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招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「猿田彦大神」の正体

楽太郎です。

現在、「神統試論」シリーズの続きに取り掛かっていますが、あまりに情報が膨れ上がり、どう纏めていくか思案中です。
次から次へと新しい発見があるので、頭の中を整理するのも難しい状況です。

この試論の中でキーパーソンとなるのが、「玉依姫命」です。
玉依姫命は、天孫族の一胤たる鸕鶿草葺不合命の妃であり、神武天皇の母となります。
しかし、肝心の鸕鶿草葺不合命に関する情報が不明瞭というか、そもそも御神名からして何となく正体を伏せられている印象がします。

玉依姫命にも「鴨玉依姫命」「櫛玉依姫命」「活玉依姫命」など、様々な系統からの御神名があり、おそらくそれぞれの氏族によって解釈が変わるからだと思います。
その流れで、「鸕鶿草葺不合命」もミステリアスな神格であり、「記紀」はその点をはぐらかす書き方をあえてしているようにしか思えてなりません。
「記紀」はこのように、事実をわざと隠すのですが、なぜか完全になかったというような書き方はしません。

何となく、「読み解いてみよ」と問いかけられているような、そんな知恵比べをしている感覚になって来ます。
記紀が間怠っこしいのは、同じ系統の話が手を変え品を変え何度も繰り返し登場することです。
この既視感のせいで、時代も流れも言葉も混同してよく分からなくなることもしばしばです。

今回は、そんな作業を進めるに当たって、とりあえず情報がまとまったところから出して、「神統試論」の叩き台にして行こうと思います。
その中でも、わりと謎の多い道開きの神、「猿田彦大神」に関しての記事になります。

猿田彦大神は、「記紀」の天孫降臨の段において、天照大御神と高皇産霊神の命を受け、天降る瓊瓊杵命を葦原中津国に道案内をした国津神であるとされます。
その際に、天照大御神の配神である天細女命に故郷の志摩(伊勢)まで同伴し、送り届けてもらいました。

この時、天細女命は志摩国の魚たちに瓊瓊杵命に仕えるかと問い質し、海鼠だけは聞かなかった、という説話が続きます。
その後、故郷の志摩に帰った猿田彦大神は比良不貝に手を噛まれて亡くなります。
この様子から、天細女命は猿田彦大神と共に志摩で余生を過ごしたと考えられます。

奇しくも、「記紀」には類似した説話が登場します。
神武東征の折に高皇産霊神の命を受け、天照大御神の配神たる八咫烏は奈良県の橿原まで神武天皇を案内します。
この時、八咫烏は熊野にいたとされ、大和まで導いたことから紀伊半島南部に縁があったのではないでしょうか。

八咫烏は足が3本のカラスであり、導きをする神の遣いと言われています。
熊野信仰においては素戔嗚命に仕える神使であるとされるため、紀伊半島の地理に詳しいのは理に叶っています。

なお、八咫烏は賀茂神とされ賀茂建角身命と同一しされます。
賀茂建角身命は別名を天日鷲神、神武天皇が地方豪族の長脛彦と争った際、金鵄が加勢に加わったとされますが、天日鷲神のまたの名を天加奈止美命(あめのかなとみ)と言い、金鵄の正体ではないかと言われています。

実は、天孫降臨の際に瓊瓊杵命に道案内をしたのは猿田彦大神だけではありません。
鹿児島県の笠狭崎に瓊瓊杵命が到着した際、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさのかみ)が自分の国を天孫に譲り渡しています。
実際、宮崎県の西都原古墳群という遺跡の近くに、「事勝国勝長狭神の墓」とされる史跡が存在します。
西都原古墳群の男狭穂塚と女狭穂塚は、通説では瓊瓊杵命と妃の木花咲耶姫命の陵墓参考地となっています。

瓊瓊杵命と木花咲耶姫命がお住まいになられた笠狭宮は、鹿児島県南さつま市に複数存在します。
瓊瓊杵命が住まわれた笠狭宮には前笠狭宮と後笠狭宮があります。
前笠狭宮には舞敷野地区、宮之山遺跡に磐座と石趾が残ります。
加世田にある後笠狭宮には瓊瓊杵命と木花咲耶姫命、その三皇子(火照命、火須勢理命、火遠理命)を祭神とする竹谷神社があり、当社は笠狭穂の跡地に建てられたと言います。

海幸彦山幸彦の神話において、山幸彦(火遠理命)は海幸彦(火照命)の釣り針を失くし、あらゆる手を使ってもダメだったのですが、嘆きながら浜辺に佇んでいると海から塩土翁が現れ、海神の宮へ案内をしました。
一説では瓊瓊杵命と木花咲耶姫命の仲を取り持った事勝国勝長狭神は別名を「塩土翁神」と呼ぶとされます。
塩土翁に連れられて海神の宮に行った火遠理命は瓊瓊杵命の御子ですから、世代は一致しませんが説話としては類似します。

興味深いのは、私の地元に近い宮城県の塩竈神社には、当社の主祭神が不明瞭のため解明を命じた伊達藩主の伊達綱村によると、「塩釜六所明神」として猿田彦大神、事勝国勝長狭神、塩土翁神、岐神、興玉命、太田命の6座は同一神であるとしたことです。

これはかなりセンセーショナルですが、これらの神々の事績がほぼ似通っていることから察するに、理に叶っていると言えます。
この事勝国勝長狭神には、よく似た名前の神格が存在し、名を「正勝吾勝々速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)」と言います。
天忍穂耳命は、天照大御神と素戔嗚命の誓約によって誕生した神であり、瓊瓊杵命の父に当たります。
天照大御神が当初は天忍穂耳命に天孫降臨を申しつけたものの、準備中に子供が産まれたのでその子に行かせる、という経緯で瓊瓊杵命が天降ることになりました。

冷静に考えて、この話では産まれたばかりの子に天孫降臨をさせたことになりますが、そもそも天忍穂耳命は天照大御神が身につけた珠からお産まれになられたので、言うのも野暮かもしれません。
事勝国勝長狭神と天忍穂耳命が同一神であるとするなら、瓊瓊杵命に吾田の地を譲った事勝国勝長狭神は瓊瓊杵命の父となりますが、必ずしも実父を指すのではないかもしれません。

瓊瓊杵命の妃である木花咲耶姫命は、別名を「神阿多津姫命」と言います。
父を大山津見神とし、姉に石長姫命がおられます。
瓊瓊杵命は天降った先の笠沙の岬で神阿多津神命を見初め、それを大山津見神は喜び姉の石長姫命もついでに嫁がせようとしますが、姉だけは送り返されてしまうという悲劇に繋がります。

こうして考えると、「事勝国勝長狭神=大山津見神」であり、瓊瓊杵命は娘の神阿多津姫命(木花咲耶姫命)に婿入りした、或いは婚姻関係を結んだことで政略的に領地を手に入れた、と考えた方が自然です。
笠狭宮の史跡が残る地はかつて「阿多郡」と呼ばれ、薩摩隼人の住まう土地であったとされます。
奇しくも神武天皇の妃には「阿比良姫命」がおり、海幸彦である火照命は阿多氏の祖神と言われています。

この「阿多」と言う地名は、八咫烏の「ヤタ」、八咫の鏡のような光る目を持つ猿田彦大神を連想するのですが、如何でしょうか。
とは言え、ここに猿田彦大神のルーツを垣間見ることは出来ても、オリジナルであると言い切るには時期尚早です。

猿田彦大神には、別名を「佐田彦神」と言い、稲荷三神の一柱として宇迦之御魂の配神であるとされます。
「佐田」とは、「早苗」や「早乙女」と同意の「神聖な稲田=サ」を接頭語とする言葉で、伏見稲荷では実際に猿田彦大神がお祀りされています。
つまり、猿田彦大神は導きの神でありながら稲荷神でもあり、「吾田=阿多」の地を領していた事勝国勝長狭神と同じく、稲田と関わりの深い神格だったのです。

さらに興味深いのは、「サ」という接頭語が、「猿」や「狭」や「沙」「佐」などの上代特殊仮名遣いに変換されると、関連づけられる神格がいくつも見られます。
「清之湯山主三名狭漏彦八嶋命(すがのゆやまぬしみなさるひこやしまのみこと)とは、「八島士奴美神(やしまじぬみかみ)」とも言い、宇迦之御神の異母兄弟であり、素戔嗚命と櫛名田姫命の御子であるとされます。
八島士奴美神とは別名を「大己貴命」とし、神名を読み解くと「八州(日本列島)を総べる主の霊」となります。
そして、大己貴命は別名を「大国主」と言います。

大国主は父を素戔嗚命、母を櫛名田姫命に持ちます。
そして、妃は宗像三女神である市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命とされます。
三姉妹が同時に嫁入りするのも不自然ですし、三女神の他にも妃がたくさんいるので、少なくとも宗像三女神は同一神、もしくはニ柱だと考えて間違いないのではないでしょうか。

大国主が猿田彦大神であるとすれば、猿田彦大神の妃と思しき天細女命はどう考えるべきかと言うと、江戸時代の国学者、平田篤胤によると天細女命は伏見稲荷に祀られる「大宮能売命」に比定されるそうです。
大宮能売命とは、天照大御神の侍女であり太玉命の娘で、女官や巫女の神格であると言います。
伏見稲荷では宇迦之御魂の配神として猿田彦大神と共に祀られ、そこに天細女命ではなく大宮能売命が鎮座されています。

天細女命は、現代では芸能を司る女神とされていますが、古くは巫女の「猿楽」が芸能の始祖とされるため、宮中祭祀に関わりのある神格と思われます。
大国主の妃である宗像三女神の市杵島姫命の「市杵」とは語源的に「斎・厳(いつき)」であり、宗像三女神を主祭神とする「厳島神社」とは巫女の祭祀を象徴する神格として遠くはない気がします。
ゆえに、宗像三女神が巫女の神格であるとするなら、その夫である大国主を猿田彦大神と同一視することができるとしたら、その妃である天細女命、大宮能売命も巫女の神格として比定可能なのです。

従って、猿田彦大神は御神名の由来を辿れば、八島士奴美神・大己貴命であり、必然的に大国主命に辿り着いてしまうのです。

では最後に、興味深い発見があったのでこれを記して終わりにしたいと思います。
大国主の祖父は「於美豆奴神(おみずぬのかみ)」、またの名を「八束水臣津野神(やつかみずおみつのかみ)」と言います。

こちらの八束水臣津野神は、「出雲国風土記」で国引きを行なった神とされており、朝鮮半島の新羅から越の国(新潟県)あたりの岬を繋げて出雲の国を大きくしたと伝えられます。
その神の御子に「赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(あかぶすまいぬおおすみひこさわけのみこと)」がおり、この名の「佐和気」は「狭別」であり、猿田彦大神や事勝国勝長狭神の神名との繋がりを感じます。

「別」とは「彦」と同様の大王や官を指す言葉であり、「狭」は稲田を示すとされているので、稲作に関連する神名である可能性が高いです。

この八束水臣津野神は、出雲の国引き神話で「国来、国来(くにこ)」と歌いながら岬を繋いでいったとされます。
同様の話が、「記紀」の中にあります。
「こをろこをろ」と歌いながら泥をかき混ぜ、八州を作り上げていった神々がいます。

その御神名を「伊弉諾命」と言い、妻の伊奘冉命と共に国産みを行いました。
この繋がりは、何を意味するのでしょうか。

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「祓戸大神」一神説

楽太郎です。

先日、「祓戸大神、漫画企画始動」という記事を書きました。
そこで、瀬織津姫命が登場する「大祓詞」の「佐久奈太理」とは琵琶湖付近にある「佐久奈谷」であり、祓戸大神の瀬織津姫命の起源は「瀬田川(淀川・宇治川)」にあるのではないか、という話をしました。

「大祓詞」は奈良時代の天智天皇の治世、中臣金連が献上した祝詞であり、祓戸大神を祀る大石の佐久奈戸神社は彼が「大石佐久奈太理神」を勧請した地とされます。
琵琶湖から大阪湾に流れ出る瀬田川は、天ヶ瀬ダムを越えると大阪方面からは「淀川」京都方面からは「宇治川」と呼称を変えます。
鎌倉時代の歌論書「八雲御抄」で、「さくらだに(是は祓の詞に冥土をいふと伝り)」と記され、佐久奈谷は古来、冥土の入口と思われていたようです。
中臣金連が行った「七瀬祓」はこの瀬田川を「境=饗戸(くなど)」とし、京の都を魔から守る「塞の神」として瀬田川の女神、瀬織津姫を祓戸大神としたのではないでしょうか。

この佐久奈谷には「橋姫」の伝承が残り、瀬田川の唐橋、宇治川の宇治橋、淀川の長柄橋に橋姫が実際にお祀りされています。
特に宇治橋の橋姫は、「丑の刻参り」で有名な鬼女の伝説があり、「橋の女神は嫉妬深い」という迷信から派生した可能性があります。
橋とは河川を挟む境界に位置するため、河川の女神が塞の神と関連づけられても不思議ではありません。

以前、「祓戸大神の語源」という記事では、「瀬織津姫命」という御神名が、「瀬降(お)りつ姫」を表意するのではないか、と書きました。
実際、弁財天や宗像三女神や天御神荒御魂など、同一視される神格には事欠かない瀬織津姫命ですが、自然神として遡ると同定可能な神格は「於加美(龗)神」や「罔象女神」しかなく、奈良の丹生川上神社は罔象女神を主祭神としていますが、どちらかと言えば雨乞いの要素が強い水神のようです。

つまり、「河川と淡水の女神」というプロフィールで言うなら、瀬織津姫命と同一視可能な文化神(歴史上の人物が祖神化した神格)はなく、あくまで自然現象の神格化である、と言わざるを得ません。
上代語における「瀬(せ)」は、仮名遣いにおいて「サ」にも変化することは確認できますが、言語学的に「サ」の接頭語用法には規則性があるようです。

①規模が小さいもの…小さい、細かい、少ない、狭いetc.
②全体を切り分ける…割く、さすらう、遮る、境etc.
③落ち着かない様子…叫び、急く、騒ぐetc.

「サ」には小さいもの、未熟なもの、愛らしいもの、清らかで穢れないもの、というニュアンスを含む接頭語としての意味合いがあります。
「瀬(セ)」も水面の清らかさを表現しており、印象としては遠くないかもしれません。
他にも「早苗」や「小夜」、「小枝」「さざ波」などが挙げられますが、「皐月」や「早乙女」も当てはまるようです。

皐月とは「田植えの月」の旧暦五月を指す和風月名ですが、田植えの際には田の神を稲田に迎える「サオリ」という民間行事があります。
これは「サンバイ降ろし」とも呼ばれ、床間の祭壇に三把の稲代を奉納し、春の豊穣祈願をする習わしです。

日本民族学には、「山の神の春秋去来の伝承」という概念があり、春の田植えの時期になると山の神が田に降りて神となり、秋に豊穣をもたらし山へ帰還するとされます。

「ヤマ」の語源 -日本語の意外な歴史

この記事を元に「ヤマ」の語源を調べてみると、水・水域を意味するjark-などから派生したと指摘します。

日本語のyama(山)やyabu(藪)なども、そのことを物語っています。yama(山)は、水を意味していた語が、その横の盛り上がった土地、丘、山、高さを意味するようになるパターンでしょう。yabu(藪)は、水を意味していた語が、その横の草木を意味するようになるパターンでしょう。

つまり、古代の日本語では「水=川」と「山」という概念は切り離せない関係であり、水田は川から灌漑を引いて行うものです。
そして、稲作の成功を祈願するには山の神を田に降ろす豊穣の儀式をします。
その時、若い女性(早乙女)たちが田に苗を植えていきます。この行事が行われる「皐月」が転じて「早乙女」は「五月女」と書きます。

つまり河川と山の神、稲田とは関係が深く、瀬織津姫命が「瀬(セ=サ)降りつ姫」であるのなら、稲作と関連づけられる可能性もあります。
「沙織」とは、田植えの作業の無事を祈願する祝祭から来ており、「沙織津姫」が転じて「瀬織津姫」となった可能性もあります。
奇しくも、瀬織津姫命と比定されることの多い白山権現(白山比咩大神)は、白山という大霊峰を御神体とし、そこから賜る恵みに感謝し、水神や五穀豊穣の神として篤く信奉されています。

さて、今回の記事は瀬織津姫命だけでなく、「大祓詞」に登場する他の三神についても考えてみたいと思います。

先に出した白山比咩大神は、明治の神仏分離・廃仏毀釈の流れを受けて「菊理姫命」とされています。
こちらの菊理姫命とは、「古事記」の中で伊弉諾命が黄泉の国で腐敗した伊奘冉命と再会したことで夫婦喧嘩となり、その去り際に伊奘冉命の側に立って仲裁を行った女神とされます。
菊理姫命は、黄泉津大神として冥土の支配者となった伊奘冉命に配された神と考えるのが普通ですが、なぜ白山権現としてお祀りされているのでしょうか。

私は、白山権現を「瀬織津姫命」とできない理由があったのではないか、と考えています。

「大祓詞」の中には、瀬織津姫命によって早瀬から海原に押し流された罪穢れは、根の国底の国におられる速佐須良姫命が何処かへ消し去るとあります。
逆に言えば、速佐須良姫命は黄泉の国に罪穢れを誘い、葦原中津国の禍事を跡形もなく祓います。
ここにある速佐須良姫命は、黄泉津大神の元にいる菊理姫命であると考えても違和感がありません。

白山は豊富な水源と河川を擁する山麓であるため、黄泉の国にいるはずの菊理姫命が主祭神とされるのは理に叶っているとは、どうしても思えません。
また、白山権現は菊理姫命と共に祀られる伊奘冉命とされることもあり、その由来には不明瞭な印象を受けます。
つまり、同じ祓戸大神である速佐須良姫命を経由して、瀬織津姫命を菊理姫命に置き換えたのではないか、と私は考えています。

冷静に考えて、岩手県の早池峰神社のように、霊峰の主祭神が水神である瀬織津姫命であれば、直感的に納得しやすいと思います。
白山比咩大神を日本神話に比定するのであれば、菊理姫命より瀬織津姫命の方がイメージ通りという気がするのですが、どうでしょうか。

