招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

神代のビジネス

楽太郎です。

先日、3日以上に渡って生じた好転反応によって、私のハートチャクラが開きやすくなった話をしました。

この働きには瀬織津姫様との関係がきっかけにあり、瀬織津姫様は浄化の神様であらせられますので、私の心のトラウマを祓い清め、邪念で見えなくなっていた私自身の心の闇と、心を閉ざすロックと向き合う状況を作っていただけました。

瀬織津姫様は、伊勢神宮で祭祀されている形によれば、天照皇大神様の荒御魂であらせられるそうです。

記紀的な説明をすれば、伊弉諾様が亡くなられた伊奘冉様を思って黄泉の国に下られた際、大勢の亡霊に襲われて黄泉比良坂から逃げ帰り、やれやれと思った伊弉諾様は中の瀬で禊をされました。

その時に八十禍津日神と大禍津日神の二柱が垢から生まれ、同じ禊の最中に三貴子、天照皇大神と素戔嗚、月読の三柱がお生まれになりました。
江戸時代の国学者、本居宣長によると八十禍津日神は瀬織津姫と同一視され、八十禍津日神は天照皇大神の天岩戸隠れをした際に起きた災い、天岩戸開きによる浄化は瀬織津姫の働きによるものだそうです。

つまり、和御魂の天照皇大神、荒御魂の瀬織津姫、八十禍津日神は同一の神格であらせられるということです。

この話をしたのは、私が瀬織津姫様のご加護によって心の浄化が起きた際、私自身の問題が過去の因縁めいた失敗と如実に向き合わざるを得なくなったことは、八十禍津日神様の災い、つまり天岩戸隠れに喩えられるのではないかと思ったからです。

天岩戸が開かれる時、天照皇大神様が姿を現し、私の問題は須く解決に向かうはずです。その浄化の働きを助けて下さっているのが、瀬織津姫様ではないかと私は考えています。

私の心にとっての天照皇大神様の光とは、才能を持って人に愛を与え、幸せにしていくことだと思います。

しかし、私は全く才能の上で今まであまり受け入れられてこなかったというか、開き直って挑戦的なことをしてきたせいもあって、わりと私のキャリアは受難そのものでした。

ただ、この浄化と解放の中で、私が人様から受け入れられないことで心にかけた封印は、愛の表現に向かうことで解かれる、というメッセージを受けているのかもしれません。

今は商売がうまくいかないのは当たり前

今、まさに神代をこれから作っていこうという段階にあって、まだ古い土の時代の社会や経済は、壊れきってはいません。
この崩壊は、まさに八十禍津日神様の起こす災禍のお力であり、崩壊しきらなければ瀬織津姫様の浄化のお仕事も捗らず、天照皇大神様が姿を現すこともままならないでしょう。

その移行期にあって、魂の修行をしている最中の私たちは、古い時代のやり方をある程度続けながら収入を得ています。

それは心苦しいことではありますが、まだ新しい時代の経済の形が見えていませんし、それも今の形が壊れきらないと作ることすら難しいので、手も足も出ないのは仕方のないことです。
正直な話、これからの世は「どこまで壊れるかわからない」ので、下手に挑戦すると取り越し苦労になる可能性もあります。

だから今は、というよりあと数年は、堅牢なビジネスプランを立てるのは難しいかもしれません。
その都度その都度、臨機応変に人に対して必要なものを提供し、あるいは協力して必要なものを作っていく、ということになると思います。

そうであれば、誰もが一旦、自らの働き方や稼ぎ方を見直すことになるのでしょうから、今は手元に何も持たず、何も築き上げることができていなくても、スタートラインに立つのだから不自然なことではない、とも言えます。

「あいつは俺よりうまくやってる」という比較対象も壊れることすらあるのですから、過去の失敗や劣等感を引きずって、「自分にはできない」という思い込みを持ち続ける必要もなくなるということです。

神代のビジネスに必要なもの



神代は、おそらく現在の大投資家や資本家が政治家と共謀し、経済を作るシステムと全く違う形になるでしょうから、企業の権威やネットワークもどこまで信頼性を担保できるのか、本当に未知数です。

その意味で、ビジネスのあり方が根本的に見直されていくはずです。

ただ、大昔から歴史を通して商売は、「欲しいと思う人に自らサービスを提供し、対価を得る」という基本的な構造があるので、結論としては「人の役に立つことをしていれば生きていける」のは変わりありません。

私は下手にうまくやろうと思い、わざと人に迎合することをやってきましたし、かと言ってウケないならと開き直って好き勝手やってきましたが、どちらもうまくいきませんでした。
ただ、それでも世の中を明るくしたいとか、人を幸せな気分にしたいとか、そういう思いはあったつもりです。
問題は、それをダイレクトに人に伝わるような形になっていないことだったかもしれません。

「人の役に立つ」のは単純ですが、その塩梅が難しく、「人の役に立ってない」現実も正しく直視する必要があり、お節介をしていればいいというものでもないのです。
けれども、「人を幸せにしたい、愛を伝えたい」思いからの行為は、おそらくあり余ることはないでしょう。

それが少人数であろうと、例え一人であろうと、仮に自分一人であっても、誰かが自分が行った仕事で救われることの方が、大儲けするよりも大事なことなのかもしれません。

これまでの時代で、稼げない人は役立たずとか、儲けが少ない人は無能とか、そんな目で見られるのも気が引けるので、商売は利益を上げるために何でもするのが常識でした。
ただ、これからはもう少しやり方を選んでいい時代になるのだと思います。

例え大収益を得ずとも回っていく経済になるのなら、最も回るのは思いやりやコミュニケーションのはずです。
その上で人に役に立つ方法は何か、改めて考えてみるには良い機会なのかもしれません。

自分の才能は役に立たないかもしれないとか、そもそも才能なんてないかもしれないという気持ちは一旦置いておいて、それでも自分の好きなことや得意なことで、誰かを笑顔にすることを考えていればいいのだと思います。

今、特に新しいことを頑張って始めなくてもいいのかもしれません。
ただ、「才能を使って人の役に立つ」ことの具体的な方法を、手探りで編み出していく段階なのでしょう。

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森羅万象から学ぶ

楽太郎です。

昨日、氏神様の神社に参拝したおかげでエネルギーが安定し、ぐっすり眠れましたし休めました。

おみくじの内容が嬉しくて、何度も眺めていたのですが、おみくじ番号「9番」も縁起の良い数字みたいです。
「9」は完成や成就を意味するそうです。
これは私自身のゴールを指しているとは思えませんが、ある意味、最後のピースではないかと思っています。

