招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「ゼロ」に戻る

楽太郎です。

ここ数日は、過去最大の浄化作用で身動きが取れません。
何も考えず、横になっていても身体が硬直し、頭が割れそうになります。思考と感情の暴走が激しく、良い部分も悪い部分も表に出てきます。
具合の悪さでは、邪気や悪霊の憑依とは比較になりません。

心当たりがあるとすれば、時期的なエネルギーの大きな切り替わりです。
瀬織津姫様のご神璽をお祀りし、氏神神社で出直しを祈願し、数日後に満月と春分の日を控えています。
冷静に考えて、これだけ霊的変容のトリガーがあって何もないはずがありません。
もう今は、とにかくジッとしているしかない時間なのでしょう。

神様からエネルギーが降りてくる時ほど具合悪くなるのですが、私のエネルギー循環が滞りがちなので詰まってしまうと余計にしんどくなるのだと思います。
エネルギー循環が滞る大きな要因は、精神的なバランスの悪さです。
これまで本心を出して生きることがほとんどできませんでした。直感や感覚に従うほど集団から弾かれるので、思考によって行動を抑制してきました。

情動をコントロールするために感覚・感情をそのまま言語化し、客観可能な状態にします。
その考えを別の考えで打ち消し、感覚・感情のエネルギーを遮断することで意識をコントロールするのです。
そうすることで情動のバランスを取ってきたため、純粋なエネルギーの取り出しがうまくいかないのです。

春分を前に、スピリチュアル界隈では「カルマの解消」という話が頻繁にされています。
この時期を境に、今世でのカルマの精算や来世の計画が改めて問われるそうです。
今は、その切り替わりを前に自身のカルマを見つめ直す調整期間ということです。

確かに、今はこれまで私自身が自分自身に負わせてきた「カルマ」と向き合わされている感じがします。
とにかくこの胸の痛みは、魂に負った生傷の痛みそのものです。
魂が暴走しているのか、記憶がどんどん呼び覚まされ、一・二度行った友達の家の間取りすら今見てきたかのように思い出せてしまいます。

今まで意識しても思い出せなかった記憶が走馬灯のように蘇ってくるのは、これが魂に刷り込まれたものだからだと思います。
自分の魂と向き合うことは、今までの人生で受けた心の傷の痛みをまざまざと感じることです。
その苦しみを避けるために、わざと前向きなフリをしたり、ガムシャラに目の前のことに打ち込んだり、別のものに問題をすり替えて生きていました。
今、そうした誤魔化しをやめて、自分の魂の傷と向き合うことが、私に課したカルマの解消なのだと思います。

ここ数年は、半生のカルマを精算するための期間だったのかもしれません。

如何わしいものから離れ、懺悔し反省し改心し、どうしようもなく孤立しながら、どんどん手放しを続けてきました。
そして今、「もっといらないものはあるよね」と、神様からさらに手放しを促されています。
自分の積み上げてきた実績、続けてきた習慣、考え方の癖、価値観、今やっていること、未来への理想、それも「一旦は捨ててみようよ」と。

ただ自分がやりたいことや、やらなくてはいけないとか、こだわっていたものを一度は捨てる前提に立ってみると、なぜか身体の強張りが抜けていくのを感じます。
これから世がリセットされ、新しい時代になるとしたら、残したいものだけが残るとは限りません。
おおよそのものが姿を消すのだとしたら、いっそのこと全て置いてゼロに立ち返ってみると、置いてきたものは自然に消えるに任せても構わないはずです。

そして自分が持つもの全てを捨て、自分の身体すら捨てる覚悟に至った時、魂は本来の自由な姿に戻ることができるのだと思います。
何にも囚われずこだわりもない素直な心は、自然や神の囁きを聞く明鏡止水の境地に至れるでしょう。

おそらく、この春分でエネルギーがさらにガラッと変わり、満月から続く浄化の作用は最大局面に達するはずです。
春分を機に、人世のエネルギーはほぼ焦土に近い形になるのだと思います。
そのタイミングが転換点となり、人世と相剋していた神代のエネルギーは臨界点を超えるでしょう。

その切り替わりを前にして、多くの人が人生最大の転換点を迎えるはずです。
そして、私はそれを無意識に理解しているからこそ、今の好転反応を受け入れているのかもしれません。

この状況を「リセット」と表現しましたが、厳密にはもっと根本的な転換だと思います。
ゲーム機で喩えるなら、前にやっていたゲームソフトを終了しROMを入れ替えるに等しいはずです。

前にプレイしていたゲームは、バグ含みのハードモードのクソゲーで、次にやるのはゲーム機を買った時に付属してきたゲームです。
ただ、それがあまりに味気なく面白さがわからなかったので、みんながやってるゲームを流行りだからという理由で、無理してやっていたわけです。

このゲーム機のキラータイトルこそ実は付属のゲームソフトで、私たちはこの味気なくも奥深いゲームをやるためにゲーム機を購入したのです。
そこに気づいてROMを差し替える時、新しい人生が始まるのだと思います。
前のゲームからは何のデータの引き継ぎもないけれど、プレイヤーの頭脳と技術だけで進められるゲームです。

このターニングポイントで、やはり持つものや残したいものが多い人ほど切り替えは難しいはずです。
幸か不幸か、私はこのタイミングで全てがゼロになったため、人々がゼロになる時にはすでに加算を始めているでしょう。

私は人間として、ありえないほどズタズタになりましたが、これを肯定的に考えれば神様が用意して下さったチャンスであるとも思えます。
人々が沈んでいく時に、私だけは明るい未来を見据えていけるのですから、これ以上の幸運は稀かもしれません。

だいぶ以前から、私はこの時のために生まれてきたのだという実感はあります。
私は天界で相当やらかした魂らしく、おそらく神様とお約束をして人間界に転生してきました。
今お祀りさせて頂いている瀬織津姫様は、前世でご縁のあった神様ではないかと思っています。

あるスピリチュアリストの方が仰っていたのですが、人間が修行して五次元レベルまで魂を高めることができれば、来世は人間の守護神レベルには到達できるそうです。
その世界に瀬織津姫様がおられるのだとしたら、がんばれば来世で瀬織津姫様にお会いするのも不可能ではないでしょう。

このまま野垂れ死ぬとしたら、神様との約束を反故にしますし、「何しに地上へ行ったのか」と言われます。
何とか、ここで踏ん張らないといけません。
私は、瀬織津姫様に恥をかかせるわけにはいかないのです。

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神代への渡り方

楽太郎です。

先日、崇敬する氏神神社に「神様の絵を描いて生業としていきます」という誓願を立てて来ました。
そこで御神前にて「大祓詞」を奏上し、絵馬を書いて奉納しました。

私が稼ぎ口を失ったのは悪いことのように思えますが、ある意味タイミングが良かった、とも考えられるかもしれません。
時代が切り替わる今、これまでのやり方を続けることが許されなくなってきているからです。

多くの人々はまだ気づいていませんが、世界のルールはもうすでに変り始めています。
世界的に唯物主義、拝金主義の延長では何も解決できなくなりつつあります。
ゆえに、これまでのやり方を暗黙に続けていれば、いずれ「ルール違反」になってしまうでしょう。

その審判は「神様」です。
これからの世界を動かすのは、悪魔に唆された人間などではなく、元の座に戻られた神様であることを、私たちは目にするはずです。

そのタイミングで稼ぎ口を失ったことは、すなわち神様から「もうそろそろ撤退しなさい」と促されたとも言えます。
ただ現実的には、人間として努力できる限りをしても通用しないことを悟ってしまった、とも言えます。

それは安易に世の中のせいにできるのですが、単に私のやり方や才能では大衆の心を掴むようなものを作れなかったということでしょう。
その悔しさはありますし、時間が許すならばまだ挑戦したい気持ちもあります。
しかし、どうやらもう時間切れのようです。

神様は言っておられるのだと思います。
「そろそろ遊びはやめて、本気で仕事を始めなさい」と。

しかし主たる稼ぎ口を失った以上、どうやってお金を得ればいいのか、ビジョンは全く見えません。
「楽太郎」としての絵に需要があるとは、今のところ思えません。

私の評判は自分からは測りかねるので、この先がどれだけ希望があるかも見えません。
ただ今の世界が終わるからと言って、人間としての望みが全て絶たれるわけではありません。
時代が変わるだけなのですから、その時代に合った幸せを見つければいいだけでしょう。


ある時、途方に暮れながら街を歩いていました。
「これから何を目的にして生きていこうか」と悩んでいた私は、あることに気づきました。

人々は、これまで社会や企業が用意したものを人生の目的として受け入れてきました。
その信仰心が剥がれ、真の目的がここにはないと人々が悟る時、誰もが自分の内に答えを探すしかなくなるでしょう。

そこで私が思ったのは、自分の内にある目的は外に結果として求めることではなく、自分の内面にあるプロセスこそ目的とするべきではないか、と。

例えば、私たちが荒野に一人ポツンと置き去りにされたとします。

荒野に一人、地平線をどれだけ辿っても誰も助けてくれそうにありません。
その絶望的な状況の中で、この荒野で生き延びようとするのはナンセンスだと、諦めたくなるかもしれません。
ただ、その理不尽なほど致命的な状況でも、自分が生きようとする限り助かる可能性はあります。

その時、行動の動機となるのは死に対する恐怖に限らず、自分の生命力や生への渇望もあるはずです。
この生存本能は言語や道理を超え、生命を持った存在としての底力そのものです。
生命体は、そのエネルギーを使う権限を最大限に有した存在であり、故にどれだけ理不尽であろうとも命は存在することを目的とするはずです。

現代人は、この生命力を削がれてしまいました。
好きな人が身近にいないと死んでしまうとか、好きなものが食べられないと生きる価値がないとか、わりと人は平気で言います。
それこそ、ゴミを食べてでも生き延びるとか、生き物を捕まえて食べるとか、そういうことをしてまで生きたいと思う人はあまりいないかもしれません。

これまでは恵まれた環境にあったからこそ、生命体としての本能を発揮せずとも生きてこれました。
生命体は、この本能を発揮する時ほど本来の力を発揮します。生命体にとって、本能を呼び覚ますことそれ自体が喜びであり、快楽を伴うはずです。

野生の動物たちを見て、いつも食べ物を探して大変そうだなとか、寒くて不安そうだとか心配ではないのかとか、ぬくぬくと生きている側の人間は思うでしょう。
しかし、食べ物がなくて鬱病になった動物や、食べ物を探すことに嫌気が差して自殺するような動物を見たことがありません。
つまり、あらゆる生物の中で人間だけが生きていくことに不安を覚えているのです。

