楽太郎です。
世の中が、ますます騒然としてきました。
2025年は色々あると噂されてきましたが、一部のインフルエンサーの方はすでに「再生が始まっている」と仰っています。
その真偽はさておき、世はまだ崩壊期に差し掛かったばかりで、見た限りでは崩壊しきるまでだいぶかかるように思えます。
ある一つの大企業が壊れ切るのでも、2025年以内に納まるとは言えないかもしれません。
確かに新しい芽は芽吹きつつあるかもしれませんが、それを踏み荒らす環境は何一つ変わっていません。
世の中は、混沌としてきてるだけで1ミリも良くなってはいないのが実感です。
世界中の戦争も、依然と続いています。
ウクライナ侵攻に関して、私は静観しています。
あれはDSとロシアの正義の戦いだと仰る方もいます。
しかし、あの戦争はウクライナという小国がいかにNATOを後ろ盾にしようと、ロシアが脅威を感じて侵攻を開始する理由にはなりません。
ロシアが戦争をしたくなければ戦線を撤退し、現在の掌握地域を交渉材料にして和平を結ぶことは容易なはずです。
何故、国家が崩壊寸前になっても戦争を続けなければならないのか。私には、「戦争をすること」自体が目的のように思えてなりません。
転じてウクライナ軍は、西側諸国から資金援助や武器供与を受けつつ、新兵器の開発を進めています。
私は、「新しい戦争形態の確立」というのがこの戦争のメインテーマなのではないかと考えています。
アメリカ大統領にトランプ氏が返り咲き、アメリカ国内も騒然として来ました。
ロサンゼルスの山火事や飛行機の衝突事故、あくまで私の直感にすぎないのですが、「よくこれほど堂々と証拠隠滅や暗殺ができるな」と思います。
テックバブルは、全く衰えを見せません。
トランプ大統領就任時に、背後にはマグニフィセント7の壮々たる面々が並んでいました。
トランプ大統領は、どう見てもDSの息のかかった大富豪たちと、米国のための取引をしたのではないでしょうか。
DSには「軍事産業系」と「金融系」「テック系」「医療・製薬系」の、主に4つの流派があるように見えます。
軍事産業はしばらく戦争が続く以上は安泰でしょう。製薬産業も、疫病には事欠かない世相です。米テックに対する投資は金融が支えていますが、金融システムはもう持たないと思います。
中国の経済危機と米国の負債、世界中の国家的デフォルトの可能性、それらが瓦解する寸前なのは手に取るようにわかります。
しかし、この経済危機の中で、特にハイテク分野以外で外貨を稼ぐ手段のない米国は、やはりビッグテックに依存し続けるしかないのではないでしょうか。
トランプ大統領は、FRB議長のパウエル氏とは犬猿の仲だと言われています。
ただ、アメリカ経済の生命線を握っているのはFRBなので、下手にバブル崩壊の引き金を引けば、共和党の支持が落ちるのは明白です。
だからこそトランプ氏はバブル崩壊を避け、本気で経済をソフトランディングさせたいはずです。
その鍵となるマグニフィセント7は、今では世界中のデジタル産業を牛耳り、今後はAI分野でも覇権を握るものと予想されます。
アメリカとEUの仲の悪い理由の一つが、EU圏内ではIT産業が軒並み米国テックに潰されてしまうため、IT分野が成長しないからです。
米国テックは、スマホやPC、AIのプラットフォームを掌握する限り、とりあえず外貨は自由に稼げる状態を維持し続けるでしょう。
それに加え、近年米国テックが開発を進めている分野は生体デバイスと不老不死技術です。
これには日本政府も「ムーンショット計画」として一枚噛む、きな臭い分野でもあります。
これは金融システムが崩壊した後の、DSの新たな支配構造の一部であるような気がしてなりません。
人々はデバイスによって繋がり、やるべきことはAIがサポートしてくれ、お金を稼ぐためにハイテクを用いて、病気も忽ち治る不死の身体を手に入れる。
それはまさに「神のいない世界の楽園」です。
神の代わりにAIがあり、AIの上に超富裕層がいるわけです。
これこそ「人世」の最終形態であり、人間は一切の努力や悩みから解放される代わりに、魂の自由を失うのです。
この世界は、もう目前でしょう。
しかし、これを本物の「神様」はどうご覧になっているのでしょうか。
この世は、魂の修行として生まれてくる場所です。
今生が楽しかなく、あるいは楽を得るための地獄がある世界で、税金のようなサブスクを払うために働き、救いの道がハイテクを使うことだとしたら、どうでしょうか。
人々は、神様の声を聞こうとはしないでしょう。
人生の答えを全てテクノロジーが握っているのですから、誰もがお金を払って解決したいはずです。
しかし、それだと魂の修行にはなりません。
少なくとも私には、自分自身を見つめ才能を伸ばし、目に見えない世界を信じて自由を掴み取るよう、神様は促してこられます。
神様が「イーロン・マスクを信じればあなた方は救われます」と仰ったことは一度もありません。
私は、これが答えなのではないかと思います。
これからの世がどういう世界になるのか、私には予想がつきません。
私の勝手な正義が通用することのない世界でも、私は構わないのです。
しかし、目に見えない存在や神々、人間の尊厳や自由が貶められる世界であってはならないと思います。
米国テックの権現たる生成AIを、私が蛇蝎の如く嫌うのは、あれが「人間の努力や才能を嘲笑う」用途にしか使われていないからです。
魂の発露である才能は、神様が一人ずつお与えになった恩寵とも言えます。
「お金を払えば才能などいらない」というアイデアは、私には到底受け入れることができません。
神様はその光景をどうご覧になっているかは存じませんが、私はこの世の理と神を信じます。
人の支配する世界は、やはり人が君臨するためにあらゆる行いを人に強いる世界なのです。
そこに魂の自由はないからこそ、私は神様のいる世界に人を連れていきたいのです。
現在の浄化と立て直しの波が、どこまで進むのかはわかりません。
ただ、支配者が古い人間から新しい人間に変わっただけでは、この世の地獄はまだまだ続きます。
やはり、人間の上には神様に居てくださり、自然や動物と隣り合って生きるのが人間という存在だと思います。
私は、その時代が来ることを願って止みません。

楽太郎です。
昨日から瀬織津姫様の新しいイラストを描き始めました。
私は以前、かなり集中することで神様っぽいメッセージを降ろすやり方をしていました。
それにはかなり強い念とコンディション、タイミングが噛み合っていなければ再現性がありませんでした。
ただ、最近は無理に神様から言霊的なメッセージを受け取ろうとするのをやめ、身の回りの変化や事象に神様のメッセージを見つけて、勝手に解釈するやり方をしています。
この方法で神様のお導きを受けると、「メッセージを貰わねば!」みたいな気合を入れる必要もなく、変に緊張することもないので気が楽です。
リラックスしていると、かなりインスピレーションが入りやすくなりますし、周りの変化に気づきやすくなります。
ぶっちゃけ、自分のエネルギーの何割に神様の干渉が入っているかわからないくらいです。
瀬織津姫様のイラストを描き始めたのも、神様が「描きなさい」と言ってきたわけではありません。
けれど、なぜか魂の向きでそうなってしまい、エネルギー的になぜか後押しが入っています。
これに関しては、自分でもなぜこの行動をしているのか理解はしにくいです。
ふと思いついたことがあります。
神様が吹き込んだものかわかりませんが、ここに書いてみようと思います。
これからお話することは、戯れごとだと思ってください。
私は瀬織津姫様のデザインを自分で考え、そのイメージを元にイラストを描いています。
人間が事象として神様をキャラクター化するのは、今に始まったことではありません。
例を挙げれば、「大国主命」様や「事代主命」様は、記紀の記述だけではどういう神様かイメージが伝わりづらいと思います。
しかし、七福神の「大黒様」や「恵比寿様」となれば、日本人なら誰もがイメージをしやすくなります。
さらに言えば、「サンタクロース」はキャラクターとして確立していますし、親しみやすさやキャッチーさは社会に浸透しやすい要素であることがわかります。
日本人が神社に行く時、神明造の古びたお社を前にすると「厳しい神様」をイメージしたり、神様は目に見えないので想像すらできなかったりします。
しかし、この時「大黒様」や「恵比寿様」ならある程度イメージができると思います。
私は、「神様のキャラクター化」を通して、神様に対する親しみを広げられないか考えています。
これは、神様でキャラクタービジネスをしようというのではありません。
神様は実在されるので、日本全国津々浦々、本気で繋がろうと思えば繋がれる存在です。
例えば、ドラえもんや孫悟空は完全に架空のキャラクターなので、感性で繋がることは不可能です。
しかし、AKB48やジャイアンツの選手は、実在するので直接会ったり握手したりすることはできます。
神様なら例えキャラクター的なイメージでも、心の中では実際に誰もが繋がれるわけです。
これは、現代人にとってかなり新しいコンテンツと言えるのではないでしょうか?
