招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

引き寄せない法則

楽太郎です。

昨日は仕事の追い込みで、完全に片付けなくてはいけない日だったのですが、身体がガクッと動かなくなりました。
作品を仕上げなければいけない、という一心だったので、身体が動かないことへの焦りや不安もどっと出てきました。

私は魂の覚醒を経験してから、一切の無理が効かない身体になりました。
自分自身に嘘をつけなくなったからです。

魂の要求を自我でグッと抑えつけると、魂のエネルギーを引き出せなくなり、結局パワー不足に陥ってしまいます。
これは、日頃の無理で魂にストライキを起こされたんだな、と割り切って休むことにしました。

特にこの時の体調の出方が、好転反応に近いと思いました。
それはいいとして、なぜ追い込みの一番大事な日に来るのか、と落ち込みました。

好転反応は、自分の魂が成長できるかを試されるタイミングでもあり、それがあまりに辛い状態をもたらすため、これを乗り越えれば状況が良くなることに気づかず、成長を取り逃がしてしまうこともあります。

横になって自分の身体を冷静に見つめた時、相当我慢してきたことに気づきました。
睡眠時に食いしばりが起きているせいで、疲れが抜けきらないのも、日頃のストレスにあるのはわかっていました。
それでも、目の前のことをやりきらなければ、お金も入りませんし身の回りの人を助けることもできません。

でもなぜか昨日ばかりは、神様の応援が外れている感覚がずっとしていて、私を見守ってくださっている瀬織津姫様のお力も感じなくなっていました。

作品を仕上げる直前になって、なぜあれだけやる気を出して取り掛かれていたことに、身体から拒まれてしまったのかを考えました。
私の心を覗いてみると、「私はこのチャンスをものにしたくないのだ」と気づきました。

それは私が、私自身にかけた呪いに他なりません。
「こんな自分ではダメだ、うまくいくはずがない」
「どうせがんばったところで、またダメになる」
そう考えるのは、私自身が「ダメな存在」としての自分を変える恐怖があったからだと思います。

私がチャンスに弱い原因は、肝心なところで「自分を変える恐怖」から失敗を誘発し、その挫折経験を延々と後悔に変換していたからだとわかりました。

この悪循環は、私が顕在意識でどれだけ変わろうとしても、どれだけ努力しても「成功したい」と思えば思うほど、「ダメな自分でありたい」という心理的逆転が強化され、強いウップスを発生させていたのです。

「変わりたい、成功したい」と思えば思うほど、深層意識は真逆の方向に向かい、「引き寄せの法則」ならぬ「引き寄せない法則」となっていたのでしょう。

このトラウマの原因は、最初は小さな失敗経験だったのだろうと思います。

それは子供の頃の小さな心の傷が、自分の知らないうちにまた同じところに傷を作っては、どんどん傷口が深くなっていったのかもしれません。
傷が思ったよりも深いことに薄々気づいた時、その痛みやショックを誤魔化すために傷口を握りしめ、ずっと痛みから耐える状態にいたのでしょう。

それは気の遠くなるような我慢で、何十年もかけて私は心の奥底で痛みを抱えていました。
怪我はちゃんとケアしなければ、悪化もするし治りづらいものです。
その痛みを抱えているうちは、心が癒されて魂が健康な形で発露することができません。

瀬織津姫様が加護の手を止められたのは、身体に鞭を打ち続ける私に力を貸すのではなく、まず癒した方が成功に導けると考えられたからだと思います。

私の積み重なった心の傷は、私の子供の頃からの素直な愛情から来たものでした。
その愛情が裏目に出たことで起きた苦しみ、憎しみ、嫌悪、怒り、悲しみ、それらの負の感情や愛情そのものも、蓋をしてなかったことにしようとしていました。

だから、私は自分の気持ちを素直に表現し、明るいビジョンや夢を純粋なエネルギーとして使うことができなかったのです。
私の魂からくる感情に従えば従うほど、受ける傷は深くなり、その痛みも耐えがたいものになるからです。
そして、「ダメでもいいから変わりたくない」というところまで心を閉ざしてしまいました。

心と肉体を繋ぐ根元にあるこの傷を、自ら癒そうと思った瞬間、言葉にならない感情と涙が溢れて、私はどんどん楽になっていきました。
つまらないこだわりや、苦しい記憶や自分自身に対する思い込みを抱えては、私は成功することができないのだろうと思います。

今も、時間が差し迫る中で焦りはあるのですが、それでもまだ自分の魂に寄り添う時間は必要だと思います。
何が一番大事なのかを考える時、それは神様のご意志であり、自分自身も神様の一人であり、神の力を侮ってうまくやろうとしても、おそらく無理なのでしょう。

私は、おそらく人を愛するために生まれました。

人を素直に愛しながら、矛盾した気持ちを抱えてもいいし、人を憎んでもいいし、傷ついたら痛いと言っていいし、好きだと正直に言ってもいいし、自分を一番大事にしてもいいのです。

その魂の自由を、自分に許せばいいのだと思います。
これから、きっといいことがあるに違いありません。

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共食いと意識変化

楽太郎です。

現在、世を浄化する一つの方法として「炙り出し」が行われています。
現象としては事件、スクープ、炎上、暴露などの開示によって、「悪人を人に叩かせる」という構図になっています。

これらは、一見すると良い傾向に思えるかもしれません。
神代に導かれている人は、これらの問題がいかに身近であろうと、たとえ腹立たしくても、まともに受け取って没入するべきではありません。
なぜなら、これは「人が人世で起こしている禍事」であるからです。

俯瞰してみましょう。
ある不祥事があり、その事件の原因は私利私欲や悪徳に溺れた人間が起こす禍事であり、反してそれに自前の正義感を振り翳して怒り、禍事を起こした人間を糾弾する行為もまた禍事です。
この批判者たちは、自分たちが絶対に正しく、間違いなく世直しができていると信じています。

しかし、ある一人の無法者を裁いたところで、世のどの部分が変わったのでしょうか。
この手の不埒な輩が出ないように、いつか本当の意味で世直しができていたら、この禍事のようなことは発生していなかったのではないでしょうか?

私は長年、Twitterをやっていました。
言論を扱うアカウントを運営していたこともあります。経済や政治も社会情勢も、かなり情報を追っていました。
ただ、その活動が実ったという実感はほとんどありません。

SNSをやっていくら正論を吐こうと、いくら共感はされても、その共感が行動に繋がることがほとんどありません。
「大量注文されたパンがキャンセルされたので助けて」みたいな投稿はバズって、パンが無事に売り切れたりもします。
しかし、「マスコミが外国のプロバイダを垂れ流ししている」という事実がいくら白日に晒されようと、一体誰が変革的な行動を起こしたのでしょうか。

あまりに複雑すぎるテーマは、どんなに心が動かされようと人間には解決方法すら思いつきません。
あわよくば、その怒りは140文字に収めて「いいね」がついて共感してもらえば、何となく世の中が前に進んだ気持ちになってはいないでしょうか。
この問題への対処方法が、錯覚だったとしたら?

穿った目で見れば、このガス抜きのシステムすら社会秩序を骨抜きにするように働いていた可能性すらあります。
「世直し」だと思ってやっていた言動は、ただ正義感を発散するためのポルノであって、実際は世の中を1ミリも良くしないどころか、「正しいことをしている」と錯覚している分、世の中を退化させてはいなかったでしょうか。

そして、この叩き合い、潰し合いの世直し行動は、私からすれば「共食い」にしか見えていません。

私がTwitterをやめたのは、Twitterの世界はTwitterの中だけの世界であり、それ以外の数多の世界や数々の現象とは無関係であり続けると確信したからです。
SNSが世の中を変えるきっかけになりはしても、SNSで世の中を変えているわけではないのです。

その微妙なズレがあまりに認識しにくいからこそ、炎上が世直しの一環であるとまだ人々は勘違いをし続けています。

では、本当の意味での世直しとは何かと言えば、「人々の意識変化」に他なりません。

法制化や基盤づくりは、人間の良心の底が割れているから必要になるものです。
昔の日本を思い出して欲しいのですが、家に鍵をかけずに外出したり、野菜の無人販売所に監視カメラがないのは当たり前でした。

「バレなければ何をしてもいい」という浅ましさが、この国や世界をここまで腐敗させたのではないでしょうか。
だからこそ、本当に必要なのは人間が良心を取り戻すということです。

