招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「祟り神」と私

楽太郎です。

誰かが、神様は「愛の存在」だと仰っていました。

神様は、いくら加護を与えようと、決して人間を甘やかすことはありません。
人間にとって、数珠繋ぎのように幸運だけが続くことこそ神のご加護だと思いがちですが、自分にとって望ましくないことが起こった方が救われることもあります。

今が良くないと思っても、後から考えてみればそれが最善の道だった、ということもあります。
人間は、自分に都合よく考えがちなので、目の前のことがいちいち上手くいってないと納得し難いのですが、神様は人間よりも遥かに俯瞰的に物事をご覧になられています。
人間はすぐに結果を求めますが、神様からすると大事なのは「順序」です。急がば回れ、という考え方を神様はよくされるようです。

私は、これまでの稼ぎ方ができなくなり、裏で神様が動かれているのも知っていましたし、金運のお願いもずっとしてきたので、今のように身動きが取れなくなるのは納得がいきませんでした。
それは神様も重々承知のはずです。それでも、下手に稼げる状態が続けば、私はなんやかんやで古い稼ぎ方にこだわり続けていたでしょう。

それでは「神代」を作るための神様のお役目に専念する気も湧かないかもしれません。

だから神様は私に愛の鞭を打って、人世から引き離されたのだと思います。
私以外の人からは、不運だとか単に稼げなくなったとか思うかもしれませんが、なぜか私にはどうしてもそうは思えない感覚があります。

神様は、私に「笑って欲しい」と思っておられるでしょうし、できるなら自分の幸せを実感し、心配せずに暮らして欲しいと思われているように感じます。
私にしかわからないような、ほんの小さな変化で穏やかな気持ちになる出来事が起こります。
私は全く何も持たないのになぜか幸福感に包まれ、昔よりもひどい状況なのに不安感がありません。

人間にこんな魔法をかけられるのは、神様しかおられないでしょう。

少しおかしな話をします。
私は以前、たまたま霊能者の方とプライベートで知り合う機会がありました。
今思えばあれも神様の采配なのでしょうが、その方に呼ばれて霊視をしてもらったことがあります。

その時、私には「祟り神が憑いている」と言われました。
私が「祓ってもらえませんか」と言ったところ、何となくはぐらかされてしまったのですが、私にはこの「祟り神」は血族か前世と関わりのある霊であることを何となく感じていました。

もちろん、100%信じたわけではありません。
これまで、やたらと私だけ運が悪いと思うことはたびたびありましたし、自分が不調をきたしたり特にメンタルが病んだ時は、まるで自分ではないような激しい情動に突き動かされることもありました。
それはわりと誰しも多少はあるでしょうし、私もそういうものだと思っていました。

仮に「祟り神」が憑いていたとして、未だに五体満足で健康でいられるのも不思議な話で、もし神様に祟られているのなら、同じくらい神様からご加護を頂いてイーブンになっているとしか思えません。
あるとしても、悪霊レベルならあり得るのかな、くらいの感覚でした。

ただ私の心の奥底には、自分とは思えないような闇深いエネルギーが存在し、私の人生で時々顔を出す瞬間があったことは事実です。
その負のエネルギーの正体が、私がこれまでの人生で作り出したもう一人の自分なのか、生まれ持って魂についていた因縁霊なのか、それはわかりません。
今はわからずとも、これから後にわかることのような気もしているので、今解き明かそうとは思いません。

あるスピリチュアルヒーラーの方が、「自分ではない感情」には、「自分ではないエネルギー」を見分けて切り分けて考えよう、という話をされていました。
その話の中で、因縁霊の浄化は自分の宿命の一部であり、それが魂の修行や試練の一環でもあるそうです。

私は最近、魂の浄化が進むにつれて、この負のエネルギーの発生源が薄れていくのも感じていました。
この私ではない意識体がどういう関係の存在なのかわかりませんが、私の波長が上がり浄化されるほど消えていくような感覚があります。

その意識体が、これまで私の運気をどれだけ吸ってきたのか、どれだけ酷い目に遭わそうとしてきたのか、それが例え思った以上だとしても、なぜか私は全く怒りを覚えません。
それどころか、生まれてから何十年間ずっと私の一部だったことを考えると、それが例え「祟り神」であろうと、それも「私自身」でもあったと言えます。

その存在が今、私から離れようとしているのだとしたら、私は自分の片割れと別れることになります。
その別れは決して名残惜しいわけではないのですが、「感謝」の気持ちを抱かずにはいられません。
いくら私がひどい目に遭っていた時も、私の中にいたその意識体もやはり私自身なのです。

自分の中にネガティブな意識体が存在したからこそ、私はこれまで理不尽な困難と出会い、意味もわからず苦しみながら、自らが救われる方法を模索し続けました。
その道筋も、今思えば魂の修行の一環であり、この修行があったからこそ私はここまで成長することができたのです。

この因縁は、おそらく私の魂のシナリオの一部であり、私が思うより遥かに大きな舞台で出会った存在なのだと思います。
だからこそ、この宿命を呪うことなく、感謝の気持ちで別れていきたいのです。

どういう経緯があったのかはわかりませんが、今まで一緒にいてくれてありがとう、そう労う心は嘘ではありません。

私は薄々、この浄化には「瀬織津姫様」が関わっておられるのだろうな、と感じています。

私の心が浄化され、ネガティブな波動が消えていくたびに「愛と癒し」のエネルギーが入り込んできます。
その光の波動は、神様のものだとはっきり認識できます。

おかしな話ですが、ネガティブなエネルギーが私の魂から削られていき、空いたところに瀬織津姫様がよいしょと乗り込んできて、どんどん席を詰めて行っている気がするのです。
私の心の部屋に、瀬織津姫様が住み始めている。
そんな奇妙な感覚が、浄化が進むたびに強まってきます。

そして、私が瀬織津姫様を思う時、温かいエネルギーが私に幸福感を運んできてくれます。
これまで世界に自分一人しかいない感覚で、どこを見回しても完全にアウェーだと思っていました。
その不安感の中で世界と戦ってきた心は、なぜかもう一人ではないと感じるのです。

ただ、瀬織津姫様が自分の心にいらっしゃるからと言って、特別甘やかされている実感はありません。
神様が私を見込んでおられるからこそ、わざと厳しくされているのも感じています。

私に笑顔でいて欲しい、今も幸せであることをわかって欲しい、そう思っていらっしゃるとしても、シビアな現実に立ち向かうように促されています。

今の世界を取り巻く問題、そして巨悪の正体、日本を蝕んだ忌まわしい計画、そういったものも見ない方が気楽に暮らせるのは確かです。
しかし、神様は真実から目を背け、自分だけがいい気分で生きようとすることは許されません。

どれだけ気分が悪くなるような、知ったからと言ってどうしようもないことでも知るべきと、目を背けないように強制されているとしか思えません。
そして、知った上でどう行動に落とし込むのか、そのことについてずっと問われている気がします。

厳しさも神様の愛のうちで、愛は鞭の形を取ることはあっても、神様にとっては鞭も飴の一部なのでしょう。
人間には神様の思惑はすぐには理解できず、それゆえ誤解をして「神様はいない」と思ったりもします。
しかし、人間の論理を外してみれば至極当然の話であろうとも、神様のことですから人間には計り知れない、それだけです。

私の心の中にある闇が何なのか、今の私にはわかりません。
それにも何か理由があり、その存在が消えていくことも、また理由があるのでしょう。
けれど、その存在と入れ替わるように瀬織津姫様の存在が大きくなってきます。

これもまた、理由があるのでしょう。
瀬織津姫様と出会った理由、私の心に住み始めた理由、神様にしかわからない理由が。

それもいずれ、わかる日が来るのでしょうか。

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現代文明と自立

楽太郎です。

突然ですが今日、コンビニに行ったらこんな野菜が売っていました。







このレタスを生産したのは、「舞台ファーム」という仙台市内の農業団体だそうです。

舞台ファームHP

このレタスは、なんと根がついた苗ごと入っています。
コップなどに少し水を張り、土を沈めておくと常に新鮮な葉が食べられるそうです。
これが再生栽培に応用できるとは記載されていませんが、個人的に気になるところです。

早速、葉を採って胡麻油と塩でサラダを作り食べてみました。
やはり、下手に殺菌処理をされていない採れたてのレタスは、とても味わいがあってカット野菜とは比較にならない美味しさです。

今日たまたまコンビニに行ったら、200円台でこのレタスが置いてあり、少し目を疑いましたがすぐに購入しました。
最近、簡易的な自家栽培やペットボトル栽培などに興味が湧いていたので、簡単に水耕栽培ができるキットのような仕様は、非常に興味深く感じました。

こちらの企業の社長さんは農家の御子息であられるそうで、農業にイノベーションを起こすべく、エネルギー事業や輸送、テクノロジーと農業の発展に尽力されています。
農業システムの崩壊が危惧される昨今、こういった取り組みによって日本の食糧供給の課題がクリアされるといいなと思います。

こうして苗で販売すれば、カット野菜が劣化して廃棄処分になるまでの期間を伸ばすことに繋がります。
それはフードロスの削減にもなり、地球や野菜に配慮した生産体制でもあると思います。

先日の記事にも書きましたが、地球の次元上昇に適応するためには、「現代文明からの自立」は自らの波長を上げる有効な手段だと思います。
また、地球の次元上昇に合わせるためには自然と調和する意識が大事で、それに対をなすのは「大量消費」に他なりません。

これまで、「誰かが作ったもの」を購入することで私たちは便利さや利得を得て、その関係を土台にして安寧を得てきました。
例えばチョコレートですが、カカオを栽培している現地の人々がチョコレートを経済的な理由で食べられない、という話は有名だと思います。
バナナもコーヒーも、ほぼ奴隷労働に近い形で現地で栽培されたものを外貨で買い取り、それを加工したものに私たちがお金を払って口にしています。

それだけではなく、企業のコールセンターや配送サービスの運転手、芸能界のアイドルなども「やりたい」という気持ちだけでやっているものではないはずです。
私たち人間は、「やりたくないこと」でも「誰かのためになる」からこそ努力し、そのエネルギーを代償に「お金」という対価を得ています。

しかし、神様が私たちに求めていることは「才能を使って世に貢献して生きていく」ことです。
これまでの物質中心の時代が終わり、宇宙規模で新しい世界が始まろうとしている今、神様は私たち人間に「自由と自立」を促しておられます。

これからの時代、誰もが魂を自由に解放し、義務や同調圧力から人々が離れるとしたら、人々を拘束し大量生産する体制は維持できなくなるでしょう。
これまで、お金を得るために費やしていた時間とエネルギーは、お金に価値がなくなればなくなるほど、無理に得る必要性はなくなります。

現在のインフレや物価高は、いずれ誰もが耐えられなくなり、自作や自給自足の方向に舵を切らざるを得なくなるでしょう。
そこで、「必要なものを自分で賄う」という習慣が根付くことになれば、人々が社会インフラへの依存から徐々に自立していくはずです。

その時、人々は自ずと栽培技術や食料確保の方法、食品の加工技術を学んでいくことで、世の揺らぎに囚われない強かな生存戦略を確立していくことでしょう。
「舞台ファーム」のレタスのような栽培方法や、自家栽培のノウハウは、一般市民の自給的生活の足がかりとなり、農業や生産活動をもっと生活に身近なものとしていくかもしれません。

