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招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

僕が僕であるために

楽太郎です。

6月11日には満月、21日の夏至を控え、いよいよ神代の気場が整いつつあるのを実感します。
同時に人々の労働意欲が形骸化し、動機となるエネルギーの部分が空洞化して希薄になってきたように見えます。
そして気場の完成を阻止しようと、これまで以上に霊的な妨害が激しくなっています。

神代の分岐点から「邪気」は認識しづらくなっていたのですが、そのネガティブな波動は「憑依」という形で襲ってきます。
邪気は肌感覚に近い部分で影響を感じていたのですが、憑依はより内面的な影響をもたらしたりします。
突然悲しくなったり、何の根拠もなくイライラしたり、自分の通常の波長をしっかり認識していなければ、この影響を見極めることができません。

私が憑依の影響を最も強く受けるのは、睡眠中です。
人間はスピリチュアル的に言えば、睡眠中に「魂の里帰り」をすると言われています。
魂が高次元に一旦戻り、意識の調整を行っている間は肉体がガラ空きになることを意味しますが、そうである以上に意識が働いていなければ霊的な防御は弱まるでしょう。
つまり、魂との繋がりが最も薄くなった睡眠中を見計らって、悪鬼悪霊の類が身体を乗っとろうとして憑依しに来るのです。

だいぶ前からブログにも書いていたのですが、睡眠中に人間の「集合意識」に潜り込む夢を頻繁に見ていました。
その夢は、行ったことのない街や店舗、廃墟などをひたすら巡るという夢で、棚の商品の種類も鮮明に思い出せるほど具体的です。
そこには全く象徴性も過去の記憶との関連もなく、ひたすら別の世界の街並みを旅するだけの内容です。

この夢を見た次の日には、決まって身体が動かないほど痛く、全身の筋肉が硬直しています。
私はこれをずっと自律神経失調症とか、副腎疲労とか思って医学的な対処をしていたのですが、最近になってこれは霊障だと気づきました。

私が就寝中に憑依を受けている間、その憑依体とは霊的に繋がるために記憶やビジョンを共有していたのだと思います。
つまり、私に対して憑依してきた霊体とは人間の集合意識、つまり「人世」そのものだと言っていいと思うのですが、その奥にいるのは人世を作ってきた幽界の存在、人々の集合意識を支配してきた闇の存在です。

私がこうして寝込みを襲われるのも、新しい時代の創造を妨げるためであり、神代の実現を阻むためです。
現に異常な霊障を抱えるせいで、仕事はおろか日常生活すら支障をきたす状態にありました。
ただし、この憑依にも一つメリットはあって、毎日コツコツ憑依を取り除くたびに少しずつ霊力と霊的直感が向上するのです。

このブログを始めの方から読んでいただくとわかるのですが、最初の頃はスピリチュアリズムを聞き齧ったレベルで何となく書いていたのですが、どんどん具体性が上がり内容も実感を持つようになりました。
それは私が神代に上がるために自己浄化と探究を続けてきただけでなく、憑依と霊障を取り払いながら霊的覚醒を積み上げてきた軌跡とも言えるのです。

この半年間は特に、現実的には悩みの原因となるようなしがらみを積極的に手放し、むしろどんどん悩みや不安から解放されていくはずが、霊障による不調は逆に増えていきました。
憑依は魂のレベルでプレッシャーとなり、また神代に上がれないかもしれない不安や焦燥感も相まって、自分の意識の及ばないところに常に軸足を置いている感覚がありました。
そのため、何となく日常に空白感があるというか、現実に気持ちがない状態がずっと続いていたように思います。

この私の感覚や思想は、おそらく他のスピリチュアリストとは相容れない部分も多いと思います。
私自身、スピリチュアル業界や界隈の話題には全く関心がなく、あまり積極的に調べたいとも思いません。
スピリチュアリズムとは「実践」であり、直感を信じて生きる道そのものだと考えているからです。
だから、業界的な常識よりも知的好奇心とか、理論的な価値に重きを置いています。

ゆえに「自分はなんか違う」という感覚は常にありますし、「間違っている」と思われることも多分にあるのだろうとは感じています。
しかし、スピリチュアリズムとは「内的探究」そのものであり、自分の主観で全ての事柄が説明でき、その実践でより良く生きられるならばそれで良いと思います。
不安になることもままあるのですが、だからと言って納得がいかない概念や説明を腹に据えるのは難しく、だからこそ腹落ちすることが大切だと思っています。

あらゆるスピリチュアル的な議論において、批判の目を向けられるならば私も批判の応酬をしたくなる気持ちもないわけではないです。
ただ極論を言ってしまえば、人間風情がどう目覚めようと高次元の存在からはどう思われているかを完全に把握する術はありません。
つまり、私たちが何が正しい、間違っていると議論したところで、神様からすれば「全部違う」と思われている可能性もゼロではないのです。

だから、スピリチュアリズムにおいて客観的な真実性や証明というのはほぼ意味をなさないのではないか、と私は思います。
客観的に全てが法則的に説明可能ならば、それは「科学」です。科学は唯物史観であり、唯物主義はスピリチュアリズムの対極をなす存在です。
ゆえに、スピリチュアリズムの定義から考えれば、あえて主観的で独断専行でも問題がないのです。

私たちは、自分が勝たなければ正しいことにならない、と錯覚しがちです。

「僕が僕であるために」という尾崎豊の曲があります。
その中に「僕が僕であるために、勝ち続けなきゃならない」と歌詞にあります。
昔はこの曲を聴いて、世間の同調圧力に抗わなくては自分が飲み込まれ、自分らしく生きるためには力をつけなくてはならないと思い込んでいました。

ただ今考えれば、同調圧力と戦っている時点で圧力勢力と同じ価値観を共有しているわけで、つまり同じ穴のムジナだから争う必要があるのです。
「問題は同じレベルでは解決しない」とはアインシュタインの言葉ですが、問題意識のレベルを一段高くしてみるとあっさり解決の糸口が見えてしまう、というのはよくある話です。

私が思う「僕が僕であるために」一番大切なことは、「争わない」ということだと思います。
つまり、戦わなくては自分でいられないような状態から抜け、戦わなくても自分でいられる状態を作り出すことです。
戦っても戦わなくても、勝っても負けても自分でいられる方法を探すのがベストなのではないか、と私は思います。
そして、勝たなければ手に入らなかったものも、戦わなくても手に入る方法を探せばいいのです。

「戦わずして勝つ」とは孫子の兵法ですが、戦えば確実に何らかの損害は被るので、できる限り戦わないに越したことはありません。
それでも守るべきものや得る必要のあるものはあります。
それを近現代の人々は「無抵抗主義こそ平和主義」だと勘違いし、戦わない美学を祭り上げたせいで大事なものがどんどん奪われていきました。
ただ、戦うとは必ずしも相手を攻撃し傷つけるということではありません。

戦うとは、自分を貫くことであり自分を守るということです。
相手に対して正義を強制することではなく、正しさというロジックで論破することではなく、自分の信念を曲げないということです。

実は正しいか正しくないかは、時間と共に証明されることの方が多いのです。
20世紀初頭にラジウム水が身体に良いと販売されたり、他にもチクロという発癌性甘味料も建築資材のアスベストも、後の時代になるまでは誰も疑いなく使用していました。
それが「間違っている」と人々に啓蒙するには、時の巨大権力と全面対決しなければならなかったのです。

しかし今の巨悪が蔓延る時代、一つ一つのことに目鯨を立てて争っていたのでは埒が飽きません。
だからこそ、戦うよりも逃げる、戦わないという選択を取る方が自分を守れます。
そして自分だけは正しい方法を取り、自分以外の人がどれだけ間違っていたかは時間に証明させれば良いのです。

もし自分のやり方が本当に正しければ、最終的に自分が生き残るだけです。
その姿を見て、人々は何が正しかったのかを知ることができます。
それは正しさや運の良さ以上に、優秀さや先見の明を発揮することで、勝利で得られたものに近いものを最終的に手にすることができるはずです。

正義には強さではなく、優秀さを用いて事実を持って証明するべきです。
「良いもの」はどんどん広まっていき、やがて間違いや欠点を補って世の中を修正していきます。
それが本当にクレバーなら人々はそのやり方に憧れ、誰も傷つくことなく問題は解決します。

代替」こそが問題解決の唯一の方法であって、問題を根本的に無くそうとする発想は究極的にジェノサイドに行きつきます。
ナチスドイツのホロコースト、現代イスラエルのガザ侵攻、その根元に共存の意志はなく有か無かの二元論しかありません。
有か無かとは「勝つか負けるか」であり、そのレベルで考えているうちは平和など実現しません。

今の世界に必要なのは絶対正義ではなく世を良くする「良いアイデア」なのに、そこに思い至らないから争いが絶えないのです。

だから私は、人と論争することに価値があるとはあまり思いません。
人の意見にインスパイアされたことを自分で考えて勝手にそうすれば良いだけで、他人を凹ませなくてはならない道理は一つもありません。
ゆえに私は何を言おうと自由なはずですし、自由がゆえに攻撃はされるでしょうが、それに抗わないことが私が私である唯一の方法です。

ただ、間違っていると自分が気づくのも大切ですし、他人の意見を聞くべきではなく、世の中に何もしないというのも違います。
自分の目的や信念のためには、やむを得なければ論争や理論武装も手段として取るべきですし、戦いから逃げることが正解なのではないことは先ほど書いた通りです。
私たちはとりあえず自分を守るべきであり、自分を守るために力をつけないといけません。決して誰かを打ち倒すためではなく、逃げ道を作るためでもありません。

憑依と霊障の話から、だいぶテーマが大きくなってしまいました。
この霊的妨害も、これまでの物質文明を維持してきた古いエネルギーが新しい時代のエネルギーの前では壊れるしかなく、ゆえにこちらと拮抗するのも当然なのです。
私は「人世をぶっ壊してやろう」と思っているわけではないですが、この賞味期限の切れた世界が役割を終えない限りは新しい世界は来ないので、私からすれば致し方ないという印象です。

だから神様と共にあることを決めた人間としては、神様がそう願われるのだからと割り切って攻撃を受け切るしかないと思っています。
しかし、その対価として尋常ならざる霊的抵抗力を身につけつつあるため、悪いことばかりではないような気がします。
私が神様と一緒に作りたいのは戦いも争いも必要のない世界であり、その世界こそ「才能」が正義に変わって正しさを証明する時代です。

それこそが神代、弥栄の世であると思います。

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人の「神性」について

楽太郎です。

追加で販売開始した備蓄米が入手困難だそうです。
その件について家族とも話し合うのですが、私は米が今後食べられなくなる可能性が高いため、節米と代替食品への切り替えを家族に勧めています。
しかし、この危機感はなかなか説得しても理解してもらえず、何となく米は通常の価格に戻っていくだろう、という楽観的な考えを改めてもらうことができません。

両親は「お金さえあれば、米は食べ続けられる」と言います。

しかし現在の米不足の状況を鑑みても、買えるところがなければお金をいくら持っていても買うことができません。
実はそれが問題で、東日本大震災の時にはカップ麺を買うために雪の中を2時間も列に並びました。
買うためには売る側がいなければならないため、ものを売る側に売れるものがあるような状況でなければ、そもそも買うことはできません。

仮に米がこれ以上高騰して本当のお金持ちだけが米を買える状況であれば、一般市民はお金持ちが出す金額より高いお金を出さなくては米を買えなくなります。
お金持ちがようやく懐に入れられるような希少品を、一般人がどうやって手に入れるつもりなのでしょうか。

この構図をなぜか理解できないようで、どう説明しても「もしも」の話が通じず頭を悩ませています。
私が家族を引っ張っていかなくてはならないのは理解しているため、生命に関わることである以上、食糧難に自分も家族も巻き込まれないようにするのに骨が折れます。

「米がないなら小麦を食べればいいじゃない」とシリアルやパン食、パスタ類を考えている人がいますが、トランプ関税が発動すれば小麦が今の価格水準である保証はどこにもありません。
アメリカという国は日本人がどうなろうと知ったことではないので、遺伝子組み換えの小麦ですら平然と輸出しますし、その価格を操作して自国に都合の良い取引をし、日本人にどんな影響があるかなど考えてはくれないでしょう。

私たち日本人は、この国で生きていくにはどうしたらいいかを本気で考え直さなくてはならない時に来ています。
しかし、この危機感を抱いて動く人は今のところあまりいません。
むしろ、不安はあるけど何となく良くなっていくような気がするとか、そこまで変わらずにこの日常感がダラダラ続くと思っているのではないでしょうか。

この「何となく今の時代が続いていく感覚」は、私が自分を浄化するプロセスで体感した「邪気」の一種でした。
この感覚に包まれるとスピリチュアルなことはどうでも良くなり、物質中心の経済は何の変化もなく続き、人間も時代も変わることなく同じ日常の中にあり続けるのではないか、という錯覚に陥ります。

この感覚は魔法にかかったように現実認識が麻痺した状態となり、この国を取り巻く状況に良い兆候が何一つないのにも関わらず、薄っすら世の中が良くなっていくような気さえしてきます。
そして昔のようにショッピングモールは賑わい出し、物価上昇も収まってラーメンも普通に食べられる時代に戻る、そんな幻想を抱き始めます。

それが「錯覚」だとわかるのは、きちんとニュースを分析し、目で見える現実の社会を具に見るからこそ、「そんなことはあり得ない」と理解するのです。

この邪気は禍々しさや攻撃性がなく、むしろ生温かい優しさに包まれているからこそ、取り込まれた時に何となく安心感を覚えます。
その安堵に引き寄せられることによって、現実の問題を直視する動機を失い、疑問を抱くことや思考そのものを停止させてしまいます。

よく考えれば、この種の邪気は非常に巧妙だと思います。

邪気は本質的に人を不幸に引き摺り込むのが目的であり、結果的に陥れられるのなら痛みや苦しみを感じさせる必要がないのです。
そして、邪気の真の役割は人間の「覚醒を阻むこと」であり、人間がきちんと邪気を分別し、一直線に覚醒するだけなら邪気は存在する意味がなくなります。
「悟り」の対極にあるのが邪気であり、つまり地球上の全人類がお釈迦様のようなら世界に邪気は存在し得ないからこそ、その妨害が唯一の存在意義なのです。

私は最近、特に「憑依」について考える時、これまでの物質中心の社会、お金というシステムに支配された時代を牛耳ってきたのは「神に仇なす者たち」だと確信します。
それは悪魔とか単純なものではなく、神を退け幽界の影響力を隅々まで巡らせるような、巨大な悪意を持った存在です。

その悪意は、戦後の日本に蔓延りこの四半世紀で特に肥大化したように思います。
少なくとも20年前の日本人は、もっと素直に「才能」を評価し、他者との違いも寛容に受け止める自由な雰囲気がありました。
しかし、今の日本人は他人との違いが許せず、自分のルールに合わない者に容赦なく批判を浴びせるようになりました。
グローバリズムとか、多様性の時代とか言いますが、時代の雰囲気とは全く逆です。

あらゆるビジネスが「人を楽しませること」を基準としなくなり、いかに低コストで最大の利潤を産むかを重視し、結果が伴わないものは悉く価値がないと切り捨てます。
そうして人々に必要な物資もサービスも縮小していき、人を楽しませるという目的は形骸化していきました。
「人が楽しむ=評価=数字」であり、数字にならなければ人にとって価値はなく、その意味で奉仕精神は利益に反することになり、ビジネスの精神的側面は徐々に削られて行きました。
むしろ「おもてなし精神」は、企業による過剰なサービスの強制として横行しています。

