様からお導きを受ける宿命だったのだと思います。
これまでの失敗も恥も挫折も、どうしようもなく立ち行かなくなることも、絶望も病も堕落も、全てシナリオだったのかもしれません。

この3年は修行としか思えない理不尽な状況で、何を成し遂げるわけでもなく自分を磨いてきました。

今考えれば、あの時「おかしい」と思って本能的に避けてきたあらゆる事象が、今になってとんでもない顔を覗かせています。
どうしても引っかかっていたような罠を、まるで知っていたかのように奇跡的に潜り抜けてきたのは、何の力が働いていたのでしょうか。

もしかすると私の魂は全てを理解していて、神様と対話をしながら淡々と計画を進め、それを私という自我だけがわかっていなかったのかもしれません。

「自分」だと思っていたものは何層ものレイヤーでできていて、自分ではない意識がいくつも混ざっていて、その影響すら自我の一部だと錯覚していたのでしょう。
それはもはや幻覚に近く、妄想に溺れて苦しむ自我すらシナリオの一部で、私はそのキャラクターを演じきっていたのだと思います。

そして、神様に肩を叩かれてようやく正気に戻ったのです。

まだ夢は見ていたいし、夢を捨てたわけではない。
けれど、もはやこれまでの世界は終わっていくし、その未来では自分の夢は叶うことはない。

それがわかったからこそ、私はできる限りのものを捨てる決意をしました。

今持っているのは、絵を描く道具と私を支えてくれる家族、それ以外は自分のセンスと知識と技術、それに信仰心です。

ただ、私にとって本当に必要だったものは、神様だったのかもしれません。
信仰心は、なぜか私の欠けた部分に丁度よく収まるのです。

人の世で戦って生きていくからこそ、それ以外のあらゆるものが必要でした。
勝たなければ貶められるし、負ければ貶められる世界で、自分を守るためにあらゆるものを必死に身にまとってきただけです。

それは私が欲しかったものでも好きなことでもなく、持たなければやられるから求めてきたものばかりです。

神様は「もう無理しなくていいよ」と、
「自分のやりたいように生きなさい」と、

私の背中を優しく押してくださるのですから、そうしない選択などあるはずがないのです。

意地はあります。
それは私自身でも世の中に対してでもなく、誰に張り合おうとか何が許せないとかではなく、愚かさを繰り返させたくないという気持ちです。

おそらく、私にしかわからない、誰にもわからないからこそ私にしかできない何かがあるのです。
そう思う瞬間、神様が私に何をさせたいのか、私は深い部分でそれにどう答えてきたのかがわかるのです。

だから、もう進むしかありません。
幸い、私には太陽が見え始めています。
人々はまだ宵闇に気づいた頃合いで、下手するとまだ夜に気づいていない人もいます。
それなのに、私はもう夜明けを迎えています。

この幸運は、なかなか理解されにくいでしょうし、把握すら難しいことかもしれません。
だからこそ、私だけがその有り難みに気づくことができます。

これこそが私の道程に対する神様の答えであり、神様が与えてくださった恩寵なのだと思います。
その褒美を手に取って、私は思います。

「ああ、私は間違ってなかったのだ」と。

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「祓戸大神」の語源

楽太郎です。

前回の記事で、「罪穢れ」「祓い清め」の語源に関して考察しましたが、「禊」についてわかったことがあったので追記します。

「禊」はどうやら「水滌ぎ(ミ・ススギ)」「身濺ぎ(ミ・ソソギ)」の二通りの意味合いがあるらしく、そのどちらも「水で身体を洗う」ことを表します。
神事でも滝で身を清めたりしますが、手水舎でも手を洗ったり口を濯いだりして、それが「禊」とされます。

これらは、大抵淡水で行われます。冬の海に入ってする禊もありますが、大抵は川や滝で行われます。
これは「瀬織津姫味」があるというか、やはり浄化を司るのは瀬織津姫命なのでは?という気がします。

さて、今回はその「瀬織津姫命」の名前の謎に迫ってみたいと思います。

Wikipediaの「上代特殊仮名遣」の項目に「万葉仮名」の一覧があり、出典不十分とされていますが、なかなか興味深い内容だと思います。
今後、本格的に踏み入っていく分野かもしれませんが、古代日本語の言語学を差し置いて神道の用語を理解することはできないでしょう。
とりあえず学術的な精査は置いといて、この一覧を使って「言葉の成り立ち」を見ていきたいと思います。