しかし、「良心」は自制心や理性や思いやりとセットなので、欲望を優先することができません。
良心があれば、好き勝手できないのです。ただ、自分中心に「好き勝手やろう」と思ううちは、本当に良心が備わっているとは言えないでしょう。

人間が行うべきなのは、厳罰化でも全監視でもなく、人間本来の倫理観を取り戻すことです。

それは怒りや義憤から生まれるものではありません。
人間が自らを正しいと思えるのは、自らが正しいと思い上がっているからです。
自分は間違っているかもしれない、実は迷惑をかけているかもしれない、そもそも煽動されているだけかもしれない、など。
そういった可能性がありながら、疑念を自らに向けられない理由があるとしたら、「謙虚さ」というバランス感覚を失っているからではないでしょうか。

「自分には他者を蹂躙しても、得する権利がある」と考えた人間が行う謀略で、この世界は狂ってしまいました。
しかし、その横暴はこれまでの世で可能だっただけで、お天道様から許されているわけではありません。

人も神も、それについて厳格なルールを作らずにやってきたのは、「謙虚さ」というバランスで秩序を維持してきたからです。
その謙虚さこそ良心の源であり、自分が生み出された、助けられている、生かされている、という「小さきもの」である当たり前の自己認識があるからこそ、謙虚さは人間に本来備わる感覚です。

しかし、その謙虚さを忘れ「法に触れなければ何をやってもいい」という考えに行き着いた時、人間は無限に富と権力を求め、神同然の振る舞いをすることを理想としてしまいました。

そして現在、ここまで膨張した利権を壊す力は人間界にはありません。

私たちは、神様が存在するか、神代が来るかどうかに思いを馳せる以前に、このままの人間中心の文明では遅かれ早かれ、干上がって滅びるはずです。
その人類を救うには神様のお力が必要なのは言うまでもありませんが、最も求められるのは人間の「意識変化」です。

人間の意識変化は現状、難しいことです。
それについて神様も思い悩み、いくら警告しても人間の心にはそれほど届かないようです。

それでも、地球が変化への意志で新しい姿への移行を続ける限り、その上で生きている人間は変わらざるを得ません。
それがわかるまで、人類はどんな形であれ「思い知らされ続ける」のでしょう。

それは一見、悲惨に見えるかもしれません。
ただ、人々が一滴の涙も惜しいと思うならば、今この瞬間から考え直すこと以外にありません。

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神様に選ばれなくても

楽太郎です。

神様とのご縁が深まっていくにつれ、街の雰囲気と私の視界の感覚がどんどんズレていっているように感じます。

おそらく、人類の霊的二極化によりポジティブな世界、神代に繋がる道を選んだ人々は、世界の美しさと荒んでいく現状とのギャップに驚いているはずです。

私は実は秋分を越えたあたりで、すでに視界に変化が出始めていました。

景色がプリズムがかってキラキラ見えるのは、目がおかしくなったのだと思っていました。
その頃あたりから、空が異様に近いと感じて、街が特撮映画のミニチュアのように見え始めました。
幸せそうな人たちを見るとなぜか嬉し涙が出て、頭にある理解を超えた心の変化に戸惑いました。

今思えば、その頃には神代に行くための準備が始まっており、もうすでに私には次の世界が見えていたのだと思います。

私の魂は、もう次の地球に渡っていると感じています。
しかし、それは第六感としては実感できても、何の根拠もありません。現実的には何にも変わってないですし、「思い込みだ」と言われたら、反論できないかもしれません。

けれども、この不確かさを信じられるかが、神様のいる世界へ渡れるかの「試練」そのものだと思います。

人間たちの世界を選んだ人々は、この「目には見えないものがある」ということが理解できないからこそ、古い時代に居残ったのでしょう。
神代に渡る人たちは、「目には見えない」不確かなものを感じ、それを信じて行動できるからこそ、物質中心の世界を捨てて新しい世界を選択できたのだと思います。

おそらく、神様は「目に見えない」からこそ、それを利用して私たち人間を試されます。
仮に、誰にも神様が目に見えてはっきり声が聞こえるとしたら、人間は神様に頼りきり神様の言うことだけを聞くでしょう。

それでは人間にとって、魂の成長にはならないはずです。
神様はあえているかいないか微妙なポジションに立ち、人間が自分たちを本当に敬えるのかを常に試されるのだと思います。

ですから、神の存在が不確かだからと言って、その自信のなさから神様を諦め、元いた場所に引き返すべきではありません。
これまでの人間社会にいれば、いずれ文明が存続しようがしまいが、私たちが生きていける世の中ではなくなるはずです。

この悪意に塗れた世界で安寧を得ることに賭けるより、神様のいる新しい世界に希望を求める方が、本当の意味で前向きなことではないでしょうか。

その上で、自分が神様のご加護が受けられているか、そもそも神様のいる世界に導かれているのか、不安な方もおられると思います。
私も、その気持ちは痛いほどわかります。
確かなものは自分の中に求めるしかなく、その確信すら錯覚の可能性もあるからです。

ただ、私たちがなぜ神代を目指すかと言えば、自分だけが救われるためではないはずです。

神様に選ばれた、選ばれないという選択が気になるのは、まだ自分だけが助かりたいと思っているからです。
しかし、神代は神様や神様を慕う人々と協調しながら新しい世界を作っていく時代なので、有り合わせの天国に辿り着けるわけではありません。

神代に渡ることは、神様と一緒にどんな世界を作るのかを考えるということです。

そこで人類が搾取や不平等から解放され、各々が尊重される自由な社会に至るにはどうしたらいいか、神様と同じ目線で神様のために働き、神様が喜ぶ世界を作るにはどうしたらいいか、それを考え行動するからこそ、私たちは神様のお導きを得られます。

従って、自分が神様に選ばれているかどうかは関係なく、結果的に人々が救われ、神様が喜ぶ世界を実現することが神代の道であるはずです。

神様と人間が平和に暮らす世界が、この地球にいずれ完成すれば良いのであって、それは自らの思想と行動の積み重ねで実現しうるものです。

だからこそ、「自分は神様に選ばれていない」不安はあっても、神代のために行動することができれば、誰しもが神代に至れるのだと思います。

なぜなら、人間と神様が喜ぶ世界をイメージする力こそ「神代」そのものであり、問題はそれに対して人智を尽くせるかだけだと思います。

私たちは、もはや世界の行く末や自分の行く道すらも自分たちで決められる瞬間にいます。
だから迷わず、自らの信じる世界を作るために、勇気を持って前に進んで行きましょう。

神様は、おそらくその行動を起こせる人に加護を与えて下さるはずです。

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「表現」とお金

楽太郎です。
今回は、私自身の話をしたいと思います。

私はクリエイティブ関連の仕事をしています。
とは言え、名乗っても誰も知らないでしょう。
これまで数年、下請けの仕事ばかりをしてきました。名前がクレジットされる大きな仕事はほとんどありません。

多くの人々からは、クリエイティブの世界は花形に見えるかもしれませんが、実際はどこにでもある弱肉強食の世界です。
基本的に人々は無条件に無関心ですし、作品を作ったとて見向きもされず、相手にされません。

しかし、人に注目されるセオリーというのもあって、それはこの業界を生き抜くハックのようなものです。
そのハックというのは、「多くの人に知られ、すでに人気のものに乗る」ということです。

これは人気作家の登竜門として、鉄壁のマニュアルのようなものです。
誰もが当たり前のように採用する処世術なので、このセオリーから外れた途端、大勢の視界に入らなくなります。

ここで、もう少し遡って話をします。

私はこれまで、何度か就職を経験しました。
どこも組織の体質に合わず、ストレスで体調がおかしくなったりメンタルがやられて、この社会で労働することの難しさを常に抱えていました。

だからこそ、自分に合った仕事をしようと一念発起し、努力を重ねてそれなりに実力をつけ、ずっとやりたかったクリエイティブの業界に足を踏み入れました。

けれども、自分で稼ぎに行くのは至難の業で、比較的安牌なのは下請け業務です。
クライアントからの理不尽とも言える要求に従い、他人のアイデアに仕方なく乗っかり、したい表現を曲げてでも要求通りのものを作らなければなりません。

"私は自由を求めて、やりたいことを仕事にしたくてこの道を選んだのに、なぜサラリーマンと同じ働き方をしているのだろう?"

