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招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

屋号「楽太郎」開業

楽太郎です。

本日、屋号を「楽太郎」に変更し、本日付けで開業届けを提出しました。

「楽太郎」というアカウントは、当初から絵描き名義で運用するつもりはありませんでした。
絵描きという職業は、多くを語らない方が好まれる職種です。
変に思想的だったり、奔放に発言するとクライアントに敬遠されがちで、ファンやユーザーも政治的な傾向を嫌います。

特にスピリチュアル関係の話は、いくら本音であろうとリスクが伴います。
それゆえ、社会の中でありふれた職業として立ち回るならば、精神的な話はしないに越したことはありません。

しかし、神様から瀬織津姫様を描くよう促されてから、尻尾を出さずにはいられなくなりました。
私は可能な限りこのアカウントでは絵を出したくなかったのですが、あれだけ強烈なインスピレーションが降りたらやらざるを得ませんでした。

その後は、ぼちぼち趣味程度に絵を描いたら上げていこうかな、くらいの気持ちでいました。
しかしメインの稼ぎ口の方でやめ時を悟り、これも神様のご意志だとはっきり認識しました。
とは言え、「神様のイラスト」を描いて収入に結びつける道筋は未だに見えない状況です。
それでも「楽太郎」のアカウントの方がまだやっていける活路はある、と思いました。

私としてはまだ自分のやりたい創作で食べていく道を諦められないのですが、それは稼業としてきちんとやっていけるようになってからでも遅くありません。
優先順位を考えた上で、神様も「楽太郎」の方で仕事をしてもらいたいのだと思います。

この流れを鑑みるに、「神様の絵」に関してどうやらお役目があるようです。
金運を司っている神様が与えてくださったお役目ですから、悪いようにならないのだとしたら乗る以外にないように思います。



本日開業届を税務署に提出したのは、名義変更をすることで「これからは天命のために働く」という意思表示をするためです。

以前の屋号は人世のビジネスに使い倒したので、その名義を神様のお役目に使い続けるのはどうかと思いました。
心機一転するには、開業届を出し直すしかないと考えたのです。

実は昨日提出した確定申告書類でしれっと変更後の屋号を書けば更新することができたのですが、失念していましたw
しかも、開業届も今では電子申請できますが、これは自分の足で赴いてやるから意味があるんだろうなと思いました。

税務署にて、どうせなら開業日を宇宙元旦の春分の日に合わせたかったのですが、「未来の日付では提出できない」とのことでしたので、奇しくも本日3月18日付けの開業となりました。

これまでの屋号を改めて始めた「楽太郎」は、神様のご意向を受けて開業した形となります。
神様のご意向とは、即ち天の役に立ち人のためになることであり、それは「日本」という国のために働くことです。

税務署に正式な届け出をしたということは、「日本」という国体に対して正式な表明をしたことを意味します。
現在の日本政府は傀儡に過ぎませんが、「日本」という国体は二千年以上の歴史がある由緒あるものです。
ご先祖様たちが命がけで守り、命がけで受け継いできたこの国に奉仕を誓うということは、日本人としての使命を担うということです。

税務署に行く前に、崇敬神社である「瀧澤神社」に参拝し、祝詞を奏上しました。
瀬織津姫様は、私の絵を楽しみにしておられる(と勝手に思ってる)ので、開業の誓願をしました。

税務署を出て昼食を食べようと街を歩きながら、アーケードにある「三瀧山不動院」に参拝しました。
お不動様に開業の誓願をし、おみくじを引きました。




開業日に、とても幸先の良いご箴言をいただきました。
お不動様にも、日本のために働きますと誓ったので、その意気込みを買って頂いたのかもしれません。
とは言え、裏面を見てみると…



さすが、仏の中でも厳しめな仏様のお言葉です(笑)

「口だけだと許さんぞ」

いかにも、お不動様のお言葉です…
後に引けなくなってきた…


というわけで、本日付けで屋号を変更し、「楽太郎」として再出発する運びとなりました。

これから、サイトを作り営業用の窓口を設置し、ビジネスの体制を整えていきたいと思います。
ただ、まだ「楽太郎」のお役目を完全に理解したとは言えないので、当面は神様のお顔を伺いながらやっていくしかありません。

私は長年フリーランスでクライアントの注文に従ってきましたが、これからは「神様」という上司の下で働くサラリーマンに近いような気がします。
さしずめ、「株式会社日本神界」という感じでしょうか。

上司が瀬織津姫様…なら、オーバーワークも平気でやりそうですw

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神に仇なすもの

楽太郎です。

だんだん覚醒が進むにつれ、これまでの人の時代にあった違和感の正体が明らかになってきました。
私は生まれつき憑依体質なだけでなく、エネルギーや波動を無意識に感じ取る能力がありました。
そこで思念や邪気を受けると、それを体内に留めてしまうため、様々な不調と隣り合わせでした。

「人間は自分が思っていたような存在ではなかった」

それが最近になって、ようやくわかったことです。
人を信じ、人と生きていけば幸せになれると思っていましたが、人は私が思っていたような存在ではありませんでした。


最近、街を歩くと「もうこの世界は持たない」と感じます。
私としては、ずっと思い違いであって欲しいと思っています。私はどの道この世界で生きられなくとも、その他大勢の人は何とか生きていられるでしょう。
別に、私にとって正しい世の中にならなくとも構いません。ただ、大勢の人にとって幸福な世なら何の問題もありません。

今朝、地元の小さな神社に祝詞を奏上するために伺いました。
禊祓詞の二段目あたりから喉が苦しくなり、大祓詞を奏上し始めてから咳が出始めて、中断したり間違ったりすることはできないので、我慢しながら何とか唱え終えました。

咳が出たのは今日この時だけなので、おそらく邪気です。この祝詞を妨害する邪気は、「神に仇なすもの」の類です。
私は、人々の邪気が煮詰まりすぎて、この邪気のように神へ仇なし始めているのではないか、と考えています。

街ゆく人々を観察した時、人々の波動が淀んでいるのを感じます。
スマホを見ながら歩く人はスマホに、カップルで歩く人は恋人に、友達と歩く人は友達しか視界に入っていないように見えます。
外側の世界から自分を守るため何かに依存し、その心の支えを絶対視し、信仰によって自我を保とうとしているとしか思えません。

それが神様ならまだいいのです。
神様に繋がるには、自分自身と繋がる必要があるからです。
神様の座るべき心の場所に、神様でないものを置けば、自分自身と繋がることは難しくなります。
依存の対象を信仰している間は、自分自身を見つめなくて済むからです。

彼らの異常なほどの周りの見えなさは、依存しているものに注視しているため視界が狭く、身の回りのことに目が配れなくなっているのかもしれません。
近くを通っても全く他人がいるという認識ができず、マナーの悪さも自覚できなかったり、私はびっくりすることが増えました。

自分たちで閉じた心の世界を作り出し、その依存でできた空間でエネルギーのやり取りをしているので、波動が淀んでいます。
確かに、外の世界や現実を直視すれば、傷つき不安になり生きていけない気持ちにもなるでしょう。

カップルも友達も、ずっと死ぬまでお互いが絶対に切れない関係でいられたらそれでいいかもしれません。
よしんば、私はそうであって欲しいとすら思います。しかし、この世界で生きるのは、残念ながらそう簡単なことではありません。

心の拠り所とする何かや相手が、ある日目の前から消えた時、目の前にあった昨日とこれから一人になる明日までの短い時間では、人は立ち直ることができないのです。

だからこそ、人は一人でも生きていけるように、確かなものを心に抱いて強くならなければいけません。
しかし、人間はなぜか一人で生きていくことを極端に恐れるあまり、自分に向き合うことを避けます。
そして何かに無理に依存するからこそ、信じたいものと現実との矛盾に苦しみ、どうにもならない邪気を内側に向けていくのです。

自分たちが変わりたくない、生き方を変えたくないという思いは、自ずと邪気になっていきます。
世の中は腐敗と巨悪が蔓延り、どんどん悪くなっていくのを目の当たりにしながら、変わることを恐れるがゆえに不平不満をどうすることもできないのですから、無理はありません。

神様は、そうやって今までの時代にしがみつく人々に、新しい時代を作るために変わって欲しいと思っておられるでしょう。
しかし、人間はそれでも自分を見つめ、何かをやり直そうと思わず、それゆえに不平不満をどんどん溜め込んでいくばかりです。
そこで発生した邪気こそ、まさに「神に仇なすもの」になりつつあります。

果たして、この世界を作ったのは誰でしょうか。
地球を作り、生命を育み、人類を生んだのは誰でしょうか。
人間にずっと恵みを与えてきたのは誰でしょうか。
人間を導き、今日の文明を作らせたのは誰でしょうか。

私は、神に仇なし始めた人間が、これからどうなるのかを考えた時、優しい言葉で表現することはどうしてもできません。

その危機感をひしひしと感じるからこそ、私はこの世界も生活も、そう長くは持たないだろうと感じます。
いや、私一人がそう思い実際には何もなくて、大勢の人々がこれからも何不自由のない暮らしが続くことに越したことはありません。

どこかで世界経済が崩壊しても、日本の外貨準備金で乗り切れたらいいでしょう。
外国の軍事支援を受けず、日本人が政治を自分たちで立て直し、自力で独立国家を確立すればいいでしょう。

しかし、今の日本人にそれができるでしょうか?

私には、右にも左にも行くことができないようにしか見えないのですが、それでもこのまま何とかなるのでしょうか?