生きる目的は、不幸にならないために生きることにあるのではなく、自分の生きることそのものに見出すべきだと思います。
例え荒野に一人置かれて、そこで自由に生きていける瞬間に喜びを見出すような、自分の内側から湧き上がる力を頼りに生きていけばいいのかもしれません。

自由とは、与えられた条件でしか得られないものです。

無限に選択肢があるならば、どこから手をつけていいかわからず、手をつけてもすぐに目移りしてしまうはずです。
自分に限定づけられた条件があり、不自由だからこそ持てるものを好きに活用していくことができます。
これが「自由」です。

生命体、そして人間も、この自由を使い不自由ながら幸福になることができます。
幸福になるためのあらゆる諸条件は、自由そのものの中にあります。
自由の中にこそ目的は見出されるべきであり、その目的は幸福に至るプロセスにこそ宿っているのです。

それは「命を楽しむこと」です。
荒野で喉が渇いたならば、水を飲む方法を探し、その探究を楽しむことができます。
その探究には才能やアイデアが必要ですが、仮にその材料が揃っていない状態で荒野に捨てられれば、「どうやって死のうか」と考え始めるのも無理はないでしょう。

おそらくこれからの時代は、ここで自分の内側にある力を引き出し、発想を行動に移せる人間だけが生きていける、あるいは活躍していける世になるはずです。

私は、それが新しい時代のルールであり、神様の意図なされた世界なのではないかと思っています。
どれだけ絶望的な状況でも生きようと足掻き、むしろその足掻きを楽しむような人。
そういった人々が魂の曇る世界を打ち壊し、新しい時代に風穴を開けていくのだと思います。


今の世を「タイタニック」だと表現した人がいました。
確かに、座礁したタイタニックが沈没するのは目に見えているので、各自が持ち寄った救命ボートで各自が脱出すれば、皆が助かります。

しかし「世界一の豪華客船が沈むはずがない」とか「皆まだ船内にいるから大丈夫」とか、「救命ボートに乗ったところでどうなる」と思い、行動しない人たちがいます。
ここで言う「救い」とは、救命ボートに乗って救助船に助けられたり、陸地に上がらなければ助からないことを意味するのではありません。
自ら救命ボートを自分の手で出したこと自体、その決意そのものが救済を意味するのではないかと私は思います。

結局、今までのやり方を改められる、改めようと思うからこそ新しい時代に適応することができます。
その新しい時代はこれまでの延長にはないので、自分で新しい発想をしていかなければならなくなります。

その思考をアウトソーシングしてきた人々は、新しい時代になっても何をしていいのかわからないはずです。
そこで、どうしても「目的を持つ人」と「目的を持たない人」がはっきり分かれ、目的を持つ人は自分の生そのものに目的があるからこそ、どんな難局でも強く生きていけるはずです。

神様が人間と共にある時代、「神代」は決して神々が人間を審査して選り分けるのではなく、人間が自ら志願して条件を整えるからこそ渡っていける世界なのだと思います。
タイタニックが沈没しきる前に、自ら運命を決めてしまった人は多いでしょう。
しかし「神代」を選んだ人は、これから適応していけばいいだけなので、あとは淡々と準備を進めるべきです。

そのプロセスは単に、「楽しめばいい」のです。
自分に与えられた条件の中で、持てる自由を最大限に活用して挑戦していく、その挑戦こそがエキサイティングなものであり、喜びに満ちた本来の生き方なのではないでしょうか。

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「祓戸大神」試作漫画

楽太郎です。

「祓戸四神」でベタベタの漫画設定ができてしまったのですが、これは神様から何らかの意図があるような気がしました。

私としては自分で考えるよりも洗練されたアイデアではないと思う(失礼)のですが、これから身を立てる上で何かヒントになるのかな、と考えてひとまず描いてみることにしました。





「祓戸大神のお仕事」風景です。

祓戸の神様たちが、なぜかバレーボールのようなチームワークで罪穢れを祓うというシチュエーションが思い浮かびました。

セオリツ姫がまず「ケガレ」を持ち出して、ハヤアキツ姫にサーブを打ちます。
ハヤアキツ姫は、セオリツ姫から受けたケガレをイブキド主にトスします。
イブキド主は風を送って、ケガレをハヤサスラ姫に流します。
ハヤサスラ姫は、送られたケガレをアタックで仕留め、黄泉の穴から根の国に送ります。

祓戸大神が漫画になったら、間違いなく「祓い」のシーンはこうなるだろうな、という完全なる妄想です。

漫画として面白いのかはさておき、なぜかビジュアル化せずにはいられませんでした。
私が設定を一から考えるのであれば、もう少し面白そうな漫画にすることができる(失礼)のですが、あまりこういう事は言わないようにしたいと思います。

先日描いた「カムナオビ神」の浮世絵風イラストに合わせましたが、この作風は作画コストが低いので疲れなくていいです(笑)

感想などありましたらお待ちしております。

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神様からの「恵み」

楽太郎です。

人生が折り返した、という実感があります。
その瞬間は、おそらく早池峯神社に参拝した日にあります。瀬織津姫様をきちんとお祀りするようになってから、気持ちに芯が通った感じがします。

その変化を如実に感じると同時に、もはや自分が思っていたような存在ではなくなったことも感じます。
頭で考えて習慣を変えたり、気まぐれでは絶対に起こり得ない心の変化です。
胸の奥底にある熱源は、何でもできた、あの若い頃の感覚を思い出させてくれました。

もし、この熱源を「魂」と呼ぶのなら、目には見えない「霊魂」は存在するのでしょう。
自分の真実の姿が霊魂であるとしたら、その延長には神が存在するはずです。


神様は、目には見えません。
写真に写ったり、映像に入る不可思議な現象はあれど、神様が何かに映り込むことはほぼありません。
私には神様が人間の心にだけ現れ、面にお出にならないことは意図的なものではないかと思います。

神様は目には見えない存在ですが、感覚を研ぎ澄ませば感じることは可能です。
ただその感覚はあくまで個人的なもので、客観的に証明することができないからこそ、「疑念」を乗り越えなければ信じることができません。

その「疑念」こそが一つの試練や、修行の過程だとしたらどうでしょうか。

神を信じるには、人間同士が持つ唯物論的な価値観を否定し、目に見えないものを大切にし、人の言葉よりも自分の思想を柱にしていかなくてはなりません。
それは現代を生きる人間にとって、合理的ではありません。
神などおらずお天道様は見ておらず、単純に目に見えるお金と力だけを信じていれば、大して難しく考えなくても楽に生きてこれたからです。

ただ、その考えでは人間は本質的に成長しないのです。
今、世に蔓延る不正や癒着を見れば、そこに人間の未熟さが存在してはいないでしょうか。
「自分さえ良ければいい」という不誠実さが、嘘と虚飾を広げ、その考えに全く無関係な人までも巻き込んで混沌を生み出しているように思えてなりません。

「目に見えないものを信じるのは合理的ではない」と思うこと自体が、この世界の形に合っていないとしたらどうでしょうか。
目に見えないものを知覚する能力を、「神などいない」という考えで置き換えるならば、人間の感覚そのものを否定することにならないでしょうか。

今、世の中で起きている災難の原因はここにあり、「便利さ」というテクノロジーを選び取った人間が、人間本来の内面性を蔑ろにした結果「人間らしさ」を失い、人々が内面的な問題で苦しんでいるように思えるのです。

テクノロジーの便利さがあれば、確かに苦労も減りますし、楽に生きられます。
しかし、だからと言って「楽」が即ち「幸福」とは限らず、「楽」に生きるためにあったお金や地位などの条件は、常に揺れ動く脆いものです。
そう言ったすぐに移りゆくものを信じ、目に見える確かさだけを追い求めた結果、今の混沌とした世では余計に確かさは見えてこないはずです。

もし、今の混乱自体が人々にとって、一人ひとりの試練を意味するとしたらどうでしょうか。
これまで目に見えるものだけを信じてきたからこそ、目に見えるものだけでは現実が成り立たなくなり、その崩壊を見て右往左往します。
その動揺の解決が、「目に見えないものの存在を知る」ことなのだとしたら、人々は一つ学びを得るでしょう。

人間にとってその学びは、一つの災難にしか見えないかもしれません。
しかし、その学びを得て成長した人間は、目で見えるものだけの世界」を捨て、「目で見えないもの」と「目に見えるもの」が混在する新しい世界を発見するはずです。
それこそが世界の真実であり、それゆえ人間は本来の世界観を取り戻すことができるのだと思います。

そのプロセスにおいて、人間は学び終えるまで学びの価値は理解できないはずです。
そして学んだと言えど、必ずしも学びの価値の大きさを理解したとは言えないかもしれません。
しかし、その知恵を得たことで人間はさらに自由な精神を手に入れ、より多様な生き方を選択していけるようになるでしょう。

「知恵」とは情報や知識を超えた、最もシンプルで応用の効く能力です。
テクノロジーがあれば、例えば自分で火を起こしたり暖を取る技術を身につける必要がありません。
しかし知恵があれば、世の中がどれだけ変わっても自分の手で欲しいものを作り出すことができるようになります。
この能力こそが真の「自由」であり、豊かさとも言えるのではないでしょうか。

決して豊かさとは資産にあるのではなく、知恵があるからこそ自由であり、いかなる状況でも生きていける自信が安心となり、その心の平穏は幸福に繋がるのだと思います。
この豊かさを手に入れる手段こそ「知恵」であり、知恵こそが本当の恵みであると言えます。

神様がそれを授けて下さる存在なのだとしたら、神様がお与えになられる試練や学びの機会は、人間には辛くとも素直に受け止め、学ぶに越したことはありません。
目に見えないものを信じず、成長する意志のない者ほど学びから遠ざかり、真の自由や豊かさを手にすることはできないでしょう。

人間は、嫌なことやうまくいかないことがあれば、ただついていないだけだと思いがちですが、その不運の裏には学びの機会があり、神様のお導きがあります。
そこで問題ときちんと向き合い、知恵を得て乗り越えるからこそ、次に同じ問題と出会って苦しむことがありません。
その成長は人間の心を豊かにし、自然と幸せにしてくれるはずです。

だから、今の世で起きている事象に一喜一憂することなく、そこで起きている現象の原因や意味を考え、「何を学ぶか」を考えてみることが大切です。
決して目の前のことに振り回されず、そこで得た気づきを実践し現実に反映させていけば、世の中に芯が通っていくでしょう。