この精神文化の衰退こそ、日本が経済において推進力を失った根本原因であり、この病理に至った理由こそ「拝金主義」という価値観にあったのではないでしょうか。
日本人は高度経済成長期以前からお金が好きな民族であったとは言え、わりと「日本人らしさ」の中で、豊かな発想を育てる風土がありました。
しかしこの四半世紀、その空気が薄れていったと感じるのは私だけでしょうか。

私が同世代の人々を見回して感じるのは、若い頃はもっと自由闊達で純粋な目で世の中を見て、違和感を情熱に変える力を持っていた印象が、今は消え失せてしまったように見えることです。
私も彼らも時代の軋轢の中で、真面目で優秀な人ほど潰され、自由にものを言う人ほど口を塞がれました。
高潔な人ほど権力に取り込まれ追従せざるを得なくなり、信念を貫く人ほど病んでいきました。

彼らが今どうしているかを見回すと、かつての面影を残した人はほとんどいません。
その姿を見ると、人間の良い部分ほど潰されていったようにも感じるのです。
彼らは才能豊かな人たちばかりでしたが、企業や社会のあり方では下手な利用のされ方に巻き込まれてしまったように思えてなりません。

「才能」とはおそらく人間に宿る神に最も近い性質で、その心こそ「神性」そのものです。
才能を発揮することや、愛に目覚めたり人生の悟りを得ることは、自らの神性による力です。

もしこの世界が神性を封じ込めることで成立していたとしたら、邪気が人々の目覚めを阻害する理由になり得ます。
唯物的な経済システムの中では、人間の心よりもロジックが通用した方が大衆をコントロールしやすいからです。

この世界を牛耳る存在が「神に仇なす者」であるならば、人々の覚醒の芽を摘み取り無知蒙昧な状態にしておくことは、自分たちの支配を行う上で最も理想的なはずです。
だからこそ元々神性の強い人々、素直で心ある優秀な人たちほど、これまでの世界では踏み躙られる存在であり続けたのではないでしょうか。

私もその一人と言うには烏滸がましいのですが、これまで息をするように人を陥れるタイプの輩とは戦ってきました。
だからこそ彼らの思考パターンはだいたい読めますし、読めるからこそ先んじて手を打つ方法も熟知しています。
ここまでタフになるには相当な生傷を受けましたが、こうでもしなければ自分を守って来れなかったでしょう。

今でも、神性とかけ離れた性質の人ほど階層構造をのし上がる社会であるのは変わりません。
しかし、その時代を終わらせるために私は神様を信じて行動しています。
そして時代は新しく切り替わりつつあり、これからは神性を大事にする人々の世界になっていくだろうと感じています。

現在の拝金主義的な経済システムは、目に見えて限界を迎えています。
その頂点にいるヒエラルキーの人々は、「金と権力」に特化してきた人々であるため、精神性やモラルに欠ける傾向にあります。
その所業は金と権力があったから見過ごされてきたようなもので、権威が崩れるような出来事があれば全てが明るみになるでしょう。

それを見て、人々は初めて気づくのだと思います。
自分たちが美しく飾り立てられた虚像を理想にしてきたことに。
そして、自分たちが人間本来の性質を蔑ろにして、神という存在に唾を吐いてきたことを。

「これからそれを思い知ることになる」と言えば、脅しのように聞こえてしまうでしょうか。
ただ、それはこれまで自分の心を守るためにずっと耐えてきた人々からすると、決して怖い話ではないと思います。
むしろ福音であり、これからはやっと自分らしく素直に生きられる時代になるというなら、救いになるはずです。

私は自分の過去だけでなく、自分らしく生きようとして踏み躙られ、心を病み生きることすら諦めようとした人々を思えば、どうしても時代を変えたくなるのです。
私なんかよりも才能も人格も優れた人はゴマンといましたが、世の中に抗えなかった人々もたくさん見てきました。
新しい時代はそういった人が純粋に認められ、誰もが自由に表現をできる世界にしたいのです。

私一人でもやる、という気持ちですが私の後ろには神様がいてくださると信じています。
未来を生きる子供たちには、その自由な空気の中でのびのびと成長して欲しい、そう願ってやみません。

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七難八苦を与えたまえ

楽太郎です。

「我に七難八苦を与えたまえ」という言葉を残したのは、戦国時代の山陰地方の武将、山中鹿之介(幸盛)です。

明治時代の教科書では、楠木正成と並び武士道の象徴とされた人物で、主君の尼子氏再興のために下野しても三度立ち上がり、毛利軍との熾烈な戦いに挑んで散っていきました。
この言葉は、仏教の経典「仁王経」に「七難即滅七福即生」とあり「困難とは幸福である」という意に基づきます。
山中鹿之介は、かねてより「自分が出会ったことのない困難によって自分を試したい」と語っていたそうです。

同じ言葉に、江戸時代の陽学者、熊沢蕃山が残した「憂き事の尚この上に積もれかし限りある身の力試さん」という和歌があります。
熊沢蕃山は備前岡山藩の改革を行いましたが、守旧派の反対に遭い退藩した後、幕政に対する批判を行いましたが、下総に幽閉されてしまいました。
この歌は、「困難がこれよりもっと降り掛かればいい、自分の限界を試してやる」という意味です。

困難は大抵の人が可能なら避けたいと思うものですし、仮に目の前に立ち現れても見て見ぬふりをして逃げ出す人もいます。
ただ困難とはきちんと向き合えば自分が成長するチャンスであり、克服する術を身につけるからこそ困難なことも困難ではなくなります。

最近、この期に及んで古い時代のエネルギーが行方を阻み、そういった圧力のような念を掻き分けながら進んでいる感覚がします。
新しい時代のエネルギーと拮抗している状態は、少なくとも11日の満月までは極大化するはずです。
この妨害は、以前のように人世に引き戻すエネルギーではなく、単に進行を阻むだけですが強力な逆風になっています。
今は相剋状態の最終段階であり、そのゴールはおそらく6月21日夏至、いよいよ神代の気場が完成する時を迎えます。

ここ数週間、私はずっと忘れていたような記憶が蘇っては、そこから沸き起こる感情と戦っていました。
これはこの時期特有の妨害のようにも感じられますが、ある見方をすれば「過去の自分との統合」であり、未練や罪悪感、後悔などの感情を乗り越えて新しい自分を確立するための試練とも考えられます。
この試練を乗り越えることで、過去の自分に感情的な区切りをつけ、新しい時代に合った新しい自分になれるのだと思います。

私の半生を振り返ると、人がしなくていいような苦労ばかりをあえてしに行ったようにすら思えます。
10代の頃は本の虫で、イーゼルより重いものを持ったことがないような内気な美術学生でした。
それが20代になって音楽を志し、同時にショーイベントにも携わり、人と殴り合うことも厭わないような体育会系に変貌し、全く逆方向の人生を歩み始めました。
なぜそこまで自分を壊して違う自分を探し続けたのか、今でも理由はわかりません。

この経験が自分に必要だったのかを今でも考えるのですが、もし自分がずっと10代の頃から絵を描き続けていたら、それはそれで今の自分にはなっていなかったでしょう。
あの頃のように草花に心通わすような繊細な心を持ち続けていたら、ある意味ここまでタフにはなっていないでしょうし、社会的な成功を手に入れていたら守りに入るような人間になっていたかもしれません。

そう考える時、大事なのは今の自分を肯定できるかどうかであり、仮に今の自分に認める要素がないくらい落ちぶれたと思っていたら、過去を思い出して自分の人生を後悔するだけだったはずです。
今でも落ちぶれてないわけではないのですが、こんな自分でも自分の知識や経験、実力やセンスに自信があるからこそ、これだけ冷静でいられるのかもしれません。
それは私が常に向こう見ずに行動してきたからですが、その経験が今頃になって自分の身になっていたことに気づくのです。

人は努力を嫌いますし、困難とは出会わないに越したことはないと考えます。

それは人間としての本質に近いと思うのですが、ただ人間は問題に直面し、それを乗り越えることで成長していく存在です。
人間の人格はそうやって磨かれていくものであり、成長できる課題から逃げ回っていたら、いつまで経っても考え方は幼いままです。
どんなに高齢でも「我良し」の人はいますし、歳を取っているから大人なわけではありません。

近年は、努力や勉強をせず成功を納めるほどクールだという風潮が広がったため、困難に前向きな考え方はものすごく嫌われます。
それゆえか、人生をとっくに折り返したはずの年齢の人でも、若気の至りが抜けてないような浮ついた感覚を変えない人もいます。
それは個性で構わないとは思いますが、人間として成長が止まるということは、自分の身の丈より大きな問題とぶち当たる機会がないということであり、挑戦も気づきも進歩も存在しないことになります。

霊界から見れば、この世は「刑務所」だと言う人がいます。

確かに、肉体を持ち生まれつき条件づけられた環境の中で、何一つ思い通りにいかない人生は何かの罰のようにも感じます。
私たちは肉体という「檻」の中にあり、自由はその檻の中にしかないわけです。
人間は魂の修行をするために生まれてくると言われますが、その艱難辛苦も刑期だと思えば納得が行きます。

しかし、私たち人間は神々から「分身霊(わけみたま)」を受け取った神の一柱です。
魂としては神に近い完全な形でありながら人間として生まれ落ちたことで、本来の魂の状態に「曇り」を受けてしまいます。
男に生まれたら魂の女性的な部分は眠り、女に生まれたら男性性は眠り、その人生で求めるべきものと対極の性質で生まれるとしたら、その魂の制約は心のシコリとして残ります。

そういった条件づけと現実社会の軋轢の中で、生まれる前には完全な輝きを放っていた魂も、どんどん曇っていきます。
あるいは、過去世を何度か経験しても取れないような曇りがあり、その汚れを拭い去るために何度も転生してきたのかもしれません。

そういった「魂の曇り」は、やはり自分自身の内面を磨くことで浄化され、本来の輝きを取り戻していくものなのではないでしょうか。
その曇りは、綺麗な布で拭く程度では磨かれず、研磨剤をかけてヤスリでゴシゴシ削らなければ磨かれないからこそ、人生には困難が付きまとうのかもしれません。
ゆえに、人生が思い通りに行かないのは魂を磨くチャンスであり、きちんと魂を磨こうとすれば人間として卓越していくことができます。
それが過去世からの「カルマ」の解消であり、そのために輪廻転生が起こっていると考えて差し支えないでしょう。

しかし、こういった宗教観は現代ではほぼ通用しませんし、よしんば何の苦労もなく死ぬまで悠々自適に暮らせるのが理想だと人々は思います。
それができるのは「力」と「お金」であり、それを手に入れてからが人生とすら考えています。
それならば、どんなに汚い手を使ってもお金を手に入れられたら良いでしょうし、どんな手段を使っても強力なコネを作ろうとなります。

そう言う人は、実際に世の中にたくさんいます。
ただ、そういう人が人格者に見えるかというと、そうではないでしょう。
やはり、人生の課題と向き合ってきた人の感覚や考え方は俯瞰的ですし、実感も伴っています。
人はそういう人に信頼を感じるもので、わりと肩書きで靡きがちな人でもいずれ気がつくのです。

こういった人生の課題に前向きに挑んできた人は、未来の不確実性に対しても前向きです。
だからこそ新しいことに挑戦して学び、さらに実績を積み上げていけるのだと思います。
これこそが人生の王道であり、この生き方なくして成長はありえません。

「我に七難八苦を与えたまえ」という言葉は、自分の実力を試すチャンスが得られることで、自分が成長する喜びを手にすることができる、という意味なのではないでしょうか。
ゆえに「困難を迎える」ことそのものが恵みであり、その恵みが「幸福」への道となるのです。
神から与えられし試練は、神様から捨て置かれるような人にはやって来ないでしょうし、成長と救済の手が差し伸べられるからこそ課題が与えられるとも考えられます。

神仏に祈る際にはただ願いごとを言えばいいものではなく、何かの課題に対する意志を表明し実際にそれに取り組むからこそ、それでは神様が願いを聞いてやろう、となるのです。
冒頭の山中鹿之介は、滅亡した尼子氏を再興したいという不屈の意志を持ち、その願いを成就させるためならどんな困難でも乗り越えてみせる、という誓いを神様に掛けていたのだと思います。

それほど強い願いだからこそ何度失敗してもお家再興のために立ち上がったのであり、現代人である私たちでも尚、その勇姿を知り憧れの眼差しを向けるのです。
それは実際に願いが叶ったかどうかではなく、生き様として人々に示唆を与えるからこそ、私たちの胸にこの言葉が響いて来ます。

私も人にはないような経験をたくさんしましたし、言ってみれば苦労人には変わりないのですが、だからこそ今さら大きな困難が来てもそれほど動じないかもしれません。
こう言えるのも自信の一つであり、経験が財産になっていると思います。

見た目としては誇れなくても、その真の価値は目に見えないところに現れる、そういうところで「困難」に対する不屈の精神は、私にとって一番の才能なのかもしれません。

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人は神様と共に

楽太郎です。

昨日は一日中雨が降っていたせいで、近所の川が増水していました。
いつもはキラキラして流れている透明な川面は、茶色く淀んで強い流れとなっていました。
この河川はきちんと護岸工事がされているので、これまでも氾濫することはありませんでした。
しかし、昭和以前の時代なら水害に見舞われたことは度々あったかもしれません。

いつもは澄んだ川が増水するとまるで別の様相となってしまう姿は、かつて河川が「龍」に例えられたのもわかる気がします。
普段は生活用水に使い遊び場にもなる川辺が、ある時には住民に牙を剥くとしたら、恐怖そのものです。
ゆえに、自然の恵みとして川の神に感謝する一方、水害にならないために神を鎮め祀るのも納得できます。

各地方に自治体や藩が置かれ、かつては豪族が地方を治めていましたが、それ以前では村や集落の及ぶ範囲で何キロ、数十キロに及ぶ河川の治水工事をすることは困難だったはずです。
川辺は生活や農耕に適した環境でありながら、雨などが降ると氾濫し、村を飲み込んだことも度々あったでしょう。

素戔嗚命の八岐大蛇退治は治水事業に準える説もありますが、少数で護岸工事を行うには人手が足りず、大規模に事業を行うなら資金や資材も必要になったはずです。
村や集落のレベルでは実現は難しく、地方を取りまとめる権力者に陳情し、協力を仰ぐことで治水事業は完了し後世に残る功績となったのでしょう。

それでも、場所によっては治水工事が進まず、近代になるまで手付かずの忌み地も確かに存在しました。
そういう場所ではやはり水神をお祀りして、荒魂を鎮めるような祭祀が行われたはずです。
ただ近代になって土木機械が普及すると、人間の力だけでどこでも計画通りに工事をすることが可能になったので、改めて水神をお祀りし鎮魂する必要もなくなったのだと思います。

人間は自然環境を自分たちで意のままに操れるようになったからこそ、天候や防災などを神仏に願い頼ることをしなくなりました。
同時に自然の恵みに関しても、水道などのインフラが整備されたことで「あるのが当たり前」になり、特に生活の利潤に感謝することもなくなりました。