3年前のある時期、それに深く疑問が湧いて「自分が本当は何がしたいのが、それをしてどうやって生きていくのか」という問いと向き合う時間が始まりました。

それは、本当に修行としか言いようのない日々でした。

「自分が表現したいこと」と「人のためになること」の狭間でのスタンスの問題は、作家、芸術家などのクリエイターにとって永遠のテーマです。

自分がやりたいことは、人様の得になることがほとんどありません。
結局、人様の要求に叶えることで感謝をもらい、初めて対価を得られるので、表現は必ずしも人のためになるものではないのです。

人様や世間の求めるものと自分の求める表現の世界の不一致に苦しみながら、何とか歩み寄ろうと最新のテイストを取り込み、最先端の技術を磨き、自分なりに切磋琢磨しても、どうしても譲れない部分がありました。

それは、「自分の考える正攻法を貫く」ということです。

私はこの業界を長年見てきたからこそ、ハックまみれの現実を知っています。
皆が当然のように近道や裏口を通っていくのを、「それが本当は賢いのだろう」と内心思いながら、どうしてもそれをやりたくなかったのです。

「皆のようにやればうまくいく」

それは本当に痛いほどわかるのですが、なぜか魂がそれを拒むのです。
私は承認されたいしお金も人気も欲しい。でもなぜかそのやり方に違和感がある。だからどうしてもできない。

それ以外の方法を取ろうとしてやった試行錯誤は、そのどれもが大してうまくいかないものばかりでした。
ただ自分がやりたくないやり方では、いずれ成功しても絶対に満たされない予感があるから、どんなに苦しくてもその方法を取らず、自分の才能と技術をひたすら磨き、方法を模索してきました。

今は、それが間違いではなかったかもしれない、と思います。

これまでの人間社会では、私はどうやってもうまくいかない宿命だったと感じることもあります。
自分に正直にやってうまくいくことはごく僅かです。
真心だけでは商売にはなりません。

けれども、今は神様から「そうしろ」と言われています。

なぜかはわかりません。本当にそれで良いとは私も思いません。
けれども、神様はそうして欲しいと願っている、なぜかそのことだけをひしひしと感じるのです。

これまでの創作の世界は、お金を中心とした人の心が支配していました。
だから近代の美術も映画も小説も漫画も、お金を集めなければ制作する根拠にすらなり得なかったのです。

けれども、「表現したい」と思うのであれば、素直に表現すればいいだけです。
それは子供たちにとって、お絵かきが娯楽であるように、表現そのものが人間にとっての喜びだからです。

あらゆる表現が、対価を得ることが前提となっているからこそ、クリエイターも見る側も、すでにある経済の形をなぞるのが当然になっています。
それは芸術本来の表現の多様性や、思想の発露を脇に追いやっているのかもしれません。

神様は、人々にもっと自由に表現を行い、その多彩な才能を広げて欲しいと思われているはずです。
もしこれから、純粋に才能の集まるところに人もお金も集まるシステムになるならば、商業的成功や収益性は第一目標からは外れるでしょう。
そうなれば、誰しもが無邪気に「創作すること、表現すること」そのものを喜びとすることができるようになります。

これからの時代のクリエイティブは、これらの商業と評価経済のくびきから解放され、作り手が喜び、受け手が喜ぶ互恵関係に戻っていくべきなのだと思います。
そこにはフラットで自由な創作の世界が広がっているはずです。


神様は私に対して頑固に、どんな障害にぶち当たろうと、その覚悟を貫くことを求められているように感じます。
私には、神様が私に対してそれ以外の道を選ばせないようにしているように思えてなりません。

だから私は私の喜ぶ表現を求め、それで人が幸せになる方法を探す、これがこの道の答えなのだろうと思います。

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世に執着しない

楽太郎です。

世の中がより騒然となってきました。
「あの人が」みたいなことはどんどん増えてますし、ひどい人はテコでも動かないんだろうな、と言うような不快なニュースに溢れています。

しかし、神様と共にある人たちほど達観しており、ある意味で暗い共感はしていないかもしれません。

今は膿出し、炙り出しの時期です。
神様と繋がっていれば、その意図は明白なはずです。だからこそ、目の前の事象に一喜一憂することはほぼないでしょう。

この心理的反応は、人間の二極化の一部にすぎません。

古い世界を選んだ人たちは、目の前に起こる良くない事象が、永遠に自分たちに降りかかると思っているので、その恐怖や怒りは高まる一方でしょう。
ちょっと世の中が良くなる兆しを見せれば、ちょっとずつ事象が良い方向にひっくり返り、じわじわ世の中が良くなってまた昔のような賑やかな時代が来ると思っています。

しかし、絶対にそうはなりません。
これから起こる崩壊は、かつての楽しい時代にあった人、組織や国家がそっくり無くなる世界になるからです。

最近、シリアの独裁政権が倒れました。
ロシア侵攻に対する影響はあるでしょう。アメリカの経済も長くは持ちません。そして、日本が国体を維持できるのも危うい状況になっていくでしょう。

この変化は、神様が介在せずとも実証できるものです。
古き良き時代を再現できないことは、必ず違う形の時代になるということです。
こんな当たり前のことでも、多くの人々は本気でそうなると思っていません。
世界を取り巻く悪意が自分たちの骨の髄まで染み込み、遺伝子レベルで搾取をしていたとしても、何となく楽しく生きられた時代に戻りたいのです。

「変わりたくない」という人々の集合的無意識は旧世界に対する求心力となり、巨大な邪気となって新しい生き方に変わろうとする人々を惑わします。
その意識は無神論の延長にあります。
この世には人間が目で見て、データが取れるものしか存在しないと信じているからこそ、新しい世界が来ることを想像できません。

ここで人間本来の性質に立ち返り、大勢の人に背を向けてでもあるがままの「魂」選んだのが、神代をつくる人々です。

神様に近い人たちほど、もはや人間たちが自力でこの世界を良くすることができるレベルではないと感じているはずです。
国家の代表ですら思い通りに権限を発動できないのですから、今の人間のシステムでの改革は構造的に不可能です。

人間たちは、自分たちの理想で地獄を作り出してしまいました。
そして、多くの人が変革ではなく地獄が緩和してくれることを願っています。
この溝はどうしようもありません。

だからこそ、私たちは神様を信じる以外に道がないのです。

自分の感覚に素直に立ち返ってみましょう。
自分を中心にものを見てみると、世界がキラキラして優しい世界に見えていないでしょうか。

私は今年の秋分あたりから、見える景色がプリズムがかって見えるようになり、空や自然があまりに美しく、見惚れるようになりました。
あれだけ煩わしかった人間もいい部分が見えるようになり、イラつくような性質や、人間の未熟さすら愛しいと感じ始めました。

「神様がいる」と思える世界には、安心しかありません。

本当に人の上に存在するのは神様であり、神様は人間を慮り、困った時には力を貸してくださいます。
良くないことが起こるのは兆候に過ぎず、困難は自分が成長してより良くなるための課題です。

それが「神様の作った生命のマニュアル」であり、そのシンプルなルールを守っていれば、人は誰しも幸福な生き方ができるのです。

それを人の力で具現化したのが「神代」であり、神代によって本当に誰もが自由な社会が作られます。
私たち人類が存続するためには、神様の道を選び神代をつくる事業に参加する他ありません。

世の中は、これからどんどん暗く澱み、病んだ人間が起こす大惨事を数えきれないほど経験するはずです。
しかし、神様が近くにいる私たちには加護があり、難事は神様のご意志だと予めわかっているので、大して動揺もしないはずです。

世の中に起こることが救済のための通過点であると知っている私たちは、世相に一喜一憂せず、一度全てが壊れ、新しく作り直される時を待つだけです。
ですから、今は目の前のことに執着する必要はありません。

今目の前にあるものは壊れるかもしれないし、壊れないかもしれない。
そこに絶対が存在しない以上、そのことを気にしてもしょうがないのです。

そのことを魂のレベルで理解している神様サイドの人々は、これからも平穏に暮らせることでしょう。
荒れ狂う世の中に感情移入せず、私たちは静観すべき時にいます。

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心の最後の「ピース」

楽太郎です。

世間では邪気がすごいことになっています。
私はコンビニやスーパーに行くと気分が悪くなりやすいので、人の集まるところに行くのは必要最小限にしています。

邪気による影響を受けるのは、特に私自身のエネルギー循環が悪い時なので、常にチャクラを乱さないための心掛けをしています。
あとは、神様とのご縁を意図して育もうとすることです。特に今は自然界のエネルギーが変動しているので、何らかの加護がなければ生活に支障が出るレベルです。