そのためには、まず「目に見えるもの」だけの世界を疑い、「目に見えない世界」を想像することです。
この混沌とした世の中を生きるのも、良くしていくのも実際は難しいことではないのかもしれません。
自分の生き方を、世の中の仕組みをシンプルにするだけで、あらゆる問題は一気に解決していくと私は思います。

その気づきや知恵こそ、神様から頂く一番の恵みなのかもしれません。

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「神絵」への道

楽太郎です。

先日、私の本業の方で完全に行き詰まり、これは神様から撤退を促されているのだろうな、と思い意気消沈していました。

それに加え、神様から降りてくるメッセージだと「土の時代に考えた物事は、基本的にコンセプトを変えなければならなくなる」そうです。
だから今までやっていること以上に、これから始めることで土の時代的発想を持ち越せば、いずれ立ち行かなくなるからやるだけ無駄になる、ということらしいです。

これは冷静に考えればそうなんですが、未来がもっとゆるりとした感じに思っていただけに、かなりシビアな決断が迫られているんだな、と感じました。

とりあえず、本業の方では完全に稼ぎが封じられた形になってしまったので、画業で稼ぐには神様の手が入っている「楽太郎」アカウントの方が比較的有望です。

イラストでの稼業は、画像生成AIの登場以降やめていました。
クオリティと価格と生産スピードで生成AIには敵わず、しかもユーザーや市場の肯定感が思っている以上に大きいのです。
この業界でまともに立ち回る気力もなくなり、漫画に軸足を移していましたが、漫画は人が思うより見向きされないジャンルです。

どの業界も人気を出すための黄金律というのがあって、私が下手に天邪鬼っぷりを出すからこそ、全く成果に結びつかない状態が続いていました。
「やりたいこと」「やりたくないこと」で仕事を決めていたというより、自分の信念とかプライドでやるべきではないことを避けていたら貧乏くじばっかり引いていた、という感じです。

5年前は落書きをちょっと描いただけで渡っていける業界だったのに、どうしてこんな世の中になってしまったのかと嘆いたものです。
ただ、いくら悲観しても現実を否定することはできないので、やり方を変えていくしかありません。

幸い、私には神様からインスピレーションが降りてくるので、まだ恵まれている方かもしれません。




先日、ラフを描いた「カムナオビ神」のイラストを、浮世絵風のイラストにしてみました。

この時代に「浮世絵風」なだけで目新しいイラストにはなりませんが、「浮世絵」の良さはベタ塗りでも味わいがあることです。

元々、浮世絵は版画です。
わずか数色の染料で刷るので、油彩画ほど凝った表現はできません。
しかし、色合いが単調だからこそ、工程や画材を省くことが可能です。

このカムナオビ神のイラストは、テクスチャや色合いの調整に掛かった時間を除けば、1時間も掛かっていません。
つまり、このレベルのクオリティなら、かなりの量産が可能だということです。

ただ、このまま「他の神様を描こう」となっても、このイラストが商品価値を持つかは別問題です。
付加価値をつけるならば、私の作家性におけるネームバリューは必要ですし、まず「神様のイラスト」にコンテンツとしての求心力がなければいけません。

果たして、この作風でも良いのか、という問題もあります。吟味しなければならない課題はとても多いです。

ただ、この神様のイラストを商売にして行こうとするなら、版画や実物の工芸品として流通させた方が良いのではないか、と考えています。
今は画像生成AIがありますから、私の作風が取り込まれた時点でデジタル環境では通用しなくなります。

版画で考えるならば、版木を所有して流通レートの主導権を握るような手札は有効だと思います。
費用対効果を狙うなら大量に刷れば良いだけですし、レアリティを高めたいなら生産数を絞ればいいでしょう。
ネガティブな動機に見えるかもしれませんが、実は一点物の肉筆画より大量印刷して流通レートを操作できる版画は、レアリティの面でもマーケティングの面においても非常にクレバーな戦略が取れるものです。

江戸時代の絵師が歌舞伎役者や風景や鳥獣を描いたように、私は「神様」を描いていこうと考えています。

江戸時代の浮世絵は、絵師、彫師、摺師などが分担してチームワークで制作していました。
その会社か工場形式のやり方が次の時代で可能なのかはまだわかりません。
ただ、彫師がいなければ生産できないという状況は私が困ります。

それなので、木彫りなど特殊技能を要さずに版画を作る方法を考えています。
比較的容易なのは「シルクスクリーン」です。
ただ、もう少し自分のやり方を突き詰め、技術的に試行錯誤をしていく必要はあります。

このカムナオビ神のイラストは、その完成イメージも兼ねています。
理想を言えば、和紙の製法もこだわり染料も日本に産地のある素材を使っていきたいと思いますが、それも当面は先の話です。

以前、エネルギーワークを使って絵に波動を込められないか、という話をしていましたが、まだ本格的に修行すら始めていません。
神様の絵ですから、何らかの形で功徳のある作品にしたいところですが、どのみち遠い話です。

それよりまず、私が「楽太郎」という絵師として認知されていくことが先決です。
私はわりと多産な方なので、毎日何かしら上げていくことは可能ですが、頭ごなしにやったところで人気が出るとは限りません。

もう少し慎重に考えながら、このアイデアを育てて行こうと思います。

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「過去」を捨てる勇気

楽太郎です。

瀬織津姫様のご神璽を受領しに、岩手県紫波郡矢巾町の早池峯神社まで参拝して来ました。
一日通して歩きっぱなしだったので、筋肉痛でほぼ動けません。
その代わり、精神的にはかなり安定しています。

今、稼ぎがにっちもさっちも行かない状況で、これからどうしようかという時期なのですが、不思議と何とかなる感じがしています。
「いい歳して何してるの」と他の人から思うような状況なのは承知なのですが、周りの方のほうが焦りや心配を感じるのではないかというくらい、私としては何も感じません。

これからどうするのか、ということを考えるには「世の中はこうなっていく」という予測が、まず前提になければなりません。

これまでの社会は、とりあえず何がなんでも金を稼ぐべし、という雰囲気でやってきました。
ただ、そもそも「お金」というものを手にしたとて、自分が富や恵みを得られるとは限らず、それに固執しても幸せに近づくとは限らないことに、人々は気づきつつあります。

おそらく、十中八九これから景気回復が起こることはないでしょう。
日本の不況は、日本が単体で引き起こしているものではないからです。その元栓を握っている海外勢力が変わらない限り、日本の状況は悪くなる一方です。

物価高、人手不足、労働意欲の低下に歯止めは掛からず、経済は落ちるところまで行くはずです。
ただでさえ生産や物流が滞り始めているのに、ここで大災害が発生すれば、どうなるかは誰しも予測がつくでしょう。

私も少し前まではそこまでならないだろう、とタカを括ってましたし、神様もさすがにそこまでされるとは思えませんでした。
しかし、この数週間の流れを見ていると、やはり悪い予感は確実に現実味を増していることを実感します。

神様から受けるアイデアの内容や、これからの示唆を俯瞰して捉えると、これまでの時代のやり方よりも新しい時代に合わせた手段を取るように促されているように感じます。

新しい時代、神様の支配する世界においては、これまで続けてきたことや好きなこともそっくり次の時代に持っていけるものだと思っていました。
神様の願いを汲み上げ、自分で企画して始めたこともありますから、それくらいは続けられるものだと安易に考えていました。
けれど、どうやらそうでもないらしいのです。

私にいくつかある才能や、これまで伸ばしてきたスキルは、必ずしも不要になるわけではないと思います。
ただ、これからを生きていくに当たり、神様の意図する方向で人を助ける仕事を確立し、まず経済的な基盤を作ることを先にやって欲しいようです。

この「楽太郎」アカウントを盛り上げ、画業を主軸にして行きなさい、と神様が促しておられるとしか思えません。

それは、これまで数年かけて積み上げてきたキャリアや、少し前までに命がけで進めていたプロジェクトをそっくり投げ出すことを意味します。
イラストレーターとしては、イラストはここ数年ほぼ投げていた分野でもあります。
現時点で稼ぎにほぼ結びつかず、どうせ貫いても先細るのは目に見えているのですが、自分が信念を持ってやって来たことですから簡単に諦めたくない気持ちはあります。

「世の中はこれからこうなるから、こうした方がいいよ」とは、神様から降りてくるアイデアであり、それを受けると自ずと意欲も高まります。
しかし、人間としての意識のレベルでは、自分で一度決めたことは曲げたくないですし、不確定な未来を見据えるなら尚のことです。

しかし、「信念」も悪く出れば「頑固」になってしまいます。

徹頭徹尾に筋を通したい、一度始めたことは根気よくやり遠す、というのは良い部分かもしれませんが、それが悪影響を及ぼすようになれば律儀さは逆に欠点になります。
良い面も、状況によっては悪く出ることもあります。
だから私に必要なのは、発想の転換なのです。

「今までやって来たこと」が「これからも出来る」と思うのは、時代が続いている場合にのみ限ります。

その時代の節目が、転換と呼ぶに相応しい激動期となるのであれば、どれだけやってきたかに関係なく見直しを迫られます。
それは私に限った話ではなく、おそらくこの国に生きる全ての人々に降りかかることでしょう。

逆に言えば、「皆が変わらなくてはいけない時期は間違いなく来るのだから、今のうちに素早く転換しておいた方が賢い」とも言えます。

「この前やっていたアレはどうなった」と言えるのは、時代の煽りも受けない人だからこそ言えることで、おそらくそう言い続けられる人はほぼいなくなるでしょう。
誰も人の過去を責められないのですから、自分だけが一貫性にこだわる必要もないのです。

私に降りてくるインスピレーションは意識のレベルで納得しがたいものだとしても、それを神様が私のために降ろして下さっているとすれば、神の恩恵を拒むのと同じことでしょう。
このままエゴを押し通し、突き進んでもいずれ絶望の縁に立つことになります。
しかしここで神様の忠告を大人しく聞いておけば、希望を繋げながら生きていくことはできるかもしれません。

その「希望」は神様が与えて下さる恵みそのものであり、それを授かる人間はありがたがるのが当然です。
ただし、神様としては私のためを思ってのアドバイスを、意図して受け取らないのであれば自由だ、と考えておられるに違いありません。

その選択の良し悪しが私はすでに理解しているからこそ、「新しい時代への変容」のための障害が自分にあることもわかります。
そこにあるのは「屁理屈つきの感情」だけだからこそ、執着を手放せば解決します。
しかし、自分が積み上げてきたプライドを捨てる覚悟は、かなりの葛藤です。