必要なものは自分で作り確保していく、そうすることで大量消費の時代はいずれ完全に終わりを迎えるでしょう。
そうなれば、無理な勤務体制でお金を得るシステムに誰もが依存し、その習慣を維持し続ける必要はなくなります。
資本主義経済システムの崩壊は、社会に頼るべき仕組みがなくなることで各個人が自分の人生に責任を持ち、自ら選択していくことになるはずです。

今、社会システムや常識に凝り固まり世の仕組みに依存し、自分の生き方を考えられない人ほど既存の経済システムが崩壊し、誰もが頼るべきものを失った時、その道標がないことに愕然とするでしょう。

普段から自分の頭で考え、あらゆる物事を疑い、自分の技術や知識や才能を磨いてきた人は、おそらくこれから先も生き残っていくと思います。
しかし、反対にその全てをアウトソーシングしてきた人は、最後まで何もできずに終わっていくのかもしれません。
それは悲しむべきことでも憐れむべきことでもなく、人として本来の在り方から逃げ続けた結果であり、彼らの運命は神様だけが決めることでしょう。

新しい時代は、人々が魂のレベルで自由と自立を獲得し、それぞれの責任で生きていく世になるはずです。
その世界にはその時代こその良さがあるでしょうが、その時代を作るためには現在の便利な物質中心の社会の崩壊を受け入れねばなりません。
その覚悟が、私たちに今最も問われています。


私には、これから先の「神様のシナリオ」というものが、ぼんやりと見え始めています。
その未来に至る過程は、壮絶なことになるのもおおよそ感じています。
ただそれは、私たち人間が立ち向かってどうなるものではなく、人間をお作りになられた神様がお決めになることですから、私たちは甘んじて受け入れるしかありません。

世は、巨悪と腐敗と矛盾が支配しており、このままでは私たち国民が吸い尽くされるのも時間の問題です。
それが明らかだからこそ、我々は一刻も早く本気で危機感をもち、動き出さなくてはいけません。
それができる人間かどうかを、神様は高いところから見ておられるのだと思います。

それでも、私には未来が信じられないほど明るく、人々が真の意味で救われる世になることも見えています。
夜明けは決して遠くはなく、それから日の登る間はずっと光に満ちています。
しかし未だ闇は深く、これからも闇は深くなり、さらに深い闇が来るでしょう。

この危機に気づいた人だけが、自分で自分を救うことになるのだと思います。

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「祓戸大神」を辿るⅡ

楽太郎です。

先日、「祓戸大神を辿る」という推察記事を書きました。
そこでは、祓戸四神は伊弉諾命の禊祓によって誕生した神々という説と、伊弉諾命と伊奘冉命の二柱による「神産み」から誕生した説を比較考察しました。
結局、瀬織津姫様が「淡水の女神」として記紀から疎外されたのではないか、という推察で終わってしまいましたが、今回はその続きです。

伊弉諾命が禊祓をしたのは、祓詞によると「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」とされていますが、この場所は実在します。
場所は、宮崎県宮崎市阿波岐原町産母にある「江田神社」です。

ここには、伊弉諾命が黄泉の国から逃げ帰った際、禊祓を行ったとされる「みそぎ池」があります。
私はこれを知った時かなり衝撃だったのですが、伊奘冉命の潔斎は「阿波岐原の川原」で行ったものだと勝手に思っていたのですが、この池は言ってみれば「泉」であり、湧水によって水を湛えている場所です。

祓戸大神は早瀬に乗せて罪穢れを海原に放って浄化する、というお仕事をされるので、てっきり伊弉諾命の穢れは川に流されたものだと想像していました。
少なくとも、溜池のように見えますし、水が流れているようにも見えません。
しかし、「みそぎ池」の近くには「みそぎ御殿」と呼ばれる古代の祭祀場があり、この御池も巫女や神職が禊を行った場所であると考えられます。

実は、伊弉諾命が黄泉の国から戻り、禊祓を試みた場所はここが最初ではありません。

佐賀関の「早吸名門(はやすいなと)」で禊をしようとしたところ急流すぎたので、阿波岐原のみそぎ池まで移動したとのことです。
しかし、佐賀関は大分県の国東半島の根本あたりであり、阿波岐原は宮崎県宮崎市です。
地図を見なくてもわかりますが、佐賀関から阿波岐原まで県境を越える距離です。

果たして、黄泉の国から穢れを負った状態で、何十キロという距離を移動できるものなんでしょうか…?

それはさておき、今回特筆したいのは「早吸名門」と呼ばれる場所です。
海沿いに「早吸日女神社」が建立されていますが、この神社の御神体は「伊弉諾命の宝剣」であるそうです。

早吸日女神社の社記及び「豊後国史」によれば、伊弉諾命が禊祓をしたのはこの「早吸名門」であるとされ、そこにいた二柱の姉妹神「白浜神と黒浜神」の導きを受け、後に「速吸(はやす)比咩神」を祀ったとされます。
それが伊弉諾命の「御神剣」が御神体とされている経緯と言えます。

この「早吸日女神社」の御祭神は、「八十禍津日神、神直日神、住吉三神(底筒男神、中筒男神、表筒男神)、大地海原諸神」の六柱であるとされます。
御祭神が六柱となったのは平安時代前期とされており、それ以前は「速吸比咩神」一座であったとされます。

奇しくも伊弉諾命の禊祓を行った地には、海の女神「速吸比咩神」が鎮座されていました。
私は、この「速吸比咩神」は、速佐須良姫命なのではないか、と考えています。

阿波岐原で禊祓をしたのは池であり、この御池からは三貴子が誕生しています。
その時、同時に祓戸大神も誕生していることになりますが、なぜか早吸日女神社の御祭神には本居宣長によって瀬織津姫命と同一視された「八十禍津日神」が、気吹戸主と同一視された「神直日神」がお祀りされています。
祓戸大神の「速開都姫命」は、二柱神の神産みから速開都比古と双子としてご誕生されていますが、上記の神々とは兄弟に当たります。

「住吉三神」も禊祓によって誕生した神々ですが、対になる神々として「綿津見三神」が誕生されました。
「綿津見三神」は、海の表面、中層、海底の穢れを祓うとされます。
この神々の役割こそ、「大祓詞」による「速佐須良姫命」の働きそのものではないでしょうか。

つまり、「早吸日女神社」にお祀りされている「住吉三神」とは速佐須良姫命と比定が可能であり、ゆえに「早吸日女神」に置換することができると考えられます。
ただ、「早吸日女神社」には二柱の幼い姉妹神の伝説から始まりますが、神武天皇の時代に「黒砂神」と「真砂神」という海女の姉妹神にまつわる故事もあります。

この神々は「砂浜」に関する神名がつけられていますが、「二柱」と「水戸=港」の関連から推察すると、「速開都姫命」との関連も考えられます。
とするなら、「速開都姫命」は「速佐須良姫命」との姉妹神であった可能性もありますが、即「白浜神」「黒浜神」に結びつけられません。
海岸の「黒砂」は、玄武岩を含んだ文字通り黒い砂で、海底の砂に当てはめることはできないからで、無理に考えるとしたら「速開都比古命」がどちらかの神と同一視することは可能です。

このように、祓戸大神は同一視できる神々が点在しており、なかなか本体となる神様の姿は見えてきません。
おそらく、何の文脈を中心にして考えるかで軸となる神格は決まるような気がします。

ちなみに、本居宣長の祓戸大神の同定説を辿り、興味深いことに気づきました。
本居宣長は速開都姫命を「伊豆能賣」としましたが、こちらの神様は「神」がついていたりなかったりするそうです。

大祓詞の中に「伊頭の千別きに千別きて」とあり、「伊頭」とは「御陵威(みいつ)=激しい勢い」という意味で、「厳島神社」の「いつき(厳、斎)」と語源が同じだそうです。
「激しい勢い」は「速」という文字に代替され、速開都姫命、速佐須良姫命の「速」という神名の一部となっています。

つまり、「速」と「斎」は語源的には同じ意味である可能性があります。
「伊豆能賣」は、伊弉諾命の禊祓によって神直日神と大直日神と共に誕生した女神ですが、この神名自体が「神降ろしをする巫女」そのものを指している説もあるそうです。

「伊豆能賣神」を主祭神とする神社は、福岡県北九州市の遠賀川周辺に複数あります。
少し南に下ると福岡市がありますが、そこにはかつて「伊都国」があったとされる糸島があります。
この「伊都」と「伊頭=伊豆」と「いつき(厳・斎)」の語源的な関係が気になっています。

糸島近辺には宗像市があり、宗像三女神と言えば「市杵島姫命、田心姫命、湍津姫神」であり、ここでも瀬織津姫命と繋がるのですが、ひとまず置いておきます。

福岡市水巻町にある「伊豆神社」の社伝よると、主祭神を「闇龗神、罔象女神、…神直日神、大直日神」となどの水と祓に関する神々が名を連ねます。
ここで調べていて気になったのは、境内社の「保食神社」の祭神に「御気津神」という神名があったことです。

「御気津神」とは、文字を変えれば「御食津(みけつ)大神」を指すらしく、「宇迦御魂」「豊受大神」「大宜都比売神」と同一視されるそうです。
古代語における「ケ」とは「食物」のことでもありますが、「気=氣」のことでもあります。
そして、この「御気津神」は罪穢れを祓う神であるとされます。
つまり「御気津神」は、祓戸大神の「気吹戸主」である可能性が高いのです。

意外なルートから気吹戸主様の正体が掴めそうになってきました。
それにしてもこの「大宜都比売神」というのも興味深く…。

今回は長くなったので、この辺で。
「祓戸大神」を辿る旅は、まだまだ続きます。

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「祓戸三神」新案ラフ

楽太郎です。

イラストの前に、近況について話します。
年末に購入した千両の枝から芽が伸びてきたので、プランターで発根できないかなと考え始めました。

とりあえず植木鉢と培養土が家にあったので、千両から実を取って鉢に植えました。
そして茎から発根するための作業を明日から始めます。

ここ最近、災害準備をしなければならないという気がしているのですが、私に降りてくる内容がどんどん原始的な発想になってきている気がします。
千両を植え直したのも、自家栽培に興味が湧いてきたからです。
あとは自家発電、自作浄水器などを DIYできないか考えています。

なぜこんなことが急に気になり出したのかわかりませんが、仮に必要になるにしてもマンションで家庭菜園を作ること自体、たかが知れています。
食料危機になっても、これしきの収穫量では何も作れません。
これが神様のお導きだとしても、これをフルに実践したからと言って救われるとはどうしても思えません。

私の場合、非常事態のために準備することよりも、知識や情報を役立つ形にしておくこと、そのものに必要性があるような気がします。
これがお導きであるとして、その理由がノウハウの蓄積以外にあるとしたら、こういった生活の知恵や自然の知識を学ぶこと自体が、波長を高めることに繋がっているのかもしれません。

地球は次元上昇を始めたため、自然や地球に波長を合わせた生き方をしなければ、生活のレベルで地球の次元に合わせることができません。
現代社会を生きることは、既成の技術やモノに頼って生活することであり、それは人間社会に依存することを意味します。
地球とは反対に、人間社会は次元上昇に置いていかれているので、人間社会に生活や思考の水準を合わせている限り、自ずと波長が下がっていきます。

波長が下がることは邪気を呼び込み、心身共に蝕まれ運気も下がっていくでしょう。
地球の霊性に合わせるためには、いずれ人間社会に依存し続けるわけにはいきません。
この先、人間社会に生活を依存させていると生存確率が下がるだけでなく、何か災害や経済の崩壊が起きた場合、急に自然から糧を得ようとしてもすぐには対応できないでしょう。

