招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「天日月大神」解説

楽太郎です。

ここのところ、「神世」と「人世」のエネルギーの相剋状態が佳境に入っているように思います。
「神に仇なす者たち」の妨害が脇目も振らないような激しさとなっているように見えますし、同時に「変革と覚醒」のエネルギーがそれだけ押しているということだと思います。

おそらく、一般的な人々の間でも葛藤が起きており、ここでさらに「闇化」する人と古い時代に袂を分つ人が大きく引き離されていくと思います。
この「クライマックス感」は秋分点まで高まりつつ、10月からはまたガラっと空気が変わるはずです。
おそらく、世の中が大きく動くとしたら、その辺りからではないでしょうか。

さて、今回は例によって「日月神示解説」です。
「日月神示ファン」の方々なら最も気になるであろうトピック「大峠」に関しては次回以降にしたいと思います。
そこに至るまでには、「前提」の話をしなければいけないからです。

「日月神示解説」で取り上げている「荒れの巻」口語訳と解説において、その内容から「伊奘冉命が真の天照大御神であり、伊弉諾命が岩戸開きによって復活なされ、その跡を嗣ぎ(厳密には共同統治)、天日月大神となられる」と読み解きました。

「月と大海原(地球)」を治める素戔嗚命とは伊弉諾命(国常立尊)の「神力の働き」を示す神格であり、「天照大御神=天照皇大神」に対応する御神名であると考えています。

「荒れの巻」に登場する「那岐・那美の神」とは、神示において「伊弉諾命・伊奘冉命に先立って誕生した二柱神」と想定され、後に解説しますが「高神産日神・神産日神」に比定することが可能です。

なぜ「記紀」で男神として描かれる「高神産日神」が伊弉諾命ではなく伊奘冉命とするのかと言うと、記紀での「成婚」の段で、天沼矛を使い作り出したオノゴロ島に八尋殿を建て結婚しようとする折に、伊弉冉命が先に声を掛けたことで一度破談になっています。

上位である「高神産日神」がリードするのは理に叶っていますが、両者の立場通りにプロポーズしたらうまくいかなかったためで、これは「伊弉冉命」が伊弉諾命よりも立場が上であることの証左ではないでしょうか。

また、神示には「男が上で女が下」と男尊女卑を髣髴とする、議論を呼びそうな文言が登場します。
少なくとも神界のルールでは「男神」が先に立つ必要があるのでしょうが、その「順番(いろは)」が違えば物事はうまくいかないということだとしたら、やはり男神である「伊弉諾命」が順序に従いプロポーズをする側だと考えられます。

最初に「太陽と月」を二柱でお造りになられた時、既に「太陽」の支配権を得たのが伊弉冉命であるとするなら、高天原の最高神格である「天照皇大神(大御神)」の玉座も伊弉冉命のものである可能性が高いです。

そして、神界(高天原)を統べるのが伊弉冉命(天照皇大神)であるなら、「高神産日神」の御神名に相応しいのは伊弉冉命であり、また女神である以上は多くの神産みが可能なのも高神産日神である所以なのではないでしょうか。

「記紀」において瓊瓊杵尊が天孫降臨を行う件において、その指揮とサポートを行ったのが高神産日神であり、それゆえに天照大御神の次なる権威という印象も抱きます。
伊弉諾命が単神で三貴子をお産みになられても、神話上どの権威の座にも属していませんが、伊弉冉命は死後に「黄泉の国」の支配神となられているので、やはり伊弉冉命のご神格が本来「上位」であるとした方が自然です。

ゆえに、「荒れの巻」で語られる「那岐の神」を「神産日神」と比定し、「那美の神」を「高神産日神」と同定した上で話を進めます。
記紀ほか日本神話では高神産日神・神産日神を始め「造化三神」を性別のない単神をしますが、神話の語り口ではやはり高神産日神を「男神」とすることが多いので、ここでは視点からは外します。



「日月神示」の内容から抽出した「最高神の系図」です。
神示の中で複数回言及される「御三体の神々」には2パターンあると私は考えています。

原初の神であり、「宇宙そのもの」でもある天御中主神と、その次に成り出でた「高神産日神」と「神産日神」は、「天地開闢」というレイヤーで重要な役割を果たされた神々であり、神示に言うところの「元の神」であるため、こちらの神々が生き通しだからこそ現在の宇宙が存在しているのであり、確かに御三体の神々が御働きをやめてしまえば、宇宙は成り立ちません。

これらの宇宙創生に関わる神々を「天の御三体の神」と呼ぶならば、宇宙が出現した後に元の神々は役目を変えられて違う神格になり、異なる御働きをなされるはずです。
それが「成りなりて」という表現での「別の神格での生まれ変わり」を意味しますが、そもそも天地開闢から生き通しの神々様であらせられるので、「死による転生」とは捉えられないかもしれません。

先ほど天の御三体の神に比定した「那岐・那美の神」は、「国生み」の段にて「伊弉諾命・伊弉冉命」としての御神格に成りなられます。

神示にはもう一つの「御三体の神」として天照大御神の荒御魂とされる「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)」と思われる「つきさかきむかつ姫」を加えた神々が言及されています。

神示の言い回しでは、「天照大御神」と「天照皇大神」、「天照皇大神宮の神」とはどうもご神格が違うようで、おそらく「真の天照大御神」は未だ岩戸に隠れられているとされているので、そのご神格を伊弉冉命とするならば、「撞賢木向津姫」は天照皇大神宮の神であると考えられます。

伊勢神宮始め数々の由緒書きや伝承本によれば、「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」は「瀬織津姫命」とされており、神示の中でも「祓い清め」や「祓戸大神」は重要なタームとなっています。
中臣祓詞、通称「大祓詞」や「禊祓祝詞」「天津祝詞」において、祓戸大神は伊弉諾命が黄泉の国から帰還した際、潔斎をした際にお産まれになられています。

その時に天照大御神含む三貴子が同時にご誕生なされており、この故事が「天照大御神=瀬織津姫命説」の論拠となっています。

なぜ伊勢神道始め歴代の神道が伊弉冉命ではなく瀬織津姫命を「天照大御神」としてお祀りしているのか、私はきちんとした根拠があると思っているのですが、それとは別に「撞賢木向津姫命」が御三体の神に含まれているのはなぜでしょうか。

神示の文脈でいうと、日(太陽)の神としての伊弉冉命、月と地球(大地)の神としての伊弉諾命の他に、「水の神(地球の水)」を司る撞賢木向津姫命の「御働き」があるからこそ、太陽の光と大地と水の力で生命が育まれているからではないか、と思います。
これらの司宰神が三柱揃うからこそ地球上に生物が存在しうると考えたら、宇宙創生の神々に等しく重要な御働きを担われている神々であると言えます。

私は、こちらの三柱を「地(くに)の御三体の神」と呼称したいと思います。




付け加えておくと、「撞賢木向津姫命」は伊弉冉命が黄泉の大神となり、伊弉諾命と仲違いした時に伝言をなされた「菊理姫命」と同じく、伊弉冉命の御子神か二柱からご誕生なされた可能性があると思います。

「撞賢木(つきさかき)」の「撞」とは「月・槻」であり、「賢木」を「榊」と置き換えるなら、「向」は「日向」に使われる「依代(神籬)」に宿る神格であり、「月」と「榊」はそれぞれ月と太陽(日)、或いは「サ(稲)」の神であることを示しているのではないでしょうか。

ならば、「撞賢木向津姫命」は太陽と月の両方の性質を受け継いだ女神ということになり、伊弉諾命と伊弉冉命の二柱の御子神と考えて良いかもしれません。
伊勢神道を始め、日本で「日月」の性質を持つ撞賢木向津姫命を「天照皇大神」としてお祀りする意義は強いと思います。

しかし、神示の中では伊弉冉命も伊弉諾命も各々が幽閉に近い状況にあり、ならば二柱の正統後継者として色濃い撞賢木向津姫命が神界を支配しているのでしょうか。
私はその可能性が高いと思います。
しかし、神示では二柱が幽閉に近い状態に置かれ、「騙された神が”偽の岩戸開き”から現れたことで闇の世となった」と語られています。

「騙された神」が撞賢木向津姫命であるかは定かではありませんが、いずれにせよ「騙した神々」がいることは確かで、ややもすれば偽の岩戸開きをでっち上げた神々が伊弉諾命と伊弉冉命を幽閉させた上で、クーデターを成功させ「闇の王」として支配していたとも考えられます。

或いは「騙されて王位に就いた」撞賢木向津姫命の統治能力が低いために混乱が起きたのか、権力を有した宰相が独断で勝手な政治を始めたのか分かりませんが、それによって神界は相当乱れ、その混乱は三千世界に広がり今の私たちの情勢に繋がっているということらしいのです。

あるいは、「祓戸大神」「瀬織津姫命」として、父・伊弉諾命の補佐役につき、地上に残って世界の罪穢れを浄化する役割に徹していたのかもしれませんし、「菊理姫命」として封じられた両神の伝通役を担っていたのかもしれません。
そうだとしたら、皇統のロイヤルファミリーが何者かに高天原を追放されていた可能性も考えられます。

神示に語られる「五つの岩戸閉じ」のうち、「人皇による支配」と「仏教伝来」以外の岩戸閉じ、「黄泉の千引の岩戸」「天照大御神の岩戸隠れ」「素戔嗚命の追放」は伊弉諾命と伊弉冉命の幽閉と比定することによって説明がつきます。

そして大峠の後に達成される「岩戸開き」が起こると、東北の地に封印された「国常立尊(伊弉諾命)」がまず最初にお出になられ、すぐに「千引の岩」を自らこじ開け、幽閉された天照大御神(伊弉冉命)を救い出し、何千年か越しに逢瀬を果たすと言われています。

その後、伊弉諾命は真の天照大御神(皇大神)であられる伊弉冉命から、高天原を支配する玉座を引き嗣ぎ、次の「天照皇大神」となられます。
そして二柱で神界を統治することになり、「日の神」である伊弉冉命と「月と地の神」である伊弉諾命が一緒になり、「天日月大神」となられるのです。

神示の中では、国常立尊一柱が「天日月大神」となられるようにも読めるのですが、「荒れの巻」では両神が「一つになる」ことが特に強調されているので、仮に伊弉冉命が天照皇大神の玉座を降りずに引き続き就任するにしても、伊弉諾命が新しく玉座を獲得されることに変わりはなく、「天日月大神」となられる事実も変化しません。

そのため、別の見方では「素戔嗚命が天照大御神となる」という解釈も可能です。
神示では「天が地を補佐する」とも書かれており、素戔嗚命の天ヶ下での御働きを天照大御神がサポートするという意味に取れば、やはり二柱での共同統治という説明は理に叶っているように思います。

そして、「日月神示」がなぜ「ひつく」と呼ばれるのか、要所に出てくる「てんし様」とは何かと言えば、「天嗣(てんし)=天(日)を嗣ぐ」ことを意味し、国常立尊が「てんし様」となる意味が通ってくるのです。

伊弉諾命と伊弉冉命が一緒になることで「天日月大神」となられるのだとしたら、時に見られる「大日月大神」とはどう違うのでしょうか。

神示には「大日月大神とは人間の言うお役所のようなものぞ」という一文から察するに、大日月大神とは神の類魂(グループソウル)を示す可能性が高く、大洗濯後にはバラバラに行動していた神々がひとまとまりになるとされることから、高天原を始め全ての神々が大日月大神となる(属する)とも言え、それゆえ「お役所」という表現になるのだと思います。

その大神を取り仕切る神が天日月大神であるとするなら、二柱神は「市長」のような感じかもしれません。
天日月大神が神界・幽界を支配する最高神とするなら、地上いわゆる「現界」を司るのも二柱であり、しかしその場合は「地(くにの)日月大神」と呼ばれるはずです。

そして神示によれば「地日月神」とは臣民、即ち人間のことであり、そもそも大神から分御霊(わけみたま)を与えられている全ての人類は、神の一柱です。
つまり、全世界の「神」の類魂、集合体が「大日月大神」そのものとなり、それゆえに三千世界を跨ぐ統一・統合が可能になるということではないでしょうか。

そう考えると、これまで神・幽・現界とそれぞれ三千世界がバラバラであったがゆえの混乱であり、それが「闇の世」をもたらしてきたのだとすれば、それらの世界の統一は理に叶っていますし、確かにこの世が誕生して以来ない大変革です。

その膨大なスケールの構造改革こそ「大峠」であり、冷静に考えてこれほどの改革が行われるのであれば、衝撃的な出来事や「禍事」に似たショッキングな現象が伴うのも頷けます。

しかし、「三千世界の大洗濯」が終わった後には、「悪を抱き参らせた」新たな秩序の宇宙に生まれ変わり、そこでは「善と悪」の戦いはなく善も悪も仲良く弥栄える、三千世界通して天地一平の世になると神示には語られています。

現在、自らを「絶対正義」と信じて疑わず、あらゆる偽称も搾取も迫害も、「善悪の戦い」という暴力の中で正当化されているからこそ、世は混沌とした闇の世となっているように感じます。
この争いこそ「大洗濯」の渦中に現れる罪穢れや禍事であるとするなら、その汚れを取り去った後には、確かに奇麗な風通しの良い世の中になっているかもしれません。

私は、どうもそれが今この世界で現象化しており、「大峠」はこれから佳境に向かっていくように思えてなりません。

そのことについても「日月神示」には記されており、その解説は近いうちにしたいと思います。
そして新たな世界の扉を開く「岩戸開き」は、どうも私たち地上の人々、「地日月神」にかかっているようなのです。

そのヒントも神示にはあるようです。日月神示は、本当に示唆に富む書物だと思います。

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*「日月神示解説」にて関連記事を投稿しました。*

日月神示解説 | 「天日月大神」について

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ちょっとスピった話

楽太郎です。
だいぶテーマの大きな話が続いたので、今回は閑話休題にしたいと思います。

とうとう、iPhoneがお亡くなりになりました。
と言っても、バッテリーを交換すれば復活するかもしれません。

AppleCareの修理予約が取れずヤキモキしてたのですが、お亡くなりになる直前、奇跡的に予約に繋がりました。
「真のグレートリセット」の記事をスマホで書いている最中、充電中にも拘わらず1分につき1%ずつ消耗していくので焦りました。
記事の途中でそのままバッテリーが尽き、ブログはPCで書き終えて公開しました。

そして未だに、いくら充電しても起動しません。
スマホを使い始めて十数年、しかも機種変して2年経ってないのに通常使いでここまで劣化したのは初めてです。
Appleも近年は業績不振に喘いでおり、いつもの「OSでバックドアを走らせてバッテリー消耗を加速させ、修理と機種交換需要を作り出す作戦」かなと思いました。
これこそ陰謀論ですが、有り得ない話ではない(前例がある)のがザ・ビッグテックです。

まあ、このブログは本来スピった話をする場所なので、グレートリセットの話を持ち出されたら困る闇の勢力の妨害ということにしておいた方が面白いかもしれません。

さて、本日9月8日の空模様はとても凄い星回りになっています。
厳密には真夜中の3時に満月と魚座で皆既月食が起こっていたので、過去形です。
私は頭痛が酷くて午前1時半に目が覚めてしまい、カレンダーの月齢表示を見て今日が満月だと気づきました。
私は満月の日の頭痛率はかなり高く、特に気の乱れを感じやすい日です。

体感としては、確かに邪気は強いのですが、それ以上に「浄化」の力を凄く感じます。
おそらく、ここらへんで「耐えきれん!!」と行動に移す人が続出するのではないでしょうか。
魚座は「過去」と繋がりの強い星座であり、「魚」は情緒や感情に繋がります。そこに「満月」が加わるので、「記憶」や「後悔」、あるいは「過去からのしがらみ」の精算が起きてくるかもしれません。
「目覚め」の後には、伸びをして布団から起き出すものです。そうして、「新しい一日」は始まります。

私は、これからの日本に心配をしていません。
私が危惧していたタイムラインでは、不況下での大災害があれば本当に人々が食うに困る段階まで行く可能性が高かったと思います。
しかし、やはり春分点で空気が変わり、日本が「ソフトランディング」する世界線に移行したのだと思いますし、それを機に人々の邪気も落ち着いたように見えます。

しかし、これから私たちの日常が、足元から変わっていく時代にはなるのだろうと思います。
私自身、iPhoneが使えなくなって、アプリが使えずブックマークも開けず、情報更新もできないのは想像以上に不便さを感じました。
私がビッグテック嫌いなのは置いといて、いくら人々の生活や仕事に欠かせなくても物事には栄枯盛衰があり、いつかはスマホを手放して違うものを掴む時は来ます。
それが見果てぬ最新端末なのか、ガラケーか紙とペンなのかわかりませんが、それを作るのも選ぶのも私たち次第です。

この時代の切り替わりも人類の「学び」のプロセスであり、これまで「物質」を追求して人々の生活が楽になる流れの反作用として、金と権力の偏りがもたらす負の側面がありました。
次の時代は、その反省を活かして物質的な豊かさだけでなく、精神的な豊かさも享受して調和のとれた文明を目指すことになるのだと思います。

今の子供たちは、小さい頃に苦しいマスクをして生活せざるを得ず、不況と殺伐とした社会の中で、大人たちから一方的に与えられる知識と娯楽を受けて育ち、決して恵まれているとは言えません。
けれど、彼らがもう少し大人になる頃には、全く違う時代を自分たちで切り拓けるようになり、いずれは本当にいい時代にしようという機運を担って行くのではないでしょうか。

そして、彼らが歩む道を用意するために、私たち天から役目を与えられた「降誕人」が時代に先立って生まれました。
その数は思ったほど少なくないと思います。国内で数十万人、下手すると数百万人いるのではないでしょうか。
しかし、そういった天からの命持ちにとって、天界とは全く性質の異なるこの地上世界はあまりに歪で、散々いじめられ苦に負けた先で、諦めた者もいれば潔く闇に堕ちた人々もいます。

その中で、今こうしてライトワークを行う命持ちの人々は、苦に負けずに魂を磨き続けた勇者であり、その強い光があれば闇に惑える人々を救うことができるはずです。
そして、その光で未来ある子供たちや若者を導けるのなら、その先の未来に光を繋ぐことができるのです。

今、闇に包まれて一寸先も見えない日々に負けず、どうも「あの人はおかしいんじゃないか」と言われてでも、一心不乱に自らのやるべきことをやり抜く姿勢は、きっと周りを動かし、子供たちに「大人」の見せるべき背中を見せることができるはずです。
社会一般からは不甲斐ないと言われても、本当に大切なものを取り戻すためには、今とは逆のことをやらなければいけません。
その行動は、現時点では稀有にしか見られませんが、いずれ世界のスタンダードとなり、スタンダードにしていくべきものなのです。

私は最近、その役割を強く感じますし、逃げる隙すらないことに気づきました。
私は天界に、愛する人を残してきました。この世でいくつか仕事をするためです。
けれど、その不安にいつも寄り添ってくれる仲間がいます。

目に見えず、たまにいるのかいないのかわからない彼らですが、今でも高いところから見守ってくれているように思います。
彼らがしかめっ面でいるのか、笑っているのかは正直わかりませんが、私はきちんとこの世で仕事を果たし、良い土産を持って帰らなければなりません。

その日のために、私を待っていてくれる愛する人のためにも、私は彼女に恥をかかせる訳にはいかないのです。


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真の「グレートリセット」

楽太郎です。

先日から国際問題に切り込んだテーマを扱っていますが、ある意味危険な領域に踏み込んでいる実感があります。
それは別に世界を牛耳る「闇組織」を告発しているからではありません。
私自身が「陰謀論」と世間で片付けられかねない事象の話を取り扱っているからです。

これに関して、まず「陰謀論」を陰謀論と決定づけるものが何かを考える必要があります。
「陰謀」というからには、根拠にエビデンスがなく情報リソースも曖昧で、ロジックが飛躍していたり破綻していたり、妄想やこじつけが強ければ、そう断定しやすくなります。
しかし近年の「陰謀論」は、エビデンスも科学的でロジックもきちんと筋が通り、おまけに倫理的観点から見て正論としか思えないような言説でも「陰謀論」とされることがあります。
これは何故でしょうか。

私は「陰謀論」を作り出すのが決まって「権威」の側であるからだと思います。
例えば、「A」という論文と「B」の論文があって、AもBもどちらも正当なデータを元にロジックを組み立てていたとしても、権威が「Aは正しく、Bは間違いだ」と言えば、Aの説が何であろうとBの結論は間違っている、と客観的に評価されます。
AもBもエビデンスが等価だとしても、学会やマスコミが Aのロジックを採用し、Bのロジックは都合が悪いとするならば、自らの権限で「Bは陰謀論である」と結論付け、社会的評価を規定できてしまうことになります。
つまり、言説の強度を決めるのは「権威」であって、決して妥当性の高さや倫理的正当性とは限らないのです。

私は、ウクライナ侵攻の情報を追う中で、反省したことがあります。
それはロシアが一辺倒で悪と断定し、ウクライナ側の正当性だけを過大評価していたことです。
戦争自体を始めたのはロシア側であり、その国家的責任は許されるべきではないと思います。
しかし、どうもドンパス地域によるロシア系住民へのウクライナ政府の迫害はどうも事実であり、ロシアには軍事介入における論拠があったことを認めざるを得ません。
ゆえにウクライナ側が「正義」であり、ロシア側を「悪」と断じていた認識を反省しながら、戦争とは言え民間人を標的にした作戦や非人道的な戦術を続けるロシアを擁護することはできず、やはり戦争は「善悪二元論」で片付けることはできないのだと思います。