もし私が一人で思い違いをしているだけにしても、私は神様を信じ、魂の示す道にしか進むつもりはありません。

どうせ行っても戻っても荊の道です。
この国に住む人々は、皆それを薄々わかっているはずです。
どの道、このままにしていたらどうにもならず、いずれ嫌でも変わらなければいけない日が来ます。

「自分たちの生活が脅かされる」という現象が目の前に現れた時に。

どうせ変わらなければいけない日が来るのだから、一日も早く心を決めたらいいのです。
それができなければ、遅かれ早かれ世の中に押しつぶされて生きてはいけないでしょう。
実は、それだけが確実なことなのです。

今、世は何もかも値上がりし、人々はお金を使いたくないがゆえにできるだけ安いものを欲しがります。
しかし生活の質は下げたくないし、できるなら工夫もしたくない。

「お金は欲しいけど、大事なのはお金じゃないことはわかっている」
「でもお金が必要だから、多少納得できないことをするのは仕方ない」
「自分がやりたいことはわからないし、どうせ夢なんて叶わないから、やっぱりお金さえ稼げればいい」


このチグハグな動機で、人々は毎日のルーティンを頼りに生きています。
何をしたらいいのかはわからないけれど、お金さえあれば何とかなるから、大切なのはお金じゃないけど、やっぱりお金が欲しい、お金さえ稼いでいれば間違いはない。

拝金主義、過剰にモノを消費する時代は終わったのに、逆にお金を欲するようになっている。
そう考えて行動する人たちを見て違和感を覚えているのは、私だけでしょうか。

誰もが本当のことを言わないからこそ、世に本当のことが知られず、誰も本当のことに気づかないのです。
少なくとも少しおかしいと思えば、そこから突き詰めて考えていけばいいだけです。

「日本人は変わってしまった」と思いますが、いつからはっきり変わったとは言えないからこそ、昔の日本人がまだいる感覚で世の中を見てしまいます。
しかし残念ながら、もう昔の日本人はいないのです。


私は、誰に何を求めることはありません。
自分一人でもやっていきますし、例え世の力になれなくとも、自分の心に嘘をつかずにやっていくだけです。
幸い、私の心の中には神様がいます。
だから怖いものはありません。

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瀬織津姫様を額縁に

楽太郎です。

先日、衝動的に瀬織津姫様のイラストをネットプリントに登録しました。
昨日の時点で用紙サイズを間違えてしまい、サイズを訂正して上げ直しました。

今日は、特にやることもないので(笑)確定申告を朝のうちにさっさと終わらせて、100均で額縁を買い、自分でネットプリントして瀬織津姫様を飾らせて頂こうと思いました。

昨日のミスプリントですが、一応神様の肖像画なので折ってゴミ箱に捨てるのも何だなと思いました。
私が最も敬愛する神様の肖像ですから、気軽に扱えません。
そこで、近所の河原でお焚き上げをしようと思いました。

そう言えば、私は自分で火を焚くなどやったことがないのですが、石でかまどを作って綺麗に燃やしている自分に驚きました。
私は自分で思っている以上に火の扱いがうまく、かなり綺麗に燃え尽きてくれました。
燃えている間は、軽く祝詞をお唱えしました。

大きく残った灰は土に埋めて、細かい灰は水で流しました。
河原でやったので、あとはいい感じに瀬織津姫様が川に流して下さると思います。

最近、自分じゃない「自分」が表に出てくるようになってきて、これまでの行動原理では説明のつかない行動ばかりをしています。
一番動揺しているのは、私自身です。

甘いものも好きではないですし、そもそもおやつなんて食べたくないですし、料理だって全くしたいとも思わないのにやってしまいます。
先日は、はったい粉で蒸しパンを作ろうとしたのですが失敗したことに気づいて、捨てるにはもったいないので油を敷いて焼いてみたら、意外と美味しい「お焼き」になって笑いましたw

本当に、今の自分はどこからどこまで「自分」なのかわかりません。
まあ、頭で考えて動かなくていい分、私自身は気楽でいいのですが…

そこから色々ありながらも額縁を買い、セブンイレブンに寄って「ネップリ」サービスで瀬織津姫様のイラストをプリントアウトしました。

額縁に入れたら綺麗にピッタリはまりました。
どうぞご覧ください。



お麗しい!お綺麗でございます瀬織津姫様〜‼︎

横にある水晶は、本物の水晶ではないのですが恵比寿様と龍神様のレーザー彫刻が施された置物です。
あと、背後にある金色の棒は大猷院の「龍神破魔矢」です。
実は右の方に、昨年末に買った千両がまだ元気に実をつけていますw

私は自分の絵を飾ることが今までありませんでした。
自分の描いた絵は粗が気になって、デッサンの狂いや歪みを見るとイライラするので、自分の絵をジッと見続けるなど考えられませんでした。

しかし、私の描いた瀬織津姫様はずっと見ていられるというか、まあ私以外にこのような瀬織津姫様を描く人間はこの世に存在しないので、否が応にも私の絵を見続けるしかないのです(笑)

まあ、それにしては何となく見るに耐えうるというか、飾って満足できるような絵が初めて描けたかもしれません。

あと、余談ですが買い物中、地元の街の凄惨な景気を目の当たりにしました。
買い物客も、品揃えの悪さと物価高で買うに買えないのか、青白い顔でフラフラ店内を回っていました。

私も気の毒だなと思いましたが、店内の邪気や買い物客の発する邪気を感じると私まで取り込まれそうな気がしたので、できるだけ波長を合わせないようにしていました。

最近、肌感覚で「これから信じがたいほどまずいことになる」という予感がしてきました。
これに関しては、危機感をわざと共有しない方が動きやすいというのも身に染みて感じます。

人間としての心中は複雑ですが、我々日本人、あるいは人間として、神様や地球やあらゆる生物にしてきたことの報いは、いずれ受けなくてはなりません。
私とて、無自覚に生き物や自然からの搾取を甘んじて享受してきた身であり、そのカルマは返していかなくてはなりません。

これからその大返済期間となるわけですが、今のうちにできる覚悟はしておかなければならないかもしれません。



それはそうと、瀬織津姫様!

あーっ!お麗しい‼︎
あーっ!瀬織津姫様〜‼︎

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「瀬織津姫命」ネットプリント開始

楽太郎です。

セブンイレブン系ネップリ、ファミマ系ネットプリントのサービスで先日描かせて頂いた「瀬織津姫命」様のイラストをネット印刷できるようにしました。

※プリント可能期間は3月23日までです。



【セブン系ネップリ】
・2
L判
 
100円
プリント予約番号:67888348

※手順…①「プリント」「ネットプリント」の順に選択 ②プリント予約番号を入力、入金後プリント開始

【ファミマ系ネットプリント】
・L判:30円 2L判:80円 
・シール紙L判:200円 2L判:300円
シェア用ユーザー番号:HKD523N2GB


【QRコード】
※手順… ①「プリント」「ネットワークプリント」を選択 ②シェア用ユーザー番号を入力し、入金後プリント開始

または、①上記の「QRコード」を読み込ませ、入金後プリント開始





なぜ唐突にこんな企画をやり始めたかと言うと、私が個人的に瀬織津姫様のイラストを飾りたかったからですw
なぜか「ネットプリント」というアイデアが降ってきて、いても立っていられなくなったというか…

瀬織津姫様、実はネップリやってみたかったですよね⁉︎

瀬織津姫様がネットプリントを楽しみにしておられる気がしたので、雨の中これだけのためにコンビニに行ってきました。
写真印刷がL判になることを失念していた私は、元データをハガキサイズで作成していたため、上下が切れてしまう形に…。

神様が見切れてるのはとても縁起が悪いですし、ミスプリだけを持って帰る形になりました。
ただ、こうして見ると完成度はまあまあです。



元データもLサイズに修正したので、たぶんまともに印刷できるかとは思うのですが、この雨の中を再度コンビニに行く気力はありません。
明日、改めてコンビニに行き仕上がりを確認してきます。

瀬織津姫様が喜ぶお姿を見たかった…(見えない)

ちなみに、このプリントをしても私に一銭も入りませんのでご安心くださいw

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「瀬織津姫命」新デザイン

楽太郎です。

今、絶賛アセンション反応中ですが、ある朝に自分の作風が「人世に合わせていた」ことに気づき、絵の描き方を見直しました。

私はこれまでの画風も嫌いではなく、むしろ好きだったのですが、何となく今の波動状態と合わなくなってしまったのを感じました。
わりとタッチや画風は自由に変えられるので、正直なところ元に戻そうと思えばすぐに変えられます。
ですから、自分の作風を今変えることに関しては、致命的なことではないと思います。

瀬織津姫様のご神璽を頂きに早池峯神社に参拝した次の日に、瀬織津姫様のリアルタッチのイラストを投稿しました。
その時描かせて頂いた瀬織津姫命像が、以前のアニメ調瀬織津姫様より感覚に近かったので、そのイメージに寄せてみたらどうだろうか、と思い描いてみることにしました。





瀬織津姫様は、他の神様と違って比較的どう描いても許して下さるというか、全く注文をつけることがなく自由に描かせて下さいます。
私の背中を常に押してくださっていると思えば、何となく浮かばれる気がします。
まあ、神様からすると「勝手にやれ」って感じかもしれませんが…。

新しい画風は、若干リアルタッチに寄せました。
浮世絵風テイストは落ち影を入れられないので、色彩で絵面を誤魔化すことができません。
ゆえに、線画表現を洗練させなければ絵として説得力が生まれません。
線による説得力は、即ちデッサン力です。これまでのアニメ調は線をデフォルメする分、塗りに説得力を持たせ描き込みを表現できましたが、線の強い画風ではそれができません。

それゆえ、この画風を続けるならデッサンのリアルな線を追求することになりそうです。
幸い、私はフォルムで形を取るタイプなので、慣れたらそれほど難しくはないと思います。

以前お描きしたイメージ画の瀬織津姫様は目を瞑っておられたのですが、あの印象そのままに今回の絵に落とし込みました。
私の脳内の瀬織津姫様は、はっきり物を言うタイプの利発な女性で、わりとぐいぐい来るタイプの女神様だと思います。
いや、私の好みのタイプはむしろ「セオリツ姫命」の方なのですが……
ロリロリしてるし……

アニメ調の「セオリツ姫命」とはイメージが違うのですが、セオリツ姫様も独特の可愛らしさがあるので、コスチュームを分けて別キャラ(?)として描き分けることにしました。
まあ、リアルタッチだとケガレを引っこ抜いて祓戸四神でバレーボールする光景は描きにくそうですし…。

このタッチで瀬織津姫様をお描きしたということは、他の祓戸の大神たちもまたお描きしなければならなそうです。
それは別にいいのですが、気吹戸主命をお描きする時はまた悩むでしょうね…。

ともあれ、意図せず広がっていく神様イラストの世界、今回初めて「神代絵」というカテゴリーを作成しました。

「浮世絵」ならぬ「神代絵」…。絵に描いた餅にならないようにがんばります。


追記:

先ほど、瀬織津姫様のイラストをネットプリントサービスに登録してきました。
プリントする際、写真L判の印刷になることを失念し、ハガキサイズでデータを作成してしまいました。