ここ最近、チャクラが乱れて邪気に付き纏われる原因は、私の心にありました。

社会に馴染めず自分を過信して突き進んでいる分にはまあまあ良かったのですが、自分の足りない部分を外の世界に求め、誰かの提示した知識や学問によって、自己の正当性を補強しようとしていました。
けれども、今は真偽が捲られる時代になったので、情報や価値の権威がボロボロと崩れるようになってきました。

そのため、偽物の一部のエッセンスを取り込んだ私の人格や常識は、とても過信できるものではないことに気づいてしまいました。
だからこそ、私の信念や世界観そのものがグラつき始めていたのです。

しかし、この私の心の足りない部分というのは、神様や仏様がおられたら、スッポリちょうど良く収まることに気づきました。
それは、神仏を過信するのではなく、自分の中にいるワケミタマとしての神を信じるということです。

これまで、外の世界に真実を求め、外の世界に目的を定め、外の世界に自分を探していました。
自分の身の回りに起こる現象は唯物論的な因果であり、外の世界の法則で全て説明できると思い込んでいました。

だからこそ、外の世界がグラつけば自分自身もグラついてしまうわけです。

けれども、自分の中に神様を見るということは、自分の魂としての感覚と繋がることであり、身の回りに起こる森羅万象に真の意味を見いだすということです。

今朝、あるお坊さんの説法を動画で拝見したのですが、「仏様は自分の弱い部分に対して、人生を通して試練をお与えになる」というお話をされていました。

つまり、私の「弱い部分」というのは、いつも外に原因を求め、動機づけをし、自分の中に軸を持たず、軸を持たないゆえに己を信じきれない、という部分から全ての課題が提示されていたように思うのです。

それは私が最近特に不安定だったのも、この部分で自信が揺らいでいたことが、現象として現れただけにすぎなかったのではないかと思います。

自分の軸に神様仏様を置くということは、あらゆる身の回りの現象に「これは神様からのどういうメッセージなのか」というのを、絶えず自分に問いかける行為に他なりません。
それは目に見えず、誰も正解を提示してはくれません。自分の感覚と知識が全てであり、その正誤は自分自身の中に求めるしかありません。

それは、あらゆる他責が許されないことを意味します。他者や身の回りの出来事はあらゆる学びを促すために示されることであり、それを通して被る失敗や損失も、学びのために必要なことだったと考えられるからです。

私は、「高い授業料だったなあ」と思うようなこともいくつか経験しましたが、その失敗の大きさも学びの一つなのではないかと思います。
原因を外に求めているうちは、正しく反省することができません。
その原因を自分の中に探し、その意味を知ろうとすることが、神と繋がることなのではないかと思います。

ですから、この考え方を手に入れることが、私の人格における最後のピースだったのではないかと思うのです。
そして、「自分の中に目的を探す」ことは、他者や世の中に対する貢献で果たされることであり、それは決してブレてはいけない部分なのでしょう。

それがはっきりした今だからこそ、私の人生はようやくスタートを切れるんだろうなと感じています。

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神様はいると思う日

楽太郎です。

昨日、とんでもない霊障に遭った話は今朝書きました。
今まで病気をしたことがないわけではないですが、この霊障はちょっと引くくらい凄まじいものでした。

この対処法はある程度行って楽にはなりましたが、今晩は新月なので、昼過ぎにこれだけ調子が悪いと夜はどうなるのか、不安を覚えたら余計に具合が悪くなりました。

そのため、今のエネルギー状態では乗り切れないかもしれないと思い、本来なら神社へのお参りは午前中が望ましいのですが、すぐ氏神様の神社へ行こうと思いました。
私としては、お呼ばれする感覚がなければあえて神社に行かないことの方が多いです。ただ、今日ばかりは本気で助けてくれという気持ちでした。

神様は歓迎してないだろうなと思いながら歩いていたら、4連続青信号、というか神社までの信号機が全てタイミングよく青でした。
こんなことあるのかな?と思ったのですが、すんなり神社に着きました。

本殿に参拝して「邪気に耐えられない。助けてほしいです」とお祈りしました。
しかし、ご神気は感じるのに全く話を聞いていただけてる感じがしませんでした。

道祖神の氏神様にもお願いしたのですが、全く同じ感覚でした。
言ってみれば「いや…もう十分やってるけど…」みたいなニュアンスです。

私は諦めが悪いので、ちょっと境内に居座って神様のご意向をもう少し伺おうと思いました。

境内のベンチでしばらくいたところ、神様のことをふと思い、「おみくじをひいたら何か言ってくれるのではないか」と閃きました。

おみくじを引いて、ベンチに戻って開こうとした瞬間、「神風」としか表現しようのない息吹を感じました。
そこで心して開いたら、この内容でした。







これを見た瞬間、ちょっと泣けてきたというか、神様に心から感謝しました。

私はおみくじを引くと、小吉とか末吉しか見たことないのですが、大吉かどうかよりも「ちゃんと見てるぞ」と言っていただけたようで、すごくありがたかったです。

今回の邪気の原因の一つに、腹部(横隔膜)の過緊張というのがあり、普段と同じ姿勢で同じことをしているのに、どうしてこんな異常を感じるのか疑問でした。

ある人の話では、神代に渡る人々はいわゆる人間界から村八分にされている状態なので、第3チャクラ(所属意識)の乱れが起こるそうです。

確かに、私は今かなり収入面で困っていて、どうやってお金を稼ごうか頭を悩ませていました。
このご時世でお金を稼ぐということは、古い土の時代にある程度は迎合する必要があり、その意識は人間社会へ帰属することを意味します。

しかし、神代を選んだ人々は新しい世のために才能や創造力を発揮しなければならず、大昔のコンテンツや観念をリバイバルして回すような経済と、真逆の方向に向かわなければなりません。
そのため、私としてはずっとジレンマを抱えていました。
今の経済の流れがまだ古い時代にあるのに、私たちの才能は次の時代のために行使されなければならないからです。

ただ、今日神社にお参りして自宅につく頃、空に天使の梯子(薄明光線)がかかっているのを見て、「お前はもうこっちに来い」と言われているのだと思いました。

第3チャクラの乱れは所属意識なので、神様の中に身を置けば、確かにその欠如感は埋まるはずです。

少し前に、今この状況でどうやって稼ごうか途方に暮れていた時、「人心に向かっていくからうまくいかない。人を引き寄せる側に回ればいい」というアイデアがふっと浮かんで、納得はしたのですがその真意はよくわかりませんでした。
今になって、何となくどういうことかわかりました。