CIAの協力で誕生した現ウクライナ政府は「DS」の手先であり、ロシアが「DSから世界を守る戦い」をしているとか、あるいは西側諸国の民主主義を脅かす社会主義帝国の侵略と取り、ウクライナが民主主義陣営の代表として戦っている、という見解もあります。
これらの説は正しいか間違っているかというより、まず「善悪二元論」で捉えていることを考慮しなければなりません。
やはり戦争とは黒と白の入り混じるものであり、決してグレー一色とも言えず、とは言え、決して白と黒で見てはならないものであることは確かだと思います。
ゆえに、善悪二元論を排して見る利害関係にこそ真実が隠されており、どちらが正しくてどちらが間違っている、という断定では拾いきれないものがあります。

特に戦争のような諜報が基本となる出来事は、双方が「陰謀」というレトリックを用います。
事実のレベルからフィルターが掛けられた不確実な情報の中で、「正解」を踏み続けることは不可能であり、それゆえ「善悪」とも「陰謀」とも断定するのは危険です。

前置きが長くなってしまいましたが、要は「陰謀論」という断定は、かえって真実性にフィルターをかけてしまいかねず、その評価には「権威性」がつきまといます。
正誤の判断はエビデンスをしっかり見極めた上でロジックを吟味し、たどり着く結論が妥当かどうかを各自が考えるべきだと思います。
だから私は「陰謀論」という印象を抱かれないように努力しますが、論拠となるデータに関してはソース上の権利の関係で、今回は省きながら解説させて頂くことをご了承下さい。

さて、今回のテーマは「グレートリセット」についてです。
「グレートリセット」とは、「世界経済フォーラム」が開催する2020年度開催のダヴォス会議においてテーマとされ、世間を騒がせた概念です。

かねてから陰謀論の目玉とされることの多いWEFですが、Wikipedia日本語版の記事を読むと確かにツッコミ所満載です。
ここでWEF最高責任者であるクラウス・シュワブ氏の提唱をまとめてみます。

1. 利害関係者の経済の整備
2. 弾力的で公平、かつ持続可能な環境構築
3. 第四次産業革命の先進性の活用

この理念を実際に、WEFの具体的な推進事業に当てはめてみます。

1′.LGBTQ(性的多様性)、ポリティカル・コレクトネス
2′.環境エネルギー、脱炭素社会、EV、窒素肥料削減、家畜削減
3′.生成AI、AIロボット、自動運転技術

「うわあ…」と思ってしまいますが、これは決して穿った目で見ている訳ではなく、彼らの思想が具現化したものを私たちはこれまで見させられてきた、ということだと思います。
つまり、いつも隣にグローバリストがいた訳で、この支配感の延長に彼らが口にする「世界政府」はあるわけです。
決して、リベラル派やコミュニストの専売特許だったわけではなく、どうやら権利元は「世界経済フォーラム」だったようです。

日本語版Wikipediaによると、これらは「リセット」後に構築されるべき仕組みであり、その他に「経済グレートリセット」なる概念があるそうです。
それによると経済グレートリセットとは、わざと国債や通貨価値を暴落させ「インフレを極限まで高めることで負債をゼロ同然にし、超インフレでの国民の不満は補助金などの政策によって緩和し、金融取引は金や銀で行う」という解説が付記されていました。

経済学的に見て、申し訳ないですが現実的ではありません。
そもそも、国債価格がゼロになるということは国家財政の破綻を意味するので、国家もろとも消滅することを示しています。

通貨に価値がなくなるわけですから、インフレどころか物物交換か他国の通貨を使って取引することになります。
そこで金銀で取引するのは、現代においても通常の商用取引であり、金本位制に移行するのは結局、通貨の撤廃を意味します。
これらをまとめると「国家もろとも消し去って、通貨も撤廃する」と言っているようなものです。

例えば負債総額35兆ドルで、日々含み損が肥大しているアメリカのような国が、「もうアメリカ合衆国やめるので、ドルも廃止します」というのは、確かにグレートリセット以外の何ものでもありません。
ただ、さすがに世界中のエリートが集まるWEFでこんなフワフワした話が出たとは思えないので、「世界経済フォーラム」が公式に定義する「グレートリセット」を順を追って考えるなら、どういったものになるのでしょうか。

男と女という差別をそもそも無くし、人種という概念自体を取り払い、国境も民族もいっそ無くしてしまって、人間が労働から解放されるためにAIを使役するようにしながら、たくさん人口がいるとそれだけ統治コストが高く、環境に悪影響なので総人口を合理的に削減し、人口増加リスクを軽減するために農地も減少させ、動物の肉もなるべく食べないようにして、地味な自然環境エネルギーだけを使い、末永く人類を世界政府の下で細々と管理される存在にしよう

こういう説明だけを聞いていても、どこか街角で聞いたことがあるくらい、懐かしいメロディに感じます。まるで、どこかの国の映画で見たディストピアです。
つまり、このサステナブルな世界にするためにはその準備が必要であり、いつかは焦眉の課題である人口削減に取り掛からなければいけませんし、農地や家畜の数を減らさなければなりませんし、化石燃料を廃して自然エネルギーで発電できる環境を整え、人間が働かなくて良いようにAIにできることを全てやらせるところまで、文明を持っていく必要があります。

ここに、近年東西問わず先進国を中心に推進されてきた自然エネルギー発電、EV、農地削減、AIまでのトレンドが揃います。
今、世界中で起こっている戦争や疫病までWEFの提唱通りとは言いきれませんが、薬害が確認されているコロナワクチンはWEFの中心母体であるビル&メリンダ・ゲイツ財団とその影響下にあるWHOが推進したものです。

ここまで来たら、陰謀論と実際にやっていることの距離がなさすぎて、もはや「陰謀」ではなく実際に推進されている事業の良し悪しではないでしょうか。
このWikipediaでは、これらのグローバリズムを批判する人々の名が列挙されており、「陰謀論者」であると断定しています。
しかしよく読むと、これら陰謀論者の発言をファクトチェックしたBBCは、ビル&メリンダ・ゲイツ財団の資金提供を受けている放送局であることは公然の事実であり、CNNもとい、どこも旧メディアは資金難に喘いでいると聞きます。
ゲイツ財団の支援を受けているBBCの「WEF」批判に対するファクトチェックは、朝日新聞のファクトチェックを朝日新聞系列組織がやるようなものではないでしょうか。
Wikipediaも昔から中立とは言い難い内容がありますが、有志記者の管理にも限界があるのかもしれません。

では、ここから「グレートリセット」が本当に発動するとしたら実際にどうなるのか、考えてみたいと思います。
本題に入るまでが長くなりすぎました。申し訳ございません。

先ほど、「経済グレートリセット」に関して批判を行いましたが、実際にアメリカの中央銀行である連邦準備制度(FRB)は、ドルのデジタル通貨一元化を計画しているようです。
FRBは2019年の金融危機以降、青色吐息の金融業界を救うために毎日2400億ドルの通貨供給をしながら、利払いで日々7・8億ドル溶けていき、今や年間損失額が1000億ドルを超えていると言います。
米国政府の負債総額は35兆ドルとされており、利払いと年々積み重なる財政赤字で火の車なのは明らかであり、いっそ「ちゃぶ台返し」を考えていてもおかしくありません。

最近まで、トランプ大統領はFRBのパウエル議長に対し、利下げ要求の圧力を強めていました。
FRBが利下げを渋るのは、外国為替市場でドルが売られてドル安になれば、余計に利払いが増え財政負担となり、赤字まみれの財務状況が悪化するからでもあるのでしょう。
FRBには「ボルカーのインフレ退治」の成功体験があるため、「インフレには利上げ」という形式的な考えが染みついており、中央銀行のプライドとして教義に背く訳にはいかないのかもしれません。
ただ本音としては、中央銀行が扱えるのは国内に滞留する20兆ドルの流動性に過ぎず、国外には「ユーロダラー」と呼ばれる160兆ドル程度の制御不可能な資本が市場の流動性を決定づけており、政策金利をいじって通貨量を変えたところで、実は何もできないのを悟られる恐れがあるからです。

日本の省庁でもそうですが、ああいったエリートで固めた組織は「俺たちが国を動かしている」というプライドがあり、それゆえに中央銀行が無能であることを悟られる恐怖はエリートたちにとって相当のはずです。
だから対外的には、トランプ大統領の命令通りに「利下げ」をしたら、余計に状況が悪化するかをまず見極める必要があり、そこに関してここ数か月は検討を重ねていたのだと思います。
あと他にも、FRBがどうしても高金利の状態を維持したかった理由があります。

2020年にコロナのパンデミックが起きた時、FRBは経済浮揚を図るために財源として2兆ドルの臨時国債を増発しました。
その時、アメリカの大手銀行である「バンク・オブ・アメリカ」が7000億ドルの国債を大量に購入し、どうもその後の国債暴落に合わせて多額の含み損を抱えてしまったようなのです。
ただ、バンカメはアメリカを代表する大銀行の一行ですから、経営危機に陥っていると言えど簡単に潰れてもらうわけにはいきません。
そのため、利上げポジションを保つことでバンカメの自己資本の欠損や含み損を相殺し、なるべく赤字を軽減させようとしてきたのです。

ただ、バンク・オブ・アメリカの株を大量に保有していた投資会社、バークシャー・ハサウェイのウォーレン・バフェット氏も、さすがにそんな危ない銀行の株は持てません。
そのため、現在バフェット氏はバンカメの株を大量に売却し、開示義務のある10%以下の保有率まで下げ、たぶん現在は売り切っているはずです。

このように、「グレートリセット」のWikipediaにある、国債価格を限りなくゼロにして負債を相殺する、というのは理論上は可能です。
でもどうせなら、このまま債務地獄に陥り破綻するのは見えているので、いっそドルを「デジタル通貨」に一元化すれば、中央銀行としてのメンツを保ったままユーロダラーから優位性も奪還することができ、おまけに国民の経済活動の全監視と統制能力まで獲得できるのです

これまで米国経済を牛耳ってきたグローバリストが、もしこの構想をFRBと共有したとして、瀕死の中央銀行が乗らない理由があるでしょうか。
「グレートリセット」の提唱理念の始めにあるように、世界各国のコロナ対策として膨らんだ負債をチャラにする妙案としてのグレートリセットは、国債の価値を限りなくゼロに近づけて超インフレを起こし、負債を無同然とすることです。
アメリカの金融業界の柱であるFRBが、多業界の超富裕層の集団であるWEFと懇ろでないはずはないので、今取りかかるつもりではないにせよ、この妙案通りの方針に出口を見出していてもおかしくはありません。

奇しくもバンカメの株を売り払ったバフェット氏は、WEFの影の主催者であるビル・ゲイツ氏の師であり、ゲイツ氏自身もアメリカ金融界が瀕死の状態にあることを知らないはずがありません。
ドルを廃止し「デジタル貨幣」に切り替えることは、ITと金融が新基軸のデジタルドルを完全に掌握することとなり、例えばブロックチェーン技術を用いて国民や世界中の人々の信用度をデータベース化できれば、全ての流通と投資を監視しながら、中央銀行が全統制能力を獲得することができるのです。
これが空想にせよ、捉えどころのない分散型のユーロダラーに主導権を奪われ、実質的に風見鶏同然の存在となったFRBや世界各国の中央銀行が、自らの威信を取り戻すためには基軸通貨の転換こそ理に叶っているのです。

つまり、「負債を帳消しにして新しい世界秩序を作る」という点では、進むも退くもできない金融業界と、世界政府樹立を目論むグローバリストたちとは利害が一致します。
けれどここで気になるのは、経済界の富豪と繋がっているであろうFRBのパウエル氏やクック理事を更迭して、自らの息のかかった責任者にすげ替え、FRBをコントロール下に置きたいトランプ大統領は、どうもグローバリスト側と利害が一致しているように見えません。

これまでいつでも暴露可能なエプスタイン問題を素通りしたり、軍事予算に全く手をつけずに予算案を提出したり、マニフェストと逆のことに勤しんできたトランプ氏が、むしろインフレに実行力のある利下げ方針を取り、グローバリストの意向に沿う働きをしてきたFRBの改革に手をつけ始めているのは、何となく矛盾しているように思えます。
この動きを見るに、トランプ氏としては米国政治の要であるイスラエルロビーや軍事系ロビー、医療・製薬ロビー、IT系ロビーの既得権益を毀損するつもりはないし、金融ロビーと金融業界もできるだけ延命させたいが、グローバリストから経済のハンドルだけは取り戻したい、というのが本音なのではないでしょうか。

しかし、そうは言ってもFRBには事実上の経済調整能力はなく、主導権はほぼ実態のないユーロダラーにあるので、トランプ大統領がFRBというハンドルを握ったところで、経済は思うように動かないのです。
おそらく「ディール」好きのトランプ大統領は、イーロン・マスクを通じて「DS」つまりグローバリスト側と協議し、グローバリスト勢力の利権を保証する代わりに金融に関する主導権を獲得したのではないでしょうか。
しかしグローバリストも一枚岩ではないため、特に民主党寄りの勢力とは利害が一致せず、民主党支持であるパウエル氏とは未だに折り合いがついていないと考えられます。

こうして見ると、アメリカの超富裕層を中心とする「グローバリスト」はそもそもアメリカ経済を土台としており、アメリカの政治はエリート階級のロビイングや財力に支えられているため、そもそも相反するというより元々持ちつ持たれつであるように思います。
従って、「グローバリスト」とはエリート階級の抱く選民思想やアメリカ帝国主義の支流にあって、彼らからすれば「グローバリズム」の母体としてのアメリカと、3億4000万人の住む多民族国家としてのアメリカは定義の異なるものであり、それゆえに中流階級以下の国民の利益や権利が政治の上で軽視されるのは当然かもしれません。

トランプ大統領がマニュフェストをひっくり返してグローバリストに有利な方針に変わったのも、「世界政府」のビジョンとアメリカ第一主義の相似性と矛盾の少なさに気づいたからであり、仮にアメリカが世界に君臨するにも、その下に世界政府が存在しても結果的には同じことになります。
つまり、「アメリカ的思想」の発露としての「アメリカ帝国主義」がいずれ世界を支配することになれば、事実上理念としてのアメリカが永久に繁栄することを意味します。
従って、現在のアメリカ政治と金融を支える既得権益がそのまま残存しても、大した問題はないどころかむしろ有益、くらいに考えてもおかしくありません。

仮に世界を混乱に陥れたコロナウイルスの出元や正体が何であろうと、結果的にファイザーやモデルナを始めとする米国内の製薬業界は相当な国益をもたらしたはずで、EVや再生可能エネルギー、AIにしろ政治家に莫大な供与をしてくれる企業系のスポンサーがあってこそのアメリカ政界であり、彼らを敵に回すのは得策ではないのは確かです。
ゆえに、いつ沈むかわからない「アメリカ合衆国」を存続させるという第一目標を達成するには、中流以下の国民がどれだけ貧困に沈み治安が悪化し堕落しても、「国家」という崇高な理念の前では二の次にもなるでしょう。

そして、金満で溢れる国際的なトップエリートの集団に加わり、彼らの利権に預かろうとする人々は世界中にいるわけです。
例え自分の国が傾こうと、これから訪れるであろう「世界政府」が誕生した暁には、新政府内で良いポジションに就いていれば自国に利益を分配することができ、それは自分の利益にもなるでしょう。
その最大の貢献者が自分であるとするなら、エリート内の出世争いのためにグローバリズムのマニフェストを実行し、一時的に国益を毀損してでも長い目で見れば国にとって善いことをしているのだ、と正当化しうるはずです。

どうもその思考が近年の各国の政治事情に反映された結果、国民の意向を無視した政治権力の暴走に繋がっているのではないでしょうか。
そう考えると、過剰なマイノリティ優遇や不必要な環境エネルギーの推進、大した利益をもたらさないEVや生成AIへの過剰投資も説明がつきます。
そして、ここまで利益誘導的な性格が露出しているこれらの計画が、アメリカの一大産業である「戦争」という分野に活用されていないはずがないのです。
アメリカが世界中の批判に甘んじながら国費を投入して支援するイスラエルのパレスチナ侵攻、ウクライナ戦争に関しても不自然に見える部分はとても多いように感じます。

こうして俯瞰してみると、確かに世界のトレンドはグローバリストの提案通りに拡大しており、「世界政府」への布石も着々と打たれているように見えます。
しかし、私のような一般市民でも「陰謀論」に罹患し、グローバリストのやりたいことが手に取るように見えるご時世にあって、彼らが「自分たちが導かなければならない雑多な大衆」と思う大多数の人類を相手に、裏を掻かれることがないと言えるのでしょうか。

前回の記事にも書きましたが、防疫どころか薬害をまき散らすコロナワクチンや、思うほど大規模になってくれない幾つかの戦争、なかなか成果を発揮しない農業改革、自然エネルギーは未だコストに似合わず、EVは全く普及せず欠陥まみれ、生成AIは未だに有効な活用方法がなく、AGIの開発はまだ理論すらできていない、この現実を前にしていつまで彼らが強気でいられるのか、私は甚だ疑問です。
しかも彼らの提唱するポリティカル・コレクトネスは、逆にマイノリティの人々をやりづらくし、「差別を避ける」ことの意識化が逆に差別を呼んでいます。
そこには、「マジョリティである我々が、弱いマイノリティに目溢ししてあげなければ君たちはやっていけないはずだ」という優越意識がにじみ出てはいないでしょうか。

ただ、もう世はそういったロジックにさめざめするほど触れた結果、匂いを嗅いだだけで「ソレ」とわかるくらい、人々の脳裏には忌避感が広がっています。
大衆的な感覚ではハッキリ「嫌い」と言えるほどの評判になっていても、相変わらず肩書のある人々は優越意識を剥き出しにしながら、異論には容赦なく力を用いる彼らのやり方ですら、無邪気な大衆も予測ができるようになってしまいました。
つまり「社会的強者」と「大いなる弱者」となった大衆との間ではここまで温度差があり、その「社会的強度」で保証される発言力や強制力が社会的地位、財力や権威を基盤とするなら、それが瓦解した時には自分たちも「大いなる弱者」の一部になることを意味するのです。

そして実際、私が解説してきたように、アメリカ金融の世界は破綻直前であり、好況と思わせている株式も一皮剥けば実態がないことも明らかになりつつあります。
果たして、「アメリカ経済」という下支えを失った状態で、国内のガリバー企業の経営陣で構成されるWEFの権威は保たれるのでしょうか。
もしもの話をすれば、懐と名誉が傷んだ経営者が「世界新政府」の閣僚として誕生したとして、全世界の人々から惜しみない喝采が送られるでしょうか。
やはり、世界新政府も今日のアメリカ合衆国がしているように、強権的かつ強引な手法で抵抗勢力を制圧しながら、身内には甘いやり方で権勢を維持しようとするのではないでしょうか。
それはあたかも、ハリウッド映画によくある「ディストピア」のように。

「世界政府」というのは、見方を変えれば「アメリカ帝国主義による世界征服」であり、真のアメリカ合衆国を毀損した末に築かれる、全世界195カ国を属州とした「世界のアメリカ合衆国」を意味します。
その利害とトランプ大統領の「アメリカ第一主義」は全く矛盾しないからこそ、彼が糾弾しようとしていた「DS(グローバリスト)」の利益となることを推進し始めたのだと思います。
ゆえにトランプ政権はグローバリズムの体現であり、アメリカのナショナリズムはグローバリズムと同化したと考えて良いでしょう。
しかし実態としては刃の欠けた諸刃の剣であり、トランプ大統領が意気込めば意気込むほどに墓穴を掘る状況になりつつあります。

冒頭に戻りますが、彼らの言う「グレートリセット」というのは、現時点で実現不可能です。なぜなら、その試みの達成度は現時点でどれも及第点に至っていないからです。そして、今からやり直したとしても、もう上手くいくことはないでしょう。
ただし「アメリカという国をリセットして、基軸通貨も負債もリセットする」という意味での「グレートリセット」はもの凄く現実的です。
そして、米ドルなき世界経済も、必然的に「グレートリセット」という大変革を迎えることでしょう。

アメリカを世界政府の土台としながら、それ以外の国々を民族もろとも「リセット」する本来の「グレートリセット」は今や夢幻となり、世界変革で最も大きな利権を得ようとしていた彼らがその富や権益をリセットされる時が来るのならば、それこそ新時代のための「グレートリセット」となるではないでしょうか。
現在の強大な既得権益構造が剥ぎ取られ、中央集権型の「ドル」が世界の経済の中心になるのではなく、投資先を求めて世界中を回遊する「ユーロダラー」がトレンドを作る世界は、さぞかし風通しの良い世の中になりそうです。

むしろ「グレートリセット」で君臨する予定の彼らのリセットこそ、人類に有益な「グレートリセット」であり、決して大勢の人の命や文化ではなく、如何わしい権力者の持つ富や権力こそリセットされるべきなのです。



