忍者ブログ

招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

黒に染まるな

楽太郎です。

今、新しい仕事に取り掛かっています。
インスピレーションに従って起草し、モチベーションも高い状態ですし、技術的に困難さも感じません。

しかし、私の業界や市場もかなり腐敗しきっていて、まともなプロが活躍できる土壌とは言えません。
儲けるためのセオリーがすでに確立されており、稼ぎのハックの独壇場となっています。
企業はそのシステムの一部であるため、サービス全体でスキームを推奨しています。
その背後にあるのは、他国の文化侵略であると私は思ってますが、それを表立って言えば私の立場はさらに危ういことになるでしょう。

この状況で、正攻法で戦うのは圧倒的に不利です。
ほぼマーケット全体が握られているため、私もある程度は裏をかく必要があります。
ただし、これまで迎合しない態度を貫いてきたからこそ、今さらハックに染まろうとは思いません。

不安はあります。これから先、この泥沼のような業界でやっていける自信はありません。
だから、早く時代が変わって欲しいと思ってますし、それを促進させるための努力なら惜しまないつもりです。

今の日本、世界では尋常ならざる事態が起きています。

その露悪的現象と開き直りは、いかにこれまでの世の平和が隠された偽善であったかを悟るには、十分すぎる情報量です。
ただ多くの人は薄々気づきながら、どうしようもないことも知っています。
その巨悪を育て、のさばらせたのは自分たちであることも、重々承知しているからです。

某企業にしろ、某巨大政党にしろ、某国家にしろ、私たちはまんまと騙された、と。
これほど巨悪だとわかっていれば、賛同などしなかったのに、と。
ただ、彼らは綺麗な横顔だけを見せていただけであって、私たちはいつでも別の横顔を見つけることはできたはずです。
その一面を少しは疑わしく思っても、追求する手立てはなくとも、信じないことくらいは可能でした。

今になって悔やんでも仕方ありませんが、だからと言って無力感に沈むべきではありません。
私たちは、巨悪の崩壊をこれから目の当たりにするからです。
そして、その後からが本番なのです。

「禍」という文字があります。
「禍事」に使われるこの字は、「ネ辺」に「咼」と書きます。「ネ」は神を表し、「咼」は「まがる・まわる」という意味だそうです。

つまり、「禍事」とは神々が動き回るがゆえに起こされる「曲がり事」であって、ノーマルな現象が真っ直ぐ生じることではありません。
現在、世に起きている「禍事」は人間が考えうる最悪の事態かもしれません。ただ、最悪だからこそ、人々に問題意識を強く植えつけます。

冷静に考えて、例え巨悪が隆盛し人々を支配しようと、人々は永遠に巨悪を崇拝し続けるでしょうか。
悪である、問題であると認識された瞬間から、その対象は是正されるか消滅させられるかを待つだけです。例え支配を強めようと、引きずり下ろされるまでの時間を先延ばしにするに過ぎないでしょう。

「禍事」は起きた瞬間から「消滅」という宿命を背負って発生するのです。

消滅が起きた時、同時に「浄化」が生じます。
「禍事」が起こる時は必ず「浄化」が発生し、曲がった物事を真っ直ぐの状態に戻します。
神々が曲がったことを起こすのは、元が曲がってしまったからです。
曲がってしまったものを、神の力で元の形に捻り戻すことが、人々にとって見れば「災厄」にしか見えないのかもしれません。

地震が起きて街が壊れても、地震という災厄は終わり、地層のエネルギーは縮退しまた平穏がやってきます。
森は、山火事を想定して生える植物もあります。何万年も形を変えない森もありますが、それもいずれ消滅し、新しい森に生まれ変わります。

その禍事が終わり、リセットされた世界で一から新しいものを作り始める、新しい時代に合ったものに変えていく、その新陳代謝のために禍事が必要な時もあるのでしょう。
何もなくなって新しいものを作っていかなければならない時こそ、スタートラインです。

自分たちで協力して新しい何かを作っていこうとする時、人々の心に目的意識が目覚め、希望が生まれます。
禍事は、既存の構造物に雁字搦めになり、身動きが取れなくなった現代人に対する、一つの福音なのかもしれません。


私は、今の時代にはいつもアンビバレントな感情があります。
崩壊は起きて欲しくはないけれど、崩壊してもらわなければ困る。
人間には救われて欲しいけど、懲らしめられるのも必要だ。
その感情は常に並行線を辿ります。

思っているよりも、世の中が変わっていかないように見えます。人々の価値観や習慣は根強く、目に見える数字と力はあまりに強大です。

私たちは今「ヨブ記」や「ノアの洪水」と同じ状況を生きています。
悪魔や大衆が嘲笑う中を耐え、神を信じ抜くことで神に救われる道を、私たちは進もうとしています。
それ自体が試練であり、関門なのだと思います。
その向こうに神の恩寵や新世界が拓けているとしたら、ここで諦める理由はありません。

人類や世界の行末を決めるのは、私たちを作られた神様たちです。
私は好き嫌いは言うことはできても、絶対的な善悪を決められるわけではありません。
できることは、あからさまに「黒」だとわかるものには触れないこと、それだけです。

楽な道を歩んでいる人が羨ましくなる時もありますが、彼らは楽の代償に美徳を失っているのです。
人間の価値は、最終的に「徳」の部分ではないのでしょうか。
私も未熟なので揺れる時もありますが、そういう時ほど自分に言います。

「黒に染まるな」と。

拍手

PR

生霊攻撃

楽太郎です。

やっぱり、なんか生霊に取り憑かれていたみたいです。

何週間か前から、視界の端に黒い影がチラチラ見えたり、夜中に甲高い笑い声を夢うつつに聴いたりして、なんか変だなと思ってました。
休養中で何もしてないにも関わらず、背中から肩にかけて凝りやすく、特に起きている時より起床後の方が体調が悪いのに違和感がありました。

昨日の真夜中、ガラスを吐く夢を見てビックリして飛び起きて、寝直したら悪霊に頭を締めつけられる夢を2回見ました。
2度目の悪夢の時、霊感の強い友人が夢に出てきて「お前、まだわからないのか?」と言ったのが記憶に残ったので、霊障だと改めて認識しました。

心霊スポットには全く行きませんし、歩く時には塩を持ち歩いてますし、神社で祟られるようなことは一切してません。
この霊障の主に心当たりもあり、これは生霊だと思いました。

生霊の主について、私は人間関係が狭いので今さら念を飛ばすのは数人しか考えられません。
その中でも、私が色々と助けてあげていた人がいて、ある時私は何も言わずに距離を取りました。
神様から「近づくな」という雰囲気をバシバシ感じていたし、なんか常に裏がある気がしていました。
それで、個人的には嫌いではなかったのですが、あえて距離を取ることにしました。
その人からすれば、かなりショックだったのかもしれません。

正直に話すと「霊的な理由があるから付き合わない」とは説明しようがなく、うまい誤魔化し方も思いつかなかったので、連絡関係を無視していました。
下手にはぐらかすと、変に粘着されそうな気もしたからです。
それはそれで良くないと思いましたが、大人なのだから空気を察して身を引いてくれるだろうと、都合良く考えていた節もあります。

しかし、思ったよりその人の念が強かったらしく、かなり呪いに近い形で入り込まれていたようです。
「そんなことあるか」と思われるでしょうが、これが極端な憑依体質の悲しい性質です。

私はこの数週間、好転反応と覚醒を繰り返していましたが、このポジティブなエネルギーの変換を妨げている邪気には薄々気がついていました。
これは私の霊性が低いからなのだろうと思っていたのですが、思いつきで軽くセルフ除霊を試してみたところ、肩が軽くなり頭もスッキリして、神様からのインスピレーションもパラパラ降り始めたので、「やっぱりこいつか」と確信しました。

私がいくら魂のレベルで覚醒してポジティブな方向に飛び上がっても、この念は振り払えなかったようです。
ここまで強い念を飛ばせる人もいるんだ、と私は感心してしまいました。

昨日、それがわかったので半日かけて除霊を行ったところ、異様にスッキリして緊張も解け、疲れもドッと出たので気持ち良く眠りにつきました。
ところが夜中に緊張して目が覚めて、身体が元のカチカチの状態に戻ってました。
さすがに、私の精神疾患とか身体の病気も疑いましたが、除霊を再度試みると一時的に体調が戻るので、やはり霊障以外に考えられません。

霊感から言えば、まだバッチリ気配を感じます。
「離れたな」と思い、数十センチ先にいるのは感じます。そして気を抜くとまた取り憑かれている、というのを今日になっても繰り返しています。

私も念が強いので、「直接行って頭かち割ってやろうか?」とすら思うのですが、さすがにそれはできません。
この霊障、私個人の力では祓いきれないかもしれません。
ですので、ここは神仏のご加護を強くいただき、「陽の気」で振り払うしかないと思いました。