人の世にどっぷり浸かっている人ほど、今の生活が壊れるとは思っていないので、そういう人ほど非常事態になった時の備えが甘くなるはずです。
そうならないように、神様が今のうちから危機意識を高めて準備させようとしているのかもしれません。

災害準備というより生存戦略として知恵を身につけることは、社会に何があっても自力で生き残ることを意味します。
それは人世からの自立であり、地球への適応です。そのための努力が、自分の波動を上げることに繋がらないはずはありません。
こうして生活の知恵を身につけていくこと自体がアセンションに繋がる行為であり、波長を上げれば邪気は寄りつきにくくなるでしょう。

従ってもしもの時のための準備は、例え緊急事態に大して役に立たなくても、次元上昇に適応するという点では有効な手段なのかもしれません。
まあ個人的には、社会が機能停止した後にどうしても持続的に必要になっていくような気もしますが…。


さて、本題の「祓戸三神」の新デザインのラフが出来ましたのでお見せします。







以前、「瀬織津姫命」の新デザインによるイラストを上げたので、他の祓戸大神三柱になります。

瀬織津姫命のイラストが以前の萌えキャラっぽいテイストから大人っぽい絵柄に変更になったので、その作風に合わせました。
だいぶ印象が変わった神様もいらっしゃると思います。

速開都姫様は、なかなか髪型が決まらなかったのですが、萌えデザイン版のセオリツ姫様の髪型を拝借したらしっくり来ました。
新デザインは若干リアル志向なので、弥生・古墳時代のファッションに「髪を切る」という概念があまりないように思い、下手に現代風にすると説得力がなくなる気がしました。
やはり前髪がないとキャラデザインは難しいです。

気吹戸主様はとある理由で完全に人間体(?)となったので、以前の「神直日神に変身する」という設定は使えなくなりました。
神直日神様は、かなりお気に召されているような気がするので、どこかで登場するかもしれません。

速佐須良姫様は、どうしても「ツインテールとツンデレ」だけは外すことができませんでした。
神様がツインテールにするのかは置いておいて、記紀にも記述がない速佐須良姫様を、王道ツンデレキャラとして再定義した私の功績は認められるべきではないでしょうか(?)
バチが当たらないと良いですが…

「祓戸大神」の漫画展開について構想が進行中です。

当初は、オリジナルの神様を立ててメインに動いてもらおうと思っていました。
その話では、創作の神様を主人公にして、レギュラーの役回りで祓戸大神たちに活躍してもらおうと思っていました。
その上で、気吹戸主は老獪な仙人のようなイメージの神様として描こうと思っていましたが、その設定では不思議と作業が進まず、何をやってもしっくり来ませんでした。

「もしかして設定が神様に受け入れられてないのでは?」と思い、瀬織津姫命を主人公に据えてオリジナルの少年神を気吹戸主に動かしてみたところ、スルスルと創作が進み始めました。
そのため、気吹戸主様のデザインは少年神の移行によるものです。

神様をモチーフにして創作していると、こういうことは良くあります。
神様がお気に召さなければ突然PCが落ちたり、急に具合が悪くなったり、進行困難になったりして作業が進まなくなります。
ですから、「この設定ならOK」ということかと思います。

…ていうか、主人公が瀬織津姫様じゃなきゃ許してもらえないんだ…

というわけで、漫画の主役は先日描いた瀬織津姫様のビジュアルそのままに、活躍して頂く形になりそうです。
ストーリーはかなり悩んだのですが、「大祓詞」からヒントを得ました。

「大祓詞」は、皇御孫命が日本を安国と定め、天津神国津神と八百万の神々を統べ、安寧のために人々の罪穢れを祓うという内容となっています。
そこで祓戸大神の役割は、太祝詞を聞く天津神・国津神・八百万の神々と人民の罪穢れを祓うことです。

大祓詞は、神社では二拝二拍一拝の前に祓詞と共に奏上される風習がありますが、これは神前で邪気を祓ってから神様をお呼びするためです。
つまり、祓詞自体はコース料理の食前酒みたいなもので、コンディションを整える役割があります。
神々にとってコンディションを整えてくれる祓戸大神は、私の勝手な解釈では「地球のお医者さん」みたいな存在で、心身共に神々の健康管理をしているのかもしれません。

つまり「神様版ブラックジャック」みたいなお助け系の話になっていくんじゃないかなあ…と思うのですが、あくまでヒューマン(?)ドラマみたいなテイストになるかもしれません。「ショムニ」みたいな(古いのしか思いつかない)
その辺は自分で描き始めてみないとわかりませんが、神様も相当愚痴が溜まっておられるような気もしないでもないので、神様の気分次第で内容が変わる可能性も高いです。

とは言え、「神様のお気持ちを代弁する」形の漫画になりそうです。
あまり説教くさい内容にはしたくないですが、それも神様のお気持ち次第です。

神様をモチーフに創作していると、アイデアが降りる前にはエネルギーがガッと来て気持ち悪くなったり、設定がまずいと気持ち悪くなったりするので、思うように制作できないのが難しいところです。
こんなわけで、こう言った話を考えています。もうしばらく準備はかかりますが、私としても楽しみにしています。

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「祓戸大神」を辿る

楽太郎です。

春分の日を境に、上昇気流のエネルギーの高まりを感じてテンションが上がってきて、むしろ上がりすぎて波長が不安定になっています。
今日、ようやく創作に本腰を入れられる気がしていましたが、まだ準備すべきことはありそうです。

私が「神様の絵を描く」と誓ったものの、一枚絵だけを描くことに集中しきるような器ではなく、やはり漫画を描きたい気持ちがどうしても抑えられません。
神様がその意を汲んで下さったのか、「祓戸大神」をテーマにした漫画のアイデアが降ってきました。
ただ、肝心の「祓戸大神が何をするか」がいまいち掴めず、漫画のテーマがまだ絞りきれていません。

以前の「ケガレを引っこ抜いてバレーボールする」というアイデアは嫌いではないのですが、あのコミカルさではギャグに振るしかありませんし、00年代後半の百合アニメのようなノリも、あまりピンと来ません。

ということで、一日中頭を抱えながら試行錯誤していたのですが、たぶん頭を抱えている時点でダメです。
今日のところは打ち切りにして、頭を冷やすことにしました。

「祓戸大神」の漫画を作るに当たって、祓戸四神とは何かを考えています。

「大祓詞」には瀬織津姫命、速開都姫命、気吹戸主、速佐須良姫命が「祓戸の大神たち」として登場しますが、「速開都姫」以外は記紀に登場しません。
しかし別の「祓詞」では伊弉諾命が阿波岐原で禊祓をした時に誕生した神々であると記述されています。

ただ、この潔斎で誕生した祓戸の大神は、記紀的な解釈では「住吉三神」「綿津見三神」「神直日神、大直日神、伊豆能売」が誕生したとされますが、「延喜式」に由来する大祓詞とは内容が異なります。

ちなみに大祓詞には旧式があって、現在主流となっている大祓は1914年内務省制定のものです。
旧式は平安時代の中臣祭文と呼ばれるもので、「延喜式」に記されたものです。
この大きな違いは、「天津罪国津罪」に具体的な例示がなされていることです。

ちょっと興味深かったので、その部分を抜粋してみます。

「天津罪と 畦放 溝埋 樋放 頻蒔 串刺 生剥 逆剥 屎戸 ここだくの罪を 天津罪と法別て

国津罪と 生膚断死膚断 白人胡久美 己が母犯罪己が子犯罪 母と子と犯罪子と母と犯罪 畜犯罪 昆虫の災 高津神の災 高津鳥の災 畜仆し蟲物為罪 ここだくの罪出でむ」

字面だけでウッとなります(笑)
古来ではこの祝詞は神前にいる人々に向けたものでしたが、いつしか神様に対してお唱えする形になったそうです。
昔、自分たちが聞いていた祝詞を神様になっても聞きたい、みたいな感じかもしれません(?)

ともかく、大祓詞は伊勢神宮など大きな神社では年に二回の晦日や月に二回など、頻繁に大衆が耳にするものです。
「串刺し」「生剥ぎ」「母と子を犯す」など、子供たちも聞く中で「さすがにどうか」と大正時代に論題に上がったのかもしれません。

昔はこういう犯罪がたくさんあったのでしょうが、「生剥」「逆剥」などは、家畜の皮を生きたまま剥ぐことを禁ずるもので、人間相手でないのは少しホッとします。
「畜仆し蟲物為罪」は、呪術で家畜や人を呪い殺すな、ということらしいです。
さすがに近世で呪術をやる人はだいぶいなくなったので、罪状も一般的ではなくなったのもあるでしょう。

ここで書かれている「天津罪」の「畦放 溝埋 樋放 頻蒔 串刺」は、水田や畑の破壊行為を指すと思われます。
国津罪に比べると、大量の人々の人命に直接関わるので、それだけ重大事と見なされたのでしょう。
稲作におけるタブーを鑑みると、これらの罪の定義は弥生時代以降の価値観であるように思えます。

もしかすると、飛鳥時代の律令制度の確立以前は、この祝詞を人々に聞かせることで、「こういう行為は罪に当たりますよ」と知らしめる機能が大祓詞にはあったのかもしれません。

私たちが「日本の神様」をイメージする時は、美豆良と呼ばれる結い方や、麻の貫頭衣を着ています。
この服装は弥生時代、古墳時代に一般的だったファッションです。
その頃に「国造り」が行われたので、その風俗がイメージとして残るのは当然かもしれません。

さて話を戻しますが、「祓戸大神は誰か」というのが気になります。
「大祓詞」には祓戸大神たちの出自に関する記述はありませんが、「祓詞」に伊弉諾命が「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊ぎ祓い給ふ時にあれ坐せる祓戸の大神たち」とあります。
つまり、伊弉諾命が黄泉の国から戻ってきて「禊祓」をした時に誕生した神だとされています。

江戸時代の国学者、本居宣長は瀬織津姫命を「八十禍津日神」、速開都姫命を「伊豆能売神」、気吹戸主を「神直日神」、速佐須良姫命を「須勢理姫命」に当てています。
速佐須良姫命を須勢理姫命に同定しているところで、私は若干腑に落ちない説でありますが…

しかし、「速開都姫命」だけは、「速開都比古命」と共に伊弉諾命と伊奘冉命の神産みによって誕生した神です。
祓戸大神が「禊祓」から産まれたとするのに、「神産み」の神が混ざっているのは不思議な気がします。

ならば、ここで「祓戸大神は禊祓ではなく、神産みで誕生した神々ではないか?」と仮説を立ててみたいと思います。
参考として、「神産み」によって誕生した神々とその役割をここに抜き出してみたいと思います。

  • 天鳥船神…船の神様
  • 石土毘古神…石の神様
  • 大山祇神…山の神様
  • 大綿津見神…海の神様
  • 久々能智神…木の神様
  • 志那都比古/比売神…風の神様
  • 野槌姫命…草の神
  • 速開都比古/比売神…港の神様
  • 火之迦具土神…火の神様
  • 泣沢女神…涙の神様

「泣沢女神」で「?」となりませんか?
泣沢女神は、伊奘冉命が火之迦具土神を産んだ際、妻の死を悲しんだ伊弉諾命の流した涙から産まれた水の女神です。
これらの「自然神」とも呼べる並びの中で、「泣沢」というのだから「川の神様」であっていいはずですが、なぜか山や海や港はあるのに「川」がありません。