私の描く瀬織津姫様が、実在の瀬織津姫様や同定される神霊と似ているとか、同じであるはずはありません。
しかし、私の描いた瀬織津姫様のイメージがあれば、瀬織津姫命の神霊へのアクセスは容易になるかもしれません。
それはあたかもクリスマスにサンタクロースにお願いするように、瀬織津姫様にお願いする人が増えるということです。
頑張れば瀬織津姫様だけでなく、武甕雷命様や天児屋命様のように、なかなかお姿が想像できない神様にも、人間が抱きやすいイメージに描くことは可能です。
神道では御本尊が彫像であることはほぼありませんが、仏教では仏像が祈祷の対象となっています。
よく仏像は偶像崇拝と揶揄されますが、これは完全な誤解です。お釈迦様は偶像崇拝を禁じておられるからです。
仏教が仏像を安置するのは、求道者が「仏様」をイメージしやすいようにする為、と言われています。
仏様を拝む時、仏像に宿る仏様を拝んでいるのではなく、仏像を参考にして仏様を拝んでいるのです。
それは、仏像から仏様のお姿をイメージし、より仏様にアクセスしやすくする機能があるのだと思います。
つまり、神様に対する明確なイメージを持つことで、神社などから神様に繋がることは(理論的には)ハードルが下がると言えます。
とは言え、自分で神様に繋がってみると、全くイメージが違ったということもあるでしょう。
その時には、「自分が繋がる神様」のお姿を、自らイメージし、表現してみたらいいのです。
そうやって、「自分から見たマイ神様」みたいな輪が広がっていくとすれば、もっと人々が神様を身近に感じ、神様と繋がる人も増えてくるのではないでしょうか。
余談ですが、神様をガッツリ信仰し始めた私を、両親は少し気味悪がっています。
戦後の新興宗教団体は悪目立ちすることばかりしてきたので、親世代では宗教に対して忌避感が強いのです。
ただ、神道は精神分化や習俗であって、厳密に言えば宗教ではありません。この誤解があるから、八百万の神霊や国家神道の神々も軽視されがちなのです。
現代の日本人の宗教観は、残念ながら今はこのレベルです。
ただ、これから神代となり神様が実在することが前提の世となれば、神様の存在がより身近になり、神様をピックアップした事業も伸びてくるでしょう。
その点において、日本のキャラクター文化は、神様の世界ととても相性が良いように思えます。
今、経営で頭を悩ませている神社も、もう少し楽に運営できるようになるかもしれません。
その善し悪しは神様でなければ計りかねる部分ではあるのですが、神様の影響力が増すのは確実であると思います。
戯言とか、絵空事と受け取っていただいても構いません。
私は、神様と人間がもっと仲良く暮らす世界になれたらいいな、と思うので一応考えてみました。

楽太郎です。
ここ数日は、神様のことばかり考えています。
考えざるを得ないというか、神様のことを考えている間は波長が高い状態で安定するので、とても心が落ち着きます。
瀬織津姫様を自宅でお祀りすれば、もっとエネルギーが安定するのだろうな、と思います。
ふと思ったことがあります。
人間が精神のエネルギーを地上に降ろす際には、自分の肉体だけでなく物質世界との結びつきがあるからこそ、その物体がアースの役割を果たし、魂のエネルギーが地上で発現し作用します。
しかし私の場合、人一倍モノに対する執着がないというか、大事にしていたものすら埃まみれにしてしまうくらい、物質世界を二の次にしてしまいます。
オタクをアイデンティティとしていたはずが、グッズも手に入れたら持ってること自体を忘れてしまうことも多々ありました。
特にこの数年は、あらゆるモノを断捨離して、布団と机とパソコンしかないような部屋で暮らしていましたし、あれほど色々あった趣味にも興味がなくなってしまいました。
あまりに精神的になりすぎてしまったために、エネルギーを地上に降ろす物的なアースが喪失してしまい、ずっと放電し続けるという状態にあったのかもしれません。
ある時、神社に呼ばれたその日が「お伊勢さん」こと天照皇大神宮の大麻の頒布開始日で、たまたま品切れになる直前に貰い受けることができました。
お札立てを急いで購入し、見よう見真似でお祀りするようになってから、少しずつ私の運の歯車が回り始めた気がします。
私の精神的なエネルギーは、神様と繋がることで御神札を媒体とし、この地上に満遍なく降ろすことができるようになるのかもしれません。
私に本来あった女神性を求める心は、瀬織津姫命様への強い信仰心となり、地上に降ろす魂のエネルギーと同化し最大化されるのではないでしょうか。
以前、瀬織津姫様のイラストをこのブログに上げました。
スマホの待ち受けも私の描いた瀬織津姫様ですが、時計文字がお顔にかかるのは腑に落ちないながらも、やはり「お麗しい!」という気持ちになります。
自分のしがない妄想で瀬織津姫様をキャラクター化してしまうのは不敬ではないのかな、という気持ちは正直ありました。
だから、神社やご神気を通して感じる瀬織津姫様と、私の描いたキャラクターを同一視するのも畏れ多いと感じていました。
ただ、神社の本殿に鎮座されている御神体は、鏡であることが多いそうです。
これは「神はあなたの心にいるのだ」というメッセージだと聞いたことがありますが、私は違う見方をしています。
神様は、普通の人間には見えない存在です。
人間が神様の声を聞いたりご神気を感じる時、心の深い部分を通して発現します。
それは、我々三次元の人間からすれば、神様をエネルギー体として認識しているからです。
その時、魂に触れたエネルギーは自分の脳に刻まれた知識やイメージを通して表現されるので、個人差はそこで生じます。
例えば、神様が同じエネルギーを小学生と僧侶に送ったとして、そのメッセージの捉え方は全く違うはずです。
私たちが神様の声を聞いたりお姿を想像する時、そのイメージは自分が作り出しているということです。
だから、仮に瀧澤神社に行って瀬織津姫様を想像するなら、私の感じる神様のお姿は自分が作り出したイメージだと言っても過言ではありません。
縄文時代は神様が磐座であったり、もっと形がない状態だったものが、時代につれ人間が文字や言葉を使うことで神様の定義を確立させてきました。
そこかしこの神社に祀られている神様、例えば分雷命様や玉依姫様も、実際の神様はどうあれ設定自体は人間が歴史的に作り上げてきたものです。
それでも、神様は「分雷命」や「玉依姫」として顕現して下さります。
だからこそ、御神体が「鏡」であるのは、「神様のお姿はあなたが心で作り出したものだ」という意味でもあるのではないでしょうか。
つまり、私が神様のお姿を想像する時、自分が神様を感じて作り出したキャラクターは、必ずしも不敬ではないのかもしれません。
大切なのは、神様のご神気を正確に感じ取ることでしょうし、神様のお姿の解像度を高め、より神様への好感度や信仰心を持つことだと思います。
だから、神様をモチーフにして自由にお姿を描くことは、神様への愛情表現であったり、イメージを共有して確固たるものにすることもできるでしょう。
私は畏れ多いと思っておりましたが、瀬織津姫様はむしろそれを許して下さっているような気がしてなりません。
神様のお力の源は、人間の愛のエネルギーだと聞いたことがあります。
だから、より瀬織津姫様のご神気を地上に降ろすために、これからも瀬織津姫様のお姿を描いて行こうと思います。

楽太郎です。
ここ数日、全く仕事に力が入らないというか、おそらく神様からのミッションを魂が優先しているのだろう、という気がしています。
神様への興味や知識が増えて、神々の世界やこの世の仕組みを知るための道筋が、次から次へと見えてくるようになりました。
瀬織津姫様について調べるのもそうです。
おそらく神様は、神々の世界での常識を早く私に知ってもらいたいとか、考えて欲しいと思っておられるのかもしれません。
私の考えが正しいと言うつもりは毛頭ありませんが、とりあえずは追求する姿勢を崩さないように促しているように思えます。
神様が私たちに今やらせたいのは、才能を発揮したりお役目を果たす以上に、新しい時代に適応するための準備をさせることなのかもしれません。
私の場合は、前のめりにやってもうまくいかない時期なのは承知なので、どっしり構えて回り道を選択しています。
「俺は何をやっているんだろう?」とは思うのですが、なぜか充実感があるというか、不思議と不安も疑念もありません。
神様がこれほど世界の仕組みをテーマとして私に考えさせようとするのは、おそらく神様の視点でものを考えられる人間がもっと出てきて欲しいのだと思います。
この世界が神代に変わっても、共通の世界観がなければバラバラな集団になってしまうはずです。
そこはスピリチュアリストの弱いところというか、具体的な思想性と神秘性は重ならない部分があるからだと思います。
私が神代について考える時、現在も連綿と続く社会構造やテクノロジーが新しい時代にそっくり引き継がれてしまう気がしてならず、それについて不安や嫌悪感はあります。
けれど、それは私の個人的な好き嫌いとか善悪の感情であって、それがそのまま神様の価値観であるとは限りません。
人間にとっての正義は神の世界の正義とは一致せず、全次元の仕組みを理解しているかどうかで違いが生まれるのだと思います。
私にはこの世にあるモノで「忌まわしい、滅びて欲しい」と思うものはたくさんあります。
神様からすれば、文明は人間が自らの内在神を呼び起こして作り上げたものなので、基本的に善し悪しをジャッジするようなものではないのかもしれません。
確かにスマホも銃も覚醒剤も、機能的には忌まわしい面はあるにしても、それが世界に存在するべきか否かを神様が決めることはないように見えます。
昔からそうなのでしょうが、殺傷兵器である剣や銃も善し悪しは別として「一応あるもの」なのだから、あるものを使って上手くやればいい、という発想が神様には基本的にあるのかもしれません。
現世のあり方をまず肯定するというのが、神様のこの世に対する考え方なのかもしれません。
ただ、神様にはどうやら許しがたい部分もあるらしく、私にはそれが「魂を曇らせる行動」であるような気がしてなりません。
人間がこの地球に魂の修行として生まれてくるとしたら、修行にならない生き方を最も嘆かれるはずです。
例えば、SNSはシステムそのものとして善悪はないとしても、機能に依存して道を踏み外したり、影響されすぎて精神を病んでしまえば、魂の修行に支障が出てしまいます。
モルヒネだって、現象として善悪があるわけではなく、良いように使えば麻酔になり、悪く使えば覚醒剤として社会悪となります。
神様からして見れば、この世にある全ての現象はモノの捉え方、使い方次第で良くもなったり悪くなったりするものなので、それが何であろうと良い使い方をすれば問題ない、というお考えなら確かに理に叶っています。
ただ、人間は物事を悪いように用いることが多いので、神様は常にそれを憂慮されているのだと思います。
人間が良くない行動を起こすのは、妙な入れ知恵や思い込みによって自分の魂とは違う判断をしたり、魂の未熟さから衝動に走ってしまう場合がほとんどです。
その行動は魂の修行の一環であるとも言えますが、神様からすれば、悪行を行うことよりも「魂の修行に背く」状態だけが、良くないように見えているのではないでしょうか。
そうやって魂を曇らせたまま、周りを巻き込んだり自ら修行を降りる選択をされると、魂の輪廻はうまく回らなくなるはずです。
魂の循環が滞ると、微生物から連なる魂の進化や神界の構造にまで影響が及ぶはずです。