ただし神様はその選択のために、あくまで優先順位をつけて仕事をして欲しい、と仰られているのであって、「やりたいことを全て捨てよ」と仰りたいわけではないと思います。
神様は「新しい時代に続けられそうなこと」だから私にその選択をさせたがっておられるのでしょう。
私が葛藤を終えれば自動的に解決する話なので、神様は静観して待っておられると思います。

神様はどれだけ人間に目をかけていても、加護やお導きをいくら与えたとしても、決して甘やかすことはありません。
人間から見ればうまくいかない、ついていないと思うようなことも、神様からすれば遍く正しいお導きなのでしょう。

私たちは、何の障害もなくトントン拍子でうまくいくことを願い、それを助けてくれるのが神様だと思いがちです。
しかし、人は魂の修行としてこの世界に生まれ、その形而上学的な世界においての幸福は、人間の考える「豊かさ」の中にあるとは限りません。

下手にうまくいくことばかりだと、人間は調子に乗ります。
神様からはどうかと思うことでも、人間は自らが豊かになればそれが正しいと思うでしょう。
それは自分の目から見えて成功にしか見えなくても、長い目で見たら不幸への伏線だったりします。

うまくいかないことは、人間にとって絶望的で不幸なことだと思います。
しかし、神様は正しい学びをするならば、その境遇を成功への伏線として用意なされます。
神様とは、小手先の幸福よりもっと本質的な幸福に導いて下さる存在なのかもしれません。

人間にとって、それは納得のいかないことばかりのはずです。
人間は目に見えて手元に何かがないと、安心できないものだからです。
けれども、「手に入れたから不幸になったもの」「持たないから良かったもの」は、すぐにわかることはありません。

私の半生もこの数年の出来事も、ずっと「持たないから不幸だ」と思っていましたが、いずれ「持たなかったから幸せになれた」と思える日が来るのかもしれません。

神様は、人間よりもはるかに長いスパンで物事を見ておられるので、人が目の前の事象に一喜一憂するのも修行のうちだと考えておられるのでしょう。
その過程で手に入れたもの、失ったものに人間は心を囚われますが、そこから自らを解放して進んでいくことこそ、人が成長するということなのだと思います。

「過去を捨てる」ことは、自分のプライドや自尊心の支えにしてきた物事への手放しを意味します。
それは、誰にとっても簡単なことではありません。
自分の実績は惜しいですし、途中で投げ出すのも、投げ出したように見られるのも耐えがたいものです。

けれど、次の時代を生きるには少しでも荷物になるものは、今のうちに降ろしておいた方がいいのでしょう。
そして身軽になった分、新しい挑戦もしやすくなりますし、新しく手に入れたものを持つことも出来るようになります。
それは、未来をより良くしたいという想い以上に、神様を信じるからこそ出来る選択です。

もしかすると、すぐには決められなくて構わないのかもしれません。
ただ、神様は私の性格をご存知ですから、パッと割り切ってしまうのに時間が掛からないこともご存知のはずです。

このモヤモヤはすぐに取り払えるものではありませんが、もう喉の奥まで答えが上がって来ているのも感じています。

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瀬織津姫様をお迎えに

楽太郎です。

昨日3月1日、瀬織津姫様のご神璽を頂くために、岩手県紫波郡矢巾町の「早池峯神社」に参拝して来ました。

こちらの早池峯神社は、岩手の北上山地の最高峰、早池峰山の麓に五社存在します。
早池峰山自体が名峰でありながら霊山でもあり、早池峰神社は奈良時代に創祀されたと言われております。



仙台から高速バスに揺られ2時間半、盛岡駅に到着しました。

この日、朝から波長が乱れまくっていて、あまりの不調で「瀬織津姫様に来るなと言われているのでは」とすら思っていました。
あまりに精神的に不安定なため人の周波数と噛み合いやすく、余計にネガティブな気持ちになったりしました。

盛岡駅から東北本線で古舘駅まで15分ほど乗車し、そこから早池峯神社までだいたい片道5キロほど歩きます。
私は歩くのが慣れているので何てことはないと思っていたのですが、電車を降りてからも波長の乱れからグロッキーな状態でした。




早池峰山系の川がいくつもあり、どの河川も水量が豊富で驚きました。
これだけ水源が豊かだと、早池峰山の主祭神であられる瀬織津姫様はさぞかしご神気の強い神様なのだろうな、と思いました。

道すがら金毘羅様のお社がありましたので、「瀬織津姫様のお札を無事頂けますように」と祈願しました。

ただ、早池峯神社に近づくに従って、だんだん吐き気が酷くなってきました。
所々立ち止まり、神社まで3キロを切ったあたりから、倒れそうになるくらい朦朧とし始めました。

「瀬織津姫様にやはり拒まれているのでは…」
と思い、神社を前にして帰ろうかとすら思いました。

その時、空には自衛隊の飛行訓練の形跡か、龍雲のような雲が夥しく、それを見ると余計に眩暈がしました。
あまりに空から強い気を感じたので、これは邪気が抜けているか、エネルギー酔いのどちらかだと思いました。




こちらの写真は、参拝を終えて帰途につく直前に撮影しました。

あまりに朦朧としすぎていて、神社につく頃には半分意識がありませんでした。
手水鉢が清らかな湧き水で、それで禊いだら心身共にリフレッシュしました。

こちらの神社はそれほど大きくはなく、宮司さんは駐在していません。
拝殿の扉を開けると賽銭箱があり、授与品は無人で頒布している形になっています。

そこに目当ての「瀬織津姫大神神璽」がありました。
そのご神札を頂く前に、神前で「大祓詞」を奏上しました。他に参拝者が来られる気配はなかったので、かなり堂々と出来て良かったです。
瀬織津姫様の神社で大祓詞をお唱えすることができて、神様も喜ばれたのではないかと思います。




こちらが頂いた授与品一式です。
私は御朱印集めはしていないのですが、せっかくなので頂いて来ました。
瀬織津姫様はお祓いの得意な神様であられるので、「八方塞除守」はご利益ありそうだなと思い、頂くことにしました。

「早池峯神社神璽」は神棚の崇敬神社として、「瀬織津姫大神神璽」は私の宝物としてありがたく頂きました。
瀬織津姫命様の神名が記載されているご神璽は、私の調べでは早池峯神社、六甲比賣神社、佐久奈戸神社、小野神社くらいしかありません。
その中でも、早池峯神社のご神璽は見た瞬間に一目惚れしました。

本当は花巻市にある山麓の早池峰神社に参拝したかったのですが、徒歩で行くのは危険な上に冬季は道が封鎖されているようでした。
矢巾町の早池峯神社が最も行きやすい場所かな、と思って今回はこちらに決めました。

ただ矢巾町は、昔私が仕事で靭帯を切った思い出の地なので、地名を見た時にドキッとしました(笑)

さて、参拝も終わった頃にはいい時間になっており、「ここから帰るのか…」と途方に暮れました。
全体を通して15キロ以上歩くことになるのですが、まだ折り返しです。
途中、お昼ご飯も食べに行ったのでもう少し歩いています。
しかし、行きでお世話になった金毘羅様にもお礼参りをして帰らなくてはなりません。

フラフラ歩きながら帰途に着きましたが、不思議と神社を出てから肩の力が抜けたというか、「無」としか言いようのない気持ちになっていました。
まあ、ここから途方もない距離を帰るので無にもなるでしょうが、なぜか気持ちがすごく楽でした。

帰りのバスに乗る時には、すでに元気が戻っていて、全く波長がブレることがありませんでした。
たまに、こうして全ての邪気の干渉を受けない時はあるのですが、まさにエネルギーがカチッと噛み合っている感じがしました。

無事に帰宅して、足の裏がさすがに痛かったのですが、なぜか身体がずっと熱かったです。
疲れすぎて興奮しているのかな、と思いましたがエネルギーが満ちている感覚に近かったです。

瀬織津姫様のご神璽を手にしてから、とても波長が安定して強くなったような気がします。
どうやら、早池峯神社のご神璽を頂きに参ったのは間違いではなかったかもしれません。

ただ、毎年参拝するにしてもかなり歩かなくてはいけないので、そこは考えるべきかもしれません(笑)



さっき、私が感じる瀬織津姫様の脳内イメージをイラストにしてみました。
普段描いているアニメ風のテイストとは全然違いますねw

ザ・清楚という感じの、お美しい女神様ではないかと感じています。
黒髪で色白のイメージなのですが、なぜか和服を着ていらっしゃる感じはしません。
かと言って、ワンピースを着ておられることもないと思いますが…。

神様の世界は全く存じ上げませんし、そもそも人の形をしておられる気もしないのですが、なぜかこのような印象の神様です。
珍しくリアルタッチの女性を描きました(笑)

ちなみに、なぜか早池峯神社で感じた瀬織津姫様は、巫女装束のお婆様という印象でした。
あくまで雰囲気です。ただ、冷静に考えると女神様がすべからく若い美女であるはずもなく、どこまで自分の偏見なのだろうな…と思いますw

とりあえず、瀬織津姫様のお札に毎日祝詞を上げて手厚くお祀りしていきたいと思います。

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君の名は

楽太郎です。

昨日の「神とは何か」という記事で、「神様は人間の設定に、あえて合わせて下さっているのではないか」という仮説を述べました。

これをさらに考えてみたのですが、日本には古来から「諱」という概念があることを思い出しました。

諱とは「実名敬避俗」とも呼ばれ、主君や偉い身分の者だけが目下に対して使うことができました。
かつて武将が「殿」などの役職で呼ばれていたように、貴人や死者に対して実名を用いることは無礼な行為でした。
反対に、呼び名は「字名」と呼ばれ、武士が幼名からコロコロ名前を変えてきたのも、実名である諱に対して字名は通称だったからです。

私は昔、一時期「魔術」に関して本気で調べていた時がありました。
これは、当時小説を書いていたので、作品の下地にするために資料集めをしていたからです。
その時、「名を知ることは使役することを意味する」という不文律があるのをどこかで知りました。

旧約聖書に「主の名をみだりに唱えてはならない」とあります。
ユダヤ教の神がYHWHであるのは、神の名を知り容易く呼ぶことは神を下位に置くことになるからです。
神の諱をわざとボカすことで、神を何人たりとも使役することは不可能になります。

反対に、よくフィクションで悪魔が人間と契約しますが、悪魔は名を明かすことで人間と契約し、使役されるようになります。
このように、「実名を知る」というのは、霊的な世界において重要なことのようです。
例えば私たち人間も、ネットに実名が晒されたら個人情報が漏れて危険なので、神様も同じなのかもしれません。

