招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「大峠」を読み解く

楽太郎です。



今回は、「日月神示」の中でも要と言える「岩戸開き」についての解説になります。
私が別名義で運営する「日月神示解説」というサイトの作りに合わせて、章構成にして書いていきたいと思います。
今は「大峠」のどの地点か?
さて、日月神示の中で「大峠」の時期を特定する議論のうち、基本となるのが「岩戸の巻・第十六帖」の「子(ね)の歳を真中にして前後十年が正念場、世の立て替えは「水」と「火」とだぞ、ひつじの三月三日、五月五日は結構な日ぞ」という文章です。
「子の年」は干支が一巡する12年に一度あるため、カレンダーを見れば特定するのは難しくありません。

直近の子年は「2020年」であり、同年には「コロナ・パンデミック」が始まりました。
コロナに伴う社会的混乱が治らぬ2022年にはロシアによる「ウクライナ進攻」が始まり、世界でエネルギー要因のインフレが加速していきました。
そして2023年にはイスラエルのガザ進攻、中東諸国に対する挑発行為による中東危機の再燃、それをアメリカが無条件支援することによる国際情勢の混乱、経済的混迷が起きています。

そして我が国に漂う社会的停滞感とインフレ不況、誰もが感じる「世も末感」はまさに「大峠」と表現するのに相応しいでしょう。

現在が大峠の最中だとすると、今はどの地点にいてどれほど続き、いつ終わるのか、それが一番気になるところです。
「子の年を真中にして、前後十年が正念場」ということは、単純に読めば「正念場」は2030年まで、前は2010年から始まっていることになります。
つまり大峠とは20年越しの大プロジェクトであり、「日月神示」が戦前にもたらされたことを考えれば、さらに長いスパンで起きていることがわかります。

2010年から大峠の「正念場」が始まっているとして、思い浮かぶ社会的混乱は2011年3月に起きた「東日本大震災」でしょう。
ただでさえ津波による甚大な被害がありながら、原発事故なども併発し、普及し始めたSNSの利用によりデマやフェイクニュースが流布され、国中が騒然となった光景は忘れることができません。
この後に「復興増税」が始まり、日本人の経済的困窮はさらに加速していき、パンデミックも相まって我が国はどんどん歪な世相になっていきました。

これだけ暗い話が続くこの15年は、やはり直感的に「試練」を感じさせるものです。
では、今が「大峠・正念場の20年」の最中だとして、「正念場」の尽きる2030年に、ピッタリ終わると考えていいのでしょうか。

「日の出の巻・第二帖」には「九歳は神界の紀(はじめ)の年ぞ、神始めの年と申せよ、一二三、三四五、五六七ぞ、五の歳は子の歳だぞよ」とあります。
「九歳」を「九年」と読み替えれば、「子の年・2020年」から9年目である2029年、大峠19年目が「神界の紀元・元年」になります。

「碧玉の巻・第十九帖」では「フトマニとは二十の珠(たま)であり、十九は常立(とこたち)であるぞ、根本の宮は、二十年毎に新しく致さねばならん、十九年過ぎて二十年目であるぞ、地上的考え方で二十年を一廻りと考えているが、十九年で一廻りするのであるぞ」と書かれています。

「フトマニ」とは、日本神話では伊弉諾命と伊奘冉命が国産みの際、「どうしたら良い子(神)が産まれるのか」を大神に問い、占卜の一種である甲骨占いを行ったという故事に由来します。
ここでは、「神の法則」として「フトマニ」があるように語られており、「20年」というのは太古日本では「聖数」であり、その名残は伊勢神宮の「式年遷宮」に見ることもできます。

だから大峠が「二十年」という節目を用いられる所以とも言えるのですが、この文節で重要なのは「十九年」で一巡りであり、「二十年目」を「2年目」と数えているということです。
ゆえに、私たちからみて「大峠19年目」の2029年で一切りとなり、その年が「岩戸開き=神界の紀元」となるということではないでしょうか。

ただ、それでは結論だけを述べたに過ぎないので、そもそも「大峠」とは何のために起こるか、どういう経路を辿って起こるのか、そこも紐解いていきたいと思います。


「三四五」「五六七」の仕組みとは
上記「日の出の巻・第二帖」では「一二三、三四五、五六七ぞ、五の歳は子の歳だぞよ」と述べられています。
「五の歳・子年」が「神界紀元・九の歳」とすれば、2020年子年を五歳として4年後、2024年には岩戸が開けている算段になります。
しかし2025年現在、世界を巡る情勢は悪化しており、我が国はますますその煽りを受けて混迷しています。
ゆえに、「五の歳」が2020年としても「九」という点で見れば、違う軸の代数であると考えられます。

どうもこの「五」というのは「一二三、三四五、五六七」の「五」に掛かっているように思えます。
「夜明けの巻・第十二帖」には、「申(さる)酉(とり)過ぎて戌(いぬ)の年、子(ね)の年、目出度けれ」とあります。
「日の出の巻・第二十帖」に「十年先は五六七(みろく)の世だぞ」とあるため、「子の年を真中」にすれば、10年後は戌年で「神界紀2年」に当たり、既に「ミロクの世」になっているはずで、ゆえに2032年子年に「めでたい世」となっているのは辻褄が合います。
だから日の出の巻に言う「子の年」とは2032年の子年であり、「ミロクの世」になる前の2020年・子年を指していないのです。

ではここで、神示に頻出する「一二三(ひふみ)」「三四五(みよいづ)」「五六七(みろく)」が意味するのは何でしょうか。
この数字の並びが不思議なのは、「一二三」の後に「四五六」が来るわけではないことです。
センテンスの最後と最初の数字が重複している上に、最終段階を「八九十の世」とすれば、正しく神の経綸の完成に相応しい並びになるはずです。

冷静に考えて、「五六七」を「みろく」と呼ぶのは些か強引な気がします。
これは仏教における「弥勒菩薩」の降臨が56億7千万年後に成就し、それにより仏教的世界は完成する、という世界観へのオマージュでしょう。
要は、「五六七」と「56億7千万」をかけて「ミロク」とルビをつけて読ませているわけです。

ただ、普通に読めば「いむな」ですし、「みろく」にしたいなら「六六六」にすれば良いはずです。

「碧玉の巻・第十五帖には、こうあります。
「五六七のミロクの代から、六六六のミロクの世となるぞ、六六六がマコトのミロクの世であるなれど、六六六では動き無いぞ、六六六は天地人の大和の姿であるなれど、動きが無いからそのままでは弥栄せんのじゃ」

つまり「五六七=六六六(ミロク)」ですが、おそらく「七」以降の広がりを持たせるために「五六七」である必要があるのだと思います。
また、この「五六七」が初めから「ミロクの世」のメタファーとして用意された数字であるとしたら、どうでしょうか。

「天つ巻・第十帖」にはこうあります。

「一二三の裏に〇一二、三四五の裏に二三四、五六七の裏に四五六の御用あるぞ、五六七済んだら七八九ぞ、七八九の裏には六七八あるぞ、八九十の御用もあるぞ」

ここで「七八九」「八九十」とは語られていますが、これらの数字はここ以外登場せず、「世」を示す文脈とは思えません。
ここでの主題は「御用」に関してであり、「〇一二」の御用から「十」まである、というように読めます。
つまり、時代区分としては「五六七」が最終段階であり、そこが世界の「修理固成(作り固め)」の到達点なので、それ以降はずっと「ミロクの世=弥栄の世」なのだと思います。

だから「五六七」までの数字に対する並びは、「一二三」「三四五」という時代区分を指すものであり、「五六七」をもって三段階の最終行程を指すのではないでしょうか。
だから「七八九の世」という概念は、神示には存在しないのだと思います。

「一二三」という時代区分は「五六七(みろく)」の世に至るまでの「闇の時代」であり、「三四五(みよいづ=御代出づ)」の過程を経て「ミロクの世」になるとしたら、やはり全三段としてこの並びを考えるのが妥当です。
そして、「三四五」の「五」は子年(=2032年)を含むので、「五六七(みろく)の世」は2032年以降の万劫末代まで弥栄える時代を指すのでしょう。

ならば、2025年現在はどの段階にあるのでしょうか。
まだまだ世相が悪化しかねない趨勢を感じる昨今ですが、「富士の巻・第九帖」にはこうあります。

今の世は地獄の二段目ぞ、まだ一段下あるぞ、一度はそこまで下がるのぞ、今一苦労あるとくどく申してある事は底まで落ちる事ぞ、地獄の三段目まで落ちたらもう人の住めん所だから、悪魔と神ばかりの世になるのぞ」 

「富士の巻」が岡本天明氏にもたらされたのは戦時中の昭和19年ですから、混迷を極めた敗戦間際は「地獄の三段目」だったかもしれません。
ただ、1945年頃の時点で「地獄の三段目」とするなら、その後の高度経済成長と不動産バブル崩壊を経ても、未だに世の中が「神と獣」に分かれていないのを見ると、少なくとも三段目は訪れていないように思えます。

むしろ、いよいよ「大峠」だという近年になって、日本人の精神状態がどんどん様変わりし、闇に沈んでいっていることを考えれば、まさに今「地獄の三段目」を迎えつつあるとも言えます。
よく考えれば、2020年の「コロナ・パンデミック」から世界の闇が如実に表面化したように感じられ、2020年が「三」の始めだったとすれば、2025年現在は「地獄の三段目」のちょうど中間地点あたりにあるのではないでしょうか。
ゆえに現在は「三」にあり、「一二三(ひふみ)」としては最終行程であり、「三四五(みよいづ)」としては初期行程にあると考えられるかもしれません。

だから2025年は「子の年」から続く、10年の折り返し地点であって、「五」がミロクの世(2032年)にあるなら、現地点を「三」とすれば、2029年までの4年をかけて「三」と「四」を駆け抜け、最終的に「五」に到達した時点で登り切ったことになるはずです。


「富士」と胸つき八丁
「下つ巻・第三十四帖」には、こう書かれています。

「戦済んでも、すぐに良き世とはならんぞ、それからが大切ぞ、胸突き八丁はそれからぞ、富士に登るのも雲の上からが苦しいであろうがな、戦は雲のかかっている所ぞ、頂上までの正味の所はそれからぞ、一、二、三年が正念場ぞ、三四五(みよいづ)の仕組みと申してあろうがな 」

この「一、二、三年」というのは、「三四五(みよいづ)の世」に至るまでの3年間である可能性があり、「2028年中」で暗闇時代が終わるとしたら、それまでの3年は過酷になることを暗喩しているのかもしれません。
「戦済んでも」というのは「第二次世界大戦」であり、「三千世界の大洗濯」というスケールで見れば、先の大戦も準備段階の一つに過ぎなかったということでしょうか。
だとしたら、「百年も続けて嘘は言わんぞ」というのも、大峠自体が100年単位の大事業である可能性が非常に高いと思います。

とりあえず話を進めると、戦後数十年をかけて「胸つき八丁」の位置まで私たちが「登山」をしたなら、「三四五(みよいづ)」は雲のかかる八丁(=八合目)あたりから始まることになります。
戦争終結時点で、我が国が何合目だったのか不明ですが、今は行程としては雲のかかる所にいるということです。

そこで、私たちが登るこの山は何なのかというと、何十年かけても登りきれないような日本の高い山は、「富士山」以外に思いつきません。
「木花咲耶姫命」が主祭神とされる「富士」は、登りきる時には「苦(九)の花」が咲き、かの女神様は私たちの登頂を祝福なさるのではないでしょうか。

このように、神示の中に出てくる数字は文脈によって全く軸となる変数が違うのです。
「一二三(ひふみ)」「三四五(みよいづ)」「五六七(みろく)」の並びを段階的変数とするなら、「一合」から「十合目」までの十進数を元にした変数もあるわけです。

そこで、文中によく出てくる「月」という単位も、「年」「歳」が比喩的に用いられたことを考えると、そのまま「月次」という意味に当てはめるべきではないかもしれません。
神示の中で「◯月」という表現はよくありますが、なぜか「秋」以降の「十一月」「十二月」という記述は一切出てきません。
つまり、「一月」から「十月」までの「月」に係る数字が肝なのであって、あくまで比喩的な数字と考えることができます。

その「月」というのは月と地(くに)を司る国常立尊(素戔嗚命=伊弉諾命)と関係し、例えば「八月」は伊弉諾命が岩戸を開く時という解釈もできるのです。
「碧玉の巻・第五帖」には「七は成り、八は開くと申してあろうが、八の隅(くま)から開きかけるのであるぞ、開けると〇と九と十との三が出て来る、これを宮(みや)と申すのぞ」 とあり、やはり「月(伊弉諾命)が開く」という読み方ができます。

だとしたら、「十月」から先が存在しない理由も明らかであり、十月には既に五六七(みろく)の世となっているので、十一月以降はあっても意味をなさないのだと思います。
ただし、「一二三」から「三四五」までの並びに、「一月」から「十月」までの並びを対応させることはできるかもしれません。
以下、それを一覧にしてみます。

・一…1、2月
・二…3、4月
・三…5、6月
・四…7、8月
・五…9、10月

「六」以降がないのは、「五」の段階で既に「ミロクの世」となっているからであり、神示に「11月」以降がないことに対応しています。

「地つ巻・第二十四帖」には「十月とは「−」と「|」との組んだ月ぞ」とあり、やはり神示解釈の中では「◯月」というのは、高い抽象度で捉える必要があるのではないでしょうか。


転換点は「2029年酉年」
神示の中でたびたび出てくる「秋」という表現は、「九月、十月」は季節としての秋を示していることに対応しています。
神示の重要タームである「鳴門の仕組み」とは、「五六七」の「七」が「成る」ことであり、「七が成る」と「十(ト)」が開くのです。
非常に日月神様っぽい言葉の使い方だと思いますが、「鳴門の仕組み」が「富士(不二)の仕組み」と同様、「岩戸開き」を指し示す概念であるのは言うまでもありません。

「天つ巻・第三十帖」には、「富士とは火の仕組み、渦海(なると)とは水の仕組みぞ」とあり、「火」とは「日(太陽)」に、「水」は「月」に対応しますが、また「火」を魂、「水」を肉体とすれば、神示の最重要テーマである、私たち人間の「身魂磨き」が「地の岩戸開き」のキーワードになってきます。

前述したように、「富士」は十合目まで登っていく「一二三(ひふみ)」から「三四五(みよいづ)」までの段階に対応しているので、これをして「富士の仕組み」と言って問題ないと思います。
「天つ巻」や「夜明けの巻」などに出てくる「鳥立つ」「十理(とり)立つ」という表現は、やはり「2029年・酉年」にかかっているのではないでしょうか。

神示の中に頻出している「辛酉」というワードが、時期的な予言を指しているとよく解釈されます。
この件に関して、干支の60周期では6番目、7つ目が「辛酉」となっていることに関係がある気もします。
「六」からミロクの世となる「七」にかかる時、その境目が「鳥立つ」辛酉になるからです。
また、富士の岩戸が開かれる時、「苦(九)の花が咲く」ことに、「辛かった鳥(酉)が飛び立つ」という意味にかけている可能性もあり、これも象徴的な意味だとしたら、単に「酉年」と考えても矛盾しません。

「岩戸」という語彙も、「岩=言(いわ)」が「戸(十)を開く」と解釈でき、「神は言波(ことば)ぞ(地つ巻・第三十四帖)」とあることから、「神の道」に落ちる闇を照らすには、「言葉」というものがキーポイントになってくるように思います。
それが「言霊」であり、口だけではなく「事(コト)を起こすこと(行動)」を意味するのかもしれません。
「身・口・意」が大事とは言われますが、この三つの「コト」をして「ミコト(命)=三コト)となると神示では語られています。


不完全だった「岩戸開き」
神示をよく読んでみると、文節間で時系列が錯綜しており、戦時中の天明氏を代表とする「ひかり教会」「天日月神奉賛会」に対する行動指針や、この先数十年後の「予言」が同じパラグラフの中に収まっているので、一見すると支離滅裂な印象を受けます。
この文脈が「日月神示」を難解かつ、ミスリードの多いものにした原因だと思います。

特に文中の要である「岩戸開き」に関しては、「開いた」「開く」と過去形と未来形が同時に並ぶので、混乱する要因となっています。
「雨の巻・第十帖」には、こうあります。
「天の岩戸開いて、地の岩戸開きにかかりているのだぞ、我一力では何事も成就せんぞ、手引き合ってやりて下されと申してあること、忘れるでないぞ、霊肉共に開くのであるから、実地の大峠の愈々となったら、もう堪忍してくれと何どんな臣民も申すぞ」

「雨の巻」が書かれたのは昭和20年10月から12月にかけてです。
この文面を読む限り、昭和20年には「天の岩戸開き」が完了していたことになります。
そして、未だ行われていないのは「地の岩戸開き」であり、それが「実地の大峠」であるとされます。

神示の降ろされた終戦間際を中心に考えると、直近の「子年」は1948年になります。
その前10年と鑑みれば、1939年に太平洋戦争が始まり、「終戦」一年前の1944年には、麻賀多神社で天明氏に神示が降ろされています。

そして「ひかり教会」設立が1947年ですから、やはり「地の岩戸開き」が近い将来にあるのを見越して、天明氏らがご活動されていたことが確認できます。
神示を直接受けて解読した天明氏が、その時期を曖昧に捉えていたはずがないと思います。
当時、天明氏らは「子の年を真中にして十年」後の1958年頃には、岩戸が開かれると考えておられたのではないでしょうか。

しかし、昭和33年(1953年)から34年(1954年)にかけて降ろされた「月光の巻」では「岩戸」という用語は一切出てきません。
それどころか、「天日月神」様からは悩める天明翁に寄り添い、後進の人々に人生訓を垂れる「親神」としての一面が色濃く出ています。

対して、1961年(昭和36年)に書かれた「五十黙示録」八巻には、かなり詳細な「岩戸開き」のネタバレがなされています。
「五葉の巻」には、「世が迫って岩戸が開いた(第五帖)」「 岩戸と申しても天の岩戸もあるぞ(第十一帖)」「天も地も大岩戸開き、人民の岩戸開きに最も都合の良い時ぞ(第十二帖)」と、未だ「地の岩戸が開かれていない」ことへの言及があります。

同「五葉の巻・第十五帖」には「岩戸が開けると言う事は、半分の所は天界となる事じゃ、天界の半分は地となる事じゃ」とあります。
つまり、岩戸とは「天と地」の間を塞ぐものであり、神と人を繋ぐ「道」が岩で阻まれているというより、天界と地上界の間に張り巡らされたフィルターのような印象を持ちます。

その「片方」が取り除かれた状態が「天の岩戸開き」であり、どうもこの幕は天界側と地上界側の二重構造なのではないでしょうか。
そして先に「天界側の岩戸」は開かれ、そのために神示では「開かれた」とされますが、厳密には「地上側の岩戸」は閉じられたままなので、岩戸開きは正しく実行されていません。
神示のニュアンスでは、「岩戸を開くことが(地上では)可能になった」という文脈であり、「岩戸が開く」とは似て非なる、ニアリーイコールの意味なのだと思います。

ゆえに、少なくとも1945年の時点では「天の岩戸開き」は成就しており、2025年今なお「地の岩戸開き」は達成されていないと考えられます。
神示の「地震の巻」は、天明氏が「御身(ミミ)」に入れた霊界の知識が書き留められています。
そこでの注釈を加えるならば、神界で起きたことは必ず、地上世界に反映するという法則があるそうです。
しかし、天界に「時間」という概念はないため、地上世界の時系列とは事象の順序が変わる事もあると言われています。

もしかすると、神界や幽界ではすでに「天の岩戸」が開かれたことで伊弉諾命と伊奘冉命が御手を取り合い、「天日月大神」として君臨する治世が始まっているのかもしれません。
しかし、地上では「地の岩戸」はまだ閉じたままなので、地上の時系列では国常立尊(伊弉諾命)が未だ地上で権能が発揮できない状態であり、ゆえに地上界と天界の開通はまだ実現していないのではないでしょうか。

それゆえ、天界では80年前に「岩戸開き」の準備は出来ているし、開くのはいつでも可能なのだけれど、地上での岩戸開きが行われない以上は「片方の岩戸だけが開いている」状態なのだと思います。
ただし岩戸は二重扉なので、片方のシャッターが閉じているだけでは障壁に阻まれ、双方共に進行不可能な状態なのかもしれません。

この辺の真相は、神々の世界を直感的に知り得ない人間には、到底思い知ることはできないでしょう。
しかし「岩戸が半分開いて、半分閉じている」と考えれば、「五十黙示録」の矛盾的な説明に辻褄が合うのです。

では、1945年頃には既に「天の岩戸」は開かれたのに、なぜ80年以上「地の岩戸」は開かれることがなかったのでしょうか?