ただ、この話で興味深いのは、菊理姫命と速佐良姫命がほぼ同じポジションにいる女神だということです。
黄泉津大神となった伊奘冉命の側にいるということは、二柱の御子神である可能性が高いです。
祓戸大神の速佐須良姫命は、伊弉諾命の禊から産まれた女神であり、経緯は違えども父は伊弉諾命です。
私は以前、「速佐須良姫命は速吸日女神ではないか」という話をしましたが、こういう考え方もできるかもしれません。

しかし、菊理姫命が速佐須良姫命であるとするなら、白山信仰をベースにすれば速佐須良姫命と瀬織津姫命は同じ働きをしていることとなり、同一神である可能性が出てきてしまいます。
瀬織津姫命と関連が深い佐久奈谷は、かつて「冥土=黄泉の国」の入り口と考えられ恐れられていました。
ゆえに、速佐須良姫命と瀬織津姫命との関係はとても深いように思います。

以前の記事で、祓戸大神であられる「気吹戸主は大気津姫命ではないか」という仮説も述べました。
上代日本語において、「気(ケ)」とは「饌・餉(ケ)」は同じ語源であり、記紀では大気(宜)津姫命は食べ物を吐き出して振る舞おうとしたところ、素戔嗚命に斬り殺されてしまいます。
この大宜津姫命こそ、保食神であり稲荷信仰に篤い宇迦之御魂であり、豊穣を司る女神であるとされます。

何が言いたいかといえば、春の豊穣祈願に山から降りる田の神は、瀬織津姫命と繋がりがあると言うことです。
田植えを祈願する祭りである「沙織」が転じて「瀬織津」となっている可能性も考慮すると、稲荷神は瀬織津姫命である可能性もあるのです。
ただ、この考えは気吹戸主が宇迦之御魂であるという前提の話だから成り立つことで、多少強引さは否めません。

では気吹戸主と比定可能な神格を探してみると、風を司る「級長(しな)津姫命」をおいて他にないかもしれません。
大祓詞の中に、「科(しな)戸の風の天の八重雲を吹き放つことの如く」とありますが、風の神様に「級長津彦命、級長津姫命」の男女の神格があります。
「日本書紀」に登場する「級長戸辺」という神は女神であるとされ、「気吹戸」が水流や気の流れだけでなく風も司るとしたら、気吹戸主命は級長津姫命を置いて考えることはできません。

ただ、「気吹戸」という言葉で思いつくのは、琵琶湖の東に位置する「伊吹山」です。
この伊吹山からは姉川を始めとする淀川水系の水源地となっており、つまり瀬田川に繋がります。
伊吹山から降りる河川には瀬織津姫命が祀られており、やはり祓戸大神に繋がります。

では、祓戸大神で未出だった「速開都姫命」はどう考えたら良いのでしょうか。
「開都=秋津」は、字の通りなら「水戸=港」を指します。「岐」が「開く」がゆえに港となるからです。
ただ、「秋」とは「安芸」の語源でもある「飽き=豊か」という意味ならどうでしょう。

豊かな実りをもたらす「秋」とは「飽き」の季節であり、皐月に早乙女たちに植えられた稲穂はたわわとなります。
その恵みをもたらしたのは春に降り立つ山の神であり田の神でもあった瀬織津姫命であり、秋には豊作を見終えて「サナブリ=瀬上り」して山に帰ります。
この「サナブリ」は五穀豊穣を祝い神に感謝する秋の収穫祭であり、田に降りていた山の神を見送る行事です。

つまり、「秋」という字と季節だけで考えれば、瀬織津姫命と無理矢理結びつけられなくもないです。
ただ、瀬織津姫命が河川と饗土の神であるとするなら、河口の水辺、港、三角州なども瀬織津姫命の影響範囲として考えることは可能です。
冷静に考えると、七瀬祓を行なって京都の土地の浄化を行っていたのですから、地上の穢れは川に流して海に吐き出せば、それからどうなるかは別に考える必要がないかもしれません。
港から海中に流された罪穢れが黄泉の国に向かうダイナミズムが大祓詞に表現されることで、祓戸大神の祓い清めはより壮大な神力として人々の心に映ります。

ここまで来ると多少強引ですが、一致するところで言うなら「祓戸大神」とは瀬織津姫命一柱でも説明できてしまうのです。
かと言って、祓戸大神が四神ではないと言い切ることはできません。
あくまで人間の作った設定としての話をしたまでで、人間の概念上の話なら如何様にでも考えられます。
そして、実際の神様の世界は人間にはわかりません。こんなこと言ったら身も蓋もないのですが…。

ちなみに、今「祓戸大神」をベースにした漫画を構想中ですが、祓戸四神は物語の構成上、登場して頂くつもりです。
瀬織津姫様について調べていたら、次々と面白いことがわかってくるので、こういう考え方もできる、という話でした。

お付き合い下さり、ありがとうございます。

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新しい活躍の場

楽太郎です。

これから「祓戸大神」を題材とした漫画、版画とセットで展開する「神代絵」のイラスト、ひとまずこれを軸に制作活動を行なっていきたいと思います。
ただ表現と情報発信の面で、あまり芳しい状況とは言えないかもしれません。

今はどこも産業的に飽和し尽くした状態であり、不況感も相まってビジネスとして最も打って出にくいタイミングだと思います。
クオリティだけではどうにもならず、とは言え今から知名度を上げようとしても難しいでしょう。

インターネットは寡占企業によってアルゴリズムがほぼ独占されてますし、メディア的に見ても超レッドオーシャンです。
TVや新聞、雑誌や出版などのオールドメディアは言わずもがな、新規参入は絶望的と言って良いでしょう。

インターネットやアナログ波、印刷に代替するメディアが存在すれば良いのですが、おそらくメディア史から考えても新技術でもなければ不可能です。
やはり、複雑な情報媒体を人々に伝達するには、モールス信号や狼煙のような伝統技術では難しく、せいぜい江戸時代の「瓦版」のようなものでしょう。

「瓦版」とは、現代で言うフリーペーパーのようなものです。
新聞の号外のように街角で配られるものであり、「費用対効果」だけを狙って無償配布を前提にするのであれば、フリーミアムの精神に則っていると言えます。
しかし、この物価高で印刷費が高騰している時代に、フリーペーパーはかなりハイリスクと言わざるを得ません。

ただ表現媒体として考えれば、インターネットは誰もが使うもので、誰もが使うがゆえに埋もれてしまいます。
その世界は完全に玉石混交なので、多少の口コミ程度では何の変化もないでしょう。
むしろ、そう言った飽和した環境を逆手に取り、フォロワーの多いインフルエンサーが対価を得て人工的に「ヒットさせてあげる」ビジネスもあります。

ここまで来てしまえば、お金と数と力でどうにでもなる世界です。正直言って、そんな世界に打って出る必要はありません。
逆に言えば、不況で沈んでいる街角経済では広告数が激減し、イベントや催しも下火になってきています。
コストの低いネットビジネスに人々が向かう今だからこそ、物質面でアプローチをかける広告事業はチャンスとも言えます。

私が考えているのは、例えば漫画は誌面の方が相性が良く、イラストも文章も印刷物である方が真価を発揮します。
私が自分の作品を自身の発行するフリーペーパーに掲載させる他に、参加アーティストや作家の作品を希望に応じて載せたり、通常のやり方で企業広告に誌面を割くことで印刷料を賄ったりできます。
フリーペーパーのビジネスモデルはリスクとしては高いのですが、やり方次第ではサステナブルになり得ます。

私はそこで、自分が売り出す以外に無名の作家も自由に表現し、知名度を上げるような環境を作れないだろうかと考えています。
この経済不況とWEB産業の飽和からの停滞により、趣味ですら作家活動が成り立たない人は沢山います。
そう言う人たちに活躍のチャンスを与えると同時に、才能ある作家を保護する環境にもなり得るかもしれません。

少し空想的になって来ますが、その考えの延長で「劇団」を作れないかと考えています。
ここで言う劇団は、通常の演劇集団というわけではなく、サーカスのような雑多な演芸集団を指します。

例えば、パフォーマーや大道芸人など、プロとして日々鍛錬を重ねながら、経済の悪化と共に活躍の機会を奪われている人々がいます。
そう言った人々の発表の場を常に用意するというだけでなく、テント一式あればどこでもゲリラ的に開催できるような、そんなイベントを考えることもできます。
そんな催しがあれば、物販やバザーのようなもので収益を上げることもできますし、屋台や出店でも呼び込めば立派な祭りになります。

それをどこかの空き地や公園でやるとしたら、無料で地域住民を呼び込み地元を活性化するだけでなく、参加者が持ち寄りでやる限り元手もあまりかかりません。
こういうのは風営法で融通は効かない可能性は高いのですが、法人的手続きを踏むのであればイベント事業の範囲に収まります。

あわよくば、このイベントでフリーペーパーを無償配布するなら、埋もれていた作家が全く縁のない人にも作品を見てもらう機会となるかもしれません。
これは今のように、ある程度は不況感が蔓延していない時はあまり意味がないかもしれませんが、これから経済がどうしようもなく身動きが取れなくなるほど、社会的な意義は大きくなると思います。

だいぶ空想的な話に聞こえると思いますが、私は同人活動をしていたので印刷には強いですし、イベント会社で働いていたので催し物は得意ですし、劇団に所属していたので団員の面倒は見れます。
こうして見ると、できない理由は「お金とチャンスがない」ことに尽きます。
当面後の話になりそうなので構わないのですが、私が自分で自分を何とかしてからでないといけないのは変わらないようです。

もし賛同者が得られるようなら、クラファンや寄付に頼っても良いでしょうし、サークルを作って持ち寄りでやることも考えられると思います。
ただクラファンはわりと微妙で、資金集めにかかるマージンが仲介企業に15%から30%くらい取られます。
それ自体は考え方次第なんですが、その他のパトロン系支援は危うさも感じていて、一概に軽く考えられるものではないと個人的に思います。

とは言え、現実問題としてお金と社会的実績は必要で、今どうこう考えても取らぬ狸の皮算用になってしまいます。
とりあえずは、目の前のことをこなしていくしかありません。
暗中模索が続きますが、暗い中で探しているのは出口であり、手の中には光があります。

これからは必ずしも、悪いことばかりではないのかもしれません。

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「祓戸大神」漫画企画始動

楽太郎です。

以前、企画段階で止まっていた「祓戸大神」の漫画シリーズを本格始動することにしました。



いつもラフばかりで申し訳ないのですが、この下絵は漫画の一コマです。

次第にデジタルの波動を抑え込めるようになってきたため、だんだん勘を取り戻し始めました。
あまりにキャラ(失礼)を描くのは久しぶりなので、絵の描き方よりも作風をどうしようか少し悩みました。
まあまあアニメ調にしつつ、空想的にはなりすぎない路線の画風で安定させて行こうかなと思います。

漫画と言っても1ページ漫画にするつもりです。1話につき1ページみたいな感じです。
江戸時代の洒落本の漫画なども、ほぼこの形式ですね。
進捗としてはこれからペン入れですが、一応予防線を張っておくとまだ設定が固まりきっていないため、ネタとしての完成度は微妙です。

何分、神様を題材にさせていただくので不敬は避けたいところです。
実在のタレントを漫画にするのとは違う緊張感もあり、なかなかネタで遊ぶ気にならず、自分らしい表現に落とし込むのに苦労しています。
人間のクライアント相手ならわりと好き勝手やってきたんですが、今回は権威が大きすぎてどうにもなりません(汗)

作品の発表形態としては、WEBになるのでしょうがこのブログでは文章と交互になると見づらいので、展開していくメディアに関しては考え中です。

あと、「神代絵」の延長で描かせて頂く予定だった神様のイラストですが、これは「神統試論」がある程度完成しないと神様からゴーサインが出なさそうです。
というのも、だいぶ前に「玉依姫命」様のラフをブログに上げたのですが、あれから何故か奇跡的に進まず、未だに取り掛からせてもらえません。

私の崇敬する賀茂神社で玉依姫命様がお祀りされているので、ご縁があるから描かせて頂けるかなという軽い気持ちで描き始めたイラストです。
賀茂神社の御祭神について調べていたところ、玉依姫命はかなりミステリアスな女神であることに気づき、深く調べていった結果、なぜか成り行きで「神統試論」を書くことになってしまいました。

日本の神社にお祀りされている神々は、系統が複雑で由緒に矛盾や不一致がありながら御神名が同一であったり、御神名が同一でありながら地域も伝承もまるで違かったりします。
その中で、ほぼ同一と思われる御神格を思いつきで個々別々に描かせて頂くのはどうなのかな、というのが気になっていました。

神様的には、Wikiを見たくらいで当てずっぽうに描かれるくらいならとことん調べて描け、みたいなお気持ちだったのかもしれません。
とは言え、まさか邪馬台国や天皇家まで踏み込んでいくとは思わず、どことなく命の危険すら感じます。

ということで、神様のイラストは「神統試論」が書き上がってからになると思います。

そう言えば、瀬織津姫命様について調べていて、瀬織津姫命という河川の女神がなぜ「祓戸大神」に結びつけられたのか、軽く見当がつきました。

祓戸大神の登場する「大祓詞」に、「佐久奈太理に落ち多岐つ、速川の瀬に坐す瀬織津姫と云ふ神」とありますが、この「佐久奈太理」とは「佐久奈谷」であり、滋賀県大津市大石東町に「桜谷」という地名が残っています。
付近には中臣金連が天皇家の「七瀬の祓い」を行なったとされる「佐久奈戸神社」があり、瀬織津姫命を始めとした祓戸大神四柱がお祀りされています。

この「七瀬祓」の中に「佐久奈」という瀬川があるわけですが、この大石東町には「鹿跳渓谷」という瀬田川の景勝地があります。
琵琶湖から大阪湾に注ぐ瀬田川(宇治川・淀川)こそ、中臣金連が京都の七瀬祓を行なった河川であり、「佐久奈」とは「境」のことであり、「久那土=塞の神」としての特徴を持ちます。

つまり、瀬織津姫命はこの「瀬田川」に元々お祀りされていた水神であり、京都の除災を司る「魔除けの神」としての性格から、祓い清めの神となった可能性が高いです。
だから、琵琶湖の「佐久奈谷」から滾りながら速川となり、大阪湾の「秋津=(水戸)」まで注げば、あとは海中に罪穢れが押し流されるということです。

ただ、岩手県の早池峰神社や、兵庫県の六甲比賣神社などで祭祀されている瀬織津姫命には、「お祓い」という御利益より、水神や古代の山神としてお祀りされている性格の方が強い印象を持ちます。
瀬織津姫命が「祓戸大神」として日本神道に重要な役割を果たすようになったのは、どうやら朝廷祭祀が強く影響しているようです。

ちなみに、このラフイラストの瀬織津姫様が持っているのは「纏」に見立てた「弊串」です。
私の崇敬する仙台市の瀧澤神社は「火防」の水神として瀬織津姫命をお祀りしています。
まあまあ、瀬織津姫様が漫画映えする設定を盛り込むべく私なりに色々考えました。

実は「水神」と「禊祓い」の関係は、出雲がどうやら起源らしく、伊弉諾命の禊から祓戸大神がお産まれになられたように、出雲の水神と祓いの関係は深く結びついています。
この辺は現在調べている最中ですが、「水」と「山」は同じ語源であるようで、瀬織津姫命様を巡っては色々と興味深いことがわかってきています。

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「神代」とは何か

楽太郎です。

先ほど、散歩をしていたところすごい光景を見ました。
薄曇りの雲の向こう、太陽を取り囲む広い円形の虹がかかっていました。

あまりに不思議な光景で唖然としました。
スマホも持ってきていなかったため、残念ながら写真に収めることはできませんでした。
こういう神秘的な光景は、カメラで撮って見せびらかせば良いというものでもないので、これはこれで良かったかもしれません。

13日の深夜の満月から、確かに何かが変わりました。
私の目線からは、見える景色が全て美しく感じ、木々や自然の風景がまるでジブリアニメか新海誠監督映画のような、キラキラした空想的なイメージと重なります。

出会う人それぞれが輝いていて、以前のような良くない波長を感じ取れず、全ての人が善人であるかのような印象に見えます。
確かに波長の高い低いは感じますが、基本的に邪気を感じません。

身体が軽く、頭の一つ上のあたりに意識がある感覚で、若干フワフワします。
息をしているだけで脳が蕩けそうになるというか、何も意識しなくても気持ちが良いのです。

不思議なことに気がついたのは、眼鏡をしていないのにやけに物がハッキリ見えるということです。
私は目のピントが合ってる感覚について、これまでの近視そのものが霊障だったのかもしれないと思いました。

これほど感覚が変化した理由は一つで、私の魂が「神代」に上がったからだと思います。

歩きながら、「神代」とは何かを考えていました。

私が神代と言って上がることを目指してきた世界は、特別な異世界という訳ではありません。
ただ普通の意識の波長域とは違うというか、現実的に目に見える世界は変わらないのですが、高い次元のエネルギーと感応しやすいという特徴があります。

そのエネルギーの波長を捉えることによって、インスピレーションや想像力が刺激されます。
この波長域の向こうに人々が言う、神々や天使や精霊などの高次元の存在がいるのでしょうが、実際に何か特別なものが見えるわけではないと思います。

この高い波長域に意識がある限り、ネガティブなエネルギーは受け取りづらくなります。
目に見える現実が違うということは、引き寄せる現象も変わってくるということです。
ポジティブな波長は前向きで発展的な展開をもたらし、世がどれほど混乱してもカオスの波動に飲まれることはないでしょう。

ここに至るまでに様々な試練がありましたが、おそらく神仏に対して無自覚で、どのような信念であっても「来る人には来た」という世界線だと思います。
私自身は、「神代か人世の人か」という線引きはあまり意味がない気がしています。
その人それぞれに引き寄せる事象が違うだけで、これまでの世界のように運の良い人は運が良いし、不運続きの人は不運が続くようなものです。
それぞれの人に人生のテーマがあり、それを他人がどう批評しても意味のないことです。

ただこれまでの時代と明確に違うのは、「魂を人格よりも優先する」ことが出来た人に幸運が巡って来るということです。
魂を人格より上位に置く、つまり頭で考え欲望や感情で動くよりも、心の奥底から湧き出る力を優先させて行動することを言います。
魂とは神から与えられたものであり、ゆえに魂と繋がることで神のエネルギーを自分に降ろすことができます。