時代の主導権は、すでに神様と神代の人々にあるので、わざわざツキに見放された人の世からお金をもらう必要がないのです。
自分なりの才能で人に尽くせば、その功徳は神様が貯金して、いつかお駄賃として与えてくれる仕組みなのかもしれません。
ただ、その仕組みは目には見えないので、本気で神様を信じているか、本当に人の役に立っているのか、が問われるのだと思います。

「でもお金ないんだからしょうがないじゃん」とは頭の片隅で思う部分もあるのですが、神様なら考えていてくれるだろう、と思うのも信心の一部というか、今は神様の方だけを見ていれば間違いはないのかもしれません。

とにかく、なんか勇気が出ました。神様に感謝しています。

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霊障との付き合い方

楽太郎です。

9月30日の午後から深夜にかけて、異常な邪気に襲われました。
体感としては、悪霊です。

あまりの体調変化にびっくりして、しかも不調のレベルが桁違いなので動揺しました。
その原因を考えれば考えるほど、混乱してしまいました。

その日は氏神様の神社に行った日だったので、パワーをもらいに行ったつもりが、変なものを連れてきてしまったのかと思いました。はたまた、道中で拾ってきてしまったのか。
あるいは、元々自分に憑依していたものが出てきたのか、身近な人から受けているものなのか。
それとも、人間の集合的無意識が悪霊化して襲ってきているのか。
あらゆる可能性がありすぎて、犯人探しを始めてパニックに近い状態になりました。

それでも一日の仕事はしなければならないので、冷や汗をダラダラ流しながら、何とかやり終えてから寝ました。
その夜は緊張して3時間で中途覚醒しました。
ただ悪夢を見たという実感はなく、どこかの観光地に遊びに行く呑気な夢を見ました。

そして今朝になり、改めて冷静に内観してみました。そしてこれは、やはり邪気というより憑依であると確信しました。

霊障は意識するほど術中にハマる


これまで何度か霊障に陥ったことはあるのですが、霊感が上がった今の状態から振り返ってみると、気づかないうちに霊障による体調不良とずっと付き合ってきたんだな、と思います。

私は基本的に健康体なので、この不調は更年期障害とか自律神経失調症あたりなんだろうなと、わりとセルフケアで何とかしようとしてきました。
ただ、それでもどうしようもない不調もあって、我慢してやってきたのですが、今思えばこれも霊障だったかもしれません。

私はネット越しとはいえ、人気商売をしている面もありますから、念を受ける環境と言えばそうです。
創作をする上で、人間の集合意識と近い場所にメンタルを置いているのもあるかもしれません。

どうやら霊媒体質のようなのですが、そういった性質を特に深刻に考えたことがありませんでした。
だからほぼ無防備の状態でこのアタックを受けて、本当に混乱したわけです。

今、冷静に考えてみると、この「悪霊に取り憑かれた!霊障で苦しい!何とかしないと!」と動揺すること自体が、悪霊にとっては意図したものだったのかもしれません。
混乱するあまり、妙な悪霊退散の儀式をしたり、様々やスピリチュアルな情報を漁ったりして、ますます状況を拗らせてしまえば、憑依霊の思う壷なのではないでしょうか。

でも、逆に考えると悪霊にとって困ることと言えば、「相手にされない」そのことに尽きるのではないでしょうか。
悪霊と言えど、人間の意識に干渉するにはエネルギーを消費するはずです。いくらエネルギー体であろうと、取り越し苦労はできるならしたくないはずです。
だからこそ、こうやって憑依を感じた時は、いくら吐き気や不調が著しく出ようと、平常心で跳ね除けるくらいの気持ちでいた方がいいのかもしれません。

対立軸で問題を解決しようとしない


今回、私が混乱したのは「苦しい!原因が何かあるはず、だから何とかしよう!」という考えからでした。
私には生まれつきの因縁があるようで、そういった原因を考えると実は一つには絞れません。
いくつもあるからこそ、最も可能性の高い原因をあれこれ考えたり、誰が悪いのかをぐちゃぐちゃ考えたりしていました。
そうすればするほど、どんどん具合が悪くなっていきました。身の回りの信頼する人まで疑い出した途端、自分が「まともじゃない」状態に気づき、改めて冷静になろうと思いました。

おそらく悪霊は、こうして疑心暗鬼になり、対人関係を悪くしたり、不用意な発言をさせたりして、憑依した人間を悪い方に引き摺り込もうとするのでしょう。
私はそれが悪霊にとってのハックなんだなと思ったので、「じゃあ気にしないほうがいいな」と割りきり、不調をカバーすることだけを考えるようにしました。

あと、これは霊的世界のことなので、神様のご加護にお任せすることにしました。
神道のお祓いで「祓いたまえ、清めたまえ」とありますが、祓いとは神仏との信頼関係によって助けていただくこと、清めとは自分自身が清廉潔白であり成長しようと努力することを指すそうです。
私は特に最近、天照大神様や瀬織津姫様とのご縁を感じるので、神様のお名前を唱えて加護を祈願しました。

結論から言えば、これで霊障はだいぶカットされました。
あと、私にも気の緩みがあったんだろうと思います。慢性的に気は枯れてますし、邪気を呼びやすい状態です。
それでも、「気の壁」を作って邪気邪霊の侵入を防御するやり方を覚えました。

私にこれほどの混乱をもたらすのは、かなり強い霊だった可能性があります。特に手口が知能的で、うっかり落ちるところでした。
なぜ、今この時期に唐突な霊障が起こるのかと考えると、まあそれも心あたりがありすぎるので、あえて考えないようにします。

最後に一つ書こうと思います。
全ての物事が拗れる理由の一つに、「対立構造」があります。
自分が被害を受けた、だから対応しよう、問題を取り除こう、と考えて動くのは自然なように感じますが、対抗意識を持つことで問題を深刻化しやすくなることも留意せねばなりません。

それが見えないものであろうと、何かしらの意図があって干渉してきます。
下手に同情しようとするのは危険ですし、彼らを助けるということは彼らの願いを叶えることではありません。
ただし、誰しもが互いが尊重され、平和な分け隔てない幸せが理想であり、その答えに意識を持っていくことが全ての問題に対する出口のように思えてなりません。
だからこそ、あらゆる問題に対する対応は、掘り下げることだけではないのだと思います。

