楽太郎です。
現在、祓戸大神を題材とした「HARAEDO」の漫画をまとめたブログを制作中です。
先日の「トップイラスト完成」という記事では、ブログのカバーイラストと「秋津姫」のラフデザインを掲載しました。
今は、祓戸大神四柱の立ち絵を取りまとめて「登場神プロフィール」みたいな個別ページを作ろうと思い、とりあえずラフ画を流用して仮でそれっぽく作ってみました。
「神様プロフィール」のところは、かなり言い回しに気を遣いました。
実は「好物は水ようかん」みたいなト書きを入れたかったのですが、変にそこだけ切り取られると神社に大量の水ようかんが奉納されるみたいな珍事になりかねず、実際の神社にご迷惑をお掛けするかもしれないと思ったからです。
私の一作品として解釈される分には構わないのですが、実在の宗教法人に影響してしまうとさすがに私も立場がありません。
(今の知名度だと可能性はほぼゼロですが、念のため)
そこで神様をコンテンツにする難しさも正直あります。
ただ、ご先祖様の信仰形態はもっと自由だったので、現代だからこその融通の効かなさだと思います。
高千穂の夜神楽も昔は相当弾けていたそうなので、基本的に「神様を愉しませる」ことを目的としたコンテンツなら、本来は自由でもいいのかも知れません。
色々と嫌われたくないものですが、新しいことを始めると良くない印象を持たれる場合も多いです。
あと、世が世なら私も敵を作るようなことをわざわざ言わず、のほほんと大人しく作品を作っていたかったです。
私はしがないながらも一応作家なので、本来なら言論をせずに黙々と作品を作るのが本筋です。
言論する作家はわりと嫌われますし、言論のイメージが作品を毀損しがちです。
あと、自身の素の影響力に気づいた作家は、作品で理想を叶えようとせずに現実的な影響力で理想を叶えることに傾倒しがちです。
そうなると、作品を滅多に作らなくなる人もいます。
だから本来なら、スピリチュアルと作家業は完全に切り離すべきだったのですが、事の発端は去年の年末に「私を描きなさい」と瀬織津姫様からメッセージを頂いたことに始まります。
それから半年以上経ちますが、それが良かったのか悪かったのかはまだわかりません。
ただ、言論のイメージと作品のイメージが同時に悪印象を持たれるほどどっちも知られていないのが逆に功を奏しているようにも思えます。
そこら辺が神様プロデュースの由縁というか、ご加護があるというか、そのお陰で私は好き勝手なことを書いていられるのですが…
現在は憑依もだいぶマシになって、異常な肩コリ程度で済んでいるので作品に向き合う時間がかなり増えました。
ただ、これまでにちょこちょこ始めたことが多く、同時進行でやってるせいで一つの物事の進み具合は遅いです。
それでも、ちゃんと椅子に座って絵を描けるだけありがたいです。
私が神様をコンテンツにした作品を作りたがるので、余計に妨害が激しいのだろうと思います。
「HARAEDO」は新しい形式で話を始めるつもりですが、実はだいぶ前に第3話の下書きが終わっていて、勿体ないのでこのまま完成させることにしました。
今回まとめたラフ画も、いずれ完成させてブログに掲載していこうと思います。
例によって、イラストはネットプリントで頒布することも考えています。

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楽太郎です。
先日、「瀬織津姫想像図」という神をも恐れぬ記事を書き、そこで私の印象としての瀬織津姫様を描かせて頂きました。
私が心の中で感じる瀬織津姫様は、神様だから当然なのかもしれませんが、もの凄く真面目な方だなと思いますし、メッセージの鋭さの中にも柔らかさを感じます。
決して私がイラストに描いたような容姿で全てを物語れるわけではなく、思うに神様という存在は人間にとって限りなく「概念」に近いのです。
神は霊界より上の階層に暮らす高次元存在であるので、人間が霊として認識するレベルよりも遥かに抽象度が高い存在です。
あまりに波長が高いため、人格としての知覚より情報やエネルギーとしての感覚が先立ちます。
神様にも個性や考え方があるように私には見受けられるのですが、おそらく霊的存在は高次元に至るほど抽象度が高くなり、より純粋な概念に近い存在になっていくような気がします。
だから、私の描いた瀬織津姫様が実際にそのお姿である可能性は、どの程度あるかさえ疑わしいと思います。
ただ霊界も神様の世界も人間には量りかねるもので、「妄想する分には自由」ということにしておいて欲しいです。
それでも私の感じる瀬織津姫様の印象と私が実際の女性や架空のキャラクターに重ねてきた異性の理想像は、どうも瀬織津姫様が原型である気がしてなりません。
私はだいぶ幼少期からオタクが入っていたのですが、漫画のキャラクターを追い求めたりアイドルの追っかけをするオタクも、自分の心にある理想的存在への憧れから始まります。
その理想像は、自分自身の深層心理にある「自分の魂の欠けた部分」であり、心理学的に言えば「アニマ・アニムス」と呼ばれるオリジナルです。
私はユング心理学のスピリチュアル性はそれほど評価していないのですが、オタクが「アイドル」を求める傾向と心理的不協和の関連は深いと思っています。
私にとって「瀬織津姫命」という存在がどういう意味を持つのか、その謎はこれから数十年かけて解き明かすことになるのかもしれません。
ただ私の清純な女神を求める心は、私だけにあるものではなく、世には芸能界のアイドルを追っかける中年男性はたくさんいます。
もしかすると、私も彼らも同じプロトタイプの女性像を無意識に追い求めているに過ぎず、その行動の現れ方が違うだけなのかもしれません。
以前の記事で書きましたが、そのアイドルやスターを求める心こそ、人間が失った神性を取り戻したいという欲求であり、もちろん芸能人も人間ですし神聖にはなれないわけですが、人々はどうしても夢を見たがります。
そしてオタクは、それが夢だとわかっていても夢を追い求める存在であり、私たちは時に自嘲気味に「空想と現実の区別がつかない」様を面白がるのです。
オタクという種族は、それゆえ一般大衆から気色悪く見られますが、実際は偽情報やマスコミのデマを間に受けておかしな行動に走る人々ほど「空想と現実の区別がつかない」人が多いです。
オタクは、自分たちがあり得ない幻想を追い求めていることを知っている分、半分目覚めています。
自分が完全に虚構の世界にいることに気づかず、何の疑いもない状態の方が危険なのです。
おそらく、人々は芸能人や成功者だけに「神性」を見て憧れ追い求めるだけでなく、身近にいる人や伴侶、愛するペットや大事にしているモノ、ブランドや「お金」も人間にとっては神の象徴に置き換わるのだと思います。
魂から湧き上がる神性への欲求は、本来なら信仰という形で直接神に向かう以外に、人間は「神っぽい何か」でそれを埋めようとします。
現実的に目に見える「神っぽいもの」で神性に対する欲求をあり合わせることで、魂の渇望は一時的に癒えていきます。
しかし、あくまでそれは神性の代用であって、神的霊性には置き換えられません。
例えば恋人に理想の異性像を見て、神に奉仕するように付き合っても相手は一人の人間であり、理想はいつか壊れます。
神の代用品が人であろうとモノだろうと、形あるものは完全に神になり変わることはできません。
それが何故かと言えば、形あるものはいずれ形を変えていきますが、神は不変であるからです。
この世が諸行無常であり、自分が追い求める行為を繰り返すたびに信仰の象徴は変わりますが、追い求めるイデアはずっと変わりません。
それを気づくまでに人間は長い時間をかけてしまうのですが、人生をかけてこの結論に辿り着けない人もたくさんいます。
むしろ、これまでの世は欲望と消費という市場経済
によって、自分の真の欲求が「神」という存在に向かうことを誤魔化し、その気づきから逸らされ続けていました。
私自身ですら、ことスピリチュアルにのめり込むまでは、単なるオタクとして二次元コンテンツのキャラクターを追い求めてきましたし、そういった関連のコンテンツを作ってきました。
そのことに全く何の違和感も持っていないどころかオタ活も推し活も楽しいもので、むしろやり甲斐すら感じていました。
しかし、奇遇にも「瀬織津姫命」という女神をきちんとお祀りするようになってから、自分の中のフラフラした渇望感は徐々に薄れていきました。
自分が霊的に求めてきたのは「信仰」であり、神との繋がりによって人間社会では得られない霊性を補給し、目に見えない存在の導きによって迷いがなくなることだったのです。
魂のレベルで感じる不足感や不安の解決方法が、まさか「神社に参拝して特定の神様のご神札を拝領してきちんとお祀りする」ことであると、どうすればこの答えに辿り着けるものなのかと未だに思います。
なんか、わざと簡単に答えが出ないような引っ掛け問題を出されて、とてつもなく長い時間をかけてその問題を解かせられてきた、そんな風にも感じるのです。
その答えがなぜこの数年で急に解けるようになってしまったのかわかりませんが、そこに神様の思惑があるならば、正解が出るまでバカでもわかるヒントをギリギリまで出してもらっていたのかもしれません。
だから余計に瀬織津姫様には頭が下がるというか、どうしても神の導きというものを否定することができない立場に置かれてしまったのです。
この出来事と「地球の次元上昇」という時期の関連は不明ですが、何らかの役割が私に与えられているのは間違いないのだろうと思います。
瀬織津姫様が自らを明かした上で私を導き、こうしてご自身の創作をお許しになられていることは、今の時代だからこそなのかもしれません。
神様は、おそらくこれまでの時代では表に出たくても出て来れない状態にあったのだと思います。
私の感覚では、今は神社に行っても神様から積極的に人間の相手をして頂けないように感じます。
おそらく、少しずつ時間をかけて神様たちは人間から距離を取るようになって行ったのだと思います。
日本人は神のご利益と言えば現世利益と考えがちなのですが、その恩恵は神々をきちんとお祀りし、奉仕するから得られたご神恩だったのです。
第二次世界大戦によって焼け野原となった日本は、物不足の世にあって復興に尽力しなければならなくなりました。
その復興を後押ししたのは戦勝国のアメリカだったのですが、モノ作りが盛り上がり物質的に豊かになっていくにつれ、戦争中に神も仏もないことを悟った日本人は、ますます神仏を敬わなくなりました。
そうして始まった戦後教育は自虐史観と左翼思想に染め上げられ、その教育システムによって支えられるアカデミズムと学歴社会によって、日本人の思想は唯物史観に変わっていったのです。
その後の経済発展と国際化によって、日本人の精神文化は完全に後手に回っていきました。
拝金主義が蔓延り、物質的な目に見える幸福の形を追い求めることは、日本人が本来望む性質のものを違う形で供給し続けてきたのです。
そうして荒廃した人々の感受性は、今の社会的混乱に繋がっています。
いくら求めても消費しても満たされないのは、本来求めているものが違うからです。
今の人々には、それが何であるかを知る術はほとんどありません。
しかし、こうして瀬織津姫様を始め前に出て来られる神様が現れたことは、新しい兆しかもしれません。
YouTubeなどでも、神の代弁をする人も増えて来ました。
これはそれぞれが個人的に受けたメッセージを個人的に解釈して個人のやり方で表現しているものなので、誰が真実で誰が間違っているということはなく、それぞれの発信のあり方を神様がお許しになられていることの方が重要です。
もちろん、その啓示を与えているのが神様ではないパターンもあり、注意は必要です。
例えば私が瀬織津姫様からメッセージを受けて知らせても、「瀬織津姫様はそんなことは言わない」という人も中にはいるでしょうし、審神者の能力もそれぞれ違います。
結局は、神様のメッセージを受け取って行動する人間がどんな役割を演ずるのかが本質であって、事実云々ではないと思います。
ある種の啓示を間に受けて、それを現実にどう反映させていくかにスピリチュアリズムの本質があるのです。
今、スピリチュアルな分野だけでなく多くの人に神々は強くアプローチしており、それはおそらくこれまでの歴史になかったことです。
それほど神様が前面に立って動かれる世というのは、明らかに画期的と言わざるを得ません。
地球が次元上昇する件にあって、人類は西洋的物質文明の円熟期にありました。
それと入れ替わるように立場を変えられた神様たちを鑑みれば、やはり時代はこれから根本から変わって行くのでしょう。
それは「神々の帰還」を意味します。
これまで、神々はなりを潜めていたからこそ人間は好き勝手にやれたのです。
しかし神々が何千年か越しに秩序を司る時代になれば、もう少しはマシな世になるかもしれません。
私をそれを「神世」と呼んできましたし、ずっと待ち望んできました。
その世界がいよいよ到来した、そんな感じがします。

楽太郎です。
7月の満月から一夜明けて、邪気が引き潮のように一斉に引いたのを感じます。
体調も取り戻し、やはり満月の影響は効果覿面に現れるのだなと改めて思いました。
先日はかなり邪気に滅入られて、一時的に「神も仏も信じられない」感覚に陥っていました。
この世界はやはり、神秘など存在せず人間がこのまま欲望のままに地球を支配し続け、いずれ滅ぶに違いないと、かなりネガティブな気持ちになりました。
どこを見渡しても、人々は誰もが変化を期待しながら、変わるつもりも変えるつもりもないことは薄々わかるからです。
世の中が勝手に良い方に変わって欲しいと願いながら、自分自身を見つめ反省し、過ちを手放して生き直す覚悟が、人々にそれほどあるとは思えません。
けれど、おそらく夏至以降、神々の選択では「大難」ルートの世界線から「小難」ルートに切り替わった気がします。
数ヶ月前の私は、国内情勢はさらに破綻し、その上大災害も起きて食糧難の時代となり、人々は木の皮まで食べるようになると本気で思っていました。
しかし今の私は、確かに世の中はすこぶる悪いのだけど、皆がそこそこ生活を保ちながら目に見えるところを少しずつ良くしていくような、そんな未来に思えるのです。
だから、不思議と未来に対する不安は「抱けない」のです。
というのも、未来が明るい方に向かうのは決まっているので、それまでに闇が濃い時もあるのだろうな、という印象に近いです。
なぜこんなにも人々が変わろうとする意思を見せないのに、世の中が良い方向に動くと感じるのかと言えば、おそらく「覚醒」の道を選んだ人々の総量が神々の予想値よりも多かったのを、私が感じ取っているからかもしれません。
おそらく、想定通りならすでに現7月時点では相当悪いことばかり起きていて、大難ルート一直線だったのかもしれません。
しかし、良い意味で予測が外れたことで、多くの人々がコツコツ世を良くしていく流れに変わったのだと思います。
「日月神示」では、神々が手を入れるならばすぐにでも元の泥海に返すことはできるのだけど、そうはしたくないから大難を小難にする努力をしてくれと、日月の神様は口酸っぱく忠告するのです。
私は昨日、あまりに気分が最悪なので雨の中を歩きに行きました。
その時も人々の波長と噛み合って本当に居た堪れなくなったのですが、その時は「人間など滅べばいい」とまで思いました。
私は自分の中に、闇がものすごい勢いで湧き上がるのを感じました。
これまで、波長を高くするためには闇を消え去らねばならないと考え、負の感情を抑制してきました。
しかし、それは単に怒りに蓋をしているだけに過ぎず、その怒りを浄化しないまま上っ面で波長が高いように思い込んでも、腹の底ではマグマのように煮えたぎっていたのです。
これは「スピリチュアリストあるある」の一つで、闇と向き合わないからこそ浄化された光の部分だけを自分のうちに見ることができ、自分があたかも闇がないように感じる、という錯覚が起こります。
真の波長の高さというのは、いかなる低い波長もカバーする寛容さがあって、「低い波長は許されない」と思っているうちは低い波長域にあるのです。
大事なのはこの波長の低い部分、醜い闇の部分をしっかり見て、その醜さに目を逸らさずにきちんと向き合い続けることです。
私はこの闇の部分を押さえ込みすぎることで、自分自身のエネルギーの循環そのものに影響がありました。
負の感情を持たないようにする努力は、自分の感情を胸に押さえ込むことに繋がっていたのです。
だから感情を自分の中で手に取り出して一旦見つめることは、自己浄化への第一歩です。
闇は表に出さなければ良いだけの話で、自分の内に止めて浄化するつもりであればその方が健康的です。
私は時々、煮ても焼いても食えない人間という存在がひどくもどかしくなり、憎たらしくなることもあります。
私がこの世界が変わることを願うからこそ、「変わる必要がない」と思う人々の意思と拮抗します。
彼らの選択自体が間違っているわけではないのも、重々承知しています。
時代がずっと良ければ、私も何の疑問もなくのらりくらりと生きていたでしょうし、目を向けるものが違うだけで彼らは今でも満足しているのかもしれません。
しかし、巨大なものがより巨大になるためにより巨大になっていくだけの世の中というのは、漂っている小さいものは巨大なものに飲まれていくか、滅ぼされていくしかありません。
この世の中に固定化した「勝ち組負け組」という短絡的な社会構造は、勝ち組の傘の下にしか人権はなく、その傘の下では負け組同士の競争しかありません。
勝ち組は「どうやったら勝ち組になれるか」というハックを有償で提供し、勝ち組に上がってくる負け組だけが救われる世界にしているのです。
私はそれがひっくり返るのを望んでいて、このままでは世はどんどん悪化するばかりだと思うからこそ、変革を願うのです。
しかし、冷静になって考えれば、私がそうなる世界を望むと同時に、神様が世界を変えて下さると信じすぎている私に気づきます。
仮に神様が私の予期しない世の中にしようとして、私の望み通りに世界がひっくり返らないとしたら、私はそれで諦めて「負け組」に甘んじて死んでいくのだろうかと。
神様が世の中をひっくり返すのを待っているだけで、もしひっくり返らなければそれで終わるつもりなのか。
その時、自分は何もしなくて良いのか?