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「世界政府」樹立ならず

楽太郎です。

このところ、あまりにテーマが社会派になりすぎて、「巨悪と戦う」ような姿勢に見えていたかもしれません。
しかし、「戦う」にも色々なタイプがあって、相手とバチバチに石を投げ合うのも「戦い」なら、自らの欲望に耐えてガマンするのも「戦い」です。
私のニュアンスはどちらかと言えば後者に近く、結論としては「耐えてたらなぜか勝っていた」状況になると私は思っています。

今回は「世界政府」について取り扱います。
これまた大きなテーマで恐縮ですが、一先ずお付き合いください。

さて、前回の記事ではあたかも「DS(ディープステート)」と呼ばれる組織が「世界経済フォーラム(WEF)」であるかのように取り扱いました。
私は「DS」に関して何を対象として扱うかで意味が異なると考えていて、例えばロックフェラーやロスチャイルドの私設闇組織とか、西欧の貴族と富豪が集まる「ビルダーバーグ会議」とか、例に漏れず「世界経済フォーラム」とかを挙げることができますが、誰がどう「DS」と呼ぶかによるので、断定できません。

結局、陰謀論が湧き上がってもトータルで「開き直れば良い」と割りきり、「表向きに計画がバレようが、その通りにやって大して批判が起こらず、実行可能なら特に問題はない」と考えて世界経済のトレンドを意図的に操っているのは、WEFの中心母体であるビル&メリンダ・ゲイツ財団が本丸であると、私は確信しています。

WEFの年次総会である「ダヴォス会議」には、世界の政府要人や貴族や富豪、著名な学者や文化人も参加し、その討議の様子は全て中継され大部分が配信されているので、「闇」は全く感じません。
しかし、この総会を「カンヌ映画祭」に例えたら、大衆にとっては映画の内容より俳優や監督がレッドカーペットを歩く姿を見るのがメインであり、このフェスが業界のレセプションとしての意味合いが強いことがわかるはずです。

WEFに参加可能な錚々たる面々を一人ずつ確認すると、この会に参加する「資格」がどういうものかは一目でわかるはずです。
あまりここで実名を出すと誹謗になりかねないので伏せますが、大抵「大富豪」「業界トップ」「エリート」の三拍子に「グローバリスト」という半拍がついた人々です。

彼らがレッドカーペットを歩く俳優や女優だとしたら、映画の賞を選考する主催者がいるはずです。
その選考委員を取りまとめるのが、かのMicrosoft会長のビル・ゲイツ氏であり、米国一の投資会社バークシャー・ハサウェイを率いるウォーレン・バフェット氏の愛弟子とされる人物です。
ゲイツ氏の動向を穿った目で観察すれば、ボロボロとホコリと陰謀論が出てきてしまうのですが、私自身が興味深いと思うのはそこではありません。

2020年のコロナウイルス流行に伴うワクチンの強制接種や、都市ロックダウンからの経済的変容、食糧難を煽りながら進む農業縮小、化石燃料を悪役化して成り立つ環境エネルギー、エンジン車に変わるEVの流通、AI革命による人的労働力の代替、これらがグローバリストの諸々の計画の一部だとしても、大概うまくいっていないことです。

一つ一つ説明していったら長くなるのですが、例えばゲイツ財団とWHOが結託して先進国の人々に打たせたコロナワクチンは、防疫効果よりも接種後の薬害と、ワクチンの薬効をすり抜けて逆に増殖するウイルスが判明し、それに加えワクチンに含めた「避妊」効果さえも暴露されてしまい、完全に手元のカードがバレてしまいました。

「環境エネルギー」という新型利権にありつくためにでっち上げた「地球温暖化説」も、経済効果を伴えば嘘も誠になったのでしょうが、EVは長期的に見て全く合理的ではない上に技術的に未熟で、自然エネルギー発電に至っては天然ガスと石油の熱効率を代替しようとするほどコストが爆上がりするので、完全にイロモノの技術です。

とりあえず、全て富豪がより富豪になるための富豪によるアイデアの寄せ集めなので、思いついたことを力任せにやっていればうまくいくものではないことの証明ではないでしょうか。
生成AIによる芸術家やクリエイターの著作権侵害、世界中の創作・芸術文化をメタメタにしたことや、ディープフェイクによる社会犯罪や人権侵害もまだ可愛いもので、コロナウイルスが人工的か自然発生からは置いておいて、ワクチンの薬害なんてのは下手すると国家が吹き飛ぶくらいの大疑獄になりかねません。

脳裏に、新日本窒素肥料が引き起こした公害による「水俣病」や厚生省とミドリ十字の「薬害エイズ」も決着までに何十年もかかった記憶があり、訴えようと政府や企業がゴネて長引くのは目に見えます。
また、この訴訟が起こるにしても先進国はだいたい強制接種を行なっているので、なかなか実現するとは思えず、この問題の根は深いと思います。

ただ、それだけのことをやっても平然としていられるのは、彼ら一万人規模のエリート集団を集めたら、全地球の資産の何割かを保有している可能性が高く、それゆえの自信かもしれません。
だから、「何をやってもどうせ大衆は手出しできない」とタカを括っているからこそ、環境問題を取り扱うダボス会議に自家用ジェット機を飛ばして駆けつけても、一般大衆からどう思われるか全く気にしないのでしょう。

もし、彼らがトランプ大統領が倒したかった「DS」なのだとしたら、それこそ児童売春のエプスタイン問題を引っ張り出せば、大衆が勝手に彼らを引きずり下ろすはずです。
しかしそれに関してトランプ大統領は当選後、一貫してシラを切り通しており、むしろ今は「DS」が喜びそうなことばかり実行に移しています。
トランプ大統領が「DODGE」でメスを入れるとされた歳出予算削減でも、社会保障費を減額して軍事防衛費はむしろ増大しています。

どうやらアメリカは共和党、民主党問わずグローバル勢力であり、むしろ「グローバリズム」を逸脱したアメリカのナショナリズムは存在しえないのかもしれません。
「自国拡張主義」、言ってみれば「帝国主義」に民主主義も社会主義も関係なく、帝国を支配する王族や貴族が今や企業家や富豪に置き換わっただけのように見えます。

実のところ人類は、ピューリタン革命やフランス革命を経たところで寡頭政治の歴史は変わっておらず、民主主義ですら「エリート支配層に気に入られた」者だけがトリックを使って代表職に就いてきたのだとしたら、完全な人治政治である社会主義が不幸な歴史を歩んできたのも頷けるのです。

特にアメリカは1946年の「ロビイスト規制法」施行から、企業努力よりも制度を変えることで企業の成長を促してきました。
寡占企業は他の競合を潰すため、優遇策を利用してシェアを拡大すると、どんどん資本が集まりガリバー化します。
MicrosoftはPCにOSを付属させ、それに「Office」を抱き合わせることでスタンダードを作ってきましたが、これは明白に独占禁止法違反ですが未だに何のお咎めもなく、それはGoogleもAppleでも同様です。

国家ぐるみで巨大化した企業から政治家は巨額なキックバックを受け取り、大富豪はますます私腹を肥やし、権力も影響力もますます増大していくのです。
それがビッグテックのような、直接的には人畜無害な業界ならまだ良いのですが、それが軍事や医療や製薬に及ぶのがシャレにならないのです。

アメリカという国が常に戦争を起こし介入したがるのは、戦争自体が巨大な産業であり、その利権にありつく人間が多いからです。
自分たちの利益のために戦争さえ厭わないのですから、欠陥ワクチンを世界中に押しつけることに躊躇するとは思えません。

アメリカのボロを突けばホコリは無限に湧いて出るのですが、今回の話のテーマはそこではありません。
今、トランプ大統領はFRBのパウエル議長やクック理事を解任させ、自分の指名候補に入れ替えることに躍起です。

トランプ大統領がグローバリストに屈してもしていなくても、これまでFRBはアメリカの利権の中心にいたのは間違いなく、トランプ大統領が本気でアメリカ経済を何とかしたいのは事実かもしれません。
アメリカの命運を分ける話題となっている「米国債9月利下げ」に関してですが、おそらく政策金利の利下げをFRBが渋るのは「利下げが危険だから」ではありません。

実は、米国株の堅調を支える「マネーサプライ供給(M2)」や債権を含めた世界流動性の総量を決定づけているのはFRBではなく、欧州や外国の投資家のもつ「ユーロダラー」と呼ばれる、本国以外で流通するドル資産です。
専門家の推察では、米国内の流動性が20兆ドルだとしたら、海外に滞留するユーロダラーの総量は160兆ドルほどではないか、と言われています。

FRBが操作可能な中央銀行貨幣を20兆ドルとすれば、本国以外で取引されるドルの総量が8倍近くあり、その資本の総量を鑑みればFRBの施策が小手先で終わるのは目に見えています。
FRBが利下げを渋るのは、これを自分でわかっているからであり、「利下げをしたのに、さっぱり良くならないじゃないか」と突っ込まれたら、FRBに政策金利を操作して米国経済をコントロールする力がそもそもないことが判明してしまうからです。

そして実際に、トランプ大統領の指示通りに利下げをすれば、確かに国債の値段は上がります。
FRBが低金利にしておくことで、外国での資産運用が有利に働いていたテクノロジー系企業が株式を支えるアメリカにとって、その恩恵は株高をもたらすでしょう。
「これでアメリカの将来は安泰だ」と外国人が国債を買い、今年に支払えるかわからない7兆ドルの債務もきちんと賄えるとしたら、確かに「ソフトランディング」するかもしれません。

しかし、ここまで国債金利が上がったのは、コロナ以降数年で膨らんだ18兆ドルの債務を誤魔化すために国債を増発したからであり、いくら国債と株式市場が好調でも、赤字財政の体質そのものを是正しなければまた自ずと国債価格は下がり、金利が上昇してよりインフレが加速してしまいます。
成長産業が殆どなく、ガリバー企業となったビッグテックを投資の呼水にするしかないアメリカが、国債価格を上げて景気浮揚をしようにも政府と国家経済の枠組みそのものを変えなければ、いずれ必然的に破綻します。

しかも、世界中のマネーサプライの殆どが海外にあるアメリカにとって、投資家は「儲かるか儲からないか」で考えて資本を投下しているのであって、投資が覚束なければ金詰まりを起こし、流動性危機をもたらします。
また米国株式を支えている40%は海外投資家であり、彼らの機嫌次第で株が動いているので、仮にAIバブルに踊らされただけだとわかったら、すぐに資金を引っ込めるでしょう。

また、各国に押し売り強盗の態度で関税交渉をしたアメリカに反感を抱いていない国はありません。
ただでさえ常日頃からロクなことをしてこなかったアメリカが、強情に出るから相手国が穏便にしているだけで、ニコニコして席を譲った日本でさえ、魂の自動車産業は毎日2億円の損失を出しているそうです。
まして、隙あらばアメリカを沈めてやろうと思う勢力もおり、ドルを持っているから味方とは限らないのです。

私はどの手を読んでも、ビックリするほど手詰まりの状況に思えるのですが、いつまで持ち堪えられるのかと静観している次第です。
そこで涼しい顔をしてスイスのリゾート地をジェット機で駆けつける富豪たちの姿が思い浮かびます。
もし彼らグローバリストが一枚上手で、アメリカという国を踏み台にしてまで世界政府樹立を計画しているなら、参ったという他ありません、

ただ、コロナワクチンの評判や、思うほど大規模になってくれない戦争、戦争特需に大した経済効果なく、なかなか成果を発揮しない人口削減、食糧危機を煽っても大した飢餓になってくれず、自然エネルギーは儲からず、EVは大抵赤字、生成AIはパクるだけパクって役立たず、これらの計画を見るとそこまで頭がキレる人々とは思えません。

しかも成金国家のアメリカが金づるにならずに、どうやって世界政府の財源を得ようと考えているのでしょうか。
そもそも、世界政府に資金を上納しそうな企業はだいたい米国企業なのですが、それが安泰でないのにマジでどうするつもりなのか、愚民である私には想像がつきません。

「いや、世界中のグローバリストが結託すればアメリカ一強ではない」というのも頷けます。
しかし、ダボス会議に有色人種の参加者が極端に少ないのは、おそらく白人がフロントとして大衆の面前で相手をして、黒人や中東系やアジア出身の偉い人々が、バックヤードにいるビル・ゲイツと膝を合わせて人類の未来を昼夜語り合っていると考えて良いのでしょう。
「人類皆平等」を夢見るグローバリストが、まさか白人中心の考えなど持たないでしょうからです。

彼らの魂胆を、それすら見え透いてしまう一般人がいて、世界経済フォーラムの人々の面の皮の厚さと共に、その偉大なる業績まではっきりと認識できる今の世にあって、全人類に称賛されながら誕生する「世界政府」は逆に見てみたくもあります。
まあ、国家運営が2、3年続けば御の字ではないでしょうか。

今回はかなり挑発的な内容となりましたが、まさか閲覧数が極端に少ないこのブログがCIAに狙われることはないでしょうし、そもそも本国から仕事のない絵描きをわざわざ消しに来るほど暇でもないでしょう。
こんな声なんてのは、今ではどこでも交わされていますから。

私は普段、スピリチュアルな話を良くします。
目に見えない世界のことやわからないことには第六感を使いますが、目で見て頭で考えてわかることに、その力は使う必要がありません。

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「弥栄(≒繁栄)」への道

楽太郎です。

昨日は、久しぶりにペンを取ることが出来て楽しかったです。
「八十禍津姫」と「大綾津姫」のデザインも、大して悩まずパッと決まったのも嬉しかったです。

どうも8月23日の処暑、新月からガラッとエネルギーが変わっていたようです。
その日に合わせて「日月神示解説」のサイトを立ち上げ、その時に「新世界実現が理論の段階から実践の段階に移ったのではないか」という話もしました。
それから数日後には「招神万来」の移転先のサイトも立ち上げているので、今のエネルギーはかなり「実現係数」が高くなる傾向があるようです。

私はこのエネルギーの趨勢は、9月23日の秋分まで高まっていくと思います。
そして秋分点をきっかけに、これまで神々から覚醒とお祓いのエネルギーを受けてきた人々の、「立ち上がる」という態度がいよいよ可視化されると思います。
と言うより、日月神示的に「神と獣」、私の言い方では「神世と人世」の二極化において、「新時代への移行」の立場表明が秋分点では既に目に見える状態となっている、と言ってよいと思います。

その時、具体的に「世を変えよう」と発信していない人であっても、おそらく世を変えていく側の人からすれば、どっち側の人なのかを感覚的に判別がつくようになるはずです。
そして、その傾向が今後数年かけてどんどん色濃くなっていき、これまでマーブル模様だった世界が「二色」になるところまで行くのではないでしょうか。

夏至をもって開かれた地球的気場、私は「精神界」と呼んでいますが、現段階ではその気場にアクセスしている人はほんの一握りです。
しかし、近い将来に魂を磨き抜く根性のある人はその気場への到達を目指すようになり、かつて魂のレベルで「神世」の選択をした人々は、続々と覚醒して五次元に上昇していくことになるはずです。
未だその準備期間ではあるのですが、神々のご計画は寸分違わず着々と進行しているようです。

私は毎朝、海外のニュースはだいたい眺めるようにしているのですが、経済を色眼鏡で見ては政府寄りの肯定的見解に終始するマスコミが、「NVIDIAが第二四半期の業績予想を下回った」と報じた辺りから、トランプ政権批判の論調を強め、また実態経済の悪化を正直に出し始めました。

私は「いよいよ」だと思っていて、米国株急落から目まぐるしい変動の時代に突入していくと思います。
私は今後10年以内に「アメリカ合衆国」という国家は消滅すると予測していますが、現在他の名だたる国家も存続が危ぶまれる事態に陥るでしょう。

アメリカ合衆国もとい、地球上から国名が消えるような時代にあっては、もはや「これまで」の世界は事実上、維持継続が不可能になるということです。
今は誰もその予兆など感じていないかもしれませんが、それは大衆が「平和ボケ」するような情報を権力サイドが選別して世に出しているからであり、広報機関やマスメディアはもとより、放送やネットの検閲や言論統制も水面下で行われているのは周知の事実です。

「陰謀論でも良いから真実を知りたい」と思うくらいでなければ、今の世ではどう転んでも「嘘」を掴まされて道を誤ります。
私は全世界で起こるインフレや食糧難、日本の不況と米不足も同じ意図で仕組まれたものだと思っていますが、その元凶が「ダボス会議」、いわゆる「世界経済フォーラム」にあると踏んでいます。

「利権」を最大化するためには、まず世界の多様性を毀損し統合する必要があります。
そのために地球温暖化を口実にした環境エネルギーの促進や、自ら食糧問題を具現化する施策などで国際的な主導権を「経済主体」に持ち込ませるのです。
そこで交わされる「世界の問題」こそ、利権で捏ね回された「陰謀論」に基づく偏見であり、科学的には実際に根拠のない言説ですが、「政治=経済」にあっては超合理的なのです。

数十年前にあった「オゾン層の破壊によって地球温暖化が加速する」というレトリックも、オゾン層が年々塞がってきたことが科学的に判明してからは、「温暖化ガス」が原因と、いつの間にか論拠がすり替わっています。
実際のところ、地球規模で起きている変動は少なくとも数千年から数百万年のスパンで観測した上で、天体的影響も加味して科学的に俯瞰しなければ特定し得ないはずです。

「地球温暖化の被害国」と喧伝されたツバル諸島が海面上昇で沈むとしたら、今ごろ全世界の海岸が水没していなければおかしいのです。
それは単に大陸的な地盤沈下と考えた方が自然であり、全く違う因果を結びつけてレトリックとすることで、どこかで得をする人がいたという話でしょう。

ただ、こういう穿った見方も、肩書きの立派な人が適当な反論をすれば「陰謀論」にすり替えることが可能です。
名もなき有志の市民が声を上げたところで、「検閲権」を握っている権力サイドが、公的な威力で言論など簡単に捩じ伏せることができるからです。
実際のところよくわからない人たちにとっては、「偉い人の言うことは正しい」という思い込みには確証バイアスが掛かります。
だからこそ、今の世は「専門家の言うデタラメ」と「マトモに見える陰謀論」の二種類しか存在しないのです。

この「世界政府」というビジョンが語られる時、その首謀者こそ実は影の支配者ではなく、既に表に出ている「大富豪」だったりします。
普通に考えて「世界を支配したい」という幼稚な願望を抱く権力者が、人前での賞賛や評価をわざわざ避ける理由がどこにあるのでしょうか。
そして、表向きのロジックで「どうすれば彼らが一番得をする状況になるか」を逆算していけば、「ダボス会議」で話し合われる内容に突き当たるのです。
しかし、あまりに堂々としすぎていて、むしろ「陰謀」には見えないところが逆に巧妙です。

1979年に米国ジョージア州で建造されたモニュメント「ジョージアストーン」に書かれたマニフェストは、彼らの思想と全く同じなのではないか、と私は疑っています。
というか、「ジョージアストーン」自体を選民思想を持った人々が捏造したものだとしたら、「人類を5億人」にする人口削減計画も「宇宙の意志に従ってやった」と正当化できるでしょう。
だから、最後は「神々」を盾にする意図があり、その口実を元に作られたものではないかと私は考えています。

まあ、これは完全な「妄想と偏見」なので流して頂いて結構です。
しかし、彼らが現地球上で最も力を持つ者たちだとして、本当に世界は彼らの望むようになってしまうのでしょうか。
ただ、ここまで文章を読まれた方には、だいたい結論がお分かり頂けると思います。

どんな大富豪も「資本」と、それに基づく権力構造というシステムの上に成り立つ存在です。
彼らの本体は「経済」であり「お金」であり、決して思想や民族性にはありません。
そして、彼らを肥え太らせてきたのは「アメリカ合衆国」のウォール街を中心とする利権です。

金融や利権と懇ろになった業界や企業が、ロビイストを通じて影響を強めた結果、今のアメリカの「政治」となっています。
しかし、もはや政治も経済も高転びするのが目に見えている「アメリカ合衆国」を土台とした「世界政府」は、砂上の楼閣にすぎません。
まして「アメリカ」という国を潰した上で成り立つ「世界政府」には何の力もなく、何の脅威にもならないでしょう。

「アメリカ合衆国」の消失は、経済的・政治的な依存の上で成り立つ中国と、アメリカの支援なしに中東諸国を挑発し続けることのできないイスラエルも運命を共にするはずです。
その崩壊が目に見えてきた今日だからこそ、否が応でも世界は変わらざるを得ず、乱世を迎えるのは必然と言えます。

そこで、巻き込まれ滅びるしかないのが我が国「日本」であるかに見えて、実はかなり恵まれた状況にあります。
日本は大量の米国債を所有していますが、外貨準備高は西側諸国において随一であり、対外的なバランスを維持しています。
また貿易面においても、政府日銀が金融と輸出系企業を優遇するために長年円安にしてきたにも関わらず、貿易依存度が突出して高い国はありません。
仮に貿易が中座しても、外国に輸出する分を国内流通に回せば、影響はほぼゼロで抑えることすら可能です。

つまり、先進国の中では西側諸国が崩れても、日本は最も軽微な被害に留めておける可能性があります。
仮にその時が来たら、米ドルにもはや価値はなく世界中で「日本だけ何となくマシ」な状態にあれば、必然的に円が買われ国債は上昇し、日本株への投資が集中するでしょう。
そうなれば、日本だけマシな状態というより、むしろ日本だけが昂進する状況になりかねません。