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神代へのモチベーション

楽太郎です。

ようやく魂の好転反応が治りました。
その好転反応が終わる瞬間もハッキリわかって、気がついたら信じられないくらい楽になってました。

一晩開けてみたら、第4チャクラ、いわゆるハートチャクラが開きやすくなってました。
感覚としては、トラウマが浄化されたのかな、と思っています。

私が心のエネルギーをあまり使えなかった理由は、心を曝け出して生きると、生傷が絶えなかったからだと思います。
心が傷つきやすいからこそ、キュッと閉じるしかありませんでした。
正直な思いを伝える、嫌なことは嫌だとはっきり言う、おかしいことはおかしいと言う、好きなことだけをずっと続ける。
そうすればするほど、人から拒否されたり攻撃を受けてきました。それが正しいか間違っているかはともかく、いつも自分にとって不利な状況になっていきました。自分が損をしないためには、いつも大きいほう、強いほうに合わせるしかありませんでした。

人のことを考えれば、相手が自分のことしか考えない動きを予測しなければならない。
さりとて、自分が得するためには自分を騙してでも勝ち取る必要がある。
そういう生き方は、私の心を削っていき、だんだん心を閉ざしていったのだと思います。

ただ、そうやって溜め込んだ不満や後悔、心の傷は人として成長するための糧となり、今では「自分のような窮屈な思いを誰かにさせたくない」という思いに変わりました。
そう思うからこそ、今では神様と一緒に弥栄の世を作ろうとしています。

世の中には、心を正直に表に出せず、陰で苦しんでいる人はたくさんいます。
例え笑顔に見えても、無理している人たちもたくさんいるでしょう。
でも、しんどいとかやめたいとか、そういった本音が言えない環境で自分の本心と向き合えば、生きてはいけない気持ちになってしまうかもしれません。
だからこそ、心を閉ざしてしまう人がどんどん増えてしまうのだと思います。
そういう人たちが救われるためにも「本音で生きられる世の中」を作る必要があるのではないでしょうか。

今の日本人が努力を嫌いになったのは、努力が報われないとか社会のシステム以前に、「したくない努力を強制する世の中」になっていたからだと思います。
夢を叶えたり、成功するために自分が成長するプロセスは、表現するなら「努力」以外の何物でもないはずです。
しかし、その努力に「苦行」というイメージがついてしまったために、できる限り努力というコストをかけず、スマートに成功したりお金儲けするハックが、クールだと思う風潮になってしまったのではないでしょうか。

そうやってプロセスを軽視して実利を求めれば、他人から奪うとか騙すとか力を使うとか、そういうことになってしまうのだと思います。
やはり、人が自分の心と向き合い、自分は何がしたいのか、自分はどう思うのか、それと向き合わない以上は、「誰かに何かをやらされる人生」になってしまいます。
その被害者的な感覚は他責思考に向かい、他人や世の中に対する反感を募らせ、その悲しみや怒りをパワーにして生きるようになってしまうのかもしれません。

私は、そういう彼らに対して一概に責める気も、哀れに思う気もありませんが、こういった不幸を繰り返さないように、新しい世界は魂の自由が開かれた世の中でなければならないと考えています。


これから2025年、何が起こるかわからない時期に入り、日月神示でいう「大峠」が訪れます。
私は正直、このために長い間準備してきたのでワクワクしていますが、大人たちはともかく、子供たちが巻き込まれていくのが一番忍びないです。
しかし、その子供たちの不安が一日でも早く取り除かれ、救われる子たちを一人でも増やす、それはこれから神代をつくる私たちの腕にかかっています。

だからこそ、私は努力や勉強を怠らず、少しでも力をつけていくことが大切だと思っています。
少なくとも、私のモチベーションはそこにあります。

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不調を引き起こす「邪気」の正体

楽太郎です。

今、私はいわゆる「アセンション反応」「好転反応」と呼ばれる不調が4日目に突入し、座っているのも辛い状況が続いています。

この魂の成長期は、一旦サナギのような状態になります。サナギは、自分の変化に全エネルギーを向けるため、外部からは無防備になります。
この時、私たちは同時に社会生活も送らなければいけないため、必然的にエネルギー不足=気枯れの状態になってしまいます。
気枯れの状態は、特に邪気に狙われやすい現人神(を志す)方たちに対し、著しい不調を引き起こします。
なぜ邪気が私たちを襲うのか、考察は後に述べますが、不調の対処法については以前書いた記事「現人神の身体について」が参考になるかと思います。

この不調をきたす流れは、残念ながら当面続くと思われます。現人神を志す方々にとって、辛い時期が続くかもしれません。
2024年の節分あたりから始まった地球的なエネルギー変動は、夏至、秋分あたりで大転換しながら、このまま冬至でクライマックスを迎えると思われます。

時々の転換ポイントのエネルギーの変動も凄まじかったのですが、個人的には9月27日、10月3日、10月17日、11月16日、このあたりはとにかく体調が異常でした。月の満ち欠けや暦がトリガーになっているようで、ある程度の法則性は見受けられます。
今も激しいエネルギー変動が起こっており、明日の体調も予想できない状態が続きますが、私たちにできるのは現状を知り、対策を練ることだけです。

私たちを襲う「邪気」の種類


私は、この邪気の正体について言及しようとするたび、何かしらの圧力がかかる感覚がありました。
突然文字を打つ手が痺れたり、急に体調が悪くなったり、何かの弾みでデータが飛んだり、偶然では片付けられない確率で遂行が中断されました。

当初は、魂が神代に渡れば完全に邪気の影響はなくなると思い込んでいました。
確かに、空間的な邪気によるダメージは現在、かなり軽減されています。ですが、前述した気枯れから受ける邪気は、ますます強くなっています。
その邪気は何を意味しているのか、この数日で私が内観して得られたことをここに書こうと思います。

とあるきっかけから、私は強制的にアセンション状態に入りました。これは、魂の成長という意味です。
この魂の成長期は、基本的に無気力になったり、愁訴感や頭痛などを引き起こし、精神的にもネガティブになる状態です。
邪気は、このエネルギーの低下した状態に入り込んできます。
とは言っても、この邪気は悪魔的存在が意図して狙い撃ちしてくるものではないと思ってます。
この原因はおそらく、私たち個人の「弱い心」です。私たちの心の一部に集合的無意識があると考えれば、邪気はこの集合的無意識から入り込んでくるのです。

邪気の種類には3種類あるように思います。

一つは、「具現化した邪気」です。
具体的に、身の回りにいる嫌な人、迷惑な人、攻撃的、搾取的な人、そういった邪念で動く人々が発する邪気を「具現化した邪気」と呼んでいます。

二つ目は、「空間エネルギーの邪気」です。これは街や空間上に漂う気で、これを取り込むと気分に関係なく不調に陥ります。才能を司る部分に滞留しやすく、それによって行動を起こしづらくさせる特徴があります。

