楽太郎です。
最近、気になっていることがあります。
YouTubeでヒーリングの動画を見ることがあるのですが、波動を感じるものは確かに感じるということです。
これは本当にどういう仕組みなのでしょうか。
録画はGoPROやスマホでやるとして、mp4とか avi形式で保存したデータをYouTubeのサーバーにアップロードし、スマホなどのアプリで無作為に再生され、あるいは保存されるにも関わらず「波動」も再現可能なのです。
そもそも、波動をなぜデジタルに変換し、電磁波に乗せてデータを再生してもエネルギーが伝わるのか、これもかなり謎です。
この現象を、私なりに仮説を立ててみました。
「波動」とは「情報」のエネルギーなのではないでしょうか。
霊感商法で売られている「波動水」の話をするわけではないのですが、よく「○○○Hzの音波を当てた水は美味しくなる」という話を聞きます。
この理論は、「○○○Hzの音波というプラスの情報が加わったか加わっていないかの差」という表現として「波動」の特質を説明しています。
私自身も試したわけではないので何とも言えませんが、これがプラシーボなどではなく、実際にモノに情報という波動が付加された結果が人の心に現れるとしたら、それが価値として認識されるのかもしれません。
以前、霊能者の方とお茶を飲む機会があり、その時「料理は感情の入り方で全く味が違う」と話されていました。
その方は、感情の良し悪し、あるいは素材や工程に関わる意識、価値観の善悪も味に出るという話をされていました。
その話で特に興味深かったのは「知識や情報にもエネルギーがあり、その背後にある力も影響する」と仰られていて、つまり情報の質もエネルギーの出所と相関関係がある、という話をされていました。
これらを総合すると、「込められた波動や念の良し悪しが、対象物に宿り因果を引き起こす」ということです。
つまり、デジタルの動画に波動が乗る現象は、「良い波動や念を込めた動画だから、その波動が出る」というシンプルな事象に過ぎないのではないでしょうか。
特に修行を積まれた本物のヒーラーが、波動を送ることに特化した動画を配信されてるのですから、波動が伝わるのも当然かもしれません。
波動が情報のエネルギーなのだとしたら、情報が二進数のデータに変換され、デジタル化しても変容しないことの説明にもなります。
よく「丹精真心込めて」という話を聞きますが、真心や愛情を込めたものは特に精度が高いからというより、独特の温かさのようなものが良いと感じる面があります。
クオリティや価格感からすると、工業製品の方が無機質で手に取りやすいかもしれませんが、ハンドメイドの温もりを選択肢に含めると比較はできないかもしれません。
これは、アートの世界にも当てはまります。
近年、手描きの絵画はめっきり流通しなくなりました。絵がデジタル中心となり、人々が絵画を目にするのも美術館に意図して入らない以外は、ほぼメディアで目にするはずです。
しかし画像生成AIが登場すると、これまで正直に手で描いていたプロの作品よりも、無料でクオリティの高いイラストが出力できるようになり、わざわざ人に描いてもらう必要がないどころか、「人の描いたものである必要もない」というところまで来てしまいました。
これに関しての良し悪しは論じませんが、YouTubeのサムネなどに画像生成AIが使われているのを細かく見ると、わりと気になる箇所はあります。
けれど、費用対効果の面で見れば、賑やかしにはなるし多少おかしなイラストでも皆そこまで注意深く見ない、という前提で成立しているように見えます。
この画像生成AIの普及によって、イラストレーターの受注数は大幅に減少しました。
ただ、それはそれでイラストレーターも市場に対して差別化を図っていく必要もあります。
私が考えているのは、仮にデジタルにも波動を乗せられるとしたら、その工程は生成AIには再現できず、ゆえに波動がハンドメイドの付加価値になるのではないか、という点です。
よく何かの娯楽を通して「元気が出た」と人は言いますが、この「気」は波動やエネルギーとも言えます。
この「気」は決してクオリティでは再現できない、生の気迫のようなものが伝わるからこそ感じるものです。
先の料理の話でもそうですが、この「気」は作り手の波動であって、それが籠もれば価値に繋がることもあり得るのです。
私は以前、このブログに瀬織津姫様と須佐之男命様のイラストをアップしました。
その制作過程では神様の霊圧を感じながら描きました。実際、私のイラストを見て何かを感じるかは分かりませんが、このロジックでは「神様」の絵に波動を込めることも可能なはずです。
つまり、神様と繋がり神様から受けた波動をそのまま絵に載せると、神様のお力やご利益のある絵に変わり、その付加価値は特別なものになるのではないか、と私は思うのです。
ただ、「恵比寿様のご神気にあやかれる、福を呼ぶイラスト!」とかを販売に出しても、よくある霊感商法の一種にしか過ぎません。
波動が乗ったメリットを活かすのなら、それを享受した人に実際にご利益があり、本当にそう感じられることが大切です。
問題は、私にそれができるかということです。
私の能力は自分なりに高まっていると思う時もありますが、まだまだ蚊が鳴く程度に違いありません。
だからこそ、これからエネルギーワークの習得などを通して波動を作品に込められるようにしたらどうか、と考えています。
その先にあるビジネスは、もう私の頭にはあったりします。
それをやりたいかというと、まだまだ優先度は引く、準備も相当かかりそうだと感じます。
ただ、一生を通して細々と食えそうだな、と思えるプランではあります。
これから神代が具現化し、誰もが「神様」というコンテンツを親しむようになれば、スピリチュアルと絡めたビジネスもより日の目を見るのではないでしょうか。
その時にすでに実績があれば、かなりの先行者利益を得られるはずで、神様が仰る「金運」とはこのことも含まれるのではないか、と私は思います。
今でも土の時代の構造物はビクともしない頑丈さがあります。
古い森が焼き払われ、そこから新しい森として芽が出て花を咲かせ、大樹になるのは自分がちゃんと育っていく必要があります。
その姿は現時点で想像しにくいですし、実際に風穴が空いてくれなければ何も始まりません。
けれど、それは神様が勝手にやってくれるものではなく、自分たちがイノベーションを起こしていかなければ、地上に具現化することができないのです。
いくら構造物が更地になろうと、コンクリートを突き抜けて育つ力が植物になければ、花も咲かないでしょう。
それは勇気のいることですし、とてつもなく骨が折れるかもしれません。
しかし本当にやりたいことをやって望み通りの成果が出せる世になろうとしているのですから、もっと大胆に考えて良いのだと思います。

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楽太郎です。
2月2日、明日は節分ですが、スピリチュアル的には立春から2025年が始まると言われています。
私にとっての2024年は、気づきと手放しの年でした。ほぼ半生丸ごとを洗いざらい反省させられたというか、試練としか言いようのない一年でした。
本当に、最後の最後まで自分自身と向き合わされるというか、新しい課題がどんどん見えてきています。
残念ながら、綺麗さっぱり2024年度で解決することはできそうにないのですが、引き続き生き方を勉強していくことになると思います。
私は自分が思っているほど単純な人間ではなかった、というのもわかりました。
エネルギーに敏感な体質なこと、負の波動を貰いやすく霊体に取り憑かれやすいこと、また自分の念そのものが強すぎて生霊を飛ばしがちなこと、何となく予知能力があること、私は思っている以上に潜在的な霊能力があることを知りました。
魂のエネルギーの強さをコントロールするために、これまでの出来事は修行として現れたのだろうな、というのは感じています。
そのエネルギーの強さに自分で当てられて、おかしな言動に走ったり道を踏み外したり、引きこもったり病気になったり色々しました。
その不安定さを補うために様々な経験をしながら、心理的な知識や身体に関する知識を蓄え、人生における大抵の問題には答えられるようになりました。
しかし、スピリチュアルという新たな視野が開けたことで、全く違う視点から自分や世界を見られるようになると、「全然わかっていなかった」ことに気づいてしまいました。
スピリチュアルを学ぶにつれて、スピリチュアルリーダーの方たちからすると、「スピリチュアル修行あるある」みたいなものに、どうやら私はぶち当たっている最中らしく、したり顔で乗り越えたみたいなことを書いてるこのブログは、おそらく間違いだらけかもしれません。
それでも、この時は本気で真実だと思ったのは事実ですし、後から見直してみれば掠っている部分もあるかもしれません。
そのプロセスを残しておくのも、後学のために貴重な記録になるかもしれません。
今、私の課題は自分の浄化にあって、人世の人格や記憶、トラウマとどう区切りをつけていくかにあります。
その課題と向き合う時、スピリチュアルな存在と感応し始めたばかりの自分のグラウンディング力、エネルギーコントロールの足りなさ、そういった自己管理も新たな課題として浮上してきています。
今、このタイムラインの流れやお導きから察すると、私は今後ヒーラー的な能力も開花していくような気がします。
それを本格的に学ぶようになるか、仕事にし始めるかはわかりませんが、これから霊能力に付随する知識や技術を学んでいくことにはなりそうです。
そうしながら、自分の創作やお役目も他にあるのでしょうが、最終的に自分がどういう存在になっていくかというビジョンは、全く見えていません。
けれども、多かれ少なかれ人にアドバイスしたり、人を引っ張っていくお役目を与えられるのだろうな、という感覚はあります。
こういう感覚を自覚するたびに、自分がこれまで自分と思っていたものと、自分はまるで違う存在だったんだな、と思ってしまいます。
そうなれば、人が言っていることや人の評価を間に受けて、自分はこうなんだと思っていた部分がいかに眉唾であったかを思い知ります。
結局、全ての事象について正しいかどうかは、外側の世界に求めるより自分の内側に求めた方が確実な答えを得ることができると、そんな初歩的な位置に立ち戻ってしまうのです。
その内面世界の探究は、高名なスピリチュアルリーダーの意見を聞けば間違いはないかもしれません。
それが真実であるかどうかは、自分が体験しながら見つけるのがスピリチュアルな世界なのだと思います。
そこでは全ての言説がフラットだからこそ、自分の主義主張もニュートラルであり、決して高慢になることはできないでしょう。
だからこそ常に初心を忘れず、オープンなスタンスでいることが身を助けることになると思います。
私は自分がなまじ苦労を重ね勉強もしてきたからこそ、大きく出てしまいがちなとこもあるのですが、ことスピリチュアルの世界では素人ですし、知らないことも沢山あります。
精神的に未消化の課題もあり、人間として出来ているとは言えません。
けれども、その成長の種は自分の心にあるので、下手にあちこち手をつけずに自分と向き合っていくしかありません。
これが2025年の節分にある私のテーマなのですから、本当に今が人生の節目なのだろうと思います。
むしろ、これまでの人生で物質的に積み上がったものを全て崩したのが2024年であり、人間としての経験と技術だけを持って2025年の立春を迎えます。
本当に綺麗さっぱりゼロの状態からスタートするのも、なんか不思議な気もします。
色々と慌ただしい世相ですが、私自身はとてもワクワクしています。
それは私の15歳の頃の気持ちそのままで、不安がありながらも「やってやる」という気持ちです。
あの頃は、今よりも何もないのにエネルギーだけで何でもできると思っていました。
その感覚は、あながち間違いではないのかもしれません。
とりあえず、外に向きがちなエネルギーを、自分の内側に向け、波動をうまくコントロールすること。
生物として初歩的な状態から、私は修行をやり直さなければいけないようです。