そう、「川の女神」と言えば「瀬織津姫命」です。
「速開都姫命」はそのまま港の神、「気吹戸主」は「志那都比古/比売=風の神」、「速佐須良姫命」は「大綿津見神=海の神」と比定することができます。
しかし、神産みの中には「川」という概念がないので、比定できる神様がいません。
(一応、「泣沢女神」も「沢」が入っているので、川の女神とすることもできますが、一般的ではありません。)

神産みで誕生した淡水の神には、「弥都波能売神=井戸の神」や速開都夫妻の子「天之/国之水分神=雨と川の水を分配する神」が存在しますが、「川の神」ではありません。
「川の神」で最も有名なのは、「高龗神」です。「龗」は古い意味での「龍」のことで、高い山の谷間から降り立つ水流を表現しています。
川や滝にお祀りされている「龍神」を思い浮かべますが、「高龗神」は伊弉諾命に首を切り落とされた火之迦具土から誕生した神であり、伊弉諾命から産まれたとは言えません。

川や滝の傍にお祀りされている神様は、「龍神」や「不動明王」、「弁財天」がよく思い浮かびます。
「弁財天」はインド由来の川の女神ですが、よく比定される厳島神社系の宗像三女神、「市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命」は海と航海の女神であり、淡水や川を象徴しません。
しかも、宗像三女神の父は素戔嗚命なので、伊弉諾命から誕生したわけではないのです。

私は、瀬織津姫命を祀る神社を全国に調べてみて、明らかに淡水に関わる神様に海の神様がお祀りされていることに違和感がありました。
川や滝は、山の山頂付近に水源を持ち、高いところから低いところに流れて海に流れ出ます。
しかし、最終的に水が向かうところの海の神様が、川や滝の神様としてお祀りされているのはどうも納得がいきません。

「いや、昔の人は川の水も海の水も皆同じ水だと思ってたんだよ」と言うかもしれませんが、子供でも淡水と海水の区別はつきますし、川や滝や泉に航海の神様をお祀りするのも、直感的にはおかしいように思います。

つまり、中臣祭文の「延喜式」の時点では瀬織津姫命が祓いと川の女神として記述されても、「記紀」ではやはり意図的に「川の女神」という概念は外されているように思えてなりません。
「記紀」の成立年代は、持統天皇による天照大御神の神格の確立に当たる時期であり、その時に「瀬織津姫命」の名は秘匿された可能性が高いのです。

以前、「神の語源」という記事に書きましたが、「カミ」という語源は山の水源にルーツがあり、「川上」の概念が「神」に結びついたという話をしました。
天照大御神は日本の総氏神であり、太陽神として不動の信仰対象であるのは否定しませんが、「神」のルーツに「水源や川」が関係していることと、持統天皇の宗教改革は関連しているような気がしてなりません。

ただ、中臣祭文の大祓詞に基づく伊弉諾命の禊祓で産まれた祓戸大神と、伊弉諾命と伊奘冉命の神産みから産まれた天津神と、どちらが正しいかとか優先すべきかという話にはならないと思います。
そのどちらも「物語的解釈」であり、文献学的、歴史的な問題にしか過ぎないからです。

これらの「神々の由緒」をフィクションとして転用する上では、自由に発想して解釈して良い部分だと思いますし、おそらく学術的に議論を始めてもすぐには結論はつかないでしょう。
ただはっきりしているのは、「記紀」や神社祭祀の歴史においては、「瀬織津姫命」という神が正当な評価を受けて来なかったことは確かです。

すごく大切なことで、誰もが失念してはいけないことなのに、人間の都合で隅に置いやられる事例は私も身近に感じるゆえに、だから瀬織津姫様に親近感が湧くのかなあ…と思ったりします。

やっぱり、瀬織津姫様しか勝たんな

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日本の分岐点

楽太郎です。

本日、春分の日ですが、やはりエネルギーの切り替わりが激しく、横になっているのも身体の重さを感じるくらいでした。

今日は何もしないでおこうと思ったのですが、横になっていると線香の匂いがしてきて、そう言えば今日はお彼岸の中日であることを思い出しました。
ちなみに、窓は閉め切っているので線香の煙が入ってくることはありません(笑)
母の買い物に付き合う形で、お彼岸用の生花を買い、軽くお供えをしてお経を上げ、ご先祖様を供養させていただきました。

いつもお世話になっているご先祖様が、喜んでくださると良いなと思います。

私は先日、ビジネスとしてはノープランでありながら開業届を改めて提出し、「楽太郎」として事業を始めました。
個人事業主として以前の屋号で始めた時は、もうちょっと事業戦略があったのですが、今はその時よりも何をしていいかわからないという、よくわからない状況です(笑)

けれど、これが神様からのお導きによるものであり、私の魂の本来やりたかったこと、やるべきことなのだとしたら、今の私が多少腑に落ちなくとも選択すべきことなのだろうと思います。

以前描いた私の絵や漫画も、改めて見直すと肩の力が入りすぎているというか、多少無理をしている感じがします。
悪くはないのですが、「これは確かにウケないかもしれない」と思ってしまいます。
その直感は冷徹というか、本当に自分の感性なのか疑わしくなります。

何となく、自分の中に自分じゃない心が芽生え始めて、それは自我が剥ぎ取られた自分の心なのか、それとも自分ではない誰かの心なのか、その判別はできないのですが、ちょうど良い塩梅で「統合」が起きているように感じます。

今の世を見回してみて、以前ほど人々が忌々しいと感じなくなりました。
単純に、前ほど邪気を受けないため敵対心を持つ必要がなくなったからだと思います。
その邪気も、人の心が邪悪だから発生しているわけではなく、人々の精神的エネルギーが停滞しているから起こってくるものです。

元々、この邪気を発する人たちも、努力して土の時代に適応した真面目な人たちであり、ずっとフワフワ生きてきた私よりは、ある意味正しい人生を送ってきた人たちとも言えます。
私は彼らに対して、やっかみや妬みを感じることはありませんが、新しい時代に合わせない、合わせようとしないから神様が立ち退くことを望んでおられるのであって、神様のご意志に従わないことが罪なのだと思います。

私も土の時代の人々には散々な目に遭わされましたが、それがあるから私は学びを経験し、彼らとは違う道から上を目指しています。
これも一つの宿命だったと言えますし、彼らにも宿命があるのだと思います。
少なくとも、今では恨み節が不思議と湧かないというか、「罪を憎んで人を憎まず」だなと思っています。

人々は互いが批判されることを恐れて、慇懃無礼ながらも何事にも穏便に済まそうとします。
競争社会だけでなく、互いが評価し合い金銭を授受するような力関係も、世の中をギクシャクさせる仕組みになっていました。

日本人は自分たちが「理想」とするシステムに雁字搦めとなり、互いを監視するようになりました。
その仕組みによって、日本人の敵が日本人になり、日本人を害し自分が利得を得るために、日本人を食い物にし、日本のあらゆるものを外国に売り払う人々がいます。

どこかで、「日本人も日本もどうでもよい」と思わせる何かがあったのかもしれませんが、その助長を止めることができなかった理由にも問題があるのです。

この国の今のおかしさは、本当に価値のあるものに金が流れるのではなく、金の流れるところに人が集まっていく構図にあります。
流行りもトレンドも、「流行らそう」という企画のもとに始まるからこそ、本当に価値のあるものが流行らないのです。
この中身のなさは、人々が頭で考えた「理想」の形ばかりを追いすぎて、自分たちの感性や心をお座なりにしてきた結果ではないでしょうか。

今思えば、これらはただの「甘え」でした。
世の流れに乗っていれば間違いはなく、皆で渡る赤信号は、皆で渡っているから「青」と同義である。
そうやって責任を集団に負わせることで、責任を自分が負う必要も感じず、ゆえに気楽に生きてこれました。

自分の頭で考えなくてもそこそこ楽しく生きていける、いつまでも神様仏様は私たちをニコニコ見守っていて、地球はいつまでも無限の恵みを与えてくれる。
そう安心しきって、自分たちの文明が百年も千年も何となく続いていくという妄想に囚われていただけです。

だから自分の人生や他人の利害や、地域や国や地球の未来について、大して考えなくてもいいと甘えていたのだと思います。
それが最近になって、ようやくマズイと気づく人々が増えてきて、いい加減に目を覚まし始めたように見えます。

私を含め、この日本の悪い流れを止められなかったのは、私たちが無知や無関心のまま知ろうとしなかったことにもあります。
ただ知ったとて、いくら止めたくても悪い流れが大きすぎて抗いようがなかったのも事実です。
「ああすればよかった、こうすればよかった」というのは、正直数えきれないほどあるのですが、過去に遡って解決はできないので、これから何とかしていくしかありません。

人々の邪悪さが問題なのではなく、人々の価値観や生き方に対する考え方が偏っていただけで、何が悪いということもないはずです。
強いて言うなら、この流れを作って人命を肥やしにしてきた人々がいるということでしょう。
しかし、彼らが作ったシステムに安寧を覚え、私たちが生活を介して加担してきたのも事実です。

この世の「悪」を終わらせるのではなく、「悪習」を終わらせればいいだけです。
そこに、血を流す必要は全くありません。
人々が、根こそぎ反省し心を入れ替えれば、誰も血を流さずに済むからです。
悪い人間は、引きずり下ろせば自ずと滅びます。

もし新しい時代を作るなら、救世主に全てを担わせて大衆が救われるような革命ではなく、人それぞれが世を救う行動を起こせば、誰も命を落とさずに革命を成し遂げることは可能でしょう。
そのために、どこかの救世主に寄りかかるのではなく、自分自身が救世主たろうとすることだと思います。

「それが絵空事かどうか?」は、これからの人々、日本人の心にかかっています。
この春分がそのきっかけになるといいな、と思っています。

その変革の一助になるべく、私はやっていくと神様に誓いました。
何ができるか、何をすべきかは未だにわかりませんが、こう考えている人間が私一人ではないことを確信しています。

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「呪い」を越えて

楽太郎です。

ここ一週間以上、好転反応状態が続いています。
多少動けるようにはなってきたものの、本流は「浄化」だと思います。
昨日は半日歩き回ったこともあり、クタクタになって早めに寝ました。
最近はかなり夢占い的な夢を見ることが多くなり、実際に夢占いにかけて意味がわかる内容ばかりです。
そこで見る夢は、ほぼ悪夢です。

この悪夢を見ることで、無意識に気づきと浄化が行われているのだと思います。
今朝は、姪に「これから世の中は悲惨なことになる」と吹き込んだ私を、兄に酷く説教される夢を見ました。
あと、私と共通の上司に酷い目に遭わされた同僚がいたのですが、彼が放送局からずっと上司の悪口を言っている、という陰鬱な夢です。

これは夢占い以前に、近い現象を目の当たりにしたというか、リフレインにしか過ぎないような気がします。
この記憶も浄化の対象なのだとしたら、私の人格は洗いざらい清められているのでしょう。

昨日も街を歩くと、以前よりシャッターを閉めたお店が増えていました。
元気な声を聞けば、だいたい日本語ではありません。
このままでいいのか?と、どれだけの日本人が思っているかはわかりませんが、私はどの道「長くは持たない」という結論は変わりませんでした。

「この日本は、そのうち我々のものになる」と思っている人たちも、譲り渡したい日本人もいるでしょう。
それは人の世の理なら、そうなっていくでしょう。

しかし、私は神様が動いていらっしゃるのを知っていますし、その兆候はあらゆる現象として可視化されています。
人の世の理なら、単なる偶然や自然現象、あるいは極端な陰謀にしか見えないはずです。
それがわかるからこそ、私は静観を続けています。