そんなに上手くいくか、という感想もなくはないですが、実は米国経済崩壊には、日銀の円安政策一つで衰退した日本だからこそ、そういうシナリオが当然のように付随します。
問題は日本の政治家や官僚が相変わらずトップに居座り、外国から「日本の滅亡に協力する」ために貰うキックバックをアテにして動き続けるかどうかです。

私はこの部分だけが気掛かりですが、幸い我が国の投票システムだけはマトモなので、上手くいけば何とかできるかもしれません。
それは、これからの日本人の意識次第だと思いますし、仮に「日本だけが浮上し、外国全部沈む」状態になっても小金持ちが目先の小銭に狂うのか、微妙な感じもします。

また「日月神示」を引き合いに出しますが、神示には「宗教連合も世界政府も滅びる」と書かれています。
日月神示VSジョージアストーン」という東西預言ドリームマッチの様相を呈してますが、私は手前味噌ながら神示の示した通りになると思います。

ただ、世界経済崩壊後の日本が多少マシでも、これまでの経済システムには二度と戻らないでしょう。
これまでにあった企業体やサービスも、その頃にはすでに形が変わり、新たな産業・商業形態に移行している可能性が高いからです。
人々の意識や生活習慣が変われば、経済の形も変わります。

「世界政府」の夢が露と消えた暁には、「お金」に変わる価値が人々の中に生まれてくるはずです。

日月神示に出てくる「弥栄(やさか)」という言葉は、「末永く栄える」ことを意味しますが、これまで人々が使ってきた「繁栄」とは用法が異なる気がします。
これまでの時代における「繁栄」とは、バブルや一過性の寡占状態を指していることが多く、成功はかなり短いスパンで栄枯盛衰によって消えていきました。

「弥栄」の意味には一過性ではなく持続性がありますが、ただ浮世である以上、形あるものはいずれ崩れ消え去る運命です。
もし「形」を失っても「弥栄」するものがあるとすれば、それこそエッセンスであり、神示に言われる「・」です。
外側「◯」のモノは絶えず変化し、いずれ劣化してなくなりますが、本質であり「型」としての真髄は世代を変えて残り続けるものです。

私はこれこそ「弥栄」であり、入れ替わり立ち替わり訪れるブームに乗って、右から左に流れることを繰り返すこれまでの時代の「繁栄」とは全く異なる概念だと思います。
だいたい外側の絢爛さというのは、多くの人を集めて大金を使って多少時間をかければ必ず実現します。
しかし、お金も人の力も大して必要とせずに作り上げられる芸術は、より内面的で磨き上げられたものになります。

世が豪華なモノに溢れる「繁栄」の時代から、より洗練されたモノに満ちた「弥栄」の世は、似ているようで全く異なる栄華であり、私たちは後者の時代にこれから向かっていくのだと思います。


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「HARAEDO」ライバルキャラ

楽太郎です。

「やるやる」言って一向に始まらない、瀬織津姫命を題材にした創作漫画「HARAEDO」ですが、この期に及んで「新キャラ」の構想が固まったのでアップしたいと思います。

 
 

 

キャラ解説の前に一言申し添えておくと、本当に神様は小手先で稼ぐことを良しとしていらっしゃらないようで、絵とは無関係のことばかり最近やっていました。

仮に私自身、「神様」を口実にして商売したいと思っている手前であれば、もう少し自分の創作もガツガツやってるでしょうし、マネタイズだってもう少し要領良くやっているはずです。
ここ最近はガチでペンすら持たせて頂けなくて、あまりに久しぶりすぎて最初ヨレヨレの線しか引けず戸惑いました。

少し前までは、一日絵を描かないだけでも「ライバル絵描きに抜かれちまう!!」と思って焦っていたでしょうが、私もずいぶん変わったなと思います。
でも、やっぱり絵を描くのが一番性に合ってるとつくづく思いました。

さて、「HARAEDO」の新キャラで祓戸四神のライバルとして登場する「八十禍津姫神」「大綾津姫神」のデザインを描いてみました。
「八十禍津日神」「大禍津日神」という、禍事を司る神様は実際におられるのですが、その偉大なる禍津神を「父と母」に持つ女神姉妹、という設定の架空の神様です。

話のイメージとしては「アンパンマン」の宿敵「バイキンマン」で、まさにバイキンマンとドキンちゃんのコンビそのままです。
私は昔から主人公格より敵キャラとか闇堕ちキャラに感情移入するタイプで、ただ「アンパンマン」で言えばロールパンナちゃんが一番好きです。

姉の八十禍津姫はいかにも「性悪高飛車キャラ」という感じですが、大綾津姫のコバンザメキャラっぽい小物感が上手く表現できて、なかなか良いデザインだと我ながら思います。
「大綾津」という神名は、日本書紀では伊奘冉命からお産まれになられた「禍津神」として登場し、一般的には「大禍津日神」と言われます。

その神様にちなんだ創作キャラを作るにあたり、ピアノ線を袖口から出して化け物を操るイメージがドンピシャで思い浮かび、膝を叩いた次第です。
たぶん笑い声は「ケヘッ」で、八十姫のことは「お姉様」と呼ぶに違いありません。
このテーマとデザインの一致度で言えば、私のキャラデザ史上最高傑作かもしれません。

こういう良いキャラが作れたので、早速「HARAEDO」本編も始めたいところですが、問題は神様の世界に関する造詣が深くなればなるほど、世界観の設定が変わるので話も作風も変わってしまうため、いつまで経っても固まりきらないのも一つの要因です。
少し前までは「プリキュア」みたいな話にすると意気込んでましたが、今度は「アンパンマン」ですし、私は本当に日曜日の朝が大好きみたいです。

作風の傾向としては、「ゲゲゲの鬼太郎」のような社会派の内容も考えてはいたのですが、登場人物の雰囲気を総合すると美少女とゆるキャラ同士でわちゃわちゃするだけの話になりそうで、重苦しい雰囲気になりにくいことに気づきました。
ますます日曜日の朝という感じで、確かに眠い目をこすって見る番組は寝ててもわかる内容に越したことはない気もします。

というわけで、作品の構想だけは着々と固まってきた「HARAEDO」ですが、私の一存で取り掛かれたりするものではない、と申し添えた上で、ただプロデューサーの瀬織津姫様はいつか本気でGOサインを出される時が来るに違いないと思います。
ただ、そうなったらそうなったで恐縮してしまいますが…


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「招神万来」ブログ移転のお知らせ

楽太郎です。

突然ですが、本ブログ「招神万来」はこれまで「忍者ブログ」のサービスを利用してきましたが、自分のサイトでの活動に移行することにしました。
まだデザインなどは調整中ですが、本ブログの過去記事230本余りの本文は取り込み済みです。


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自サイトに移転する経緯としては、ブログサービスを運営する「忍者ツールズ」様の料金改定により、11月1日から料金が2倍になるとの発表があったからです。

月々240円でしたので、むしろこれまでが安価すぎたのだと思います。
引き続きサービスを利用しても良かったのですが、以前から考えていたこともあり、移転を決意しました。
老舗のgooブログが11月をもってサービス終了となるそうで、業界的に鑑みてブログサービスの存続は厳しいのだろうと思います。
今は動画の時代ですし、そうでなくとも短文文化隆盛の世で、人々はSNSのタイムラインしか見なくなって久しいです。

「ブログ」という形式が、いずれ一周回って再び見直される時は来ると思いますが、少なくともあと5年は下火だと思います。
そうでなくとも、全盛期のブログもトラックバック文化と相互リンク文化があったから栄えたのであって、その長所はSNSに代替されてしまいました。
再びブログが注目される時は、かつての個人サイト隆盛の時代のように、マニアックで密度のある情報メディアを運営する個人が増えることによって、昔のような「面白いインターネット」に戻る時だと思います。

今のネットは、大人でも迂闊に触れないほど危険な環境となってしまいました。
如何わしいネット広告、氾濫する詐欺広告、迂闊に登録すると個人情報やクレジットまですっぱ抜かれる、修羅のような状況です。
「テック例外主義」という言葉がありますが、ネットがあまりに治外法権になりすぎてしまったため、今では半グレのパラダイスになってしまったのです。

ネットの世界はかつてないほどの「課金主義」であり、良いサービスの裏にはエゲツない量のサブスクが待ち受けています。
あらゆるネット系サービスを信用しかねると言っても、WordPressだって昔に比べたら月々10ドル払わなければまともに動かないプラグインばかりですし、オープンソースのWordPressがある意味、最強の課金地獄だったりします。

今回、私がレンタルサーバーを借りてWordPressをサイトに利用しているのですが、他のインストール型ブログと比較したら雲泥の性能差で、比較する間もないほど答えが明白でした。
ただ、ネットの世界はこういう「業界一強」がどこの分野も幅を利かせていて、サブスクなどの料金設定もデジタルならば原価計算ができないため、ほぼサービス運営側の「言い値」で料金体系が決まる不明瞭さは何とかならないでしょうか。

私が契約しているレンタルサーバーは「シンレンタルサーバー」なのですが、今日配信のメールでエックスサーバー株式会社に事業移転するらしく、レンタルサーバー業界も寡占企業の割合が広がっていくのだろうなと思いました。
そういった寡占企業の最たる例が、インターネット検索とネット世界を自分一人の力でボロボロにしたGoogleでしょうが、自分たちがシェアを広げるために新興勢力を叩き潰してきたわりには、「私たちのサービスが気に入らないなら、どうぞ使わないで下さい」と平然と言い放つ度胸の良さには感服します。

実は私は、ITベンチャーの会社にいたこともあるので業界の雰囲気も知らないわけではないですし、だからこそ「ITは信用できない」という頭が抜けきらないのです。
そして、人々が寡占企業のサービスに任せ切って、「寄らば大樹の陰」と大きな傘に入って安心しきった後、もし傘が折れるようなことがあれば、大抵の人が土砂降りの中に放り込まれます。

だから私は寡占サービスはもの凄く危険だと思っていて、されど時代は少数大規模化に向かっているように思います。
ネットというのは、「多様性の坩堝」だったはずなのですが、集金性とビジネスに染まってしまえば、その世界の良さがこうも台無しになって悲しい思いです。

ちょっと愚痴が入ってしまいましたが、私がこうして長文のブログをやっているのも、ある意味「多様性」の一部となることで、生物学的淘汰と全滅を生き残る役割を担っているつもりです。
SNSなどは特に、他のサービスにアカウントをそのまま移転することはできないので、過去記事を丸ごと移設できる「ブログ」の良さはこういうところにあります。

デジタルの世界で「半永久的な蓄積」というのは不可能であり、出来て20年ほど、それも消えるのは一瞬で、消えてしまえば復元することは殆ど無理なわけで、ビルやお寺のスケールとは全く次元の違う儚い世界です。
だから、デジタルの世界は「一期一会」であり、どこよりも回転数の大きい「諸行無常」であると思っています。

その儚い世界を渡りながら、どう自分の仕事を果たし、業績を蓄積し信頼と周知を得ていくか、その道は険しいでしょう。
けれど、そのカオスの海を泳ぐ楽しさもあり、かつて「何でもあり」だったネットの良さを思い出せば、出来ることはたくさんあるような気がします。

本ブログは料金改定直前の10月末まで引き続き投稿しながら、同内容の記事も自サイトと共有し、本文最後にリンクを貼って、読者さんを誘導していきたいと思います。
自サイト「招神万来」と忍者ブログ「招神万来」を、引き続きお楽しみいただきたいと思います。

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人間、本来のあり方に

楽太郎です。

私は心霊オカルトが子供の頃から大好きで、TVの心霊特番はいつも楽しみにしていました。
「幽霊がいたら面白いな」という感覚はありましたが、自分の霊感は疑ってましたし、周りに合わせて「目に見えない世界」の存在を否定していました。

私はつい1年前までは、完全に「無神論」の世界にどっぷり浸かり、その世界観に全く疑いもなく生きてきました。
それが昨年の秋分以降、みるみる霊的な覚醒をしていき、あれよあれよという間にスピリチュアリストとしての道を突き進んできました。
それはもはや私の意志というより、強制的に「道に戻された」感覚に近いのです。

このブログでは常々、目に見えない存在からの「憑依」の戦いを綴ってきました。
そもそも、私が「憑依されやすい体質」であること、憑依されるから言動や思考に影響を受けやすいこと、霊障が起きているから心身共に体調がおかしく、何となく変なことばかり起こるのも、それまで「無神論=唯物史観」の世界に生きてきたからこそ、何十年も気づくことができなかったのです。

考えてみれば、赤ん坊の頃に異常な夜泣きをしたり、幼稚園に上がる前から頭痛持ちで、子供の頃から集団がもの凄く苦手で、大勢の人と同じ空間にいると頭がモヤモヤしてくるのも、全て「霊感」という概念で説明がついたはずです。
しかし、周りにそういった指摘をできる大人はなく、その大人の大部分が「霊など存在しない」と思ってましたし、憑依や霊障も何らかの病気の一種で、ちゃんとした医者にかかれば治ると考えていました。

しかし今答えを出すならば、私が正しく「信仰」という道に気づいていれば、神様が私を守ってくださり、心身はもっと充実した状態でいられたのでしょう。
そして無駄に苦しむことなく真の問題と向き合い、自分の心身に何が起こっているかも知ることができたはずです。

その「気づき」が遅れたのは、別に周りの大人が悪いわけではなく、霊障に苦しむ人生も自分の魂と神様が決めた人生のシナリオだったのだと思います。
ただ、「唯物主義」に染まった世の中であるがゆえに、目に見えない世界の干渉や影響の可能性に誰も気づかず、あらゆる不調の原因を「科学的病理」としてきたからこそ、問題の在処が覆い隠されてきたのです。

私の亡くなった叔父の話をすると、やはり私と同じ能力と血族的因縁を持った人で、霊感もかなりある人だったのだと思います。
叔父は心を病んで自ら命を絶ってしまったのですが、生前に「あるはずのないものが見えたり、聞こえる」ことを誰かに相談しても、「お前は頭がおかしいんだ」と散々言われ続けたようなのです。
ど田舎の農村から大学受験をして良い所の大学に進み、そのまま東京で有名な大企業に就職した頭の良い叔父は、その仕事場で心を病んでしまいました。

全ての因果を叔父が知ることができたなら、叔父は何十年も無闇に苦しむことはなく、自ら命を絶つ前に救われる道はいくらでもあったのです。
「唯物主義の社会」と「無理解」が叔父を殺めたとも言えるのです。
そして、下手すると私自身も叔父と同じ道を辿る寸前のところにいました。

人を陥れ、神を無きものとしたい勢力からすると、唯物論の蔓延る世界はやり易かったことでしょう。
その裏に「神に仇なす者」がいるとすれば、神の存在を否定すると同時に、自らの暗躍に気づかれずに済むからです。
「目に見えない世界を否定する世界」は、これまで闇の存在にとって最適化された状況であり、人間がモノしか見なければ争いに夢中になり、神を蔑ろにし人々が信心を忘れるほど、神々の加護は加わらなくなるからです。

しかし、それでも世界の真実に気づく人は気づいてましたし、先達たるスピリチュアリストも世のしがらみや誹謗を耐え抜いて、真実を伝えて来られました。
それでも、オウム真理教を始めとする宗教団体の起こす社会問題が、余計に信仰への阻害と無神論を加速させていったのです。

「神を無きもの」にするという巨大な陰謀があり、現代社会が物言わずに闇の力に流されてしまったことで、人心の荒廃が起こり不幸に陥る人々は増していく一方でした。
マクロな視点で言えば、神々が窮地に立たされるのも宇宙の大きなシナリオとも言えるのですが、気づくのが不可能と思えるほどの巧妙な隠蔽の中で、私たちが無闇に苦しむ原因がもたらされる状況が続きました。

この世は「神に仇なす存在」に主導権があり、人間社会は「無神論」の方針を支持する形で発展を続けてきたことで、ずっと逆神の肩を持ち続けてきたのです。
だからこそ人々は神への真の信仰になかなか至れず、邪教を崇拝し道に迷い、神に仇なす者たちの邪な干渉を受け続けてきました。

私一人が、その流れを変えられるわけではありません。
しかし、私以外の人々が次第に覚醒していけば、この世界を覆う闇の正体と影で暗躍している者たちの思惑を、世に知らしめることができるはずです。

これまでの世は、人間のあり方そのものを歪めながら、生き方そのものを型に嵌めて矯正する仕組みでした。
人は生まれた瞬間から、社会が親に与えたヒエラルキーの直下に育ち、学校では定義された「優秀さ」を競わされ、マスメディアでは「理想」とされる人々の成功が持て囃され、世に出れば歪な「エリート」の尺度で行末を決められる、凡そ自分の尺度を持ち込みようのない世界です。

その中で、本当に自分にとって必要な情報や気づきに辿り着くのは、非常に困難でした。
あまりに世にノイズが多すぎるからこそ、確かなものでさえ曖昧になり、何となく生きている人々に紛れてしまえば、何事も確かさなどないように感じられたでしょう。
それでも社会は物質的には豊かであり、何も考えなくてもお金さえ手に入れば、そこそこ深く悩まずとも享楽的に暮らすことができたのです。

しかし、それは「豊かな時代」だからできた誤魔化しであり、貧しくなる一方の状況では異なるはずです。

おそらく日本ならず世界が、かつてのような高度経済を軸にした世には戻ることはありません。
それは「ドル」経済圏が終わるからであり、少なくともドルに代替する基軸通貨が発展形で流通し始めるまでは、低成長経済がスタンダードになっていくはずです。

先進国の少子高齢化もさることながら、製造業主体の経済的牽引はサービス業に取って代わり、製造業は若年人口が多く「発展途上」とされてきた国が担うことになるはずです。
ゆえに日本は、少なくともバブル以前の勢いを再現するのは不可能であり、これからは物質的な豊かさから「精神的な豊かさ」へとシフトする段階に入ったのだと思います。

私の観点は、他の論者とは一手二手先読みする特性があるので、その兆候を感じるのは難しいかもしれません。
しかし経済崩壊は足元に迫っており、心の準備をしていた方が身のためだと思います。
そして、みるみる不便になっていく世を眺めて混乱するのではなく、来るものだと認識しておくことは自分や家族を守ることに繋がるはずです。

現代を形成してきた世界的経済圏の崩壊は、フランス革命とイギリスの産業革命を皮切りとした西洋型資本主義と、そこから派生したマルクス主義の終焉を意味します。
これまでの世界を構成してきた「資本」と「物質」という枠組みが揺らぐことは、人の世を支配してきた権威も決して不動ではなくなるということです。

社会を規定づける権威や権力が相対化される時、人々が「イヤイヤ」ながら従ってきた、ルールや慣習からの拘束も緩むことになるでしょう。
そうすれば、明日だけでなく10年20年先を見越して、仕方なくやるような生き方には何の確かさなどないことに気づくと思います。
その時、人々の心にかけられた「常識」という鎖が解けて、各々が「個人」として立ち戻るきっかけを得ることでしょう。

その時に初めて、これまでの世界を「闇」が支配していたこと、闇の深くに「神に仇なす見えない存在」が蠢いていたことを知るはずです。
そして同時に目に見えなかった存在が、目に見えるようにはっきり人々の心に映ることでしょう。
そこで人々は光を見て、光の中に「神」を見るのではないでしょうか。

私はその時、ようやく報われる人もたくさんいると確信しています。
人々が小さく押し込められた「お金と欲望のために消費される人生」が虚妄に過ぎず、その共同幻想こそ自分たちに迷いや苦しみをもたらしていたことに気づくはずです。

その瞬間が訪れたら「金儲け」という支えを失い「じゃあ、これからどう生きていけば良いんだ」と困惑し、絶望する人も出てくるでしょう。
自分の軸を持ち、金儲けという枠組みがむしろ煩わしかった人ほど、産業のシステムや規則に縛られない状況こそ、待っていた趨勢かもしれません。

それは少なくともこの250年間、巨大な枠組みの中で争いと淘汰を繰り返し、物質的に便利にはなっても人心がどんどん荒廃していく時代が終わり、やっと一息ついて「これからどういう世界を作って行こうか」と考えるタイミングが訪れるのです。
その時に初めて自分らしい生き方を手にする人もいるでしょうし、そのタイミングに合わせて生まれてきた魂もあるのでしょう。

今、闇が深まっていくばかりの世では、どう考えても光なんてないように感じられるかもしれません。
しかし、私たち人間が「悪くなる」と思うことも、神々があえて「悪くしている」のだとしたら、見方はまた変わってきます。
そして神々には、人間の考える「良し悪し」とは別の軸としての意味で「より良い世界」をご計画なされているのだと思います。
ただ、そのスケール感は人間に見渡せるものではないため、ひたすら残酷な部分だけに目が行ってしまうのではないでしょうか。

どんな不幸があっても、どんな不幸がこれまであったとしても、より良い世になるのであれば浮かばれる魂もあります。
私は、うまく生きられなかった叔父の苦しみや悲しみを思う時、私が世の中を変えることに貢献することで、その救いになるのではないかと思います。

叔父だけでなく、私だけでなく、見ず知らずの苦しみを抱えて生きてきた全ての人々が報われるために、これからは良い時代を作っていきたいのです。
ならどうすれば良いのか、私はいつもそのことについて考えています。

