12月24日の朝、瀬織津姫様ともっと繋がる方法はないかなとぼんやり考えていたら、瀬織津姫様の画像を待ち受けにしたらどうだろうかと思いつきました。
次の瞬間に「私を描きなさい」という言葉が入ってきて、私は衝撃を受けたと同時に動揺しました。
立て続けに「私を描いてブログに載せなさい」と、かなりはっきり言われた気がしました。
私は声を聞くほど能力は高くないので、実際に声が聞こえたわけではないです。
そういうエネルギーというか、思念が入ってきたという表現に近いです。
これは私には絶対に思いつく発想ではないので、これがいわゆるインスピレーションというものなのだと思います。
やりたいかやりたくないかで言えば、確実にやりたくない部類の事柄です。
ぶっちゃけ得する事が一つもないからです。
私の本業は絵描きです。
「楽太郎」というアカウントでは、スピリチュアルや思想に関することしか扱う気がありませんでした。
だから、このアカウントで瀬織津姫様のイラストを上げることのリスクがまず頭を過りました。
絵師というのは、今の世では非常に微妙な立場です。
本業の名義でこのイラストを上げても、誰も意味がわからないでしょう。その代わり、楽太郎アカウントならある程度意味が通じます。
神様は、もっと私に神代界隈でうまくやって欲しいのだと思います。
初めは、リスクを感じて「瀬織津姫様が喜ぶならやるか」みたいな気持ちがありましたが、よく考えたら神様が私のために直々にインスピレーションを降ろして下さったので、神様のためを思って渋々やるべきではなく、私のためになることだったのだと思います。
ところが、渋々ながら着手したところでやめることができなくなりました。
思いつきで始めたことほど後でどうでも良くなりがちですが、ずっと優先順位のトップにあるという不思議な状況が続きました。
不安定な体調を整えながらじっくり進め、ようやく完成したのでここにアップします。
制作の裏話ですが、なぜ瀬織津姫様がこのお姿になってしまったかと言うと、最初は朗らかながらキッパリものを言う大人なタイプの女神様を念頭に置いていました。
けれどある時、かの神様がいらっしゃる神社を調べていて、関連のお社を画像で見た瞬間、「ああ…」となってしまいました。
想像していたような立派なお社と言いがたく、何となく、まあ親近感の湧く光景が広がっていました。
お社も小さいのですが、山からの湧水が減ってしまったらしく、小さな川が側にあるくらいなのです。
私の好きなアニメ、「あの日みた花の名前を僕達はまだ知らない」の「めんま」というキャラがいるのですが、その光景を眺めていると、めんまに似た小柄な女神様が小川のほとりで、足を水辺でぱちゃぱちゃしてる姿が思い浮かび、しばらく悶えました。
完全に漫画の世界の妄想に過ぎないのですが、とてつもなく愛おしさが込み上げてきました。
ここは私の頭がどうにかなってる部分なので、まともに受け取らないでいただきたいです。
以前の女神様像が吹き飛んだ瞬間、仮にこれを自分の思った通りに表現すれば、バチが当たるんじゃないかと思いました。
けれども、神様は常々「才能を生かせ」と仰るので、ありのままの自分らしさを前面に出せば、これが神様の望まれる魂の表現になるのかなと思いました。
ただ、ずいぶん葛藤はありました。
こういう表現が苦手な人はいるでしょうし、自由に表現した上で新しい界隈に好かれなくても、才能はどうしても他人の好みに合わせられないので、まあしょうがないかなという感じです。
このブログは瀬織津姫様に奉納している形になっているので、軽く業務報告書みたいな感じになってるようです。
とりあえず、神様のオーダー通りに納品はしたので、あとは野となれ山となれです。
私は神様には逆らいません。
もしお気に召しましたら、スマホの壁紙にでも使ってください。

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楽太郎です。
年末、私がご加護を受けている、おそらく瀬織津姫様からインスピレーションが降ろされました。
その内容は、提示した時のサプライズのために伏せておきますが、受けた瞬間はかなり困惑しました。
インスピレーションは、降りた瞬間にはテンションが上がり、やるしかないという気持ちになるのですが、この時はさすがに動揺しました。
あまりにオーダーがパンクすぎるというか、自分でも抵抗してしまうほど突拍子もないアイデアだったからです。
けれど私は直感第一主義ですし、神様の仰ることは絶対だと思っているので、やらざるを得ないんだろうと思いました。
ただインスピレーションというのは恐ろしく、「やらなくては気が収まらない」感覚になります。
他に急を要することがあるにも関わらず、なぜか手をつけ始めてしまい止まらなくなりました。
やり始めたらやり始めたで、迷いも一切湧かずにスラスラできてしまうので、余計に戸惑いました。
けれど進めるうちに、自我が出てきてしまい「これを世に出したら、自分はさらにまずい状況に置かれるのでは?」と考え、徐々に不安になってきました。
結論を先に言えば、神様のほうが一枚も二枚も上手でした。 もうやらざるを得ない、出さざるを得ないところまで話を持って行かれてしまいました。
けれど、自分のリスクを考えたらゼロではありません。これまでの常識で自分を考えるなら、どう考えても藪蛇にしか思えません。
ただ、人間の目からは無謀にしか思えないことを、どうやら神様はやって欲しいようなのです。
一体、なぜでしょうか。
スピリチュアル的な説明を一切なしに語るならば、次の時代の社会経済は新しいものが出てくることで古いものが淘汰されます。
このあらゆるコンテンツが飽和した世界にあって、世界観が変わるようなパンクムーブでなければ、おそらく何の影響力も発揮することができません。
それは神様の加護があるなしに関わらず、文明水準のレベルも関係なく、斬新さはどうしても必要なことです。
神様は、神代や新しい世界を作る人たちに、魂そのものの表現をしていくことを期待されています。
それは「才能」と呼ばれるものです。
才能とは、人間が神様からワケミタマを与えられ、生まれ持った環境によって条件づけられ、後天的に発揮しうる特殊技能のことです。
それは誰もが一人ひとり異なり、唯一無二の個性となりうる能力です。
神様は、人間がその能力に気づき、堅実に向上させながら使命感を持って行使されることを望んでおられるでしょう。
その「才能」はおそらく、貴賤がありません。
個性に貴賤がないように、才能にも必要不必要がないのだと思います。
それを発揮させるのも才能のうちであり、必ず何らかの形で人に役立つようにアレンジする必要があります。
それが社会的に受け入れられた時、私たちは才能によって財運を得るのだと思います。
その財産は自らの力で手に入れたものなので大事にするでしょうし、使い道も慎重になるはずです。
その資産で自分が豊かに暮らし、安定した生活の中で充実感を得ながら生きていれば、人は幸せになれるようにデザインされているように思います。
しかし、多くの人々は自分の才能に気づかず、伸ばすことも発揮することもしないまま、社会の枠組みの中でお金を稼ごうとしてきました。
それは何が悪いというわけではないでしょうが、才能を追求するのは困難を伴います。
人間は、意外と自分自身と向き合うのが苦手です。
自省をすればするほど自身の孤独性と向き合い、個性を追求すれば周りに合わせられなくなります。
多くの人は、そこまでするほどの目的や勇気を持つことができません。
もし、今の社会の枠組みが崩れ去るならば、誰もがその本質と向き合わざるを得ないのに、です。
その才能を発揮するのも、非常に勇気がいることです。魂からの表現をすれば、誰にどう評価されるかは想像するだけで恐ろしいものです。
正直に自分を曝け出せば晒すほど、受けるダメージは大きくなります。
ただ、そこを乗り越えなければ真の才能を発揮することができません。
私が直面した恐怖は、この生傷ができた時の痛みが想像できたからです。再起不能になるくらい打ちひしがれるかもしれません。
けれど、個性は初めから受け入れられるとは限らず、挑戦するからには既存のものを壊し、それゆえ批判も当然考えられることです。
当たり前のことを無難にこなすのは、別に才能如何は関係ありません。それはただの技術や方法に過ぎず、他者に再現不可能であるがゆえの才能だからです。
私は先日、高千穂の夜神楽の動画をたまたま拝見し、その芸術性の高さもさることながら、神様を題材にした自由な表現に驚きました。
ご先祖様たちがかつて楽しまれた演劇は、神様を面白おかしく演じ、しかも濡れ場まである奔放な娯楽でした。ただ神楽なので、元から神様に奉納するためのものです。
伊弉諾様と伊奘冉様がイチャつくのを観客が面白がる自由さを、見物なさる神様がお認めになるならば、おそらく人間界の常識を超えた文化観が神様の世界に存在するのでしょう。
神様は、おそらく才能の表現に貴賤はなく、魂から発せられた表現を重んじられるのだと思います。
私の敬愛する瀬織津姫様も、「弁才天様」とお呼びしたほうが実は繋がりやすいのですが、弁才天は元々インド神話のサラスヴァティ神ですし、いかに河川や技芸の神様であろうと習合しすぎです。
それでも神様は呼び方には特にこだわっておられないようなので、表現の貴賤はやはり人間界にしかない価値観なのだと思います。
確かに、常識的に考えたらやらなくていいことはたくさんあります。
しかし個性とは発揮せずにはいられないものであり、才能もまた表現せずにはいられないところから始まります。
個性を発揮せずとも、才能を表現せずとも私たちは生きていけます。少なくともそうせずに生きていける世の中であれば、です。
これからの時代は、それをした方が有利に働くというか、あえてそうした方が楽しい世の中になっていくのだと思います。
誰もが他人の目を気にせずに好き勝手にでき、それが受け入れられる土壌があるとしたら、人は喜びを共有しようとするはずです。