人間は、自分たちが豊かで安全ならば神仏はなくても良い、と考えがちなのだと思います。

私たちが神社仏閣に行く時、願うのは合格祈願や縁結び、金運招福などで、ほぼ自分たちのことだけです。
人として幸福であるためには、社会や人からお金や権力という恵みを受け取ることになるため、神仏に対して願うのは対人関係になりがちです。
それは善し悪しではないのでしょうが、人間の現金さを神様たちはどうご覧になられているのでしょうか。

私の感じる神様という存在は、目に見えないですが実に理性的で愛情深く、とても献身的です。
本当に人間のことを考えて行動して下さる一方、きちんとお祀りして欲しいと願っておられる気がしてなりません。
神様のお心はなかなか人間には察するのは難しいのですが、神様はやはり神社仏閣で丁重に祭祀されることを望んでおられるように思います。

だから、神社の権利を外国人に売却したり、無人だからと社殿を取り壊してソーラーパネルを建てたり、法人の運営のために営利事業に躍起になったり、そういった神仏を軽視する事態を危惧されているように思えてなりません。
確かに現代は神社の運営も厳しく、人手不足も相まって維持管理が難しいのは事実ですが、現実面だけでなく神様のことを第一に慮る気持ちが大切なのではないでしょうか。

現代の私たちにとって古びた小さな社に見えたとしても、ご先祖様たちが願いをかけて大切に守ってきた遺産であり、神様との約束があったからこそ鎮座されている聖域です。
何も知らなければ古びた無用な土地にしか見えずとも、何百年という時を越えてご先祖様を見守ってきた神様がおられる場所を、私たちが当然のように軽視して良いとは思えません。

今こそ、神々と人間とのあるべき関係を見直して見るべき時ではないでしょうか。
奇しくも、地球は次元上昇をして星の巡りは「風の時代」に突入し、物質文明は終わり精神文化の時代に移り変わっていきます。
人間が本来あるべき心持ちに戻る時、神々は私たちのすぐ身近な存在になることも必然であるような気がします。

私は近所の川面を眺める時、瀬織津姫様のことをよく考えます。
将来、清らかな川の近くに瀬織津姫様の神社を建立することが私の夢です。
それだけでなく、街によくある川と呼べないようなドブ川を再び綺麗な清流に戻せないかと考えています。

それは果てしなく困難な道のりで、正直どうやっていいのかわからないレベルです。
しかし、何十年かかろうとそれを成し遂げた時、瀬織津姫様はとても喜んで下さる気がしてなりません。

「瀬織津姫命」という御神格は、古代において河川が「饗土(くなど)」と呼ばれる境界であり、塞の神としての意味合いから転じて魔を祓い罪穢れを清める存在とされてきました。
しかし河川は山の合間を縫って流れるものであり、山から豊穣の神が田畑に降りてきて収穫を終えると山へ帰り、翌春に再来すると古代の人々は考えました。
その神をお迎えする神事を「サオリ」、山の神を迎える女性たちを「早乙女」と呼びました。

全国にお祀りされる「大山祇神」という山神は、女性であると考えられている土地が多いそうです。
「瀬織津」という言葉は、語源的に「瀬に降る」だと思います。
何が川に降りるかと言えば、「サ=稲」の神ではないでしょうか。

山から降りてくる豊穣の女神は、山から流れる川に沿って田畑にやって来ます。ゆえに瀬織津姫命は「沙織津姫」であり、「サ(稲霊)の神」とも考えられます。
瀬織津姫様は私たちが思っているよりも異なる役割を持ち、想像だにしていない働きをされてきた神様なのかもしれません。

神道は日本政府の神社本庁がほぼ取り仕切っていますが、国家神道と本来の自然発生的な神道は似て非なるものだと私は思います。
日本人は太陽信仰よりも山岳信仰や磐座信仰の方が歴史が古く、それゆえ自然神や「サ神」との関係はもっと根が深く広範囲に渡っていたのではないでしょうか。

そこでヤマト王権は「倭国」を統一するための宗教政策を各地に普及させていきました。
飛鳥時代、大和王朝は国家神道を制定するために、全国に広がる「サ神信仰」を封じる必要があったと考えられます。
それにより、天照大御神を女神とするならば瀬織津姫命は権威が大きく、サ神の男性格である猿田彦大神や大物主、大山祇神などの由緒を変える必要があったのではないでしょうか。

実際に、「瀬織津姫命」が祓戸神以外で主祭神とされる神社は、六甲山を除けば九州南部か東海以北に限られています。
神社にお祀りされている御神格は、わりと人間の都合で左右されていることが多く、古くは記紀編纂時の宗教改革や神仏分離政策の影響をもろに受けています。
そういう政治上のゴタゴタを見直すのも、神様と人間の関係を考える上で外すことはできないかもしれません。

私は、神々と人間との関係がより自然な形に戻るような活動をしていきたいと思います。
そのための試みは多少斬新に見えるかもしれませんが、それが神様からのお役目だと考えています。

人間は物質中心の時代が長く続いたせいで、神様の話をすると怪訝な顔をする人が多いのですが、その感性の方が歴史的にはイレギュラーなのです。
そういった誤解を解きながら、八百万の神々と共にあった日本人との新しい関係も模索していきたい、私はそう思っています。

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「日常」にサヨナラを

楽太郎です。

昔のキャリアが掘り起こされ、チャンスが到来してた件について、綺麗さっぱり清算しました。
今回の件で感じたのは、私が以前いた業界や使っていたサービスに何の思い入れも残っていないことです。
あれほどトップに登り詰めようと必死だったのに、今では別人のように感じます。

この心境の変化は喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか自分でもわかりません。
そして、当時使っていたサービスをアカウントごと消して二度と使わないことにしました。
そう決めたのは、この判断に後悔することはないだろうと思えたからです。

これまでの世界はもう続かないだろう、という感覚が確信に変わってきました。

私の地元も大型ショッピングセンターが潰れて、皆誰もがどこで買い物しているのか不思議になります。
少し離れたところにスーパーがあるだけで、街として機能しておらず、この不便さは田舎と大して変わりません。
10年前にはこういう地域になるとは想像していませんでしたし、残念ながらあまり長居できる土地ではないと常々感じます。

この形容しがたい不況感、息詰まる街の雰囲気、日本語ではない元気な声。
この状況をどうするつもりなのか誰もが答えを出せず、考えないようにしてスマホやTVの画面を見つめているように思えます。
とは言え政治に名乗りを上げる人物は何となくきな臭く、解決の道筋も見えないまま世の中が勝手に変わってくれることを願っている、そんな印象を受けます。

人は誰しも、「自分なんかには何もできない」と思います。

かく言う私もそうで、こんなブログを書いたり漫画を描いたくらいで何かした気になる方が烏滸がましいのです。
何一つ世を変えることはできなくても、これからの混沌の時代を生き抜いていけるために、自分をしっかり立て直してよしんば周りの人を励まし、自分の身の回りだけは健全な空間を作って生きて行こうと思います。

どうせ自分なんかとか皆そうだからとか、そう諦めて何も考えず何もしなければ、いずれ罪を犯しても言い訳をし、自分が同じ目に遭わされても何も言えないような環境に身を置くことになるでしょう。
そこまでして生きていたくないと思うならば、ますます生きてはいけないはずです。
周りがどうあれ自分が生きたいと願うなら、この世界に向き合わなくてはいけない時が来ました。

世はIT全盛の時代、これからは「風の時代」だからとSNSでうまく人間関係を構築し、バズってお金儲けできれば将来は何とかなる、と思っている人で溢れています。
生成AIがあれば自分に技術や知識がなくてもアイデア一つで成り上がれ、自分のセンスとタイミングさえ合えばチャンスは転がっている、と。
しかし、そんな考えは小学生から年配まで誰もが思いつき、誰もが実現できるレベルのことでどうやって成功するつもりなのでしょうか?

人々はビジネスを展開するにはSNSを利用しますが、そのサービスに広告費を出す企業はホワイトな組織ばかりではありません。
ユーザーもどこまで一般人かわからず、相手がBOTか外国の工作員、あるいは反社の可能性もあります。
SNSの運営会社は利益追求のためにディープフェイクや権利侵害やサイバー犯罪を取り締まるつもりはなく、大人でも安心して使えないようなアプリをどうして真っ当な活動に使えるのでしょうか。

そういったどこの馬の骨かわからないユーザーが、インプレ収益欲しさに運営サービスに登録し、何であれ話題になりさえすればお金が入る仕組みのどこに誠実さがあるのか疑問です。

私が活動する上でSNS、特にXを使わないのは、ビジネスをする上で「Xで私をフォローして下さい」と言うと「Xを何の疑問もなくビジネスに使う」と思われたくないのもあります。
現在の旧Twitterは正直言って「魔窟」としか言いようがありません。あの環境では純粋に交流するのも難しく、ユーザー登録を促すのもどうかと思います。
ビジネスにおいてブランディングは重要ですし、信用が大事だからこそ、安易にSNSを広めるリスクを考えざるを得ません。

今のデジタル全盛の時代を担うマグニフィセント7、Apple、Google、Microsoft、イーロン・マスク。
スマートフォンやタブレット、PCを支配する企業は、端末とプラットフォームを支配する限り、経済や市場の主導権はアメリカという国家に握られています。

アメリカはご存知の通り、国家破綻寸前の状態にあり、その巨体を維持するために全世界からお金を引っ張ってくるのに必死です。
現在のアメリカの株式と国債を何とか維持しているのは、マグニフィセント7が時価総額バブルを蒸しているからです。

アメリカが著作権侵害やディープフェイクなどの人権侵害、フェイクニュースを氾濫させる生成AIを全面推しする点について、デジタルデバイスがどれだけ悪用され治安や文化を混乱に陥れても自分たちの責任ではないと言い逃れでき、多少の社会的犠牲は国家存続と利益追求のためなら致し方ないと思っていても不思議ではありません。
アメリカが日本の不動産バブルを潰して経済発展を終わらせたように、アメリカからすれば日本は異民族の住む国外の属州に過ぎません。

私たち日本人がアメリカという国家の支配から自立しよう、とするのは想像以上に困難なことでしょう。
私たちの生活はもはや国際化し、海外からの輸入品や製品がなくては日常は成り立ちません。
アメリカや諸外国のサービスを優先的に使わないという選択もできますが、日本国内のサービスが劣化し、そのサービス網から一手も二手も抜きん出ている外資系企業のサービスは圧倒的すぎるのです。

日本の小売で手に入らない商品をほぼ全網羅するAmazonのサブスクに入会すれば、楽天市場では小売ごとにかかる送料が一括無料になり、また豊富なエンターテイメントを見放題にできます。
その便利さは類を見ませんが、実際にAmazonを使えば使うほど国内の実店舗のモノは売れなくなります。
郊外型大型ショッピングセンターのAEONが地方の商店街を壊滅させたように、巨大資本は産業の多様性に一石を投じる存在であり続けます。

もしこの先、これ以上経済や国際状況が悪化すれば、今こうして日常的に使っているサービスは今の感覚で使えるのか?という点が、私は気掛かりです。

私の地元のスーパーも、数店舗の運営企業が撤退を決めただけで地域住民は買い物すら困難になります。
近年、画像処理ソフトを展開するAdobeがAI実装を期にサブスクを高額化しましたが、その価格帯ではビジネスに支障が出るイラストレーターが続出し、業界が騒然としました。

どんなインフラであろうと、提供するのは企業であり運営は営利目的です。
どれほど綺麗な事業理念であっても、どれだけ地元の経済に貢献していても、儲からなくなれば潰れますし、企業が買収されたら終わりです。
なおのこと寡占企業であり、人々の依存度が高ければ高いほど手の平を返した時は危険なのではないか、と思ってしまいます。

私は最近、寂れていく地元の街を眺めながら、何だかんだ思い出のあるこの土地に愛着があったことに気づきました。
それでも何十年か見てきた中での変わり様と衰退感を思うと、何とかならなかったのかと感じざるを得ません。
その変化はどうにもならないことを頭で理解しながら、「日常」というものは当たり前に訪れるものではないことを痛感するのです。

この街が様変わりしたのも、少子化や長引く不況だけでなく東日本大震災があり、地方を離れた人々がたくさんいたからです。
建物は老朽化しインフラの維持が難しくなり、復旧するにもお金の巡りも健全とは言えませんでした。
そんな中でコロナの流行があり、観光地も商業も大打撃を受けたまま、元に戻ることはありません。

今あるサービスがこれからも永劫あるはずがないのは当然ですが、それは今を生きるからこそ繁栄が続くと錯覚します。
今当たり前にあるものは、「正しいから」今の世の中に溢れているわけではありません。
多少グレーでも、線引きされないラインで収益を上げているから市民権を得られるのです。

かつてCMをバンバン打っていた消費者金融や宝石ビジネスも人材派遣業も、問題はありながらも人々に受け入れられ、それでも黒い部分は黒かったから問題化しました。
後の時代だから「あれはダメだった」と言えるようなことは、時代の空気の中では誰しも口にはできないものです。

私たちが今の時代を変えたいと思い、実際に変えようとするなら今ある日常を自分で手放す勇気を持たなければなりません。
「動物愛護を徹底せよ」と言っておきながら、片手にシシケバブを持って活動することはできません、
そういうところをしっかりしていなければ、何をやっても片手落ちになってしまうでしょう。

私は、これからの活動をしていく上で、多少不利になるとはわかっていながら手段は選ばなければいけないと改めて思います。
人間としてどうあるべきかを問いながら、自分だけはと甘い行動を取ることはできません。
流れは変えられないにせよ、自分がエネルギーやお金を循環させる対象くらいは、きちっと弁えたいと思います。

これからの世を作っていくのは茨の道だと痛いほど感じるのですが、そうでもしなければ人々が黙って泣き寝入りするだけの国になってしまうでしょう。
正直なところ大人はどうにもならないと思います。ただ今の若者世代や子供たち、まだ見ぬ未来の子々孫々のためには何かを成し遂げなければならないと感じます。

日本に愛着があるからこそ、目の前で土地が踏み荒らされていくことが耐えられません。
私一人だけでもと、日々思いを募らせています。

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自由を捨てよ

楽太郎です。

最近、あれだけ世の騒々しさが春先からパタリと止み、天災も人災も目立った現象が目につかなくなりました。
何となく、不気味な平和というか嵐の前の静けさのように感じていたのですが、よく考えると春分を境に世界線の分岐が確定し、神々の選別もある程度完了したからだと思います。
つまり、これまでの出来事は神々が人間に気づきを与えるため、考えを改めさせるために起こしていた現象だからこそ、目覚めた人と目覚めなかった人を選り分ける必要がなくなり、それゆえ「気づき」を今さら促す必要がなくなったからではないでしょうか。

おそらく、その覚醒の度合いで今後起こることは違ってくるのでしょうが、エネルギー的には路線が確定したため後は具現化していくだけのフェーズに入ったのだと思います。
この期に及んで争いを好む人は争いだらけの日常を送ることになり、愛や優しさを配って生きることを選んだ人には温かい日常が待っているのだと思います。

世界にいる人々が、日本人全員が同時に経験するような大きな出来事が起こるとしても、人それぞれの心の持ち方一つで身に降りかかる現象や見え方は異なるはずです。
誰しもが恐れるようなことすら、神や魂の声を聞くからこそ意味を理解し、恐れを捨て前向きに生きていける人もいるでしょう。
そういう人たちに神々の加護はついて回り、祝福を得られた人々が次第に報われるようになるに違いありません。

