招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「祓戸三神」新デザインラフII

楽太郎です。

祓戸大神の活躍をテーマにした漫画「HARAEDO」ですが、今回は以前描いた祓戸三神のデザインを再考しました。









漫画第一作でかなりポップな作風になるのは固まったので、デザインはアニメ的要素を強めにしました。

御神名の「速」が抜け、一部漢字表記も変更した形です。
神様を題材にした作品ですし、不敬に当たるのではないかと悩みましたが、子供たちが御神名を覚える際、5文字か6文字で一言で言えた方が親しみやすくなるのでは、と考えました。
漫画のイメージが日曜朝8時なので、幼稚園児が見てわかるような感じにしたかったです。

秋津姫命のデザインに関しては、一番最初に描いた瀬織津姫様がかなりロリロリしてた記憶もあるのですが、その雰囲気に近いです。
「水戸の神様」だけあって抱擁感のあるイメージもあり、何となく天然っぽい雰囲気を残そうと思いました。
ただ、なぜかお姉さん的なイメージにはならず、かなり正統派美少女っぽい感じに収まりました。

気吹戸主命のデザインは、前回のラフとほぼ変更ありません。
ただ、以前はギリギリ少年の設定もありうると考えていましたが、私の考察を元に女神説を採用し、あくまで男装キャラという立ち位置にしました。
何となく夏の有明で盛り上がりそうだなと描いていて思いました(?)

佐須良姫命は、瀬織津姫命同様にかなり謎の多い神様なので取っ掛かりがなくて迷走しましたが、なぜか当初から「ツインテール&ツンデレ路線」だけは固まっていて、その通りになりました。
かなり今風の感じになりましたが、描いてる時に「神様が生足を出して何が悪い」という電波(?)が飛んできたので、何となく行けるかなという気持ちで仕上げました。
速佐須良姫命を調べているうちに、「菊理姫命説」がどうやら一番しっくり来るので、冥界にいる小悪魔っぽいお姫様、と言ったらやはりツンデレ以外考えられず、やはり私は最初から間違っていなかったんだなと思いました(?)

というわけで、漫画としてはまだ1ページしか描いてないにも関わらず、かなり動き出してきました。
話は色々思いつきますし、アイデアも作業もてんこ盛りの状態ですが、神様からの指令が飛んできたらそっちを優先しなければならず、なかなか思うように取り掛かれません。

ぶっちゃけ、私の書く5000文字超のコラムなんて誰も最後まで読んでないだろうとすら思っているのですが、なぜか神様の圧がすごいので書いてます。
私としては、ちょっと前までエロマンガ描いていたような人間にああいうまともなことを言わせないで欲しいと思うのですが、しょうがないですね。

世知辛い世の中です。

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「悪」とは何か

楽太郎です。

仏教の世界には「回峰行」という修行があります。
この修行は念仏を唱えながら山々の参拝所を巡り、何十キロに及ぶ踏破を千日行うというものです。

仙台市秋保の慈眼寺の住職であられる塩沼亮潤和尚は、奈良県の金峯山で千日回峰行を達成された大阿闍梨であり、現在は執筆や公演活動などをされています。
塩沼和尚に関する記事からのお話ですが、「悟り」に至る上で最後まで課題となるのが、「人を嫌う気持ち」だそうです。
そして精神的な自由を手にするためには、「忘れきる、捨てきる、許しきる」という手放しが大切であると説かれています。

確かに、自分の感情を手放す時に最も根深い執着が「憎しみ」や「嫌悪」かもしれません。
「否定したい気持ち」とは、ただ単に不利益をもたらす敵対者を排除したい欲望から来るものだけではなく、自分が自分らしく生きるための信念とか、自分を守るために必要な自己保存欲とか、人間が生きる上で備わっている根源的な感情です。

自分が過去にされた嫌なことは、時が経てば別の見方ができて許せるようになったり、忘れてどうでも良くなってくるものです。
しかし、例えば今目の前で人を殴っている光景を見たり、明らかな詐欺の電話を受けたりしたら当然のように腹が立ちます。
この時に自分が当事者になりながら平然と笑って返せるようになるには、相当な精神的成長が必要です。

「悪」とは何か、と考えます。

今の世に蔓延る悪は、大抵は悪の顔をしていません。
往々にして悪とは、バイキンマンのように悪者顔をしてのさばっているのではなく、立派な肩書きと綺麗なイメージで善業をしているように振る舞うものです。
むしろ人に白い目で見られる程度の悪は可愛いものであり、本当の巨悪ほど目に見え難く、むしろ一般的には好意の対象であったりします。

現代におけるその巨悪が何なのかここでは語りませんが、例えを出したいと思います。

ある時、真心のある牛乳屋さんが、美味しい牛乳をたくさんの人に飲んでもらいたいと言い、毎朝無料で牛乳配達を始めました。
その牛乳はとても美味しくて、地域でたちまち評判になり、注文が殺到しました。
ただ無料ではサービスが続けられないので、割安価格で牛乳を定期配達することにしました。
地域住民は安くて美味しい牛乳が毎日飲めるので、とてもありがたがりました。

しかし牛乳屋は儲けに味を占め、次第に配達の値段を上げ始めました。
地域住民は多少の値上げなら致し方ないと思ってしばらく黙ってましたが、徐々に我慢しづらいレベルの価格になってきました。
では安く別の牛乳屋を選ぼうとしますが、その牛乳屋がほぼ業界を独占しており、替えとなるサービスがほとんどありません。

それで値段に不満を抱えながらその牛乳屋の牛乳を飲み続けるか辞めるか、という話になるのですが、特殊製法で作られた牛乳の味に魅了された地域住民は、簡単に牛乳配達を諦めることができません。
牛乳を飲むことを諦めない限り、その牛乳屋の牛乳だけを一生飲み続けることになります。
そして、牛乳の価格はその牛乳屋の言い値です。

これは例え話ですが、心当たりはないでしょうか。
始めは「良い」と思われて人々に受け入れられ広まったのだけど、後々になって欲が出て改悪されていると気づいた時には、代替手段がほぼ存在しない。
自分が諦めれば済む話だけれど、その手段を採用しなければ関わることすらできない。
今の世の中をコントロールしている大体の仕組みは、これと似たようなものです。

こういった形の支配が、支配を支配と思わせない形で私たちの足元に広がっています。
そこには明確な作為と策略が練られているのに、普通に暮らす上では「便利なサービス」だと思って享受しています。
その当たり前と日常の中にある思惑に鈍感であり続ける限り、思惑の中にある悪意にも気づかず、知らずのうちに悪事に加担していたりもするのです。

「3と7」を取引してイーブンに見せるようなビジネスは、消費者にWIN WINと思わせておきながら実際は向こうの方が遥かに取り分が多いのが特徴です。
それに気づかせないためにサービスを綺麗で公平なものに見せ、作為など存在しない顔をして人々から搾取をし続ける、そんな構図が世に蔓延っています。

この「悪」を悪と思わない人がほとんどです。
むしろそういう世の中なのだから、目鯨を立てる方がおかしい、と。
私は自分の目線ではこれ以上醜悪な仕組みはないと思いますが、他の人々からすれば疑う余地も感じないかもしれません。

これを目の当たりにして、許せるかどうかを自分に問い続けるのは「苦行」とすら感じます。

ただ、悪とはやはり「正義」の対極にある存在であり、それは光と闇のように、どちらか片方が存在するから背反が生まれる性質のものでしょう。
自分を正義だと思うから悪を立てねばならず、向こうも自らを正義だと思うからこちらが悪になり、ゆえに争わなければいけません。
つまり、自分が間違っていると思えば、相手が間違っていても仮に正しくても、敵対する理由にはならないはずです。

「正義」も「悪」も実際には見えないもので、人間が恣意的にレッテルを貼り、色分けするから形となって現れるものです。
目に見えて「憎むべき悪」があるから、色が目につく限り攻撃せざるを得ず、色がある限り平和にならないと考えれば、色をつけたもの全てを排除し滅ぼすことが絶対的な正義となり得ます。
そうして行われてきた人類の過ち、そして今もなお堂々と行われる民族浄化やジェノサイドは、「正義」がこの世に存在するからこそ、力のある正義側に「悪」とされた力なき人々が受ける暴力でもあります。

人間は、「悪」がある限りこの世に平和がなく、悪が存在しない世界こそが善なる完全な世界だとイメージします。
しかし、正義を完遂するには悪を根絶しなければならず、その正義も一方から見れば悪そのものです。
つまり、正義が存在する以上は悪があり、悪が存在する以上は正義を持って戦わねばならず、平和は永久に実現しません。

他人が悪に見えて仕方ない、許せないと思う気持ちがすぐに改められないのが人間です。
嫌いだし腹が立つならお互いに顔を合わせなければ良いだけで、気に入らないなら見ないようにして、それぞれが望む暮らしをし互いに干渉しなければ問題ありません。
しかしなぜか人間は、腹を立てたがり攻撃をしたがり、「棲み分ける」という選択に頭が及びません。
自分が気持ち良く暮らすためには、嫌いなものや憎むべき人がこの世から消え去ってくれないとダメだと思ってしまうのです。

この感情は、自分にはないと言い切れません。
それゆえ、頭ではわかっていても肚の底で綺麗さっぱり割り切るには成長が必要なのです。
確かに自分が傷ついた時、損をした時は誰かのせいにしたくなります。
けれど、そういう時ほど自分に起こった「良くないこと」は悪に結びつけず、自分の生き方を改めるための「気づき」にすることはできないでしょうか。

何か良くないことが起こる時というのは、自分の生き方や他人との関係において、そのままのやり方では上手くいかない、という暗示でもあります。
何か原因があるから起こる凶事は、実際に理由があるから発生するものです。
ゆえに、それに気づいて手放すものを手放す、そうすることは自分を成長させ同じ凶事を引き起こさないための対処法となります。

「悪」を見た時に腹立たしく思うことを、未熟のせいにすれば良いわけでもないと思います。
むしろ「悪」は悪と認識するから気づけるのであり、自分の心にある正義も悪と感ずる心も、人間本来の精神的な働きそのものです。
大事なのは、「悪を責めてはいけない」という無抵抗主義こそが正義だと思うことではありません。

「正義」という概念も、「悪」という概念も、そのものを消し去ることはできません。
できるのは自分が正しいと思い込む心を手放すことであり、相手を悪と決めつける心を手放すことだけです。
それは正義への執着を消すことであり、「悪」を認識し気づきとした上で、悪が気づきを与える存在という以上の意味を持たないということです。

目の前にはない、理想や概念としての「悪」を滅ぼそうとするなら、地球上を飛び回ってまだ見ぬ巨悪を倒すために殺戮を続けなくてはならないでしょう。
そこまでしなくても、地球は広いので自分が気の合う人たちと同じ土地で暮らせば良いだけの話です。
この理屈が通じない人たちに対しても、ただ単に自分が棲み分けて国境線を引けば済みます。

もし向こうが国境を越えて攻撃してくるなら、その時に正々堂々と迎え撃てばいいでしょう。
中途半端に「平和主義」を謳い、無抵抗こそ美学のように死に花を咲かせると、今の日本のように外国人が何をしても言い返せない国になってしまいます。
それでは社会はおろか、自分も大切な人も守りきることはできません。

悪とは気づきを与えてくれる凶事の象徴に過ぎず、悪意はせいぜい自分が得をするとか、人を破滅に陥れるとか、そういった目的しかありません。
つまり、高い理想を理性的に構築することを善とするなら、悪はその妨害を目的にすることしかできません。
悪意は応じるから応酬をせざるを得なくなりますが、それは悪意に対して悪意を返すから起こります。
ゆえに悪意に対抗するには、厳しい態度と善意だけが有効です。

暗く澱んだ感情は、明快で筋が通り、思いやりのある気持ちを最も苦手とします。
明確な悪意に対して、敵対しないという態度は相手を骨抜きにすることでしょう。
それは決して戦いを放棄するということではなく、悪意に対する戦い方は不戦的だという意味です。
悪の排除に目鯨を立てるよりも、理想を実現するために善業を重ねる方がよほど前向きですし、実際それ以外に世の中を良くする方法があるのでしょうか。

罪を憎まず人を憎まず」の精神こそ、悪を受け入れ正義を手放すことに繋がります。
ただ、人々がこの意識に至るまでは長い道のりかもしれません。

最後に、「悟り」について語りたいと思います。

冒頭で取り上げた「千日回峰行」ですが、天台宗の比叡山が本家です。
比叡山の千日回峰行は7年間続けられ、1日30キロの山々の礼拝所を念仏を唱えながら巡り、それを800日続けた後に100日間を60キロ、最終段階である100日間に1日84キロを踏破し、最後の日々は睡眠時間2時間、14時間に渡る回峰行となるそうです。

この厳しい修行を終えた満行者は歴代で51名しかいません。
その厳しい荒行の歴史に名を残す大阿闍梨に、「正井観順」というお坊さんがおられました。
この方は千日回峰行を一度ならず2555日間続けられ、回峰行中に倒れ亡くなられたそうです。

観順和尚は明治から大正にかけての方で、元は津軽の豪農の家で生まれ、自身も豪商として活躍されていました。
しかし自身が協力した選挙での不正や、親戚との金銭トラブルなどに嫌気が差し、当時最大の海難事故であった瓊江丸殉死者の霊を弔ったことを機に、本格的に仏門に入られました。
ただ、宗門では比較的高齢で経歴が浅かったこともあり、厳しい修行に臨もうと回峰行の真髄に目覚めていかれました。

冒頭にご紹介した塩沼和尚は厳しい修行が即ち悟りに至るのではないと説かれていますが、無心に山を巡り念仏を唱え仏と心を一つにすることは、生きながら煩悩を手放す行為そのものであり、悟りの実践なのではないかと思います。
つまり観順和尚は、回峰行の中にこそ悟りを見出されたのかもしれません。

浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、人間の欲は備わっているものであり、煩悩自体を消し去ることはできないと悟られました。
欲や煩悩は「悪」と誤解されがちですが、その悪の要素を取り去ってしまうと人間としての心も手放すことになります。
しかし、人間が人間である以上、捨てられるのはこだわりや執着だけであり、概念や感情そのものまで捨て去ることはできないのです。

従って、「悟り」とは惑わない心そのものであり、その心における許しこそが悟りと言えるのではないでしょうか。
だからこそ、異なる意見を持つ者と出会って平常心でいるのは難しく、ただそこで無闇に争わず、相手を許す心苦しさの中にこそ成長があり、気づきや「悟り」への道があるのかもしれません。

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日本をどうするか?