そのため、まず部屋の大掃除を朝から始め、結露も取り埃も取り除き、神棚周りも改めて掃除をしました。
部屋の空気の透明度が増し、陽の気を感じました。

「運気」という言葉があります。
「気を運ぶ」と書きますが、「気」とは「気持ちが悪い」とか「良くない気がする」という感覚の原因を取り除き、「いい気持ちにする」ことが運気アップに繋がるのだと思います。

金運や福運を上げようと思い、神社にお賽銭をいくら入れても、常にカリカリしていたり部屋が汚かったら「気」をいい方向に運んでいるとは言えませんし、むしろ運気を下げてしまうでしょう。
まず、「運が悪いな」と思ったら、自身の気の持ち方をしっかり見て、どうしたら快適になるかを考え、きちんと行動をしてみることだと思います。

ですから、「生霊がまだいるかもしれない」とか「悪霊に取り憑かれている」といちいち気にしているうちは、何度も寄ってくるのかもしれません。
だとしたら、対応としては「寄せつけないようにする」の一択です。
下手に除霊浄霊に頭を悩ませるのも、悪霊の思うツボとも考えられます。
その「気の持ちよう」は、自分の工夫で何とかできるものです。

私は去年、集合意識から邪気の影響をもろに受けて、ずっとその祓いにばかり気を取られ、変に病んでいました。
けれど、邪気を気にするからこそ逆に邪気を呼んでいたとも言えます。

例えしんどかろうと、太陽のようなカラッとした気持ちでいれば、そのうち悪霊だろうと邪気だろうと抜けていくでしょう。
それが本当の意味での「祓い清め」なのではないでしょうか。

私は急にそういう風に考えられるようになって、なんかあの人のことを思い出すのもバカらしいな、と思い始めました。
これから散歩にでも行ってこようと思います。

追記:

昨日の夜、急に思いついて神代を作る人たちのためのDiscordサーバーを作りました。
ただ、これは本当に咄嗟の行動なので、神様的にはどう思われてるのかはわかりません。
もしこのサーバーに使い道があるとしたら、神様から何らかの働きかけがあるはずです。

とりあえず、私はそれまで待ちたいと思います。

拍手


「世直し」の意味

楽太郎です。

今、韓国ではユン大統領の逮捕、カリフォルニア州の山火事、最大限に膨張するテックバブルと、指折り数えるだけで波乱を感じさせる世となりました。

私がこのブログで時事系や社会思想を取り扱わないのは、もうその次元での議論では到底立て直せない段階に来たと感じているからです。
残念な話ですが、この世に一粒の奇跡が起きて、それを皮切りに今まで黒だったものが一気に白くなるということはありえません。

おそらく、一度黒く染まり切って盤をひっくり返すタイミングが来るのではないでしょうか。
神様は、そこから白い石だけで世を敷き詰め直すおつもりのような気がしています。

その予感に対して、これまでのブログを読まれた方なら私には葛藤があったことを理解していただけると思います。
しかし現代を冷静に見回して、骨の髄まで搾取構造への安寧に浸かりきった社会は、もはや人の力ではどうにもならないでしょう。
例え世を生きる上でこれまでの常識が通用しないとわかったところで、どれほど自分の力で自分の生き方を問い直す覚悟を持てるのでしょうか。

神様が人間を真っ直ぐに戻そうとお考えなら、その最大の問題は「自分の生き方を自分の頭で考えない」ということだと思います。
それは、人が決めたルートの人生だったり、誰かの価値観や考え方に乗じた生き方であったり、生成AIやネットの情報を信じ込むことだったりするはずです。

これまでの土の時代は、生きるための正解は社会や企業が提供してくれたため、それに便乗しても大して損をしないどころか、楽に生きられるハックになりました。
しかし、近年炙り出された社会問題を鑑みると、その正解そのものが間違いとなる時代に差し掛かっています。

街を歩けば、人々が何をしていてもスマホを見ています。
この世の中で生きる楽しみが希少なのはわかりますが、そのつまらなさをスマホの中で埋めようとしてはいないでしょうか。

その端末の中には一攫千金の夢があったり、マスコミ的娯楽の代替もあったり、まだ見ぬ理解者との繋がりを求める気持ちもわかります。
ただ、そのサービスは企業が用意した箱庭であって、そこにあるのは用意された現実の姿です。

この端末に人生の目的や答えを探しているうちは、自分自身と向き合う時間がどんどん狭まっていってしまいます。
神様が人にもっと自分の人生を生きてもらいたいと願うならば、人間が自分の脳みそをアウトソーシングするのをやめてもらいたいはずです。

人々が自分の人生を何かに頼るのは、そこに「権威」が存在するからです。

大学教授の見解、大企業の宣伝、マスコミの情報、インフルエンサーの発言、プロパガンダ、「皆そう思うはずだ」という錯覚。
その権威に頼ろうとする気持ちは、「寄らば大樹の陰に間違いはない」という妄信から来ています。
しかし、自分の判断を権威に準じるうちは、自分の頭で考えて自分で行動するリスクを取ることができません。

某大手芸能事務所のタレントの相次ぐ不祥事、大企業の腐敗した組織体制など、その問題が表面化して感じるべきなのは、「権威は絶対でなく、永遠に続きはしない」という教訓です。

この問題が「一部だけだ」とか「これをきっかけに良くなる」と思っているうちは、真の問題に向き合うことは難しいでしょう。
真の問題は、権威には栄枯盛衰があり、この世の常識も諸行無常であるからこそ、己の判断で生きていく覚悟があるかどうかだと思います。

それは決して楽ではありません。
自分自身と向き合うことは、これまで依存したり執着することで心のバランスを保っていた物事と距離を取ることだからです。
そこで思考の習慣から離れ、別の角度から自分の生き方や考え方を見直せば、変化せざるを得なくなります。
人間が本当に怖いのは、変化なのです。

私が3年前から生き方を見直し、最も精神的に辛かったのは「過去の反省」です。
自分が絶対に正しいと思い、配慮を失っていた時の記憶ほど、顧みた時の心理的ダメージは大きいです。
それは犯罪を犯した受刑者だけが受ける責苦ではなく、良心と真正面に向き合えば誰もが目を背けたくなるほどの後悔だったりします。

けれども、人は本当に生き直そうとする時、そのプロセスを踏まなくては先に進めません。
できるなら、自分の意志で自己と向き合えば多少はマシですが、強制的に「生き直し」をさせられるとしたら、自我が保てないほどの苦しみになるかもしれません。

ただそれは、これまでの依存的な生き方では難しい世になったため、自らが責任を持って自分の人生を生きようとするならば、避けて通ることはできないはずです。

神様は、ずっとそこを私たちに思い直すよう、様々なシグナルやメッセージを人々に送ってきました。
それを魂の部分で感じ取り、生き直しを始めた人ならまだ浅い傷で済むかもしれません。
しかし、予期しない穴に落ちた時ほど致命傷になります。それが高いところであればあるほど命に関わるはずです。


神様が人々にして欲しいことは、至ってシンプルだと思います。
「自分の人生を楽しく生きろ」と。

そのためには、自分が自分のあり方をしっかり見つめ、よく考える必要があります。
そのことから逃げているうちは、自分自身のことすらよくわからないものです。

けれど、自分に道を指し示す権威はいずれ滅びる。
それを目の当たりにしてからでは遅いと思います。破綻を待つより先に、どんな状況でも生き延びられる自分を作り上げることです。

拍手


神様の望みごと

楽太郎です。
今朝の出来事を書きます。

先日、須佐之男命様を描かせていただきました。
その制作過程で地元にある薬師堂の如来様に完成祈願をしました。
その頃は、須佐之男様から受けるプレッシャーにビビり倒していたからです。

一応その件は完了したので、お礼参りをしました。
そうしたら、やっぱり念が体にドシっときて、こういう時でもご奉仕せねばならんのだなと思いました。

この念を抱えている間、妙に「お金」のことが気になりました。それも某大企業の社長のことが頭をグルグル回ってたので、お金関係の念を背負わされたのだと思います。
散歩がてら、ご神気を不思議と感じる一画に立ち寄り、念を浄化することにしました。

この念を放出するために瞑想していると、先日の須佐之男様のイラストのことが思い浮かびました。
私はなぜ須佐之男様のイラストを依頼されたのか腑に落ちなかったのですが、イラストをネットに上げること自体に意味があったのではないかと気づきました。

つまり、神様たちはこのネットの世界の浄化もされるおつもりなのではないでしょうか。

ネットというのは、人間の闇の部分が濃く出る集合意識そのものであり、仮想的社会を形成しています。
人間の現実意識の面だけでなく、こういうレイヤーの集合意識も浄化されるとしたら、計画として理にかなっているようには思えます。

とは言え、私のイラストがどういう効果を発揮するかまでは想像もできません。
ただ、その時思念が入ってきて、「あなたもそれを望んでましたよね?」と来ました。
いや、確かにそうですけど、本気ですか…?