そう考えた時、世の中がひっくり返らないなら自分がひっくり返せばいいじゃないか、と思いました。
「他力本願」というのは仏教の奥義でもあるのですが、自力で最善を尽くして天命を待つのが他力の意味です。
神様がやらなければ諦めて終わるだけなら、自分でやり切ってみる価値はあると思うのです。
この地上がこれまで幽界的な存在に支配されていたのは、人間が「欲望」というエネルギーに親和性が高く、欲望はすぐに物質に対するアプローチに変わるため、これまでの世は即物的にならざるを得ませんでした。
即ち、人間が何かしらの力でエネルギーを具現化するから現実の事象は起こるわけで、誰かがその力を地上に降さなければ妄想で終わっているのです。
この物質次元は「形にしたもの勝ち」の世界で、良くも悪くも実行力のある人間が力を持ちます。
神様がそうしてもらいたくないと思っておられたとしても、人間が気まぐれで神社に火を放てば神社は燃えてしまいます。
この世界において、物質化する主体があるからこそ現象が先立つのです。
「世の中が変わってくれたら」と思うだけなら、「別に変わらなくていい」と己の既得権益をせっせと再生産し続けるパワーには勝てません。
だとしたら、それを上回るパワーをこの地上で顕現しなければならないのだと思います。
それを「自分は大河の一滴だ」と過小評価して、最初から小さくまとまるつもりなら、最後までその程度のことしかできないでしょう。
自分なんか、自分ごときが、と思ううちは、自分の底力も真の実力も眠ったままです。
自分を過小評価せず、かと言って過大評価もせず、とは言え志を大きくやるのは難しいのですが、その豪胆さがなければ化け物のような胆力で勝ち上がってきた人々に太刀打ちすることはできません。
優しく心ある人ほど、人に遠慮して譲ってきた人も多かったはずです。
今までの時代で勝ち上がる人というのは、利益のために平気で人を切れぬようでは浮上できないことを知る人たちだったのです。
だからこそ本当に善良な人ほど良いように使われ、虐げられたまま浮上することが難しい世の中でした。
私は即物主義の権化のような会社にいたせいで、心を病み一時は障害者になりました。
それでもお金が必要だったので、就労移行支援を受けて社会復帰を目指しました。
その時に出会った障害を持つ人々、特に精神病を患っている人たちは皆繊細で、心根が優しくて頭が良い人たちばかりでした。
それゆえ、彼らの心の傷の深さも感じ取れました。
彼らの中には、以前の私のように命を断とうとした人もいたかもしれません。
私はあの頃出会った人々が今は幸せであることを願いながら、私や彼らが体験したように、こんな不条理な世界で一人として不幸になる人を生み出したくないと思うのです。
そして、そんな人生をこれから生きる子供たちに辿って欲しくありません。
自分一人がただ落ちぶれて死ぬだけだと思っていたら、私はこれほど本気にはなれなかったでしょう。
それではダメだと思うから行動を起こし始めたのであり、自分よりも大切なものがあるからこそ、ここまで戦う決意でやってきたのです。
「勝ち負けが大事なのではない」というのは、無抵抗平和主義者が生み出した美辞麗句です。
結局は勝ち組に好き放題やられて、負け組が挑戦できないようになっている社会だからこそ、欺瞞が蔓延る今の状況があるのです。
勝ち負けも大事だし、成功も失敗も大事だし、利益も損失も大事です。
小綺麗にまとまっていれば美しい世の中とするのは所詮錯覚であり、その錯視を利用して利得に繋げる者もどこかにいるのです。
いい加減、そのレトリックは見抜けるようにならなければいけません。
幸いにも、おそらく思っているよりも多くの日本人が、覚醒の道を選びました。
これから起こることは、確かに最悪に見えるかもしれませんが本当の意味で最悪ではないはずです。
よもや、その中で気づいて動く日本人が増えれば、自ずと世の中は変わっていくはずです。
神様は、少し先の未来にそれを見届けられたのかもしれません。
だからこうして神様は、私たちを陰ながら後押しして下さるのだと思います。
「日本人よ、今こそ立ち上がれ」と。

楽太郎です。
昨夜、ほぼ思いつきで「7月の満月について」という記事を書きました。
その記事を投稿して寝ようとする直前、家の前を誰かが徘徊するような気配がして、玄関から外を見ても誰もいませんでした。
私は嫌な感じがしたので、念のため魔除けとして破魔矢を窓側に向けて寝ました。
それから夢を見ました。
私はどこかのお店の中にいるのですが、人語を話すツキノワグマが店の入り口のガラス戸に体当たりしていて、私は熊が店に入らないようにドアをずっと閉めて押し出していました。
ツキノワグマは、私の胸元程度の大きさもないため簡単に押し返せたのですが、その形相は血眼だったのを覚えています。
朝、変な夢を見たなと思い時計を見ると、5時をちょっと過ぎた当たりでした。
そう言えば天体的に満月はその時間付近だったので、昨日の記事との脈絡を考えたら一応説明はつく気がしました。
昨夜は満月による浄化の強い日だったため、逆に言えば邪気が最も暴走する日でした。
人間の集合意識は現在、これまでの時代を作り出してきた物質主義者と彼らをサポートする存在の支配下にあります。
彼らは彼らなりの正義を実現するために「神に仇をなしてきた」のです。
その彼らにとっての脅威は、神の意思を地上に降ろし地球意識と結びついた人々そのものにあります。
私が「精神界」と呼ぶ新しい時代の気場からエネルギーを地上に降ろし、地球意識を体現する人々の行動によって古い時代の気場は取り払われていくからです。
従って、彼らが血眼で攻撃をしたい相手は自ずと決まってきます。
今の世を支配する者たちは、自分たちの代替となる勢力を生み出したくはないはずです。
私はだいぶ以前から彼らの波長とぶつかり合ってきたのは本ブログで書いていますが、夢の中でガラス戸に必死に体当たりしても押し戻されてしまう彼らは、確かに私にとって恐怖そのものであるにしても、もはやぶつかってくる以外に何もできなくなりつつあるのです。
私は最近、この仇なす者たちが愚直に同じ手口で同じことを繰り返すだけのように感じ、「他の方法がもはや思いつかないのでは?」と考えるようになっていました。
まるで、今の人々が昔のやり方をひたすら踏襲するしかないように、彼らも無駄だとわかっていながらその方法以外の道筋を取ることができないように見えるのです。
それが哀れに思えるからと気を緩めるつもりはないのですが、どうも彼らが追い込まれているのは実感を持って認識してしまうのです。
起きて家の外を見回すと、やはり満月の日で雨天もあってか邪気が蔓延しているように感じました。
それにしては邪気が強すぎるし、不可思議に気場も荒れていると思いました。
毎朝、神棚をお祀りする際に祓いを行うのですが、今朝に限っては「日本のためにお祓いをしなければならない」という妙な緊張を感じて、気づけば1時間以上は祝詞を奏上し続けていました。
さすがに集中力も切れたので奏上をやめると、まるで冬山にいたかのように身体が冷え切っていました。
今日は比較的涼しいのでエアコンを止めて閉め切っていたので、これも不思議な感じがしました。
色々と妙なことが起きているのを感じながら、熱いお風呂にしばらく浸かりました。
ここまでは、今朝起こった奇妙な出来事の話です。
全てを俯瞰的に説明する文脈はあるのでしょうが、私にはまだ点と点が繋がっていません。
ただ、おそらく人世の気場というものは、かなり凄惨な状況になりつつあるのかもしれません。
確かに、夏至を経由してからのエネルギーの変化は凄まじいものがあります。
私自身は神様も邪気の存在も忘れるくらい身体のエネルギーが高まり、多動とパッションをコントロールするのが難しいほどです。
人々がどんな状況か観察しようにも猛暑がきつすぎて通行人を見ることも稀なのですが、何万人もいる街なのにそれほど人が住んでいるように見えないほど静まり返っており、私との温度差を感じます。
ふとすれ違う人たちを見れば、相変わらず楽しそうに生きているようには伺えます。
ただもはやエネルギーの種類が私とは違うというか、全く同じ人間なのに別の世界の住人のように感じるのです。
彼らの波長が云々という話ではなく、行動を引っ張ってくる原動力、言わば考え方や価値観から始まり習慣や生き方に至るまで、まるっきり別の力で動いているように見えます。
それは私と彼らの間の優劣とかそういうものではなく、「違う文化圏で生きている人々」という認識に近いです。
同じ日本人で同じ生活様式で暮らしながら、まるで他国の人みたいに感じるようになってしまいました。
確かに私は社会に生きる人間として浮いてますし、どちらかと言えば不適合者の部類に入るのですが、それに劣等感があるからではありません。
私以外の人々はきちんと組織などで働いていますし、例えやりたくなくても社会に求められる義務を果たしています。
それは大変立派なことだと思いますが、お金を得るための労働をするだけで精一杯のようにも見えます。
また、「昨日やっていたことを明日もやり続ける」ために今を頑張って生きているように思えます。
それ以外の生き方を選ぶのは確かに難しい世の中ですが、まるで不安から逃れるために「昨日までのこと」にしがみついているように見えてしまいます。
これまで積み重ねて来たことだから、それが現実だからと明日も同じことを繰り返せるように今を必死にやり繰りし続けることは、いずれその積み重ねが崩れた時に何をしたら良いのかわからなくなるのではないでしょうか。
将来が不安で、今の世に疑問が多く考えたくない理由もわかりますが、そうして今までのやり方に固執することで安堵を得ようとするのは、結局は問題を先送りにし続けているだけです。
もし私たちがこれからどうするか考える時、「絶対」と思われていた権威が失墜していく時代にあって、安心できる寄辺もない不確定性の高い世の中で、どうすれば幸せに生きられるのかを自分の中に求めていく必要があります。
「こうすれば一生安泰」のような社会のセオリーのようなものは、全ての面で今後揺さぶられていくでしょう。
またそう言った安全地帯は誰もが求めるので、結局は椅子取りゲームになってしまい、おそらく大した安心も得られません。
そんな状況の中で、例えフワフワと漂っていても芯が通っているような、そんな自由な生き方だけが自信に繋がり、あらゆるステータスも決して保障にはならないという覚悟は、確固とした生き方を後押しするはずです。
そうして「自分が何をやりたいのか、何をして生きるべきか」を考える時、自分自身を見つめる難しさや不安から逃げていては、いつまで経っても道筋は見つかりません。
人間は変化を恐れますし、自分自身を見つめることも苦手です。
だからと言って、外側だけに安心を求め続ける限り、自分の生き方はずっと見つからないのです。
この社会で生きる上で「お金」という問題をどうするかに関しては、私自身も言えた口ではなく、今も喫緊の課題であり続けます。
しかし、例え今の世が飽和仕切って雁字搦めの状況でも、どこかに突破口はあるはずなのです。
そして世の中が少しずつ崩れていく中にあって、その隙間に入り込んで広げていくこともできるはずです。
その方法は、既存の常識やセオリーに囚われているうちは、全く見当が取れないかもしれません。
だからこそ、自分自身を見つめていく中でそのアイデアが自分の個性に宿っていることを知り、それを掘り起こして道具に使っていけば良いのです。
誰かの批判や揶揄を気にしているうちは覚束ないでしょうが、そんな自分に自信を持った時に真のオリジナリティを発揮して突き進んでいけるのだと思います。
今、その実践が人々に求められています。
誰かや既存の何かに頼るのではなく、自分自身の内側に信じるものを求め、不安や迷いを振り払って独自の道を切り開く生き方が求められています。
それは確かに難しいかもしれませんが、そのために新しい地球意識の気場が開かれており、そのエネルギーに触れるために目に見えない世界と調和していくことも大切です。
もし自分自身を見つめるだけでは何も見えないのなら、手を合わせてご先祖様や神様にお祈りしてみるのも良いかもしれません。
目に見えない守護者たちは、きっとそんな私たちを応援してくださるはずです。
未来は、常に挑戦する人々に委ねられてきたのですから。

楽太郎です。
今回の記事は11日午前5時に迎える満月、日本では現在進行形で10日夜に訪れている満月についてです。
これについて書くつもりはなかったのですが、少し霊的な兆候があったので解説しておこうと思います。
今日が満月だと予め調べもしなかったのですが、今日に限って世に漂う霊たちが騒がしいことと満月に因果関係があることに先ほど気づき、合点が行きました。
今朝、久しぶりに体感しうる霊障にしては大きいと感じてましたし、気場も荒ぶっていて家族にも兆候が垣間見えたので、何故か気になっていました。
私にとって憑依は日常茶飯事ですし、それも最近になって波長の高まりと共に霊力で抑え込めるようになっていたので、今日に限って深刻には考えませんでした。
ただ午前中に散歩していた時、道ですれ違う人々との波長と妙にかち合うというか、エネルギー的にぶつかるのを感じてあまり良い気分にはなりませんでした。
人々の集合意識と地球意識の気場が相剋している時に感じる波長の乱れには独特な空気感があって、それをこの時に見出してはいたのですが、「なぜ今日に限って?」という理由が見つからず、ずっと不可思議に思っていました。
何となく今日は「自分のことに専念する日だ」と感じてましたし、世の出来事に関するお役目も与えられている気はしなかったので、ますます今日の月齢に関して意識していませんでした。
ただ、この数日「感情」に関するテーマが宇宙的にピックアップされているのは感じていました。
7月6日に投稿した「戦いは終わった」という記事は、そのまま「感情」がテーマになっている文章です。