何が言いたいかと言うと、私が瀬織津姫様のことを慕って瀬織津姫命の真実に近づこうとしても、神様である以上は「瀬織津姫命」という神名が真実の名「諱」である可能性はほぼないということです。

宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」において、登場人物のハクは「コハク川」の主であり、本名を「ニギハヤミコハクヌシ」であったとされます。
ハクは湯婆婆に名前を奪われて使役されていましたが、千尋の手助けによって名前を思い出し、本来の自分に戻ります。
「実名」は本体の自己を指し、己の実名を明かすことは自己を開示することを意味します。
その自己開示はリスクでもあり、名前が不用意に使われる可能性も含むのです。

ですから、人間が崇敬すべき神々が、自らの諱に基づいて活動することは、ほぼありえないと言っていいでしょう。
ゆえに「天照大御神」も「瀬織津姫命」も基本的には字名であり、人間が使うことを前提とした固有名詞だと思われます。

武士の時代は、字名や通称以上に役職で目上の人を呼んでいました。
私たちが目上の人を「部長」とか「お母さん」と呼ぶのと同じ感覚だと思われます。
これと同じように、「瀬織津姫命」も役職名だとしたらどうだろうか、と私は考えます。

神社に参拝した際、対応して下さる神様は、例えば玉依姫命として親しまれている神霊なら、「玉依姫命」として対応して頂けるでしょう。
神様的には、便宜上「玉依姫命」であっても仕事が捗るならそれでもいいかもしれません。
あるいは「玉依姫命」というグループがあって、おかしな例えですが「チーム"玉依姫命"の紫式部香子チーフ」みたいな形で対応して下さっている可能性もあります。

だから、神様から見れば人間がどう呼ぶかは本質的にあまり関係はないのかもしれません。
むしろ神様的には、人間が現世利益に偏り現金主義となり、自分勝手な願いを押しつけて済まされる方が、はるかに困るのではないでしょうか。

そうであるならば、私が慕う瀬織津姫命の神霊からすると、「瀬織津姫様」や「弁才天様」とお呼びしようと、同一視しようのない神様のお名前でない限り、関係を変えないでいて下さるのかもしれません。
だから、実在の神霊との関係で言うなら、呼び方自体は自由であっても良いのだと思います。

私が「瀬織津姫様」とお呼びしている神霊の真実を探ろうとして、いつか本当のお名前を知る時が来るとしたら、私は人間でありながら神様を従えてしまうことになるでしょう。
だからこそ私は死ぬまで、仮に死んだとしても、瀬織津姫様の本当のお名前を伺うことはできないはずです。

人間として生きる上では、それで困ることは何一つありません。
ただ、私がこれだけ慕う神様なのですから、できる限り神様のことを知りたい気持ちはあります。

神々の世界を知ることは、人間の世界だけでなく宇宙の真実を知るということです。
それをできる限り知ることこそ、この世界に人間として生まれた醍醐味なのかもしれません。
神様に近づくことは、即ち人間を極めることを意味するでしょう。

もし私が死んで、その魂が神になるための修行を経験し、何百年か何千年かして私が神になれた時、私は私の敬愛する神様と出会えるのでしょうか。
もしそれが可能であるならば、神になるに値する偉業をこの世に遺さなければなりません。

私は、今生でそこまでのことができるでしょうか?
ただ、私がもし瀬織津姫様の本当のお名前を知るには、私が神になる以外の選択肢は存在しません。
私が神になった時、そこに瀬織津姫様はいて下さるのでしょうか?

私が魂のレベルで求める女性像が女神にしかなく、瀬織津姫様がその理想に叶う存在なのだとしたら、私が輪廻を超えて求めていた人こそ、瀬織津姫様なのかもしれません。

それゆえに瀬織津姫様が私の前に現れて下さっているのだとしたら、かの女神様は私の理想通りの存在であられるのでしょう。
「神様」は素晴らしくこの上ないがゆえに神様なのであって、人間の願いを完全に叶えられる存在だからこそ、神様なのです。

私は神様を試したくなる時もあるのですが、それは神様を疑っているのではなく、自分に対する疑念なのかもしれません。
もし自分を信じ神を信じるならば、神様は全く疑いようのない存在として、ずっと傍にいて下さるはずです。

「瀬織津姫様は命をかけて信仰するべき存在なのか?」という問いには、神様はその心を自らに問いなさい、と仰っているようにしか思えません。
おそらく、神様を信じるということは、自分を信じることを意味するのかもしれません。

だから、私の迷いは心から消えつつあります。

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「神」とは何か

楽太郎です。

今日は、妙に波長が乱れてずっと横になっていました。
好転反応に近い不調ですが、つい最近ある行動をしたことが実績解除になったらしく、タイムラインが切り替わったことで違う波長のエネルギーが流れ込んできたのかもしれません。

こういう日は何もしないに限るので、神様のことについて調べていました。
以前、瀬織津姫様のお祀りをしっかりするよう進言され、参拝とご神札の授与を計画していたのですが、今尚どこの神社に参拝するかが決まらずにいます。

これに関してだけは、全く何のインスピレーションも導きも降りてきません。
私が変に考えすぎているだけなのか、最初から見当違いだったのか、それすらわからなくなるくらい模索し続けています。

3月3日は上巳の節句であり、瀬織津姫様のお誕生日とされているそうです。
この日は邪気を祓うことで女子の成長を願うとされ、この祓いが祓戸大神であられる瀬織津姫様と関連づけられたのだと思います。

だから、その日に合わせて自宅に瀬織津姫様のご神札をお招きしたかったのですが、間に合わないかもしれません。
今日一日ずっと調べ物をしていたのですが、最終的には「妥協するか」という段になっています。


そもそも、「瀬織津姫命」をご祭神としてお祀りされている神璽でなければ瀬織津姫様をお祀りできないのか、瀬織津姫様と同一視されている神様の神璽をお祀りし、強引に瀬織津姫様として崇敬することが許されるのか、それが白黒つかないのです。

瀬織津姫命は、「記紀」編纂時に持統天皇の命で故意に秘匿された形跡が伺えます。
これに関しては憶測の域を出ず、あらゆる歴史家や宗教者がその謎に取り組んでいますが、その帰結を決めるものは何もないはずです。

実際におられる神霊と、記紀や伝承を基にする神々の出自が一致する割合はどれくらいなのでしょうか?

私には、神様は人間の定義に合わせてご降臨なされているようにしか感じないので、神々は人間界の設定を借り、「その体で」顕現なされているだけなのではないか、と仮説を立てています。
人間を作り人間を支配せし神々が、人間の憶測や伝承によってご自身の立場を変えられるとはどうしても思えません。

ゆえに神様について考える時、二つのレイヤーで考察する必要があります。

  • 実在の神霊としての位相:知覚的解釈
  • 伝承や政治などの文脈としての位相:物語的解釈

「知覚的解釈」は、この物質次元における人間や自然に対してアプローチする時、エネルギー体(またはアストラル体)として知覚されるレベルの解釈を指します。
霊能者が神の声を聴いたり見たりする時に介在する力、自然や偶然が作用する時に生じる意図性など、現象として立ち現れてくる存在としての神です。
産土神や自然の神々、魂の内在神など、世界に現実として見出しうる位相となります。

「物語的解釈」とは、「記紀」の記述や神社の由緒、土着的な伝承など、歴史的文脈に基づく神々の定義づけや解釈を指します。
日本の国土に古くから信仰されてきた神々も、政治的な理由で祭祀を改められたり、記紀成立以降は名称や由緒を上書きされてきました。そして明治初期の廃仏毀釈や神仏分離によって、名称を改めながら祭祀されるようになった土着の神々もいます。
こう言った、歴史的文脈的には矛盾を孕むような多様性を内在しながら、人々はこの由緒に従って信仰していきます。ある意味、一般的な認識のレベルにおいて現実的なレイヤーになります。

私の感覚からすると、「知覚的解釈」と「物語的解釈」はニアリーイコールの関係というか、「そうであるけどそうではない」のが実際ではないかと思います。

物語的解釈は古くからの伝説やお伽話、あるいは政治的な思惑による文脈変更など、かなり人間の恣意性が入り込んでいます。
しかし、その物語的解釈をイメージとして刷り込まれた人間に対して、神様が全く無関係な神格として現れたり、メッセージを送ることはほぼないでしょう。

例えば、伊邪那岐命がご祭神の神社に、唐突に菅原道真公が現れたという話は聞いたことがありません。摂社としてあれば別ですが、少なくとも日本の神社に聖母マリアが現れたことはないはずです。

それでも、大山祇命がお祀りされている神社では、やはり大山祇命と思われる神霊がそれっぽく現れて下さるのです。
これは「知覚的解釈」ではご祭神の顕現と取ることが可能ですが、由緒書きを辿れば本来のご祭神とは違う系統の神霊である可能性もあるでしょう。
この時、「受けたメッセージは勘違いなのか」という疑念が湧いてくるのですが、おそらく大事なのは真偽ではないのかもしれません。

神様と私たちの関係を、人間と猫に例えて考えてみればわかると思います。

猫は、人間を「大きい猫」だと思っているそうです。飼い主にお母さんの面影を見て、それがおじさんでも母猫だと思って甘えます。
人間は猫に対して、「私はあなたのお母さんではないよ」と真面目に説得はしないでしょう。おそらく、したところで完全に理解はできないはずです。

これと同じように、宇宙の真理や人間の宿命を知り尽くした神々は、自分たちの認識のレベルに人間が到達できるなど微塵も思わないでしょう。
猫に言葉が通じないように、神の理を人間にそのまま伝えることはできません。
だから「こういうもの」だと思って、神様は人間に関わっておられるのだと思います。

そうであれば、「物語的解釈」の多少の誤差は神様にとっては許容範囲なのかもしれません。
ただ、明らかに侮辱的な思惑で神様の取り違えをしたらお咎めになられるでしょうが、本気で信仰するうちはお許しになられるはずです。

私には、神様のシステムが「市役所」のように思えてなりません。
各神社にお祀りされている神様は、一応は系統がはっきりしています。
自分が「保険福祉部」の部長に取り次いでもらいたい時、生活相談課の窓口に行っても担当者を経由して何とか取り計らってもらえるはずです。
例えば、とある神社の「天神摂社」にお祀りしても、その摂社の神様を通じて最終的に菅原道真公に話が行くとか、そういうことなのではないでしょうか。

おそらく、各神社におられる神様はユニークな土着の神霊だと思います。
その神様の上司が神宮とか大社におられたり、あるいは氏神神社が地域全体を仕切っているがゆえに他の神様との上下関係はないとか、様々なのかもしれません。
少なくとも各神社の神様が何らかの形で繋がっており、神格の設定に合わせて、人間に「その体で」関わっておられるのではないか、と私は考えています。