これは決して「神々が選んだ」わけではなく、全ての人々に気づきの機会が平等にありながら、そのメッセージを無視して考え方や生き方を変えようとしなかった人々が、自ら道を選んだに過ぎません。
それは誰のせいにすることもできず、貧富の差や頭脳の良し悪しも関係なく、神の求めに応じた人々は手放しを決め、手放しを実践することを選んだだけです。

その宿命をどれほど変えることができるのか推し量ることはできませんが、人間には生まれ持って「魂」に備わった今生のテーマがあり、そのテーマに応じて学びがあります。
他人から見れば羨ましかったり悲惨に見えるようなカリキュラムは、その人が独自のテーマを持って生ていくだけで、比較できるものでもなく千差万別です。

ただ、人間には生まれ持った「魂のカリキュラム」が存在することに思い巡らず、やたらと自分と他者を比較し嫉妬したり優越感を味わったりします。
自分より不幸そうな人を見れば「ああならなくて良かった」と思い、どう努力しても得られないものを持つ人に対して狡さを感じて恨んだりもします。

しかし、これまで自分が知らずのうちにかけてしまった迷惑も、他人が無意識にしてきた自慢も、人それぞれが人生という大きな交差点ですれ違うタイミングで演じる役割に過ぎません。
自分の意志かどうかではなく、大きなシナリオの中で違いにロールプレイを行ってきたに過ぎず、その出会いが学びとなるように仕組まれているだけなのではないでしょうか。

人は「運命だ」と思う出会いや、腐った因縁を感じることはしばしばあります。
それは魂に予めブループリントとして描いているシナリオである以上に、そうではない端役としてすれ違うエキストラも、同様に学び気づき合う存在として運命づけられているように思えてなりません。

だから、自分の犯した失敗も他人の罪も許しがたくはあるのですが、誰もがお互い様の存在として迷惑と感謝を掛け合うことで学びを経験するのだとしたら、そこに善悪はないのかもしれません。
もしそれぞれの人が、大きな目に見えないシナリオの中に生きて自分の役割を果たすだけなのだとしたら、私たちにはどれほど「自由」が存在するのでしょうか。

私たちは欲望があればそれを実現し、長期的な計画を実現するために行動します。
目の前の一挙手一投足は自分の意志によるものだと信じ、それこそが自由であると感じます。
しかし、自らが「自由意志」だと思っているものは、どこからどこまでが自由なのでしょうか。

例えば、夏の暑い日には冷やし中華が食べたくなり、クリスマス前には恋人がいないと寂しくなります。
ある人は自分に異性が周りにいなければ生きられないと思い、ある人はお金がなければ不安でしょうがなく、ある人は自分に一人になる環境がなければ耐えられません。
その感覚は人間本来に備わっている欲望というより、社会生活をしていく上で備わった価値観です。

そう感じ考えるように仕向けられる意志もあり、誰かの考えに基づいて型に嵌められた行動は、どこまで「自由」なのでしょうか。
動機があって取る行動の、行動だけに自由があるのか、動機そのものに自由があるのか、その判別は簡単にはできません。

私たちが「自由」だと思ってすることは、実は意味づけや動機づけより大きな枠組みで、予め決められているとしたらどうでしょうか。
自分が「こうしたい」と思って取る行動が、見えない力で差し向けられ、そういう行動を好意的に取らされ、自分がそれを「自由意志」だと思い込まされているとしたら?

つまり、私たちが「自分の意思でやっている」と思うこと自体が錯覚であり、内実は魂のレベルで意味も目的もわかっていて、あえて間違った行動を取らされる、ということもあるのではないでしょうか。
自分が意識できる可視範囲の外側で、自分の魂とあらゆる霊魂が交渉し合い、そのコミュニケーションが偶然を装って現象化しているものを、私たちは「現実」だと呼んでいるのかもしれません。

魂が「学ぶ必要がある」と思うから目の前に困難が現れ、「学び終えた」と思うから離れていく事象があるとしたら、これは「引き寄せの法則」そのものです。
起こる事象は一つでも、人の見方が違えば見える現象が異なるように、それぞれの出会いや出来事はその人にとっての意味だけがあるのかもしれません。

以前、たまたま知り合った霊能者の方が、人に迷惑や感謝をかける出来事があると、その人を守護する存在や先祖霊が干渉して様々なことが起こる、と説明して下さいました。
私も人間は物質的側面よりエネルギー的な影響が強いと思っているので、目に見えない霊的存在の干渉はあると考えた方が腑に落ちます。

大まかな人生の目的は生まれる前に決まっていて、出会う人も関わる人もだいたい決まっているのかもしれません。
ただ不思議なのは、自分の運命はほぼ決定しているように見えて、本気で取捨選択をしながら命がけで行動しなければ道を切り拓けないということです。

人生は決まっているのだから、何となくダラダラしていればそうなるわけではないのが運命の面白いところで、結果だけを見て堕落し切っていれば違う結果となり、しかしその結果も大きなシナリオの一部だったりします。
手を抜くこともガムシャラにやることも、自分の意志次第に思わせておいて、それすら決まっているとしたら、どうやっても自分の意志は「自由」だと錯覚し続けるはずです。

だからこそ、いずれ舐めていたら痛い目を見ますし、上手くいく時は上手くいくし、積み上げたものが意外なところで見出されたりするのだと思います。
それは自分には預かりしれぬ次元のストーリーであり、それは人間に簡単にわかるものでないからこそ、とりあえず自分と向き合いながら生きていくしかありません。

私は神様もこの先のことは知っているけど、あえて知らないフリをして行動されているような気がしてなりません。
神様は時空を超越された存在なので、100年先も千年先もわからないとは思えません。
しかし、それが決まっているからと何もしなければ何も起こらず、それゆえ神様たちも現象を引き起こすまでには至らないはずです。
だから、あえて「わからないフリ」をしてご自身のお仕事に専念されるのだとしたら、納得がいく説明はできます。

神様の世界にも、神様の世界を司る神様がいて、その世界にも神様がおられる、というループが広がっているとしたら、私たちが感じる神様たちも大きなシナリオを知ることは難しいのかもしれません。
私たち人間が自分の意志で悩み迷い、学び悟りながら大きなシナリオには気づけないように、全ての存在が一つのまとまりの一部として動いているだけなのではないでしょうか。

そう考えると色々なことが小さく思えて、誰かを呪ったり憧れたり、嫉妬したり依存したりする関係も、少しは距離を取って考えることができます。
私たちが自分を自由だと思うからこそ、「不自由」な現実が許せなくなり、どうにか変えようと躍起になります。
しかし、その自由は錯覚であり、自分ではないものの自由によって自由と思い込まされているのならば、私たちはそもそも不自由な存在なのです。

その不自由さから自由になろうとするよりも、自由が不自由そのものであることに気づいた時点で、私たちは自由と不自由から自由になることができるのかもしれません。
変にこだわらず雲のように水のように流れに身を任せて生きれば、もう少し私たちは楽に生きられるのではないでしょうか。
かと言って、何もしなければ流れも生まれないのも事実で、気が向くことさえやっていけばとりあえず物事は進むように思えます。

本来なら、もっとシンプルに生きられたはずの人類は、楽か苦しいかという次元を超えた「喜び」としての生き方を後手に回す社会を作ってしまいました。
誰もが窮屈と思い、それでも「こういうものだ」と妥協しながら暮らす中で、その生き方が見直される時にあるように思えてなりません。

そして、その時代の終わりを経験することは、この地上に生きる全ての人にとって「学び」となり、それは救済や罰を超えた教訓を人々に見せることになるはずです。
それは恐ろしいとか変わることが嬉しいとか、その考えで逃げたり出迎えたりするものでもなく、大きなシナリオの中で私たちは「経験させられる」しかないように思います。

私たち日本人は経済的に豊かな社会を作り上げましたが、その代償に失ったものも多く、「平和」について抱いていた甘い考えは、今反省を持って我々の前に立ち現れています。
それをどうするのか、どう改めるかは私たちにかかっています。

だから、私たちに必要なのは「覚悟」、つまり学び取ろうとする意欲なのかもしれません。

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俺たちに明日はある

楽太郎です。
5月27日の新月以降、また新しい局面に入ったように思います。

自分の心の深い部分での統合が進み、同時に人世のエネルギーがより強固にまとまりつつあります。
外部からの干渉の形も変わり、距離を取りながらより強いアプローチに変わっているように見えます。

3月の春分から古い時代のエネルギー、人世からの妨害や引き戻しの作用が強く働いていました。
これは単に霊障を引き起こすだけでなく、昔の生き方や考え方に押し戻すきっかけとなるような出来事で身の回りに現れています。
結論的に言えば、これは神々からの試練というか抜き打ちテストのようなものなのですが、その現れ方はその人の一番弱い部分を突いてくるようなやり方のため、トラップとしては回避しづらいものです。

スピリチュアリズムに目覚め、これまで手放しや浄化に励んできた人でさえ、この時期の誘惑に押し流されてしまった人も多いでしょう。
人世は狡猾なやり方で次の時代を作ろうとする人々を絡め取り、自分たちの世界に引きずり込もうとします。
そのエネルギーは夏至まで極大化し続けるはずです。なぜかと言えば、神代の気場がほぼ完成するのが夏至だからです。

そして、夏至になると神代と人世のエネルギーの相剋状態が崩れ、人世の気場を飲み込み始めるのだと思います。
そうなると、人世のエネルギーは急速に崩壊を始めるはずです。
古い時代のエネルギーがこれほど強い保守的な作用をもたらしていた理由は、新しい時代のエネルギーに対する防衛であり、自分たちの障壁が攻め落とされるから堅守しなければならなかったのです。

トランプ大統領の関税政策は、巷で「Trump Always Chickens Out(トランプはいつも尻込みする)」の頭文字を取って「TACO(タコ)」と言われています。
トランプ大統領が打ち出した「Making America Great Again(すごいアメリカを再建する)」というスローガンも、「MAGA(マガ)」によって「魔が出る」と言われていましたが、現在のところ大した禍事にもなっていません。
児童の人身売買やDSの告発なども有耶無耶になっていますし、関税に関しても何となく元の鞘に収まっているように見えます。

AI処理装置王手のNvidiaの第二四半期の決算が比較的好調だったことで、引き続きマグニフィセント7の牽引するAIバブルは伸びを見せるでしょう。
2027年に誕生すると吹聴される「AGI(自律型汎用AI」は、実のところ生成AIのスキームをいくら加速させても構造的に開発は不可能だとされています。
仮にAGIが開発されたとして、現在のデータセンターを建設し続け、稼働させるために原子力発電を促進させ続ける意味はあるのか、AGIが半期おきに更新されるグラフィックボードに対応できるのかすら未知数です。

米国のシリコンバレーと金融業界の癒着、そこに政党政治を絡めたアメリカ議会、グローバリズムと各国を巻き込む情勢。
これらの出来事を見る限り、変化となる兆候は全て封じ込め、既定路線に描かれたビジョンだけを徹底する流れに思えます。
トランプ大統領は人々が言うように救世主となりうる存在か、と言えば私は疑問に思います。
しかし、この現状維持以外は許されない風潮の中で、そのバランスを壊しうる唯一のファクターであるトランプ大統領が、ここまで抑え込まれているのは一考に値します。

トランプ大統領の行動は、神々の計画にとって重要なトリガーとなっているように思えてなりません。
それはトランプ氏が神の僕であるとかの意味ではなく、神々は彼を動かすことで世界を変えようとしているのだと思います。

もし神代が人世の気場を壊し始めるとしたら、現在の世界のバランスが崩れるということです。
奇しくも夏至を迎えると、スピリチュアル業界を騒がせて止まない「2025年7月問題」が頭をよぎります。
2025年問題に関して、私は変革のインパクトを大地震に置き換えて考えること自体、問題を矮小化しているような気がします。

例え地震が起きたとしてその災厄の影響が年内で済むはずはなく、地震によって経済が完全に停止したとして、復興が終われば日本に巣食っている病魔が綺麗さっぱり無くなっている保証はどこにもありません。
仮に災害が日本を建て直すための契機になるにしても、それは数年数十年かかる規模のことであり、今年に地震が一発起これば全て解決するようにはどうしても思えないのです。
だから、「2025年」に対するフォーカス自体あまり意味を感じないというのが正直な感想です。

つまり、これから起こるインパクトが何であろうと、それをきっかけにして世界の再編が長期に渡って行われるという事象に変わりはなく、どう考えてもそのプロセスを踏まなければ新しい文明はやってきません。
インパクトの契機となるエネルギーの切り替わりが夏至であり、そこから先は何が起こってもおかしくないでしょう。

それが災害であれ経済危機であれ、何が起こるか自体が大して問題なのではなく、来るカタストロフは予め予想し得るものです。
それが何種類かあるだけであって、それぞれ来る可能性、まとまって来る可能性を考えても、備えておくに越したことはないというだけの話だと思います。

物質文明を苗床にして「お金」というエネルギーで保ってきた人世が崩壊することは、その環境で健やかに暮らしてきた人々は避けたいでしょう。
ゆえに、新しい時代の息吹を全て封じ込め、自分たちだけのエネルギーだけであるべき世界を強固にしたいのです。
そのための妨害であり、引き戻しです。

実は、最近私にも引き戻しの力が掛かってきました。
昔の活動が掘り起こされ今更になって、これまでのキャリアで最大のチャンスが訪れています。

ただ、この分野は神様から離脱を促され、泣く泣く諦めて手放したプランです。
ここで過去の活動を再開させれば神様の下での活動は有耶無耶になってしまい、仮に上手く行けばお金儲けの世界に再び戻ってしまうはずです。
神様を信じてやって来たからこそ、ここで成功がチラつき、「お金」や「人気」に目が眩んで舵を切り返すことがどういうことか、私はよく理解しています。

だからこそ人世からの引き留めの目的もわかりますし、私がそれに靡く気持ちがありながらも、神様がこの簡単なテストを私が落とすはずがない、と読んでいるのも薄々感じています。

私は、このチャンスを捨てることにしました。
ここまで神様を信じてきた道のりを諦めることは、私を親身になって導いてきた神様たち、瀬織津姫様に恥をかかせることになるからです。
だから私はこの話を断り、これまでの活動の痕跡を一切残さず撤退することに決めました。

この数週間、私を引き戻そうとする力は決して憎悪や悪意ではなく、優しさや懐かしい思い出として現れてきたため、心を鬼にしなければいけませんでした。
ここで昔の自分に戻ろうとする選択や昔のような生き方を選べば楽になれたのでしょうが、その時代が終わらねばならないからこそ、古き良き記憶を振り切り神様について行くことを決めたのです。

人世に戻ることを選べば、皆と同じやり方をしている以上は大した間違いがなく、上手く行かなくても皆そうなのだからと横並びに肩を抱き合い、互いに慰め合いながら生きていけるでしょう。
しかし、その生き方を人々がなあなあで続けてきたからこそ、今の日本を取り巻く危機と袋小路の現実があり、その負のスパイラルから抜け出すためには独立独歩の道を選択しなければなりませんでした。