勿体ないので、こちらにおまけとしてアップしておきます。

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日本人に望むこと

楽太郎です。

今日は皆既月食の満月です。
私の自宅からも月食を観測しました。風速8メートルの風が一日中吹いており、今現在もかなりの轟音です。

満月に合わせて、強風で邪気を吹き飛ばしているような気がしてなりません。
これで人間の感情が収まればいいのですが、おそらく無理でしょう。
この風の音を聞くと、神様の怒りを感じざるを得ません。

私は今朝から何となく落ち着かなくて、行動が全て雑というか、精細に欠く感じでした。
満月の影響からか神経の昂ぶりがひどいなと思い、今日は気をつけて生活することにしました。

ジワジワと蛇の生殺しみたいに悪くなっていく世の中で、人々の苛立ちや不満を邪気としてひしひしと感じます。
私は全てが神様のご計画だと思って受け止めているため、苛つく人々にあまり同情はしません。
人々が困るのも魂の修行かカルマでしょうし、それ自体は仕方ないと思いますが、私の視界の中で惨い光景は見たくないな、とそれだけは感じます。
私は特にHSPなので、視界に入った時点で色々なことに同調してしまうのを危惧しています。

莫大なカルマを返さざるを得なくなった日本社会ですが、ぶっちゃけもっとカルマが深い国はいくらでもあるでしょう。
あまり神様の手の内を明かすと怒られそうですが、カルマの返済が比較的早い段階で来たのは、世界に対する日本の優位性と関係があるのではないかと思っています。

諸外国に比べ日本はカルマが低い方ですが、日本という国土に対するカルマの蓄積など、神様からすればそれが大問題のはずです。
神様がこれまで何万年と守ってこられた土地というだけではなく、何百世代にも渡るご先祖様たちの
血と汗と涙が染み込んだこの地は、ご先祖様たちが今も眠り、ずっと守って受け継いできた、命よりも大切なものだったはずです。

その土地を資産に見立て、矢鱈とビルを建て住宅地にし無計画に開発した挙句、山を拓いて太陽光パネルで埋め尽くし、日本人が少なくなったからと外国人に喜んで住まわせています。
この光景を神様やご先祖様がどう見ているのかを、日本人は考えたことがあるでしょうか。
いや、あるにしてもこの国を牛耳る集団には、この発想が微塵もないことくらいはわかります。

どうしてこんな国になってしまったのか、一体どうすればいいのか、私は考えると気が滅入ります。
数十年前まで、日本は世界一の経済大国でした。
その頃と今を比較してもしょうがないのはわかりますが、何をどのように間違えたら今のような国になってしまうのでしょうか?

当然、制度や政治上の問題もあるでしょう。
人口動態の問題もあります。しかし、それ以上に決定的だったのは、人々の「価値観」だと思います。

思い出してみてほしいです。
この数十年で、地域の商店街は軒並み郊外型ショッピングセンターに駆逐されました。
買い物をするにしても、ネットの方が品揃えが良く配送も早いです。その代わり実店舗のメリットはだいぶ失われました。
本はデジタルやネットに代替され、紙の本を買う人は少なくなり、電子書籍は外国の企業が販売代理店になっています。
音楽も映像もメディアがデジタル化し、サブスクもスマホも外国企業がサービスを一元化しています。

このプロセスの中で、日本の商業の多様性がだいぶ失われてしまいました。
それは「時代の流れ」と人は言うでしょうが、その時代の流れとは、「便利さと利得」だけを選択していった結果なのではないでしょうか?

便利さと利得を優先した結果、大衆は大企業の製品やサービスだけを求めるようになり、中小企業は大企業の寡占に耐えきれず駆逐され、大企業の寡占は腐敗と癒着を産み、現状のような多様性のない経済を形成しているように見えます。

今、何かを起業したりサービスを始めるにしても、大企業の傘の下で風呂敷を広げるか、大企業相手に仕掛けるしかありません。
圧倒的なシェアの中でビジネスを始めれば、最初からハンデを持つかマージンを取られることが前提となります。
サービスの内容によってはサービス元に検閲され、規約は法律以上に融通が効かないものになります。

この産業形態の一元化によって、あらゆる業者は同じことしかやらなくなっていきます。
同じことしかやらなくなるということは、想像力や多様性が失われ、挑戦もイノベーションも阻害されることになります。

思えば昭和の頃、いくら若者の人口が多かったにしても、パソコンもスマホもない時代で午後5時上がりの勤務をしていて、日本は世界一の経済大国になりました。
しかし今、これだけデジタル技術が進み外国人の手が入り、しかも残業までこなしているのに人手不足で万年給料が上がらないわけです。
果たして、この現象を「技術が高度化して業務が複雑化した」の一言で済ませられるでしょうか?

私には「便利さと利得」の追求が社会を複雑にし、その仕組みがこの国から国富と国民の幸福を奪っているように思えてなりません。
システムのどこかに致命的な陥没があって、そこから日本人のエネルギーが大量に流出している。
このことを、もっと本気で追求するべきなのです。

日本人の真の問題は、問題に対しての流されやすさです。
自分で考えるよりも権威筋の話を聞き、納得して世間話程度で話を済ませ、何かをした気分になることです。
それは、残念ながら原因を知ったことにも、問題を解決に向かわせたことにもなりません。
このことにすら気づかない鈍感さが、今の状態を作り出したのではないでしょうか。

今の日本人は、目に見えないものに意識を向けるのが一番難しいのだと思います。
目に見えないものに意識が向かないから、自分が見えている以上のものを知ることができないのです。

優しさも愛情も理解も、目に見えないものだからこそ認識できず、ゆえに優しくできず、愛情を向けられず、理解することもできません。
他人の心がわからないから自分の心もわからず、問題に対して何をしたらいいのかわからないのでしょう。

世界の全てが目に見えるものしかないから、自分を幸せにするものを目に見えるものだけで揃えようとし、自分を不幸にする原因も目に見えるものだけにしか見つけることができません。
そして問題を解決する方法も、目に見える手段しか取ることができないわけです。

その唯物的な世界はある意味シンプルで、一次元的な世界ゆえに難しく考えなくてもいい世界です。
そのお手軽さに浸かりきったせいで、日本人は自分の頭で問題を掘り下げる能力が欠落してしまったのだと思います。

この国を本気で取り戻そうと思うのなら、自らの正義のために世を変えようとするのではなく、世の善悪を軸にして動くべきなのではないでしょうか。
世の善悪とは法律やルールではなく、「良心」です。
今こそ、日本人の本来の価値観を呼び戻し、この良心で秩序を戻していくことが必要だと思います。

日本人は古来から、「目に見えるもの」に「目に見えないもの」を見てきました。
それが万物に神を見る精神であり、八百万の世界観です。
この肝心の部分を蔑ろにして、この国は取り戻せません。

私は、まだ間に合うと思います。
少なくとも、大難はまだ小難にすることは可能です。
悲惨な光景を目にする前に、一人でも多くの人に目覚めて欲しいと思います。

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神、試練、浄化

楽太郎です。

明日14日は皆既月食を伴う満月だそうで、かなり大型の浄化が起こりそうです。

私は相変わらずアセンション反応でダウン中です。
それどころか、瀬織津姫様の神社のWEBおみくじで今週二回目の「凶」が出ました。
毎日おみくじを引いて、凶が出ることすら数日前までなかったのに、これだけ続く上に内容は「大人しくしてなさい」です。
瀬織津姫様が仰るのですから、神様の言う通りにしなければなりません。

ちなみに、私が毎日おみくじを引く崇敬神社「瀧澤神社」のサイトはこちらです。
よろしければアクセスしてみて下さい。

火防瀧澤神社


この浄化作用の中で、私のキャリアの実績やこれからの予定までリセットを促されています。
昨日の朝に起きたら、これまで人にウケるように無理して作風を作っていたことに気づきました。

私としてはそう意識したことはありませんし、むしろ売れるなら望ましいくらいに思っていました。
自分の絵柄や作風にあまり違和感はありませんでしたし、むしろ気に入っていました。

昨日、以前描いた「瀬織津姫命」のイラストを見た時も、なぜか気持ち的にしっくり来なくなっていました。
どう表現したらいいのかわかりませんが、「子供っぽいな」と思い、何となく気恥ずかしくなりました。

昨日の朝に初めてそう思うようになりましたし、これまで全くその角度で感じたことがありませんでした。
これも浄化の作用なのかな、と思います。
おそらくこれだけ感じ方が変わると、以前のような作風を維持することは難しくなるかもしれません。

この期に及んで作風を変える、というのもかなり思い切っていますが、いずれにしろこれだけやって売れないのですから、変化はむしろ喜ぶべきでしょう。
私はわりとタッチを自由に変えられる方ですが、自分にしっくり来る作風は吟味する必要がありそうです。

徐々にですが、体で感じるエネルギーの流れが自然になり始めている感じがします。
もうすでに私の魂は先が読めていて、神様と話も済んでいるのに、私の心だけがついていけてないのかもしれません。
おそらく私は数年前から、この変化のために様々な準備をしてきたのだと思います。


今、世の中は通常運行でこの先もやっていこうとしています。
この世界を支配する権力構造が盤石すぎて、揺らぎながらも一応は崩壊を見せてはいないため、何も変化がないように見えています。

街の風景や店の雰囲気を見れば一目瞭然ですが、これは単なる不況の空気ではありません。
工事現場は、簡単な工事なのになぜか数ヶ月かけて一向に終わりませんし、店の店員も会社の社員もどこか投げやりです。
今回の不況の違和感は、「何とかこれを乗り越えよう」という気持ちが誰からも感じないことです。

この社会の裏側と、上の方でおかしな仕組みができている。
この不自然さは、勘のいい人ならすでに気づいているでしょう。

日本人は、根本的に何かがおかしくなってしまいました。
おそらく、この資本主義の競争社会の中で「消費」のために費やされたエネルギーは、世の仕組みにある澱みに全て吸収され、もはや絞り出す余力もないのでしょう。

そうして気が枯れた人々は、「穢れ」を社会にもたらすようになりました。
それはここ数年の話ではなく、数十年かけて日本人は負のカルマを蓄積してきたのです。

私の半生は、人の世で成功するために挑戦するというより、この「穢れ」から魂を守るための防衛戦だったのだと思います。
神代を作るのが魂の目的なのですから、人世のラウンドはゴングが鳴るまで立っていれば「勝ち」だったのでしょう。