そのあと河川敷に行って、浄化を終わらせました。
近くに竹林があり、そこに呼ばれた気がしたので掃除をしてきました。

神様とお付き合いさせていただいている感覚からすると、神様が人間にして欲しいことの大半が「掃除」のような気がします。
私が何となく言われた気がしてやることの第一位が「落ちている木やゴミを拾う」です。
何となく踏んだら躓きそうな木の枝とか、明らかに自然では取り除けなさそうな障害物などです。

先の神社でも「念」は霊的に言えば人間の出すゴミみたいなものですし、神様はそういうのは人間にやってもらいたいようなのです。

神様が人間に求めることは、「神を敬え」とか「人を救え」とか大層なものではなく、「境内を綺麗にしてくれ」とか「ゴミを片付けてくれ」というのが、なんか不思議に感じます。


「神様が身近な存在になる世界」は、それほど異世界感溢れるものではないかもしれないな、と最近思います。

例えば頼れるおじさんが近所に住んでるとして、そのおじさんの家に押しかけて「困ってるから助けてくれ」と頼むよりも、おじさんの家の前の掃除や余ったおかずを分けに行ったりして、仲良くなったよしみで助けてもらう方が自然です。

それが、いきなり玄関を開けて「金が欲しい!何とかしてくれ」と言おうものなら門前払いです。
でも、人間は神様にこういう態度で接してませんか?

だから、ご近所付き合いとか、人間社会の付き合いと神様との関係は大して違わなくて、礼儀やマナーを求められるのはその辺なのかなと思ったりします。

だから神様と身近だった昭和あたりまでは、日本人はそういう感性だったわけで、神代は温故知新の世になるだけなのではないのでしょうか。
そのためには、現代人が学ばなくてはならないことは本当に多いと思います。

拍手


「須佐之男命」




先日、寝る直前にインスピレーションが入って、「須佐之男様を描いてくれ」という思念を受け取りました。
その時の依頼理由としては、「戦意高揚」というニュアンスだったような印象です。
私はスピリチュアルな存在の声を五感で受け取る能力がないので、かなり曖昧です。

私には、「須佐之男様が浄化作戦の指揮を執られる」というイメージが来ました。
満月の日に、神々の浄化作用が最も強く働くそうです。
それで今回、本日1月14日の満月にスケジュールを合わせなくてはいけない気がしました。

そこで須佐之男命様を描かせていただくにあたって、かなりプレッシャーを感じました。
とにかく描いてる時の霊圧がすごくて、生半可なコンディションではデスクの前にすら座れないほどでした。

瀬織津姫様をお描きした時は、「ファイト!がんばれがんばれ~」みたいなエネルギーを感じて追い風になりましたが、須佐之男命様は「手を抜いたら許さん」みたいなピリッとしたオーラを常に感じ、戦々恐々としました。
少し、私の霊格では須佐之男様のパワーを受け止めきれず、役不足だった感もあります。

でも、自分なりに精一杯がんばりました。


ちなみに余談ですが、私は1日5回は瀬織津姫様について考えます。
そこでお名前について以前調べたことを思い出しました。
「瀬織津」とは川と海が合流する地点を指すらしく、川で流された汚泥が海に吐き出される様子を示しているそうです。

海には、「黄泉」があると一説には言われてます。
つまり、瀬織津姫様に浄化されたものは黄泉の国へ行くとも考えられ、神話的解釈で言うなら神の浄化で流された人は…

そう考えて、もうその先を想像するのはやめにしました。

拍手


手のひらを太陽に

楽太郎です。

結論から先に言うと、私に須佐之男命様のイラストをご依頼されたのは、私のご先祖様かもしれません。

私の住む地元は、熊野信仰と縁の深い土地で、伊弉諾様と伊奘冉様にゆかりがあります。
私がよくお詣りしている薬師堂にお祀りされている薬師如来様は、本地垂迹では須佐之男様とも言われています。

(※訂正: 記事執筆当時では薬師如来様の本地垂迹が伊弉諾命様であるのを、須佐之男命様だと勘違いしていたようです。ただ、須佐之男様に垂迹される牛頭天王は、祇園精舎に向かう旅人の疫病を祓うご利益があるとされているので、薬師如来様と無関係ではないかもしれません。尚、熊野信仰では須佐之男命様は阿弥陀如来だとされています)

あと、私の血筋を調べていてわかったことがあります。
なぜか私は母方の血が濃いなと思っていたのですが、母の旧姓は「菊池」で、おそらく陸奥菊池氏にルーツがあります。
陸奥菊池氏は、藤原則隆公を家祖とする熊本県肥後の武家の末裔です。
「菊池」の名の由来は、魏志倭人伝にも登場する「狗古智卑狗」にあるとも言われ、狗奴国の王だったとされます。
魏志倭人伝に記載される狗奴国には出雲説があり、出雲を統治されていたのが須佐之男命だと言われています。

つまり、私は出雲系と縁が深いらしく、日本の神代紀に記された古き神々と結びつきがあるようです。
ただ、日本人ならば系統を辿れば古い神々に繋がるのは、それほど珍しいことではありません。
ここでの要は、須佐之男様がイラストのモチーフとして私に飛び込んできたことと、私のルーツとは無関係ではないだろうということです。

その時、私には須佐之男様がお祓いの指揮を執られる、という直感がありました。
1月14日の満月に神々の祓いが発動するとしたら、そのタイミングに合わせてイラストを上げなければならないかもしれません。

私自身も、そのスケジュールに合わせて体調を合わせています。
ここ最近の太陽神経叢の活性化によって、どんどん活力を取り戻しています。
冬至明けからエネルギーを身体に馴染ませる作業をしていて、その地味な好転反応で心身共にフラフラしていたのですが、ようやく芯が通ってきた感覚があります。

私は、夏以降から人々がどんどん険悪になっていくのを感じていて、霊的にも邪気を浴びて同じ空間にいるのが苦しいと感じるようになりました。
ニュースは見ないようにするくらい、世の中がおかしい方向に行く中で、日本人のメンタルがどんどん壊れていくのを見て、それに引っ張られて人に対して嫌気が差し始めました。

それは、ある意味スピリチュアルに向かうきっかけになりました。

秋以降は神代に向かうために魂の修行を本格化させ、それに集中するためには人払いをする必要があり、また邪気を遠ざけるためにも人間を毛嫌いする傾向にありました。

しかし、今になってまた人に対してポジティブな気持ちを向けて良いターンになったと思います。
人を無闇に嫌うのは、肯定的になるより疲れます。

これまで自分を守るために、人を批判し遠ざける必要がありました。無意識的に巻き込まれないためです。
けれど、今の私はおそらくそれをしなくても自分を守れます。それくらい人を見抜く感覚が鋭くなりましたし、神様のご加護がある実感もあります。
また第6チャクラの活性化により、人間の意識レベルより高い位置に判断能力が移ったため、同じ視線で批評することをしなくなり、あえて人を否定する意味もなくなりました。


人間は、この地に魂の修行のためにやって来ると言われます。
その修行の地で、何らかの苦難を経験するのは当然のことです。

経済的、社会的に苦しい世になっていく中で、唯物的な世界に生きる人は、これから精神的な困難を体験することになると思います。
これまで楽をしてきた人世の魂は、そろそろ神様から教訓を与えられるフェーズになったのでしょう。

学ぶ必要があるのは、無知だからです。
全てを知るほど賢明であれば、つらい思いをしながら学ぶ必要がありません。
彼らがそうせざるを得ない生き方をしてきたことは、神様から見れば明らかなはずです。
しかし、その困難を一概に不幸と見るのは違うかもしれません。

そんな彼らも、この歪んだ時代に適応した結果とも考えられ、ある意味これまでの土の時代の背後にあったビジネスの被害者とも言えます。
私は、そんな彼らをどうしても憎みきれません。
むしろ、その人間らしさのせいで間違いを犯すのは、人間ゆえであるとも思えます。

けれども私は、彼らに寄り添おうとは思いません。
世界の主軸はもはや神代にあり、神代に向かう人々にウェイトの大部分を置くつもりです。
ただ三次元世界では彼らと同じ土の上で生活するのも事実ですし、人間一般として出来ることはしていきたいです。

仏教で言う「慈悲」とは、プラスを与えることではなく、マイナスを取り除いてゼロに戻すことであると言われます。
時代が変化した今となっては、人世の住人が持つ物質中心の価値観はマイナスに溢れたもので、それがゼロになってようやく新しい時代のスタートラインに立てるのだと思います。

私の感じる愛のエネルギーは、邪気すらも包み込みうる太陽のような明るさを持っています。
それは神代や人世に分け隔てなく、遍く人々に注ぐことのできる太陽のエネルギーです。

私はその力で、この世界をもっと明るくしたいです。
人が遊ぶように生きて、魂が喜びの舞を踊るように、自由と公平が謳歌する時代をつくりたいのです。

神様は、おそらくその生き方を人に望まれているのだと思います。
それが、本来の人の在り方だからです。

拍手


SOMEDAY

楽太郎です。

今朝、何となくエネルギーも落ち着いてきて、今日から始動できそうな感じがしました。
お風呂に入り、朝食を摂り体操をして瞑想を行い、そろそろ動かなきゃ、と思った途端にだるくて動けなくなりました。