42.195キロのうち40キロを走ってきて、なぜ残り2キロで観客の中に入って談笑する必要があるのか、そう考えると戻る選択肢はあり得ません。

ずっと一人で走ってきたからこそ孤独に打ちひしがれ、フルマラソンを達成したところで周りには誰もおらず、誰一人として賞賛の声を送らないであろう、そんなことは予想がつきます。
またゴールした後も、ずっと一人で走り続けなければならないかもしれません。
そう考えるといっそのこと観客に紛れたくもなりますが、ここまで走ってくるのにずっと伴走してくれた神様を裏切るわけにはいきません。

今ホッとした気持ちになることを選択し、しばらくはそれで楽しくてもいずれ上手くは行かなくなるでしょう。
人間が人間たちの力だけで生きていくには限界が来ており、その世界には沸いてくるようなエネルギーが存在しないからです。
人間がエネルギー源を人間に求める限りは搾取と奪い合いが起こり、その中で豊かに生きていくには苛烈な競争の中に身を置かなければならないでしょう。

それが人間の「幸福」や「自由」を指すものではないと神様が考えておられるからこそ、その時代を終わらせようとされているのだと思います。
少なくとも、少数の選民にならなければ奴隷になるしかない世界は、人間が住むべきところではないのです。
今はまだそうは思わなくても、この状況が変わらなければ極端になる一方のはずです。

この先の未来が目に見えない世界だからこそ不安を感じ、目で見えるわかりやすい世界に希望を見て安堵したくもなるでしょう。
しかし目で見える未来は、誰かが考えて描いた設計図であり、その形の未来を大衆が実現させてあげることで得をする誰かがいます。
今の世界を見回して、過去に描いた未来が今どういう形になっているかを冷静に見つめるべきではないでしょうか。

これから訪れる神の治める未来は、私にとってAIと電脳と遺伝子テクノロジーに塗れた、醜悪な世界でも構わないのです。
それを人間ではなく神々がそう望まれるのだとしたら、私個人の好き嫌いや善悪など無いようなものです。
私の意志を神様に委ねるという決意は、その程度では揺らぎません。

しかし、私は人間に従うくらいなら神様を信じますし、神様を信じることは自分を信じるということです。
自分の心の奥深くからの声を聞いて、これまで奇跡としか思えないような道のりを歩んで来ました。
私の心には神の心が映っていると感じるからこそ、今ここで迷いは一切ありません。

目で見える未来だけが確かな未来ではありません。
例え目に見えなくとも、その明日を信じる以上は夢に描いた未来がやって来ます。
「俺たちに明日はある」のです。

むしろ、神様と向き合う私たちのほうに。

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「憑依」について

楽太郎です。

5月13日の満月に世界線の分岐を体感してから、見える景色が変わってきました。
私自身のエネルギーの高まりと感覚の変化は、日常生活に差し支えるほどの混乱を生じさせています。
同時に妨害のエネルギーも強くなってきましたが、おそらく本日27日の新月にまた大きな変化が起こるように思えます。

今回の新月は双子座のエリアで起こり、土星が牡羊座に入って近々のタイミングであることから、自分の人生における課題が一新されるような意味合いが強いと考えられます。
これは1996年4月以来29年ぶりであり、当時も今のように大変革の時代でした。
ちょうどYahoo!の創業が95年であり、PHSが若者に普及し始めた時です。インターネットの黎明期の始まりであり、現在のデジタル時代の幕開けでした。

私は今日の新月から、さらに新しい時代が本格的にスタートするのだと思っています。
29年前に始まったデジタル時代は、現在では過渡期を迎え、世界を自由にするはずのインターネットはアメリカという国家に掌握され、そのインフラは極度に商業化されてしまいました。
それとすれ違うように、地球は次元上昇を完了しつつあり、私の言う「神の世、神代」は実感を持って現れてきました。

私は少しエスパー的な能力があったりするのですが、よく考えれば直感で人の行動や思念を読み取れるということは、スマホでLINEに繋がっていなくても遠隔で人の様子を知ることができますし、神様からのメッセージをきちんと受け取っていればChatGPTに相談する必要もありません。

これらは自然と人間本来に備わっている能力のはずであり、おそらく誰もが習得可能であるような気がしてなりません。
この能力を使えば、特定の営利団体に数十年単位で依存しなくても無料で使いたい放題の機能のように感じるのですが、残念ながら共感する方はおられないかもしれません。

この霊能力と霊力の高まりを実感しながら、精神的な時代の到来を私は確信しています。
眉唾ながら「風の時代」「スピリチュアルの時代」と予言されていた世界に、私たちは実際に足を踏み入れているのだと思います。

ただ、この時代の空気を実感できる人とできない人がはっきり別れ、おそらくできない人の方が大半です。
この分岐点こそ5月13日の満月であり、それまでの生き方考え方が総括され、その結果に応じた世界線を人々は歩むことになります。
この変化の流れは徐々に強まり具現化し、6月21日の夏至を持って完成となるのだと思います。

昨日25日に土星は牡羊座に突入したのですが、ここ最近やたら昔のことを思い出すというか、懐古的な生温い邪気を感じながら自分の課題と向き合わざるを得ませんでした。
今考えれば、私が自分の人生を呪うような後悔の原因を作ってきたのは、決して自分だけが悪かったのではないかもしれません。

私の霊能力が開花したことで、自分の体感するエネルギーを見分けられるようになりました。
そこで自分のエネルギーの性質がわかるからこそ、他人や集団とのエネルギーの共鳴や邪気、生き霊や悪霊などの霊的な干渉を選別することができるようになります。
特に外部のネガティブな波動を持つ存在からの干渉が、これまで私の人生に多大な影響を及ぼしていたことに気づきました。

私は物心つく以前から多感な子で、両親を始め周囲の人からは「ちょっと違う子だ」と思われていました。
幼稚園に上がる前から頭痛持ちで、自分の人生を振り返ると身体の不調や心の不安定さは一種の「霊障」であり、社会や大人たちはそれを弱さや病気と捉えていましたし、私もつい最近までそうだと思っていました。

しかし、こうして自分の心に影響しているエネルギーを紐解いていくと、必ずしも自分の波長だけでそうなっているわけではないことに気づきます。
特に環境による影響の方が大きく、なぜかわからないけどやる気が出なかったり、急に酷く気分が落ち込むような時は霊障だと考えてほぼ間違いありません。

ただこれは私が悪いとか、ネガティブな波動が良くないとか言いたいのではありません。
今こうして状況を理解して改めて思うのは、この唯物的な世界観は霊障をカムフラージュするのにとても都合の良い環境だったな、ということです。

例えば頭痛がする時、目の使いすぎとかストレスとか首肩のコリだと思って薬を飲んだりマッサージをします。
しかしこの原因がネガティブなエネルギーにあることを知らなければ、対処療法のためにお金や時間を使い、根本原因にアプローチすることはできません。
これはあらゆる病気に関してもそうで、病気も霊障以外に過去世から引きずっているものとか、血族由来の因縁で負わされているとか、様々なはずです。

自分の心身に起こる不調は、自分の内面と向き合うためのサインであったりするのに、なまじ薬や病院があるからそこへ行くものだという頭があります。
それで実際に良くなることも多分にありますが、トラブルの原因がエネルギーにあるのに、医療機関にお金と時間を使うサイクルの中から抜け出すことができません。

こういう仕組みも、この世界を唯物論的な構成物だけのものだと思い込ませたい勢力からすれば、上手いこと作られているように思えてなりません。
この世界において神仏や霊的な存在は眉唾物であり、精神的な事柄も全て科学と唯物論で説明ができ、それを信じお金を使えば迷信に惑わされることはない。
そう人々に信じさせることができれば、人々は率先して幸福のためにお金を求めるようになり、神仏を否定し権威を神格化することによって、生命力のある奴隷を手にすることができるわけです。

これをして得をする存在が何かというと、特定の選民的集団か神に仇なす隠れた存在でしょう。

こうして唯物史観のフィルターでカットされてしまった神仏やスピリチュアリズムは、これまでの世界では極めて色物に見られてきました。
しかし実際のところ、宇宙法則の一部に神仏が存在し、霊界はシステムとして稼働し、人間は修行とカルマの担い手としてこの世に存在します。
その仕組みは物理的には証明できず、反面その捉え方でなければ森羅万象を解き明かすことはできません。

真実の追求を覆い隠すことに意味があるとしたら、それは「堕落」以外にありません。
つまり、この世界における目的の喪失にこそ、神に仇なす存在の目的があるのです。
この世界の本質に至らせないことこそが彼らの本質であり、光に対する闇の存在です。

そうすることで、神性を否定し人間本来の能力を封じ込め、お金のために生涯を消費する労働機械に人間を落とし込めるわけです。
人間が人間に依存する世界を作れば、人間は横並びの序列だけを気にするようになり、上には神がいて下には魔物がいる世界に気づくことができません。
そういう世界は、この世界を牛耳っておきたい勢力にとって都合が良かったに違いありません。

この世界には物質的側面と波動的側面があり、実は波動の次元にこそ世界の本質が存在するのです。
ゆえに、その本質を覆い隠してしまえば、人々は真実を知ることなく物質面だけに終始し、覚醒することなく一生を労働に注いでくれるのです。

ただ、この時代も間もなく終わりを迎えます。

もう星の巡りでは新しい世界線に突入しているので、あとはエネルギーレベルで起きていた出来事が地上に反映されるのを待つだけです。
近年「幽界」の消滅が始まっているとか、浮遊霊や生き霊が飛び交っているとか、そう言った霊現象はその一端です。

人々がやたらと取り乱したりイライラしたり、「魔が差した」ようにしか見えない事件が起きたり、悪魔が乗り移っているようにしか見えない人の言動、それらは全て気のせいではありません。
「霊障」とは目に見える死霊が肩に取り憑くという類のものだけではなくて、エネルギーレベルの干渉で起こっているものだからです。

その霊障は憑依と言って差し支えないのですが、幽体が身体に入る以外に念や霊のエネルギーが魂に干渉することも多く、その形は様々です。
そのレベルのことは誰にも日常的に起きていることであり、ゆえに霊能者が改めて言うことはないのだと思います。

近年、スピリチュアルブームで精神世界への興味が広まったのは良かったのですが、「審神者(さにわ)」という部分に注意するスピリチュアリストはあまり多くありません。
審神者とは、メッセージを与えてくれる存在が何者かを見極めることです。
私の見る限り、霊能力のある人が必ずしも高次元の存在と繋がっているわけではないと思いますし、実際にそういう人も散見します。

仮に繋がっているのが高次元だとしても、霊的なメッセージを降ろして言って終わり、というだけでは本気で世を改め人を変えたい上位存在からしてみれば、言った本人が肚に落として貰わないと意味がないでしょう。
実は「審神者」は、目で見てわかることの方が多いです。
スピリチュアルな存在が降ろしたメッセージ自体が誇張的だったり、やたら我欲が張っていたり、そのメッセージを受けた本人がフィルタリングしていたり、それを間に受けて実践することを怠っていたり、見ていてスッキリしない印象を持つことがほとんどです。

神代と人世の分岐がはっきりしてきた今、次第にスピリチュアリストたちの言うことも変わってきました。
ついこの前まではまともなことを言っていたインフルエンサーが、最近は何がしたいのか何が言いたいのかわからない、みたいな状況を散見します。

この時期を境に、精神世界と人間との関係性も変化しているように見えます。
精神世界に繋がれる人はより精神性を求められ、その観念を生き方に降ろすことがテーマになっているのだと思います。
だから混乱が起きていますし、ついて行けない人も多いのではないでしょうか。

スピリチュアルな世界の本格的な到来は、実にシビアな現実に現れていると思います。
私自身、新たな課題に直面して自分でも何をしていいかわからなくなる時があります。
そこで自分に芯を通し、やるべきことをきちんと降ろして忠実に行動できるかが試されています。

神々からすれば、神代に上がるから特別な人材だと思っておられないように感じます。
慢心したり取り違えするような人間は惜しまず弾く、そこに神様は妥協しないのだと思います。
その心の隙間を常に魔の類が狙っていて、隙あらば覚醒の芽を摘み取ろうとしてきます。
だからこそ、油断せず常に己と向き合う緊張感が大切です。

実はこういうことを書くと、私がサイキックアタックや憑依に狙われる可能性が高くなるので避けたいのですが、今回は特に神様からのオーダーで書かざるを得ませんでした。

私は、神様から降りてきたインスピレーションは自分の一部だと思っているので、できる限り実践する方針でいます。
だから神様から降ろされたことは、わりとそのまま形にするようにしています。
ただ、あまりに真正面から正直なことを書いてしまうので、霊的な障害がしばしば発生します。

だから私としては気が進まないのですが、神様には逆らえません。
おそらく、これから神様のインスピレーションを反古にしたり自分のために使うような人は、神様から能力を外されていく気がします。
いくら信仰心があっても、神様に見放されたら元も子もありませんし、私は神様についていくだけです。

ただ神様、できるなら私をもっと強くお守りくださるとありがたいです。
今回は闇の存在について言及しているので、特に…。

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「祓戸三神」新デザインラフII

楽太郎です。

祓戸大神の活躍をテーマにした漫画「HARAEDO」ですが、今回は以前描いた祓戸三神のデザインを再考しました。









漫画第一作でかなりポップな作風になるのは固まったので、デザインはアニメ的要素を強めにしました。

御神名の「速」が抜け、一部漢字表記も変更した形です。
神様を題材にした作品ですし、不敬に当たるのではないかと悩みましたが、子供たちが御神名を覚える際、5文字か6文字で一言で言えた方が親しみやすくなるのでは、と考えました。
漫画のイメージが日曜朝8時なので、幼稚園児が見てわかるような感じにしたかったです。

秋津姫命のデザインに関しては、一番最初に描いた瀬織津姫様がかなりロリロリしてた記憶もあるのですが、その雰囲気に近いです。
「水戸の神様」だけあって抱擁感のあるイメージもあり、何となく天然っぽい雰囲気を残そうと思いました。
ただ、なぜかお姉さん的なイメージにはならず、かなり正統派美少女っぽい感じに収まりました。

気吹戸主命のデザインは、前回のラフとほぼ変更ありません。
ただ、以前はギリギリ少年の設定もありうると考えていましたが、私の考察を元に女神説を採用し、あくまで男装キャラという立ち位置にしました。
何となく夏の有明で盛り上がりそうだなと描いていて思いました(?)

佐須良姫命は、瀬織津姫命同様にかなり謎の多い神様なので取っ掛かりがなくて迷走しましたが、なぜか当初から「ツインテール&ツンデレ路線」だけは固まっていて、その通りになりました。
かなり今風の感じになりましたが、描いてる時に「神様が生足を出して何が悪い」という電波(?)が飛んできたので、何となく行けるかなという気持ちで仕上げました。
速佐須良姫命を調べているうちに、「菊理姫命説」がどうやら一番しっくり来るので、冥界にいる小悪魔っぽいお姫様、と言ったらやはりツンデレ以外考えられず、やはり私は最初から間違っていなかったんだなと思いました(?)