日本社会でのやりづらさは、優しさや親切心、努力や誠実さ、そういった人間としての美徳が形ばかりは評価されても、内実は軽視されていたことにあります。

私が人に対して無邪気に接しても、その純粋さは必ず陰で嘲笑われていました。
裏切られ心が塞ぐたびに、嘲笑を振り払うため知識や実力を身につけ、強くなろうとしてきました。
その原因が「人と魂の毛色が違うから」などと気づきようもなく、私は自分と他人を呪い続けていました。
けれど、今になってみればお互いの相性が絶望的に悪かっただけで、呪いをかけ合う道理などどこにもなかったのです。

今、その呪いを解くための浄化が私に起こっています。
人と自分にかけた呪いこそが私のカルマであり、このカルマの解消はもうじき終わるはずです。

これまでの半生は、人世が終わり神代に至るタイミングに合わせて計画された、魂の「カリキュラム」だったのだと思います。
それにしては酷い授業内容でしたが、私が落第しまくったせいで偏差値の低い学級に放り込まれていたのかもしれません。

ただ、人間は魂の修行のために生まれて来ると言われていますが、目の前の出来事が予め修行だとわかれば修行になりません。
「罰」だと思って打たれる鞭と、突然打たれる鞭では痛さが違います。

例えば、私の目の前に神様が現れて、「これから試練が来るから耐えなさい」と言われたら、どんな困難も「修行なんだな」と割り切って難なく乗り越えたかもしれません。
わからないからこそ不安になり、本気で問題にぶち当たり、真の修行を経験します。
神様も「いるかいないかわからない」ように振る舞い、試練も「修行かどうかわからない」という現象で現れるため、人間にとっては見分けることすらも修行になるのでしょう。

要は、何事も不運は「修行」、幸運は「神様からのご褒美」と思って切磋琢磨していれば生き方に困ることはありません。
人と神が繋がっているのだとしたら、生きるというのは人間が思うよりシンプルなことなのかもしれません。

人は神の「分霊(ワケミタマ)」を頂いて生まれてくると言われますが、神の一部であることは自分の中に神が宿っている、ということです。
おそらく、魂に宿る神の声に従って生きていけば、誰もが過不足なく生きられるのだと思います。
魂の赴くままに生きることで才能を開かせ、その行動によって調和のとれた人生になっていくはずです。

しかし、人間は生きていく上で欲は出ますし、気が枯れて邪気が溜まると、下手な知恵に頼り邪に楽をしたくなります。
その言動が咎められることなく、むしろ他の人も同じようにし始めたら、調和は乱れ誰もが邪な方法で楽をしたがるはずです。

現代社会で起きている事象は、まさにこれではないでしょうか。
この世に蔓延った邪気を浄化するには、神々の祓いと人の培った「カルマ」の解消がなくてはなりません。

神様はそれを人間に促すために動かれています。
神々が「罪穢れ」を浄化するのは、本来は神の一部である人間が穢れを祓うことで神性を取り戻し、あるべき姿で生きていくことができるからだと思います。
本来の姿で生きる人間は、よほどのことがない限り順当に幸せになれるのです。
神様はひたすら、人間に思い直して欲しいと願い、そうするようにずっと促されているように思います。

このことをもっと人間が受け止めて、素直に自らの心や神様の声に耳を傾けたらいいのに、と思うのは私だけでしょうか。


今朝、散歩をしていて、道を這うカタツムリを踏んでしまいそうになりました。
このままでは危ないと思ったので、近くの茂みに置いてあげました。
そこがこの小さな子が大きくなるのに適した場所か、カタツムリが好む場所だったかは、私にはわかりません。
私はそのカタツムリを拾って助けてあげることはできても、その子の命に最後まで責任を取れるわけではありません。

しかし、神様は違います。
神様なら、この子が大きくなるまで見守ることも、うまく生き延びられるように導き続けることもできます。
人間の一挙手一投足、頭の中の機微に至るまで見通し、肉体を持たず時間の概念がないからこそできることです。
その命を面倒見ようと思えば、最後まで世話をすることもできるでしょう。

私は誰かの幸せを願い、何かをしてあげたいと思ったとしても責任を持ち続けることはできません。
それでも、神様はそれができ、ゆえに愛情や慈悲を惜しみなく人に施しておられるのです。

この素晴らしさは、人間には簡単に理解することはできないでしょう。
神の存在と恩恵を知る者は、神の愛情や慈悲を受けられるがゆえに、いち早く幸福を手にすることができるのだと思います。

人は、もっと神様を信じればいいのに、と思います。
人にとって目に見えないということが、それほど許容できないことなのでしょうか。

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「神」の語源

楽太郎です。

現在、好転反応中につき身動きが取れません。
絵を描くとかの騒ぎではないので、興味あることを調べています。
最近、巷でよく「働く」とは「傍(はた)を楽にする」ことだと言われているのですが、ずっと「本当かなあ?」と思っていたので、この機会に調べてみました。

私が参考にしたのは、坂本小見山さんの動画です。「働く」の語源についてまじめに考えてみた

これによると、言語学的に考えて「働く」の語源は「徴(はた)る」「はた(はた)-らく」の派生であるのが有力らしく、「傍を楽にする」は掛け言葉、いわゆる「当て字」だそうです。

かなり権威筋も使っている用語だけに、これは目から鱗が落ちました。
スピリチュアルな人は特に、神秘に偏るからこそ科学的な目線を失いがちです。
いくら神様と繋がっていると言えど、半生をかけて研究してきた人の学識を蔑ろにすることはできません。

私はこの気づきから、言語学的視点から「神」の語源を調べられないか、と思いつきました。
今回、私が参考にしたのは以下のサイトです。

和風原論 神からカミへ

国語学者の阪倉篤義氏によれば、「カミ」は「クマ」と近い言語グループに属するそうです。
かつて神の御料を「カムシロ」「クマシロ」と呼んでおり、「クマ」は山奥にいる神聖な存在を指したとされています。

確かに、「熊」は山奥にいる生態系の頂点にいる生物であり、かつては人間が太刀打ちできない脅威であったはずです。
また、熊本県には「珠磨郡」がありますが、この「球磨(くま)」には昔、大和王権に抵抗した「熊襲」がいたとされます。

ちなみに、球磨郡の北方には「玉名市」があり、ここは神武天皇の母上であらせられる「玉依姫」ゆかりの地です。
「玉名大神宮」は、おそらく我がご先祖様、菊池則隆公が建立した神社であり、公の御息女「玉依姫」の墓石が祀られております。

同市内にある「伊倉南八幡宮」は、かつて熊襲鎮静を祈願して南向きに建立されたそうですが、このすぐ南には球磨郡があります。
玉依姫命の「玉」とは「霊」を差すと言われますが、この「玉」は「クマ」には語音的にならないとしても、「球磨」となれば勾玉やその関連もあるのかもしれません。
この辺は、学術的に深く検証してみたいところです。

ともかく、「クマ」と「カミ」はとても近い語形だそうです。
「クマ」は「山、川、道などの曲がって奥まった場所」を指し、母音を変換した「カム」がi母音をつけて名詞系に変化したのが「カミ」であるとしています。
つまり、「奥まった隠れた地にいるもの」を「クマ、カミ」と言っていた可能性があります。

熊襲は山に隠れし山賊的な部族であり、また古代の巫女も山奥に一人住んでいたと言われますから、山奥にいる人々は隠れた存在であるがゆえに、「クマ」と関連づけられたのかもしれません。

また、「カミ」にはもう一つ始原があり、「カミ」は「シモ」と対を成す「モト」を意味する言葉であったとされています。
「川上」や「川下」という概念に近く、川上は山奥にある水源であることが多いことから、「クマ=カミ」の語彙と親和性があるとされます。

ただし、以下のブログ記事によると、「上(カミ)」と「神(カミ)」の「mi」における上は甲類、神は乙類の語系で、言語の系統が違うそうです。

「神」の語源

この記事の興味深い部分は、川上に用いられる「上」は、水を指す「kalm-」という発音に相似性があり、「ka」も「mi」も水を指す言葉であった可能性があります。
そう言えば、「川」も「kawa」と発音をします。
また、川下の「下」は、「sam-」から来る言語郡から派生しており、「島」や「霜」に繋がっているそうです。
心なしか、伊邪那岐命と伊邪那美命の国産みに近いイメージがあります。

冷静に考えると川上の水源は山奥深くにあり、人が立ち入ることができない秘境です。
そこに目に見えない神秘的な存在がいるはずと、太古の人々が想像するのは自然なことです。

私はここで、この「kami」という語は主に淡水を指していることに気づきました。
淡水の神様で思いつくのは「瀬織津姫命」です。
水源や滝、川や泉にお祀りされている神様の代表格が瀬織津姫命様です。

人間は海水では生活できないので、文明は大抵淡水のある場所に発展してきました。
古来より日本人もそうで、私は「神の原型が瀬織津姫命にあるのではないか?」と大胆な推論を立ててみることにしました。

余談ですが、日月神示では、神を「火水」と表記していますが、これは日月神様の洒落た言い回しであると思います。
「火」の「ka」は音読みなので中国由来の読み方であり、「神」の「ka」はむしろ当てるなら「日」の方が相応しいと思います。
「日」は「五日」などと使うように、古来から「ka」という使い方をされてきました。
「神」を「日水」とするなら、伊勢神宮に祀られている天照大御神の荒御魂が瀬織津姫命だとされているイメージとも一致しますが、あくまで妄想です。

さらに妄想を広げると、邪馬台国を治めた「卑弥呼」の「呼」が感嘆詞でないとするなら、「比咩子」「日實子」であり、「日水子」の当て字もできると面白いなと思いました。
なお、「日ミ子」は「ヒミコ」「カミコ」であり、神格を取ると「巫女(みこ)」となる、と空想に近い推論もできるかもしれません。
ここら辺は、言語学的な検証をしたらめちゃくちゃな話になるかもしれませんがw

「クマ=カミ」がいると思われる最有力な場所は、水源がある山頂付近であり、太古の人々は山に神が宿ると考えていただけに、恵みを産む淡水の源に神を想像したのかもしれません。
かつて、大和朝廷を悩ませた土蜘蛛は、地方部族が信仰する巫女であったとも言われており、卑弥呼も山奥に住んでいたことから、「巫女=比咩」と山奥にいる女神の親和性は高かったのかもしれません。