楽太郎です。

今回は、世界経済の切り口から日本の今後について語りたいと思います。
結論から言うと、これから世界恐慌が起こります。
経済的に説明すれば、今アメリカのトランプ政権が目指しているソフトランディングは失敗します。

トランプ政権、1兆ドル超の26年度国防予算要求へ-13%余り増額 | Bloogberg

米政府から5月2日に発表された2026年財政年度予算請求額によると、国防費は前年度比13・4%増の1兆119億ドル(約145兆7000億円)で、政策的支出を示す「裁量的経費」は前年度予算の22.6%削減、歳出削減額は全体で1630億ドル(約23兆6000億円)となっています。
この削減対象となった分野は、エネルギー・農業・環境政策・教育・住宅補助・都市開発・海外支援などで、ほぼ国防費以外は全削減の割に予算請求額は過去最高となりました。

トランプ大統領は去年の大統領選で反戦平和と財政緊縮を打ち出して当選したはずですが、イーロン・マスクと共に肝入りの歳出削減に乗り出したものの、この予算案を見ると軍事費以外の予算を削減して軍事費に回しているだけに過ぎないように思えます。
アメリカの国防総省に費やされる予算は、不正支出や不明瞭な会計が多く、監査法人から何度も財務諸表を突き返されるほど会計に関してブラックな組織です。

国防予算はイスラエルのガザ侵攻に横流しされ、F16戦闘機などが無償供与される形となります。
ウクライナ侵攻ではウクライナ軍の軍事支援に渋りつつ、天然資源の差押えやAI兵器の開発を強要しながら、イスラエル軍が更地のようなパレスチナ自治区を空爆するために米国の税金が使われるのです。

トランプ大統領は、ペンタゴンの言い値通りの予算を捻出したように見え、果たしてトランプ大統領は選挙公約を遵守する気があるのか、疑わしくなってきました。
トランプ大統領が公約に掲げていたDSの糾弾や人身売買に関する摘発が有耶無耶になっているとは言いませんが、この予算案を見ると少なくとも米政府の放漫財政にメスを入れる気はないように思えます。

あれだけ威勢が良かった報復関税政策に関しても、諸外国からの反発に耐えきれず弱腰となり、猶予期間を設けることで混乱を避けているだけです。
トランプ大統領が推進するアパレルなど製造業の国内回帰は現実的でなく、製造業を中国など人件費の低い国々の競争力に匹敵するレベルにするなら、大量に移民を入れて低賃金で働かせなければ低価格競争に勝つことはできません。

移民に反対しているトランプ政権が米国民を低賃金で働かせるのは不可能に近く、しかも低収入の市民が高インフレの経済を支えることは難しいでしょう。
つまり、トランプ政権は真逆のことを言いながら真逆のことをやっているのです。
ただしトランプ大統領が意図的にグレートリセットの引き金を引くつもりはなくても、このままだと意図せずとも必然的にトリガーを引くことになるはずです。

アメリカの調査会社「バンク・オブ・アメリカ」のファンドマネージャーに対するアンケートでは、これまで米国投資を牽引してきた米国株・株式一般・テクノロジー・エネルギーは弱気含みとなり、電力や債券、ユーロ圏やイギリス株などに移っているそうです。

今のアメリカ経済を支えるテクノロジー分野、マグニフィセント7が牽引するS&P500の時価総額は過去最高域に達しながら、実は水面下では海外投資家の評価に戦々恐々とする現実があります。
実は、海外投資家の持つ米国株は20%弱の18兆5000億ドルと言われており、これまでAIバブルを蒸して外国から投資を呼び込んできた米国は、彼らの顔色一つで奈落の底に落ちる危険が常に隣り合わせです。

ミシガン大学の調査では、現在のアメリカの景況感、インフレ率共に1980年来最悪であり、FRBが鉛筆を舐めて出している統計を好意的に捉えたとしても、経済政策に関して悪手しか打っていないトランプ政権が、経済学200年の歴史を塗り替える快挙、つまりは奇跡のソフトランディングが可能かと言えば、私は全くそうは思いません。

投資家やエコノミストや経済評論家は、自分が損さえしなければ良い人たちが多いので、本当のことを言う人はかなり少ない世界です。
そこで出回るデータや論評は、はっきり言って有象無象に過ぎません。
何を楽観視して何を危険視するかが問われますが、「誰も真実のデータを出していない」可能性もあり、警戒はしても楽観視するような情報ほど注意する必要があるでしょう。

このソフトランディングに失敗すれば、アメリカに訪れるのはスタグフレーション、つまり景気後退とインフレのダブルパンチによる経済崩壊です。
これによりリーマンショックを超える米国株と国債の大暴落、基軸通貨ドルの失墜と世界経済のバランスの崩壊、脆弱なユーロ経済圏や西側諸国、我が国日本も例外なくアメリカの恐慌に巻き込まれて行くでしょう。

この数年、アメリカのマグニフィセント7が牽引してきた米国の株式市場は、4月以降の取引営業日の2割が2%前後、株価が乱高下しているというデータが存在します。
マグニフィセント7と言えば、生成AIブームの火付け役であり、GoogleもMicrosoftも独占禁止法で司法省に目をつけられている企業であり、生成AIの特性上、著作権法や個人情報などの人権を無視して開発を進めているハイテク分野でもあります。
権利的に見て社会的・文化的な影響を全く顧みることのない技術開発は、実際はアメリカの株価を牽引するための広告として使われていたりします。

果たして、これまで100兆ドル以上を費やして一つのアプリでしかない、正確性も権利面もあやふやな生成AIが文字通りの「AI革命」が成し遂げられないまま、テック株の大暴落に巻き込まれるとしたら、果たしてシリコンバレーの富裕層が夢描いた「AIユートピア」は実現するのでしょうか。

これらのビッグテックへの投資は、アメリカの中堅より上の大銀行が主体であり、それこそバンク・オブ・アメリカやJPモルガンなどの金融機関です。
米国株・国債の大暴落を受けて焦げつくのはこれらの金融機関であり、大して命に関わりのないアプリに莫大な投資をし続けられるとは思いません。

AI開発は、明確な革新技術となり得るものですが、AIロボットやデバイスの製造には全世界にサプライチェーンが確立していなければ安定供給は難しく、どうしてもiPhoneのように寡占企業による専売特許になって行かざるを得ません。
そのため今日のような不安定な国際状況では、生産と流通の面で課題が多すぎるのです。

生成AIに関しては誇大広告の部分が多分にあり、実際に現時点で言えば大層な技術ではありません。
AIバブルが崩壊すれば内実を知ることになると思いますが、現状はAIのユーフォリアの渦中にあるため、人々はなかなか耳を傾けないでしょう。

さて、アメリカが仕掛けたポンジスキームと言うべきAIバブルに乗っかり、日本政府高官や官僚組織、政治家や大企業と学閥のお偉いさんはさぞかし豊かになったことと思います。
それを尻目に、アメリカの経済崩壊が起きたら日本も巻き込まれるのかと言う話ですが、経済評論家の間ではわりと楽観的な意見が主流です。

日本には1.2兆ドルの外貨準備高があり、国内経済の基盤が盤石なため、諸外国に比べると比較的軽微だろうと言われています。
90年代の不動産バブルは大体アメリカから仕掛けられましたが、バブルの予後が最悪だっただけで崩壊自体は経済にさほど深刻ではなかったようです。
日本は未だに国内資本率では世界トップクラスの優良国であり、純粋に政治家と官僚に恵まれないだけの国なのです。

ただ、国家のトップにいる人々が日本人にとって最大のネックであり、国民が今すぐ目覚めたとしても打つべき手段はほとんどないでしょう。
落とすべき政治家の次に出てくる候補者を消去法で選ばなければいけない国が、奇跡的に復活するはずがありません。

現状、ただでさえ物価高で人々の労働意欲が低下している時に、消費行動が爆上がりする要因は皆無です。
食品も値上がり、流通も細くなっている実態経済において、世界恐慌と関税戦争に巻き込まれただけで一般市民の生活はますます逼迫するでしょう。
スピリチュアル業界では「2025年問題」とか言われますが、南海トラフ地震の脅威も身近にある中、大恐慌と大規模災害が重なれば手も足も出ない状況に置かれるのは目に見えています。

このカタストロフは目前に迫っており、これは脅しでも予言でも何でもなく、大不況下で大災害が起これば極度の混乱状態となり、にわかに復興できないのは冷静に考えれば誰でもわかります。
だからこそ、日本人には一人でも多くこの危機感を共有したいと思うのです。

日本人は戦後80年間、外国の富裕層や企業が雇うロビイストが贈収賄をすることで、実質的に動かされてきた米国政府の言いなりになって来ました。
それでも、日本人は優秀な民族なので、島国根性と言われながら独自の技術や文化を発展させ、産業として世界に認められました。
しかし、そこで「世界」というものを意識し始めて、日本はダメになったように見えないでしょうか。

現在、リバイバルブームで注目を浴びる製品やコンテンツの殆どが、90年代までに日本国内向けに作られたものです。
2000年代に入ると「グローバリズム」なるものが台頭し、外国資本だけでなく海外文化への受け入れも急速に進んで行きました。
日本企業が「世界」と言うものを意識し、西側諸国のルールや価値観をスタンダードにして行った結果、国内産業が衰退し外資系企業が隆盛する今の現状があるように思えてなりません。

日本の良い部分は形式化し、むしろ真髄に近い部分を海外に持っていかれ、日本人が外国の模倣を受け入れるしかない現状を鑑みるに、やはり上手いことやられてしまったと考えられると思います。
日本人は日本の国内市場を意識し続ける限り、独自の経済圏を保守し続けることができたのではないでしょうか。
日本が不動産バブル崩壊から立ち直れず、ダラダラと衰退の一途を辿る要因となったのは、一重に日銀の度重なる失策と円安政策にあります。

そもそも、日本の購買力平価に比較して円の通貨価値は半値に近く、実は国際競争力において覇権を取れる実力を持ちながら、日本政府はわざとそれを回避してきました。

日本が円安方針を取れば海外への輸出は黒字化し、貿易赤字が膨らめば企業収益は上がります。
国民に債務が増大すると、自己資本以外に資産を持たない市民に借金をさせることで、政府や大企業、資産家はますます潤います。
特に国内の輸出企業はグローバル化に成功した企業が多く、大企業がほとんどを占めるがゆえに影響力は甚大です。

こうして国民を貧しくさせることで利潤を得てきた人々がいる一方、家族を作れず少子化に拍車がかかった若者世代は豊かになりづらく、人材不足の穴埋めをするために外国人を斡旋することで儲けている人々もいます。
そして、物価高が続くのも日銀が円安方針を変えないからであり、その理由は円高が進むと昨年8月の米国株大暴落のような「円キャリートレード」の巻き戻しがトリガーとなり、米国経済は再び大暴落の憂き目に遭う恐れがあるからです。

つまりは、全てアメリカを中心とした国策であり、アメリカの支配下にある限り日本は復活できないどころか、一緒に破滅する必要のない日本までもが奈落の底に引きずり降ろされるということです。
この事態を私たちが止めることはできないとしても、ここまで見えても何もしない方が不可思議と言うものです。

ただし、今から政治活動に熱心になったところで時すでに遅しと言わざるを得ません。
現状でも国内がここまで荒れている上に、世界経済の崩壊は日本の立て直しよりも先にやって来ます。
だから私の考えとしては、ハードランディングへの備えをしつつ、動乱の起こる日本をどう作り直して行くか、と言うところに頭が向いています。

おそらく、現時点でその規模まで予測することは不可能です。
ただ明確に言えることは、日常的に手に入るものは入手できるかわからなくなり、食卓に並ぶ食べ物も、いつも通っている店もいつまであるかわからないと言うことです。
何となく今の生活が続いていくという頭でいたら、気持ちが追いつかなくなるかもしれません。

だからこそ、社会や経済に対する依存を極力減らし、自分自身も文明から自立できるような準備をしていくべきだと思います。
少なくとも、食糧難が長期化した時に何を食べて生きていくか、心身を病まず健康的に生活できるのか、想像を巡らせるところから始めてみてはどうでしょうか。

この記事をここまで読んでいただければわかると思いますが、全ては「アメリカ」という国家のエゴ、あるいはその背後にいる少数の人々の匙加減に100年近く振り回されて来たのが、我が国日本です。
このカラクリを知り、知った上でどう判断して生きていくか、その立場でものを考えてこそ日本の未来をしっかり見ることができるでしょう。
そして、自分一人でも何ができるかを考え、自分一人でも行動する信念と勇気を持つことです。

今こそ、「日本人よ立ち上がれ」とは言いません。
何も知らず、何もやらずに死にたくなければ、この世界と日本という国に対して、本気で向き合わなければいけない時が来たのだと思います。

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「祓戸のお仕事」後日談

楽太郎です。

先日投稿した瀬織津姫様の漫画「祓戸のお仕事」のアフターエピソードが描きたくなったので、描いてみました。


今回は実験的に一コマで描いてみました。
縦長の画面は複数コマ、横長は一コマ漫画に適しているように感じました。

WEBは端末の特性上、横長は見づらくなる傾向にあります。
サイトのレスポンシブデザインの関係で、コンテナの中に収まる形は縦長の方が相性が良いのです。
だから小ネタとして出す程度なら横長でも構わないかもしれません。

こうして描いているうちに、徐々にキャラクターが動き始めてきました。
瀬織津姫様は、私の脳内ではあまり和服を着ていらっしゃる感じがしないので、普段着をお描きするなら洋服っぽいのかなという印象です。
個人的に、ワンピースを着ておられる感じがするのですが、そもそも神様が女性のお姿をされているとは限らないのに、何故そこまでイメージできるのかわかりません。

瀬織津姫様には、漫画の中だけでも遊んで頂きたいなと思っています。
ヘルメットつけてカブを運転するとか、野球のユニフォームでホームランを打つとか、浴衣姿で金魚すくいに挑戦するとか、「神様なのに」みたいなところを面白くしていきたいです。