前日に上げた「祓いの語源」という記事において、音素的に「気」と「饌(食)」と「褻」は同源であるという話をしました。
「気吹戸主神」の「気」は「イ」と発音します。これは「息」と同意ですが、「イ」は「命(いのち)」という言葉に使われる時、「生(イ)の霊(チ)」を指すそうです。

こちらは、広島県四日市市にある気吹戸主大神を主祭神とする「志氐神社」のサイトです。

志氐神社 HP

こちらの由緒書きの中に、こう書かれています。

「イブクとは生命の本質である「いのち」の現象であり、生命の回転・生命のいぶきをその静かな社頭にて神との祈りが一致し自身に感じとることであり、平安と幸福のために、何事も正しく、幸福にお導き下さいます。」

「い」の一字が指す大和言葉は、「生=息(い)」を意味し、「稲(いね)」や「伊弉諾(いざなぎ)」の言葉にも用いられるとされます。
「気吹戸(いぶきど)主」はやはり「息吹」であり、「息吹く戸=命の入る所」であるわけです。
つまり、「息吹戸」の戸は「開都」と同じ扱いであり、この場合の「都(ツ)」は、瀬織津姫命の「津」とは違い、「速開都姫命」が「開き都=水戸=港」であるのと同意であると思われます。

では、「瀬織津」とは何を意味するのでしょうか。

明治時代の言語学者、金沢庄三郎によると、この「セオル」は古代朝鮮語の「ソ・プル・ツ(大きな村の)」を指すらしく、現代の韓国の首都「ソウル」と語源は同じだそうです。
渡来系の人々の信仰対象が神名になったり、言葉の一部に使われる可能性もなくはないと思いますが、この解釈は日本語で元々言い表す意味があるのに、それを外来語で上書きする必要性を感じません。

瀬織津の「津」は助詞であるらしい、と以前書きましたが、上代特殊仮名遣いから「瀬織津」を分解するとどうなるのでしょうか。

「瀬」はどうやら古くから「セ」であるらしく、訓読みです。「川」が山や海などの場所を指すとしたら、「瀬」は水の存立様態を指していると言えます。
「早瀬」は「水の流れが早い川」ですし、「浅瀬」は川や海の水深の深さを表現しています。
「瀬戸」は「両岸の陸地に挟まれた海域」のことですが、「港=水戸」全般を意味するものではなさそうです、

「織」もやはり織物の織として解釈しても、「川が織連なる」という文脈では「水源から河口までの分岐を含めた河川全般」を意味するようにも思えます。
そうでない解釈として、「オリ」は古語「下る(おる)」に「織」という字を当てただけで、「瀬に降りる」という意味だとしたらどうでしょうか。
つまり、「瀬織津姫」とは「瀬の織りなすところの姫」「瀬に降り立つ姫」という意味になり、わりと文字表記に近い意味合いになります。

瀬織津姫命が、「瀬におりつ姫神」という単刀直入すぎる神名だとしたら、少し衝撃かもしれません。
「瀬織津姫命」に関して、私は縄文時代から連綿と続く淡水信仰の神様だと思っているので、神名が直喩的なことには疑問を感じません。

では他の祓戸大神はどうかと言うと、「速佐須良姫命」の「佐須良」は「さすらう」以外の意味合いはどうやらなさそうです。
「さすらう」とは、当てもなく彷徨う、という意味がありますが、大祓詞の中で速佐須良姫命に流された罪穢れは、確かに当てもない場所に行くでしょう。

「さすらう」の活用の一種としての「さする」は、「さす・させる」から派生し、語としては「摩る…ものを擦り合わせる」という意味合いがあります。
だから、「速佐須良」という神名自体、「すごい力で擦り取られる」「神の力によって何かがなされる」と解釈できます。

以前の記事「祓戸大神を辿るⅡ」で、「速佐須良姫命は速吸比賣神ではないか」との仮説を書きました。
この「速吸」も「はやす」という動詞として読めば、「すごい力でする」という意味になり、あるいは「速い」というだけの意味にもなります。
早吸日女神社の鎮座する佐賀関は、伊弉諾命があまりに急流すぎて禊祓を諦めたとされ、社伝にはここで禊祓を行なったとされますが、記紀や一般的には阿波岐原で禊を行ったとされています。
つまり、「速い」のは海流であり、その様子をそのまま神名にしている可能性があります。