今はまさに過渡期なので、抵抗心は最も強い時期かもしれません。ただこれを乗り越えなければ、誰も後に続かないのでしょう。
私は、もう少し時間はかかりますが、それをやるつもりです。
「自分らしくある」とは、最大限のリスクを負います。
しかし、そのハードルを乗り越えてこそ、自分を活かしながら生きていけるのだと思います。
これからの時代には、そういう挑戦が必要です。

楽太郎です。
新年、明けましておめでとうございます。
先ほど、初詣をしてきました。
今朝は晴天で、それほど寒くはありませんでした。
神様も、日本人に出来るだけ初詣に来てほしい、そう思ってこの天気にしているような気がしました。
地主神様の神社に初詣に伺ったのですが、参拝者が路上に溢れんほどの行列でした。
本神社とはご縁ができて今年初めてなので、例年との比較はできません。ですが、このご時世なので皆さん気合いを入れて初詣に臨んでおられるように感じました。
初詣の参列に並びながら、神様の雰囲気を伺ってみました。
いつにもまして、神様は表情を隠しておられるように見えました。
迎える空気があるでもなく、拒むでもなく、何も言わず淡々と参拝者を眺めておられるように感じました。
参列中、2回ほど「龍か?」と思う瞬間がありましたが、私はそういうのは目に見えないので、凝視したところで気のせいにするしかありませんでした。
ただ、行列の中で何回か吐き気を覚えました。
境内に入っても、何となく異様な雰囲気がしました。これは、紛れもなく参列者の邪気だと思いました。
誰も傍に手水舎があるのに手を出しませんし、きちんと礼をして鳥居をくぐる人もまばらでした。
神様がマナーに厳しく人を見ているとは思いませんが、私はこういうところもジッと見ておられるのだろうと考えていました。
神様はおそらく、この初詣に訪れた人の内面を注意深く観察されているのだと思います。
それはマナーだけでなく、普段の心持ち、神仏を敬う気持ち、参拝を通して何を願っているのか、それを一人ひとり丁寧に判断しているように感じました。
私とて例外ではなく、心の隅々まで見られているんだろうな、と思っていました。
ですからいつも以上に周囲に気を遣いましたし、その一挙手一投足も観察されている自覚でいました。
参列者の邪気に当てられて心が乱れがちだったので、ずっと神様のことばかり考えていました。
本殿が近づいた瞬間、ふっと頭が軽くなって第4チャクラが開きました。ご神気に当たるとやはり楽になるようでした。
拝殿につき、祈願をしてる最中に後ろから邪気を当てられ、心が乱されて邪念が入ってしまいました。
祈願が終わると心がスッと軽くなりましたが、境内の邪気が強すぎて長居はできないなと思いました。
話は遡りますが、今朝起きると身体に変化があり、妙にハートチャクラからエネルギーを感じました。
第4チャクラに意識を集めると、肚にエネルギーを貯めることができ、身体がどっしり構えられるようになりました。
この身体の仕様は、冬至以降に変わったエネルギーの捉え方のようです。
それが元旦に掴めたため、身体のエネルギーの循環が良く、参拝に向けて瞑想もして、体調をバッチリ整えてから初詣に向かいました。
それでも、参列で気が遠くなりそうなほどの邪気を感じました。
参列されてる方のお一人お一人は、きっと善良な方が多いでしょう。しかし集合意識に混ざると、なぜか邪気になってしまうようなのです。
私が感じた邪気は、「我良し」というエネルギーです。
その意識にチャンネルを合わせるとまずいと思ったので、ずっと本殿や景色に目を移し、神様のことを考えていました。
気分が悪くなったものの、これは私の感覚の問題です。
人々をジャッジするような身分でもありませんし、する気もありません。
それは今日、参拝者をご覧になられた神様がなさることです。
私だって、神様から隅々まで心を覗かれたら、及第点をいただけるかわかりません。
疾しい心を出さないように努めているだけで、疾しさはあります。言ってみれば、巫女さんに邪念を抱かないことすら難しいです。
そんな私ですから、神様がどこまでお許しになるかで結果はだいぶ変わるでしょう。
ただ、何となく神様は多くの人に良い回答を用意しないだろうな、と感じました。
私が変わったからか、人々が変わってしまったからか、この異様な邪気の強さは何とも言いようがありませんでした。
数日前、年末の買い出しでスーパーに行ったら、やはり空気が悪すぎて吐きそうになり、買い物を中断して外に出ました。
お茶を買い、ベンチで気を整えながら、もはや人混みも苦手になった自分に気づき、途方に暮れました。
気づけば、消防車と救急車のサイレンがひっきりなしに聞こえてきます。
誰もが、今の世に疑問や恐怖を感じているはずです。
人々が不安にさらされ、不安だからこそ何かにすがり、自分や身内の助けを願うでしょう。
もちろん私もその一人ですが、神前の私たちを神様はどう見られたのでしょうか。
こういう時に周りを見られるのか、自らの行いを反省できるか、神頼みして終わりではなく、きちんと努力を続けられるのか。
私が神様のお立場なら、ここを念入りに見ます。
元日の参拝の様子だけでなく、その後の心持ちもしっかり見定めて、神様はご加護を与えるかどうか決断を下すのではないでしょうか。
少なくとも私ならそうします。
2025年は予言云々関係なく、政治経済や社会情勢が混乱する可能性が非常に高いです。
何らかの災害も起こるでしょう。ただ、「自分のところにだけは来ないでくれ」という気持ちだと、危ないかもしれません。
特に自然災害は、人の意志ではどうにもなりません。そこでは人間は無力そのもので、起こすのは神様と地球の気分次第です。
それでも、神様はできる限り人々が助かるために、ご加護をお与えになろうとしています。
誰が加護を受けるに相応しい人間か、それは神様がお決めになられることですが、もちろん人間はその資格を得るために努力を重ねなくてはなりません。
「自分だけが助かろう」という気持ちでは、その人は真っ先に弾かれるかもしれません。
私自身、それを肝に銘じながら神様と人のために何ができるか、自らに問い続けようと思います。
今年もできる限り、神様との共同作業であるこのブログを発展させていきたいと思います。
今年一年、どうぞよろしくお願いします。

楽太郎です。
今年も最後の日となりました。
思えば、今年の前半は迷走から始まり、秋分を機に精神性がガラッと変わり、急激にスピリチュアルに目覚めていきました。
それから3か月の間に神の存在を信じるようになり、自分の使命を確信し「神代をつくる」ことを決意するとは、夢にも思いませんでした。
思えばこの3年は何をやってもうまくいかず、その原因も世に対して逆張りを続けてきたからで、知らず知らずのうちに、魂はずっと次元上昇の準備をしてきたのでしょう。
これまで、自分のエゴで汚いことも平気でやれましたし、道を外れたことすら何十年もしてきたはずなのに、一気にここ数年で軌道に戻された感じがします。
おそらく、私は土の時代にうまくやれたとしても、このシフトの時までに準備を整え、いずれにせよ神の計画に参加する定めだったのだと思います。
ところが、この神の計画に魂の成長を無理矢理合わせる形になったため、この3年間は修行に全振りしなければならず、社会人として全く何の財産も築き上げることができませんでした。
今でも、自信のなさや不安が払拭できたわけではありません。
人間としての無力感は根強く、この数日は自我のロックが緩んだため、どんどん自信のなさや不信感が湧き出てきています。
これは、私の感じ方では魂のレベルが落ちているように見えるのですが、おそらく己の波動を上げるために今まで背伸びをしてきたのだと思います。
背伸びをした分、背は高く見えますが力を抜けば普段の姿勢に戻ります。
その観点で見れば、人格の統合が起きているのかもしれません。
ただ、不安がよぎるたびに浮かぶのは、「世の中は唯物史観のまま高度な文明を謳歌し、古い精神性を持つ自分はこのまま弾き出されて死ぬのでは?」という恐怖です。
経済は目に見えて悪化し混迷は深まり、世界から秩序が失われようと、今の堅固な支配構造だけが残り、大切な人を守れずに淘汰される未来を想像し、私は時に震え上がります。
私は世に対して、公平な和気藹々とした空気で一緒に暮らしたかっただけなのに、見ず知らずの人から受ける暴力に立ち向かうため、なぜ戦いを始めなければならなかったのか、それが悔やまれてなりません。
日本人は、この十数年で全く違う民族のようになってしまいました。
日本人が変わってしまったことを信じられず、だからこそ世を変えようと抗ってきました。
現在のうまくいってる側の日本人は、それでいいのかもしれません。
しかし精神性のある、かつての日本人のような人たちは、この国に未来を見ることはできないはずです。
このブログでたびたび言っていますが、私はどの道この社会では生きられないのだから、一か八か神様に賭けて真正面から挑んでやろうと思っています。
岡本天明翁に降ろされた日月神示では、「大阿呆になれよ、逆の阿呆になるではないぞ」とあります。
ここでいう「大阿呆」とは精神性のある人間のことであり、学歴階級社会を駆け抜けてきたような、莫大な資産や権力を持っている唯物論者とは真逆の存在でしょう。
その意味で、私はすでに大阿呆です。土の時代に精神性を持つことで幸せになれなかった人間だからです。
ただ逆の阿呆が賢き唯物論者たちのことを指すのなら、日月神様は少なくとも「そうなるなよ」と仰られてるのだと思います。
私に刻まれたこの無力感は、何も持っていない劣等感、喪失感に加え、挫折体験によって自らかけた「呪い」に他なりません。
持つものが優遇され、持つからますます成り上がっていく世界で、持たざるからこそ自他共に刻んだ「落伍者の烙印」です。
仮に、これまでの時代が変わるならば、呪いや烙印にかけられた術者の力は消失するのではないでしょうか?