何となく、ハートチャクラが閉じ切っているのを感じました。
横になってもエネルギーの枯れを感じ、ネガティブなことも考え始めたので、とりあえずYouTubeで音楽をかけてみました。

すると、私が好きだった香港の歌手、フェイ・ウォンの「夢中人」がかかって、思わず胸が熱くなりました。
香港は、ご存知のように中国共産党の支配下となり、自由な雰囲気ではなくなりました。
「夢中人」が主題歌となった邦題「恋する惑星」という映画は1994年、香港が中国に返還される3年前の作品です。

今、フェイ・ウォンは何をしているのだろうか。
香港で良い時代を生きた人々の気持ちを想像すると、それは今の日本人にも通じる感情かもしれない、と思いました。
なぜ、良い時代は突然、理不尽な形で終わらざるを得なかったのか。

私はそれを思うと、涙が止まらなくなりました。

その感情をもう一人の私が冷静に眺め、この感情のエネルギーこそが、私の魂がしばらく閉じ込めてきた「愛」というものなのだと気づきました。
この愛が私のエネルギーの源でありながら、その熱量を蓄えながらも停滞していた理由は、愛する対象を見失っていたからかもしれません。

多くの人々が、自らの選択で愛のない世界を選んだからです。
私が愛情を持って近づいても、別の目的で私を利用しようとするでしょう。

それでも私は、なぜこれほど人間のことが好きなのだろう?と思う時があります。

むしろ、人々から酷い目に遭わされたことの方が多いのに、人の優しさの一つ一つが未だに心の中に残り続けているのは、何故なのだろう?

私の魂の特質から考えると、私の生まれる前は誰かを好きになったら、その人も私を好きになってくれるような世界にいたのかもしれない、と思ったりします。
欲しいものも、わりと簡単に手に入ったのかもしれないし、毎日違うものを好きなように食べれていたのかもしれない。

けれど、生まれ落ちた地球という星では、好きになった人から疎まれたり、本当に欲しいものほど手に入らないような世界で、ずっと戸惑っていたような気がします。

私が0歳の頃に空想したビジョンを覚えています。
プラスチックのコインを縁の下に落としてしまい、私がその暗がりを覗いてみると、オモチャのお金を転がして笑っている、漫画みたいな悪魔がいました。

今思えば、私はわかってこの世界にやってきたのかもしれません。
ずっと忘れていましたが、やはり私は何か目的があってこの世界に生まれてきたのだと思います。

もしかしたら、今あるこの道を登っていけば、いつか雲の向こうで、昔の友達と会えるのかもしれない。
そんな人が何人かいて、実はたくさんいて、私と再開できるのを待ちながら、今も私を見守っていてくれているのかもしれない。

そう考えたら、本当にどうしようもないほど泣けてきました。
その時、流しっぱなしにしていたYouTubeから、佐野元春の「SOMEDAY」が流れてきました。

「人は誰でも 愛の謎が解けて 一人きりじゃいられなくなる」
「約束してくれた君 だからもう一度、諦めないで」

この歌詞を贈ってくれたのが昔馴染みなのだとしたら、いつか会えると言ってくれているようで、メソメソしてもいられないなと思いました。

この世界は、確かに思った世界とは違かったかもしれません。
わかっていたのか、わかっていたけど想像以上だったのかは、確かめようもないことです。

それでもきっと、この地上にある「漫画」というものをどこかで見て、「自分も描いてみたいな」と思ったのかもしれません。
それだけでなく、もっと大きな願いを叶えるためかもしれません。

そうであるなら、私は今その願いをどれほど叶えられたのでしょうか。

人の魂が、修行や使命としてこの地上に降りてくるのなら、私はまだそのミッションを完了してません。
例えばこのまま死んで元の世界に戻るとしたら、この星に来た目的は観光か?となります。
大した良い旅行でもないのに、です。

物心ついた頃から、この世界が自分のいるべき世界ではない気がして、ぼんやり空を見上げていました。
今でも、たまに帰りたいなと思うこともあります。
けれど、このまま進めばいつか友達と再会し、この地球にも友達ができるとしたら、そこはすごく良い世界なのかもしれません。

悪がこの世にあるとして、その闇を振り払うのが死や破壊なのだとしても、浄化して綺麗な世界にするのが目的なら、その力は慈悲や愛であってもいいはずです。

そのエネルギーを躊躇なく使えるように、地球がその準備を整えてくれてますし、神様だってそれをお望みのはずです。
だから、好きな人に「好きだ」と言ったり、余計なお世話をして嫌われるのも、このエネルギーの使い方次第かもしれません。

でも、それを恥ずかしがっていたり、自分の気持ちを惜しむうちは、愛のエネルギーを存分に使うことができません。
「好きだ」と言われて、嫌いになる人はあまりいません。
それなら、どんどん好きな気持ちを表現していこう。

この世界を愛のある世界にしたいのなら、その感情をまず受け入れることです。
私は、これからそうしていこうと思います。

拍手


その苦しみを越えていけ

楽太郎です。

このブログは、何らかの形で誰かの役には立つように書いています。
ここに書いた文章は、私の実感や経験から潜って辿り着いた、普遍的な結論を記しているからです。

ただ、誰にでも当てはまるとか、誰にでも理解されうるものであるとは思っていません。
それは、私の魂が見てきた光景が映し出されたものだからです。

人は誰しも、各々が一長一短の条件の中に生まれ、再現不可能な人生を歩んでいきます。
けれども、幼稚園に行き学校に入り、受験をして就職をして、という誰もが通る社会的なサイクルの中で、自分が誰かと比較しうるような、代替可能な存在と信じ込み、どこかにいる他人と似た人生を歩みたがります。

しかしそれは、「唯一無二」という真実と向き合わない代償に手に入れた、作られた安寧です。

その安心感の中に人生があると、私たちは思ってきました。
良い学校に入り、大企業に就職し、ステータスの高い伴侶と籍を入れ、可愛い子供をもうけ、年金をもらい何不自由のない老後を暮らす。
大勢の他者がする行動は正しく、その多数派の中で同じ条件にあることによって、集団に正当性を求めます。
そうすることで「自分の人生は間違っていない」と思えます。

私は、これが一概に間違いだと言うつもりはありません。
自分の不二性と向き合わなくても、心の底から安堵して生きられるのであれば、それも人生の選択だからです。
私自身もそれができるならば、そのやり方を自らの人生に完璧な形で再現したと思います。

けれども、私にはそれが難しすぎました。
何をやっても、他人と同じように見える行動ができない。
その違和感を自分に見出してしまうからこそ、私は独特としか言いようのない人生を歩んできました。

それは今になって、全く恥ずべきことではなかったと思います。

こうして「当たり前」の人生設計が揺さぶられる時代になって、人々が寄りかかるべき生き方を見失う時、自らの人生の筋書きを見つめ直す機会を得ます。
その不二性は、どんな生き方をしてもかき消えるものではないからこそ、比較されえぬ自己と向き合う時、それが全ての人にとって唯一の同じ条件であることに気づくことができます。

私は、これまで自分の人生についての感想を、心から誰かと共有したいと願っていました。
それは、私が「理解されたい」という魂からの思いであり、共感を得ることで魂の孤独を埋め合わせ、安堵感の中に幸福を追求する生き方でした。
ただ、それも自己の「不二性」を有耶無耶にする生き方であるとも言えます。

たまに、こう考えることがあります。
私は、自分が思っているような世界の住人ではないのかもしれない、と。

神はいるかもしれないし、いないかもしれない。
自分に魂はあるのかもしれないし、ないかもしれない。
自分自身という存在の自覚も、精神的現象や神の存在すら、己の願望を森羅万象に見出しているに過ぎないのかもしれない。

しかし、それが何なのかを考え、自分なりに結論を出そうとする過程が、唯一無二の「己」を生きるということなのだと思います。
誰にも理解されぬ、心の深くにある感情と向き合い、“そうであるならば、さてどうするのか”を決めるのが、自分を「生きる」ということです。

例え誰にも理解されず、誰にも見出されず、一つも共感を得られず、何一つ残せぬまま一粒の塵として消えようと。
その宿命を全うする覚悟が、自分の人生を生きるということなのだと思います。

すぐ傍に誰かがいて、何かを言えば「そうだよね」と言ってもらう生き方は、誰にとっても幸せでしょう。
けれど人間は誰かと融合することはできず、どんなに愛する人と出会っても、どこかですれ違っていかなくてはなりません。
結局、私たち一人一人が違う人生を歩むという事実は、否定することができません。

「自分は世界でただ一つの存在である」という苦しみの中で、それを抱えながら生きる勇気を持ってこそ、人は己の孤独と向き合うことができるのだと思います。

それこそ全ての人にとって同じ条件であり、かと言って決して比肩できる条件でもありません。
そこに目を瞑らずに生きていくことは、本当に苦しいことです。
けれど、その苦しみを人生に見出すからこそ、自分を信じ愛すること、愛する誰かや大切な何かを見つけ、共に生きていく喜びを知ることができるのだと思います。