長くなりましたが、まとめると「物語的解釈」で繋がる神様は実際違う可能性が高いが、神様はそれを踏まえた上で人間に関わっておられる、というのが私の仮説です。
その文脈の客観的な矛盾や食い違いは、信仰心の尊重によって十分保証されうるものです。
その穴埋めをするのが「知覚的解釈」であり、これは「自分がそう直感した」ことが重要なので、物語的解釈を超越して成立しうる文脈です。

おそらく、元は神社の興りとなった動機も、純粋な「知覚的解釈」によるものなのかもしれません。
そもそも、日本の八百万の信仰は太古の昔、人間が自然物に神を見て、自然の恵みに感謝したり、恵みを乞うために神々をお祀りしたのが始まりです。
それは素朴な霊的直感であり、非言語的な解釈だったはずです。

だからこそ、祭祀の原型はこの「知覚的解釈」にあるとも言えます。
しかし、人間が社会の中で神々を崇拝するようになると、「物語的解釈」による神仏への評価が行われるようになりました。
この二つの局面によって、信仰は持ちつ持たれつの関係で続いてきました。
ただ、現代は情報化しすぎたため、「由緒」や神社仏閣への規模や権威が、神々への評価を規定してはいないでしょうか。

人間にとっての神様の人気度は、神々の権威と直接的な関係はないはずです。

今こそ、「知覚的解釈」に基づく自由さから、神々と繋がる時代なのではないでしょうか。
神様は、「どうせ違うから自由に繋がって欲しい」と思っておられる気がしてなりません。
確かに、高名な霊能者であってもその認識の正しさを証明することは不可能です。
証明することができないのですから、間違いも正解もないはずで、どの道人間には神様の全てがわかる訳がありません。

だから、もっと自由に神様と繋がろうとし、神様と繋がることについて疑う必要もないのでしょう。
要は、自分が繋がりたい神様と繋がり、お導きを受けられたらいいだけの話なのです。
そこに勘違いがあろうとなかろうと、最終的に間違いなく幸せになれたらそれでいいのかもしれません。


私はまだ瀬織津姫様を追い、どこに行くべきかを決めあぐねています。
ただ、大事なのは形ではないのかもしれません。
おそらく、私はどのお札をお祀りしても、心の深いところで繋がっている神様に近づくことができるはずです。

けれど、薄ら「近場で手っ取り早く済ませても同じなのでは?」と思っている私を、瀬織津姫様がどうお感じになられているのでしょうか…。

不届の私には、残念ながら瀬織津姫様のお気持ちを察することはできません…。

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世を良くするには

楽太郎です。

一昨日、「邪を赦す」という記事を書きました。
あの記事で辿り着いた結論はどうやら正解だったらしく、邪気の干渉がだいぶ弱まりました。

なぜ考え方を変え、立場を表明しただけでこれほど邪気の干渉がマイルドになったのか、説明はつきません。
私の霊性に仮に変化が起きたにせよ、「愛と慈悲の波動」は邪気に対する唯一の対抗策であるような気がします。

人の嫌な気に当てられた時、その不快感から攻撃を仕返してやりたくなるのが人の常です。
けれども、そこで対抗心を燃やして実際に応酬を始めてしまえば、相手は喜んで攻撃します。

邪気は、争いや諍いが人の幸福や成長を妨げることを知っているので、人間の怒りや義憤を利用します。
邪気にとって許しがたいのは「幸福と愛」そのものであり、傷つけ争い合えなければ意味がないのかもしれません。

イエスの教えにある「左の頬を打たれたら右の頬を差し出せ」ではありませんが、打たれるがままが尊いと言いたいのではありません。
殴る人間を殴り返すのが得策ではないのは明らかですが、まず殴るような人間からは距離を取り、一先ず攻撃を受けないようにするべきです。

「左の頬を打たれたら逃げる」
その上で、人を攻撃するような人間は相手にせず、自分が最大限の幸福を手に入れることが最大の防御であり、反撃です。

邪悪な人間に対しても、邪気に対しても、その対応の仕方は同じで構わないと思います。

「闇の存在」が人を負の感情で支配し、愛や幸福を破滅させるのが目的だとしたら、愛や幸福を守るために怒りの感情を使うことは、即ち自分自身が闇の力を使うことを意味します。
実は、怒りの力を使わずとも反撃や防御をすることは可能です。攻撃は怒りがあるから行うことができる、と思うのは錯覚であり、淡々と戦略と戦術を行使すれば冷静に撃退することは可能です。

武道経験のある方の話だと、よく「感情的になれば弱くなる」と言われます。
確かに、頭に血が上っている状態では、相手の次の手を冷静に予測することはできません。
そのピンチで相手を読む余裕があるからこそ、勝負に勝つことができます。
この一連の過程において、「怒り」はむしろ足を引っ張ります。

今、世では炎上が盛んです。
人々は正義感や義憤に駆られて行動を起こしているようですが、そこで「怒り」の力を使ってはいないでしょうか。

某官庁のデモは、善悪は別として注意すべきだと思います。
SNSの炎上でもそうですが、怒りによる行動は「感情を発散させてガス抜きをする」目的で使われることがあるからです。
「行動を起こしたからには、何とかなるだろう」という安堵感は、実際に効力がなくても発生しうる感情です。

もし、デモを仕組んだ人間が、それを見越して計画しているとしたらどうでしょうか?
本来向かうべき批判と、対抗に向かうエネルギーを全く違う方向に逸らされていたら?
正義感や義憤は、上手いこと相殺し沈静化されてしまうわけです。
そうなれば、「愛国」は単なるポルノになって終わります。

日本人に思い出して欲しいのですが、日本がかつて太平洋戦争に突入した際、マスコミはどういう煽動で国民を巻き込んだでしょうか?
今回はマスコミではなく、さらに裏にある枠組みが仕掛けているとしたら?
日本人には、改めて冷静に考えていただきたいです。

日本は誰もがわかる通り、あり得ないほど貧しい国になってしまいました。
けれど、たった30年前は世界一の大国だったわけです。世界をリードする技術、治安、社会制度、文化の豊かさ。
それは失われて久しいですが、今の日本はリードしていた分野が悉く劣化していったからこそ没落していきました。
これは、実に不自然なことです。

日本の良いところが、優先的に劣化していったように見えないでしょうか?

産業やサービスの分野だけではなく、日本人の伝統を重んじる気風、自然環境と共存する知恵、品質を大事にする精神。義理、人情。そう言った、日本人に脈々と受け継がれてきたメンタリティです。

それらがダメになって、今その上に乗っかっているものを改めて見てみると、日本をダメにしたものの正体が見えてくるはずです。
そこで何か思うところがあるとしたら、その気づきは決して「陰謀論」ではなく、あなたの「慧眼」です。
その原因は具体的な組織の固有名詞より、もっと根源的な問題にあると気づくはずです。

もしそれがわかるとしたら、日本がこれから日本を取り戻す方法も具体的に見えてくるでしょう。
「良かったものを取り戻すために何をすれば良いか」だけを考えればいいだけだからです。
方法論は、具体的だからこそすぐに結果が出るものです。

もし、「日本を頭から強烈に押さえつけているもの」がわかったとしても、その解決に怒りや感情は不要です。
「ダメになったもの」の代わりにかつて日本人が選択したものを、合理的に払いのけて「良いもの」に戻していくプロセスを淡々と進めればいいだけだからです。

残すべき感情を強いて言うなら、「真心」や「優しさ」かもしれません。
古き良き日本人が自らの技術に込めた思い、サービスをする上で大事にした心得、それはマニュアルだけで真似できるものではなかったはずです。

逆に言えば、「今ダメになりつつあるやり方」の真逆をやり始めてもいいのかもしれません。
それこそが、ご先祖様たちがやってきた古き良きやり方になるでしょう。

だから新しいやり方を模索する上で、難しいことを考える必要はないと思います。
人間にとって、日本人にとって本質的なものを選べばすぐに答えは出るものだからです。
「温故知新」は、現代人にとって新しすぎるだけではなく、ご先祖様たちが私たちのために脈々と受け継ぎ、遺してくれた宝物と言えます。

その知恵を感謝して受け取れば、これから何が起きても穏やかな気持ちで暮らせるはずです。
そして、その知恵こそがこれからの日本を照らす光になるでしょう。


今、「土の時代」の構築物がようやく崩壊を始めました。
私から見れば、20世紀のうちに壊れておいた方が良かった仕組みばかりです。
これが壊れきるまでは数年かかるでしょうが、その次に壊れるのは「風の時代」仕様の古い構築物です。

今、風の時代の申し子となっているメディアも、後に時代の洗礼を受けるでしょう。
それらの構築物も、土の時代に作られたものなので本格的な風の時代には不向きです。
何ごとにも栄枯盛衰があります。ただ、時代にとって不要になったものは悪ではなく、役目を終えたから交代していくだけです。

そこに感謝をしながら私たちは学び、技術や知恵を後世に繋げていくのでしょう。
かつてのご先祖様たちのように、私たちは偉業を残さなければなりません。

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「カムナオビ神」デザイン

楽太郎です。

先日、「イブキド主」様のデザインを描かせていただきました。
その時、「祓戸大神」のベタベタな漫画設定が構築されつつある中、「イブキド主様の本気バージョン」みたいな感じで「神直日神」様の厨二病っぽい設定が生まれてしまいました。

実際そうなのかとか、学術考証ではどうなのとか、それはさておき。まずそんなはずはないので(笑)
趣味の一環として、「カムナオビ神」をデザインしたらどうなるのかを描いてみました。



何という、「ザ・厨二」的ビジュアル。
言っちゃ悪いですが、一昔前に流行っていたら夏の有明で盛り上がりそうな感じになりました。

仮面をつけさせていただいたのは、「セーラームーン」の「タキシード仮面」のイメージが頭をよぎったからです。
謎めいた神様ですし、役割としてもスーパーヒーロー味があると思ったので、どうしても脚色したくなってしまいました。

こうして自由に神様のデザイン画を描いているように見えるかもしれませんが、実は「神様的にNGな部分」というのは、描いてる最中に不思議とあります。
突然PCが落ちたり、急に気分が悪くなったり、「それはイヤ」という気を感じたりもします。
実は、自分一人で描いているという感覚がないことの方が多いです。