そうなれば無力感という心の闇は薄れ、自分を縛る鎖は打ち破ることができるはずです。
私たちは完璧な魂を持って生まれ、それぞれの条件で発揮できる才能を持ち合わせているのに、能力を発揮させないように後天的に細工されてきたのだと思います。
人間が生まれ持って自由に未来を選択し、それぞれの目的に才能を持って実現していくならば、人々は自信に溢れ充実した人生を手に入れられるはずです。
もし、それを実践する人が多いとしたら、困る人がどこかにいるかもしれません。
賢い大衆は強権的にコントロールできなくなり、欲望に右往左往してくれなければ、ビジネスもやりづらいでしょう。
私たちはどこか古い時代のある時期に、劣等感に苛まれるようプログラミングされ、心の穴を埋めるためにお金や時間を使うように仕向けられたのだと思います。
けれど、その時代は人々が目覚めれば自ずと終わるはずです。
私たちは、誰もがその覚醒が可能な魂の持ち主だからです。誰もが神のワケミタマを与えられているとしたら、人は遍く神の一柱に他なりません。
自らの中に神を見るならば、人の作り出した理は所詮、人が作り出したものだと思えるはずです。
己を神だと自覚してしまえば、「神」という存在は特別ではないと感じるはずです。
「神」を畏れ多き存在だと敬遠するのは、自らを人間だと思うからです。
私たちは自らを大いなる神の一部だと知ることで、無力感という闇を深い部分から照らせるはずです。
私たち人間がこの目覚めに至れない理由は、自身の神性に目覚めれば目覚めるほど、「孤高」となっていくからです。
孤高とは、群れから離れることを自ら選択し、唯一無二の宿命を生きる道です。
誰かに寄りかかることも、真似することもできない生き方は、強い覚悟と勇気が伴います。
だからこそ、多くの人はそこに立ち向かえず、奴隷的な生き方に甘んじてしまいます。
私たち一人一人は、生まれ持って孤高の道が用意され、唯一無二の才能が発揮できるように生かされていきます。
だからこそ、外にあるものに依存せず、選択を誰かに委ねきらず、自分自身の心だけを頼りに前に進んでいけば、必ず道は拓けるはずです。
ただ、その自覚に至れたとて全てが見通せるわけではないでしょうし、目の前にある社会がガラッと変わるわけでもないでしょう。
しかし、この社会は意識の集合体なので、洗脳から解き放たれる人が多ければ多いほど、変革の波は広がるはずです。
それが新しい時代を作る鍵であり、古い時代を乗り越えていく道なのだと思います。
来たる2025年は、その挑戦が本格的に始まる年だと感じます。
私は、ずっとその準備をしてきました。
不安は正直ありますが、いよいよだと思います。
もう後戻りはできません。

楽太郎です。
25日に仕事を一区切りつけて、昨日から身体を休ませることにしました。
ただ、私はワーカホリックというか、仕事以外に特に趣味もないので、横になっても何となく退屈でした。
YouTubeで動画を眺めたりしましたが、もはやこの社会で作られるエンタメにはほとんど興味がないことに気づき、少し落ち込んだりもしました。
昨日の朝、冬曇りして薄暗さがある街を歩きました。
最近感じるのは、街全体から漂う空虚感です。
空は確かにどんよりしているのですが、光量がなさすぎるというか、不自然な暗さを感じました。
人からは重苦しい気が出ているように見えたので、あまりチャンネルを合わさないようにしていました。
街の不況感、店のサービスの悪さ、人の殺伐とした雰囲気、これらを横目に見ると、日本人はそろそろ限界ではないかと思います。
この国をどうにかしたい、という思いから自分なりに考え、この数年ひたすら行動してきました。
しかし、学べば学ぶほど腐敗の根深さを知り、ついに「立ち向かえる相手ではない」と理解した時には、腰が砕けそうにもなりました。
今でも、その口惜しさは消えません。
ただ、この人間社会が存続するならば、私はいずれ野垂れ死ぬでしょう。
どうせくたばるなら、いるかいないかわからないお天道様に運命を預ける以外ないと決めました。
ここまで手に負えなくなった世界を何とかできるのは、神様以外にいないと思えるからです。
けれど私には確信がありませんでした。
他人を眺めては気持ちが揺れ動く日々、街の雰囲気や社会の不条理に引っ張られるのも、自分に芯がないからです。
とは言え、これから崩壊していく未来だけが如実に見える世界で、何が残るのかを考えるならば、未来など想像しようがないとも思えました。
私の心は澱み、暗く沈んでいました。
今日、街へ行く用事があり、ついでに氏神様の神社に行くことにしました。
自分が悩んでいることはわかっているので、参拝したらおみくじを引くつもりでした。
そのおみくじの結果はこうです。
このおみくじを引いた時、これは確かに神様のお言葉だと思いました。
私の優柔不断さや煮えきらなさは、まだ人間社会にどう向き合っていいかわからないことにあるからです。
人間社会に傾けば神様のご意志に背き、神様のご意志に従えば人間社会から反発されるのが目に見えています。
その板挟みを一体どう判断したらいいのか、私にはわかりませんでした。
けれど、このおみくじにある「慎み」という言葉にヒントが隠されている気がしました。
「慎み」とは「心の真」と書きます。
なぜ「真の心」が謙虚さや節制を表す「慎み」となるのか、それが疑問でした。
「慎み」が謙虚さを表すなら、「足るを知る」ことが「心の真」となるのだろうか、とも考えました。
ただ、何となくもう少し考えたいなと思い、遠回りして帰ることにしました。
道すがら、少年時代によく通っていた書店にフラッと寄ってみました。
私の10代は悩み多い時期だったので、文学書や哲学書をここで買ったり、立ち読みしたりしていました。
何か新しいことに興味を持ちたいとは思いましたが、並んでいる本の傾向を見て、日本人が本を買わなくなった理由が何となくわかりました。
知識は欲しければネットに繋げれば適当に手に入ります。でもお金を出して紙の本を買うと、手元にモノが残ります。
本は、情報ではなく知識であり、学習というより体験です。
今の出版はビジネスに偏り、学閥的・業界的な知識を提供し、権威づけを再定義する機能があります。
そこにあるのは情報に過ぎず、その体験では精神性を得ることができません。
精神性の体得を反故にする代わりに、知的な敷居を下げ恣意的な情報を取得できるようにした結果、ネットで得られる情報と大差がなくなり、わざわざ嵩張る本を買わなくなったのではないでしょうか。
私は10代の頃に読んだ岩波文庫や哲学書の列を眺めながら、もう一度読み直したいなと思いました。
ここ十数年の精神性をかなぐり捨てた本には魅力を感じなくなったからです。
ある一冊の哲学書を手に取り、貪るようにニーチェやフーコーを読んだあの頃の気持ちに戻り、また抽象的なことに没頭したくなりました。
けれども、その棚の近くにあったのは、「スヌーピー」の登場する漫画、チャールズ・M・シュルツ作の「PEANUTS」の解説本でした。
私はこれを見て、ハッとしました。
私が中学生の頃、漫画本以外に初めて買った活字の本が「PEANUTS」の解説本で、「いいことから始めよう」という本でした。
やはり漫画ではあったんですが、そこで人生哲学と出会い、小難しいことを考え始めた時期もあって、哲学にのめり込むきっかけになりました。
この本はその流れを汲むもので、やはり簡易的にチャールズ・M・シュルツの人生哲学を扱った書籍です。
これを手に取った瞬間、懐かしさと共にインスピレーションが湧いてきました。
「PEANUTS」こそが私の「初心」とも言うべきもので、思えばそれから数十年かけて人生について学び、そして再び迷ってこの地点に戻ってきたのです。
「慎み」を「真の心」とするならば、それは「初心」なのだと思います。
初心だから謙虚であり、謙虚だから驕らず、驕らないから正直なのです。
神様が私に伝えたかったのは、まさに「初心に帰れ」ということに他ならないと思いました。
そのことに気づいた時、あらゆる迷いが氷解したのです。
今まで積み上げようとしたものが積み上がらなかったこと、積み上げたものが崩れて何も残らなかったこと、今の世の中に積み上がっているものが気に食わず、今でも自分で崩して何かを積み上げようとすること、私はずっとそれらに執着していました。
数十年かけて人の世で蓄積した情念は、神様がずっと「これからの時代には必要ない」と仰られていたものです。
それを捨てるのは「初心に帰る」だけでよかったのです。
あの頃、私はこれからだと思っていたし、何にでもなれると思っていました。
社会の歯車は壊せると思っていたし、新しい常識を作り出すこともできると思っていました。
時代が変わり方向性を見失っても、あの頃みたいに新しく何かを始めればいいじゃないかと、そう思えたのです。
数年ぶりに紙の本を買い、帰途に着きました。
雪が降り凍えるような街の中、私は神様に感謝していました。
神様がいるかはわかりませんが、インスピレーションを受けて行動している限り、私はどんどん成長し内面が豊かになっていきます。
それはこの未来が見えない時代にあって、私に自信と希望をもたらします。
この凍える道の途中で、目に見えないエネルギーとの繋がりを感じるほど、私の胸は熱くなっていました。
その気持ちは、私の少年時代にあった心そのものでした。
私は数十年かけて人生を一周し、スタート地点に戻ってきたのです。
それが今日、この瞬間でした。
それがわかった瞬間、自分がこれからどう生きていけばいいのか見えてきました。
なんてことはない、「自分らしくあればいい」だけです。
あの頃のように、傍若無人に自分を貫こうとしている心であれば、良いだけだったのです。

楽太郎です。
冬至でエネルギーがきっぱり切り替わり、先日のブログでも書きましたが、人生のテーマが刷新されました。
これまで、私は人の目や評価を気にしながら、それに合わせたり過剰に適応しようとすることで、自分の軸にしていました。
しかし、神様的にはその依存性は度し難いらしく、瀬織津姫様から浄化を促されています。
私の過剰適応に伴う努力性や献身性、悪く言えば自己犠牲的な生き方は、「自分を大事にする」とは程遠いものでした。
うまくいかないことがほとんどでしたし、だからこそ周りを責めたり、社会を責めたりしました。
けれど本当に問題なのは、目的意識を常に外側に求め、結果を他者から与えられるのを待つ態度そのものにありました。
そこにある劣等感は、人の世が作り上げ、長い時間をかけて刷り込んできた「欠落感」から派生したものです。
私たち人間は、生まれ持って頭ごなしに否定されるべき要素など持ち合わせていません。
しかし、人間社会はその性質を評価し、分類して要改善とすることで、人々の天性を抑圧してきました。