私は所属意識の問題から第3チャクラが乱れやすかったのですが、「神様の集団」に意識を置くことでエネルギーが整いやすくなりました。
「自分を人間と思い、人間にために行動する」原理から、「自らの神に気づき、神様のために行動する」考え方に意識を移すことで、所属意識が変わりました。

この変化こそ、私の人格における「最後のピース」だったとわかりました。
このピースとは、「神を信じ、神と繋がっている自分の感覚を信じる」ということです。


振り返れば、私の半生は紆余曲折でした。
長い間、自分探しをしてましたし、色々な挑戦もしましたし、様々な勉強をしてきました。

しかしその道程は、外にある真実や答えを探す旅であり、いくら膨大な知識や情報と出会っても、自分自身を確立させるようなマスターピースを手に入れることはできませんでした。

それどころか、信じていた情報が嘘だったり、搾取的システムに誤魔化されているだけだったり、その仕組みが捲れ、時間と共に確かさも削り取られていくのをいくつも目の当たりにしました。

そして気づいたのは、「真実を外に求めることはできない」ということです。

肩書きのある誰かが言っていた、信頼するその人がやっていた、仮にその他者が自分の信じた通りの人でないとわかれば、その知識は疑わしいものにならざるを得ません。

外側にあるものがブレたら、それを取り入れた自分の内側がブレてしまいます。
だから、本当に心に芯を持つには、確信を100%自分の内側に求める以外にありません

私にとって、この欠けた部分に必要なのは、「神」でした。
それは名前のある特定の神ではなく、八百万として感じる漠然とした超常的存在であり、概念そのものとしての神です。

この神は、少なくとも私には見えたり聞こえたりするわけではありません。
ただエネルギーとして感じますし、そのエネルギーからインスピレーションやメッセージを受け取ることができます。

この感覚は、自分の内側に求める以外にありません。神様がいるのかいないのか、神様を信じられるのか、という問題も、全て自分の心の中で起こります。

神を信じる時、同時に信じているのは私自身の感覚であり、魂です。
つまり、自分自身を信じるからこそ神様を信じられるのです。
これが私にとって、深い部分にある自信のなさ、何となく欠けていると感じる部分を、ぴったり埋め合わせるものだとわかりました。


おそらく大抵の人が、心に「信仰」を置くべき場所に、お金や名誉や、異性や家族など、何らかのコンテンツを置いてしまっています。

現代人はそれが当たり前で、欠如感を埋め合わせるにはある程度楽しくもあり刺激的で、何の疑問も感じない人も多いでしょう。

しかし、そうして依存できるものは誰かが作ったものであり、いずれ古くなり、壊れるか終わる時が必ず来ます。
そうなった時に、現代人は心の拠り所を探すためにまた別のコンテンツを探す旅に出ます。

ただ、そこに「真の信仰」を置けば、そんな長い回り道をする必要がありません。
最終的に、自分を信じ神様を信じることで漠然とした不安は薄まり、神様のメッセージを受け取るならば、余計な心配を増やすこともありません。

「神を信じる」ことは、己の感覚を信じることなので、しっかり自分自身を見つめ、より真っ直ぐに生きる覚悟が必要です。
それは現代人には難しいことでしょうが、この道が見えていなければコンテンツの穴を別のコンテンツで埋め合わせる、という悪循環が延々と続いてしまいます。

今、この能力が多くの人々に求められています。
これがわかれば本当に楽になれるのですが、ここに気づくには捨てるべきものが多いはずです。
しかし、この課題をどうにかしなければ、誰もが神代に渡ることはできません。

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「神代」の作り方

楽太郎です。

今朝もまた、集合意識的な夢を見ました。
私が見る夢は、象徴的なほんわかした夢はほとんどなくて、別の現実の世界で行動するようなリアルな夢ばかりです。

私は他人に対してあまり興味はなく、極端に言えば一人でも全く違和感なく生活できるタイプです。
それでもなぜ人間の集合意識に近いところにまだ意識を置いているのかと言えば、私が一介のクリエイターであり、心の深い部分で人間のために創作をしているからです。

心の奥では、やはり「人々が変わって欲しい」と思っているし、「救われて欲しい」とも「私に共感して欲しい」とも思っています。

しかし、それが叶わないことはわかっています。
私にとって創作とは、祈りそのものです。

人々が私を歓迎しないのも知っています。
私に対して、人々は反感や無関心を向けますし、無意識では神代なんて作って欲しくないと思っています。
しかも集まって邪気を私に向け、まとわりつきます。

私は彼らを忌避するように神様が促しているのは知っていますが、それでも何となく憎みきれないのです。
彼らの本心は「変化への恐怖」です。
変わりたくないからこそ、同類で集まって強がり、閉じた世界を作り出して籠もろうとするのです。

遊び暮らしている大富豪も、政府に繋がる大企業のCEOも、例え思い通りのことができても、神代を止めるためにできるのは、せいぜい邪気を飛ばすか、利権を振り翳すことくらいです。

その攻撃を受け続けた私にとって、人間が何億と集まってこの程度の霊障しか及ぼせないのも不思議ですが、神様のお力とは比較にならぬほど微々たるものに違いありません。

私は表現者として、人のために創作してきましたし、おそらくこれからも人々のために創作をしていくことでしょう。
私がいくら人々から疎まれる存在であろうと、共感する人に自らの表現を届けるのが私の使命です。

時々、これほど邪険に扱われながら、なぜ自分は人間のために尽くそうとしているのか、疑問に思う時があります。

神代を作るために「人の役に立つ」ことが、古い時代の慣習やシステムを使い回し、古い人々の価値観に合わせていることに葛藤がありました。
それは結局、古い時代を引き伸ばしかねないのでは?と思う部分もあったからです。

ただ、私たちに与えられた「お役目」は、神様によってオーダーされたものであることを忘れてはいけません
それは決して人間社会を救うためのものではなく、神様のために行うことでもあります。

神様と神代を作るということは、「神様にとって住み心地のよい世界」を作るということです。

ですから、私たちが人間の方だけを向いてお役目を果たすのは、そもそも筋が違うのです。
何かをしてあげる対象が人間だったとしても、その行為を願っているのは神様だからです。

私たち神代を作るために動く人々、現人神になる人たちは、神様のために行動し、神様のために神代を作ることを任された者たちです。

だからこそ、私たちは人間が助かるように、導かれるように、何らかの施しをしていくことになるのでしょう。
ただ、それは神様の願いであり、私たちは結果的に神様の願いを叶えることが本当の任務なのです。

それは人間のためであるように見えても、それ以上の意義が存在することを意味します。
そして、神様のために行う一連の実践は、直接的に神代の実現に繋がっていくのだと思います。

「神代」は見えない世界にあるのではなく、外の世界に作り出すものでもなく、私たちの心にある世界が「神代」そのものです。

言ってみれば、私自身、あなた自身が「神代」であり、神代を現すことは、神代を自分自身で体現することです。
それは多くの人々にとって、これからの時代の「手本」となりうるものとなり、手本を見て同じように生きる人が広まれば、そこで神代が広がっていくはずです。

神代は、遠い存在の何かを引っ張り出してくるものではなく、完全無欠の私たちの理想を、神様と一緒に形にしていくだけの作業です。
だから、特に難しいことではありません。

「神様から受けた熱いインスピレーションで行動し、人々を喜ばせ、神様を誰よりも喜ばせる」

そんなシンプルな行動原理で可能なのですから、あとは好き勝手やれば良いだけです。神様はおそらく、その完成を楽しみに見守っておられるでしょう。

「神様と共に生きる世界」は、かつて日本人が森羅万象に神を見て、石や山を崇め、死者を神とし、神社を奉り、仏像を各地に建立し、隣人のように近い関係で持ちつ持たれつあった、かつての時代にあります。

神様に何かをしていただくということは、神様に対して人間も何かをして差し上げることです。
この単純な互恵関係が復活するだけで、今の世は朗らかな世界に変わっていくでしょう。

私たちはお役目を、人間だけのために使っている気持ちでいるのは勿体ないです。
その行為を高いところで見ておられる神様が、より喜ぶことを志せば、私たちの努力も喜ばしいものになっていくに違いありません。