霊障が一段落し感情の落ち着きを取り戻したことで、再び自分本来の波長を取り戻し、過去にやり残したことに取り掛かっても良い状況になりました。
その投稿の翌日の7月7日午前中、大きな地震が起こった時に感じるような、劇的な磁場の乱れを突如感じました。
私は咄嗟に地震だと思い、避難しようか一瞬考えたのですが、蛍光灯の紐を見ると揺れていなかったので、どこか遠くで大きな地震でもあったのかな、とその時は思いました。
けれどこの日、東北地方で特に大きな地震はなく、まるで地割れが伴うような地震的な波動との因果も説明がつかなかったのです。
しかし、この不可思議な点と点が「満月」というテーマで結びついて、合点が行きました。
この地震的な波動というのは、人々の集合意識に関する精神的土壌、つまり「人世」の気場に起こった地割れであり、その変動はおそらく今日の満月に向けて起こっていたのだと思います。
「満月」はこの数ヶ月、一つのテーマに関する「浄化」という側面がありました。
それは「人への感情的依存」であったり「モノへの執着」や「未来への意識」であったり、様々なテーマがフォーカスされ、天からその浄化が促される時には、天の意思に抗う人間たちの感情が「邪気」となって暴走していたのです。
そのため、満月の日は特に気の乱れが激しくて、私は妙にテンションがおかしかったり頭痛がしたりと、様々な変調を感じることも多く、家族や人々の行動を見る限りどうも一時的に荒れる傾向にありました。
そして今日の満月の浄化は、再び人々の「感情」に対するピックアップが起きています。
先ほど、30年くらい前に住んでいた近所の光景が突如思い浮かんで、思い出すのも難しかった風景を不気味なほどアリアリと思い出してしまい、このインスピレーションがどうも関係があるようなのです。
今回の浄化のエネルギーは人々がこれまでの世に対して抱く執着、「懐古主義」と言っても良い、昔の繁栄に縋りつく感情ゆえに変化を受け入れない、そんな想念に対してお祓いが行われているのだと思います。
その布石として、7日に人世の気場が揺さぶりを受け、おそらくその時に何らかの地割れを伴いました。
ここ最近、世の「リバイバルブーム」がより加熱しているのが個人的に気になっていて、もはや過去のレガシーにしかお金が集まらない仕組みなのではないかと訝しく思っていたのですが、どうもこの潮流に対して神々からの指摘が入ったようです。
多くの人々は尚これまでの時代で通用した常識や価値観でまだ世が成り立つと思い込んでいて、どうも彼らはその固定観念を変える気はありません。
人々が未だ技術革新に幻想を抱いていて、ほぼ確実に「AI革命」は絵に描いた餅で終わるはずなのに、その狂信と古い時代に対する執念は同根のものです。
NVIDIAが時価総額4兆ドルという常軌を逸した熱狂をもたらしながら、その足元に横たわる不正や疑惑に人々は目を向けようとはしません。
技術革新はこれまで繁栄の基盤であり、技術万能主義に対する信仰と実益に裏打ちされていました。
しかし、ここ四半世紀の技術革新はほぼ頭打ちで、誇大宣伝によるユーフォリアと失望をひたすらローテーションするだけでした。
それでも、ほぼ全世界の人々は技術革新というフォーマットが全てを解決すると未だに信じており、それは古い時代に通用したスキームに依然しがみついているだけです。
現在開催中の大阪万博も、これまで通りの選挙活動で政治を良くしようという運動も、過去のコンテンツの焼き直しに至るまで、結局は「昔は良かった」というノスタルジーと「今まで通りのやり方で上手くいく」という通念に対する執着から生まれるものです。
その感情が天から浄化を促される時、人々の無意識下の抵抗感が大きすぎて激しく動揺が起こり、それが気場の振動を伴ったのだと思います。
私はこれを地震繋がりで「2025年7月問題」に準える気は毛頭ありませんし、そんなこじつけで納得できる人はいないと思います。
ただ言えるのは、霊的な次元で起こったことは現実世界に何らかの形で必ず反映するということです。
それは実際に地震なのかもしれませんし、例えば株の大暴落かもしれませんし、それを今の段階で断言することはできません。
しかし、私がこのブログでエネルギーの流れが急に変わったことをたびたび指摘してきたように、この辺りで何らかの切り替えが起こるのはおそらく間違いないと思います。
それがどのような形であるにせよ、それは私たちの日常感覚を変えるものかもしれません。
それに不安はつきまといますし、私も煽るつもりではないのですが、これが天が人々に促している課題であり、浄化すべき事柄になっていることに私たちが抗っても仕方ないのです。
何が起こるにせよ、私たちはもはや古いやり方にしがみつき、同じことを繰り返してもいずれ立ち行かなくなるだけです。
そのやり方に依存するのは、「変化」を恐れ新しいやり方を拒んでいるからです。
その執着がある限り、新しい潮流は生まれず世は黙って衰退していくしかありません。
この現状をどう捉えてどう考えるかは、今を生きる私たち次第です。
今日は、その反省を促すきっかけを人々に与えて回るような、そんな夜です。

楽太郎です。
先ほど上げた記事「素直に生きる」の中で、「瀬織津姫様が自分の内観ではもっと透明感のある女性に感じる」と書きました。
私は幽霊とかをバッチリ見るタイプではないので、神様を目視することはできません。
しかし、夢で見たりインスピレーションでそう見えることは時々あって、そのイメージを改めて描いてみることにしました。
以前、早池峯神社に参拝してご神札を拝領し、自宅の神棚にお祀りした日に瀬織津姫様の似顔絵を描いたことがあります。
その時はバストアップでしたが、今回は全身像を描かせていただきました。
「HARAEDO」は漫画ですからキャッチーなデザインを心がけてますが、瀬織津姫様を「実際はこう」みたいに描いてみるとこんな印象です。
描いていて改めて思ったのは、正統派清純派美少女すぎて「欅坂にいそう」と思ってしまいました。
神様なのに…
意外とオタクの幻想の部分に、人間のアニマというか、「アイドルの原型」のようなものが眠っているのかもしれないと思いました。
そのアニマも、人間の理想像である神様の映しである可能性もあり、もしかすると私たち人間は深層心理でずっと神様を求めているのかもしれません。
ただ私にはどうも都合良すぎる幻視なので、自分がイメージする女神様の姿は、無意識に理想の形を作り出しただけかもしれない、と考えることもできます。
かと言って私が感じ取る神様からのメッセージやイメージが全てデタラメかと言うとそうとも思えず、「好みのタイプの姿に見せて良いように使ってやろう」と神様が思っておられたとしても、私としては本気でやる気が出るのだから別に構わないです。
確かに、欅坂みたいな女神様が「神社を作ってほしいです」と言ったら、マンションですらアイドルに貢ぐドルオタみたいに、人生をかけて神社を献上する男がいても不思議ではないかもしれません。
とは言え瀬織津姫様は、どうやら母の代から繋がりのある神様のような気がしてて、私の幼少期の話を聞いてみても神様がついているとしか思えないエピソードもちらほらあります。
私には更に深い瀬織津姫様とのご縁があるのかもしれず、それは残念ながら今の私には知り得ません。
けれど、こちらの女神様に見出す理想の女性像を、人間の一般女性に重ねてこれまで追い求めてきたのならば、そりゃどんな恋愛も上手くいくわけがないよなと、ちょっと納得したりもします。
そりゃいい年して美少女の絵ばかり描いてますからね…そうなりますよ…

楽太郎です。
今朝、お風呂に入った時に鏡を見て、酷い顔だと思いました。
確かに昨夜は寝苦しくて何度か起きたのですが、寝たにしては目の周りが真っ黒でした。
こういう状態を見ると、とても自分自身の浄化が進んでいるようには見えません。
心に現れる霊障は、ほぼ無くなりました。
それでも尚感じる胸の痛みの原因がわからず、このモヤモヤが邪気を呼んでいる気がしていました。
この痛みは、湧き上がる感情を抑え込んでいたために起こるものだと気づいた時から、これまでのように必死に前に進もうとせず、自分の足元をきちんと見て歩こうと決めました。
今、制作中の「HARAEDO」ですが、若干方針の変更を考えています。
これまでは1ページないし2ページで1話完結としてきたのですが、あのお試し感は取っ払って完全なストーリーにしたいと思っています。
漫画という形式にも見直すつもりで、別のメディアでの展開を考えています。
漫画というのは、大抵8ページ以上ないと一つの話になりません。
ストーリー漫画はさらに長期のスパンが必要で、一人の作家が数ヶ月や数年を費やしてやる大作業となり、その制作環境を整えるために出版社を通して「連載」という形を取ることになります。
しかし、出版事業における漫画は商業的な成果を上げることが前提になるため、作品の完成度云々とは別の軸での結果を求められます。
編集者も頭を垂れるような大御所ならどんな原稿も通るのでしょうが、自分のやりたいことを出版の世界でやり続けるにはリスクを伴います。
「漫画家は連載してこそ一人前」という考えはその通りだと思いますが、自分が描きたい漫画を描くためなら出版社とのコネが必須なわけではないと思います。
私が考えているのは、漫画を描いて生活が成り立つなら一つの成功と言えるので、その程度にマネタイズできれば問題ないということです。
その方法はさて置き、自分が描きたい漫画はシノゴの言わずに描きたいなら描けばいいだけの話で、出版や商業に関してはまた別の話です。
最近の漫画は特に絵で魅せなくてはならないため、どうしても1話あたりの情報量は削られます。
制作コストと費用対効果を考えた時、「漫画」の持つ情報量に関するハードルをどう埋め合わせるか、それには「文章」と「演出」という形式的な補完によって可能になるのではないかと考えています。
それで、表現形式に関しては色々と実験をしている最中です。
あと、私の描く瀬織津姫命が何となく内観しながら感じる瀬織津姫様と、印象に違いが出てきました。
「HARAEDO」の瀬織津姫様はキャリアウーマン、という感じでしっかりした印象の女性です。
しかし、私が感じる瀬織津姫様はもっと華奢というか、可憐な印象を抱くのです。
デザイン云々のレベルの話ではなく、「瀬織津姫命」というキャラクターを描く時のイメージで、瀬織津姫様は思っているよりずっと少女性があるというか、もう少し儚い印象の神様ではないかと私は感じています。
あえて表現するなら、「透明感」だと思います。
その部分で、より自分の直感に合わせるように再構成していく必要があるように思います。
他の祓戸三神に関しては、むしろ三女神が漫画的な少女性が高く、従来の瀬織津姫命が格段に大人っぽい印象すらあったので、釣り合いが取れるかもしれません。
それをすると、ますます「プリキュア」っぽくなるのですが…
さて、スピリチュアルな話に戻します。
こうして自分を改めて見つめることで、前に進む道筋を知ることもできます。
これまで私の感じる波長には、神様からのもの、昔馴染みの小我のもの、霊的な自分としての魂、憑依体による波長が混在していました。
それらが全く異なる性質の波動ゆえに、私はよく混乱し自分を見失いがちでした。
今も尚、そのエネルギーが交錯して優先順位がわからなくなります。
湧き上がる感情が自分のものなのか誰かのものなのか、その感情を受け入れることは是なのか非なのか、心の中で取捨選択をすることすら難しいものです。
ただし、これらの感情は手放しや前に進むために邪魔になることの方が多かったのです。
神様の意志を実行し自分のやるべきことを実践する時、湧き上がる感情は手放しの対象ですらありました。
だから、基本的に感情は抑圧してしまうものであり、下手に情緒に流されると間違った因縁を招いてしまう恐れもあったからです。
特に私の場合は憑依によってあらぬ方向に引き摺り込まれる危険があったので、余計に感情を押し殺す必要がありました。
慈悲や愛着を感じるからと言って、良い人のように振る舞えばますます雁字搦めになって行ったでしょう。
そうしないために、私はわざと愛情を抑えていましたし、神様からも距離を取るように促され続けてきました。
それは今まで「自分の心を守るため」に仕方なかったと思います。
心を自分の制御下で死守しておかなければ、闇のものにいつ取り込まれてもおかしくなかったからです。
しかし、それはそれで自分の魂のエネルギーを抑圧していることになるため、苦しみを伴い肉体的な痛みにも跳ね返り、むしろ邪気を呼び込む原因にすらなりました。
その魂のエネルギーの正負の反転は、幽界との霊線を繋げ「魔」を呼び寄せる邪気にもなっていたのだと思います。
この波動の強さこそ、人間の魂が大神の「分身霊」であることの証左かもしれません。
これは私だけが特別な魂という訳でなく、誰しもが神の分身なのだから同じ仕組みであるはずです。
「祟り」という言葉があります。
これはある霊能者に教えて頂いたのですが、「祟り」とは「神(示+申)が出る」と書き、「神が守護から離れる」ことを意味するそうです。
逆に「崇める」とは「山に宗(たっとぶ)」と書きます。
日本人は古来より神々を山にお祀りしてきましたし、神を「尊ぶ」ことが「崇める」ことに繋がって来ました。
しかし、私たち日本人は神を崇めることを忘れ、それどころか信仰そのものを鼻で笑う風潮になってしまいました。
では、崇められなくなった神はどうするのかと言うと、「祟り」ます。
神が祀ることをしなくなった人間から離れる時、人間が生きながら負う罪穢れによって邪気や禍事を引き寄せ、その災いから守られなくなってしまうのです。
そうなった人間は陰気をまとい運気も下がり、自分自身が邪気を放って禍事をもたらすようになります。