そのためには「心」と向き合う能力が重要で、自分自身の魂と繋がるからこそ、自分本来の力や才能を引き出すことができます。
心と向き合い、自分の本音や本当にやりたいことを知るのはとても難しく、感情的なもたれ合いや依存があれば、それを手放さなくてはこの感覚を自分のものにすることができません。

神代に上がるための修行とは、「浄化に始まり浄化に終わる」というものでした。
そのための浄化は、自分の波動をクリアにすること以上に、社会的な依存や精神的な依存から自立し、自分自身のエネルギーを自分のために使えるようにしなければなりません。
自分のエネルギーを自分のために使えるからこそ、余剰なエネルギーは他人に分け与えたり、世の中のために使うことができるわけです。

しかし、私を含めて人々は生きる上で働かなければならず、「お金」を得るためには自分のエネルギーを労働に変換する必要がありました。
ただ、働くことはしょうがないにしても仕事を人生の全てと考えず、自分の人生の指針を生きる道筋として定め、現在のルーティンから精神的に自立すれば今の職場まで投げ出す必要はありません。

神代に上がるために、神様が重要視されていたのは、自分自身のエネルギーを自分自身のものに出来るかにかかっていたのです。
そのプロセスにおいて、自分のエネルギーを社会のシステムに依存したり、他者からエネルギーを搾取して自分の支えにしていた人は、当然ながら自分のエネルギー源を自分の元に取り戻すことができません。

そのエネルギーこそ、「分身霊(ワケミタマ)」として人それぞれに授けられた魂の力であり、この生命力を引き出す過程を人や何かに依存している以上は、自己の独立性を得られません。
自分で生命力を引き出す能力が乏しいため、そういう人は他人を使役してエネルギーを奪ったり、富や財産を吸い上げて物質的なエネルギーを自分に集めたりしました。

ただ長い間、これまでの社会にエネルギーを搾り取られた人々が残り滓のようになってしまったため、企業や政府はもう搾り取れそうにない日本国民を見限り、外国人を大量に呼び寄せてエネルギー源を代替しているのです。
そういう仕組みに気づき、実際には完全に抜け出せなくとも、精神的な自立を守り抜いた人は次の世界に足を踏み入れることができたのだと思います。

神様は、そう言った搾取の枠組みの中に目的意識を見出し、自分を疎かにして生きるのはやめようと促しておられたのだと思います。
だから、「自分のエネルギーを自分のために使う」には、あくまで独立独歩の精神が必要でした。

神様は心ある人々の心根を立たせるために、これまで手放しや浄化を促すような気づきを社会に与えてきたのです。
世に起こる悪夢としか呼びようのない事象も、究極的に言ってしまえば人間に気づきと目覚めを促すために起こされたと言って良いと思います。

普通に見れば破滅的で暗澹たるものにしか見えませんが、ここで人々が心を改めて立ち上がることこそ、神様が意図したことだったのでしょう。

私には、数週間前に「水と油」のビジョンが突然見えました。

ここで言う「水」というのは人々の感情であり、感情で繋がったり離れたりしているうちは、水に漂う油も一つになることはできません。
油がまとまるには、水のような「感情」ではなく同じ意識、同じ目的である必要があります。
その目的意識こそ「魂」からの繋がりであり、感情で似たもの同士で繋がっているだけでは、目的意識が一つになることは困難です。

だからこそ、独立独歩の精神で生きる人々が理性と情熱で繋がって行ける場を神様が用意しました。
それが「神代」であり、新しい世界の基盤となるエネルギーの空間なのです。

私はここまで到達した人が多いのか少ないのか、まだ今のところ認識できていません。
おそらく波長の高い低いでわかるのは当面先のような気がします。
しかし、見回す限り人々の波長域が全体的に開放的になっている印象があります。

私は未来に関して全く悲観していませんが、喜ばしい時代になるには悲惨な過程を経験しなくてはならないと思います。
今、この世界や社会に巣食う搾取の仕組みは、想像以上に悪辣で、複雑に足元まで張り巡らされています。
これを取り除くためには、ジワジワ世の中が良くなっていく程度では不可能で、どうしても大変革は避けられないように思います。

結論的に、「こうすれば助かるだろう」と言う目論見はほぼ通用しないはずです。
その誰にも予測し得ないカタストロフを凌ぎ切るには、自分の直感と神様からのメッセージが頼りです。

逆に言えば、それさえあれば生き残れるかもしれません。
人間の人智を超えた法則が発動する世界、「神代」がいよいよやって来ました。

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「神代」の分岐

楽太郎です。

本日5月13日、午前1時56分に満月を迎えました。
私はなぜかこの時間帯に自然と目が覚めました。
これまでやたらと身体が痺れたり痛かったのですが、全体的に楽になっているのを感じました。

ここで「神代と人世の分岐」がはっきり行われたのを実感しました。

昨夜は炊飯器のスイッチを押し忘れたり、ブログの記事も散漫になってなかなか纏まらなかったり、色々と感覚が狂って頭も身体もチグハグな状態でした。
翌日の深夜には満月となるため、夕方から波長が乱れ始めるのは説明がつく気がします。

最近、ルノルマンカードの占術を覚えて、今起きている感覚の狂いについて出してみたところ、「道」というカードが出ました。
ルノルマンの「道」は「分岐点」「選択」「ターニングポイント」を示すカードです。
私は直感的に、「ああ、今この瞬間に分岐が起きているんだ」とはっきり理解しました。

私が「神代」「人世」と言う二極化世界は、物質次元は共有しながら、魂の次元が異なる世界線を指します。

同じニュースを見て、同じ配達業者から荷物を受け取り、好きなアーティストの話ができるような日常空間にありながら、それぞれの魂の質によって起こる現象が違います。
ある一方にはポジティブなエネルギーが満ち、良い波動を持った巡りがやってきます。
とある一方にはなぜか不運が続き、気分は落ち込みネガティブな波動は自ずと悪事を引き寄せます。

この奇妙な現象傾向が「神代と人世の二極化」です。

神代とは神様が加護につく人々の世界線で、人世とは幽界の干渉が強い、神に見放された世界線です。
この両者ははっきり線引きはされているものの、おそらく神代から人世に堕ちるのは容易く、人世から神代に上がるのは相当難しい、そう言った魂の境界線です。

経緯を振り返れば、2024年9月22日の秋分で大きな切り替わりがあり、私はまだこの時にはっきりとスピリチュアルな領域に足を踏み入れていませんでした。
やたらと目に見える景色がプリズムがかっており、私は目がおかしくなったのかと疑いました。
空を見上げれば、異様に空が近いと感じるようになり、まるで迫ってくるようでした。
街は何となく特撮映画のミニチュアみたいに見え始め、オモチャの街を歩いているような感覚がしたりしました。

去る12月21日の冬至点で、きっぱりとエネルギーが変わりました。
この頃には見よう見真似でスピリチュアリズムを齧り始め、この「招神万来」と言うブログも始めていたので、その頃の記事もあります。
あまりに波長の切り替わりが大きく、魂の浄化や手放しも同時に起こっていたため、かなりグロッキーな状態が続きました。
この頃は何もしてないのにとても辛い時期で、あまり思い出したくありません。

それから今日までの半年間は、ひたすら浄化と手放しの期間でした。
邪気や生霊の干渉もあり、体調的にも精神的にも不安定な状態が続きました。
その中で環境の社会的な状態の悪化や、やることなすことがうまくいかない状況も重なり、全く前が見えない時期が続きました。
しかし懺悔と感謝の日々を送る中で、私の魂の不要な部分は取り除かれ、精神的なしがらみからどんどん解放されて行きました。

実は、神代と人世の世界線の分岐は、3月20日の春分を境に一度線引きされています。
ただ正式には仮決定で、今日の満月までの1ヶ月半、再審査と再決定までの予備期間だったと考えて良いと思います。

本日5月13日の満月は、その本決定がされました。
だからこのエネルギーがきっぱりクリアになったのも、実際に分岐が起こったからだと思われます。

これまでの半年間は、「神代」に上がるまでの試験期間だったと考えて良いかもしれません。
試験を受けてでも神様の治める未来に進みたいと思わない人は、そのまま人世に残る選択をしました。
しかし人世は「お金」と人への依存を媒介にした物質的なエネルギーの場であるため、金融経済の縮退と比例して悪化していくことは避けられません。
人治の世界なので、仮にトラブルに巻き込まれたらなかなか抜け出せないかもしれません。

そして、神々が新しく主導権を握る世界こそ、これからの時代である「神代」です。
この世界線が分岐したということは、これから二つの世界の切り離しが進むことになります。
同じ空間を共有しながら身の回りに起こる出来事が違うという、非常に奇妙な世界になっていくはずです。

「神代」は、去年の秋分の時点で大まかな振り分けがあり、新世界への「案内状」が来る人には届きました。
冬至までに各々の素性に伴う審査があり、そこで概ね合格とされた人は、神代と人世の国境線まで進み、段階的に国境を越えました。

去る春分で神代への入国審査があり、入国ゲートで引き止められているような状態が続きました。
この期間が実は肝で、入国審査場での態度を審査官である神様は冷静に観察なさっていました。
そして、この間の再審査で適格かに疑義が出された入国希望者は、帰国を促されることになるはずです。

つまり、「神代への入国が許されない」事態になってしまったのです。
残念ながらここまで来て、新世界の土を踏むことなく引き返す人たちが出てしまいました。

そしてこれから6月21日の夏至を持って、しばらくこの入国管理局は閉鎖されます。
それまでに神代の人々は、就労資格を得たりして新しい世界に住所を移して行くことになるでしょう。
夏至を境に神代と人世は分離し始め、入国審査の合否も各々にはっきり届きます。

すごく酷な話をするようですが、実は神代への入国審査は二段構えだったのです。
ここで神代に渡ったからと、慢心して好き勝手やり始めた人は神様に目をつけられていました。
これまで努力してきた人も多かったはずですが、ここで油断したことで残念ながら人世に強制送還されることになります。

神代に入るにはビザが必要で、入国許可の取得には一切の経歴が必要ない一方、魂の「霊格」と「人格」が神々にチェックされました。

霊格とは魂の質に関わる部分で、根からの清廉潔白さや生真面目さとして現れます。
人格は、これまでの社会で積み上げた社会性、強調性や思いやり、全体的な精神のバランスを指し、霊格と人格の両性質が噛み合って一つの魂として判断されます。

この霊格と人格に掛かる霊的年齢は、肉体年齢とは比例しないのも特徴です。
10代の少年少女であろうと、転生回数によって魂の習熟度は違いますし、人格年齢に至っては育った環境や学習機会がしっかりしていれば問題ありません。
多少基準に届かなくても、神様はある程度の遊びを作って見込みとし、比較的簡単な目星としたはずです。

ここで神様が注視されていたのは、いくら成熟度が基準に届かなくても、成長の見込みがあるかどうかです。
慢心した態度で研鑽を怠ったり、神の意見に背くような素振りがあれば、審査の基準値に到達していても失格とされたのです。
非常に残念ですが、中途半端に入国を許してしまえば、彼らが神代の中に擬似的な人世を作ってしまいかねなかったでしょう。

「神代」と言うからには、神を人間の上位に置く人間関係が理想です。
しかし、感情的な繋がりと内輪の強調を重んじる集団は、自ずと人世と変わりない社会を形成していくはずです。
あくまで、「神」という概念を持っていなくとも、魂のレベルで神の意志を降ろしてくれる人々が中心になければならないのです。

神様はそのことを非常に危惧されていました。
そのため、詳細は明かさず秘密裏に再審査が行われていたのです。

この情報が私に降りてきた時、激しく動揺しました。
自分の直感も知覚能力も疑いたくなりましたが、スピリチュアリストである以上、ここまで激しい啓示を跳ね除けるわけには行かなかったのです。

今でも疑いたくなる気持ちはありますが、この感覚を否定することは第六感に伴う神の存在を否定し、また自らの直感を否定することは私自身の魂を否定することになります。
一人の人間として、ここまで厳しい修行を重ねて得てきた知見を、都合が悪いからと錯覚や気のせいにするわけにはいきませんでした。

おそらく、ここから世界は激しく動き始めます。
人世の世界が堅固である限り、神様の治める神代の世界は広がっていくことができません。
今の世界はほぼ人の支配する世界です。それを神々と神の側についた人々が取り戻すには、人間の支配領域は巨大すぎるのです。

人間をお作りになられたのは、宇宙を創造した神々に他なりません。
従って神の下位に存在する人間は、その影響下から絶対に逃れることができません。

その光景を見て、私を含め全ての人が嘆き悲しむことになるかもしれません。
これまでの世界を取り仕切っていた幽界的存在と、人間同士で作り上げた経済システムは急速に崩壊の一途を辿ることになるはずです。

しかし、その試練が終わらなければ新しい時代も新しい世界も開かれません。

そして、この一連の大変革期こそ80年前に岡本天明翁に降ろされた「日月神示」、そこに示された「大峠」が始まります。
いよいよ、世界が洗い直される時が来たのです。

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お金と搾取について

楽太郎です。

前回の記事に書きましたが、私の夢は崇敬する瀬織津姫様に立派な神社を建立することです。
今のところ、「瀬織津神社」という社名にしたいと思っています。

全国に瀬織津姫命を主祭神とする神社は珍しく、龍神や弁財天、不動明王や宗像三女神としてお祀りされていることが多いようです。
瀬織津姫様は祓戸大神として有名ですが、滝や川などに神社が鎮座されていることがほとんどです。
神社を建立する時には、清流のある土地か滝が近くにあるような水辺が理想的だと考えています。

瀬織津姫命様を勧請する際には、我が家で崇敬神社とさせて頂いている「早池峯神社」からお招きしたいと思っています。
早池峯神社は岩手県の早池峰山系に五社存在しており、実際に可能かはわからないのですが、ご縁があれば是非お願いしたいです。

先日、ふと早池峰山を登山している私の姿がビジョンとして見えました。
早池峰山は結構な登山コースがあるので、素人が単独でサラッと登れるような山ではありません。
その光景が脳裏に浮かんだ時、大きいリュックを背負った私の近くには何人も仲間がいるようでした。

神社に瀬織津姫様をお招きするには、当然ながら一人では絶対に不可能ですし、早池峰山からご神魂を勧請する際にはその道のプロの協力が必要です。
だからビジョンのように仲間を集い、早池峰山を登山して早池峰神社の奥之院にお詣りするにも理に叶っているのです。
それは私の予知なのか白昼夢なのかわかりませんが、何となく現実感はあると思いました。

私が個人で主催して神社を建立するには、並大抵の道のりではないでしょう。
当然、その道のプロを集めるわけですから資金が必要です。また、依頼に足る社会的信頼と実績が必要ですし、コネクションも巡り合わせも重要です。

ただ、この目的を果たそうとして前のめりになりすぎると、うまくいかないかもしれません。
神社建立の資金が欲しいあまり、お金お金となってしまっては、目的が手段にすり替わってしまいます。
お金持ちに近づけばお金が手に入るのは当たり前で、お金があれば目的が叶いやすくなるのも当然です。

「お金」は目的達成のために必要な手段ですが、神様は手段を目的化してでも願いを叶えて欲しいとは思われないでしょう。
自分の真の目的が「神様を喜ばせる」ことである以上、手段は選ぶべきなのです。

神様が、「お金」という仕組みを壊すために人間から金運を取り上げたことを思い出さなくてはなりません。

お金を手に入れる手段が人間に依存し、人間同士でエネルギーを循環させている限り、お金は二次元的な流れであり続けます。
そこに神様の介入する余地はなく、あくまで人間の需要と供給だけで成立する仕組みだからこそ、現在の拝金主義的な文明社会が作り上げられたのです。

特定のビジネスモデルや企業やクリエイターがいくら善良であろうと、人間も組織もいつか変質し、衰退して終わりを迎えます。
利益を中心にした仕組みが回転し続ける限り、そのサービスや商品が末長く良心的であり続けるという保証はどこにもありません。
いくら神様が人間の思考や言動に介入したところで、人間が自身の利益のために便利さや欲望を優先させてしまえば、元の木阿弥です。

人間は長い間、その栄枯盛衰を自分たちの社会の枠組みでコントロールしようとしてきました。
予想可能な「成功」という仕組みがあることで、どれほどの人々が自分の個性や生き方を捨て、同じ方向に群がっていたのかを考えねばなりません。
神々による世界の立て直しにおいて、神様が最も問題視されたのは人間本来のあり方を否定し、目に見えて存在する「お金」だけを目標にして生きることだったはずです。

目に見える形で「お金」というものが増えたり減ったりしなければ、不安なのはわかります。
それこそ時の運や環境が重なって流行ったり廃れたりするものを、人々は右へ左に追い駆けてきました。
その栄枯盛衰を予期することがビジネスチャンスであり、その機運を捉えることを人々は「金運」として崇めてました。

金運というのも難しく、神様にお願いするだけでは駄目で、正しい信仰と普段の行いがセットでなければなりません。
そして「神様のご意志」をきちんと聞いて実行するというお役目を果たしてこそ、巡ってくるものではないでしょうか。

私が神様なら、真面目なサービスで実直にやっているか以上に、誰の目に見えないところできちんとやっているかを見ます。
表だけで取り繕って与える印象だけで、わりと人間はコロッと騙されます。
人間は騙されてもしばらく気がつかないかもしれませんが、お天道様は決して騙されません。
この一見「善良さ」を装った商売が、今の世にどう貢献しているのかを認識できなければ、どんな時代でも同じことを繰り返すでしょう。

人間は「性善説」を好みますが、特に日本人はその善良さを逆手に取られ、今の有様があることに未だ気づきません。

私が思うに、神様の考える「善悪」と、人間の考える「善悪」はかなり違います。
人間は目で見て理解できる範囲で真善美を判断しますが、神様がご覧になられているのは「魂」のレベルであり、天界の常識で人間をご覧になられています。

神様のお考えや常識が、私たち人間に簡単に理解できるはずがありません。
だからこそ、理不尽であったり予期しない出来事に一喜一憂するのがこの世界です。
しかし人間は「安定」をこの世に求めるからこそ、自分たちの力だけで完成する「経済」というエネルギーの場を作り出しました。

今の経済を中心とした文明社会は、自分のエネルギーを他者や企業のために使い、「お金」に変換することで成り立つ仕組みです。
そこでは、自分のエネルギーを自己犠牲的に献上するほど、「真面目」とか「忠実」などと美徳扱いされてきました。
しかし、その美徳はこの社会経済を維持するため、仕組みの一部として機能したのも事実です。