では、「速開都姫命」のご神名の由来を辿っていきましょう。
「開都」が水戸をそのまま意味しないとしたら、「アキ・ツ」となり、「都」は接続助詞となります。
その「アキ」とは何かを考える上で、こちらが参考になります。
速谷神社HP

こちらは、広島県安芸郡にある「速谷神社」のサイトです。
安芸国造に携わった人々が、「飽(あき)速玉命」を祭神としていたそうです。
ここには、こういった一文があります。

「安芸の地名の由来は、「飽=アキ」とする説があり、飽には豊かという意味があります。」

作物などが大量に実る土地に住む人々は豊かになります。それだけ物資が豊富であれば、「飽きる」ほどに恵まれます。
「飽」が豊かさを表すとしたら、その豊かさをもたらす恵みの季節は「秋」となるでしょう。

従って、「開」は「飽」であり、「速開都姫命」は他にも「速秋津」とも表記しますが、古くは「速飽津」だったのかもしれません。
そうであるならば、「速秋津」は「すごい(神の)力によって豊かな」という意味になります。

しかし、それでは「開都」が「水戸」と結びつきにくくなります。そこで、先のサイトから一文を引用します。

「広島県西部を中心とした地域は、その昔、「安芸国」と呼ばれていました。安芸は古くは「阿岐」と書きましたが、その黎明期は国境も定かではなく、詳しいことはわかっていません。」

「阿岐」をそのまま万葉仮名として読めば、「別れた土地(山や海峡など)の始まるところ」となります。
これはつまり「水戸=港」であり、大祓詞に「荒潮の潮の八百路の八潮路の潮の八百會に坐す」と書かれていますが、その地理そのままです。

古くから、海岸付近は海産物が採取できる場というだけでなく、港として海外や遠路から物資を運び入れる場所だったため、繁栄しやすかったと言えます。
ゆえに、「水戸」は豊かさをもたらすと考えられ、特に安芸郡は瀬戸内海に隣接し、海運の面で考えても豊かな地域だったのかもしれません。

さて、「気吹戸主命」の話に戻ります。
私は気吹戸主を「大気(宜)津比賣命」だと考えていますが、なぜ大祓詞では姫神とされなかったのでしょうか。

ここで「気吹戸命」とされず、「主」とされたのは、主とは役割なので性別が関係なく、ゆえに女神であっても意味合いが変わらないからだと思います。
神々の中では両性とされていたり、男性神と女性神が混同されたり、性が転じている場合はかなりありますが、それだけ人間にとって「神の性別」というのは重要なことなのだと思います。

主に神がかりを行うのは「巫女」の仕事であり、女性シャーマンという特性上、神は男性神であったほうが調和というか、エレメントとしての補完性が高まります。
記紀に基づく神々で、男性神と女性神が双子として生まれ、伴侶となって神を産むという構図は良くありますが、人間として見ればおかしな関係です。

文脈としては、「天」は男性神、「地」は女性神としての暗喩であると考えられますし、あるいは陰陽の関係と性別が影響し合うのかもしれません。
私は、祓戸大神に女神が多い、あるいは四女神である理由は、「水」のエレメントが関係しているのではないかと考えています。

男性神が「火」や「風」のエレメントだとしたら、「水」と「土」に関わるエレメントは女性格になります。
日本神話の中で、山の神が女性神であることは稀ですが、「水」にまつわる神は瀬織津姫命を始め女神が多いです。

「水」のエレメントは感情を司るため、「気」の浄化に関わるエレメントはどうしても女性的な要素が強くなります。
そこで「祓いの神」は巫女のイメージと重なって女神とされた可能性があります。
しかし、祓戸大神の気吹戸主が男性神として扱われた理由は、「風」のエレメントは男性格のためではないか、というのも仮説のうちに入れたいと思います。

これはスピリチュアルな解釈ですが、そうでないとしても大祓詞の中での気吹戸主の役割は、ほぼ「エネルギーの流れ」そのものを表し、あるいは擬人化した神であるからだと思います。
つまり、「水」そのものを象徴している神として登場していません。
ゆえに、気吹戸主命が大気津姫命であるとするなら、「食」や豊かさの神としても信仰されている大気津姫命を大祓詞に登場させるのは、直感的に違和感があったのかもしれません。