楽太郎です。
私は、人と同じことができないのがコンプレックスでした。
いつも周りとズレるからこそ、そのズレの原因を自分に求め、自分の生き方考え方を曲げてでも「普通」の人間になろうと努力してきました。
何となく「人間をガラス越しに眺めている感じ」がいつもありました。
人と意識のレイヤーが違う、という感覚。
どうしても、人と同じ世界観にハマり込めない。
それは、もはや私の運命だったのだろうな、と最近思います。
もし私が、意図して人気を集めたり仲間を呼ぼうとするなら、もっと人の感情にアプローチしたほうが良いのでしょう。
このブログも人にもっと見てもらうなら、文章を簡潔にしてイラストや漫画を多めにしたらいいと思います。
そうすれば、もっと社会に生きる人間として胸を張れるでしょう。
けれど、それは魂の求めでも神の求めでもありません。それは、「人の求め」だからです。
おそらく、誰しも自分の道を突き進めば、容易く理解され難くなります。
人はわかりやすいものを求めますし、自分にメリットがないものに興味はありません。
しかし、人にハードルの高さを合わせると、自分がより高いハードルに挑戦することができません。
他人の歩幅に合わせれば、自分のスピードで走ることができなくなります。
それは、おそらく二つに一つの道です。
自分の生き方を人に合わせ、人としての幸せを求めるのか。
自分の魂と理想を追求し、神に繋がる道を選ぶのか。
先日、神代をつくるためのコミュニティを立ち上げましたが、思っている以上に集まらないな、という印象です。
それに関しては、特に気にしているわけではないのは付け加えておきます。
個人的には、神様の求めを受けて自分で行動したと思っているので、神様のアイデアなのだからもう少しうまく回るのでは?という予想がありました。
私自身は一人でもやるつもりだったので、特にプランが変わるわけではありません。
では、もう仲間集めはやめてDiscordサーバーもなかったことにしてもいいのでは?とすら考えていました。
でも何となく、神様から「待て」と言われているような気がします。
仲間が集まるのは、もう少し時間がかかるからと。
あと、おそらく妨害が入っているからうまくいかないのだと。
ただ、仮に仲間がいたとしても、私は自分のやるべきことを追求していくのには変わりがありません。
今はすでに「風の時代」です。
私はその時代をイメージする時、神様や龍たちが天空を舞う姿を想像します。
鳥のように空を自由に舞うためには、「風」がなければなりません。
反対に、これまでの「土の時代」は人が大地に縛りつけられ、地面を這うことしかできませんでした。
数少ない豊かな土地と、いつ枯れるかわからない農地のために、人々は奪い合うこともありました。
しかし、風の時代は二次元的な世界ではなく、三次元的な高さを持っています。
立体的に地球を味わうためには、この時代の風を捕まえる必要があります。
その上昇気流の先、最も高みにいる存在を私たちは「神」と呼びます。
同じ上昇気流に乗り、高みを目指すのが「神の道」です。
人に近づく人の道ではなく、神に近づく神の道を選択し、生きながらそこへ到達する者は、「現人神」と呼ばれるのでしょう。
人を求めて自分のやり方を選ぶのか、神を求めて自分のやり方を貫くのか、二つに一つです。
私はその選択を突きつけられても、全く動じずに「後者」だと言います。
おそらく、その道はだいぶ前から決まっていたように思うからです。
私が私に似た魂を求めるなら、人に求めるよりも神仏に求めた方が近いのかもしれません。
他人に合わせると、視座を変えながら行動しなければなりません。
そもそも自分の生き方を人に合わせることが出来ていれば、私の半生はもっと上手くやれたでしょう。
「お前は今まで何を目指してきて、これから何を目指すのか?」
魂が求めているのは承認なのか、それとも己の理想を追求することなのか。
少なくとも、人に理解されるレベルに行動を抑え込んでいたら、自分の才能を出し切ることができません。
才能を発揮すること、人の役に立つことは、理解されやすい行動を選ぶということではありません。
もっと本質的な部分での貢献を、神様は望んでおられるからです。
それは、必ずしも多くの人から対価を得ることを意味しないかもしれません。
その二つに一つしかない選択をする覚悟が、自分にあるのか。
それは、神を信じて見えない床を踏み抜く勇気に他なりません。
私は自分に問いかけ、こう思います。
「今まで、人に合わせようといくら努力しても無理だったのだから、どんな時代になっても人には合わせられないよ」
他人のために自分を生きるのはもうやめよう。
自分のために他人に尽くすのもやめにしよう。
人と意識のレイヤーが違う自分を生きる。
それが私の生まれ持った魂を受け入れることであり、自分を認めるということです。
その答えを求めるのが、私の半生のテーマだったのかもしれません。
結局、自分を信じ自分のために生きられるかどうか。
その結論は寂しいかもしれないし、哀れに感じるかもしれません。
けれど、それが自分の宿命ならば受け入れるしかないのです。
自分のために、自分を生きる。
とは言え、神の道を選んだ人間は、霞を食べて生きられるわけでも、野宿しながら暮らせるわけでもありません。
所詮は神と人間の中間の存在であり、極端に特別な存在になれるわけではないでしょう。
神様の求めに応じ、自分の魂の求めに応じ、何らかのお役目をこなせば、それなりに対価を得ながら生きていける仕組みなのではないでしょうか。
だから、人間としての感情や感覚を持ったまま、神に近づく新しい修行が始まるだけなのだと思います。
神様も、神界で高みを目指して修行されているからこそ、人間にお世話してくださるのでしょうから。
Discordは、何となくもう少し様子を見ようと思います。
おそらく神様でも、数少ないパズルのピースを寄せ集める作業は骨が折れるのかもしれません。
でも私は、自分のことをやっていればいいようなので、お役目があるとしたら神様のお導きを待ちたいと思います。

楽太郎です。
先ほど、賀茂神社に参拝して帰宅しました。
神様に呼ばれている気がして、雪が舞っていたのですがいずれ晴れると思い、徒歩で行くことにしました。
雪が強くなってきたので、ちょっと間違ったかなと正直思いました。
ただ神社が見えると、暖かい気持ちになったのでこちらの神様とは相性が良いんだろうな、と思いました。
神様には特にお願いごともないので、感謝の気持ちだけをお伝えさせていただきました。
手水舎で禊ぎをした時点でかなり凍えたので、温かいコーヒーでも飲んで雪が止むのを待つことにしました。
前回参拝した時にもお見かけした、高齢の女性が境内におられました。
その時も気になったのですが、その方はおそらくかなり能力のある方で、神様とお話ができる方だと思います。
毎日、こちらの神社に通われているのかもしれません。
その女性がご神木と話をしておられる姿を見ながら、私も真似できないかなと思いました。
ちょっと手を触れてみたのですが、やはり何もわかることはありませんでした。
ただ、もの凄く強いエネルギーのようなものを感じたので、私自身の霊感は確実に高まってきているかもしれません。
一息ついた時にお社に呼ばれた気がして、拝殿に戻りました。
遠目に茅葺き屋根や木鼻を眺め、さてそろそろ帰ろうかなと思った瞬間、急に陽が差して暖かくなってきました。
鳥居を出る頃にはすっかり雪も止んだので、わりと予想は当たるんだな、と思いました。
帰り際にラーメン屋に寄り、昼食を摂ることにしました。
身体もすっかり冷え切っていたので、熱いラーメンはすごくありがたかったです。
チャーシューを食べた時に、これほどラーメンに感謝する人はいないだろう、くらいの気持ちが溢れてきました。
この時、神様は「感謝」という気持ちを人々に思い出して欲しいのではないだろうか、と思いました。
このお店も流行っているとは言えませんが、この繊細な味を何十年も続けるには相当な努力をしてこられたはずです。
私は美味しいラーメンだと思うのですが、人からすれば「どこでも食べられる味」とか思うかもしれません。
ただ、このラーメンがまた明日、いつでも食べられるという保証はありません。
私たちはいつも次があると思いがちで、人にせよモノにせよ、替えはいくらでも効くと考えてしまいます。
けれど、次はなく替えが効かないことに気づいた時、ありがたみを思い出した時にはすでに遅いのです。
人間は何でも替えが効くと思い、人もモノも食べ物も粗末にしがちで、今になってその当たり前が怪しくなってきています。
勘の良い人は気づき始めた頃かもしれませんが、まだまだ現代人は取り返しが効くと思っているでしょう。
神様からしたら、地球の力や生命の代償として頂いた恵みに感謝できる人間には、恩恵を与えてもいいと思うかもしれません。
しかし全く恩も感じず、地球や生命や神仏も蔑ろにする人間には、自分の立場をいい加減に思い知ってもらいたいはずです。
神様がやろうとしているのは、人間に謙虚さや感謝を取り戻させるような、宇宙的な改革なのではないでしょうか。
だとしたら、金と力で回る人世で米粒一つに感謝せざるを得ない世とは、一体どういうものか想像に難くありません。
欲深い人間にそこまで学ばせるには何が必要なのかを考えると、これから起こることもだいたい予想できます。
そんなことを考えながら帰路を歩いていると、もしかして今日は私にこれを気づかせるために神社に呼んだのかな、と思いました。
私の気のしすぎかもしれませんが、こう考えた瞬間に耳のあたりの空気がピタっと止まった気がしました。
これが神様のメッセージなのかはわかりませんが、神様のお立場からすると、土地も生命も食べ物も粗末にするような人はお嫌いでしょう。
これから神様が主導権を握られるのだとしたら、感謝の気持ちを持つ人間には優先的に恵みが行き届くようにしたいはずです。
神様が仕切る世であれば、それこそが福運であり、豊かさを招く第一条件なのかもしれません。
私はそう思った時、大人はともかく子供たちにこれを伝えなければ、と思いました。
今の子供たちが大人になる前には、世の中が荒れて食べ物の大切さが自然に身につくかもしれませんが、それをあえて教えられる大人がどれほどいるのでしょうか。
食べ物に感謝するとか、人の仕事をありがたく思うとか、そういうのは当たり前すぎて、あえて言う人はいなくなりました。
いなくなった結果、この当然のことを誰も考えなくなったからこそ、フードロスと物価高が同時に起こる奇妙な世が出来上がったのではないでしょうか。
そう考えたら、やはり全ての日本人が思い直すまで相当なことが起こるんだろうな、という気しかしません。
日本人は知能が衰えたとは言え、一応馬鹿ではないのでいずれ気がつくでしょうが、まだサイレンの音に気づく人は少なく、まだ危機を本気で信じてはいないと思います。
2025年1月末にして、これだけの事件が頻繁してもまだ序の序なんだろうな、と私は感じています。
P.S.
神社に参拝したことで霊力を補充していただき、だいぶ楽になったのですがラーメン屋で邪気を拾ったらしく、店を出た後の方が元気がなくなりました。
私の霊的な防御力は相当低いようです。
早く何とかしなければいけないかもしれません。