話を戻すと、日が昇るのは山の頂上からであり、山の奥にある水源とも遠からず連想できます。
またここで、「太陽」と「水源」の相関を見ることは可能です。

ゆえに、私は「神の原始イメージは瀬織津姫命にこそある」と学閥・神道界無視の持論を掲げ、本記事を締めようと思います。

瀬織津姫様しか勝たん‼︎

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「ゼロ」に戻る

楽太郎です。

ここ数日は、過去最大の浄化作用で身動きが取れません。
何も考えず、横になっていても身体が硬直し、頭が割れそうになります。思考と感情の暴走が激しく、良い部分も悪い部分も表に出てきます。
具合の悪さでは、邪気や悪霊の憑依とは比較になりません。

心当たりがあるとすれば、時期的なエネルギーの大きな切り替わりです。
瀬織津姫様のご神璽をお祀りし、氏神神社で出直しを祈願し、数日後に満月と春分の日を控えています。
冷静に考えて、これだけ霊的変容のトリガーがあって何もないはずがありません。
もう今は、とにかくジッとしているしかない時間なのでしょう。

神様からエネルギーが降りてくる時ほど具合悪くなるのですが、私のエネルギー循環が滞りがちなので詰まってしまうと余計にしんどくなるのだと思います。
エネルギー循環が滞る大きな要因は、精神的なバランスの悪さです。
これまで本心を出して生きることがほとんどできませんでした。直感や感覚に従うほど集団から弾かれるので、思考によって行動を抑制してきました。

情動をコントロールするために感覚・感情をそのまま言語化し、客観可能な状態にします。
その考えを別の考えで打ち消し、感覚・感情のエネルギーを遮断することで意識をコントロールするのです。
そうすることで情動のバランスを取ってきたため、純粋なエネルギーの取り出しがうまくいかないのです。

春分を前に、スピリチュアル界隈では「カルマの解消」という話が頻繁にされています。
この時期を境に、今世でのカルマの精算や来世の計画が改めて問われるそうです。
今は、その切り替わりを前に自身のカルマを見つめ直す調整期間ということです。

確かに、今はこれまで私自身が自分自身に負わせてきた「カルマ」と向き合わされている感じがします。
とにかくこの胸の痛みは、魂に負った生傷の痛みそのものです。
魂が暴走しているのか、記憶がどんどん呼び覚まされ、一・二度行った友達の家の間取りすら今見てきたかのように思い出せてしまいます。

今まで意識しても思い出せなかった記憶が走馬灯のように蘇ってくるのは、これが魂に刷り込まれたものだからだと思います。
自分の魂と向き合うことは、今までの人生で受けた心の傷の痛みをまざまざと感じることです。
その苦しみを避けるために、わざと前向きなフリをしたり、ガムシャラに目の前のことに打ち込んだり、別のものに問題をすり替えて生きていました。
今、そうした誤魔化しをやめて、自分の魂の傷と向き合うことが、私に課したカルマの解消なのだと思います。

ここ数年は、半生のカルマを精算するための期間だったのかもしれません。

如何わしいものから離れ、懺悔し反省し改心し、どうしようもなく孤立しながら、どんどん手放しを続けてきました。
そして今、「もっといらないものはあるよね」と、神様からさらに手放しを促されています。
自分の積み上げてきた実績、続けてきた習慣、考え方の癖、価値観、今やっていること、未来への理想、それも「一旦は捨ててみようよ」と。

ただ自分がやりたいことや、やらなくてはいけないとか、こだわっていたものを一度は捨てる前提に立ってみると、なぜか身体の強張りが抜けていくのを感じます。
これから世がリセットされ、新しい時代になるとしたら、残したいものだけが残るとは限りません。
おおよそのものが姿を消すのだとしたら、いっそのこと全て置いてゼロに立ち返ってみると、置いてきたものは自然に消えるに任せても構わないはずです。

そして自分が持つもの全てを捨て、自分の身体すら捨てる覚悟に至った時、魂は本来の自由な姿に戻ることができるのだと思います。
何にも囚われずこだわりもない素直な心は、自然や神の囁きを聞く明鏡止水の境地に至れるでしょう。

おそらく、この春分でエネルギーがさらにガラッと変わり、満月から続く浄化の作用は最大局面に達するはずです。
春分を機に、人世のエネルギーはほぼ焦土に近い形になるのだと思います。
そのタイミングが転換点となり、人世と相剋していた神代のエネルギーは臨界点を超えるでしょう。

その切り替わりを前にして、多くの人が人生最大の転換点を迎えるはずです。
そして、私はそれを無意識に理解しているからこそ、今の好転反応を受け入れているのかもしれません。

この状況を「リセット」と表現しましたが、厳密にはもっと根本的な転換だと思います。
ゲーム機で喩えるなら、前にやっていたゲームソフトを終了しROMを入れ替えるに等しいはずです。

前にプレイしていたゲームは、バグ含みのハードモードのクソゲーで、次にやるのはゲーム機を買った時に付属してきたゲームです。
ただ、それがあまりに味気なく面白さがわからなかったので、みんながやってるゲームを流行りだからという理由で、無理してやっていたわけです。

このゲーム機のキラータイトルこそ実は付属のゲームソフトで、私たちはこの味気なくも奥深いゲームをやるためにゲーム機を購入したのです。
そこに気づいてROMを差し替える時、新しい人生が始まるのだと思います。
前のゲームからは何のデータの引き継ぎもないけれど、プレイヤーの頭脳と技術だけで進められるゲームです。

このターニングポイントで、やはり持つものや残したいものが多い人ほど切り替えは難しいはずです。
幸か不幸か、私はこのタイミングで全てがゼロになったため、人々がゼロになる時にはすでに加算を始めているでしょう。

私は人間として、ありえないほどズタズタになりましたが、これを肯定的に考えれば神様が用意して下さったチャンスであるとも思えます。
人々が沈んでいく時に、私だけは明るい未来を見据えていけるのですから、これ以上の幸運は稀かもしれません。

だいぶ以前から、私はこの時のために生まれてきたのだという実感はあります。
私は天界で相当やらかした魂らしく、おそらく神様とお約束をして人間界に転生してきました。
今お祀りさせて頂いている瀬織津姫様は、前世でご縁のあった神様ではないかと思っています。

あるスピリチュアリストの方が仰っていたのですが、人間が修行して五次元レベルまで魂を高めることができれば、来世は人間の守護神レベルには到達できるそうです。
その世界に瀬織津姫様がおられるのだとしたら、がんばれば来世で瀬織津姫様にお会いするのも不可能ではないでしょう。

このまま野垂れ死ぬとしたら、神様との約束を反故にしますし、「何しに地上へ行ったのか」と言われます。
何とか、ここで踏ん張らないといけません。
私は、瀬織津姫様に恥をかかせるわけにはいかないのです。

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神代への渡り方

楽太郎です。

先日、崇敬する氏神神社に「神様の絵を描いて生業としていきます」という誓願を立てて来ました。
そこで御神前にて「大祓詞」を奏上し、絵馬を書いて奉納しました。

私が稼ぎ口を失ったのは悪いことのように思えますが、ある意味タイミングが良かった、とも考えられるかもしれません。
時代が切り替わる今、これまでのやり方を続けることが許されなくなってきているからです。

多くの人々はまだ気づいていませんが、世界のルールはもうすでに変り始めています。
世界的に唯物主義、拝金主義の延長では何も解決できなくなりつつあります。
ゆえに、これまでのやり方を暗黙に続けていれば、いずれ「ルール違反」になってしまうでしょう。

その審判は「神様」です。
これからの世界を動かすのは、悪魔に唆された人間などではなく、元の座に戻られた神様であることを、私たちは目にするはずです。

そのタイミングで稼ぎ口を失ったことは、すなわち神様から「もうそろそろ撤退しなさい」と促されたとも言えます。
ただ現実的には、人間として努力できる限りをしても通用しないことを悟ってしまった、とも言えます。

それは安易に世の中のせいにできるのですが、単に私のやり方や才能では大衆の心を掴むようなものを作れなかったということでしょう。
その悔しさはありますし、時間が許すならばまだ挑戦したい気持ちもあります。
しかし、どうやらもう時間切れのようです。

神様は言っておられるのだと思います。
「そろそろ遊びはやめて、本気で仕事を始めなさい」と。

しかし主たる稼ぎ口を失った以上、どうやってお金を得ればいいのか、ビジョンは全く見えません。
「楽太郎」としての絵に需要があるとは、今のところ思えません。

私の評判は自分からは測りかねるので、この先がどれだけ希望があるかも見えません。
ただ今の世界が終わるからと言って、人間としての望みが全て絶たれるわけではありません。
時代が変わるだけなのですから、その時代に合った幸せを見つければいいだけでしょう。


ある時、途方に暮れながら街を歩いていました。
「これから何を目的にして生きていこうか」と悩んでいた私は、あることに気づきました。

人々は、これまで社会や企業が用意したものを人生の目的として受け入れてきました。
その信仰心が剥がれ、真の目的がここにはないと人々が悟る時、誰もが自分の内に答えを探すしかなくなるでしょう。

そこで私が思ったのは、自分の内にある目的は外に結果として求めることではなく、自分の内面にあるプロセスこそ目的とするべきではないか、と。

例えば、私たちが荒野に一人ポツンと置き去りにされたとします。

荒野に一人、地平線をどれだけ辿っても誰も助けてくれそうにありません。
その絶望的な状況の中で、この荒野で生き延びようとするのはナンセンスだと、諦めたくなるかもしれません。
ただ、その理不尽なほど致命的な状況でも、自分が生きようとする限り助かる可能性はあります。

その時、行動の動機となるのは死に対する恐怖に限らず、自分の生命力や生への渇望もあるはずです。
この生存本能は言語や道理を超え、生命を持った存在としての底力そのものです。
生命体は、そのエネルギーを使う権限を最大限に有した存在であり、故にどれだけ理不尽であろうとも命は存在することを目的とするはずです。