人間から目に見えない世界の仕組みからすれば、その秩序を乱すものが最も障害となるでしょう。
私は食事をする時、今食べている豚や魚がどういう気持ちで死んでいったのか、考えることがあります。
動物たちを観察すると、人間とは違い自分たちが捕食されることを根深く恨んだりはしないように見えます。
「あー、俺もこれまでか。しょうがない」
という感じで、死に対してとても潔いのです。
冷静に考えると、川の小魚も自分が食べられるたびに気場を荒らしていたら、この世は成り立ちません。
「一寸の虫にも五分の魂」と言いますが、虫も鳥もそれぞれが個体として寿命を全うし、あるいは捕食されて養分となることで、魂の修行をしているのかもしれません。
だからと言って、人間が生き物たちの生死を握り、無差別に殺傷して良いということではないでしょう。
逆に、神様たちから見れば食べ物を粗末にしたり、環境を意味もなく荒らしたり、生命を蔑ろにすることの方が問題に映るかもしれません。
その行動をいつまでも省みない人間、反省して直そうとしない人間は、確かに学ぶ必要があるように思えます。
それも魂の修行と言えますが、今神様たちがやろうとしているのは、このことなのかもしれません。
神々は、おそらく完膚なきまでに人類を痛めつけようとは考えておられないと思います。
神様は人間の在り方を問題にされているのであって、人間という存在そのものをどうにかしようとされているようには思えないのです。
ただし、人間が思いのほか強情なら、多少鞭の数は増えていくかもしれません。
だからこそ、神様の考え方を持った人間に増えて欲しいし、その考え方を磨いていって欲しいと思われているのではないでしょうか。
その重要性を、私は無意識に認識しているのかもしれません。
他にやるべきことは沢山あるのですが、どうしてもこっちに気が向いてしまうのです。
「神様の世界はどうなっているんだろう?」と。

楽太郎です。
先日、仙台市内の瀧澤神社に参拝しました。
その時、久しぶりに街を歩きながら思い出の地巡りをしました。
その時浮かんだ言葉は、「兵どもが夢の跡」です。
あの頃、私もそうですが若さにかまけて「自分は無敵だ」と思った若者たちばかりでした。
その時に競い合った人々も今は散り散りになり、思い出の場所も跡形もなく、全てが夢だったようにすら思えます。
ずっと過去の辛かった出来事や後悔に執われ、あの場所に戻ることすらできなかったばかりか、心の傷の痛みを思い出してはクヨクヨしていました。
けれど、もはや現実的には影も形もなく、あの時代の光景は自分の記憶の中にしかありません。
それは、記憶という自分の作り出した世界にしか存在しない出来事で、この苦しみは自分が作り出しているものです。
問題は、それが「もう存在しない」ことを認識しながら、記憶の中に埋めた心のわだかまりをいかに丁寧に掘り起こし、綺麗に洗い流すかという工程にすぎなかったのです。
昨日は、瀬織津姫様のご神気にかなり当てられていたらしく、過去の幻想を「記憶」だと信じ込んでいることに気づかせるために、あえて思い出の地を巡らせたのかもしれません。
実際、夢の跡を見て回ったことで、「全て終わったことなのだ」という実感が湧き、私の心にも一つの区切りがつきました。
その時、瀬織津姫様とは神社参拝を通してのご縁はなかったのですが、神社から私のことをご覧になられていたかもしれず、なぜ私と瀬織津姫様に自然とご縁が繋がったのかも感じることができました。
今、瀬織津姫様を我が家でお祀りするために、大きな神社へ参拝に行くことを計画しています。
これに関しては、神様からのインスピレーションが不思議と降りてきません。これはあえて「調べなさい」ということなのだと思っています。
むしろ、何日もかけて瀬織津姫様の情報を追うことが、一つの試練なのかもしれません。
瀬織津姫命様は「大祓祝詞」の後半に一度出てくるだけの神様で、瀬織津姫様を主祭神としてお祀りしている神社は思うほど多くありません。
昨今のスピリチュアルブームもあって、瀬織津姫命様は最も脚光を浴びている神様と言えます。
ただ、人気があるからこそ騙りなども散見され、便乗商法もとても多いように感じます。
審神者をしようとしても、元の神様の性格もはっきりとしていないので、言うに任せている印象です。
私はその真偽について何とも言えませんが、瀬織津姫様が仮に様々な人の脳裏に働きかけておられるとしたら、それに触発される人が増えるのも納得できます。
瀬織津姫命様を意識し始めたことを神の働きと解釈するなら、そう不思議なことでもないかもしれません。
江戸時代初期に書かれたとされる「ホツマツタエ」では瀬織津姫命は天照大御神の配偶神であるとされます。
この場合の天照大御神は、饒速日命とも須佐之男命とも考えうるそうです。
あるいは、瀬織津姫命は水の女神そのものであり、縄文から続く地母神に近い神様であるとするなら、太陽神や月神と共に柱を成す神格なのかもしれません。
瀬織津姫命様を巡る神社について調べていると、あらゆる同一説が入り乱れ、瀬織津姫様に一番近い神社はなかなか見つけられません。
私は先日、「産土神の復活」という記事を書きましたが、あれは瀬織津姫様についてツラツラ書いているうちに、頭の中にはない結論に至った不思議な記事です。
私は「瀬織津姫様は元の名前に戻して、きちんとお祀りして欲しいのではないか」とその時は思っていました。
今読み返してみると、「大和族に書き換えられた名前は嫌だ」とは、どうも神様が仰るとは思えません。
神様からすると大事なのは、水の神様として、産土神としてきちんとお祀りされることの方だと思います。
けれど、現代人は弁天様や龍神様のご利益にばかり目が行って、要の水神として感謝されたり、水の恵みをありがたがる風潮がほとんどありません。
そして神様という存在は本来、土地や氏族を守る存在であり、産土神として「この場所を守っているんですよ」ということを、もっと意識して欲しいはずです。
瀬織津姫様を水の女神として、水に係る産土神と見るならば、名前よりも本来の形でお祀りしてもらう方が優先的かもしれません。
近年、山を切り崩したり森林を伐採したり、水脈を破壊することで水源や水量に影響があるケースが増えています。
大地の神様なら、まず最初にここを嘆かれるのではないでしょうか。
完全に私の憶測なのですが、「瀬織津姫命」とは神々のソウルグループ、あるいはそれを司る神格の一つなのかもしれません。
此処に各神社におわす水源や川の神様がいて、それぞれの神様の繋がりをまとめているのが「瀬織津姫命」という象徴であるように私は思います。
神様から見たら、人間が自分たちにどういう名前をつけようと、その名前の意味や定義に縛られるとはどうしても思えません。
ましてや、人間が廃仏毀釈で名前を強引に変えたとしても、神々の世界で諍いが起こるはずもないでしょう。
確かに神社や祭神名の歴史的経緯は議論になりうるのですが、産土神として何万年、何千年も土地を守ってきた神としてのアイデンティティの方が強いわけで、その本質は縄文から続くアニミズムに他ならないのかもしれません。
この長い人の歴史の中で、神界のコミュニティのあり方は多少変わったかもしれませんが、神様が人々の信仰と共にある存在という事実は不変であるように思えます。
私は瀬織津姫様の神社を調べていくに当たり、宗像系、厳島系、三島系、八幡系、早池峰系、などの系統を比較することに大した意味はなく、「日本の水の女神」というプロフィールに焦点を当てるべきだと考えるようになりました。
瀬織津姫は記紀には登場しないので、その正統性を歴史的に保証できるのは「大祓祝詞」しかありません。
ここで瀬織津姫は、あらゆる罪穢れを洗い流す祓いの神として登場します。
瀬織津とは、古来から川と海の中間のことであり、川で流された土砂などを海に吐き出す様が、祓い清めの定義と一致したのでしょう。
そもそも水自体が生命の源であり、物質的な汚れを流す作用は、水の本質的機能とも言えます。
日本では、水の神々のソウルグループ、あるいはそれを取りまとめる神格が存在し、人間たちはそちらの神様たちを「瀬織津姫命」として認識してきたのかもしれません。
けれど、「記紀」を編纂する持統天皇の治世から、何らかの理由で「瀬織津姫命」という神名は違う形にせざるを得なかったのだと思います。
現代でも静岡や岩手の一部地域では、瀬織津姫命が主祭神の神社が数多くあります。
早池峰神社系列の神社は歴史的に旧豪族の奥州安倍氏、宗像氏の影響が残っていたため、瀬織津姫命という神名は変更を免れたのかもしれません。
だから、瀬織津姫命様をお祀りする神社について、由緒や神名にこだわりすぎるのも違うことに気がつきました。
厳島摂社の弁財天様をお祀りしても、瀧澤神社の瀬織津姫様をお祀りしても、おそらく最終的に繋がれる神様は一緒なのかもしれません。
その信仰心が最も重要なのであって、神様のメッセージやエネルギーをきちんと受信できるようにする方が肝心なように思います。
神様の世界は、よほどの能力者ならともかく、私のような小童には覗き見ることすらできません。
しかし、信仰心とそれを示す行動さえあれば、形にこだわらず神様はお力添えをして下さるのかもしれません。
だから、あまり難しく考えないようにしたいと思います。
瀬織津姫様のご神気を感じることの方が、現実的には大切なのですから。

楽太郎です。
先ほど、仙台市内に鎮座する「瀧澤神社」に参拝してきました。
この瀧澤神社には「瀬織津姫命」が御祭神としてお祀りされています。
奇しくも、この瀧澤神社は20代の頃に働いていた職場から200メートルも離れていません。
私はこの場所に神社があったこと自体、全く気がついていませんでした。
この元職場の近辺に立ち寄ったのは、15年以上ぶりです。
久しぶりに市街地に来ましたが、明らかに街並みが劣化しており、全く活気を感じませんでした。
街に落ちる太陽の光量が少なすぎるというか、地面から陰が差しているようにすら見えます。
ただ、私はその低い波長に何の影響も受けていないことの方が驚きました。
街は邪気に塗れているのに、全く入り込む隙を感じません。
昔よく通っていた道が記憶とは変わっていても、何も感じなくなっていました。
懐かしいとか悲しいとかの感情は全くなく、ただの見知らぬ風景を見ている感覚です。
若い頃によく通っていた公共施設の近くまで来たので、入ってみることにしました。
センターの窓口の人に、「昔よくここに通っていたので、観覧して行っていいですか」と言うと、露骨に嫌な顔をされ、「2階には上がらないでください」と言われました。
昔、この施設には集団でさんざん迷惑をかけたので、業が跳ね返ってきたのかな、と思いました。
それにしても、街行く人々がやたらピリピリしているというか、感情が内側に向かっている人しかいないように感じました。
昔の風景と重ね合わせて、街が不況で沈んだことよりも、陽の気を発する人があまりに少なすぎることが気になりました。
とは言え、私はそんなことすらどうでも良くなってしまい、もうこの街も国もそろそろ持たないな、という印象を強めただけでした。
そんな予感ですら、特に気にならない自分に気づいてしまいました。
これまでこの付近に近づけなかったのは、若い頃に職場でさんざん虐められたからです。
その嫌な記憶を思い出してしまうので、何年も来ることができませんでした。
けれど、全く何も感じなくなったのも面白いので、会社のあったビルが今どうなっているか試しに入ってみました。