楽太郎です。
なぜ、チャクラが慢性的に乱れやすいのかがわかりました。
私の本業は絵描きなので、猫背になりやすく首も肩も凝りがちです。
その仕事を何年も続けてきましたが、最近は特に肩凝りが酷く、運動したりセルフ整体やストレッチをしても、あまり改善しませんでした。
いくらチャクラの調整に努めても乱れがちになるので、何か他に原因があるんだろうなと思っていました。
私はそれが邪気かサイキックアタックではないかと踏んで色々試してみたりもしたのですが、その原因は仮に事実だとしても、さらに深い原因があるような気がしていました。
その根本原因は、自分の波動の低さにあるんじゃないかとか、夢の内容で症状が左右することもあり、集合意識が関係しているのではないかとか、あらゆる仮説を立てて原因を探ってきました。
けれど、原因や症状に拘りすぎる心もストレスになる面もあり、追求そのものが難航していました。
最近は肩凝りが酷くなりすぎて、坐骨神経痛や横隔膜の緊張にも影響し始めて、そろそろ病院や整体に行った方がいいのではないかと考え始めていました。
当然、不安神経症や自律神経失調症とも考えられますが、その医学的症状は原因があるから生じているのであって、薬学療法では根本的な改善ができないので、いずれは元を直す必要があります。
ここまで身体が歪むほど不健康な生活をした記憶はありませんし、こんなに強いサイキックアタックや呪いを受ける理由も見当たりませんでした。
そこで身体の痛みと自律神経、解剖学や理学療法の情報を漁り、自分の身体と照らし合わせてようやく原因を突き止めました。
私の身体は両腕が強く内側に捩れていて、尺骨の付近の歪みが酷いことがわかりました。いわゆる「巻き肩」の状態です。
けれども、通常のストレートネックや巻き肩の症状にしては極端で、自分が無意識にこの状態に身体を変形させてしまったようなのです。
巻き肩になれば、胸郭が広がらなくなり横隔膜が圧迫され呼吸が浅くなり、それにより交感神経が高まって各部の血管が固くなることで老廃物が蓄積され、身体の異常なコリに繋がります。
ここまでは十分医学的な説明は可能なのですが、問題はなぜここまで酷い巻き肩になってしまったのかです。
私は、これは習慣というより外部のエネルギーに対する身体反応だと結論づけました。
私は人一倍、外からキャッチするエネルギーに敏感です。最近は、環境から受けるエネルギーの周波数が低くなっているため、その影響を受けないために身体の力を内向きに抱え込む必要があったのではないかと思います。
その際に霊感的に緊張を生み出し、心理的には不安や焦燥感、怒りという面で出ていたのでしょうが、この原因は相互的なものかもしれません。
卵が先か鶏が先か、という話になるのですが、外部から負のエネルギーを受けるから防御体勢に入り、身体が内向きに固まることで自分の波長を下げる、という悪循環の中にいたのは間違いなさそうです。
私の頭が緊張しやすいのは脳の使いすぎでもあるのですが、それにしても考えすぎは幼少の頃からなので、老化現象だけで不調を説明しきれないとは感じていました。
ただ、身体が内向きにエネルギーを抱え込むことで自分の内面にベクトルが向かい、余計に考えすぎ、感じすぎに繋がってしまったとも言えます。
だから、この身体の不調と自律神経は、波動と直接的な関係があったのだと思います。
特に私は憑依体質なので、良い波動も悪い波動もすぐに影響を受けてしまいます。
私が人の集団が苦手なのも、近年人払いに徹したのも、自然や神仏との距離が縮まっていったのも、私の波動に対するスタンスが出たのだと思います。
この「内側に筋肉が捻る」という症状は、私がどれだけ姿勢やストレッチを心がけても、無意識で起こる現象なのでよほど自覚しない限り良くなることはなかったかもしれません。
いくら波長を上げようと努力しても、常に身体が緊張していればチャクラが閉じがちになり、魂本来のエネルギー循環を阻害してしまいます。
チャクラが乱れたら、邪気の影響を受けやすくなり、様々や症状や霊障を引き起こします。
私の身体の不調が長引いたのは、この悪循環に陥っていたからだと考えられます。
この「巻き肩と内向きに曲がる身体」をどう解決したかと言うと、人体の構造を逆算して考えました。
人間の両腕の軸は薬指にあると言われます。
腕が内向き、外向きになる時、薬指が中心になるので薬指を外側に撚れば巻き肩を矯正することができます。
その他に、尺骨付近の筋肉を外側にストレッチすることで腕の捩れも元に戻ります。
私の場合、この歪みが相当酷かったので治るまで時間がかかりましたが、巻き肩が解消するにつれ呼吸がしやすくなり、交感神経の高まりをコントロールできるようになりました。
自律神経を意識的にコントロールするのは、呼吸と姿勢以外にないと言われています。
ですので、呼吸ができない身体になっていることがチャクラ的にも一番まずいのです。
「なんか最近体調悪いな」と思う方は、ご自身の自律神経の状態を見て、その原因が身体の歪みだけでなく波動の状態から見直してみると良いかもしれません。

楽太郎です。
冬至以降、私はパッとしない感覚の体調不良がダラダラ続き、エネルギーの停滞やら邪気やら生霊やら、様々な不調要因がありましたが、それらは一重にチャクラが乱れがちだったからです。
常に過労状態でありながら、秋以降は霊感の高まりや魂の修行も加わり、心身がボロボロの状態には違いありませんでした。
1月半ばあたりで「登りきった」という魂からの実感が湧き上がると、もう少し休んでもいいのかな、と安堵する気持ちも出てきました。
やる気やエネルギーの高まりもありながら、デスクに向かうと気持ちが遊んでしまう部分もあって、何となく本気になれませんでした。
現在の私のテーマが別のところにある感覚はあって、この際に自分を見つめ直し、身体の良くない部分もしっかり治そうと思いました。
同時に、スピリチュアルの勉強も始めました。
ただ、外の情報ばかりに影響されると混乱してしまうので、内観しながら精神世界に頭を巡らせる日々を送っていました。
神様たちとのご縁が深まることを感じる日々の中で、新しい繋がりが見えたのは「ご先祖様」です。
神様以外にも私を加護してくださる仏様がいらっしゃって、そのご先祖様はこれまで私を強く守ってきてくださり、今もなお恩恵を与えてくださっているのを実感します。
私を加護してくださる目に見えない存在が増えてきたので、強く瀬織津姫様の存在を感じる瞬間は少なくなりました。
たまに男性的なメッセージも入ってくるので、正直どなたのエネルギーなのか判別がつかなくなってきています。
瀬織津姫様にもお役目があるのでしょうから、いつまでも袖を引っ張ってついて回ることはできないようです。
ちょっと寂しい気持ちはありますが。
それでも、神様から降りてくるメッセージは「お疲れ様、ここまで頑張ったのだから休みなさい」というものです。
おそらく、私はこれから大きく動かなければならないタイミングが来るのだと思います。
その時のためにエネルギーを蓄えて、身体もしっかり整えておきなさい、と。
私は、この数年で最も安堵感を覚えているかもしれません。
世間的には不安が増す一方でしょうが、私としては既存の枠組みが壊れるほど動きやすくなります。
常識外れの行動をすることに関してだけは、私には才能があります。
何があっても私は一人でも生き残れる、根拠のない確信が希望になって魂を燃やしています。
おそらく今の感覚なら、どんな世相でも自分を貫いていけます。
神様や目に見えない存在があろうとなかろうと、心のエネルギーと直感力と経験があれば、善し悪しはともかくとして、あらゆる手段で生き残ることができるはずです。
それが今までできなかったのは、土の時代の圧倒的な存在感です。
それが崩れ去るなら私がむしろ壊し、面白おかしく奇妙なものを作ることが許されるなら、気の済むまで暴れ回れるということです。
この先の時代を生き抜いていくには、信念が必要です。
信念がなければ、降り注ぐ困難に耐え切る精神力を持続することができません。
そして、災難が重なれば自分の方向を見失い、何も手につかず荒波に流されてしまうでしょう。
ただ、信念は自分の考えや芯の部分というより、生命エネルギーそのものです。
魂から湧き上がる力や感覚が確信となる時、信念は生まれます。
自らの本来のエネルギーに気づくからこそ、信念は生き残るための勇気にも繋がるのです。
人間は変化を嫌いますが、人が変われないのは勇気が足りないからです。
無知であったことを自覚する勇気。
知りたくなかったことを認める勇気。
自分にはない価値観を受け入れる勇気。
全く異なる他者と共存する勇気。
大きな問題に気づき、立ち向かう勇気。
その「勇気」をこの社会に活かせず、なあなあの空気の中で人々が変わらない選択をしたのは、勇気を振り絞るほどの信念がなかったからです。
「ここは絶対にこうしなければならない」
「ダメなものは絶対にダメだ」
そういった当たり前の掟すら、貫けるほどの信念が失われてしまいました。
ただ、信念の欠如における本質とは、生命エネルギーの喪失です。
魂の声を聞かずとも何となく生きられる世の中にあり、生命体としての根気強さを忘れてしまったからこそ、大した思想のない社会を作り出してしまったのではないでしょうか。
私たちがこれからやらなくてはならないのは、自身の生命体としての本能を思い出すことです。
その原始的な魂の力を信念に変え、勇気を出して現実に立ち向かっていくことです。
それは、必ずしも仲間を必要としません。
魂を高みに向かわせる時、所詮は肩を寄せ合うのも一瞬です。
自分が何をして、どういう生き様をしていくかが全てです。
それが例え孤独でも、孤独がゆえに嘲笑われても、己の魂と神々の意志を感じ共に生きていくならば、それは些末なことです。
本当に大切なものは何か、真の気高さとは何か、自分が人として生まれた一回きりの人生を、どこまで納得できるものにしていくのか。
そのことだけを考えて生きれば良いのだとしたら、人生の目的は至ってシンプルです。
神様がせっかく時代を変えてくれようとしているのに、未だ古い生き方をなぞって古い時代と似た幸せを掴もうとするのは、勿体ない。
どうせなら、自分で幸せの形すら作り出してしまうくらい、違う生き方に踏み出すのも面白い。
そんな時代が来ました。
私は数週間ゴロゴロしていたのもあって、身体がようやく元の状態に戻りつつあります。
力がつま先までみなぎり、心から湧き上がる熱が抑えられません。
いよいよ、本気を出せる時がやってきた。
その感情が湧き上がるたび、私はすごくワクワクしてきます。