1993年の岩戸開きは「見送られた」
ここで「青葉の巻・第五帖」にある有名な一節、「天明96歳7ヶ月、開く」という文言が重要になってきます。
順当に神示を読み進めていけば、1897年生まれの岡本天明氏がご存命なら「96歳7ヶ月」になる1993年6月には「地の岩戸」が開かれ、晴れて「ミロクの世」となっている算段になります。

直近の「1984年・子の年」から前後10年と考えれば、1993年は九年目の神界紀元に相応しく「酉年」であり、時候として申し分ない条件です。
1989年には「不動産バブル」が弾けており、その後「失われた30年」をもたらす日本経済の長期低迷の原因となりました。
神示にある「金で治めて金で潰す(黄金の巻・第五十九帖)」とあるように、バブル崩壊で拝金主義が潰れ、そのまま「お金中心ではない世の中」になってもおかしくありません。

しかし、そうはならず1995年1月には「阪神淡路大震災」があり、同時に「オウム真理教」の摘発などもあり、世は騒然となりました。
1993年に起こる予定だった「地の岩戸開き」が見送られたことに関して、どうも「月光の巻」が降ろされた1958年頃には、天明氏には既にそれが伝わっていたのではないかと思う節があります。

天明氏は晩年、「僕が早死にしたら」と妻である三典氏に語っていたそうで、まるで死期を悟っていたかのようです。
戦後とは言え「65歳」でお亡くなりになるのも、些か早すぎる気もします。
もし、タイムラインとして「96歳7ヵ月」に岩戸開きを見ることが叶うなら、天日月神様も弥栄の世に貢献した天明翁を労い、長寿を叶えられたのではないでしょうか。

しかし、1961年の「五十黙示録」を最後に、65歳という若さで天明氏は天寿を全うされています。
こう言うと失礼に当たるかもしれませんが、やはり晩年には百歳近くまでご存命をしても「弥栄の世を見ることは叶わない」と感じられておられたのではないでしょうか。

しかし、干支の「子年」は12年に一巡しますし、何なら1972年の子年を真中に「1982年頃」に岩戸開きが行われてもおかしくありませんし、なぜ「1993年」でなければならなかったのでしょうか。
しかも、「1984年」の次なる子年の有力候補が「2020年」と、なぜ35年以上も猶予が開くことになったのでしょうか。

「扶桑の巻・第六帖」には、以下の文章があります。
「三年と半年、半年と三年であるぞ、日は三日と半日、半日と三日、次に五年と五年じゃ、五日と五日じゃ、その間は暗闇(くらやみ)時代、火を灯しても暗いのであるぞ」

これも神示マニアの間では、議論の的となる部分です。
この「暗闇時代」の「七年七日」と「十年十日」の期間を合わせると「17年17日」になります。

冒頭でも扱ったように、「大峠」は「子年を真中にして10年」ということは合計すると「20年間」です。
現大峠の「正念場」は2020年の10年前、2010年から始まっている計算になるので、「正念場始めの年」から「暗闇時代」の17年17日を差し引くと、旧大峠「岩戸開き」の推定年である「天明96歳7ヶ月」の1993年と符号します。

「地の岩戸開き」の本来の予定である1993年の「真中の子年」は1984年であり、「正念場始めの年」は1974年、その17年前は最初の「地の岩戸開き」推定年の1957年酉年に当たるので、時期が一致します。
つまり、次回の「正念場始めの年」は1957年酉年から17年後、1974年となるために「1972年子年」では1958年ごろにあったと思われる「地の岩戸開き」から「暗闇時代」の17年を差し挟む余地がありません。

要するに、「大峠前10年」から「暗闇時代17年」を遡ると、前「岩戸開き」予定時の「正念場19年目(九歳)酉年)となり、間に干支を3回挟むことになるため、ちょうど「36年周期」のように見えるのです。

従って、2020年子年を境に後半戦に入った2025年から、あと「3年」の暗黒時代を経て、2029年には晴れて「地の岩戸」が開かれるはずです。
その時、天と地の二重扉が解放され「天地の岩戸開き」が成就することで「三四五(みよいづ=御代出づ)」となり、「五六七(みろく)」の時代を迎える、私はそう結論づけたいと思います。


最後に、岡本天明氏を偲んで
この記事のまとめとして、「ミロクの世」到来と岩戸開きを待たずしてご逝去なされた、岡本天明翁の「天命」について思いを馳せたいと思います。
天明氏は約17年間、不定期に神示を降ろされることで心身に負担をかけながら、長い時間と労力をかけて神示の解読と普及、ご活動に尽力されました。

私たちがこうしてインターネットで「日月神示」の全文を読み、互いに意見を交換し合えるのは、一重に天明氏とその最大の功労者であられる、三典夫人のご献身の賜物です。
戦後何十年かの間に何回か巻き起こった、「日月神示ブーム」の折、2013年に「神示」がパブリックドメインに変更されたことで、今私たちは氏の功績を辿ることができます。

それは天明氏が「没後50年」という時間を残されたことで、私たちは三十八巻の膨大なテキストを共有することが可能になっています。
65歳と、比較的に早く亡くなられた翁が自らの天寿を犠牲にして、より多くの人々に「日月神示」を知ってもらおうとされたのだとしたら、最後まで「天命」を全うされたように思えてなりません。

人々が神示を読み解き、その啓示を「肚」に入れ「ミロクの世」の礎とするよう、それを促すお役目と「天命」に対する責任感があり、そのようなご選択をなされたのだとしたら。

「日月神示は創作である」というご批判もありますが、私は例えこれらの文書群が「創作」でも問題ないと思います。
かつて、戦争という痛ましい現実に直面し、行き場のない義憤に堪えながら、懸命に生きられた天明翁の気持ちは、今抱いている私の気持ちと同じものかもしれません。

例え自分には何一つ変えられないとしても、もし一人の絵描きが世界を変えるために、ひたすら考えて机に向かっていたのだとしたら、私はその心に共感せざるを得ません。
もし、それが仮に「自動筆記」でなかったとしても、この文書群には深淵な宗教哲学と、日本神話への鋭い慧眼を感じます。

ただ、そもそも人間に「神」が降りて、その才能に「神の力」を与えるとしたら、本当に神が存在し才能に現象として現れるとしたら、天明氏の「創作」もまさに神業と言えるのではないでしょうか。
この神示が創作だろうと、本当に神の啓示だとしても、私はその奥に「天日月神」の実在を感じざるを得ません。

私の結論としては、やはり何らかの形で「神」が関わっていると思いますし、仮にそれを否定する理由があるとしたら、まず「神は存在しない」ということを証明しなくてはならないはずです。
それゆえ私は「日月神示」に確信を抱いており、この啓示の解読を通して、人々や来たる未来のために、周知を広げていきたいと思うのです。




*「日月神示解説」にて記事を投稿しました。* 

日月神示解説 | 「大峠」を読み解く


*「日月神示解説」にて関連記事を投稿しました。*

日月神示解説 | 「大峠」を読み解く

*サイト「招神万来」でも、同じ記事が読めます*
招神万来 | 神様と人を繋ぐブログ
※10月末まで忍者ブログ版「招神万来」の更新は続きますが、どうぞサイトの方もよろしくお願いします。

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「悪神」について

楽太郎です。

私が別名義で運営している「日月神示解説」というサイトに、先日の「日月神話」の解説ページを追加しました。
日月神示解説 | 「日月神話」

今回の記事もかなり突っ込んだ内容になりましたが、日月神示ですら「悪神」の正体についてボカしているのに、そこを言及する当たり「神をも恐れぬ」傍若無人さに自分で恐縮します。

考えてみれば、「宇宙開闢」を行った元の世の大神にも、更なる上の次元の「神々」が存在するでしょうし、どこかで「存在」や「概念」という「概念」そのものを作り出した「神」がいるはずです。
その「超」がつくような根源神が「善と悪」「光と影」という概念を作り出す時、その役割を受け継ぐ「神々」、つまり「悪」を司る神も生み出されたとしたら、とても自然な話です。

「別天津神」の神々がこの宇宙を創造なされた時、「光と影」もまた「善の神と悪の神」となり化成する必要があったでしょう。
その両属性がなければ、世界は成り立たず「生長しない」のですから、どこかで「汚れ役」を買う神様に存在してもらわなければなりません。

その大役を仰せつかったのが、伊弉諾命と伊奘冉命の二柱にご誕生なされた第一子、正真正銘の「天日月大神の長兄」たる「ヒルコ神」なのではないでしょうか。
しかし、次世には世を支配するであろう御神格でありながら、自ら最大の「汚れ役」となって世に災厄をもたらす存在となった時、この世の全ての「負のカルマ」を背負うことになったのかもしれません。

ただ、それだけの「苦しみ」や「不幸」を司る神は、それだけ大きな業に耐えうる器でなければならず、それゆえに「天日月大神の正統後継者」ほどの霊格でなければ務まらなかったのだと思います。

ここまでは「日月神示」を読んだ上での、ただの感想であり、妄想にすぎません。
ただ、そう考えると今の世に起こることも妙に説明できてしまうというか、変に納得してしまう部分すらあります。

「オノゴロ島」から葦の船で流されたヒルコ神は、北のロシアに流れつくとまず「父への復讐」を誓ったでしょう。
その父は「月と地球を司る神」であり、その身体は「日本列島」にあるのですから、かの地を分断し天の益人(日本人)を根絶やしにすれば、父「伊弉諾命」への復讐になります。

そのためには、まず「人間」を大勢従え、日本を攻め落とす「尖兵」に変える必要があります。
ロシアに上がった悪神にとって、地続きの「ユーラシア大陸」は常に国境が隣り合わせのため、領土紛争が絶えず「戦争」には事欠かない土地だったでしょう。

そこで悪神は、人類が誕生してからこの数千年、ずっと「帝国」を中心とした「侵略と征服」の文明を依代とし、徐々に「悪心」を人間に植えつけて行ったのではないでしょうか。

ヨーロッパの大地は元々肥沃な土地ではないため、領主が富を増やすには領土拡大を続けるのが効率的です。
ヨーロッパの戦史は、人類の歴史そのものと言っても過言ではありません。
シュメール文明、エジプト文明からギリシャ文明、ローマ帝国と続き、アジア、イスラム系の文明も隆盛してくると、ヨーロッパは戦乱の時代となります。

ローマ帝国が滅びると、かつての構成国のフランク王国が中心となり、西欧は諸王国が権勢を競う群雄割拠の時代に突入します。
中世が終わり「大航海時代」を迎えると、西欧諸国は世界各地を侵略し、現地住民を虐殺し掠奪しては、西欧に「富」を運び入れました。

フランスの王権と争い続けたイギリスは、時に新大陸「アメリカ」への植民地化を始め、先住民を殺戮してはアフリカ大陸から「奴隷」として人々を連行してきました。
そして、彼ら「奴隷」となった黒人をプランテーションで働かせることでアメリカは「富」を集約し、ついには覇権国イギリスから「独立」を果たしたのです。

この「文明史」は、まさに「戦争と搾取の歴史」そのものです。
アメリカの黒人は未だ差別の対象であり、貧富の差は歴然としています。
世界では互いに異なる民族同士が争い、憎み合うことが国家ぐるみで推奨され、その教育を受け入れる人々は自然と他民族への「迫害意識」を抱きます。

その「悪意」が世界に蔓延するからこそ、これまでの世界は草葉の陰に至るまで憎み合い、いがみ合う時代になっていたのではないでしょうか。

そして現在、「グローバリズム」という毒にも薬にもならない強弁が世に蔓延ることで、人々は分断され真の「多様性」や「自由」が脅かされています。
その上部には、富裕層を中心とするエリート階級の「利権」が見え隠れし、裏というか表として堂々と「世界政府」が語られています。

日月神示「月光の巻・第三十二帖」にはこうあります。

「世界連邦と申しているが、地上世界のみの連邦では成就せぬ、片輪車で、いつまでたってもドンテンドンテンじゃ」

この神示が書かれたのは1958年ですから、「国連」がまだ健在だった頃です。
ウクライナ侵攻で常任理事国のロシアがなし崩しの言動を取ることで、国連は事実上「絵に描いた餅」になってしまい、今ではNATOが半分役割を担っています。

その国際秩序が脆弱になった頃合いを見計らって、「世界経済フォーラム(WEF)」のような国家的エリートと富裕層を中心とする組織が、堂々と「世界新政府」などと言い出して今に至ります。

神示の降ろされた時代と違うとは言え、いくらなし崩しになろうと「国連」に世界征服のような悪どいことはできなかったでしょう。
なれば神示に語られる「世界連邦」というのは、アメリカの超富裕層で構成される「世界新政府」を意味し、その脅威が「日本を八つ裂きにするために、世界中から攻め寄せる」という説明とピッタリ一致するのです。

「悪神」はこれまで人間の欲望を刺激し、その支配欲を原動力として「争い」を支配してきました。
それは「戦争」だけでなく「競争」においてもです。
「お金」や「社会的地位」や「ルックス」は、人々のモチベーションにもなり得る反面、無意味な優越感を煽り、憎悪を生み出す原因でもあったのです。
また、過剰な「右肩上がり」の市場的バイアスは、大勢の人々の幸福度を犠牲にしてでも「企業」として隆盛することを良しとしました。

その「経済」の仕組みを最大限に使って史上最大の「帝国」となったアメリカは、第二次世界大戦で敗戦国となった日本を占領し、その国家の枠組みすら好き放題にしてきました。
それはまるで、「お金」というモノに宿った悪神が、日本を「金で潰そうとしている」ようにも見えます。

ヒルコ神の次に誕生した「アワシマ」は、神産み国産みでは「島」と「神」が同時に産まれていることから、ヒルコ神は「アワシマ」の守護神と言えます。
現在、米国株式市場を席巻する「第二次ハイテクバブル」という「アワ」が、金融を支配する「ヒルコ神」によるものだとすれば。

アメリカ経済という「アワシマ」は、国常立尊の眠る「オオヤシマ」の国を攻め落とすことができるのでしょうか。

神示には、「金で治めて金で潰す」とあります。
悪神が日本を金で潰そうとするなら、金を「金」で潰されたら日本は潰せません。
どうも私は、そういうシナリオになりそうな予感がします。

ゆえに、悪神の思惑は「神示」の通りに潰えるのではないでしょうか。
しかし、悪の思惑が潰えたからと言って、それが「平和」を意味するとは限りません。
神示の言うように「悪を抱き参らせる」には、既にある「悪」と手を取り合うことが必要です。

これまで「お金」が世を悪くしていたのだとしても、「お金」自体が悪いのではありません。
「戦うこと自体」が悪いのではなく、「競争自体」が悪いわけではありません。
お金が好きな人も争いが好きな人も、殴り合いが好きな人もいますが、それを望まない人がたくさん巻き込まれる仕組みが問題なのです。

そもそも、自分がしたいのなら似た人々を集めて、似た者同士でやればいいでしょう。
超富豪も、一つの島や大陸で収まっている分には全く問題ありません。
その食指を世界中に伸ばし、サービスを寡占し、政治を牛耳り、利権を得るために弾圧し、言論をピックアップし、情報を統制し、争いを仕掛け、搾取する仕組みを世界中の人々に強制するのが良くないのです。

そこまで徹底したシステムを緻密に組み上げてきた悪神は、言い方は悪いですが腐っても神であり、やはり素晴らしい神能であらせられると思います。
ただ、そういう時代は終わらせなければなりません。

「お金」は商業取引をスムーズに行う最善の手段であり、当然これ自体は有用なものです。
だから、「お金の時代」が終わるということは「お金に対する向き合い方が変わる」だけで、「お金」そのものの性質まで変える必要はありません。

問題なのは、資本の形骸化した仕組みだけが一人歩きし、それを良くない使い方をする人々が多いからで、改まるべきなのはその「仕組み」です。

「悪」と手を取り合うとは、追従することでも懐柔することでもなく、存在を許しお互いが存立し合いながら、「害」となる仕組みを最小限にしていくことです。

「悪」が存在してもこちらの「善」が損なわれなければ、そこには「自由」があるだけであり、その状態を「共存」と呼びます。
この「共存」を阻む力「」こそ退けなければならない「悪」であり、このための自衛にこそ「戦い」はあるべきなのです。

「共存」を阻害し、境界を無くすということは巨大な力が集権を強めることであり、それは「独裁」を可能にし全体を「帝国化」するでしょう。
それが最終的な「グローバリスト」の目的であり、その支配欲を覆い隠すためのレトリックが選択の限定された「多様性」です。
しかし中央集権というのは、歴史的に見てこれほどハイリスクで、不安定な社会構造は存在しません。

その為政者が露悪的で、野蛮さを隠さないほど強権的となり、その傘の内にいる人々は生存を脅かされるでしょう。
その脅威が強まるほど危険性は肥大し、人々は「滅亡」に近づいていきます。

その趨勢を感じる今、本当にそうなることを「神々」はお許しになるのでしょうか。

もし「悪神」がこの世界に君臨し続けようとするなら、人間を絶滅させた上で草木や動物相手に「悪」を行うことはできません。
つまり、「人間」あっての「悪」であり、人間のいない世界の悪魔は大してやることもないはずです。

だから「悪」と人間は持ちつ持たれつであり、永く「悪」であるためには良い塩梅に人間を滅ぼさない方が良いでしょう。
ゆえに、悪神からしても人類が滅ぶことだけは避けるはずです。

ならば、「人間を生かす」悪の中には何%かの「善」があるはずです。
果たして「100%悪ではない」悪神とは、本当にこの世界を闇に沈める大魔王と言えるでしょうか?
それはそれで、「悪」を支配する「大神」の下で「大神」のために働く「正しい」神なのではないでしょうか。

「悪」がこの世界に必要だからこそ、この世界に悪があることが神々から許されているのです。
そして、これまでの時代も、次の時代においても変わらず「悪」が必要なのです。

人間も天使も神も、「ひたすら善良なだけ」の世界に多様性はなく、キラキラするだけのつまらない世界でしょう。
だからこの世界には「歪み」が必要であり、「倒錯」する自由が必要なのです。

そして、その「曲がり事(禍事)」を許す自由を「悪」と呼び、「悪」があるからこそ「自由」はより自由になるでしょう。
ただ「悪」は自分たちでやる分には「善」であっても、その力を外に向けるから「悪」は「害」をなし、許されないものになってしまいます。

その関係に白黒はなく、複雑に絡まる世界の中で、いかに最小公約数の軋轢と最大公倍数の幸福を実現できるか、そこに「善も悪もない」新しい世界の鍵があるはずです。

それが「ミロクの世」だとしたら、カタストロフによる人類の歴史的な学びも、完成へと向かう文明にとって必要なプロセスです。
だから、「悪神」とは「正しい神」であり、本質は「善の神」なのではないでしょうか。

古き良き日本人は、恐ろしい祟りをもたらす悪神や怨霊を、きちんとお祀りすることで味方につける、「御霊信仰」という考え方を持っていました。
昔の日本人にとって、「悪霊」も自分たちに害をなさなければ問題ないし、それだけすごい「霊力」があるならあやかろう、と考えたのです。

「悪神」を必ずしも「ヒルコ神」に結びつける確証は、今のところありません。
ただ「ヒルコ神」は、奇しくも「恵比寿様」として人々に金運をもたらして来ましたが、もしかすると「悪神」も、きちんとお祀りすれば改心することがあるのかもしれません。

神々に仇なす「闇の者たち」も、愛や感謝の気持ちを投げかければ、いつか「光」に戻っていくとしたら。
その願いを抱く人々が生きていく世の中が「ミロクの世」ならば、弥栄しないはずがありません。

「お金」は必要ですが、必要ではない世の中にすれば「悪」にはなりません。
お金が「必要」でなければ生きられない社会を作り上げ、それを食い物にしてきたのが「悪」ならば、そのやり方が通用しない仕組みを作ればいいのです。

「善」を絶対化するから「悪」は際立ちますが、「多様性」という価値観の下で他者を脅かさない環境ならば、「悪」は許され「悪」ではなくなるでしょう。

それは「人間」には実現するのが不可能なことでしょうか?
この地上世界の支配者は肉体を持った人間であり、人間が手を動かすことで作り上げたこの世界を、自分たちで変えられないはずはないのです。

そうして「悪を抱き参らせる」世界になるのなら、何となく古き良き日本の姿に戻っていくだけのような気もします。
私たちは、この数十年で様々なものを失いましたが、むしろ取り戻すために手放したのだとしたら、また掴めば良いだけなのだと思います。


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「日月神話」

楽太郎です。



今回は、「日月神示」に関する記事です。
以前、「天日月大神解説」という記事の中で、神々の中心に「御三体の神々」が存在し、「天御中主神、高神産日神、神産日神」と「伊弉諾命、伊奘冉命、撞賢木向津姫命」の計六座で「天・地の御三体」を形成していることを図説しました。

「日月神示」に書かれた神話は、「記紀」や神社伝承にある神道的系譜とは若干異なります。
御三体の神にあらせられる「撞賢木向津姫命」は記紀には登場なさいませんし、六甲比売神社に祀られる「六甲比売(むかつひめ)命」や、伊勢神宮荒宮に祀られる「撞賢木厳之御魂(いつのみたま)向津姫命」の神々とも関係性は不明です。

また、「天御中主神、高神産日神、神産日神」の三柱を「造化三神」とするのは良いとして、補遺である「アメツチの時」によると、以上の三柱に「天国常立尊、国常立尊、豊雲野尊」を加えた七柱を「別天津神」としています。

「紫金の巻・十二帖」には、どうやら「天常立尊」の代わりに「クラゲナスタダヨエル」という神が「ウマアシカビヒコジ」神と対比する形で登場しています。
この「クラゲナスタダヨエル」という御神格は少なくとも記紀の系譜には存在せず、一般的には「アメノトコタチ」とされます。

「日月神示版・別天津神」の次代に「国常立尊」と「豊雲野尊」が続きますが、「至恩の巻・七帖」によれば、別天津神五柱を繋ぐ「+と−」の働きとして、男女ペアの二柱が存在するとされます。
しかし一般的な「神代七代」では、神示版別天津神に国常立尊・豊雲野尊の二柱が加わっているため、神示の神代では「ウイジニ・イモスジニ」以下「イザナギの神・イザナミの神」までの五代になります。

また神代五代の「イザナギの神・イザナミの神」がそれから「成りなりて」「伊邪那岐命、伊邪那美命」となり、国産み・神産みをしたとされます。
つまり、記紀や一般的神話と神示の系譜は若干異なります。

それは日月神示が、岡本天明氏の創作だからデタラメなのだ」という批判があるでしょうが、例えば「クラゲナスタダヨエル神」と「ウマアシカビヒコジ神」の御神格に関する説明に違いが見られる点は、一考に値します。

「ウマアシカビヒコジ神」に関して日本書紀に記述はなく、代わりに「泥(ひぢ)の中に生(おおい)でるがごとし、すなわち人(かみ)と化成(な)る」とあります。
対して神示では「ヨコの十の動きがクラゲナスタダヨエル、タテの十の動きがウマアシカビヒコジ」と語られています。

神示にあるウマアシカビヒコジ神は、宇宙に漂う泥のようなモノから、葦の芽が伸びるように生まれ出た生命、という記紀的な説明より「十のタテ」という空間的な捉え方をしています。
「まつりの巻・第一帖」では、「十(かみ)の動くのが卍(ほとけ)ぞ)」と書かれています。
つまり、「十(かみ)」のタテの動き、神が「生長」「発展」する働きを「ウマアシカビヒコジ」とし、ヨコの動きを「クラゲナスタダヨエル」とするなら、ヨコとは「交流」や「拡大」と捉えることもできます。

「神は生長し、弥栄する」存在であるからこそ、全知全能でありながら完成に向けて成長し続ける、そう神示には語られています。
そのため、「ウマアシカビヒコジ神・クラゲナスタダヨエル神」以下の世代は「人」という形を持ちながら、転生を重ねることで「神としての自己同一性」を発展させているように思えます。

ここまでは「神」としての「法則的存在」であり、これら五柱の働きを補完する、或いは「働きそのもの」として、男女ペアの神々が「+と−」の役割を担い、それが成りなりて「伊邪那岐命、伊邪那美命」に繋がっているように考えられます。

この説明を辿る限り、記紀の記述にはない独特の「形而上学」、即ち宇宙哲学があります。
この世界観が例え天明氏の創作であろうと、この内容の深淵さは一瞥すべきです。
もし「日月神示」が真の神の啓示なのだとしたら、この宇宙創生の神話が実際の神界と世界の成り立ちを説明していることとなり、「聖書」のように一つの宗教的到達点と見ることもできます。

ゆえに、私の文脈では「神界の真実である」という前提で話を進めていこうと思います。

「日月神示」の興味深いところは、神道の一般的な固有名詞と互換性がありながら、一般的でない神名や微妙に異なるニュアンス、伝承とのズレがあり、どちらかというと神示独自の文脈が存在することです。