次の作品のネームも固まっています。
次回は2ページに渡って若干ストーリーのある作品にしたいなと思っています。
どうぞお楽しみに。

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新しい時代の「金運」

楽太郎です。

ここ数日は、無意識に過去の記憶が噴き出してくる現象に遭遇しています。
突然、何十年も忘れていた出来事や光景が思い浮かび、懐かしさと同時に奇妙な違和感を覚えます。

何の前触れもきっかけもなく古い記憶が呼び起こされることで、昔あった場所や人が今どうしているかを調べたくなったりします。
そうして追憶に費やす時間は、意識が過去に向かう限り建設的な思考ができません。

この「懐古志向」の流れは、邪気の一種ではないかと思います。

この邪気はこれまでの殺伐としたエネルギーとは違い、愛着や良い思い出を媒介とするために邪気とは認識しにくいです。
しかし、覚醒を阻害し引き戻すエネルギーに変わりはなく、この邪気は自分の中の過去に対する後悔や、「昔は良かった」という感情に巣食います。

この保守的な邪気は、おそらく集合意識の具象化であり、人々がこれまでの価値観で生きることができなくなったことによる反動形成ではないでしょうか。
つまり、これからの時代を生きる指針が見つからないため、懐古主義の大キャンペーンを張り、古いやり方を再び指標に据えようとしているのだと思います。

つまり、これまでと同じやり方を続けるための同調圧力であり、逆に言えば同じことを続ける以外は新しいことを目標にしない、という意思決定でもあります。
自己模倣と再生産だけを延々と繰り返せば、これまでの物質中心の短絡的な世界を維持し続けられると人々は無意識に思っているのでしょう。
しかし、水槽の中で澱んだ水を循環しているに過ぎないので、いずれ長くは持たないはずです。

この懐古志向の邪気は、劣等感や愛着や憧れなど人の柔らかい心の部分を刺激し、温かい感情を苗床にする分タチが悪いのです。
この擬態した邪気は、優しさを疑いもなく持ち続ける限り古い時代のマインドに押し流す力があります。
何となく心の隙間に入り込まれて、人世のエネルギーに引き戻されてしまった人もいるかもしれません。

神代に上がる人々が出てくる時期に、この種の罠は巧妙な悪意を感じます。
人世に押し戻そうとするエネルギーに触れると、何となく危機感が麻痺した状態になり、この平和で微妙な社会がダラダラと続いて、いずれ世の中がジワジワ良くなっていくのではないか、と錯覚し始めます。
しかし、その平和ボケした感情こそが邪気であり、警戒感を解かれた意識は搾取に疑いもなく浸かり切って抜け出せなくなってくるはずです。

「お金」が万能である時代は未来永劫変わらず、どれほど荒れた世であっても経済の中心にいれば、食うに困らず今まで通りの幸福を手に入れられる、そう思い込むようになってきます。

しかし地球が次元上昇をして、神々が主導権を握る世になるべく動いているのは、そう言った拝金主義と特定の支配階級による帝国主義が役割を終えようとしているからです。
何故この期に及んで、神々がなぜ新しい資本主義社会をわざわざ作る必要があるのか、その理由を考えればこれまでの経済の延長に神々の望む世があるとは思えないでしょう。

これまで人間中心の経済活動が全てだった時代では、各個人が望まなくても人や組織の下で働き、労働力を「お金」に変換して生活をして来ました。
そこでは、自分の意志や才能とは関係なく、他者からの要求に基づき賃金のために取引することを優先し、むしろそのために我欲や信念を捨てるのが望ましいとまでされています。
その文明圏において、お金はあらゆるものを手にすることができる手段である一方、モノやサービスを生み出すために各々が自らの意志とは無関係に使役される構図がありました。

神々は、この仕組みにメスを入れようとしているのだと思います。

お金が中心になる世界においては、各個人の価値観や生き方、発想や個性を型に嵌めることで大衆を扇動し、消費行動をコントロールして来ました。
その仕組みで最も美味い汁を吸うのはごく少数の特権階級だけであり、多くの人々は何の疑いもなく奴隷的使役を強制されているのです。

これから「風の時代」だからと、自由な気風で生きていくことを理想としながら、同時に自分以外の人々は会社や工場で一生働き続け、自分だけがその恩恵を享受し続けられるという発想は矛盾します。
魂の赴くままに自由でありたいと願うのであれば、誰かが奴隷的でいて欲しいと思う心こそ、古い時代のマインドそのものです。

神々は人間が掌握してきた「貨幣」という物質的なエネルギーを、次の時代仕様に変えようとしています。
それは今日の資本主義経済が袋小路に入り、大規模なポンジスキームが横行している現状を見れば、常識的な目で見ても限界だとわかると思います。
世界通貨たる米ドルの崩壊と金の暴騰、そのバランスが壊れた瞬間、金融主体の時代は終焉を迎えることでしょう。

では新しい時代の「お金」とはどんな意味を持つのでしょうか。

ここで言う「お金」とは、貨幣や取引通貨だけのことを指すのではありません。
まさに「富」と同義であり、物質的なエネルギーだけでなく精神的、人との繋がりや信頼などから得られるあらゆる所有物を指します。

つまり、円やドルなどの基軸通貨として流通の形を取らずとも、エネルギーの循環や交換が物理的な現象となって、各々の手元に届くのが新しい時代の「お金」だと思います。
これまでは基軸通貨のドルが世界経済を支配していたからこそ、巨大な帝国主義が大手を振る時代だったと考えられます。
ゆえに、円やドルに代替するあらゆる取引手段での流通が可能になれば、資本による経済的支配のルールからは解放されるはずです。

それは具体的にどんな形になるかわかりませんが、モノとサービスを交換するだけなら当事者が直接取引すれば良いだけですし、貨幣でなくともクーポンやトークンがあれば商業取引は可能です。
あくまで国家経済の支配から逃れた取引が実現すれば良いのであり、要は代替手段が限りなくあればそれに越したことはないという話なのです。

今もそうですが、人間社会では他人からお金をもらうために人に奉仕するという仕組みになっています。
「お金」を得るには人間を富の源に置かなければなりませんでしたが、よく考えれば人から貰わず、人にやってもらわなくても「ゼロ」から作り出すことは可能です。
野菜や穀物にしても、土に種を蒔いて水をやり続けて育つ分にはあまり元手はかかりません。
紙にしろ墨にしろ、自然にあるものを加工すれば自分の手で生み出せるもので、自分で作ることができれば他人からモノを買う必要がなく、あるいは自分の手元にあるモノを人に譲ることもできます。

「ゼロ」からお金を作り出す仕組みに気づけば、「金運」を宝くじやお金持ちとのコネに賭けずともお金は巡ってくるでしょう。
新しい時代の金運とは単一の「貨幣」に特化したものではなく、複合的総合的なもので様々やルートや形態を持って現れてくるものだと思います。

そのプロセスにおいて、お金とは物質次元のことだけではなく、「エネルギーそのもの」だと言っても過言ではありません。
例えば真心を込めた商品があったとして、その付加価値がそのままお金になるわけではなく、愛情がエネルギーとして変換され、そのエネルギーを受け取った人が対価を払いたくなるのが、本来の商業のあり方です。

いくらラベルに「真心こもった」と書いたところで、精神的なエネルギーの交換が行われなければ、人々は相変わらず安くて無機質な工業製品を求めるでしょう。
ただ、作り手の人柄や思い、それ以上に磨かれた技術による高度な作品性がエネルギーとして人々に伝わることで、結果的に商品価値に繋がっていくはずです。

ゆえに、新しい時代において「金運」とは一度エネルギーに変換され、エネルギーの質と量に応じて貨幣価値などの形で具現化されていくでしょう。
その仕組みにおいて、コマーシャリズムの資本力で如何様にでも価値を決められた経済は役割を終えていくはずです。

私の話をするなら、現時点でお金の巡りは非常に悪いです。
その反面、植物を育てるセンスや予知などのスピリチュアル的な能力が目覚めたことで、自分の才能を富に結びつけやすくなりました。
通常の「お金」として縁遠くなりながらも、別の形でお金を稼ぐ手段を幾つも身につけたのです。

自然の恵みが無償であるように、自分の才能に係る知識や技術はタダのものであり、ゆえに無から有を生み出す力こそ本来の「金運」なのかもしれません。

その発想や活力を与えて下さるのは神様であり、神への信仰心こそ金運そのものであると言っても過言ではないと思います。
お金は「目に見えるもの」「人間が持っているもの」だと思うからこそ、この成り立ちを理解することができません。
お金が目に見える形でなければ不安なのもわかりますが、それゆえ目に見えない形のお金を信じれば、本当の金運が巡って来るのかもしれません。

それができる人間はこの世に数少なく、陰徳のような修行を伴うからこそ、この金運を掴める人は限られているはずです。
ただそのような行いほど神様の願いだったり、神々からのお役目であったりするわけで、だからこそ誰にでも手にすることができるわけではないかもしれません。

人間は評価や対価が目に見えてないと、すぐに諦めてしまいます。
ただ、真心のあるやり方はすぐに結果になり難く、それゆえに誰に見られてるかわからなくてもやる、くらいの心構えが必要です。
けれども、こういう直向きなところを、人も神様も注意深く見るものです。

現在の金融が一人歩きする数字の世が改まるならば、健全な商業の時代に戻っていくでしょう。
その時代の「富」は、きちんとエネルギーを循環する能力を持った人々が持つべきでしょうし、そういう善意ある人たちによって新しい世界の経済が築かれていく気がしてなりません。

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お祓い漫画「祓戸のお仕事」

楽太郎です。

「祓戸大神」をテーマにした漫画の一作目が完成しました。




登場人物について解説します。

【瀬織津姫命】…言わずと知れた祓戸大神。
常に祓戸殿に坐して、神界の悩み事や地上の禍事を解決する。言いたいことはキッパリ言う性格。

【ナギ】…白龍の少年。神様になるために祓戸で修行している。見ての通り瀬織津姫命によく使われる。苦労人。

今回エキストラとして登場した「猫又ノ神」は完全にオリジナルですが、こう言ったゲストキャラが登場することで話が転がるタイプの作品で考えています。
日本は八百万の神の国なので、猫の神様もおられるでしょうし、九十九神も数多存在するとしたら、「妖怪ウォッチ」並に自由にやれるのではないかと…

話の筋としては「プリキュア」とか「ゲゲゲの鬼太郎」みたいな感じですね。神様の漫画ですが…
この漫画の構想も紆余曲折あったのですが、わりと日曜朝の路線が一番しっくりきました。

瀬織津姫様がヒーロー扱いの漫画は、まさか誰も予想してないでしょうね。
神様でも、邪気を浴びると「魔物化する」と言う話を霊媒師がしてるのを聞いたことがあります。
本当かどうかはわかりませんが、フィクションとして「もののけ姫」のタタリ神のように神様が暴れ回り災いを起こすとしたら、ウルトラマンコスモスが怪獣を正気に戻す時に「フルムーンレクト」を必殺技に使うように、その力で神様が鎮まって誰も傷つかずに収まる、みたいなのが落とし所かなと思いました。
(オタク丸出しの発言)

祓戸四神が揃って巨大化した祟り神に挑む構図、うーんプリキュア。なぜ神様の漫画の構想がプリキュアになってしまったのか…?
まあいいか…老若男女問わず楽しめる作品を目指せば自ずとそうなって行くのでしょうね…
収斂進化でタラバガニとズワイガニが似た形態になってしまったみたいな。

今回は試作の意味もあり、オムニバス前提の作品になりました。
こう言った1ページ漫画の形式に文章を入れて、1話数ページで話を作っていこうと思います。

タイトルは暫定的に「HARAEDO」にしました。
実は00年代のラノベっぽく「はらえど!」にしたかったのですが、狙い過ぎている感じがしたので断念しました。
こう言う流行り廃りのあるタイトルにあえて挑みに行く考え自体は、あまり嫌いではありません。

今後の展開としては、構想が固まるまでは単発的にここで作品を出していき、まとまったら自作のサイトに掲載していく形を取りたいと思います。
印刷物にするとか、グッズ展開等もろもろはまだ考えていません。
この期に及んでマネタイズは全く考えていません。
この手の話は、神様にお任せしています。

瀬織津姫様をテーマに漫画を描くということで、実物の人物でもなく完全に架空のキャラでもない神様を、自分の設定に落とし込むのは苦心しました。
神様に不敬を働けばバチが当たりますから…それを避けるのが一番難しいというか…

ただ、瀬織津姫様には喜んでいただけるのではないかと思います。
よろしければ、今後もお付き合いください。

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光あるうちに光の中を歩め

楽太郎です。

「イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。」
ー「ヨハネによる福音書 / 12章 35節」

記事の表題は、10代の頃に読んだトルストイの同名小説から取りました。

「光あるうちに光の中を歩め」を読んだ当時は、「若いのは今しかないんだから好きなことやろうぜ!」という解釈でしたが、今は違います。
日々悪化していく日本の状況、希望が見えない日常の中で、光を自分で見つけ絶望に飲まれないように信念を貫いて生きていく、その大事さを象徴する言葉なのではないでしょうか。

「光あるうちに光の中を歩め」という小説は、古代ローマのキリスト教が迫害される時代において、豪商のユリウスは若い頃に親交のあったパンフィリウスがキリスト教徒として敬虔な道を歩み続けたことを知り、数々の試練を乗り越えながらユリウスも信仰の道を歩む決意をする、という話です。
これは、今の私の境遇にも繋がるように思います。

ここ最近、私の見る世界はだいぶ軽快になりましたが、逆に世の中の変わらなさとのギャップを感じていました。
未だに物質中心のエネルギーが世を支配しており、その波長に合うと「このまま拝金主義の時代は何となく続いていくのでは?」とすら感じ始めます。

私の心にも昔の賑やかだった街並み、良かった時代の思い出が甦り、どうしようもなく懐かしくなってしまう自分がいます。
そのムードに酔いしれると、「昔は良かった」と思ってしまうのですが、その心こそ古い時代のマインドであり、拝金主義に支えられた物質的な豊かさの幻影に過ぎません。

今、こうした古い時代の集合意識が、新しい時代のエネルギーに拮抗しているように思えます。

「今の便利な時代のままでいい」という感覚は、人の世の集合意識が巨大な集団霊となり、人々を巻き込んで膨張しているように見えます。
人々は古い時代に使っていた気場が壊れたため、何をエネルギー源にして生きていけば良いのかわからなくなったのだろうと思います。