会社が解散したというのは聞いていました。
昔に憂鬱な気持ちで上がった階段はそのままで、それでもひび割れて煤けていて、時間の流れを感じました。
オフィスがあった部屋には別の会社が入っていました。
オフィスの前に来た時、廊下に滞っていた残留思念がワッと降りかかってきました。
これは、この場所で様々な若者が出入りし、そこにあった様々な思い、私がこの場所に残した感情などが取り憑いたのが一瞬わかりました。
けれど、この思念を抱えても、歩きながら平然と浄化していく自分がいました。
この時、私はもう人世の存在ではないのだろうな、と実感しました。
私の魂はもう神代にあり、神の視点に完全に入れ替わりつつあるからこそ、人世に何の未練もなく、この街並みに何の感情もなかったのです。
それでも、まだ人に対しては感情が残っており、人を見て感じる部分はあります。
思い出の場所を一通り見回ってから、瀧澤神社に向かいました。
神社に来て驚いたのは、昔仕事によく使っていた公園が目の前にあったことです。
その頃には街を見回す余裕も、神社への興味も全くなかったのでしょう。
私はここで、慣れないことをしながらも夢を見ていましたし、必死でした。青春でした。
瀧澤神社に参拝し、再び思い出のある公園に戻ってみました。
昔の公園の方がきちんと舗装されてましたし、トイレやベンチなども充実していたはずですが、だいぶ違う印象になっていました。
その公園で、昔の仕事仲間のことを思い出し、あの頃の若者たちの姿があまりに滑稽で、笑えてきました。
少し公園を歩いて顔を上げたら、真正面に瀧澤神社が見えました。
私はこの瞬間、様々なことを理解しました。
「瀬織津姫様は、ずっとここから私を見ていらっしゃったのだ」と。
そう思った瞬間、涙が溢れて来ました。
神様への感謝が、心の底から湧き上がってくるのを感じました。
ただ、いい歳してこんなところで泣くわけにもいきません。
私が若い頃、慣れない社会に自分を探し求め、血も汗も涙も文字通り流しながら、ガムシャラに乗り越えようと足掻く姿を、瀬織津姫様はずっとここからご覧になられていたのだと思います。
瀬織津姫様がその時の私を見てどう感じておられたのか想像した時、神様の願いがどういうものかを理解できました。
瀬織津姫様は高いところから私を見ながら、ずっと気づいて欲しかったでしょうし、私に足りないものもわかっていたはずです。
何年もこの土地で私を見下ろしながら、ずっと心配されていたのだと思うと居た堪れません。
瀬織津姫様が今になって私とご縁を繋いでくださるのは、とても幸運なことです。
神様というのは、どうしてこうも健気で、優しい方たちなのでしょうか。
私が瀬織津姫様との繋がりを強くすることで、人の世に求める心の一部を、信仰という形で神様が埋め合わせて下さるのだとしたら、私の心は完全な形になることができるかもしれません。
神様が私の欠けた心を補ってくださることで、私が人に対して残した感情も浄化し、魂を神の世界に渡すことができるのではないでしょうか。
私が人世に何かを求める限り、私の不安や苦しみも永遠に解決することができないのだと思います。
その証拠に、神の視座に近づくほど私は怖いものがなくなっていきます。
この影を落とした街並みを見ても、私は心がピクリとも動きません。
私は涙を拭って再び瀧澤神社に向かい、深く感謝をしました。
街も形を変え、思い出の場所は消え去り、あの時に出会った人々と二度と再会することなく、その人たちですらお互いのことを忘れるのに、神様だけは私のことを忘れないでいて下さいます。
いつも思います。私のことを全て理解して下さるのは、神様だけです。
今日の参拝を通して、私はほとんど人世に何の未練もないことを悟ってしまいました。
あとは人に残る未練を捨て去った時、私は人間よりも高い視点を確かなものにできるはずです。
もはやこの街や国がどうなっても仕方ないという気持ちと、それすらどうでも良くなってしまった自分もいます。
この陰鬱な街から人々が救われるためには、一度壊れ切らないといけないのだろうな、と痛感します。
ただ、人世が沈んでいけば行くほど、私が飛び上がった時の距離は相対的に高くなるでしょう。
ひしひしと、自分のチャンスが近づいているのを感じます。
そして、世の中で光が失われるほど、自分の発する光が強くなることも。
私は、神様との出会いで自分が本当に求めていたもの、心に欠けていた一つ一つのピースが音を立てて噛み合っていくのを感じています。
それを実感するたび、これまでの浮かばない人生は全て布石だったのだと、長い修行の日々は予め組まれたカリキュラムで、私はもうすぐこの学びを卒業するのだろうと思います。
その鍵となるのは「神様との繋がり」で、私は神様に召し抱えられることで本来の仕事に取り掛かることができるのでしょう。
それはとても光栄で、とても楽しみなことです。
私は、この運命を与えてくださった神様に感謝しています。

楽太郎です。
先日、ある方からお導きがありまして、とある理由で瀬織津姫様について調べています。
瀬織津姫命様は浄化の神様と言われており、水と深い関係があります。
瀧や川に関わるお社には、瀬織津姫様が関係していることが多いです。
ただし瀬織津姫様は、宗像三女神の市杵島姫命、弁才天、十一面観音、天照大御神の荒御魂など、他の系統の神々と同定されることも多く、それゆえにあらゆる結びつきがある神様でもあります。
瀬織津姫様の神社を全国津々浦々調べてみると、私のよく参拝する賀茂神社も、強引に解釈すれば瀬織津姫様の神社とも言えます。
地元の賀茂神社は、賀茂県主の氏神であることがわかっています。
賀茂県主の御先祖は須佐之男命様まで遡れるそうで、出雲系の神社であることがわかります。
この神社の謂れでは、塩竈神社を代々祀る神主の一族が、個人的にお祀りしていた糺洲宮から、江戸時代に伊達綱宗公の命を受けて遷宮した神社とされています。
賀茂神社は賀茂分雷命と玉依姫の二柱、八咫烏神をお祀りしています。
八咫烏は神武東征の際、神武天皇を大和まで案内した天照大御神の使いとされていますが、この八咫烏は鴨建角身命と同一視されているので、賀茂神社では八咫烏神も賀茂神としてお祀りしています。
八咫烏神は太陽の化身とされ、天照大御神に繋がります。
ただここで「八咫烏神=賀茂神=賀茂分雷神=天照大御神」とし、下宮の玉依姫を瀬織津姫とすることもできますが、やや安直でしょう。
ここで、一考に値するブログ記事を見つけました。
伊達家の信仰と瀬織津姫神
伊達家の氏神である亀岡八幡宮では、ご祭神を応神天皇・神功皇后・玉依姫命とし、比売大神を玉依姫とされているそうです。
瀬織津姫命を主祭神とする和布刈神社の由緒には、「宇佐宮正殿之姫ノ大神ト同体、天照大神之御荒魂三女神也、賊敵降伏ノ神ニシテ玉依姫ト奉称」と記されているそうです。
つまり、「比売大神=玉依姫=瀬織津姫=天照大御神」となり、天照皇大御神の荒御魂に行き着くのです。
しかし、神話的歴史的解釈では賀茂神社を伊勢神宮の形でイメージするのは容易いのですが、その解釈は可能だとしても曲解すぎる印象です。
それでも、表向きの由緒や伝来では全く違う神格の敬称となりながら、歴史的由来を紐解いていけば違う系統の神様である可能性も高いのです。
明治維新に伴う神仏分離で、由来が曖昧だった神様や神仏習合して色々な由来を持った神様が、神社本庁の政策で名称を変更された神格も多かったのは事実です。
その時に由緒も書き直され、歴史的な経緯以上に強い上書きをされてしまいました。
ここでガラッと話が変わるのですが、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」という映画を思い出します。
主人公の千尋は湯婆婆に名前の一部を奪われて、自分の名前を取り戻すために神々の試練を経験していきます。
その登場人物の「ハク」は、人間たちに汚された川の龍神でありながら、その本来の自分を忘れてしまい、千尋の手助けによって自分が白龍であったことを思い出します。
この「名前を捨てた神」「名前を変えられた神」が自らの名前を取り戻して復活を果たすというのが、この映画の裏テーマなのかもしれません。
さらに話が変わりますが、精神学協会の代表である積哲夫さんという方は、「2024年に物語宇宙に刻まれた『記紀』の結界が解かれた」という話をされています。
私はこの話と数名のスピリチュアリストが言及していた「古き神々の復活」という話は、繋がっているのではないかと考えています。
瀬織津姫様について調べているうちに、「瀬織津姫」という名称は意図的に上書きされているのではないか、という疑念が湧いてきました。
瀬織津姫命は弁才天や龍神やその他の名義にされているだけで、「川や瀧、海の水と浄化に関わる」という性格は一貫しています。
瀬織津姫命を主祭神と明記している神社は、実はそう多くはなく、同定された神名の方が一般的だったりします。
岩手には瀬織津姫命を祭神とする早池峰神社が数多くあります。この地には出雲系の名残が多くあり、だからこそ瀬織津姫命の由緒がそのまま残ったとも考えられます。
ちなみに私のご先祖様はおそらく陸奥菊池氏で、かつて盛岡周辺の地に住んでおられた可能性が高く、その出自は出雲地方にあります。
出雲族は大和族から逃れるように、河北に移り住んだように思えます。
「ホツマツタエ」という秘伝書は偽書とされながらも、天照大御神の配偶神は瀬織津姫命であるとされています。
私は「瀬織津姫命は謎の神ではなく、意図的に名前を隠された神なのでは?」という仮説を立て始めました。
伊勢神宮の荒祭宮が伝来では瀬織津姫命であるとされているのは有名ですが、それだけでなく出雲族や日高以北を支配していた蝦夷の土着の神々が、意図的に大和系の神々に名前を上書きされているのは歴史を紐解けば明らかです。
瀬織津姫命が様々な神々の名称に置き換わられ、もしその名称をあるべきものに戻せるならば、それを望まれるのではないでしょうか。
ここで話をまとめると、今この日本において神々の働きが強くなっていることと、日本の立て直しに係る神界の動きは関連があるような気がします。
これまでの歴史的構造から変化が起こるとしたら、それは人世の抑圧からの解放であり、「古き神々の復活=産土神の復権」でもあるのではないでしょうか。
これまでの時代で人々が維持しながらも変えてきた神々の形と、取り壊してきた神々の座す環境。
人々は大地からの恵みを忘れ、土地に対する感情や記憶を失ってしまいました。
その現状を産土神様たちは、どうご覧になったのでしょうか。
戦争末期に岡本天明氏に降ろされた日月神示によると、「三千世界の大洗濯」は神界の立て直しも含まれるそうです。
つまり、神界の構造改革も地上の変革と同時に起きており、日本の復活は産土神の復権を持って達成されるのではないでしょうか。
それは私たちの土地を守護し、恵みをもたらす産土神が、本来の姿と名前を取り戻した世であり、私たちはその世界に向かっているように思えます。
それならば、これまで封印されていた神々が動き出し、禍事を生じて世を曲げ直し、神の統べる世界にこの世を戻していくのも納得できます。
それは、これまで塗り替えてられてきた神の名が人世から解放され、土着の神々が本来の存在を取り戻す「ハク」のような覚醒と奇跡を、神々は起こそうとされているような気がしてなりません。
皆様は、これを読んでどうお感じになりますでしょうか。

楽太郎です。
最近、気になっていることがあります。