だから中臣大祓も記紀も、かなり政治的な文法で書かれていると考えた方が腑に落ちます。
神々はこういった人間の都合に合わせてくださっているのだと私は考えていますが、神々の世界を伝承だけで考えると、文脈上の矛盾はどうしようもありません。

この辺りに関しては、おそらく正解はないと思います。
私は、私の解釈で神様の世界を解き明かしていきたいと思っています。

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「祓い」の語源

楽太郎です。

今回は、さらに風呂敷を広げて「祓戸大神による祓いとは何か」について考えていきたいと思います。

先日上げた、「祓戸大神を辿るⅡ」という記事の後半で「気吹戸主は御気津大神=保食神ではないか」という仮説を立てました。

保食(ウケモチノ)神は、天照大御神が月読命に命じて食料を取りに行かせたところ、口から食べ物を吐き出しているのを見てしまい、激昂して斬り殺してしまいました。
その亡骸から粟や稗、米や麦などの雑穀や蚕などが生まれたと言います。

日本書紀では「月読命」ですが、古事記では同じような神話が素戔嗚命によって描かれます。
この場合は高天原を追われた素戔嗚命が、料理を振る舞おうとした「大気都(大宜津)比賣命」が口から食べ物を吐き出しているのを目撃し、やはり斬り殺してしまいます。
そこから穀物が生えてくるのも同様でこの前後の二柱は共に「女神」だとされます。

祓戸四神になぜ一柱だけ「気吹戸主」という男性神が含まれているのか謎でしたが、気吹戸主が女神であるとするなら、「祓戸大神は四女神である」とした方がしっくり来ます。

その仮説を検証すべく、「気(キ・ケ)」と「食(ケ)」の相関関係と、気吹戸主と大気都比賣命の関係を調べてみました。
「豊受大神」の神名にある「ウケ」とは「食物」のことで、「宇迦之御魂」の「ウカ」と同じです。

「気(キ・ケ)」の音素は、上代特殊仮名遣いにおいてキ乙類であり、「酒(sake)」と同じ音素系統を持つとされます。
この場合の「食(カ・ケ)」はキ乙類であり、「気」と同じ語源を持つと思われます。

「御気津大神」の「御気」とは「御饌(ミケ)」であり、古代祭祀において神々に捧げられた食糧であったとされます。
「津」という文字は瀬織津姫命などの神名にも見られますが、この音は接続助詞らしく、「之」と同じ要素を持つ語らしいです。
私はてっきり、「瀬織津」という言葉があると思ってましたが、正しくは「瀬織の」という意味だったようです。

「大気都=大宜津比賣命」の「都」も「津」と同じ助詞であり、「大いなる気、偉大なる食べ物」を意味していると思われます。
ただ、「速開都比賣命」に関しては、「開都=水戸=港」であり、「都=津(ツ)」の用法とは言い切れないかもしれません。
ここは引き続き、考察をしていきたいところです。

では、「食=気(キ・ケ)」が音素として同じことがわかった上で、今回の本題に入りたいと思います。

祓戸大神は「罪穢れを祓う」と言いますが、「罪穢れ」とは何でしょうか。

「穢れ」は「気枯れ」だと言われますが、「穢れ」の「ケ」はキ乙類と推測され、おそらく語源的には「気」と同じ音から派生したものだと思われます。
「ケガレ」の「ケ」は「気・食・餉・饌」でもあるのですが、「褻」という文字では「日常的なもの」も意味し、「褻着(日常的に着る服)」や「褻稲(けしね・農家の日常食糧)」という言葉にも使われています。
では「カレ」とは何かと言うと、「枯れ」も意味合いとしては間違いではないようなのですが、どうやら「離る(かる)」が最も有力なようです。

古語単語「離る」の意味

つまり「穢れ」は「気離れ(けかれ)」であり、「気が離れる」ことを古代の日本人がどう表現していたかと言うと、疲れて気力が落ちたり、落ち込むような出来事が起きてネガティブになったり、食べ物がなくて衰弱したり、その延長で病気になったり死んでしまう、それを「気離れ」と呼んでいたのではないでしょうか。