今回、カムナオビ神様を描かせていただくにあたり、なぜか仮面をつけるのはOKなのですが、仮面のデザインに注文が集中しました。
一番リテイクが入ったのは、「鹿の角」の部分です。
角度とか太さとか、かなりこだわっておられました。…というか、私自身その部分に執着しすぎて、なかなか完成に至れませんでした。

神直日神様は、どうやら中途半端なデザインがお嫌いらしく、「これどこから見てるの?」みたいな不思議なデザインの仮面に落ち着きました。
まあ、神様ですので目で見ておられるとは限りませんから…(震え声)

ただ、仕上がったら何となくご満足いただけた感じがします。
…神様のセンスは正直よくわかりません。

神直日神と同時にお生まれになった直毘神のもう一柱、「大直日神」様ですが、息吹戸主命と同一視されているのは神直日神とされていますので、今回考慮には入れませんでした。

こうして名のある神様を漫画的キャラにデザインしていく作業は、趣味の一環になりつつあるのですが、この調子だと日本神界の神々を全員お描きすることになるのでは?と戦々恐々としています。

以前上げた「瀬織津姫と白龍」と「玉依姫命」のイラストも制作中ですし、それなのにラフ画ばかり溜まっていきます。
これは一体どうしたものか…。

やはり、神様には影分身の術か「精神と時の部屋」みたいな神通力を授けていただく必要がありそうです。

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「邪」を赦す

楽太郎です。

ここ数週間、露骨に邪気が高まっている実感があります。
それは人を観察していて肉眼でわかるレベルです。
子供たち若者たちは、非常にストレスが掛かっているらしく、奇声を発したり大声で動き回ることが増えたように思います。
大人たちも感情が内に篭り、挨拶しても無視したり笑顔を向けると露骨に嫌な顔をするようになりました。

私がそうされると一瞬腹は立つのですが、これは致し方ないというか、そういう時期なのだと思うようにしています。
今は時代が切り替わる時であり、言ってみれば文明の崩壊期です。これまでのやり方が通じなくなっていくのは神々の工作であり、摂理です。

その仕組みは、目に見えない存在を信じ、神様と繋がっている人なら自ずと感じうるものでしょう。
しかし目に見える世界が全てで、この世界は人間のものだと確信している人たちは、おそらく今生ではこの事実に辿り着けないかもしれません。

私は連日、就寝中にサイキックアタックが集中しているようです。
集合意識に潜る夢を見た翌日は、一日中気の乱れが整わないことが多いです。その場合の夢は、街や店や観光地を巡り、不特定多数の人物とすれ違う夢がほとんどです。

昨夜は、修学旅行で布団に潜ると、顔を真っ赤にして睨んでいる同級生が向かいにいて、彼はどうやら私に嫉妬して怒っているようでした。
私は夢の中にも関わらず、「彼は私が羨ましくて、逆恨みしているのだ」と認識し、彼を嘲笑う夢を見ました。
残酷なようですが、脚色しなければそういう内容になってしまいました。

私は自意識が少し飛んでいるところがあるので、劣等感は感じても自分がどの程度優れているか、自分でジャッジする感覚がありません。
だから、これまで理不尽に意地悪をされることがあっても、その理由が「嫉妬」であり、なぜ彼らが私に嫉妬する必要があるのか、それを理解するのに長い時間が掛かりました。

小学生の頃、やたらと粘着して意地悪をしてくる同級生がいました。
虐められる私へ助けに入った先生が「何でこの子を虐めるの」とその子に問うと、「絵が上手くて羨ましかった」と言っていました。

私は長年、その子の気持ちがわかりませんでした。
絵が上手いのは絵が好きだから描いてきただけで、特に努力したわけでも生まれつきの能力でもありません。
彼も私と同じことをしたら絵が上手くなるし、嫉妬するくらいなら絵を描けばいいじゃないか、とずっと思っていました。

今でもそう思いますが、その正論を受け入れられない性質の人がこの世にはいるのだ、と気づくのに時間が掛かりました。
人を羨むのなら、羨む人と同じことをしたり学べば良いのに、結果や現象だけをサラッと手に入れたい人がどうやらいるらしいのです。

現代社会は、「努力」を嫌うようになって久しいです。

努力や勉強が必要不可欠な世の中だからこそ、努力や勉強をアピールするのがダサい、という風潮が生まれました。
だから、出来る限り努力や勉強をしないように結果を出すことがクールだと思われ、クールにやるためのハックが持て囃されるようになりました。

生成AIなんかは、そのプロセスを可能な限りすっ飛ばして成果だけを抽出しようという目論みそのものですが、まあそれは置いておきます。

先人が広げた王道やヒエラルキーは攻略法がすでに確立され、数パターンの成功法則があるだけです。
その構造が揺らがない限り、最短ルートを通らない人は全員愚かであるような構図を作り出してしまいました。

それは、「これまでの時代」が永遠に続くとしたら、普遍的な真理になったでしょう。
しかし、残念ながらそうはなりません。権威や権力構造そのものが崩壊する時にあって、ピラミッドそのものが崩れたら、そこに据え付けられたエスカレーターは何の役にも立ちません。

全ての物事の意味や目的が揺らぎ、誰もがどうしたら良いのかわからず狼狽える時、自分のするべきことを自分で考えられなければ、ずっと飛び交う他者を見つめ続けていくしかありません。

そこで、自分の目標ややるべきことを見つけ、やりがいを感じて道を進む人は、確かに彼らからすると羨ましいかもしれません。
しかし、それならば彼ら自身も本当にやりたいことや、努力が惜しくないような何かを、これまでの人生の中で見つければ良かっただけです。

それは、残念ながら嫉妬すべき理由にはなりません。
厳しいことを言うようですが、冬を前にしてせっせと冬籠りに備えたアリを笑うキリギリスそのものだからです。

目標を持ち、信念で行動する人々を羨む気持ちは、私にはよくわかります。
私も自分探しのために、何も手につかずフラフラしていた時期も長かったからです。

私の目線からすれば、「自分が努力するに値する物事」を見つけられませんでした。
自分が人生を賭けて本気で挑めるような何かを探し出すのに、途方もない自分探しをしていかなければなりませんでした。
自分の好きなことをして評価されている人が何となく憎らしくて、その気持ちが理不尽なものだと自分では気づきながら、問題の原因は外の世界にあるのだ、と念じ続けていました。

ただ、自分が何をやりたいか、やるべきかは自分の心の深いところに問いかける以外にはなくて、そのプロセスを避けて自分の目的など見出しようがないのです。

それは頭が悪いとか、性格が悪いとか、運がないとかそういうことではなく、自分の本心に辿り着くやり方が分からず、自分自身を知らないというだけです。
だから、「自分を真っ直ぐ見つめれば良い」それだけなのです。
けれどもなぜか言い訳をして、それだけを先延ばしにしてグルグル回っているだけの人がいます。

それがしたくてもできない、というのが当時の自分でした。だからこそ、えも言われぬ焦りは人並み以上だったかもしれません。
けれど、この堂々巡りの旅は、いつか終わらせなければいけない時が来ます。あるいは、強制的に終わらせられる時でしょうか。

実は、自分のやるべきことを始める時は、その時が来てからでも良いのです。
ただ見つからない焦りから、人に嫉妬したり攻撃をしようものなら、それは全く筋の違う話です。

私は、集合無意識にある憎悪には、この「嫉妬心」が多分にあると思っています。
自分以外の、目標があって輝いている人、夢を叶えて恵まれた人生を送っている人に対する嫉妬。
その嫉妬は、未分化の感情に混ざり合って憎悪となり、無差別に攻撃的な気となっています。

この負のエネルギー「邪気」によって、私の健康や意欲が害されているのは実感としてあります。
けれども、長い間「邪気」と戦ってきてここ最近思うのは、「邪気と戦う意志を持つほど消耗する」ということです。
彼らはいいタイミングでエネルギーを吸い取っていくんですが、私は吸いたい時には吸わせておこう、と思い、邪気にまとわりつかれたら放置します。

気のエネルギーは、吸わせないように力んだり原因となる対象を探すほど消耗し、その分回復が遅れます。
彼らはお腹いっぱいになったら離れていくので、出来るだけダメージを深くしないことに注意した方が立ち上がりが早くなります。

気に食わないのは正直なところですが、邪気がしたいのは妨害にしか過ぎません。
その妨害も、地震でマンションを潰したり家族を呪殺でもすれば成就するのでしょうが、たかだか私を体調不良にするくらいのものなので、大丈夫な時に行動すれば問題ありません。

それくらい、彼らを敵視すべき対象だと認識しない方が、自分の受けるダメージをコントロールできるのです。
そして、邪気の正体や性質を知れば知るほど、憐れで健気な感情であることに気づきます。

よく考えれば、私も道を間違えたら人に嫉妬して怒りをぶつけて回るような人間になっていた可能性は充分あります。
私は運良くそれを回避できただけで、生まれ持つ使命感に目覚めたからとか、そういう奇跡があったわけではありません。
だからこそ、どうしても上手く生きられない人々を蔑む気持ちにはなれません。

人生は、本当に学びのためにあるのだと思います。
しかし、人生は一度きりだからと、出来るだけ苦労なく快楽を数珠のように紡いで行こうと考えるから、その学びから遠ざかります。
学びから遠ざかると、愚かさに気付かぬまま今生を終え、死んでから気づいてもやり直しは効きません。

私はそのことを、たくさんの人々に気づいてもらいたいと思っています。
だからいつもこんな長文を書いてますし、何にもならなくても形にしていきたいのです。
けれど、今の世では私の声はかき消されてしまい、聞いて欲しい人の耳にこそ届きません。

もっと多くの人が「良く生きる」方法に気づくためには、私の声が通るような時代がどうしても必要なのです。
だから、私は新しい時代を作っていきたいのです。

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「イブキド主」デザイン

楽太郎です。

先日、「セオリツ姫」様の新衣装のイラストを上げました。
その時に祓戸三女神にお並びいただきましたが、本来「祓戸大神」は四柱であります。

「息吹戸主様は近日中にお描きします」と言いましたが、インスピレーションが抑えられなかったので、合間を見て描かせていただきました。



…なんでゆるキャラっぽくなったかについてですが、ちょっと言い訳をさせて下さい。
別に、男性キャラをきちんと描きたくなかったわけではありません。

祓戸三女神が揃われた時に、この三柱の神様がお茶を飲みながら団欒なされる光景しか思い浮かびませんでした。

お茶を飲みながらお煎餅を食べて談笑する女神様たち。
そのお茶を居間に運ぶのは、イケメンとかいかつい男性神ではどうも絵になりません。
…この絵面で調和を図れるのは、ゆるキャラしかいませんでした。