三つ目が「集合的無意識としての邪気」です。
現人神がお役目で黙々と祓っているのは、これです。この集合的無意識が何らかの形でネガティブな影響を及ぼし、不調に至らせるのです。この入り口となっているのが、「人間として弱い部分」です。
この隙間から精神に干渉してくるので、桁違いの不調を引き起こすのです。

「邪気」の源は、悪魔化した集合的無意識


私が今回の好転反応中、たまたま目にした、ある人の動画では「好転反応で前向きな変化が訪れる時、弱りきって後ろ向きになることも多い。これは『中途挫折の因縁』である、それは集合的無意識によるものだ」と語られていました。
この集合的無意識は、どうやら「元のダメな状態に戻そうとする力』で、言ってみれば「ずっとこのままでいようよ」という同調圧力です。

現在、神代を地上に降ろす大作業の中で、最も障害となっている感情はこの同調圧力であり、この大変化の時代に「元の状態を維持する」ことは堕落を意味します。また、神代への変化を拒むという点では神のご意思に抗うものです。
だからこそ、時代を変え、神代を実現しうる現人神や、変革し前進する人々を阻むこと自体、古い時代を維持する一つの実現手段となるわけです。

あらゆる挑戦は無意味であり、世の中を良くする努力は何も成さない。そういうことにしておけば、今までの世界は変わらずに済みます。
ある意味、時代を変えようとする人々は、この集合的無意識からすると「敵」になってしまうのでしょう。

しかし、今の世界の混乱は、古い物質主義と権威主義の限界によって引き起こされています。
これまでのやり方は、明らかに通用しなくなってきています。自然環境は破壊され、テクノロジーや文明も行き詰まり、超特権階級が搾取を尽くし、最終戦争寸前まで歩みを進める人類は、もう引き返すことはできないはずです。

だからこそ、行き詰まった人類を次のステージに移行させるために神々が動かれているのです。
これに抗う人の集合的無意識は、これまでの人の世の背後にいた悪魔的意識の影響を引きずり、その馴れ合いを同調圧力で維持したいのでしょう。

つまり、私たちが不調を感じるからと言って、神様から与えられたお役目を中断したり諦めることは、この同調圧力に屈してしまうことになります。
ここでお役目の手を止めてしまえば、神代の実現を遅らせてしまうことになりかねません。
だからこそ、現人神は自身の弱い心と向き合い、不調や邪気を祓わなければならないのです。

この記事を唐突に書いたのは、まさに私が現在、邪気に酷く襲われていたからです。
しかし、彼らの正体は無意識なので、意識化すると力が弱まるのではないかと思い、乱文ながら文章にしたところ、実際にかなり圧力が消えました。
これが集合的無意識の「邪気祓い」の一つの方法かもしれません。

彼らは、意識化して克服されると無力化するため、あえて言及されたくないのかもしれません。
ですから、邪気の不調に苦しむ方は、この記事を読んでから何かしらの対応をすることで、邪気祓いが進むかもしれません。
全て主観的な解釈になりますが、一考に値するかとは思います。
ぜひ参考にしていただけたら幸いです。

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「スターシード」と信じる価値

楽太郎です。

「スターシード」という言葉があります。
霊的覚醒をされた方ほど、この少しファンタジックな言葉を知り意味に共感し、「自分はそうだったのか」と感じるかもしれません。
実は私もその一人です。

スターシードにはインディゴチルドレンやブルーレイと呼ばれる世代がいたり、スターシードでありながらライトワーカー、ライトウォーリアといった魂の使命を持つこともあるそうです。
また、スターシードには所属する宇宙の霊団が存在し、アルクトゥルス、プレアデス、シリウスなどがあると言われています。

この宇宙的用語は、霊界や世界の仕組みについて説明する上で優秀なスキームです。
また日本の神々の名前が使われる時は、日本神界の仕組みや日本人そのものの成り立ちなどに言及しているケースが多いように見受けられます。
言葉の種類も表現の仕方も異なりますが、どちらも得意な説明の仕方があると思っています。

私はスピリチュアルを学び始めた当初、この既存のカタカナ語表現の羅列にクラクラしたものですが、その用語の指し示すものの本質がわかれば、どう言葉で表現されていても腑に落とせるようにはなりました。
スピリチュアルの世界は、「どう言っているか」ではなく「何を言っているか」の方がはるかに大切だと思います。

私が「スターシード」という言葉を初めて聞いた時は、キラキラした想像の世界だな、と思っていました。
でもその意味を理解した時、私の半生の違和感が全て氷解しました。


「スターシード」の気づきがもたらしたもの


私は、物心がつく前から「自分だけが何か違う」という感覚がありました。
それで何となく他人と浮いたり、周りの人たちの言うことについていけなかったり、何となく常に場違い感がありました。
私は「できない鈍臭い子」とよく叱られたものですが、逆に周りの同年代が粗暴すぎて「なんでこんなことするんだろう?」と、いつも静かな疑問を抱いていました。
小学生の頃には、ぼんやり「なぜ自分はこの世界にいるんだろう」「生きるとは何か、人間とは何か」と考えるようになっていました。
そういった抽象的思考が得意な反面、体を動かす作業が飛び抜けて苦手でした。
これまで何度かスポーツも経験しましたが、未だに体の使い方が下手です。というか、まだわかっていないかもしれません。

長い間うっすら感じていた「人間としての素人感」の理由と自分の特徴をうまく説明してくれたのが、スターシードやライトワーカーの概念でした。
それを聞いて、「ああ、自分は宇宙から来た、転生一回目の魂だったんだ」と納得した瞬間から、何をどう振り返っても、そうとしか考えられなくなりました。
地球に来たのが一回目なら、これだけ色々なものに興味を持ち、とは言え人間の慣習には馴染めず、何となく人間として生きることが下手な理由も、仕方のない気もするのです。

スターシードであることの意味


この「スターシード」という概念がどこから発生したのかはわかりませんが、おそらく科学的実証は不可能だと思います。
けれど、霊界の理や天界の論理で考えると、今起こっている不可思議な現象もなぜかきっちり説明できてしまうものです。
その点では、科学的・歴史的反証性は客観的な根拠となり得ますが、それだけで全てを説明し切れるものではなく、しかし天の理を持ってすれば大した学識はなくとも、ある程度説明できてしまいます。
だからこそ、この宇宙的概念はこの世の仕組みを考察する上で、とてもユニークな切り口です。

そして、私たちが「スターシード」や「ライトワーカー」であったり「◯◯星団の宇宙霊」だという確信は、自分の魂に感じていたモヤモヤした部分を言語化し、自分が決して一人ではないことや、自分が今生でなすべき方向性について指し示してくれます。
それは魂で感じていれば良い部分で、それが正しいか正しくないかを突き詰めようとすると、膨大な労力の代わりに大した収穫もないでしょう。