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「悪人」の正体

楽太郎です。

昨日、「神の試練を考える」という記事を書いて、「9ヶ月間神様のお役に立つことを考え、頑張ってきた割には何一つ良いことがない」と書きました。
それに泣きっ面に蜂の気分になりつつあって、スマホのバッテリーが劣化しすぎて充電できなくなりました。
まあ、ただの経年劣化なので別に神様のせいではないのですが、AppleCareで毎月580円を支払っているのに、バッテリー保証サービスを受けられる系列店舗が県内に2ヶ所しかなく、しかもどちらも1週間以上予約が取れません。

Appleはまあ、こういう企業なのは前から知ってますが、本当にここまで日本人を舐めていても我が国に莫大なフォロワーがいるのは何とも言えない気持ちになります。
第一、iPhoneの文字入力予測変換に日本慣用漢字ではなく中国語繁体字が上位に出てきますし、文字より先に絵文字が出てくるのもイラッと来ますし、いい加減なんとかならんもんかと常々思っています。

メリケンテックに対する愚痴を溢したらキリがないのでこの辺にしておきますが、海外の企業からすると日本人はこの程度にしか思われていないのが実際なところではないでしょうか。
私は近々、スマホもPCも誰もが使い続けるか悩む事態に陥ると思っているので、特にビッグテックには課金しないように心がけてさえいるのですが、残念ながら代替する製品は世界中見回しても今のところ存在しないので、型落ちのPCにUBUNTUを突っ込むのが席の山ではないかなと思っています。

とにかく「スマホが使えなくなりそう」というのは由々しき事態で、何とかAppleCareのサービスを近いうちに受けられることを願っています。
というか、月々580円を払って無料保証を受けるために電車を乗り継いで遠くの店に行かなければいけない時点で、どうやってもお金を使わなくてはいけないのは腑に落ちません。

私のケチなところが出てしまって、愚痴が止まらず申し訳ないです。
こういう、小さいところのストレスさえどうにもならない現状、神様の「お陰」というのは感じにくいのも現実です。
ただ、神様が加護を与え、いくら導いた上で恩恵や祝福を与えようと、瑣末なストレスまで綺麗さっぱり無くしてあげる道理はなく、そこまで期待するのは甘えなのでしょう。

こういったイカサマが今の世の中には横行していますが、ジワジワと雰囲気が悪くなっていく世の流れも、神々のシナリオの一部だと私は思っています。
世の中がまるで漫画に描いたように極端な悪化を見せれば、さすがにどれほど鈍感な人でも問題意識を持ち始めます。
これまでの人の歴史は、そういった意識による反動が世の中を動かしてきたのです。

そして、「世の中を悪くする人たち」というのも、神々からすれば「世を悪くする」という密命を持った人々なのだろうと思います。
おそらくこの世の「悪」というのは、悪を行うことで現世で利益や願望を実現する代わりに、負のカルマを一身に背負う役割を担っているのではないでしょうか。
だから、今世では何の疑問も反省もなく良い気持ちで一生を終えたとしても、死後の世界や来世ではどうなるかはわかりません。

この世に、もし世の中を良くするために犠牲になる人がいるのなら、彼らは世を悪くするために犠牲になる人たちなのかもしれません。
だから、「悪人だけが得をして、正直者はバカを見る」と思うことも、実は平面的な見方に過ぎないと言えます。
かと言って、「犠牲」という概念が現・幽・神界を通して存在するのかも判断がつかないのですが、私は「悪人」も実は神性が強い傾向があるのではないか、と薄々感じているのです。

聖書的な解釈をすれば、悪魔の王サタンは元々、神に最も近い天使だったルシファーとされ、神性が強かったがゆえに闇堕ちした後はとんでもない悪意の権化となったのです。
私の記憶を顧みれば、中学時代にグレ始めた人は小学校まで良い子だった人も多かったように思いますし、社会人になっても闇堕ちする人は元々真面目な人ばかりでした。
私にもグレていた頃はありましたし、その頃の感覚を思い起こせば、自分の正しいと思う価値観が周りに悉く否定され、自分でも矛盾を感じていたからこそ、その怒りの矛先を探していたのです。

私はいわゆる厄介な人々とも渡り合った経験があるので、「悪人」や「悪意」というものがどういうものかは手に取るようにわかります。
それどころか、つい最近までガチの邪霊や悪魔とやり合っている自覚があったので、「悪」がどういう性質の存在であるかは重々承知していたりします。

その見解に基づけば、彼らは「悪意」を持って「善行」を実践しています。
つまり、他人を貶めたり傷つけて潰したり、社会的地位を剥奪したり人権を叩き壊すのも、破壊や破滅的行為によって自己主張をしたり、「世を変える」という正義に基づいていたりします。
だから、一般的な「善行」という解釈から真逆の行動を彼らは「正義」と思っているだけで、彼ら自身は彼らの世界の「善人」なのです。

そこでは、他人を欺き陥れて満足したり、誰かを誹謗中傷したり嘲笑するのも、「一汗かいて気持ちがいい」程度の感覚なのです。
その様子を私たちが見れば何ともおぞましく感じますし、その異様さを醜いと感じ、社会的な損失を考えれば彼らを憎む気持ちも湧いてきます。

しかし彼らが純粋に、「善悪」の定義が違うだけの「善人」であるとすれば、極端な意味での「多様性」とも言えるのです。
私が先日のブログで「悪を犯す自由と、悪行を楽しむ自由がある」と書いたのは、その考えに基づきます。
その「悪」がこの世に存在を許されているからこそ、彼らの行いを見て考え反省し、世の中の「悪」を取り締まり、調和の取れた平和な社会にするための意義を悟るのです。

そして、彼らが行う「悪」がこの世の大正解であるはずはなく、調和や均衡を乱して破壊をもたらすことは、いずれ自身の破滅を招きます。
見える場所を手当たり次第に「焼き畑」すれば、どこも不毛な土地になり、いずれ自分が飢えて死にます。
ただ、そうなることを考えられないのが「悪」の限界であり、むしろ彼らを導いて生きられるようにするのが本当の「善」というものではないでしょうか。

「日月神示」には、そのお考えが滔々と述べられており、それが「悪を抱き参らせる」ということです。
悪を滅ぼそうと攻撃すれば、かえって反撃の応酬となり、犠牲への憎しみからどちらか一方が滅びるまでやり尽くすしかなくなります。
しかし、その記憶がまた別の悪意を生み、だからこそ争いの因果は連鎖し続けてきたのです。

ゆえに「善」とは悪を滅することに本質があるのではなく、「悪」という存在を認めた上で共存の道を模索し、まして「悪人」が生きながらえる道を示してあげることです。
そこまで「善」に徹するからこそ、その懐の深さと強さと賢さの前に平伏し、「参りました」と言わせることができます。
私は、これが「悪を抱き参らせる」ということの意味ではないかと思います。

もし「悪人」の本性が「善人」であるとすれば、悪人であればあるほど改心した時の反動は大きいのかもしれません。
私が見てきたヤンキーや性悪人間というのは、やはりどこか繊細で、感受性が豊かだから返って傷つき、自分を大事に思うから反発する力が強くなっていったように思います。
ただ、そういった弱さや疾しさは、闇の存在にとっては恰好の依代となるのです。

凶悪犯罪者ほど、どこか「人間らしさ」を感じない、サイコパス傾向が強いのは、彼らが実際に「人間ではない者」と感応するからであり、極悪人に人間味を感じないのはそういうことだったりします。
だからこそ心の迷いを晴らし、正直に親切であろうとする心持ちというのは、それだけで「魔」を祓い悪を遠ざけるのです。

そして人間に幸運をもたらすのも、「魔」を祓い厄病を寄せつけないために「信仰」というのは大事で、「神も仏もいない」という荒んだ気持ちが闇の存在を惹き入れてしまう要因になってしまいます。
私が思うに、「信仰心」と「善」はセットであり、ただ信仰心とは、必ずしも毎日神棚に手を合わせるようなことを意味しません。
「目に見えない存在や人の心」を大事にする感覚こそ神の心であり、その感覚と繋がっていれば例え儀式を伴わなくても信仰は可能なのです。

そして、「神の心」と繋がっていれば自ずと「善」が何かもわかってきます。
全て「目に見える世界が全て」という荒んだ感覚から悪が始まっており、しかし目に見えない世界を想像するのは、心身共に健康さや余裕が必要だったりします。
ゆえに貧しい人が犯罪に走りやすいのも当然の話で、お腹が減っても神様では満腹にならないからです。

私たちは「悪」を憎むがあまり、「悪」を知ろうとしません。
知らないからこそ先入観が膨張し、ますますあり得ない悪人に見えてしまいます。
けれど、意外と会って話してみたらイメージと違ったり、向こうには向こうの事情があったりするのです。
だから、まず相手を知ろうとする努力なくして、「悪」の真の退治は行えません。

前回の記事にも書きましたが、「悪を犯す自由」とは「間違いを犯す自由」であり、「倒錯する権利」でもあります。
厳密に言えばそれこそ「多様性」であり、多様性を謳う人々が特定の価値観を徹底的に弾圧するのも、多様性の一部として認めなければなりません。
そこで矛盾に歯を食いしばりながら、滔々と正論を吐き続ける胆力があってこそ「善行」は全うできるのであり、絵に描いた勧善懲悪では片手落ちなのです。

また、将来的に悪人が良心と知性に目覚め、自らの行いを省みる自由も権利も保証されなければなりません。
そこまで考えられるほど「善」は大人になる必要があり、懐深く気高くなければならないのです。
そこまで行けば聖人か天使かという印象ですが、実際のところ、そうでもない人間が人の生命を裁いてきたのも現実です。

私たちにとって、「善悪」を定義するものは何なのでしょうか。
そして、「悪人」の幸福はどこまで認められるべきなのでしょうか。

悪が悠々とのさばる時代だからこそ、むしろ私は「善」の側にそう問いかけたいのです。

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「神の試練」を考える

楽太郎です。

本ブログ「招神万来」を始めたのが2024年11月26日ですから、ほぼ開始から9ヶ月が経ちました。
総記事数は230本を超えています。ほぼ毎日か2.3日に1本というペースで投稿してきました。
このブログは長文記事が多いですし、さすがに全記事をご覧になられた方はおられないと思いますが、このブログは私の成長の記録となっています。

その中でも、自分の心の葛藤や思索、生き方だけでなく創作における試行錯誤も率直に書き出してきました。
人間としても、スピリチュアリストとしても、成長するタイミングと成長した後の軌跡を辿るには、かなり面白いドキュメンタリーが見れると思います。

大抵、私の文章の傾向がガラッと変わる時は、何らかの壁に打ち当たったり、好転反応で調子が落ちた後に起こっています。
そこで霊的変性が起きたことで、視野が変化して文章の内容も変わってくるのが垣間見えるので、客観的に見れば興味深くもあるでしょう。
当初から一貫しているのは、このブログは「神様との約束」から始まっており、「神様と人を繋げる」というコンセプトを元に、神様のお役に立つべく続けてきました。

普通の人なら、これだけ神徳を積めば何かしら良いことがあってもおかしくないだろう、と思われるかもしれません。
このブログは神様と繋がることができる方を中心にご覧になられていると思うので、わかる方が多い前提でお話ししますが、神様というのはそれほど甘い方々ではありません

普通の人の感覚では、神社に行ってちょっとゴミを拾ったとか、お地蔵さんを綺麗にして差し上げたから何か良いことがあるに違いない、と思われるでしょう。
私が「日月神示」がガチであると思う理由の一つに、「神様はこういうお考えをされる方たちだ」という実感がひしひしと起こるからです。
神示の中に「すぐに来るお陰は神のものではない」と書かれていますが、神様は数十年というスパンで人間をご覧になられるので、1日とか1週間くらいで「ご褒美」を考えるようなスケールの方々でないことは確かです。

だから私は9ヶ月ブログを更新し続けても、何一つ良いことはないどころか、目に見えない形での成長を感じても特にそれ以上のことはありません。
だから、私以外の人が同じことをやったとしても「さっぱり良いことないし、やっぱり神様なんていない」と思い、すぐに辞めてしまうかもしれません。
しかし、人間の価値観と神様の価値観は根本的に違いますし、人間と神様の時間感覚も違えば、「ご褒美」の感覚も全く異なります。

神様は人間ではないから、神様である

まず、神様のお陰を頂こうと思い、神様のお役目を果たそうと思うならば、まずここを抑えておく必要があります。

「神示」の中で、日月神様は「この道に入ってくる者は、始めのうちは苦労する」と仰います。
病気にもなるし、怪我もする。それは、そなたたちの巡りを取ってやっているのだ」と、日月神様は語られます。
私は実際、4月にありえない溝に足を取られて奇跡の骨折をしましたが、まさに日月神示を読み始めて間もなくの頃でした。

普通なら「この神様は疫病神かもしれない、危ないから近寄らないでおこう」と思うのは当然のことです。
しかし、神示にいう「巡り」というのは、仏教的に言えば「負のカルマ」のことだと思います。
日月神様が口酸っぱく「借銭(かりぜに)を無しにせよ」と仰るのは、私たちが他の誰かや環境に対して、知らず知らずのうちに犯している罪や業をそのままに、反省や償いもなく神様の「お陰」を頂こうとするのは、物事の順序としてあり得ないことなのかもしれません。

だから、日月神示を読み始めて「良くないこと」が起こるようになったら、それこそご神徳を頂き始めている証拠とも言えるのです。
私はむしろ、最初に「借り銭」を返すために良くないことが起こることこそ「お陰様」と思っており、なぜなら「負のカルマ」の返済がとんでもなく幸せな時とか、何かと絶好調の時とかに突然起こるよりは、わかるタイミングの時に来た方が「そういうもんだ」と思えるからです。
また、おそらく神様が志ある者には色をつけて、罪状を軽くして償わせて下さっている可能性もあります。

けれど、大抵の人はそこまで達観するのは難しいでしょうし、良くないことがあって「神様ありがとうございます」とは到底思えず、信心を辞めてしまうのも痛いほど気持ちがわかります。
しかし、私たち人間に「良いこと・悪いこと」の判断はできても、自分が知らず知らずに行った言動の善悪や意味は、自分には完全に把握できるものではありません。
その価値判断ができるのは神々だけであり、神様が帳面に自分の行いをどう記載するかなど、人間には想像もつかないのです。

だから、数週間どころか数ヶ月、数年単位の信仰で「ご利益」を頂こうとする気持ちが近視的であることは頭に入れておく必要があります。
それでも、すぐに結果が出ずに散々な目に遭いながら、踏まれ続けても信心を持ち続けるのか、そこを神様はご覧になられるのだと思います。
そして、神様からすれば「ご利益」は、人間が思うような成功とか一攫千金だけではなく、おそらく「成長」という面でもたらされることもあるように思います。

実はこの「成長」こそが神様からの最大の「お陰」とも考えられ、その価値は人間にはなかなか推し量ることができません。

私たちが肉体を持つこの世界は、雑多な価値観の人間が行き交うカオスな世界です。
全く価値観も出自も異なる者同士が出会うのですから、思うように行かず衝突も別離も日常茶飯事です。
おそらくこの地上に生まれてくる前の世界、いわゆる「霊界」と呼ばれるところでは、「似た者同士」が集まるコミュニティが世界そのものを形成していて、天と地ほどの差のある人々の交流は起こり得ないがゆえに、比較的平穏なのかもしれません。

しかし、この地上世界では国と同じ規模の資産を持つ人がいて、他方では汚い水を飲むしかない人もおり、親の言う通りに勉強だけをして生きてきた人もいれば、子供の頃から銃を持ち人を殺めてきた人もいます。
そういう雑多な世界では、様々な葛藤や争いがあり、だからこそ人生には「経験」や「学び」があります。

この「学び」というのは、人間が一度生まれてきて得る教訓だけでなく、おそらく死んでから引き継がれていく「財産」にもなり得るのだと思います。
一度きり、自分として生きて得られた体験や知識が死んで消えることなく、来世再来世に引き継がれるからこそ、「悟り」や「徳」こそ財産であり、「恩恵」となり得るのではないでしょうか。

ただ、そんな目に見えない、証明しようのない「ご利益」よりも、生きているうちに目に見える形で良い思いをしたいと思うのは当然です。
だからこそ、「試練」と「成長」という形で神様がお与えになられる「お陰」というのは、それをわかった上で受けられる人ほど優先的にもたらされるように思えます。
つまり、「ツラい」と思ってそのまま逃げたりダメになるような人にはそれなりに、成長を糧にできる人間にはさらなる「成長の機会」をお与えになるのではないでしょうか。

言ってみれば「成長の機会」というのも、普通の人間からすれば「試練」とか「災難」にしか思えず、あまりについてないことばかりだからむしろ呪われているんじゃないかとすら感じてしまいます。
しかし、逆に言えば神様から見て「成長してもらえる」と思うから恩恵をお与えになられるのであり、それはある程度見込まれていると言っても過言ではないでしょう。

私が思うに、「神様はギリギリできるか、できないかわからないことをさせたがるけど、決して無茶は仰らないし、本当の無理はさせない」と感じます。
少し背伸びをさせて成長を促すのが神様のやり方なので、しんどい目に遭遇したとしても、その困難さは「乗り越えられる」と見込まれてると考えて良いかもしれません。
だから、日月神示の日月神様はそういう微妙なラインを突いてくるところが、実に神様らしいというか、「神様ってこういう方だよな」と思う所以でもあります。

そして、本当の意味での「幸福」というのも、神様と人間では全く定義が違っていて、南国のリゾート地で悠々自適に暮らすような夢を人間は理想としますが、神々からするとその人なりの「魂の充実のさせ方」に合った生き方こそ、真の幸福と考えておられるように思うのです。
だから、自分の幻想としての幸福を求める限り、神様のご用意なされた幸福を感覚的に受け取れないこともあるのかもしれません。

とかく私たちは人間の社会しか知らず、数十年しか生きない私たちの考えや価値観と、悠久の時を眺めて来られた神々との考えや価値観が異なるのは当然のことです。
私が最近思うのは「悪」と人間が呼ぶ存在も、神々からして見れば決して憎むべき対象でないのも、何となくわかる気がするのです。

私たち人間は失敗を恐れますし、迷惑をかけた人を責め、過ちを犯したことを後悔します。
それを「悪」とする私たちは、「悪」を憎むから「悪行」を退け、その行いを忌避して社会をルールで縛ります。
神示には「大神が許すからこそ、悪は世に存在する」と語られます。

例えば、人を陥れて自分だけが得をし、それをひけらかす人をまさに「悪」と思いますが、長いスパンで見れば決して「得している」とは言い切れないかもしれません。
仮に今世で満足して一生を終えたとしても、死んだ後の世界は存在しないと誰も言い切ることができないばかりか、そのカルマを背負って次の世に渡ればどうなるかも人間に予想することはできません。

また、仮に知らずのうちに犯した罪や過ちも「学び」という一つのプロセスなのだとしたら、「過ち」というのはむしろ前向きなことであり、失敗し間違いを犯すから得られる学びがあります。
だから、この宇宙において「過ち」とは「間違いを犯す自由」そのものであり、その自由を憎むべきでも忌避するべきでもなく、「成長」の上では必要なプロセスなのでしょう。

その意味で「悪」とは、「悪を犯す自由」であり、「悪行を楽しむ自由」なのです。
例えそれが凄惨でも醜い行いであっても、宇宙的なスケールで捉えれば時間と次元を超えた「学び」がそこに用意されており、その出来事に遭遇してどう考え、どう動くかは私たち次第です。
そして、私たちにそれをとかく結論づけることは、今世においてほぼ不可能です。

私が最近思うのは、この世界を作られた神が本当に「禁止」したいものはこの宇宙にすでに存在せず、これからも誕生することがないとすれば、今あるこの凄惨さはどう考えればよいのか、ということです。
ただ、もしこの世界が本当に「映し世」であり、真の世界が肉体を離れた世界にあるのだとしたら、この世界で起こる現象も人間の行いも、二次的な意味しか持たないのかもしれません。

おそらく、それを人間の頭で考えたり、第六感をフルに働かせたとしても、決して知り得るものではないのでしょう。
だとしたら、私たちにできるのは今この目の前で起きた現実が「どういった意味を持つのか」をひたすら思索し続けるしかなく、全ての事象に意味があるのだとしたら、その一つ一つに何かしらの兆候を見つけることしかありません。

例えそれが完全に把握しきることはできないにしても、私たち人間はそこに神を見て、神のご意志を読み取ることでしか、真実と向き合うことはできないのだと思います。
「どうせわからないから知らなくて良い」とタカを括るのではなく、それを真っ直ぐに見つめるから「学び」や「成長」はもたらされるのではないでしょうか。

普通の人にとって、そこまで考えるのは敷居が高いと感じられるはずです。

けれど、神様はそれを無理に押しつけることはなく、その人それぞれに応じて、少し難しい課題を少しずつお与えになられているように思います。
もし神様に目をかけて頂いているのなら、「これは神様が何を伝えたいのだろう」と思い馳せてみた時、そこから新たな学びがあるに違いありません。

もし何か災難やついていないことがあった時には、落ち込んだり神様を逆恨みする前に、その意味を冷静に見つめてみることも大切だと、私は思います。
神様の指し示す道は決して楽ではないですが、ただ苦しいだけでないのも不思議なものです。