これは神社仏閣に鎮座する神々を疎かにして起こることだけでなく、人間の心の奥深くにいる「分身霊」を粗末にすることで祟られることもあるのです。
人間は少し気が病むと誰かを攻撃して憂さ晴らししたり、気休めのポルノで自分を慰め、薬やアルコールに頼って気分を誤魔化そうとします。
しかし、その繰り返しでは自らの魂を裏切り続けることになり、いずれ自分自身という神に見放されていきます。
そうして自分が自分を守らなくなった時、「自分が自分自身に祟る」という禍事が発生するのです。
よく考えれば、あらゆる病気が生活習慣から起こるように、自分を偽り裏切り続ければ心身に現象として現れるのは、実際に認められることです。
私も、他人を道具としか思っていない上司の下で働いていた時も、金儲けのことしか考えないような会社に所属していた時も、「お金が必要」だからと無理に従い、自分の心を押し殺すうちに病気になっていきました。
自分自身の心に蓋をして否定し続ければ、いつか自分自身に祟られるのも無理はないのです。
だからこそ、自分自身を正しく「崇める」必要があるのです。
それは自分を神だと思い上がることではなく、「自分自身を祀ろうこと」即ち自分の心や身体を大事にして、素直に生きるということです。
これは生きる上で基本中の基本でありながら、なかなかできることではありません。
身体に良くないとわかっていても、嗜好品は摂りたくなりますし、やめられない癖もあります。
かと言って、無理にやめることを強制しても自分自身に反することになります。
この匙加減がわかるようになるのは、なかなか難しいものです。
しかし、「自分に素直になる」こと以上に自分を祀ろう、即ち自分を尊ぶことはなく、大事に思うからこそやるべきことが決まっていきます。
私たちは長らくこの感覚を忘れ、「こうしなければいけない世の中だから」「みんなこれをやっているから」「あの偉い人がこう言っていたから」と、自分以外のものを最優先にしてしまいます。
それは、自分以外の存在を祀ろうことであり、自分の神を崇めずに外の神を崇めることです。
その状態では、自分自身という「神」に裏切られるような出来事に見舞われるのも当然の話です。
私は自分の不調を通して、このことをよく理解しました。
神仏を信じ、瀬織津姫様をいくら崇拝しても、自分自身という神(分身霊)を蔑ろにすれば、神は崇めていないも同然だったのです。
これはなかなか盲点となる部分で、この信仰を疎かにして信心というのは成り立たないのだと思います。
それにようやく気づいて、今は無理に前に進もうとせず、一旦立ち止まることも必要だと思いました。
さすがに鏡で自分の顔を見て、幸せそうな顔にも浄化されてさっぱりした顔にも見えませんでした。
ここで意固地にならず、「俺は疲れてるんだな」と思うことにしました。
個人的に、ゆっくり考えなければならないこともあります。
これを良い機会にしてみようと思います。

楽太郎です。
世の中が順調に悪化していくのをいくら目の当たりにしても、世が良くなる兆しは一つも見えません。
強いて言うなら、アメリカの国内情勢が明らかに破綻に向かいつつあることですが、とは言え破滅を望む心が善良とは言えないでしょう。
日本の参院選も20日に控えていますが、政治家という職業は選挙の前だけは必死になり、いざ議会が始まると便宜のことに頭を巡らせる人々ばかりです。
私は「民主主義」というのは社会主義同様に絵空事ではないかと思っていて、資本と癒着した民主主義は必ず腐敗します。
トランプ大統領に反旗を翻したイーロン・マスクが今度は新党を立ち上げて、共和党の対立候補に対して資金援助をすると豪語しています。
1947年に成立した「ロビイング規制法」以降、逆にロビイストの献金によって動くようになったアメリカ政府は、大企業に都合の良い法律や制度や環境を作り、市場の自由競争を完全な建前にしてしまいました。
特に大統領選を見てわかりますが、選挙戦はほぼマネーゲームの様相を呈しており、大富豪や企業の政治的献金がモノを言う世界に成り代わっています。
日本ですら、大政党とコネのある企業は業界の覇権を握りますし、国内の長引く不況をもたらした日銀の円安政策も、一部の輸出企業に恩恵を誘導する状況を作り出してきました。
政党支持率は思想云々ではなく、一部の人々の利権によって先導され、大衆はマスコミやメディアの煽りを受けて右へ左へと流されてきたのです。
その思想性のなさゆえに現在の状況があり、どうも日本人という民族は思想と政治と宗教に関して絶望的にセンスがないようです。
今では「正義」を象徴するものが「お金」になり、お金にならなければ悪、お金があれば幸せになるし便利だし願いも叶うし安全も買える、だからお金こそ正義である、と信じる人がたくさんいます。
そう言った人々にいくら考え直すように促したところで、それ以上に余計なお世話はありません。
彼らは彼らの価値観で正しい生き方を選んでいるので、「清貧」などと言おうものならタコ殴りにされるだけです。
彼ら自身も、決して間違っているわけではありません。
お金があれば力が生まれ、そのパワーがあれば大抵の人は言うことを聞くので、あらゆる欲望も願いも叶い、最終的には法や因果すらも捻じ曲げることができます。
お金があれば大概の不安はなくなり、豊かな生活が保証され健康でいられることは、幸福に繋がります。
ゆえに、そういう仕組みの世の中に「適応」しただけで、適者生存で繁栄する種族に罪はありません。
けれど、私からすると先細りが明らかに見える社会的状況で、世の不正や搾取を修正できる兆しも一切なく、どうやって同じことを繰り返して発展していくつもりなのか、甚だ疑問です。
どう考えてもこれだけ世の中が悪ければ若い世代はますます家族を作りたがらないでしょうし、少子化が加速すれば国家存亡の危機に陥ります。
おそらく今トップにいる人たちは、「日本列島に住むのは別に日本人でなくてもいい」という考えなのでしょうが、その流れで言えば今の状況を甘んじて受け入れている国民一人一人が、「棄国」に協力していることになります。
自分が生きているうちは「まだ日本」だから安心して死ねるのでしょうが、二世代三世代後の日本人がどうなるかまでは考える気がないのでしょう。
そんな世を見て、「この状況をどうすれば変えることができるか?」と私は常々考えるのですが、もはや一市民が立ち上がり、仮に十市民になっても千市民になってもどうにもならないかもしれません。
今、この国だけでなく世界中で起こっていることはもはや人間だけのレベルで起こっていることではなく、それゆえ人間よりも上位の存在、即ち神様のお力でなければ世を動かすことはできないでしょう。
今、世界のエネルギーは「覚醒」と「変革」を促す方向に向かっています。
しかし残念ながら、私が見る限りで「改善」「回復」の波動は見当たりません。
だからこそ世は混沌を増す一方であり、一時的に改善してそこから快方に向かう、という流れには感じ取れません。
むしろ、膿を出せるだけ出し切り、腐敗をさせ切って塵にしてからようやく革新が始まる、そんなシナリオに思えます。
この殺伐とした緩い地獄のような時代に、成長期や青春を過ごさなくてはならない子供たちを思うと、胸が痛みます。
そう言っている私も、これまでの拝金主義の時代にボコボコにされてきた人間ですし、私は根から競争社会や比較を軸にした価値観とは合いませんでした。
人間、一度せっかく生まれてきたのだから、他人の意見に左右されず、抑圧されても決して我慢して生きることなく、好き勝手にやればいいと思うのです。
けれど今までの時代は、人間が勝手に作った「謎ルール」に従わざるを得ず、そんな規則と同調圧力で雁字搦めになって身動きが取れなくなり、そうなって苦しんでいるのは自分だけではないのに、それを逸脱することを許しません。
こんなピリピリした雰囲気の社会では、おおらかに子供を育てて幸せな家庭を築こうとは思いませんし、生まれてくる子供の人生に責任を取れません。
こうして社会全体でジワジワと自分の首を絞め続けてきたのが、これまでの戦後日本だったのではないでしょうか。
「この状況を何とかしたい」と思うほどに、成す術がないことに気づきます。
だからと言って、変化を求めるあまり災害や世の破滅に期待するのは悪の思想で、どう転んでもジレンマを抱えてしまいます。
純粋に誰も傷つくことなく世界が平和になるためには、今すぐにでも自分が持っている武器を捨て、お金を他人に分け与え、倉庫に蓄えた食糧を配る、そんな夢物語にしか理想を叶える方法はありません。
しかし、現代の人類のレベルでそこまで出来るとは思えません。
ならば、本当に人々を救いたいのならば何を願い、何をするべきなのでしょうか。
その答えは、簡単には見つかりません。
私は、自分の運命を呪うことがあります。
これだけ善意で生きようとしても恥をかかされ、素直に生きれば嘲笑われる世界で、真正面から生きることをやめられない自分に対してです。
他の多くの人が、多少軽率であろうと強かに気持ち良く生きているのに、なぜ私にはそれができないのかと。
確かに、正しさや善良さは人間には必要ですが、そればかりではないからこそ世の中は回っています。
不条理を見抜き曖昧さを許せない、自分の融通の効かなさのせいで、私はあまり利口ではない形で苦しみを抱えて生きてきました。
そして要領の悪すぎる自分をいつも変えたいと思い、自分を否定して誰かの真似をし、常に何者かになろうとしてきたのです。
この世界で生きるのは想像以上に居心地が悪く、何をやっても座りの悪い感覚がありました。
けれど、私は軽快に生きている人々が憎らしいと思ったことは一度もなく、いつも楽しく生きようとする彼らが憧れであり続けたのです。
他の多くの人々のように、もっと強かに心地良さを求めて生きられるなら、私もきっと同じように幸せになれるに違いない、そう思ってきました。
今でも、自分よりもずっと幸せそうなのに、厚かましく彼らの幸せを願ってしまう自分がいるのです。
だからこそ、下手に世の煽りに流されて自分の首を絞めないで欲しい、実はその気持ちこそが本音なのかもしれません。
私は確かに世の人々からはコテンパンにされてきましたが、未だに彼らを怨みに思うことはないのです。
誰しも、何かしらテーマを持って生まれてきて、人生を生きていきます。
その他人のストーリーにいくら憧れを抱いたところで、他人になり変われるわけではありません。
私には私の人生のテーマがあって、それはトランプのババを引いたように思えても、自分のゲームである以上は仕方ないのです。
私は自分の運命を呪いますが、同時にそれは「使命」を持っているということです。
使命は、自分だけに与えられて中途半端に捨てることも諦めることも許されない、生まれる前に神様と交わした「約束」なのです。
この「約束」を果たすことは、人間として幸せになる以上に大切なことで、その役目を果たすために生まれてくる人もこの世界にいるのでしょう。
私にとって、人様のやることは大抵頭が痛くなることばかりなんですが、それを目の当たりにして心底嫌気が差しても、決して憎みきれないのです。
なぜ、これほど人間のことが嫌いなのに、人に向けて文章を書き、人間をキャラにした絵や漫画を描いて、見知らぬ誰かを喜ばせることを考えているのか、それでも世の平和と人々の幸福を願ってやまないのか、それは頭で考えてもわかりません。
本当に人間というものは面倒くさくて疲れますし、自分が人間であることも時々イヤになるのです。
これまでどんな酷い目に遭わされても、人として生きる目的や希望を捨てきれなかった理由を考えると、私は何だかんだで人間のことをずっと信じているのだと思います。
どれほどの失望を味わってもまた信じてしまう、人間を諦めきれない気持ちは、小手先のヒューマニズムにないであろう泥臭い情念に近いものです。
私は、人間を愛することをやめられないのです。
それゆえに傷つき損をするのですが、かと言って何かを欲しいわけではありません。
強いて言うなら、人々や社会がもっと寛容になって、自由に生きる人々に口を挟まない程度には穏やかな世になって欲しいと思います。
それが私が人々に願うことです。
それ以上でも、それ以下でもありません。

楽太郎です。
現在制作中の「HARAEDO」投稿専用のブログのトップイラストが完成しました。
例によって浮世絵っぽいテイストを出しても良かったのですが、あの作風は好き嫌いが分かれそうだということ、自分としては表現の幅が広い方が好ましいと思い、一番目を引くところに置くイラストということで手慣れたテイストにしました。
やはり落ち影だけでもあると違うというか、浮世絵テイストでは一影がつけられないのが感覚的にもどかしかったので、しっくり来ました。
久しぶりに昔の作画工程に戻したので、勝手を思い出すのに苦労しました。
ていうか、憑依&病み上がりで一枚絵を描くのは体力的にしんどかったです。
これまで体調不良が続いて長時間の作業は無理でしたし、だから投稿はラフばっかりになってました。
ただ、腰を据えて絵を描けるのはやっぱりいいなと思います。
私は基本的にワーカホリックですし、特に絵を描く以外に趣味がないので、寝転がっているしかない時間の方が霊障とか呪いとかよりよっほどきつかったです。
私にとっての最大の苦痛は「退屈」なのです。
これを期に、秋津姫命のデザインも変更しました。
何となく、速秋津姫様から創作に前向きな印象を抱かれてない感じがしてましたし、デザインが固まりきらないのもそういうことかなと気になってました。
そこで兵庫県に鎮座する「湊口神社」のサイトにお邪魔して、画面越しに参拝して速秋津姫様のご協力を改めて祈願しました。
すると、固まりきらなかった秋津姫様の髪型に「HUGっと!プリキュア」のルールーのデザインを流用することを思いつきました。
そう言えば、闇堕ち時代のルールーの髪型は何となく「美豆良」っぽかったので、神のお告げだと思いました(?)