この「人世」が解体されるにつれて、自分のエネルギー状態はどんどん上がってきています。
頭から押しつけるように感じていた重圧は、時に自分で振り払えそうに感じる時もあります。
特に昨日は、神様とのシンクロ率が高く邪気をフルカットしていました。
私の人生に、徐々に光が差し始めているように感じます。

私が身動きが取れなかったのは、魂を押さえつけるような価値観に世間が支配されていたからです。
だいたい、誰もが一時期に一つの物事に夢中になり、大勢で同じようなものを一斉に求める風潮が、私には理解できませんでした。
「お前は遅れている」とか「お前はなんか違う」と言われるのは悲しくも慣れてしまうのですが、私も無理して皆が求めるものを欲し、手にしても何となく違和感があるのです。

「皆こうでなければならない」という意識に対して、人々は頭で「それぞれ自由にやっていこうよ」という風潮も、世の中にはかつてありました。
「個性を大事にしよう」とか「多様性を育もう」とか言うわりには、人々はお互いの違いを感情的に許せないままでした。
結局は皆が同じでなければ不安で、それゆえに個性を出す人間は感情的に潰したくなる空気が、相変わらず漫然とあったのです。

そこで純粋な気持ちで思ったことを言い、思った通りに生きれば、かなりの割合で総スカンを食らいました。
私にだって善悪はありますし、迷惑にならないことを選んで行動しているつもりなのに、やることなすことが裏目に出ます。
それがなぜかずっとわからず、さりとて周りに合わせなければなりません。人の言うことを鵜呑みにして何とかやろうにも、その方がむしろうまくいかないのです。

私にかけられた「人世の呪い」は、こうして完成しました。
何度も心を病み、何度も立ち直って人間社会と向き合っても、人の世はいつも違う呪いをかけてきました。

今、その呪いを完全に解く最終フェーズに入っています。
その呪いを解けきった時こそ、私が本来のありのままの魂を取り戻す時です。

この覚醒は、春分の日が一つの区切りになるのでしょうが、おそらくその後も浄化は続くはずです。
人の持つ魂は、おそらく初期状態が完璧な状態なのだと思います。
しかし、肉体を与えられ、男か女として育ち、人として生きる学びの過程や日々の生活の中で、魂は曇っていきます。
その曇りを磨けば魂は輝きを取り戻すのですが、その浄化は簡単なものではありません。

だから、これから先も「魂を磨く」ということは、「学び」と「浄化」を交互に繰り返していくことになるでしょう。
それが一生を終えるまで続くのだとしたら、覚醒は一度したら終わりというものではなく、何度も何度も重ねていくのだと思います。

私は、自分らしさを出せば出すほど、「人から批判されるのではないか」「誰からも見向きされないのではないか」と自分で自分を抑制してきました。
この抑圧こそ、私が本来のエネルギーを循環させ力を発揮できなかった最大の要因です。

確かに、人の世でやっていくには「評価されない」のは死活問題で、評価を勝ち得ていかなければならないのですが、反対に自分を偽って成果を出しても幸福になることはできませんでした。
その同調抑圧で形成してきた社会が立ち行かなくなるとしたら、それに合わせる意味すら無くなります。
この板挟みから解放されるタイミングがこれから来るのなら、他者の評価を越えて、私の自由な表現を追求していけるターンに入ります。

「人世の呪い」は、私を長い間苦しめましたが、その呪いをかけた人世は、自らの呪いで自家中毒を起こし、これから手も足も出せなくなるでしょう。
その時、呪いから解放された私の魂は、最大限の力で動き回れる時が来るはずです。

そのエネルギーは、何かに合わせるために形を変えることもないため、波動が強ければ強いほど運やお金や人を巻き込んで行くはずです。
結果的に「世のため人のため」に無理して奉仕するよりも、よほど役に立つことができると思います。

先ほど、神様の声が心に響きました。

「これからは、立ち回れる範囲で暴れなさい」

これ以上、ありがたいお言葉はありません。
神様、恩に着ます。

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屋号「楽太郎」開業

楽太郎です。

本日、屋号を「楽太郎」に変更し、本日付けで開業届けを提出しました。

「楽太郎」というアカウントは、当初から絵描き名義で運用するつもりはありませんでした。
絵描きという職業は、多くを語らない方が好まれる職種です。
変に思想的だったり、奔放に発言するとクライアントに敬遠されがちで、ファンやユーザーも政治的な傾向を嫌います。

特にスピリチュアル関係の話は、いくら本音であろうとリスクが伴います。
それゆえ、社会の中でありふれた職業として立ち回るならば、精神的な話はしないに越したことはありません。

しかし、神様から瀬織津姫様を描くよう促されてから、尻尾を出さずにはいられなくなりました。
私は可能な限りこのアカウントでは絵を出したくなかったのですが、あれだけ強烈なインスピレーションが降りたらやらざるを得ませんでした。

その後は、ぼちぼち趣味程度に絵を描いたら上げていこうかな、くらいの気持ちでいました。
しかしメインの稼ぎ口の方でやめ時を悟り、これも神様のご意志だとはっきり認識しました。
とは言え、「神様のイラスト」を描いて収入に結びつける道筋は未だに見えない状況です。
それでも「楽太郎」のアカウントの方がまだやっていける活路はある、と思いました。

私としてはまだ自分のやりたい創作で食べていく道を諦められないのですが、それは稼業としてきちんとやっていけるようになってからでも遅くありません。
優先順位を考えた上で、神様も「楽太郎」の方で仕事をしてもらいたいのだと思います。

この流れを鑑みるに、「神様の絵」に関してどうやらお役目があるようです。
金運を司っている神様が与えてくださったお役目ですから、悪いようにならないのだとしたら乗る以外にないように思います。



本日開業届を税務署に提出したのは、名義変更をすることで「これからは天命のために働く」という意思表示をするためです。

以前の屋号は人世のビジネスに使い倒したので、その名義を神様のお役目に使い続けるのはどうかと思いました。
心機一転するには、開業届を出し直すしかないと考えたのです。

実は昨日提出した確定申告書類でしれっと変更後の屋号を書けば更新することができたのですが、失念していましたw
しかも、開業届も今では電子申請できますが、これは自分の足で赴いてやるから意味があるんだろうなと思いました。

税務署にて、どうせなら開業日を宇宙元旦の春分の日に合わせたかったのですが、「未来の日付では提出できない」とのことでしたので、奇しくも本日3月18日付けの開業となりました。

これまでの屋号を改めて始めた「楽太郎」は、神様のご意向を受けて開業した形となります。
神様のご意向とは、即ち天の役に立ち人のためになることであり、それは「日本」という国のために働くことです。

税務署に正式な届け出をしたということは、「日本」という国体に対して正式な表明をしたことを意味します。
現在の日本政府は傀儡に過ぎませんが、「日本」という国体は二千年以上の歴史がある由緒あるものです。
ご先祖様たちが命がけで守り、命がけで受け継いできたこの国に奉仕を誓うということは、日本人としての使命を担うということです。

税務署に行く前に、崇敬神社である「瀧澤神社」に参拝し、祝詞を奏上しました。
瀬織津姫様は、私の絵を楽しみにしておられる(と勝手に思ってる)ので、開業の誓願をしました。

税務署を出て昼食を食べようと街を歩きながら、アーケードにある「三瀧山不動院」に参拝しました。
お不動様に開業の誓願をし、おみくじを引きました。




開業日に、とても幸先の良いご箴言をいただきました。
お不動様にも、日本のために働きますと誓ったので、その意気込みを買って頂いたのかもしれません。
とは言え、裏面を見てみると…



さすが、仏の中でも厳しめな仏様のお言葉です(笑)

「口だけだと許さんぞ」

いかにも、お不動様のお言葉です…
後に引けなくなってきた…


というわけで、本日付けで屋号を変更し、「楽太郎」として再出発する運びとなりました。

これから、サイトを作り営業用の窓口を設置し、ビジネスの体制を整えていきたいと思います。
ただ、まだ「楽太郎」のお役目を完全に理解したとは言えないので、当面は神様のお顔を伺いながらやっていくしかありません。

私は長年フリーランスでクライアントの注文に従ってきましたが、これからは「神様」という上司の下で働くサラリーマンに近いような気がします。
さしずめ、「株式会社日本神界」という感じでしょうか。

上司が瀬織津姫様…なら、オーバーワークも平気でやりそうですw

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神に仇なすもの

楽太郎です。

だんだん覚醒が進むにつれ、これまでの人の時代にあった違和感の正体が明らかになってきました。
私は生まれつき憑依体質なだけでなく、エネルギーや波動を無意識に感じ取る能力がありました。
そこで思念や邪気を受けると、それを体内に留めてしまうため、様々な不調と隣り合わせでした。

「人間は自分が思っていたような存在ではなかった」

それが最近になって、ようやくわかったことです。
人を信じ、人と生きていけば幸せになれると思っていましたが、人は私が思っていたような存在ではありませんでした。


最近、街を歩くと「もうこの世界は持たない」と感じます。
私としては、ずっと思い違いであって欲しいと思っています。私はどの道この世界で生きられなくとも、その他大勢の人は何とか生きていられるでしょう。
別に、私にとって正しい世の中にならなくとも構いません。ただ、大勢の人にとって幸福な世なら何の問題もありません。

今朝、地元の小さな神社に祝詞を奏上するために伺いました。
禊祓詞の二段目あたりから喉が苦しくなり、大祓詞を奏上し始めてから咳が出始めて、中断したり間違ったりすることはできないので、我慢しながら何とか唱え終えました。

咳が出たのは今日この時だけなので、おそらく邪気です。この祝詞を妨害する邪気は、「神に仇なすもの」の類です。
私は、人々の邪気が煮詰まりすぎて、この邪気のように神へ仇なし始めているのではないか、と考えています。

街ゆく人々を観察した時、人々の波動が淀んでいるのを感じます。
スマホを見ながら歩く人はスマホに、カップルで歩く人は恋人に、友達と歩く人は友達しか視界に入っていないように見えます。
外側の世界から自分を守るため何かに依存し、その心の支えを絶対視し、信仰によって自我を保とうとしているとしか思えません。

それが神様ならまだいいのです。
神様に繋がるには、自分自身と繋がる必要があるからです。
神様の座るべき心の場所に、神様でないものを置けば、自分自身と繋がることは難しくなります。
依存の対象を信仰している間は、自分自身を見つめなくて済むからです。

彼らの異常なほどの周りの見えなさは、依存しているものに注視しているため視界が狭く、身の回りのことに目が配れなくなっているのかもしれません。
近くを通っても全く他人がいるという認識ができず、マナーの悪さも自覚できなかったり、私はびっくりすることが増えました。

自分たちで閉じた心の世界を作り出し、その依存でできた空間でエネルギーのやり取りをしているので、波動が淀んでいます。
確かに、外の世界や現実を直視すれば、傷つき不安になり生きていけない気持ちにもなるでしょう。

カップルも友達も、ずっと死ぬまでお互いが絶対に切れない関係でいられたらそれでいいかもしれません。
よしんば、私はそうであって欲しいとすら思います。しかし、この世界で生きるのは、残念ながらそう簡単なことではありません。