楽太郎です。
先日、私が支援していた「生成AI被害による裁判」クラウドファウンディングの進捗報告が来ました。
生成AIは、世界中のテック企業が推進する次世代テクノロジーだと言われています。
ただ、「AI」と名前を冠していても、人々が想像する自律型のAIは「汎用AI(GUI)」と呼ばれます。
しかし、生成AIはGUIとは似て非なるものです。
生成AIは、全世界のネットにあるデータにアクセスするリスト(データセット)からプロンプトに応じて元データを引っ張ってきて、コラージュして出力します。
GUIと違うのは、「自律思考」の要素がないことです。この技術は、「生成型検索エンジン」と揶揄されています。
この仕組みは、ネット上にある著作物をクローリング(巡回)して勝手にタグ付けし、必要とあらば生成AI側で合成材料に持ってきます。
これは基本的に「オプトアウト制」と呼ばれ、個人の著作物が機械学習に使われて良いかの可否は、「自分の作品がAI学習に使われていたと判断でき、それが嫌ならサービス元に申請することができる」という仕組みです。
オプトイン(許可制)では、素材使用の賛同者がいなければデータが集まらないため、現時点では大したものが出力されません。
生成AIは、数とパワーの世界です。より多くの学習データがあれば、多様な出力が可能になり、それがアプリの精度に直結します。
現在は、ほぼ全ての生成AIはオプトアウト制であり、のべつ幕なしに世界中のデータを学習素材として回収します。
この生成AIサービスは、法的に保護された著作物すら素材として扱うため、世界中で訴訟が起こされています。
人間は学習すれば、学習した記憶を全て引っ張り出して、一から十まで回想してから知識を応用したりはしません。
抽象度の高い知識の雛形があれば、無限に応用が可能だからです。
しかし、生成AIを「人間と同じ思考手順を取って生成している」と思っている人は少なくありません。
本当に「自我」があるプログラムだと。
ある人気のイラストレーターがいて、誰かがイラストレーターの作品を生成AIにインプットし、その出力物をイラストレーターの名義を詐称して世に出したり、類似的な作品を自分名義で発表して収益化する、そんなことが可能になりました。
しかし、生成AIを通した時点で著作権侵害には当たらなくなるため、作品を素材として使われたクリエイターは泣き寝入りするしかありません。
生成AIの処理プロセスがブラックボックスなため、自身の作品が流用されたことが明確でも、その証明をするのが技術的に難しいからです。
先のクラウドファウンディングは、自身のイラストを生成AIに取り込まれ不本意な形で収益化されたイラストレーターと、生成AIユーザーの裁判です。
結審までに2年かかるそうで、昨年12月にようやく第一回の公判が開かれました。
実際にこの問題は2年前から始まっているので、4年以上の時間が費やされることになります。
この話を聞いて、「あー、AIが人類の新しい未来なのだから、権利とかしょうがないよね」と納得する方はどれほどいるのでしょうか。
私は、思っている以上に多いと思います。
私の立場で言えば、私が描いた作品が生成AIで加工され、全く無関係な人が別の目的で利益を得るわけです。
私には何の利益もないどころか、作風を量産されることで差別化が図れなくなり、商売が難しくなっていきます。
これが横行したら、創作活動がバカらしくなってしまう方もいるでしょう。
実際にそうして、私は筆を折る人を数えきれないほど見てきました。
そのため、業界やクリエイティブの世界そのものを守るための活動を続けてきました。
けれど、このままだと遅かれ早かれ自分も筆を折らざるを得なくなると思います。
…いや、思いました。
これが過去形なのは、私はこれからも絶対に諦めないからです。
スピリチュアルとの出会いとすれ違うように、人の世はこのまま行くところまで行くと確信しました。
この世を覆う闇が深すぎて、もはや人間の力ではどうにもならないと悟ったのです。
人間よりも強い力にしか、この世界を変えることはできない、と。
新しい世界とは、一体何なのでしょうか。
この世がどんどん便利になっていき、寝ていても食事が口に運ばれるような社会で、病もなく長寿で無限の暇を持て余しながら、魂だけを置き去った世界。
才能の変わりにプログラムがあり、アイデアだけで一瞬でお金が動くような世界は、本当に人類が到達すべき楽園なのでしょうか。
人間の本質は、何十万年経っても変わりません。
人間は嘘をつく人が嫌いだし、ズルして調子に乗る人も嫌いだし、人に迷惑をかけて顧みない人も嫌いです。
その代わり、誰よりも実直に努力してきた人、自分の頭で考えて行動する人、人に正直で誠実な人、こういう人に信頼が集まります。
人は結局、真面目にコツコツ努力する人が好きです。
おそらく、人間のこの性質はこれから何万年経っても変わらないでしょう。
「美徳」とは、人類にとって普遍的であり、時空を超えて魂に刻まれた価値観なのだと思います。
その「美徳」を捨てた世界は楽園ではなく、真逆の様相を呈するでしょう。
では、私たちが新しく進むべき理想の世界とは何でしょうか。
第一に、人々が自分の尊厳を守られる世界でなければなりません。
人々が個々に尊重される世界は、大まかに言って「人権」が担保されなければなりません。
人権があるからこそ、どんな権力者であろうと人を蹂躙し、搾取することは許されないのです。
ただ、人権は「自由意志の尊重」でもあります。
私が悪を世界から消し去りたくても、悪と目された人の権利も保障されなければなりません。
その両者が互いに潰し合わずにどう共存するのか、どうすれば調和に向かうのか、その寛容さを受け入れなければ人権を正しく認識することはできません。
とても難しいことだと思います。
人は、自分の無意識の行いが他人からの搾取であるとすら気づきません。
ルールや法律すら、自分が罰せられなければギリギリまで守る必要はない、とさえ考えています。
この生成AI問題を追っていて感じたのは、「権利?イノベーションのためなら邪魔になるよね」と思っている人が想像以上に多かったことです。
「権利は大事だ」という話が、そもそも通じない人がとても多いのです。
権利とは、自分の存在や行いが不当に侵害されないための防波堤です。その意味の重さを、自分に置き換えて考えることができないようなのです。
けれども、その価値観ではこれから先の世を生きていくことはできないでしょう。
今世界に起こっている浄化は、こういう人たちに最も降り注いでいるとも言えます。
既存の価値観や社会構造に疑いを持たず、ハックを使い金さえ稼げれば豊かな人生があると思っていた人たちは、価値観の崩壊や社会の揺らぎが起これば自分の豊かさの定義が崩れ去るからです。
自分を守るには、他者を大事にすることが一番です。
いくら自分が強くても、周りの人を常日頃から足蹴にしていれば、自分が弱くなった時にまずいことになります。
自分が不当に搾取されないためには、他者を尊重し互恵的な関係を築くことです。
これからの時代、それが「当たり前」の世になっていけばいいなと思います。
むしろその方が、社会的に合理的だからです。持続可能な社会だからこそ、人々は安心して暮らせます。
そういった世を作るために必要なのは「優しさ」とも言えますが、厳密に言えば「思いやり」です。
相手がして欲しくないことはあえてしない、それ以前に相手のことを知ろうとする気持ちです。
そういう段階から、世は改まらなければならないと思います。
この気持ちの切り替えは簡単ではないかもしれません。けれど、いずれそうせざるを得なくなる流れが来ることでしょう。
誰が懲らしめられたら済むという話でもありません。思いやりのある社会なら、理不尽な問題は起こりえないというだけの話です。