自分のエネルギーを労働としてお金に変換し、企業や人に奉仕することで評価を得るシステムに忠実なほど美徳とされたわけです。
その中でも成功者は、経済の枠組みを保つためにメディアや業界でフィーチャーされ、その姿を輝かしく見せ、理想のモデルとすることで人々のマインドを作り上げました。

社会奉仕としてのビジネスがあり、ビジネスの上での自己犠牲は美しいとされてきました。
しかし、実はその美しさの背後に悪意があったからこそ、いくら働いても楽にならざる、貧しい国となったのが近年の我が国ではないでしょうか。

我々日本人が「おもてなしの心」や「企業努力」として美化してきた奉仕精神の背後に、人々の労働を媒介として肥大化してきた権力構造が存在します。
この国の中枢にいる権威筋は、人々の勤労意欲をエネルギー源として駆動し、未だに圧倒的な影響力を持っていることを忘れてはなりません。

この社会において、搾取に忠実であることが「善良」とされるため、世には批判が許されない風潮がありました。
自分のエネルギーを可能な限り献上するのが美徳であり、人々が美徳を追い求めるほど労働に変換されたエネルギーは吸収され、消耗してしまいます。
その自己犠牲は社会の同調圧力によって固定化され、人々は愚痴はこぼせても反発することが許されませんでした。

人間にとって、エネルギーとは神様から与えられるもので、人間の身体に備わる生命力は本来自分のためにあるものです。
精神的なエネルギーは、神の分身霊から湧き出る神性を抽出し、思考や行動に変換させています。
ただの物質だと思われている自然や動物のエネルギーも、素材を取り出して加工し、それを身体の一部として取り込むことで私たちは生きることができます。
本来、人間が社会に貢献する上で役に立つ才能や元気は、一人ひとりが生きるために神が授けているのです。

しかし、これまでの社会では、人々がそのエネルギーを即座に換金するために使っていました。
自分の健康な生活を保つために必要なエネルギーが不足すれば身体を壊す原因になり、精神を病んでしまい命を絶つことすらあります。
けれど、エネルギーを使い切ってもそれに相応しい対価など、この社会においてほぼ得られないのです。

お金は確かに万能ですが、全てに使えるからと言って全ての物が手に入るわけではありません。
しかし、拝金主義の世では資本と権力さえあれば事実はおろか、一般認識すらも捻じ曲げることができました。
そうして現実を唯物的な世界にすることで、人間の持つ形而上学的なエネルギーを効率よく物質に変換してきたのです。

ただ、そのエネルギーの循環システムは今、限界を迎えつつあります。

まず、この現状を把握するにはエネルギーの循環を全体的に捉える必要があります。
もし通常の流れで一向に進まなかったり、改善せず悪化していく一方だとしたら、どこかに循環の障害があるということです。
人々が発展に向けて勤勉に努力しているのに、衰退が加速する一方なのは明らかにおかしいのです。

唯物主義という閉鎖空間でエネルギーを循環させ、資本として流通させる仕組みも、いかに莫大なエネルギーであろうと陥没が大きければ総量は減り、目づまりが大きければ閉塞を発生させ、循環はいずれ減衰していきます。
つまりこの社会では、どこかでエネルギーが漏れており、誰かがエネルギーを吸い上げているからうまくいかないのです。

これが、我が国に今蔓延っている停滞の原因です。

ただ、この停滞を打ち破るにはエネルギーを阻害している原因を取り除くことが必要ですが、今の日本人にそれを行う能力はありません。
いかなる権威に縋ろうと、今ある権威が真の意味で人々や社会を守りきれなかったからこそ現状があり、今ある権威によって世を糺すのは現実的ではなく、それゆえ新しいやり方が必要なのです。

神の視点で見れば、人間がこうして自身の生命エネルギーを換金し消耗していく仕組みは、決して美徳には感じられないでしょう。
人間が自分らしくあり、健康にのびのびと生きてこそ魂の喜びがあり、生の価値があります。
たかだか一瞬の快楽や、不安を打ち消す安定のために、人生の時間や生命力を犠牲にするのは勿体ないと感じておられるに違いありません。

人間の価値観では正しいと思われてきた勤勉さが、これまでの社会の枠組みの中では残念ながら裏で悪用されてきたのです。
それゆえ、人間社会で「善」とされてきた行いは、必ずしも神の目線では善とは言い切れないはずです。
魂の本来のあり方を抑圧するような生き方は、実際に人間本来の生き方ではありません。

「お金」とは望む生き方を実現する上で、生活と自由を保つための道具にしか過ぎません。
しかしその道具を手に入れることを目的化したために、お金という道具を求めて人々は生き方を決めるようになってしまいました。
それを人間に改めさせたくて、神々が世界の変革を行っているのです。

この世界で「善」とされている過剰な奉仕、自己犠牲によって人々の生命力は枯渇しようとしています。
この状況において、人間社会で善とされてきた価値観は見直されるべき時に来ています。
それを疑うことは決して反社会的なことではなく、各々の生命を守る上で大切なことです。

「お金」よりも大事なものを軸にしてものを考え、行動を決める。

生殺与奪の権利を腐敗した人間に委ねるくらいなら、人生の指針を自分の手に取り戻し、あるいは神様に委ねるべきです。
もし心に迷いがあるのなら、今一度神様に手を合わせて祈ってみるのも手だと思います。

「金運」とは、自分の行動の先にあるものです。
神様の恵みが先に来ることはありません。

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楽太郎です。

今日の午後、雨が上がったので散歩してきました。
杖はまだ外せませんが、だいぶ歩けるようになってきました。

その日の公園では催し物がありました。
私は川原でしばらく水面を眺めた後、出店の近くを通ったら、あまりに入場者がおらずテナントの出展者同士でイベントを行っていました。

私はあまりに悲しくなって、あまり見ないようにしました。
去年までは、イベントとあらば遊園地のようにごった返していた公園が、今は見る陰もなく閑散としていて、とても居た堪れない気持ちになりました。

帰り際、ちょうど弾き語りのライブが始まったので、足を止めました。
そのミュージシャンはとても上手で、地方に埋もれているには勿体ないと思いました。
あまりに観客がおらず、ほぼ立ち合いのスタッフだけで聴いている状況でした。
私は少ない拍手では可哀想なので、一曲を聴き終えると最後の曲まで付き合いたいと思いました。

けれど、そこまで親切心を出しても意味がないことに気づきました。
私は彼を応援したいですし、少ない観客の中でプロの演奏をする姿を見て、どうにか元気づけてあげたいと思いました。
しかし、私が30分そこに立ち会ったからと言って、その義理が何の意味もない優しさであり、中途半端に人に親切にしたところで私は自分のやるべきことを疎かにするだけです。

去年も、たまたま路上ライブで知り合ったミュージシャンと意気投合して、ライブに行ったりしました。
けれど、いくら善意で応援したところで彼は彼の道に責任を持ってこれからを決めて行くでしょうし、私が「音楽を続けて欲しい」とか、「夢を叶えて欲しい」と思ったところで、それは余計なお世話です。

私は努力する人が好きですし、ひたむきに目標に対して希望を持っている人ほど応援したくなります。
けれど、私がたまたまそこに立ち会って手を叩いたところで、何か一つでも役に立てるわけではないのです。
私はしがない一人の人間で、彼らも立派な一人の人間です。

お互いに自分の人生に責任を負うべき、独立した関係です。

私が良かれと思ってやることは、大抵は人様のためにはなりません。
それが私の悪いところで、欲しくないと思っている人にも自分の好きなものはあげたくなってしまいます。
自分が持っているものや想いを配って歩きたいだけでも、それが欲しくない人にとっては本気でいらなかったり、迷惑なことには気づかないのです。

だから、私はすごく無責任な優しさを振り撒いて、これまで生きてきたんだなと思います。

何歳になっても、この距離感だけはどうにもわかりません。
それでも努力する人や真面目な人が好きですし、自分が一人の人間でなければ、この理不尽な世界で実直に生きる人たちの役に極力立ちたいとすら思います。

もし私が神様なら、そういう真面目な人たちを後押しして、夢が叶うようなチャンスや福運を与えて回るのに、と思います。
ただ長い間、この世の中は正反対の性格を持つ人々が、夢を抱く人々を食い物にし、潰してきました。

夢を諦めて去っていく人を、数えきれないほど見てきました。
そして、私自身が夢を潰されかけて、今も暗闇の中から這い上がることだけを考えています。

けれど、私の「夢」は大きく変わりました。

私の人生は、私だけのものではないことに気づいたからです。
私を産んだ父と母、そこから脈々と繋がる血族の縁、遠い祖先から約束された咎、それを晴らす使命。
私の過去世と魂の関係、そして私を生まれた時から見ていて下さった神様、今もそばにいて下さる神様。

その多くの魂との絆と期待と祈りの中で、中途半端に生きることが許されるのでしょうか。
私は、私がダメになる分には自分のことだから構わないかもしれません。
しかし、私を見守ってこれまで助けて下さった目上の方々に、恥をかかせるわけにはいかないのです。

今ここで今世の使命を諦めては、一体何のために生まれてきたのか、ということです。
そのために生まれてきたのだから、逃げるという選択自体があり得ないのです。
この半生、ろくでもないことばかりでしたけど、だからこそ人より学んだこともあり、その経験は誰かの役に立てるためではないかと思います。

自分にかけられた期待と使命、それ以上に自分の願いとは何か。
私の魂から思う気持ちは、ひたすらに「神様のお役に立ちたい」ということです。

それは敬愛する瀬織津姫様の、願いを叶えることです。





私の夢は、瀬織津姫様に立派な神社を作って差し上げることです。
そして、拝殿の天井には一面、私の描いた瀬織津姫様の絵が飾られ、よもや拝殿全体が私のギャラリーのようになっているのです。

そうして、私の絵はこの国で数百年、千年二千年と残り続けるでしょう。
しがない絵描きのままなら、一瞬で消え去っていたような絵が、長く見てもらう機会を得るのです。
私を導いて下さった瀬織津姫様に、これで御恩をお返しすることができるというものです。

現在、継承が途絶えつつある宮大工、井戸掘りの技術、日本庭園の造成技術、神道祭祀のあり方、そう言った日本文化の温故知新のために尽力することで、この国の伝統は新しく息を吹き返すでしょう。

今、壊れゆくこの国で、徐々に蝕まれて生ける屍のようになっていく人々がいます。
しかし、これまでの時代は自分が生ける屍だったような気がします。
神も仏も知らず、よくわからないまま人の顔色に合わせて漂っていた私こそ、実は死んでいたのです。

けれどそこに命を吹き込んで下さったのは、神様に他なりません。
だから、私の命は神様のものなのです。
「死ね」と言われたら死ぬかもしれません。でも、神様はそう仰らないと信じているから、私はついていきます。

私が神様を喜ばせたら、自動的に人間が喜ぶ仕組みです。
なぜなら、神様の願いは人間が喜び弥栄することだからです。

何も難しいことはありません。

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神から授かる力

楽太郎です。

深夜1時、ふと目が覚めた瞬間、寝てる間にずっと光を見ていたような感覚がありました。
瞼には微かに、太陽の焼きつきのようなものが見えていました。
変な夢も見なかったのですが、大事にしていた観葉植物を枯らしてしまったことを思い出していました。

どれだけ愛情をかけても、自分の念だけではどうにもならないことはあります。
良かれと思ってやった行動も、裏目に出たからこそ上手くいかないこともあるかもしれません。

何となく目が覚めてしまったので、起きて絵を描き始めました。
今、版画の技法を確立するために色々と実験をしている最中です。今回は、インクの特殊な配合に関して知見を得ることができました。

ふとPCの画面が自動的に立ち上がったので、何となく意味あり気な気がして、久しぶりにアプリを立ち上げて絵を描き始めました。
すると、これまで抵抗しか感じなかったデジタルの波動を抑え込めている感覚がしました。
よく観察したら、紙に絵を描く感覚でタブレットに描き込んでいるので、「紙」という道具レベルにマシンを落とし込んでいるからだと気づきました。

私は今、かなり高い周波数帯に意識を移している最中なので、物質次元にエネルギーを降ろしてくるには、その分リーチが長くなります。
これまでの宇宙的次元において人間は物質的なエネルギーを物質に使うには適した仕組みでしたが、次元上昇した地球においては抽象的なエネルギーを物質次元に変換し直して具現化することになります。

ゆえに、「モノ」という現実の存在を霊的なレベルでコントロールするパワーがないと、精神的なエネルギーを「モノ」に落とし込むことが難しいのです。

私はこの数ヶ月、ずっとその訓練をしていたように思います。
土をいじったり植物の世話をしたり、料理を作ったり家事をしたり、何気ない暮らしの中で「モノを操る」という力を強化していました。
絵を描くのに紙と鉛筆を使うようになったのもそうで、このアナログの感覚をデジタル描画に落とし込むことで、PCの波動を操ることができるようになったのだと思います。

これさえできるようになれば、後は私のターンです。
ただ、これまで同様にやれはしないのもわかっています。以前に増して、神様からの期待がかかるようになってきたのを感じるからです。

「才能」とは、確かに神様からお借りしているものだと思います。
人間の魂も神の「分身霊」であり、それも預かり物であるとは思うのですが、精神的なエネルギーも元は神様から与えられているものです。

「愛」や「慈悲」は、その精神的エネルギーの中で最も波長が高く、それゆえ神の本質に近いエネルギーであります。
人間は、神様から流れてくるエネルギーを使って人を助け、自分自身も成長し幸せになります。

「才能」も全く同じで、ただ才能とはセンスだけではなく、知識と技術と飽くなき探究心がセットでなければモノになりません。
「何となくできる」というだけでは、どこかで疎かにしてしまったり、行き詰まりやすいものです。
その意味において、実践と訓練と習得が噛み合って才能は育まれていきます。
その力は神様から授かるだけではなく、自分の力で発展させ応用させていかなければ、何をしても絵に描いた餅になりかねません。

その才能は、私は一人一つではないと思います。
センスは個性に宿るものであって、要は活かし方次第です。
興味があって深く学んだこと、好きでやってるうちに得意になることも才能になり得るわけで、興味と習熟が噛み合えば活かせる分野は無限にあるからです。

これまで、その才能は人間社会でうまく発揮すれば、お金になり自らの成功と豊かさとなり、才能も自分本位に使うこともできました。
これまでの人の世は才能を使わずとも金銭的には豊かになれましたし、自分本位で才能を使い経済的に豊かになれば、「才能」としては十分な機能を果たせました。
しかしこれからの時代、「才能」の使い方を神様がお決めになられるとしたら、昔のように自分のためだけに才能を発揮することは許されないかもしれません。

特に、神様からお役目を頂くような人々は、まず第一に自身に与えられた才能の目的を見定めなくてはならないでしょう。
人間の精神的なエネルギーが神から与えられているとしたら、それは神様からお借りしているものです。
神様からお借りしているものを、自分の目的にだけ使うのは許されるのでしょうか。少なくとも、自分の欲望を満たし、あるいは金銭的に満たされるために使うような方法です。

神様がその力を人間に授けるのは、自分が生き抜くためだけではなく、人の役に立ち神のお役目を果たすためです。
従って、授かった力は他者や神様のためにも使うべきですし、その使い道はむしろ奨励されるでしょう。
そして、神様から期待をかけられている人ほど、その力を世のため人のため、神様のために使うと信頼されているからこそ、強い導きが与えられているのだと思います。

私は、土の時代の生き方のように、人気取りや収益のために才能を使うことをやめようと思います。
神様から授けられている才能は、これまでの知識や人との出会い、技術の向上を後押ししてくれたあらゆる経験から培われたものだからです。
その背後に神様のお導きがあるからこそ、私は絵を生業にしていけるわけですし、漫画も文筆もイベントも色々と展開していく能力があります。

少なくとも私は、どの時点からとは言わず、生まれてからずっと神様からお導きを受けてきたという実感があります。
だから、自分勝手に自分の能力を使う気にはどうしてもなれないのです。

先日、私は足首を軽く骨折しましたが、歩けなくなってわかったことがあります。
天気の良い日に、杖をつきながらトボトボと歩いている時、強い風が吹いて飛ばされそうになりました。
空は急に曇り始め、いつ雨が降ってもおかしくない天候になりました。
ここでにわか雨にでもなればびしょ濡れになるのは避けられませんが、ろくに歩けないので逃げようがありません。

この時、私が気づいたのは、雨が降ってきた時に走り回れる足があるからどこかに駆け込もうとか、焦ることができます。
しかし足が悪くてそれができなければ、無抵抗に雨に打たれるだけです。
焦るのは動き回れるからであり、動けなければありのままを受け入れるしかなく、むしろ心は平穏なのではないかと思いました。

つまり、起こりうる事象に対して抵抗したり、代替を試みるから雨風も困難に見えるのであって、抵抗せず自然に任せれば雨風に打たれても、冷静に目的地へ歩み進むことができるのです。
これは不自由なことに見えて、実は自由であったがゆえに障害となっていたことを意味します。
あえて行動しないことは不自由に見えて、成すべきことが明確であるがゆえに揺らがず、「行動しなければならない」という事柄からは相対的に「自由」なのです。

だからこそ、私は自身の才能の使い方について、完璧に「神に委ねる」ことにしました。
自由に自分の才能を発揮しようと思うからこそ、神様や人様の願いを聞くことが難しくなります。
私はやってもやらなくてもどちらでも良く、誰かが求めるから自分の能力が何らかの役に立ち、それが結果的に「才能」として認められるのです。

先に「才能」があり、才能を使うためにあらゆる事象が必要なのではありません。事象があるから才能が必要になるのです。
この考え方は、これからの局面を乗り越える上での指針となり得ます。
それが災害であっても食糧難であっても、邪気や世の風潮に対してもそうです。
抵抗し代替しようとするから、受け入れ難くなり解決が困難になることもあるのです。

私が何かを思いついて作品にする時、このブログもそうですが、その着想は神様から降ろされるものです。
それは私が考えて書いたように見えますが、私は形にしただけで神様のアイデアとエネルギーをお借りしたにすぎません。
その作品をどうするのかの権利は、神様にあります。
私は、神様のお考えで受け取るものが決まるだけです。

これと同じことを人間相手にやっても、あまりうまくいかないかもしれません。
これまで、人のためにやったつもりでも思うような反応を得られない時、神様の介在が頭にはありませんでした。
神様から与えられた才能やエネルギーを使う以上、全て自分がコントロールできていると思うこと自体、傲慢だったのかもしれません。