現代人は、この生命力を削がれてしまいました。
好きな人が身近にいないと死んでしまうとか、好きなものが食べられないと生きる価値がないとか、わりと人は平気で言います。
それこそ、ゴミを食べてでも生き延びるとか、生き物を捕まえて食べるとか、そういうことをしてまで生きたいと思う人はあまりいないかもしれません。

これまでは恵まれた環境にあったからこそ、生命体としての本能を発揮せずとも生きてこれました。
生命体は、この本能を発揮する時ほど本来の力を発揮します。生命体にとって、本能を呼び覚ますことそれ自体が喜びであり、快楽を伴うはずです。

野生の動物たちを見て、いつも食べ物を探して大変そうだなとか、寒くて不安そうだとか心配ではないのかとか、ぬくぬくと生きている側の人間は思うでしょう。
しかし、食べ物がなくて鬱病になった動物や、食べ物を探すことに嫌気が差して自殺するような動物を見たことがありません。
つまり、あらゆる生物の中で人間だけが生きていくことに不安を覚えているのです。

生きる目的は、不幸にならないために生きることにあるのではなく、自分の生きることそのものに見出すべきだと思います。
例え荒野に一人置かれて、そこで自由に生きていける瞬間に喜びを見出すような、自分の内側から湧き上がる力を頼りに生きていけばいいのかもしれません。

自由とは、与えられた条件でしか得られないものです。

無限に選択肢があるならば、どこから手をつけていいかわからず、手をつけてもすぐに目移りしてしまうはずです。
自分に限定づけられた条件があり、不自由だからこそ持てるものを好きに活用していくことができます。
これが「自由」です。

生命体、そして人間も、この自由を使い不自由ながら幸福になることができます。
幸福になるためのあらゆる諸条件は、自由そのものの中にあります。
自由の中にこそ目的は見出されるべきであり、その目的は幸福に至るプロセスにこそ宿っているのです。

それは「命を楽しむこと」です。
荒野で喉が渇いたならば、水を飲む方法を探し、その探究を楽しむことができます。
その探究には才能やアイデアが必要ですが、仮にその材料が揃っていない状態で荒野に捨てられれば、「どうやって死のうか」と考え始めるのも無理はないでしょう。

おそらくこれからの時代は、ここで自分の内側にある力を引き出し、発想を行動に移せる人間だけが生きていける、あるいは活躍していける世になるはずです。

私は、それが新しい時代のルールであり、神様の意図なされた世界なのではないかと思っています。
どれだけ絶望的な状況でも生きようと足掻き、むしろその足掻きを楽しむような人。
そういった人々が魂の曇る世界を打ち壊し、新しい時代に風穴を開けていくのだと思います。


今の世を「タイタニック」だと表現した人がいました。
確かに、座礁したタイタニックが沈没するのは目に見えているので、各自が持ち寄った救命ボートで各自が脱出すれば、皆が助かります。

しかし「世界一の豪華客船が沈むはずがない」とか「皆まだ船内にいるから大丈夫」とか、「救命ボートに乗ったところでどうなる」と思い、行動しない人たちがいます。
ここで言う「救い」とは、救命ボートに乗って救助船に助けられたり、陸地に上がらなければ助からないことを意味するのではありません。
自ら救命ボートを自分の手で出したこと自体、その決意そのものが救済を意味するのではないかと私は思います。

結局、今までのやり方を改められる、改めようと思うからこそ新しい時代に適応することができます。
その新しい時代はこれまでの延長にはないので、自分で新しい発想をしていかなければならなくなります。

その思考をアウトソーシングしてきた人々は、新しい時代になっても何をしていいのかわからないはずです。
そこで、どうしても「目的を持つ人」と「目的を持たない人」がはっきり分かれ、目的を持つ人は自分の生そのものに目的があるからこそ、どんな難局でも強く生きていけるはずです。

神様が人間と共にある時代、「神代」は決して神々が人間を審査して選り分けるのではなく、人間が自ら志願して条件を整えるからこそ渡っていける世界なのだと思います。
タイタニックが沈没しきる前に、自ら運命を決めてしまった人は多いでしょう。
しかし「神代」を選んだ人は、これから適応していけばいいだけなので、あとは淡々と準備を進めるべきです。

そのプロセスは単に、「楽しめばいい」のです。
自分に与えられた条件の中で、持てる自由を最大限に活用して挑戦していく、その挑戦こそがエキサイティングなものであり、喜びに満ちた本来の生き方なのではないでしょうか。

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「祓戸大神」試作漫画

楽太郎です。

「祓戸四神」でベタベタの漫画設定ができてしまったのですが、これは神様から何らかの意図があるような気がしました。

私としては自分で考えるよりも洗練されたアイデアではないと思う(失礼)のですが、これから身を立てる上で何かヒントになるのかな、と考えてひとまず描いてみることにしました。





「祓戸大神のお仕事」風景です。

祓戸の神様たちが、なぜかバレーボールのようなチームワークで罪穢れを祓うというシチュエーションが思い浮かびました。

セオリツ姫がまず「ケガレ」を持ち出して、ハヤアキツ姫にサーブを打ちます。
ハヤアキツ姫は、セオリツ姫から受けたケガレをイブキド主にトスします。
イブキド主は風を送って、ケガレをハヤサスラ姫に流します。
ハヤサスラ姫は、送られたケガレをアタックで仕留め、黄泉の穴から根の国に送ります。

祓戸大神が漫画になったら、間違いなく「祓い」のシーンはこうなるだろうな、という完全なる妄想です。

漫画として面白いのかはさておき、なぜかビジュアル化せずにはいられませんでした。
私が設定を一から考えるのであれば、もう少し面白そうな漫画にすることができる(失礼)のですが、あまりこういう事は言わないようにしたいと思います。

先日描いた「カムナオビ神」の浮世絵風イラストに合わせましたが、この作風は作画コストが低いので疲れなくていいです(笑)

感想などありましたらお待ちしております。

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神様からの「恵み」

楽太郎です。

人生が折り返した、という実感があります。
その瞬間は、おそらく早池峯神社に参拝した日にあります。瀬織津姫様をきちんとお祀りするようになってから、気持ちに芯が通った感じがします。

その変化を如実に感じると同時に、もはや自分が思っていたような存在ではなくなったことも感じます。
頭で考えて習慣を変えたり、気まぐれでは絶対に起こり得ない心の変化です。
胸の奥底にある熱源は、何でもできた、あの若い頃の感覚を思い出させてくれました。

もし、この熱源を「魂」と呼ぶのなら、目には見えない「霊魂」は存在するのでしょう。
自分の真実の姿が霊魂であるとしたら、その延長には神が存在するはずです。


神様は、目には見えません。
写真に写ったり、映像に入る不可思議な現象はあれど、神様が何かに映り込むことはほぼありません。
私には神様が人間の心にだけ現れ、面にお出にならないことは意図的なものではないかと思います。

神様は目には見えない存在ですが、感覚を研ぎ澄ませば感じることは可能です。
ただその感覚はあくまで個人的なもので、客観的に証明することができないからこそ、「疑念」を乗り越えなければ信じることができません。

その「疑念」こそが一つの試練や、修行の過程だとしたらどうでしょうか。

神を信じるには、人間同士が持つ唯物論的な価値観を否定し、目に見えないものを大切にし、人の言葉よりも自分の思想を柱にしていかなくてはなりません。
それは現代を生きる人間にとって、合理的ではありません。
神などおらずお天道様は見ておらず、単純に目に見えるお金と力だけを信じていれば、大して難しく考えなくても楽に生きてこれたからです。

ただ、その考えでは人間は本質的に成長しないのです。
今、世に蔓延る不正や癒着を見れば、そこに人間の未熟さが存在してはいないでしょうか。
「自分さえ良ければいい」という不誠実さが、嘘と虚飾を広げ、その考えに全く無関係な人までも巻き込んで混沌を生み出しているように思えてなりません。

「目に見えないものを信じるのは合理的ではない」と思うこと自体が、この世界の形に合っていないとしたらどうでしょうか。
目に見えないものを知覚する能力を、「神などいない」という考えで置き換えるならば、人間の感覚そのものを否定することにならないでしょうか。

今、世の中で起きている災難の原因はここにあり、「便利さ」というテクノロジーを選び取った人間が、人間本来の内面性を蔑ろにした結果「人間らしさ」を失い、人々が内面的な問題で苦しんでいるように思えるのです。

テクノロジーの便利さがあれば、確かに苦労も減りますし、楽に生きられます。
しかし、だからと言って「楽」が即ち「幸福」とは限らず、「楽」に生きるためにあったお金や地位などの条件は、常に揺れ動く脆いものです。
そう言ったすぐに移りゆくものを信じ、目に見える確かさだけを追い求めた結果、今の混沌とした世では余計に確かさは見えてこないはずです。

もし、今の混乱自体が人々にとって、一人ひとりの試練を意味するとしたらどうでしょうか。
これまで目に見えるものだけを信じてきたからこそ、目に見えるものだけでは現実が成り立たなくなり、その崩壊を見て右往左往します。
その動揺の解決が、「目に見えないものの存在を知る」ことなのだとしたら、人々は一つ学びを得るでしょう。

人間にとってその学びは、一つの災難にしか見えないかもしれません。
しかし、その学びを得て成長した人間は、目で見えるものだけの世界」を捨て、「目で見えないもの」と「目に見えるもの」が混在する新しい世界を発見するはずです。
それこそが世界の真実であり、それゆえ人間は本来の世界観を取り戻すことができるのだと思います。

そのプロセスにおいて、人間は学び終えるまで学びの価値は理解できないはずです。
そして学んだと言えど、必ずしも学びの価値の大きさを理解したとは言えないかもしれません。
しかし、その知恵を得たことで人間はさらに自由な精神を手に入れ、より多様な生き方を選択していけるようになるでしょう。

「知恵」とは情報や知識を超えた、最もシンプルで応用の効く能力です。
テクノロジーがあれば、例えば自分で火を起こしたり暖を取る技術を身につける必要がありません。
しかし知恵があれば、世の中がどれだけ変わっても自分の手で欲しいものを作り出すことができるようになります。
この能力こそが真の「自由」であり、豊かさとも言えるのではないでしょうか。

決して豊かさとは資産にあるのではなく、知恵があるからこそ自由であり、いかなる状況でも生きていける自信が安心となり、その心の平穏は幸福に繋がるのだと思います。
この豊かさを手に入れる手段こそ「知恵」であり、知恵こそが本当の恵みであると言えます。