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「博愛」を捨てよ

楽太郎です。

昨日、私自身は関係なかったのですが、身の回りで人間の行いの悪さを痛感する出来事があり、色々と気づかされました。

昨晩はその出来事で頭に血が上ってしまったのもあって、集合意識的な夢を見てしまいました。

私はよく街中や雑踏をただ歩くだけの夢をよく見ます。
それは特に嫌な夢ではなく、ショッピングや観光に近い感覚なので、どちらかというと愉快な夢です。
その夢を見た後は寝汗や強張りがあり、下手するとその日は体からずっと邪気が抜けなかったりします。

昨晩見たのは、とても美味しそうなパン屋さんをハシゴするのですが、ポケットの中にいつぞや買った菓子パンが2つ入っているのに気づいて、店をしれっと出て、パンを焦りながら食べきるという夢でした。

私は夢占いとかの知識は全くないのですが、昨日の出来事と合わせると、「お前の甘い部分をさっさと捨てろ」という意味のような気がしました。


最近、神様のお導きに従っていると、なぜか人間に対してわざと嫌悪感を抱くように仕向けられているように感じます。

神様は愛の存在なので、わざわざ人間を忌避したり、人払いをさせる方向に導くのはなぜだろうか?と違和感がありました。
私は疑り深いので、私を導いているのは悪魔的存在で、わざとまずい方に向かわせている可能性すら考えていました。

しかし、それをなぜかを深く内省してみたら、私がこれまで無条件に「人が救われる」ことの意味を履き違えていたことに気づきました。

これは「博愛精神」と呼ばれるものです。
神様は、今はこの博愛精神が良くないと知らせたかったのだろうと思います。

昨日の身の回りのトラブルも、家族が悪徳業者に善意を向けたために訪れた被害であり、誰彼構わず親切心を向けたり、無条件に与える優しさや甘さの部分が、裏目に出ることを示したかったように思えてなりません。

確かに、神様が神代に渡る人々を守る上で、へんな慈愛精神でトラブルを呼び込まれると、いちいち守りきれないでしょう。
今後、世の中がどうなるかわかりませんが、神様に選ばれた人たちはそもそも徳が高いので、その懐の深さにつけ入る連中が絶えないはずです。

神代をつくるのは最終的に人々を救うことを意味するので、慈愛精神は当然あるべきなのですが、逆に浅ましい人間たちにとって、それはつけ入るべき甘い蜜にしか見えないはずです。

例えば、食料が尽きて金もなくなり、人間関係が破綻しきった人が、神代で安全に暮らしている人に近づくには、善意に訴えるのが早いでしょう。
私たちは未来がまさかそこまで、みたいな気持ちはあるので、些か穿った考えのように思えますが、神様ならここまで考えておられてもおかしくはありません。

「神代の理」は、およそ人間社会の価値観とは一線を画すものです。世界の解釈の仕方が根本的に違うからです。

神様からしてみれば、「苦労」や「困難」はあえて「経験するべきもの」です。
人間は酸いも甘いも経験してこそ、魂が磨かれ成長していくものなので、苦労や困難は人生におけるハードルとして必要なものであり、人には「困難を乗り越えて成長していく」権利があります

私の「全員が無条件に幸せになればいい」という考えは、確かに人間界の価値観では気高いでしょう。
しかし、その感情が良くない働き方をすれば、単にお節介であり、人の甘えや依存を助長するものになりかねません。

神様は、おそらく歪んだ博愛精神が、負の働きを促しやすいことを注視しているのだと思います。

これから人々が神代を受け入れるために変化するならば、一旦これまでのあり方が壊されることを意味します。
それは悲痛なものになるに違いありません。神代に渡る人たちは、そもそも愛情深く、目の前で苦しむ人がいたら手を差し伸ばせざるを得ないかもしれません。
しかし、安易な手助けは、彼らが自らの困難と直面し悔い改める機会を阻むことになりかねません。
そして、一度誰かを助けてしまえば、群れになって助けを乞われる可能性もあります。

多くの人々がこの痛みを感じるのは、「困難」という経験が彼らの魂には必要だからであり、それを乗り越えてきっちり禊をしなければ、神代に安心して渡り切ることができないでしょう。

神様は、だからこそ中途半端な情や慈善行為を咎められているのだと思います。
「人を救う」ことは、決して楽をさせることではなく、甘えを許すことでもなく、自立した一つの魂として、成長の権利を尊重することであると言いたいのかもしれません。

私が最近、やたら人間たちを疎むような気分にさせられているのも、今は下手に情けをかけさせると危険だから、とは私の頭で考えても理解できます。

正直言って、神様がどこまでやるかはわかりませんから、私としては「そこまで準備しなくてはいけないの?」という感覚なのですが、そこは神様の裁量にお任せするしかありません。

これからどうなるかわかりませんが、「他人の心配より自分の心配をしておけ」という意味においては、間違いないような気がします。

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「できない」を活かす

楽太郎です。

ここ数日、私自身のエネルギーが安定してきました。
先週は好転反応の時期が続き、エネルギーが乱れているところに邪気が入り込んで、本当に混乱していました。

しかし神様の手助けによってトラウマが浄化され、自我の統合が進み、また神様の所属に意識を移すことでエネルギーが安定しやすくなり、邪気の影響もだいぶ受けにくくなりました。

自我の統合において、これまで生きてきた人間社会での常識、思い込み、思考的習慣、そういった人格を構成する部分がネックとなり、魂やハイアーセルフとの繋がりを遮断していました。

私の心にこびりついていた後悔、劣等感、執着心、自分に嵌めた枷のような考えが、私自身の可能性をずいぶん縛っていたように思います。

「できない」「自分はダメだ」という気持ちは、自分にかけた呪いそのものでした。

「できないから、できるようにならなきゃ」
「自分はダメだから、もっと頑張らなきゃ」
そうやって自分で作った輪の上をグルグル回り続け、さっぱり前に進まない状態を作り出していました。

ただ、この「できない」「ダメだ」というのも、人間社会のルールの中で、他者と比較することで外部から与えられる評価であり、自分自身を比較から外してしまえば、私はできない人間ではないしダメでもないのです。

私たちはこれまで、個人が幸せになる上で非効率的な価値観を与えられ、その歯車の上でうまくやろうとするから、幸せが遠のく生き方ばかりをしてきたのだと思います。

大人気バンド「サカナクション」の山口一郎さんは、現在うつ病の治療中ですが、音楽活動などをマイペースで進められています。
山口さんは、TVアニメ「チ。」のOPテーマを担当されていますが、未完成曲とのことです。

山口さんは自身のYouTubeチャンネルで、「葛藤をあえて見せていく、それが自分にとって新しい表現の形だ」と仰っていました。

私は、これは実に風の時代とか、神代の考え方だなと思いました。

土の時代は、産業の時代でした。
利益を最大限に得るためには、高品質の完成品が求められました。人々は完全無欠であるものを求め、ヒット商品のためにあらゆる非人間的努力が当たり前の世界でした。

これが風の時代に変わり、個人の自由や精神性が主軸となっていくならば、結果よりも「プロセス」が重視される時代になるはずです。
その上で、ストーリーや文脈が大きな意味を持ち、完成度よりも感動がメインになっていくのではないでしょうか。

そうであるなら、「葛藤」もドラマの一つになりうるはずです。
その意味で、「できない」とか「弱さ」や「障壁」などネガティブな要素も、プロセスの一部として魅力的なスパイスになるに違いありません。

これまで、そういった不完全性は、「ダサい」とか「良くない」とか言われてきた部分でした。
しかし、人々の個が尊重され、各自が自由に気高く生きていける時代は、完全性の制約を破った先にあるはずです。

だから、私も「できない」とか「性格に偏りがある」とか人に欠点だと言われるところはたくさんありますが、その欠点をプロセスの一部にしたり、開き直ってアクセントにしてみたり、ポジティブに生きるならいくらでも変換できるものです。

これからの時代は、他者の評価軸を絶対視して自分を変えようとするのではなく、もっと柔軟に自分を相対化しながら、他者も社会も相対化していければ、緩い調和の世界になっていくのではないでしょうか。