それを補うべく、思念体となった人世のエネルギーに触れると、古い時代の気場に似たエネルギーなのである程度は元気を取り戻します。
ただ、その思念の場は自分たちのエネルギーを寄せ集めて閉鎖的に循環させているに過ぎないので、そのエネルギーに触れることで力は出せても、全く何の推進力もないため特に新しいパワーを生み出すことができません。

これが今、極大期に来ているように感じます。
世の中が何の変哲もないように感じるのも、実際にこのエネルギーが世を支配しているからだと思います。

今日のヘッドラインを眺めても、イスラエルの大規模作戦再開、ウクライナ侵攻の停戦交渉難航、アメリカテックバブルの再燃、どれも変化どころか逆行した状態で安定しつつあります。
あれだけ大風呂敷を広げたトランプ大統領のDOGEや関税政策も、一悶着あってなし崩しになりつつあります。

しかし、私はこのまま何の変化もなく、ダラダラと世界が破滅に向かっていくとは思いません。
今、日本の神々がこの国を変えるべく、動いているのを感じるからです。

先日、続け様に「祓戸大神一神説」、「猿田彦大神の正体」という記事を書きました。
ここで新しい発見をしたのは、日本人は古来から稲作をしながら子々孫々と繁栄していく中で、「サ=稲霊」の神を篤く信奉してきた歴史があるということです。

日本の神々、瀬織津姫命も猿田彦大神も、宇迦之御魂も、「サ神=稲田の神」であり、その信仰は弥生時代以前から続いてきた可能性が高いのです。
出雲の王だった神、素戔嗚命の名にも「サ」が入っています。
「ス」とは「凄い」という意味の接頭語であり、以下を「狭奴穂(さのほ)」書き換えるならば、「凄い稲霊の王」という意味になります。

上代語における「ホ=穂、日、火」は、「王(リーダー・先達)」という意味だと私は考えています。
古代日本語の「ホ」は、「wo」という発音であることが分かっており、「ほ」というより「を」になるからです。

伊弉諾命、伊奘冉命の「イ」は「威」と同じ用法であり、「斎・厳(いつき)」にも使われる文字で、これも「凄さ」を示し「須=ス」よりも神聖性は高いのかもしれません。
文字を変換してみると、伊弉諾命は「伊・狭奴岐(さのき)」伊奘冉命は「伊・狭奴霊(さのみ)」となり、「岐」と「霊」がそれぞれ「君(きみ)=大王」の「彦」と「姫」に対応するのであれば、「聖なる稲霊の王」「聖なる稲霊の女王」となります。

「豊葦原瑞穂国」を作り上げたのは伊弉諾命と伊奘冉命であり、日本とは本来「稲作」によって栄えてきた国家であることの証左となります。
そして、全国にある神社と「記紀」と「日本神話」に名のある神々は、この国土に坐す神霊として祀る以上、日本を司る神々こそ「日本の国土の魂そのものである」と言っても過言ではありません。

しかし、近年では日本産の米に輸出目的の補助金が付与され、国産米が転売され海外で投げ売りされる一方、国策として政府から減反のために「米を作らせない」補助金がバラ撒かれ、その結果として米が暴騰し、もはや日本人は普通に自分たちの国土でできた米を食べられなくなりつつあります。
そして、日本の米が外国に大量に流れる一方、海外の米を輸入し、あるいは古い米に石油加工を施して流通させています。

この「米」を巡る日本の現状と、日本人が崇敬してきた「稲霊」とは無関係と言えるのでしょうか。
「サ神」は村の守り神として「塞の神」に転じ、禍事罪穢れを祓う「久那土の神」、そして日本神道の「祓い清めの神」となって行きました。
今、日本は国境意識も曖昧になり、どんどん外国人が移民して日本の法治制度すら変わろうとしています。

今こそ、日本の祖先が大事にしてきた国土と、日本の神々が守り抜いてきた「豊葦原瑞穂国」について、考えを改める時に来ているのではないでしょうか。

伊弉諾命は、黄泉の国の死者の群れから逃れる時、傍に生えていた「桃」を投げつけて蹴散らしました、
その桃は「大神実命」として、伊弉諾命が死者に取り殺される危機から救い出します。
この「桃」という破邪こそ、私たちの心にある希望や夢、愛情や真心なのではないでしょうか。

今の世界に横たわる思念とは「我良し」、精神的なものや道理よりも物質的な豊かさや力、お金に向かうエネルギーです。
その意志に抗うには、自分の目的や精神性を確固たるものにするしかありません。

自分の中に、これまでの古い価値観や習慣に依存する部分があるからこそ、古い時代に引き戻そうとするエネルギーに取り込まれてしまいます。
昔は良かったとか、人に認められたいとか、お金が欲しいとか、その気持ちはわかります。
しかし、そのエネルギーを動機にしても決して前に進む力にはなりません。

神様は、そう言った「昔の時代の夢への憧れ」も、おそらく邪気として認識されています。

今、このどうしようもない日本の状況を、丸っきり変えるために皆で立ち上がろう、と言うつもりはありません。
とにかく、この絶望の闇から逃げ切らなくては、誰もが生き残る先すらないのです。

そのために、自分が依存してきたエネルギーを断ち切り、自分自身のエネルギーだけで生きていく勇気が必要です。
良くない人たちによる妨害とはしばしば、「自分がされて困る」から起こるものです。
そうすると世の中が良くなって困るからであり、それならば彼らが怒るようなことにこそ正解があります。

今はとにかく希望や愛を推進力にして、絶望から逃げ切ることです。
それこそが真の破邪であり、「光あるうちに光の中を歩む」唯一の方法なのだと思います。

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「猿田彦大神」の正体

楽太郎です。

現在、「神統試論」シリーズの続きに取り掛かっていますが、あまりに情報が膨れ上がり、どう纏めていくか思案中です。
次から次へと新しい発見があるので、頭の中を整理するのも難しい状況です。

この試論の中でキーパーソンとなるのが、「玉依姫命」です。
玉依姫命は、天孫族の一胤たる鸕鶿草葺不合命の妃であり、神武天皇の母となります。
しかし、肝心の鸕鶿草葺不合命に関する情報が不明瞭というか、そもそも御神名からして何となく正体を伏せられている印象がします。

玉依姫命にも「鴨玉依姫命」「櫛玉依姫命」「活玉依姫命」など、様々な系統からの御神名があり、おそらくそれぞれの氏族によって解釈が変わるからだと思います。
その流れで、「鸕鶿草葺不合命」もミステリアスな神格であり、「記紀」はその点をはぐらかす書き方をあえてしているようにしか思えてなりません。
「記紀」はこのように、事実をわざと隠すのですが、なぜか完全になかったというような書き方はしません。

何となく、「読み解いてみよ」と問いかけられているような、そんな知恵比べをしている感覚になって来ます。
記紀が間怠っこしいのは、同じ系統の話が手を変え品を変え何度も繰り返し登場することです。
この既視感のせいで、時代も流れも言葉も混同してよく分からなくなることもしばしばです。

今回は、そんな作業を進めるに当たって、とりあえず情報がまとまったところから出して、「神統試論」の叩き台にして行こうと思います。
その中でも、わりと謎の多い道開きの神、「猿田彦大神」に関しての記事になります。

猿田彦大神は、「記紀」の天孫降臨の段において、天照大御神と高皇産霊神の命を受け、天降る瓊瓊杵命を葦原中津国に道案内をした国津神であるとされます。
その際に、天照大御神の配神である天細女命に故郷の志摩(伊勢)まで同伴し、送り届けてもらいました。

この時、天細女命は志摩国の魚たちに瓊瓊杵命に仕えるかと問い質し、海鼠だけは聞かなかった、という説話が続きます。
その後、故郷の志摩に帰った猿田彦大神は比良不貝に手を噛まれて亡くなります。
この様子から、天細女命は猿田彦大神と共に志摩で余生を過ごしたと考えられます。

奇しくも、「記紀」には類似した説話が登場します。
神武東征の折に高皇産霊神の命を受け、天照大御神の配神たる八咫烏は奈良県の橿原まで神武天皇を案内します。
この時、八咫烏は熊野にいたとされ、大和まで導いたことから紀伊半島南部に縁があったのではないでしょうか。

八咫烏は足が3本のカラスであり、導きをする神の遣いと言われています。
熊野信仰においては素戔嗚命に仕える神使であるとされるため、紀伊半島の地理に詳しいのは理に叶っています。

なお、八咫烏は賀茂神とされ賀茂建角身命と同一しされます。
賀茂建角身命は別名を天日鷲神、神武天皇が地方豪族の長脛彦と争った際、金鵄が加勢に加わったとされますが、天日鷲神のまたの名を天加奈止美命(あめのかなとみ)と言い、金鵄の正体ではないかと言われています。

実は、天孫降臨の際に瓊瓊杵命に道案内をしたのは猿田彦大神だけではありません。
鹿児島県の笠狭崎に瓊瓊杵命が到着した際、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさのかみ)が自分の国を天孫に譲り渡しています。
実際、宮崎県の西都原古墳群という遺跡の近くに、「事勝国勝長狭神の墓」とされる史跡が存在します。
西都原古墳群の男狭穂塚と女狭穂塚は、通説では瓊瓊杵命と妃の木花咲耶姫命の陵墓参考地となっています。

瓊瓊杵命と木花咲耶姫命がお住まいになられた笠狭宮は、鹿児島県南さつま市に複数存在します。
瓊瓊杵命が住まわれた笠狭宮には前笠狭宮と後笠狭宮があります。
前笠狭宮には舞敷野地区、宮之山遺跡に磐座と石趾が残ります。
加世田にある後笠狭宮には瓊瓊杵命と木花咲耶姫命、その三皇子(火照命、火須勢理命、火遠理命)を祭神とする竹谷神社があり、当社は笠狭穂の跡地に建てられたと言います。

海幸彦山幸彦の神話において、山幸彦(火遠理命)は海幸彦(火照命)の釣り針を失くし、あらゆる手を使ってもダメだったのですが、嘆きながら浜辺に佇んでいると海から塩土翁が現れ、海神の宮へ案内をしました。
一説では瓊瓊杵命と木花咲耶姫命の仲を取り持った事勝国勝長狭神は別名を「塩土翁神」と呼ぶとされます。
塩土翁に連れられて海神の宮に行った火遠理命は瓊瓊杵命の御子ですから、世代は一致しませんが説話としては類似します。

興味深いのは、私の地元に近い宮城県の塩竈神社には、当社の主祭神が不明瞭のため解明を命じた伊達藩主の伊達綱村によると、「塩釜六所明神」として猿田彦大神、事勝国勝長狭神、塩土翁神、岐神、興玉命、太田命の6座は同一神であるとしたことです。

これはかなりセンセーショナルですが、これらの神々の事績がほぼ似通っていることから察するに、理に叶っていると言えます。
この事勝国勝長狭神には、よく似た名前の神格が存在し、名を「正勝吾勝々速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)」と言います。
天忍穂耳命は、天照大御神と素戔嗚命の誓約によって誕生した神であり、瓊瓊杵命の父に当たります。
天照大御神が当初は天忍穂耳命に天孫降臨を申しつけたものの、準備中に子供が産まれたのでその子に行かせる、という経緯で瓊瓊杵命が天降ることになりました。

冷静に考えて、この話では産まれたばかりの子に天孫降臨をさせたことになりますが、そもそも天忍穂耳命は天照大御神が身につけた珠からお産まれになられたので、言うのも野暮かもしれません。
事勝国勝長狭神と天忍穂耳命が同一神であるとするなら、瓊瓊杵命に吾田の地を譲った事勝国勝長狭神は瓊瓊杵命の父となりますが、必ずしも実父を指すのではないかもしれません。

瓊瓊杵命の妃である木花咲耶姫命は、別名を「神阿多津姫命」と言います。
父を大山津見神とし、姉に石長姫命がおられます。
瓊瓊杵命は天降った先の笠沙の岬で神阿多津神命を見初め、それを大山津見神は喜び姉の石長姫命もついでに嫁がせようとしますが、姉だけは送り返されてしまうという悲劇に繋がります。

こうして考えると、「事勝国勝長狭神=大山津見神」であり、瓊瓊杵命は娘の神阿多津姫命(木花咲耶姫命)に婿入りした、或いは婚姻関係を結んだことで政略的に領地を手に入れた、と考えた方が自然です。
笠狭宮の史跡が残る地はかつて「阿多郡」と呼ばれ、薩摩隼人の住まう土地であったとされます。
奇しくも神武天皇の妃には「阿比良姫命」がおり、海幸彦である火照命は阿多氏の祖神と言われています。

この「阿多」と言う地名は、八咫烏の「ヤタ」、八咫の鏡のような光る目を持つ猿田彦大神を連想するのですが、如何でしょうか。
とは言え、ここに猿田彦大神のルーツを垣間見ることは出来ても、オリジナルであると言い切るには時期尚早です。

猿田彦大神には、別名を「佐田彦神」と言い、稲荷三神の一柱として宇迦之御魂の配神であるとされます。
「佐田」とは、「早苗」や「早乙女」と同意の「神聖な稲田=サ」を接頭語とする言葉で、伏見稲荷では実際に猿田彦大神がお祀りされています。
つまり、猿田彦大神は導きの神でありながら稲荷神でもあり、「吾田=阿多」の地を領していた事勝国勝長狭神と同じく、稲田と関わりの深い神格だったのです。

さらに興味深いのは、「サ」という接頭語が、「猿」や「狭」や「沙」「佐」などの上代特殊仮名遣いに変換されると、関連づけられる神格がいくつも見られます。
「清之湯山主三名狭漏彦八嶋命(すがのゆやまぬしみなさるひこやしまのみこと)とは、「八島士奴美神(やしまじぬみかみ)」とも言い、宇迦之御神の異母兄弟であり、素戔嗚命と櫛名田姫命の御子であるとされます。
八島士奴美神とは別名を「大己貴命」とし、神名を読み解くと「八州(日本列島)を総べる主の霊」となります。
そして、大己貴命は別名を「大国主」と言います。

大国主は父を素戔嗚命、母を櫛名田姫命に持ちます。
そして、妃は宗像三女神である市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命とされます。
三姉妹が同時に嫁入りするのも不自然ですし、三女神の他にも妃がたくさんいるので、少なくとも宗像三女神は同一神、もしくはニ柱だと考えて間違いないのではないでしょうか。