神様がそれを授けて下さる存在なのだとしたら、神様がお与えになられる試練や学びの機会は、人間には辛くとも素直に受け止め、学ぶに越したことはありません。
目に見えないものを信じず、成長する意志のない者ほど学びから遠ざかり、真の自由や豊かさを手にすることはできないでしょう。

人間は、嫌なことやうまくいかないことがあれば、ただついていないだけだと思いがちですが、その不運の裏には学びの機会があり、神様のお導きがあります。
そこで問題ときちんと向き合い、知恵を得て乗り越えるからこそ、次に同じ問題と出会って苦しむことがありません。
その成長は人間の心を豊かにし、自然と幸せにしてくれるはずです。

だから、今の世で起きている事象に一喜一憂することなく、そこで起きている現象の原因や意味を考え、「何を学ぶか」を考えてみることが大切です。
決して目の前のことに振り回されず、そこで得た気づきを実践し現実に反映させていけば、世の中に芯が通っていくでしょう。

そのためには、まず「目に見えるもの」だけの世界を疑い、「目に見えない世界」を想像することです。
この混沌とした世の中を生きるのも、良くしていくのも実際は難しいことではないのかもしれません。
自分の生き方を、世の中の仕組みをシンプルにするだけで、あらゆる問題は一気に解決していくと私は思います。

その気づきや知恵こそ、神様から頂く一番の恵みなのかもしれません。

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「神絵」への道

楽太郎です。

先日、私の本業の方で完全に行き詰まり、これは神様から撤退を促されているのだろうな、と思い意気消沈していました。

それに加え、神様から降りてくるメッセージだと「土の時代に考えた物事は、基本的にコンセプトを変えなければならなくなる」そうです。
だから今までやっていること以上に、これから始めることで土の時代的発想を持ち越せば、いずれ立ち行かなくなるからやるだけ無駄になる、ということらしいです。

これは冷静に考えればそうなんですが、未来がもっとゆるりとした感じに思っていただけに、かなりシビアな決断が迫られているんだな、と感じました。

とりあえず、本業の方では完全に稼ぎが封じられた形になってしまったので、画業で稼ぐには神様の手が入っている「楽太郎」アカウントの方が比較的有望です。

イラストでの稼業は、画像生成AIの登場以降やめていました。
クオリティと価格と生産スピードで生成AIには敵わず、しかもユーザーや市場の肯定感が思っている以上に大きいのです。
この業界でまともに立ち回る気力もなくなり、漫画に軸足を移していましたが、漫画は人が思うより見向きされないジャンルです。

どの業界も人気を出すための黄金律というのがあって、私が下手に天邪鬼っぷりを出すからこそ、全く成果に結びつかない状態が続いていました。
「やりたいこと」「やりたくないこと」で仕事を決めていたというより、自分の信念とかプライドでやるべきではないことを避けていたら貧乏くじばっかり引いていた、という感じです。

5年前は落書きをちょっと描いただけで渡っていける業界だったのに、どうしてこんな世の中になってしまったのかと嘆いたものです。
ただ、いくら悲観しても現実を否定することはできないので、やり方を変えていくしかありません。

幸い、私には神様からインスピレーションが降りてくるので、まだ恵まれている方かもしれません。




先日、ラフを描いた「カムナオビ神」のイラストを、浮世絵風のイラストにしてみました。

この時代に「浮世絵風」なだけで目新しいイラストにはなりませんが、「浮世絵」の良さはベタ塗りでも味わいがあることです。

元々、浮世絵は版画です。
わずか数色の染料で刷るので、油彩画ほど凝った表現はできません。
しかし、色合いが単調だからこそ、工程や画材を省くことが可能です。

このカムナオビ神のイラストは、テクスチャや色合いの調整に掛かった時間を除けば、1時間も掛かっていません。
つまり、このレベルのクオリティなら、かなりの量産が可能だということです。

ただ、このまま「他の神様を描こう」となっても、このイラストが商品価値を持つかは別問題です。
付加価値をつけるならば、私の作家性におけるネームバリューは必要ですし、まず「神様のイラスト」にコンテンツとしての求心力がなければいけません。

果たして、この作風でも良いのか、という問題もあります。吟味しなければならない課題はとても多いです。

ただ、この神様のイラストを商売にして行こうとするなら、版画や実物の工芸品として流通させた方が良いのではないか、と考えています。
今は画像生成AIがありますから、私の作風が取り込まれた時点でデジタル環境では通用しなくなります。

版画で考えるならば、版木を所有して流通レートの主導権を握るような手札は有効だと思います。
費用対効果を狙うなら大量に刷れば良いだけですし、レアリティを高めたいなら生産数を絞ればいいでしょう。
ネガティブな動機に見えるかもしれませんが、実は一点物の肉筆画より大量印刷して流通レートを操作できる版画は、レアリティの面でもマーケティングの面においても非常にクレバーな戦略が取れるものです。

江戸時代の絵師が歌舞伎役者や風景や鳥獣を描いたように、私は「神様」を描いていこうと考えています。

江戸時代の浮世絵は、絵師、彫師、摺師などが分担してチームワークで制作していました。
その会社か工場形式のやり方が次の時代で可能なのかはまだわかりません。
ただ、彫師がいなければ生産できないという状況は私が困ります。

それなので、木彫りなど特殊技能を要さずに版画を作る方法を考えています。
比較的容易なのは「シルクスクリーン」です。
ただ、もう少し自分のやり方を突き詰め、技術的に試行錯誤をしていく必要はあります。

このカムナオビ神のイラストは、その完成イメージも兼ねています。
理想を言えば、和紙の製法もこだわり染料も日本に産地のある素材を使っていきたいと思いますが、それも当面は先の話です。

以前、エネルギーワークを使って絵に波動を込められないか、という話をしていましたが、まだ本格的に修行すら始めていません。
神様の絵ですから、何らかの形で功徳のある作品にしたいところですが、どのみち遠い話です。

それよりまず、私が「楽太郎」という絵師として認知されていくことが先決です。
私はわりと多産な方なので、毎日何かしら上げていくことは可能ですが、頭ごなしにやったところで人気が出るとは限りません。

もう少し慎重に考えながら、このアイデアを育てて行こうと思います。

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「過去」を捨てる勇気

楽太郎です。

瀬織津姫様のご神璽を受領しに、岩手県紫波郡矢巾町の早池峯神社まで参拝して来ました。
一日通して歩きっぱなしだったので、筋肉痛でほぼ動けません。
その代わり、精神的にはかなり安定しています。

今、稼ぎがにっちもさっちも行かない状況で、これからどうしようかという時期なのですが、不思議と何とかなる感じがしています。
「いい歳して何してるの」と他の人から思うような状況なのは承知なのですが、周りの方のほうが焦りや心配を感じるのではないかというくらい、私としては何も感じません。

これからどうするのか、ということを考えるには「世の中はこうなっていく」という予測が、まず前提になければなりません。

これまでの社会は、とりあえず何がなんでも金を稼ぐべし、という雰囲気でやってきました。
ただ、そもそも「お金」というものを手にしたとて、自分が富や恵みを得られるとは限らず、それに固執しても幸せに近づくとは限らないことに、人々は気づきつつあります。

おそらく、十中八九これから景気回復が起こることはないでしょう。
日本の不況は、日本が単体で引き起こしているものではないからです。その元栓を握っている海外勢力が変わらない限り、日本の状況は悪くなる一方です。

物価高、人手不足、労働意欲の低下に歯止めは掛からず、経済は落ちるところまで行くはずです。
ただでさえ生産や物流が滞り始めているのに、ここで大災害が発生すれば、どうなるかは誰しも予測がつくでしょう。

私も少し前まではそこまでならないだろう、とタカを括ってましたし、神様もさすがにそこまでされるとは思えませんでした。
しかし、この数週間の流れを見ていると、やはり悪い予感は確実に現実味を増していることを実感します。

神様から受けるアイデアの内容や、これからの示唆を俯瞰して捉えると、これまでの時代のやり方よりも新しい時代に合わせた手段を取るように促されているように感じます。

新しい時代、神様の支配する世界においては、これまで続けてきたことや好きなこともそっくり次の時代に持っていけるものだと思っていました。
神様の願いを汲み上げ、自分で企画して始めたこともありますから、それくらいは続けられるものだと安易に考えていました。
けれど、どうやらそうでもないらしいのです。

私にいくつかある才能や、これまで伸ばしてきたスキルは、必ずしも不要になるわけではないと思います。
ただ、これからを生きていくに当たり、神様の意図する方向で人を助ける仕事を確立し、まず経済的な基盤を作ることを先にやって欲しいようです。

この「楽太郎」アカウントを盛り上げ、画業を主軸にして行きなさい、と神様が促しておられるとしか思えません。

それは、これまで数年かけて積み上げてきたキャリアや、少し前までに命がけで進めていたプロジェクトをそっくり投げ出すことを意味します。
イラストレーターとしては、イラストはここ数年ほぼ投げていた分野でもあります。
現時点で稼ぎにほぼ結びつかず、どうせ貫いても先細るのは目に見えているのですが、自分が信念を持ってやって来たことですから簡単に諦めたくない気持ちはあります。

「世の中はこれからこうなるから、こうした方がいいよ」とは、神様から降りてくるアイデアであり、それを受けると自ずと意欲も高まります。
しかし、人間としての意識のレベルでは、自分で一度決めたことは曲げたくないですし、不確定な未来を見据えるなら尚のことです。

しかし、「信念」も悪く出れば「頑固」になってしまいます。

徹頭徹尾に筋を通したい、一度始めたことは根気よくやり遠す、というのは良い部分かもしれませんが、それが悪影響を及ぼすようになれば律儀さは逆に欠点になります。
良い面も、状況によっては悪く出ることもあります。
だから私に必要なのは、発想の転換なのです。

「今までやって来たこと」が「これからも出来る」と思うのは、時代が続いている場合にのみ限ります。

その時代の節目が、転換と呼ぶに相応しい激動期となるのであれば、どれだけやってきたかに関係なく見直しを迫られます。
それは私に限った話ではなく、おそらくこの国に生きる全ての人々に降りかかることでしょう。