楽太郎です。
今回は、「感情」についての話をします。
私は昔から、集団行動が苦手でした。
別にそれは私が周りに合わせられないから、という理由だけではありません。
多人数の中にいると、色々な念や気を浴びることがストレスになり、緊張して混乱したり疲れてしまったりしたからです。
よく考えれば、私は幼少の頃から少人数に溶け込むのは平気でも、幼稚園がすごく苦手でした。
その頃から頭痛持ちで、騒がしい群衆と関わることにいつも不快感を抱えてました。
私は今になったからよくわかるのですが、それは霊感、霊媒体質によるもので、外部のエネルギーの影響、言うなれば邪気を受けすぎるのだと思います。
若い頃はそれを「弱さ」だと信じ込んで、気合いと根性が全ての業界で叩き上げを経験しましたが、最終的に心身が壊れてしまいました。
結局、それはどうにもならない感受性であったと気づくまで、恐ろしいほど時間がかかりました。
今でも、街を歩けば負のエネルギーを拾ってしまいます。
特に今は、街の沈み方が異常です。
良い気分で外出しても、街の重苦しい気を受けて落ち込んで帰ってくることもしばしばです。
人が歩かなくなった地元の街を見ていると、昔の賑やかな風景を思い出し、「どうしてこうなったのか」と知らずのうちに考えてしまいます。
その感情は、何だかんだ言ってこの街が好きだったからです。
頭では仕方がないとわかっていても、まだ心の奥底では納得ができないのです。
人の暗い念や重苦しい気を受けるのは、私が感じすぎる以上に、人の苦しむ姿や落ち込む姿を見ると共感してしまい、周波数が噛み合ってしまうからです。
これまでHSPとして生きてきましたが、他人をあえて見ないとか、他人のことをわざと考えないようにすることで、多感さを埋め合わせていました。
けれどその生き方では四面楚歌に追い込まれるだけで、結局は自分らしくあろうとするなら、この多感さを受け入れなければなりませんでした。
今改めて思うのは、感受性に蓋をすることはできても、性質を変えることはできないということです。
そう感じてしまうのは仕方ないし、その感じ方のせいで不安になったり怒りを覚えたとしても、それも仕方のないことです。
感じやすいという性質を変えることはできないとしても、感覚から湧き上がる感情を何とかすることはできます。
感情は自分の意志で抑えることも、考え方や捉え方を変えることで感情そのものを変えることもできます。
それは簡単なことではありませんが、自分の素直な感覚を否定せずにうまく生きていくには、その方法を取るしかないと思います。
私が不安や怒りに押し流されそうになるとき、自分のロジックも妄想的になっていることに気づきます。
「今、自分はすごく感情的だ」と思うだけでも、今の状態を俯瞰して見ることができます。
大抵、人間の感情が揺さぶられる時は、自分の思い込みが揺さぶられた時です。
以外と、怒りや不安の根底にあるのは、現実を受け入れられない悲しみであったり、愛情を感じていたゆえの悲しみであったりもします。
私は人間の感情は全て、「喜び」と「悲しみ」という原始的な感情から派生したものだと考えています。
悲しいと感じる出来事に呼応して、防衛反応として不安になったり怒りを覚えたりするのだと思います。
同時に、喜びは自分が生きていく上で有利になる、人から認められたり報酬を受けたり、美味しいものを食べたり笑ったり、生を加速させるために湧き上がる感情です。
この喜びをもたらすものこそ、「愛」だと思います。
神々や自然がもたらす恵みも愛と言えますが、人が自らの生を尊重され、思いやりを受けて大事に生きていける、その環境を媒介にするのが愛ではないでしょうか。
ただ、愛は単なる感情だと誤解されがちです。
私が考えるには、愛には水属性以外のエレメントも必要で、火、土、風、水、全てのエレメントがバランス良く整わなければ回ることができません。
火が強ければ情熱が空回り、
水が強ければ感情に溺れ、
風が強ければ理を押しつけ、
土が強ければ形にこだわる。
正しく愛を伝えるには、自分自身が自立しており、また他者も独立した存在として尊重できなければなりません。
感情的に依存した関係では、愛の歯車はうまく回らないのだと思います。
この世に不安になる事件や争い事が絶えないのは、人々がこの愛の仕組みを理解できていないからではないでしょうか。
「好き」というだけでは、愛情は表現できません。
相手を思いやるには、相手のことを知り考えるだけの知性がなければ、きちんと伝えることが難しいと思います。
現代人は精神的なこと、形而上学的なテーマに関してほぼ考えてこなかったと言っていいと思います。
だから、心理学で仕組みがわかっても、他人に共感することができない人が増えました。
人間とは何か、心とは何か、それがあやふやなまま社会の仕組みが壊れていく今日に至り、人生の目的や人間関係の在り方を見つめ直すべき時に来たからこそ、多くの人が混乱し始めているのではないでしょうか。
いくら不安や怒りを共有したところで、現実の歯車を回さなければ何一つ解決はしません。
自分たちが恐慌をポルノグラフィティにするよりも先に、もっとやるべきことや気づくべきことがあります。
私は、それがまず「他人に気づくこと」だと思います。
自分に与えられた恵みや愛情への気づきも、自分以外のものに目を向けなければ気づくことができません。
そして、自分がこれまで依存していたことを知り、そこから自立しようと意を決し、他者を独立した存在として思いやる。
こうして初めて、愛の歯車が動き始めるのだと思います。
かく言う私も、それができているとは言えません。
人に気持ちが依存しているからこそ、反省すべきこともあります。
けれど誰もが修行中なのですから、これからうまくやればいいのです。
感情的なのは人間であるがゆえだし、感情的だからと言って恥ずかしいわけでもなく、それでポカしても暖かく笑える世の中であれば、誰も傷つかないのです。
この世がそんな平和で呑気な雰囲気になればいいな、と私は思います。

楽太郎です。
最近、気になっていることがあります。
私の近所に、空き地を公園にする工事が行われているのですが、その作業が全く進んでいません。
今年は雪も降らないし暖かい日も多いわりに、施工期間が春まで延びました。
業者の方も、敷地内を歩いているだけで重機も作業も動いているところをあまり見ないので、不思議だなと思って見ています。
何か外部的な理由があるのかもしれません。
予算が降りないとか、部品が届かないとか、他の業者のスケジュールが合わないとか。
ただ、そうしている間に従業員に給料は払われているわけで、工期が延びた分の工費は増えていきます。
その資金を捻出しているのは、市民です。
私はこれを見て、日本の縮図だなと思います。
組織や集団としての歯車は回っていないのに、金だけが流れてどこかへ消えていく。
全体として「何かをやり遂げよう」という意志で動けばすぐできることでも、意志がないから歯車をうまく回せず、実行する力もないのです。
皆、自分が何をしたいのか、何をすべきなのか見えなくなっているのかもしれません。
拡大解釈すれば、人々が信じられる価値観が揺さぶられ、社会も会社もマスコミも芸能人もエンタメもお金も未来も、あらゆるものが信じられなくなっています。
その中で、自分が何を信じて生きていけばいいのか、皆が悩み始めているように見えます。
その点においては、私は天性の天邪鬼というか、人様と違うことを率先してやる分には才能があると思っています。
ただ、私以外の九分九厘以上の人々は私よりまともでしょうから、どんなに私が正しかろうと浮きます。
それでも私自身が心を曇らせずに生きていられること自体が証明しているのかな、と思っています。
スピリチュアルを信じる私としては、目に見えず自分にしか分からないものを感じて生きるので、その不安感は独特なものです。
この世界にも能力差や権威性のようなものがあるため、影響を受けてしまう要素もたくさんあります。
ただここで私が気をつけているのは、仮にそれが真実だと思ったとしても、あえて生きづらくする選択をしないということです。
スピリチュアルは結局、精神的な幸福を求めるプロセスなので、自分自身のためにやるというのが中心的なテーマです。
信念も大事ですが、使命感に駆り立てられて自己犠牲をしてしまうなら、幸福とは真逆の方向に行ってしまいます。
他人にパンを与えて自分が餓死するのは人様から見れば美しいかもしれませんが、神様から見れば「何やってるの」という感じに見えると思います。
魂の求めに応じる時、私は子供の心に戻ります。
子供の心は小悪魔的なところもあるので、そのまま出せば社会規範に触れます。
多くの人は、その魂の抑制を思考や習慣で押さえ、ルールで手懐けています。
人生の修行を経験して魂を成長させてきた人は、直感のレベルで何をしていいか何をして良くないのかがわかります。
それでも、人の生まれや性格には一長一短があるので、全てを統一された善悪に置き換えることはできないでしょう。
霊的な説明をすると、良い部分だけを集めると最終的に平均的な性質に慣らされてしまうのだと思います。
だからこそ神様は人に生まれつき個性を与え、一長一短あるように作られたのではないでしょうか。
その一長一短は、人間からしてみれば平均的であった方が扱いやすいので、抑圧して形を変えることで集団行動を効率化してきました。
ただそれは思考による個性、魂の操縦なので複雑なルールで縛らなければいけませんでした。
そのルールという鎖が壊れた瞬間、わがままにやりたい人はどっと溢れるのでしょう。
本当の成長とは、学校で丸暗記させられたことに忠実になるのではなく、経験することで魂が整っていくことを言うのだと思います。
この世界には一長一短、光と闇があるから違いが生まれます。
闇は光を知ることで光を学び、光は闇を知って闇を学ぶ。
その相互作用があるから成長があり、同質で同レベルの馴れ合いの中でそれを促すのは難しいかもしれません。
仏教に「天魔」という概念があるように、神様は闇の存在もうまく遣われるようです。
魔が神の一部であるという話は、堕天使ルシファーが悪魔の王サタンと同一であるという宗教観にも見て取れます。
ルシファーは神の次に神に近い存在だったと言われます。光に近い者ほど、闇を抱えてしまうと深刻になるのかもしれません。
キリスト教的世界観では光と闇が常に戦っていますが、日本の八百万の世界では光も闇も地続きの存在です。
日本神話では、高天原も黄泉の国も対立しているわけではなく、それぞれが世界の一部として共存し、役割をこなしています。
これこそが「統合」ではないかと思います。
個人的に解釈する中で、神様が私に「闇と戦え」と仰ったことがありません。
光と闇がぶつかれば対消滅するからか、光と闇が統合することができないからか、どちらかの理由があるのだと考えます。
光と闇が共存すれば、その高みにあるのは清濁併呑のワンネスです。
清濁併呑には、「愛」という共存の意志がなければ存立できません。
それは限りなく強い光かもしれませんが、ただ純粋なだけではない、深い悟りと慈悲に満ちた境地ではないのでしょうか。
私は、ここに到達するのが霊魂の目標なのではないかと思います。
だから、人に個性があり一長一短があり、良いところと悪いところがあり、けれどもそれが良い調和の状態こそが理想的な形なのではないでしょうか。
浄土真宗の親鸞聖人は、とてもすごい修行をされた方ですが「煩悩はなくならない」と悟られ、衆生を選ばれました。
私はそこに、地に足のついたスピリチュアリズムがあるのではないかと思います。
どう頑張っても、人の一生のうちでは変えられない性質や課題はあります。
しかし、その悪い部分があるから幸せになれないということはありません。
悪い部分、弱い部分があっても、自分だけでなく周りに補うものがあれば、人はありのままに生きて幸せになることができます。
ありのままに生きて、それが何となく認められたら、だいたいの人は満たされた生き方になるのではないでしょうか。
そういう世になるには、あまりに道のりが遠すぎるような気がします。
まあ、私一人だけ意気込んでもしょうがないので、そういう世が来るように神様にお祈りするだけです。