大国主が猿田彦大神であるとすれば、猿田彦大神の妃と思しき天細女命はどう考えるべきかと言うと、江戸時代の国学者、平田篤胤によると天細女命は伏見稲荷に祀られる「大宮能売命」に比定されるそうです。
大宮能売命とは、天照大御神の侍女であり太玉命の娘で、女官や巫女の神格であると言います。
伏見稲荷では宇迦之御魂の配神として猿田彦大神と共に祀られ、そこに天細女命ではなく大宮能売命が鎮座されています。

天細女命は、現代では芸能を司る女神とされていますが、古くは巫女の「猿楽」が芸能の始祖とされるため、宮中祭祀に関わりのある神格と思われます。
大国主の妃である宗像三女神の市杵島姫命の「市杵」とは語源的に「斎・厳(いつき)」であり、宗像三女神を主祭神とする「厳島神社」とは巫女の祭祀を象徴する神格として遠くはない気がします。
ゆえに、宗像三女神が巫女の神格であるとするなら、その夫である大国主を猿田彦大神と同一視することができるとしたら、その妃である天細女命、大宮能売命も巫女の神格として比定可能なのです。

従って、猿田彦大神は御神名の由来を辿れば、八島士奴美神・大己貴命であり、必然的に大国主命に辿り着いてしまうのです。

では最後に、興味深い発見があったのでこれを記して終わりにしたいと思います。
大国主の祖父は「於美豆奴神(おみずぬのかみ)」、またの名を「八束水臣津野神(やつかみずおみつのかみ)」と言います。

こちらの八束水臣津野神は、「出雲国風土記」で国引きを行なった神とされており、朝鮮半島の新羅から越の国(新潟県)あたりの岬を繋げて出雲の国を大きくしたと伝えられます。
その神の御子に「赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(あかぶすまいぬおおすみひこさわけのみこと)」がおり、この名の「佐和気」は「狭別」であり、猿田彦大神や事勝国勝長狭神の神名との繋がりを感じます。

「別」とは「彦」と同様の大王や官を指す言葉であり、「狭」は稲田を示すとされているので、稲作に関連する神名である可能性が高いです。

この八束水臣津野神は、出雲の国引き神話で「国来、国来(くにこ)」と歌いながら岬を繋いでいったとされます。
同様の話が、「記紀」の中にあります。
「こをろこをろ」と歌いながら泥をかき混ぜ、八州を作り上げていった神々がいます。

その御神名を「伊弉諾命」と言い、妻の伊奘冉命と共に国産みを行いました。
この繋がりは、何を意味するのでしょうか。

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「祓戸大神」一神説

楽太郎です。

先日、「祓戸大神、漫画企画始動」という記事を書きました。
そこで、瀬織津姫命が登場する「大祓詞」の「佐久奈太理」とは琵琶湖付近にある「佐久奈谷」であり、祓戸大神の瀬織津姫命の起源は「瀬田川(淀川・宇治川)」にあるのではないか、という話をしました。

「大祓詞」は奈良時代の天智天皇の治世、中臣金連が献上した祝詞であり、祓戸大神を祀る大石の佐久奈戸神社は彼が「大石佐久奈太理神」を勧請した地とされます。
琵琶湖から大阪湾に流れ出る瀬田川は、天ヶ瀬ダムを越えると大阪方面からは「淀川」京都方面からは「宇治川」と呼称を変えます。
鎌倉時代の歌論書「八雲御抄」で、「さくらだに(是は祓の詞に冥土をいふと伝り)」と記され、佐久奈谷は古来、冥土の入口と思われていたようです。
中臣金連が行った「七瀬祓」はこの瀬田川を「境=饗戸(くなど)」とし、京の都を魔から守る「塞の神」として瀬田川の女神、瀬織津姫を祓戸大神としたのではないでしょうか。

この佐久奈谷には「橋姫」の伝承が残り、瀬田川の唐橋、宇治川の宇治橋、淀川の長柄橋に橋姫が実際にお祀りされています。
特に宇治橋の橋姫は、「丑の刻参り」で有名な鬼女の伝説があり、「橋の女神は嫉妬深い」という迷信から派生した可能性があります。
橋とは河川を挟む境界に位置するため、河川の女神が塞の神と関連づけられても不思議ではありません。

以前、「祓戸大神の語源」という記事では、「瀬織津姫命」という御神名が、「瀬降(お)りつ姫」を表意するのではないか、と書きました。
実際、弁財天や宗像三女神や天御神荒御魂など、同一視される神格には事欠かない瀬織津姫命ですが、自然神として遡ると同定可能な神格は「於加美(龗)神」や「罔象女神」しかなく、奈良の丹生川上神社は罔象女神を主祭神としていますが、どちらかと言えば雨乞いの要素が強い水神のようです。

つまり、「河川と淡水の女神」というプロフィールで言うなら、瀬織津姫命と同一視可能な文化神(歴史上の人物が祖神化した神格)はなく、あくまで自然現象の神格化である、と言わざるを得ません。
上代語における「瀬(せ)」は、仮名遣いにおいて「サ」にも変化することは確認できますが、言語学的に「サ」の接頭語用法には規則性があるようです。

①規模が小さいもの…小さい、細かい、少ない、狭いetc.
②全体を切り分ける…割く、さすらう、遮る、境etc.
③落ち着かない様子…叫び、急く、騒ぐetc.

「サ」には小さいもの、未熟なもの、愛らしいもの、清らかで穢れないもの、というニュアンスを含む接頭語としての意味合いがあります。
「瀬(セ)」も水面の清らかさを表現しており、印象としては遠くないかもしれません。
他にも「早苗」や「小夜」、「小枝」「さざ波」などが挙げられますが、「皐月」や「早乙女」も当てはまるようです。

皐月とは「田植えの月」の旧暦五月を指す和風月名ですが、田植えの際には田の神を稲田に迎える「サオリ」という民間行事があります。
これは「サンバイ降ろし」とも呼ばれ、床間の祭壇に三把の稲代を奉納し、春の豊穣祈願をする習わしです。

日本民族学には、「山の神の春秋去来の伝承」という概念があり、春の田植えの時期になると山の神が田に降りて神となり、秋に豊穣をもたらし山へ帰還するとされます。

「ヤマ」の語源 -日本語の意外な歴史

この記事を元に「ヤマ」の語源を調べてみると、水・水域を意味するjark-などから派生したと指摘します。

日本語のyama(山)やyabu(藪)なども、そのことを物語っています。yama(山)は、水を意味していた語が、その横の盛り上がった土地、丘、山、高さを意味するようになるパターンでしょう。yabu(藪)は、水を意味していた語が、その横の草木を意味するようになるパターンでしょう。

つまり、古代の日本語では「水=川」と「山」という概念は切り離せない関係であり、水田は川から灌漑を引いて行うものです。
そして、稲作の成功を祈願するには山の神を田に降ろす豊穣の儀式をします。
その時、若い女性(早乙女)たちが田に苗を植えていきます。この行事が行われる「皐月」が転じて「早乙女」は「五月女」と書きます。

つまり河川と山の神、稲田とは関係が深く、瀬織津姫命が「瀬(セ=サ)降りつ姫」であるのなら、稲作と関連づけられる可能性もあります。
「沙織」とは、田植えの作業の無事を祈願する祝祭から来ており、「沙織津姫」が転じて「瀬織津姫」となった可能性もあります。
奇しくも、瀬織津姫命と比定されることの多い白山権現(白山比咩大神)は、白山という大霊峰を御神体とし、そこから賜る恵みに感謝し、水神や五穀豊穣の神として篤く信奉されています。

さて、今回の記事は瀬織津姫命だけでなく、「大祓詞」に登場する他の三神についても考えてみたいと思います。

先に出した白山比咩大神は、明治の神仏分離・廃仏毀釈の流れを受けて「菊理姫命」とされています。
こちらの菊理姫命とは、「古事記」の中で伊弉諾命が黄泉の国で腐敗した伊奘冉命と再会したことで夫婦喧嘩となり、その去り際に伊奘冉命の側に立って仲裁を行った女神とされます。
菊理姫命は、黄泉津大神として冥土の支配者となった伊奘冉命に配された神と考えるのが普通ですが、なぜ白山権現としてお祀りされているのでしょうか。

私は、白山権現を「瀬織津姫命」とできない理由があったのではないか、と考えています。

「大祓詞」の中には、瀬織津姫命によって早瀬から海原に押し流された罪穢れは、根の国底の国におられる速佐須良姫命が何処かへ消し去るとあります。
逆に言えば、速佐須良姫命は黄泉の国に罪穢れを誘い、葦原中津国の禍事を跡形もなく祓います。
ここにある速佐須良姫命は、黄泉津大神の元にいる菊理姫命であると考えても違和感がありません。

白山は豊富な水源と河川を擁する山麓であるため、黄泉の国にいるはずの菊理姫命が主祭神とされるのは理に叶っているとは、どうしても思えません。
また、白山権現は菊理姫命と共に祀られる伊奘冉命とされることもあり、その由来には不明瞭な印象を受けます。
つまり、同じ祓戸大神である速佐須良姫命を経由して、瀬織津姫命を菊理姫命に置き換えたのではないか、と私は考えています。

冷静に考えて、岩手県の早池峰神社のように、霊峰の主祭神が水神である瀬織津姫命であれば、直感的に納得しやすいと思います。
白山比咩大神を日本神話に比定するのであれば、菊理姫命より瀬織津姫命の方がイメージ通りという気がするのですが、どうでしょうか。

ただ、この話で興味深いのは、菊理姫命と速佐良姫命がほぼ同じポジションにいる女神だということです。
黄泉津大神となった伊奘冉命の側にいるということは、二柱の御子神である可能性が高いです。
祓戸大神の速佐須良姫命は、伊弉諾命の禊から産まれた女神であり、経緯は違えども父は伊弉諾命です。
私は以前、「速佐須良姫命は速吸日女神ではないか」という話をしましたが、こういう考え方もできるかもしれません。

しかし、菊理姫命が速佐須良姫命であるとするなら、白山信仰をベースにすれば速佐須良姫命と瀬織津姫命は同じ働きをしていることとなり、同一神である可能性が出てきてしまいます。
瀬織津姫命と関連が深い佐久奈谷は、かつて「冥土=黄泉の国」の入り口と考えられ恐れられていました。
ゆえに、速佐須良姫命と瀬織津姫命との関係はとても深いように思います。

以前の記事で、祓戸大神であられる「気吹戸主は大気津姫命ではないか」という仮説も述べました。
上代日本語において、「気(ケ)」とは「饌・餉(ケ)」は同じ語源であり、記紀では大気(宜)津姫命は食べ物を吐き出して振る舞おうとしたところ、素戔嗚命に斬り殺されてしまいます。
この大宜津姫命こそ、保食神であり稲荷信仰に篤い宇迦之御魂であり、豊穣を司る女神であるとされます。

何が言いたいかといえば、春の豊穣祈願に山から降りる田の神は、瀬織津姫命と繋がりがあると言うことです。
田植えを祈願する祭りである「沙織」が転じて「瀬織津」となっている可能性も考慮すると、稲荷神は瀬織津姫命である可能性もあるのです。
ただ、この考えは気吹戸主が宇迦之御魂であるという前提の話だから成り立つことで、多少強引さは否めません。

では気吹戸主と比定可能な神格を探してみると、風を司る「級長(しな)津姫命」をおいて他にないかもしれません。
大祓詞の中に、「科(しな)戸の風の天の八重雲を吹き放つことの如く」とありますが、風の神様に「級長津彦命、級長津姫命」の男女の神格があります。
「日本書紀」に登場する「級長戸辺」という神は女神であるとされ、「気吹戸」が水流や気の流れだけでなく風も司るとしたら、気吹戸主命は級長津姫命を置いて考えることはできません。

ただ、「気吹戸」という言葉で思いつくのは、琵琶湖の東に位置する「伊吹山」です。
この伊吹山からは姉川を始めとする淀川水系の水源地となっており、つまり瀬田川に繋がります。
伊吹山から降りる河川には瀬織津姫命が祀られており、やはり祓戸大神に繋がります。

では、祓戸大神で未出だった「速開都姫命」はどう考えたら良いのでしょうか。
「開都=秋津」は、字の通りなら「水戸=港」を指します。「岐」が「開く」がゆえに港となるからです。
ただ、「秋」とは「安芸」の語源でもある「飽き=豊か」という意味ならどうでしょう。

豊かな実りをもたらす「秋」とは「飽き」の季節であり、皐月に早乙女たちに植えられた稲穂はたわわとなります。
その恵みをもたらしたのは春に降り立つ山の神であり田の神でもあった瀬織津姫命であり、秋には豊作を見終えて「サナブリ=瀬上り」して山に帰ります。
この「サナブリ」は五穀豊穣を祝い神に感謝する秋の収穫祭であり、田に降りていた山の神を見送る行事です。

つまり、「秋」という字と季節だけで考えれば、瀬織津姫命と無理矢理結びつけられなくもないです。
ただ、瀬織津姫命が河川と饗土の神であるとするなら、河口の水辺、港、三角州なども瀬織津姫命の影響範囲として考えることは可能です。
冷静に考えると、七瀬祓を行なって京都の土地の浄化を行っていたのですから、地上の穢れは川に流して海に吐き出せば、それからどうなるかは別に考える必要がないかもしれません。
港から海中に流された罪穢れが黄泉の国に向かうダイナミズムが大祓詞に表現されることで、祓戸大神の祓い清めはより壮大な神力として人々の心に映ります。

ここまで来ると多少強引ですが、一致するところで言うなら「祓戸大神」とは瀬織津姫命一柱でも説明できてしまうのです。
かと言って、祓戸大神が四神ではないと言い切ることはできません。
あくまで人間の作った設定としての話をしたまでで、人間の概念上の話なら如何様にでも考えられます。
そして、実際の神様の世界は人間にはわかりません。こんなこと言ったら身も蓋もないのですが…。

ちなみに、今「祓戸大神」をベースにした漫画を構想中ですが、祓戸四神は物語の構成上、登場して頂くつもりです。
瀬織津姫様について調べていたら、次々と面白いことがわかってくるので、こういう考え方もできる、という話でした。

お付き合い下さり、ありがとうございます。

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新しい活躍の場

楽太郎です。

これから「祓戸大神」を題材とした漫画、版画とセットで展開する「神代絵」のイラスト、ひとまずこれを軸に制作活動を行なっていきたいと思います。
ただ表現と情報発信の面で、あまり芳しい状況とは言えないかもしれません。