おそらく、スピリチュアルは人間の言語野を超えた世界や存在であり、幾通りの表現が同時にできるような不思議なものだと思います。
ですから、いきなりカタカナ語で説明されると初めは戸惑うのですが、その真意を汲み取れば腑に落ちるものでもあります。

私は自分を「スターシード」だと思うことで、これまで人間世界でうまくいなかった理由が、自分に非があるからではなく、自分の魂の特性だと考えられるようになりました。そうすると、自らを卑下する感覚が次第に和らいでいきました。
また、「ライトワーカー」という概念に共感することで、こんなにダメな自分でも使命感を大事にし、理想のために人生を歩むことができると思うと、暗く淀んだ心に一つの光が差した気がしました。

「スターシード」という現象が真実かどうかはともかく、魂の出自に確信を抱き、自らの正しい道を選択することに間違いがあろうはずがなく、その信じる心が世界を変えていく力になるのだと思います。

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霊の善悪を見極める方法

楽太郎です。

私には、特にはっきりとした霊能力はありません。
霊感やそれっぽい感覚はありますが、確信を持ってこうだと言えるほど強い力ではありません。
まだこの感覚に気づいて日が浅いので、手探りで様々な情報や知識に当たっています。
ある人はこう言い、別の人はこう言っている、という状況が多すぎて混乱することもしばしばです。

個人的な話ですが、私はある霊能力者に霊視してもらったことがあります。
彼が言うには「本質を求め、あらゆる知識を外から取り込むせいで、その知識で心を作ってしまっている。だからこそブレるし、心も育っていない」と指摘されました。
私はこの時、一応批判を受けているわけですし、何の根拠もないはずなのにこの言葉がスーッと心の中に落ちていって、一瞬で納得したのを覚えています。
「なぜか」はわからなくても、魂のレベルで腑に落ちることは実際に起こるのです。

スピリチュアル界は特に、玉石混交です。
自分の感覚に自信がないからと言って、下手にあらゆる情報源を当たるのは危険です。
最近はブームに便乗した、霊能力云々が関係ない業者も跋扈しています。ただでさえスピリチュアル業界は、一時期問題となった霊感商法と親和性が高く、目に見えないものを扱っているがゆえに詐欺紛いのビジネスも横行しています。
そもそも、能力者が本物か偽物かである以前に、チャネリングやリーディングにアプローチしてくる霊が高潔な神霊ばかりとは限りません。
例えば、霊的存在を私たち人間と同じ文脈で捉えてみればよく、それが悪い霊や低級霊の類なら、さも自分を高い位の神霊であると騙りたがるでしょうし、もしくは信じさせるために嘘や奇跡的な事象をわざと起こすかもしれません。
この審神能力は、特に目覚めていない能力の人々には備わっていないため、それが高潔な神霊なのか、低級霊なのか悪魔的存在なのか、素人には見分けがつきません。
そのため、安易に全ての能力者の発言を鵜呑みにすることは酷く危険です。

さりとて、気に入らないメッセージは受け取らない、共感できるメッセージだけ受け取る、というスタンスでは神様のご意思を正しく受け取ることはできません。
肩書きのすごい人がこう言っていたのに、他の人の説明では物すごくしっくりくる、でもこの二人の話は矛盾してしまう、ということもしばしばです。
こういう時、「どっちが正しいことを言っているのだろうか?」と混乱しますが、結論から言うとこれを頭で考えることに意味はありません。

スピリチュアルの世界は、言語を超えた世界です。
この界隈には宇宙一般の用語を使うグループもいれば、日本神道の用語で全てを解説するグループもいます。それぞれ、使う言葉は違っても共通の事柄を扱ってますし、共通する答えもたくさんあります。

神様は、どうやら自分たちが人間にどういう説明をされているかを特に気にされないようです。

その上で定義や動機づけが教科書通りであるとは限らず、権威はあまり確証にはなりえません。
正しいか正しくないかは自分が判断すべきことで、逆にそれに一つの正解を追い求めると疑念は深まるはずです。
問題は、能力者が発した言葉、霊が介入した言葉に善意があるか悪意があるかだけです。つまり、真偽よりも、その影響の見極めの方が大切なのです。

神がかりの良し悪しの見分け方



私がスピリチュアリストを見てきた中で、正直に言ってしまえば低級霊や悪霊に憑依されているインフルエンサーが何人かいるな、と思っています。
ただ、それの正誤を検討すること自体にさしたる意味はなく、「良くない霊に取り憑かれているからこの人の話は信じるな」と言うつもりもありません。
自分の力で良くないものの影響から外れることの方が重要だからです。

例えば、世の中に性格の悪い人や悪人がいたとしても、法を犯していたり危害を加えられたわけでなければ、関わらない方がいいのと同じです。
その見極めは、極力頭だけで考えないことです。感覚もよく間違うので、右脳左脳で判断しないことだと思います。

これには魂の感覚が重要です。

ハートオープンの状態で受け取ったものの中で、高い神霊のメッセージは言葉尻や表現ではなく、イメージとして心にスッと入って瞬時に納得できるという性質があります。
それが多少厳しい言葉でも信じがたくても、なぜか腑に落ちてしまうのが格の高い神霊の特徴です。
反対に、邪念の入った言葉は、「ん?」となることが多いです。いくら綺麗な言葉でも、何かが引っかかる感覚があります。この違和感を放置して鵜呑みにすると、格の高い神霊の正しいメッセージを受け取った時に矛盾を感じてしまいます。

審神はもちろん大事ですが、修行も開眼も進んでいない者にその能力はありません。
そんな人ほど頭で解釈すると同時に、魂の感じ方や直観の部分で快不快を見極めることが有効です。
そこに自分軸がなければ、綺麗な言葉や希望的なメッセージだけを受け取ってしまい、批判や厳しい言葉には耳を傾けないようになりかねません。

神様は高潔な方々なので、時に人間には理解しにくい難題や高い倫理観を求めてきます。それは耳の痛いことかもしれません。しかし、それが大事なことだからこそ、神様は私たちに干渉なさるのです。

聴き心地の良いメッセージだけを集めることは、悪魔の言葉にも耳を傾けることになるはずです。
その時に大事なのは、「この言葉を聞いて、私は成長するのか、世の中は良くなるのか」を改めて吟味してみることです。

神様は、私たちをお導きになる役割の方々です。幸せにするために、わざと堕落するような甘やかし方はしないはずです。
そのことを心得ていれば、妙な神がかりに惑わされることは少なくなります。