私たちは長い間、「価値のある人間と価値のない人間がいる」と信じ込まされてきました。
そして大抵の場合、人は自分を価値のない人間だと思い込んでいます。
価値のある人間は、他者と比較して優れた者だけに与えられた資格であると信じています。
しかし、私たち一人一人に与えられた「ワケミタマ」は、神の一部、神の一柱でもあります。
ところが、人間には魂など存在せず、それこそ動物やモノと同等の生物であることにすれば、神を否定したい人々や存在からは都合がいいでしょう。
「魂」や「霊」を否定することが可能なら、その延長にある「神」も否定することになります。
だからこそ、彼らからすれば人間が「細胞でできたロボット」でなければならないのです。
けれども、誰もが神のワケミタマであり、「誰もが価値がある」ということになれば、人の弱みはだいぶなくなるはずです。
誰もが自分に誇りを持ち、心の声を聞き、真贋を見分ける感性があれば、闇のつけ入る隙はなくなります。
私たちの本来の姿、生き方はそこにあり、「目覚め」とは自分が神から祝福された魂であること、分け隔てなく自由で幸福になれる魂であると理解することにあります。
私の半生を貫く苦悩は、他者と比較し優劣を他者か自分がジャッジし、外側の価値観で己を反省し、自らの目的や動機にしていたから起こるものでした。
しかし、その「根拠」としてきた外圧は、すでに崩壊のフェーズに入っています。
私たちは、仕方なく外側の仕組みに寄りかかる時代から、自分の足で立って世を歩いていく時代に移ろうとしています。
この冬至、私に与えられた課題は「人の世の価値観から解き放たれる」ことでした。
中でも、社会の常識というより、自分の心の動機づけに使用していた「思い込み」、とりわけ「妄想」とさえ言える部分です。
これは私の深いところに染み込んだ思考癖でもあるので、簡単に変えるのは難しく、わかっていても同じことを繰り返してしまいます。
私はこれまで「神から与えられた役目」とは、人々の願いを叶えたり、役に立つことだと思っていました。
私の生業もその延長にあり、人間を中心に考えることが神のご意志だと信じてきました。
けれども、神様は必ずしも全ての人間を救うおつもりはないようです。
むしろ、振り払うべき人間を選ぶために、神様はこれまで入念な準備をしてこられたようなのです。
もちろん、人に奉仕して人を助けるのは前提なのですが、神様にとっては全てではないように思います。
大切なのは、人よりも神様のご意志を優先することなのかもしれません。
「人のため」を思ってやることと「神のご意志」で行うことは必ずしも一致しません。
その部分を混同せず、それが神様のお選びになったことなのかを注意深く察する必要があります。
そう考えると、私は自分の立場やなすべきことがわかってきました。
意思決定の上で重要なのは、「神の優先順位」に他ならないということです。
人の世の価値観より神の道理を優先すること、他者ではなく自分、自身の信念よりも神を優先することです。
これに気づいた時、私は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出しました。
悪人のカンダタはある日、気まぐれで蜘蛛を助けますが、カンダタが死んで地獄に堕ちると、仏様が蜘蛛の糸を地獄に垂らして極楽へ上がれるチャンスをお与えになります。かつてカンダタが蜘蛛を助けたのを、仏様がご覧になられたからです。
私が蜘蛛だとしたら、カンダタが助かるかは蜘蛛である自分が決めることではないはずです。
地獄に堕ちる選択をしたのはカンダタ自身ですし、カンダタを裁いたのは仏様です。
蜘蛛は、自分の役割で糸を垂らしたにすぎません。
私は人の目を気にするあまり、自分自身のやり方に徹することに気後れしていました。
人々はどう思うか、これをやればどうなるか、神様はこれをどう見るだろうか、そればかりを気にしていました。
しかし、私は己に与えられた役割をこなせばいいだけで、それがどういう意味を持つか、どれだけ世に貢献するのかまで考える必要がありません。
それを決めるのは、関わった人たちかもしれませんし、神様かもしれません。
自分が何をすべきか、役割とは何か、それを難しく考える必要はなく、神様が降ろしてくるものを信じて自分なりにやればいいのです。
それがわかった時、急に気持ちが楽になりました。
人は自分にできることは知れてるので、下手に全てに責任を感じる必要がありません。
人間にできないことは神様の世界の話であり、今は神様にしかどうにもない時だからです。
だから、今は自分自身に集中してていいのです。
むしろ、これから局難が来ることは想定できる以上、今は地盤固めに勤しむべきでしょう。
今、地球の次元上昇は思っている以上に早く、上昇しなかった人々をどんどん引き離しています。
この大衆にチャンネルを合わせると、自らの波長がどんどん下がっていくのを感じます。
それほどまでに人の世は、神からも地球からも見放されているように思えます。
こういう時こそ、はっきり目的意識を持ち、波長を落とさないように心がけるしかありません。
冬至でエネルギーが変動し、覚束ない感覚もありますが、幸いにしてこれから年末年始を迎えます。
そこで新しい気持ちに切り替えて、2025年という局難に立ち向かう準備をするには、うってつけの時期かもしれません。

楽太郎です。
今回は、結論のない話になるかもしれません。
作品制作中、かなり心身を酷使していたせいもあって、昨日からはなかなか身体のしんどい状態が続いていました。
おそらく制作期間と冬至前のエネルギー変動、魂の成長や浄化作用もあり、脳や神経に対するダメージは想像以上だったかもしれません。
昨夜、食いしばりと共に激しい寝汗で起きて、着替えて寝直しました。
いくつか生々しい夢を見た後、うっすら目覚めると、私の頭にはない言葉を私自身で翻訳しながら、自己反省を始めていました。
その時の記憶ははっきりしていませんが、私のこれまでの生き方について言及されていたように思います。
そこでは、私が過剰に周りや社会を意識し、先回りして合わせようとしたり、逆に極端な反発をしたり、そういうことで社会生活がうまくいかなかったことが話になってました。
なぜ、それほど過剰適応とも思える行動すら取ってきたかと言えば、私がいつも「人と違う」という感覚に根づいていたからです。
未だにそうですが、何をやるにしても人より頭一つ分できてしまうか、できないかのどちらかです。
できてしまうことで過剰に期待され嫉妬されやすい反面、できなさすぎて邪険にされ疎外されます。
この「ズレ」が魂由来の性質だと今では割り切れるのですが、子供の頃からつい最近まで、私はただ社会で生きづらいだけの宿命を背負った人間なのだと思っていました。
しかしスピリチュアルと出会い、神様と繋がれるようになってから、私が何者なのか、私がどう生きていけば良いのか、大まかな部分を捉えることができました。
私の魂の宿命は、おそらくこうです。
私の魂はかつて天界にいたもので、何らかの使命を担って地上に降り、血族の因縁を晴らすために両親から肉体をもらい、これから神代の創造に携わるシナリオが与えられているようなのです。
私は輪廻転生を繰り返した魂と違い、「人間」として生きた経験がないためか、これまで人間の感覚が乏しい状態で生きてきました。
0歳から記憶があるのも、身体の使い方がわからないのも、いわゆるHSPなのも、人間の粗暴さが理解できないのも、やたら物事を抽象的に捉えたり、人が覚えていないようなことをはっきり思い出せるのも、様々な性質が「自分は魂の種類が違う」と考えれば、全て納得できることでした。
その「ズレ」の正体をはっきり指摘されないまま、「ダメなやつだ」とか「へんなやつだ」と思われるだけだった私は、その劣等感を埋め合わせるために過剰適応とも言える行動を繰り返してきました。
努力家だとか頑張り屋とかよく言われましたが、今考えれば過剰適応の一つの傾向でしょう。
現実離れした理想のあまり、そのために自分を追い込むことを躊躇わず、私はいつも身体の不調を抱えていました。
私の不幸感の源は、何となく慢性的な疲労感から来ていることはわかっていました。
瀬織津姫様と出会い、心の浄化を手伝っていただき、私はだいぶトラウマが軽減されたと思います。
あまりに心の傷が深く、閉ざした部分が大きかったため、私は自分の心を真正面から捉えることができずにいました。
瀬織津姫様にその浄化を促していただくことで、私は過去の記憶に責められる苦痛から抜け出すことができました。
そして今朝、私は過剰適応という価値観を捨て、「自分軸で生きる」というテーマに出会いました。
今日はずっと腰が痛く、チャクラが完全に乱れ邪気が侵入して、わりとどうにもならない一日でした。
既存の価値観の離脱を迫られたことで不安になり、第二チャクラがやられたのだと思います。
私はこれまで、人を見て先回りしてものを考えて行動していたので、自発的な動機は持ちにくかったのだと思います。
それは人への執着であり、世の価値観への執着です。
瀬織津姫様は常日頃から「自分を大事にして」と仰る方ですから、その依存は浄化せざるを得ない部分だったのだろうと思います。
それは私にとって良い方向への変化であるとしても、自発的動機を持ちにくかった私としては、他人軸を捨てたらどう行動していけばいいのか見えてこない部分があります。
私は世の物事はこうだ、とある程度は言えるのですが、こと自分が経験したことのないものには奥手になります。
長々と書きましたが、これらの文章を結論に導くことはまだできないようです。
私は「心の赴くままに」とか「直感に従う」行動原理を覚え始めたばかりです。
この冬至が、あらゆる方面に対してターニングポイントになったように、私もこれまでと別の私となり、新たに生き始める段階に入ったのだろうと思います。
ヤドカリは、古い殻を捨てたら新しい殻に引っ越すまで丸裸になります。
今の私はその状態のため、無防備になりますし、外部からの影響をもろに受けます。
古い殻を持っていた頃は、まだ自分の方向性に強気でいられたのだと思いますが、こうして自由になってしまうと、逆に自分を縛るものが欲しくなってしまいます。
でも古い殻に戻るわけにはいかず、新しい殻は自分で探すしかありません。
私は当面、それが課題になりそうです。

楽太郎です。
昨日、ようやく作品が完成しました。
この数週間は、神様と二人三脚で仕事をしていました。
おそらく瀬織津姫様だと思うのですが、本当に献身的にサポートしていただきました。
私の作品や仕事自体は、それほど大っぴらに誇れるものではないのですが、それでも神様が後押ししてくださるということは、おそらく「才能や商売に貴賤はない」と神様が考えておられるからだと思います。