今はどこも産業的に飽和し尽くした状態であり、不況感も相まってビジネスとして最も打って出にくいタイミングだと思います。
クオリティだけではどうにもならず、とは言え今から知名度を上げようとしても難しいでしょう。

インターネットは寡占企業によってアルゴリズムがほぼ独占されてますし、メディア的に見ても超レッドオーシャンです。
TVや新聞、雑誌や出版などのオールドメディアは言わずもがな、新規参入は絶望的と言って良いでしょう。

インターネットやアナログ波、印刷に代替するメディアが存在すれば良いのですが、おそらくメディア史から考えても新技術でもなければ不可能です。
やはり、複雑な情報媒体を人々に伝達するには、モールス信号や狼煙のような伝統技術では難しく、せいぜい江戸時代の「瓦版」のようなものでしょう。

「瓦版」とは、現代で言うフリーペーパーのようなものです。
新聞の号外のように街角で配られるものであり、「費用対効果」だけを狙って無償配布を前提にするのであれば、フリーミアムの精神に則っていると言えます。
しかし、この物価高で印刷費が高騰している時代に、フリーペーパーはかなりハイリスクと言わざるを得ません。

ただ表現媒体として考えれば、インターネットは誰もが使うもので、誰もが使うがゆえに埋もれてしまいます。
その世界は完全に玉石混交なので、多少の口コミ程度では何の変化もないでしょう。
むしろ、そう言った飽和した環境を逆手に取り、フォロワーの多いインフルエンサーが対価を得て人工的に「ヒットさせてあげる」ビジネスもあります。

ここまで来てしまえば、お金と数と力でどうにでもなる世界です。正直言って、そんな世界に打って出る必要はありません。
逆に言えば、不況で沈んでいる街角経済では広告数が激減し、イベントや催しも下火になってきています。
コストの低いネットビジネスに人々が向かう今だからこそ、物質面でアプローチをかける広告事業はチャンスとも言えます。

私が考えているのは、例えば漫画は誌面の方が相性が良く、イラストも文章も印刷物である方が真価を発揮します。
私が自分の作品を自身の発行するフリーペーパーに掲載させる他に、参加アーティストや作家の作品を希望に応じて載せたり、通常のやり方で企業広告に誌面を割くことで印刷料を賄ったりできます。
フリーペーパーのビジネスモデルはリスクとしては高いのですが、やり方次第ではサステナブルになり得ます。

私はそこで、自分が売り出す以外に無名の作家も自由に表現し、知名度を上げるような環境を作れないだろうかと考えています。
この経済不況とWEB産業の飽和からの停滞により、趣味ですら作家活動が成り立たない人は沢山います。
そう言う人たちに活躍のチャンスを与えると同時に、才能ある作家を保護する環境にもなり得るかもしれません。

少し空想的になって来ますが、その考えの延長で「劇団」を作れないかと考えています。
ここで言う劇団は、通常の演劇集団というわけではなく、サーカスのような雑多な演芸集団を指します。

例えば、パフォーマーや大道芸人など、プロとして日々鍛錬を重ねながら、経済の悪化と共に活躍の機会を奪われている人々がいます。
そう言った人々の発表の場を常に用意するというだけでなく、テント一式あればどこでもゲリラ的に開催できるような、そんなイベントを考えることもできます。
そんな催しがあれば、物販やバザーのようなもので収益を上げることもできますし、屋台や出店でも呼び込めば立派な祭りになります。

それをどこかの空き地や公園でやるとしたら、無料で地域住民を呼び込み地元を活性化するだけでなく、参加者が持ち寄りでやる限り元手もあまりかかりません。
こういうのは風営法で融通は効かない可能性は高いのですが、法人的手続きを踏むのであればイベント事業の範囲に収まります。

あわよくば、このイベントでフリーペーパーを無償配布するなら、埋もれていた作家が全く縁のない人にも作品を見てもらう機会となるかもしれません。
これは今のように、ある程度は不況感が蔓延していない時はあまり意味がないかもしれませんが、これから経済がどうしようもなく身動きが取れなくなるほど、社会的な意義は大きくなると思います。

だいぶ空想的な話に聞こえると思いますが、私は同人活動をしていたので印刷には強いですし、イベント会社で働いていたので催し物は得意ですし、劇団に所属していたので団員の面倒は見れます。
こうして見ると、できない理由は「お金とチャンスがない」ことに尽きます。
当面後の話になりそうなので構わないのですが、私が自分で自分を何とかしてからでないといけないのは変わらないようです。

もし賛同者が得られるようなら、クラファンや寄付に頼っても良いでしょうし、サークルを作って持ち寄りでやることも考えられると思います。
ただクラファンはわりと微妙で、資金集めにかかるマージンが仲介企業に15%から30%くらい取られます。
それ自体は考え方次第なんですが、その他のパトロン系支援は危うさも感じていて、一概に軽く考えられるものではないと個人的に思います。

とは言え、現実問題としてお金と社会的実績は必要で、今どうこう考えても取らぬ狸の皮算用になってしまいます。
とりあえずは、目の前のことをこなしていくしかありません。
暗中模索が続きますが、暗い中で探しているのは出口であり、手の中には光があります。

これからは必ずしも、悪いことばかりではないのかもしれません。

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「祓戸大神」漫画企画始動

楽太郎です。

以前、企画段階で止まっていた「祓戸大神」の漫画シリーズを本格始動することにしました。



いつもラフばかりで申し訳ないのですが、この下絵は漫画の一コマです。

次第にデジタルの波動を抑え込めるようになってきたため、だんだん勘を取り戻し始めました。
あまりにキャラ(失礼)を描くのは久しぶりなので、絵の描き方よりも作風をどうしようか少し悩みました。
まあまあアニメ調にしつつ、空想的にはなりすぎない路線の画風で安定させて行こうかなと思います。

漫画と言っても1ページ漫画にするつもりです。1話につき1ページみたいな感じです。
江戸時代の洒落本の漫画なども、ほぼこの形式ですね。
進捗としてはこれからペン入れですが、一応予防線を張っておくとまだ設定が固まりきっていないため、ネタとしての完成度は微妙です。

何分、神様を題材にさせていただくので不敬は避けたいところです。
実在のタレントを漫画にするのとは違う緊張感もあり、なかなかネタで遊ぶ気にならず、自分らしい表現に落とし込むのに苦労しています。
人間のクライアント相手ならわりと好き勝手やってきたんですが、今回は権威が大きすぎてどうにもなりません(汗)

作品の発表形態としては、WEBになるのでしょうがこのブログでは文章と交互になると見づらいので、展開していくメディアに関しては考え中です。

あと、「神代絵」の延長で描かせて頂く予定だった神様のイラストですが、これは「神統試論」がある程度完成しないと神様からゴーサインが出なさそうです。
というのも、だいぶ前に「玉依姫命」様のラフをブログに上げたのですが、あれから何故か奇跡的に進まず、未だに取り掛からせてもらえません。

私の崇敬する賀茂神社で玉依姫命様がお祀りされているので、ご縁があるから描かせて頂けるかなという軽い気持ちで描き始めたイラストです。
賀茂神社の御祭神について調べていたところ、玉依姫命はかなりミステリアスな女神であることに気づき、深く調べていった結果、なぜか成り行きで「神統試論」を書くことになってしまいました。

日本の神社にお祀りされている神々は、系統が複雑で由緒に矛盾や不一致がありながら御神名が同一であったり、御神名が同一でありながら地域も伝承もまるで違かったりします。
その中で、ほぼ同一と思われる御神格を思いつきで個々別々に描かせて頂くのはどうなのかな、というのが気になっていました。

神様的には、Wikiを見たくらいで当てずっぽうに描かれるくらいならとことん調べて描け、みたいなお気持ちだったのかもしれません。
とは言え、まさか邪馬台国や天皇家まで踏み込んでいくとは思わず、どことなく命の危険すら感じます。

ということで、神様のイラストは「神統試論」が書き上がってからになると思います。

そう言えば、瀬織津姫命様について調べていて、瀬織津姫命という河川の女神がなぜ「祓戸大神」に結びつけられたのか、軽く見当がつきました。

祓戸大神の登場する「大祓詞」に、「佐久奈太理に落ち多岐つ、速川の瀬に坐す瀬織津姫と云ふ神」とありますが、この「佐久奈太理」とは「佐久奈谷」であり、滋賀県大津市大石東町に「桜谷」という地名が残っています。
付近には中臣金連が天皇家の「七瀬の祓い」を行なったとされる「佐久奈戸神社」があり、瀬織津姫命を始めとした祓戸大神四柱がお祀りされています。

この「七瀬祓」の中に「佐久奈」という瀬川があるわけですが、この大石東町には「鹿跳渓谷」という瀬田川の景勝地があります。
琵琶湖から大阪湾に注ぐ瀬田川(宇治川・淀川)こそ、中臣金連が京都の七瀬祓を行なった河川であり、「佐久奈」とは「境」のことであり、「久那土=塞の神」としての特徴を持ちます。

つまり、瀬織津姫命はこの「瀬田川」に元々お祀りされていた水神であり、京都の除災を司る「魔除けの神」としての性格から、祓い清めの神となった可能性が高いです。
だから、琵琶湖の「佐久奈谷」から滾りながら速川となり、大阪湾の「秋津=(水戸)」まで注げば、あとは海中に罪穢れが押し流されるということです。

ただ、岩手県の早池峰神社や、兵庫県の六甲比賣神社などで祭祀されている瀬織津姫命には、「お祓い」という御利益より、水神や古代の山神としてお祀りされている性格の方が強い印象を持ちます。
瀬織津姫命が「祓戸大神」として日本神道に重要な役割を果たすようになったのは、どうやら朝廷祭祀が強く影響しているようです。

ちなみに、このラフイラストの瀬織津姫様が持っているのは「纏」に見立てた「弊串」です。
私の崇敬する仙台市の瀧澤神社は「火防」の水神として瀬織津姫命をお祀りしています。
まあまあ、瀬織津姫様が漫画映えする設定を盛り込むべく私なりに色々考えました。

実は「水神」と「禊祓い」の関係は、出雲がどうやら起源らしく、伊弉諾命の禊から祓戸大神がお産まれになられたように、出雲の水神と祓いの関係は深く結びついています。
この辺は現在調べている最中ですが、「水」と「山」は同じ語源であるようで、瀬織津姫命様を巡っては色々と興味深いことがわかってきています。

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「神代」とは何か

楽太郎です。

先ほど、散歩をしていたところすごい光景を見ました。
薄曇りの雲の向こう、太陽を取り囲む広い円形の虹がかかっていました。

あまりに不思議な光景で唖然としました。
スマホも持ってきていなかったため、残念ながら写真に収めることはできませんでした。
こういう神秘的な光景は、カメラで撮って見せびらかせば良いというものでもないので、これはこれで良かったかもしれません。

13日の深夜の満月から、確かに何かが変わりました。
私の目線からは、見える景色が全て美しく感じ、木々や自然の風景がまるでジブリアニメか新海誠監督映画のような、キラキラした空想的なイメージと重なります。

出会う人それぞれが輝いていて、以前のような良くない波長を感じ取れず、全ての人が善人であるかのような印象に見えます。
確かに波長の高い低いは感じますが、基本的に邪気を感じません。

身体が軽く、頭の一つ上のあたりに意識がある感覚で、若干フワフワします。
息をしているだけで脳が蕩けそうになるというか、何も意識しなくても気持ちが良いのです。

不思議なことに気がついたのは、眼鏡をしていないのにやけに物がハッキリ見えるということです。
私は目のピントが合ってる感覚について、これまでの近視そのものが霊障だったのかもしれないと思いました。

これほど感覚が変化した理由は一つで、私の魂が「神代」に上がったからだと思います。

歩きながら、「神代」とは何かを考えていました。

私が神代と言って上がることを目指してきた世界は、特別な異世界という訳ではありません。
ただ普通の意識の波長域とは違うというか、現実的に目に見える世界は変わらないのですが、高い次元のエネルギーと感応しやすいという特徴があります。

そのエネルギーの波長を捉えることによって、インスピレーションや想像力が刺激されます。
この波長域の向こうに人々が言う、神々や天使や精霊などの高次元の存在がいるのでしょうが、実際に何か特別なものが見えるわけではないと思います。

この高い波長域に意識がある限り、ネガティブなエネルギーは受け取りづらくなります。
目に見える現実が違うということは、引き寄せる現象も変わってくるということです。
ポジティブな波長は前向きで発展的な展開をもたらし、世がどれほど混乱してもカオスの波動に飲まれることはないでしょう。

ここに至るまでに様々な試練がありましたが、おそらく神仏に対して無自覚で、どのような信念であっても「来る人には来た」という世界線だと思います。
私自身は、「神代か人世の人か」という線引きはあまり意味がない気がしています。
その人それぞれに引き寄せる事象が違うだけで、これまでの世界のように運の良い人は運が良いし、不運続きの人は不運が続くようなものです。
それぞれの人に人生のテーマがあり、それを他人がどう批評しても意味のないことです。

ただこれまでの時代と明確に違うのは、「魂を人格よりも優先する」ことが出来た人に幸運が巡って来るということです。
魂を人格より上位に置く、つまり頭で考え欲望や感情で動くよりも、心の奥底から湧き出る力を優先させて行動することを言います。
魂とは神から与えられたものであり、ゆえに魂と繋がることで神のエネルギーを自分に降ろすことができます。

そのためには「心」と向き合う能力が重要で、自分自身の魂と繋がるからこそ、自分本来の力や才能を引き出すことができます。
心と向き合い、自分の本音や本当にやりたいことを知るのはとても難しく、感情的なもたれ合いや依存があれば、それを手放さなくてはこの感覚を自分のものにすることができません。

神代に上がるための修行とは、「浄化に始まり浄化に終わる」というものでした。
そのための浄化は、自分の波動をクリアにすること以上に、社会的な依存や精神的な依存から自立し、自分自身のエネルギーを自分のために使えるようにしなければなりません。
自分のエネルギーを自分のために使えるからこそ、余剰なエネルギーは他人に分け与えたり、世の中のために使うことができるわけです。