そこでデザインもいよいよ固まりつつ、しばらく速秋津姫命について調べていました。
どうやら、速秋津姫は瀬織津姫の「姉」とする説もあるそうで、そう言えばどちらの神も伊弉諾命からお産まれになられているので、面白い説だなと思いました。
私の構想での秋津姫はおっとり系の天然ドジキャラなので、「お姉さん」という属性は強烈に光る気がします。
あと、宮城県亘理郡に安福河伯(あふくかはく)神社という延喜式式内社にも書かれてる古い神社に速秋津姫様がお祀りされていることを知りました。
亘理は震災の被害にも遭った、海辺にある土地です。
しかし神社名の安福河伯は、宮城の一級河川である阿武隈川の古い呼び方だと思います。
「開都(あきつ)」とは港のことですから、古代は神社のあった土地が海岸沿いにあった可能性があります。
亘理が海沿いにあるとは言え、速秋津姫命が阿武隈川の守護神としてお祀りされているのは、やや直感に反します。
河川に祭祀されている祓戸大神と言えば、どう考えても瀬織津姫命っぽいなあ…というのは個人の感想です。
「瀬織津姫命」という神名にしたくないために、他の祓戸三神の神名をスライドしてお祀りしているケースがあるような気がします。
白山権現としてお祀りされている菊理姫命は、瀬織津姫命と速佐須良姫命の変換によるものではないかと私は勝手に想像します。
瀬織津姫命が宗像三女神や弁財天としてお祀りされているのはまだわかるのですが、「女の龍神様」としてお祀りされているケースもあり、なんだかなあと思ったりもします。
ご先祖様が良かれと思って始めた信仰なので、ケチをつけるつもりはないのですが…。
やはり日本の神道史において、本地垂迹よりも飛鳥奈良時代の宗教改革と明治の神仏分離令あたりで発生した信仰の歪みが尾を引いている気がします。
こういうのは、人間が改めようとしなければ改まらないのでしょうが、神も仏も鼻で笑われるご時世ですし、人間がどう頑張ったら見直す機会を得られるのか、想像すると途方もない気持ちになります。
やはり、私が頑張るしかないのでしょうか。
しかし一体どうやって…?

楽太郎です。
長いこと「霊障」に苛まれ、憑依と戦って来ましたが、どうやら終わりを迎えたようです。
ここ1週間ほど妙な風邪を引き、全く何の薬も効かないような頭痛に悩まされていました。
同時期に家族にも霊障としか思えない不調が及んでいて、かなりの危険を感じていました。
「本当にこのまま取り殺されるのでは?」という恐怖と緊張感で、一時も心が休まる時がありませんでした。
どうやら霊というものは、肉体への憑依が難しくなると他のモノに憑依して、攻撃対象の体内に侵入して霊障を起こすことがあるようです。
私はここ何年も風邪を引いたことがなく、最後に体調を崩したのはコロナワクチンを打った時くらいです。
最も霊障が過酷な時期の終盤に、不可思議な夏風邪を引くのもやはり因果だったのだろうなと思います。
その憑依が解ける瞬間もはっきりわかりました。
それと同時に、風邪の症状も一気に和らいで頭痛も快癒しました。
家族に起こっていた霊障も同時になくなり、私もいつもの健康的な波長を取り戻しました。
この憑依との戦い、「お祓い合戦」と言っても良い応酬は2か月ほど続いていました。
その頃のドキュメントは本ブログで辿れますが、これは人間を支配する存在からの「呪い」と言うべきものでした。
私もやるならやるぞと、このブログでも徹底的に相手側を挑発し続けてきたわけですが、私の文章が「魔除け」の一環になっている実感は常にあったのです。
伊弉諾命が亡くなられた伊奘冉命を追って黄泉の国まで赴いた時、豹変した伊奘冉命の放った亡者の群れに追われながら、傍に生えていた「桃」を投げつけて魔を祓います。
そして黄泉比良坂まで辿り着くと、大岩で出入り口を封じて邪気の侵入を防ぎました。
桃は「意富加牟豆美命」、岩は「道反之大神」で、伊弉諾命を守る破邪の力を持った神々です。
私は象徴的な意味で、呪いの者たちに対して桃を投げ岩を置き、破邪をし続けてきたのだと思います。
この戦いがいつまで続くのか途方もない感覚はありましたが、苛烈さが増すにつれ私自身も力をつけ、「いずれ霊力で抑え込めるようになるのでは」という予感がありました。
ああいった魑魅魍魎の類が襲ってくるのは、私の心に幽界への霊線が残っているからです。
しかし彼らの挑発に素直に乗ってしまう私は、霊障を受ける限り憑依の元となる霊線を断ち切ることができません。
そのジレンマ自体はどうにもならなかったのですが、奇遇にも私の波長が上回ることで憑依を抑え込める状態になったのです。
霊障が及ばなくなることで波長が高い状態で維持できれば、いずれ自ずと幽界との霊線は切れていくのだろうと思います。
自己浄化の末に幽界との切断が可能になると考えていたのですが、まさかこう言う形での終わり方があるとは思ってもみませんでした。
この応酬に終止符が打たれることで、私の身体も元に戻ってきました。
正直、ストレスと過緊張で身体がボロボロだったのですが、今は緩んで完全にリラックスできます。
とは言えまだ身体の中にいくつもの波長が入り乱れていて落ち着かないのですが、いずれ収まると思います。
昨日、わりと涼しかったので散歩に行きました。
いつものように川を眺めていると、ふと瀬織津姫様のことを思い出し、感謝して手を合わせました。
公園にある紫陽花を見た瞬間、何故かわかりませんが涙が溢れて思わず立ち止まってしまいました。
紫陽花がとても綺麗で、私はしばらく何かを見て美しいと思うような、感情的な部分で心が動いていなかったことに気づきました。
ふと気がつけば、取り殺される寸前のところで心臓を鷲掴みにされていたのですから、無理もありません。
その緊張が解けて自分の感受性を取り戻した時、ようやく自分らしい波動に戻ることができました。
この「自分らしさ」を取り戻してから、神様からメッセージとして「お許し」が降りてきたように感じます。
これまでの破邪の経験も、おそらく私に課せられた試練の一つだったのでしょう。
私はそれをやり終えたから、ようやく私自身の「感情」を使っていい段階に入ったのだと思います。
それは人間として、私が積み上げてきたものの捨てるところがない部分であり、しかし小我としてエゴに染まりきってはいない素の人格です。
神様からお役目を頂き、実行する時は自分の好き嫌いや感情は後回しになります。
神様がガッとエネルギーを送ってこられるので、私は「そういう気持ちにさせられる」のです。
これに自分の意思で抗わないことが「神に身を委ねる」ということです。
私はこれを導きとし、これまで神の意志の赴くままに行動してきました。
ただ、そこに人間としての心がないかというと、決してそうではありません。
常に疑心暗鬼と葛藤があり、頭と魂と肉体はついて行けても、心の中の感情の部分だけは、いつも一歩も二歩も遅れてついて来ました。
感情をある意味押し殺さなければ神の意志を実行することはできないため、感情の抑圧によって私自身にも自覚のできない心の闇があったのです。
それが、ずっと私の「弱み」でした。
ただ感情は、この時期に囚われると浄化の足枷となる、非常に危険なものでもあったのです。
感情を利用して古い人治の世に引き摺り込み、取り込んで覚醒を阻害するのが邪気の目的ですから、むしろ感情は押し殺しているくらいで丁度良かったのです。
しかし、今になって感情を取り戻して良いようにお告げを頂いたのは、どういう意味があるのでしょうか。
おそらく、私が次元上昇をしていく過程で、ある意味「人を引き上げる」ことができるレベルまで達したからだと思います。
これまでは私情に駆られて失敗する可能性が高かったのだと思うのですが、私がようやく人を導く立場に立てるようになったのかもしれません。
人を助けるには、まず自分の身が安全でなければならず、上にいるから誰かを引き上げることができるものです。
ただ、世に生きる人々全員を引き上げることはできません。
中には、自分で沈むことを選んだ人々もいます。
そうした人々の中から、引き上げることのできる人の手を掴もうとする時、水の底から引きずり降ろす手が伸びてくるでしょう。
私は彼らを払わねばならず、手を伸ばす人を守らなければなりません。
そのために、私は強くなる必要があったのだと思います。
この許しと同時に、奇遇にも私が捨てた過去の作品を見返すタイミングが訪れ、私はキャリアを振り返りました。
そこで、祓戸大神の漫画「HARAEDO」を始め神様のコンテンツ一本でやっていく予定だったのですが、どうやら自分のやりたかったことを掘り起こし、やり直すことも許されたようなのです。
私は近頃、過去のキャリアを抹消して二度と振り返らないと決めたばかりなので、このご提案は正直面食らいました。
新しい時代仕様になるためには、何事も一旦洗い流される必要があるようで、これは何にでも言えるのかもしれず「神世のものは神世仕様として生み出されなければならない」という不文律があるように思えてなりません。
だから、私の作品や構想も一度「土の時代」に被った土埃を払わねばならず、洗い上げた後に使う分なら問題ないものもあるようでした。
(もちろん、完全にボツにせざるを得ないものもあるみたいですが…)
つまり、私は一体どれくらいいるかわからない、潜在的な神世の人々に漫画などの作品を通して導くお役目を新たに与えられたのだと思います。
それは瀬織津姫様を題材にした「HARAEDO」だけでなく、他のアイデアも自由闊達な形で表現して良いのだということです。
「HARAEDO」もそうですが、神様から与えられるお役目やライトワークというのは、徹底した綺麗事だからこそ毒がなさすぎて、人間心理の真髄を抉ることが難しいのです。
私は綺麗事に関して「自分のやり方が通用しない感覚」を何となくもどかしく感じていました。
まるで他人のふんどしを借りているようで、自分の才能を100%発揮しきれない感覚だったのは否定できません。
けれども、あえてこの状況で再び筆を取ることになるならば、それは私が「感情」を自由に使っていいことの許しに繋がっていくのです。
今、その許しが私に降りてきたことを考えると、やはりこれから流れが変わるのだと思います。
精神界の気場が完成し、そのエネルギーを受けた私が憑依を鎮圧することができるようになり、おそらくこの力を使って動き始めた人は他にもたくさんいるのでしょう。
私は以前から、世間の空気が悪すぎて外出しにくい感覚も、いずれ人々の波長も抑え込める日が来るのだろうと予感がありました。
今の空気感がひっくり返るような何かが起こり、人世の気場が割れ神世にスイッチが切り替わる瞬間が近いうちに来るのだろうと。
すでに人間の集合意識には亀裂が入っており、ある段階で一気に崩壊するに違いない、と。
私の体感では、おそらくその分岐点が近いはずです。
それが「2025年7月問題」に言われている大地震かもしれませんし、そうでないかもしれません。
世の崩壊を望むわけではありませんが、いずれにせよ何かがきっかけにならなければ変革は起こりません。
それが発端となって「軽いものほど上に上がっていく環境」は、いずれ砂時計のように反転し、「重い(思いがある)から沈んでいたもの」が世界の上澄を形成する時が来るのだと思います。
そのエネルギーの高まりと変動を、私はひしひしと感じています。
神様がいよいよ、本気を出してこられたように思います。
私はその気迫に慄くことすらありますし、神様のご提案に面食らうこともあります。
特に私を導いてくださる瀬織津姫様には、いつも感謝しても尽くせません。
瀬織津姫様が私に何をさせたいのかを鑑みれば、祓戸大神であらせられる浄化の女神様は、これから世界で起こる再生のシンボルになっていくのかもしれません。
瀬織津姫様は「表に出ていく」つもりであられるようなのです。
瀬織津姫命は、日本の国土に遍く河川の女神でありながらほぼその名を残さず、おそらく意図的に御神名を隠された神様です。
その神様が前面に御顕現しご神威を示されるとしたら、私は瀬織津姫様を描かせて頂くことでその一助となるのでしょうし、とても光栄に思います。
浄化の神として、河川の神として重大な御役目を果たしながら、長い間正しくお祀りされなかった瀬織津姫命という女神は、どことなく努力し尽くしても認められなかった私に重なってしまうのです。
その親近感こそが、私と瀬織津姫様との絆に繋がっているのかもしれません。
だから、これから一緒に花を咲かせましょう、と私はいつも瀬織津姫様に問いかけるのです。

楽太郎です。
先日、「アセンションとは何か」という記事を書きました。
その後、体感を含めて情報を更新したかったので、追記することにしました。
前回の記事で、「これからも地球は次元上昇するかもしれないが、精神界という地球意識の気場は完成したので人間にとってはアセンションは完了した」と書きましたが、この見方はほぼ変わっていません。
ただ、昨今の地球環境の変動、特にラニーニャ現象などによる猛暑を見ていると、「これも地球の次元上昇の一環なのではないか」と考えられるのです。
ゆえに、未だ地球は次元上昇の途上にあると考えられます。
動物たちを眺めていて、ここ数年で習性が変化したように見えます。
カラスも猫も犬も、鴨などの自然動物も知能が上がり共存的になっている印象を以前から持っていました。
これに関して動物学者の方々の見解はわかりませんが、私にはそう感じることがままあるのです。
動物たちの霊性の変化は、地球の次元上昇と関係が深いのではないでしょうか。
「アセンション」という概念が流行り始めたのは2000年代後半で、その頃は「2012年」と言われていました。
実際のところ、霊的次元での変動が始まったのはその頃かも知れず、現世への物質的変換が起こったのは2018年か19年あたりではないでしょうか。
その頃あたりから徐々に酷暑が厳しくなり、2020年にはコロナが流行しました。
中国では、ゼロコロナ政策でマンションの門が施錠されたことで、台風や地震などの災害があっても逃げられない住民がニュースになりました。
また全世界的な山火事や活火山の噴火など、自然環境の劇的な変化は「地球のエネルギーの変動」によるものではないかと考えられます。
そして、地球の環境変化は依然として続いており、おそらくアセンションは未だ進行中と見てよいと思います。
人間に関しては、スピリチュアル界隈で長年言われてきた「人類の霊的二極化」はほぼ完了し、これから具現化する段階に入りますが、その途上における人間の目に見える変化はまだ始まっていないでしょう。
前回の「アセンション概念図」では地球がすでにスッポリと新次元(幽界跡地)に移行したように描いていますが、これに関しては「まだ移行途中で何割かは低次元にある」としたいと思います。
そして、「もうすっかり幽界はなくなってしまった」と思っていたのですが、私への霊的干渉からの体感と世の中の動きを見るに「まだまだ幽界の人たちは元気」という感想に落ち着きました。
アセンションは神々の世界を巻き込んだ霊界の大構造改革であり、確かにその計画において人間の念によって作り出された予備的霊界である「幽界」が、大幅に縮小され整理されつつあるのは事実だと思います。
霊界は仏教的に言えば「成仏した霊の世界」なので、この世に未練を残すような不浄霊は高い波長域に上がっていけません。
その気場にいた不浄霊たちが幽界の解体に伴って場所を追われても、霊性が低ければ改まって上がれない者たちも出てきます。
そして、行き場をなくした不浄霊は地上の現世に大量に移住を始めました。
それが昨今の人間心理の荒廃と、浮遊霊の増加にあるのではないかと考えています。
こういった幽界の不浄霊は、生きていた頃の執着や欲望や怨念をそのまま引きずっているがゆえに高い波長域の霊界に上がっていけません。
その霊体が生きている人間に干渉すれば、その人の本性が増幅され理性的な部分が眠っていきます。