例えば「御三体の神」に加わる「つきさかきむかつ姫」に関しては、天照大御神荒魂の「撞賢木厳之御魂向津姫命」と同一神であるか、はっきりしません。
神示には「地上にご活躍する元の生き神」として「雨の神、風の神、荒れの神、岩の神、地震の神、竜宮の乙姫」がよく挙げられています。
しかし、その神々に「木の神、金の神、日の出の神」が加わったり加わらなかったり、微妙な表記揺れに関して詳細な説明がないため、一見矛盾しているようにも感じます。

それらの神々が「十柱」や「九柱」であることもあったり、様々なバリエーションがある中で、聞き慣れない神名が登場することもあります。
「水の巻・第十帖」には「火の神」が挙げられますが、「今の臣民にわかる様に申すならば」とした上で、「わかひめきみの神」と述べられます。

「火の神」と言えば、一般的には「火之迦具土(ひのかぐつち)命」です。
しかし「わかひめきみ」とは、おそらく「稚日女(わかひるめ)命」のことであり、もしくはもう一対である「君」の「稚彦命(?)」を加えた二柱を指しているのではないでしょうか。

ただ「稚日女命」は一般的には天照大御神の侍女とされ、記紀では素戔嗚命が皮を剥いだ斑駒を屋敷に放り投げた際、機織りに使っていた梭(ひ)を身体に突き刺したか、「陰部(ほと)」に突き入ってしまい、その傷が元で亡くなられたとされます。
「稚日女命」に兄か弟に当たる「稚日彦」が存在する記述はありませんが、近い御神格に「天若日子命」がおり、葦原中津国平定の段において大国主の娘の下照姫と結婚したことで、戻って来るように催促しに来た雉を殺したため、高皇産日神の怒りに触れて矢で射殺されたとされます。

しかし、「稚日女命」も「天若日子命」も神格として「火の神」という扱いではありませんが、奇妙なことに両神とも不遇な死を遂げています。
ただ「火之迦具土命」も伊奘冉命が出産後、「陰部(ほと)」を火傷したことで亡くなり、それに怒った伊弉諾命によって首を切り落とされてしまいます。

この奇妙な一致に関しては後ほどまた取り上げますが、「紫金の巻・第十二帖」では「暗劒(くらつるぎ)殿」という神名が登場しています。
この「暗劒神」という御神格は、全く一般的ではありません。
しかし同じ文脈を他と比較しても、「火の神」が「暗劒殿」に対応しているとしか考えられないのです。

この「暗劒」という表現を分析した時に、「暗・闇(くら)」というのは「明・昼」に対応し、「和魂」に対する「荒魂」ではないかと思います。
では「剣」とは何かと言うと、「富士の巻・第三帖」には「三種の神宝」として「玉とは御魂ぞ、鏡とは内に動く御力ぞ、剣とは外に動く御力ぞ」とあります。
つまり「剣」とは「◉」の外側における働きであり、まとめると「暗剣=荒魂」になります。

では一体、何の神の「荒魂」なのでしょうか。
「荒魂」で一番最初に思い浮かぶのは「天照大御神荒魂」であらせられる「撞賢木厳之御魂向津姫命」です。

「稚日女命」とは、天照大御神の侍女か「妹」という説が一般的ですが、私の神示解説では「真の天照大御神は伊奘冉命である」と結論づけています。
だから「稚日女命」とは「御三体の神」の一柱である「つきさかきむかつ姫=撞賢木厳之御魂向津姫命」と比定できるかもしれません。

神示では「日の神が火を司り、月の神が水を司る」と語られています。
つきさかきむかつ姫が伊奘冉命の御子神であれば、「日(火)の神」としての神能を受け継いでいてもおかしくありません。

別のところでは「春の巻・第三帖」の「節分祝詞」の中で、「大日月大神、皇神御前」として「大国の常立大神」「豊雲の豊大神」以下に、「祓戸大神」の四柱「瀬織津姫命・速秋津姫命・息吹戸主命・速佐須良姫命」の神名が挙げられています。
ここの件は非常に興味深いのですが、伊勢神宮や古文書では「撞賢木厳之御魂向津姫命」は「瀬織津姫命」と同一神であらせられるとされます。

瀬織津姫命は、祓戸大神であり水の女神とされるので、「稚日女命」が火の神として挙げられることと矛盾します。
しかし「つきさかきむかつ姫」が伊弉諾命と伊奘冉命の二柱の御子神であるとすれば、「日(火)と月(水)」の両属性を司る神能を有してもおかしくありません。

神示の中に出てくる「竜宮の乙姫」とは、かつて滝に「龍」を連想し、滝の女神である瀬織津姫命が「白龍の化身」とされることから、私は当初「竜宮の乙姫」が「瀬織津姫命」なのだと思っていました。
しかし「暗劒殿」の文脈では「竜宮の乙姫」も列挙されているので、同一神とは考えられません。
上述の「水の巻」では、竜宮の乙姫は「玉依姫命」と同定されています。

日月神示の中では、元の神々は大地や気象を司る「龍体」の神であるとされます。
おそらく「海神」の「龍族の末娘」という意味で「綿津見神の次女の玉依姫」に宛てているのではないでしょうか。

私個人としては、「玉依姫」の「玉」とは「サ(稲霊)」であり、「狭依姫命」と同定されうる「瀬織津姫命」の意味合いもあると考えていますが、その詳述は「玉依姫命について」という記事にあるので、どうぞご覧ください。

話を戻しますが、伊弉諾命と伊奘冉命の御子神が「つきさかきむかつ姫」であり「火」を司る能力があるとしたら、神示では「岩戸隠れ」したままの真の天照大御神の変わりに、「日(火)」を司り現在の「天照皇大神宮の神」としてお祀りされている根拠ともなり得ます。

とは言え、実際に伊勢神宮に「撞賢木厳之御魂向津姫命」が天照大御神として祭祀されている理由に結びつくかは不明です。
「わかひめきみ」が「稚日女命」「天若日子命」と比定されうるとして、同じく二柱の紛れもない御子神でありながら不遇の死を遂げた「火之迦具土命」について、どう考えたらいいのでしょうか。

そのヒントは、神示「日月の巻・第三十帖」にあります。
この文節は「記紀」の神産みの段に準えておりダイジェストになっていますが、時に「同じ神の名が二回」登場します。
神示には「同じ名の神が二つある」と述べられており、それらは「善」の顔と「悪」の顔がある、つまり「和魂」と「荒魂」を意味しているのだと思います。

文節内の「迦具土神」の件で、「闇山津見(くらやまつみ)神」が「陰(ほと)」から生じたとされます。
実は「陰(ほと)」が性器を指す場合は女性器以外になく、男性器を指す古語は「はせ」が使われます。
陰部から誕生した神は「闇山」であり、渓谷や洞窟などを彷彿とさせるため、どことなく「女性器」を連想します。
つまり、ここでの「迦具土神」とは女神であり、不慮の死を遂げた稚日女命と繋がるのではないでしょうか。

だから「火之迦具土命」が火の神であり、稚日女命と同一視するならば、神示の中で「火の神」という扱いを受ける理由になり得ます。
火之迦具土命は伊弉諾命に首を切り落とされた後、数々の自然神を自らの身体から産み落としますが、素戔嗚命に斬り殺されて亡骸から穀物を発生させた「大宜都姫命」、同様に月読命に斬られた「保食神」とも同じ図式が浮かび上がってきます。

こういった神話形式の類似を鑑みるに、おそらく元は一つの神話だったのではないでしょうか。
「素戔嗚命」と「月読命」は同一神説があり、神示の「荒れの巻」を読み解く上では「素戔嗚命=伊弉諾命」なのです。
要は伊弉諾命が娘の「つきさかきむかつ姫」を殺す図式の神話が、一般的に世に流布していることになります。

ただし、実際の「撞賢木厳之御魂向津姫命」は天照皇大神宮神として伊勢神宮にお祀りされていますし、瀬織津姫命としては「祓戸大神」であらせられれます。
即ち「死んだ神」という訳ではなく、むしろ「元津世からの生き通しの神」であり、「何者かに殺される」という経緯を辿ってはいません。

ただ、「つきさかきむかつ姫」がご誕生された後、母神である伊奘冉命が「岩戸隠れ」され、地下世界に行かれ隠棲なされたのは記紀と共通しています。
従って、その後に隠棲なされた伊奘冉を慕って、伊弉諾命が黄泉の国に会いに行く筋書きはどちらも変わりません。

思い出して頂きたいのは、伊弉諾命と伊奘冉命の第一子は「ヒルコ」とされることです。
「ヒルコ」とは「日る子」であり、「る」は接続助詞として「日の子」を意味し、二柱の第一子は「日(火)の神」だったのではないでしょうか。

しかし、ヒルコとアワシマに関しては、成婚後に伊奘冉命が先に声を掛けて子作りを行ったため、不具の子として産まれたとされます。
伊弉諾命と伊奘冉命は「兄妹」として産まれたとされ、いわゆる「近親相姦」による遺伝的異常を連想します。

この神話の原型は、与那国や沖縄にルーツのある「洪水型兄妹始祖神話」の形式を持ち、人類の始祖として存在する一組の兄妹、という共通項があります。
そのパターンでは「近親相姦を避けるためにタブーを解除する通過儀礼を行う」という性質があるそうです。

伊弉諾命と伊奘冉命はまず「日と月と地」を作った後、オノゴロ島に降りて天の御柱を境に反対に周り、出会った所で交わったとされます。
この儀式は神から「近親相姦」のタブーを解除するための「清め」であったのだと思いますが、それでも女性の方から声をかけたのが原因で、不具のまま産まれてしまったヒルコは、葦の船につけられて流されてしまいます。

酷い話だと思うのですが、この子は実の子として数えなかったとされます。
この第一子の「ヒルコ」が「日(火)の神」の後継男子として名を消された神なら、神産みの最後に産まれた「火之迦具土命」は「日(火)の女神」です。

ゆえに「ヒルコ」と「火之迦具土命=稚日女命=撞賢木厳之御魂向津姫命」は一対の「日(火)」を司る神格だったのではないでしょうか。

しかし「ヒルコ」が流されてしまったため、「火」を司る神は「さかきむかつ姫」のみになったのだと思います。
系譜ではそうなっていても、事実上は「ヒルコ神」と「稚日女命」の二柱なのですから、「わかひめきみの神」で間違いはないのです。

ヒルコ神は「蛭子」とも書かれるので、火の神でも「水」の属性を持っているように感じます。
「つきさかきむかつ姫」が「瀬織津姫命」であるとすれば、二柱とも「火と水」の両属性を持ちうることになります。
これは「日(火)」を司る伊奘冉命と、「月(水)」を司る伊弉諾命の血統を、両方受け継いでいるように見受けられます。

ここまでは物語の延長として空想しうる部分ですが、不具の子というだけで「実子」として認められなかった、忌み子のヒルコ神に対する同情はいつの時代もあるようで、ヒルコ神が葦の船で流されて辿り着いた先で「少名彦那命」や「七福神恵比寿」として、立派になって戻ってくるという神話が民間では広く知られています。

では、この「ヒルコ神」に当たる神を「日月神示」ではどのように取り扱われているのでしょうか。
ここから先は、完全な空想の「物語」としてお聞き下さい。

神示に挙げられる十二柱、国常立尊、豊雲野尊、雨の神、風の神、荒れの神、岩の神、地震の神、木の神、金の神、火の神、日の出の神、竜宮の乙姫。
この神々は、かつて地球が「泥海」だった時代から今なお生き通しであり、地球の自然体系を司っています。

しかし、偉大なるこの神々以外にも、「泥海」の頃から生き通しの神が存在します。
それが長らくロシアに上がっていた「悪神」です。

「大峠」において拮抗状態であった「善と悪」の神々の戦争で、「九分九厘」まで神の国を闇に染めうる強大な神力を持つ悪神。
私は、かつての「ヒルコ神」が悪神の正体ではないかと思うのです。

順を追って説明します。
泥海を作り固めた神々のうち、「火の神」が「わかひめきみの神」であり、先ほど「つきさかきむかつ姫」と同定できると説明しました。
かの女神には、先に産まれた「ヒルコ神」の存在を「兄」として想定することが可能です。

「神示」には記紀にあるようなヒルコ神の存在は、どこにも記されていないように見えます。
ただ「五葉の巻・第一帖」には、以下の文章があります。

「あの子を生んで、この子を産んで去ったのであるぞ、その中に一人だけ良くない子が出来た、その子には海の藻草や山の菜、野菜を食べさせてくれよ、段々良い子になるぞ」

この文節を読むに、ヒルコ神が「良くない子」として産まれた、かつての故事を連想します。
そしてこれを語る日月神様が、まるで「父」であるような優しさをもって、「緑のものを食べさせやれ」と仰っています。
あたかも、良くない子が獣のように、肉ばかり食べているような印象を持たないでしょうか?

ヒルコ神を流した「葦」は、当然「豊葦原瑞穂の国」である日本の「オノゴロ島」から流されています。
日本のすぐ「北」にはロシアがあり、悪神が上がっていたとされる大陸です。

そして今回の大峠にある「神の国」を八つ裂きにし、奪いに来る悪神は「北」からやって来るとされます。
神示には日本列島は「国常立尊」の影とされ、「艮(東北)」に封じられていると言われています。
この悪神はまるで、自分をかつて捨てた父に対し、復讐しに向かっているように見えないでしょうか。

そう考えると、悪神が「日本列島」を狙う理由がわかる気がします。

「良くない子」だからと、北の地に押し流して一方的に離縁した父、伊弉諾命に反感情を抱き続けた「ヒルコ神」は、地上の曲がった気から誕生した「幽界」の悪霊「オロチ、金毛(キツネ)、邪鬼」を従えました。
彼ら闇の者を遣わして善の神々を誑かし、騙された神々は「伊弉諾命(国常立尊)と伊奘冉命(豊雲野尊)」を岩戸に封じ込めます。

日の神は岩戸の中に閉じ込められ、月の神は地中に封じられてしまい、神界の「日月」の玉座は空白になります。
そこで神々は二柱の正当な神能を受け継ぐ「つきさかきむかつ姫」を「日の神、天照大御神」として祀り上げることにしました。

これが第三の岩戸閉じである「偽の岩戸開き」であり、日月の神を失った神界をつきさかきむかつ姫が支配するも、悪神の力が強大すぎて神界に「乱れ」が生じたのではないでしょうか。
この悪神の性質は「我よし」そのものであり、いくら神とは言え「我」を出してしまえば、悪神の思惑に飲まれていったのかもしれません。

この悪神が「ヒルコ神」なのだとしたら、伊奘冉命が先に声をかけるという「いろは(色)」を間違えたことで産まれた神であり、それゆえに神示では「神界の乱れは色からぞ(春の巻・第二十五帖)」とあるのだと思います。

この「悪神」が伊弉諾命と伊奘冉命の二柱の実子であるからこそ、我が子が不良化した理由にも心当たりがある伊弉諾命こと「天日月神」は、「悪を抱き参らせねばならぬ」と仰るのかもしれません。
一度は「悪」として見捨てても我が子、やはり愛情があるからこそ、いくら悪でも「可愛い」のでしょう。

この神が現在、世界の「金融」を支配して戦争と拝金主義の世を作り出し、混沌をもたらしている悪の根源としたら、その企みが潰えることは約80年前に「日月神示」が岡本天明氏に降ろされた時点で、すでに決まっていたのかもしれません。

いずれ世界が「ミロクの世」となるならば、「天日月大神」となられた「伊弉諾命」と「伊奘冉命」の二柱は、かつての「素戔嗚命」のように散々グレて暴れた息子に対して、「抱き参らせる」日が来るのでしょう。

ならば「不和」だった世界が「調和」に向かう時、「闇の世」は次なる世界の「造り固め(修理固成)」のためには必要なプロセスだったのではないでしょうか。

だとすると、やはり大神から見れば「悪」はこの世に必要な法則の一部であり、「悪神」もまた世界の生長のために欠かせない存在なのかもしれません。
ヒルコ神が「出来損ないの日(昼)の神」だとしても、「闇を司る神」として、この宇宙には重要な大神であることには変わりはありません。

そんな大きな一つの「家族」の物語が、神界を巡る歴史であり真実なのだとしたら、この世界がどんなに醜く悲惨でも、その涙の奥に「美しい」と思える本当の景色が見えてくる気がします。
この宇宙はすれ違う「家族の物語」の一部であり、その波乱と和合に向かうストーリーの映しとして、人類と地球の歴史があるのかもしれません。

そこには「破滅」だけでなく、悲しみや死だけではなく、「愛情」が全てを内包する世界があります。
「日月神示」には、そんな物語が読み取れるのです。


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「玉依姫命」について

楽太郎です。

今回は、久しぶりに「日本神話」に関する記事です。

先日、天気も良く清々しかったので、仙台泉の「賀茂神社」に参拝に行ってきました。
賀茂神社の境内前には由緒書きの看板があって、それを読んだところ気になる箇所がありました。
賀茂神社HP
賀茂神社は、塩釜神社の禰宜家が代々お祀りしてきた「只洲宮」の祭祀神を元禄8年(1695年)から翌年にかけてに古内の地に遷座し、「御祖(みおや)神社」として奉斎したとされます。
御祖神社を「下賀茂神社」とし、同社完成後に「分雷命」を勧請し、元禄10年に「分雷神社」として「上賀茂神社」が建立されました。

これで気になるのは、「上賀茂神社」の創建が先ではなく、「只洲宮」の「下賀茂神社」の勧請が先になっているということです。
「上賀茂神社」の方が格上に思えるのですが、「分雷神社」よりも「下賀茂神社(只洲宮)」が先立つ理由があるはずです。
逆に「御祖神社」の方が「分雷神社」よりもネームバリューがありそうな気がするのですが、どういうことなのでしょうか。

「賀茂神社」の本社は京都府左京区にある「貴布彌神社」とされ、主祭神を水神である「闇龗神」としています。
これには、私の「瀬織津センサー」がビビビッと反応しました。

公式には「下賀茂神社」の主祭神を「多々須(ただち)玉依姫命」とされ、上賀茂神社は「分雷命」、境内社に「賀茂建角身命」を「八咫烏神社」としてお祀りしています。

「多々須(ただち)」と聞いて、玉依姫の別名とされる玉櫛姫命こと「勢夜陀多良(せやだたら)比売命」と、神武天皇の皇后である「媛蹈鞴(ひめたたら)五十鈴姫」の名が思い浮かぶのも気になります。

「分雷命」は、かつて京都地方を支配していた豪族「賀茂氏」の氏神とされ、伝承によると玉依姫の子息であり、「火雷命」が丹塗矢に化けて玉依姫を孕らせ、成人後に父・火雷命を追って天に昇ったと言われています。
しかし一般的には、玉依姫は「ウガヤフキアエズ命」の妃であり「媛蹈鞴五十鈴姫」の母とされます。

記紀的伝承では「媛蹈鞴五十鈴姫」の夫が「神武天皇」とされるので、「分雷命」を「神武天皇」と比定しても、天皇の実母が玉依姫ということになり、系統に齟齬が生じます。
「勢夜陀多良姫命」の夫を「大物主=大国主」とする系譜は、玉依姫の「丹塗矢」が「火遠理命(山幸彦)」の子「ウガヤフキアエズ命」の隠語だと解釈する分には、矛盾はありません。

どうも、賀茂家は「神武天皇(分雷命)が御祖神の玉依姫の直系である」と暗に仄めかしているのではないでしょうか。
だから賀茂家からすれば、玉依姫の御子の「媛蹈鞴五十鈴姫」が天照大御神から続く天皇家に嫁いだわけではなく、むしろ神武天皇を祖神とする天皇家が賀茂家氏神の賀茂建角身命、玉依姫命の系統から始まった、と言いたいようにも思えます。

では、賀茂神社で別社の「八咫烏神社」として祀られる「賀茂建角身命」とは、一体どういう神様なのでしょうか。
「賀茂建角身命」は別名「三嶋溝咋命」と言われ、「三島」とは伊豆半島周辺の地域を指し、その地方を治める氏神、産土神である可能性が高いです。
三島市周辺には、京都にゆかりのある地名も多く、古く賀茂系氏族がこの地に移り住み、或いは深い血族的交流があったと推察されます。

もしくは「大山咋(くい)神」とされ、山の神が「咋神」と言われる時は、ルーツが滋賀の比叡山(日枝山)、京都の松尾山とされる場合が殆どです。
反対に「大山祇(つみ)神」とされる時は、全国の大小の山々の土着神である場合が多く、伝承として「女神」とされることも多いようです。

松尾山の「大山咋神」と言えば「松尾大社」が有名ですが、京都の東には一方の大社「賀茂神社」が鎮座しています。
松尾大社は渡来系氏族としては京都で賀茂氏に並び、朝廷に影響力を持った「秦氏」の氏神社です。

かつて、京都盆地を支配した「秦氏」と「賀茂氏」の二大豪族は、婚姻関係を持ちながら宮中の祭祀を司ったとされます。
賀茂氏はおそらく三輪山の祭祀をルーツとする土着系豪族ですが、渡来系である秦氏は元は海洋系氏族であり、「海部氏」と繋がりがあります。
ゆえに、松尾大社で大山咋神と共に祀られている「中津姫命」が「市杵島姫命」とされるのも、秦氏が宗像系氏族と繋がりがあることの証左になります。

秦氏にゆかりのある京都の「木島坐(このしまにます)天照御魂神社」の境内には、「織物」にまつわる「蚕の社」があり、また「元糺(もとただす)の池」という神泉があります。
一方、京都の「賀茂御祖神社(下賀茂神社)」には12万平方メートルに及ぶ世界遺産の「糺(ただす)の森」があり、社叢林を巡る小川は賀茂川の支流にあり、その水源が学術的にも貴重な生態系を保全しています。

仙台賀茂神社の「只洲の宮」の語源は、京都下賀茂神社の「糺の森」にあることは間違いないでしょう。
そして、多々須玉依姫の父神を「賀茂建角身命」、滋賀・松尾の「大山咋神」とするのも共通します。
従って、塩釜神社の祭祀を担当してきた禰宜家が、個人的に賀茂神社の御祖神をお祀りしてきたのも、元々は京都の一族だったからと考えられます。

宮城の三陸に位置する塩釜神社は、かつて大和朝廷が蝦夷平定の折、前哨基地である「多賀城」の西南5キロの丘に、京都などから派遣された役人が祈願のために創建した神社と言われています。
塩釜神社には、かつて大和平定を成し遂げた武神である「武甕槌神」「経津主神」の二柱が左右宮の拝殿に主祭神として祀られています。
また「別宮」として塩釜の地に製塩の技法を授けた「塩土老翁命」が祀られていますが、ここで「別宮」とされるのは、「特別にお祀りしている」という意味だそうです。