心の拠り所とする何かや相手が、ある日目の前から消えた時、目の前にあった昨日とこれから一人になる明日までの短い時間では、人は立ち直ることができないのです。

だからこそ、人は一人でも生きていけるように、確かなものを心に抱いて強くならなければいけません。
しかし、人間はなぜか一人で生きていくことを極端に恐れるあまり、自分に向き合うことを避けます。
そして何かに無理に依存するからこそ、信じたいものと現実との矛盾に苦しみ、どうにもならない邪気を内側に向けていくのです。

自分たちが変わりたくない、生き方を変えたくないという思いは、自ずと邪気になっていきます。
世の中は腐敗と巨悪が蔓延り、どんどん悪くなっていくのを目の当たりにしながら、変わることを恐れるがゆえに不平不満をどうすることもできないのですから、無理はありません。

神様は、そうやって今までの時代にしがみつく人々に、新しい時代を作るために変わって欲しいと思っておられるでしょう。
しかし、人間はそれでも自分を見つめ、何かをやり直そうと思わず、それゆえに不平不満をどんどん溜め込んでいくばかりです。
そこで発生した邪気こそ、まさに「神に仇なすもの」になりつつあります。

果たして、この世界を作ったのは誰でしょうか。
地球を作り、生命を育み、人類を生んだのは誰でしょうか。
人間にずっと恵みを与えてきたのは誰でしょうか。
人間を導き、今日の文明を作らせたのは誰でしょうか。

私は、神に仇なし始めた人間が、これからどうなるのかを考えた時、優しい言葉で表現することはどうしてもできません。

その危機感をひしひしと感じるからこそ、私はこの世界も生活も、そう長くは持たないだろうと感じます。
いや、私一人がそう思い実際には何もなくて、大勢の人々がこれからも何不自由のない暮らしが続くことに越したことはありません。

どこかで世界経済が崩壊しても、日本の外貨準備金で乗り切れたらいいでしょう。
外国の軍事支援を受けず、日本人が政治を自分たちで立て直し、自力で独立国家を確立すればいいでしょう。

しかし、今の日本人にそれができるでしょうか?

私には、右にも左にも行くことができないようにしか見えないのですが、それでもこのまま何とかなるのでしょうか?

もし私が一人で思い違いをしているだけにしても、私は神様を信じ、魂の示す道にしか進むつもりはありません。

どうせ行っても戻っても荊の道です。
この国に住む人々は、皆それを薄々わかっているはずです。
どの道、このままにしていたらどうにもならず、いずれ嫌でも変わらなければいけない日が来ます。

「自分たちの生活が脅かされる」という現象が目の前に現れた時に。

どうせ変わらなければいけない日が来るのだから、一日も早く心を決めたらいいのです。
それができなければ、遅かれ早かれ世の中に押しつぶされて生きてはいけないでしょう。
実は、それだけが確実なことなのです。

今、世は何もかも値上がりし、人々はお金を使いたくないがゆえにできるだけ安いものを欲しがります。
しかし生活の質は下げたくないし、できるなら工夫もしたくない。

「お金は欲しいけど、大事なのはお金じゃないことはわかっている」
「でもお金が必要だから、多少納得できないことをするのは仕方ない」
「自分がやりたいことはわからないし、どうせ夢なんて叶わないから、やっぱりお金さえ稼げればいい」


このチグハグな動機で、人々は毎日のルーティンを頼りに生きています。
何をしたらいいのかはわからないけれど、お金さえあれば何とかなるから、大切なのはお金じゃないけど、やっぱりお金が欲しい、お金さえ稼いでいれば間違いはない。

拝金主義、過剰にモノを消費する時代は終わったのに、逆にお金を欲するようになっている。
そう考えて行動する人たちを見て違和感を覚えているのは、私だけでしょうか。

誰もが本当のことを言わないからこそ、世に本当のことが知られず、誰も本当のことに気づかないのです。
少なくとも少しおかしいと思えば、そこから突き詰めて考えていけばいいだけです。

「日本人は変わってしまった」と思いますが、いつからはっきり変わったとは言えないからこそ、昔の日本人がまだいる感覚で世の中を見てしまいます。
しかし残念ながら、もう昔の日本人はいないのです。


私は、誰に何を求めることはありません。
自分一人でもやっていきますし、例え世の力になれなくとも、自分の心に嘘をつかずにやっていくだけです。
幸い、私の心の中には神様がいます。
だから怖いものはありません。

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瀬織津姫様を額縁に

楽太郎です。

先日、衝動的に瀬織津姫様のイラストをネットプリントに登録しました。
昨日の時点で用紙サイズを間違えてしまい、サイズを訂正して上げ直しました。

今日は、特にやることもないので(笑)確定申告を朝のうちにさっさと終わらせて、100均で額縁を買い、自分でネットプリントして瀬織津姫様を飾らせて頂こうと思いました。

昨日のミスプリントですが、一応神様の肖像画なので折ってゴミ箱に捨てるのも何だなと思いました。
私が最も敬愛する神様の肖像ですから、気軽に扱えません。
そこで、近所の河原でお焚き上げをしようと思いました。

そう言えば、私は自分で火を焚くなどやったことがないのですが、石でかまどを作って綺麗に燃やしている自分に驚きました。
私は自分で思っている以上に火の扱いがうまく、かなり綺麗に燃え尽きてくれました。
燃えている間は、軽く祝詞をお唱えしました。

大きく残った灰は土に埋めて、細かい灰は水で流しました。
河原でやったので、あとはいい感じに瀬織津姫様が川に流して下さると思います。

最近、自分じゃない「自分」が表に出てくるようになってきて、これまでの行動原理では説明のつかない行動ばかりをしています。
一番動揺しているのは、私自身です。

甘いものも好きではないですし、そもそもおやつなんて食べたくないですし、料理だって全くしたいとも思わないのにやってしまいます。
先日は、はったい粉で蒸しパンを作ろうとしたのですが失敗したことに気づいて、捨てるにはもったいないので油を敷いて焼いてみたら、意外と美味しい「お焼き」になって笑いましたw

本当に、今の自分はどこからどこまで「自分」なのかわかりません。
まあ、頭で考えて動かなくていい分、私自身は気楽でいいのですが…

そこから色々ありながらも額縁を買い、セブンイレブンに寄って「ネップリ」サービスで瀬織津姫様のイラストをプリントアウトしました。

額縁に入れたら綺麗にピッタリはまりました。
どうぞご覧ください。



お麗しい!お綺麗でございます瀬織津姫様〜‼︎

横にある水晶は、本物の水晶ではないのですが恵比寿様と龍神様のレーザー彫刻が施された置物です。
あと、背後にある金色の棒は大猷院の「龍神破魔矢」です。
実は右の方に、昨年末に買った千両がまだ元気に実をつけていますw

私は自分の絵を飾ることが今までありませんでした。
自分の描いた絵は粗が気になって、デッサンの狂いや歪みを見るとイライラするので、自分の絵をジッと見続けるなど考えられませんでした。

しかし、私の描いた瀬織津姫様はずっと見ていられるというか、まあ私以外にこのような瀬織津姫様を描く人間はこの世に存在しないので、否が応にも私の絵を見続けるしかないのです(笑)

まあ、それにしては何となく見るに耐えうるというか、飾って満足できるような絵が初めて描けたかもしれません。

あと、余談ですが買い物中、地元の街の凄惨な景気を目の当たりにしました。
買い物客も、品揃えの悪さと物価高で買うに買えないのか、青白い顔でフラフラ店内を回っていました。

私も気の毒だなと思いましたが、店内の邪気や買い物客の発する邪気を感じると私まで取り込まれそうな気がしたので、できるだけ波長を合わせないようにしていました。

最近、肌感覚で「これから信じがたいほどまずいことになる」という予感がしてきました。
これに関しては、危機感をわざと共有しない方が動きやすいというのも身に染みて感じます。

人間としての心中は複雑ですが、我々日本人、あるいは人間として、神様や地球やあらゆる生物にしてきたことの報いは、いずれ受けなくてはなりません。
私とて、無自覚に生き物や自然からの搾取を甘んじて享受してきた身であり、そのカルマは返していかなくてはなりません。

これからその大返済期間となるわけですが、今のうちにできる覚悟はしておかなければならないかもしれません。



それはそうと、瀬織津姫様!

あーっ!お麗しい‼︎
あーっ!瀬織津姫様〜‼︎

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「瀬織津姫命」ネットプリント開始

楽太郎です。

セブンイレブン系ネップリ、ファミマ系ネットプリントのサービスで先日描かせて頂いた「瀬織津姫命」様のイラストをネット印刷できるようにしました。

※プリント可能期間は3月23日までです。



【セブン系ネップリ】
・2
L判
 
100円
プリント予約番号:67888348

※手順…①「プリント」「ネットプリント」の順に選択 ②プリント予約番号を入力、入金後プリント開始

【ファミマ系ネットプリント】
・L判:30円 2L判:80円 
・シール紙L判:200円 2L判:300円
シェア用ユーザー番号:HKD523N2GB


【QRコード】
※手順… ①「プリント」「ネットワークプリント」を選択 ②シェア用ユーザー番号を入力し、入金後プリント開始

または、①上記の「QRコード」を読み込ませ、入金後プリント開始





なぜ唐突にこんな企画をやり始めたかと言うと、私が個人的に瀬織津姫様のイラストを飾りたかったからですw
なぜか「ネットプリント」というアイデアが降ってきて、いても立っていられなくなったというか…

瀬織津姫様、実はネップリやってみたかったですよね⁉︎

瀬織津姫様がネットプリントを楽しみにしておられる気がしたので、雨の中これだけのためにコンビニに行ってきました。
写真印刷がL判になることを失念していた私は、元データをハガキサイズで作成していたため、上下が切れてしまう形に…。

神様が見切れてるのはとても縁起が悪いですし、ミスプリだけを持って帰る形になりました。
ただ、こうして見ると完成度はまあまあです。



元データもLサイズに修正したので、たぶんまともに印刷できるかとは思うのですが、この雨の中を再度コンビニに行く気力はありません。
明日、改めてコンビニに行き仕上がりを確認してきます。

瀬織津姫様が喜ぶお姿を見たかった…(見えない)

ちなみに、このプリントをしても私に一銭も入りませんのでご安心くださいw

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「瀬織津姫命」新デザイン

楽太郎です。

今、絶賛アセンション反応中ですが、ある朝に自分の作風が「人世に合わせていた」ことに気づき、絵の描き方を見直しました。

私はこれまでの画風も嫌いではなく、むしろ好きだったのですが、何となく今の波動状態と合わなくなってしまったのを感じました。
わりとタッチや画風は自由に変えられるので、正直なところ元に戻そうと思えばすぐに変えられます。
ですから、自分の作風を今変えることに関しては、致命的なことではないと思います。

瀬織津姫様のご神璽を頂きに早池峯神社に参拝した次の日に、瀬織津姫様のリアルタッチのイラストを投稿しました。
その時描かせて頂いた瀬織津姫命像が、以前のアニメ調瀬織津姫様より感覚に近かったので、そのイメージに寄せてみたらどうだろうか、と思い描いてみることにしました。





瀬織津姫様は、他の神様と違って比較的どう描いても許して下さるというか、全く注文をつけることがなく自由に描かせて下さいます。
私の背中を常に押してくださっていると思えば、何となく浮かばれる気がします。
まあ、神様からすると「勝手にやれ」って感じかもしれませんが…。