楽太郎です。
先日、神代を作るためのDiscordサーバー「神CORD」をオープンしましたが、今回は神CORDの仕様についてご説明したいと思います。
そもそも、「Discord」とはゲーマー向けのチャットアプリでしたが、テキストベースの交流だけでなく音声通用や動画共有なども可能で、今ではビジネスで使われるケースも増えています。
「slack」を活用されたことのある方なら、使い勝手が想像できるかもしれません。あれをもっと砕けた感じにしたアプリです。
ここでは、スマホ版Discordから見た場合の「神CORD」の解説をします。

これがスマホでのアプリ画面です。
私の描いた須佐之男命様がサーバーアイコンになっています。
なお、この下の緑のプラスボタンを押すとサーバーを作成できるようになっており、何個でも作れる仕様になっています。
「>インフォメーション」と書いてあるのが「カテゴリー」という括りです。
その下に「#神CORDについて」というスレッドがあります。これを「チャンネル」と言います。
テキストベースのチャンネルでは、以下の投稿ができるようになっています。
チャット形式で書き込みができます。
文字制限はなく、書いた後に何度でも編集が可能です。
リンクや画像、音楽データや動画ファイルも貼ることができ、絵文字やスタンプも使用できます。
「>ボイスルーム」というカテゴリーに「ラウンジ」というチャンネルがありますが、ここで通話や動画の共有などが可能です。botを入れて音楽などを聴くこともできます。
さて、Discordの説明はこの辺にして、このサーバーの構成についてご紹介します。
チャンネルの階層構造は一番上のスクショの通りなのですが、「情報交流板」が見切れてしまっているので、現在暫定的なチャンネルをご紹介します。
スレッドの詳しい説明はサーバー内で確認していただきたいのですが、わりと実用的な情報交換を目的としています。
チャンネルはこれで確定ではなく、「管理者要望スレッド」にてご提案いただければ増やすことも検討します。
特筆したいのは「共同プロジェクト募集」スレッドです。メンバーがお互いにしたいことを提案することによって、新しいアイデアを形にする機会にしたいです。
メンバー同士では不得意な分野でも、メンバーの知り合いに得意な方がいらっしゃる場合もあるので、そういうご縁の場になればいいなと思います。
とりあえず、「神CORD」の簡単な説明は以上です。
今のところ、特にルールを決めない方針で行こうと思います。徳が高ければ法律なんていりませんからね。
気になる方は、先日の「神代コミュニティ開設」という記事の招待リンクからご参加ください。
https://rakutaro.fukuwarai.net/Entry/60/

楽太郎です。
本日、Discordというアプリにて「神CORD」というコミュニティサーバーを解放します。
少し前置きを挟みますが、招待リンクは本文最下部に記載します。
なお、今回のリンクには期限が設定されており、暫定有効期間は3月30日までです。
流れとしては、以下の手順となります。
①記事本文にある招待リンクにアクセス
②Discordアプリをインストール(スマホ、PC)、Discordアカウント作成
③ログイン後、チャンネルにテキストの書き込みが可能になります。「ウェルカムボード」というスレッドにてご挨拶をしていただけますと、管理者からロール「メンバー」が付与されます。
参加した状態では、全てのチャンネルにアクセスすることはできません。
メンバー承認を管理者が行うことにより、全てのチャンネルにアクセスできるようになります。
さて、ご興味がなければ一番下のリンクまでスクロールしていただいて構いません。本日オープンの経緯についてお話します。
朝、地元でまだお詣りしてない神社にお呼ばれされた感覚がありました。
「賀茂神社」という別雷命様をお祀りしている神社です。
その辺りに須佐之男命様をお祀りしている神社もあり、そこもお詣りせねばと思っていました。
少し遠回りになるのですが、意を決して長歩きすることにしました。
須佐之男様のお祀りされている神社は、やはりすごい霊圧というか、息を呑むような厳格な雰囲気を感じました。
ただ、何となく参拝した後は空気も柔らかくなって、それほど嫌われてはいないようだ、と安心しました。
そこから今日お呼ばれした賀茂神社まで行く道すがら、通れるかわからない場所があって引き返そうとしたのですが、偶然人がそこを通っていくのを見たので「本当に通れるんだ」とびっくりしました。
これもお導きかな、と思いながら歩くと、賀茂神社に無事到着しました。
賀茂神社のご祭神は「別雷命」様と「玉依姫」様です。
私はよく雷神様のご本尊にお詣りするのもあり、別雷命様にご挨拶しないといけないな、と兼ねてから考えてました。
賀茂神社は、初めて訪れたとは思えないくらい優しい雰囲気で、何時間でもいられるくらい暖かい感覚がしました。
宮司さんはとても徳を感じさせる方で、社務所の窓口で少しお話しをしました。お守りを頒布いただく際、「八咫烏」のストラップをおすすめされました。
八咫烏神は、賀茂神の化身とされているようで、本日の参拝をお導きいただいたことに感謝し、ストラップとお守りを購入しました。
参拝している時、天啓のようなものが降って来ることはなかったのですが、私を見下ろすようにカラスが止まっていて、ずっと私の周りを飛んでいたので、やはり何かご縁があったのかなと思いました。
特に悩みごとはないのですが、Discordサーバーを作ったはいいものの公開するタイミングが計れず、どうしようかというのはありました。
そこでおみくじを引いたところ、こう出ました。
ここ最近、私の身の回りで示されるメッセージが「協力しながらやれ」という圧ばかりでした。
私もそうすべきなのはわかっていたのですが、改めて念を押された感じです。
ただ、Discordサーバーオープンのタイミングに関して、これは「自分の意志で決めろ」ということだな、と思いました。
というのも、サーバー開設を思い立ったのは「やらなければいけない気がする」という感覚でしたが、よく考えれば自分でやりたくないと思っていたら行動には移せないわけで、何だかんだでこれも自分の意志です。
神様は、嫌々言ってる人間にお役目を無理に与えることはないでしょうから、そこら辺の自覚が私になかったのだろうと思います。
最近目にするメッセージをまとめてみると、「お前が成功するには神代の仲間が必要なのだから、成功したければやりなさい」ということに尽きます。
つまり、これは神様の義務ではなく、私自身のチャンスの話だったのです。
そんなわけで色々思い直し、本日Discordサーバー「神CORD」を解放することにしました。
私のブログを読んで、シンパシーを感じて下さる方は是非ご参加いただけたらと思います。
より良い世を一緒に作っていきましょう。
【下記の招待リンクを踏み、アカウントを作成して入室してください】
https://discord.gg/6gQ9dHmG
※良ければ、本記事にコメントを残してから参加いただけると助かります。