というわけで、漫画としてはまだ1ページしか描いてないにも関わらず、かなり動き出してきました。
話は色々思いつきますし、アイデアも作業もてんこ盛りの状態ですが、神様からの指令が飛んできたらそっちを優先しなければならず、なかなか思うように取り掛かれません。

ぶっちゃけ、私の書く5000文字超のコラムなんて誰も最後まで読んでないだろうとすら思っているのですが、なぜか神様の圧がすごいので書いてます。
私としては、ちょっと前までエロマンガ描いていたような人間にああいうまともなことを言わせないで欲しいと思うのですが、しょうがないですね。

世知辛い世の中です。

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「悪」とは何か

楽太郎です。

仏教の世界には「回峰行」という修行があります。
この修行は念仏を唱えながら山々の参拝所を巡り、何十キロに及ぶ踏破を千日行うというものです。

仙台市秋保の慈眼寺の住職であられる塩沼亮潤和尚は、奈良県の金峯山で千日回峰行を達成された大阿闍梨であり、現在は執筆や公演活動などをされています。
塩沼和尚に関する記事からのお話ですが、「悟り」に至る上で最後まで課題となるのが、「人を嫌う気持ち」だそうです。
そして精神的な自由を手にするためには、「忘れきる、捨てきる、許しきる」という手放しが大切であると説かれています。

確かに、自分の感情を手放す時に最も根深い執着が「憎しみ」や「嫌悪」かもしれません。
「否定したい気持ち」とは、ただ単に不利益をもたらす敵対者を排除したい欲望から来るものだけではなく、自分が自分らしく生きるための信念とか、自分を守るために必要な自己保存欲とか、人間が生きる上で備わっている根源的な感情です。

自分が過去にされた嫌なことは、時が経てば別の見方ができて許せるようになったり、忘れてどうでも良くなってくるものです。
しかし、例えば今目の前で人を殴っている光景を見たり、明らかな詐欺の電話を受けたりしたら当然のように腹が立ちます。
この時に自分が当事者になりながら平然と笑って返せるようになるには、相当な精神的成長が必要です。

「悪」とは何か、と考えます。

今の世に蔓延る悪は、大抵は悪の顔をしていません。
往々にして悪とは、バイキンマンのように悪者顔をしてのさばっているのではなく、立派な肩書きと綺麗なイメージで善業をしているように振る舞うものです。
むしろ人に白い目で見られる程度の悪は可愛いものであり、本当の巨悪ほど目に見え難く、むしろ一般的には好意の対象であったりします。

現代におけるその巨悪が何なのかここでは語りませんが、例えを出したいと思います。

ある時、真心のある牛乳屋さんが、美味しい牛乳をたくさんの人に飲んでもらいたいと言い、毎朝無料で牛乳配達を始めました。
その牛乳はとても美味しくて、地域でたちまち評判になり、注文が殺到しました。
ただ無料ではサービスが続けられないので、割安価格で牛乳を定期配達することにしました。
地域住民は安くて美味しい牛乳が毎日飲めるので、とてもありがたがりました。

しかし牛乳屋は儲けに味を占め、次第に配達の値段を上げ始めました。
地域住民は多少の値上げなら致し方ないと思ってしばらく黙ってましたが、徐々に我慢しづらいレベルの価格になってきました。
では安く別の牛乳屋を選ぼうとしますが、その牛乳屋がほぼ業界を独占しており、替えとなるサービスがほとんどありません。

それで値段に不満を抱えながらその牛乳屋の牛乳を飲み続けるか辞めるか、という話になるのですが、特殊製法で作られた牛乳の味に魅了された地域住民は、簡単に牛乳配達を諦めることができません。
牛乳を飲むことを諦めない限り、その牛乳屋の牛乳だけを一生飲み続けることになります。
そして、牛乳の価格はその牛乳屋の言い値です。

これは例え話ですが、心当たりはないでしょうか。
始めは「良い」と思われて人々に受け入れられ広まったのだけど、後々になって欲が出て改悪されていると気づいた時には、代替手段がほぼ存在しない。
自分が諦めれば済む話だけれど、その手段を採用しなければ関わることすらできない。
今の世の中をコントロールしている大体の仕組みは、これと似たようなものです。

こういった形の支配が、支配を支配と思わせない形で私たちの足元に広がっています。
そこには明確な作為と策略が練られているのに、普通に暮らす上では「便利なサービス」だと思って享受しています。
その当たり前と日常の中にある思惑に鈍感であり続ける限り、思惑の中にある悪意にも気づかず、知らずのうちに悪事に加担していたりもするのです。

「3と7」を取引してイーブンに見せるようなビジネスは、消費者にWIN WINと思わせておきながら実際は向こうの方が遥かに取り分が多いのが特徴です。
それに気づかせないためにサービスを綺麗で公平なものに見せ、作為など存在しない顔をして人々から搾取をし続ける、そんな構図が世に蔓延っています。

この「悪」を悪と思わない人がほとんどです。
むしろそういう世の中なのだから、目鯨を立てる方がおかしい、と。
私は自分の目線ではこれ以上醜悪な仕組みはないと思いますが、他の人々からすれば疑う余地も感じないかもしれません。

これを目の当たりにして、許せるかどうかを自分に問い続けるのは「苦行」とすら感じます。

ただ、悪とはやはり「正義」の対極にある存在であり、それは光と闇のように、どちらか片方が存在するから背反が生まれる性質のものでしょう。
自分を正義だと思うから悪を立てねばならず、向こうも自らを正義だと思うからこちらが悪になり、ゆえに争わなければいけません。
つまり、自分が間違っていると思えば、相手が間違っていても仮に正しくても、敵対する理由にはならないはずです。

「正義」も「悪」も実際には見えないもので、人間が恣意的にレッテルを貼り、色分けするから形となって現れるものです。
目に見えて「憎むべき悪」があるから、色が目につく限り攻撃せざるを得ず、色がある限り平和にならないと考えれば、色をつけたもの全てを排除し滅ぼすことが絶対的な正義となり得ます。
そうして行われてきた人類の過ち、そして今もなお堂々と行われる民族浄化やジェノサイドは、「正義」がこの世に存在するからこそ、力のある正義側に「悪」とされた力なき人々が受ける暴力でもあります。

人間は、「悪」がある限りこの世に平和がなく、悪が存在しない世界こそが善なる完全な世界だとイメージします。
しかし、正義を完遂するには悪を根絶しなければならず、その正義も一方から見れば悪そのものです。
つまり、正義が存在する以上は悪があり、悪が存在する以上は正義を持って戦わねばならず、平和は永久に実現しません。

他人が悪に見えて仕方ない、許せないと思う気持ちがすぐに改められないのが人間です。
嫌いだし腹が立つならお互いに顔を合わせなければ良いだけで、気に入らないなら見ないようにして、それぞれが望む暮らしをし互いに干渉しなければ問題ありません。
しかしなぜか人間は、腹を立てたがり攻撃をしたがり、「棲み分ける」という選択に頭が及びません。
自分が気持ち良く暮らすためには、嫌いなものや憎むべき人がこの世から消え去ってくれないとダメだと思ってしまうのです。

この感情は、自分にはないと言い切れません。
それゆえ、頭ではわかっていても肚の底で綺麗さっぱり割り切るには成長が必要なのです。
確かに自分が傷ついた時、損をした時は誰かのせいにしたくなります。
けれど、そういう時ほど自分に起こった「良くないこと」は悪に結びつけず、自分の生き方を改めるための「気づき」にすることはできないでしょうか。

何か良くないことが起こる時というのは、自分の生き方や他人との関係において、そのままのやり方では上手くいかない、という暗示でもあります。
何か原因があるから起こる凶事は、実際に理由があるから発生するものです。
ゆえに、それに気づいて手放すものを手放す、そうすることは自分を成長させ同じ凶事を引き起こさないための対処法となります。

「悪」を見た時に腹立たしく思うことを、未熟のせいにすれば良いわけでもないと思います。
むしろ「悪」は悪と認識するから気づけるのであり、自分の心にある正義も悪と感ずる心も、人間本来の精神的な働きそのものです。
大事なのは、「悪を責めてはいけない」という無抵抗主義こそが正義だと思うことではありません。

「正義」という概念も、「悪」という概念も、そのものを消し去ることはできません。
できるのは自分が正しいと思い込む心を手放すことであり、相手を悪と決めつける心を手放すことだけです。
それは正義への執着を消すことであり、「悪」を認識し気づきとした上で、悪が気づきを与える存在という以上の意味を持たないということです。

目の前にはない、理想や概念としての「悪」を滅ぼそうとするなら、地球上を飛び回ってまだ見ぬ巨悪を倒すために殺戮を続けなくてはならないでしょう。
そこまでしなくても、地球は広いので自分が気の合う人たちと同じ土地で暮らせば良いだけの話です。
この理屈が通じない人たちに対しても、ただ単に自分が棲み分けて国境線を引けば済みます。

もし向こうが国境を越えて攻撃してくるなら、その時に正々堂々と迎え撃てばいいでしょう。
中途半端に「平和主義」を謳い、無抵抗こそ美学のように死に花を咲かせると、今の日本のように外国人が何をしても言い返せない国になってしまいます。
それでは社会はおろか、自分も大切な人も守りきることはできません。

悪とは気づきを与えてくれる凶事の象徴に過ぎず、悪意はせいぜい自分が得をするとか、人を破滅に陥れるとか、そういった目的しかありません。
つまり、高い理想を理性的に構築することを善とするなら、悪はその妨害を目的にすることしかできません。
悪意は応じるから応酬をせざるを得なくなりますが、それは悪意に対して悪意を返すから起こります。
ゆえに悪意に対抗するには、厳しい態度と善意だけが有効です。

暗く澱んだ感情は、明快で筋が通り、思いやりのある気持ちを最も苦手とします。
明確な悪意に対して、敵対しないという態度は相手を骨抜きにすることでしょう。
それは決して戦いを放棄するということではなく、悪意に対する戦い方は不戦的だという意味です。
悪の排除に目鯨を立てるよりも、理想を実現するために善業を重ねる方がよほど前向きですし、実際それ以外に世の中を良くする方法があるのでしょうか。

罪を憎まず人を憎まず」の精神こそ、悪を受け入れ正義を手放すことに繋がります。
ただ、人々がこの意識に至るまでは長い道のりかもしれません。

最後に、「悟り」について語りたいと思います。

冒頭で取り上げた「千日回峰行」ですが、天台宗の比叡山が本家です。
比叡山の千日回峰行は7年間続けられ、1日30キロの山々の礼拝所を念仏を唱えながら巡り、それを800日続けた後に100日間を60キロ、最終段階である100日間に1日84キロを踏破し、最後の日々は睡眠時間2時間、14時間に渡る回峰行となるそうです。

この厳しい修行を終えた満行者は歴代で51名しかいません。
その厳しい荒行の歴史に名を残す大阿闍梨に、「正井観順」というお坊さんがおられました。
この方は千日回峰行を一度ならず2555日間続けられ、回峰行中に倒れ亡くなられたそうです。

観順和尚は明治から大正にかけての方で、元は津軽の豪農の家で生まれ、自身も豪商として活躍されていました。
しかし自身が協力した選挙での不正や、親戚との金銭トラブルなどに嫌気が差し、当時最大の海難事故であった瓊江丸殉死者の霊を弔ったことを機に、本格的に仏門に入られました。
ただ、宗門では比較的高齢で経歴が浅かったこともあり、厳しい修行に臨もうと回峰行の真髄に目覚めていかれました。

冒頭にご紹介した塩沼和尚は厳しい修行が即ち悟りに至るのではないと説かれていますが、無心に山を巡り念仏を唱え仏と心を一つにすることは、生きながら煩悩を手放す行為そのものであり、悟りの実践なのではないかと思います。
つまり観順和尚は、回峰行の中にこそ悟りを見出されたのかもしれません。

浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、人間の欲は備わっているものであり、煩悩自体を消し去ることはできないと悟られました。
欲や煩悩は「悪」と誤解されがちですが、その悪の要素を取り去ってしまうと人間としての心も手放すことになります。
しかし、人間が人間である以上、捨てられるのはこだわりや執着だけであり、概念や感情そのものまで捨て去ることはできないのです。

従って、「悟り」とは惑わない心そのものであり、その心における許しこそが悟りと言えるのではないでしょうか。
だからこそ、異なる意見を持つ者と出会って平常心でいるのは難しく、ただそこで無闇に争わず、相手を許す心苦しさの中にこそ成長があり、気づきや「悟り」への道があるのかもしれません。

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日本をどうするか?

楽太郎です。

今回は、世界経済の切り口から日本の今後について語りたいと思います。
結論から言うと、これから世界恐慌が起こります。
経済的に説明すれば、今アメリカのトランプ政権が目指しているソフトランディングは失敗します。

トランプ政権、1兆ドル超の26年度国防予算要求へ-13%余り増額 | Bloogberg

米政府から5月2日に発表された2026年財政年度予算請求額によると、国防費は前年度比13・4%増の1兆119億ドル(約145兆7000億円)で、政策的支出を示す「裁量的経費」は前年度予算の22.6%削減、歳出削減額は全体で1630億ドル(約23兆6000億円)となっています。
この削減対象となった分野は、エネルギー・農業・環境政策・教育・住宅補助・都市開発・海外支援などで、ほぼ国防費以外は全削減の割に予算請求額は過去最高となりました。

トランプ大統領は去年の大統領選で反戦平和と財政緊縮を打ち出して当選したはずですが、イーロン・マスクと共に肝入りの歳出削減に乗り出したものの、この予算案を見ると軍事費以外の予算を削減して軍事費に回しているだけに過ぎないように思えます。
アメリカの国防総省に費やされる予算は、不正支出や不明瞭な会計が多く、監査法人から何度も財務諸表を突き返されるほど会計に関してブラックな組織です。

国防予算はイスラエルのガザ侵攻に横流しされ、F16戦闘機などが無償供与される形となります。
ウクライナ侵攻ではウクライナ軍の軍事支援に渋りつつ、天然資源の差押えやAI兵器の開発を強要しながら、イスラエル軍が更地のようなパレスチナ自治区を空爆するために米国の税金が使われるのです。

トランプ大統領は、ペンタゴンの言い値通りの予算を捻出したように見え、果たしてトランプ大統領は選挙公約を遵守する気があるのか、疑わしくなってきました。
トランプ大統領が公約に掲げていたDSの糾弾や人身売買に関する摘発が有耶無耶になっているとは言いませんが、この予算案を見ると少なくとも米政府の放漫財政にメスを入れる気はないように思えます。

あれだけ威勢が良かった報復関税政策に関しても、諸外国からの反発に耐えきれず弱腰となり、猶予期間を設けることで混乱を避けているだけです。
トランプ大統領が推進するアパレルなど製造業の国内回帰は現実的でなく、製造業を中国など人件費の低い国々の競争力に匹敵するレベルにするなら、大量に移民を入れて低賃金で働かせなければ低価格競争に勝つことはできません。

移民に反対しているトランプ政権が米国民を低賃金で働かせるのは不可能に近く、しかも低収入の市民が高インフレの経済を支えることは難しいでしょう。
つまり、トランプ政権は真逆のことを言いながら真逆のことをやっているのです。
ただしトランプ大統領が意図的にグレートリセットの引き金を引くつもりはなくても、このままだと意図せずとも必然的にトリガーを引くことになるはずです。

アメリカの調査会社「バンク・オブ・アメリカ」のファンドマネージャーに対するアンケートでは、これまで米国投資を牽引してきた米国株・株式一般・テクノロジー・エネルギーは弱気含みとなり、電力や債券、ユーロ圏やイギリス株などに移っているそうです。