古い時代の世のあり方に傷ついたのは私だけでなく、ボロボロになって苦しみ沈んでいく人たちを数えきれないほど見てきました。

人間が幸せに生きられる弥栄の世を作ることは、かつての苦しみを間違いとして残すのではなく、教訓や救いに変えることでもあると思うのです。

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神を敬うことについて

楽太郎です。

今朝、朝食を食べながら「日々の感謝を神様に伝えないとな」と思い、これから氏神様の神社に行こうと思い立ちました。

正直言って呼ばれている感じはありませんでしたが、ご挨拶する程度ならお許しくださるだろうと、参拝に向かいました。

神社の裏手の林からご神気を感じるので、道すがら神様のご機嫌を伺ってみました。

何となくどんよりとした気を感じるというか、普段にはない威圧感や拒否感を感じました。
おや?とは思ったのですが、とりあえず鳥居の前に来た時、白装束の人たちがゾロゾロ入っていく姿を見て直感的に嫌な感じがして、一応気をつけることにしました。

鳥居の前に来た瞬間、けたたましい消防のサイレンが突然鳴り響きました。(これは警告だったかもしれません)
次の瞬間、大学生のような雰囲気の神職が走りながら適当な挨拶を交わしてきたので、私は思わずイラっとしてしまいました。
境内に入ろうにも手水舎の水も止められているので、禊をすることもできませんでした。

私は直感的に、「来るな」というメッセージだと思いました。
あんまり呼ばれてもいないのに来るもんではないな、とは思いましたが、なんか今日は何かある日らしく、追い返された感じがしました。

ちょっとイライラしてしまったのもあるので、私はこんな気分で神様にご挨拶するわけにはいかないと思い、参拝せずに帰宅することにしました。

それでも神様のご様子が気になったので、遠目から神様のお気持ちをお伺いしようとすると、やはりどんよりとした気を感じるだけでした。

私の「どうなさったのですか?」という聞き方も悪かったのですが、何も入ってこない時間が続き、何となく怒っているのか、悩んでいるのか、そんな感情が伺えました。
「私に何ができますか?」と直接お聞きすればよかったのですが、しばらくすると「照らせ、世を照らせ」という言葉がはっきりではありませんが胸に浮かんできました。


そういえば以前、私が本気で神様にお祈りしている最中、バタバタと拝殿から神職が降りてきて適当な挨拶をされ、祈りが中断するという珍事がありました。

この神社は喫煙所が休憩用のベンチの近くに置いてあったり、仮手水舎の水道がほとんど止められていたり、細々としたところに配慮を感じず、以前から納得できないところです。
歴史のある神社なのに、礼儀は全く継承されていないようです。

私は所詮人間なので、自分が神様のお立場なら、神への崇拝や参拝者への敬意を疎かにし、神よりも金を上位に置いている神職のあり方には、相当腹を立てていらっしゃるのだろうなと邪推してしまいます。

神様たちは堕落した人間界をテコ入れするために動いておられるのに、人間といえば神の名を利用して金儲けし、神事を業務としてこなしている神職すらいる始末です。

かの神社運営の行いを例えるならば、富豪一族の子孫が大事業家の祖父を心から敬愛して支えるわけではなく、祖父の事業や資産を使ってどうやって儲けるか、ということばかり考え、口先では「お爺ちゃんのおかげ」と言っている、そんな一族を見ているようです。

ここまで舐められたら神様も相当お怒りでしょうが、私の徳のレベルでは、この程度の所業で苛ついてしまうだけかもしれません。
私としては、日々の人間の行いを眺めては「神様、そろそろ本気でお怒りになられては?」と思ったりもするのですが、それは神様のお気持ち次第です。

とにかく、相手が神様であろうと人間だろうと、敬意を払えない者は言語道断です。
神様を巡る人々の意識は、深い部分から見直されなければならないと、私は個人的に思います。

追記:
後になって冷静に考えたら、氏神様はこの出来事をブログに書いて世に示して欲しかったのだろうと思いました。
神代は神様と共に生きる時代になるので、人間が神様の願いを叶えるというのは当たり前のことになっていきます。

神様は最近、私をメッセンジャーとして遣うために特殊な経験に遭遇させます。
だから今日の一連の出来事は、意味があることだったのだろうと思います。

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真実を探す楽しみ

楽太郎です。

先日、世に言う「知の権威」が揺らぐ時期にあるため、その知識で自分を固めていると、権威が揺らいだ時に自分が揺らいでしまう、という話をしました。

これは私自身痛感しているのですが、最近は特に顕著にスピリチュアルの分野でそれを感じています。

スピリチュアル業界は、そもそも霊感商法と親和性の高いビジネスが多く、その真贋はほとんどの人にはわからないはずです。
宗教を土台にしたビジネスはそれこそ昔からありますが、かつてテロ集団となったカルト教団もあり、精神性があるからと言って安全であるとは限らないのも事実です。

近年は、スピリチュアルの裾野が広がり、全く霊能力がなくても新規参入できる分野となっています。
とはいえ、私はそれを批判する気はありません。
人が自分自身の在り方を思い直し、日常をポジティブに変換することができるならば、それも悪くないと思うからです。

スピリチュアルをエンタメとして俯瞰してみると、都市伝説やオカルトという分野とも結びついています。
都市伝説とオカルトとスピリチュアルは、いずれ切り離されるべきだと、私個人としては考えています。

先日、都市伝説界隈のインフルエンサーに詐欺が発覚し、界隈ではちょっとした騒ぎになっています。

彼は日本民族のルーツや伝統などをテーマにされていた方だったので、私も興味があり拝聴していた時期がありました。
ただ彼に問題が発覚して、私が頭に入れてしまった知識がどこからどこまで正しいのか、それを再検討しようにも術はない状態となり、結局自分自身の思い込みを丸ごと疑わざるを得なくなりました。

同様のことが、これからスピリチュアルの業界でも起こる可能性が高いと思います。

しかし、これは詐欺を流布する人が悪いとか、真贋を判断できない視聴者が悪いとか、そういうレベルの話がしたいのではありません。

私が都市伝説系YouTuberの騒動で思い知ったのは、他者の用意した結論を知識として自分に入れ、それで世界観を構築してしまうリスクの高さです。

特に、スピリチュアルは神様や宇宙、世界の法則や真理などを扱います。
あっさり「宇宙はこうなっている!」という解説が15分くらいの動画にまとめられていますし、分かりやすく納得もしやすいものが多いです。

私は、これらが正しいか偽物か判断するべきだ、と言いたいのではありません。
それを鵜呑みにするか、批判的に見るか、俯瞰して距離を取るか、それらは自分の自由意志で選択できることであり、それを意識することの方が大切だと言いたいのです。

私もかつて興味があり、神様や宇宙の法則や成り立ちなどについて、情報を漁りまくった時期がありました。
しかし、その知識を誰かに求めたり、外部の権威に縋ることは、自らの人生観の一部が「〇〇が言っていた真理」で構成され、下手すると死ぬまでその思い込みを引きずることになります。

私は神様との繋がりが強くなればなるほど、世に溢れる情報に真実があろうとなかろうと、答え合わせを外に求めるのはつまらないと感じるようになりました。
神様の与えてくださるインスピレーションの方が事実を抉っている感覚がありますし、その答えを自分の内側に求めるのは楽しいからです。

確かに、「宇宙はこうなっている」と話をされたら、あながち嘘ではないと思う自分がいたり、すんなり納得することもあるかもしれません。
そこであっさり宇宙の真理について知ってしまえば、この宇宙の真理を自分で解き明かすプロセスを陳腐に感じ、探求の楽しみを失ってしまうのは勿体なく思います。

私たちはおそらく、この時代の世に生まれてきたのは、「体験すること」自体に意味があるからです。
その体験が魂を磨き、人生を充実させるからこそ、真理は見つけた瞬間に大きな価値を持つのです。

それが気軽な動画から得られるのは、確かに便利ではあっても、便利さで満足するかは自分の選択です。

だから私は、スピリチュアリストが言う全てのことに対して、実感を通して共鳴する部分だけにアンテナを張っていますし、それも自分の魂の体験で「あれは本当だったかもしれない」と思う日まで、飲み込まずに咀嚼を続けています。

現代人は「答え」や「正解」を見つけるには、早ければ早いほど良いと考えがちですが、答えや正解の価値は、問題の難易度がわからなければ容易く忘れてしまいます。
その難易度の高さは、自分の実体験を通してしか理解できず、それも他人に「これはハイレベルな問題だ」と教えてもらうのは意味がありません。

私とは何者なのか、神とは何か、世界はどうなっているのか、人間はどういう存在なのか、それらは自分に与えられた条件の上で解いていくからこそ面白いのです。

確かにわからないものと向き合うのはストレスを感じるかもしれませんが、自分なりの答えを見つけた瞬間にはカタルシスもあります。
そのプロセスは苦しくもありますが、プロセスそのものが喜びに向かうものだと私は思います。