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「お金の時代」が終わる

楽太郎です。

夏至から始まった「覚醒」のフェーズは、どうやら23日の処暑にクライマックスを迎え、今は別のシークエンスに移行しつつあるのを感じます。
私はこれまで知的追求と「日月神示」を中心とした周知に並々ならぬ情熱が向かっていたのですが、このエネルギーがカチッと切り替わった瞬間から、頭が創作に向かうようになってきました。

しばらく、絵を描きたくても違うテーマの事柄を優先しなくてはいけない状況が続いていました。
それはそれで「こういう時期なんだな」と思って割り切っていたのですが、これまでは「理論」の段階を突き詰めるターンから、「実践」という具体化のフェーズが始まったのだろうと感じています。

勢い余って「日月神示解説」というサイトまで立ち上げて運営を始めてしまいましたが、ここ数日で何となく一区切りついた感覚もあり、もしこれが「型」を出す初期段階なのだとしたら、より型を固めるための現実化を進めていくことになるような気がします。

周りを見回す限り、日本人は「ヤバいヤバい」と言いながら、のほほんとしているように見えます。
実際、どう事を起こして良いか見えず、また何かをやろうにも巨大権力に頭を押さえつけられている状況では、何事も無駄になる可能性も高く、あえてここで「何もしない」というのも意外と賢い選択かもしれないと思うようになりました。

人々が「昨日やっていたことを今日やるだけ」という感じに見えなくもないですが、実際のところ大変だった昨日を今日繰り返すだけでも十分大変であり、そのことだけで手一杯でも不思議ではありません。
私としては、もう少し変化の姿勢を見せて欲しいと思うところでもありますが、人様のことは人様に任せて、私は私のやるべきことをやっていくしかありません。

今の世界のどこを見回しても、おおよそ殆どの人が権力の座にしがみついて全く放そうとしない、頑固なお偉いさんに心底ウンザリしながら、同時にどうしようもないことも知っていて、何とか状況が変わるまで耐え抜こうとしているように見えます。

日本は言わずもがな、海の向こうのお国でもそうで、貧困化が進む世代的コア層がかつての社会に戻そうと右傾化して担ぎ上げた大統領が、どこよりも左傾化した上に肝心のマニフェストを放り出して、世にエゴと混沌を撒き散らしています。
これはどこの国にも共通して見られ、選挙で世を変えることを志した人々が、むしろ自分たちが選んだリーダーに真逆の目に遭わされては絶望に陥っています。

これらの現象が、どこの国でも型に嵌めたように同時に起こっているのを見て不思議に思うのですが、奇特にも日月神示をよく読んでいる者からすれば、「選挙制度という幻想」を引き剥がすためのシークエンスに入っているとしか思えないのです。
そして、「暴走する権力者」という構図は、殆ど全ての人々がどうにもならないことに気づく瞬間まで加速し、民主主義も社会主義も絵に描いた餅に過ぎなかったことに、いずれ気がつくことになるのだろうと思います。

これまでの世界がどういう形に見えたとしても、少数の選民的集団が考えて実行する枠組みに主導権があり、その中で全てが仕組まれて機能していたことを、後になって初めて知るのでしょう。
自分たちが隠れ蓑とする「民衆」の力が世を形作っているように見せるカラクリも、だんだん明らかとなって来るはずです。

先日、「今のハイテクバブルは崩壊するのではないか」と持って回ったような話題がマスコミに出始めた話をしましたが、先日NVIDIAの第二四半期決算が予想を下回った、というニュースも出ました。
また政府主導で半導体装置大手、Intelの国有事業化が始まっており、それに連動して同社の将来性が危惧されています。
私は以前から未曾有のバブル崩壊と経済破綻が起こると警告していますが、おそらく震源地はここです。
というより、「バブル崩壊」はずっと前から仕組まれていて、実はいつトリガーを引くかというタイミングにありました。

トランプ大統領が当選した昨年11月当たりに、銀行ターム融資プログラム(BTFP)という銀行救済制度の融資残高がゼロになるように設定したのは、トランプ氏と骨肉の争いを続ける連邦準備制度(FRB)のパウエル議長です。
アメリカは大手銀行を始め、年々含み損が増大して青色吐息の状況であり、FRBがその延命治療を施さなくては中小の銀行から連鎖破綻が起こる恐れがあります。

そもそも、その金融危機もパウエル氏が「レポ取引」という銀行への優遇制度を2019年に引き締めを行ったことに端を発します。
この話を経済に疎いトランプ大統領が側近に耳打ちされたとしたら、「アメリカの金融が潰れそうなのはジェローム(パウエル)、あいつが悪い」と短絡的に思ってもおかしくありません。

実際に大して間違いではないのですが、2020年辺りでFRBが失策したのは確かであり、この実態こそズブの素人である私ですら知っていることですから、プロ中のプロのエコノミストが無知なはずがありません。
この金融危機を予め予期している機関投資家などの大手資本は、その経済的皺寄せを個人投資家に押しつけるべく、最近までバブルの雰囲気を伸ばすに伸ばし、バブルを煽るに煽ってきたのです。
その兆候は、大手投資会社バークシャー・ハサウェイを率いるウォーレン・バフェット氏の動向を見れば明らかであり、彼は今年12月をもって引退することを宣言しています。

そして、Broombergなどのプロパガンダメディアが「そろそろバブル、危ないんじゃない?」と煽り出したのは、「危険は一応知らせた」というマスコミの自己保身的アリバイ作りであって、それは金融業界の偉い人たちが逃避するための準備完了を告げるものでしょう。
金融市場は以前から着々とバブル崩壊の準備をしていて、その罪状を一身に担うことになるのはNVIDIAのCEOであるジェンスン・ファン氏だと思います。

また、その共犯の槍玉に挙げられるのが、非営利企業のCEOでありながら100万ドルの高級外車を乗り回すOpenAIのサム・アルトマン氏を始め、ビッグテックらAIブームの恩恵に預かった頭取の面々でしょう。
経済崩壊の原因を作った張本人こそウォール街の住人ですが、テック企業を悪役にしてスケープゴートにしつつ、もう既に彼らの手仕舞いは済んでおり、これからは悠々自適な隠居生活が待っているのだと思います。

おそらくその後、アメリカは景気後退を避けられず、失策続きのトランプ政権は中間選挙で大敗するでしょう。
そのシナリオも民主党が大統領選中に用意したものでしょうが、そのタイミングを利用してリベラル派が意気揚々と浮上してくるはずです。
それはトランプ大統領の懸念事項であり予想しうることで、大して混乱もしていないカリフォルニア州に州兵を送り込むことすら辞さない、強情なプレジデントの気概によっては、下手すると内戦に突入するかもしれません。

私は、そのままアメリカは国家解体に進むと考えており、実際にあれほど根深い問題を抱え、社会構造として袋小路に陥っている状態を鑑みれば、一度ガラガラポンをした方が手っ取り早く、人間が大地を有効利用できることにいずれ気がつくでしょう。
それを見て、決して我が国もアメリカを指差して笑える状況にありません。
アメリカ51番目の州である「日本州」ですから、アメリカの国家崩壊の憂き目を見ることになるのは確実です。

だから私は一刻も早く、大暴落間違いない米国債を大量に売り浴びせ、円高還元を行い日本一人勝ちの状況にすれば良いと思いますが、残念ながら80年かけて魂を抜かれた日本人にそれは不可能でしょう。
ただ、既存の経済の枠組みが崩壊するということは、ただでさえ円安と物価高でスタグフレーションに陥りつつある(実は既に陥っている)日本人の生活形態が変わってきたように、社会の仕組みも自然と変貌していくことになると思います。

既に低成長経済が板についたフランスやドイツは、ゴチャゴチャした余剰な道路網を再整備し、解放した土地を緑化させたりしています。
人口動態を見ても、文明的視点、技術発展の視点から捉えても、日本も必然的にそうなっていくと思います。
EUは「緑の党」という環境カルトの政党が躍進しており、土地の緑化はその一環だとしても、使用頻度の低いインフラを維持する合理性はやはり見直される必要があります。

既に昭和遺産とも呼べるバブル期の廃墟に見られるように、解体する費用すら捻出できず風化に任せている建物や土地は山ほどあります。こういった構築物は今後増えていく一方であり、人々は市街地に集まりながらも都市計画は次第にミニマム化していくはずです。

日月神示をここで持ち出すならば、それが「金で治めて金で潰す」という神々のシナリオをなぞることになると思います。
我が国ならず、世界中で生成AIやEVや自然エネルギーのような出口のない技術にしか発展を見出せない現実は、人類が必要な技術開発をあらかた終えてしまったことを意味しています。

これまで、経済発展と成長があったからこそ、市井の人々には「社会的成功」がビジョンとなり、自分の人生の大切な時間を投げ売ってでも「お金」を手に入れようとしてきました。
しかし、飽和しきった後の時代にあっては、人々がごく少数の「お金持ち」になるために過酷極まる競争に駆り立てられるよりは、多少お金に窮屈しても自分の自由や、快適な生活を優先するような精神風土になっていくのではないでしょうか。

むしろ、神示ではそういう時代を形容して「天地がひっくり返る」と喩えているのかもしれません。
今、世でお金と権力と名声を振り回して下々を従えている成功者が、「資本」という力を引き剥がされた時、その行いの程度によっては人々に裁かれる瞬間が来るでしょう。
多くの人々が「お金」に対する信頼を失えば失うほど、彼らお金持ちに対する憧れは薄れていき、それならば自分の手元や足元にある自由を大事にして生きていこうと、そう思うはずです。

その時、決してお金や成功目当てに生きるのではなく、自分の権利や自立心を大切にするからこそ、これまで社会で浮上できなかった人々の生き方が「理想」とされていくと思います。
むしろ今、地面の泥を舐めているような人ほど脚光を浴びる時代が来るとしたら、それこそまさに「天地がひっくり返る」という形容が相応しいのでしょう。

俯瞰すると、日本が貧しくなって民族的自尊心を失くしていったのも、2000年を皮切りにした「グローバリズム」の到来にあったように感じます。
グローバリズムというのは、所詮は欧米に有利な条件で欧米のやり方で欧米の仕組みを使い、欧米のモデルに追従し欧米の一部に組み込まれる仕組みだったのです。

日本は、本質的な技術開発や需要を掘り起こすのが得意な国民性を持っています。
漫画・アニメなどの二次元産業は日本が誇る産業文化ですが、「クールジャパン」として海外に持て囃されて以降、広告業界と海外資本に寄生されて残念な業界になってしまいましたが、数々の電化製品も食品製造技術も観光産業も、日本人だからこそ発展してきた分野です。

日月神示的に言うと、「外国は外国のやり方、日本は日本のやり方」なのです。
日本のやり方を捨ててグローバル化に邁進した企業が、人々から本当に信頼されるビジネスを展開している企業に見えるでしょうか。
あえて企業名は出しませんが、CEOが海外出身の人になった企業ほど本質的な部分を捨ててしまったように思えます。
そして日本企業としての個性や良さを失い、金策で勝とうとする海外企業と横並びの存在となってしまいました。

日月神様のような説明の仕方をすれば、外国のビジネスは外側「◯」を整えて、その仕組みを循環させることで発展させるのは、非常に得意です。
それに反して、日本は基礎研究からしっかり行い、実体のある需要を捉えるような基本「・」を中心としたビジネスの方が上手くいきやすいのです。
グローバル企業は、欧米に合わせて「◯」に特化した組織形態となり、どちらかと言えば日本企業は基本を取り入れた「◉(◯の中に・が入っている)」性質をもち、それゆえに高度経済成長時には他国の技術を凌駕したのだと思います。

しかし、「お金が第一」となり、いかに需要を捉えても儲けが出なければ事業をする価値がない、と判断する現在の我が国のやり方は、完全に中身を失い「◯(形骸)化」しています。
もうこの際、グローバリズムは肌に合わないことがわかったのだから、無理に衰退する諸外国に合わさず、日本人は日本人のやり方に戻っていくべきではないでしょうか。
おそらく、外国の「成功モデル」の崩壊は、自動的に日本の独自技術や伝統文化の見直しに繋がっていくはずです。

大量生産・大量消費の時代に一旦区切りがつくことで、人々がイヤイヤながらお金のために時間を費やすような働き方ではなく、もっと市民の需要に応えるような、実体のある商業取引に焦点が当たっていくでしょう。
だから工業生産も、次第に低コストかつ高付加価値を目指すようになり、手工業や伝統工芸が伸びることも予想されます。
やはり、巨大企業が高性能製品を大量生産するよりも、質の高い製品を持続的に製造する方が経済効率が遥かに良く、環境への配慮もあるからです。

そこにおいて、地味に工業の下支えをしてきた町工場も再評価されていくでしょうし、着々と技術を育ててきた企業や職人は報われていくと思います。
私の業界の話をしてしまえば、「AIがあれば才能も努力もいらない」とタカを括っていた人たちを尻目に、きちんと才能と知識と感性を磨いてきた人ほど、その技術が改めて認められていくでしょう。

手間味噌ですが、私はそうなることを予見していたからこそ、生成AIを使うことを避けながら、マンパワーにこだわり地道な努力を続けてきたのです。
私は直感的に数年前から現行システムの矛盾と行き詰まりを感じ取っていて、近い将来に色々とやり尽くした結果、昔のやり方が最も合理的だったことに気づいて「元の鞘に収まる」のではないかと考えていました。
ここ数十年、理不尽な形で「金儲け」という巨大な仕組みに振り回され、抑圧されてきた人々や物事が再評価される時、そのきっかけが商業主義の崩壊にあるという皮肉は、むしろ最初から宿命づけられたものだったのかもしれません。

私は、このまま日本が脱落したままで、後は滅んでいく一方だとは全く思いません。

ただし、あまりにも人々がチャンスを袖にするようなら、自分たちでこの最大の幸運と繁栄を取り戻すきっかけを逃すことになりかねないと思います。
ゆえに、その選択はこれからの時代を動かしていく私たち次第です。
日本は日本のやり方で、日本人が日本人に合うやり方を少しずつ思い出していけば、日本はおそらく文化的、文明的な面で世界をリードする国となれるはずです。

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神示「荒れの巻」解説

楽太郎です。

先ほど、私が運営する日月神示のまとめサイトに、「荒れの巻」の口語訳の記事を投稿しました。

「荒れの巻」口語訳

この「荒れの巻」は神示の中では最も難解と思われ、難読の当て字のオンパレードになっています。
私は当初これを目にした時、「本当に荒れてるなあ」と思ったものですが、こうして文脈を整理しながら単語を整えてみると、いつもの日月神節が垣間見えてきます。

そうして読むと、全くブレたところがないように感じました。
ただ、「荒れの巻」はちゃんと読むと、わりととんでもないことが書かれていることに気づきます。

この文節には「国常立尊」という御神名については語られず、その代わり「伊弉諾命(那岐)」と「伊奘冉命(那美)」の二柱と「大素戔嗚神」の三柱が登場します。
そして、この三柱で「岩戸開き」とその道を説かれており、順当に読めば「伊弉諾命が伊奘冉命の御位を継ぎ、三千世界に君臨する天嗣(てんし)となる」と書かれています。

突拍子がないように感じるので、少し整理をしたいと思います。

伊弉諾命と伊奘冉命は神世七代の末代にして、伊弉諾命は三貴子の親神となります。
神示によれば、伊弉諾神と伊奘冉神の成りなる(変化?)の末に伊弉諾命、伊奘冉命となられたそうです。
その系譜の始めには「天御中主神」がおり、「高神産日神」と「神産日神」を加えた御三体の神々がおられ、別天津神五柱の次にお産まれになられたのが、神代の初代である「国常立尊」と「豊雲野尊」となります。

この文書においては、伊弉諾命が国常立尊と同一神格として語られているように思います。
どうも伊弉諾命が「月と海原」を司る神であり、それは素戔嗚命を連想しますが、神示の文脈では「素戔嗚命」は国常立尊と同一神格とされます。

つまり、「伊弉諾命=素戔嗚命=国常立尊」ということになります。そんなことがあるのでしょうか。

一般的な日本神話の文脈では、伊弉諾命と共に神産み、国産みをなされた伊奘冉命は、火迦具土命をお産みになられた際の火傷が原因で、お亡くなりになります。
その後、伊奘冉神様は黄泉の国に入られ、伊奘冉命を慕った伊弉諾命は黄泉に渡りますが、そこで仲違いをしてしまい、命からがら地上に戻ってきます。
そこで潔斎をした時に単独で三貴子をお産みになられていますが、御子神の天照大御神が太陽神となっています。

ただ、神示によれば「五つの岩戸閉じ」の中で、岩戸隠れをした天照大御神はそのままお隠れになられたままであり、偽りの太陽神が現れたことで世が闇となったと語られます。
また別の岩戸閉じでは、罪を着せられた素戔嗚命が高天原を追われ、地上に封じ込められたとされます。

素戔嗚命と言えば、「天の一部」と「夜の食す国」と「天が下」と「滄海原」を司る御神格であらせられます。
そこで「月と水」を支配する素戔嗚命を伊弉諾命と仮定すれば、「日と火」を司る神格は伊奘冉命となってしまいます。
つまり、地に封じられし伊弉諾命が岩戸開きによって世に現れ、伊奘冉命を岩戸から救い出すことになるとしたら、真の太陽神である伊奘冉命も再び世に現れることを意味します。

日本神話でも伊奘冉命は常闇の世界におられ、そこで死霊たちを治めています。
奇しくも真の太陽神は岩戸の中にいらっしゃるとされており、辻褄が合うのです。
そもそも、「伊奘冉命」の「いざなみ」とは、「誘う(=いざなう)+霊(み・ひ)」を意味し、元は地上の精霊や死後の死霊を導く神格とされていたのでしょう。

対して「伊弉諾命」の「いざなぎ」とは「誘う+キ(気・饌)」であり、生命や実りを象徴する神格と考えられます。
私たちは直感的に「伊奘冉命(波)」は水を司り、「伊弉諾命(凪)」は風を司るから、伊奘冉命が海を、伊弉諾命が空、または天を司るとイメージしがちです。
しかし、伊弉諾命の御子神であられ、女神の天照大御神が天体の太陽と高天原を司る神格であり、弟の素戔嗚命が月と地上と海原を支配するのは、この世代では男女の立場が逆転しているとも言えます。

子を産む役割を担うのは女性です。だから神産みをするとしたら、多くの神を産めるのは男神よりも女神の方だと考えられます。
太古の日本人、少なくとも卑弥呼の時代頃までは、日本は女系社会だったと言われており、その文脈で高神産日神と神産日神に性別を鑑みれば、「高く神を産む」のは女神、即ち伊奘冉命です。
だから本来、女神の方が男神より生産的役割は上ですが、ただそれが立場上の関係と同じであることは意味しません。

神示によれば、国常立尊が高天原の最高神の御位に就く時、日と月を同時に治め、高天原を支配する最高神の神格を「嗣ぐ」天日月大神となられるそうです。
もし本来、伊弉諾命が元から天を統べる神であるとするなら、岩戸から出られた後に玉座に就くのは「戻る」だけであり、「嗣ぐ」ことにはなりません。
ゆえに、元は高天原と天体の太陽を司っていたのは「豊雲野尊」いわゆる伊奘冉命であり、国常立尊である伊弉諾命がその最高位を継承するからこそ、新たな時代の神となることを意味するのではないでしょうか。

この「荒れの巻」をきちんと読むと、そういった文脈が浮かび上がってきます。
また、「大素戔嗚神」という御神名が登場しますが、神示を読み解いていくと「素戔嗚」というのは「神の働き」を神格化した神名であり、言わば伊弉諾命(国常立尊)の神力そのものを「素戔嗚(凄まじく成る)」と呼称しているようです。

そして「大素戔嗚神」というのは、伊弉諾命と伊奘冉命が共に働かれる場合の神力を指しているように読み取れ、厳密に言えば「天日月大神」とは伊弉諾命と伊奘冉命がお力を合わされた際の御神格であり、「日の神」と「月の神」の二柱が合わさるからこそ「日月」と呼ぶのだと思います。
そして、天体としての太陽を司る神格は変わらず伊奘冉命であり、高天原の「日=最高位」は月の神、地上の神である伊弉諾命が継承する、とすれば「日月神示」の真髄が見えてきます。

神示の重要な概念である「天と地のあなない」は、まさに月地神の伊弉諾命と日神の伊奘冉命の二柱が三千世界を共同統治することを意味します。

この世界を闇に陥れた「五つの岩戸」において、地上に封じられた伊弉諾命と岩戸に封じ込められた伊奘冉命という構図によって、「伊弉諾命と伊奘冉命の別離」「素戔嗚命の追放」「天照大御神の岩戸隠れ」の三つが同時に説明できてしまいます。
「荒れの巻」には、地上の岩戸を出られた伊弉諾命が、自ら伊奘冉命の岩戸をこじ開け、救い出して逢瀬を果たす時に全ての岩戸が開かれる、そう読み取れます。

五つの岩戸のうち、あとの二つの岩は「人皇の支配」と「仏教伝来」を指しますが、神示の文脈を加味すれば天の大神が地上を直接支配する時代において、人皇は役目を終え、弥勒の世が到来すれば仏教のタイムラインが完了してしまうため、同時に終わりを迎えてしまうのです。
ゆえに、伊弉諾命が地上の岩戸から出た次の瞬間には、自動的に四枚の岩戸が開かれることになり、始めの岩戸が開かれた時点で、弥栄の世を迎えることが確定するのです。