塩釜神社に特別に祀られる「塩土老翁命」は、分社である仙台賀茂神社の「賀茂建角身命」と関連があるように思えます。
江戸時代以前まで、塩釜神社の主祭神は「塩釜明神」とされ、由緒が判然としなかったと言われています。

仙台藩四代目藩主である伊達綱村は、塩釜神社造営の折に由緒について調べさせ、それを「塩釜社縁起」にまとめました。
それによると、「塩釜六所明神或曰猿田彦事勝國勝塩土老翁岐神興玉命太田命六座同体異名神也」とあり、「猿田彦大神・事勝國勝狭神・塩土老翁命・岐の神、興玉命、太田命」の六座を同一神と比定しました。

「賀茂建角身命」が「八咫烏神」とされることは前述しましたが、八咫烏は神武天皇が東征の際、熊野にて橿原に案内した「太陽神(高神産日神)の遣い」とされます。
塩釜社縁起の説に沿って考えると、「猿田彦大神」は天孫降臨の際に瓊瓊杵命を高千穂に導いた神であり、吾田の地と娘を瓊瓊杵命に授けた事勝國勝狭神と似た功績を残しています。

「塩土老翁命」は、猿田彦大神と同じ「導き」の神であり、塩釜の地に武甕槌神と経津主神を導き、蝦夷平定の助力をしたことになります。
つまり完全なる同定はできないにせよ、神能と神格としては「賀茂建角身命」と「塩土老翁命」には強い共通点があります。

賀茂建角身命、または三嶋溝咋命の娘が「玉依姫(玉櫛姫)」であるのは間違いないようです。
しかし縁起説にある六座には、事勝國勝狭神の娘が「神吾田鹿葦津(かむあたかしつ)姫」、いわゆる「木之花咲耶姫命」がおられる以外に、他の五座には明確に御子神が存在しません。
「塩土老翁命」が山幸彦を豊玉姫の坐す竜宮に導いた時、翁が「龍王」として語られている訳ではないからです。

とは言え、事勝國勝狭神は別名を「大山咋神」とされており、「木之花咲耶姫命」を「玉依姫」と同定可能であるのは確かなように思います。
しかし木之花咲耶姫命は瓊瓊杵命の妃であり、火遠理命(山幸彦)の母となるので、玉依姫から見ると夫の火雷命は息子ということになってしまいます。
ここら辺が日本神話のゴニョゴニョした部分というか、玉依姫の比定を軸に世代が交錯するのが神話解釈の鬼門になっているように思います。

日本の神社祭祀が720年成立の「日本書紀」を礎とし、国史に連なる神話を縁起や由緒としながら、土着の信仰や氏族の伝承が組み込まれた先々でこのような齟齬が発生していったのでしょう。
また「記紀」には、奈良時代の政情不安の朝廷が豪族を皇室に繋ぎ止め、氏族の身分を取りまとめる役割もあり、そこに多少の政治的「忖度」があるはずです。

もし「オリジナル」があるとしたら、その伝承は記紀以前に遡るはずで、おそらく文書としては残っておらず口承の部分も多かったでしょう。
ゆえに、「玉依姫命」が元々どういう御神格であるかについて、「神武天皇」の母・義母という多分に政治的な立場にある女神として、様々な解釈が存在するがゆえに「鴨玉依姫」「玉櫛姫」「多々須玉依姫命」「櫛玉依姫命」など、様々な呼称が存在するのだと思います。

「玉依姫」という神名の語源を辿れば、「玉」とは「霊」のことであり、霊が「依る」即ち「霊の依代となる女神」という意味になります。
その「霊」を「神武天皇を身籠もった」と解釈すれば、神武天皇の母である女神、という定義になります。
しかし玉依姫を神武天皇の妃である「媛蹈鞴五十鈴姫」の母とするなら、五十鈴姫を身籠もったのが「霊を憑依する巫女」であったという意味になり、一気に擬人化されます。

私はここで、虚実ないまぜになっているのが、認知的不協和の原因ではないかと思います。
冷静に考えて、神武天皇はご誕生からご成育環境まで地域が特定されていますし、古墳などから足跡を辿ることも可能です。
しかし「大山咋神」や「玉依姫命」に関しては、古代の豪族に縁を見ることもできるでしょうが、そもそもいつの時代も目に見えない神霊であられます。

いくら皇族と言えど、人間として地上にいる限りは肉体が必要です。
ただ神武天皇の系譜を見る限り、玉依姫命は人間の肉体を持っていなくては身籠もることはできないでしょう。

穿った見方かもしれませんが、神と人間の系譜を繋げる時、「玉依姫命」という女神が接続点となり、この矛盾が数々の系譜に現れているのではないでしょうか。
「人間の肉体を持たない神」が「神である人間」を産む時、そのズレを説明しきれないからこそ、各氏族が自身の系統を説明する時に最も都合の良い解釈になったのだと思います。

だから私は、玉依姫までは天の神々の系譜であり、神武天皇の「母」までは皇族の系譜なのだと思います。
それを繋ごうとした時、玉依姫が「母」になるか「義母」になるかという齟齬以上に、玉依姫が「山の神(大山咋神)」の娘なのか、「海の神(綿津見神)」の娘なのかという差異にも繋がったのではないでしょうか。

ここで、玉依姫命は「山の神なのか、海の神なのか」という疑問も立ち現れてきます。

どうも玉依姫命が木島坐天照御魂神社では「中津姫命(市杵島姫命)」、事勝國勝狭神の御子神が「木之花咲耶姫命」とされることにヒントがあるように思います。
市杵島姫命は「宗像三女神」の一柱で「海の女神」ですが、木之花咲耶姫命は「山の女神」であり、どちらも「旧支配者」の娘であるのは変わりません。
旧支配者の「父」が禅譲する際、その後継者(瓊瓊杵命・火遠理命・大物主・火雷命etc.)が娘である女神を娶っています。
つまり、山でも海でも図式は全く同じです。

「玉依姫命」の御神名にある「玉(霊)」が「稲(サ) の霊」を指すとしたら、「玉依姫命」の正体が見えてきます。
長野の「筑摩神社」には宗像三女神の一柱である「市杵島姫命」の別名として「狭依(さより)姫命」が祀られています。
つまり、「玉依姫」とは「狭依姫」であり、「瀬織津姫命」と同定可能と言えるのではないでしょうか。

そう考えると、山の神たる大山咋神の娘が玉依姫であるのも、説明がつきます。
山から流れてくるのは「川」であって、「サの霊(玉)」は川を伝って降りてくるからです。

私は以前、「進撃の瀬織津姫」という記事の中で「朝廷に影響力を持った海部系氏族によって、瀬織津姫命という神格が"宗像三女神"に上書きされた」という仮説を述べました。 
海洋系氏族が陸の耕作民となり、「川」の女神を信仰するようになると、宗像氏が祀る玄界灘の三島に因んだ海神と陸側の「川」や「滝」にまつわる神名が習合し、「瀬織津姫命」という御神格は「市杵島姫命」に置き換わったのだと私は考えています。

人間の生活に欠かせない、淡水の流れる「川」は「山」から伝ってきます。
だから「大山咋(祇)神」の御子神が「川」を象徴する「瀬織津姫命」であるのは、理に叶っています。

「狭依姫命」という御神名は「瀬織津姫命」と密接な関係にあり、「狭(サ)」とは本来「稲霊(サ)」を意味するのだと思います。
山から瀬を伝って「降りてくる」神霊は、秋になれば稲に宿り、実りをもたらす。
この豊作祈願の儀式が東北に残った「サオリ」という風習であり、また「サ」の神を降ろす巫女・乙女を「早乙女」と呼び、「サ」の儀式を行う月が「皐月」になるわけです。

だから「狭依(瀬織津)姫命」というのは、本来は稲田に豊作をもたらす神だったのではないか、と思います。
その件に関しては、上記の記事で詳しく書いています。
ゆえに、「玉依姫命=瀬織津姫命」であると結論づけたいと思います。

ただ、「瀬織津姫命」という御神格は、伊勢神道並びに各由緒において「撞賢木天疎厳之御魂向津姫(つきさかきあまさかるいつのみたまむかつひめ)命」ともされており、「天照大御神の荒魂」と言われます。

しかし、「天照大御神」が素戔嗚命との誓約で誕生した神々がおられるにせよ、伴侶となる神が存在する訳ではありません。
「公式」にそうなっているのですから、御祖の神が天照大御神に繋がっているとしても、地方豪族が祖先の神武天皇を指して「天照大御神の御子神が我が氏神である」とするのは、さすがに暴論になってしまうはずです。

天照大御神、言わんや「瀬織津姫命」は記紀に記載もなく、伴侶も御子神も歴然とはしていないのですから、隠喩的に神格をスライドさせて説明できるようにしようと考えた結果、「玉依姫命」という御神格が誕生したのではないでしょうか。

ただ、私は「天照大御神の荒魂」の偽物として「玉依姫命」という御神格があるとは考えていません。
「玉依姫命」という御神名が、たまたま豪族と皇族の祖神の系譜を繋ぎ合わせるのに最適な固有名詞であったからではないか、と思います。

ゆえに、私の結論としては「玉依姫命」とは「瀬織津姫命=撞賢木向津姫命」であると言えます。
だから仙台賀茂神社の下賀茂社が塩釜より先に古内の地に遷座したのも、「只洲宮」たる瀬織津姫命、つまり「天照大御神」だからと考えれば説明がつきます。

ではなぜ父神であられる「塩土老翁命」が塩釜の地に残ったかを考えれば、多賀城が造営され塩釜に「武甕槌神・経津主神」が祭祀される以前には、すでに「塩土老翁命」がお祀りされていたからではないでしょうか。
「塩釜の塩造り」は太古から始まっており、「海と塩の神様」は元々この地に祀られていたのだと思います。

それが京都由来の国家神道の流れを受けた時に、「導きの神」としての御神名が宛てられたのかもしれません。
その証拠に、仙台市内や賀茂神社周辺の土地には、京都賀茂氏の流れを組む、賀茂県主の足跡を残す地名が残っています。
私は地元にいながら「瀬織津姫命」にまつわる土地に暮らせることを嬉しく思います。

あと、私見ですが「日月神示」において、「御三体の神」として「伊弉諾命・伊奘冉命・つきさかきむかつ姫」の名が挙げられており、どうも「つきさかきむかつ姫は伊弉諾命と伊奘冉命二柱の、正真正銘の御子神ではないか」と仮説を立てています。
つきさかきむかつ姫が「撞賢木天疎厳之御魂向津姫命=天照大御神」なのだとすると、瀬織津姫命のご両親は伊弉諾命と伊奘冉命となります。

この説を敷衍すると、「賀茂建角身命=塩土老翁命=猿田彦大神=事勝國勝狭神=岐神=伊弉諾(伊邪那岐)命」となってしまいます。
ゆえに、玉依姫命の父神は「賀茂建角身命」こと「伊弉諾命」ということになります。

こんなことを言えば、日本中の神社出入り禁止になってもおかしくないのですが、そういう考え方もあるということです。
ただ、私はあながち侮れない説のような気もしています…



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「天日月大神」解説

楽太郎です。

ここのところ、「神世」と「人世」のエネルギーの相剋状態が佳境に入っているように思います。
「神に仇なす者たち」の妨害が脇目も振らないような激しさとなっているように見えますし、同時に「変革と覚醒」のエネルギーがそれだけ押しているということだと思います。

おそらく、一般的な人々の間でも葛藤が起きており、ここでさらに「闇化」する人と古い時代に袂を分つ人が大きく引き離されていくと思います。
この「クライマックス感」は秋分点まで高まりつつ、10月からはまたガラっと空気が変わるはずです。
おそらく、世の中が大きく動くとしたら、その辺りからではないでしょうか。

さて、今回は例によって「日月神示解説」です。
「日月神示ファン」の方々なら最も気になるであろうトピック「大峠」に関しては次回以降にしたいと思います。
そこに至るまでには、「前提」の話をしなければいけないからです。

「日月神示解説」で取り上げている「荒れの巻」口語訳と解説において、その内容から「伊奘冉命が真の天照大御神であり、伊弉諾命が岩戸開きによって復活なされ、その跡を嗣ぎ(厳密には共同統治)、天日月大神となられる」と読み解きました。

「月と大海原(地球)」を治める素戔嗚命とは伊弉諾命(国常立尊)の「神力の働き」を示す神格であり、「天照大御神=天照皇大神」に対応する御神名であると考えています。

「荒れの巻」に登場する「那岐・那美の神」とは、神示において「伊弉諾命・伊奘冉命に先立って誕生した二柱神」と想定され、後に解説しますが「高神産日神・神産日神」に比定することが可能です。

なぜ「記紀」で男神として描かれる「高神産日神」が伊弉諾命ではなく伊奘冉命とするのかと言うと、記紀での「成婚」の段で、天沼矛を使い作り出したオノゴロ島に八尋殿を建て結婚しようとする折に、伊弉冉命が先に声を掛けたことで一度破談になっています。

上位である「高神産日神」がリードするのは理に叶っていますが、両者の立場通りにプロポーズしたらうまくいかなかったためで、これは「伊弉冉命」が伊弉諾命よりも立場が上であることの証左ではないでしょうか。

また、神示には「男が上で女が下」と男尊女卑を髣髴とする、議論を呼びそうな文言が登場します。
少なくとも神界のルールでは「男神」が先に立つ必要があるのでしょうが、その「順番(いろは)」が違えば物事はうまくいかないということだとしたら、やはり男神である「伊弉諾命」が順序に従いプロポーズをする側だと考えられます。

最初に「太陽と月」を二柱でお造りになられた時、既に「太陽」の支配権を得たのが伊弉冉命であるとするなら、高天原の最高神格である「天照皇大神(大御神)」の玉座も伊弉冉命のものである可能性が高いです。

そして、神界(高天原)を統べるのが伊弉冉命(天照皇大神)であるなら、「高神産日神」の御神名に相応しいのは伊弉冉命であり、また女神である以上は多くの神産みが可能なのも高神産日神である所以なのではないでしょうか。

「記紀」において瓊瓊杵尊が天孫降臨を行う件において、その指揮とサポートを行ったのが高神産日神であり、それゆえに天照大御神の次なる権威という印象も抱きます。
伊弉諾命が単神で三貴子をお産みになられても、神話上どの権威の座にも属していませんが、伊弉冉命は死後に「黄泉の国」の支配神となられているので、やはり伊弉冉命のご神格が本来「上位」であるとした方が自然です。

ゆえに、「荒れの巻」で語られる「那岐の神」を「神産日神」と比定し、「那美の神」を「高神産日神」と同定した上で話を進めます。
記紀ほか日本神話では高神産日神・神産日神を始め「造化三神」を性別のない単神をしますが、神話の語り口ではやはり高神産日神を「男神」とすることが多いので、ここでは視点からは外します。



「日月神示」の内容から抽出した「最高神の系図」です。
神示の中で複数回言及される「御三体の神々」には2パターンあると私は考えています。

原初の神であり、「宇宙そのもの」でもある天御中主神と、その次に成り出でた「高神産日神」と「神産日神」は、「天地開闢」というレイヤーで重要な役割を果たされた神々であり、神示に言うところの「元の神」であるため、こちらの神々が生き通しだからこそ現在の宇宙が存在しているのであり、確かに御三体の神々が御働きをやめてしまえば、宇宙は成り立ちません。

これらの宇宙創生に関わる神々を「天の御三体の神」と呼ぶならば、宇宙が出現した後に元の神々は役目を変えられて違う神格になり、異なる御働きをなされるはずです。
それが「成りなりて」という表現での「別の神格での生まれ変わり」を意味しますが、そもそも天地開闢から生き通しの神々様であらせられるので、「死による転生」とは捉えられないかもしれません。

先ほど天の御三体の神に比定した「那岐・那美の神」は、「国生み」の段にて「伊弉諾命・伊弉冉命」としての御神格に成りなられます。

神示にはもう一つの「御三体の神」として天照大御神の荒御魂とされる「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)」と思われる「つきさかきむかつ姫」を加えた神々が言及されています。

神示の言い回しでは、「天照大御神」と「天照皇大神」、「天照皇大神宮の神」とはどうもご神格が違うようで、おそらく「真の天照大御神」は未だ岩戸に隠れられているとされているので、そのご神格を伊弉冉命とするならば、「撞賢木向津姫」は天照皇大神宮の神であると考えられます。

伊勢神宮始め数々の由緒書きや伝承本によれば、「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」は「瀬織津姫命」とされており、神示の中でも「祓い清め」や「祓戸大神」は重要なタームとなっています。
中臣祓詞、通称「大祓詞」や「禊祓祝詞」「天津祝詞」において、祓戸大神は伊弉諾命が黄泉の国から帰還した際、潔斎をした際にお産まれになられています。

その時に天照大御神含む三貴子が同時にご誕生なされており、この故事が「天照大御神=瀬織津姫命説」の論拠となっています。

なぜ伊勢神道始め歴代の神道が伊弉冉命ではなく瀬織津姫命を「天照大御神」としてお祀りしているのか、私はきちんとした根拠があると思っているのですが、それとは別に「撞賢木向津姫命」が御三体の神に含まれているのはなぜでしょうか。

神示の文脈でいうと、日(太陽)の神としての伊弉冉命、月と地球(大地)の神としての伊弉諾命の他に、「水の神(地球の水)」を司る撞賢木向津姫命の「御働き」があるからこそ、太陽の光と大地と水の力で生命が育まれているからではないか、と思います。
これらの司宰神が三柱揃うからこそ地球上に生物が存在しうると考えたら、宇宙創生の神々に等しく重要な御働きを担われている神々であると言えます。

私は、こちらの三柱を「地(くに)の御三体の神」と呼称したいと思います。




付け加えておくと、「撞賢木向津姫命」は伊弉冉命が黄泉の大神となり、伊弉諾命と仲違いした時に伝言をなされた「菊理姫命」と同じく、伊弉冉命の御子神か二柱からご誕生なされた可能性があると思います。

「撞賢木(つきさかき)」の「撞」とは「月・槻」であり、「賢木」を「榊」と置き換えるなら、「向」は「日向」に使われる「依代(神籬)」に宿る神格であり、「月」と「榊」はそれぞれ月と太陽(日)、或いは「サ(稲)」の神であることを示しているのではないでしょうか。

ならば、「撞賢木向津姫命」は太陽と月の両方の性質を受け継いだ女神ということになり、伊弉諾命と伊弉冉命の二柱の御子神と考えて良いかもしれません。
伊勢神道を始め、日本で「日月」の性質を持つ撞賢木向津姫命を「天照皇大神」としてお祀りする意義は強いと思います。

しかし、神示の中では伊弉冉命も伊弉諾命も各々が幽閉に近い状況にあり、ならば二柱の正統後継者として色濃い撞賢木向津姫命が神界を支配しているのでしょうか。
私はその可能性が高いと思います。
しかし、神示では二柱が幽閉に近い状態に置かれ、「騙された神が”偽の岩戸開き”から現れたことで闇の世となった」と語られています。

「騙された神」が撞賢木向津姫命であるかは定かではありませんが、いずれにせよ「騙した神々」がいることは確かで、ややもすれば偽の岩戸開きをでっち上げた神々が伊弉諾命と伊弉冉命を幽閉させた上で、クーデターを成功させ「闇の王」として支配していたとも考えられます。

或いは「騙されて王位に就いた」撞賢木向津姫命の統治能力が低いために混乱が起きたのか、権力を有した宰相が独断で勝手な政治を始めたのか分かりませんが、それによって神界は相当乱れ、その混乱は三千世界に広がり今の私たちの情勢に繋がっているということらしいのです。

あるいは、「祓戸大神」「瀬織津姫命」として、父・伊弉諾命の補佐役につき、地上に残って世界の罪穢れを浄化する役割に徹していたのかもしれませんし、「菊理姫命」として封じられた両神の伝通役を担っていたのかもしれません。
そうだとしたら、皇統のロイヤルファミリーが何者かに高天原を追放されていた可能性も考えられます。

神示に語られる「五つの岩戸閉じ」のうち、「人皇による支配」と「仏教伝来」以外の岩戸閉じ、「黄泉の千引の岩戸」「天照大御神の岩戸隠れ」「素戔嗚命の追放」は伊弉諾命と伊弉冉命の幽閉と比定することによって説明がつきます。

そして大峠の後に達成される「岩戸開き」が起こると、東北の地に封印された「国常立尊(伊弉諾命)」がまず最初にお出になられ、すぐに「千引の岩」を自らこじ開け、幽閉された天照大御神(伊弉冉命)を救い出し、何千年か越しに逢瀬を果たすと言われています。

その後、伊弉諾命は真の天照大御神(皇大神)であられる伊弉冉命から、高天原を支配する玉座を引き嗣ぎ、次の「天照皇大神」となられます。
そして二柱で神界を統治することになり、「日の神」である伊弉冉命と「月と地の神」である伊弉諾命が一緒になり、「天日月大神」となられるのです。

神示の中では、国常立尊一柱が「天日月大神」となられるようにも読めるのですが、「荒れの巻」では両神が「一つになる」ことが特に強調されているので、仮に伊弉冉命が天照皇大神の玉座を降りずに引き続き就任するにしても、伊弉諾命が新しく玉座を獲得されることに変わりはなく、「天日月大神」となられる事実も変化しません。

そのため、別の見方では「素戔嗚命が天照大御神となる」という解釈も可能です。
神示では「天が地を補佐する」とも書かれており、素戔嗚命の天ヶ下での御働きを天照大御神がサポートするという意味に取れば、やはり二柱での共同統治という説明は理に叶っているように思います。

そして、「日月神示」がなぜ「ひつく」と呼ばれるのか、要所に出てくる「てんし様」とは何かと言えば、「天嗣(てんし)=天(日)を嗣ぐ」ことを意味し、国常立尊が「てんし様」となる意味が通ってくるのです。

伊弉諾命と伊弉冉命が一緒になることで「天日月大神」となられるのだとしたら、時に見られる「大日月大神」とはどう違うのでしょうか。

神示には「大日月の大神と称えまつれ、全ての神々様を称えまつることであるぞ(黄金の巻・第五十八帖)」とあり、この一文から察するに大日月大神とは神の類魂(グループソウル)を示す可能性が高く、大洗濯後にはバラバラに行動していた神々がひとまとまりになるとされることから、高天原を始め全ての神々が大日月大神となる(属する)とも言えます。

その大神を取り仕切る神が天日月大神であるとするなら、ある所では「天日月の神とはお役所のようなものぞ」ともあり、大神の下に属する神々が「お役人」だとすれば、二柱神は「市長」のような感じかもしれません。
天日月大神が神界・幽界を支配する最高神とするなら、地上いわゆる「現界」を司るのも二柱であり、しかしその場合は「地(くにの)日月大神」と呼ばれるはずです。