伊弉諾命は、妻の伊奘冉命を追って黄泉の国まで追って行きましたが、伊弉諾命は伊奘冉命の死に恐れ慄いて逃げ帰ったわけではなく、腐爛した妻の姿を見て戦慄したのであって、それが「穢らわしい」と認識したからです。
古代人は「死」そのものよりも、腐敗を見ることによって気が滅入ったり、病原体をもらって病気になることの方を避けたのかもしれません。

グロテスクなものやショックな出来事を目の当たりにすると、私たちは気分が悪くなります。その感情こそ「気離れ」に他なりません。
気持ちが悪くなったり、落ち込むと元気もやる気もなくなり、仕事に支障が出て作業効率が落ちます。作業効率が悪くなれば、成果にも悪影響が出て生活や富を脅かします。
それこそが「気離れ」の悪循環を生み、どんどん状況は悪くなってしまうので、どうにかしなければなりません。

「穢れ」が「気離れ」だとするなら、離れた気は呼び戻さなければならないでしょう。
私は、それが「清め=気呼ぶ」なのではないかと考えています。

「キ・ヨメ(ヨム)」とした場合、「読む」の語源は「呼ぶ」であるらしく、どちらも言葉を出してこちらに招くことです。
「気離れ=穢れ」で失った気は、「気呼び=清め」によって取り戻し、元気を得るというわけです。

では、「祓い」とは何かと言うと、日本民族学の議論に「ハレ・ケガレ」という概念があります。
「ハレ」とは、祭祀などを執り行う特別な日を指しますが、やはり「ハレ」は「晴れ」なのだと思います。
「晴れの日」という言葉に使いますが、対義的に使われる「ケ」とは日常を表す「褻」であり、「日常と非日常」を表現する言葉に用いられてきました。

「ハレ」の言葉を分解すると、「ハ(ヒ)・アレ」のことなのではないでしょうか。
上代特殊仮名遣いの「ハ」は、「早・速」を当てます。「速」は「速佐須良姫命」に使われる文字ですが、これは「勢いがある・すごい」という意味があり、「厳・斎」と語源を同じくしています。

つまり、「ハ」という音自体、盛んさを表現すると共に、「神」や「神事」を表していたとも言えます。
「ハ」が「速」であったとして、「ヒ」が「日」であり、「日・生れ(アレ)」だとすると、まさに太陽の登る様を指しているように思いますが、

「アレ」は古代日本語において「阿礼」と当て字されますが、阿礼は榊に綾絹や鈴をつけた幣帛で、古代から祭事に用いられました。
「神聖な霊が出現する」ことの意とされ、「ハ・ヒ=神」が降り立つ時こそ「ヒ・アレ=ハレ」であったのではないでしょうか。

とすれば、「祓い」は「ハレ(ル)・らう」の意であり、「ハレの状態にする」という意味になります。
それは「ケガレ」が「ハレ」ることであり、まさに浄化のプロセスそのものです。

では、ここまで色々とワードが揃って来たところで、「罪穢れ」の「罪」の語源を辿ると、古語の「つつむ/つつみ」から派生しているらしく、これは悪いこと、不吉なこと全般を意味したそうです。

平安時代に書かれた旧式の「大祓詞」には、天津罪、国津罪が細かく述べられていますが、その中に「昆虫の災い」「高津神の災い」「高津鳥の災い」とあります。
これは、古代の日本人にとって自然災害も「良くないこと=罪」であったからで、今日の法的罪状とは認識が異なったようです。

だから、「身の回りに起きる悪いこと全般」は「罪」であって、「穢れ」と共に不幸や災難をもたらすものだと考えられていたはずです。
それを解決するには、「ハレ」を呼び込むために「祓い」を行い、「清め」によって「気」を呼び込む必要があったのです。

おそらく、古代の日本人はこれを行うのが神々だという認識があり、神々に奉じて祓い清めをお願いするのが神道の始まりだったのだと思います。

その神々の働きの中で、「祓いの神」の役割がどれだけ大きいのかがわかります。
祓戸大神の産みの親である伊弉諾命も、禊祓をしたことで数多の重要な神々を誕生させました。

ゆえに、神道の真髄は「祓い清め」にあるのはこのためであり、神々も臣民も罪穢れを浄化されることによって健康や幸福を手にすることができるのです。
「穢れ」を受けてテンションが下がったり、体調を崩したりした時、「祓い清め」によって元気になるとしたら、それは「癒し」に他なりません。