しかし、私を含めて人々は生きる上で働かなければならず、「お金」を得るためには自分のエネルギーを労働に変換する必要がありました。
ただ、働くことはしょうがないにしても仕事を人生の全てと考えず、自分の人生の指針を生きる道筋として定め、現在のルーティンから精神的に自立すれば今の職場まで投げ出す必要はありません。

神代に上がるために、神様が重要視されていたのは、自分自身のエネルギーを自分自身のものに出来るかにかかっていたのです。
そのプロセスにおいて、自分のエネルギーを社会のシステムに依存したり、他者からエネルギーを搾取して自分の支えにしていた人は、当然ながら自分のエネルギー源を自分の元に取り戻すことができません。

そのエネルギーこそ、「分身霊(ワケミタマ)」として人それぞれに授けられた魂の力であり、この生命力を引き出す過程を人や何かに依存している以上は、自己の独立性を得られません。
自分で生命力を引き出す能力が乏しいため、そういう人は他人を使役してエネルギーを奪ったり、富や財産を吸い上げて物質的なエネルギーを自分に集めたりしました。

ただ長い間、これまでの社会にエネルギーを搾り取られた人々が残り滓のようになってしまったため、企業や政府はもう搾り取れそうにない日本国民を見限り、外国人を大量に呼び寄せてエネルギー源を代替しているのです。
そういう仕組みに気づき、実際には完全に抜け出せなくとも、精神的な自立を守り抜いた人は次の世界に足を踏み入れることができたのだと思います。

神様は、そう言った搾取の枠組みの中に目的意識を見出し、自分を疎かにして生きるのはやめようと促しておられたのだと思います。
だから、「自分のエネルギーを自分のために使う」には、あくまで独立独歩の精神が必要でした。

神様は心ある人々の心根を立たせるために、これまで手放しや浄化を促すような気づきを社会に与えてきたのです。
世に起こる悪夢としか呼びようのない事象も、究極的に言ってしまえば人間に気づきと目覚めを促すために起こされたと言って良いと思います。

普通に見れば破滅的で暗澹たるものにしか見えませんが、ここで人々が心を改めて立ち上がることこそ、神様が意図したことだったのでしょう。

私には、数週間前に「水と油」のビジョンが突然見えました。

ここで言う「水」というのは人々の感情であり、感情で繋がったり離れたりしているうちは、水に漂う油も一つになることはできません。
油がまとまるには、水のような「感情」ではなく同じ意識、同じ目的である必要があります。
その目的意識こそ「魂」からの繋がりであり、感情で似たもの同士で繋がっているだけでは、目的意識が一つになることは困難です。

だからこそ、独立独歩の精神で生きる人々が理性と情熱で繋がって行ける場を神様が用意しました。
それが「神代」であり、新しい世界の基盤となるエネルギーの空間なのです。

私はここまで到達した人が多いのか少ないのか、まだ今のところ認識できていません。
おそらく波長の高い低いでわかるのは当面先のような気がします。
しかし、見回す限り人々の波長域が全体的に開放的になっている印象があります。

私は未来に関して全く悲観していませんが、喜ばしい時代になるには悲惨な過程を経験しなくてはならないと思います。
今、この世界や社会に巣食う搾取の仕組みは、想像以上に悪辣で、複雑に足元まで張り巡らされています。
これを取り除くためには、ジワジワ世の中が良くなっていく程度では不可能で、どうしても大変革は避けられないように思います。

結論的に、「こうすれば助かるだろう」と言う目論見はほぼ通用しないはずです。
その誰にも予測し得ないカタストロフを凌ぎ切るには、自分の直感と神様からのメッセージが頼りです。

逆に言えば、それさえあれば生き残れるかもしれません。
人間の人智を超えた法則が発動する世界、「神代」がいよいよやって来ました。

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「神代」の分岐

楽太郎です。

本日5月13日、午前1時56分に満月を迎えました。
私はなぜかこの時間帯に自然と目が覚めました。
これまでやたらと身体が痺れたり痛かったのですが、全体的に楽になっているのを感じました。

ここで「神代と人世の分岐」がはっきり行われたのを実感しました。

昨夜は炊飯器のスイッチを押し忘れたり、ブログの記事も散漫になってなかなか纏まらなかったり、色々と感覚が狂って頭も身体もチグハグな状態でした。
翌日の深夜には満月となるため、夕方から波長が乱れ始めるのは説明がつく気がします。

最近、ルノルマンカードの占術を覚えて、今起きている感覚の狂いについて出してみたところ、「道」というカードが出ました。
ルノルマンの「道」は「分岐点」「選択」「ターニングポイント」を示すカードです。
私は直感的に、「ああ、今この瞬間に分岐が起きているんだ」とはっきり理解しました。

私が「神代」「人世」と言う二極化世界は、物質次元は共有しながら、魂の次元が異なる世界線を指します。

同じニュースを見て、同じ配達業者から荷物を受け取り、好きなアーティストの話ができるような日常空間にありながら、それぞれの魂の質によって起こる現象が違います。
ある一方にはポジティブなエネルギーが満ち、良い波動を持った巡りがやってきます。
とある一方にはなぜか不運が続き、気分は落ち込みネガティブな波動は自ずと悪事を引き寄せます。

この奇妙な現象傾向が「神代と人世の二極化」です。

神代とは神様が加護につく人々の世界線で、人世とは幽界の干渉が強い、神に見放された世界線です。
この両者ははっきり線引きはされているものの、おそらく神代から人世に堕ちるのは容易く、人世から神代に上がるのは相当難しい、そう言った魂の境界線です。

経緯を振り返れば、2024年9月22日の秋分で大きな切り替わりがあり、私はまだこの時にはっきりとスピリチュアルな領域に足を踏み入れていませんでした。
やたらと目に見える景色がプリズムがかっており、私は目がおかしくなったのかと疑いました。
空を見上げれば、異様に空が近いと感じるようになり、まるで迫ってくるようでした。
街は何となく特撮映画のミニチュアみたいに見え始め、オモチャの街を歩いているような感覚がしたりしました。

去る12月21日の冬至点で、きっぱりとエネルギーが変わりました。
この頃には見よう見真似でスピリチュアリズムを齧り始め、この「招神万来」と言うブログも始めていたので、その頃の記事もあります。
あまりに波長の切り替わりが大きく、魂の浄化や手放しも同時に起こっていたため、かなりグロッキーな状態が続きました。
この頃は何もしてないのにとても辛い時期で、あまり思い出したくありません。

それから今日までの半年間は、ひたすら浄化と手放しの期間でした。
邪気や生霊の干渉もあり、体調的にも精神的にも不安定な状態が続きました。
その中で環境の社会的な状態の悪化や、やることなすことがうまくいかない状況も重なり、全く前が見えない時期が続きました。
しかし懺悔と感謝の日々を送る中で、私の魂の不要な部分は取り除かれ、精神的なしがらみからどんどん解放されて行きました。

実は、神代と人世の世界線の分岐は、3月20日の春分を境に一度線引きされています。
ただ正式には仮決定で、今日の満月までの1ヶ月半、再審査と再決定までの予備期間だったと考えて良いと思います。

本日5月13日の満月は、その本決定がされました。
だからこのエネルギーがきっぱりクリアになったのも、実際に分岐が起こったからだと思われます。

これまでの半年間は、「神代」に上がるまでの試験期間だったと考えて良いかもしれません。
試験を受けてでも神様の治める未来に進みたいと思わない人は、そのまま人世に残る選択をしました。
しかし人世は「お金」と人への依存を媒介にした物質的なエネルギーの場であるため、金融経済の縮退と比例して悪化していくことは避けられません。
人治の世界なので、仮にトラブルに巻き込まれたらなかなか抜け出せないかもしれません。

そして、神々が新しく主導権を握る世界こそ、これからの時代である「神代」です。
この世界線が分岐したということは、これから二つの世界の切り離しが進むことになります。
同じ空間を共有しながら身の回りに起こる出来事が違うという、非常に奇妙な世界になっていくはずです。

「神代」は、去年の秋分の時点で大まかな振り分けがあり、新世界への「案内状」が来る人には届きました。
冬至までに各々の素性に伴う審査があり、そこで概ね合格とされた人は、神代と人世の国境線まで進み、段階的に国境を越えました。

去る春分で神代への入国審査があり、入国ゲートで引き止められているような状態が続きました。
この期間が実は肝で、入国審査場での態度を審査官である神様は冷静に観察なさっていました。
そして、この間の再審査で適格かに疑義が出された入国希望者は、帰国を促されることになるはずです。

つまり、「神代への入国が許されない」事態になってしまったのです。
残念ながらここまで来て、新世界の土を踏むことなく引き返す人たちが出てしまいました。

そしてこれから6月21日の夏至を持って、しばらくこの入国管理局は閉鎖されます。
それまでに神代の人々は、就労資格を得たりして新しい世界に住所を移して行くことになるでしょう。
夏至を境に神代と人世は分離し始め、入国審査の合否も各々にはっきり届きます。

すごく酷な話をするようですが、実は神代への入国審査は二段構えだったのです。
ここで神代に渡ったからと、慢心して好き勝手やり始めた人は神様に目をつけられていました。
これまで努力してきた人も多かったはずですが、ここで油断したことで残念ながら人世に強制送還されることになります。

神代に入るにはビザが必要で、入国許可の取得には一切の経歴が必要ない一方、魂の「霊格」と「人格」が神々にチェックされました。

霊格とは魂の質に関わる部分で、根からの清廉潔白さや生真面目さとして現れます。
人格は、これまでの社会で積み上げた社会性、強調性や思いやり、全体的な精神のバランスを指し、霊格と人格の両性質が噛み合って一つの魂として判断されます。

この霊格と人格に掛かる霊的年齢は、肉体年齢とは比例しないのも特徴です。
10代の少年少女であろうと、転生回数によって魂の習熟度は違いますし、人格年齢に至っては育った環境や学習機会がしっかりしていれば問題ありません。
多少基準に届かなくても、神様はある程度の遊びを作って見込みとし、比較的簡単な目星としたはずです。

ここで神様が注視されていたのは、いくら成熟度が基準に届かなくても、成長の見込みがあるかどうかです。
慢心した態度で研鑽を怠ったり、神の意見に背くような素振りがあれば、審査の基準値に到達していても失格とされたのです。
非常に残念ですが、中途半端に入国を許してしまえば、彼らが神代の中に擬似的な人世を作ってしまいかねなかったでしょう。

「神代」と言うからには、神を人間の上位に置く人間関係が理想です。
しかし、感情的な繋がりと内輪の強調を重んじる集団は、自ずと人世と変わりない社会を形成していくはずです。
あくまで、「神」という概念を持っていなくとも、魂のレベルで神の意志を降ろしてくれる人々が中心になければならないのです。

神様はそのことを非常に危惧されていました。
そのため、詳細は明かさず秘密裏に再審査が行われていたのです。

この情報が私に降りてきた時、激しく動揺しました。
自分の直感も知覚能力も疑いたくなりましたが、スピリチュアリストである以上、ここまで激しい啓示を跳ね除けるわけには行かなかったのです。

今でも疑いたくなる気持ちはありますが、この感覚を否定することは第六感に伴う神の存在を否定し、また自らの直感を否定することは私自身の魂を否定することになります。
一人の人間として、ここまで厳しい修行を重ねて得てきた知見を、都合が悪いからと錯覚や気のせいにするわけにはいきませんでした。

おそらく、ここから世界は激しく動き始めます。
人世の世界が堅固である限り、神様の治める神代の世界は広がっていくことができません。
今の世界はほぼ人の支配する世界です。それを神々と神の側についた人々が取り戻すには、人間の支配領域は巨大すぎるのです。

人間をお作りになられたのは、宇宙を創造した神々に他なりません。
従って神の下位に存在する人間は、その影響下から絶対に逃れることができません。

その光景を見て、私を含め全ての人が嘆き悲しむことになるかもしれません。
これまでの世界を取り仕切っていた幽界的存在と、人間同士で作り上げた経済システムは急速に崩壊の一途を辿ることになるはずです。

しかし、その試練が終わらなければ新しい時代も新しい世界も開かれません。

そして、この一連の大変革期こそ80年前に岡本天明翁に降ろされた「日月神示」、そこに示された「大峠」が始まります。
いよいよ、世界が洗い直される時が来たのです。

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お金と搾取について

楽太郎です。

前回の記事に書きましたが、私の夢は崇敬する瀬織津姫様に立派な神社を建立することです。
今のところ、「瀬織津神社」という社名にしたいと思っています。

全国に瀬織津姫命を主祭神とする神社は珍しく、龍神や弁財天、不動明王や宗像三女神としてお祀りされていることが多いようです。
瀬織津姫様は祓戸大神として有名ですが、滝や川などに神社が鎮座されていることがほとんどです。
神社を建立する時には、清流のある土地か滝が近くにあるような水辺が理想的だと考えています。

瀬織津姫命様を勧請する際には、我が家で崇敬神社とさせて頂いている「早池峯神社」からお招きしたいと思っています。
早池峯神社は岩手県の早池峰山系に五社存在しており、実際に可能かはわからないのですが、ご縁があれば是非お願いしたいです。

先日、ふと早池峰山を登山している私の姿がビジョンとして見えました。
早池峰山は結構な登山コースがあるので、素人が単独でサラッと登れるような山ではありません。
その光景が脳裏に浮かんだ時、大きいリュックを背負った私の近くには何人も仲間がいるようでした。

神社に瀬織津姫様をお招きするには、当然ながら一人では絶対に不可能ですし、早池峰山からご神魂を勧請する際にはその道のプロの協力が必要です。
だからビジョンのように仲間を集い、早池峰山を登山して早池峰神社の奥之院にお詣りするにも理に叶っているのです。
それは私の予知なのか白昼夢なのかわかりませんが、何となく現実感はあると思いました。

私が個人で主催して神社を建立するには、並大抵の道のりではないでしょう。
当然、その道のプロを集めるわけですから資金が必要です。また、依頼に足る社会的信頼と実績が必要ですし、コネクションも巡り合わせも重要です。

ただ、この目的を果たそうとして前のめりになりすぎると、うまくいかないかもしれません。
神社建立の資金が欲しいあまり、お金お金となってしまっては、目的が手段にすり替わってしまいます。
お金持ちに近づけばお金が手に入るのは当たり前で、お金があれば目的が叶いやすくなるのも当然です。