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大我優位の保ち方

楽太郎です。

前回は、現人神が「小我=エゴ」優位の状態で活動を続けると、「気枯れ=穢れ」を生み、邪気を呼んで心身のバランスを崩すという話をしました。

このエゴの部分、長くこの文明社会で人格を形成してきた人たちほど、骨の髄まで「土の時代」の価値観や感覚が染みついています。
現人神の方々は、その物質主義の世界に違和感を感じながらも、ご自身の直感を信じてこられた人たちだと思います。

それでも、習慣として刻み込まれた生活様式や観念は、現人神と言えど社会的立場を維持する上である程度、受け入れる必要もあります。
例えば、今ある人間関係や組織での立場、衣食住にまつわる義務、お金の稼ぎ方、そういうしがらみが現実問題としてあるわけです。
ただ、そこに意識を置きすぎるとエゴが前面に出てきてしまい、「大我=ハイアーセルフ」の状態を忘れがちになります。
現人神はこの大我の状態が主軸でなければ能力を発揮できないので、どれだけエゴをコントロールするかが鍵となります。

大我の状態を維持する方法


私は最近、数日ほどろくに動けないくらい心身が落ち込んだのですが、その不調の原因には心当たりがありませんでした。
そこで注意深く内観したところ、この不調の特徴に過緊張があり、その強張りは特に思考によってもたらされていることがわかりました。
つまり、「こうでなければならない」「これをしなければならない」「なぜこうなんだ」という「べき思考」が、この過緊張の元になっていたのです。

人間は頭を使いすぎると、頭部の筋肉、筋膜がガチガチに固まり、頭蓋骨の一次呼吸に支障を来します。
しかし、この頭部の緊張は自分で意識してみないと気づかないことが多いように思います。
そして、この頭部の緊張はチャクラの流れを乱し、第6、第7チャクラの物理的解放を阻害してしまうのです。
前回述べたように、現人神にとってチャクラの活性は最低条件となります。そのため、チャクラが開いていない状態は不調を伴い、能力の抑制となってしまいます。

「大我」が優位の状態にする、あるいはハイアーセルフと繋がった状態にするには、こういった緊張を解す必要があります。
個人的に瞑想やヨガをお勧めしますが、常にリラックスできてハートオープンの状態であれば完璧です。
そのリラックス状態というのは、小我が優位の時間が長いほど、オンオフのスイッチングが生じます。
緊張の源である焦りや不安や義務感は、この小我状態に湧き上がることが多いように感じます。

大我の状態は、高次元の意識に近いため、現在見えている現象の本質を見抜き、また未来の予知すらも可能になります。
「これは偽物か本物か」「これは正しいのか間違っているのか」「これは失敗するか成功するか」も直観として受け取ることができるのが、ハイアーセルフと繋がった時の意識です。
基本的に小我の状態で見聞きし思考し判断することよりも、高いレベルの判断を瞬時に行えるのが大我であり、従って下手に迷ったり不安に駆られたりせず、高い自尊心と自信を持って行動することができるわけです。
高い自己肯定感がある意識は、他者に寛容になり、また貢献に喜びを感じやすくなります。
この愛の波動こそが、神々のワケミタマそのものであり、大我=ハイアーセルフを形づくる「神としての自己」の正体です。

小我の状態であれこれ考え、原因を外に求めているうちは、この愛の波動を呼び覚ますことができません。
そのため、大我の意識にあるためには、エゴとしての思考を抑え、意識をニュートラルにしておくことが理想です。
不安や義務感は緊張となり、リラックスできる状態を難しくするため、意図的に緩い状態を作る工夫も大切です。

追記:体調が不安定な方へ


魂が神代に渡っても、魂はまだ旅を続けています。
魂はこれから調整の時期に入り、成長はまだまだ続きます。
そのため、「アセンション反応」「好転反応」と呼ばれる状態は、頻繁に起こります。
状態としては、体温調節ができなくなったり、極度の疲労感に襲われたり、理不尽な眠気に付き纏われたり、様々な違和感として現れます。
これは身体の異常として起こるため、病院に行く理由にもなり、ある程度は改善するかもしれませんが、薬学療法では表面的に症状が出なくなっているだけかもしれません。
この不調の原因は霊的な状態変化にあるので、それを予めわかっていた方が楽になる場合もあります。

この好転反応は、思春期の成長痛のようなもので、黙って受け入れるしかないものです。
多くは一時的であり、目を閉じてじっとしているだけで治まることも多いです。
この不調は気枯れの状態と似ているため、厳密にその分類はしにくいかもしれません。
しかし、不調とは回復へのシグナルであり、休息を促されていると思っておけば間違いはないでしょう。
こういう変動期ほど、自ら受け入れ無理をしない環境をつくることも大切です。

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現人神の身体について

楽太郎です。

魂が神代に渡り、あるいは神界の霊団に加わった現人神は、基本的に「三次元世界」で培った生き方、特にエネルギーの循環が神代仕様に変化しています。

これまでの人世の時代は、肉体的欲求や衝動が社会活動の原動力になっていました。
衣食住が満足に揃わなかった時代は、それでも精神と物質の両輪を回すことができたため、特に問題はありませんでした。
しかし、モノが溢れ社会が物質中心になるにつれ、精神的な「目に見えない」価値観よりも、データや物質として「目に見える」価値観が現実的であると見なされ、その評価軸が絶対となっていきました。

その価値観の中で大部分の人格を形成してきた私たち、現人神に目覚めた、これから目覚める人たちは、そのままの行動原理で活動すると、すぐに行き詰まってしまうかもしれません。
世界を構成するエネルギーの方向は基本的に変わりました。しかし、まだ古いエネルギーの流れが強いのも事実のようです。
私たちは、新しい時代をつくるに当たり「土の時代」の慣習を見直す段階とも言えます。

すでに新しい時代仕様の身体になった方は、これまでのコンディションの整え方では不調を感じる方もおられると思います。
かく言う私も、天体的なエネルギーの変動や神気の欠乏、人々のネガティブな集合意識を感じるせいで、日によって体調が変わるという不安定な身体状態にあります。

そのため、まだ手探りではあるのですが、私なりに内観してわかったコンディションの整え方についてお話したいと思います。

現人神の身体に起こる不調の原因は、ほぼ「穢れ=気枯れ」であるようです。
穢れとは、疲労やネガティブな思考、健康状態の悪さからくる不快感、そう言った「気が枯れている状態」から邪気を身体に取り込んでしまうがゆえに起こる不調です。
おそらく病院に通っても、せいぜい「自律神経失調症」や「疲労」と診断されるでしょう。あるいは、精神疾患と誤診されるかもしれません。
私自身、全く身体に健康的問題はありませんが、倒れそうなくらいの不調はよく起こります。
これの解決方法としては、単純に「休むこと、よく寝ること」なのですが、ここではさらに「気枯れを起こさない方法」について書きたいと思います。