私は人心の変化は「憑依」によるものではないかと考えていて、それは「肩や背中にくっついている」という現象だけではなく、人間の集合意識やソウルグループに干渉することで、霊的には観測しがたい憑依現象となっているのではないでしょうか。
急にキレやすくなった人、自己中心的にしか考えられない人、狂ったように欲望に忠実な人、モノに対する執着が異常な人、およそ「人間らしい心でない」という印象の人々は、そういった影響を受けている可能性があります。
前置きが少し長くなりましたが、新しい概念図を掲載します。
4次元宇宙(現世)の霊的階層の上部に、幽界との接続領域、ここでは「幽界干渉域」があるとしています。
この階層は物質の「エーテル層」とほぼ重なっていて、より物理的なアプローチが可能になっています。
よく「モノに霊が宿る」というオカルト話がありますが、それはこの次元で起こるものです。
人間に対する憑依もそうですが、他の生物にも無機物のモノにも霊的なアプローチは可能です。
私は「細菌」もこの憑依の影響を受けるのではないかと考えていて、昨今のCovid-19も霊的な因果がありそうだなと感じています。
この霊的階層に人間の集合意識の気場があり、人々はこの気場に接続することで精神的なエネルギーを手に入れています。
これまでで言うなら「モノ中心」のモチベーションや競争意識、比較による動機づけなどを促して人々の精神的な柱となっていました。
そして、この気場は徐々に削られてきてはいるのですが、人間の念の総量が大きすぎるために依然支配的で、頑として未だ機能を続けています。
しかし、人間よりも上位の階層の霊や神々は、この気場をいずれ取り去ることを考えておられるように思います。
今の混沌とした世界情勢を作り出したのも、地球環境が破壊され汚染されてしまったのも、人間の拝金主義や唯物史観から生まれたのは事実だからです。
その傾向を改めないことには、地球に次元上昇を起こした理由になりません。
だからこの気場を使うことはいずれ殆どできなくなるのではないか、と私は見ています。
では、この世界がこれまで「悪」に支配されていたのかと言えば、それほど単純な話ではありません。
確かに現代を牛耳っているのは、アメリカ政府のマネーを動かす複数のロビイストグループや、その背後を取りまとめている何者かがいるのは事実でしょうし、彼らが世界の混沌を利用して利潤を得ているのも間違いないでしょう。
しかし、この金融を中心とした経済が今の物質的な豊かさの源泉であり、私たち一般市民はその仕組みを利用して便利さや娯楽を手にしています。
この物質中心の世界を「悪」とするなら、現代人の殆どが悪人になってしまいます。
確かにそのカルマは多少あるにせよ、これまではそうした時代にするという神々の大きな計画があり、単に物質主義の功罪を伴う世界だったのでしょう。
ただそれによって人間の精神的生活や文化が歪みられてしまったのも事実で、日本の伝統文化の衰退や神社仏閣への軽視、宗教的慣習の否定などもあったのです。
ここで、今を生きる現世人を取り巻く状況を考察したいと思います。
ここで言う「霊人」とは現世に生きる人々が輪廻転生をする元となる霊であり、人間の魂の姿であると言って良いでしょう。
その上位にいる「高次元霊人」とは、いわゆる仏や天使と人々が呼ぶ高級霊であり、神に近い存在の霊たちです。
そして、日本の神社に祀られる天津神国津神八百万の神々、仏の中でも菩薩と呼ばれる高位の仏、諸外国の宗教上の神々はこの神界に属します。
人間が古来から信仰してきた自然神や文化神が「正神」であるとするなら、この物質中心の文明を切り拓いて「神が必要のない」世の中にした神々を「逆神」と呼ぶことにします。
日月神示では「神と悪神の戦い」と表現していますが、同じ文脈で「悪神の働きは大神のご計画の一部であって悪ではない」と書かれています。
本来の神々の働きが「陽」だとしたら、逆は「陰」であり、日月神示にはその両方が存在するのが真の理だと言われています。
だからここでは「神の存在に抗う神」として逆神を定義しています。
どんな犯罪者にも検察と弁護側が用意されるように、相反する性質が両立することで公平性が保証される仕組みは存在します。
実際に神々の世界にその構図があるかは別として、あえて逆の役割を演じる存在によって均衡が保たれるのは理に叶っているのです。
そして、その逆神の意志を最も忠実に行う勢力というのが、物質世界への執着の強い幽界的存在です。
おそらく、これまで人間に物質面でのサポートを行い、開発や戦略に対するインスピレーションを与えてきたのは逆神の側です。
幽界的存在はその方針への信仰心が強いために、霊性を向上して高い波長域に行くことを拒むか困難だった者たちであり、彼らの波長の影響をもろに受ける人々がいるのです。
物質次元に対する執着心が強い彼らが同じ波長を持つ人間に干渉することで、幽界を追い払われても人間の肉体を通して現世に居場所を見つけることができます。
そうして低級霊の憑依を受ける人々が増えることで世が荒れ、憑依を受けた人間が生き霊を他人に飛ばし、受けた者同士で呪い合うという地獄絵図が生まれてしまいました。
これらは時代が移行する過渡期だからと結論づけることは可能なのですが、それほど無機質に言い切るには心苦しいものです。
全ては神々よりも上位の神のご意向とは言え、あまりに地上では凄惨なことが起こりすぎていて、私たち人間が現状を慮る心苦しさは、おそらく神々も一緒です。
私は、神様のお気持ちを察するとその感覚に間違いはないのだろうと思ってしまいます。
今現実の世界に起きている出来事、これから起こる出来事も神界、霊界、現界を巻き込む「大いなる学びの過程」なのだと思います。
それは人間だけでなく神様たちにとってもそうで、未曾有のことなのだと「日月神示」には書かれています。
私はスピリチュアル的な言説の中で日月神示は本物だと思っていて、なぜかは具体的には説明しにくいですし「霊的感覚でそう思う」としか言えません。
この書を読めば、神示が出された戦中ではなく戦後80年の今年に当てられていることを何となく実感するでしょうし、なぜかはわからなくてもこれから起こることも大体予想ができます。
この時代もこれまでの時代も、これからの時代も、「正しいか間違っているか」を超越した世界の成長のために必要だったことでしょうし、それは人智を遥かに上回る出来事です。
その「大いなる学び」のために用意されたのが今とこれからの時代であり、その変革たる「大峠」への理解を深めることで、私たちは自分たちの目の前を照らしてゆけるのかもしれません。
【追記】
「日月神示」は岡本天明氏が1963年に逝去されており死後50年以上が経過しているため、現在は著作権が発生していません。
そのため全文を掲載したサイトがあります。
以下のサイトは広告もなく、スマホでも見やすいため是非ご紹介します。
日月神示全文
本サイトの管理人であり、著作者でおられる及川明さんには感謝と共に御礼申し上げます。

楽太郎です。
小沢健二さんのアルバム「So Kakkoii 宇宙」の中に、「失敗がいっぱい」という曲があります。
本アルバムは、小沢さん復帰後初の作品であり、90年代のノスタルジーと反省の気持ちがそこかしこに見えます。
小沢さんは90年代、「渋谷系」文化のカリスマとして一時代を築いたものの、21世紀を前に日本での音楽活動を辞めて渡米してしまいました。
日本での当時最後となるシングル「ある光」は今でも珠玉の名曲なのですが、日本を舞台にすることの失望と自分の命を繋ぐための希望が歌われ、その砕けたガラスのような心が突き刺さります。
小沢さんはこれからも更なる活躍が見込まれる時に突然消えた形となり、世間から好き放題に言われる状態に陥ってしまいました。
その頃の反省もあるのか、やはり頭の良い人だけに謙虚に過去を受け止め、若干弁明も込めつつ当時の自分と人々に「鎮魂」に近いメッセージを送っているように思います。
その中で「失敗がいっぱい」という曲は、キラキラ輝いていた青春時代の甘酸っぱい追憶と、どれだけ歳を取っても捨てきれない泥臭い後悔が見え隠れします。
小沢さんのような華々しいキャリアのある人でも、自分自身を見つめて失敗や後悔の念を素直に表現するのは感服します。
そしてこの曲は、失敗や後悔を避けて通れない私たち人間に対して、純粋な癒しとエールを送るのです。
私も自分自身のことを見つめる時、「もっとこうはできなかったのか」と悔やみます。
他の人からモノにするようなチャンスで上手くやれなかった自分が、時々嫌いになるのです。
そうでなくても自分よりも成功し、良い作品を作って賞賛を浴びている作家に対して、嫉妬の念だけでなく「自分がそうなれなかった理由」を考えたりもします。
私よりも絵が上手いし表現も豊かなのは、私がもう少し早くキャリアを積み始めていればとか、このスタイルを見出して形にしていればと、取り留めのないことを想像します。
しかし、仮に自分が彼らのように立ち回り彼らと同じポジションに立ったとしたら、何の不満もないのか、自分のやり方に絶対の自信を持って自分の生き方を貫けるのか、それはわかりません。
どんなに彼らのようになれたとしても、彼らの立場になり変わることはできないからです。
以前「才能とは何か」という記事に書きましたが、私たちは才能に憧れを抱く時、欲しい分野の欲しい能力を手に入れたいと思います。
しかし才能は自分の地の感性から湧き出るイメージと、自らの身体に備わった技術を通してのみ発揮されるものなので、ガワだけを合わせることはできないのです。
ガワだけをらしくしたところで、本物から湧き出るオリジナリティには到底敵いません。
私が「こういう可愛らしい絵が描きたい」とか「このテイストが再現できないか」とは考えるのですが、それが可能なのはあくまで技術レベルの話です。
私にしか引けない線、私にしか出せない画風があるからこそ、その作風そのものになることはできません。
人様のようになりたいという気持ちは自分らしさの否定から始まり、自分のやり方に満足できないからこそ上手くいっている人に憧れを抱くのです。
誰かに憧れを抱く時に感じる後悔も、自分が過去に上手くやれなかった後悔も、実は同じものです。
結局は今の自分に納得できないから、現在の不満を過去の自分のせいにしてしまうのです。
自分が未熟だったから気づけなかったこと、誰かを傷つけてその過ちをずっと払拭できずにいること、それは時間が経って忘れることはできても過去の失敗そのものを修正することはできません。
ただその過去が事実だとしても、自分の記憶にある過去の出来事は一人称の世界から見たもので、相手や第三者から観測した事実とは異なるかもしれません。
誰が真実を見て、仮に誰もが誤解しているとしても、その真相を知るために当事者を探し出し突き詰めていったとしても、事実に出会える保証はありません。
自分の過去のトラウマ級の失敗だって、他人から見ればとっくの昔に忘れていて、今更どうでも良いことを掘り返すのに興味はないでしょう。
それ以前に、昔の出来事を再確認する術は殆どなかったりもします。
自分が一昔前だから思い出せるようなことでも世間の移り変わりは激しく、当時いた人も土地も社会的背景も今は影も形もないはずです。
消え去ったはずのものに心奪われるのは、あまり健康的ではないかもしれません。
私は少し前、若い頃の仕事場のあった場所を訪ねました。
その頃の職場は酷い環境で、散々いじめられて挙句の果てに病気になってしまいました。
長年そのトラウマもあって、付近に近づくだけでも嫌だったのです。
けれどその時は不思議と恐怖心はなく、かつてオフィスのあったビルに立ち寄った時、かつての面影はなく変わりきっているのを見ました。
まるで狐か狸に化かされたように、目を閉じれば思い出せるあの場所が、魔法のように消えていました。
私はこの感覚を通じて、過去の記憶に囚われる自分の心こそ幻想であり、個人的な執着に過ぎないことを悟ったのです。
されど記憶の痛みというものは根深く、頭ではわかっていても過去を思い出しては苦しみます。
いくら執着や幻想だとわかっていても、心に刻まれた傷や後悔は簡単には消えません。
ならば、これから生きていく中でその痛みを癒やしていくしかありません。
小沢さんの「失敗がいっぱい」という曲は、そんな誰しもある心の傷が本当に誰にもあるということ、そんな痛みは日々の中で癒されていくのだ、と教えてくれます。
「どうして自分はこうなってしまったのか」「あの時こうしていれば今ごろ自分は」と無限に出てくる感情、それは毎日を真っ直ぐ生きていくことで「魂を救う」しかないのだと。
私は、今の自分の上手くいかなさや不遇な気持ちを過去になすりつけるくらいなら、もう少し強かにやっていこうと思います。
過去の記憶というのは、自分が見た主観的なストーリーに基づいており、ある程度脚色されているものです。
他人から見れば全く違うあらすじを、反芻するうちに勝手に信じ込んでいたりもします。
ならば、この「ストーリー」を自分で上書きしてやれば、いずれ一人で納得できるかもしれません。
昔の自分に対して「お前はああだった」と未だに思われているのが悔しいのなら、これからの未来でエンディングを書き換えればいいのです。
別に見返してやろうとか、ギャフンと言わせてやろうとかいうのではなく、自分が過去の出来事にアフターストーリーをつけることで自分の中で美談にしてしまえば、自分の中で別の意味を持ちます。
「あの頃はこうだったけど、あの失敗があったから今うまく行ってるのだ」と、中途半端な挫折物語をサクセスストーリーに変えてしまえば、いずれ後悔する必要はありません。
それはいつ何時でも、誰でも今から始めることができるのです。
そのために過去を振り返りながら生きるのではなく、これから物語を作るために未来に生きることです。
人間が一生をかけてやる殆どの物事は、現実として恐ろしいほど後世に残っていきません。
20年前のホームページが今はほぼ残っていないのはわかりますが、実際の構築物ですら10年すれば跡形もなくなるのですから、まして人の記憶など殆ど残りません。
そんな消えゆくものに心奪われるくらいなら、新たな幻想を自分で作り出せばいいのです。
そして、今を生きていれば誰もがそれを今日から始めることができます。
私には、それが後悔に対する癒しとなり前に進む力になるような気がします。
小沢さんの「失敗がいっぱい」の歌詞の一節です。
「涙に滅ぼされちゃいけない
毎日には笑えないを笑えるにする
力があるから」

楽太郎です。
日々ニュースを眺めていて、世の中は既定路線通り「悪化」していると思います。
「コメ」で関税-Bloomberg
本日のBloomberg日本語版の記事は、胸糞記事が並びました。
トランプ大統領は日本がアメリカ産米の輸入に前向きでないことを理由に、関税の引き上げを仄めかしています。
日本のコメ不足はそもそも、JAが転売業者を挟み価格操作をしているから高騰しています。
その転売された日本米は東南アジアやアメリカなどに輸出されて大量に売られ、現地米の価格が暴落するレベルで流通しています。
国産米の輸出によって政府から補助金がつくためであり、外国に輸出することで利益を上げている人々がいるのです。
それとすれ違うように国内で流通し始めた「カリフォルニア米」を見て、不思議に感じないでしょうか。
7月には参院選があり、国民一律2万円のバラ撒きを公約にした石破自民党はおそらく再度信任を得る形になると思います。
急速に左傾化した自民党と、韓国に誕生した親北朝鮮の李在明政権、国際的な経済制裁を受けていても尚侵攻を拡大するロシア、テクノロジー株が急騰して世界シェアを得つつある中国、アメリカの関税をすんなり飲むことにしたEU。
何か、絶妙なバランスで成り立つこの世界、疑問に感じないでしょうか?