YouTubeでヒーリングの動画を見ることがあるのですが、波動を感じるものは確かに感じるということです。
これは本当にどういう仕組みなのでしょうか。
録画はGoPROやスマホでやるとして、mp4とか avi形式で保存したデータをYouTubeのサーバーにアップロードし、スマホなどのアプリで無作為に再生され、あるいは保存されるにも関わらず「波動」も再現可能なのです。
そもそも、波動をなぜデジタルに変換し、電磁波に乗せてデータを再生してもエネルギーが伝わるのか、これもかなり謎です。
この現象を、私なりに仮説を立ててみました。
「波動」とは「情報」のエネルギーなのではないでしょうか。
霊感商法で売られている「波動水」の話をするわけではないのですが、よく「○○○Hzの音波を当てた水は美味しくなる」という話を聞きます。
この理論は、「○○○Hzの音波というプラスの情報が加わったか加わっていないかの差」という表現として「波動」の特質を説明しています。
私自身も試したわけではないので何とも言えませんが、これがプラシーボなどではなく、実際にモノに情報という波動が付加された結果が人の心に現れるとしたら、それが価値として認識されるのかもしれません。
以前、霊能者の方とお茶を飲む機会があり、その時「料理は感情の入り方で全く味が違う」と話されていました。
その方は、感情の良し悪し、あるいは素材や工程に関わる意識、価値観の善悪も味に出るという話をされていました。
その話で特に興味深かったのは「知識や情報にもエネルギーがあり、その背後にある力も影響する」と仰られていて、つまり情報の質もエネルギーの出所と相関関係がある、という話をされていました。
これらを総合すると、「込められた波動や念の良し悪しが、対象物に宿り因果を引き起こす」ということです。
つまり、デジタルの動画に波動が乗る現象は、「良い波動や念を込めた動画だから、その波動が出る」というシンプルな事象に過ぎないのではないでしょうか。
特に修行を積まれた本物のヒーラーが、波動を送ることに特化した動画を配信されてるのですから、波動が伝わるのも当然かもしれません。
波動が情報のエネルギーなのだとしたら、情報が二進数のデータに変換され、デジタル化しても変容しないことの説明にもなります。
よく「丹精真心込めて」という話を聞きますが、真心や愛情を込めたものは特に精度が高いからというより、独特の温かさのようなものが良いと感じる面があります。
クオリティや価格感からすると、工業製品の方が無機質で手に取りやすいかもしれませんが、ハンドメイドの温もりを選択肢に含めると比較はできないかもしれません。
これは、アートの世界にも当てはまります。
近年、手描きの絵画はめっきり流通しなくなりました。絵がデジタル中心となり、人々が絵画を目にするのも美術館に意図して入らない以外は、ほぼメディアで目にするはずです。
しかし画像生成AIが登場すると、これまで正直に手で描いていたプロの作品よりも、無料でクオリティの高いイラストが出力できるようになり、わざわざ人に描いてもらう必要がないどころか、「人の描いたものである必要もない」というところまで来てしまいました。
これに関しての良し悪しは論じませんが、YouTubeのサムネなどに画像生成AIが使われているのを細かく見ると、わりと気になる箇所はあります。
けれど、費用対効果の面で見れば、賑やかしにはなるし多少おかしなイラストでも皆そこまで注意深く見ない、という前提で成立しているように見えます。
この画像生成AIの普及によって、イラストレーターの受注数は大幅に減少しました。
ただ、それはそれでイラストレーターも市場に対して差別化を図っていく必要もあります。
私が考えているのは、仮にデジタルにも波動を乗せられるとしたら、その工程は生成AIには再現できず、ゆえに波動がハンドメイドの付加価値になるのではないか、という点です。
よく何かの娯楽を通して「元気が出た」と人は言いますが、この「気」は波動やエネルギーとも言えます。
この「気」は決してクオリティでは再現できない、生の気迫のようなものが伝わるからこそ感じるものです。
先の料理の話でもそうですが、この「気」は作り手の波動であって、それが籠もれば価値に繋がることもあり得るのです。
私は以前、このブログに瀬織津姫様と須佐之男命様のイラストをアップしました。
その制作過程では神様の霊圧を感じながら描きました。実際、私のイラストを見て何かを感じるかは分かりませんが、このロジックでは「神様」の絵に波動を込めることも可能なはずです。
つまり、神様と繋がり神様から受けた波動をそのまま絵に載せると、神様のお力やご利益のある絵に変わり、その付加価値は特別なものになるのではないか、と私は思うのです。
ただ、「恵比寿様のご神気にあやかれる、福を呼ぶイラスト!」とかを販売に出しても、よくある霊感商法の一種にしか過ぎません。
波動が乗ったメリットを活かすのなら、それを享受した人に実際にご利益があり、本当にそう感じられることが大切です。
問題は、私にそれができるかということです。
私の能力は自分なりに高まっていると思う時もありますが、まだまだ蚊が鳴く程度に違いありません。
だからこそ、これからエネルギーワークの習得などを通して波動を作品に込められるようにしたらどうか、と考えています。
その先にあるビジネスは、もう私の頭にはあったりします。
それをやりたいかというと、まだまだ優先度は引く、準備も相当かかりそうだと感じます。
ただ、一生を通して細々と食えそうだな、と思えるプランではあります。
これから神代が具現化し、誰もが「神様」というコンテンツを親しむようになれば、スピリチュアルと絡めたビジネスもより日の目を見るのではないでしょうか。
その時にすでに実績があれば、かなりの先行者利益を得られるはずで、神様が仰る「金運」とはこのことも含まれるのではないか、と私は思います。
今でも土の時代の構造物はビクともしない頑丈さがあります。
古い森が焼き払われ、そこから新しい森として芽が出て花を咲かせ、大樹になるのは自分がちゃんと育っていく必要があります。
その姿は現時点で想像しにくいですし、実際に風穴が空いてくれなければ何も始まりません。
けれど、それは神様が勝手にやってくれるものではなく、自分たちがイノベーションを起こしていかなければ、地上に具現化することができないのです。
いくら構造物が更地になろうと、コンクリートを突き抜けて育つ力が植物になければ、花も咲かないでしょう。
それは勇気のいることですし、とてつもなく骨が折れるかもしれません。
しかし本当にやりたいことをやって望み通りの成果が出せる世になろうとしているのですから、もっと大胆に考えて良いのだと思います。

楽太郎です。
2月2日、明日は節分ですが、スピリチュアル的には立春から2025年が始まると言われています。
私にとっての2024年は、気づきと手放しの年でした。ほぼ半生丸ごとを洗いざらい反省させられたというか、試練としか言いようのない一年でした。
本当に、最後の最後まで自分自身と向き合わされるというか、新しい課題がどんどん見えてきています。
残念ながら、綺麗さっぱり2024年度で解決することはできそうにないのですが、引き続き生き方を勉強していくことになると思います。
私は自分が思っているほど単純な人間ではなかった、というのもわかりました。
エネルギーに敏感な体質なこと、負の波動を貰いやすく霊体に取り憑かれやすいこと、また自分の念そのものが強すぎて生霊を飛ばしがちなこと、何となく予知能力があること、私は思っている以上に潜在的な霊能力があることを知りました。
魂のエネルギーの強さをコントロールするために、これまでの出来事は修行として現れたのだろうな、というのは感じています。
そのエネルギーの強さに自分で当てられて、おかしな言動に走ったり道を踏み外したり、引きこもったり病気になったり色々しました。
その不安定さを補うために様々な経験をしながら、心理的な知識や身体に関する知識を蓄え、人生における大抵の問題には答えられるようになりました。
しかし、スピリチュアルという新たな視野が開けたことで、全く違う視点から自分や世界を見られるようになると、「全然わかっていなかった」ことに気づいてしまいました。
スピリチュアルを学ぶにつれて、スピリチュアルリーダーの方たちからすると、「スピリチュアル修行あるある」みたいなものに、どうやら私はぶち当たっている最中らしく、したり顔で乗り越えたみたいなことを書いてるこのブログは、おそらく間違いだらけかもしれません。
それでも、この時は本気で真実だと思ったのは事実ですし、後から見直してみれば掠っている部分もあるかもしれません。
そのプロセスを残しておくのも、後学のために貴重な記録になるかもしれません。
今、私の課題は自分の浄化にあって、人世の人格や記憶、トラウマとどう区切りをつけていくかにあります。
その課題と向き合う時、スピリチュアルな存在と感応し始めたばかりの自分のグラウンディング力、エネルギーコントロールの足りなさ、そういった自己管理も新たな課題として浮上してきています。
今、このタイムラインの流れやお導きから察すると、私は今後ヒーラー的な能力も開花していくような気がします。
それを本格的に学ぶようになるか、仕事にし始めるかはわかりませんが、これから霊能力に付随する知識や技術を学んでいくことにはなりそうです。
そうしながら、自分の創作やお役目も他にあるのでしょうが、最終的に自分がどういう存在になっていくかというビジョンは、全く見えていません。
けれども、多かれ少なかれ人にアドバイスしたり、人を引っ張っていくお役目を与えられるのだろうな、という感覚はあります。
こういう感覚を自覚するたびに、自分がこれまで自分と思っていたものと、自分はまるで違う存在だったんだな、と思ってしまいます。
そうなれば、人が言っていることや人の評価を間に受けて、自分はこうなんだと思っていた部分がいかに眉唾であったかを思い知ります。
結局、全ての事象について正しいかどうかは、外側の世界に求めるより自分の内側に求めた方が確実な答えを得ることができると、そんな初歩的な位置に立ち戻ってしまうのです。
その内面世界の探究は、高名なスピリチュアルリーダーの意見を聞けば間違いはないかもしれません。
それが真実であるかどうかは、自分が体験しながら見つけるのがスピリチュアルな世界なのだと思います。
そこでは全ての言説がフラットだからこそ、自分の主義主張もニュートラルであり、決して高慢になることはできないでしょう。
だからこそ常に初心を忘れず、オープンなスタンスでいることが身を助けることになると思います。
私は自分がなまじ苦労を重ね勉強もしてきたからこそ、大きく出てしまいがちなとこもあるのですが、ことスピリチュアルの世界では素人ですし、知らないことも沢山あります。
精神的に未消化の課題もあり、人間として出来ているとは言えません。
けれども、その成長の種は自分の心にあるので、下手にあちこち手をつけずに自分と向き合っていくしかありません。
これが2025年の節分にある私のテーマなのですから、本当に今が人生の節目なのだろうと思います。
むしろ、これまでの人生で物質的に積み上がったものを全て崩したのが2024年であり、人間としての経験と技術だけを持って2025年の立春を迎えます。
本当に綺麗さっぱりゼロの状態からスタートするのも、なんか不思議な気もします。