現人神のエネルギー駆動原理

先ほども述べましたが、現人神に目覚めた人ほどこれまで培った人格で身体を動かそうとすれば、気枯れを起こしやすくなります。

おそらく、現人神の方は第7チャクラまで容易に開く身体に変化しているはずです。
神様のメッセージを受けたり、インスピレーションを働かせるためには第7チャクラの活性は必須だからです。
まだ自分でその感覚に自覚のない方は、きちんとヨガを行ってみることをお勧めします。おそらく一般の方よりも第7チャクラへの到達は早いと思います。

この第7チャクラ、第6チャクラが常に優位に働いている状態が、現人神の身体で生きるのに最も楽なポジションです。
人間には「小我=エゴ」と「大我=ハイアーセルフ」の二つの意識層があります。
この、小我の状態はチャクラの循環を阻害しやすいため、エネルギーの好循環で高いバランスを保っている現人神の身体は、気枯れを起こしやすくなります。
ですから、この「大我」の状態の意識を保って行動することが、現人神の心身の維持に大切になります。
最も、全チャクラの解放状態がこの大我における好条件となるので、地味なコンディショニングを基礎的な習慣にしていく必要があります。

この「大我」の意識の持ち方については、後日また述べさせていただきたいと思います。

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参拝と神様の話

楽太郎です。

一昨日、散歩をしながら近所の神社にふと寄ってみました。

この神社には神仏習合の神様がまつられており、近代の区画整理で移転改築され、元々お祀りされていたご神霊について特に詳細を知らぬまま、何となくお祀りされている小さな神社です。

私はいくつか霊的な直感があり、あまりその神社が好ましいとは思っていなかったのですが、なぜか今日は気になってふと入ってみました。

やはり違和感があり、今日は深く霊視してみようと思いました。

手を合わせてみたところ、神様はおそらくいないか、いらしたとしてもご神気がかなり弱まっているように感じられました。

境内を出て俯瞰して見ると、まるで住宅分譲地か、竣工前の宅地を見ている感覚になりました。

これは大変だな、と思ったのですが、その次の瞬間に氏神様のおられる神社に行くべきだと直感し、その足で氏神様の元へ向かいました。

その氏神様のおられる神社は、かなり由緒がありながら、近年は縁結びや商売繁盛などで盛り上げている神社で、今は壮大な建て替え作業の真っ只中です。

そのため、仮手水舎も巫女さんが手作業で蛇口を捻って出すタイプになっています。

巫女さんが社務所に入り、参拝客が来ない時間帯は手水舎の水が止められています。

私はそれを知っていたので、予め公園でお清めをしてから神社に向かいました。

日曜の朝だからか、手水舎から水は出ていましたが、家族連れの方が手水を無視して、一礼もなく境内に入って行きました。

それを尻目に見て、私は氏神様に感謝とご報告をし、近所のガランとしたお社について相談をしました。

その後、一息つこうとベンチに座った瞬間、先ほどの家族の父親から、タバコの煙が流れてきました。

参拝客の顔にタバコの煙が当たる位置に、喫煙所を置く神社もどうかと思いました。

神様に参拝に上がる人々が神様に対するマナーに無頓着であるだけでなく、神社を運営する方からして、隅々まで敬意を払っているとは思えません。

それでも、神様は「人間はこういうものだ」と思ってらっしゃるようなので、特に咎を与えるわけではないでしょうが、神様のご心中をお察しすると胸が痛みました。

私はその帰り道、「人間に敬意を払えない者が、目に見えない神様に敬意を払うのは難しいかもしれないな」と考えていました。

でもそんな時、和気藹々と道端の花壇を手入れするボランティアの方たちと出会し、「人間はいいところもあるし、悪いところもある、その出方が違うだけだ」ということを神様に見せられた気がしました。

神社の作法を興味のない方にも広げる、子供たちに神社のマナーや大切さを教える、そして神様と日本人の関係のあり方を変える、そのことも私に与えられた課題なのかもしれない、と思う出来事でした。

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神様たちと神代をつくる人々のために

初めまして。

楽太郎と申します。

私はクリエイターをしておりますが、全く別の軸で始める活動になります。
そのため、本業と絡めた活動はしない方針です。
このアカウントはあくまでスピリチュアルや神道についての話題を中心に扱っていきます。

さて、2024年11月20日、本格的に「風の時代」に突入しました。

風の時代は冥王星水瓶座から始まり、この期間は2043年まで19年間続き、双子座・天秤座・水瓶座がグレートコンジャンクションしている期間が200年続きます。

神様の世界は、なぜかわかりませんが占星術的な暦を軸に行動され、ご計画なされるようです。

星座の形やカテゴライズは、古代の人々が恣意的に考えたものではなく、そのものに理があるように思えてなりません。

牡牛座、乙女座、山羊座がコンジャンクションしていた時代は「土の時代」と呼ばれ、富や所有物、権力や影響力などを積み上げることが主流となる時代でした。

奇しくも、この時代が終わるタイミングで「神代」が到来することが、どうやら神々のシナリオとなっているようです。

そして、これから訪れる神様と人間たちの時代、いわゆる「神代」や「弥栄の世」と呼ばれる世界は、日月神示でいうなら「三千世界の大洗濯」という神界と人の世の大再編を経ることになります。
また、その大事業は神様と人間が協力し合いながら行うことになると言われています。

そのため、この土の時代に培われ、時代の流れに反する「負」の部分、人間中心の社会によって作り出された「物質主義」は、今こそ見直される時にあります。

人間中心の文明が立て直されると同時に、神様と新たな世を共同創造する使命を与えられた人々(このブログでは「現人神」と呼びます)は、これから神様のご加護を得ながら、活発に行動していくことになります。

このブログでは、神様のご意思や現人神の方々に有益な情報を届けていきたいと思います。

楽太郎自身、能力に目覚めたばかりで心許なく、不確かなことも多く、それほど自信もありません。

神代はこれから地上に降ろしていくべく、大事業を始めるという段階であり、神も人間も手探りの状態から始めなければなりません。

それでも自分の経験や感覚を通してお伝えしていこうと思うので、よろしければお付き合いください。

(※今はまだ神代への移行期であり、そのため荒々しい魂の方々の影響が加わる可能性もあり、しばらくコメント欄は閉じさせていただきます。予めご了承下さい。)

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