そして、単独の神としては八柱の神産みが限度だった伊弉諾命(神産日神)が、伊奘冉命(高神産日神)と再び神産みをすることができるのならば、十柱以上の神々を産み出すことができるようになり、神の世界もそれによって様変わりすることでしょう。
「三千世界の大洗濯」たる大峠が神々の世界も巻き込む所以はここにあり、それを乗り越えた後には神々の世界も新たな時代に入っていくのだと思います。

ただ、その肝腎要の「地の岩戸開き(伊弉諾命の封印)」は、未だに解かれてはいないのではないでしょうか。
私は以前ブログで、天の岩戸は1955年前後に開かれたのではないかと書きましたが、天界と地上では起こることは連動しても、順序が違うこともあると神示には述べられています。

私は今夏の異常な高温が「天と地」の霊的関係で起こっているのではないかと考えていて、ちょうど「アセンション(次元上昇)」をした地球は、霊的に天と距離が近くならざるを得ないのです。
これはこじつけのように感じられるかもしれませんが、人心の荒廃と反省が人々に見受けられる昨今、「神と獣」に分かれるとされる神示の予言に符号する現象を見れば、あながち妄想ではないように感じます。

この困難極まる社会情勢の中、もし私たちがこれを「大峠」と見て乗り越えようとするならば、その救いは「地の岩戸開き」にかかっているのではないでしょうか。
そして、その岩戸開きの方法が隠されていたのが、この「荒れの巻」であり、確かに幾つもヒントらしき文章が垣間見えます。

その要となる「富士」という概念は、おそらく「不二(二つとない=一つである=三つでもある)」という仕組みにあり、それは私たち人間が神様と繋がり、唯一無二の存在として立ち現れてくることを意味するのではないでしょうか。

そして、神示に口酸っぱく述べられる「身魂(みたま)磨き」とは、心も行いも汚い人間には神を感じ取ることができないからであり、「神人合一」を果たすならば「我よし」という頭ではダメなのだ、と仰りたいのだと思います。
そして、それができる人間がたった59人この世にいれば「岩戸開き」は成就するのであり、それは神々が因縁ある魂を導き、結果的には達成させる予定なのだと言います。

ただ、これで黙っていても岩戸開きが成されるとは限らず、おそらく本来なら30年前に「地の岩戸開き」は完了するはずだったのでしょう。
長くなるので詳しくここで書けませんが、おそらく今回のウェーブで岩戸が開かれなければ、次の30年後はまさに大難の時代となっており、おそらく本当に「5人に1人」しか生き残らないような、悲惨な情勢となっている可能性があります。

だから神示の中で日月神様は「大難を小難にせよ」と仰られるのだと思います。
確かに、30年前のバブル崩壊後間もない日本ならば、大峠を迎えたとしても今ほど人々が極端な袋小路には陥らなかったはずです。
私たち中年は、これから30年も生きなくてもいいかもしれませんが、まだ10代20代の子供や若者の未来を考えると、ここで弥勒の世にしなければ、日本人はもう生き残れないと想像しても、極端とは言えないかもしれません。

「どうせ日本は老人だらけの国だ」と、国土を外国に二束三文で売り払う我が国の人々を見て、まさか眉唾と思う人はいないでしょう。
ただ私たちは政治活動や社会活動で世を変えるというより、自らの魂を磨くことで国や世界を救えるのなら、大した苦労はないのではないでしょうか。
そういう奇特な人は、神様が帳面に記して末代名が残るようにするとまで仰って頂いています。

今、我が国は建国以来、地味に最悪な状況に置かれています。
日本のためを思うならば「日月神示」をもっと多くの人に読み込んでもらいたいですし、誤解や偏見があるならば、本当の教えに気づいて欲しいと思います。
ただでさえ「我よし」で、金と力とルックスさえあれば何とでもなる世の中で、人間として大切なものを取り戻し、本当に平和で豊かな社会を望むのならば、今のままではいけないことは確かでしょう。

そのヒントは、この神示の中にあると私は思います。
胡散臭いとか、オカルトと一蹴したくなる気持ちもわかりますが、一度は軽い気持ちで間に受けてみて欲しいのです。
ふとした瞬間に心の鎖が外れて、自由に気づく人がいるのではないでしょうか。
そんな小さなきっかけから、大きな物事が動き出すのかもしれません。

私はそんなことを願いながら、このブログと「日月神示解説」というサイトをやっていたりします。

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世界の袋小路と「神の道」

楽太郎です。

先日、「日月神示」の全文を掲載し、今後解説をつける予定のサイトをオープンしました。

日月神示解説 | 100年も嘘は申さん。

ここ最近は本ブログでも、神示にインスパイアされた大きなテーマの記事が続きました。
私には何となく切迫した感覚があって、「書かなくてはならない」という、衝動のようなものに突き動かされていました。
おそらく、現実的な社会情勢だけでなく、霊的にも世界は逼迫した局面を迎えていたのだろうと思います。

今、ようやく「今のハイテクバブルは、ドットコムバブルの再来ではないか」という憶測が出始めましたが、マスコミのミスリードは実際の世の動きより3周くらい遅れています。
ただ、その認識でも十分通用してしまうのが今の世の怖いところであり、マスコミの角度が高ければ高いほど、現実とのギャップは大きくなります。

私たち庶民の日常感覚とメディアの大本営発表との間に、ズレを感じるのが普通なのではないでしょうか。
世を動かす「巨大なもの」は、もはや巨大な群衆の力によって動いているのではなく、少数の選ばれた者たちが絶大な力を持って、巨大な仕組みを動かしているだけです。
そこに群衆の力は働かず、外側の「仕組み」が動けば、群衆はそれに従って右へ左へ振り回されるしかありません。

この世界の行き詰まりは、強いものが強いものに有利な仕組みを使い、強大な力を持ってより強大になっていくだけの無限上昇のスパイラルにあり、それに反して弱肉強食のシステムに溢れた弱いものたちは下に沈んでいき、肥やしになっていくしかありません。
その二極化は極まり、もはや強大なものは強大になりすぎて、全体を支えてきた多様性は淘汰によって失われ、もはや新たな仕組みを作る力すら失ってしまいました。

この構造を客観的に見て、「そんなものが続くはずがない」と思うのは、決して当てずっぽうではありません。

アメリカ、中国、ロシア、EU、日本のみならず、世界は特定集団の寡頭体制に向かっており、彼らエリートが中心になって世界を合理的に「管理」するためには、実はまだまだ世界は多様すぎるし、下々には煩雑な人間が多すぎるのです。
だからこそ、彼らはより自分たちが強大になる必要があり、大衆はとことん弱体化させ自由を奪い取り、いっそ思考も消し去った方が効率が良いと考えていてもおかしくありません。

「いらない人間がこの世に多すぎる」と彼らが思う以上は、搾取や弾圧は彼らにとって善なのです。
その無駄なエネルギーを「世界平和」のために活用してあげるのだから、君たちが自分勝手な方向に発散させるよりは遥かにマシだろう、という訳です。
そして、全人類が5億人くらいになれば、バランスの良い「永遠平和の社会」が実現するのでしょう。
少数の支配集団が安全に世界を統制するには、あまり民衆が力を持つべきではないからです。

「陰謀論」というのは、権威が否定するから「陰謀」に仕立て上げることができます。

政府広報やマスコミや学閥が「嘘だ」と言えば、どんな根拠がある話も理論的に「陰謀論」にできてしまうのです。
そこでは科学的正当性も学術的価値も、レトリックと圧力で封じることが権威には可能なのです。
ただ、公式見解に否定される以前の、あらゆる仮説や憶測は「意見」であり、立派な「思想」です。

何でもかんでも、権威の俎上で「陰謀論ではないか」と批判を恐れるからこそ、近ごろの私たちは自らの考えに確信を持つに至れないのです。
しかし、そうして意見を撹乱することも仕組まれているものであり、そこに真の「陰謀」があるとしたら、それも「陰謀論」と自ら取り下げるべきなのでしょうか。

私たちは、自分の考えを口に出すことはおろか、率直に思ったことでさえ自分で否定しなくてはならないほど、何かを恐れるようになって久しいように思えます。
そうして価値観や考え方の多様性を削ぎ落とされた結果、人々はより確かなものを「強いもの」に求め、例えそれがデタラメでも、強いものはより強大になっていったのではないでしょうか。

しかし「寄らば大樹の陰」と人々が信じて巨大な権威に縋りつき、もしその大樹が木の皮を被った化け物だったとしたら、気づいた時にはもう遅いのです。
今の世間を見回してみて、この光景に心当たりがないという人はいないでしょう。
私たちは、まんまと上手いことやられたのです。

この世界を牛耳る人たち、少なくとも国際社会のトップに君臨する人々からすると、民族も文化も国家もどうでもよいはずです。
少なくとも、自分たちの集団が子々孫々と君臨する栄誉が得られたらそれで良く、彼らにとってはそれが「理想社会の実現」であり「絶対正義」に当たるからです。

だから、私たち国民が窮乏するのも、治安が乱れて社会が荒廃するのも、近い将来に世代が途絶するのも特に大した問題ではなく、彼らにとって焦眉の課題は、民衆が自分たちの脅威にならないように抑え込むことでしょう。
自分たちの体制が揺らいだら「正義」も「理想」も絵に描いた餅に終わるからです。
だから、彼らはまだまだ私たち民衆を苦しめる手を止めようとはせず、むしろ本腰を入れるのはこれからでしょう。

ただ結論を言ってしまうと、そんなやり方では多くの人々だけでなく、彼ら自身も長くは持ちません。
自分たちには富も権力もあるし、無尽蔵の資本があらゆる人々を従属させ得ることも知っている、そんな彼らの弱みは、「人間がバカであることに賭けている」ところにあります。
私たち人間には、知ろうとする欲求があり、真贋を見極める能力があり、善悪を感じ取って自らを守る感性と、未来に希望を見い出す力があります。

この世界を支配したがる人々は、その人間の本質を知らないがゆえに人間を見下し侮り、力と欲望で全てを統制できると考えているのではないでしょうか。
しかし人間の心にある、かけがえのない自尊心や思いやりは、札束の魅力でどこまで服従させることができるのでしょうか。

私たちは、そろそろ目を覚ますべきです。

とは言え「ならば、どうすればいいか」を考えた時、正直言って現行制度の上で今の体制を覆すのは不可能でしょう。
全ての元栓は厳重に管理されており、私たちには元栓を閉める力すら持たないからです。
ただ彼らも、自らを支えるシステムが愚かな大衆にあることは重々承知しており、愚集は愚衆なりに言うことを聞かせられなければ困ります。

私は、彼らが本心から焦っていると感じています。
人々が、というより自分たちの成功体験を元にしたスキームが不動ではなくなってきたこと、自分たちの腐敗物が堆積し、自分自身が腐りすぎて足元から崩壊が起きているのを、外部からですら確認できるようになってきたからです。

イスラエルによるパレスチナ住民の虐殺を全面支援するアメリカ政府が、あの体たらくなのは偶然ではありません。
もはやアメリカ製兵器はイランやロシアよりも性能が低く、中国と戦争しても勝てる見込みはないでしょう。
それは政府を意のままに操ってきた企業体の超富裕層が、あらゆる公共資金の中抜きをして実態の伴わない商売をしてきた結果であり、彼ら既得権益者たちは自らの腐敗を口先で誤魔化す以外に方法がないのです。

今まで通用してきた経験則もスキームも揺らいでいることを自覚するがゆえに、彼らはより強大になろうとし、強大になるためならあらゆる暴力も犠牲も正当化しうるのです。
これこそ、運を天に賭けているようなもので、全く科学的でも合理的でもありません。

私たちはどうするか以前に、耐えているだけで彼らの崩壊をいずれ目の当たりにするはずです。
それははっきり言って時間の問題でしょうが、とは言え指をくわえて見ていれば良いものではないと思います。
私たちは一刻も早く頭を冷やし、一人でも多く彼らの正体に気がつくべきですし、彼らの化けの皮が剥がれた後の事態も見据えておかなければなりません。

彼らは現在の世界のあらゆる既得権益に根を張っており、彼らが倒れることは、今ある社会の基盤から権力が引き剥がされることを意味するでしょう。
おそらく「どこからどこまで」と決めることができないほどの癒着と腐敗がそこにあり、それを根こそぎ取り払うまで、次の時代が始まることはないと思います。

それはお金の計算の仕方や、来月の支払いだけでなく子供の将来設計や法律や国家の枠組みに至るまで、気の遠くなるような見直しを要求されることになるはずです。
だからこそ、私は早く人々に気づいてもらいたいと思い、こうして活動しています。
実は崩壊することよりも、崩壊した後の方が大変だからです。

奇しくも、「日月神示」にはそのヒントが書かれています。

どうせオカルトだ、と思われることを否定しませんが、仮にどんなインチキであったとしても、この一連の文章には的を得た部分があるのも事実です。
この神示が、一人の絵描きが世界を変えるために机の上で必死に考えたものだとしても、私はその思想に共感します。
この神示が本当に神によるものか、人間の手によるものかは大して重要ではなく、この文書に書かれた思想は私たちの行く先を確かに導くものです。

神示には、今の世に蔓延る醜い支配者たちも、この世界においては「悪という神の役目」を潔く負った者たちであり、決して憎むなと教えます。
その考えは、高尚すぎて直感的には受け入れがたいほどです。
しかし、そうして「悪者」を探し出し、引き摺り降ろし殺し尽くし、勝った正義がまた次の敵を作り出すという悪い循環があるからこそ、一向に戦争や迫害がなくならないのも事実です。

これから平和な未来があるとして、まず必要なのは「悪を滅さねばならない」という考えを滅することではないかと思います。
その観点で、日月神示ほど正論に近い言説を私は知り得ないのです。
だからこそ、神示が眉唾かどうかではなく、書かれている教えや思想に目を向けて欲しいと思います。

そして、「日月神示解説」というサイトがその一助となるよう、私は運営を続けて行きたいと思います。

この文書は、改めて読んでみると大して予言的でも破滅的でもなく、言ってみれば教訓的なものと感じます。
その眼差しと口調には厳しさだけでなく、憐れみと優しさがあり、この神示を降ろされた「天日月神」様には、古き良き日本人の面影を感じ取ることができるのです。

もし仮に、これほど「人間的」で、思いやりのある神様がこの世を治める時代が来るのなら、その世界が良い世界でないはずがあるでしょうか。
人間に任せきってこういう世界になったのだから、いっそ神様にお願いした方が未来永劫、マシな世の中になるようにさえ思えるのです。

私は、この世が嘘と方便ばかりだからこそ、言うべきことはキッパリ言う、そんな言葉の節々に癒されながら、いつも勇気づけられるのです。

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「日月神示解説」サイトオープン

楽太郎です。

本日、「日月神示」の原典を全文掲載し、解説を加えたサイトをオープンしました。



日月神示解説 | 100年も嘘は申さん。


現時点では、神示の独自解釈による解説ページは準備中です。

本日、8月23日の朝方に太陽が乙女座に入り、午後2時半頃から月も乙女座に侵入します。
奇しくも私の誕生月である乙女座に太陽と月が同時に位置し、しかも本日午後3時には新月を迎えます。
私自身は何となくサイトを制作していたのですが、この占星術的暦を知ったからには是が非でも今日の新月に間に合わせなければいけないと思いました。
何故なのかはわかりませんが、時の運びとして重要な意味をもつ気がしています。

ここ数週間、日月神示の解読に情熱を燃やしていましたが、このサイトをまとめるに当たり、やはり神示のメッセージの重要性を再確認し、その解説を含めて世に広めていかなければならないと思いました。
正味な話、「日月神示」をまとめたサイトや解説系のブログはたくさんあります。
神示の関連本もたくさん出ていますし、門外漢である私が今さら神示に触れるのも奇妙に思われるでしょう。

私自身も少し前まではそう思っていたのですが、神示には読み方が「八通り」あるとされており、その一つの読み方が見えてきたのです。
仮にその読み方が既にされていたとても、私がそれを「世に示す」こと自体に意味があるのではないかと思っています。

近年の日月神示ブームにおいて、文中の「五六七の世」という言葉は、一般的に「ミロク」と読みます。
これは、「一ニ三(ひふみ)」「三四五(みよいづ」」と時代の並びに比例して、仏教において56億7000万年後に訪れる「弥勒の世」という天国的地上世界の概念と重ね合わせ、「五六七(みろく)」と読ませています。

近年の流行りでは「五六七=コロナ」であると紐解き、予言が当たったと評判になりました。
私はその読み方も一つだと思いますし、神示には「読む人のあり方によって神示の内容は異なる」と書かれているので、それも正しいのでしょう。
ただ神示の語法は具体的に読むよりも、より抽象度の高い解釈をした方が筋が通るように思います。

今、世が混迷を極めているからこそ、人々はこの先を知るための予言的な兆候を求めるのではないでしょうか。
街に出ても、まるで魔法がかかったように寂れていく光景を目の当たりにすると、客観視しきれないほどの感情に襲われます。
誰もが感じる困難さは、まさに神示の中にある「大峠」を連想させ、直感的に受け入れやすい土壌にもなっているのでしょう。

だからこそ、今まさに「日月神示」を深く知ることの必要性が増しているのだと感じます。

その「大峠」は、大いなる「岩戸開き」によって成就するとされています。
神示において最大のキーワードとなる「岩戸開き」ですが、これは世界に存在する全ての物事、それぞれの生命に必要なプロセスであると語られます。
この岩戸開きには大きく分けて「天の岩戸開き」と「地(くに)の岩戸開き」があり、「天の岩戸はすでに開かれている」とあります。

神示をタイムラインで読み進めればわかるのですが、「本巻」の時系列1950年代以前は、「愈々(いよいよ)」という文字が頻出します。
私が思うに、1948年の子年を境に本当に岩戸開きがあり、1958年までに「天の岩戸」は実際に開かれていたのだと思います。

しかし、肝心の「地の岩戸開き」の方は五重の岩戸とされ、これは地上に住む人間と神々が共同して開かなければならないとされています。
この五重の岩戸こそ、「伊弉諾命と伊奘冉命の別離」「素戔嗚命の追放」「天照大御神の岩戸隠れ」「神武天皇の擁立」「仏教伝来」を指します。

この五つの「岩戸閉じ」と「岩戸開き」に関して、長くなるのでここでは詳述できませんが、どうもこれらは神の道を塞ぐ障害としての岩戸であり、私たちが知らず知らずのうちに信じ込んでいる「常識」の中にこそ、これらの岩戸があるようです。
本来人が進むべき神の道が閉ざされたことで、人々が進む道を逸れて闇の中へ迷い込んでいったのならば、この岩戸を開くことにこそ唯一の解決策があるのではないでしょうか。

未だ地の岩戸は閉ざされており、天の岩戸は開いていても真の岩戸は開かれず、そのため世はまだ闇の中にあるのだとしたら、その岩戸を開く鍵が「型」を出すことにあるのだと思います。
つまり、人間が神の力を借りて本来の「神の道」を体現することにこそ、岩戸開きの秘訣が隠されているのではないでしょうか。

「天の岩戸」が1953年から1958年に開かれたからこそ、日本は第二次世界大戦を最後に戦争に巻き込まれることがないのだとしたら、確かに日本人の運命は変わったのかもしれません。
そして、おそらく1984年の子年を境に、1990年頃に「地の岩戸」が開く予定だったとすると、神示が降りた岡本天明氏が文中で「96歳7ヵ月」に開くと予言された1993年に一致します。

しかし、何らかの理由で1990年頃に起こるはずだった「地の岩戸開き」は、ほぼ30年後の2025年に繰り越され、現在進行形であると私は考えています。
おそらく、今日まで地の岩戸開きが数十年行われなかったのは、その型を出す人がいなかったからではないでしょうか。
 だからこそ今、「地の岩戸開き」を行うための「型」を出す人材が求められているように思えるのです。

私は、本ブログならず「日月神示解説」のサイトにおいても、この周知に貢献していきたいと思います。
やたらと「終末論」的に捉えられ、破滅的な予言書と扱われがちな神示ですが、私はあくまで「新しい時代に向けての思想書」であり、「新しい神道の指南書」であると解釈しています。
実際、読み方次第では恐怖を煽る文言にも裏があり、その論拠もしっかり示されていたりもします。

私が思うに、神示を降ろされた「日月神」様は駄洒落好きの上機嫌な叔父様であり、ユーモアとギミックを持って文章を立てられているように見えます。
だから文脈通りに読むとトリックに引っかかりがちで、それゆえに「赤子の心で読め」と仰るのだと思います。

新たな三千世界を統べる大神、「天日月大神」「大日月大神」「国常立尊大神」の正体について、私なりに辿り着いた結論もあります。
ただ、これらの解釈学は2013年頃の神示ブームの時に出尽くしているかもしれませんし、その見解に固執するつもりはありません。

ただ、私たちに求められる焦眉の課題は「地(くに)の岩戸開き」であり、その関を越えないことには我が国に訪れている闇は一層深くなるばかりでしょう。
その「岩戸」は私たち一人一人の心の中にあり、自らその扉を開けていくことが大事なのだと思います。
そして、多くの人がその「岩戸」を開けた時、この国を塞いでいる大岩は取り除かれ、新たな弥栄の時代を迎えられるのではないでしょうか。