だから、安易に答えを出さずとも良いのです。
孤独であってもいいし、誰かと似ていなくてもいいし、人と違うことを恐れない生き方こそ、自分の運命を生きるということなのでしょう。

この不安感は、誰しもが心の奥底に押し込めている部分かもしれません。
ただそれは「闇」ではなく、否定しきれぬ明らかな真実であり、それを見つめることで人生に「光」を見出せるのだと思います。


ちょっと疲れたなと思ってうたた寝をして、目覚めたらこんな話をブログに書いてみたいと思いました。
誰のためでもなく、自分のために書いた文章です。
乱文長文、失礼いたしました。

拍手


心のコントロールと「魂」

楽太郎です。

昨日は、地元の神社で十日戎があり、昨年末に献米をしたので参加してきました。
そこで神社に名札が掲示されており、妙に舞い上がってしまいました。
帰り道でふと落とし物をして、それが考えてみると縁起の良くないことだったので、私は「神様にお叱りを受けたんだな」と思い反省しました。

先日「須佐之男命」様のイラストを描くようどなたからご依頼があり、翌朝から描き始めました。
ただし須佐之男様のイメージから受けるエネルギーが強すぎて、私の霊性では受け止めきれないと判断し、「このままだと須佐之男様を描ききることができない」と感じました。

十日戎にはもちろん以前から参加するつもりだったのですが、神社で神様にイラストの件をご相談し帰宅する間際、あまり縁起の良くないことが起きたので「うかうかしてるとお前には任せんぞ」ということかもしれない、と反省しました。
ただ、あまりに私がへこみすぎたのか、そのあと神様からフォローもあって持ち直しましたが、襟を正せということかと思います。

その数時間後、強い好転反応状態に入りその感覚を内観してみたところ、よく考えれば冬至明けから感じている心身の不調は、地味な好転反応そのものだったことに気づきました。
やたら眠いし波長は乱れがちだし、なぜか疲れてるし低次元に引き戻されるし、何となく「自分が古い自分に戻ろうとしている」という感覚です。

スピリチュアルな好転反応の怖いところは、この不調や混乱を乗り越えられなければ、好転しないどころか退行による運気の低下が起こることです。
この場合「中途挫折の法則」が働くと言われています。
この成長のタイミングで人生における悪癖のような部分に試練が与えられ、それはわりと盲点だったりするので、よほど注意深くなければ開運の芽を自ら摘んでしまいます。

この好転反応の振り幅の大きさや、心身を長期間休ませなければいけない状態に置かれたことを考えると、このエネルギーの変化は相当大きなものだったのかもしれません。

私は以前から、己の魂のエネルギーの大きさに振り回されがちです。
古い話をすれば、私が高校時代に一時期不登校になった時も、自分の魂のエネルギーを制御しきれず、自らの波動に当てられて疲弊していました。

この心のエネルギーの制御は、若い頃には誰しもが掌握しきれないものかもしれません。
ただ、昔はそういうのは「根性がない」とか、時代が下れば「メンヘラ」とか、近年では「発達障害」とか言われてしまう部分です。

あの頃は、そうやって大人たちに絡め取られたものでしたが、自分が大人になり理解をしてしまえば、違う説明の仕方で乗り切れます。
その意味では、時代が変わってよかったのかもしれません。

魂のコントロールについて


心がうまくコントロールできない一つの要因として、この魂のエネルギーと「現実観」に基づくマインドが葛藤を起こしやすいことが挙げられます。
魂から湧き立つ感情・感覚は、その時代のロジックでは不合理なものだったりします。

現実的な「成果」「利益」「正当性」それらが先立つほど、魂のエネルギーは邪魔になってしまいます。
学校、会社、組織、そういった社会的枠組みの中での奔放さは、足並みを乱すだけのものでしかありません。
だからこそ、私たち現代人は魂の感情を抑圧し、周りのために外見だけを合わせて生きるよう、習慣づけられてきたとも言えます。

その歪みがあからさまに露呈していく世相にあって、逆に常識の枠から飛び出せる機会を得るのは、精神性を重んじてきた人々にとって福音となるはずです。

「魂の声を聞く」のは、人が思う以上に難しく勇気のいる作業です。魂は分け隔てなく、無礼講かつ率直な意見を返してくるからです。
社会の枠組みの中で生きていれば、その表現はリスクとなるケースが多く、しかるに魂に対してわざと蓋をし、直感などなかったようにロジックで生きるのが賢い時代になったように思います。

しかし、これからの時代は「魂」が軸になければ生きていくことが難しくなるでしょう。
自分の精神性を貫くこともそうですが、魂を通じて神仏やスピリチュアルな存在と繋がり、その感覚を共有しなければ豊かに生きられない時代になると思います。

その際、現実を生きやすくしようとするならば、魂の向かうベクトルを知り、できる限り魂の向きにそぐわない判断を避け、真っ直ぐ魂のエネルギーを向かわせることが重要になるでしょう。

スケジュールやタスクに追われても、魂の向きに合うかどうかで義務感や苦痛度も異なるはずです。
その魂の方向性は自分自身と対話しながら、動機づけに対してポジションを取ることで、感覚的に変えられる部分だと思います。

過去の出来事や、未来の懸念や社会上の価値観に左右される時は、魂のエネルギーを真っ直ぐに具現化することができません。
そのため、「今ここ」に集中するためにも、今ある自分の深くにある感情に気づき、ここからエネルギーを引き出す必要があります。

心のエネルギーの制御は、自分自身と付き合った経験がものを言います。
その経験は、何十年生きてても自分の心や魂と向き合っていなければ、直感的に深く理解することはできません。

今、私たちは社会的な声よりも魂の声を聞くことで、崩壊していく同調圧力から解放され、新しい時代の生き方を掴めるようになるはずです。
現状、それに気づいている人は少ないかもしれません。

しかし神代を目指す我々、現人神たろうとする人たちは、この生き方の素晴らしさを説き、実際に人々に示すことで変容を促していけるはずです。
おそらく、神様は私たちにそれを期待なされています。

そして、自分たちの背中を見せることで、新しい時代に人々を引っ張っていくことを何より望んでいると思います。

拍手


イラスト次作予告

楽太郎です。
今回は、軽くお知らせです。

先日、「瀬織津姫」様のイラストを本ブログに投稿しました。
イラストの投稿は一度限りの企画というか、今回だけで終わるものだと思ってました。
費用対効果とか気にしているわけではないのですが、インスピレーションを受けてやったことなので、自分の意志とは無関係に話が進んだ感覚でした。
そのわりには、けっこう本気でやってしまいました。

該当記事に「シリーズ化してほしい」とのコメントもいただきました。
その時、何となく「素戔嗚命」様が脳裏に浮かんでいて、なぜかはわかりませんでした。

さっき就寝しようと横になった時、これから世のお祓い作業には素戔嗚様が先頭に立たれる、というイメージがビシッと入ってきました。
その時、エネルギー的に受けた印象で言えば「描きなさい」ではなく「描いてくれ」です。

………?
このメッセージが神様のご依頼なら、普通に「描け」でいいのに、と思いました。

なぜ素戔嗚様なのか、神界がどうなってるかなど全く想像もできないのですが、その時入ってきた言葉は「戦意発揚」か「国威発揚」という四字熟語っぽいワードでした。

素戔嗚様とは地域的に関わりがあるので、何かのご縁があるのかもしれません。
よくわからないのですが、何となく保留にすべき感覚もないので、暇を見て進めてみようと思います。

このインスピレーションが本物なのだとしたら、本当にそのうち何かあるのかもしれません。

拍手


自律神経の整え方

楽太郎です。
昨夜、だいたい睡眠時間2時間くらいで中途覚醒しました。首の筋肉が痛くて目が覚めるのは久しぶりです。

最近はかなり頭を使ってますし、昨日はブログを2本書いたので、かなり身体が固まっていたのだと思います。
この身体の硬直は、交感神経の働きを高めます。

主に直感や霊感は、身体がリラックスして脳にキャパがないとかなり鈍ります。
「神様と繋がれない」という感覚の時は、だいたい交感神経優位の状態で、チャクラが閉じている状態の時が多いようです。
こういう時ほどネガティブな気分になり、そこから邪気の類を呼び込んでしまうので、自律神経の調整はチャクラの維持と同様に、メンタリティのケアに欠かすことができません。

このブログで急に「健康」に関して扱った方がいいかもしれない、という感覚がしたので、今回取り扱ってみようと思います。
一応、学術的な裏付けはあるのですが、そこまでの説明は省きます。興味のある方はご自身で裏付け作業をされると、確証が得られるかもしれません。