楽太郎です。
この数日、エネルギーが上がってきて、インスピレーションが次々と入ってきてます。
これでは一つ一つ覚えられないので、記事を書かないと忘れてしまいます。
最近になって、神様の価値観というか、神様たちのスタンダードな考え方が掴めてきました。
神様は至ってシンプルなことしか仰いませんし、問題を複雑にするのも、受け取り方を複雑にするのも人間です。
しかし、人間はシンプルなことをするのが苦手なようです。
昨今の世は慌ただしくはありますが、特に特筆すべきなのは、第47代アメリカ大統領に就任したトランプ氏です。
日本人はトランプ氏を英雄とか救世主みたいに思っている人が多いように見えますが、私の考えは違います。
トランプ氏がどういう人物であれ、これから何をするのであれ、彼は米国を第一に何とかしたいのであって、「トランプ大統領が日本を救ってくれる」という保証はどこにもありません。
アメリカからすれば、日本が永久に植民地であってくれた方がありがたいでしょう。本国の負債を外国という名義なら実質的に押しつけることができるからです。
逆に、「日本はアメリカも中国もロシアもどう出ようが関係ない、我が国は独立を取り戻す」という気概がなければ、いずれ神にも見放されます。
日本列島におられる神々は、日本人に愛想を尽かしていることをもっと気にするべきだと思います。
私は最近、「禍事」の意味を考えます。
この禍事が真相の炙り出しであり、それによって人々に気づきを促しているというのが私の見解です。
ただ現象面では、ゴシップや社会問題として噴出し、そこから組織が物理的に解体されていく様子を見ながら不思議に感じています。
現在進行形のマスコミ絡みの騒動は、わりと権威寄りのトップ層から切り崩されています。
しかし、世には腐り切ったトップなんてザラにいますし、例えば週刊文春が絨毯爆撃を行なったとしても、全ての不正を暴ききることはできません。
私が思うに、「禍事」は上と下からの突き上げ、突き下ろしが同時に起こっています。
大企業などの権威筋はパワーのある組織にしか切り崩しができませんが、その組織よりパワーのある集団に同じことを仕掛けるのは不可能でしょう。
トップの頭がすげ変わっただけではトカゲの尻尾切りにすぎないので、やはり組織内部から変わる必要があります。
その時、一人一人の構成員の考え方が変わることで、組織は下から動かされていくのだと思います。
組織の構成員には家族もいれば友人もおり、それ以前に一人の人間なので、評判の悪い組織にいるのは居心地も悪く、自分としても納得しがたいでしょう。
神様は、こうして二方向のベクトルから圧を加えることで、浄化を促しているように見えます。
おそらく、これはソフトパワーで起きている「禍事」であり、物質面よりも精神面でかかるインパクトです。
とするなら、「ハードパワーの禍事」も神様は用意されているでしょう。
それはここであえて書く必要のないことです。皆さんも、薄々わかっておられると思います。
神様がこういう形で世の建て替えを進めておられるのは、一重に人間に変わって欲しいからです。
厳密に言えば、「神様と一緒に世の中を作ってくれる人々」が主導する人間界にしたいのだと思います。
それには、目に見えないものとの感覚を大切にし、天からのメッセージを素直に聞き、優しい心を持った人が増える必要があります。
けれど、この評価は人間界の尺度ではできません。
私は、クリエイティブの業界で才能のある人、徳の高さも兼ねた人をたくさん知っています。
そこでは人に尽くし、善業のために身を捧げている人もよく知っています。
ただ人のために徳を積みながらも、視点が人間界の問題に定まりすぎているため、神様の存在には気がつかない人もいます。
残念なことですが、いくら人のために尽くしても、人間界の英雄が神代の人材とは限らないのです。
人類はこの数百年間、ずっと「右か左か」で争ってきました。今も尚そうです。
しかし右と左を選ぶのではなく、本当の正解が「上」であったことに気づく人はあまりいません。
人間なら「真ん中」を選べば良いと思うでしょうが、右に寄った人からはそこが真ん中だと思い、真ん中の人が左にいるように見えます。
だから諍いが絶えないのです。
けれど「上」を選べば、右も左も真ん中も全部同じように見えるはずです。そこでは神様が正しい道を示して下さるので、ブレることがありません。
私は、これが日本の神道に教義が存在しなかった最大の理由だと思うのですが、この話は長くなるので割愛します。
おそらく、最終的に全ての権威が相対化される時、唯一残る権威が「神仏」になると思います。
けれど、人間が勝手に作って祭り上げた権威ではなく、本当に私たち人間を作り育んだ神様という存在が、私たちの上に戻られるのは至極当然ではないでしょうか。
そうなった時、人々は今まで神様のおられるべき場所におかしなものを座らせていたことを反省し、全ての禍が解かれ浄化された世界が訪れるのだと思います。
それが「神代」であり、私たちが実現せねばならないことです。
神代は、意気揚々と戦いながら作るものではなく、神様と和気藹々と楽しく暮らしていたらいつのまにか実現していた、というものかもしれません。
神様は、私に「闇の勢力と戦え」と仰ったことは一度もありません。逆に、「世を照らせ」というメッセージの方が強い気がします。
きっと、希望や喜びの心が光となり、それが唯一の神代を手繰り寄せる方法なのかもしれません。
そのためには、暗い世相に引っ張られず、明るい気持ちで楽しく生きることだと思います。

楽太郎です。
これから神代がどういう経済になるか、ようやく考えがまとまってきたので、書いてみようと思います。
今回、スピリチュアルはあまり関係ないかもしれません。
人々はまだ、「SNSでバズる=成功」というスキームに夢中になっています。
私は、今後はデジタル分野のリセットが行われると考えています。
これに関しては記事が長くなるので割愛しますが、少なくともSNSで不特定多数にアプローチする集客モデルは、一旦縮退するのではないかと思います。
SNSは、自分のアイデアを発信して同じ趣味や目的の人と繋がるのには有効なツールですが、近年ではインプレ収益や宣伝のために何でもやる業者が目立ちすぎて、目的が評価にすり替わっています。
私の感覚からすると、神様はこういうのがあまりお好きではないように感じます。
つまり金儲けのために、他者の興味がありそうなことに合わせ、自分のやることを決めているからです。
もちろん、他人軸でものを考えること自体が悪いわけではありません。
しかし、自分より他者の判断を優先すること、しかも目的が承認や金稼ぎというのは前時代的な発想としか思えません。
この「評価経済」というのが曲者で、世の評価軸は基本的にマスメディアや企業群、あるいは権力者が恣意的に作成できるものです。
人々は知ってか知らずか、その評価軸に従って判断し、話題にしてお金を使います。
誰も興味ある人を見たことないのに、「今、巷で大流行の!」というのを見たことはないでしょうか。
それでも、盛り上がっているという印象だけで何となく近寄ってしまう人もいます。
こういう人をカモにして、ビジネスモデルを維持してきた業界もたくさんあります。
風の時代は、コミュニティの時代と言われています。
おそらく、不特定多数にアプローチするよりも、よりニッチで求心力の高い分野で商売をする方が効率が良く、持続的なビジネスになる時代だと思います。
大儲けをせずとも回っていく経済になるならば、細々と好きなことをやりながら不自由なく暮らせるレベルで人々は満足し、だいたいそれで良いという風潮になっていくのではないでしょうか。
その世界線で、最もお金を使うコンテンツは「体験」になると思います。
社会的価値よりも個人的価値観が優先されるため、「自分にとって高い価値がある」と思うものにお金を払うようになるとしたらどうでしょうか。
例えば、B'zのライブで指定席が取れるとしたら、50万円くらいポンと出す人は多いはずです。
同じように、もしある歌手が全く有名でなくとも、それほど価値があると思う人がいれば、一席50万円のライブができてしまうのです。
私はこういうビジネスモデルを想像するたび、「神代的だな」と思います。
同じ価値観の人たちで集まり、集落からコンパクトシティを形成する現象も起こりうるかもしれません。
仮に資本主義が終焉を迎えるとしたら、円を使うよりも地域内でトークンを使用した方がお得に暮らせるはずです。
街の形態も、郊外一極集中型ではなく、昭和のような商店街で各々が好きなものを仕入れて売る、という形になるかもしれません。
そうなれば、そのコンパクトシティは各自が好きなことと義務を同時に果たしながら、マイペースで暮らすことも可能になるはずです。
無理に収益を上げたり、世界に撃って出る必要もないので、高すぎる努力目標を掲げなくて良いのです。
技術的なことに関しては、「これからの世界はこうなるだろう」と予想するのは難しくありません。
私が思うに、電子制御モデルのテクノロジーは物理的劣化が早いため、長期的な経済合理性から、アナログ的な高精度技術が再評価される流れになるのではないでしょうか。
それが人が再び「ものづくり」を始める、「ニューアナログ」の時代だと思います。
これからの文明を想像する時、「神様から考えるとどうだろうか」と思い巡らすと、見えやすいかもしれません。
モノにせよ人にせよ、一つ一つのものが大事にされる世であれば、下手に環境を犠牲にすることがありません。
神様からしてみれば、人間が「のびのびと自由に楽しく暮らす」生き方をして欲しいと思っておられるでしょう。
その点で見れば、「努力せず、学びもせず、自分の頭で考えない」ことに使われるビジネスは、神様に好まれないかもしれません。
人は魂の修行としてこの世に生まれてきますが、同時に生命の喜びを表現するためでもあります。
苦しみが全くない、楽しかない世界は魂の成長も喜びもありません。
寝転ぶような生き方は、神代では通用しない生き方になるのではないでしょうか。
未来がこういう時代になるとしたら、死ぬほど嫌な人もいると思います。
そういう人は、古い価値観で支え合う人の世で集まって暮らせばいいでしょう。
けれど、私はこういう未来が実現したら素敵だと思いますし、その喜びをいち早く体験し、良ければたくさんの人と共有したいです。
私は、今の時代の「寄らば大樹の陰」という雰囲気が嫌いです。
利益や便利さを享受したからと言って、一部の大企業や権力者に支配される世はおかしいと思います。
テクノロジーやビジネスの発展はもっと開かれるべきですし、帝国的支配の圧力が解かれることでそれは促進されます。
このシステムが崩壊を迎えるとしたら、次の時代はもっと自由で、努力が報われる社会を作りたいのです。
それが、私の想像する「神代」です。
きっと神様も、遠くないものをお望みだと思います。
私たちには、自分たちで作っていける世が必要なのです。