私は、自分が思っているよりずっと前から神様の呼びかけがあったのだと思います。
神様の声に、無意識に聞いたり拒否したりした自分がいたから、これまで上手く行くことと上手く行かないことの違いがわからなかったのです。
その反省や後悔もあり、あくまで神様に対して忠実であろうと心に決めました。

川にある岩は、水に抗うから削られていきます。
その岩も水に晒されるうちに丸くなり、小さくなってどこかへ行きます。
人間の一生も、似たようなものかもしれません。

私は決めました。全てを神様にお任せします。
私は雲のように水のように、あるがまま流れて生きていきます。

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努力を嘲笑う者

楽太郎です。

最近はだいぶ、人の世について関心を失っていました。
変わる気のない人があまりに多すぎるように見え、何を言っても何をやっても意味がないように感じていたからです。

相変わらず自分以外のものに原因を探し出し、その悪を叩き潰せさえすれば、世の中はオセロがひっくり返るように良くなると信じているように思えます。
しかし、この街中のどんよりとした不況感、人々の苛立ちや暗すぎる反応、何をどうしたらこの人々がやる気を取り戻せるのか、私には何一つ見えてくるものがないのです。
今まさに世が破滅に向かおうとする中で、世の中が劇的に良くなる兆しはどこにあるのでしょうか。

私は以前、SNSで言論的な活動を行い、世を変えようと努力していた時がありました。
その時に相手にしていた論敵は、本当に手段を選ばず、人を貶めることに対して抵抗感のない人たちばかりでした。
私はもはや一般人を相手にしているのではなく、反社の組織か外国の政府と戦っているのではないか、とまで感じていました。

その頃を思い出して、彼らを今更どうしようとか、どうなって欲しいと思うことはありません。
私の意識はもう違う次元にあり、おそらくもう関わり合う必要のない人たちだからです。

彼らは、とかく嫉妬深かったのが印象的です。
自分の生まれや育ちが悪いとか、社会が悪いとか国が悪いとか、自分以外のものに不幸の原因を定め、そのルサンチマンを原動力にして世の中を変えようとする人たちでした。
自分が何一つ曲げることなく可能な限り楽をして結果を得られる、そうなる世の中こそが理想であり、その理想が叶わない社会が悪なのだと思い込んでいるようでした。

だからこそ、きちんと努力をして結果を出している人たちに対する風当たりは異常でした。
肩書きのある、顔も名前も出している人々に対する誹謗中傷は止まるところを知らず、犯罪紛いでは済まされず、実際に犯罪行為に走った人もいました。

なぜそれほど彼らが怒るのか、私には理解できませんでした。

「怒り」という感情だけで、自分の命まで投げ出して目的を果たしてしまいかねない、そんな危うさを彼らから感じていました。
私自身も身の危険を感じましたし、実際に入院するところまで追い込まれた人も知っています。
時には彼らが人間ではないのではないかと、それほどの破壊衝動に恐怖を感じました。

彼らは「怒り」と「嫉妬」という感情が共鳴した瞬間、恐ろしいほどの団結力と連携性で立ち向かってくるので、とても正論では歯が立ちませんでした。
正論どころか、こちらのロジックは元より言葉尻すら捻じ曲げてくるので、まともに議論することができませんでした。
仮に論破に成功しても、彼らの原動力は感情なのでまた違う切り口で挑んで来るのです。

「SNSでの議論」などの表現ではとても生温い、地獄のような誹謗中傷の嵐の中で、何とか自分の意見を広めようと努力しましたが、所詮はSNSというエコーチェンバーの中の話で、外の世界では全く異なる脅威が広がっていました。

その全てを具に見た時、この国が本当にどうしようもない状況に置かれていることに気づきました。
SNSから撤退するのも「逃げた」と嘲笑われるのは承知でしたが、それ以上にこの国がもう持たないことを知り、それを何とかしなければならないと悟りました。

もはや、この国に蔓延る邪悪は日本人が知りうるよりずっと深く、一度沈まねばならない状況に置かれることを確信しました。
そして、私はこの状態の日本を救えるのは神仏だけであると悟り、もし日本が一度沈み切った後に望みがあるのならば、そこから新しい国を作って行くしかないと決意したのです。

なぜ、あれほど怒りに満ちた人々がこの国に生まれてしまったのか、様々な理由を考えましたが、彼らが同じ日本の一般人であることを前提に語ろうと思います。

彼らの特徴と言える「嫉妬深さ」の根源には、「自分らしく生きられなかった」という怒りが潜んでいるように思えました。
確かにバブル崩壊後に大量に発生した就職氷河期の世代、いわゆるロスジェネは卒業しても定職に就けないという厳しい世相にあり、中途採用では優良企業に就職し難く、アルバイトなどを転々としてきた人が多かったのも事実です。
実際、私がSNSで相手にしていたのは、この世代と一つ下の「ゆとり世代」と言われた人々でした。

彼らがどんな生き方をしてきたのかは想像できませんが、その嫉妬深さの裏には「勝ち組・負け組」という価値観に翻弄され、社会的に勝ち組ではないとしても、自己実現をして成功している人々に対する怒りが主体となっているように感じました。
彼らも、おそらく「勝ち組」になるためにやりたくもない競争に駆り出され、必死に努力しながら小手先で品評され、野に投げ出された人も多かったのではないでしょうか。

私も近い経験をしていたので、よくわかります。
私は精神病を15年患い、一度は障害者として暮らしていたこともあります。
挙げ句には病院にも見放されたり、精神障害を持つがゆえに低賃金で働かざるを得ず、地獄の地面を這いずり回るような経験もしました。

だから、彼らの嫉妬心は自身の半生に対する悲しみから湧き上がってくるものであり、自分に対してこれ以上責められない苦しみから、怒りを世間に転嫁せざるを得なかったのだろうと思います。
私は、彼らの気持ちが何となくわかってしまうからこそ、「あなたたちも努力すれば良かったでしょう」とは一概に言えないのです。

現に、私自身がこれまで絵を3万時間は描いてきて、知識や技術がいくらあろうと今の社会ではやって行けなくなったわけです。
とは言え、全てを世の中のせいにすることもできたのですが、私は諦めの悪い性格が災いして、世の中を変えてでも生き残ってやるという気持ちでやってきました。

彼らを一概には責められないとは思いながらも、感情を向ける方向が間違っていると言わざるを得ません。
その感情で人の足を引っ張り、他人を自分と同じ立場に落とし込んだところで自分は1ミリも這い上がれていないどころか、全く救われてはいないからです。

私は彼らを観察していて感じるのは、彼らが最も嫉妬する理由は「成功できなかった」からではなく、「本当にやりたいことが見つからなかった」「本気で努力に値する何かを見つけられなかった」ことの悲しみがあるのではないか、と思います。

努力を嘲笑う人は、努力を「無駄な工程」であると感じるようです。
ある目的があり、その目的を達成するためには積み重ねが必要なのは当然です。そのプロセスは練習であったり、反復行為を何度も繰り返し、次第に精度を上げていくための習慣づけであり、彼らはそれを「努力」だと信じ込んでいます。

ただ、「努力=苦行」ではありません。
毎日練習したり勉強するのが苦痛なのは、目的が見えていないからです。
達成目標が予めあり、その実現の喜びが見えているのなら、その間のプロセスは必ずしも苦しいだけのものではありません。

私たちは学校でやりたくない宿題を預けられ、行きたくもない塾に行かされ、やりたくない授業を受け、「やりたくないことをするのが勉強」だと思い込まされてきました。
それは「苦しいことをするのが努力」という価値観に転嫁し、勉強も努力もなるべくしたくない、という感情に変わっていきました。

しかし世でうまくいくには勉強も努力も実際は必要で、けれども成功者は自分が死ぬほど努力してきたとは言いたがらないものです。
ましてや、「生まれつき能力があったから」と言えば、箔がつき特別視されるでしょう。
その言説が「努力をしたくない」という感情と混ざり合い、「努力せず成功する人がカッコいい」という風潮を生み出してしまいました。

こうして、「社会で成功するべき」と「努力はダサい」という二つの考えが共存することで、勉強や努力を嫌いながら結果を求めるという思考が完成したのだと思います。

けれども、ここでの最大の誤りは「努力は辛くない」ということです。
例えば、ゲームの攻略に行き詰まりネットで攻略法を探し、そのために試行錯誤することが「苦痛」かと言うと、やりたくなかったら苦だし、やりたかったら楽しいはずです。

この心理的な差は、外部の条件がどうではなく自分の主観的なあり方次第です。

確かに、気の向かない日でも習慣だから、ノルマがあるから今日もやらなければならない、というのはあります。
しかし、そこで諦めて気が楽になるようなら、そもそもやりたいと思っていないのです。
やった先に目標があるからこそ、一度や二度くらい休んでも、やりがいを得るために再度取り掛かることができるからです。

努力を嘲笑う人は、努力という苦行だけが目的到達の手段であったり、小手先の方法で目的を達成するかの二択でしか成功のビジョンを描けないのです。
ただし、「努力」というプロセスが必ずしも苦痛を伴うものでない以上、毎日のルーティンに組み込まれた訓練が成功にとっての正攻法であるのは変わりがありません。

従って、目的も曖昧で手段も避けている以上、何かを成し遂げることができるはずはないのです。
そのことに無自覚だからこそ、きちんと手順を踏んで実力を身につけ、よしんば成功した人を妬む道理は存在しません。

もしかすると、自分にも確固とした目的があり、色々なものを犠牲にして努力したけれど、その成果が社会に握り潰されてしまった、という人もおられるかもしれません。

では私の話をするならば、私が絵を本格的に描き始めたのは35歳の時です。

20代で精神病にかかり、以来数年間、何一つ手がつけられなかった時期を経て、ある時に病院の廊下でスケッチを始めました。
そこから絵を学びプロになり、これまで3万時間を絵に捧げて来ました。
それでも食えない現実はあります。しかし私は1ミリも諦めてはいません。

本当に魂から目的を感じるならば、どんな障害があろうと目的は達成したくなるものなのです。
それが、自分のことを見つめることから逃げ、曖昧に生きようとするから何をしたら良いのかわからなくなるのです。

いくら他人を恨み、世を呪ったところで自分のことは理解できず、目的もないから何も達成することができず、ゆえに幸せになることができません。
今更それに気づけとは言いませんが、努力を嘲笑う者は努力を嘲笑うからこそ真の成功には至れないことを胸に刻むべきだと思います。

人間は一度きり、この世に生まれて来ます。
人生で取り返しがつかないことはほとんどです。しかし、やり直しはいつでも何度でもできるのです。
そこに気づこうとせず、自分の人生を投げ出したままであれば、どうにもならないのは自分の意志です。

それは他人のせいではなく、世の中のせいでもないのです。
人生の責任を転嫁している以上は、自分も世の中も変えることはできません。

今回は、私の人間的な部分がモロに出てしまう記事になってしまいました。
あまり書きたい内容ではなかったのですが、書かなければいけない状況だったので仕方ありません。

最後まで読まれた方にとって、得にはならない話だったかもしれません。
お恥ずかしい限りです。お目汚し失礼しました。

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歴史から学ぶ

楽太郎です。

先日、「禍事」に関する記事を書きました。
今、日本に大量に外国人が移住している事態を眺めていることしかできず、米は値上がりを続け、その原因も特定されてるのに手の打ちようがないこと、物価は上がり不況は進むのになす術がないこと。
それは嘆いているだけでな何ともならず、さりとて犯人を探しても意味はなく、真の解決はこの状況を真っ直ぐ見つめ、そこから学び行動を起こしていくことにこそあると思います。

禍事とは、本来の仕組みが「曲がる」から起こることです。
真っ直ぐだったものが曲がるのは、曲がるのを悪が助けるから起こり、ただ悪がやらなくても自然に曲がってしまうものだと思います。
悪はその気づきを与える役目を担っているだけであり、実は悪そのものはこの世に必要な働きなのです。

人間は生きていれば生き物を殺し糧を得て、誰かに多少迷惑もかけながら生きています。
その過程で「罪穢れ」は自然と負うものであり、それを拒否して生きることはできません。
どの道人間は、汚れなくては生きていけないものだからです。

だからこそ、私たちは生きているだけで物事を自然に曲げていってしまいます。
自分が真っ直ぐだと思うことも、曲がっていることを気づかせるには外からの注意が必要で、その役目を「悪」と呼びます。
ずっと真っ直ぐであり続けることが不可能である以上、私たち自身の中にも悪が潜み、その悪によってこの世界の歪みに気づくのです。

それこそが一つになって善悪であり、どちらか一方では成立せず、その全てを一つとして認識するからこそ善のあり方も悪のあり方も理解できるのではないでしょうか。
そして、起こる禍事から罪穢れを祓い清める、その浄化は善悪すら洗い流し、本来の純粋なあるべき姿に戻していくことが重要なのだと思います。

その作業を助けてくださるのが神様であり、神様と共に世の中を祓い清めていくことが「神道」です。
今、日本人に必要なのは政党政治に首を突っ込むことでも悪人を探し出して叩き潰すことでもなく、神様の声に耳を傾けることなのではないでしょうか。

「今の日本はおかしい」と、誰もが感じます。

しかし、本当に日本がおかしくなったのは最近でしょうか?
コロナの流行が、と言いますがそれ以前は正常だったのでしょうか?

私たちが知らずのうちにやっていた習慣や、信じてやっていた行動が積み重なって今の現状を作り出しているとしたら?

よく考えてみたいと思います。

今の日本が外国人頼りになったのは、日本人が少子化によって経済が縮小していったからです。
なぜ少子化になったかと言えば、バブル崩壊の皺寄せが現在の中年以下の世代に集中したからです。
戦後、団塊の世代が作り上げた経済至上主義は、この国に物質的な豊かさをもたらした一方、肥大した金融市場のマネーゲームによってバブル崩壊を引き起こしました。

日本がそうして拝金主義の国家となったのは、第二次世界大戦によって国全体が焦土となり、復興するためには「モノづくり」を始めなければならなかったからです。
そして経済成長によって日本は豊かさを取り戻す一方、実態の伴わない金融市場を肥大化させてしまったのです。

日本全土を焼き尽くした第二次世界大戦が起きたのは、世界恐慌や政府内の派閥争いに端を発する社会不安からです。
昭和ならず明治時代から日本があらゆる対外戦争に突入したのは、国家の拡張政策と西欧列強に対する挑戦がありました。
なぜ日本が西欧化し始めたかを思い起こせば、諸外国の脅威があったのも事実ですが、江戸幕府が財政と政治で腐敗しきっていたからこそ時代を変える必要があったのです。

その江戸幕府はたびたび政策や経済の不完全さで飢饉や社会不安を引き起こしながらも約300年間、国家の安寧をもたらしました。
その江戸幕府が誕生したのは、長らく戦乱の時代が続いたからです。
日本に戦国時代が訪れたのは、天皇と幕府を中心とした政治的闘争、そして各国大名の縄張り争いです。

なぜそういった戦乱が起きたかと言えば、国土には農地があり、そこに暮らす農民が働くことで税を国に納め、税が国の力となったからです。
富の所有が権力に変換されると、その力を奪うことが富の拡大に繋がります。
領地の拡大は富の拡大であり、力の拡大を意味します。

田畑の耕作は、日本人の生命を長い間繋いできました。しかし農地の所有は富と比例し、その収穫量が権力となっていきました。
古代に各地方を支配した豪族は、その権力で人々をまとめ守る一方、領地を巡ってたびたび各地に争いを引き起こしました。

その元となった田畑は、日本人がこの国土で安定した暮らしをするために、定住し耕作を続けることで豊かさをもたらしてきました。
日本人の祖先がこの国土で稲作を始めたのは、縄文時代から続く自然に翻弄される生き方ではなく、安定して暮らせる環境に変わっていったからです。

こうして「政治」と日本人のあり方を辿っていけば、「富と所有」が全ての争いの根本にあることに気づきます。
しかし、その富も人々が風見鶏のように自然に翻弄される生活を改め、定住し生活環境を整えていく過程で蓄積されたものであり、富があるから不安定な時代も生きていくことができました。

その中で権力者は、各地方や集落を取りまとめ、治安を司り対外交渉を担う責任者でもあり、社会にとっては必要な存在です。
領地の拡大を志すのも一概に権力欲や富への執着とも言い切れず、暴君なだけでは成立しなかったはずです。

この一連の流れを見て、はっきり「どこが悪かった」と言えるでしょうか?

確かに、明治維新から日本人が西欧的価値観に染まり始め、徐々に日本人らしさを失っていったのもあるでしょう。
しかし外国勢力の脅威があったのも事実であり、弱体化した幕府に日本は守れなかったであろうことも事実です。

それでは、弥生時代に日本人の祖先が稲作を始めなければ良かったのかと言うと、日本人が定住することで繁栄の礎とし、縄文時代のように自然に左右される時代では子孫も繁栄しなかったでしょう。
ただ不安定な生活であったとしても、縄文時代が1万6000年は続いたのも事実です。

稲作が始まって3000年足らずの日本で、ここまで争いや混乱が絶えない歴史が続いてきました。
しかし、その何倍もの悠久の時を「縄文時代」は刻んできたのです。
私たちは、何か大事なものを見落としてはいないでしょうか?

青森県の三内丸山遺跡からは、新潟県の糸魚川から採取された翡翠が出土しています。
他にも土器や装飾品は、中国の遼河文明の影響も見られるそうです。
ロシアのウラジオストクからは、出雲産の黒曜石が発掘されており、縄文時代には日本海沿岸が全て交易路だった可能性が高いのです。

その時代に通貨はおろか、文字も存在しなかったでしょう。
ではどうやってこれだけの流通が可能であったかと言うと、お互いに等価交換を行ってきたからです。

つまり、物々交換をする取引が行われ、そのレートは互いの必要度合いに応じて決まったでしょう。
その交換をより客観的に、公平なルールにするために持ち込んだ概念が「通貨」でした。
通貨、即ちお金はそれ自体は手段に過ぎず、主体は等価交換であって、要は欲しいものが手に入れば通貨は必要なプロセスではなかったはずです。

しかしいつしか「お金」という仕組みが一人歩きして、「富」と結びつくことで「力」となり、人々が資本や富裕層の権力によって使役されるようになりました。
私たちが本当に顧みなければならないのは、「お金」という手段に過ぎないものを目的化し、そのために自身の幸福や国家の安寧を犠牲にしてきたことではないでしょうか?