この作品がどういう評価を受けるかとか、そもそもお金になるのかとか、社会の価値観で考えるならばどうなるかはわかりません。
それでも、「神様がついてくださっている」という気持ちがあるから、気をしっかり持って最後までできました。
人の世の経済ではそもそもうまくやれるとは思っていませんが、困りごとは神様に頼るべきです。
神様が「やれ」と仰っているのですから、いずれ悪いことにはならないでしょう。
今朝、早起きをしたのでちょっと調べ物をしていたら、今日の冬至の朝日は特別な意味があるらしく、スピリチュアル界隈もお祭りムードのようでした。
日の出を是非見ようとコーヒーを淹れて、ベランダで待ち構えてましたが、雲が厚くてなかなか顔を出してはくれませんでした。
雲をなぞるように光が昇ってくると、後光が差してきて、とても神々しい光景となっていきました。
そしてお日様が顔を覗かせると、いつもに増して眩しさを感じ、直視することができませんでした。
その時、天照大御神様に「幸せになれますように、ついでに人類も」とお祈りしました。
この写真はかなり切り取ったので画質が良くありませんが、雰囲気を感じ取っていただけたら幸いですw
昨日、作品を仕上げてから、正直言って商売としてうまくいく自信はないのですが、なぜか不思議と怖くないなと思いました。
「神様がいる」というのは、人によっては気のせいに思えるかもしれません。
例えば錯覚とか思い込みとか、神の声が聞こえたらそれは脳の病気とか、そういう風に言う人もいます。
でも、客観的に考えて今、「神様を信じている人と神様を信じていない人のどちらが幸せなのだろう?」という観点だと、人の力でこの人間社会を勝ち抜こうと思う人たちほど、プレッシャーや不安を抱えているのではないでしょうか。
私は、神様と繋がる感覚が例え錯覚であろうと、神様の言いそうなこと、そのアイデアに従って生きていくことで自分の成長を感じ、自信を得てどんどん精神的に豊かになる自分がいます。
神様のいない世界を生きている人は、この部分を人間の力で補わなくてはならないため、よりお金を稼がなければいけないでしょうし、より人をうまく使ってやろうとか、もっと努力して成果を出さなくては、と思うはずです。
しかし、現実の不確実さで言うなら、神様を信じていようがいまいが、大して変わりません。
街はクリスマス商戦の真っ只中なのに、全く浮かれたムードを感じませんし、売る側の人からも何となく本気を感じません。
世の中の雰囲気の悪さを感じるほど、不安な人は「自分で何とかしなければいけない」と思うでしょう。
しかし、人間の努力には限界があります。極論を言ってしまうと、生死を分けるのは気の持ちようとか、運だったりするわけです。
どうせ結果が同じなら、神様を信じて楽しく生きていたほうがいいのです。
地球の次元上昇が眉唾だろうが、隕石が降ってきたり大地震が起こるにしても、映画みたいに人間の力で何とかできるものではありません。
人間は、これまで目に見えるものやデータをエビデンスにしなければ、発言力が得られませんでした。
「目に見えない」ものは錯覚で、「目に見えるもの」だけが実在する唯物論の延長から、各々が我田引水に励むことで混迷が起きていることを、人々はいずれ知ることになると思います。
もしこれから新しい時代、もしくは「神代」になるとしたら、それは「目に見えないもの」が「目に見える」ようになる時代なのだろうと思います。
目に見えないものが見える世界は、誰もが霊能者になるという意味ではなくて、目に見えないものを信じ言葉にする人が増えることで、それがより人の目につき、目に見えない世界がどんどん現実の価値観になっていくことを意味します。
昔、日本各地にコンビニよりも神社仏閣が建てられたのは、人々にとってその「目に見えない世界」が現実であり、共にあったからです。
その時代になることは、革新ではなくて温故知新であり、元に戻るだけです。
私たちは神様のいる、安心できる世界を作ることで、人々の心から言いようのない不安を消し去ることができるのだと思います。
それを私は「神代」だと信じていますが、誰が何と形容しようと、最終的にその世界になれば多くの人々が楽に生きられる時代になると思います。
だから私は心配はしていません。これから世の中が悪くなろうと、私は幸せになれる自信がありますし、世の中を変えていけると思うからです。
追記:
本日からコメント欄を解放します。
冬至が明け、新しい時代の流れを感じます。私も色々とやり方を変えていくタイミングかもしれません。
コメントお待ちしています。

楽太郎です。
昨日は仕事の追い込みで、完全に片付けなくてはいけない日だったのですが、身体がガクッと動かなくなりました。
作品を仕上げなければいけない、という一心だったので、身体が動かないことへの焦りや不安もどっと出てきました。
私は魂の覚醒を経験してから、一切の無理が効かない身体になりました。
自分自身に嘘をつけなくなったからです。
魂の要求を自我でグッと抑えつけると、魂のエネルギーを引き出せなくなり、結局パワー不足に陥ってしまいます。
これは、日頃の無理で魂にストライキを起こされたんだな、と割り切って休むことにしました。
特にこの時の体調の出方が、好転反応に近いと思いました。
それはいいとして、なぜ追い込みの一番大事な日に来るのか、と落ち込みました。
好転反応は、自分の魂が成長できるかを試されるタイミングでもあり、それがあまりに辛い状態をもたらすため、これを乗り越えれば状況が良くなることに気づかず、成長を取り逃がしてしまうこともあります。
横になって自分の身体を冷静に見つめた時、相当我慢してきたことに気づきました。
睡眠時に食いしばりが起きているせいで、疲れが抜けきらないのも、日頃のストレスにあるのはわかっていました。
それでも、目の前のことをやりきらなければ、お金も入りませんし身の回りの人を助けることもできません。
でもなぜか昨日ばかりは、神様の応援が外れている感覚がずっとしていて、私を見守ってくださっている瀬織津姫様のお力も感じなくなっていました。
作品を仕上げる直前になって、なぜあれだけやる気を出して取り掛かれていたことに、身体から拒まれてしまったのかを考えました。
私の心を覗いてみると、「私はこのチャンスをものにしたくないのだ」と気づきました。
それは私が、私自身にかけた呪いに他なりません。
「こんな自分ではダメだ、うまくいくはずがない」
「どうせがんばったところで、またダメになる」
そう考えるのは、私自身が「ダメな存在」としての自分を変える恐怖があったからだと思います。
私がチャンスに弱い原因は、肝心なところで「自分を変える恐怖」から失敗を誘発し、その挫折経験を延々と後悔に変換していたからだとわかりました。
この悪循環は、私が顕在意識でどれだけ変わろうとしても、どれだけ努力しても「成功したい」と思えば思うほど、「ダメな自分でありたい」という心理的逆転が強化され、強いウップスを発生させていたのです。
「変わりたい、成功したい」と思えば思うほど、深層意識は真逆の方向に向かい、「引き寄せの法則」ならぬ「引き寄せない法則」となっていたのでしょう。
このトラウマの原因は、最初は小さな失敗経験だったのだろうと思います。
それは子供の頃の小さな心の傷が、自分の知らないうちにまた同じところに傷を作っては、どんどん傷口が深くなっていったのかもしれません。
傷が思ったよりも深いことに薄々気づいた時、その痛みやショックを誤魔化すために傷口を握りしめ、ずっと痛みから耐える状態にいたのでしょう。
それは気の遠くなるような我慢で、何十年もかけて私は心の奥底で痛みを抱えていました。
怪我はちゃんとケアしなければ、悪化もするし治りづらいものです。
その痛みを抱えているうちは、心が癒されて魂が健康な形で発露することができません。
瀬織津姫様が加護の手を止められたのは、身体に鞭を打ち続ける私に力を貸すのではなく、まず癒した方が成功に導けると考えられたからだと思います。
私の積み重なった心の傷は、私の子供の頃からの素直な愛情から来たものでした。
その愛情が裏目に出たことで起きた苦しみ、憎しみ、嫌悪、怒り、悲しみ、それらの負の感情や愛情そのものも、蓋をしてなかったことにしようとしていました。
だから、私は自分の気持ちを素直に表現し、明るいビジョンや夢を純粋なエネルギーとして使うことができなかったのです。
私の魂からくる感情に従えば従うほど、受ける傷は深くなり、その痛みも耐えがたいものになるからです。
そして、「ダメでもいいから変わりたくない」というところまで心を閉ざしてしまいました。
心と肉体を繋ぐ根元にあるこの傷を、自ら癒そうと思った瞬間、言葉にならない感情と涙が溢れて、私はどんどん楽になっていきました。
つまらないこだわりや、苦しい記憶や自分自身に対する思い込みを抱えては、私は成功することができないのだろうと思います。
今も、時間が差し迫る中で焦りはあるのですが、それでもまだ自分の魂に寄り添う時間は必要だと思います。
何が一番大事なのかを考える時、それは神様のご意志であり、自分自身も神様の一人であり、神の力を侮ってうまくやろうとしても、おそらく無理なのでしょう。
私は、おそらく人を愛するために生まれました。
人を素直に愛しながら、矛盾した気持ちを抱えてもいいし、人を憎んでもいいし、傷ついたら痛いと言っていいし、好きだと正直に言ってもいいし、自分を一番大事にしてもいいのです。
その魂の自由を、自分に許せばいいのだと思います。
これから、きっといいことがあるに違いありません。

楽太郎です。
現在、世を浄化する一つの方法として「炙り出し」が行われています。
現象としては事件、スクープ、炎上、暴露などの開示によって、「悪人を人に叩かせる」という構図になっています。
これらは、一見すると良い傾向に思えるかもしれません。
神代に導かれている人は、これらの問題がいかに身近であろうと、たとえ腹立たしくても、まともに受け取って没入するべきではありません。
なぜなら、これは「人が人世で起こしている禍事」であるからです。
俯瞰してみましょう。
ある不祥事があり、その事件の原因は私利私欲や悪徳に溺れた人間が起こす禍事であり、反してそれに自前の正義感を振り翳して怒り、禍事を起こした人間を糾弾する行為もまた禍事です。
この批判者たちは、自分たちが絶対に正しく、間違いなく世直しができていると信じています。
しかし、ある一人の無法者を裁いたところで、世のどの部分が変わったのでしょうか。
この手の不埒な輩が出ないように、いつか本当の意味で世直しができていたら、この禍事のようなことは発生していなかったのではないでしょうか?