色々と慌ただしい世相ですが、私自身はとてもワクワクしています。
それは私の15歳の頃の気持ちそのままで、不安がありながらも「やってやる」という気持ちです。
あの頃は、今よりも何もないのにエネルギーだけで何でもできると思っていました。
その感覚は、あながち間違いではないのかもしれません。
とりあえず、外に向きがちなエネルギーを、自分の内側に向け、波動をうまくコントロールすること。
生物として初歩的な状態から、私は修行をやり直さなければいけないようです。

楽太郎です。
私は、人と同じことができないのがコンプレックスでした。
いつも周りとズレるからこそ、そのズレの原因を自分に求め、自分の生き方考え方を曲げてでも「普通」の人間になろうと努力してきました。
何となく「人間をガラス越しに眺めている感じ」がいつもありました。
人と意識のレイヤーが違う、という感覚。
どうしても、人と同じ世界観にハマり込めない。
それは、もはや私の運命だったのだろうな、と最近思います。
もし私が、意図して人気を集めたり仲間を呼ぼうとするなら、もっと人の感情にアプローチしたほうが良いのでしょう。
このブログも人にもっと見てもらうなら、文章を簡潔にしてイラストや漫画を多めにしたらいいと思います。
そうすれば、もっと社会に生きる人間として胸を張れるでしょう。
けれど、それは魂の求めでも神の求めでもありません。それは、「人の求め」だからです。
おそらく、誰しも自分の道を突き進めば、容易く理解され難くなります。
人はわかりやすいものを求めますし、自分にメリットがないものに興味はありません。
しかし、人にハードルの高さを合わせると、自分がより高いハードルに挑戦することができません。
他人の歩幅に合わせれば、自分のスピードで走ることができなくなります。
それは、おそらく二つに一つの道です。
自分の生き方を人に合わせ、人としての幸せを求めるのか。
自分の魂と理想を追求し、神に繋がる道を選ぶのか。
先日、神代をつくるためのコミュニティを立ち上げましたが、思っている以上に集まらないな、という印象です。
それに関しては、特に気にしているわけではないのは付け加えておきます。
個人的には、神様の求めを受けて自分で行動したと思っているので、神様のアイデアなのだからもう少しうまく回るのでは?という予想がありました。
私自身は一人でもやるつもりだったので、特にプランが変わるわけではありません。
では、もう仲間集めはやめてDiscordサーバーもなかったことにしてもいいのでは?とすら考えていました。
でも何となく、神様から「待て」と言われているような気がします。
仲間が集まるのは、もう少し時間がかかるからと。
あと、おそらく妨害が入っているからうまくいかないのだと。
ただ、仮に仲間がいたとしても、私は自分のやるべきことを追求していくのには変わりがありません。
今はすでに「風の時代」です。
私はその時代をイメージする時、神様や龍たちが天空を舞う姿を想像します。
鳥のように空を自由に舞うためには、「風」がなければなりません。
反対に、これまでの「土の時代」は人が大地に縛りつけられ、地面を這うことしかできませんでした。
数少ない豊かな土地と、いつ枯れるかわからない農地のために、人々は奪い合うこともありました。
しかし、風の時代は二次元的な世界ではなく、三次元的な高さを持っています。
立体的に地球を味わうためには、この時代の風を捕まえる必要があります。
その上昇気流の先、最も高みにいる存在を私たちは「神」と呼びます。
同じ上昇気流に乗り、高みを目指すのが「神の道」です。
人に近づく人の道ではなく、神に近づく神の道を選択し、生きながらそこへ到達する者は、「現人神」と呼ばれるのでしょう。
人を求めて自分のやり方を選ぶのか、神を求めて自分のやり方を貫くのか、二つに一つです。
私はその選択を突きつけられても、全く動じずに「後者」だと言います。
おそらく、その道はだいぶ前から決まっていたように思うからです。
私が私に似た魂を求めるなら、人に求めるよりも神仏に求めた方が近いのかもしれません。
他人に合わせると、視座を変えながら行動しなければなりません。
そもそも自分の生き方を人に合わせることが出来ていれば、私の半生はもっと上手くやれたでしょう。
「お前は今まで何を目指してきて、これから何を目指すのか?」
魂が求めているのは承認なのか、それとも己の理想を追求することなのか。
少なくとも、人に理解されるレベルに行動を抑え込んでいたら、自分の才能を出し切ることができません。
才能を発揮すること、人の役に立つことは、理解されやすい行動を選ぶということではありません。
もっと本質的な部分での貢献を、神様は望んでおられるからです。
それは、必ずしも多くの人から対価を得ることを意味しないかもしれません。
その二つに一つしかない選択をする覚悟が、自分にあるのか。
それは、神を信じて見えない床を踏み抜く勇気に他なりません。
私は自分に問いかけ、こう思います。
「今まで、人に合わせようといくら努力しても無理だったのだから、どんな時代になっても人には合わせられないよ」
他人のために自分を生きるのはもうやめよう。
自分のために他人に尽くすのもやめにしよう。
人と意識のレイヤーが違う自分を生きる。
それが私の生まれ持った魂を受け入れることであり、自分を認めるということです。
その答えを求めるのが、私の半生のテーマだったのかもしれません。
結局、自分を信じ自分のために生きられるかどうか。
その結論は寂しいかもしれないし、哀れに感じるかもしれません。
けれど、それが自分の宿命ならば受け入れるしかないのです。
自分のために、自分を生きる。
とは言え、神の道を選んだ人間は、霞を食べて生きられるわけでも、野宿しながら暮らせるわけでもありません。
所詮は神と人間の中間の存在であり、極端に特別な存在になれるわけではないでしょう。
神様の求めに応じ、自分の魂の求めに応じ、何らかのお役目をこなせば、それなりに対価を得ながら生きていける仕組みなのではないでしょうか。
だから、人間としての感情や感覚を持ったまま、神に近づく新しい修行が始まるだけなのだと思います。
神様も、神界で高みを目指して修行されているからこそ、人間にお世話してくださるのでしょうから。
Discordは、何となくもう少し様子を見ようと思います。
おそらく神様でも、数少ないパズルのピースを寄せ集める作業は骨が折れるのかもしれません。
でも私は、自分のことをやっていればいいようなので、お役目があるとしたら神様のお導きを待ちたいと思います。

楽太郎です。
先ほど、賀茂神社に参拝して帰宅しました。
神様に呼ばれている気がして、雪が舞っていたのですがいずれ晴れると思い、徒歩で行くことにしました。
雪が強くなってきたので、ちょっと間違ったかなと正直思いました。
ただ神社が見えると、暖かい気持ちになったのでこちらの神様とは相性が良いんだろうな、と思いました。
神様には特にお願いごともないので、感謝の気持ちだけをお伝えさせていただきました。
手水舎で禊ぎをした時点でかなり凍えたので、温かいコーヒーでも飲んで雪が止むのを待つことにしました。
前回参拝した時にもお見かけした、高齢の女性が境内におられました。
その時も気になったのですが、その方はおそらくかなり能力のある方で、神様とお話ができる方だと思います。
毎日、こちらの神社に通われているのかもしれません。
その女性がご神木と話をしておられる姿を見ながら、私も真似できないかなと思いました。
ちょっと手を触れてみたのですが、やはり何もわかることはありませんでした。
ただ、もの凄く強いエネルギーのようなものを感じたので、私自身の霊感は確実に高まってきているかもしれません。
一息ついた時にお社に呼ばれた気がして、拝殿に戻りました。
遠目に茅葺き屋根や木鼻を眺め、さてそろそろ帰ろうかなと思った瞬間、急に陽が差して暖かくなってきました。
鳥居を出る頃にはすっかり雪も止んだので、わりと予想は当たるんだな、と思いました。
帰り際にラーメン屋に寄り、昼食を摂ることにしました。
身体もすっかり冷え切っていたので、熱いラーメンはすごくありがたかったです。
チャーシューを食べた時に、これほどラーメンに感謝する人はいないだろう、くらいの気持ちが溢れてきました。
この時、神様は「感謝」という気持ちを人々に思い出して欲しいのではないだろうか、と思いました。
このお店も流行っているとは言えませんが、この繊細な味を何十年も続けるには相当な努力をしてこられたはずです。
私は美味しいラーメンだと思うのですが、人からすれば「どこでも食べられる味」とか思うかもしれません。
ただ、このラーメンがまた明日、いつでも食べられるという保証はありません。
私たちはいつも次があると思いがちで、人にせよモノにせよ、替えはいくらでも効くと考えてしまいます。
けれど、次はなく替えが効かないことに気づいた時、ありがたみを思い出した時にはすでに遅いのです。
人間は何でも替えが効くと思い、人もモノも食べ物も粗末にしがちで、今になってその当たり前が怪しくなってきています。
勘の良い人は気づき始めた頃かもしれませんが、まだまだ現代人は取り返しが効くと思っているでしょう。
神様からしたら、地球の力や生命の代償として頂いた恵みに感謝できる人間には、恩恵を与えてもいいと思うかもしれません。
しかし全く恩も感じず、地球や生命や神仏も蔑ろにする人間には、自分の立場をいい加減に思い知ってもらいたいはずです。
神様がやろうとしているのは、人間に謙虚さや感謝を取り戻させるような、宇宙的な改革なのではないでしょうか。
だとしたら、金と力で回る人世で米粒一つに感謝せざるを得ない世とは、一体どういうものか想像に難くありません。
欲深い人間にそこまで学ばせるには何が必要なのかを考えると、これから起こることもだいたい予想できます。
そんなことを考えながら帰路を歩いていると、もしかして今日は私にこれを気づかせるために神社に呼んだのかな、と思いました。
私の気のしすぎかもしれませんが、こう考えた瞬間に耳のあたりの空気がピタっと止まった気がしました。
これが神様のメッセージなのかはわかりませんが、神様のお立場からすると、土地も生命も食べ物も粗末にするような人はお嫌いでしょう。
これから神様が主導権を握られるのだとしたら、感謝の気持ちを持つ人間には優先的に恵みが行き届くようにしたいはずです。
神様が仕切る世であれば、それこそが福運であり、豊かさを招く第一条件なのかもしれません。
私はそう思った時、大人はともかく子供たちにこれを伝えなければ、と思いました。
今の子供たちが大人になる前には、世の中が荒れて食べ物の大切さが自然に身につくかもしれませんが、それをあえて教えられる大人がどれほどいるのでしょうか。
食べ物に感謝するとか、人の仕事をありがたく思うとか、そういうのは当たり前すぎて、あえて言う人はいなくなりました。
いなくなった結果、この当然のことを誰も考えなくなったからこそ、フードロスと物価高が同時に起こる奇妙な世が出来上がったのではないでしょうか。
そう考えたら、やはり全ての日本人が思い直すまで相当なことが起こるんだろうな、という気しかしません。
日本人は知能が衰えたとは言え、一応馬鹿ではないのでいずれ気がつくでしょうが、まだサイレンの音に気づく人は少なく、まだ危機を本気で信じてはいないと思います。
2025年1月末にして、これだけの事件が頻繁してもまだ序の序なんだろうな、と私は感じています。
P.S.