今回扱うテーマは、「自律神経の調整について」です。

神代に生きる人々、現人神を目指す方々は、この数ヶ月で魂の試練を何度か乗り越えてきた方たちだと思います。
私もそうですが、魂レベルで感じるプレッシャーは相当なものでした。
24時間、無意識が動いている感覚があり、しかも日常生活も気を抜けないので、疲労を抱えていた方が多かったのではないでしょうか。

冬至でエネルギーが劇的に切り替わり、年も変わり正月期間も明けたので、身体が追いついていない方もいらっしゃると思います。
ただ、何となくこの数日間は神代勢的には凪の時間に入っているような感覚があり、ゆっくり心身を落ち着けるにはいいタイミングかもしれません。

霊感、それも憑依体質の方ほど、最近の負の波長に引っ張られて身体の不調を感じているのではないでしょうか。
私の体感では、この低い波長を受けるとストレスになります。また、わざと波動を上げようとするにもストレスがかかります。
ストレスは呼吸を浅くし、胸郭周りの筋肉が収縮し、背中や肩や首がコリ始め、脳に酸素と血液が行き渡らなくなり機能が鈍って、交感神経にスイッチが入ります。

この状態が続くと、いわゆる「自律神経失調症」という慢性的な愁訴感を誘発します。
私はこれに関しては罹患してる時期が長かったので、ここでは自律神経を整え、リラックスしやすい身体に戻すためのメソッドを記載します。

今回ご紹介するのは、「上半身のコリ」をほぐすのに私が役に立ったセルフ整体の方法です。

  1. 脳幹体操(ライオン体操)
  2. 478呼吸法
  3. 龍神体操

1.脳幹体操(ライオン体操)

これは「間脳体操」とも呼ばれますが、「ライオン体操」という名称でも知られるセルフ整体です。

  1. 口を大きく開ける
  2. 首をゆっくり左右に大きく回す

ライオンが吠えるような動きに見えるので、「ライオン体操」というそうです。
これは首の後頭下筋群の奥にある、第一頚椎あたりの筋肉のコリをほぐし、血流を良くする働きがあります。
首のコリの主な原因は、頚動脈付近にある胸鎖乳突筋が起こしているケースが多いのですが、首のコリをほぐせても首の深い部位のコリは、なかなかほぐれません。
この体操によって脳に近い筋肉が緩むので、常に緊張されている方ほど効果を感じられると思います。

ただし、首のコリがひどい方や頭にあまり血が回っていない方は、できるだけゆっくり慎重にやることをおすすめします。
首の筋が違ったり、目が回って気持ちが悪くなってしまう方もいらっしゃるかもしれません。
やりすぎることはないため、一日に何度やっても良いですし、適宜されると良いかもしれません。

2. 478呼吸法

この呼吸法は、アメリカの医師アンドリュー・ワイル氏が提唱したリラックス呼吸法です。
交感神経が高まると、まず第一に呼吸が浅くなり回数が増えます。これは身体が戦闘・防御体勢を取るからです。
あまりにこれが長時間続くと、横隔膜や胸郭周りの筋肉が硬くなり、自分でも呼吸が浅いことにすら気づかなくなります。
これは無意識に行なってしまうので、意識して呼吸を整えると身体のコントロールを取り戻しやすくなります。

  1. 4秒で息を吸う
  2. 7秒息を止める
  3. 8秒使って吐く

スピリチュアルの好きな方は、ヨガなどをされてる方も多いと思うので、呼吸法はかなりご存知かもしれません。
この呼吸法は、身体の深層筋肉を動かしながら呼吸器官を整えていくので、表層的にストレッチしているだけではアプローチできない深い筋肉にも作用していきます。
この深層筋肉のコリ、主に心臓周辺や腹部のコリは、長年のストレスで蓄積するコリなので、かなり意識下にも影響すると言われています。
私も、呼吸が乱れがちな時はこれで整えます。人間は1分間にできる呼吸数と交感神経が比例するため、呼吸数をセーブすることで神経をコントロールすることができます。

3.龍神体操

これは私が考案した独自のセルフ整体法になります。
私は座り仕事が多いので、背骨が硬くなりがちです。背骨が固まると胸郭が開きにくくなったり、巻き肩になって肩凝りやストレートネックになりやすくなります。
この背骨の運動と、ツボの組み合わせが「龍神体操」です。

やり方としては、まず始めに「肝愈」というツボを押さえる必要があります。
「肝愈」とは、背中の肩甲骨の下あたりにあるツボで、肝機能の他に不安、イライラなどの神経症状に効果があります。
この肝愈を、手を後ろに回して親指で押さえます。詳しく肝愈の位置を知りたい方は、申し訳ありませんが調べていただけますと幸いです。
手が回らない方は、かなり身体が硬い方なので、他のストレッチを行ってから実践してみてください(笑)

  1. 肝愈に左右それぞれ手を回して親指で押さえる
  2. 身体をそのまま時計回り、反時計回りにゆっくり大きく回す

この形が、何となく「龍神様」みたいだなと思ったので、このネーミングにしました。
私はこれと1の脳幹体操を合わせたりしています。

これをすることで、肩甲骨周りのコリと背中のハリ、背骨の硬直がだいぶ緩和されます。
肝愈のツボを押すことで背中周りの血行が良くなり、しかもメンタルの改善効果もあります。
これもやりすぎて悪いことはないのですが、急にやると筋を痛めたり、酔ったりするのでゆっくりやることをおすすめします。


とりあえず、今回ご紹介するセルフケアの方法は、以上の3つです。
メンタルの維持は、思っている以上にフィジカルの要素が重要です。
私は、健康の鍵は「血行」と「呼吸」にあると考えています。それに運動と食事と睡眠、規則正しい生活リズム、この全要素が揃えば風邪すら引かないと思っています。

一応私も実践してますが、自律神経の乱れはよく起こります。霊感のある方は脳を酷使しがちなので、よほど気をつけていないと邪気にやられやすくなってしまうと思います。
私も常に頭を使いすぎるので気をつけたいのですが、気づいたら重症になってたりします(笑)

もしお役に立てるのなら、ご活用ください。
他に様々なケア方法をご紹介できるかと思いますので、コメントに書いていただければ何かご提案できるかもしれません。

拍手


神様からの授かりごと

楽太郎です。
今朝、「神代のビジネスⅡ」の記事を書き終えてから、さてどうしようかと考えました。

どうやら、先の結論であれば今後のビジネスの軸足を神代に移した方が良いのは確かなようです。
しかし、私がこれまで神代にビジネスの軸を置きたがらなかった理由は、別に市場の規模などを考えていたからではありません。

「神代のビジネスⅡ」で裏のテーマにあるのは、慈悲の心、いわゆる「菩薩心」です。
私は仏教にも親しんだ時期が長かったので、仏様は衆生救済を最後まで願われるはずだ、という宗教的な確信がありました。

特に私は浄土真宗の開祖、親鸞聖人に関するお話をよく聞いていました。
親鸞聖人は鎌倉時代末期の最もこの国が荒廃していた時代のお坊様なので、どれだけこの世が荒れ狂おうと、阿弥陀如来様のご本願は救済の手を緩めることはないだろうと考えていました。
それは経済的、社会的に救われるという意味ではなく、せめて精神的、霊的安寧への道は用意されるだろう、と安易に仮説を立てていました。

しかし、先の記事を読んでいただければわかるように、日本神界の結論としては苛烈の一言に尽きます。
人である私には計りかねますが、これまであらゆる時代を越えて神仏が人間に悔い改めるよう諭し続け、それがもはやこれ以上は待てぬ、というところまで待たれてのご判断だったのかもしれません。

私は、その温度差を知り衝撃を受けましたが、それが神様のご意志であるならば受け入れるつもりです。
ただ私がクリエイターとして、これまで制作と表現に込めていたモチベーションは、この菩薩心に根差していたと言っても過言ではありません。

人々を癒したい、人々に気づいてほしい、人々に変わってもらいたい、人々に幸せになってほしい、そういう祈りを込めて作品と向き合ってきました。
しかし神様が救済の手を止め、選別した上で救わないと決めた人間がいる以上、私は一体どうすればいいのか、誰のために作品を作れば良いのか見えなくなってしまいました。

菩薩心や博愛精神は、これからの時代では悪と出ることの方が多いのだろうか。
私がこの数ヶ月、ずっと悩んできたことです。
朝食を取りながら、これだけモヤモヤするのであれば神様にお導きいただく以外にない、と思い神社に行くことにしました。

今日は暖かく、気持ちの良い日差しを感じました。
私の思いつきで神社に歩みを進めたので、神様からは歓迎されないだろうなと思ったところ、久しぶりに道中が全青信号パターンでした。

神社に到着し、神様の前でこれから仕事をどうしたらいいのか尋ねました。
こういう時は、神様はおみくじの文章でよく示されます。500円の「鯛みくじ」というのがあり、そこに意識がパッと行ったので引くことにしました。





この鯛みくじは、縁の輪っかに小さい釣竿の針を引っ掛けて吊り上げるユニークな引き方で、自分で選んだおみくじにかなり集中して釣らなくてはいけないので、「適当に出てきた」という感覚がありません。
なかなか考えられているな、と思いました。
それで、おみくじの内容はこうです。