そして神示によれば「地日月神」とは臣民、即ち人間のことであり、そもそも大神から分御霊(わけみたま)を与えられている全ての人類は、神の一柱です。
つまり、全世界の「神」の類魂、集合体が「大日月大神」そのものとなり、それゆえに三千世界を跨ぐ統一・統合が可能になるということではないでしょうか。

そう考えると、これまで神・幽・現界とそれぞれ三千世界がバラバラであったがゆえの混乱であり、それが「闇の世」をもたらしてきたのだとすれば、それらの世界の統一は理に叶っていますし、確かにこの世が誕生して以来ない大変革です。

その膨大なスケールの構造改革こそ「大峠」であり、冷静に考えてこれほどの改革が行われるのであれば、衝撃的な出来事や「禍事」に似たショッキングな現象が伴うのも頷けます。

しかし、「三千世界の大洗濯」が終わった後には、「悪を抱き参らせた」新たな秩序の宇宙に生まれ変わり、そこでは「善と悪」の戦いはなく善も悪も仲良く弥栄える、三千世界通して天地一平の世になると神示には語られています。

現在、自らを「絶対正義」と信じて疑わず、あらゆる偽称も搾取も迫害も、「善悪の戦い」という暴力の中で正当化されているからこそ、世は混沌とした闇の世となっているように感じます。
この争いこそ「大洗濯」の渦中に現れる罪穢れや禍事であるとするなら、その汚れを取り去った後には、確かに奇麗な風通しの良い世の中になっているかもしれません。

私は、どうもそれが今この世界で現象化しており、「大峠」はこれから佳境に向かっていくように思えてなりません。

そのことについても「日月神示」には記されており、その解説は近いうちにしたいと思います。
そして新たな世界の扉を開く「岩戸開き」は、どうも私たち地上の人々、「地日月神」にかかっているようなのです。

そのヒントも神示にはあるようです。日月神示は、本当に示唆に富む書物だと思います。

*サイト「招神万来」でも、同じ記事が読めます*
招神万来 | 神様と人を繋ぐブログ

※10月末まで忍者ブログ版「招神万来」の更新は続きますが、どうぞサイトの方もよろしくお願いします。

*「日月神示解説」にて関連記事を投稿しました。*

日月神示解説 | 「天日月大神」について

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神示「荒れの巻」解説

楽太郎です。

先ほど、私が運営する日月神示のまとめサイトに、「荒れの巻」の口語訳の記事を投稿しました。

「荒れの巻」口語訳

この「荒れの巻」は神示の中では最も難解と思われ、難読の当て字のオンパレードになっています。
私は当初これを目にした時、「本当に荒れてるなあ」と思ったものですが、こうして文脈を整理しながら単語を整えてみると、いつもの日月神節が垣間見えてきます。

そうして読むと、全くブレたところがないように感じました。
ただ、「荒れの巻」はちゃんと読むと、わりととんでもないことが書かれていることに気づきます。

この文節には「国常立尊」という御神名については語られず、その代わり「伊弉諾命(那岐)」と「伊奘冉命(那美)」の二柱と「大素戔嗚神」の三柱が登場します。
そして、この三柱で「岩戸開き」とその道を説かれており、順当に読めば「伊弉諾命が伊奘冉命の御位を継ぎ、三千世界に君臨する天嗣(てんし)となる」と書かれています。

突拍子がないように感じるので、少し整理をしたいと思います。

伊弉諾命と伊奘冉命は神世七代の末代にして、伊弉諾命は三貴子の親神となります。
神示によれば、伊弉諾神と伊奘冉神の成りなる(変化?)の末に伊弉諾命、伊奘冉命となられたそうです。
その系譜の始めには「天御中主神」がおり、「高神産日神」と「神産日神」を加えた御三体の神々がおられ、別天津神五柱の次にお産まれになられたのが、神代の初代である「国常立尊」と「豊雲野尊」となります。

この文書においては、伊弉諾命が国常立尊と同一神格として語られているように思います。
どうも伊弉諾命が「月と海原」を司る神であり、それは素戔嗚命を連想しますが、神示の文脈では「素戔嗚命」は国常立尊と同一神格とされます。

つまり、「伊弉諾命=素戔嗚命=国常立尊」ということになります。そんなことがあるのでしょうか。

一般的な日本神話の文脈では、伊弉諾命と共に神産み、国産みをなされた伊奘冉命は、火迦具土命をお産みになられた際の火傷が原因で、お亡くなりになります。
その後、伊奘冉神様は黄泉の国に入られ、伊奘冉命を慕った伊弉諾命は黄泉に渡りますが、そこで仲違いをしてしまい、命からがら地上に戻ってきます。
そこで潔斎をした時に単独で三貴子をお産みになられていますが、御子神の天照大御神が太陽神となっています。

ただ、神示によれば「五つの岩戸閉じ」の中で、岩戸隠れをした天照大御神はそのままお隠れになられたままであり、偽りの太陽神が現れたことで世が闇となったと語られます。
また別の岩戸閉じでは、罪を着せられた素戔嗚命が高天原を追われ、地上に封じ込められたとされます。

素戔嗚命と言えば、「天の一部」と「夜の食す国」と「天が下」と「滄海原」を司る御神格であらせられます。
そこで「月と水」を支配する素戔嗚命を伊弉諾命と仮定すれば、「日と火」を司る神格は伊奘冉命となってしまいます。
つまり、地に封じられし伊弉諾命が岩戸開きによって世に現れ、伊奘冉命を岩戸から救い出すことになるとしたら、真の太陽神である伊奘冉命も再び世に現れることを意味します。

日本神話でも伊奘冉命は常闇の世界におられ、そこで死霊たちを治めています。
奇しくも真の太陽神は岩戸の中にいらっしゃるとされており、辻褄が合うのです。
そもそも、「伊奘冉命」の「いざなみ」とは、「誘う(=いざなう)+霊(み・ひ)」を意味し、元は地上の精霊や死後の死霊を導く神格とされていたのでしょう。

対して「伊弉諾命」の「いざなぎ」とは「誘う+キ(気・饌)」であり、生命や実りを象徴する神格と考えられます。
私たちは直感的に「伊奘冉命(波)」は水を司り、「伊弉諾命(凪)」は風を司るから、伊奘冉命が海を、伊弉諾命が空、または天を司るとイメージしがちです。
しかし、伊弉諾命の御子神であられ、女神の天照大御神が天体の太陽と高天原を司る神格であり、弟の素戔嗚命が月と地上と海原を支配するのは、この世代では男女の立場が逆転しているとも言えます。

子を産む役割を担うのは女性です。だから神産みをするとしたら、多くの神を産めるのは男神よりも女神の方だと考えられます。
太古の日本人、少なくとも卑弥呼の時代頃までは、日本は女系社会だったと言われており、その文脈で高神産日神と神産日神に性別を鑑みれば、「高く神を産む」のは女神、即ち伊奘冉命です。
だから本来、女神の方が男神より生産的役割は上ですが、ただそれが立場上の関係と同じであることは意味しません。

神示によれば、国常立尊が高天原の最高神の御位に就く時、日と月を同時に治め、高天原を支配する最高神の神格を「嗣ぐ」天日月大神となられるそうです。
もし本来、伊弉諾命が元から天を統べる神であるとするなら、岩戸から出られた後に玉座に就くのは「戻る」だけであり、「嗣ぐ」ことにはなりません。
ゆえに、元は高天原と天体の太陽を司っていたのは「豊雲野尊」いわゆる伊奘冉命であり、国常立尊である伊弉諾命がその最高位を継承するからこそ、新たな時代の神となることを意味するのではないでしょうか。

この「荒れの巻」をきちんと読むと、そういった文脈が浮かび上がってきます。
また、「大素戔嗚神」という御神名が登場しますが、神示を読み解いていくと「素戔嗚」というのは「神の働き」を神格化した神名であり、言わば伊弉諾命(国常立尊)の神力そのものを「素戔嗚(凄まじく成る)」と呼称しているようです。

そして「大素戔嗚神」というのは、伊弉諾命と伊奘冉命が共に働かれる場合の神力を指しているように読み取れ、厳密に言えば「天日月大神」とは伊弉諾命と伊奘冉命がお力を合わされた際の御神格であり、「日の神」と「月の神」の二柱が合わさるからこそ「日月」と呼ぶのだと思います。
そして、天体としての太陽を司る神格は変わらず伊奘冉命であり、高天原の「日=最高位」は月の神、地上の神である伊弉諾命が継承する、とすれば「日月神示」の真髄が見えてきます。

神示の重要な概念である「天と地のあなない」は、まさに月地神の伊弉諾命と日神の伊奘冉命の二柱が三千世界を共同統治することを意味します。

この世界を闇に陥れた「五つの岩戸」において、地上に封じられた伊弉諾命と岩戸に封じ込められた伊奘冉命という構図によって、「伊弉諾命と伊奘冉命の別離」「素戔嗚命の追放」「天照大御神の岩戸隠れ」の三つが同時に説明できてしまいます。
「荒れの巻」には、地上の岩戸を出られた伊弉諾命が、自ら伊奘冉命の岩戸をこじ開け、救い出して逢瀬を果たす時に全ての岩戸が開かれる、そう読み取れます。

五つの岩戸のうち、あとの二つの岩は「人皇の支配」と「仏教伝来」を指しますが、神示の文脈を加味すれば天の大神が地上を直接支配する時代において、人皇は役目を終え、弥勒の世が到来すれば仏教のタイムラインが完了してしまうため、同時に終わりを迎えてしまうのです。
ゆえに、伊弉諾命が地上の岩戸から出た次の瞬間には、自動的に四枚の岩戸が開かれることになり、始めの岩戸が開かれた時点で、弥栄の世を迎えることが確定するのです。

そして、単独の神としては八柱の神産みが限度だった伊弉諾命(神産日神)が、伊奘冉命(高神産日神)と再び神産みをすることができるのならば、十柱以上の神々を産み出すことができるようになり、神の世界もそれによって様変わりすることでしょう。
「三千世界の大洗濯」たる大峠が神々の世界も巻き込む所以はここにあり、それを乗り越えた後には神々の世界も新たな時代に入っていくのだと思います。

ただ、その肝腎要の「地の岩戸開き(伊弉諾命の封印)」は、未だに解かれてはいないのではないでしょうか。
私は以前ブログで、天の岩戸は1955年前後に開かれたのではないかと書きましたが、天界と地上では起こることは連動しても、順序が違うこともあると神示には述べられています。

私は今夏の異常な高温が「天と地」の霊的関係で起こっているのではないかと考えていて、ちょうど「アセンション(次元上昇)」をした地球は、霊的に天と距離が近くならざるを得ないのです。
これはこじつけのように感じられるかもしれませんが、人心の荒廃と反省が人々に見受けられる昨今、「神と獣」に分かれるとされる神示の予言に符号する現象を見れば、あながち妄想ではないように感じます。

この困難極まる社会情勢の中、もし私たちがこれを「大峠」と見て乗り越えようとするならば、その救いは「地の岩戸開き」にかかっているのではないでしょうか。
そして、その岩戸開きの方法が隠されていたのが、この「荒れの巻」であり、確かに幾つもヒントらしき文章が垣間見えます。

その要となる「富士」という概念は、おそらく「不二(二つとない=一つである=三つでもある)」という仕組みにあり、それは私たち人間が神様と繋がり、唯一無二の存在として立ち現れてくることを意味するのではないでしょうか。

そして、神示に口酸っぱく述べられる「身魂(みたま)磨き」とは、心も行いも汚い人間には神を感じ取ることができないからであり、「神人合一」を果たすならば「我よし」という頭ではダメなのだ、と仰りたいのだと思います。
そして、それができる人間がたった59人この世にいれば「岩戸開き」は成就するのであり、それは神々が因縁ある魂を導き、結果的には達成させる予定なのだと言います。

ただ、これで黙っていても岩戸開きが成されるとは限らず、おそらく本来なら30年前に「地の岩戸開き」は完了するはずだったのでしょう。
長くなるので詳しくここで書けませんが、おそらく今回のウェーブで岩戸が開かれなければ、次の30年後はまさに大難の時代となっており、おそらく本当に「5人に1人」しか生き残らないような、悲惨な情勢となっている可能性があります。

だから神示の中で日月神様は「大難を小難にせよ」と仰られるのだと思います。
確かに、30年前のバブル崩壊後間もない日本ならば、大峠を迎えたとしても今ほど人々が極端な袋小路には陥らなかったはずです。
私たち中年は、これから30年も生きなくてもいいかもしれませんが、まだ10代20代の子供や若者の未来を考えると、ここで弥勒の世にしなければ、日本人はもう生き残れないと想像しても、極端とは言えないかもしれません。

「どうせ日本は老人だらけの国だ」と、国土を外国に二束三文で売り払う我が国の人々を見て、まさか眉唾と思う人はいないでしょう。
ただ私たちは政治活動や社会活動で世を変えるというより、自らの魂を磨くことで国や世界を救えるのなら、大した苦労はないのではないでしょうか。
そういう奇特な人は、神様が帳面に記して末代名が残るようにするとまで仰って頂いています。

今、我が国は建国以来、地味に最悪な状況に置かれています。
日本のためを思うならば「日月神示」をもっと多くの人に読み込んでもらいたいですし、誤解や偏見があるならば、本当の教えに気づいて欲しいと思います。
ただでさえ「我よし」で、金と力とルックスさえあれば何とでもなる世の中で、人間として大切なものを取り戻し、本当に平和で豊かな社会を望むのならば、今のままではいけないことは確かでしょう。

そのヒントは、この神示の中にあると私は思います。
胡散臭いとか、オカルトと一蹴したくなる気持ちもわかりますが、一度は軽い気持ちで間に受けてみて欲しいのです。
ふとした瞬間に心の鎖が外れて、自由に気づく人がいるのではないでしょうか。
そんな小さなきっかけから、大きな物事が動き出すのかもしれません。

私はそんなことを願いながら、このブログと「日月神示解説」というサイトをやっていたりします。

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進撃の「瀬織津姫」

楽太郎です。

今、「日月神示」の原典をまとめたサイトを急ピッチで作っています。

ここ数日は、日月神示の解読も並行して進めていたので、制作とはかけ離れたことをしていました。
ここ何週間か絵をまともに描く機会がないのですが、今は神様からの優先順位を鑑みると「それどころではない」という感じなのでしょう。
この「日月神示」のサイトを制作しているうちは他のことがあまり目に入らない状態で、サイトもあと一週間はかかりそうです。

これまで、私はインスピレーションを受けて始めたことを30〜40%くらい進捗を上げたら、また別のインスピレーションに従うことを繰り返してきました。
でも私の性格としては一つずつ仕上げてから次のことに取り掛かりたいですし、一気に終わらせたい欲もあるのですが、どうも思惑通りに行かないようです。

これもおそらく神様のお導きとは言え私の本懐は画業であり、全く関係のない方面に突き進んでいるのも不安を覚えるのですが、「作家」である以前に「一人の人間」であり、その人間が歴史的な転換点を迎えつつある今、一個人としてやらなければならないことがあるのだろうと思います。

ぶっちゃけ、「イラストだ漫画だ」と言ったところで、仮に文明が崩壊して食うに困るような状況になれば、それどころではないかもしれません。
腐敗しきった帝国主義が我が国を覆い、文化も民族も解体されようとしている今、現状を続けようとする「日常感覚」は邪気になり始めています。

「このままの世界が何となく続いていく」
「このまま同じことを繰り返していればいい」

その感情は、一昔前の平和感覚に酔っているに過ぎず、偽りの平和の影から悪意が忍び寄っています。
いつか人々は微睡から目を覚まさなければならず、今まさに日本人に覚醒の波が押し寄せているように感じます。

私は、その鍵となるのが「日月神示」であると確信していて、例え人々から脈絡がないように見えたとしても、日本人に最も必要なのは神示に書かれた「精神」そのものだと思います。
そのメッセージが、今の人々には受け入れ難いこともわかります。
しかし、私自身が最初から諦めて「誰もわからないだろうから」と言って、覚醒の芽を摘むのも罪になるでしょう。

日本のマスコミや思想や文壇が退廃したのも、「大衆はバカだからどうせわからないし、高尚なことに金を出すはずがない」という民衆への軽蔑が根底にあり、「バカ向け」の商売ばかりをしてきた知的産業が、国民の白痴化に貢献することで民衆の知的水準を下げてきました。
それによって知的探究心はネットの情報である程度解消される程度のものとなり、出版業界こそ袋小路に入る原因を自ら作り出したのではないでしょうか。

日本人は元々、それほど高尚な思想を持つ国民性ではありませんが、かつてイエズス会の宣教師が日本人を奴隷として海外に売り飛ばし、ローマカトリックが我が国を植民地化しようと企みましたが、豊臣秀吉を始めかつての日本人は本質を見抜く目を持っていました。

しかし、今の日本人の眼は曇ってしまって、押しかけ強盗が申し訳程度に置いていく捨て銭をありがたがり、好き放題に家中を荒らされても声ひとつ上げず、ただ見ているだけです。
抵抗することも抗議することも「悪」だと刷り込まれ、無抵抗こそ「平和の実現」に繋がると思い込んでいるからこそ、我が国はここまで踏み躙られているのです。

だから私は「お前のやっていることは無駄だ」と言われることも承知で、こうして文章を書き「日月神示」の重要性を伝えていきたいのです。
それが例え何にもならないとしても、一人の人間として手を拱いているつもりはありません。

さて、熱く語ってしまいましたが今回の記事のテーマは「瀬織津姫命」に関してです。

日月神示の解読に関してもそうですが、今の時代だからこそ神々が人間に対する向きを変えてきたように感じます。
日月神示にある「三千世界の大洗濯」たる大峠は、神々の世界も我々の世界も基礎から洗い直すことになるそうです。
神様の世界が変わるとしたら、神々を祭祀している私たちのあり方も変わることを意味し、次の世における「神の道=神道」のあり方も変わらざるを得ないはずです。

現代の国家神道や宗教法人の神社経営などを批判するわけではないですが、日本の現行制度では神社仏閣の存続は困難でしょう。
ただでさえ、若者たちの神仏に無関心な傾向が進む中、同時進行で少子高齢化が進み、これまでの氏子体制では維持ができない寺社も出てきています。
ゆえに、日本の宗教的・民俗的な信仰文化を後世に残そうとするならば、宗教上の現行制度も見直される必要があります。

その上で、新しい形での「神社文化」が求められてくると思いますし、その精神が今後の日本人に不可欠であると私は考えています。
そのため、私は以前から瀬織津姫命を主祭神とする「瀬織津神社」の創建を一つの目標として、祓戸大神をモチーフにした「HARAEDO」というコンテンツを制作しながら、その実績を足掛かりにしていこうと思っています。

「瀬織津姫命」という御神格は、かなり受難の多い経歴を辿ってきたと思います。
「瀬織津姫命」は中臣大祓詞にある「祓戸大神」の一柱として重要な御役目を果たし、その名を残していながら瀬織津姫命を主祭神として祀る神社は決して多くはありません。

私の自宅には岩手の「早池峯神社」と「瀬織津姫大神」の御神札を祀っています。
かつて早池峰山に降臨したとされる三女神の伝承から「瀬織津姫命」という御神名が受け継がれ、早池峰山麓にある「早池峰湖」には湖水を見つめる瀬織津姫命の神像が建てられています。
仙台の「瀧澤神社」には火防の神として瀬織津姫命が祀られ、岩手や宮城など東北地方にはその御神名がそのまま残っているケースが多いです。

いわゆる「東北」は古くから「白河以北一山百文」と言われ、中央政権から疎まれる「蝦夷」の地でした。
岩手には出雲系の伝承が色濃く残る地域もあり、東北の地が往年の大和朝廷から好ましく思われていなかったのは事実でしょう。
それゆえ、中央政権の睨みが効かない岩手の土地に奥州藤原郷が栄え、「瀬織津姫命」という御神格がそのまま残されたのではないでしょうか。

そもそも、「瀬織津姫命」とはどういった背景を持つ神様なのかを辿ってみたいと思います。

かつて平安時代に栄華を極めた「奥州」の藤原三代は、藤原家の系統ですから「中臣大祓」を奉じた中臣氏を祖とする一族です。
その中臣大祓に「祓戸大神」として瀬織津姫命が登場するので、元々中臣氏の家系は瀬織津姫命という御神格を祀っていたのだと思います。

大祓文中にある「佐久奈太理(さくなだり)」とは、中臣金連が「大石佐久奈太理神」を勧請した「佐久奈度神社」のある琵琶湖畔の「佐久奈谷(現・桜谷)」を意味すると思われます。
京都周辺では、言葉の順序や捩りや訛りがそのまま語形変化に繋がっている場合が多く、若干発音が変化しているのでしょう。

琵琶湖から流れ出る一級河川の「瀬田川」は、京都側では「宇治川」、大阪に差し掛かる辺りで「淀川」と名を変えます。
この瀬田川の流れ出る谷に「佐久奈度神社」が鎮座し、かつて中臣金連が「大七瀬」の祓いをしたとされる鴨川を含む七つの川は、瀬戸川の支流にあります。
ゆえに、大祓にある「速川の瀬」とは瀬田川である可能性があり、かつて平安京に流れ込む災いを封じる祓を行うための「結界」であったと考えられます。

それは本来河川の女神であられる瀬織津姫命を、「饗土(=京戸)の塞の神」として祀ったことに繋がるのではないでしょうか。
だからこそ、祓戸神は「岐(くなど・ちまた)の神」という側面を持ち合わせているのだと思います。

瀬織津姫命は、一般的には「宗像三女神」の市杵島姫命と同一視され、河川に係る神社にも厳島系の信仰が色濃く残ります。
「市杵島姫命」は宗像大社中津宮に坐すとされ、大島の御嶽神社を始原とする御神格であられます。
宗像三女神とは、田島の辺津宮に田心姫命、大島に市杵島姫命、沖ノ島に湍津姫命を祭神としています。

しかし、宗像では「航海や海上安全の女神」として祀られる宗像三女神が、なぜ河川や滝の女神として祀られるのか私は不思議でした。
日本の河川や滝に鎮座する一般的な神格は厳島系で宗像三女神とする以外に、インドの河川の女神である「弁財天(サラスバティー)」や「龍神」や「滝不動」とされることが殆どです。

そもそも「瀬織津姫」の御神名を辿ってみると、「瀬に降りる」と直訳され、「川面に降り立つ女神」を意味します。
しかし、興味深いのは長野にある筑摩神社に祀られている宗像三女神は、「狭依(さより)姫命、多紀理(たごり)姫命、多紀津(たきつ)姫命」とされ、実は市杵島姫命の別名に「狭依姫命」があると言います。
「狭依(さより)」と「瀬織(せおり)津」は、語感として非常に似ている気がしますが、もう少し掘り下げてみましょう。