神社に参拝したことで霊力を補充していただき、だいぶ楽になったのですがラーメン屋で邪気を拾ったらしく、店を出た後の方が元気がなくなりました。
私の霊的な防御力は相当低いようです。
早く何とかしなければいけないかもしれません。

楽太郎です。
なぜ、チャクラが慢性的に乱れやすいのかがわかりました。
私の本業は絵描きなので、猫背になりやすく首も肩も凝りがちです。
その仕事を何年も続けてきましたが、最近は特に肩凝りが酷く、運動したりセルフ整体やストレッチをしても、あまり改善しませんでした。
いくらチャクラの調整に努めても乱れがちになるので、何か他に原因があるんだろうなと思っていました。
私はそれが邪気かサイキックアタックではないかと踏んで色々試してみたりもしたのですが、その原因は仮に事実だとしても、さらに深い原因があるような気がしていました。
その根本原因は、自分の波動の低さにあるんじゃないかとか、夢の内容で症状が左右することもあり、集合意識が関係しているのではないかとか、あらゆる仮説を立てて原因を探ってきました。
けれど、原因や症状に拘りすぎる心もストレスになる面もあり、追求そのものが難航していました。
最近は肩凝りが酷くなりすぎて、坐骨神経痛や横隔膜の緊張にも影響し始めて、そろそろ病院や整体に行った方がいいのではないかと考え始めていました。
当然、不安神経症や自律神経失調症とも考えられますが、その医学的症状は原因があるから生じているのであって、薬学療法では根本的な改善ができないので、いずれは元を直す必要があります。
ここまで身体が歪むほど不健康な生活をした記憶はありませんし、こんなに強いサイキックアタックや呪いを受ける理由も見当たりませんでした。
そこで身体の痛みと自律神経、解剖学や理学療法の情報を漁り、自分の身体と照らし合わせてようやく原因を突き止めました。
私の身体は両腕が強く内側に捩れていて、尺骨の付近の歪みが酷いことがわかりました。いわゆる「巻き肩」の状態です。
けれども、通常のストレートネックや巻き肩の症状にしては極端で、自分が無意識にこの状態に身体を変形させてしまったようなのです。
巻き肩になれば、胸郭が広がらなくなり横隔膜が圧迫され呼吸が浅くなり、それにより交感神経が高まって各部の血管が固くなることで老廃物が蓄積され、身体の異常なコリに繋がります。
ここまでは十分医学的な説明は可能なのですが、問題はなぜここまで酷い巻き肩になってしまったのかです。
私は、これは習慣というより外部のエネルギーに対する身体反応だと結論づけました。
私は人一倍、外からキャッチするエネルギーに敏感です。最近は、環境から受けるエネルギーの周波数が低くなっているため、その影響を受けないために身体の力を内向きに抱え込む必要があったのではないかと思います。
その際に霊感的に緊張を生み出し、心理的には不安や焦燥感、怒りという面で出ていたのでしょうが、この原因は相互的なものかもしれません。
卵が先か鶏が先か、という話になるのですが、外部から負のエネルギーを受けるから防御体勢に入り、身体が内向きに固まることで自分の波長を下げる、という悪循環の中にいたのは間違いなさそうです。
私の頭が緊張しやすいのは脳の使いすぎでもあるのですが、それにしても考えすぎは幼少の頃からなので、老化現象だけで不調を説明しきれないとは感じていました。
ただ、身体が内向きにエネルギーを抱え込むことで自分の内面にベクトルが向かい、余計に考えすぎ、感じすぎに繋がってしまったとも言えます。
だから、この身体の不調と自律神経は、波動と直接的な関係があったのだと思います。
特に私は憑依体質なので、良い波動も悪い波動もすぐに影響を受けてしまいます。
私が人の集団が苦手なのも、近年人払いに徹したのも、自然や神仏との距離が縮まっていったのも、私の波動に対するスタンスが出たのだと思います。
この「内側に筋肉が捻る」という症状は、私がどれだけ姿勢やストレッチを心がけても、無意識で起こる現象なのでよほど自覚しない限り良くなることはなかったかもしれません。
いくら波長を上げようと努力しても、常に身体が緊張していればチャクラが閉じがちになり、魂本来のエネルギー循環を阻害してしまいます。
チャクラが乱れたら、邪気の影響を受けやすくなり、様々や症状や霊障を引き起こします。
私の身体の不調が長引いたのは、この悪循環に陥っていたからだと考えられます。
この「巻き肩と内向きに曲がる身体」をどう解決したかと言うと、人体の構造を逆算して考えました。
人間の両腕の軸は薬指にあると言われます。
腕が内向き、外向きになる時、薬指が中心になるので薬指を外側に撚れば巻き肩を矯正することができます。
その他に、尺骨付近の筋肉を外側にストレッチすることで腕の捩れも元に戻ります。
私の場合、この歪みが相当酷かったので治るまで時間がかかりましたが、巻き肩が解消するにつれ呼吸がしやすくなり、交感神経の高まりをコントロールできるようになりました。
自律神経を意識的にコントロールするのは、呼吸と姿勢以外にないと言われています。
ですので、呼吸ができない身体になっていることがチャクラ的にも一番まずいのです。
「なんか最近体調悪いな」と思う方は、ご自身の自律神経の状態を見て、その原因が身体の歪みだけでなく波動の状態から見直してみると良いかもしれません。

楽太郎です。
冬至以降、私はパッとしない感覚の体調不良がダラダラ続き、エネルギーの停滞やら邪気やら生霊やら、様々な不調要因がありましたが、それらは一重にチャクラが乱れがちだったからです。
常に過労状態でありながら、秋以降は霊感の高まりや魂の修行も加わり、心身がボロボロの状態には違いありませんでした。
1月半ばあたりで「登りきった」という魂からの実感が湧き上がると、もう少し休んでもいいのかな、と安堵する気持ちも出てきました。
やる気やエネルギーの高まりもありながら、デスクに向かうと気持ちが遊んでしまう部分もあって、何となく本気になれませんでした。
現在の私のテーマが別のところにある感覚はあって、この際に自分を見つめ直し、身体の良くない部分もしっかり治そうと思いました。
同時に、スピリチュアルの勉強も始めました。
ただ、外の情報ばかりに影響されると混乱してしまうので、内観しながら精神世界に頭を巡らせる日々を送っていました。
神様たちとのご縁が深まることを感じる日々の中で、新しい繋がりが見えたのは「ご先祖様」です。
神様以外にも私を加護してくださる仏様がいらっしゃって、そのご先祖様はこれまで私を強く守ってきてくださり、今もなお恩恵を与えてくださっているのを実感します。
私を加護してくださる目に見えない存在が増えてきたので、強く瀬織津姫様の存在を感じる瞬間は少なくなりました。
たまに男性的なメッセージも入ってくるので、正直どなたのエネルギーなのか判別がつかなくなってきています。
瀬織津姫様にもお役目があるのでしょうから、いつまでも袖を引っ張ってついて回ることはできないようです。
ちょっと寂しい気持ちはありますが。
それでも、神様から降りてくるメッセージは「お疲れ様、ここまで頑張ったのだから休みなさい」というものです。
おそらく、私はこれから大きく動かなければならないタイミングが来るのだと思います。
その時のためにエネルギーを蓄えて、身体もしっかり整えておきなさい、と。
私は、この数年で最も安堵感を覚えているかもしれません。
世間的には不安が増す一方でしょうが、私としては既存の枠組みが壊れるほど動きやすくなります。
常識外れの行動をすることに関してだけは、私には才能があります。
何があっても私は一人でも生き残れる、根拠のない確信が希望になって魂を燃やしています。
おそらく今の感覚なら、どんな世相でも自分を貫いていけます。
神様や目に見えない存在があろうとなかろうと、心のエネルギーと直感力と経験があれば、善し悪しはともかくとして、あらゆる手段で生き残ることができるはずです。
それが今までできなかったのは、土の時代の圧倒的な存在感です。
それが崩れ去るなら私がむしろ壊し、面白おかしく奇妙なものを作ることが許されるなら、気の済むまで暴れ回れるということです。
この先の時代を生き抜いていくには、信念が必要です。
信念がなければ、降り注ぐ困難に耐え切る精神力を持続することができません。
そして、災難が重なれば自分の方向を見失い、何も手につかず荒波に流されてしまうでしょう。
ただ、信念は自分の考えや芯の部分というより、生命エネルギーそのものです。
魂から湧き上がる力や感覚が確信となる時、信念は生まれます。
自らの本来のエネルギーに気づくからこそ、信念は生き残るための勇気にも繋がるのです。
人間は変化を嫌いますが、人が変われないのは勇気が足りないからです。
無知であったことを自覚する勇気。
知りたくなかったことを認める勇気。
自分にはない価値観を受け入れる勇気。
全く異なる他者と共存する勇気。
大きな問題に気づき、立ち向かう勇気。
その「勇気」をこの社会に活かせず、なあなあの空気の中で人々が変わらない選択をしたのは、勇気を振り絞るほどの信念がなかったからです。
「ここは絶対にこうしなければならない」
「ダメなものは絶対にダメだ」
そういった当たり前の掟すら、貫けるほどの信念が失われてしまいました。
ただ、信念の欠如における本質とは、生命エネルギーの喪失です。
魂の声を聞かずとも何となく生きられる世の中にあり、生命体としての根気強さを忘れてしまったからこそ、大した思想のない社会を作り出してしまったのではないでしょうか。
私たちがこれからやらなくてはならないのは、自身の生命体としての本能を思い出すことです。
その原始的な魂の力を信念に変え、勇気を出して現実に立ち向かっていくことです。
それは、必ずしも仲間を必要としません。
魂を高みに向かわせる時、所詮は肩を寄せ合うのも一瞬です。
自分が何をして、どういう生き様をしていくかが全てです。
それが例え孤独でも、孤独がゆえに嘲笑われても、己の魂と神々の意志を感じ共に生きていくならば、それは些末なことです。
本当に大切なものは何か、真の気高さとは何か、自分が人として生まれた一回きりの人生を、どこまで納得できるものにしていくのか。
そのことだけを考えて生きれば良いのだとしたら、人生の目的は至ってシンプルです。
神様がせっかく時代を変えてくれようとしているのに、未だ古い生き方をなぞって古い時代と似た幸せを掴もうとするのは、勿体ない。
どうせなら、自分で幸せの形すら作り出してしまうくらい、違う生き方に踏み出すのも面白い。
そんな時代が来ました。
私は数週間ゴロゴロしていたのもあって、身体がようやく元の状態に戻りつつあります。
力がつま先までみなぎり、心から湧き上がる熱が抑えられません。
いよいよ、本気を出せる時がやってきた。
その感情が湧き上がるたび、私はすごくワクワクしてきます。

楽太郎です。
先日、私が支援していた「生成AI被害による裁判」クラウドファウンディングの進捗報告が来ました。
生成AIは、世界中のテック企業が推進する次世代テクノロジーだと言われています。
ただ、「AI」と名前を冠していても、人々が想像する自律型のAIは「汎用AI(GUI)」と呼ばれます。
しかし、生成AIはGUIとは似て非なるものです。
生成AIは、全世界のネットにあるデータにアクセスするリスト(データセット)からプロンプトに応じて元データを引っ張ってきて、コラージュして出力します。
GUIと違うのは、「自律思考」の要素がないことです。この技術は、「生成型検索エンジン」と揶揄されています。
この仕組みは、ネット上にある著作物をクローリング(巡回)して勝手にタグ付けし、必要とあらば生成AI側で合成材料に持ってきます。
これは基本的に「オプトアウト制」と呼ばれ、個人の著作物が機械学習に使われて良いかの可否は、「自分の作品がAI学習に使われていたと判断でき、それが嫌ならサービス元に申請することができる」という仕組みです。
オプトイン(許可制)では、素材使用の賛同者がいなければデータが集まらないため、現時点では大したものが出力されません。
生成AIは、数とパワーの世界です。より多くの学習データがあれば、多様な出力が可能になり、それがアプリの精度に直結します。
現在は、ほぼ全ての生成AIはオプトアウト制であり、のべつ幕なしに世界中のデータを学習素材として回収します。