「お金」は目的達成のために必要な手段ですが、神様は手段を目的化してでも願いを叶えて欲しいとは思われないでしょう。
自分の真の目的が「神様を喜ばせる」ことである以上、手段は選ぶべきなのです。

神様が、「お金」という仕組みを壊すために人間から金運を取り上げたことを思い出さなくてはなりません。

お金を手に入れる手段が人間に依存し、人間同士でエネルギーを循環させている限り、お金は二次元的な流れであり続けます。
そこに神様の介入する余地はなく、あくまで人間の需要と供給だけで成立する仕組みだからこそ、現在の拝金主義的な文明社会が作り上げられたのです。

特定のビジネスモデルや企業やクリエイターがいくら善良であろうと、人間も組織もいつか変質し、衰退して終わりを迎えます。
利益を中心にした仕組みが回転し続ける限り、そのサービスや商品が末長く良心的であり続けるという保証はどこにもありません。
いくら神様が人間の思考や言動に介入したところで、人間が自身の利益のために便利さや欲望を優先させてしまえば、元の木阿弥です。

人間は長い間、その栄枯盛衰を自分たちの社会の枠組みでコントロールしようとしてきました。
予想可能な「成功」という仕組みがあることで、どれほどの人々が自分の個性や生き方を捨て、同じ方向に群がっていたのかを考えねばなりません。
神々による世界の立て直しにおいて、神様が最も問題視されたのは人間本来のあり方を否定し、目に見えて存在する「お金」だけを目標にして生きることだったはずです。

目に見える形で「お金」というものが増えたり減ったりしなければ、不安なのはわかります。
それこそ時の運や環境が重なって流行ったり廃れたりするものを、人々は右へ左に追い駆けてきました。
その栄枯盛衰を予期することがビジネスチャンスであり、その機運を捉えることを人々は「金運」として崇めてました。

金運というのも難しく、神様にお願いするだけでは駄目で、正しい信仰と普段の行いがセットでなければなりません。
そして「神様のご意志」をきちんと聞いて実行するというお役目を果たしてこそ、巡ってくるものではないでしょうか。

私が神様なら、真面目なサービスで実直にやっているか以上に、誰の目に見えないところできちんとやっているかを見ます。
表だけで取り繕って与える印象だけで、わりと人間はコロッと騙されます。
人間は騙されてもしばらく気がつかないかもしれませんが、お天道様は決して騙されません。
この一見「善良さ」を装った商売が、今の世にどう貢献しているのかを認識できなければ、どんな時代でも同じことを繰り返すでしょう。

人間は「性善説」を好みますが、特に日本人はその善良さを逆手に取られ、今の有様があることに未だ気づきません。

私が思うに、神様の考える「善悪」と、人間の考える「善悪」はかなり違います。
人間は目で見て理解できる範囲で真善美を判断しますが、神様がご覧になられているのは「魂」のレベルであり、天界の常識で人間をご覧になられています。

神様のお考えや常識が、私たち人間に簡単に理解できるはずがありません。
だからこそ、理不尽であったり予期しない出来事に一喜一憂するのがこの世界です。
しかし人間は「安定」をこの世に求めるからこそ、自分たちの力だけで完成する「経済」というエネルギーの場を作り出しました。

今の経済を中心とした文明社会は、自分のエネルギーを他者や企業のために使い、「お金」に変換することで成り立つ仕組みです。
そこでは、自分のエネルギーを自己犠牲的に献上するほど、「真面目」とか「忠実」などと美徳扱いされてきました。
しかし、その美徳はこの社会経済を維持するため、仕組みの一部として機能したのも事実です。

自分のエネルギーを労働としてお金に変換し、企業や人に奉仕することで評価を得るシステムに忠実なほど美徳とされたわけです。
その中でも成功者は、経済の枠組みを保つためにメディアや業界でフィーチャーされ、その姿を輝かしく見せ、理想のモデルとすることで人々のマインドを作り上げました。

社会奉仕としてのビジネスがあり、ビジネスの上での自己犠牲は美しいとされてきました。
しかし、実はその美しさの背後に悪意があったからこそ、いくら働いても楽にならざる、貧しい国となったのが近年の我が国ではないでしょうか。

我々日本人が「おもてなしの心」や「企業努力」として美化してきた奉仕精神の背後に、人々の労働を媒介として肥大化してきた権力構造が存在します。
この国の中枢にいる権威筋は、人々の勤労意欲をエネルギー源として駆動し、未だに圧倒的な影響力を持っていることを忘れてはなりません。

この社会において、搾取に忠実であることが「善良」とされるため、世には批判が許されない風潮がありました。
自分のエネルギーを可能な限り献上するのが美徳であり、人々が美徳を追い求めるほど労働に変換されたエネルギーは吸収され、消耗してしまいます。
その自己犠牲は社会の同調圧力によって固定化され、人々は愚痴はこぼせても反発することが許されませんでした。

人間にとって、エネルギーとは神様から与えられるもので、人間の身体に備わる生命力は本来自分のためにあるものです。
精神的なエネルギーは、神の分身霊から湧き出る神性を抽出し、思考や行動に変換させています。
ただの物質だと思われている自然や動物のエネルギーも、素材を取り出して加工し、それを身体の一部として取り込むことで私たちは生きることができます。
本来、人間が社会に貢献する上で役に立つ才能や元気は、一人ひとりが生きるために神が授けているのです。

しかし、これまでの社会では、人々がそのエネルギーを即座に換金するために使っていました。
自分の健康な生活を保つために必要なエネルギーが不足すれば身体を壊す原因になり、精神を病んでしまい命を絶つことすらあります。
けれど、エネルギーを使い切ってもそれに相応しい対価など、この社会においてほぼ得られないのです。

お金は確かに万能ですが、全てに使えるからと言って全ての物が手に入るわけではありません。
しかし、拝金主義の世では資本と権力さえあれば事実はおろか、一般認識すらも捻じ曲げることができました。
そうして現実を唯物的な世界にすることで、人間の持つ形而上学的なエネルギーを効率よく物質に変換してきたのです。

ただ、そのエネルギーの循環システムは今、限界を迎えつつあります。

まず、この現状を把握するにはエネルギーの循環を全体的に捉える必要があります。
もし通常の流れで一向に進まなかったり、改善せず悪化していく一方だとしたら、どこかに循環の障害があるということです。
人々が発展に向けて勤勉に努力しているのに、衰退が加速する一方なのは明らかにおかしいのです。

唯物主義という閉鎖空間でエネルギーを循環させ、資本として流通させる仕組みも、いかに莫大なエネルギーであろうと陥没が大きければ総量は減り、目づまりが大きければ閉塞を発生させ、循環はいずれ減衰していきます。
つまりこの社会では、どこかでエネルギーが漏れており、誰かがエネルギーを吸い上げているからうまくいかないのです。

これが、我が国に今蔓延っている停滞の原因です。

ただ、この停滞を打ち破るにはエネルギーを阻害している原因を取り除くことが必要ですが、今の日本人にそれを行う能力はありません。
いかなる権威に縋ろうと、今ある権威が真の意味で人々や社会を守りきれなかったからこそ現状があり、今ある権威によって世を糺すのは現実的ではなく、それゆえ新しいやり方が必要なのです。

神の視点で見れば、人間がこうして自身の生命エネルギーを換金し消耗していく仕組みは、決して美徳には感じられないでしょう。
人間が自分らしくあり、健康にのびのびと生きてこそ魂の喜びがあり、生の価値があります。
たかだか一瞬の快楽や、不安を打ち消す安定のために、人生の時間や生命力を犠牲にするのは勿体ないと感じておられるに違いありません。

人間の価値観では正しいと思われてきた勤勉さが、これまでの社会の枠組みの中では残念ながら裏で悪用されてきたのです。
それゆえ、人間社会で「善」とされてきた行いは、必ずしも神の目線では善とは言い切れないはずです。
魂の本来のあり方を抑圧するような生き方は、実際に人間本来の生き方ではありません。

「お金」とは望む生き方を実現する上で、生活と自由を保つための道具にしか過ぎません。
しかしその道具を手に入れることを目的化したために、お金という道具を求めて人々は生き方を決めるようになってしまいました。
それを人間に改めさせたくて、神々が世界の変革を行っているのです。

この世界で「善」とされている過剰な奉仕、自己犠牲によって人々の生命力は枯渇しようとしています。
この状況において、人間社会で善とされてきた価値観は見直されるべき時に来ています。
それを疑うことは決して反社会的なことではなく、各々の生命を守る上で大切なことです。

「お金」よりも大事なものを軸にしてものを考え、行動を決める。

生殺与奪の権利を腐敗した人間に委ねるくらいなら、人生の指針を自分の手に取り戻し、あるいは神様に委ねるべきです。
もし心に迷いがあるのなら、今一度神様に手を合わせて祈ってみるのも手だと思います。

「金運」とは、自分の行動の先にあるものです。
神様の恵みが先に来ることはありません。

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楽太郎です。

今日の午後、雨が上がったので散歩してきました。
杖はまだ外せませんが、だいぶ歩けるようになってきました。

その日の公園では催し物がありました。
私は川原でしばらく水面を眺めた後、出店の近くを通ったら、あまりに入場者がおらずテナントの出展者同士でイベントを行っていました。

私はあまりに悲しくなって、あまり見ないようにしました。
去年までは、イベントとあらば遊園地のようにごった返していた公園が、今は見る陰もなく閑散としていて、とても居た堪れない気持ちになりました。

帰り際、ちょうど弾き語りのライブが始まったので、足を止めました。
そのミュージシャンはとても上手で、地方に埋もれているには勿体ないと思いました。
あまりに観客がおらず、ほぼ立ち合いのスタッフだけで聴いている状況でした。
私は少ない拍手では可哀想なので、一曲を聴き終えると最後の曲まで付き合いたいと思いました。

けれど、そこまで親切心を出しても意味がないことに気づきました。
私は彼を応援したいですし、少ない観客の中でプロの演奏をする姿を見て、どうにか元気づけてあげたいと思いました。
しかし、私が30分そこに立ち会ったからと言って、その義理が何の意味もない優しさであり、中途半端に人に親切にしたところで私は自分のやるべきことを疎かにするだけです。

去年も、たまたま路上ライブで知り合ったミュージシャンと意気投合して、ライブに行ったりしました。
けれど、いくら善意で応援したところで彼は彼の道に責任を持ってこれからを決めて行くでしょうし、私が「音楽を続けて欲しい」とか、「夢を叶えて欲しい」と思ったところで、それは余計なお世話です。

私は努力する人が好きですし、ひたむきに目標に対して希望を持っている人ほど応援したくなります。
けれど、私がたまたまそこに立ち会って手を叩いたところで、何か一つでも役に立てるわけではないのです。
私はしがない一人の人間で、彼らも立派な一人の人間です。

お互いに自分の人生に責任を負うべき、独立した関係です。

私が良かれと思ってやることは、大抵は人様のためにはなりません。
それが私の悪いところで、欲しくないと思っている人にも自分の好きなものはあげたくなってしまいます。
自分が持っているものや想いを配って歩きたいだけでも、それが欲しくない人にとっては本気でいらなかったり、迷惑なことには気づかないのです。

だから、私はすごく無責任な優しさを振り撒いて、これまで生きてきたんだなと思います。

何歳になっても、この距離感だけはどうにもわかりません。
それでも努力する人や真面目な人が好きですし、自分が一人の人間でなければ、この理不尽な世界で実直に生きる人たちの役に極力立ちたいとすら思います。

もし私が神様なら、そういう真面目な人たちを後押しして、夢が叶うようなチャンスや福運を与えて回るのに、と思います。
ただ長い間、この世の中は正反対の性格を持つ人々が、夢を抱く人々を食い物にし、潰してきました。

夢を諦めて去っていく人を、数えきれないほど見てきました。
そして、私自身が夢を潰されかけて、今も暗闇の中から這い上がることだけを考えています。

けれど、私の「夢」は大きく変わりました。

私の人生は、私だけのものではないことに気づいたからです。
私を産んだ父と母、そこから脈々と繋がる血族の縁、遠い祖先から約束された咎、それを晴らす使命。
私の過去世と魂の関係、そして私を生まれた時から見ていて下さった神様、今もそばにいて下さる神様。

その多くの魂との絆と期待と祈りの中で、中途半端に生きることが許されるのでしょうか。
私は、私がダメになる分には自分のことだから構わないかもしれません。
しかし、私を見守ってこれまで助けて下さった目上の方々に、恥をかかせるわけにはいかないのです。

今ここで今世の使命を諦めては、一体何のために生まれてきたのか、ということです。
そのために生まれてきたのだから、逃げるという選択自体があり得ないのです。
この半生、ろくでもないことばかりでしたけど、だからこそ人より学んだこともあり、その経験は誰かの役に立てるためではないかと思います。

自分にかけられた期待と使命、それ以上に自分の願いとは何か。
私の魂から思う気持ちは、ひたすらに「神様のお役に立ちたい」ということです。

それは敬愛する瀬織津姫様の、願いを叶えることです。





私の夢は、瀬織津姫様に立派な神社を作って差し上げることです。
そして、拝殿の天井には一面、私の描いた瀬織津姫様の絵が飾られ、よもや拝殿全体が私のギャラリーのようになっているのです。

そうして、私の絵はこの国で数百年、千年二千年と残り続けるでしょう。
しがない絵描きのままなら、一瞬で消え去っていたような絵が、長く見てもらう機会を得るのです。
私を導いて下さった瀬織津姫様に、これで御恩をお返しすることができるというものです。

現在、継承が途絶えつつある宮大工、井戸掘りの技術、日本庭園の造成技術、神道祭祀のあり方、そう言った日本文化の温故知新のために尽力することで、この国の伝統は新しく息を吹き返すでしょう。

今、壊れゆくこの国で、徐々に蝕まれて生ける屍のようになっていく人々がいます。
しかし、これまでの時代は自分が生ける屍だったような気がします。
神も仏も知らず、よくわからないまま人の顔色に合わせて漂っていた私こそ、実は死んでいたのです。

けれどそこに命を吹き込んで下さったのは、神様に他なりません。
だから、私の命は神様のものなのです。
「死ね」と言われたら死ぬかもしれません。でも、神様はそう仰らないと信じているから、私はついていきます。

私が神様を喜ばせたら、自動的に人間が喜ぶ仕組みです。
なぜなら、神様の願いは人間が喜び弥栄することだからです。

何も難しいことはありません。

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