新しい画風は、若干リアルタッチに寄せました。
浮世絵風テイストは落ち影を入れられないので、色彩で絵面を誤魔化すことができません。
ゆえに、線画表現を洗練させなければ絵として説得力が生まれません。
線による説得力は、即ちデッサン力です。これまでのアニメ調は線をデフォルメする分、塗りに説得力を持たせ描き込みを表現できましたが、線の強い画風ではそれができません。

それゆえ、この画風を続けるならデッサンのリアルな線を追求することになりそうです。
幸い、私はフォルムで形を取るタイプなので、慣れたらそれほど難しくはないと思います。

以前お描きしたイメージ画の瀬織津姫様は目を瞑っておられたのですが、あの印象そのままに今回の絵に落とし込みました。
私の脳内の瀬織津姫様は、はっきり物を言うタイプの利発な女性で、わりとぐいぐい来るタイプの女神様だと思います。
いや、私の好みのタイプはむしろ「セオリツ姫命」の方なのですが……
ロリロリしてるし……

アニメ調の「セオリツ姫命」とはイメージが違うのですが、セオリツ姫様も独特の可愛らしさがあるので、コスチュームを分けて別キャラ(?)として描き分けることにしました。
まあ、リアルタッチだとケガレを引っこ抜いて祓戸四神でバレーボールする光景は描きにくそうですし…。

このタッチで瀬織津姫様をお描きしたということは、他の祓戸の大神たちもまたお描きしなければならなそうです。
それは別にいいのですが、気吹戸主命をお描きする時はまた悩むでしょうね…。

ともあれ、意図せず広がっていく神様イラストの世界、今回初めて「神代絵」というカテゴリーを作成しました。

「浮世絵」ならぬ「神代絵」…。絵に描いた餅にならないようにがんばります。


追記:

先ほど、瀬織津姫様のイラストをネットプリントサービスに登録してきました。
プリントする際、写真L判の印刷になることを失念し、ハガキサイズでデータを作成してしまいました。


勿体ないので、こちらにおまけとしてアップしておきます。

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日本人に望むこと

楽太郎です。

今日は皆既月食の満月です。
私の自宅からも月食を観測しました。風速8メートルの風が一日中吹いており、今現在もかなりの轟音です。

満月に合わせて、強風で邪気を吹き飛ばしているような気がしてなりません。
これで人間の感情が収まればいいのですが、おそらく無理でしょう。
この風の音を聞くと、神様の怒りを感じざるを得ません。

私は今朝から何となく落ち着かなくて、行動が全て雑というか、精細に欠く感じでした。
満月の影響からか神経の昂ぶりがひどいなと思い、今日は気をつけて生活することにしました。

ジワジワと蛇の生殺しみたいに悪くなっていく世の中で、人々の苛立ちや不満を邪気としてひしひしと感じます。
私は全てが神様のご計画だと思って受け止めているため、苛つく人々にあまり同情はしません。
人々が困るのも魂の修行かカルマでしょうし、それ自体は仕方ないと思いますが、私の視界の中で惨い光景は見たくないな、とそれだけは感じます。
私は特にHSPなので、視界に入った時点で色々なことに同調してしまうのを危惧しています。

莫大なカルマを返さざるを得なくなった日本社会ですが、ぶっちゃけもっとカルマが深い国はいくらでもあるでしょう。
あまり神様の手の内を明かすと怒られそうですが、カルマの返済が比較的早い段階で来たのは、世界に対する日本の優位性と関係があるのではないかと思っています。

諸外国に比べ日本はカルマが低い方ですが、日本という国土に対するカルマの蓄積など、神様からすればそれが大問題のはずです。
神様がこれまで何万年と守ってこられた土地というだけではなく、何百世代にも渡るご先祖様たちの
血と汗と涙が染み込んだこの地は、ご先祖様たちが今も眠り、ずっと守って受け継いできた、命よりも大切なものだったはずです。

その土地を資産に見立て、矢鱈とビルを建て住宅地にし無計画に開発した挙句、山を拓いて太陽光パネルで埋め尽くし、日本人が少なくなったからと外国人に喜んで住まわせています。
この光景を神様やご先祖様がどう見ているのかを、日本人は考えたことがあるでしょうか。
いや、あるにしてもこの国を牛耳る集団には、この発想が微塵もないことくらいはわかります。

どうしてこんな国になってしまったのか、一体どうすればいいのか、私は考えると気が滅入ります。
数十年前まで、日本は世界一の経済大国でした。
その頃と今を比較してもしょうがないのはわかりますが、何をどのように間違えたら今のような国になってしまうのでしょうか?

当然、制度や政治上の問題もあるでしょう。
人口動態の問題もあります。しかし、それ以上に決定的だったのは、人々の「価値観」だと思います。

思い出してみてほしいです。
この数十年で、地域の商店街は軒並み郊外型ショッピングセンターに駆逐されました。
買い物をするにしても、ネットの方が品揃えが良く配送も早いです。その代わり実店舗のメリットはだいぶ失われました。
本はデジタルやネットに代替され、紙の本を買う人は少なくなり、電子書籍は外国の企業が販売代理店になっています。
音楽も映像もメディアがデジタル化し、サブスクもスマホも外国企業がサービスを一元化しています。

このプロセスの中で、日本の商業の多様性がだいぶ失われてしまいました。
それは「時代の流れ」と人は言うでしょうが、その時代の流れとは、「便利さと利得」だけを選択していった結果なのではないでしょうか?

便利さと利得を優先した結果、大衆は大企業の製品やサービスだけを求めるようになり、中小企業は大企業の寡占に耐えきれず駆逐され、大企業の寡占は腐敗と癒着を産み、現状のような多様性のない経済を形成しているように見えます。

今、何かを起業したりサービスを始めるにしても、大企業の傘の下で風呂敷を広げるか、大企業相手に仕掛けるしかありません。
圧倒的なシェアの中でビジネスを始めれば、最初からハンデを持つかマージンを取られることが前提となります。
サービスの内容によってはサービス元に検閲され、規約は法律以上に融通が効かないものになります。

この産業形態の一元化によって、あらゆる業者は同じことしかやらなくなっていきます。
同じことしかやらなくなるということは、想像力や多様性が失われ、挑戦もイノベーションも阻害されることになります。

思えば昭和の頃、いくら若者の人口が多かったにしても、パソコンもスマホもない時代で午後5時上がりの勤務をしていて、日本は世界一の経済大国になりました。
しかし今、これだけデジタル技術が進み外国人の手が入り、しかも残業までこなしているのに人手不足で万年給料が上がらないわけです。
果たして、この現象を「技術が高度化して業務が複雑化した」の一言で済ませられるでしょうか?

私には「便利さと利得」の追求が社会を複雑にし、その仕組みがこの国から国富と国民の幸福を奪っているように思えてなりません。
システムのどこかに致命的な陥没があって、そこから日本人のエネルギーが大量に流出している。
このことを、もっと本気で追求するべきなのです。

日本人の真の問題は、問題に対しての流されやすさです。
自分で考えるよりも権威筋の話を聞き、納得して世間話程度で話を済ませ、何かをした気分になることです。
それは、残念ながら原因を知ったことにも、問題を解決に向かわせたことにもなりません。
このことにすら気づかない鈍感さが、今の状態を作り出したのではないでしょうか。

今の日本人は、目に見えないものに意識を向けるのが一番難しいのだと思います。
目に見えないものに意識が向かないから、自分が見えている以上のものを知ることができないのです。

優しさも愛情も理解も、目に見えないものだからこそ認識できず、ゆえに優しくできず、愛情を向けられず、理解することもできません。
他人の心がわからないから自分の心もわからず、問題に対して何をしたらいいのかわからないのでしょう。

世界の全てが目に見えるものしかないから、自分を幸せにするものを目に見えるものだけで揃えようとし、自分を不幸にする原因も目に見えるものだけにしか見つけることができません。
そして問題を解決する方法も、目に見える手段しか取ることができないわけです。

その唯物的な世界はある意味シンプルで、一次元的な世界ゆえに難しく考えなくてもいい世界です。
そのお手軽さに浸かりきったせいで、日本人は自分の頭で問題を掘り下げる能力が欠落してしまったのだと思います。

この国を本気で取り戻そうと思うのなら、自らの正義のために世を変えようとするのではなく、世の善悪を軸にして動くべきなのではないでしょうか。
世の善悪とは法律やルールではなく、「良心」です。
今こそ、日本人の本来の価値観を呼び戻し、この良心で秩序を戻していくことが必要だと思います。

日本人は古来から、「目に見えるもの」に「目に見えないもの」を見てきました。
それが万物に神を見る精神であり、八百万の世界観です。
この肝心の部分を蔑ろにして、この国は取り戻せません。

私は、まだ間に合うと思います。
少なくとも、大難はまだ小難にすることは可能です。
悲惨な光景を目にする前に、一人でも多くの人に目覚めて欲しいと思います。

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神、試練、浄化

楽太郎です。

明日14日は皆既月食を伴う満月だそうで、かなり大型の浄化が起こりそうです。

私は相変わらずアセンション反応でダウン中です。
それどころか、瀬織津姫様の神社のWEBおみくじで今週二回目の「凶」が出ました。
毎日おみくじを引いて、凶が出ることすら数日前までなかったのに、これだけ続く上に内容は「大人しくしてなさい」です。
瀬織津姫様が仰るのですから、神様の言う通りにしなければなりません。

ちなみに、私が毎日おみくじを引く崇敬神社「瀧澤神社」のサイトはこちらです。
よろしければアクセスしてみて下さい。

火防瀧澤神社


この浄化作用の中で、私のキャリアの実績やこれからの予定までリセットを促されています。
昨日の朝に起きたら、これまで人にウケるように無理して作風を作っていたことに気づきました。

私としてはそう意識したことはありませんし、むしろ売れるなら望ましいくらいに思っていました。
自分の絵柄や作風にあまり違和感はありませんでしたし、むしろ気に入っていました。

昨日、以前描いた「瀬織津姫命」のイラストを見た時も、なぜか気持ち的にしっくり来なくなっていました。
どう表現したらいいのかわかりませんが、「子供っぽいな」と思い、何となく気恥ずかしくなりました。

昨日の朝に初めてそう思うようになりましたし、これまで全くその角度で感じたことがありませんでした。
これも浄化の作用なのかな、と思います。
おそらくこれだけ感じ方が変わると、以前のような作風を維持することは難しくなるかもしれません。

この期に及んで作風を変える、というのもかなり思い切っていますが、いずれにしろこれだけやって売れないのですから、変化はむしろ喜ぶべきでしょう。
私はわりとタッチを自由に変えられる方ですが、自分にしっくり来る作風は吟味する必要がありそうです。

徐々にですが、体で感じるエネルギーの流れが自然になり始めている感じがします。
もうすでに私の魂は先が読めていて、神様と話も済んでいるのに、私の心だけがついていけてないのかもしれません。
おそらく私は数年前から、この変化のために様々な準備をしてきたのだと思います。


今、世の中は通常運行でこの先もやっていこうとしています。
この世界を支配する権力構造が盤石すぎて、揺らぎながらも一応は崩壊を見せてはいないため、何も変化がないように見えています。

街の風景や店の雰囲気を見れば一目瞭然ですが、これは単なる不況の空気ではありません。
工事現場は、簡単な工事なのになぜか数ヶ月かけて一向に終わりませんし、店の店員も会社の社員もどこか投げやりです。
今回の不況の違和感は、「何とかこれを乗り越えよう」という気持ちが誰からも感じないことです。