この生成AIサービスは、法的に保護された著作物すら素材として扱うため、世界中で訴訟が起こされています。
人間は学習すれば、学習した記憶を全て引っ張り出して、一から十まで回想してから知識を応用したりはしません。
抽象度の高い知識の雛形があれば、無限に応用が可能だからです。
しかし、生成AIを「人間と同じ思考手順を取って生成している」と思っている人は少なくありません。
本当に「自我」があるプログラムだと。
ある人気のイラストレーターがいて、誰かがイラストレーターの作品を生成AIにインプットし、その出力物をイラストレーターの名義を詐称して世に出したり、類似的な作品を自分名義で発表して収益化する、そんなことが可能になりました。
しかし、生成AIを通した時点で著作権侵害には当たらなくなるため、作品を素材として使われたクリエイターは泣き寝入りするしかありません。
生成AIの処理プロセスがブラックボックスなため、自身の作品が流用されたことが明確でも、その証明をするのが技術的に難しいからです。
先のクラウドファウンディングは、自身のイラストを生成AIに取り込まれ不本意な形で収益化されたイラストレーターと、生成AIユーザーの裁判です。
結審までに2年かかるそうで、昨年12月にようやく第一回の公判が開かれました。
実際にこの問題は2年前から始まっているので、4年以上の時間が費やされることになります。
この話を聞いて、「あー、AIが人類の新しい未来なのだから、権利とかしょうがないよね」と納得する方はどれほどいるのでしょうか。
私は、思っている以上に多いと思います。
私の立場で言えば、私が描いた作品が生成AIで加工され、全く無関係な人が別の目的で利益を得るわけです。
私には何の利益もないどころか、作風を量産されることで差別化が図れなくなり、商売が難しくなっていきます。
これが横行したら、創作活動がバカらしくなってしまう方もいるでしょう。
実際にそうして、私は筆を折る人を数えきれないほど見てきました。
そのため、業界やクリエイティブの世界そのものを守るための活動を続けてきました。
けれど、このままだと遅かれ早かれ自分も筆を折らざるを得なくなると思います。
…いや、思いました。
これが過去形なのは、私はこれからも絶対に諦めないからです。
スピリチュアルとの出会いとすれ違うように、人の世はこのまま行くところまで行くと確信しました。
この世を覆う闇が深すぎて、もはや人間の力ではどうにもならないと悟ったのです。
人間よりも強い力にしか、この世界を変えることはできない、と。
新しい世界とは、一体何なのでしょうか。
この世がどんどん便利になっていき、寝ていても食事が口に運ばれるような社会で、病もなく長寿で無限の暇を持て余しながら、魂だけを置き去った世界。
才能の変わりにプログラムがあり、アイデアだけで一瞬でお金が動くような世界は、本当に人類が到達すべき楽園なのでしょうか。
人間の本質は、何十万年経っても変わりません。
人間は嘘をつく人が嫌いだし、ズルして調子に乗る人も嫌いだし、人に迷惑をかけて顧みない人も嫌いです。
その代わり、誰よりも実直に努力してきた人、自分の頭で考えて行動する人、人に正直で誠実な人、こういう人に信頼が集まります。
人は結局、真面目にコツコツ努力する人が好きです。
おそらく、人間のこの性質はこれから何万年経っても変わらないでしょう。
「美徳」とは、人類にとって普遍的であり、時空を超えて魂に刻まれた価値観なのだと思います。
その「美徳」を捨てた世界は楽園ではなく、真逆の様相を呈するでしょう。
では、私たちが新しく進むべき理想の世界とは何でしょうか。
第一に、人々が自分の尊厳を守られる世界でなければなりません。
人々が個々に尊重される世界は、大まかに言って「人権」が担保されなければなりません。
人権があるからこそ、どんな権力者であろうと人を蹂躙し、搾取することは許されないのです。
ただ、人権は「自由意志の尊重」でもあります。
私が悪を世界から消し去りたくても、悪と目された人の権利も保障されなければなりません。
その両者が互いに潰し合わずにどう共存するのか、どうすれば調和に向かうのか、その寛容さを受け入れなければ人権を正しく認識することはできません。
とても難しいことだと思います。
人は、自分の無意識の行いが他人からの搾取であるとすら気づきません。
ルールや法律すら、自分が罰せられなければギリギリまで守る必要はない、とさえ考えています。
この生成AI問題を追っていて感じたのは、「権利?イノベーションのためなら邪魔になるよね」と思っている人が想像以上に多かったことです。
「権利は大事だ」という話が、そもそも通じない人がとても多いのです。
権利とは、自分の存在や行いが不当に侵害されないための防波堤です。その意味の重さを、自分に置き換えて考えることができないようなのです。
けれども、その価値観ではこれから先の世を生きていくことはできないでしょう。
今世界に起こっている浄化は、こういう人たちに最も降り注いでいるとも言えます。
既存の価値観や社会構造に疑いを持たず、ハックを使い金さえ稼げれば豊かな人生があると思っていた人たちは、価値観の崩壊や社会の揺らぎが起これば自分の豊かさの定義が崩れ去るからです。
自分を守るには、他者を大事にすることが一番です。
いくら自分が強くても、周りの人を常日頃から足蹴にしていれば、自分が弱くなった時にまずいことになります。
自分が不当に搾取されないためには、他者を尊重し互恵的な関係を築くことです。
これからの時代、それが「当たり前」の世になっていけばいいなと思います。
むしろその方が、社会的に合理的だからです。持続可能な社会だからこそ、人々は安心して暮らせます。
そういった世を作るために必要なのは「優しさ」とも言えますが、厳密に言えば「思いやり」です。
相手がして欲しくないことはあえてしない、それ以前に相手のことを知ろうとする気持ちです。
そういう段階から、世は改まらなければならないと思います。
この気持ちの切り替えは簡単ではないかもしれません。けれど、いずれそうせざるを得なくなる流れが来ることでしょう。
誰が懲らしめられたら済むという話でもありません。思いやりのある社会なら、理不尽な問題は起こりえないというだけの話です。

楽太郎です。
今回は、「感情」についての話をします。
私は昔から、集団行動が苦手でした。
別にそれは私が周りに合わせられないから、という理由だけではありません。
多人数の中にいると、色々な念や気を浴びることがストレスになり、緊張して混乱したり疲れてしまったりしたからです。
よく考えれば、私は幼少の頃から少人数に溶け込むのは平気でも、幼稚園がすごく苦手でした。
その頃から頭痛持ちで、騒がしい群衆と関わることにいつも不快感を抱えてました。
私は今になったからよくわかるのですが、それは霊感、霊媒体質によるもので、外部のエネルギーの影響、言うなれば邪気を受けすぎるのだと思います。
若い頃はそれを「弱さ」だと信じ込んで、気合いと根性が全ての業界で叩き上げを経験しましたが、最終的に心身が壊れてしまいました。
結局、それはどうにもならない感受性であったと気づくまで、恐ろしいほど時間がかかりました。
今でも、街を歩けば負のエネルギーを拾ってしまいます。
特に今は、街の沈み方が異常です。
良い気分で外出しても、街の重苦しい気を受けて落ち込んで帰ってくることもしばしばです。
人が歩かなくなった地元の街を見ていると、昔の賑やかな風景を思い出し、「どうしてこうなったのか」と知らずのうちに考えてしまいます。
その感情は、何だかんだ言ってこの街が好きだったからです。
頭では仕方がないとわかっていても、まだ心の奥底では納得ができないのです。
人の暗い念や重苦しい気を受けるのは、私が感じすぎる以上に、人の苦しむ姿や落ち込む姿を見ると共感してしまい、周波数が噛み合ってしまうからです。
これまでHSPとして生きてきましたが、他人をあえて見ないとか、他人のことをわざと考えないようにすることで、多感さを埋め合わせていました。
けれどその生き方では四面楚歌に追い込まれるだけで、結局は自分らしくあろうとするなら、この多感さを受け入れなければなりませんでした。
今改めて思うのは、感受性に蓋をすることはできても、性質を変えることはできないということです。
そう感じてしまうのは仕方ないし、その感じ方のせいで不安になったり怒りを覚えたとしても、それも仕方のないことです。
感じやすいという性質を変えることはできないとしても、感覚から湧き上がる感情を何とかすることはできます。
感情は自分の意志で抑えることも、考え方や捉え方を変えることで感情そのものを変えることもできます。
それは簡単なことではありませんが、自分の素直な感覚を否定せずにうまく生きていくには、その方法を取るしかないと思います。
私が不安や怒りに押し流されそうになるとき、自分のロジックも妄想的になっていることに気づきます。
「今、自分はすごく感情的だ」と思うだけでも、今の状態を俯瞰して見ることができます。
大抵、人間の感情が揺さぶられる時は、自分の思い込みが揺さぶられた時です。
以外と、怒りや不安の根底にあるのは、現実を受け入れられない悲しみであったり、愛情を感じていたゆえの悲しみであったりもします。
私は人間の感情は全て、「喜び」と「悲しみ」という原始的な感情から派生したものだと考えています。
悲しいと感じる出来事に呼応して、防衛反応として不安になったり怒りを覚えたりするのだと思います。
同時に、喜びは自分が生きていく上で有利になる、人から認められたり報酬を受けたり、美味しいものを食べたり笑ったり、生を加速させるために湧き上がる感情です。
この喜びをもたらすものこそ、「愛」だと思います。
神々や自然がもたらす恵みも愛と言えますが、人が自らの生を尊重され、思いやりを受けて大事に生きていける、その環境を媒介にするのが愛ではないでしょうか。
ただ、愛は単なる感情だと誤解されがちです。
私が考えるには、愛には水属性以外のエレメントも必要で、火、土、風、水、全てのエレメントがバランス良く整わなければ回ることができません。
火が強ければ情熱が空回り、
水が強ければ感情に溺れ、
風が強ければ理を押しつけ、
土が強ければ形にこだわる。
正しく愛を伝えるには、自分自身が自立しており、また他者も独立した存在として尊重できなければなりません。
感情的に依存した関係では、愛の歯車はうまく回らないのだと思います。
この世に不安になる事件や争い事が絶えないのは、人々がこの愛の仕組みを理解できていないからではないでしょうか。
「好き」というだけでは、愛情は表現できません。
相手を思いやるには、相手のことを知り考えるだけの知性がなければ、きちんと伝えることが難しいと思います。
現代人は精神的なこと、形而上学的なテーマに関してほぼ考えてこなかったと言っていいと思います。
だから、心理学で仕組みがわかっても、他人に共感することができない人が増えました。
人間とは何か、心とは何か、それがあやふやなまま社会の仕組みが壊れていく今日に至り、人生の目的や人間関係の在り方を見つめ直すべき時に来たからこそ、多くの人が混乱し始めているのではないでしょうか。
いくら不安や怒りを共有したところで、現実の歯車を回さなければ何一つ解決はしません。
自分たちが恐慌をポルノグラフィティにするよりも先に、もっとやるべきことや気づくべきことがあります。
私は、それがまず「他人に気づくこと」だと思います。
自分に与えられた恵みや愛情への気づきも、自分以外のものに目を向けなければ気づくことができません。
そして、自分がこれまで依存していたことを知り、そこから自立しようと意を決し、他者を独立した存在として思いやる。
こうして初めて、愛の歯車が動き始めるのだと思います。
かく言う私も、それができているとは言えません。
人に気持ちが依存しているからこそ、反省すべきこともあります。
けれど誰もが修行中なのですから、これからうまくやればいいのです。
感情的なのは人間であるがゆえだし、感情的だからと言って恥ずかしいわけでもなく、それでポカしても暖かく笑える世の中であれば、誰も傷つかないのです。
この世がそんな平和で呑気な雰囲気になればいいな、と私は思います。