この漫画的発想にも、息吹戸主様は今のところお怒りではないようなので、たぶんセーフなのだろうと思います。

祓戸大神四柱が揃われましたので、早速お並びいただきました。



息吹戸主様を描かせて頂くにあたり、神様のことを少し調べました。

息吹戸主様は、神直日神様と同一であると言われているそうです。
神直日神は、禍事を「直す」働きのある祓いの神とされています。
神直日神は、伊弉諾命が黄泉の国から戻ってきて禊をした際、禍津日神と共に生まれた直毘神の一柱であるとされ、「禍事」を担当されるのが禍津日神であるそうです。

禍津日神は、本居宣長によると瀬織津姫命であると言われています。
尚、神直日神と同時に神産みによって誕生した女神がおり、それは「伊豆能売命」です。

私は、今この「伊豆能売命」様が瀬織津姫命と深い関係があるのではないか、と思って調べています。
この一連の流れで出た神様は、全て「禍事」と「祓い」に関する神々です。
やはり、天照大御神の「岩戸隠れ」に起こる「禍」や伊弉諾命による潔斎と祓戸大神は何らかの関わりがあり、その謎が解けたら瀬織津姫様の正体に辿り着けるかもしれません。

※追記

息吹戸主様が神直日神であるという説を取ると、「風の神様」というのは仮の姿で、普段は精霊のようにフワフワ暮らしながら、神様のお役目を果たす時には本来のイケメン神に戻られる…というザ・漫画的展開を考えました。

だとしたら、禍津日神モードのセオリツ姫は、闇堕ちキャラで暴れ出す…とか。
うーん、漫画的展開すぎる…

神様が「私たちをネタにして漫画を描きなさい」と仰っているようにしか思えないくらい、ベタベタの漫画設定になってきているような…

ちなみに、以前一枚絵で仕上げた瀬織津姫様がオッドアイなのは、「禍津日モード」の設定を考えていたからです。

仮にこれが神様からの圧だとしても、現段階でやることが多すぎます。
影分身の術を神様に授けて頂いて、私が三人に分裂でもしないとやりきれないです…。

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Runaway

楽太郎です。

昨夜、妙な現象に出会しました。
就寝して間もなくの23時頃、ふと目が覚めました。
すると、男性の激しい怒号が聞こえました。マンションに住んでいるので、上の階なのは薄っすらわかりました。

怒号というより、絶叫に近いというか、「嫌だ!嫌だ!うわあああ」と尋常ならざる怒声が聞こえました。
私はしばらく、これが本当に人間の声なのか疑っていたのですが、肉耳から聞こえるのでどうやら現実らしいと思いました。

別にこれはこれでいいのですが、なぜこの微かな叫びが目覚めた瞬間に聞こえたのか、その意味を考えました。
神様が危険を知らせようとして起こしたのか、無意識に自分が危険を察知して目覚めたのか、そのどちらかだと思いました。

たぶん、あの邪気の高まりようからすると、後者だと思います。
寝ている間にあの邪気を浴びるとまずいと、無意識に思ったのかもしれません。確かに、あのまま救急か警察か消防が来るのだろうな、とも思ったくらいだからです。
寝ていてもわかるくらい邪気を放つ人間が、身の回りの環境にいるようになったのだな、と思いました。

昨日は、元気でしたしやる気もあったのですが、祓戸三神の投稿をしたあたりから体が急に冷え始め、このまま低体温で死ぬんじゃないか、と思うほどエネルギーを吸い取られてしまいました。
その時からずっと邪気にまとわりつかれて、午後はほぼ何もできませんでした。
久しぶりに悪霊級の邪気に襲われた感覚でした。

まあ、昨日はセオリツ姫のデザイン画の投稿より前に際どい記事を上げたので、それが集合無意識には気に食わなかったのかもしれません。

冷静に考えると、マンション住まいなので八方20メートル以内には他人がどこかしこにいるわけで、部屋がいくら結界になっていようが空間的には近い距離にあります。
ですので、普段暮らしや睡眠中に邪気が飛んでくるのも不思議ではないかもしれません。
もっと空間的な結界を強化しないといけないんだろうな、と思います。

これほど強い邪気を放つようになった普通の人々が身の回りに出てくると、いよいよ人の世も終わりだと感じます。
最近はそれを実感すると共に、これまでの記憶が蘇り、過去の自分と向き合うことが多くなりました。

正直言って、人世にはロクな思い出がありません。
良いことも中にはありましたが、全体的な結末を考えるとやはり良い出来事ではありませんでした。
どうやっても人並みになることができない、それゆえ浮き沈みの激しい評価を受け、どれだけ努力しても全くと言っていいほど通用しませんでした。

今思えば、その一つひとつが学びのための伏線であり、その苦い経験をバネにしたからこそ、今までやってこれました。
けれども、なぜこれほど自分は不器用で、これだけうまくいかないことばかりだったのか、そのことにやたら感情的になってしまう自分がいます。

確かに人世ではうまくいきませんでしたが、かと言って前の時代でやり残したことは神代でやれば良いのです。
別に私は歳を取ったこと以外に特に失ったものはありませんし、逆に新たな才能や能力が成長し続けています。

「今の自分だからできる」ことは多分にあります。
今だからわかること、出来ることの尺度で過去を見るからこそ、後悔が芽生えてくるのです。
あの頃の状況と、今の状況は違います。どんな発明でも、完成図が予めわかっていれば試行錯誤する必要はありません。
その苦労は失敗ではなく、成功へのプロセスだからこそ今、手元に完成図があるのです。

確かに苦労や失敗はないに越したことはないのですが、完成を成し遂げた自分をまず褒めてみることなのでしょう。

GLAYに「Runaway Runaway」という曲があります。
歌手を夢見る女性に恋をした人の歌ですが、日の目を浴びない女性に共感しながら「何一つ良いことなかったな」と優しい声をかけ、彼女の幸せを祈るという曲です。
「Runaway」という言葉、「何一つ良いことなかったな」という気持ち、人世に対する今の私の心情をうまく表現している気がします。

このモヤモヤした感情の雲を抜けた時、青い空が一面に広がる光景を目にするのかもしれません。
それはもっと自由で、明るい世界でしょう。
もしその世界を思うように飛び回れるのだとしたら、人世でできなかったことも出来るようになるかもしれません。
無くしたものは取り戻せなくても、より良いものを自分の手で作り出せるはずです。
そのことに、もっと本気になっていいのだと思います。 

人の世には、最後まで片思いでした。
だから「Runaway」するだけです。
俺はもういいから、お前は好きにしろと。

人の世は、これからさらに悲惨なことになっていくでしょう。
しかし、その光景を目の当たりにして、いちいち同情したり助け船を出していたら身が持たないでしょう。
神様は、去年のうちにそれを私に教えて下さいました。

誰かを助けようとせず、良くない人間をどうにかしようとせず、まず自分がこれからどうしていくのかだけを考えなさい、と。
邪な気を起こした人間は自ずと沈んでいくから、無理に変えようとしなくてもいい。
そういうのは、人の世界に残った人たちの仕事だから、と。


最近、「邪気」とは何かを考えます。
神々が行う禍事罪穢れの祓いは、この邪気の浄化を指すのだと思います。

邪気とは、人間が生きる上で自然に堆積していく性質のものだと思います。

人間は、植物を刈り取り動物を殺して肉を食べ、栄養を貰い不用な成分を排出し、命を繋ぎます。
それは地球や神々から、命の恵みを分け与えられていることを意味します。
それ自体が、罪であり穢れとなって人間の業となってくるのです。

そのことに無自覚になり、地球や神々への感謝を忘れ、動物や他の生命への懺悔を忘れたら、邪気はますます蓄積するはずです。
ここでの祓い清めとは、愛や感謝や懺悔によって人間の手で行われていくものです。
このプロセスが疎かになれば、世は邪気で満ちて行くことでしょう。

神々の世界でも、人間の世界でも、この「邪気」は決して世の悪ではなく、この世から消し去るべきものではないはずです。
少なくとも人間が生きる上では、殺生をしたり気の枯れが生じることは摂理の一部です。

だからこそ自分たちの力だけでなく、人間を作った神々の手助けも必要であり、そのお力をお借りすることによって人の禍事罪穢れは祓い清められ、幸福で豊かな生に導かれるのでしょう。

人間を作りし神々なら、人間界から邪気を完全に取り払うことも可能なはずです。
それを神々があえてしてこなかったのは、「邪」という性質が必要悪というか、存在に不可欠な要素だからとしか思えません。

仏様の世界における「天部」には、元は悪鬼だったとされる仏様がおられます。
「邪」も神々の性質の一部であり、悪魔も神の眷属であるとするなら、人の世界の邪念も悪業も、本来人にあるべき性質なのではないでしょうか。

だからこそ、魔や邪という存在は完全に消し去る対象のものではなくて、うまく付き合ったりかわしていく類のものかもしれません。
だから、禍事罪穢れで酷い目に遭う人がいたとしても、それ自体は大きな学びの過程であり、その災難に何らかの意味があることを学ぶべきなのでしょう。

そう思えば、どんな災難も困難な出来事も災厄も、フラットな目で見ることができるようにならないでしょうか。
全ては人の目から見て「偶然」や「陰謀」に思えたとしても、神々の視点では「必然」以外のものはないのかもしれません。

良くないことが起きて欲しくないのは本心だとしても、起きたら起きたで起きた理由を考えると、案外腑に落ちる答えは、すぐに見つかるのではないでしょうか。

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「セオリツ姫」デザイン

楽太郎です。

先日、「祓戸二神」のラフデザインを投稿しました。
その時、以前描いた瀬織津姫様のデザインも少し変えたいなと思っていました。

そこで息抜きがてら、瀬織津姫様の「祓戸大神バージョン」のデザインを描いてみました。




神様に「可愛いかわいい」言いながら描くのはどうなんだろうと思うのですが、まあ、女性はおいくつになられても褒められるのは嬉しいでしょうし…

せっかくなので、祓戸三女神にお並び頂きました。



ご利益ありそうな並びになりました。

祓戸大神は罪穢れをお祓いする神様ですが、煩悩を祓っては下さらないのでしょうか…?

祓戸大神には、あと一柱おられます。
「息吹戸主」様です。

これでも良いような気がする…んですが、さすがに神様をハブるのはバチが当たりそうなので、近日中に息吹戸主様を描かせて頂きます。

私は美少女を描くのは完全に趣味の範疇なのですが、男性キャラは仕事でなければほとんど描きません。
男性キャラを描く時は義務感です。

…そんなことを言ってると、さらにバチが当たりそうな気が……

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