日本神話の神名によくつけられる「狭(さ)」という仮名は、「御」「速」などの敬称を意味するとも言われますが、かつて稲作の豊穣祈願をする際、「稲霊(サ)」を神籬や磐座、巫女を依代として祀り、その祭祀を持って「サ(狭)の神」を崇敬してきたのだと思います。
ゆえに、語源から推察すると「狭依姫命」とは「稲霊(サ神)」の依代の神格化であり、市杵島姫命を祭神とする御嶽神社が御神体を磐座とする説明にもなります。

「瀬織津姫命」とは、「狭依姫命」の語形変化から派生した御神名である可能性が高く、「津(つ)」は接続詞であり、「狭依(さより)つ姫」が訛って「瀬織津(せおりつ)姫」になった可能性があります。
そもそも「サの神」は古来より初夏に山々から里に降りて、収穫の秋には稲に宿り実らせると考えられてきました。
秋に実りをもたらした稲霊は春に田植えをするまで山に帰るとされ、山に坐す神霊が里に降りるには「川を伝ってきて、稲田の依代に降り立つ」と考えられてきたからこそ、「サ神」と「早乙女≒巫女」は結びつきやすかったのだと思います。

五月(皐・サ月)に田植えをする乙女たちに降りる神霊は、大衆的な目線で言えば男性的な神格ではなく女性格の神霊の方が直感に反しません。
だから「サ神」は女神であると考えられ、山を神体とする「大山祇神」は女神とするのが一般的なのだと思います。
ゆえに瀬織津姫命も狭依姫命も、本来は「サ神」であり、だからこそ山や川と地形的に縁が深いのでしょう。

では、宗像三女神とされる「多紀理(たごり)姫命」や「多紀津(たぎつ)姫命」の御神名を探ってみると、「タゴリ」の本来の語彙は「タギオリ=タキオリ」であり、上代日本語において母音連続を避ける法則から、元は「滝降り(たきおり)」の意味であった可能性があります。
ゆえに、「タゴリ=タキオリ=タキ(ツ)」であり、田心姫命も湍津姫命も、語源としては同じであると考えられるのです。

瀬織津姫命は滝に祀られることも多く、元々「滝つ姫」として祀られていた滝の女神が、「瀬に降りる」サ神と結びつき、同一神格となっていったのではないでしょうか。
しかし、滝の水も川に流れ出るのでその見方は矛盾しません。
これは大祓に「佐久奈太理に落ち多岐つ」とありますが、これは瀬織津姫命と湍津姫命を重ねる動機にもなり得ます。

おそらく、中臣氏は「瀬織津姫命」という御神名を残したかったのだと私は思います。
それゆえに、「記紀」の記述には登場せず殆ど主祭神として祀られることのない「瀬織津姫命」という河川と稲作に係る女神を、「祓戸大神」として名が残るようにしたのではないでしょうか。

では、なぜ「瀬織津姫命」という御神名に被さるように、市杵島姫命を始め異なる神々の名が与えられるようになったのかを考えると、本来「狭依姫命、多紀理姫命、多紀津姫命」の三女神は同一神であり、淡水と河川と磐座信仰に基づく宗教文化は稲作ができる「陸側」に広く存在していたと推察できます。
我が国は歴史的には狩猟民族である縄文人を祖先とし、その後「稲作」が始まり定住が広がることで弥生文化が根付いていきました。
航海技術を持った海洋民族や渡来系の人々は、その定住した人々と交易をすることで栄えていったと考えられます。

古代における宗像氏は海洋豪族であり、いわゆる「海人族」ですが、宗像の大島は「壱岐」と非常に近く、壱岐から田島、大島、沖ノ島を経由して朝鮮半島と鉄などの交易を行っていたそうです。
宗像三女神を祀る宗像大社の神主であった宗形徳善は、「記紀」編纂を指揮した天武天皇の義理の父に当たり、当時の朝廷では宗像氏と秦氏が同じ海洋系氏族として権威を持った時代でした。
古代の近畿地方には海部氏や尾張氏、渡来系の秦氏や九州の海洋豪族の宗像氏が権勢を奮っており、その影響は避けられない状況だったのでしょう。

ゆえに、天武天皇と持統天皇の時代に編纂された「記紀」の記述において、天照大御神と素戔嗚命の「誓約」で誕生された宗像三女神が、いわゆる公式見解となってしまったことで、瀬織津姫命が市杵島姫命という御神名に書き換えられてしまったと考られます。
そもそも、海洋氏族である宗像氏が淡水のある河川の女神を祀るのは地形的に理に叶っておらず、元々本島で祀られていた狭依姫命を始めとする三女神を壱岐と宗像を挟む「三島」に当てはめ、その土着的信仰を国家神道に差し込んだのではないでしょうか。

「市杵島」は本来「壱岐島の女神」か、海の岩礁を磐座とする「斎(いつき)島」から名付けられた可能性が高く、従って海神と考えるのは理に叶っています。
しかし宗像氏が狭依姫命と市杵島姫命を同一神格としたことで、市杵島姫命という島と海の守護女神が、河川や滝の守護もする「水の神一般」の御神格を指し示すようになったのだと思います。
そして、奈良・平安時代にかけて中央政権と絶妙な独立関係を維持した奥州は、「瀬織津姫命」という御神名をそのまま残すことになったのだと考えられます。

ただ、瀬織津姫命を市杵島姫命とする以外に、なぜ弁財天や龍神や不動明王に神名を書き換えるほど徹底した「瀬織津姫隠し」が行われたのか、その説明はつきません。

しかし、国家神道を司る伊勢神宮の「天照大御神」の荒御魂として「撞賢木厳之御魂天疎向津姫命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)」の別名を由緒が「瀬織津姫命」とすることに繋がりがあるような気がします。
私の見解としては、天照大御神の別名とされる御神名は、本来「撞榊向津姫命(つきさかきむかつひめ」であり、「神の憑く榊に迎える女神」で「神籬を依代とする神霊」を意味したのではないでしょうか。

そうするなら「神籬や磐座や巫女を依代として降りる稲霊(サ)」としての瀬織津姫命(狭依姫命)を天照大御神の荒御魂と比定する説明もできるのです。

今、私が読み込んでいる日月神示の中で、「御三体の大神」として「伊弉諾神・伊奘冉神・つきさかきむかつ姫の神」とする記述があります。
そして神示の文脈を紐解いていくと、どうやら私たちが考える天照大御神と天照皇大神宮の天照皇大神とは異なる御神格らしいのです。

私はこれを読んだ時、何かの間違いか悪戯の可能性を考えたのですが、現実の神界の話が日月神示に書かれているのだとしたら、河川の女神であられる瀬織津姫命が「太陽神」であり「高天原の最高神」である説明はつき難いため、日本人が国家神道という祭祀形式においては瀬織津姫命を「神道の最高神」に据えて天照皇大神とし、天照大御神の荒御魂として祀る論拠たりえます。

神社祭祀を礎とする神道において、「祓い清め」は神道の究極の目的であり、生きている限り「罪穢れ」を負う天の益人である国民は、神々の祓いと除災によって救われ、豊かさを得て幸福になるとされます。
つまり、「祓い清め」という神々の御役目を司る「祓戸大神」であられる瀬織津姫命が、神道における最高神と考えられても不思議ではないのです。

ただ、それでは「淡水の女神」を太陽神とする矛盾が生じることになりますが、そもそも瀬織津姫命が「稲霊の神」であるとするなら、今日も続く国家的祭祀である「大嘗祭」が収穫の儀式であり、稲の成長には水だけでなく太陽の光も必要であり、人々は恵みを太陽に求めたのではないかと思います。

そもそも、「天照大御神」という御神格が「太陽」だけでなく「高天原の最高権威」を指し示すとしたら、瀬織津姫命がその勲位に神留まることに矛盾はないのです。
それゆえ天照皇大神は「稲作」と「太陽」と「祓い清め」を象徴する女神となり、まさに日本人にとって最高の神徳をもたらす御神格であられるのでしょう。

また、神武天皇の妃であられる「媛蹈鞴五十鈴姫命」は「玉依姫命」の御子神とされます。
この「玉(たま)」という言葉は、そのまま「霊・魂(タマ)」の意と考えられますが、「日・霊(ヒ・ミ・ヌ」のバリエーションの一つかもしれません。
そう考えると「サ(稲霊)」も「タマ」であり、「霊を依代とした女神」という意味では「玉依姫命=狭依姫命=瀬織津姫命」とも考えられます。

玉依姫命は海津見の竜宮の乙姫とされ、姉の豊玉姫命は龍神であり、彦火火出見命との子であるウガヤフキアエズ命を養育し、その後ご結婚なされたとされます。
日本では古来から水辺に龍神が住むと考えてきましたが、実は「竜宮」は滝壷の奥にあると考える方が一般的だったそうです。
「滝・瀧」には「竜・龍」の漢字がつくので、古代の日本人は河川に龍を見ていたのではないでしょうか。

従って、「瀬織津姫命」と「玉依姫命」の同一視説があるのも一理あります。
「記紀」において「櫛玉依姫命」や「鴨玉依姫命」など「玉依姫」の派生形と思われる御神名が多いのは、皇統と地方豪族との宗教的・血族的繋がりを示す上で神格を結びつけた結果なのだと思います。
そもそも、稲作の豊穣と河川の恵みと祓い清めや除災を司る神格はあまりに万能であり、地方豪族がそれぞれの「サ神」を祀っていたら人皇を頂点とする中央政府の権威性は固持できません。

おそらく地方豪族もそれぞれ「瀬織津姫命」を産土神や氏神や祖神としたため、王権がそれぞれの豪族を束ねる過程において皇統に結びつける必要があり、それゆえ「玉依姫命」に見られるように幾つもの神名を用いたのだと考えられます。
「瀬織津姫命」という統一見解が広く地方に存在し、その信仰が根強ければ根強いほど「天皇」や天照皇大神を頂点とする権威は分散します。
その状態が続けば統一はならず軋轢を生む可能性があり、大和王権はそれを恐れたがために「瀬織津姫隠し」を行い、その権威を「天照皇大神」に紐付けたのではないでしょうか。

まとめると、瀬織津姫命の御神名は狭依姫命と同源であり、おそらく「サオリ(稲に降りる霊)の神」、言わば「さおり(稲降り)姫命」が御神名の原型なのかもしれません。
東北地方には「サオリ」という稲作に係る豊穣祈願祭の風習があったと民俗学に確認でき、やはり「瀬織津姫命」は稲作と関連が深いようです。
ただ、「山から流れてくる川」と水田に豊穣をもたらす神が結びついたがゆえに「サの神・塞の神」という側面があるのであって、山の水源から浜辺までの淡水を司る女神であるのは不動だと思います。

私自身は瀬織津姫命を「市杵島姫命」や「弁財天」や「龍神」や「滝不動」としてお祀りしていることに茶々を入れたい訳ではありません。
ただ、これから神道が見直される機会が得られるならば、「瀬織津姫命」という御神格をあるがままに捉え、その信仰を根付かせていきたいという思いがあります。

瀬織津姫様は私が感じる限り「瀬織津姫」という御神名を痛く気に入っておられるようで、その名が上書きされていることには胸を痛まれている気がしてなりません。
特に日本の国土におられる神様たちは、ご自身に外国由来の神名がつけられているのをどうお感じになられているのでしょうか。
例え神様がどう思われているにしても、私が新たに「瀬織津神社」を創建することによって、「瀬織津姫命」という御神名をそのまま後世に残すことができます。

その上で、新たな「神社建立」は次の時代における祭祀のあり方を見直すきっかけになると思います。
そして、日本の国家神道のあり方、国家そのもののアイデンティティを考える上で「日本人にとって神とは何か」に、一石を投じることができると私は考えています。

また実際、私が瀬織津姫様のご神意を伺うことができているのならば、神様はそう願われているように感じます。
おそらく、神々は「人間と神との関係」を根本的に変えようとして動かれているのではないでしょうか。
私はそれを感じるたびに、「神様は前面に出て来られるおつもりだ」と確信するのです。

この文章を書かせたのが瀬織津姫様のお力なのだとしたら、神様たちは攻めていくおつもりなのでしょう。
これまで歴史的に覆い隠されてきた信仰を改めるべく、瀬織津姫様の巻き返しが始まったのだとしたら、それは「瀬織津姫命の進撃」と呼んでも良いのかもしれません。

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「日月神示」とは何か

楽太郎です。

スピリチュアル業界には「2025年7月問題」というのが数年前から話題になり、昨今は「あるかないか」という議論が活発になりました。
本ブログでもその件に関して何度か取り上げていますが、その「7月」も残すところあと1週間です。

予言されていた天変地異が起きなければ困る人などいようはずがないので、何も起こらないなら起こらないに越したことはありませんし、タイムラインや世界線が切り替わったとしても結果論に過ぎないので、そのことについて議論しても意味がないと思います。

私の感覚では、確かに春分点頃までは「地球が荒れている」感覚がしてましたし、「何もない気がする」ようになったのは夏至以降です。
個人的にはこのまま「7月問題」は有耶無耶になる可能性が高いと感じているのですが、それでも南海トラフしかり地震もあらゆる災害に関しては「いつ何時起こってもおかしくない」ものなので、引き続き防災意識を持っておく必要があります。

この夏はどんな災害よりも目に見えるのは酷暑による旱魃や水不足、日照被害による農作物への影響です。
すでに猛暑で水田に水が張れなくなり、今年の稲作への影響も危惧され始めました。
この毎年の酷暑に関して、私は現代科学が提唱する「地球温暖化」は大して関係ないのではないかと感じていて、おそらく地球の次元上昇の一環で起きている現象ではないかと見ています。
それに関して話すと長くなるので割愛しますが、あと数年すれば普通に戻るか、むしろ寒冷化し始めるのではないかと思っています。

現在の世界を巡る変動を考える時に、私が指針としているのは第二次世界大戦末期に画家で宗教家の岡本天明氏に降りた「日月神示」です。
この日月神示は、おそらくいくつものタイムラインの話がごちゃ混ぜになっていて、前期の神示は確かに第二次世界大戦の行末などを記述しているように思います。
しかし、天明氏の自動書記は戦後にも断続的に起きていて、最後の筆記は1959年とされています。

この啓示が降りる時、天明氏の右腕に激痛が走り、自動書記が猛烈に降りた後に書かれた神示は数字と仮名が入り混じった難解な暗号文で、それを解読するのに数年を要したとされます。
ただ、暗号文を無理矢理こじつけたにしては一貫して筋が通っていて、しかも理路整然としている上に含蓄に富み、同じ文脈の話が何度も現れるという、仕込みにしては不可思議な内容でもあります。
私は岡本天明翁を疑う気はないのですが、仮にヤラセだとしても本文の内容は非常に示唆に富み、思想哲学として読んでも第一級であると思っています。

私は10代の頃に哲学にかぶれて、ニーチェやハイデガーやフッサールやフーコーを読み漁ったものですが、その後に出会った仏教哲学すら内包する、深淵な宇宙観が示されていると感じています。
その中でも、「善と悪との和合」や「自己浄化の敢行」「◯(外殻)と・(基点)の仕組み」は、この神示の中では綺羅星の如く輝く部分です。

私はこの神示が何を根拠にして「誠である」と感じるのか、自分でもはっきり説明がつきません。
私が言葉で解説しても矛盾が生じてしまう部分もあり、一概に全て読み切れている確信はありません。
しかし「外国が一斉に日本に攻めてくる」とか、「日本人にも外国の魂を持った者がいる」とか「日本人の魂をワヤにした悪の仕組み」とか、どうも今の我が国に起きている状況に妙に当て嵌まる部分もあるのです。

だから、何となく私はこの神示は現代に向けられているものではないかと思っていて、神示にも「100年も嘘は言わんぞ」「計画を1日遅らせると1000日延びる」とも書かれていて、日月神様でも不確定未来という概念によって大幅に前後する可能性を予め述べられています。
「子の年を挟んで10年が大峠」という一文は有名ですが、2020年の年明けから間もなくコロナのパンデミックが始まり、この頃から世界が不穏な空気に包まれ始めました。
パンデミックも収まらぬ2021年にはロシアによるウクライナ侵攻があり、未だに各国に戦火が拡大しています。

「辰の年は良い年ぞ」とありますが、昨年2024年の秋分点で実質的な地球の次元上昇が始まったと私は見ていて、その頃にスピリチュアルの「スピ」の字にも興味がなかった私が急速に霊的覚醒を始めた時期と重なります。
私が個人的にゾッとしたのは「辛酉の日に気をつけよ、怖い日ぞ」と書かれていて、ちょうど直近の辛酉の日というのは2025年6月21日で夏至に当たります。
本ブログでも夏至の環境変化はリアルタイムで解説しているのですが、その「怖い」というのは大事で重要であるという意味にも取れるのです。

このように、日月神示は私の霊的感性にバッチリ合う面が多く、私はかねてから「日月神示とは何なのか」を考えてきました。
この日月神示を降ろした「日月神」とは、千葉県成田市にある麻賀多神社の摂社に祀られる「天日津久神」と同一神であるとされます。
啓示を受けた岡本天明氏によれば、日月神とは大本教にも信仰される「国常立命」であり、これまで封印されていた大神であったと言います。
しかし神示の内容を良く読んでみると、どうも国常立命とは「素戔嗚命」と同一神であるようにも読み取れ、世界の闇と罪穢れを背負っておられた大神として語られています。

この啓示を降ろした日月神が、一般的に「国常立命」であると考えられていますが、文脈を読む限り「この方」とされる一人称にはブレがあって、どうも「国常立命の眷属」に坐す位の高い神格なのではないか、と私は考えています。
では麻賀多神社の天日津久神とはどういう神格か考えてみると、「天と地が和合するのが日月である」という文章から鑑みるに、「日」と「月」は必ずしも天体としての太陽と月を指し示していないのではないかと思います。

日月神示は駄洒落にも似た捩りや複数のミーニングが多用されていて、必ずしも表現通りの意味には取れない部分もあります。
日本神道における「日(ヒ)」は、そのまま太陽を指し示すことも多いのですが、「火」や「霊」の仮名遣いであることもあります。
ただ、日本語の発音から考えると「火」は乙類に属し、語源的に「日」と「霊(ヒ)」の発音は甲類とされ同じとされます。
例を挙げれば、「神直日神」や「八十禍津日神」の「日」は「霊」と同じ用法です。

「日月とは火水である」とも本文には書かれているのですが、「火」は語源的に「日」ではないので捩りの可能性があります。
おそらく、「日=霊」とは「天=神界」のメタファーであり、意味的には「日(=天)と月(=地)の和合」が日月の意味なのではないでしょうか。
では「月」とは何かと言うと、「嗣(つぎ)」ではないかと私は思っていて、「日を嗣ぐ=天を継ぐ」のが地を司る国常立命であるからこそ、「天地の和合した新たな世=ミロクの世」となると考えれば、辻褄が合うのです。

日月神示の中で繰り返し現れる「てんし様」という言葉は、おそらく「天嗣(てんし)」であって、「天の王権を継承した神格」という意味を持つのではないでしょうか。
よく考えれば、昼には天に聳える「日」は夜になれば「月」となります。
「日」を「嗣ぐ=次(つぎ)になる」から「月(つき)」であり、天は太陽から月へと二つの天体が入れ替わることで地球を照らします。
つまり、天を司る太陽を継ぐのが「地球」になることの比喩を「日嗣(ひつき)」とするなら、「国常立命が天の王権を嗣ぐ=天嗣」になることを意味すると考えられます。

話が逸れますが、伊勢神宮に祀られている天照大御神の荒御魂であられる天疎向津姫命を、複数の「御鎮座伝記」と言われる由緒書きや歴史書の中で「瀬織津姫命」であるとする謎があります。
私の感覚からすると瀬織津姫命は河川と淡水を司る自然神であり、稲作や除災の信仰と合わさって祓戸大神となった経緯が考えられるのですが、河川の女神を太陽神に準える理由がわかりませんでした。
しかしよく考えると、神々が住まう「高天原」と言われる神界そのものが「天」であり、天を司る最も強い「神霊=日」は、天を照らす大神(=太陽)に他なりません。

ゆえに、天照大御神を「高天原で最も高位の神」だとするならば、祓戸大神であられる瀬織津姫命であっても説明はつくのです。
奇しくも、神道は「祓いに始まり祓いに終わる」と言われており、「祓い清め」という神道の総本山こそ伊勢神宮であります。
神道関係者にボコボコにされそうな気もしますが、「荒御魂」とは「現(あら)御魂」であって、伊弉諾命の禊祓の時に生まれた三貴神と、祓戸大神が同時に生まれたことになっているのは、瀬織津姫命が天照大御神の一つの顕現であると取ることもできます。

そして、その「天を嗣ぐ」のが国常立命であるとするなら、大地の神格そのものである国常立命が高天原を治めることとなり、天と地が同一神によって統治されることになるのです。
私には、これが「日月神示」に示された「大峠」の後の「ミロクの世=神世」の真相ではないかと思います。

つまり、私たちが「素戔嗚命」と同定していた神格は長らく「艮の金神」として忌避されてきた「国常立命」とされる大地の大神であり、それは大本教でも示されていたように、日本の歴史の中で封じられてきた神格に他なりません。
確かに、素戔嗚命も高天原であらゆる暴虐を働いた後に天を追い出され、数々の業績を残しながら最終的に大国主命に王位を譲り隠居同然となります。
私は「記紀」は政治的事情で恣意的に創作された部分が多いと思っているので、日本神話の正統性として疑問を感じてはいるのですが、共通点は確かに存在します。

先ほど、この啓示を降ろしたのは日月神のご眷属の神格ではないかという話をしました。
では、啓示を降ろしたこの御神格をどう考えれば良いでしょうか。

「日嗣」とはそもそも、天照大御神を祖神とする天孫族の皇胤に用いられる言葉です。
日本神話において、大国主命から天照大御神に国譲りがなされた後、「国津神」として天孫たる瓊瓊杵命に高千穂まで案内をした「猿田彦大神」こそ、天照大御神以前の「古い太陽神」であり「日嗣」いわゆる天の王権の継承に貢献した神なのではないでしょうか。
また、同じ役割を神武天皇の東征時に行った「八咫烏=賀茂建角身命」は、一説には三嶋溝杭命と同一視され、役割を「日月神」とされることがあります。

どうも、古い太陽神でありながら道開きの神であり導きの神である猿田彦大神が、この啓示に一役買っているのではないかと感じています。
というのも、一気に胡散臭い話になるのですが私の感じる猿田彦大神様と日月神示から感じ取る御神格の雰囲気がそっくりというのが…
この部分は聞き流して頂いて構いません。