だからこそ、安易に「他人の真実」を自分のもののように思い込むのはやめよう、今はそう考えています。

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自分の心に答えを求める

楽太郎です。

最近、特にインフルエンサーやメディアの裏側や正体が暴露されて、その言説を取り巻く信憑性が揺らいできました。

これに関しては私も実感しています。
以前は日本の保守論陣のロジックの正しさを確信していましたが、それにも次第に疑問が湧き、距離を取って別の論点に触れてみると、その正しさにも一応納得がいくのですが、どの論理も相互に矛盾があり違和感を覚えます。

特に、スピリチュアルと時事を同時に扱っているインフルエンサーの話を聞くと、背後に神霊がいらっしゃるという頭があるので、余計に後光が差して正しく聞こえてきたりもします。
ただ、距離を置いて遠目に見てみると、その人物すら信用していい人物との直感は得られない、そういう人はかなり多い印象です。

岡本天明氏に降りた日月神示では、末世はあらゆる神がかりが蔓延ると語られていました。

今は、スピリチュアルでさえも真偽があやふやな状態であり、しかも情報の世界はビジネスに染まっているので、はっきり言って罠だらけです。
玉石混交の真実の中で、本当にダイヤの原石が存在しているのかすら疑わしい世界です。

以前、私が意識の所属問題で第3チャクラをやられている時、ネックになっていたのは「一般社会人しての意識」でした。
私たちが長年この人間社会を生き抜く上で身につけた常識は、神様の世界の道理とは若干違うものなので、古い価値観を持ち越したまま神代に渡ろうとすると、どうやらその手放しを促されるようなのです。

未だに、私の心の中でも「誰それがこう言っていた」「誰がやることだから良いはずだ」という先入観はありますが、そういうものがどんどん捲れて本質を現すたびに、自分を形成する外部的要素が全く当てにならないことに気づいてしまうのです。

今は特に、世界中がそのデトックスの真っ最中なので、何であれば絶対安心というものは存在しないでしょう。

だからこそ、いくら当たり前だと思うようなことでも、一旦疑ってみたり、距離を取ってみたりして、「そうじゃないかもしれない」というポジションでものを見るのは重要なのかもしれません。

誰が何を言ったかを正しいかどうか考える前に、魂の部分でどう受け取ったか、直感ではどう感じているのか、そのことに目を向ける方が、後に自分を救うことになるはずです。

私たちの魂は神のワケミタマですが、ワケミタマが繋がるのは根源なる神、いわゆるワンネスです。
つまり私たち一人一人は全知全能の神様との繋がりを生まれ持っているので、己の魂との繋がりを高めれば高めるほど、万物の本質に気づく能力は鋭くなっていきます。

だからこそ、真実を外に求め、外の世界に神を探すよりも、自分の内なる神と対話することの方が間違いはないでしょう。

しかし、それは自分にしかわからないことで、誰にも確かめようのないことです。
ただ、証拠がないからこそ、常に自分の内側に確信を求めていくしかありません。

神様が人間の目に見えず、形として常に顕現することなく、いるかいないかわからない状態であり続けるのは、人間にとって「目に見えないものを信じる」ことが一つの到達点であるからだと思います。

だからこそ、聖書のヨブ記のように身の破滅をもたらされても、神を信じきれるのかについてわざと神様は試されたりもするのです。

ただ現代の人々は、目に見える形で神様がテレビに出て、インタビューでも受けてくれなければ信じないかもしれません。
いや、それこそ胡散臭いと思いますが、私はどっちにしろ目に見えない方が美しいと感じます。

今は、あらゆる人の言葉を聞きに行くより、自分の内面に潜った方が大切なことがわかるかもしれません。
そして、あらゆる情報に触れた時、その感じ方を自分に問いかけてみた方がはっきりした答えになると私は思います。

惑わされることが多い時期だけに、自分軸をしっかり持ちたいところです。

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怒りを力に変える

楽太郎です。

昨晩、何の夢を見たかは忘れましたが、今朝目を覚ましてベッドでしばらく考えたら、人間の世界がどうでも良くなりました。

私がこれから「神代を作る上で今後関わっていくコミュニティなんだろうな」と思って所属していたグループがあって、何かと縁を感じていたのですが、そのグループのリーダーが私を除け者にしようとしていたことがわかり、私としては好意で参加していたので、非常にガッカリしていました。

その理由も私が悪かったと反省できる部分はほとんどなくて、私が周りを見て善意で行なっていたことが、どうやら気に食わなかったようです。

そのグループが仮に神代を作るにしても、このレベルの共同意識では到底長くはやっていけないでしょう。
これまで、リアルな人間社会と折り合いをつけながら楽しく暮らせる気持ちでいましたが、神様がそれに気づかせるということは、「もう諦めろ」ということなんだろうなと思いました。

そもそも、多くの人々は今のところ悪手しか打っていません。

自分たちで好き勝手に作り上げた世界で、人間が滅びの道に進むことを薄々気づきながら、特に何も変えようとせず、それどころか他責と仲間割れに奔走し、人間たちを救うおつもりの神様にさえ目を背けています。

人々は、神様がこれだけシグナルを発して気づかせようとしているのに、それでも自分の考えを曲げず、変える気も変わる気も湧かないほどに魂を曇らせてしまいました。

私は、これを変えるには愛の力が必要なのだろうと思っていました。
また、魂の力を良い方に使うには、360°光のエネルギーでなければならないと思い込んでいました。

しかし、何となく自分の中でしっくりくる感覚がなかったのは、愛の波動だけを使おうとするあまり、人間の不条理に湧き立つ、私自身の悲しみや怒りのエネルギーを何とか封じ込め、ポジティブなエネルギーに変換しようとしていたからだとわかりました。

ただ魂の感受性は素直なので、良くないものは良くないと判断してしまいます。
それをエゴは、自分の目的や目先の利益を求めるあまり、どうにか自分に都合の良い形に理屈をつけ、その直感が気のせいであると処理し、魂のメッセージを上書きします。

それは、人間が神様に目を背け、神代ではなく物質世界を選んだ思惑とほぼ同じ意識です。

魂の感覚には本来、良いも悪いもなく、例えそれが悪感情と呼ばれるものでも、その未熟さも受け止めてこそ魂の感覚に繋がれます。
だから、社会的に良い、人格的に優れている感覚的反応だけを拾い上げても、魂のメッセージを受け取っているとは言えません。

いくら神様が人間たちのことを慮り、そして私も人々に尽くそうとしているに関わらず、その思いを唾棄する人間たちに、いつまで同情できると言うのでしょうか。

私は、この怒りも魂のエネルギーの一部であると悟った時、瀬織津姫様のことを考えました。

瀬織津姫様は浄化の神様であらせられますが、浄化とは表裏一体で禍事を起こす必要があり、その行いは八十禍津日神様による混沌の力です。
禍事、つまり破壊がなければ、浄化の後に天照皇大神様の岩戸開きは行われません。

破壊は、決して愛の力で行えるものではありません。
破壊のエネルギーとは陰の気であり、怒りもその力の一部です。

私は、この怒りの力を自分の内に否定せず認めることで、人間的価値観を振り払い、神代の創造のエネルギーに変えることに決めました。

これまでの私の迷いや煮え切らなさは、半々の形で人間界と渡り合っていこう、という平和主義にあったのですが、人間たちがここまで変化を疎むならば、力づくでも変えていくしかありません。

だからこそ、私は魂に備わった陰と陽のエネルギーを360°使い、その力を神代のために振り向けようと思いました。

肉体的な目で見れば、未だに人々はほんの少し世の中が良くなる片鱗を見せれば、そこからオセロのようにバタバタと世の中が良くなっていくと信じています。

しかし、ここまで悪意が蔓延ってしまうと、人間の骨の髄まで血を入れ替えなければ、人も世も神代仕様に生まれ変わることはできないでしょう。

それは人間たちにとっては酷く残酷に感じられるかもしれませんが、視界に入らないところで苦しみ、もがいている人たちがいる世界で、神様が人間を救うために必要だと考えておられることに違いありません。

だからこそ、その神様の側に立つには、人間社会の理屈にはない覚悟を持つべきだと思います。

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神代を阻むエネルギー

楽太郎です。

本日2本目の投稿になりますが、緊急かなと思ったので書きます。

今日、何となく朝からイラつきと緊張があり、普段の自分と違う感覚がありました。
昨日、色々変化があって頑張りすぎたので、疲れたかな?くらいに考え、緩いペースでやっていました。