私は長年、Twitterをやっていました。
言論を扱うアカウントを運営していたこともあります。経済や政治も社会情勢も、かなり情報を追っていました。
ただ、その活動が実ったという実感はほとんどありません。
SNSをやっていくら正論を吐こうと、いくら共感はされても、その共感が行動に繋がることがほとんどありません。
「大量注文されたパンがキャンセルされたので助けて」みたいな投稿はバズって、パンが無事に売り切れたりもします。
しかし、「マスコミが外国のプロバイダを垂れ流ししている」という事実がいくら白日に晒されようと、一体誰が変革的な行動を起こしたのでしょうか。
あまりに複雑すぎるテーマは、どんなに心が動かされようと人間には解決方法すら思いつきません。
あわよくば、その怒りは140文字に収めて「いいね」がついて共感してもらえば、何となく世の中が前に進んだ気持ちになってはいないでしょうか。
この問題への対処方法が、錯覚だったとしたら?
穿った目で見れば、このガス抜きのシステムすら社会秩序を骨抜きにするように働いていた可能性すらあります。
「世直し」だと思ってやっていた言動は、ただ正義感を発散するためのポルノであって、実際は世の中を1ミリも良くしないどころか、「正しいことをしている」と錯覚している分、世の中を退化させてはいなかったでしょうか。
そして、この叩き合い、潰し合いの世直し行動は、私からすれば「共食い」にしか見えていません。
私がTwitterをやめたのは、Twitterの世界はTwitterの中だけの世界であり、それ以外の数多の世界や数々の現象とは無関係であり続けると確信したからです。
SNSが世の中を変えるきっかけになりはしても、SNSで世の中を変えているわけではないのです。
その微妙なズレがあまりに認識しにくいからこそ、炎上が世直しの一環であるとまだ人々は勘違いをし続けています。
では、本当の意味での世直しとは何かと言えば、「人々の意識変化」に他なりません。
法制化や基盤づくりは、人間の良心の底が割れているから必要になるものです。
昔の日本を思い出して欲しいのですが、家に鍵をかけずに外出したり、野菜の無人販売所に監視カメラがないのは当たり前でした。
「バレなければ何をしてもいい」という浅ましさが、この国や世界をここまで腐敗させたのではないでしょうか。
だからこそ、本当に必要なのは人間が良心を取り戻すということです。
しかし、「良心」は自制心や理性や思いやりとセットなので、欲望を優先することができません。
良心があれば、好き勝手できないのです。ただ、自分中心に「好き勝手やろう」と思ううちは、本当に良心が備わっているとは言えないでしょう。
人間が行うべきなのは、厳罰化でも全監視でもなく、人間本来の倫理観を取り戻すことです。
それは怒りや義憤から生まれるものではありません。
人間が自らを正しいと思えるのは、自らが正しいと思い上がっているからです。
自分は間違っているかもしれない、実は迷惑をかけているかもしれない、そもそも煽動されているだけかもしれない、など。
そういった可能性がありながら、疑念を自らに向けられない理由があるとしたら、「謙虚さ」というバランス感覚を失っているからではないでしょうか。
「自分には他者を蹂躙しても、得する権利がある」と考えた人間が行う謀略で、この世界は狂ってしまいました。
しかし、その横暴はこれまでの世で可能だっただけで、お天道様から許されているわけではありません。
人も神も、それについて厳格なルールを作らずにやってきたのは、「謙虚さ」というバランスで秩序を維持してきたからです。
その謙虚さこそ良心の源であり、自分が生み出された、助けられている、生かされている、という「小さきもの」である当たり前の自己認識があるからこそ、謙虚さは人間に本来備わる感覚です。
しかし、その謙虚さを忘れ「法に触れなければ何をやってもいい」という考えに行き着いた時、人間は無限に富と権力を求め、神同然の振る舞いをすることを理想としてしまいました。
そして現在、ここまで膨張した利権を壊す力は人間界にはありません。
私たちは、神様が存在するか、神代が来るかどうかに思いを馳せる以前に、このままの人間中心の文明では遅かれ早かれ、干上がって滅びるはずです。
その人類を救うには神様のお力が必要なのは言うまでもありませんが、最も求められるのは人間の「意識変化」です。
人間の意識変化は現状、難しいことです。
それについて神様も思い悩み、いくら警告しても人間の心にはそれほど届かないようです。
それでも、地球が変化への意志で新しい姿への移行を続ける限り、その上で生きている人間は変わらざるを得ません。
それがわかるまで、人類はどんな形であれ「思い知らされ続ける」のでしょう。
それは一見、悲惨に見えるかもしれません。
ただ、人々が一滴の涙も惜しいと思うならば、今この瞬間から考え直すこと以外にありません。

楽太郎です。
神様とのご縁が深まっていくにつれ、街の雰囲気と私の視界の感覚がどんどんズレていっているように感じます。
おそらく、人類の霊的二極化によりポジティブな世界、神代に繋がる道を選んだ人々は、世界の美しさと荒んでいく現状とのギャップに驚いているはずです。
私は実は秋分を越えたあたりで、すでに視界に変化が出始めていました。
景色がプリズムがかってキラキラ見えるのは、目がおかしくなったのだと思っていました。
その頃あたりから、空が異様に近いと感じて、街が特撮映画のミニチュアのように見え始めました。
幸せそうな人たちを見るとなぜか嬉し涙が出て、頭にある理解を超えた心の変化に戸惑いました。
今思えば、その頃には神代に行くための準備が始まっており、もうすでに私には次の世界が見えていたのだと思います。
私の魂は、もう次の地球に渡っていると感じています。
しかし、それは第六感としては実感できても、何の根拠もありません。現実的には何にも変わってないですし、「思い込みだ」と言われたら、反論できないかもしれません。
けれども、この不確かさを信じられるかが、神様のいる世界へ渡れるかの「試練」そのものだと思います。
人間たちの世界を選んだ人々は、この「目には見えないものがある」ということが理解できないからこそ、古い時代に居残ったのでしょう。
神代に渡る人たちは、「目には見えない」不確かなものを感じ、それを信じて行動できるからこそ、物質中心の世界を捨てて新しい世界を選択できたのだと思います。
おそらく、神様は「目に見えない」からこそ、それを利用して私たち人間を試されます。
仮に、誰にも神様が目に見えてはっきり声が聞こえるとしたら、人間は神様に頼りきり神様の言うことだけを聞くでしょう。
それでは人間にとって、魂の成長にはならないはずです。
神様はあえているかいないか微妙なポジションに立ち、人間が自分たちを本当に敬えるのかを常に試されるのだと思います。
ですから、神の存在が不確かだからと言って、その自信のなさから神様を諦め、元いた場所に引き返すべきではありません。
これまでの人間社会にいれば、いずれ文明が存続しようがしまいが、私たちが生きていける世の中ではなくなるはずです。
この悪意に塗れた世界で安寧を得ることに賭けるより、神様のいる新しい世界に希望を求める方が、本当の意味で前向きなことではないでしょうか。
その上で、自分が神様のご加護が受けられているか、そもそも神様のいる世界に導かれているのか、不安な方もおられると思います。
私も、その気持ちは痛いほどわかります。
確かなものは自分の中に求めるしかなく、その確信すら錯覚の可能性もあるからです。
ただ、私たちがなぜ神代を目指すかと言えば、自分だけが救われるためではないはずです。
神様に選ばれた、選ばれないという選択が気になるのは、まだ自分だけが助かりたいと思っているからです。
しかし、神代は神様や神様を慕う人々と協調しながら新しい世界を作っていく時代なので、有り合わせの天国に辿り着けるわけではありません。
神代に渡ることは、神様と一緒にどんな世界を作るのかを考えるということです。
そこで人類が搾取や不平等から解放され、各々が尊重される自由な社会に至るにはどうしたらいいか、神様と同じ目線で神様のために働き、神様が喜ぶ世界を作るにはどうしたらいいか、それを考え行動するからこそ、私たちは神様のお導きを得られます。
従って、自分が神様に選ばれているかどうかは関係なく、結果的に人々が救われ、神様が喜ぶ世界を実現することが神代の道であるはずです。
神様と人間が平和に暮らす世界が、この地球にいずれ完成すれば良いのであって、それは自らの思想と行動の積み重ねで実現しうるものです。
だからこそ、「自分は神様に選ばれていない」不安はあっても、神代のために行動することができれば、誰しもが神代に至れるのだと思います。
なぜなら、人間と神様が喜ぶ世界をイメージする力こそ「神代」そのものであり、問題はそれに対して人智を尽くせるかだけだと思います。
私たちは、もはや世界の行く末や自分の行く道すらも自分たちで決められる瞬間にいます。
だから迷わず、自らの信じる世界を作るために、勇気を持って前に進んで行きましょう。
神様は、おそらくその行動を起こせる人に加護を与えて下さるはずです。

楽太郎です。
今回は、私自身の話をしたいと思います。
私はクリエイティブ関連の仕事をしています。
とは言え、名乗っても誰も知らないでしょう。
これまで数年、下請けの仕事ばかりをしてきました。名前がクレジットされる大きな仕事はほとんどありません。
多くの人々からは、クリエイティブの世界は花形に見えるかもしれませんが、実際はどこにでもある弱肉強食の世界です。
基本的に人々は無条件に無関心ですし、作品を作ったとて見向きもされず、相手にされません。
しかし、人に注目されるセオリーというのもあって、それはこの業界を生き抜くハックのようなものです。
そのハックというのは、「多くの人に知られ、すでに人気のものに乗る」ということです。
これは人気作家の登竜門として、鉄壁のマニュアルのようなものです。
誰もが当たり前のように採用する処世術なので、このセオリーから外れた途端、大勢の視界に入らなくなります。
ここで、もう少し遡って話をします。
私はこれまで、何度か就職を経験しました。
どこも組織の体質に合わず、ストレスで体調がおかしくなったりメンタルがやられて、この社会で労働することの難しさを常に抱えていました。
だからこそ、自分に合った仕事をしようと一念発起し、努力を重ねてそれなりに実力をつけ、ずっとやりたかったクリエイティブの業界に足を踏み入れました。
けれども、自分で稼ぎに行くのは至難の業で、比較的安牌なのは下請け業務です。
クライアントからの理不尽とも言える要求に従い、他人のアイデアに仕方なく乗っかり、したい表現を曲げてでも要求通りのものを作らなければなりません。
"私は自由を求めて、やりたいことを仕事にしたくてこの道を選んだのに、なぜサラリーマンと同じ働き方をしているのだろう?"