逆に言えば、「皆が変わらなくてはいけない時期は間違いなく来るのだから、今のうちに素早く転換しておいた方が賢い」とも言えます。

「この前やっていたアレはどうなった」と言えるのは、時代の煽りも受けない人だからこそ言えることで、おそらくそう言い続けられる人はほぼいなくなるでしょう。
誰も人の過去を責められないのですから、自分だけが一貫性にこだわる必要もないのです。

私に降りてくるインスピレーションは意識のレベルで納得しがたいものだとしても、それを神様が私のために降ろして下さっているとすれば、神の恩恵を拒むのと同じことでしょう。
このままエゴを押し通し、突き進んでもいずれ絶望の縁に立つことになります。
しかしここで神様の忠告を大人しく聞いておけば、希望を繋げながら生きていくことはできるかもしれません。

その「希望」は神様が与えて下さる恵みそのものであり、それを授かる人間はありがたがるのが当然です。
ただし、神様としては私のためを思ってのアドバイスを、意図して受け取らないのであれば自由だ、と考えておられるに違いありません。

その選択の良し悪しが私はすでに理解しているからこそ、「新しい時代への変容」のための障害が自分にあることもわかります。
そこにあるのは「屁理屈つきの感情」だけだからこそ、執着を手放せば解決します。
しかし、自分が積み上げてきたプライドを捨てる覚悟は、かなりの葛藤です。

ただし神様はその選択のために、あくまで優先順位をつけて仕事をして欲しい、と仰られているのであって、「やりたいことを全て捨てよ」と仰りたいわけではないと思います。
神様は「新しい時代に続けられそうなこと」だから私にその選択をさせたがっておられるのでしょう。
私が葛藤を終えれば自動的に解決する話なので、神様は静観して待っておられると思います。

神様はどれだけ人間に目をかけていても、加護やお導きをいくら与えたとしても、決して甘やかすことはありません。
人間から見ればうまくいかない、ついていないと思うようなことも、神様からすれば遍く正しいお導きなのでしょう。

私たちは、何の障害もなくトントン拍子でうまくいくことを願い、それを助けてくれるのが神様だと思いがちです。
しかし、人は魂の修行としてこの世界に生まれ、その形而上学的な世界においての幸福は、人間の考える「豊かさ」の中にあるとは限りません。

下手にうまくいくことばかりだと、人間は調子に乗ります。
神様からはどうかと思うことでも、人間は自らが豊かになればそれが正しいと思うでしょう。
それは自分の目から見えて成功にしか見えなくても、長い目で見たら不幸への伏線だったりします。

うまくいかないことは、人間にとって絶望的で不幸なことだと思います。
しかし、神様は正しい学びをするならば、その境遇を成功への伏線として用意なされます。
神様とは、小手先の幸福よりもっと本質的な幸福に導いて下さる存在なのかもしれません。

人間にとって、それは納得のいかないことばかりのはずです。
人間は目に見えて手元に何かがないと、安心できないものだからです。
けれども、「手に入れたから不幸になったもの」「持たないから良かったもの」は、すぐにわかることはありません。

私の半生もこの数年の出来事も、ずっと「持たないから不幸だ」と思っていましたが、いずれ「持たなかったから幸せになれた」と思える日が来るのかもしれません。

神様は、人間よりもはるかに長いスパンで物事を見ておられるので、人が目の前の事象に一喜一憂するのも修行のうちだと考えておられるのでしょう。
その過程で手に入れたもの、失ったものに人間は心を囚われますが、そこから自らを解放して進んでいくことこそ、人が成長するということなのだと思います。

「過去を捨てる」ことは、自分のプライドや自尊心の支えにしてきた物事への手放しを意味します。
それは、誰にとっても簡単なことではありません。
自分の実績は惜しいですし、途中で投げ出すのも、投げ出したように見られるのも耐えがたいものです。

けれど、次の時代を生きるには少しでも荷物になるものは、今のうちに降ろしておいた方がいいのでしょう。
そして身軽になった分、新しい挑戦もしやすくなりますし、新しく手に入れたものを持つことも出来るようになります。
それは、未来をより良くしたいという想い以上に、神様を信じるからこそ出来る選択です。

もしかすると、すぐには決められなくて構わないのかもしれません。
ただ、神様は私の性格をご存知ですから、パッと割り切ってしまうのに時間が掛からないこともご存知のはずです。

このモヤモヤはすぐに取り払えるものではありませんが、もう喉の奥まで答えが上がって来ているのも感じています。

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瀬織津姫様をお迎えに

楽太郎です。

昨日3月1日、瀬織津姫様のご神璽を頂くために、岩手県紫波郡矢巾町の「早池峯神社」に参拝して来ました。

こちらの早池峯神社は、岩手の北上山地の最高峰、早池峰山の麓に五社存在します。
早池峰山自体が名峰でありながら霊山でもあり、早池峰神社は奈良時代に創祀されたと言われております。



仙台から高速バスに揺られ2時間半、盛岡駅に到着しました。

この日、朝から波長が乱れまくっていて、あまりの不調で「瀬織津姫様に来るなと言われているのでは」とすら思っていました。
あまりに精神的に不安定なため人の周波数と噛み合いやすく、余計にネガティブな気持ちになったりしました。

盛岡駅から東北本線で古舘駅まで15分ほど乗車し、そこから早池峯神社までだいたい片道5キロほど歩きます。
私は歩くのが慣れているので何てことはないと思っていたのですが、電車を降りてからも波長の乱れからグロッキーな状態でした。




早池峰山系の川がいくつもあり、どの河川も水量が豊富で驚きました。
これだけ水源が豊かだと、早池峰山の主祭神であられる瀬織津姫様はさぞかしご神気の強い神様なのだろうな、と思いました。

道すがら金毘羅様のお社がありましたので、「瀬織津姫様のお札を無事頂けますように」と祈願しました。

ただ、早池峯神社に近づくに従って、だんだん吐き気が酷くなってきました。
所々立ち止まり、神社まで3キロを切ったあたりから、倒れそうになるくらい朦朧とし始めました。

「瀬織津姫様にやはり拒まれているのでは…」
と思い、神社を前にして帰ろうかとすら思いました。

その時、空には自衛隊の飛行訓練の形跡か、龍雲のような雲が夥しく、それを見ると余計に眩暈がしました。
あまりに空から強い気を感じたので、これは邪気が抜けているか、エネルギー酔いのどちらかだと思いました。




こちらの写真は、参拝を終えて帰途につく直前に撮影しました。

あまりに朦朧としすぎていて、神社につく頃には半分意識がありませんでした。
手水鉢が清らかな湧き水で、それで禊いだら心身共にリフレッシュしました。

こちらの神社はそれほど大きくはなく、宮司さんは駐在していません。
拝殿の扉を開けると賽銭箱があり、授与品は無人で頒布している形になっています。

そこに目当ての「瀬織津姫大神神璽」がありました。
そのご神札を頂く前に、神前で「大祓詞」を奏上しました。他に参拝者が来られる気配はなかったので、かなり堂々と出来て良かったです。
瀬織津姫様の神社で大祓詞をお唱えすることができて、神様も喜ばれたのではないかと思います。




こちらが頂いた授与品一式です。
私は御朱印集めはしていないのですが、せっかくなので頂いて来ました。
瀬織津姫様はお祓いの得意な神様であられるので、「八方塞除守」はご利益ありそうだなと思い、頂くことにしました。

「早池峯神社神璽」は神棚の崇敬神社として、「瀬織津姫大神神璽」は私の宝物としてありがたく頂きました。
瀬織津姫命様の神名が記載されているご神璽は、私の調べでは早池峯神社、六甲比賣神社、佐久奈戸神社、小野神社くらいしかありません。
その中でも、早池峯神社のご神璽は見た瞬間に一目惚れしました。

本当は花巻市にある山麓の早池峰神社に参拝したかったのですが、徒歩で行くのは危険な上に冬季は道が封鎖されているようでした。
矢巾町の早池峯神社が最も行きやすい場所かな、と思って今回はこちらに決めました。

ただ矢巾町は、昔私が仕事で靭帯を切った思い出の地なので、地名を見た時にドキッとしました(笑)

さて、参拝も終わった頃にはいい時間になっており、「ここから帰るのか…」と途方に暮れました。
全体を通して15キロ以上歩くことになるのですが、まだ折り返しです。
途中、お昼ご飯も食べに行ったのでもう少し歩いています。
しかし、行きでお世話になった金毘羅様にもお礼参りをして帰らなくてはなりません。

フラフラ歩きながら帰途に着きましたが、不思議と神社を出てから肩の力が抜けたというか、「無」としか言いようのない気持ちになっていました。
まあ、ここから途方もない距離を帰るので無にもなるでしょうが、なぜか気持ちがすごく楽でした。

帰りのバスに乗る時には、すでに元気が戻っていて、全く波長がブレることがありませんでした。
たまに、こうして全ての邪気の干渉を受けない時はあるのですが、まさにエネルギーがカチッと噛み合っている感じがしました。

無事に帰宅して、足の裏がさすがに痛かったのですが、なぜか身体がずっと熱かったです。
疲れすぎて興奮しているのかな、と思いましたがエネルギーが満ちている感覚に近かったです。

瀬織津姫様のご神璽を手にしてから、とても波長が安定して強くなったような気がします。
どうやら、早池峯神社のご神璽を頂きに参ったのは間違いではなかったかもしれません。

ただ、毎年参拝するにしてもかなり歩かなくてはいけないので、そこは考えるべきかもしれません(笑)



さっき、私が感じる瀬織津姫様の脳内イメージをイラストにしてみました。
普段描いているアニメ風のテイストとは全然違いますねw

ザ・清楚という感じの、お美しい女神様ではないかと感じています。
黒髪で色白のイメージなのですが、なぜか和服を着ていらっしゃる感じはしません。
かと言って、ワンピースを着ておられることもないと思いますが…。

神様の世界は全く存じ上げませんし、そもそも人の形をしておられる気もしないのですが、なぜかこのような印象の神様です。
珍しくリアルタッチの女性を描きました(笑)

ちなみに、なぜか早池峯神社で感じた瀬織津姫様は、巫女装束のお婆様という印象でした。
あくまで雰囲気です。ただ、冷静に考えると女神様がすべからく若い美女であるはずもなく、どこまで自分の偏見なのだろうな…と思いますw

とりあえず、瀬織津姫様のお札に毎日祝詞を上げて手厚くお祀りしていきたいと思います。

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