楽太郎です。
先日、今の時代を測る上で象徴的だなと思った出来事がありました。
十日戎で献米をしたので、神社からの返礼品が家に届きました。けれど、厳密には誤配で近所の家に届けられてしまいました。
荷物の届け通知はメールで来ていたので、その旨を運送会社に連絡し、しばらくして配達員から電話が来ました。
配達員によると、「住所の記載漏れがあった」とのことで、私としては謝罪は求める気持ちはなかったのですが、いかにも「自分は悪くない」という物言いには少しカチンと来ました。
「夜に荷物を誤配先から引き上げて自宅に再配達する」という話をつけて待つことにしました。
最近、この運送会社も色々と複雑な事情にあると聞いてはいたので、ご時世かなと思っていました。
神様的にはどうお感じなのだろう?と思いましたが、「高見の見物でよい」と仰っている感覚でした。
ただ、夜になっていつ再配達が来るのかわからないのも困るので、コールセンターに電話してみました。
これは、自分でもやる必要がないことだとはわかっていましたが、少し好奇心で探りを入れてみることにしました。
結論を言うと、コールセンターの対応も最悪でした。
最初から最後までモンスタークレーマー扱いされて、個人情報を根掘り葉掘り聞かれました。
その時の対応は「住所に記載漏れがあったのだから、原因は送り先にある」という印象です。
送り先は神社なのですが…
荷物も奉納品の返礼なのですが…
その電話をしてから十数分後に、荷物の再配達が来ましたが、ちゃんとした専属のドライバーの方でした。
けれども、何となく斜に構えた印象でした。
私はこの一件で、全く怒りはなかったのですが、今の日本人を考える上で参考になるものを見させられたな、と思いました。
配達員がもの凄くタイトで、精神的・時間的余裕がないのは見て取れました。ケアレスミスに対して、きちんと反省する余裕がないほどなのだろうと思います。
コールセンターの方も、さんざんカスタマーハラスメントの対応をしてきたせいか喧嘩腰で、まともな話に持っていく気がないように思えました。
この出来事の本質は、「自分は悪くない、他に原因がある」という他責思考にあると思います。
ただ、自分が悪くないと正当化できるとしても、自分の考える正しさとは仕事を甘くこなすことなのか、と私は疑問に思います。
彼らも色々大変なんだろうな、と心底感じます。
トップや組織の体質は、末端の従業員にはどうしようもありません。
自分のキャリアや生活を考えると、簡単に抜け出せないのもすごくよくわかります。
けれど、いつまで自分の人生を「仕方ない」と言い訳しながら生きていくつもりなのかな、と老婆心ながら思ったりもします。
実は、今の日本人を支配している問題の本質が、ここに現れているのではないでしょうか。
自分の生きる軸を「当たり前」の生き方に沿うように置いて、皆が仕方なく仕事をしているから、自分も仕方なく仕事をするのは当然だ、と。
世の中が悪くなっても自分にはどうしようもないし、自分がうまくいかないのは自分が悪いわけじゃない。
きっと原因は色々あって、どうしようもなく大きな問題もあって、それが悪いんだから仕方ない。
「だから自分は悪くない」
その他責思考は、あたかも自分が正しく見えるでしょう。
けれど同じように、それ以上に複雑な状況でも、自分軸を守って自ら道を切り拓いていく人はいます。
その動機づけをしないのは自分の選択であって、それは決して自己責任云々ではなく、妥協を選ぶ意志が自分自身にあるのです。
誰もがそう考えるからこそ、日本という国は沈んでいく一方なのではないでしょうか。
この国がおかしいのは政治家が悪い、マスコミが、富裕層が、高齢世代が、官僚が、あの企業が、あの思想が、あの国が、と問題の所在を外部に作ることで、自分自身を反省するチャンスを見送った結果、今の現状があるのではないかと思います。
仮に問題がそこにあるとして、自分は一体何の行動を起こし、何を変えようとしてきたのか。
それを自信を持って言える人は、どのくらいいるのでしょうか。
今、この世界で起きている問題の「炙り出し」は、他人軸で物事を考え、自分という存在を外部に依存させてきた人々に、「そろそろ気づいたらどうだ」と神様が伝えたいのではないでしょうか。
あれほど絶大な影響力のあった人物や組織がガラガラと崩れていく中、「一生寄りかかれるほど絶対的なものはないのだ」と見ることはできないでしょうか。
そして、人々がそれに気づき「では自分はどうしようか」と考え始める時を、神様は待っておられるのかもしれません。
自分に立ち返って人生を再定義する時、これまでの生き方を新しくすることができるからです。
その気づきが人々に広がる時、「今までのこれはおかしかった」と自ら世直しに動き始めるのだと思います。
おそらく世に起きる禍事は、この気づきのために起こされているものなのかもしれません。
私は最近、心底思います。
人生は、「もう一度ある」と思うことでも二度と叶わないことがあります。
あの人と会うことや、あの場所に行ってみること、また食べたいもの、それはまた機会があるとその時は思えますが、気づいたら永遠の別れになります。
人はそれを理解したとしても、その喪失感にいつの間にか慣れてしまいます。
人生は、恐ろしいほど取り返しがつきません。
けれど、新しくやり直すことはいくらでもできます。
同じ状況には至れなくても、それ以上の境遇には至れるのです。
その時、自身の後悔や反省を活かして応用するからこそ、人生はより豊かになっていくのだと思います。
私の半生は、まさにそれを思い知るためのものでした。
だからこそ、「いつでもやり直していいのだ」と私は伝えたいのです。
人生は短いですが、わりと色々なことができるのですから。

楽太郎です。
深夜2時に突然目が覚めて、水を飲んで寝直そうとしたところ、神様から強制アップデートが入りました。
身体が痛いなと感じていた部分が和らぎ、眉間あたりに強い光源を感じました。
真っ暗にしているはずなのに、目を瞑っていても眩しいほどでした。同時に、左耳に高い周波数の耳鳴りを感じました。
私は「あ、来たのか」という感じでしたが、よく考えれば神様とか光の存在は、真正面の上のあたりから来られる印象です。
最近まで生霊と格闘していたのですが、ああいう疾しい存在は首筋や肩を狙って背後から来る感じがします。
確かに自分が神様なら、わざわざ人間の前に姿を現すなら「来てやったぞ」みたいな感じで堂々と正面から降ります。
自分に後ろめたさがある存在は、人の見えないところや弱い部分をついた方が楽なので、背後や足元から絡みついてくるのは理に叶っているように思います。
ともかく、このアップデートは受け取ってすぐ内容がわかるものではなく、必ず後で伏線回収があります。
ただこの夜は神様に叩き起こされたというより、脳が緊張して起きたという感じです。
最近は夢の中で高次元の存在と会話しているらしく、わりと寝ながら頭を使っている感覚です。
以前は人間の集合意識に潜る夢を頻繁に見ていましたが、最近はなくなりました。その代わり脈絡のない象徴的な夢が多くなり、これはこれで面白味はないかな、とは思います。
真夜中でも、救急車のサイレンを2度聴きました。
医療関係の方は大変だろうなと思いますが、この異常な世の雰囲気を感じる人ほど不安でしょう。
よくある「2025年に〇〇が起こる」みたいな情報は、あえて私は見ないようにしています。
例え当たるとしても、予言にありがちな不安産業に加担したくない気持ちもあります。
それはそれで予防意識に繋がるのはいいのかもしれませんが、こういうのは当たらなかった時の責任を誰も取らないのが気になります。
常に言いっぱなしなら、狼少年のように何を言っても構わない状態になるはずです。その点、どうやって信憑性を担保していくつもりなのでしょうか。
私は、その予言がいかに信憑性が高く思えても、無闇に安心感や不安感情を流布する行為が一概に正当化できるとは思えません。
それはスピリチュアル界のインフルエンサーの発言であっても例外なく、安易に鵜呑みにするべきではないと思います。
「権威」は、何かを言えばご自身の影響力で真実味が増してしまいます。
その真贋はともかく、スピリチュアルな世界は三次元世界の情報網と異なるので、自己の内在神や神霊とアクセスする能力があれば、いずれ自分で同じ情報を得られるはずです。
「誰々さんがこう言っていた」のは参考になるかもしれませんが、それを真実性があると思い込み、鵜呑みにするのは三次元的な情報処理だと思います。
私は、「わからないことがわかるようになる」というのも真理追求の面白さだと思っているので、鶴の一声で判明する真実には興味がありません。
スピリチュアルの業界は玉石混交ですが、私は何が良くて何が良くないというジャッジはしないように心がけています。
ただ、いわゆる「神懸かり」的な説話を聞く時には、ある程度の注意はします。
それは別に霊感だけではないのですが、その話を聞いて「人間的に豊かな成長をもたらすか」どうかで判断します。
中途半端な状態で、安心させたり慢心させるようなことを神様がしたがるとは思えません。
不安に関しても同様で、変に脅したり恭順させる言説は不自然に思います。
神仏の世界は無限にある「徳」の階層なので、魂の成長段階として滞留を促すことはないはずです。
その預言がどれほど困難であろうと、人を成長させ内面的に豊かになる道筋を示されている、という解釈が可能ならば、それは神様のお言葉である可能性が高いと思います。
人は、神様のお言葉を意識関係なく受信した時、「それはちょっと」みたいな感じで聞かないフリをしたり、わざと曲解して良いように解釈しがちです。
ただ、それを受けて慢心してしまうのは、悪魔から囁かれたのと同じ状況を作り出してしまうかもしれません。
私の感覚では、神様のお言葉はちょっときついくらいの塩梅でやってきます。それを素直に受け入れられる人は、変化を受け入れ内面的に成長して豊かになっていくと思います。
スピリチュアルは、目に見えないがゆえに反証性がなく、だからこそ真実性よりも「意義」のほうが強いのだと思います。
それを信じることで救いの方向を模索するのが、精神文化たる宗教やスピリチュアルなのではないでしょうか。
近年のスピリチュアルは宇宙的な概念を中心にしながら、宇宙の内在性をフューチャーした高次元の自我にフォーカスが集まっています。
批判するわけではないのですが、宇宙や次元と自我の間にある構成物、言うなれば地域や社会、人々の価値観や制度が省略される傾向にあると思います。
その「自己」と「宇宙」で全てを説明し、中間のものを取り扱わない言説に、私は何となく物足りなさを感じてしまいます。
引き寄せや開運も大事ですが、宇宙と自我の間にある地球的なもの、人工物、国家や社会や地域性に対して、目を向ける意識も大事ではないかと思います。
今、世の中は荒れてきており、引き寄せや開運ではどうにもならないほど、社会的な地殻変動が起きています。
その中でスピリチュアルな力を自分のために使うだけではなく、身の回り以上にこの社会や時代をどうしていくのか、そこで神仏のお力をお借りし、どう世に貢献していくかが大事なのではないかと思います。
自分が高次元存在と繋がっているから救われると思えても、仮に世界のどこかで理不尽に身売りされる子供や、犯罪者に食い物にされる弱者がいて、その世界の地続きにある己の幸福とは一体何なのでしょうか。
私はそれが、人として地球に生まれたことの一つのテーマであると思います。
スピリチュアリズムとは、個人が「気持ち良く生きる」だけではなく、世に暮らす人々が共に気持ち良く生き、神仏や宇宙存在と調和する世界のためにあるのではないでしょうか。
だからこそ、聞き心地の良い言葉だけに耳を傾けず、神様の厳しいお言葉にも頭を垂れ、まず自分が動いて周りを良くしていくことが大切です。
そういう実践を重ねていけば人間は成長し、いつか本当の幸福をつかみ、豊かな生き方ができるのだと思います。
神様は優しいだけの存在ではないかもしれませんが、私たちのそばにいてくださるのです。