3年前のある時期、それに深く疑問が湧いて「自分が本当は何がしたいのが、それをしてどうやって生きていくのか」という問いと向き合う時間が始まりました。
それは、本当に修行としか言いようのない日々でした。
「自分が表現したいこと」と「人のためになること」の狭間でのスタンスの問題は、作家、芸術家などのクリエイターにとって永遠のテーマです。
自分がやりたいことは、人様の得になることがほとんどありません。
結局、人様の要求に叶えることで感謝をもらい、初めて対価を得られるので、表現は必ずしも人のためになるものではないのです。
人様や世間の求めるものと自分の求める表現の世界の不一致に苦しみながら、何とか歩み寄ろうと最新のテイストを取り込み、最先端の技術を磨き、自分なりに切磋琢磨しても、どうしても譲れない部分がありました。
それは、「自分の考える正攻法を貫く」ということです。
私はこの業界を長年見てきたからこそ、ハックまみれの現実を知っています。
皆が当然のように近道や裏口を通っていくのを、「それが本当は賢いのだろう」と内心思いながら、どうしてもそれをやりたくなかったのです。
「皆のようにやればうまくいく」
それは本当に痛いほどわかるのですが、なぜか魂がそれを拒むのです。
私は承認されたいしお金も人気も欲しい。でもなぜかそのやり方に違和感がある。だからどうしてもできない。
それ以外の方法を取ろうとしてやった試行錯誤は、そのどれもが大してうまくいかないものばかりでした。
ただ自分がやりたくないやり方では、いずれ成功しても絶対に満たされない予感があるから、どんなに苦しくてもその方法を取らず、自分の才能と技術をひたすら磨き、方法を模索してきました。
今は、それが間違いではなかったかもしれない、と思います。
これまでの人間社会では、私はどうやってもうまくいかない宿命だったと感じることもあります。
自分に正直にやってうまくいくことはごく僅かです。
真心だけでは商売にはなりません。
けれども、今は神様から「そうしろ」と言われています。
なぜかはわかりません。本当にそれで良いとは私も思いません。
けれども、神様はそうして欲しいと願っている、なぜかそのことだけをひしひしと感じるのです。
これまでの創作の世界は、お金を中心とした人の心が支配していました。
だから近代の美術も映画も小説も漫画も、お金を集めなければ制作する根拠にすらなり得なかったのです。
けれども、「表現したい」と思うのであれば、素直に表現すればいいだけです。
それは子供たちにとって、お絵かきが娯楽であるように、表現そのものが人間にとっての喜びだからです。
あらゆる表現が、対価を得ることが前提となっているからこそ、クリエイターも見る側も、すでにある経済の形をなぞるのが当然になっています。
それは芸術本来の表現の多様性や、思想の発露を脇に追いやっているのかもしれません。
神様は、人々にもっと自由に表現を行い、その多彩な才能を広げて欲しいと思われているはずです。
もしこれから、純粋に才能の集まるところに人もお金も集まるシステムになるならば、商業的成功や収益性は第一目標からは外れるでしょう。
そうなれば、誰しもが無邪気に「創作すること、表現すること」そのものを喜びとすることができるようになります。
これからの時代のクリエイティブは、これらの商業と評価経済のくびきから解放され、作り手が喜び、受け手が喜ぶ互恵関係に戻っていくべきなのだと思います。
そこにはフラットで自由な創作の世界が広がっているはずです。
神様は私に対して頑固に、どんな障害にぶち当たろうと、その覚悟を貫くことを求められているように感じます。
私には、神様が私に対してそれ以外の道を選ばせないようにしているように思えてなりません。
だから私は私の喜ぶ表現を求め、それで人が幸せになる方法を探す、これがこの道の答えなのだろうと思います。

楽太郎です。
世の中がより騒然となってきました。
「あの人が」みたいなことはどんどん増えてますし、ひどい人はテコでも動かないんだろうな、と言うような不快なニュースに溢れています。
しかし、神様と共にある人たちほど達観しており、ある意味で暗い共感はしていないかもしれません。
今は膿出し、炙り出しの時期です。
神様と繋がっていれば、その意図は明白なはずです。だからこそ、目の前の事象に一喜一憂することはほぼないでしょう。
この心理的反応は、人間の二極化の一部にすぎません。
古い世界を選んだ人たちは、目の前に起こる良くない事象が、永遠に自分たちに降りかかると思っているので、その恐怖や怒りは高まる一方でしょう。
ちょっと世の中が良くなる兆しを見せれば、ちょっとずつ事象が良い方向にひっくり返り、じわじわ世の中が良くなってまた昔のような賑やかな時代が来ると思っています。
しかし、絶対にそうはなりません。
これから起こる崩壊は、かつての楽しい時代にあった人、組織や国家がそっくり無くなる世界になるからです。
最近、シリアの独裁政権が倒れました。
ロシア侵攻に対する影響はあるでしょう。アメリカの経済も長くは持ちません。そして、日本が国体を維持できるのも危うい状況になっていくでしょう。
この変化は、神様が介在せずとも実証できるものです。
古き良き時代を再現できないことは、必ず違う形の時代になるということです。
こんな当たり前のことでも、多くの人々は本気でそうなると思っていません。
世界を取り巻く悪意が自分たちの骨の髄まで染み込み、遺伝子レベルで搾取をしていたとしても、何となく楽しく生きられた時代に戻りたいのです。
「変わりたくない」という人々の集合的無意識は旧世界に対する求心力となり、巨大な邪気となって新しい生き方に変わろうとする人々を惑わします。
その意識は無神論の延長にあります。
この世には人間が目で見て、データが取れるものしか存在しないと信じているからこそ、新しい世界が来ることを想像できません。
ここで人間本来の性質に立ち返り、大勢の人に背を向けてでもあるがままの「魂」選んだのが、神代をつくる人々です。
神様に近い人たちほど、もはや人間たちが自力でこの世界を良くすることができるレベルではないと感じているはずです。
国家の代表ですら思い通りに権限を発動できないのですから、今の人間のシステムでの改革は構造的に不可能です。
人間たちは、自分たちの理想で地獄を作り出してしまいました。
そして、多くの人が変革ではなく地獄が緩和してくれることを願っています。
この溝はどうしようもありません。
だからこそ、私たちは神様を信じる以外に道がないのです。
自分の感覚に素直に立ち返ってみましょう。
自分を中心にものを見てみると、世界がキラキラして優しい世界に見えていないでしょうか。
私は今年の秋分あたりから、見える景色がプリズムがかって見えるようになり、空や自然があまりに美しく、見惚れるようになりました。
あれだけ煩わしかった人間もいい部分が見えるようになり、イラつくような性質や、人間の未熟さすら愛しいと感じ始めました。
「神様がいる」と思える世界には、安心しかありません。
本当に人の上に存在するのは神様であり、神様は人間を慮り、困った時には力を貸してくださいます。
良くないことが起こるのは兆候に過ぎず、困難は自分が成長してより良くなるための課題です。
それが「神様の作った生命のマニュアル」であり、そのシンプルなルールを守っていれば、人は誰しも幸福な生き方ができるのです。
それを人の力で具現化したのが「神代」であり、神代によって本当に誰もが自由な社会が作られます。
私たち人類が存続するためには、神様の道を選び神代をつくる事業に参加する他ありません。
世の中は、これからどんどん暗く澱み、病んだ人間が起こす大惨事を数えきれないほど経験するはずです。
しかし、神様が近くにいる私たちには加護があり、難事は神様のご意志だと予めわかっているので、大して動揺もしないはずです。
世の中に起こることが救済のための通過点であると知っている私たちは、世相に一喜一憂せず、一度全てが壊れ、新しく作り直される時を待つだけです。
ですから、今は目の前のことに執着する必要はありません。
今目の前にあるものは壊れるかもしれないし、壊れないかもしれない。
そこに絶対が存在しない以上、そのことを気にしてもしょうがないのです。
そのことを魂のレベルで理解している神様サイドの人々は、これからも平穏に暮らせることでしょう。
荒れ狂う世の中に感情移入せず、私たちは静観すべき時にいます。

楽太郎です。
世間では邪気がすごいことになっています。
私はコンビニやスーパーに行くと気分が悪くなりやすいので、人の集まるところに行くのは必要最小限にしています。
邪気による影響を受けるのは、特に私自身のエネルギー循環が悪い時なので、常にチャクラを乱さないための心掛けをしています。