だからこそ、「犯人探し」なんてのは意味がないのです。

陰謀論的に、特定の少数集団が国家を裏で操り、金融と政治と戦争を牛耳って今の世界を作り出したことが事実だとしても、それを打倒するのが完全な解決ではないはずです。
少なくとも、「お金」というプロセスに人生の選択を委ねない、という決断は自分自身でできることです。
その主体性において、巨大権力に支配された「お金」もまた手段にしか過ぎないのです。

人間が「資本」に執着し始めたのも、近い将来に備えての「蓄え」が即ち「富」となり、その豊かさを持った人は安寧を得て幸福を得られたからです。
蓄えも富も、人間が「所有」を志すのは、生きる上で本質的な権利であり、誰も咎めることができないものです。
しかし、過剰に信仰される「資本」の背後には、あらゆる欲望を実現する「お金」の万能さに心奪われた人々が、その機能のために全てを目的化した結果、世界を「お金」と「暴力」の世界にしてしまったのです。

ただお金はやはり手段に過ぎず、目的があれば手段は選ぶことができるものです。
これまでの社会に起こった問題は、「お金」という概念を巡って引き起こされた問題であり、その認識が正しくなかったことにあります。
つまり、全ては私たち一人ひとりの思想であり価値観であり、生き方の問題だったのです。
それを無視して、世に原因を探して諸悪の根源を見つけ、叩き潰そうとしたところで何も変わらなかったのは当然と言えるのではないでしょうか。

私たちが今、安寧を取り戻し、この国に本来の「日本」を取り戻すには、まず行動よりも先に「お金」以外に目的を定め、自分の生き方を変えていくことなのだと思います。

人間は、世の中や環境が変われば自分も変われると錯覚しがちです。
しかし、自分が変わろうとしなければ環境や時代の変化は煩わしいだけであり、自分の意志が伴わなければ変化も受け入れられません。
ゆえに、私たちがまず最初に見直さなければならないのは「自分自身」です。

まずそこから始めなければ、何も変えることはできないでしょう。
日本を良くする前に自分が変わるところから始めなければ、日本を良くすることはできません。

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なぜ「禍事」が起こるか

楽太郎です。

そろそろ世も煮詰まりきった感はありますが、まだまだこれまで通りのやり方を貫く人々も多いようです。
私は私のやるべきことをやり生きる術を得て、世に貢献していこうという気持ちしかありません。
ゆえに、世の中がどうなっても私のやることは変わりませんし、今更世の人々にどうなって欲しいということもありません。

以前は、悪辣なやり方があまりに横行し、それに気づかず助長する人々、力に怯えて黙認する人々、その無抵抗を良いことに好き勝手する人々、そう言った世の風潮に対して抵抗してきました。
しかし恐ろしいほど共感する人は少なく、どの言葉も足元を掬われて貶されるしかありませんでした。

正義感から来る絶望は、人間社会に対する失望となり、この状況を人間が変えるつもりもないことを理解してしまいました。
だからこそ、この混沌を正常心で生き抜くために、私はスピリチュアルな世界を信じ、神仏にすがる道を選択しました。

「神様なら、この狂った世界を救ってくださる」と信じてここまでやってきました。

私の生業としていたクリエイティブの分野は、コンテンツの過剰な商業化と生成AIの普及によって完全に息ができる状態ではなくなってしまいました。
何十年もキャリアを積んだプロの作品より、廉価で大量生産されるAI生成物の方を、消費者は受け入れるようになってしまったからです。

この風潮に絶望しながら抗い、半ば意地になりながら創作を続けてきました。
しかし、手を止めて少し冷静に考えると、AIが人間の技術や才能を代替し始め、それを受け入れる人が増えたことにも何か意味があるのではないか、と思うようになりました。

自分にとって「最悪」だと思う状況が、わざと最悪の状況に導かれるプロセスが働いているとしたら、最悪な状況にこそ意味があるのかもしれません。

「禍事」が起こるのは、禍事によって世に修正が図られる一つの段階にしか過ぎません。
つまり、「禍事」という迷惑な事象が起きるからこそ、そこから学び解決しようと頭を巡らせ、それを乗り越えた世界によって浄化されるのです。

「禍」という漢字は、古代において卜骨によって占う時、厄災が神の意志で起こることを示しています。
そこにおいては、占卜の結果は人の意思ではどうにもならず、ゆえに神によって引き起こされるものだとされました。

この漢字に「マガ」という言葉を日本人が当てたのは、骨同士の繋がる関節が「曲がる」からです。
世の道理が曲がったことで禍事が起こるとすれば、それは神の意志であり人間は耐えることしかできません。
しかし、「曲げた」のは人間がどこかで曲げる力を加えたからであり、全てが究極的には神の意志であるとしても、人間が自分の手で曲げたことには変わりないのです。

この世界が狂うことで、悪夢のような「禍事」が起こるのは、単に災厄が降りかかっているわけではなく、その原因をどこかで私たちが作り出したからです。
その原因を他人のせいにしたいのが人間ですが、落ち着いて胸に手を当てたら、自分にもその原因に心当たりはないでしょうか。

私は長い間、仕事として創作を続けてきましたが、その土壌には「拝金主義」がありました。
作家は社会的に成功するために、人気を取り注目される方法を模索し、人々の評価や顔色を常に意識してきました。
そうして評価されなければ「意味がない」と割り切り、人の流れる方向に合わせることで成功を手にしようとしてきました。

しかし本来、創作とは自己実現でもあり、それ以上に内的表現と共感のために存在するものだったはずです。
それが他者評価として数字や収益に可視化された時、創作は商業的手段としての意味合いを強めてしまいました。

そうして「精神的表現」と「商業的価値」を分離させた結果、商業化しきった文化は最終的に人間の手を離れ、「AIがあれば人間はいらない」という感覚までもたらすようになってしまいました。
その流れに、私自身が加担してこなかったと言えるのか?
今、自分自身の胸に手を当てて考えています。

今の現実が私の目から「悪に支配された世界」に見えたとしても、その現象が自分に気づきを与えるために引き起こされたものだとしたら?

「禍事」が神の業であろうと人間の過ちであろうと、その出来事と向き合い学ぶことこそが禍事の真の意味であり、その解決に尽力することが禍事を消し去り、世をより良きものにする働きに変えることができます。
「禍事」は決して悪ではなく、悪を知らせるためのシグナルであり、実際に悪は存在せず、曲がったり真っ直ぐになるだけの過程の一部に過ぎないのかもしれません。

あらゆる災厄も悪事も、それ自体が人間からは邪悪で誤謬に満ちたものに見えたとしても、その間違いも一つの正しさであり、間違いを知り学び修正する一連の克服にこそ、本当の「正しさ」があるのではないでしょうか。

だから、「世の中は狂っている」「もうこの世はおしまいだ」と言っているうちは、この現象の一つの側面しか見ていないことになります。
その狂いも間違いも、正しさへ導くための一つの過程なのだとしたら、逃げずに受け止めるべきなのです。

この世界の醜さを憎み、「根こそぎ悪を葬りたい」と思う気持ちもわかります。
しかし、自らの一方的な正義で悪を殲滅させたところで、その行いに後悔や反省はあっても、学びや克服は存在しないでしょう。

悪は「悪」というこの世の摂理において正しい行いをし、正しさとはその断罪ではなく悪からの学びと修正にこそあるのだと思います。
悪はその破滅的なあり方ゆえに、永く存続し続けることが不可能です。
搾取と抑圧を繰り返すことで、不満や反感は募る一方、搾り取れるものはいずれ枯渇するからです。

その自滅も摂理のうちとは言え、その役割を終わらせるには「学びを終えた人々」の働きがなくてはならないのです。
そして、もう二度と同じ過ちを繰り返さないために、教訓を残していくこともまた学びの意味でもあるのでしょう。

だから、この世の中の醜悪さに目鯨を立て、一つ一つに反感を覚えていくことを、私はやめました。
世の中が悪いのは私にも原因があり、その罪滅ぼしはこの困難から学び、より良い世にしていくことです。

ただ、世の中は「正義側の悪」と「悪側の正義」の間で、共喰いに近い凄惨さを見せていくことでしょう。
私たちがするべきなのはその争いを止めることではなく、学び乗り越えていくことです。

罪を憎んで人を憎まずとは言いますが、罪も憎まず人も憎まないのが、徳の高い正義というものだと思います。

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神統試論【ニ】邪馬台国論・後編


楽太郎です。

前回、「神統試論・一」において日本列島回転説に基づき、邪馬台国畿内説について語りました。
3世紀に西晋で書かれた魏志倭人伝を元に、古代の発音と当時の地政学から割り出した地名から「邪馬台国」の位置を推察しました。
そこでは「邪馬国」と「邪馬台国」は相関関係が曖昧ながらも、奈良盆地周辺から京都、近江付近にあった集落、そして「邪馬台国」が伊勢遺跡であった可能性について論じました。

記事をまとめるために全体的に駆け足にならざるを得なかったのですが、厳密な検討は「試論」では省略せざるを得ないと思います。
従って結論だけを書いていくことになりますので、ご容赦頂きたいです。

さて今回は、「上代日本語」の発音から魏志倭人伝を紐解いていこうと思います。
魏志倭人伝は倭人の発音を当時の中国語話者が聞き取り、漢字に変換した言葉が使われています。
弥生時代後期の日本語は日琉祖語と呼ばれ、現在の日本語とはかなり発音が異なったとされています。

当時の発音から邪馬台国の女王「卑弥呼」に当てはめると、「ヒミホ」に近いとされています。

「卑弥呼」の読み

かなり古いサイトなので一応引用しておくと、上古音のリストから「卑弥呼」の発音を読み解くとこうなるそうです。

pieg pie pi ...pəi ヒ甲
mier mie mi mi ミ甲
hag ho hu hu ホ、でしょう
上古音なら、pieg mier hag
中古音なら、pie mie ho

この記事では、「ヒミホ」に比定できる人物を「記紀」に求めた時、「御穂津姫命」に当たるのではないか、という考察がありますが興味深いです。
これまで「日巫女」と解釈されてきた卑弥呼の名は、「ヒミホ」を漢字に当てた場合に意味合いとしては成立しなくなります。
仮に「日彌穂」と当て字される時、どことなく九州系の官名に近い名になる気がします。
私は個人的に「比売穂」だと思っているのですが、それを述べるのは後日にしたいと思います。

魏志倭人伝を「上古日本語」から読み解くと、五万個の集落とされた「投馬国」は、「おどま」という発音だった可能性があるとされています。
前回、投馬国を「出雲」に比定しましたが、「おどま」と「いずも」の発言としての近似性も一考に値します。
さて、魏志倭人伝の中で「邪馬台国」とする記述に以下の文があります。

「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸」

つまり邪馬台国には「伊支馬」「彌馬升」「彌馬獲支」「奴佳鞮」の四人の官がいるとされます。
この「次」というのが序列なのか、代替りを意味しているのかは不明ですが、歴代天皇の和風諡号と対比できるという説があります。

「伊支馬」を「いきま」と呼ぶならば、第十一代垂仁天皇の和風諡号は「活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)」であり、「いきま」とは発音が被る部分があります。

卑弥呼のいた2世紀後半は、天皇制ではなく「ヒメヒコ制」と呼ばれる女性祭祀長と男性大王を二柱とした政治体制であったと思われます。
卑弥呼に夫はなく、弟が女王を支えていたとされており、「伊支馬」という官が男性大王を指し、その名が垂仁天皇の和風諡号に残された可能性もあります。

では「彌馬升」ですが、「彌馬升(みます)は第十代崇神天皇の和風諡号が「御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)」であり、「みます」と近い発音が見られます。

「彌馬獲支」の「獲」をどう読むかと言えば、埼玉県の古墳から出土した稲荷山鉄剣銘文に「獲加多支鹵(わかたける)大王」とあり、「獲」は「わ」と呼ぶことがわかっています。
従って「みまわき」と読めるのですが、この「わき」を「ワケ」と変換すれば、第十二代景行天皇の和風諡号が「オシロワケ(大足彦忍代別)」、第十五代応神天皇が「ホムダワケ(誉田別、凡牟都和希)」のように、「ワキ(ワケ)」という名が「姓」であったか、その元になった可能性があります。

最後に「奴佳鞮(なかた)」ですが、近い発音に「額田(ぬかた)」があり、飛鳥時代の天武天皇の妃だった「額田王」を連想させます。
額田王は皇族の女性とされ、「采女・巫女」だったのではという説もあります。
「額田」姓に近い姓には朝廷の祭祀を取り仕切った「中臣氏」があり、「奴佳鞮」も祭祀関係の重要人物だった可能性があります。

これらの官は、王ではあるかもしれないが、「女王」ではないという点が特筆すべきだと思います。
「彌馬升」が第十代崇神天皇、「伊支馬」が第十一代垂仁天皇、また「彌馬獲支」「奴佳鞮」の四人が女王卑弥呼に仕えていたとすれば、天皇家の系図にも関係するかもしれません。

「ヒメヒコ制」における「比売(姫)」は、祭祀を司る巫女であったと言います。
古くは縄文時代以前の男女分業制に端を発し、男性が主に狩猟採集、女性が家事や子育てを担当し、それぞれの集団が男性長、女性長を立てたことに由来するとされます。
後に男性長が政治を担当し、女性長が占術や祭祀を執り行ったという説があります。

ヒメヒコ制における巫女は叔母から姪に役割が継承されたとされ、なぜ巫女が婚姻関係を結び子女を継がせるシステムではなかったのかが重要です。
男性長と女性長が夫婦となり子息が生まれれば、どうしても両者の子息が権威を持ってしまいます。
従ってヒメヒコ制においてヒメとヒコは兄弟、あるいは近親者であるケースが多く、ヒメが結婚して子を儲けたとしても、その子もまたヒメヒコ制において分業的政治権を有したはずです。
また巫女は呪術的才能が必要だったこともあり、その兼ね合いもあって独身であることを尊ばれたのかもしれません。

従って卑弥呼に夫がいたかは図りかねますが、独身であったことは理に叶っていると言えます。
卑弥呼の死後、男性王が立ちしばらくの混乱の後に13歳の台与が女王となりますが、卑弥呼が死ぬ間際に子息がいれば後継者はすぐに見つかったはずです。
あるいは死期が予測できるとしたら、すぐにでも後継者は立てられたでしょう。
しかし年齢的に相応しいとは思えない少女が女王に選出される経緯を考えると、卑弥呼に子はいなかったか、少なくとも女性の後継者はいなかったと考えて良いと思います。

私は個人的に魏志倭人伝の人名の「伊支馬」から「市杵島姫命」、「台与」から「豊玉姫命」を連想してしまうのですが、第十一代垂仁天皇が卑弥呼だとする説も気になっており、この考察は後日進めたいと思います。

さて、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の官名も上古音で読み解くと面白いことになってきますが、邪馬台国が畿内にあったという説に基づいて話を進めます。

邪馬台国畿内説にとってネックとなるのは、文明度の低い出土品の多さです。
魏志倭人伝には、邪馬台国は「狗奴国」と戦争をしていたと書かれており、弥生時代後期にはすでに鉄が流通していたことから、戦争の最前線に最先端兵器である鉄器を使用しなくてはおかしい、という話になります。

現に、島根県の荒神谷遺跡では大量の銅剣が打ち捨てられており、鉄器はかなり流通していたと思われます。
当時は対馬を経由して宗像、出雲と通り丹後に至る鉄の日本海交易ルートが確立されていました。
しかし、奈良盆地近辺どころか、畿内の遺跡からはほとんど鉄剣や鉄鏃が発見されていません。
土器としては東海地方の系統が多く、鉄を多く所有していた九州勢力とのバランスを考えると、近畿地方は戦争をするには長閑すぎるのです。

しかし、この時期の日本にはまだ鉄の精錬技術が乏しく、朝鮮半島から鉄はインゴットで輸入され、主にその鍛造・鍛造だけを行っていました。
鉄は青銅に比べて強固ですが比較的希少なため、主に鍬や鋤などの農機具に用いられたと考えられています。
希少な鉄を使えるのは全国的に流通量の多かった北九州に顕著で、特に福岡県から熊本県にかけて鉄系武器の出土数が目立ちます。

魏志倭人伝には「倭国大乱」の件があり、佐賀県三津永田遺跡から発掘された古代の他殺遺体からは、鉄鏃が撃ち込まれた状態で発見されています。
島根県の青谷上寺地遺跡では、100名ほどのバラバラ遺体が発見され、大量虐殺の痕跡である可能性が指摘されています。
このように鑑みると、動乱の気配が強いのは北九州を起点に四国、中国地方で、近畿に至って唐古・鍵遺跡が高台に建造されている以外は特に戦乱の空気を感じません。

「倭国大乱」をベースに考えると、この戦争状態が女王卑弥呼の即位によって沈静化する以上、邪馬台国がこれらの武力を押さえつけるのは政治力で何とかなるのか、それにはやはり武力が必要であり故に当時最強だった北九州勢力こそ邪馬台国だったのでは、という話になります。

ただ、この説は「祭祀的権威で統治が完成する」というシステムを疑問視し、「鉄器を使う勢力こそが当時最強だった」という考えに基づくはずです。
では、弥生時代後期の戦争がどのような形だったのかを見ていきたいと思います。

確かに当時、青銅はどちらかと言えば祭祀に用いられ、武器として使用するには脆く、鉄剣とかち合えば忽ち折れてしまったでしょう。
ただ剣とは近接武器であり、半径2メートル以内に同じ近接武器を持った敵がいなくては役に立ちません。
戦国時代の集団戦を考えてみればわかりますが、槍や矛などリーチの長い武器で敵を抑え込めれば、刀を持った兵は近づけなかったのです。

槍や矛に付属する鏃は、突き刺したり引っ掛ける程度なら青銅でも十分な威力だったはずです。
戦国時代の槍は、ほぼ「叩く」攻撃に近かったと言われ、長竿の遠心力で簡単に敵を倒せたでしょう。

鉄剣と槍の近距離戦を前にして、遠距離から弓矢で敵を近づかせなければ接近戦は避けられます。
魏志倭人伝に「倭人は上長下短の弓を使う」とあり、実際に弥生時代から和弓の原型が見られます。
和弓は大型の弓で、長距離かつ威力の強い弓として知られていますが、どうやら当時の造弓技術では人を殺傷するにはある比較的近距離(中距離)である必要があったようです。