今のアメリカ経済を支えるテクノロジー分野、マグニフィセント7が牽引するS&P500の時価総額は過去最高域に達しながら、実は水面下では海外投資家の評価に戦々恐々とする現実があります。
実は、海外投資家の持つ米国株は20%弱の18兆5000億ドルと言われており、これまでAIバブルを蒸して外国から投資を呼び込んできた米国は、彼らの顔色一つで奈落の底に落ちる危険が常に隣り合わせです。

ミシガン大学の調査では、現在のアメリカの景況感、インフレ率共に1980年来最悪であり、FRBが鉛筆を舐めて出している統計を好意的に捉えたとしても、経済政策に関して悪手しか打っていないトランプ政権が、経済学200年の歴史を塗り替える快挙、つまりは奇跡のソフトランディングが可能かと言えば、私は全くそうは思いません。

投資家やエコノミストや経済評論家は、自分が損さえしなければ良い人たちが多いので、本当のことを言う人はかなり少ない世界です。
そこで出回るデータや論評は、はっきり言って有象無象に過ぎません。
何を楽観視して何を危険視するかが問われますが、「誰も真実のデータを出していない」可能性もあり、警戒はしても楽観視するような情報ほど注意する必要があるでしょう。

このソフトランディングに失敗すれば、アメリカに訪れるのはスタグフレーション、つまり景気後退とインフレのダブルパンチによる経済崩壊です。
これによりリーマンショックを超える米国株と国債の大暴落、基軸通貨ドルの失墜と世界経済のバランスの崩壊、脆弱なユーロ経済圏や西側諸国、我が国日本も例外なくアメリカの恐慌に巻き込まれて行くでしょう。

この数年、アメリカのマグニフィセント7が牽引してきた米国の株式市場は、4月以降の取引営業日の2割が2%前後、株価が乱高下しているというデータが存在します。
マグニフィセント7と言えば、生成AIブームの火付け役であり、GoogleもMicrosoftも独占禁止法で司法省に目をつけられている企業であり、生成AIの特性上、著作権法や個人情報などの人権を無視して開発を進めているハイテク分野でもあります。
権利的に見て社会的・文化的な影響を全く顧みることのない技術開発は、実際はアメリカの株価を牽引するための広告として使われていたりします。

果たして、これまで100兆ドル以上を費やして一つのアプリでしかない、正確性も権利面もあやふやな生成AIが文字通りの「AI革命」が成し遂げられないまま、テック株の大暴落に巻き込まれるとしたら、果たしてシリコンバレーの富裕層が夢描いた「AIユートピア」は実現するのでしょうか。

これらのビッグテックへの投資は、アメリカの中堅より上の大銀行が主体であり、それこそバンク・オブ・アメリカやJPモルガンなどの金融機関です。
米国株・国債の大暴落を受けて焦げつくのはこれらの金融機関であり、大して命に関わりのないアプリに莫大な投資をし続けられるとは思いません。

AI開発は、明確な革新技術となり得るものですが、AIロボットやデバイスの製造には全世界にサプライチェーンが確立していなければ安定供給は難しく、どうしてもiPhoneのように寡占企業による専売特許になって行かざるを得ません。
そのため今日のような不安定な国際状況では、生産と流通の面で課題が多すぎるのです。

生成AIに関しては誇大広告の部分が多分にあり、実際に現時点で言えば大層な技術ではありません。
AIバブルが崩壊すれば内実を知ることになると思いますが、現状はAIのユーフォリアの渦中にあるため、人々はなかなか耳を傾けないでしょう。

さて、アメリカが仕掛けたポンジスキームと言うべきAIバブルに乗っかり、日本政府高官や官僚組織、政治家や大企業と学閥のお偉いさんはさぞかし豊かになったことと思います。
それを尻目に、アメリカの経済崩壊が起きたら日本も巻き込まれるのかと言う話ですが、経済評論家の間ではわりと楽観的な意見が主流です。

日本には1.2兆ドルの外貨準備高があり、国内経済の基盤が盤石なため、諸外国に比べると比較的軽微だろうと言われています。
90年代の不動産バブルは大体アメリカから仕掛けられましたが、バブルの予後が最悪だっただけで崩壊自体は経済にさほど深刻ではなかったようです。
日本は未だに国内資本率では世界トップクラスの優良国であり、純粋に政治家と官僚に恵まれないだけの国なのです。

ただ、国家のトップにいる人々が日本人にとって最大のネックであり、国民が今すぐ目覚めたとしても打つべき手段はほとんどないでしょう。
落とすべき政治家の次に出てくる候補者を消去法で選ばなければいけない国が、奇跡的に復活するはずがありません。

現状、ただでさえ物価高で人々の労働意欲が低下している時に、消費行動が爆上がりする要因は皆無です。
食品も値上がり、流通も細くなっている実態経済において、世界恐慌と関税戦争に巻き込まれただけで一般市民の生活はますます逼迫するでしょう。
スピリチュアル業界では「2025年問題」とか言われますが、南海トラフ地震の脅威も身近にある中、大恐慌と大規模災害が重なれば手も足も出ない状況に置かれるのは目に見えています。

このカタストロフは目前に迫っており、これは脅しでも予言でも何でもなく、大不況下で大災害が起これば極度の混乱状態となり、にわかに復興できないのは冷静に考えれば誰でもわかります。
だからこそ、日本人には一人でも多くこの危機感を共有したいと思うのです。

日本人は戦後80年間、外国の富裕層や企業が雇うロビイストが贈収賄をすることで、実質的に動かされてきた米国政府の言いなりになって来ました。
それでも、日本人は優秀な民族なので、島国根性と言われながら独自の技術や文化を発展させ、産業として世界に認められました。
しかし、そこで「世界」というものを意識し始めて、日本はダメになったように見えないでしょうか。

現在、リバイバルブームで注目を浴びる製品やコンテンツの殆どが、90年代までに日本国内向けに作られたものです。
2000年代に入ると「グローバリズム」なるものが台頭し、外国資本だけでなく海外文化への受け入れも急速に進んで行きました。
日本企業が「世界」と言うものを意識し、西側諸国のルールや価値観をスタンダードにして行った結果、国内産業が衰退し外資系企業が隆盛する今の現状があるように思えてなりません。

日本の良い部分は形式化し、むしろ真髄に近い部分を海外に持っていかれ、日本人が外国の模倣を受け入れるしかない現状を鑑みるに、やはり上手いことやられてしまったと考えられると思います。
日本人は日本の国内市場を意識し続ける限り、独自の経済圏を保守し続けることができたのではないでしょうか。
日本が不動産バブル崩壊から立ち直れず、ダラダラと衰退の一途を辿る要因となったのは、一重に日銀の度重なる失策と円安政策にあります。

そもそも、日本の購買力平価に比較して円の通貨価値は半値に近く、実は国際競争力において覇権を取れる実力を持ちながら、日本政府はわざとそれを回避してきました。

日本が円安方針を取れば海外への輸出は黒字化し、貿易赤字が膨らめば企業収益は上がります。
国民に債務が増大すると、自己資本以外に資産を持たない市民に借金をさせることで、政府や大企業、資産家はますます潤います。
特に国内の輸出企業はグローバル化に成功した企業が多く、大企業がほとんどを占めるがゆえに影響力は甚大です。

こうして国民を貧しくさせることで利潤を得てきた人々がいる一方、家族を作れず少子化に拍車がかかった若者世代は豊かになりづらく、人材不足の穴埋めをするために外国人を斡旋することで儲けている人々もいます。
そして、物価高が続くのも日銀が円安方針を変えないからであり、その理由は円高が進むと昨年8月の米国株大暴落のような「円キャリートレード」の巻き戻しがトリガーとなり、米国経済は再び大暴落の憂き目に遭う恐れがあるからです。

つまりは、全てアメリカを中心とした国策であり、アメリカの支配下にある限り日本は復活できないどころか、一緒に破滅する必要のない日本までもが奈落の底に引きずり降ろされるということです。
この事態を私たちが止めることはできないとしても、ここまで見えても何もしない方が不可思議と言うものです。

ただし、今から政治活動に熱心になったところで時すでに遅しと言わざるを得ません。
現状でも国内がここまで荒れている上に、世界経済の崩壊は日本の立て直しよりも先にやって来ます。
だから私の考えとしては、ハードランディングへの備えをしつつ、動乱の起こる日本をどう作り直して行くか、と言うところに頭が向いています。

おそらく、現時点でその規模まで予測することは不可能です。
ただ明確に言えることは、日常的に手に入るものは入手できるかわからなくなり、食卓に並ぶ食べ物も、いつも通っている店もいつまであるかわからないと言うことです。
何となく今の生活が続いていくという頭でいたら、気持ちが追いつかなくなるかもしれません。

だからこそ、社会や経済に対する依存を極力減らし、自分自身も文明から自立できるような準備をしていくべきだと思います。
少なくとも、食糧難が長期化した時に何を食べて生きていくか、心身を病まず健康的に生活できるのか、想像を巡らせるところから始めてみてはどうでしょうか。

この記事をここまで読んでいただければわかると思いますが、全ては「アメリカ」という国家のエゴ、あるいはその背後にいる少数の人々の匙加減に100年近く振り回されて来たのが、我が国日本です。
このカラクリを知り、知った上でどう判断して生きていくか、その立場でものを考えてこそ日本の未来をしっかり見ることができるでしょう。
そして、自分一人でも何ができるかを考え、自分一人でも行動する信念と勇気を持つことです。

今こそ、「日本人よ立ち上がれ」とは言いません。
何も知らず、何もやらずに死にたくなければ、この世界と日本という国に対して、本気で向き合わなければいけない時が来たのだと思います。

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「祓戸のお仕事」後日談

楽太郎です。

先日投稿した瀬織津姫様の漫画「祓戸のお仕事」のアフターエピソードが描きたくなったので、描いてみました。


今回は実験的に一コマで描いてみました。
縦長の画面は複数コマ、横長は一コマ漫画に適しているように感じました。

WEBは端末の特性上、横長は見づらくなる傾向にあります。
サイトのレスポンシブデザインの関係で、コンテナの中に収まる形は縦長の方が相性が良いのです。
だから小ネタとして出す程度なら横長でも構わないかもしれません。

こうして描いているうちに、徐々にキャラクターが動き始めてきました。
瀬織津姫様は、私の脳内ではあまり和服を着ていらっしゃる感じがしないので、普段着をお描きするなら洋服っぽいのかなという印象です。
個人的に、ワンピースを着ておられる感じがするのですが、そもそも神様が女性のお姿をされているとは限らないのに、何故そこまでイメージできるのかわかりません。

瀬織津姫様には、漫画の中だけでも遊んで頂きたいなと思っています。
ヘルメットつけてカブを運転するとか、野球のユニフォームでホームランを打つとか、浴衣姿で金魚すくいに挑戦するとか、「神様なのに」みたいなところを面白くしていきたいです。

次の作品のネームも固まっています。
次回は2ページに渡って若干ストーリーのある作品にしたいなと思っています。
どうぞお楽しみに。

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新しい時代の「金運」

楽太郎です。

ここ数日は、無意識に過去の記憶が噴き出してくる現象に遭遇しています。
突然、何十年も忘れていた出来事や光景が思い浮かび、懐かしさと同時に奇妙な違和感を覚えます。

何の前触れもきっかけもなく古い記憶が呼び起こされることで、昔あった場所や人が今どうしているかを調べたくなったりします。
そうして追憶に費やす時間は、意識が過去に向かう限り建設的な思考ができません。

この「懐古志向」の流れは、邪気の一種ではないかと思います。

この邪気はこれまでの殺伐としたエネルギーとは違い、愛着や良い思い出を媒介とするために邪気とは認識しにくいです。
しかし、覚醒を阻害し引き戻すエネルギーに変わりはなく、この邪気は自分の中の過去に対する後悔や、「昔は良かった」という感情に巣食います。

この保守的な邪気は、おそらく集合意識の具象化であり、人々がこれまでの価値観で生きることができなくなったことによる反動形成ではないでしょうか。
つまり、これからの時代を生きる指針が見つからないため、懐古主義の大キャンペーンを張り、古いやり方を再び指標に据えようとしているのだと思います。

つまり、これまでと同じやり方を続けるための同調圧力であり、逆に言えば同じことを続ける以外は新しいことを目標にしない、という意思決定でもあります。
自己模倣と再生産だけを延々と繰り返せば、これまでの物質中心の短絡的な世界を維持し続けられると人々は無意識に思っているのでしょう。
しかし、水槽の中で澱んだ水を循環しているに過ぎないので、いずれ長くは持たないはずです。

この懐古志向の邪気は、劣等感や愛着や憧れなど人の柔らかい心の部分を刺激し、温かい感情を苗床にする分タチが悪いのです。
この擬態した邪気は、優しさを疑いもなく持ち続ける限り古い時代のマインドに押し流す力があります。
何となく心の隙間に入り込まれて、人世のエネルギーに引き戻されてしまった人もいるかもしれません。

神代に上がる人々が出てくる時期に、この種の罠は巧妙な悪意を感じます。
人世に押し戻そうとするエネルギーに触れると、何となく危機感が麻痺した状態になり、この平和で微妙な社会がダラダラと続いて、いずれ世の中がジワジワ良くなっていくのではないか、と錯覚し始めます。
しかし、その平和ボケした感情こそが邪気であり、警戒感を解かれた意識は搾取に疑いもなく浸かり切って抜け出せなくなってくるはずです。

「お金」が万能である時代は未来永劫変わらず、どれほど荒れた世であっても経済の中心にいれば、食うに困らず今まで通りの幸福を手に入れられる、そう思い込むようになってきます。

しかし地球が次元上昇をして、神々が主導権を握る世になるべく動いているのは、そう言った拝金主義と特定の支配階級による帝国主義が役割を終えようとしているからです。
何故この期に及んで、神々がなぜ新しい資本主義社会をわざわざ作る必要があるのか、その理由を考えればこれまでの経済の延長に神々の望む世があるとは思えないでしょう。

これまで人間中心の経済活動が全てだった時代では、各個人が望まなくても人や組織の下で働き、労働力を「お金」に変換して生活をして来ました。
そこでは、自分の意志や才能とは関係なく、他者からの要求に基づき賃金のために取引することを優先し、むしろそのために我欲や信念を捨てるのが望ましいとまでされています。
その文明圏において、お金はあらゆるものを手にすることができる手段である一方、モノやサービスを生み出すために各々が自らの意志とは無関係に使役される構図がありました。

神々は、この仕組みにメスを入れようとしているのだと思います。

お金が中心になる世界においては、各個人の価値観や生き方、発想や個性を型に嵌めることで大衆を扇動し、消費行動をコントロールして来ました。
その仕組みで最も美味い汁を吸うのはごく少数の特権階級だけであり、多くの人々は何の疑いもなく奴隷的使役を強制されているのです。

これから「風の時代」だからと、自由な気風で生きていくことを理想としながら、同時に自分以外の人々は会社や工場で一生働き続け、自分だけがその恩恵を享受し続けられるという発想は矛盾します。
魂の赴くままに自由でありたいと願うのであれば、誰かが奴隷的でいて欲しいと思う心こそ、古い時代のマインドそのものです。

神々は人間が掌握してきた「貨幣」という物質的なエネルギーを、次の時代仕様に変えようとしています。
それは今日の資本主義経済が袋小路に入り、大規模なポンジスキームが横行している現状を見れば、常識的な目で見ても限界だとわかると思います。
世界通貨たる米ドルの崩壊と金の暴騰、そのバランスが壊れた瞬間、金融主体の時代は終焉を迎えることでしょう。