最後の方は完全な妄想になってしまいましたが、日月神示では「旧暦9月8日」という日付が特筆して述べられています。
新暦で言うと10月28日であり、私は2025年7月よりもこっちの方が何かあるのではないかと思わざるを得ません。
とは言え、「何かある」と災害を待つ心が悪であると神示には書かれているので、改めて振れ回るつもりはありません。

気になるのは、神示の中に「保食神がお怒りぞ」と書かれていて、昨今の食料事情を鑑みるに神様がお怒りでもおかしくないと個人的に思います。
物価高だからと売れ残る生鮮食品はそのまま廃棄され、食べ物に困る人もいる中で飽食を続ける人もいます。
特に、どうも人為的に引き起こされ価格操作もされているとしか思えない米不足と、この猛暑で「水田に水がない」という状況、私には何となく嫌な予感しかしません。

神々が世界で主導権を握る時代が来るとしたら、人間の欲望と利益追求のために摂理も倫理も捻じ曲げてきた人治の世界は、根本的に手直しが入るようにしか思えません。
そして、それは実際に世界経済の動乱という形で現象化しており、それは日月神示にある「三千世界の立て直し」の一環であるようにも思えます。

それを肌身で感じるからこそ、理屈を超えて日月神示が「真の啓示である」と間に受ける部分であり、それは具体的に説明はしきれないのですが、妙な説得力を感じるのです。

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「猿田彦大神」の正体

楽太郎です。

現在、「神統試論」シリーズの続きに取り掛かっていますが、あまりに情報が膨れ上がり、どう纏めていくか思案中です。
次から次へと新しい発見があるので、頭の中を整理するのも難しい状況です。

この試論の中でキーパーソンとなるのが、「玉依姫命」です。
玉依姫命は、天孫族の一胤たる鸕鶿草葺不合命の妃であり、神武天皇の母となります。
しかし、肝心の鸕鶿草葺不合命に関する情報が不明瞭というか、そもそも御神名からして何となく正体を伏せられている印象がします。

玉依姫命にも「鴨玉依姫命」「櫛玉依姫命」「活玉依姫命」など、様々な系統からの御神名があり、おそらくそれぞれの氏族によって解釈が変わるからだと思います。
その流れで、「鸕鶿草葺不合命」もミステリアスな神格であり、「記紀」はその点をはぐらかす書き方をあえてしているようにしか思えてなりません。
「記紀」はこのように、事実をわざと隠すのですが、なぜか完全になかったというような書き方はしません。

何となく、「読み解いてみよ」と問いかけられているような、そんな知恵比べをしている感覚になって来ます。
記紀が間怠っこしいのは、同じ系統の話が手を変え品を変え何度も繰り返し登場することです。
この既視感のせいで、時代も流れも言葉も混同してよく分からなくなることもしばしばです。

今回は、そんな作業を進めるに当たって、とりあえず情報がまとまったところから出して、「神統試論」の叩き台にして行こうと思います。
その中でも、わりと謎の多い道開きの神、「猿田彦大神」に関しての記事になります。

猿田彦大神は、「記紀」の天孫降臨の段において、天照大御神と高皇産霊神の命を受け、天降る瓊瓊杵命を葦原中津国に道案内をした国津神であるとされます。
その際に、天照大御神の配神である天細女命に故郷の志摩(伊勢)まで同伴し、送り届けてもらいました。

この時、天細女命は志摩国の魚たちに瓊瓊杵命に仕えるかと問い質し、海鼠だけは聞かなかった、という説話が続きます。
その後、故郷の志摩に帰った猿田彦大神は比良不貝に手を噛まれて亡くなります。
この様子から、天細女命は猿田彦大神と共に志摩で余生を過ごしたと考えられます。

奇しくも、「記紀」には類似した説話が登場します。
神武東征の折に高皇産霊神の命を受け、天照大御神の配神たる八咫烏は奈良県の橿原まで神武天皇を案内します。
この時、八咫烏は熊野にいたとされ、大和まで導いたことから紀伊半島南部に縁があったのではないでしょうか。

八咫烏は足が3本のカラスであり、導きをする神の遣いと言われています。
熊野信仰においては素戔嗚命に仕える神使であるとされるため、紀伊半島の地理に詳しいのは理に叶っています。

なお、八咫烏は賀茂神とされ賀茂建角身命と同一しされます。
賀茂建角身命は別名を天日鷲神、神武天皇が地方豪族の長脛彦と争った際、金鵄が加勢に加わったとされますが、天日鷲神のまたの名を天加奈止美命(あめのかなとみ)と言い、金鵄の正体ではないかと言われています。

実は、天孫降臨の際に瓊瓊杵命に道案内をしたのは猿田彦大神だけではありません。
鹿児島県の笠狭崎に瓊瓊杵命が到着した際、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさのかみ)が自分の国を天孫に譲り渡しています。
実際、宮崎県の西都原古墳群という遺跡の近くに、「事勝国勝長狭神の墓」とされる史跡が存在します。
西都原古墳群の男狭穂塚と女狭穂塚は、通説では瓊瓊杵命と妃の木花咲耶姫命の陵墓参考地となっています。

瓊瓊杵命と木花咲耶姫命がお住まいになられた笠狭宮は、鹿児島県南さつま市に複数存在します。
瓊瓊杵命が住まわれた笠狭宮には前笠狭宮と後笠狭宮があります。
前笠狭宮には舞敷野地区、宮之山遺跡に磐座と石趾が残ります。
加世田にある後笠狭宮には瓊瓊杵命と木花咲耶姫命、その三皇子(火照命、火須勢理命、火遠理命)を祭神とする竹谷神社があり、当社は笠狭穂の跡地に建てられたと言います。

海幸彦山幸彦の神話において、山幸彦(火遠理命)は海幸彦(火照命)の釣り針を失くし、あらゆる手を使ってもダメだったのですが、嘆きながら浜辺に佇んでいると海から塩土翁が現れ、海神の宮へ案内をしました。
一説では瓊瓊杵命と木花咲耶姫命の仲を取り持った事勝国勝長狭神は別名を「塩土翁神」と呼ぶとされます。
塩土翁に連れられて海神の宮に行った火遠理命は瓊瓊杵命の御子ですから、世代は一致しませんが説話としては類似します。

興味深いのは、私の地元に近い宮城県の塩竈神社には、当社の主祭神が不明瞭のため解明を命じた伊達藩主の伊達綱村によると、「塩釜六所明神」として猿田彦大神、事勝国勝長狭神、塩土翁神、岐神、興玉命、太田命の6座は同一神であるとしたことです。

これはかなりセンセーショナルですが、これらの神々の事績がほぼ似通っていることから察するに、理に叶っていると言えます。
この事勝国勝長狭神には、よく似た名前の神格が存在し、名を「正勝吾勝々速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)」と言います。
天忍穂耳命は、天照大御神と素戔嗚命の誓約によって誕生した神であり、瓊瓊杵命の父に当たります。
天照大御神が当初は天忍穂耳命に天孫降臨を申しつけたものの、準備中に子供が産まれたのでその子に行かせる、という経緯で瓊瓊杵命が天降ることになりました。

冷静に考えて、この話では産まれたばかりの子に天孫降臨をさせたことになりますが、そもそも天忍穂耳命は天照大御神が身につけた珠からお産まれになられたので、言うのも野暮かもしれません。
事勝国勝長狭神と天忍穂耳命が同一神であるとするなら、瓊瓊杵命に吾田の地を譲った事勝国勝長狭神は瓊瓊杵命の父となりますが、必ずしも実父を指すのではないかもしれません。

瓊瓊杵命の妃である木花咲耶姫命は、別名を「神阿多津姫命」と言います。
父を大山津見神とし、姉に石長姫命がおられます。
瓊瓊杵命は天降った先の笠沙の岬で神阿多津神命を見初め、それを大山津見神は喜び姉の石長姫命もついでに嫁がせようとしますが、姉だけは送り返されてしまうという悲劇に繋がります。

こうして考えると、「事勝国勝長狭神=大山津見神」であり、瓊瓊杵命は娘の神阿多津姫命(木花咲耶姫命)に婿入りした、或いは婚姻関係を結んだことで政略的に領地を手に入れた、と考えた方が自然です。
笠狭宮の史跡が残る地はかつて「阿多郡」と呼ばれ、薩摩隼人の住まう土地であったとされます。
奇しくも神武天皇の妃には「阿比良姫命」がおり、海幸彦である火照命は阿多氏の祖神と言われています。

この「阿多」と言う地名は、八咫烏の「ヤタ」、八咫の鏡のような光る目を持つ猿田彦大神を連想するのですが、如何でしょうか。
とは言え、ここに猿田彦大神のルーツを垣間見ることは出来ても、オリジナルであると言い切るには時期尚早です。

猿田彦大神には、別名を「佐田彦神」と言い、稲荷三神の一柱として宇迦之御魂の配神であるとされます。
「佐田」とは、「早苗」や「早乙女」と同意の「神聖な稲田=サ」を接頭語とする言葉で、伏見稲荷では実際に猿田彦大神がお祀りされています。
つまり、猿田彦大神は導きの神でありながら稲荷神でもあり、「吾田=阿多」の地を領していた事勝国勝長狭神と同じく、稲田と関わりの深い神格だったのです。

さらに興味深いのは、「サ」という接頭語が、「猿」や「狭」や「沙」「佐」などの上代特殊仮名遣いに変換されると、関連づけられる神格がいくつも見られます。
「清之湯山主三名狭漏彦八嶋命(すがのゆやまぬしみなさるひこやしまのみこと)とは、「八島士奴美神(やしまじぬみかみ)」とも言い、宇迦之御神の異母兄弟であり、素戔嗚命と櫛名田姫命の御子であるとされます。
八島士奴美神とは別名を「大己貴命」とし、神名を読み解くと「八州(日本列島)を総べる主の霊」となります。
そして、大己貴命は別名を「大国主」と言います。

大国主は父を素戔嗚命、母を櫛名田姫命に持ちます。
そして、妃は宗像三女神である市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命とされます。
三姉妹が同時に嫁入りするのも不自然ですし、三女神の他にも妃がたくさんいるので、少なくとも宗像三女神は同一神、もしくはニ柱だと考えて間違いないのではないでしょうか。

大国主が猿田彦大神であるとすれば、猿田彦大神の妃と思しき天細女命はどう考えるべきかと言うと、江戸時代の国学者、平田篤胤によると天細女命は伏見稲荷に祀られる「大宮能売命」に比定されるそうです。
大宮能売命とは、天照大御神の侍女であり太玉命の娘で、女官や巫女の神格であると言います。
伏見稲荷では宇迦之御魂の配神として猿田彦大神と共に祀られ、そこに天細女命ではなく大宮能売命が鎮座されています。

天細女命は、現代では芸能を司る女神とされていますが、古くは巫女の「猿楽」が芸能の始祖とされるため、宮中祭祀に関わりのある神格と思われます。
大国主の妃である宗像三女神の市杵島姫命の「市杵」とは語源的に「斎・厳(いつき)」であり、宗像三女神を主祭神とする「厳島神社」とは巫女の祭祀を象徴する神格として遠くはない気がします。
ゆえに、宗像三女神が巫女の神格であるとするなら、その夫である大国主を猿田彦大神と同一視することができるとしたら、その妃である天細女命、大宮能売命も巫女の神格として比定可能なのです。

従って、猿田彦大神は御神名の由来を辿れば、八島士奴美神・大己貴命であり、必然的に大国主命に辿り着いてしまうのです。

では最後に、興味深い発見があったのでこれを記して終わりにしたいと思います。
大国主の祖父は「於美豆奴神(おみずぬのかみ)」、またの名を「八束水臣津野神(やつかみずおみつのかみ)」と言います。

こちらの八束水臣津野神は、「出雲国風土記」で国引きを行なった神とされており、朝鮮半島の新羅から越の国(新潟県)あたりの岬を繋げて出雲の国を大きくしたと伝えられます。
その神の御子に「赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(あかぶすまいぬおおすみひこさわけのみこと)」がおり、この名の「佐和気」は「狭別」であり、猿田彦大神や事勝国勝長狭神の神名との繋がりを感じます。

「別」とは「彦」と同様の大王や官を指す言葉であり、「狭」は稲田を示すとされているので、稲作に関連する神名である可能性が高いです。

この八束水臣津野神は、出雲の国引き神話で「国来、国来(くにこ)」と歌いながら岬を繋いでいったとされます。
同様の話が、「記紀」の中にあります。
「こをろこをろ」と歌いながら泥をかき混ぜ、八州を作り上げていった神々がいます。

その御神名を「伊弉諾命」と言い、妻の伊奘冉命と共に国産みを行いました。
この繋がりは、何を意味するのでしょうか。

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「祓戸大神」一神説

楽太郎です。

先日、「祓戸大神、漫画企画始動」という記事を書きました。
そこで、瀬織津姫命が登場する「大祓詞」の「佐久奈太理」とは琵琶湖付近にある「佐久奈谷」であり、祓戸大神の瀬織津姫命の起源は「瀬田川(淀川・宇治川)」にあるのではないか、という話をしました。

「大祓詞」は奈良時代の天智天皇の治世、中臣金連が献上した祝詞であり、祓戸大神を祀る大石の佐久奈戸神社は彼が「大石佐久奈太理神」を勧請した地とされます。
琵琶湖から大阪湾に流れ出る瀬田川は、天ヶ瀬ダムを越えると大阪方面からは「淀川」京都方面からは「宇治川」と呼称を変えます。
鎌倉時代の歌論書「八雲御抄」で、「さくらだに(是は祓の詞に冥土をいふと伝り)」と記され、佐久奈谷は古来、冥土の入口と思われていたようです。
中臣金連が行った「七瀬祓」はこの瀬田川を「境=饗戸(くなど)」とし、京の都を魔から守る「塞の神」として瀬田川の女神、瀬織津姫を祓戸大神としたのではないでしょうか。

この佐久奈谷には「橋姫」の伝承が残り、瀬田川の唐橋、宇治川の宇治橋、淀川の長柄橋に橋姫が実際にお祀りされています。
特に宇治橋の橋姫は、「丑の刻参り」で有名な鬼女の伝説があり、「橋の女神は嫉妬深い」という迷信から派生した可能性があります。
橋とは河川を挟む境界に位置するため、河川の女神が塞の神と関連づけられても不思議ではありません。

以前、「祓戸大神の語源」という記事では、「瀬織津姫命」という御神名が、「瀬降(お)りつ姫」を表意するのではないか、と書きました。
実際、弁財天や宗像三女神や天御神荒御魂など、同一視される神格には事欠かない瀬織津姫命ですが、自然神として遡ると同定可能な神格は「於加美(龗)神」や「罔象女神」しかなく、奈良の丹生川上神社は罔象女神を主祭神としていますが、どちらかと言えば雨乞いの要素が強い水神のようです。

つまり、「河川と淡水の女神」というプロフィールで言うなら、瀬織津姫命と同一視可能な文化神(歴史上の人物が祖神化した神格)はなく、あくまで自然現象の神格化である、と言わざるを得ません。
上代語における「瀬(せ)」は、仮名遣いにおいて「サ」にも変化することは確認できますが、言語学的に「サ」の接頭語用法には規則性があるようです。

①規模が小さいもの…小さい、細かい、少ない、狭いetc.
②全体を切り分ける…割く、さすらう、遮る、境etc.
③落ち着かない様子…叫び、急く、騒ぐetc.

「サ」には小さいもの、未熟なもの、愛らしいもの、清らかで穢れないもの、というニュアンスを含む接頭語としての意味合いがあります。
「瀬(セ)」も水面の清らかさを表現しており、印象としては遠くないかもしれません。
他にも「早苗」や「小夜」、「小枝」「さざ波」などが挙げられますが、「皐月」や「早乙女」も当てはまるようです。

皐月とは「田植えの月」の旧暦五月を指す和風月名ですが、田植えの際には田の神を稲田に迎える「サオリ」という民間行事があります。
これは「サンバイ降ろし」とも呼ばれ、床間の祭壇に三把の稲代を奉納し、春の豊穣祈願をする習わしです。

日本民族学には、「山の神の春秋去来の伝承」という概念があり、春の田植えの時期になると山の神が田に降りて神となり、秋に豊穣をもたらし山へ帰還するとされます。

「ヤマ」の語源 -日本語の意外な歴史

この記事を元に「ヤマ」の語源を調べてみると、水・水域を意味するjark-などから派生したと指摘します。

日本語のyama(山)やyabu(藪)なども、そのことを物語っています。yama(山)は、水を意味していた語が、その横の盛り上がった土地、丘、山、高さを意味するようになるパターンでしょう。yabu(藪)は、水を意味していた語が、その横の草木を意味するようになるパターンでしょう。

つまり、古代の日本語では「水=川」と「山」という概念は切り離せない関係であり、水田は川から灌漑を引いて行うものです。
そして、稲作の成功を祈願するには山の神を田に降ろす豊穣の儀式をします。
その時、若い女性(早乙女)たちが田に苗を植えていきます。この行事が行われる「皐月」が転じて「早乙女」は「五月女」と書きます。

つまり河川と山の神、稲田とは関係が深く、瀬織津姫命が「瀬(セ=サ)降りつ姫」であるのなら、稲作と関連づけられる可能性もあります。
「沙織」とは、田植えの作業の無事を祈願する祝祭から来ており、「沙織津姫」が転じて「瀬織津姫」となった可能性もあります。
奇しくも、瀬織津姫命と比定されることの多い白山権現(白山比咩大神)は、白山という大霊峰を御神体とし、そこから賜る恵みに感謝し、水神や五穀豊穣の神として篤く信奉されています。

さて、今回の記事は瀬織津姫命だけでなく、「大祓詞」に登場する他の三神についても考えてみたいと思います。

先に出した白山比咩大神は、明治の神仏分離・廃仏毀釈の流れを受けて「菊理姫命」とされています。
こちらの菊理姫命とは、「古事記」の中で伊弉諾命が黄泉の国で腐敗した伊奘冉命と再会したことで夫婦喧嘩となり、その去り際に伊奘冉命の側に立って仲裁を行った女神とされます。
菊理姫命は、黄泉津大神として冥土の支配者となった伊奘冉命に配された神と考えるのが普通ですが、なぜ白山権現としてお祀りされているのでしょうか。

私は、白山権現を「瀬織津姫命」とできない理由があったのではないか、と考えています。

「大祓詞」の中には、瀬織津姫命によって早瀬から海原に押し流された罪穢れは、根の国底の国におられる速佐須良姫命が何処かへ消し去るとあります。
逆に言えば、速佐須良姫命は黄泉の国に罪穢れを誘い、葦原中津国の禍事を跡形もなく祓います。
ここにある速佐須良姫命は、黄泉津大神の元にいる菊理姫命であると考えても違和感がありません。

白山は豊富な水源と河川を擁する山麓であるため、黄泉の国にいるはずの菊理姫命が主祭神とされるのは理に叶っているとは、どうしても思えません。
また、白山権現は菊理姫命と共に祀られる伊奘冉命とされることもあり、その由来には不明瞭な印象を受けます。
つまり、同じ祓戸大神である速佐須良姫命を経由して、瀬織津姫命を菊理姫命に置き換えたのではないか、と私は考えています。

冷静に考えて、岩手県の早池峰神社のように、霊峰の主祭神が水神である瀬織津姫命であれば、直感的に納得しやすいと思います。
白山比咩大神を日本神話に比定するのであれば、菊理姫命より瀬織津姫命の方がイメージ通りという気がするのですが、どうでしょうか。

ただ、この話で興味深いのは、菊理姫命と速佐良姫命がほぼ同じポジションにいる女神だということです。
黄泉津大神となった伊奘冉命の側にいるということは、二柱の御子神である可能性が高いです。
祓戸大神の速佐須良姫命は、伊弉諾命の禊から産まれた女神であり、経緯は違えども父は伊弉諾命です。
私は以前、「速佐須良姫命は速吸日女神ではないか」という話をしましたが、こういう考え方もできるかもしれません。

しかし、菊理姫命が速佐須良姫命であるとするなら、白山信仰をベースにすれば速佐須良姫命と瀬織津姫命は同じ働きをしていることとなり、同一神である可能性が出てきてしまいます。
瀬織津姫命と関連が深い佐久奈谷は、かつて「冥土=黄泉の国」の入り口と考えられ恐れられていました。
ゆえに、速佐須良姫命と瀬織津姫命との関係はとても深いように思います。

以前の記事で、祓戸大神であられる「気吹戸主は大気津姫命ではないか」という仮説も述べました。
上代日本語において、「気(ケ)」とは「饌・餉(ケ)」は同じ語源であり、記紀では大気(宜)津姫命は食べ物を吐き出して振る舞おうとしたところ、素戔嗚命に斬り殺されてしまいます。
この大宜津姫命こそ、保食神であり稲荷信仰に篤い宇迦之御魂であり、豊穣を司る女神であるとされます。

何が言いたいかといえば、春の豊穣祈願に山から降りる田の神は、瀬織津姫命と繋がりがあると言うことです。
田植えを祈願する祭りである「沙織」が転じて「瀬織津」となっている可能性も考慮すると、稲荷神は瀬織津姫命である可能性もあるのです。
ただ、この考えは気吹戸主が宇迦之御魂であるという前提の話だから成り立つことで、多少強引さは否めません。

では気吹戸主と比定可能な神格を探してみると、風を司る「級長(しな)津姫命」をおいて他にないかもしれません。
大祓詞の中に、「科(しな)戸の風の天の八重雲を吹き放つことの如く」とありますが、風の神様に「級長津彦命、級長津姫命」の男女の神格があります。
「日本書紀」に登場する「級長戸辺」という神は女神であるとされ、「気吹戸」が水流や気の流れだけでなく風も司るとしたら、気吹戸主命は級長津姫命を置いて考えることはできません。

ただ、「気吹戸」という言葉で思いつくのは、琵琶湖の東に位置する「伊吹山」です。
この伊吹山からは姉川を始めとする淀川水系の水源地となっており、つまり瀬田川に繋がります。
伊吹山から降りる河川には瀬織津姫命が祀られており、やはり祓戸大神に繋がります。

では、祓戸大神で未出だった「速開都姫命」はどう考えたら良いのでしょうか。
「開都=秋津」は、字の通りなら「水戸=港」を指します。「岐」が「開く」がゆえに港となるからです。
ただ、「秋」とは「安芸」の語源でもある「飽き=豊か」という意味ならどうでしょう。

豊かな実りをもたらす「秋」とは「飽き」の季節であり、皐月に早乙女たちに植えられた稲穂はたわわとなります。
その恵みをもたらしたのは春に降り立つ山の神であり田の神でもあった瀬織津姫命であり、秋には豊作を見終えて「サナブリ=瀬上り」して山に帰ります。
この「サナブリ」は五穀豊穣を祝い神に感謝する秋の収穫祭であり、田に降りていた山の神を見送る行事です。