「祓い清め」とは癒しのプロセスであり、「罪」が赦しによって贖われるとしたら、神々は愛や慈悲の心を持って、この世界や人々を治癒する存在なのかもしれません。

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新作風の練習

楽太郎です。

ついさっき、小耳に挟んだことでイライラしてました。
知り合いの会社の新規従業員が、七割外国人らしいです。
その会社は、外国人を雇用するので国から補助金が出ているため、外国人労働者を遣うことで収益を伸ばし、今では全国規模の会社に急成長したそうです。

こういう話を聞いて、「日本人…」とならないのが今の日本人です。
私はこれを聞いてものすごくガッカリしたのですが、私の周りに話がわかる人がいなくて、余計に何とも言えない気持ちになりました。

私はコツコツ反省しながらカルマを返そうと頑張っているのに、自分のやっていることに疑問すら抱かない人があまりに多すぎて…

そんなことを風呂に入りながら考えていたところ、神様なら愚痴を聞いてくださるかな、と思いました。
こういうことは人間に話すべきではないでしょうし、口に出すことでもないでしょう。
まあ、神様がお考えになられたことですので、神様ならわかってくださるかもしれません。

早く何とかしましょうよ、神様…

まあまあ気を取り直して、新しい絵柄で「顔」の練習をしていました。
私はつい最近まで美少女イラストを描いていた人間なので、リアルテイストの顔に寄せるのは難しいです。

最近描いた瀬織津姫様も、もっと絵柄をリアルに寄せてみたくなり、実験的に描いてみました。



練習していて思ったのですが、この絵柄で漫画を描けば「シリアス路線以外にはできない」ことに気づいてしまいました。

私はギャグとかエロばかり描いてきた人間なので、絵柄も作風もポップさを追求してきました。
それはある意味、私の武器とも言えるものです。
しかし、その作風を捨てるとしたら、自分の武器を使えなくなることを意味します。

それが嫌で嫌で、しかも私の作ったキャラクターがまだ心の中で暴れていて、今も外に出たがっているのを必死に抑えています。
彼らは私の子供同様の存在であり、彼らの世界や話の続きを描きたい気持ちも消えることはありません。
けれど、私は「順序」だと自分に言い聞かせて、神様に優先順位を置くことを決めました。

ただ、かつての作風に違和感を感じ、無理せず自然にこの作風になってきたことを思うと、「神様が私に何を描かせたいのか」を理解してしまいました。
そして、なぜ作風を捨てさせられることになったのかも。

これから先、世の中が沈んでいけば行くほど、今日のような浮ついたコンテンツが時代に合わなくなってくるはずです。
癒しとかお気楽さとか、そのレベルのエンタメで心が潤うような雰囲気ではなくなってくるからです。
しかも、食べ物にすら事欠く状況で、それほど娯楽にお金を回せるものでしょうか。

つまり、これからの時代の雰囲気を考えて、もっと普遍的なテーマの作品でなければ、存在する価値すらない作品になりうる可能性があります。
だから、「祓戸大神がケガレを引っこ抜いてバレーボールする」なんてネタに神様からゴーサインが出ないのは当たり前です。
そういった浮ついたものは、人間どころか神様がお許しにならないのだと思います。

ということは、シリアス一択

でも冷静に考えて、今の私の心情ではギャグやコメディ、しかも神様を絡めてわちゃわちゃしたものを描くのは難しいと思います。
知り合いの話をちょっと聞いただけで、人のために楽しい話を作る気力すらなくなってしまいます。
とは言え、漫画は人間が読むものですから、人間のために描かなくては意味がありません。

ただひしひしと感じるのは、私が人々に対して思っていることは、神様も感じておられることなのではないか、ということです。
そうやって神様のお気持ちを代弁する、代弁して人に対して説いていく、そうすることで神様のお役目を果たせるのかもしれません。

私はここ数年、世の中が暗く沈むからこそ明るい作品を作ろうと心がけて来ました。
けれど、変に明るい作風はこれからの時代、諸刃の剣というか、慰みは逆に価値がなくなるような気がします。
だとしたら、わりとエグい内容の方が良いのかもしれませんし、現時点で血なま臭い雰囲気の作品になるかもしれません。

そういうのは描いたことがないわけではないのですが、描いてる私がつらいというか…
そんなこと言ってられないのでしょうね。
これから準備したいと思います。

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