では新しい時代の「お金」とはどんな意味を持つのでしょうか。

ここで言う「お金」とは、貨幣や取引通貨だけのことを指すのではありません。
まさに「富」と同義であり、物質的なエネルギーだけでなく精神的、人との繋がりや信頼などから得られるあらゆる所有物を指します。

つまり、円やドルなどの基軸通貨として流通の形を取らずとも、エネルギーの循環や交換が物理的な現象となって、各々の手元に届くのが新しい時代の「お金」だと思います。
これまでは基軸通貨のドルが世界経済を支配していたからこそ、巨大な帝国主義が大手を振る時代だったと考えられます。
ゆえに、円やドルに代替するあらゆる取引手段での流通が可能になれば、資本による経済的支配のルールからは解放されるはずです。

それは具体的にどんな形になるかわかりませんが、モノとサービスを交換するだけなら当事者が直接取引すれば良いだけですし、貨幣でなくともクーポンやトークンがあれば商業取引は可能です。
あくまで国家経済の支配から逃れた取引が実現すれば良いのであり、要は代替手段が限りなくあればそれに越したことはないという話なのです。

今もそうですが、人間社会では他人からお金をもらうために人に奉仕するという仕組みになっています。
「お金」を得るには人間を富の源に置かなければなりませんでしたが、よく考えれば人から貰わず、人にやってもらわなくても「ゼロ」から作り出すことは可能です。
野菜や穀物にしても、土に種を蒔いて水をやり続けて育つ分にはあまり元手はかかりません。
紙にしろ墨にしろ、自然にあるものを加工すれば自分の手で生み出せるもので、自分で作ることができれば他人からモノを買う必要がなく、あるいは自分の手元にあるモノを人に譲ることもできます。

「ゼロ」からお金を作り出す仕組みに気づけば、「金運」を宝くじやお金持ちとのコネに賭けずともお金は巡ってくるでしょう。
新しい時代の金運とは単一の「貨幣」に特化したものではなく、複合的総合的なもので様々やルートや形態を持って現れてくるものだと思います。

そのプロセスにおいて、お金とは物質次元のことだけではなく、「エネルギーそのもの」だと言っても過言ではありません。
例えば真心を込めた商品があったとして、その付加価値がそのままお金になるわけではなく、愛情がエネルギーとして変換され、そのエネルギーを受け取った人が対価を払いたくなるのが、本来の商業のあり方です。

いくらラベルに「真心こもった」と書いたところで、精神的なエネルギーの交換が行われなければ、人々は相変わらず安くて無機質な工業製品を求めるでしょう。
ただ、作り手の人柄や思い、それ以上に磨かれた技術による高度な作品性がエネルギーとして人々に伝わることで、結果的に商品価値に繋がっていくはずです。

ゆえに、新しい時代において「金運」とは一度エネルギーに変換され、エネルギーの質と量に応じて貨幣価値などの形で具現化されていくでしょう。
その仕組みにおいて、コマーシャリズムの資本力で如何様にでも価値を決められた経済は役割を終えていくはずです。

私の話をするなら、現時点でお金の巡りは非常に悪いです。
その反面、植物を育てるセンスや予知などのスピリチュアル的な能力が目覚めたことで、自分の才能を富に結びつけやすくなりました。
通常の「お金」として縁遠くなりながらも、別の形でお金を稼ぐ手段を幾つも身につけたのです。

自然の恵みが無償であるように、自分の才能に係る知識や技術はタダのものであり、ゆえに無から有を生み出す力こそ本来の「金運」なのかもしれません。

その発想や活力を与えて下さるのは神様であり、神への信仰心こそ金運そのものであると言っても過言ではないと思います。
お金は「目に見えるもの」「人間が持っているもの」だと思うからこそ、この成り立ちを理解することができません。
お金が目に見える形でなければ不安なのもわかりますが、それゆえ目に見えない形のお金を信じれば、本当の金運が巡って来るのかもしれません。

それができる人間はこの世に数少なく、陰徳のような修行を伴うからこそ、この金運を掴める人は限られているはずです。
ただそのような行いほど神様の願いだったり、神々からのお役目であったりするわけで、だからこそ誰にでも手にすることができるわけではないかもしれません。

人間は評価や対価が目に見えてないと、すぐに諦めてしまいます。
ただ、真心のあるやり方はすぐに結果になり難く、それゆえに誰に見られてるかわからなくてもやる、くらいの心構えが必要です。
けれども、こういう直向きなところを、人も神様も注意深く見るものです。

現在の金融が一人歩きする数字の世が改まるならば、健全な商業の時代に戻っていくでしょう。
その時代の「富」は、きちんとエネルギーを循環する能力を持った人々が持つべきでしょうし、そういう善意ある人たちによって新しい世界の経済が築かれていく気がしてなりません。

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お祓い漫画「祓戸のお仕事」

楽太郎です。

「祓戸大神」をテーマにした漫画の一作目が完成しました。




登場人物について解説します。

【瀬織津姫命】…言わずと知れた祓戸大神。
常に祓戸殿に坐して、神界の悩み事や地上の禍事を解決する。言いたいことはキッパリ言う性格。

【ナギ】…白龍の少年。神様になるために祓戸で修行している。見ての通り瀬織津姫命によく使われる。苦労人。

今回エキストラとして登場した「猫又ノ神」は完全にオリジナルですが、こう言ったゲストキャラが登場することで話が転がるタイプの作品で考えています。
日本は八百万の神の国なので、猫の神様もおられるでしょうし、九十九神も数多存在するとしたら、「妖怪ウォッチ」並に自由にやれるのではないかと…

話の筋としては「プリキュア」とか「ゲゲゲの鬼太郎」みたいな感じですね。神様の漫画ですが…
この漫画の構想も紆余曲折あったのですが、わりと日曜朝の路線が一番しっくりきました。

瀬織津姫様がヒーロー扱いの漫画は、まさか誰も予想してないでしょうね。
神様でも、邪気を浴びると「魔物化する」と言う話を霊媒師がしてるのを聞いたことがあります。
本当かどうかはわかりませんが、フィクションとして「もののけ姫」のタタリ神のように神様が暴れ回り災いを起こすとしたら、ウルトラマンコスモスが怪獣を正気に戻す時に「フルムーンレクト」を必殺技に使うように、その力で神様が鎮まって誰も傷つかずに収まる、みたいなのが落とし所かなと思いました。
(オタク丸出しの発言)

祓戸四神が揃って巨大化した祟り神に挑む構図、うーんプリキュア。なぜ神様の漫画の構想がプリキュアになってしまったのか…?
まあいいか…老若男女問わず楽しめる作品を目指せば自ずとそうなって行くのでしょうね…
収斂進化でタラバガニとズワイガニが似た形態になってしまったみたいな。

今回は試作の意味もあり、オムニバス前提の作品になりました。
こう言った1ページ漫画の形式に文章を入れて、1話数ページで話を作っていこうと思います。

タイトルは暫定的に「HARAEDO」にしました。
実は00年代のラノベっぽく「はらえど!」にしたかったのですが、狙い過ぎている感じがしたので断念しました。
こう言う流行り廃りのあるタイトルにあえて挑みに行く考え自体は、あまり嫌いではありません。

今後の展開としては、構想が固まるまでは単発的にここで作品を出していき、まとまったら自作のサイトに掲載していく形を取りたいと思います。
印刷物にするとか、グッズ展開等もろもろはまだ考えていません。
この期に及んでマネタイズは全く考えていません。
この手の話は、神様にお任せしています。

瀬織津姫様をテーマに漫画を描くということで、実物の人物でもなく完全に架空のキャラでもない神様を、自分の設定に落とし込むのは苦心しました。
神様に不敬を働けばバチが当たりますから…それを避けるのが一番難しいというか…

ただ、瀬織津姫様には喜んでいただけるのではないかと思います。
よろしければ、今後もお付き合いください。

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光あるうちに光の中を歩め

楽太郎です。

「イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。」
ー「ヨハネによる福音書 / 12章 35節」

記事の表題は、10代の頃に読んだトルストイの同名小説から取りました。

「光あるうちに光の中を歩め」を読んだ当時は、「若いのは今しかないんだから好きなことやろうぜ!」という解釈でしたが、今は違います。
日々悪化していく日本の状況、希望が見えない日常の中で、光を自分で見つけ絶望に飲まれないように信念を貫いて生きていく、その大事さを象徴する言葉なのではないでしょうか。

「光あるうちに光の中を歩め」という小説は、古代ローマのキリスト教が迫害される時代において、豪商のユリウスは若い頃に親交のあったパンフィリウスがキリスト教徒として敬虔な道を歩み続けたことを知り、数々の試練を乗り越えながらユリウスも信仰の道を歩む決意をする、という話です。
これは、今の私の境遇にも繋がるように思います。

ここ最近、私の見る世界はだいぶ軽快になりましたが、逆に世の中の変わらなさとのギャップを感じていました。
未だに物質中心のエネルギーが世を支配しており、その波長に合うと「このまま拝金主義の時代は何となく続いていくのでは?」とすら感じ始めます。

私の心にも昔の賑やかだった街並み、良かった時代の思い出が甦り、どうしようもなく懐かしくなってしまう自分がいます。
そのムードに酔いしれると、「昔は良かった」と思ってしまうのですが、その心こそ古い時代のマインドであり、拝金主義に支えられた物質的な豊かさの幻影に過ぎません。

今、こうした古い時代の集合意識が、新しい時代のエネルギーに拮抗しているように思えます。

「今の便利な時代のままでいい」という感覚は、人の世の集合意識が巨大な集団霊となり、人々を巻き込んで膨張しているように見えます。
人々は古い時代に使っていた気場が壊れたため、何をエネルギー源にして生きていけば良いのかわからなくなったのだろうと思います。

それを補うべく、思念体となった人世のエネルギーに触れると、古い時代の気場に似たエネルギーなのである程度は元気を取り戻します。
ただ、その思念の場は自分たちのエネルギーを寄せ集めて閉鎖的に循環させているに過ぎないので、そのエネルギーに触れることで力は出せても、全く何の推進力もないため特に新しいパワーを生み出すことができません。

これが今、極大期に来ているように感じます。
世の中が何の変哲もないように感じるのも、実際にこのエネルギーが世を支配しているからだと思います。

今日のヘッドラインを眺めても、イスラエルの大規模作戦再開、ウクライナ侵攻の停戦交渉難航、アメリカテックバブルの再燃、どれも変化どころか逆行した状態で安定しつつあります。
あれだけ大風呂敷を広げたトランプ大統領のDOGEや関税政策も、一悶着あってなし崩しになりつつあります。

しかし、私はこのまま何の変化もなく、ダラダラと世界が破滅に向かっていくとは思いません。
今、日本の神々がこの国を変えるべく、動いているのを感じるからです。

先日、続け様に「祓戸大神一神説」、「猿田彦大神の正体」という記事を書きました。
ここで新しい発見をしたのは、日本人は古来から稲作をしながら子々孫々と繁栄していく中で、「サ=稲霊」の神を篤く信奉してきた歴史があるということです。

日本の神々、瀬織津姫命も猿田彦大神も、宇迦之御魂も、「サ神=稲田の神」であり、その信仰は弥生時代以前から続いてきた可能性が高いのです。
出雲の王だった神、素戔嗚命の名にも「サ」が入っています。
「ス」とは「凄い」という意味の接頭語であり、以下を「狭奴穂(さのほ)」書き換えるならば、「凄い稲霊の王」という意味になります。

上代語における「ホ=穂、日、火」は、「王(リーダー・先達)」という意味だと私は考えています。
古代日本語の「ホ」は、「wo」という発音であることが分かっており、「ほ」というより「を」になるからです。

伊弉諾命、伊奘冉命の「イ」は「威」と同じ用法であり、「斎・厳(いつき)」にも使われる文字で、これも「凄さ」を示し「須=ス」よりも神聖性は高いのかもしれません。
文字を変換してみると、伊弉諾命は「伊・狭奴岐(さのき)」伊奘冉命は「伊・狭奴霊(さのみ)」となり、「岐」と「霊」がそれぞれ「君(きみ)=大王」の「彦」と「姫」に対応するのであれば、「聖なる稲霊の王」「聖なる稲霊の女王」となります。

「豊葦原瑞穂国」を作り上げたのは伊弉諾命と伊奘冉命であり、日本とは本来「稲作」によって栄えてきた国家であることの証左となります。
そして、全国にある神社と「記紀」と「日本神話」に名のある神々は、この国土に坐す神霊として祀る以上、日本を司る神々こそ「日本の国土の魂そのものである」と言っても過言ではありません。

しかし、近年では日本産の米に輸出目的の補助金が付与され、国産米が転売され海外で投げ売りされる一方、国策として政府から減反のために「米を作らせない」補助金がバラ撒かれ、その結果として米が暴騰し、もはや日本人は普通に自分たちの国土でできた米を食べられなくなりつつあります。
そして、日本の米が外国に大量に流れる一方、海外の米を輸入し、あるいは古い米に石油加工を施して流通させています。

この「米」を巡る日本の現状と、日本人が崇敬してきた「稲霊」とは無関係と言えるのでしょうか。
「サ神」は村の守り神として「塞の神」に転じ、禍事罪穢れを祓う「久那土の神」、そして日本神道の「祓い清めの神」となって行きました。
今、日本は国境意識も曖昧になり、どんどん外国人が移民して日本の法治制度すら変わろうとしています。

今こそ、日本の祖先が大事にしてきた国土と、日本の神々が守り抜いてきた「豊葦原瑞穂国」について、考えを改める時に来ているのではないでしょうか。

伊弉諾命は、黄泉の国の死者の群れから逃れる時、傍に生えていた「桃」を投げつけて蹴散らしました、
その桃は「大神実命」として、伊弉諾命が死者に取り殺される危機から救い出します。
この「桃」という破邪こそ、私たちの心にある希望や夢、愛情や真心なのではないでしょうか。

今の世界に横たわる思念とは「我良し」、精神的なものや道理よりも物質的な豊かさや力、お金に向かうエネルギーです。
その意志に抗うには、自分の目的や精神性を確固たるものにするしかありません。

自分の中に、これまでの古い価値観や習慣に依存する部分があるからこそ、古い時代に引き戻そうとするエネルギーに取り込まれてしまいます。
昔は良かったとか、人に認められたいとか、お金が欲しいとか、その気持ちはわかります。
しかし、そのエネルギーを動機にしても決して前に進む力にはなりません。

神様は、そう言った「昔の時代の夢への憧れ」も、おそらく邪気として認識されています。

今、このどうしようもない日本の状況を、丸っきり変えるために皆で立ち上がろう、と言うつもりはありません。
とにかく、この絶望の闇から逃げ切らなくては、誰もが生き残る先すらないのです。

そのために、自分が依存してきたエネルギーを断ち切り、自分自身のエネルギーだけで生きていく勇気が必要です。
良くない人たちによる妨害とはしばしば、「自分がされて困る」から起こるものです。
そうすると世の中が良くなって困るからであり、それならば彼らが怒るようなことにこそ正解があります。

今はとにかく希望や愛を推進力にして、絶望から逃げ切ることです。
それこそが真の破邪であり、「光あるうちに光の中を歩む」唯一の方法なのだと思います。

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