ここでも、「慎み」という言葉が出てきました。
これは昨年の年末にテーマになったもので、「心真」という記事にしました。

「色」というのは、24色では数えきれないほどの連続的なグラデーションです。
「赤」や「青」というはっきりした一色だけではなく、多様な色があるからこそ移りやすいものです。
それが「欲」というもので、赤が満たされればピンクが欲しくなり、緑が欲しくなり、と際限がありません。
だからこそ、最初に決めた色だけを求めるのが「慎み」となるのだと思います。

このおみくじの文章の中でハッとしたのは「慈しみ」という言葉です。
「慈しみを施せ」と言っておられるのです。

私はこの一文を読んで、自分なりにこう解釈しました。
「慈悲の心は捨ておかなくても良い、菩薩心を持ち続けよ」
そう読み解いた次の瞬間、私の周りを優しい風が通り抜けました。

私はその時、「慈悲は対象を選ぶことができない、それゆえ誰に与えるかを考える意味がないのだ」と悟りました。

この閃きを頼りに、私は考えました。
慈悲の対象を選ぶ必要がないというのは単純で、普遍的なものを目標にすることです。

その意味で、私は「人を救う」という行動にばかり意識が向いていました。
以前、「蜘蛛の糸」という記事に書きましたが、神の救いを手助けすることに私の使命があるのは間違いはありません。
人が救われるかは、本人の意志と神様のご意志であり、私が努力して引き上げる必要がありません。

帰路につき色々と考えながら、近所の公園に足を踏み入れました。
その辺りで、「私は救済を目的としなくていいのだ」ということに気づきました。
「祈りそのものを目的とせよ」という言葉が入ってきた瞬間、街の遠くにそびえる大仏像が真正面に見えました。
私はこんなことがあるのか、と目を疑いました。

「祈りを目的にする」とは、願いを込めて形にすれば良いだけです。
ジタバタもがく人を助けるのは、想像以上に大変なはずです。しかし、私はそれを中途半端にやろうとしていたのかもしれません。

「祈ればいい、ただ祈っていれば良い」という言葉がずっと思念として残りました。

そこに意識を向けると、私が自分自身の作品で何をしようとしていたのかを思い出しました。
私は、ただ祈る気持ちでずっと作品と向き合っていました。誰かに見てほしい、伝わってほしい、わかってほしい、変わってほしい、そういう気持ちを壁に打ちつけるようにずっと続けてきたのです。

これからの表現を考える時、「誰に」「何を」というのは、必ずしも必要のないことかもしれません。
それは人を助けようという意思ではなく、遍く誰かが助かることを祈ればいい、その心をそのまま表現するだけだと気づきました。

普遍的な表現とは、祈りそのものを表現することです。祈りとは、魂からの想いです。
心は祈りそのものであり、表現は心を映せばいいだけです。

それを理解した時、私は物事を複雑に考えすぎていたことに気づきました。
単純な気持ちを表現すればいいだけで、わざと回り道を選ぶような、段取りを気にする必要などなかったのです。

シンプルに、遊ぶように魂の表現をして欲しい。

神様は、人々にそうするように願っておられるのかもしれません。それが、生きるということだと。
そういう世を作りたいから人間に変わって欲しかったのだとしたら、本当に神代とはもっとシンプルに捉えていい世界なのかもしれません。

この考えに辿りついた時、今一度自分の本心に立ち返り、本当にやりたかったことは何か、私は問い直してみようと思いました。
誰かのためではなく、自分が癒され、他人も癒されるようなやり方がきっとどこかにあるはずです。

拍手


神代のビジネスⅡ

楽太郎です。

これから金融経済を中心とした物質文明に、一つの区切りがつくことは、どうやら間違いないようです。
私が想像している「神代」という新しい時代は、神や霊魂という、これまで科学で隅に追いやられた根源的概念が見直され、主軸となっていく時代だと思います。

そこでは、引き続き人間は地球という大地の上で物質を操りながら、これまで以上に目に見えない存在や価値観を尊重する、調和的な世界が到来すると予想します。

この世界に渡るには、「才能」「信仰」の二つの要素が必要であるとされ、神代に渡りたい人々はその導きに従い、各々が試練を経験してきました。

「才能」と「信仰」という両輪が神代に渡るための歯車だとしたら、絶妙にその二つが噛み合っている人は少ないのではないか、と私はずっと実感がありました。

「才能」はあって、技術やセンスを磨いているけれど、目に見えるものしか信じられず「信仰心」がない人。
「信仰心」はあり、神仏に祈りを捧げているけれど、いまいち自分のやりたいことを追求できず、才能を埋もれさせている人。
わりと世に溢れているのは、片輪しか回せないタイプの人ばかりではないか、と常々考えていました。

ともすれば、神代に渡る人は想像以上に多くないのではないか、とうっすら疑念があり、その母数で果たして文明を維持できるのか、具体的に神代の社会構造について頭を巡らせたりしていました。

これに関して、先日私の指針としている方から、お導きがありました。

神様は、もう神代に渡った人々の総数を気にされていないかもしれません。
神代勢は一つのまとまりとして、神のご計画の中で回していく方針であり、人世からのサルベーションはもはや時間切れに近い。

この内容は、神様の温度感を知る上でかなり衝撃的でした。

私の文明観では、全国津々浦々にいる神代に渡った人々がどれだけ集まろうと、文明水準を維持するのは難しいのではないかと思っていました。
しかし、神々にとっての優先順位は「文明の存続」にはないのかもしれません。

神のご計画では、そのうち神代と人世の連結はほぼ切り離され、神代の母数の中でのみ発展させていく方向になるとも考えられますし、いつまでも往来が可能である保証はどこにもありません。

これは、私にとって考えを改めさせるには充分な情報量でした。

私の仮説では、日本神界におられる菩薩は、人の世に残った魂を何らかの形で救済するよう願われ、その道筋を残されるのではないかと考えていました。
衆生救済の慈悲の心は、例え神仏を足蹴にする輩にも覚醒の光を残されるのではないか、と。

人間には自由意志があり、その自由意志には新たな世界の扉を開く自由が保証されているはずだ、と考えていました。

しかし、これはどうやら見当違いのようでした。
神様からすると「今から悔い改めるほど悠長な時間はない」のだと思います。
もはや、神代に渡るか渡らないかの時間切れはもうすぐで、サドンデスや敗者復活戦のような余興はない。
選別が完了したら強制的に篩い分けが始まり、そこで起こる崩壊は、文明の維持を優先して行われるわけではない。

私はこれに気づいた時、自分の見通しの甘さと神様との温度差に驚愕し、考えを改めさせられました。

もし、これまで同様の文明観で生活を維持しようとすれば、働き方や商売の仕方も根本的に見直さなくてはならないでしょう。
かつて、「お金=マネー」を所有しているのは一般大衆でした。マネーを得るためには、大衆に顧客をどれだけ増やせるか、戦略を取りターゲッティングをしなければ、商売として成り立ちませんでした。

そこには、権威的な内向きの「欲望の潮流」があり、その流れを読んで釣糸を垂らす必要がありました。
しかし、この「欲望の潮流」が消失する世界になるならば、これまでのビジネスのあり方が根本的に変わることを意味します。

「金運」はもはや神様たちが握っている、と言われています。
神様は、基本的に人間のロジックでは動かれません。善悪や優劣といった軸ではなく、徳の高さや魂の輝きを神様は重視されます。

私が神様の顔色を伺ってみて感じたのは、もはや「儲け」という、人にとって当たり前の価値観ですら通用しない世界をご計画されているのではないでしょうか。
となれば、人世にアプローチをかけるビジネスはもとより、「儲け」を念頭にしたビジネスプランですら無力化される可能性もあります。

私は個人的に、ここまで神様が文明に深くメスを入れるとは考えていませんでした。
それは「資本主義経済」までも終わることを意味するからです。
資本主義が終われば経済は劇的に変化し、今の街の形すら変わるかもしれません。
神様がそこまでやるとは想像だにしなかった、私はやはり甘かったのだと思います。

神様が金運を支配し、それを神に選ばれし人間に分配なさるとしたら、私たちは神様のご意向を逆算しながら、これからの仕事を考えるべきなのかもしれません。
おそらく、今わずかでも人世に残している商業的アプローチは引き揚げ、神代の市場に振り向けた方が今後の安定に繋がるとも考えられます。

そこでは、「利益」を軸としたビジネスモデルではなく、「貢献」という目に見えない尺度で経済が回っていく仕組みなのかもしれません。
だからこそ、神様は私たちに「才能」と「信仰」が必要だと仰られたのだと思います。

才能があれば、モノに依存しなくても技術で生きていける。信仰があれば、神の声を聞いてどんな時でも生き残れる。

神様がこれまで発してきたメッセージの意味が、一本の線になって見えてきます。
それは高い熱度の意志であり、私はこれをもっとぬるい感覚で捉えようとしていました。
これに気づいた時、戦慄すると同時に覚悟を問われているように感じました。