しかし矢に使う鏃は、鉄製なら威力も高かったかもしれませんが希少であり、使い捨てる鏃に使うには贅沢かもしれません。
仮に矢先が石でも、相手を仕留められるなら大量消費できる石鏃で構わなかったはずです。

つまり、鉄剣を持って挑んだとしても、青銅製矛、石鏃製弓矢で十分に対抗し得たのではないでしょうか。
従って、鉄器が戦況を大きく左右したのは剣を撃ち合うような乱戦においてであり、集団戦闘としては中長距離戦で決着が着くならば問題なかったはずです。
古墳時代後期においても、九州中部の熊襲が最先端の武装集団とは言えず、それでもヤマト王権の平定を手こずらせたということは、鉄器を持ってしても山野のゲリラ戦闘にはなかなか太刀打ちできなかったかもしれません。

ゆえに鉄系武器が九州、中部地方から夥しく出土するからと言って、それが即戦力差に繋がるとは言えない可能性があります。
現に、青銅器の出土量と石鏃の出土数は近畿地方においても引けを取りません。
かつて大和朝廷を悩ませた東北地方の蝦夷も、アイヌ由来のトリカブト系毒矢を使用し、朝廷側を苦戦させたと言います。

ただし、畿内では特に殺傷されたと思われる人骨の出土数が少なく、やはり戦闘で死傷した事例はあまりなかったのではと言われています。
弥生時代の古代和弓は東大寺正倉院に納められた平安時代の和弓に比べて洗練されておらず、やはり中距離戦で使用することが前提であり、必ずしも殺傷率が高かったとは言えないそうです。

この時代の集団戦闘は主に防衛戦であり、石鏃の弓矢に対して「置き楯」と呼ばれるバリケードに隠れながら矢を射出した形式の戦闘が多く、その場合は殲滅戦のようなものではなく、せいぜい怪我人を出して手打ちにする、という儀礼戦の様相であったとも考えられます。
つまり、倭国大乱では残虐極まる殺戮もあった一方、通常の集団戦闘では石矢を撃ち合うような模擬戦に近い雰囲気があったようです。

考古学的に考えて、畿内に仮定した邪馬台国が「狗奴国」と戦争をするならば、鉄器ではなく石器を利用した緩い戦闘であった可能性があります。
では、邪馬台国に敵対した「狗奴国」とはどう言った国だったのでしょうか。

魏志倭人伝には、邪馬台国の南に狗奴国があるとされています。前回の日本列島回転説で考えれば、「南」とは「東」になります。
前回、例に挙げた「日本扶桑国之図」ですが、別の古地図である「行基図」には東日本が「毛国」と書かれているものがあります。
「毛国」とはかつて上野国、下野国と言われた群馬県と長野県を跨る国だったとされます。
倭の五王の武が宋に送った上表文には、「東の毛人五十五国を征す」とあり、これは日本アルプスの東側にあった「毛野国」を指します。

ヤマトタケルが熊曾建を討ちに東国征討を行なった際、太平洋沿いの東海道を東進します。
毛国は実際、大和より東国の未知の諸国を指しており、その地は東海道が三関に繋がるまでは倭国の勢力範囲下になかったと考えられます。
実は西日本を支配する邪馬台国にとって、東海以東はほぼ未知の領域であり、また関東の文化圏に統一性があることから、この時代には西日本と東日本の勢力が東西に分断されていた可能性もあります。

それゆえ、古代では三関から東側の「まつろわぬ勢力」を一概に「毛の国」と総称していたのではないでしょうか。
この「毛」というのは、古代日本語の「外(け)」であり、「外の者たち」を指した可能性もあります。
「蝦夷」とは東北地方にいた豪族の阿弖流爲などを連想しますが、関東にいたまつろわぬ勢力もまた「蝦夷」と呼ばれていました。

栃木県日立市にある大甕神社は、甕星香香背男と建葉槌命を主祭神としています。
甕星香香背男(天津甕星)は葦原中国平定に最後まで抵抗した神として知られ、同様の話は建御雷命と建御名方命にも通じます。
そして神武東征と長脛彦との対決、ヤマトタケルが東国征討した熊襲の長の話とも類似しており、甕星香香背男が支配した地は千葉県から福島県までの範囲であったという説もあります。

神道の「大祓詞」には、以下の文があります。

「四方の国中と 大倭日高見の国を安国と定め奉りて」

この「四方の国中」は崇神天皇が北陸、東海、西道、丹波に派遣した四道将軍を連想しますが、この「日高見の国」とは大和から見て東国の蝦夷が済む全域を指したとされています。
これを鑑みるに、やはり「東のまつろわぬ国々=日高見の国」こそ、「毛の国=狗奴国」だったのではないでしょうか。

「日立」とは日の出のことで、「日高」と同意であるとされ、旧漢字の「常陸(ヒタチ)」は、「日高見道(ヒタカミミチ)」の転訛とも考えられてます。
日本書紀によれば、饒速日命が大和に辿り着いた際、この地を「虚空見日本国」と称したそうです。
かつて九州地方にあった「日向」が奈良に移ると、奈良の「日向」から「日の出る方角」の空を見ると、そこには「日高」があります。
つまりヤマト王権が東征するとしたら、最終的に常陸に向かうのは必然であるように思います。

前回、魏志倭人伝にある「不呼国」という国を「不破関」のある岐阜県不破郡周辺に比定しました。
不破関は関ヶ原町にあり、古来から西側勢力と東側勢力の決戦地とされてきました。
古代には三関を境に小競り合いが各地で起き、その緊張状態を「戦争」と表現したのかもしれません。

関ヶ原町のある不破郡には中村平野が存在します。この地域には「不破遺跡」があり、そこからは土器やガラス製品などが発掘されており、農業の痕跡も見られます。
もし軍事衝突が東海以東で置きていたとすれば、邪馬台国があったと私が比定する伊勢遺跡が非武装地帯に近いのも、畿内、奈良周辺が軍事的に穏やかなのも納得できる気がします。

東北地方の平定は平安時代の征夷大将軍、坂上田村麻呂の登場まで待たなくてはなりません。
魏志倭人伝の時代は元より、「記紀」成立の奈良時代においても日本列島は未だ、王権によって統一されてはいませんでした。

古代において日本は、細かい単位の国々か集落が幾つもあり、それぞれが分散的な自治を行なっていたと考えられます。
そこでの小競り合いは石器を中心とした半殺傷兵器で、殲滅戦を想定したものではなかったかもしれません。

古代日本の戦争形態が儀礼的・模擬的戦闘であったとしたら、平和的解決が象徴的な理由、特に祭祀による宗教的統一というのは理に叶っているように思います。
ただ卑弥呼擁立以前は、北九州を中心とした動乱があったのも事実でしょう。
それが何らかの理由で治まり、その成功事例を次代女王の台与に引き継ぎ、後の時代には東国もヤマト王権に組み込まれていきました。

この歴史的プロセスこそ、「記紀」に神話として書かれた出来事のプロトタイプだったのではないか、と考えます。
次回からは、古代日本の地政学から「記紀」の歴史を紐解いていきたいと思います。

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神様のところへ

楽太郎です。

このブログに書くつもりはなかったのですが、先日骨折をしました。
街を歩いていたところ、歩道と地面の間に深い溝があり、そこに足を取られて持っていかれました。
草が伸びていたので、一目ではわからない溝でした。

このことに関して、自分でも深刻に考えませんでしたし、無関心と言えるくらいの心境でした。
しかし骨にヒビが入ったのも事実で、膝をついたためにそこも酷い状態になりました。

ここ数日、動けないこともありずっと大人しくせざるを得なかったのですが、自分を冷静に見つめる時間にはなりました。
なぜこのタイミングで大怪我したのかも、冷静になって考えることができました。

この災難は、原因として邪気とか人災とか、色々なもののせいにはできるかもしれませんが、最終的に災難が降り掛かることを私に許されたのは神様です。
つまり全体的な意味合いがあり、その中で様々な理由があるにすぎません。
だから、何かのせいにするうちは真の意味には辿り着けないのです。

私はこの時、家族と歩いていて少し親族について良くないことを口走っていました。
こういう軽口は私の性格なんですが、その次の瞬間には溝に足を持って行かれていました。
このタイミングの良さから考えると、どう考えても「罰」としか言いようがありませんでした。

また先日、母の愚痴に合わせて父を揶揄する言葉を吐いたところ、意味もなく咽せてしばらく喋ることができなくなりました。
最近、人のことを悪く言ったり神様について悪く考える時ほど、かなりの苦痛を伴う災難に見舞われます。

これが顕著に起こるようになったのはこの数週間で、どうやら私は言動や思考に対して露骨に神様の検閲が入るようになってしまったようなのです。
だから、軽率な悪口や軽口も「罰」の対象になってしまうのだと思います。
人として不自由極まりない状況に追い込まれたように見えて、実はそれだけ神様から強い導きが得られるようになった、とも言えます。

おそらく、私はもう「道を踏み外すことが許されなくなった」のだと思います。

それだけ神様から目をかけて頂いているということですが、これに自覚なく奔放に振る舞えば、骨折なんかでは済まない仕置きが与えられるということです。
人間からしてみれば、これは呪いのようでもあり「悲惨」だと感じるかもしれませんが、神に近づこうとする人間ならこれ以上にありがたいことはないかもしれません。

「そんなことがあるわけがない」と思われるでしょうが、現に私が舐めた真似をすると痛い目に遭う法則が発動し始めたのは事実で、それを気をつける限りは何も起こらないのです。
この現象が私だけに降り掛かっているとしても、それには私固有の事情があるからであり、そこに神様の意志が働いておられるのだとしたら、やはり神の采配なのでしょう。

この怪我をしてから横になっている時間が長く、自分の内面を深く見つめる機会になりました。
いつも、言葉にならない悲しみや抱えていた胸の痛みは、いくら内観してもわからない感情でした。
ただ、最近ようやくその痛みが「孤独感」と繋がっていることに気づきました。

その孤独とは、自分が己の直感に従って行動すればするほど、誰にも理解されない領域に踏み込んでいく予感から生まれるものです。
その直感こそ、天から降りてくるエネルギーであり、インスピレーションという神秘の力です。
それは現実世界においては理不尽で、非合理的に見えてしまうプロセスです。

言葉で一から十まで説明しきれないからこそ、それを自分が行う時、必ずしも人に理解されないことを覚悟しなければなりません。
天からインスピレーションが降ろされる時、私には上しか見えていない状態になります。
上に見えているものを目指せば、より孤独になるのも肌で感じてしまうのです。
横や下を見て、人に合わせられなくなることも同時に感じるからです。
この感覚と向き合った時に感じるのが孤独感で、その切なさや不安が私の心を締めつけるのです。
けれど、私にはいつも胸の奥から声が聞こえていました。

神様のところへ来なさい」と。

直感に従って生きること、神の声に従って生きることは、必ずしも人の意見や価値観に合わせることではないかもしれません。
もしかすると、この目に見える世界にはいずれ共感できる人間がいなくなる可能性すらあります。
目に見える世界で孤独になっていく不安。ただ、その不安を手放していくのも神の道だとしたら、この孤独こそが正しい道なのでしょう。

「真」とは何かを考えます。

「真(ま)」とは「天(ま)」であり、この世界が映し世だとしたら真実の世界は天にあります。
「誠」とは「天事(まこと)」であり、天の意志を地(物事)に降ろすことです。
そこに偽りがあれば、誠とは呼べません。

「真」を知るには「学ぶ」必要がありますが、学びとは「天做(まなら)う」ことであり、天の意志を実践し、習熟していくことです。
「真」とは「天」であるのだから、慧眼を得て真実を見るとは、天をこの目で見ることでもあります。

これこそが「神の目」であり、神の目で世を見て生きていく限り、人間の目線には合わせられないことを悟らなければなりません。
その道はおそらく、誰にも理解されず顧みられない生き方になるでしょう。
その不安や葛藤は、確かに人間である以上は苦しみとなるはずです。

しかし、なぜその課題が私の前に現れたのかと言えば、これからの時代は人間が神の次元へ踏み出していくことが可能になったからだと思います。
つまり、誰もが神に近づくことができる時代になったのです。

それがこの世界に起きた、次元上昇の真の意味なのではないでしょうか。
人が生きながら神になる世界は、これまでの世界の次元では特定の人を除き、ほぼ不可能だったでしょう。
地球の次元が天界に近づいたことで、人間が手を伸ばせば神様と手を繋げる時代が来たのかもしれません。

神に近づく道とは、即ち「徳を積むこと」です。
この世界が沈んでいけば行くほど、「徳」は積みやすくなり徳の価値も相対的に上がるでしょう。
もし人類がこのまま存続し、どうしようもなく汚された地球だけが残されたらどうなるでしょうか。

汚物が堆積したエベレスト、海底に沈むマイクロプラスチック、ゴミが果てしなく漂う海域、誰も手をつけられないスペースデブリ、放射能を垂れ流す廃原発炉、重金属汚染とソーラーパネルの山、誰も住むことができない廃墟ビル群。
今の世界が崩壊したら放置されるであろう負の遺産は、一体誰がどうしていくのでしょうか。

正直、それを元の地球に戻していくのは誰の得にもならないことでしょう。
しかし、おそらく人類はこれから数百年かけて、その後始末をしていくことになるはずです。
それは必ずしも、得にはならないかもしれません。
ただ神の求めに応じ、地球のため世界のために働いていく善業は、己の徳を高めていくチャンスです。

得はしないけれど、徳になることこそ誰もやってこなかった行いのはずです。

人の役に立たないことはやってもしょうがないと言われるのは、仕方のないことです。
しかし真の徳、「陰徳」の価値はなかなか人間にはわからないかもしれません。
陰徳が何なのか、それすら簡単には理解されないことでしょう。
陰徳の修行を受け入れられる人間はごく僅かだからこそ、私にその機会が与えられたことは誇りに思っていいのかもしれません。

誰からも「間違っている」と言われたとしても、自分の魂と繋がって得られた意志は、その人にとってそれ以上に正しい道はないのだと思います。
「間違い」もまた「正しさ」であり、そこで学びを得ることが真の正しさなのでしょう。
誰がどう感じたとしても、それぞれの学びこそが宿命であり、その宿命こそが魂に与えられた役割なのだと思います。

私には、こういうメッセージが聞こえています。

「それこそが本当の神の道。
あなたはその道を歩むことができる。
あなたは、この道を歩むために生まれてきた。」

これ以上ないほどに人として持つべきものを手放し、ここまで来て人間として生きることをやめ、神の道を歩みはじめる。
それは人間として生まれてきて、人間として幸せになることより、神に与えられた魂としてより誇るべき喜びに至れるのだとしたら、この世界に生まれてきた冥利に尽きるというものです。

スピリチュアルの世界では、次元上昇したことで5次元の域まで魂を向上させれば、来世には神の住まう6次元に上がることができるそうです。
どうやら、神様の世界にも「結婚」というものがあるらしいことを最近知りました。

私が今世、何をするために生まれてきたのか、少しずつ見えてきた気がします。

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神統試論【一】邪馬台国論・前編

楽太郎です。

これから数回に渡り、神名の系統を紐解くための論考を書いていきたいと思います。
前置きとして、「神統試論・序」では日本の神社の伝承の礎となった「日本書紀」「古事記」は、飛鳥時代の政治的混乱を背景に天皇家を中心として、各豪族を取りまとめるために氏族の祖神を神話に組み込む事業を行ったのではないか、という説を取り上げました。

「記紀」は「日本書紀」と「古事記」では微妙に違う内容のことも書かれていたり、私情に近い偏った表現が加えられていたり、神道的書物や歴史書としては不自然な部分もあります。
特徴的なのは、似た図式と意味合いを持った神格が何度も違う状況で登場し、それぞれに同じ解釈をしようとすると矛盾が生じる点です。
そして、記紀の記述と歴史的事実を照らし合わせると、わざと言及を避けられている部分があります。

その例として、「記紀」には東日本の記述が極端に少ないことが挙げられます。
日本最大の山岳である「富士山」に関する記述が記紀には見られず、またかつて「蝦夷」と呼ばれた東北地方に関する記述はほとんどありません。

ただ東北地方において記述が少ないのは当然で、日本書紀の成立は奈良時代の養老4年(西暦720年)ですが、朝廷が東北制定のために大野東人が多賀城を置いたのは神亀元年(724年)です。
言ってみれば、日本書紀が書かれた時点では日本列島が完全に朝廷の統制下には置かれていなかったのです。

つまり奈良時代には地方豪族の勢力が依然強く、大和朝廷はその軋轢の渦中にいたのでしょう。
そのため、政治的な思惑から単に歴史的事実と正論だけを列挙するわけには行かず、様々な配慮と緻密な計算の上に書かれた書物であると言っても過言ではありません。
ただ、これらの書物の記述には不自然な点があるにしても、事実をボカしながらも事実はきちんと記載しているように思えてなりません。

「神統試論」を書くに当たり、神社伝承の礎となったであろう「記紀」の記述は各地方氏族の祖神信仰に基づいていることに着目しました。
伊勢神宮の主祭神「天照大御神」を最高神とする国家神道は、歴史において重要な意味のあった信仰神、または日本の建国に貢献した先祖を神として祀る宗教文化に根差しているように思います。
各地方豪族の氏神が神話体系に影響していることは、建国神話に関わる古代の「国造」が史実であり、ゆえに歴史的事実が神話化していると考えます。

記紀において、天皇系図の構図は繰り返しに近い類似性があり、時代考証において矛盾することも国学の時代から議論が続けられてきました。
「欠史八代」の実在性に対する疑問視や、「神武天皇・応神天皇・崇神天皇」の同一人物説も、その一部です。

第十二代景行天皇までの十一代は、モデルとなった皇族がある程度脚色されつつ役割分担をしていると私は考えています。
つまり、原型となる実在の大王や皇族関係者がモデルとなり、共通の出来事を元にして意味づけにバリエーションを与え、その文脈が皇族の権威に豪族の血統を紐付け、正統性を再分配する機能を果たしていたのではないか、とする仮説です。

「日本書紀」において、神代記から巻九の垂仁記の間に、系統図でもはっきり読み取れる構図がいくつかあります。
多少ニュアンスは異なりますが、その類似性を大まかに列挙してみたいと思います。