ただ、やはり違和感があり、特に霊感と繋がりづらくなっていて左脳が働きすぎている、という感覚です。
あたかも、土の時代に長らくあった感覚に戻った感じでした。

あまりに魂や神様との繋がりが難しいので、とりあえず気分転換のためにウォーキングに行くと、やはり自然にいらっしゃる神霊にはちゃんと繋がれましたし、メッセージやご様子も伺えました。

それで少しは霊感が戻ったのですが、そのあと買い出しに出かけ、初めに飲食店に入ってからだんだん感覚が曇り始め、近くのお客さんにイラついて気が散るようになってきました。(なお、そのお客さんは決して迷惑をかけるような方ではありません。)

なんかおかしいなと思って、スーパーに入ってしばらくしたら、腹部の緊張が激しくなり、食べた直後だったので気分が悪くなって、しばらくじっと休みました。
家に帰ったらどっと疲れて、午後はほとんど動けませんでした。

これはちょっと不自然な体調の崩し方で、邪気が原因だとしても新しいパターンだな、と思いました。

確かに、最近コンビニに入るだけで感情が曇ってくるというか、なんでこんなに疲れるんだろう、と思っていたのですが、人が集まる密集度と多さが関係し、その係数が高ければ高いほど具合が悪くなる確率が高いことに気がつきました。

あまり意識したくなかったのですが、これは集合意識にアクセスすることで受け取ってる邪気だとわかりました。

ただ、それにしては自分の魂の部分での邪気の浄化も鈍いのです。
特に今日は神様と繋がりにくいのでどうしようもなく、無駄に悶々と過ごしていました。

昨日、私は新しい自我の関わり方を見つけ、ほぼ一日冴えている状態でした。
ただ、一晩寝てから全くその感覚がなくなってしまい、なぜだろうかと考えていました。

ふと思い出したのは、昨晩見た夢です。

というか、ここ数日はずっと似たような夢を見ていました。
それは、旅行する夢というか、街中や観光地を歩き回ったり交通機関に乗って移動したりする夢です。

昨日は特に鮮明で、市場に展示されている商品の一つ一つの特徴も、売り場の人の顔すらも細部までリアルに覚えていられるような夢です。
それを何時間も見ている感覚があって、朝起きた時には全く寝た感じがなく、右手が痺れていました。

この右手は、ずっと握りしめていたようで、目覚めた瞬間にビリビリに痺れていることに気づきました。

私は右手を使う仕事をしているので、才能を司る右手には、よく邪気が溜まります。
その時は、痺れて最悪の場合動かなくなるので、塩で揉んで水で洗い流す、ということを以前はよくしていました。

ちなみに、この「右手に邪気が溜まる」という現象は、はっきり神代に渡ったと自覚できた日からパッタリ感じなくなりました。
こうなるのは、単純に私が霊媒体質だからという理由ですが、空間的な邪気が身体に溜まるのはほぼ無縁になったはずでした。
しかし、寝てる間に握りしめていた右手と夢の内容、今日一日の不調、何か関係あるのではと疑わざるを得ませんでした。

ある霊能者によると、人は寝てる間に集合意識に魂が繋がるそうです。
その集合意識はおそらく、今は邪気の巣窟になっており、特に集合意識に村八分にされている神代勢が触れると、エネルギーバランスが崩れやすくなります。

私が言う「具現化した邪気」は邪念で動く人間の発する気を指していますが、これを祓うために神代に渡りたい人たちは、社会的に色々と工夫してきたはずです。
それは邪気が才能やお役目を妨害するために働くからで、似たような働きを集合意識、集合的無意識の邪気は私たちに与えてきます。

私が体験したのは、昨日の覚醒状態を覚醒前の状態に引き戻すような作用が、夢にあった可能性があるということです。

つまり、眠ることで集合意識にアクセスすると、その邪気が精神に悪影響を及ぼす可能性があるのです。
これは自分でも信じがたい推論なので、下手に不安を広げることはなるべく慎重に結論づけたいところですが、私の身体に起こった変化を分析すると、こう考えると一本筋が通ります。

今、古い土の時代が未来永劫続くことを選んだ人たちの集合意識、集合的無意識は、露骨に邪気となって改革への意識に反抗してくるように思えてなりません。
確かに、神様の側に立って古い秩序を破壊する人たちは、古い秩序を維持したい人たちにとってテロリスト同然であり、敵でしかないはずです。

しかし、私たちからすると古い秩序は、このまま維持してもどうせ壊れるか滅びるまで衰退するしかないもので、もうすでに限界が見えています。
だから「壊してあげる」くらいの気持ちでいるのが神様たちだと思います。

もし集合意識がここまでするようになったのなら、もう仲良くすることもできなさそうです。
少なくとも私がゆっくり眠るために、その邪念は集合意識から消えてもらうしかありません。

これは私の推論にすぎないのですが、こういう可能性もある、ということで注意喚起をさせていただきました。

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コミュニティとお役目について

楽太郎です。

最近、現実世界で「似た者同士の引き寄せ」がの力が強まっているのを実感しています。

三次元世界で繋がる人たちはより強固に、神代のコミュニティに属する人たちも、より核心的になってきているように思います。
しかし同時に、「近いけれど縁は遠い」ような人からも距離ができ始めています。
そして、神代側も三次元側も、より共感性の高いコミュニティに収斂しているように見えます。

私の場合は、これまで「神代を作るために、このコミュニティと今後関わっていくんだろうな」という出会いも、何となく不一致な部分から距離が離れていっています。
どうやら神様たちの中で「こいつは神代のために単独で動いてもらった方がよい」と判断されているらしく、コミュニティとの関係が一方的にバツバツ切られていっています。
これも神様のご意志なんだろうと思い、コミュニティに属さなければ、という気持ちが出たり焦ってはいませんが、少し寂しい思いです。

今、神代を目指す人たちの中で、コミュニティに属する予兆がありながらも、何となくしっくりきていなかったり、なぜか離れていくのを感じてしまう方がいるかもしれません。
これに関しては、全く焦る必要はないと思います。

きっとタイミングの方が重要で、自分に条件が揃うか、他者や環境に条件が整うのを待つ必要があるだけで、いずれ神様がご神縁でバッチリ結びつける時が来るはずです。

例えば、これから神の求めに応じるのは、既存の何かが壊れるタイミングかもしれませんし、新しく何かを作る必要がある時かもしれません。
そのタイミングが何なのか、何がきっかけになって求めが生じるのか、それはその時が近づいてみないとわからないはずです。

ですから、今はその準備期間だと思って、必要な準備を神様のお導きで進めていけばいいのだと思います。

今、自分は才能を発揮していない、神様からはっきりしたお役目を与えられている自信がない、それをこなせている気がしない、という方もおられるかもしれません。

かく言う私もそうです。神様からは「そのまま続けなさい」というメッセージは定期的に受け取っているのですが、結果に繋がっている気は全くしません。

しかし、おそらく今は「やること、前に進むこと」の方が大事なのだろうと思います。

現人神というより神様の選抜に関わらず、「神と人の意思の調和」によって神代は作られるものであり、結果的に神代に繋がれば良いのではないでしょうか。

その調和は、神代の波動を何らかの形でこの世に投影していく、その一つ一つの小さな行動自体に意味があるのではないかと私は考えています。

例えば、「他人が使ったコップ」と「新品のコップ」は、モノとしての機能が同じでも付加された情報が異なり、それによって価値が違います。
つまり「神代の波動が一つ増える前の世界」と「神代の波動が一つ増えた後の世界」では世界の情報量が変わり、その変化が神代の実現に繋がっていくのではないかと私は思います。

ですから、「役に立っている、立っていない」というのは、人間側では判断しようのないことかもしれません。
あるいは、神様の側に立つ人が幸せで、ニコニコ笑いながら暮らしているだけで、神代の波動を発し続けている可能性もあります。

何が正しく何が間違っている、というのに拘らず、最終的にどんな世界が神代なのかを考え、神様からメッセージを受け取り、その結果に繋がっていく行動をしていけば良いのだと思います。

ですから、焦る必要はありません。
例え目の前が真っ暗でも、どんどん人が離れていっても、神様の求めを知り神様のご意思を信じていけば、間違いはありません。
神様はその覚悟を定期的にお試しになられますが、その答えを間違えないことが最も重要なことだと思います。

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