現在、最高値更新を続けるS&P500の時価総額の3割をマグニフィセント7が占めています。
世界中の株式投資の7割がアメリカ市場で行われていると言われており、取引の半分がマグニフィセント7に関わるとされています。
現在、米国ハイテク株の担い手となっているのが半導体装置最大手のNVIDIAですが、いわゆる「生成AI」のブームが世界中の株式を支えていると言っても過言ではありません。
その仕掛け手であるアメリカは、今年1兆2000億ドルという国債利払いに直面しており、GDP比4%近くに達します。
その上国家の経常赤字は1兆8000億ドル、低成長が根強いアメリカ経済の年間GDPは約26兆ドルですから、この状況で莫大な利子を毎年支払わなければなりません。
しかしトランプ政権に代わっても政府の放漫財政は変わらず、国内経済を維持するには外国の投資に頼らざるを得ません。
米国株の時価総額保有率の20%近くが外国人投資家であり、アメリカ国民の純資産約170兆ドルに比べて外国人の所有する株の総額は130兆ドルに達します。
つまり、アメリカは外国に取り入って投資を呼び込まなければ、国体を維持できないほど窮乏しているのです。
そこで出てくるダウ平均に見えるアメリカ株の好調ですが、米国債の10年債利回りが健常化したため高利となり、その分国債価格は下がり続けています。
長期債が高利なのに国債価格が下がり続けているのは、それだけアメリカの将来性が不安視されているからです。
米国の長期債を買っても元々利益率が低いため、安い外国の通貨を借りて米国債を購入しても債権保有者は今は儲からないどころか、ドル安傾向になって逆に負債は増大しつつあります。
アメリカとしては、国債がこのまま下がり続けると国内を支えている外国投資が目減りして経済が持ちません。
そこで債権の唯一の逃げ道である米国株に投資を呼び込み、輸血を続けなければならないのです。
しかし、世に言われるほどAIブームが革命的かと言えば、Androidやパソコンのアプリが誕生した程度で権利問題もあやふやなため、大手を振って商業化できない後ろめたさがあります。
生成AIのシステムは基本的にオプトアウト制で、一斉に世界中のデータや知的財産をスキャンしてデータベースに取りまとめ、それをプログラムで再検出して再構成するだけのアプリにしか過ぎません。
それゆえ知的財産や著作権に対する対応は不十分であり、謳い文句ほど「思考」してはいないためベンチマークでの正答率は50%ほどしかありません。
そんな生成AIブームの申し子であるOpenAIは営利団体への転換も難しかったほど巨額赤字を垂れ流し、その尻拭いはMicrosoftとビッグテックの子飼いが請け負っています。
実際のところ、生成AIのクラウド事業で特筆して儲けているのはハイテク数社に対して循環取引・利益水増し疑惑のあるNVIDIA一社だけであり、あとはAIブームに便乗した補助金目当てのベンチャーくらいです。
それでも米国株を引き上げるために将来性があることにしたいのでAGIが今すぐ完成すると喧伝していますが、当のAI開発はとんでもない金食い虫で、電力や水資源を大量に使う上に開発費も湯水のように溶けていきます。
従って、アメリカはマグニフィセント7のようなハイテク産業に国家の屋台骨を支えてもらっているだけでなく、それ以外に投資を呼び込んだり発展するような国内産業は壊滅的状況にあるのです。
今年、来年と年々迫られる国債利払いが「支払い困難」となれば、世界の中心国であるアメリカがデフォルトするという前代未聞の珍事を引き起こしてしまいます。
そうなれば、世界を牛耳っているとさえ自負しているアメリカの面目は丸潰れです。
そのため、どんな姑息な手を使ってでも金が欲しく、報復関税を全世界に強制してどれだけ顰蹙を買おうがアメリカが潰れるよりはマシという考えでしょう。
しかし、トランプ大統領の関税政策は焼石に水で、アメリカは輸入品の比率が少ないからと言って輸入品の代替は不可能であり、結局は輸入品価格の上昇はインフレを押し上げることになるはずです。
アメリカの製品に報復的関税が掛かれば、アメリカ以外の製品を輸入する国が増えるだけでアメリカの高額化した商品は買われなくなります。
米国債に対する債務不履行の懸念は、いずれ米ドル建ての金融資産の売却を招きます。
反対に、アメリカ経済に安心感が生まれ国債が買われるようになれば、国債に転嫁されていた株が売られ、過大評価となっていたマグニフィセント7を始めとするバブル市場は冷水を浴びることになるでしょう。
ただでさえ経常赤字、財政赤字が肥大するのにGDPは伸び悩み、発展する産業が皆無と言っていいアメリカが関税政策で復活する可能性はほぼありません。
つまり、どう転んでもアメリカ株式市場は大暴落を免れず、いずれ経済も政治も破綻するでしょう。
この飛ぶ鳥を落とす勢いがいつまで続くのか、私は静観しています。
スピリチュアル界隈には「2025年7月問題」というのがあります。
私はこれに関して否定はしませんし、大地震だろうが核攻撃だろうが、カタストロフの危険はこれまでもこれからも起こる可能性が一定数あります。
だから、それらが起ころうが起こるまいが今月に限らず危険性は依然として存在し続けます。
ただ考えて頂きたいのは、阪神淡路大震災、東日本大震災、能登半島沖地震、これらは確かに大惨事でしたが国家の体質が変わるような変化はもたらしていません。
相変わらず左派も右派もどっちつかずに争い、日本は戦後80年間フラフラとアメリカ追従の姿勢を崩していません。
私は、日本にとって根本的な打撃となるのは、いかなる国内経済の破綻よりもアメリカという「宗主国」の喪失のほうが大きいのではないかと思います。
今の日本は明らかな左派政権なのに、米国追従の姿勢が崩れないのは何故でしょうか。
実はアメリカという国はずっと前から自由民主主義を放棄していて、リベラルという名のコミュニストたちを世界中に放ってきたからこそ、歴史上最多の左派政権諸国とアメリカ共和党の共存という歪な国際情勢になっているのではないでしょうか。
それは親米政権であった韓国をアメリカが守りきる姿勢を見せず、むしろ中国のハイテク企業との共栄関係にあるシリコンバレーに見える気がします。
そして国内情勢を見回しても、ロシアや中国との癒着とアメリカとの癒着が同時に進行し、全てアメリカが最も利する形となっています。
どうも「東西新冷戦」というのは茶番で、アメリカや中国やロシアの対立構造をネタに金儲けをしている連中がいるのではないかと私は見ています。
その歪な均衡の果てに、どうも未曾有の世界恐慌が待ち受けている気がしてならず、そのトリガーを引くのはアメリカではないかと思います。
この7月にブラックマンデーを軽く超えるショックが起こるとは言い切れませんが、仮に日本にとっての大事件は地震よりも軍事依存、経済依存、思想信条依存という国家の屋台骨が揺らぐことなのかもしれません。
私は一介のスピリチュアリストとして、何となく最近「地震の気配がない」のが気になっています。
というか最近めっきり地震の回数が減り、何となく自然が穏やかなのが不気味なのです。
それは「タイミングを見計らっている」というより、「世界線が変わったのではないか」と私は感じます。
この空気感の変化は夏至によってハッキリ感じ取れるようになり、それ以前にあった「大難シナリオ」が立ち消えになった可能性があります。
よく考えれば、地球が持続可能な形に変化するには自然環境が変わる必要はなく、むしろ人間だけが変わればいいと考えた方が、地球の次元上昇にとって合理的です。
人々が根本的に変わるタイミングは、これまでの「お金」中心に構築された人生設計の転換でしょう。
拝金主義的な生き方の象徴だったのが西側諸国の資本主義であり、資本主義経済の発展のために自然環境も商業化され換金されていったのです。
この地球が真の意味で平和になるためには、自分たちが利益を得るために武器を製造し、兵器を売るために世界中に戦争の根回しをするような連中に退場してもらう必要があります。
現在の世界を支配するアメリカという帝国の崩壊が、「帝国主義的帝国の終焉」という形で新たな人類史の転換点となるのではないか、そう考えざるを得ません。

楽太郎です。
夏至で「精神界」の気場が整い、その高次元のエネルギーを降ろして使うことができるようになってきました。
ただ、このエネルギーを使うには自分の意志よりも、神様のチョイスが優先されるような気がします。
どうも「才能」に使う力にしては潜在的というか、自覚していない方向に発揮されている気がしてなりません。
私の場合はエネルギーを読み取る能力とか、いわゆる霊能力的な開花に進んでいて、浄霊や浄化のお役目を任されているようです。
私は元々しがない絵や漫画を描いている俗物でしたし、今でも隙があらばナンセンスな漫画を描いて楽しく過ごしたいのです。
けれど、神様から与えられる能力と使命は、自分の予期する形で現れてくれはしないようです。
冷静に考えれば、精神界とは地球意識の統合的なエネルギーの場ですから、共同のものです。
地球意識は人間の「我よし」とする内向きのエネルギーから脱し、人間が破壊し尽くした地球を共有財産にしていく共存共栄の道ですから、神がかったエネルギーが貰えるからと、勝手に自分の手元に引っ張ってくる訳には行かないのかもしれません。
だとすれば、私が「精神界のエネルギーを使って神がかり的モテ講座のサロンを開いて大儲けしよう」と思ったところで、神様がその部分に才能というエネルギーを注いでくれなければ、私は恥を晒して終わるに違いありません。
本来「才能」とは大神の分身霊をお預かりした私たち人間が、自分の魂の力を引き出して使う能力一般を指します。
その才能は言わば神から与えられているものだからこそ、私利私欲のために勝手に発揮することも行使することもできないものです。
私は昔、音楽をやっていましたが好きだからというだけではモノにならず、自己実現的に努力したところで才能が花開くことはありませんでした。
「夢は願えば必ず叶う」とは若者の情熱を食い物にする大人の常套句ですが、才能に関しては努力も知識も技術も自分の望みとは少しズレたところにあるものです。
確かに才能に知識や技術は不可欠です。しかし、自分が好きでやることと得意でやることに対する人様の評価は違うもので、「得意なこと」というのは予め神様から与えられた能力なのかもしれません。
だから、この気場を使って活躍する人がこれから出てくるとしたら、「自分のやりたいこと」と「才能」と「神様の目的」が一致している、そんな人なのかもしれません。
ただ「自分のやりたいこと」というのが曲者で、神様からインスピレーションを受けた物事は、大抵いても立っていられなくなるくらいやりたくなるもので、大して自分の意志や趣味は関係ありません。
例えば「全然好みのタイプじゃないけど結婚してみたら最高の伴侶だった」という話を聞くことがありますが、魂で受けることと意識にはズレが生じているからです。
だから私が文章を書くのも元々好きだったわけではありませんし、霊的能力だって欲しいと思っていたわけではありません。
何もなければ、のんびりと変な漫画を描いてダラダラ生きていたかったのです。
でも、神様はそんな私の意思よりも強い思惑で私を導いて下さるのですから、不思議なものです。
これを「やらされている」と取るのか、「自分がやるべきこと」と取るかは、人それぞれです。
神様と意識が分離している人がこのエネルギーを受け取れば、義務感で何となく渋々やるはずです。
ただ、神様の意志と結びついていれば、意向に沿わないことは認識しつつも自分がやりたいこと、やるべきことと自覚した上ですんなり実行していくでしょう。
ここに「我」を出すか出さないかがポイントで、自己浄化が進んでいる人は躊躇なく神様のエネルギーを受け取り、才能として行使します。
しかし下手に自分のために能力を使おうと思えば、エネルギーの流れを捻じ曲げる分うまくはいかないでしょう。
自分を出さず、素直にエネルギーの流れる矛先に身を任せる人は、全く予想だにしない方向で才能を発揮し始めるはずです。
これまで「才能」は自分のやりたいことの分野で発揮しなければ意味がないと思われてきましたし、そこでうまく評価されなければ自分に才能がないものだと諦める要因にもなりました。
好きなことで認められたいがために、才能を発揮して成功するには良い学校に入ったり、偉い人の弟子になったり、肩書きを得たりコネを作ったり、という仕組みがありました。
その仕組みが確立されていながら認められる人と認められない人が出てくるのは、やり方云々だけではなかったからです。
当然、大した才能も魅力もないのに広告代理店的企画に採用されたことで売れる人もいます。
それとは別に、自分のやりたいことと得意分野が違うために、魂の能力を引き出さずに才能を求めるから、中途半端なことしかできないのも多分にあるでしょう。
私が若い頃はバンドブームもあって音楽を志す友人が多く、私自身もその一人でした。
もちろん突出したセンスを持っている人も、私みたいにからっきしの人間もいました。