私の活動がその一助になれば、と思います。

この一連の書を紐解くほどに、このメッセージは今の日本人、世界にいる人々に新たな道を示し、希望を与えると私は確信しています。

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進撃の「瀬織津姫」

楽太郎です。

今、「日月神示」の原典をまとめたサイトを急ピッチで作っています。

ここ数日は、日月神示の解読も並行して進めていたので、制作とはかけ離れたことをしていました。
ここ何週間か絵をまともに描く機会がないのですが、今は神様からの優先順位を鑑みると「それどころではない」という感じなのでしょう。
この「日月神示」のサイトを制作しているうちは他のことがあまり目に入らない状態で、サイトもあと一週間はかかりそうです。

これまで、私はインスピレーションを受けて始めたことを30〜40%くらい進捗を上げたら、また別のインスピレーションに従うことを繰り返してきました。
でも私の性格としては一つずつ仕上げてから次のことに取り掛かりたいですし、一気に終わらせたい欲もあるのですが、どうも思惑通りに行かないようです。

これもおそらく神様のお導きとは言え私の本懐は画業であり、全く関係のない方面に突き進んでいるのも不安を覚えるのですが、「作家」である以前に「一人の人間」であり、その人間が歴史的な転換点を迎えつつある今、一個人としてやらなければならないことがあるのだろうと思います。

ぶっちゃけ、「イラストだ漫画だ」と言ったところで、仮に文明が崩壊して食うに困るような状況になれば、それどころではないかもしれません。
腐敗しきった帝国主義が我が国を覆い、文化も民族も解体されようとしている今、現状を続けようとする「日常感覚」は邪気になり始めています。

「このままの世界が何となく続いていく」
「このまま同じことを繰り返していればいい」

その感情は、一昔前の平和感覚に酔っているに過ぎず、偽りの平和の影から悪意が忍び寄っています。
いつか人々は微睡から目を覚まさなければならず、今まさに日本人に覚醒の波が押し寄せているように感じます。

私は、その鍵となるのが「日月神示」であると確信していて、例え人々から脈絡がないように見えたとしても、日本人に最も必要なのは神示に書かれた「精神」そのものだと思います。
そのメッセージが、今の人々には受け入れ難いこともわかります。
しかし、私自身が最初から諦めて「誰もわからないだろうから」と言って、覚醒の芽を摘むのも罪になるでしょう。

日本のマスコミや思想や文壇が退廃したのも、「大衆はバカだからどうせわからないし、高尚なことに金を出すはずがない」という民衆への軽蔑が根底にあり、「バカ向け」の商売ばかりをしてきた知的産業が、国民の白痴化に貢献することで民衆の知的水準を下げてきました。
それによって知的探究心はネットの情報である程度解消される程度のものとなり、出版業界こそ袋小路に入る原因を自ら作り出したのではないでしょうか。

日本人は元々、それほど高尚な思想を持つ国民性ではありませんが、かつてイエズス会の宣教師が日本人を奴隷として海外に売り飛ばし、ローマカトリックが我が国を植民地化しようと企みましたが、豊臣秀吉を始めかつての日本人は本質を見抜く目を持っていました。

しかし、今の日本人の眼は曇ってしまって、押しかけ強盗が申し訳程度に置いていく捨て銭をありがたがり、好き放題に家中を荒らされても声ひとつ上げず、ただ見ているだけです。
抵抗することも抗議することも「悪」だと刷り込まれ、無抵抗こそ「平和の実現」に繋がると思い込んでいるからこそ、我が国はここまで踏み躙られているのです。

だから私は「お前のやっていることは無駄だ」と言われることも承知で、こうして文章を書き「日月神示」の重要性を伝えていきたいのです。
それが例え何にもならないとしても、一人の人間として手を拱いているつもりはありません。

さて、熱く語ってしまいましたが今回の記事のテーマは「瀬織津姫命」に関してです。

日月神示の解読に関してもそうですが、今の時代だからこそ神々が人間に対する向きを変えてきたように感じます。
日月神示にある「三千世界の大洗濯」たる大峠は、神々の世界も我々の世界も基礎から洗い直すことになるそうです。
神様の世界が変わるとしたら、神々を祭祀している私たちのあり方も変わることを意味し、次の世における「神の道=神道」のあり方も変わらざるを得ないはずです。

現代の国家神道や宗教法人の神社経営などを批判するわけではないですが、日本の現行制度では神社仏閣の存続は困難でしょう。
ただでさえ、若者たちの神仏に無関心な傾向が進む中、同時進行で少子高齢化が進み、これまでの氏子体制では維持ができない寺社も出てきています。
ゆえに、日本の宗教的・民俗的な信仰文化を後世に残そうとするならば、宗教上の現行制度も見直される必要があります。

その上で、新しい形での「神社文化」が求められてくると思いますし、その精神が今後の日本人に不可欠であると私は考えています。
そのため、私は以前から瀬織津姫命を主祭神とする「瀬織津神社」の創建を一つの目標として、祓戸大神をモチーフにした「HARAEDO」というコンテンツを制作しながら、その実績を足掛かりにしていこうと思っています。

「瀬織津姫命」という御神格は、かなり受難の多い経歴を辿ってきたと思います。
「瀬織津姫命」は中臣大祓詞にある「祓戸大神」の一柱として重要な御役目を果たし、その名を残していながら瀬織津姫命を主祭神として祀る神社は決して多くはありません。

私の自宅には岩手の「早池峯神社」と「瀬織津姫大神」の御神札を祀っています。
かつて早池峰山に降臨したとされる三女神の伝承から「瀬織津姫命」という御神名が受け継がれ、早池峰山麓にある「早池峰湖」には湖水を見つめる瀬織津姫命の神像が建てられています。
仙台の「瀧澤神社」には火防の神として瀬織津姫命が祀られ、岩手や宮城など東北地方にはその御神名がそのまま残っているケースが多いです。

いわゆる「東北」は古くから「白河以北一山百文」と言われ、中央政権から疎まれる「蝦夷」の地でした。
岩手には出雲系の伝承が色濃く残る地域もあり、東北の地が往年の大和朝廷から好ましく思われていなかったのは事実でしょう。
それゆえ、中央政権の睨みが効かない岩手の土地に奥州藤原郷が栄え、「瀬織津姫命」という御神格がそのまま残されたのではないでしょうか。

そもそも、「瀬織津姫命」とはどういった背景を持つ神様なのかを辿ってみたいと思います。

かつて平安時代に栄華を極めた「奥州」の藤原三代は、藤原家の系統ですから「中臣大祓」を奉じた中臣氏を祖とする一族です。
その中臣大祓に「祓戸大神」として瀬織津姫命が登場するので、元々中臣氏の家系は瀬織津姫命という御神格を祀っていたのだと思います。

大祓文中にある「佐久奈太理(さくなだり)」とは、中臣金連が「大石佐久奈太理神」を勧請した「佐久奈度神社」のある琵琶湖畔の「佐久奈谷(現・桜谷)」を意味すると思われます。
京都周辺では、言葉の順序や捩りや訛りがそのまま語形変化に繋がっている場合が多く、若干発音が変化しているのでしょう。

琵琶湖から流れ出る一級河川の「瀬田川」は、京都側では「宇治川」、大阪に差し掛かる辺りで「淀川」と名を変えます。
この瀬田川の流れ出る谷に「佐久奈度神社」が鎮座し、かつて中臣金連が「大七瀬」の祓いをしたとされる鴨川を含む七つの川は、瀬戸川の支流にあります。
ゆえに、大祓にある「速川の瀬」とは瀬田川である可能性があり、かつて平安京に流れ込む災いを封じる祓を行うための「結界」であったと考えられます。

それは本来河川の女神であられる瀬織津姫命を、「饗土(=京戸)の塞の神」として祀ったことに繋がるのではないでしょうか。
だからこそ、祓戸神は「岐(くなど・ちまた)の神」という側面を持ち合わせているのだと思います。

瀬織津姫命は、一般的には「宗像三女神」の市杵島姫命と同一視され、河川に係る神社にも厳島系の信仰が色濃く残ります。
「市杵島姫命」は宗像大社中津宮に坐すとされ、大島の御嶽神社を始原とする御神格であられます。
宗像三女神とは、田島の辺津宮に田心姫命、大島に市杵島姫命、沖ノ島に湍津姫命を祭神としています。

しかし、宗像では「航海や海上安全の女神」として祀られる宗像三女神が、なぜ河川や滝の女神として祀られるのか私は不思議でした。
日本の河川や滝に鎮座する一般的な神格は厳島系で宗像三女神とする以外に、インドの河川の女神である「弁財天(サラスバティー)」や「龍神」や「滝不動」とされることが殆どです。

そもそも「瀬織津姫」の御神名を辿ってみると、「瀬に降りる」と直訳され、「川面に降り立つ女神」を意味します。
しかし、興味深いのは長野にある筑摩神社に祀られている宗像三女神は、「狭依(さより)姫命、多紀理(たごり)姫命、多紀津(たきつ)姫命」とされ、実は市杵島姫命の別名に「狭依姫命」があると言います。
「狭依(さより)」と「瀬織(せおり)津」は、語感として非常に似ている気がしますが、もう少し掘り下げてみましょう。

日本神話の神名によくつけられる「狭(さ)」という仮名は、「御」「速」などの敬称を意味するとも言われますが、かつて稲作の豊穣祈願をする際、「稲霊(サ)」を神籬や磐座、巫女を依代として祀り、その祭祀を持って「サ(狭)の神」を崇敬してきたのだと思います。
ゆえに、語源から推察すると「狭依姫命」とは「稲霊(サ神)」の依代の神格化であり、市杵島姫命を祭神とする御嶽神社が御神体を磐座とする説明にもなります。

「瀬織津姫命」とは、「狭依姫命」の語形変化から派生した御神名である可能性が高く、「津(つ)」は接続詞であり、「狭依(さより)つ姫」が訛って「瀬織津(せおりつ)姫」になった可能性があります。
そもそも「サの神」は古来より初夏に山々から里に降りて、収穫の秋には稲に宿り実らせると考えられてきました。
秋に実りをもたらした稲霊は春に田植えをするまで山に帰るとされ、山に坐す神霊が里に降りるには「川を伝ってきて、稲田の依代に降り立つ」と考えられてきたからこそ、「サ神」と「早乙女≒巫女」は結びつきやすかったのだと思います。

五月(皐・サ月)に田植えをする乙女たちに降りる神霊は、大衆的な目線で言えば男性的な神格ではなく女性格の神霊の方が直感に反しません。
だから「サ神」は女神であると考えられ、山を神体とする「大山祇神」は女神とするのが一般的なのだと思います。
ゆえに瀬織津姫命も狭依姫命も、本来は「サ神」であり、だからこそ山や川と地形的に縁が深いのでしょう。

では、宗像三女神とされる「多紀理(たごり)姫命」や「多紀津(たぎつ)姫命」の御神名を探ってみると、「タゴリ」の本来の語彙は「タギオリ=タキオリ」であり、上代日本語において母音連続を避ける法則から、元は「滝降り(たきおり)」の意味であった可能性があります。
ゆえに、「タゴリ=タキオリ=タキ(ツ)」であり、田心姫命も湍津姫命も、語源としては同じであると考えられるのです。

瀬織津姫命は滝に祀られることも多く、元々「滝つ姫」として祀られていた滝の女神が、「瀬に降りる」サ神と結びつき、同一神格となっていったのではないでしょうか。
しかし、滝の水も川に流れ出るのでその見方は矛盾しません。
これは大祓に「佐久奈太理に落ち多岐つ」とありますが、これは瀬織津姫命と湍津姫命を重ねる動機にもなり得ます。

おそらく、中臣氏は「瀬織津姫命」という御神名を残したかったのだと私は思います。
それゆえに、「記紀」の記述には登場せず殆ど主祭神として祀られることのない「瀬織津姫命」という河川と稲作に係る女神を、「祓戸大神」として名が残るようにしたのではないでしょうか。

では、なぜ「瀬織津姫命」という御神名に被さるように、市杵島姫命を始め異なる神々の名が与えられるようになったのかを考えると、本来「狭依姫命、多紀理姫命、多紀津姫命」の三女神は同一神であり、淡水と河川と磐座信仰に基づく宗教文化は稲作ができる「陸側」に広く存在していたと推察できます。
我が国は歴史的には狩猟民族である縄文人を祖先とし、その後「稲作」が始まり定住が広がることで弥生文化が根付いていきました。
航海技術を持った海洋民族や渡来系の人々は、その定住した人々と交易をすることで栄えていったと考えられます。

古代における宗像氏は海洋豪族であり、いわゆる「海人族」ですが、宗像の大島は「壱岐」と非常に近く、壱岐から田島、大島、沖ノ島を経由して朝鮮半島と鉄などの交易を行っていたそうです。
宗像三女神を祀る宗像大社の神主であった宗形徳善は、「記紀」編纂を指揮した天武天皇の義理の父に当たり、当時の朝廷では宗像氏と秦氏が同じ海洋系氏族として権威を持った時代でした。
古代の近畿地方には海部氏や尾張氏、渡来系の秦氏や九州の海洋豪族の宗像氏が権勢を奮っており、その影響は避けられない状況だったのでしょう。

ゆえに、天武天皇と持統天皇の時代に編纂された「記紀」の記述において、天照大御神と素戔嗚命の「誓約」で誕生された宗像三女神が、いわゆる公式見解となってしまったことで、瀬織津姫命が市杵島姫命という御神名に書き換えられてしまったと考られます。
そもそも、海洋氏族である宗像氏が淡水のある河川の女神を祀るのは地形的に理に叶っておらず、元々本島で祀られていた狭依姫命を始めとする三女神を壱岐と宗像を挟む「三島」に当てはめ、その土着的信仰を国家神道に差し込んだのではないでしょうか。

「市杵島」は本来「壱岐島の女神」か、海の岩礁を磐座とする「斎(いつき)島」から名付けられた可能性が高く、従って海神と考えるのは理に叶っています。
しかし宗像氏が狭依姫命と市杵島姫命を同一神格としたことで、市杵島姫命という島と海の守護女神が、河川や滝の守護もする「水の神一般」の御神格を指し示すようになったのだと思います。
そして、奈良・平安時代にかけて中央政権と絶妙な独立関係を維持した奥州は、「瀬織津姫命」という御神名をそのまま残すことになったのだと考えられます。

ただ、瀬織津姫命を市杵島姫命とする以外に、なぜ弁財天や龍神や不動明王に神名を書き換えるほど徹底した「瀬織津姫隠し」が行われたのか、その説明はつきません。

しかし、国家神道を司る伊勢神宮の「天照大御神」の荒御魂として「撞賢木厳之御魂天疎向津姫命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)」の別名を由緒が「瀬織津姫命」とすることに繋がりがあるような気がします。
私の見解としては、天照大御神の別名とされる御神名は、本来「撞榊向津姫命(つきさかきむかつひめ」であり、「神の憑く榊に迎える女神」で「神籬を依代とする神霊」を意味したのではないでしょうか。

そうするなら「神籬や磐座や巫女を依代として降りる稲霊(サ)」としての瀬織津姫命(狭依姫命)を天照大御神の荒御魂と比定する説明もできるのです。

今、私が読み込んでいる日月神示の中で、「御三体の大神」として「伊弉諾神・伊奘冉神・つきさかきむかつ姫の神」とする記述があります。
そして神示の文脈を紐解いていくと、どうやら私たちが考える天照大御神と天照皇大神宮の天照皇大神とは異なる御神格らしいのです。

私はこれを読んだ時、何かの間違いか悪戯の可能性を考えたのですが、現実の神界の話が日月神示に書かれているのだとしたら、河川の女神であられる瀬織津姫命が「太陽神」であり「高天原の最高神」である説明はつき難いため、日本人が国家神道という祭祀形式においては瀬織津姫命を「神道の最高神」に据えて天照皇大神とし、天照大御神の荒御魂として祀る論拠たりえます。

神社祭祀を礎とする神道において、「祓い清め」は神道の究極の目的であり、生きている限り「罪穢れ」を負う天の益人である国民は、神々の祓いと除災によって救われ、豊かさを得て幸福になるとされます。
つまり、「祓い清め」という神々の御役目を司る「祓戸大神」であられる瀬織津姫命が、神道における最高神と考えられても不思議ではないのです。

ただ、それでは「淡水の女神」を太陽神とする矛盾が生じることになりますが、そもそも瀬織津姫命が「稲霊の神」であるとするなら、今日も続く国家的祭祀である「大嘗祭」が収穫の儀式であり、稲の成長には水だけでなく太陽の光も必要であり、人々は恵みを太陽に求めたのではないかと思います。

そもそも、「天照大御神」という御神格が「太陽」だけでなく「高天原の最高権威」を指し示すとしたら、瀬織津姫命がその勲位に神留まることに矛盾はないのです。
それゆえ天照皇大神は「稲作」と「太陽」と「祓い清め」を象徴する女神となり、まさに日本人にとって最高の神徳をもたらす御神格であられるのでしょう。

また、神武天皇の妃であられる「媛蹈鞴五十鈴姫命」は「玉依姫命」の御子神とされます。
この「玉(たま)」という言葉は、そのまま「霊・魂(タマ)」の意と考えられますが、「日・霊(ヒ・ミ・ヌ」のバリエーションの一つかもしれません。
そう考えると「サ(稲霊)」も「タマ」であり、「霊を依代とした女神」という意味では「玉依姫命=狭依姫命=瀬織津姫命」とも考えられます。

玉依姫命は海津見の竜宮の乙姫とされ、姉の豊玉姫命は龍神であり、彦火火出見命との子であるウガヤフキアエズ命を養育し、その後ご結婚なされたとされます。
日本では古来から水辺に龍神が住むと考えてきましたが、実は「竜宮」は滝壷の奥にあると考える方が一般的だったそうです。
「滝・瀧」には「竜・龍」の漢字がつくので、古代の日本人は河川に龍を見ていたのではないでしょうか。

従って、「瀬織津姫命」と「玉依姫命」の同一視説があるのも一理あります。
「記紀」において「櫛玉依姫命」や「鴨玉依姫命」など「玉依姫」の派生形と思われる御神名が多いのは、皇統と地方豪族との宗教的・血族的繋がりを示す上で神格を結びつけた結果なのだと思います。
そもそも、稲作の豊穣と河川の恵みと祓い清めや除災を司る神格はあまりに万能であり、地方豪族がそれぞれの「サ神」を祀っていたら人皇を頂点とする中央政府の権威性は固持できません。

おそらく地方豪族もそれぞれ「瀬織津姫命」を産土神や氏神や祖神としたため、王権がそれぞれの豪族を束ねる過程において皇統に結びつける必要があり、それゆえ「玉依姫命」に見られるように幾つもの神名を用いたのだと考えられます。
「瀬織津姫命」という統一見解が広く地方に存在し、その信仰が根強ければ根強いほど「天皇」や天照皇大神を頂点とする権威は分散します。
その状態が続けば統一はならず軋轢を生む可能性があり、大和王権はそれを恐れたがために「瀬織津姫隠し」を行い、その権威を「天照皇大神」に紐付けたのではないでしょうか。

まとめると、瀬織津姫命の御神名は狭依姫命と同源であり、おそらく「サオリ(稲に降りる霊)の神」、言わば「さおり(稲降り)姫命」が御神名の原型なのかもしれません。
東北地方には「サオリ」という稲作に係る豊穣祈願祭の風習があったと民俗学に確認でき、やはり「瀬織津姫命」は稲作と関連が深いようです。
ただ、「山から流れてくる川」と水田に豊穣をもたらす神が結びついたがゆえに「サの神・塞の神」という側面があるのであって、山の水源から浜辺までの淡水を司る女神であるのは不動だと思います。

私自身は瀬織津姫命を「市杵島姫命」や「弁財天」や「龍神」や「滝不動」としてお祀りしていることに茶々を入れたい訳ではありません。
ただ、これから神道が見直される機会が得られるならば、「瀬織津姫命」という御神格をあるがままに捉え、その信仰を根付かせていきたいという思いがあります。

瀬織津姫様は私が感じる限り「瀬織津姫」という御神名を痛く気に入っておられるようで、その名が上書きされていることには胸を痛まれている気がしてなりません。
特に日本の国土におられる神様たちは、ご自身に外国由来の神名がつけられているのをどうお感じになられているのでしょうか。
例え神様がどう思われているにしても、私が新たに「瀬織津神社」を創建することによって、「瀬織津姫命」という御神名をそのまま後世に残すことができます。

その上で、新たな「神社建立」は次の時代における祭祀のあり方を見直すきっかけになると思います。
そして、日本の国家神道のあり方、国家そのもののアイデンティティを考える上で「日本人にとって神とは何か」に、一石を投じることができると私は考えています。

また実際、私が瀬織津姫様のご神意を伺うことができているのならば、神様はそう願われているように感じます。
おそらく、神々は「人間と神との関係」を根本的に変えようとして動かれているのではないでしょうか。
私はそれを感じるたびに、「神様は前面に出て来られるおつもりだ」と確信するのです。

この文章を書かせたのが瀬織津姫様のお力なのだとしたら、神様たちは攻めていくおつもりなのでしょう。
これまで歴史的に覆い隠されてきた信仰を改めるべく、瀬織津姫様の巻き返しが始まったのだとしたら、それは「瀬織津姫命の進撃」と呼んでも良いのかもしれません。

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