「今まで通りの生活」が目に見える形で変わっていき、それが目に見えてこないうちは誰もこの温度差に気づかないかもしれません。
しかし、ずっと神様は一貫してこの生き方を提示してこられたのです。

「時間がない。早く準備を終わらせなさい」

神様が私たちに要求しているのは、どうやら一つのようです。

拍手


神様がいらないもの

楽太郎です。
先の記事とは別に、今朝の話を書きます。

私の近所に、よくお詣りする小さなお社があるのですが、そこで手を合わせるたび「何か出来ることはありませんか」と尋ねるようにしています。
普段からご加護をいただいているので、特にお願いすることもないからです。
そのたびに、急に「ズシン」と肩が重くなるのですが、私はこれが念の類だとわかっていたので、その都度浄化してきました。

特に今朝は肩が異様に重くなり、これは邪気に近いものだと感じました。
神様は、これを私に預けることで「持って行ってくれ」と仰られているのだと思います。

前々から感じてはいたのですが、私は邪気を吸い取ることで、自動的に磁場調整をしているようなのです。

以前お茶飲みグループに参加していたのですが、小一時間話をしただけで買い物ができなくなるほど疲労困憊し、他のメンバーが逆に元気になって帰っているのを見ると、私が何かを吸い取っているんだろうな、というのは感じてました。

よく考えれば、昔から私が所属する集団は、私がいるうちは人が集まって盛り上がっていくんですが、嫌気が差して私が一旦外れると、一気に人が離れていく現象をよく見ました。
私自身、丁重に扱われたことは一度もないのですが、私が波長を上げる役割に使われてきたのは、何となく感じてました。

だから安易に人と関わるのはやめにしましたし、自然界は邪気を発しないし私の気を吸い取らないので、気持ちが良いです。
とは言え、神様から浄化するように預けられた念の正体は、散歩しながら気づくことになります。

ある瞬間、公園に死体が山積みにされているビジョンが浮かびました。それは爆撃とか戦争的なものだと感じました。
次の瞬間には、敵国の兵士が街に来たら、と考えていたので、間違いなく戦争関連です。
軽く動揺し、「これは未来のビジョンか?」とも思いましたが、よく内観すると先ほど神社から背負ってきた「念」だとわかりました。

神社からこの念を背負ってきたということは、誰かが戦争恐怖の念を持ってお詣りをされた方がいたのだと思います。
例えば、「敵国が攻めてきませんように」という願いをかけたのもしれません。

私としてはその不安もわかるのですが、私にその念を神様が背負わせた理由が何かあるのだと思います。
神様は最近、人々の念を弾き返すようになっているので、神様視点で言えば「いらないから持って帰ってくれ」ということだったのだと思います。

このビジョンは人々の恐怖思念、言ってみれば妄想であり、「こういう不安があるから救ってくれ」という願いは、言い方は悪いですが神様的には取るに足らないでしょう。
神様は、実践可能な願いは優先的に聞くようですが、不安から捻出された願いはどうしても後回しにしたいはずです。

例えば、「私は平和のためにこういう活動をしているので、お力をお貸しください」という願いなら神様も共感できますが、「この街に敵国が攻めてこないようにお守りください」というのは、神様であろうと持て余す気がします。

私はしばらく考えて、「街にミサイルが落ちてくるより、もっと現実的なカタストロフなんていくらでもあるよな」と思ったので、やはり邪念の類だと判断しました。

こういう邪気は、ご神気の感じる場所や河辺で解放するようにしています。
河辺に行くと、そこに一羽の白鷺がいました。
鷺は神様の遣いとも言われているので、一緒にお祓い作業に付き合ってくれるのかな、と思いました。

ただ、じっとして浄化を待っているうち、寒すぎてトイレに行きたくなり、とても我慢できなくなって邪気が残るのは承知で帰途に着きました。
帰ってきたら、やはり邪気が残ってるなという感じです。これから塩風呂にでも入ろうと思います。

心理学では、「人間の不安は9割取り越し苦労である」と言われます。
今の世に溢れる不安や恐怖の、どれくらいが確実性が高く、どこまでが妄想なのかと疑問に思います。

人間は不安も怒りも、感情自体を娯楽にして消費してしまいます。
そうやって妄想に囚われているうちは、本当の意味で現実的な対応ができません。
私が神様なら、こういう妄想を受け取っても困るでしょうし、だからこそ仕方なく突き返すしかないのだと思います。

「人間たちよ、わかってくれ。願いと妄想を履き違えてくれるなよ」

そんな神様の嘆きが聞こえてきそうです。

拍手


新しいエネルギーの捉え方

楽太郎です。
今朝、起きると身体のエネルギー機構が変わり、体調が安定していました。

冬至以降、新しいエネルギーの落とし所がわからず、妄想的に感情が暴走しがちでした。

地球的なエネルギーがまだ身体に馴染まないため、気が枯れた状態が続き、年末年始は人々の集合意識の波長と合いやすくなってました。
今、人々の波長がかなり下がっているため、そこにチャンネルを合わせると、波動が一気に下がるようです。
そのため、年末年始はかなり意図してチャンネルを人に合わせないようにしなければいけませんでした。

そのエネルギーの捉え方が、最近徐々にわかってきました。
どうやら、人間と同じ思考レベルで意識を持たない点が重要なようです。

私の体感では、冬至以降のエネルギーを身体に落とし込むポイントはハートチャクラで、ここに熱源を感じるようになったため、おそらくこのエネルギーを使わなければ行動に落とし込めません。
このハートエネルギーは主に愛の波動であり、言ってみれば感情のエネルギーです。
私は水のエレメントが強いので、この衝動を制御しない限り、コントロールが難しいようです。

この数週間は感情の暴走が激しかったのですが、これを自我の働き、特に思考の部分で抑え込んでいたため、交感神経が働き身体が硬直した状態でした。
この「思考の抑制」が基本的に悪循環で、人間の常識レベルで考えている以上、このエネルギーの停滞から抜け出すことができなかったように思います。

人間の思考にチャンネルを合わせないためには、人間より一段上に意識を置くのが有効です。
これは、「人間を相対化する」意識をもつことです。

難しいかもしれないので、例を出します。
私は野鳥をよく観察しているのですが、その鳥たちは可愛いだけではないですし、例えば糞をそこら中に撒いたりします。
命を落とせば、人間が取り除かない限り他の生物に散らかされたり、腐敗したり骨を残したりします。
生物は、陽気な一部分だけを切り取って眺めることはできません。

人間に関しても同様です。
人間は花壇を作ったり、善意で清掃をしたりして街を綺麗にする人もいれば、ゴミを捨てたり落書きをする人もいます。
私たちは動物たちと同じように、肯定的に感じられる部分と、否定的に感じられる部分があります。
しかし、動物たちが捕食したり排泄することが自然であるように、人間のあらゆる行いにも実は裏表がありません。

この「人間の行いには裏表がない」という見方は、人間としての善悪や価値観に囚われているうちは、納得することが難しいでしょう。
ただ神様の目線では、人間が盗みをするのも、動物がゴミを漁るのと大差ないように感じられるはずです。
神様からして見れば、人間が徳の高い者ばかりでないことは重々承知のはずです。

人間に主眼を置くと許されないように思えても、一歩引いて生物として見れば、わりとどうでも良いことは多いかもしれません。
私たち人間は特に、綺麗な一面だけを切り取って眺めているわけにはいきません。綺麗なもの以外の部分を見てこそ、全体がわかるからです。

つまり、「人間より一段高いところに意識を置く」とは、人間を一種の生物として捉え、そこに価値判断の主眼を置かないことです。
それを思考で制御しようとすると、逆に難しいかもしれません。

第6チャクラ、いわゆる「サードアイ」に脳の力点を置くと掴みやすいかもしれません。
現代人の思考は主に扁桃体を中心に活動しているので、松果体に意識を持っていくと調整しやすいと思います。

「現代人は松果体が石灰化している」とは言われますが、人々がいつまでも意識を変えることができないのは、扁桃体中心の思考や習慣を変える方法がわからないからかもしれません。

まとめると、ハートチャクラの活性エネルギーを制御するにはサードアイを力点とした意識に置く、というのが私が見つけた冬至以降のエネルギーを身体に落とし込む方法です。

冬至で全体的なエネルギーが変化しましたが、その環境エネルギーを私の身体に変換する際、私独自のシステムを確立する必要があっただけで、他の人も同じ仕組みとは限りません。

私は水のエレメントが強く、何かと感情が暴走しやすいため、心身のエネルギーバランスには昔から苦労しました。
それがようやく落ち着いた状態になり、身体に落とし込むコツを見つけたので、メモがてらブログに書くことにしました。

今、新しいエネルギーに対応しにくいと感じられてる方は、必ずしも参考になるとは限りませんが、何らかのきっかけにしていただければ幸いです。

拍手