この社会の裏側と、上の方でおかしな仕組みができている。
この不自然さは、勘のいい人ならすでに気づいているでしょう。

日本人は、根本的に何かがおかしくなってしまいました。
おそらく、この資本主義の競争社会の中で「消費」のために費やされたエネルギーは、世の仕組みにある澱みに全て吸収され、もはや絞り出す余力もないのでしょう。

そうして気が枯れた人々は、「穢れ」を社会にもたらすようになりました。
それはここ数年の話ではなく、数十年かけて日本人は負のカルマを蓄積してきたのです。

私の半生は、人の世で成功するために挑戦するというより、この「穢れ」から魂を守るための防衛戦だったのだと思います。
神代を作るのが魂の目的なのですから、人世のラウンドはゴングが鳴るまで立っていれば「勝ち」だったのでしょう。

日本社会でのやりづらさは、優しさや親切心、努力や誠実さ、そういった人間としての美徳が形ばかりは評価されても、内実は軽視されていたことにあります。

私が人に対して無邪気に接しても、その純粋さは必ず陰で嘲笑われていました。
裏切られ心が塞ぐたびに、嘲笑を振り払うため知識や実力を身につけ、強くなろうとしてきました。
その原因が「人と魂の毛色が違うから」などと気づきようもなく、私は自分と他人を呪い続けていました。
けれど、今になってみればお互いの相性が絶望的に悪かっただけで、呪いをかけ合う道理などどこにもなかったのです。

今、その呪いを解くための浄化が私に起こっています。
人と自分にかけた呪いこそが私のカルマであり、このカルマの解消はもうじき終わるはずです。

これまでの半生は、人世が終わり神代に至るタイミングに合わせて計画された、魂の「カリキュラム」だったのだと思います。
それにしては酷い授業内容でしたが、私が落第しまくったせいで偏差値の低い学級に放り込まれていたのかもしれません。

ただ、人間は魂の修行のために生まれて来ると言われていますが、目の前の出来事が予め修行だとわかれば修行になりません。
「罰」だと思って打たれる鞭と、突然打たれる鞭では痛さが違います。

例えば、私の目の前に神様が現れて、「これから試練が来るから耐えなさい」と言われたら、どんな困難も「修行なんだな」と割り切って難なく乗り越えたかもしれません。
わからないからこそ不安になり、本気で問題にぶち当たり、真の修行を経験します。
神様も「いるかいないかわからない」ように振る舞い、試練も「修行かどうかわからない」という現象で現れるため、人間にとっては見分けることすらも修行になるのでしょう。

要は、何事も不運は「修行」、幸運は「神様からのご褒美」と思って切磋琢磨していれば生き方に困ることはありません。
人と神が繋がっているのだとしたら、生きるというのは人間が思うよりシンプルなことなのかもしれません。

人は神の「分霊(ワケミタマ)」を頂いて生まれてくると言われますが、神の一部であることは自分の中に神が宿っている、ということです。
おそらく、魂に宿る神の声に従って生きていけば、誰もが過不足なく生きられるのだと思います。
魂の赴くままに生きることで才能を開かせ、その行動によって調和のとれた人生になっていくはずです。

しかし、人間は生きていく上で欲は出ますし、気が枯れて邪気が溜まると、下手な知恵に頼り邪に楽をしたくなります。
その言動が咎められることなく、むしろ他の人も同じようにし始めたら、調和は乱れ誰もが邪な方法で楽をしたがるはずです。

現代社会で起きている事象は、まさにこれではないでしょうか。
この世に蔓延った邪気を浄化するには、神々の祓いと人の培った「カルマ」の解消がなくてはなりません。

神様はそれを人間に促すために動かれています。
神々が「罪穢れ」を浄化するのは、本来は神の一部である人間が穢れを祓うことで神性を取り戻し、あるべき姿で生きていくことができるからだと思います。
本来の姿で生きる人間は、よほどのことがない限り順当に幸せになれるのです。
神様はひたすら、人間に思い直して欲しいと願い、そうするようにずっと促されているように思います。

このことをもっと人間が受け止めて、素直に自らの心や神様の声に耳を傾けたらいいのに、と思うのは私だけでしょうか。


今朝、散歩をしていて、道を這うカタツムリを踏んでしまいそうになりました。
このままでは危ないと思ったので、近くの茂みに置いてあげました。
そこがこの小さな子が大きくなるのに適した場所か、カタツムリが好む場所だったかは、私にはわかりません。
私はそのカタツムリを拾って助けてあげることはできても、その子の命に最後まで責任を取れるわけではありません。

しかし、神様は違います。
神様なら、この子が大きくなるまで見守ることも、うまく生き延びられるように導き続けることもできます。
人間の一挙手一投足、頭の中の機微に至るまで見通し、肉体を持たず時間の概念がないからこそできることです。
その命を面倒見ようと思えば、最後まで世話をすることもできるでしょう。

私は誰かの幸せを願い、何かをしてあげたいと思ったとしても責任を持ち続けることはできません。
それでも、神様はそれができ、ゆえに愛情や慈悲を惜しみなく人に施しておられるのです。

この素晴らしさは、人間には簡単に理解することはできないでしょう。
神の存在と恩恵を知る者は、神の愛情や慈悲を受けられるがゆえに、いち早く幸福を手にすることができるのだと思います。

人は、もっと神様を信じればいいのに、と思います。
人にとって目に見えないということが、それほど許容できないことなのでしょうか。

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「神」の語源

楽太郎です。

現在、好転反応中につき身動きが取れません。
絵を描くとかの騒ぎではないので、興味あることを調べています。
最近、巷でよく「働く」とは「傍(はた)を楽にする」ことだと言われているのですが、ずっと「本当かなあ?」と思っていたので、この機会に調べてみました。

私が参考にしたのは、坂本小見山さんの動画です。「働く」の語源についてまじめに考えてみた

これによると、言語学的に考えて「働く」の語源は「徴(はた)る」「はた(はた)-らく」の派生であるのが有力らしく、「傍を楽にする」は掛け言葉、いわゆる「当て字」だそうです。

かなり権威筋も使っている用語だけに、これは目から鱗が落ちました。
スピリチュアルな人は特に、神秘に偏るからこそ科学的な目線を失いがちです。
いくら神様と繋がっていると言えど、半生をかけて研究してきた人の学識を蔑ろにすることはできません。

私はこの気づきから、言語学的視点から「神」の語源を調べられないか、と思いつきました。
今回、私が参考にしたのは以下のサイトです。

和風原論 神からカミへ

国語学者の阪倉篤義氏によれば、「カミ」は「クマ」と近い言語グループに属するそうです。
かつて神の御料を「カムシロ」「クマシロ」と呼んでおり、「クマ」は山奥にいる神聖な存在を指したとされています。

確かに、「熊」は山奥にいる生態系の頂点にいる生物であり、かつては人間が太刀打ちできない脅威であったはずです。
また、熊本県には「珠磨郡」がありますが、この「球磨(くま)」には昔、大和王権に抵抗した「熊襲」がいたとされます。

ちなみに、球磨郡の北方には「玉名市」があり、ここは神武天皇の母上であらせられる「玉依姫」ゆかりの地です。
「玉名大神宮」は、おそらく我がご先祖様、菊池則隆公が建立した神社であり、公の御息女「玉依姫」の墓石が祀られております。

同市内にある「伊倉南八幡宮」は、かつて熊襲鎮静を祈願して南向きに建立されたそうですが、このすぐ南には球磨郡があります。
玉依姫命の「玉」とは「霊」を差すと言われますが、この「玉」は「クマ」には語音的にならないとしても、「球磨」となれば勾玉やその関連もあるのかもしれません。
この辺は、学術的に深く検証してみたいところです。

ともかく、「クマ」と「カミ」はとても近い語形だそうです。
「クマ」は「山、川、道などの曲がって奥まった場所」を指し、母音を変換した「カム」がi母音をつけて名詞系に変化したのが「カミ」であるとしています。
つまり、「奥まった隠れた地にいるもの」を「クマ、カミ」と言っていた可能性があります。

熊襲は山に隠れし山賊的な部族であり、また古代の巫女も山奥に一人住んでいたと言われますから、山奥にいる人々は隠れた存在であるがゆえに、「クマ」と関連づけられたのかもしれません。

また、「カミ」にはもう一つ始原があり、「カミ」は「シモ」と対を成す「モト」を意味する言葉であったとされています。
「川上」や「川下」という概念に近く、川上は山奥にある水源であることが多いことから、「クマ=カミ」の語彙と親和性があるとされます。

ただし、以下のブログ記事によると、「上(カミ)」と「神(カミ)」の「mi」における上は甲類、神は乙類の語系で、言語の系統が違うそうです。

「神」の語源

この記事の興味深い部分は、川上に用いられる「上」は、水を指す「kalm-」という発音に相似性があり、「ka」も「mi」も水を指す言葉であった可能性があります。
そう言えば、「川」も「kawa」と発音をします。
また、川下の「下」は、「sam-」から来る言語郡から派生しており、「島」や「霜」に繋がっているそうです。
心なしか、伊邪那岐命と伊邪那美命の国産みに近いイメージがあります。

冷静に考えると川上の水源は山奥深くにあり、人が立ち入ることができない秘境です。
そこに目に見えない神秘的な存在がいるはずと、太古の人々が想像するのは自然なことです。

私はここで、この「kami」という語は主に淡水を指していることに気づきました。
淡水の神様で思いつくのは「瀬織津姫命」です。
水源や滝、川や泉にお祀りされている神様の代表格が瀬織津姫命様です。

人間は海水では生活できないので、文明は大抵淡水のある場所に発展してきました。
古来より日本人もそうで、私は「神の原型が瀬織津姫命にあるのではないか?」と大胆な推論を立ててみることにしました。

余談ですが、日月神示では、神を「火水」と表記していますが、これは日月神様の洒落た言い回しであると思います。
「火」の「ka」は音読みなので中国由来の読み方であり、「神」の「ka」はむしろ当てるなら「日」の方が相応しいと思います。
「日」は「五日」などと使うように、古来から「ka」という使い方をされてきました。
「神」を「日水」とするなら、伊勢神宮に祀られている天照大御神の荒御魂が瀬織津姫命だとされているイメージとも一致しますが、あくまで妄想です。

さらに妄想を広げると、邪馬台国を治めた「卑弥呼」の「呼」が感嘆詞でないとするなら、「比咩子」「日實子」であり、「日水子」の当て字もできると面白いなと思いました。
なお、「日ミ子」は「ヒミコ」「カミコ」であり、神格を取ると「巫女(みこ)」となる、と空想に近い推論もできるかもしれません。
ここら辺は、言語学的な検証をしたらめちゃくちゃな話になるかもしれませんがw

「クマ=カミ」がいると思われる最有力な場所は、水源がある山頂付近であり、太古の人々は山に神が宿ると考えていただけに、恵みを産む淡水の源に神を想像したのかもしれません。
かつて、大和朝廷を悩ませた土蜘蛛は、地方部族が信仰する巫女であったとも言われており、卑弥呼も山奥に住んでいたことから、「巫女=比咩」と山奥にいる女神の親和性は高かったのかもしれません。

話を戻すと、日が昇るのは山の頂上からであり、山の奥にある水源とも遠からず連想できます。
またここで、「太陽」と「水源」の相関を見ることは可能です。

ゆえに、私は「神の原始イメージは瀬織津姫命にこそある」と学閥・神道界無視の持論を掲げ、本記事を締めようと思います。

瀬織津姫様しか勝たん‼︎

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