あとは、神様とのご縁を意図して育もうとすることです。特に今は自然界のエネルギーが変動しているので、何らかの加護がなければ生活に支障が出るレベルです。
私は所属意識の問題から第3チャクラが乱れやすかったのですが、「神様の集団」に意識を置くことでエネルギーが整いやすくなりました。
「自分を人間と思い、人間にために行動する」原理から、「自らの神に気づき、神様のために行動する」考え方に意識を移すことで、所属意識が変わりました。
この変化こそ、私の人格における「最後のピース」だったとわかりました。
このピースとは、「神を信じ、神と繋がっている自分の感覚を信じる」ということです。
振り返れば、私の半生は紆余曲折でした。
長い間、自分探しをしてましたし、色々な挑戦もしましたし、様々な勉強をしてきました。
しかしその道程は、外にある真実や答えを探す旅であり、いくら膨大な知識や情報と出会っても、自分自身を確立させるようなマスターピースを手に入れることはできませんでした。
それどころか、信じていた情報が嘘だったり、搾取的システムに誤魔化されているだけだったり、その仕組みが捲れ、時間と共に確かさも削り取られていくのをいくつも目の当たりにしました。
そして気づいたのは、「真実を外に求めることはできない」ということです。
肩書きのある誰かが言っていた、信頼するその人がやっていた、仮にその他者が自分の信じた通りの人でないとわかれば、その知識は疑わしいものにならざるを得ません。
外側にあるものがブレたら、それを取り入れた自分の内側がブレてしまいます。
だから、本当に心に芯を持つには、確信を100%自分の内側に求める以外にありません。
私にとって、この欠けた部分に必要なのは、「神」でした。
それは名前のある特定の神ではなく、八百万として感じる漠然とした超常的存在であり、概念そのものとしての神です。
この神は、少なくとも私には見えたり聞こえたりするわけではありません。
ただエネルギーとして感じますし、そのエネルギーからインスピレーションやメッセージを受け取ることができます。
この感覚は、自分の内側に求める以外にありません。神様がいるのかいないのか、神様を信じられるのか、という問題も、全て自分の心の中で起こります。
神を信じる時、同時に信じているのは私自身の感覚であり、魂です。
つまり、自分自身を信じるからこそ神様を信じられるのです。
これが私にとって、深い部分にある自信のなさ、何となく欠けていると感じる部分を、ぴったり埋め合わせるものだとわかりました。
おそらく大抵の人が、心に「信仰」を置くべき場所に、お金や名誉や、異性や家族など、何らかのコンテンツを置いてしまっています。
現代人はそれが当たり前で、欠如感を埋め合わせるにはある程度楽しくもあり刺激的で、何の疑問も感じない人も多いでしょう。
しかし、そうして依存できるものは誰かが作ったものであり、いずれ古くなり、壊れるか終わる時が必ず来ます。
そうなった時に、現代人は心の拠り所を探すためにまた別のコンテンツを探す旅に出ます。
ただ、そこに「真の信仰」を置けば、そんな長い回り道をする必要がありません。
最終的に、自分を信じ神様を信じることで漠然とした不安は薄まり、神様のメッセージを受け取るならば、余計な心配を増やすこともありません。
「神を信じる」ことは、己の感覚を信じることなので、しっかり自分自身を見つめ、より真っ直ぐに生きる覚悟が必要です。
それは現代人には難しいことでしょうが、この道が見えていなければコンテンツの穴を別のコンテンツで埋め合わせる、という悪循環が延々と続いてしまいます。
今、この能力が多くの人々に求められています。
これがわかれば本当に楽になれるのですが、ここに気づくには捨てるべきものが多いはずです。
しかし、この課題をどうにかしなければ、誰もが神代に渡ることはできません。

楽太郎です。
今朝もまた、集合意識的な夢を見ました。
私が見る夢は、象徴的なほんわかした夢はほとんどなくて、別の現実の世界で行動するようなリアルな夢ばかりです。
私は他人に対してあまり興味はなく、極端に言えば一人でも全く違和感なく生活できるタイプです。
それでもなぜ人間の集合意識に近いところにまだ意識を置いているのかと言えば、私が一介のクリエイターであり、心の深い部分で人間のために創作をしているからです。
心の奥では、やはり「人々が変わって欲しい」と思っているし、「救われて欲しい」とも「私に共感して欲しい」とも思っています。
しかし、それが叶わないことはわかっています。
私にとって創作とは、祈りそのものです。
人々が私を歓迎しないのも知っています。
私に対して、人々は反感や無関心を向けますし、無意識では神代なんて作って欲しくないと思っています。
しかも集まって邪気を私に向け、まとわりつきます。
私は彼らを忌避するように神様が促しているのは知っていますが、それでも何となく憎みきれないのです。
彼らの本心は「変化への恐怖」です。
変わりたくないからこそ、同類で集まって強がり、閉じた世界を作り出して籠もろうとするのです。
遊び暮らしている大富豪も、政府に繋がる大企業のCEOも、例え思い通りのことができても、神代を止めるためにできるのは、せいぜい邪気を飛ばすか、利権を振り翳すことくらいです。
その攻撃を受け続けた私にとって、人間が何億と集まってこの程度の霊障しか及ぼせないのも不思議ですが、神様のお力とは比較にならぬほど微々たるものに違いありません。
私は表現者として、人のために創作してきましたし、おそらくこれからも人々のために創作をしていくことでしょう。
私がいくら人々から疎まれる存在であろうと、共感する人に自らの表現を届けるのが私の使命です。
時々、これほど邪険に扱われながら、なぜ自分は人間のために尽くそうとしているのか、疑問に思う時があります。
神代を作るために「人の役に立つ」ことが、古い時代の慣習やシステムを使い回し、古い人々の価値観に合わせていることに葛藤がありました。
それは結局、古い時代を引き伸ばしかねないのでは?と思う部分もあったからです。
ただ、私たちに与えられた「お役目」は、神様によってオーダーされたものであることを忘れてはいけません。
それは決して人間社会を救うためのものではなく、神様のために行うことでもあります。
神様と神代を作るということは、「神様にとって住み心地のよい世界」を作るということです。
ですから、私たちが人間の方だけを向いてお役目を果たすのは、そもそも筋が違うのです。
何かをしてあげる対象が人間だったとしても、その行為を願っているのは神様だからです。
私たち神代を作るために動く人々、現人神になる人たちは、神様のために行動し、神様のために神代を作ることを任された者たちです。
だからこそ、私たちは人間が助かるように、導かれるように、何らかの施しをしていくことになるのでしょう。
ただ、それは神様の願いであり、私たちは結果的に神様の願いを叶えることが本当の任務なのです。
それは人間のためであるように見えても、それ以上の意義が存在することを意味します。
そして、神様のために行う一連の実践は、直接的に神代の実現に繋がっていくのだと思います。
「神代」は見えない世界にあるのではなく、外の世界に作り出すものでもなく、私たちの心にある世界が「神代」そのものです。
言ってみれば、私自身、あなた自身が「神代」であり、神代を現すことは、神代を自分自身で体現することです。
それは多くの人々にとって、これからの時代の「手本」となりうるものとなり、手本を見て同じように生きる人が広まれば、そこで神代が広がっていくはずです。
神代は、遠い存在の何かを引っ張り出してくるものではなく、完全無欠の私たちの理想を、神様と一緒に形にしていくだけの作業です。
だから、特に難しいことではありません。
「神様から受けた熱いインスピレーションで行動し、人々を喜ばせ、神様を誰よりも喜ばせる」
そんなシンプルな行動原理で可能なのですから、あとは好き勝手やれば良いだけです。神様はおそらく、その完成を楽しみに見守っておられるでしょう。
「神様と共に生きる世界」は、かつて日本人が森羅万象に神を見て、石や山を崇め、死者を神とし、神社を奉り、仏像を各地に建立し、隣人のように近い関係で持ちつ持たれつあった、かつての時代にあります。
神様に何かをしていただくということは、神様に対して人間も何かをして差し上げることです。
この単純な互恵関係が復活するだけで、今の世は朗らかな世界に変わっていくでしょう。
私たちはお役目を、人間だけのために使っている気持ちでいるのは勿体ないです。
その行為を高いところで見ておられる神様が、より喜ぶことを志せば、私たちの努力も喜ばしいものになっていくに違いありません。