【兄弟共闘】…同一の父を持つ兄弟がそれぞれに役割を持ち、二大勢力として共闘する構図。
・饒速日命と瓊瓊杵命
・海幸彦(火照命)と山幸彦(火遠理命)
・五十瓊敷命と大足彦
・大碓彦と小碓彦 など。

【姉妹同婚】…姉妹が同一男性に嫁ぐが、どちらかの姉妹が後妻になるケースが多い。
・豊玉姫命と玉依姫命
・宗像三女神(市杵島姫命と田心姫命)
・石長姫命と木之花咲耶姫命
・神大市姫命と櫛名田比売姫命 など。

【英雄的討伐】…皇族の系統にある者が地方に遠征して対抗勢力の頭目と戦う話。
・武甕槌神と建御名方命
・熊曾建と倭建命
・長脛彦と神武天皇
・八岐大蛇と素戔嗚命 など。

「記紀」において特に多重が見受けられる構図は以上の三点と思われます。
先に挙げた「欠史八代」などの古代天皇の例だけでなく、これらの図式は元は一つであり、叙述の仕方が異なるだけなのではないか、と私は考えています。
そのニュアンスの差異は各氏族の祖先の系統に割り振られ、豪族の権威を再定義する意味があったのではないでしょうか。

これらの仮説に関しては、後に詳述する機会を設けるつもりです。
このように「記紀」には日本建国にまつわる歴史と皇族の系統が暗喩的に組み込まれており、文脈をそのまま鵜呑みにすると見えてこない部分があります。
それを紐解く時、「日本書紀」以前にまとめられた国史、実際の出来事の伝承が浮かび上がってくるのではないか、と考えています。

記紀以前の日本古代史を考える上で参考になる歴史書が、3世紀末に西晋に遺された「魏志倭人伝」です。
この書物は三国時代の官僚だった陳寿が、魏に残っていた書物や倭人からの聞き取りを元にまとめられたとされています。

未だに古代日本史を巡る「邪馬台国論争」に決着がつかないのは、一重に当時の歴史資料が乏しいからです。
3世紀には日本に文書を取りまとめる術がなく、その後中国大陸の動乱もあって「空白の150年」を挟み、漢字文化の浸透は飛鳥時代を待たなくてはなりません。

「記紀」の歴史書としての信頼性を語る上で、どうしても避けて通れないのは考古学、文化人類学からの古代史へのアプローチであり、また「魏志倭人伝」の文脈的解釈です。
「邪馬台国論争」において、結論が未だにつかない理由として、あらゆる解釈をしたところで文字通りの状況は存立し得ない結果になるからです。
その議論で常に悩みの種となる記述が、以下の三つです。

南至投馬國水行二十日 (南、投馬国に至る。水行して二十日である。)
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 (南、邪馬台国に至る。女王のいる都である。水行して十日、陸路で一月である。)
自郡至女王國 萬二千餘里 (郡より女王国に至るは、一万二千余里である。)

この文脈を素直に日本列島に当てはめると、南国に邪馬台国があったことになってしまいます。
魏志倭人伝の中に「侏儒国」という国の記載があり、これはどうやら沖縄らしいことがわかっています。
ゆえに、侏儒国より南に邪馬台国があるという解釈は成り立ちません。
だからこそ、「南至」の記載を変えたり、里数の記述を変更することで北九州や畿内に邪馬台国があったという説に繋げてきたのです。

つまり魏志倭人伝は、文脈通りに読むと100%どこかに矛盾が生じます。
しかし、これまでの解釈では一つの説を成り立たせるために特定の場所を「誤り」とし、それ以外の部分は「正しい」としてきました。
そこで、「なぜその部分だけ間違えたのか」という部分は完全に憶測の域を出ず、従って水掛け論になってしまう部分でした。

私としても、どこかの部分を訂正しなくては論が成立しないと思います。
ただ通常の文法解釈で100%矛盾が生じるとしたら、全体的には80%ほど全ての記述が誤謬である可能性として考えた方がいいのではないでしょうか。

その上で、私は最も文章校正を行わずに邪馬台国を比定する方法はないかと考え、「日本列島回転説」に行きつきました。

13世紀、奈良時代に書かれた日本最古の列島地図である「日本扶桑国之図」は、日本列島が東を南にし、逆さまに書かれています。
15世紀、李朝に書かれた「混一疆理図」という朝鮮の日本地図も、東を南として書かれています。
この地図上の日本列島の形は、「地図の書き方をわざと変えたのだろう」と言われてきましたが、日本語の原型となる日琉祖語と古代琉球語の系統を鑑みると、「日の出る方角(東)を南」に、「日の沈む方角(西)を北」として捉えていたのではないか、という説から再解釈するのが、俗に言う「邪馬台国90度回転説」です。

古代琉球語において、方角の意味合いは以下となります。
北→西
・西→南
・南→東
・東→北

この説では、「南至」を「東に行く」と読み変えますが、その他の記述はほぼ文脈通りに解釈することができます。
議論の要になりがちな「南至投馬國水行二十日」は、不弥国から見て東に海路を取ることになります。
不弥国は現在の福岡市から宗像市あたりが有力とされています。

当時は帆船ではなかったため手漕ぎ船で日本海沿いを航行すれば、九州邪馬台国説ではやや冗長すぎる二十日という距離感も妥当になるはずです。
その場合、宗像の響灘から出航し、日本海沿岸を通った船が当時最大の交易都市であった「出雲」に至るには、二十日という日程は理に叶っていると言えます。
従って、この説を取れば投馬国は「出雲」ということになります。

それでは、問題の「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」はどう読み解けばいいのでしょうか。
これは投馬国を起点とし、出雲から東に十日ほどで到着する日本海沿岸の港湾都市は若狭湾に臨する「丹後」です。
弥生時代後期から北九州一帯には鉄器が出土しますが、この出土分布図は出雲、丹波、越まで鉄の流通ルートが存在したことを示しています。
海路の終着点を丹後とするなら、徒歩で一月かかるのは近畿地方のどこかになるはずです。

若狭湾を起点にして伊吹山地、鈴鹿山脈、笠置山地、紀伊山地が縦断し、瀬戸内海方面には琵琶湖のある近江盆地と京都盆地、奈良盆地が存在します。
丹後から陸路を取るなら、必然的に氷上回廊を取って河内を経由し、熊野を迂回すると一月かかる先は京都・奈良方面です。
仮に丹後から河内方面に向かい、京都盆地から近江盆地に入れば、条件次第で陸路一月はかかるかもしれません。

弥生時代、人々の交通路は確立されていたにしても、道は整備されておらず獣道に近い山道を歩いたはずです。
江戸時代には東海道も整備されたため、飛脚が一日に100キロ走破したという話もありますが、この時代の交通事情とは訳が違うでしょう。
現代人でも5キロ歩くのは疲れますが、当時の旅人が荷物を持ちながら歩くにしても、一日がかりだったかもしれません。
若狭湾港の丹後から奈良盆地に行くには、最低でも200キロほどはあるでしょうし、一日10キロ換算でも20日はかかります。

このように、「日本列島回転説」に基づくなら、近畿地方は魏志倭人伝の距離感に符合するのです。
ただ、弥生時代後期(2世紀後半)は海抜が現在よりも高かったため、大阪平野の大部分は海でしたし、琵琶湖も若狭湾と繋がる部分も多かったのではないでしょうか。
そのため、古代の地形で往来を考える必要があると思いますが、多少の誤差はあれ「水行十日陸行一月」は畿内のどこかである可能性が高まります。

では、邪馬台国が近畿地方に存在したとして、そこはどこになるのでしょうか。
魏志倭人伝には、「奴国」が二万戸とあります。
現在発見されている遺跡の規模からして、北九州に「二万戸」の集落があったとするのも規模が大きすぎるのではないか、という話があります。

北九州の弥生時代の遺跡では、福岡県に所在する遺跡は糸島市周辺に集中します。この遺跡の中に魏志倭人伝の「伊都国」と比定できる遺構があるのは間違いないと思います。
奴国の「二万戸」に比定できる遺構があるとすれば、福岡県の平原遺跡、三雲南小路遺跡、板付遺跡、野方遺跡が有力候補として挙げられます。
佐賀県の「吉野ヶ里遺跡」が当時としては最大集落であったとされますが、どちらかと言えば「不弥国」に当たるかもしれません。

魏志倭人伝において、「投馬国五万戸」「邪馬台国七万戸」とされていますが、奴国が福岡平野の遺跡郡一帯を指すとしても、それ以上の規模の集落は同時代の九州には存在しないのです。

従って、考古学的事実に基づいて奴国以上の集落を同時代に求めるならば、出雲や近畿地方に比定するのは理に叶っています。
鳥取県の荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡の規模から推測すると、出雲に奴国以上の集落が存在するのは理に叶うように思います。

荒神谷遺跡からは358本の銅剣が同場所から発見されていますが、武人男性一人が銅剣を一本以上所有したとしても、人口比率から鑑みても相当の武装勢力が存在したはずです。
弥生時代後期の武人が200人程度であったとしても、非武装の民間人はその数倍いた計算になります。
仮に五万戸は多目に見積もられていたとしても、当時としては相当な規模と言えます。

古代史研究家の古田武彦氏によれば、ウラジオストクから出土した黒曜石の50%が出雲地方から産出されたものと目されるそうです。
そうではなくても、ロシアの極東地方からは縄文土器が発見されたり、少なくとも縄文時代に青森県の三内丸山遺跡を経由した日本海沿岸の交易ルートは確立されていた可能性が高いようです。

ゆえに、弥生時代後期の鉄の流通ルートと合わせて考えれば、朝鮮半島から対馬、壱岐か宗像を経由して北九州に精錬された鉄が入り、日本海側を中心に鉄の交易拠点として出雲が栄えた可能性もあります。
しかし、古代史を「鉄による勢力図」で解明しようという試みに関しては、私は疑問視しています。
その理由は場を改めて述べますが、繁栄の理由が鉄ではないにしても、出雲地方が日本海交易の中心地であったことは間違いないでしょう。

では「邪馬台国七万戸」とするなら、畿内のどこに比定されるのでしょうか。
邪馬台国畿内説に基づくならば、その最有力となるのは「纏向遺跡」とされます。
しかし、纏向遺跡の規模だけではどう考えても七万戸に達する大都市にはなり得ません。

纏向遺跡のある奈良盆地は、当時盆地中央には湖があり、奈良盆地全てが都市化したとは考えられません。
大阪平野もかつては大部分が海であり、現在の河内は海岸沿いにあったと考えます。
丹後以南の盆地に複数の集落があり、その一帯を「邪馬台国」とするなら七万戸の規模に比定することも可能ですが、そう考えても良いのでしょうか?

そのヒントが、実は魏志倭人伝の中にあります。
その一文はこうです。

「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國
次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國
次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國
次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡」

この冒頭を訳すと、「女王国より以北は、その戸数、道里の略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。」とあります。
ここに列挙されている国々は、女王国の北にあると書かれています。またこの一文の締めくくりは、「ここは女王の境界尽きる所なり。」です。

日本列島回転説に基づくならば、女王国より北は「西」と言い換えます。
つまり、女王の統治が行き届く境界から西は、全て邪馬台国の権力が及ぶ範囲となります。
では境界から逆算してどんな国があるのか見てみましょう。

・斯馬国(しま=志摩(三重県))
・伊邪国(いや=伊予(愛媛県))
・不呼国(ふあ=不破(岐阜県))
・姐奴国(しぬ=信濃(長野県))
・蘇奴国(そぬ=讃岐(香川県))
・呼邑国(あお=近江(滋賀県))
・華奴蘇奴国(かのさの=加佐(丹後・京都にあった郡)
・為吾国(いご=伊賀(三重県))
・躬臣国(こし=越(福井県以北の三越地方))
・巴利国(はり=播磨(兵庫県))
・支惟国(きい=紀伊(和歌山県・三重県))
・烏奴国(うな=宇陀(奈良県))

これらは、独自に調べて比定可能だった地名です。
こうして見ると、九州に同定できる地名以外に、四国や中国、近畿から琵琶湖を挟んで東海付近に至るまでが「女王の治める地」と考えられます。
この不呼が不破関の辺りを示し、信濃までが女王の勢力範囲だとしたら畿内に最大勢力があったと考えても不思議ではありません。

不破関は岐阜県の関ヶ原町にあり、古くから鈴鹿関と共に東海道への入口とされ、以東を「関東」と呼ばれてきました。
つまり、三関を境にして西側に邪馬台国が存在したことはこれらの記述から明らかです。

それがどこかを考える時、上記の一文に「邪馬国」と「奴国」が存在している不思議さがあります。
この「邪馬国」を調べようにも、邪馬台国のことばかり出てきて埒が開きません。
では逆算して、近畿に「邪馬」に近い地名を探したところ、「山門」という小さい地名は数多くありますが、決定的なのは「大和」しかありません。
しかし、古墳時代のヤマト王権が奈良盆地南東にあったのは事実だとしても、魏志倭人伝の書かれた弥生時代後期に「大和」という地名が存在したのでしょうか。

「大和」の言葉の由来には、温和・平和な所を意味する「やわと」という説があります。
「敷(式)島」が大和の枕詞として知られており、「しきしま(磯城島)のやはと」が転訛して「やわと」となり、「大和(やまと)」という地名が残ったとされます。
ということは、「邪馬国」はそのまま「山の国(大和は山に囲まれた盆地)」という意味でも取れますが、邪馬国が「やわ=平和の国」という意味だとしたら、当時から近畿地方には「やわと=大和」が存在したことになります。

「大和」は「倭」と書いて「やまと」とも呼びますが「和」とは穏やかな協調を意味すると共に、その「平和=統治」の象徴こそ「大和」の当て字になったのかもしれません。
「やわ」という言葉は、「柔らか」と同源である可能性があり、大和は「山門(戸)」という意味ではなく、むしろ「柔処」だったのかもしれません。
それこそ、武力統治ではなく祭祀を中心とした平和的統治を行った邪馬台国の伝承に近いのではないでしょうか。

では「邪馬国」が奈良盆地に存在すると仮定して、「奴国」は北九州の奴国と同一であるのか、という問題が浮上します。
北九州の奴国に邪馬台国があるとしても、「次有奴国」は文脈として出てくるのは不自然です。すでに奴国は伊都国と不弥国に挟まれた国として登場しているので、同一国とするのもおかしい気がします。

これには現在も議論が続いていますが、ここでの「奴国」は九州にあった奴国とは同名の異なる国ではないでしょうか。
「日本書紀」において、神武東征の段において大和国を「中州」と呼称されています。
「な=中」であり、中心国としての意味合いを持った国名であった可能性があります。

では九州の奴国は何かと言えば、博多市に「那の津」と「中州」という地名があります。
那の津、那津は福岡市中心部の古い地名とされ、「奴国」に由来することはほぼ間違いないでしょう。
博多市の中州は那珂川と博多川に挟まれた中洲に築かれた都市ですが、江戸時代以前には「中島」という地名であり、「な=中」と呼ばれていた可能性があります。
博多市には「博多遺跡」が存在し、ここは日本最古級の貿易都市だった可能性があります。
ここも福岡市にあり、大和と同名の「奴国」であったのではないかと推察します。

従って「奴国」は倭国の首都であった「邪馬台国」を指し、だとしたら「邪馬国」とは別の場所に邪馬台国があることになります。
では、その邪馬台国はやはり北九州の奴国にあったのでしょうか。
結論から言えば、それも充分考えられます。
ただし、当時の邪馬台国は女王卑弥呼が一千人の従者を従える規模の都市にあり、そこは祭祀と政治を中心とした場所であると考えられ、必ずしも居住や交易を前提としなくても成立します。

漢字における「台=臺」には、「中央集権施設」を意味することもあります。
日本語で「臺」には「うてな」という当て字がつけられ、「高見の台」を意味します。
この漢字の語源を調べてみたところ、古代に祭祀を行う神聖な土地を指し、殷の紂王の「鹿臺」、楚の荘霊の「章華臺」などにもこの字が用いられています。

つまり、「邪馬台」とは「邪馬国の祭祀場」を指し、この祭祀都市から邪馬国を通じて西日本を統治していたのではないか、と考えられます。
その場合、邪馬台は邪馬国の付近にあるとするのが妥当です。

弥生時代後期の奈良盆地の中心に湖が存在したとされていますが、磯城島が盆地の中東部にあるとすれば、最大集落の纏向遺跡は南西になります。
ただ、纏向遺跡は時代的に考えると少し時代が下るため、弥生時代後期には奈良盆地の北側にある唐古・鍵遺や西側の秋津遺跡周辺が栄えていたと考えられます。

ではその頃にあった巨大な祭祀遺跡と言えば、琵琶湖沿岸の南東にある「伊勢遺跡」ではないでしょうか。
この伊勢遺跡は当時にして過去最大の祭祀跡でありながら、突如消滅したと同時期に纏向遺跡が始まります。

この「伊勢遺跡」こそが邪馬台であり、邪馬台を中心にした近江盆地・京都盆地・奈良盆地周辺にあった邪馬国を総称して七万戸の「邪馬台国」としたのではないでしょうか。
そう考えると、人口規模の面では説明がつきます。

この伊勢遺跡に卑弥呼がいたとするなら、卑弥呼が死に男王が立つが纏まらず、13歳の台与が女王となり再び統治が復活した故事も、伊勢遺跡を廃して新女王の政権樹立と同時に纏向に遷都したとも考えられます。
飛鳥時代以降、不吉なことがあるたび朝廷が遷宮した理由も、卑弥呼の死に前例があったからではないか、と仮定しても辻褄が合います。

私の結論としては、魏志倭人伝における邪馬台国は琵琶湖南東の伊勢遺跡であり、卑弥呼はそこにいて西日本を支配した、と考えられます。
しかし、考古学的に伊勢遺跡以南では鉄器系の武器がほぼ発見されておらず、戦争の跡が確認できません。

魏志倭人伝では邪馬台国は「狗奴国」と戦争をしており、伊勢遺跡が戦場の最前線基地とするなら、これ以上に割の合わない場所はないでしょう。
その点において解説するには、今回は長くなってしまいました。

次回は、地政学的に邪馬台国が伊勢遺跡にあることは可能なのか、「狗奴国」の所在も検討しながら、当時の戦争形態についても考えていこうと思います。

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