今になってみれば、あの頃音楽をやって日本のトップに立つことを夢見ていた若者は今、料理人であったり運送業をしたり税理士をしています。
かく言う私もイラストや漫画を描いていて、それだけでなくスピリチュアリストの真似事まで始めてしまいました。
人生は思うようにいかないものですが、才能はましてそういうものだと思います。
私がいくらギターの神弾きができるようになりたいと思ったところで、その才能の発揮のしどころを用意なさるのは神様で、不要な部分に力をお与えになるとは思えません。
「ギターの神弾きなど死ぬほど練習すれば誰にもできる」と思われるかもしれませんが、その理論で言えば布袋寅泰やCharクラスのギタリストが5万人はいないとおかしいと思います。
「何となく上手くできること」「何となく続けられるから上手くできること」というのは、誰しも一つや二つあるものです。
それに気づくために人生経験は必要で、何事かに挑戦するから向き不向きもだんだんわかってきます。
その中で、やっぱり人よりスルッと上手くできてしまうことがあって、それを突き詰めれば立派な才能になっていきます。
近年では才能開花がビジネス化され、お金や権威に縋れば自分の欲しい才能が欲しい分野で手に入ると人々は錯覚しています。
しかし、才能は自分の好みとは別の軸に存在するものなので、「趣味」を追求することが必ずしも才能に結びつくとは限りません。
「好きも才能のうち」とはその通りだと思いますが、いくら好きでも才能が発揮できないこともあります。
結局は、才能が自分の魂と直結した能力だからこそ、自分の頭で考えて何とかできるものではないのだと思います。
これまで「自分には才能がない」と落胆して、長く夢見たことを諦めていった人たちがたくさんいました。
しかし多くの場合、才能がないのではなく自分の欲しい分野で欲しい能力が発揮できなかっただけで、実は別のところに才能がいくつもあったりするのです。
才能を自分の努力で作り出すか、運良く生まれ持った素質だという思い込みのせいで、自身が持つ天性の能力に気づかずに諦めてしまう人がいます。
けれど、ふと気を抜いて何となく上手くいく物事に気づき、その行為を好きになれば自ずと才能になっていくのです。
このカラクリも、人間の世界が「才能」という神様から与えられた賜物を歪め、金儲けの手段にするために色々と捏ねくり回した結果なのだと思います。
これまで純粋に夢を見て努力する若者や、実際に才能はあるけどそれ以外の能力がない人を食い物にし、食い潰して腐らされた人がどれほどいたのでしょうか。
私の身の回りにも、演劇にしろ音楽にしろ画業にしろ、花形の世界ほど魑魅魍魎の渦巻く世界でした。
私はそういうのが嫌になったから、どこにも属さず何も当てにせず、実力とアイデアだけでのし上がって行こうと思いやってきたのですが、これはこれで全く上手くいきません。
特に今は、純粋に才能や実力だけで注目される時代ではなく、巨大な傘の下で華麗に立ち回る人でなければ成功しません。
権威に気に入られることが最善最速のシナリオであり、それ以外の成功の道は今のところ皆無と言って良いでしょう。
だからと言って、超絶グレーな権力者に縋りつきに行くのが正しく才能を発揮する方法ではなく、それは才能がない人々が成功するために作り出したスキームに頼ることになるだけです。
成功するために才能が欲しいのか、才能を自覚するから成功する道が欲しいのか、その動機は似て非なるものです。
自分の意図しないところで開花してしまう「才能」というものは、それだけで周りの人を助けて評価を集めることで始まるのだと思います。
才能と評価、需要と成功に関する話は難しいので、長くなりそうですし今回は扱いません。
ただ、今の時代はオリジナリティが求められる風潮ではないからこそ、テンプレートに合わせる器量が求められ、大衆の移ろいやすい気分を推し量れないと何にもならないと思います。
需要と供給のバランスも性質も大きく狂っているからこそ、正論だけでは語り尽くせない状況です。
その環境に迎合するかしないかは人それぞれです。
ただ私はそれをしても新しいことはできないと思うので、愚直に他の道を模索するだけです。
そして、神様は愚鈍な私の斜め上をいくアイデアを下さり、私は半信半疑でそれをやっています。
結局、全てが自分の思い通りにはならないしできないのですが、それがこの世界における「才能」の定義であり、自分だけのレベルで考えていては見えてこない世界です。

楽太郎です。
近頃は次元上昇関連の話と、憑依に関する霊的な話題ばかり扱って来ました。
私自身も仕事や神様とのお約束事もあり、霊障など取っ払ってガンガン動きたい気持ちはあります。
しかし、何の因果か憑依との付き合いが延々と続いています。
先日、「反転攻勢が始まった」の記事で書いたように、夏至以降の次元的な変化によって私の身の回りに起こることも変わりました。
これまで日常的に憑依と霊障はありましたし、習慣的に除霊作業を行ってきました。
私の除霊は「自己浄化」と「ひたすら神仏に拝む」のを基本にしています。
大抵の憑依は自分の平常心と異なる感情を選分け、自分の感情を見つめることで浄化していきます。
あとは、神様や仏様にお願いして連れて行ってもらうことで、私は何種類かの祝詞と般若心経を詠むことにしています。
これまではその除霊方法でスルッと抜けていくことが多かったのですが、困ったことに最近の憑依は祝詞やお経が通用しません。
憑依体の悪意もどんどん強まっているのを感じているため、「神など知るか」みたいなスタンスの方々なのだと思います。
彼らには儀式的な除霊は通用しないので、ひたすら自己浄化で対応していくことになります。
強い憑依はそれだけ身体にとてつもない苦痛をもたらすのですが、そんな彼らにも弱点があるようです。
私が笑ったり、人に親切にしたり善業を行えば抜けて行きやすくなるのです。
彼らは言ってみれば、光に対する闇の存在です。
闇は光で当てれば消えます。彼らは人間が呪い憎しみ合い、苦しんで惑いの中で死んでくれるのを最高の喜びとします。
その対局にある行為こそ、彼らが最も恐れ忌み嫌う「真の喜び」であり、人々の祝福や感謝や愛情を封じ込めるのが彼らの目的でもあるのです。
霊の世界とは「徳=霊性のヒエラルキー」で構成されているらしく、低い霊格の者は高い階層に上がることはできず、高い霊格の者は下の階層には自由に降りていけるようです。
その霊格とは波長域の適合性でもあって、いわゆる「徳の高さ」のようなものが指標になっているように見受けられます。
これを現実的に置き換えてみれば、私が人格を高めて霊性を向上させると、私の意識より下の霊格は私の霊力で抑え込めるようになります。
理論的には、私が霊格を高めるような精進を日々行えば、これらの憑依体は自分の制御下に置くことが可能になるはずです。
祝詞やお経を唱えたとて「神仏など知るか」というスタンスの方々を相手にしているわけですから、霊的制圧が目論見通りに行くのは難しいでしょう。
しかし、それほど強い念を持った霊でも何とか私が日常生活を送れるレベルの霊障で済ませて貰えてるのは、おそらくバックで神様たちが静観しておられるからだと思います。
奇しくも「七難八苦を与えたまえ」という傲岸不遜な記事を以前に書いているのですが、やはりあれ以来霊障が苛烈化しているので「言ったからにはやるんだな?」という神様からの試練が与えられているのだろうと思います。
何であんなことを書いたかというと、勢いで書いてしまったというか、神様に書かされたというか…
そんな経緯で、なぜか霊能者としてのお役目さえも与えられてしまっているのが今の状態です。
私としてはもっと他の才能を発揮したいところですが、神様のご用命ならば仕方ありません。
ただ、この除霊の過程を観察していて興味深いこともわかってきました。
最初、憑依と気づくのは心身に異常を感じるところから始まり、自分自身のエネルギーと違うエネルギーが身体の中にあれば憑依だと認識します。
霊障は私の感情や意識に大した影響をもたらさず、ひたすら身体の不調として現れます。酷い霊障は身体の形が変わるくらいの圧をかけられます。
これまでは身体症状は神仏に祈れば取り去ってもらえましたが、最近の憑依体はかなり頑固です。
それゆえ、何とか自力で浄化する以外にありません。
そこで、私が笑ったり楽しく過ごしたり、人に親切にしたりすると霊障が収まることに気づきました。
だいぶ以前から「邪気が一番苦手なのは愛情なのでは?」と推論を立てていましたが、どうやら闇の者は本気で光の性質を嫌うようなのです。
霊障を受けている時は物凄く体調が悪いですし、気分も最悪で物事を良いほうに考えるのは難しくなります。
だからこそ、そこで自分の機嫌を取り楽しいことを想像して笑い、人に優しくしたり親切にする行為は修行になるのだと思います。
これこそ、神様が私に「七難八苦」としてお与えになられた試練であり、私がより高い次元に行くための修行なのだと思います。
これらの霊障が生じている時は怒りや憎悪などの力強い悪意が私の心に流れ込み、私自身もその波長に気づかず取り込まれてしまう時もあります。
そういう時こそ己を見つめ、自分の正しい波長を見つけて自分の波動に戻していく作業が必要です。
興味深いのは、邪気が浄化されていくと終盤には「悲しみ」や「後悔」の念がグワッと押し上がってくるのです。
私としては、さっきまで何の根拠もなくイライラしていたのに、急に悲しくなって身体がスッと楽になるみたいな、心の病気にしか思えない一連の現象も、憑依と浄化の観点で見れば私の身体の中で憑依体が浄化されていったとも取れます。
人間は物質文明の常識の世界に暮らしていますから、自分が簡単に外部の念の影響を受けて意識も体調も変えさせられているなど思いもよらないでしょう。
ただ憑依は日常茶飯事以上に当然のことで、自我が目に見えない者たちの影響下にあり、それでも目に見える世界を生きる私たちは「自由意志」が存在すると錯覚しているだけなのです。
これらの憑依体が外れる時の悲哀は、ある意味「悟り」の物悲しさでもあると思います。
「般若心経」とは物事は全て形だけのものであって、形は変わるのだからずっとしがみつけるものではないのだよ、と目に見えるものに執着し続ける者たちに諭します。
死んでこの世を離れても尚、欲望や執念や憎悪を捨てきれない者たちがあらゆる霊障を起こしますが、その「色」もまた幻想であると説かれます。
霊の浄化が起こりうるとしたら、この「諸行無常」の悟りこそが悲しみの想念として現れると考えられます。
これまで「苦しめばいい」という憎悪を全てにして存在していた者たちが、そこまで執着する必要のあるものなど存在しなかった、と悟るならばその悲しみはとてつもないかもしれません。
神道における「お祓い」の語源はおそらく「ハレ・らう」であり、文字通り「気が晴れる」ことです。
気が晴れるとは、執念や憎悪やストレスからの解放と手放しであり、ある意味悟りとも言えます。
「祓祝詞」は、高天原におられる祓戸大神に罪穢れを取り去って頂くものですが、憑依体の憎悪や邪念が消え去ることは即ち浄霊を意味します。
ゆえに諸行無常の認識は悟りに至るスタートラインみたいなもので、それは人間にとっても死霊にとっても同じであるはずです。
「これは繰り返す意味がない」と気づく時は、自分がずっとやってきたルーティンに疑問を持ち、それらの行いを俯瞰して見れるようになった時に訪れるものです。
ずっと目の前のことに執着し、同じことを延々とやっているだけで満足しているうちは、真の意味で成長しません。
そこで起こる問題や行き詰まりから脱するためには一段上に上がらなくてはならず、その成長の一環として「悟り」があります。
「こんなことをやっても無駄だ」と悟ることは、これまでのやり方に疑問を持つことであり、ゆえにガッカリもするし懺悔も生まれるでしょう。
それが悟る時の悲哀であり、誰しも悟る前より悟った後の方が後悔が深く、自責の念に駆られるものです。
実は、悟る前よりも悟ってからの方がつらく、悟りきるまでが本当の修行なのだと私は思います。
私に取り憑くこれらの憑依体は「神に仇なす者たち」として、この物質文明を好き放題に作り上げてきた存在だと認識しています。
彼らの影響下にある「お金と力」が大好きな人たちは、この世界が変わることを許そうとしません。
そのために世界中の仕組みがガタガタになっても、何とか通常運転を続けようとしています。
しかし、そのルーティンも執着もいずれ「いつまでこんなことをやっているんだろう」と気づかざるを得なくなる時は来ます。
その「諸行無常」は誰が言い出したわけでもなく、歴然とした宇宙の法則ゆえに形あるものはいつか崩れるのです。
その瞬間の悲哀にこそ「悟り」はあるのでしょう。
しかし、いざその時になって慌てふためかないように天は気づきを与えようとしてきましたし、私もこうしてその一助をさせて頂いています。
「こんなことはいつまでも続かない」というのは誰もが事実だと認識し予期もするものです。
しかし、残念ながらそれをきちんと受け止められる人は決して多くはありません。
それは人間として生きていても死んでいても、大して変わりないのかもしれません。