つまり、「秋」という字と季節だけで考えれば、瀬織津姫命と無理矢理結びつけられなくもないです。
ただ、瀬織津姫命が河川と饗土の神であるとするなら、河口の水辺、港、三角州なども瀬織津姫命の影響範囲として考えることは可能です。
冷静に考えると、七瀬祓を行なって京都の土地の浄化を行っていたのですから、地上の穢れは川に流して海に吐き出せば、それからどうなるかは別に考える必要がないかもしれません。
港から海中に流された罪穢れが黄泉の国に向かうダイナミズムが大祓詞に表現されることで、祓戸大神の祓い清めはより壮大な神力として人々の心に映ります。

ここまで来ると多少強引ですが、一致するところで言うなら「祓戸大神」とは瀬織津姫命一柱でも説明できてしまうのです。
かと言って、祓戸大神が四神ではないと言い切ることはできません。
あくまで人間の作った設定としての話をしたまでで、人間の概念上の話なら如何様にでも考えられます。
そして、実際の神様の世界は人間にはわかりません。こんなこと言ったら身も蓋もないのですが…。

ちなみに、今「祓戸大神」をベースにした漫画を構想中ですが、祓戸四神は物語の構成上、登場して頂くつもりです。
瀬織津姫様について調べていたら、次々と面白いことがわかってくるので、こういう考え方もできる、という話でした。

お付き合い下さり、ありがとうございます。

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神統試論【ニ】邪馬台国論・後編


楽太郎です。

前回、「神統試論・一」において日本列島回転説に基づき、邪馬台国畿内説について語りました。
3世紀に西晋で書かれた魏志倭人伝を元に、古代の発音と当時の地政学から割り出した地名から「邪馬台国」の位置を推察しました。
そこでは「邪馬国」と「邪馬台国」は相関関係が曖昧ながらも、奈良盆地周辺から京都、近江付近にあった集落、そして「邪馬台国」が伊勢遺跡であった可能性について論じました。

記事をまとめるために全体的に駆け足にならざるを得なかったのですが、厳密な検討は「試論」では省略せざるを得ないと思います。
従って結論だけを書いていくことになりますので、ご容赦頂きたいです。

さて今回は、「上代日本語」の発音から魏志倭人伝を紐解いていこうと思います。
魏志倭人伝は倭人の発音を当時の中国語話者が聞き取り、漢字に変換した言葉が使われています。
弥生時代後期の日本語は日琉祖語と呼ばれ、現在の日本語とはかなり発音が異なったとされています。

当時の発音から邪馬台国の女王「卑弥呼」に当てはめると、「ヒミホ」に近いとされています。

「卑弥呼」の読み

かなり古いサイトなので一応引用しておくと、上古音のリストから「卑弥呼」の発音を読み解くとこうなるそうです。

pieg pie pi ...pəi ヒ甲
mier mie mi mi ミ甲
hag ho hu hu ホ、でしょう
上古音なら、pieg mier hag
中古音なら、pie mie ho

この記事では、「ヒミホ」に比定できる人物を「記紀」に求めた時、「御穂津姫命」に当たるのではないか、という考察がありますが興味深いです。
これまで「日巫女」と解釈されてきた卑弥呼の名は、「ヒミホ」を漢字に当てた場合に意味合いとしては成立しなくなります。
仮に「日彌穂」と当て字される時、どことなく九州系の官名に近い名になる気がします。
私は個人的に「比売穂」だと思っているのですが、それを述べるのは後日にしたいと思います。

魏志倭人伝を「上古日本語」から読み解くと、五万個の集落とされた「投馬国」は、「おどま」という発音だった可能性があるとされています。
前回、投馬国を「出雲」に比定しましたが、「おどま」と「いずも」の発言としての近似性も一考に値します。
さて、魏志倭人伝の中で「邪馬台国」とする記述に以下の文があります。

「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸」

つまり邪馬台国には「伊支馬」「彌馬升」「彌馬獲支」「奴佳鞮」の四人の官がいるとされます。
この「次」というのが序列なのか、代替りを意味しているのかは不明ですが、歴代天皇の和風諡号と対比できるという説があります。

「伊支馬」を「いきま」と呼ぶならば、第十一代垂仁天皇の和風諡号は「活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)」であり、「いきま」とは発音が被る部分があります。

卑弥呼のいた2世紀後半は、天皇制ではなく「ヒメヒコ制」と呼ばれる女性祭祀長と男性大王を二柱とした政治体制であったと思われます。
卑弥呼に夫はなく、弟が女王を支えていたとされており、「伊支馬」という官が男性大王を指し、その名が垂仁天皇の和風諡号に残された可能性もあります。

では「彌馬升」ですが、「彌馬升(みます)は第十代崇神天皇の和風諡号が「御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)」であり、「みます」と近い発音が見られます。

「彌馬獲支」の「獲」をどう読むかと言えば、埼玉県の古墳から出土した稲荷山鉄剣銘文に「獲加多支鹵(わかたける)大王」とあり、「獲」は「わ」と呼ぶことがわかっています。
従って「みまわき」と読めるのですが、この「わき」を「ワケ」と変換すれば、第十二代景行天皇の和風諡号が「オシロワケ(大足彦忍代別)」、第十五代応神天皇が「ホムダワケ(誉田別、凡牟都和希)」のように、「ワキ(ワケ)」という名が「姓」であったか、その元になった可能性があります。

最後に「奴佳鞮(なかた)」ですが、近い発音に「額田(ぬかた)」があり、飛鳥時代の天武天皇の妃だった「額田王」を連想させます。
額田王は皇族の女性とされ、「采女・巫女」だったのではという説もあります。
「額田」姓に近い姓には朝廷の祭祀を取り仕切った「中臣氏」があり、「奴佳鞮」も祭祀関係の重要人物だった可能性があります。

これらの官は、王ではあるかもしれないが、「女王」ではないという点が特筆すべきだと思います。
「彌馬升」が第十代崇神天皇、「伊支馬」が第十一代垂仁天皇、また「彌馬獲支」「奴佳鞮」の四人が女王卑弥呼に仕えていたとすれば、天皇家の系図にも関係するかもしれません。

「ヒメヒコ制」における「比売(姫)」は、祭祀を司る巫女であったと言います。
古くは縄文時代以前の男女分業制に端を発し、男性が主に狩猟採集、女性が家事や子育てを担当し、それぞれの集団が男性長、女性長を立てたことに由来するとされます。
後に男性長が政治を担当し、女性長が占術や祭祀を執り行ったという説があります。

ヒメヒコ制における巫女は叔母から姪に役割が継承されたとされ、なぜ巫女が婚姻関係を結び子女を継がせるシステムではなかったのかが重要です。
男性長と女性長が夫婦となり子息が生まれれば、どうしても両者の子息が権威を持ってしまいます。
従ってヒメヒコ制においてヒメとヒコは兄弟、あるいは近親者であるケースが多く、ヒメが結婚して子を儲けたとしても、その子もまたヒメヒコ制において分業的政治権を有したはずです。
また巫女は呪術的才能が必要だったこともあり、その兼ね合いもあって独身であることを尊ばれたのかもしれません。

従って卑弥呼に夫がいたかは図りかねますが、独身であったことは理に叶っていると言えます。
卑弥呼の死後、男性王が立ちしばらくの混乱の後に13歳の台与が女王となりますが、卑弥呼が死ぬ間際に子息がいれば後継者はすぐに見つかったはずです。
あるいは死期が予測できるとしたら、すぐにでも後継者は立てられたでしょう。
しかし年齢的に相応しいとは思えない少女が女王に選出される経緯を考えると、卑弥呼に子はいなかったか、少なくとも女性の後継者はいなかったと考えて良いと思います。

私は個人的に魏志倭人伝の人名の「伊支馬」から「市杵島姫命」、「台与」から「豊玉姫命」を連想してしまうのですが、第十一代垂仁天皇が卑弥呼だとする説も気になっており、この考察は後日進めたいと思います。

さて、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の官名も上古音で読み解くと面白いことになってきますが、邪馬台国が畿内にあったという説に基づいて話を進めます。

邪馬台国畿内説にとってネックとなるのは、文明度の低い出土品の多さです。
魏志倭人伝には、邪馬台国は「狗奴国」と戦争をしていたと書かれており、弥生時代後期にはすでに鉄が流通していたことから、戦争の最前線に最先端兵器である鉄器を使用しなくてはおかしい、という話になります。

現に、島根県の荒神谷遺跡では大量の銅剣が打ち捨てられており、鉄器はかなり流通していたと思われます。
当時は対馬を経由して宗像、出雲と通り丹後に至る鉄の日本海交易ルートが確立されていました。
しかし、奈良盆地近辺どころか、畿内の遺跡からはほとんど鉄剣や鉄鏃が発見されていません。
土器としては東海地方の系統が多く、鉄を多く所有していた九州勢力とのバランスを考えると、近畿地方は戦争をするには長閑すぎるのです。

しかし、この時期の日本にはまだ鉄の精錬技術が乏しく、朝鮮半島から鉄はインゴットで輸入され、主にその鍛造・鍛造だけを行っていました。
鉄は青銅に比べて強固ですが比較的希少なため、主に鍬や鋤などの農機具に用いられたと考えられています。
希少な鉄を使えるのは全国的に流通量の多かった北九州に顕著で、特に福岡県から熊本県にかけて鉄系武器の出土数が目立ちます。

魏志倭人伝には「倭国大乱」の件があり、佐賀県三津永田遺跡から発掘された古代の他殺遺体からは、鉄鏃が撃ち込まれた状態で発見されています。
島根県の青谷上寺地遺跡では、100名ほどのバラバラ遺体が発見され、大量虐殺の痕跡である可能性が指摘されています。
このように鑑みると、動乱の気配が強いのは北九州を起点に四国、中国地方で、近畿に至って唐古・鍵遺跡が高台に建造されている以外は特に戦乱の空気を感じません。

「倭国大乱」をベースに考えると、この戦争状態が女王卑弥呼の即位によって沈静化する以上、邪馬台国がこれらの武力を押さえつけるのは政治力で何とかなるのか、それにはやはり武力が必要であり故に当時最強だった北九州勢力こそ邪馬台国だったのでは、という話になります。

ただ、この説は「祭祀的権威で統治が完成する」というシステムを疑問視し、「鉄器を使う勢力こそが当時最強だった」という考えに基づくはずです。
では、弥生時代後期の戦争がどのような形だったのかを見ていきたいと思います。

確かに当時、青銅はどちらかと言えば祭祀に用いられ、武器として使用するには脆く、鉄剣とかち合えば忽ち折れてしまったでしょう。
ただ剣とは近接武器であり、半径2メートル以内に同じ近接武器を持った敵がいなくては役に立ちません。
戦国時代の集団戦を考えてみればわかりますが、槍や矛などリーチの長い武器で敵を抑え込めれば、刀を持った兵は近づけなかったのです。

槍や矛に付属する鏃は、突き刺したり引っ掛ける程度なら青銅でも十分な威力だったはずです。
戦国時代の槍は、ほぼ「叩く」攻撃に近かったと言われ、長竿の遠心力で簡単に敵を倒せたでしょう。

鉄剣と槍の近距離戦を前にして、遠距離から弓矢で敵を近づかせなければ接近戦は避けられます。
魏志倭人伝に「倭人は上長下短の弓を使う」とあり、実際に弥生時代から和弓の原型が見られます。
和弓は大型の弓で、長距離かつ威力の強い弓として知られていますが、どうやら当時の造弓技術では人を殺傷するにはある比較的近距離(中距離)である必要があったようです。

しかし矢に使う鏃は、鉄製なら威力も高かったかもしれませんが希少であり、使い捨てる鏃に使うには贅沢かもしれません。
仮に矢先が石でも、相手を仕留められるなら大量消費できる石鏃で構わなかったはずです。

つまり、鉄剣を持って挑んだとしても、青銅製矛、石鏃製弓矢で十分に対抗し得たのではないでしょうか。
従って、鉄器が戦況を大きく左右したのは剣を撃ち合うような乱戦においてであり、集団戦闘としては中長距離戦で決着が着くならば問題なかったはずです。
古墳時代後期においても、九州中部の熊襲が最先端の武装集団とは言えず、それでもヤマト王権の平定を手こずらせたということは、鉄器を持ってしても山野のゲリラ戦闘にはなかなか太刀打ちできなかったかもしれません。

ゆえに鉄系武器が九州、中部地方から夥しく出土するからと言って、それが即戦力差に繋がるとは言えない可能性があります。
現に、青銅器の出土量と石鏃の出土数は近畿地方においても引けを取りません。
かつて大和朝廷を悩ませた東北地方の蝦夷も、アイヌ由来のトリカブト系毒矢を使用し、朝廷側を苦戦させたと言います。

ただし、畿内では特に殺傷されたと思われる人骨の出土数が少なく、やはり戦闘で死傷した事例はあまりなかったのではと言われています。
弥生時代の古代和弓は東大寺正倉院に納められた平安時代の和弓に比べて洗練されておらず、やはり中距離戦で使用することが前提であり、必ずしも殺傷率が高かったとは言えないそうです。

この時代の集団戦闘は主に防衛戦であり、石鏃の弓矢に対して「置き楯」と呼ばれるバリケードに隠れながら矢を射出した形式の戦闘が多く、その場合は殲滅戦のようなものではなく、せいぜい怪我人を出して手打ちにする、という儀礼戦の様相であったとも考えられます。
つまり、倭国大乱では残虐極まる殺戮もあった一方、通常の集団戦闘では石矢を撃ち合うような模擬戦に近い雰囲気があったようです。

考古学的に考えて、畿内に仮定した邪馬台国が「狗奴国」と戦争をするならば、鉄器ではなく石器を利用した緩い戦闘であった可能性があります。
では、邪馬台国に敵対した「狗奴国」とはどう言った国だったのでしょうか。

魏志倭人伝には、邪馬台国の南に狗奴国があるとされています。前回の日本列島回転説で考えれば、「南」とは「東」になります。
前回、例に挙げた「日本扶桑国之図」ですが、別の古地図である「行基図」には東日本が「毛国」と書かれているものがあります。
「毛国」とはかつて上野国、下野国と言われた群馬県と長野県を跨る国だったとされます。
倭の五王の武が宋に送った上表文には、「東の毛人五十五国を征す」とあり、これは日本アルプスの東側にあった「毛野国」を指します。

ヤマトタケルが熊曾建を討ちに東国征討を行なった際、太平洋沿いの東海道を東進します。
毛国は実際、大和より東国の未知の諸国を指しており、その地は東海道が三関に繋がるまでは倭国の勢力範囲下になかったと考えられます。
実は西日本を支配する邪馬台国にとって、東海以東はほぼ未知の領域であり、また関東の文化圏に統一性があることから、この時代には西日本と東日本の勢力が東西に分断されていた可能性もあります。

それゆえ、古代では三関から東側の「まつろわぬ勢力」を一概に「毛の国」と総称していたのではないでしょうか。
この「毛」というのは、古代日本語の「外(け)」であり、「外の者たち」を指した可能性もあります。
「蝦夷」とは東北地方にいた豪族の阿弖流爲などを連想しますが、関東にいたまつろわぬ勢力もまた「蝦夷」と呼ばれていました。

栃木県日立市にある大甕神社は、甕星香香背男と建葉槌命を主祭神としています。
甕星香香背男(天津甕星)は葦原中国平定に最後まで抵抗した神として知られ、同様の話は建御雷命と建御名方命にも通じます。
そして神武東征と長脛彦との対決、ヤマトタケルが東国征討した熊襲の長の話とも類似しており、甕星香香背男が支配した地は千葉県から福島県までの範囲であったという説もあります。

神道の「大祓詞」には、以下の文があります。

「四方の国中と 大倭日高見の国を安国と定め奉りて」

この「四方の国中」は崇神天皇が北陸、東海、西道、丹波に派遣した四道将軍を連想しますが、この「日高見の国」とは大和から見て東国の蝦夷が済む全域を指したとされています。
これを鑑みるに、やはり「東のまつろわぬ国々=日高見の国」こそ、「毛の国=狗奴国」だったのではないでしょうか。

「日立」とは日の出のことで、「日高」と同意であるとされ、旧漢字の「常陸(ヒタチ)」は、「日高見道(ヒタカミミチ)」の転訛とも考えられてます。
日本書紀によれば、饒速日命が大和に辿り着いた際、この地を「虚空見日本国」と称したそうです。
かつて九州地方にあった「日向」が奈良に移ると、奈良の「日向」から「日の出る方角」の空を見ると、そこには「日高」があります。
つまりヤマト王権が東征するとしたら、最終的に常陸に向かうのは必然であるように思います。

前回、魏志倭人伝にある「不呼国」という国を「不破関」のある岐阜県不破郡周辺に比定しました。
不破関は関ヶ原町にあり、古来から西側勢力と東側勢力の決戦地とされてきました。
古代には三関を境に小競り合いが各地で起き、その緊張状態を「戦争」と表現したのかもしれません。

関ヶ原町のある不破郡には中村平野が存在します。この地域には「不破遺跡」があり、そこからは土器やガラス製品などが発掘されており、農業の痕跡も見られます。
もし軍事衝突が東海以東で置きていたとすれば、邪馬台国があったと私が比定する伊勢遺跡が非武装地帯に近いのも、畿内、奈良周辺が軍事的に穏やかなのも納得できる気がします。

東北地方の平定は平安時代の征夷大将軍、坂上田村麻呂の登場まで待たなくてはなりません。
魏志倭人伝の時代は元より、「記紀」成立の奈良時代においても日本列島は未だ、王権によって統一されてはいませんでした。

古代において日本は、細かい単位の国々か集落が幾つもあり、それぞれが分散的な自治を行なっていたと考えられます。
そこでの小競り合いは石器を中心とした半殺傷兵器で、殲滅戦を想定したものではなかったかもしれません。

古代日本の戦争形態が儀礼的・模擬的戦闘であったとしたら、平和的解決が象徴的な理由、特に祭祀による宗教的統一というのは理に叶っているように思います。
ただ卑弥呼擁立以前は、北九州を中心とした動乱があったのも事実でしょう。
それが何らかの理由で治まり、その成功事例を次代女王の台与に引き継ぎ、後の時代には東国もヤマト王権に組み込まれていきました。

この歴史的プロセスこそ、「記紀」に神話として書かれた出来事のプロトタイプだったのではないか、と考えます。
次回からは、古代日本の地政学から「記紀」の歴史を紐解いていきたいと思います。

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神統試論【一】邪馬台国論・前編

楽太郎です。

これから数回に渡り、神名の系統を紐解くための論考を書いていきたいと思います。
前置きとして、「神統試論・序」では日本の神社の伝承の礎となった「日本書紀」「古事記」は、飛鳥時代の政治的混乱を背景に天皇家を中心として、各豪族を取りまとめるために氏族の祖神を神話に組み込む事業を行ったのではないか、という説を取り上げました。

「記紀」は「日本書紀」と「古事記」では微妙に違う内容のことも書かれていたり、私情に近い偏った表現が加えられていたり、神道的書物や歴史書としては不自然な部分もあります。
特徴的なのは、似た図式と意味合いを持った神格が何度も違う状況で登場し、それぞれに同じ解釈をしようとすると矛盾が生じる点です。
そして、記紀の記述と歴史的事実を照らし合わせると、わざと言及を避けられている部分があります。

その例として、「記紀」には東日本の記述が極端に少ないことが挙げられます。
日本最大の山岳である「富士山」に関する記述が記紀には見られず、またかつて「蝦夷」と呼ばれた東北地方に関する記述はほとんどありません。

ただ東北地方において記述が少ないのは当然で、日本書紀の成立は奈良時代の養老4年(西暦720年)ですが、朝廷が東北制定のために大野東人が多賀城を置いたのは神亀元年(724年)です。
言ってみれば、日本書紀が書かれた時点では日本列島が完全に朝廷の統制下には置かれていなかったのです。

つまり奈良時代には地方豪族の勢力が依然強く、大和朝廷はその軋轢の渦中にいたのでしょう。
そのため、政治的な思惑から単に歴史的事実と正論だけを列挙するわけには行かず、様々な配慮と緻密な計算の上に書かれた書物であると言っても過言ではありません。
ただ、これらの書物の記述には不自然な点があるにしても、事実をボカしながらも事実はきちんと記載しているように思えてなりません。

「神統試論」を書くに当たり、神社伝承の礎となったであろう「記紀」の記述は各地方氏族の祖神信仰に基づいていることに着目しました。
伊勢神宮の主祭神「天照大御神」を最高神とする国家神道は、歴史において重要な意味のあった信仰神、または日本の建国に貢献した先祖を神として祀る宗教文化に根差しているように思います。
各地方豪族の氏神が神話体系に影響していることは、建国神話に関わる古代の「国造」が史実であり、ゆえに歴史的事実が神話化していると考えます。

記紀において、天皇系図の構図は繰り返しに近い類似性があり、時代考証において矛盾することも国学の時代から議論が続けられてきました。
「欠史八代」の実在性に対する疑問視や、「神武天皇・応神天皇・崇神天皇」の同一人物説も、その一部です。

第十二代景行天皇までの十一代は、モデルとなった皇族がある程度脚色されつつ役割分担をしていると私は考えています。
つまり、原型となる実在の大王や皇族関係者がモデルとなり、共通の出来事を元にして意味づけにバリエーションを与え、その文脈が皇族の権威に豪族の血統を紐付け、正統性を再分配する機能を果たしていたのではないか、とする仮説です。

「日本書紀」において、神代記から巻九の垂仁記の間に、系統図でもはっきり読み取れる構図がいくつかあります。
多少ニュアンスは異なりますが、その類似性を大まかに列挙してみたいと思います。

【兄弟共闘】…同一の父を持つ兄弟がそれぞれに役割を持ち、二大勢力として共闘する構図。
・饒速日命と瓊瓊杵命
・海幸彦(火照命)と山幸彦(火遠理命)
・五十瓊敷命と大足彦
・大碓彦と小碓彦 など。

【姉妹同婚】…姉妹が同一男性に嫁ぐが、どちらかの姉妹が後妻になるケースが多い。
・豊玉姫命と玉依姫命
・宗像三女神(市杵島姫命と田心姫命)
・石長姫命と木之花咲耶姫命
・神大市姫命と櫛名田比売姫命 など。

【英雄的討伐】…皇族の系統にある者が地方に遠征して対抗勢力の頭目と戦う話。
・武甕槌神と建御名方命
・熊曾建と倭建命
・長脛彦と神武天皇
・八岐大蛇と素戔嗚命 など。

「記紀」において特に多重が見受けられる構図は以上の三点と思われます。
先に挙げた「欠史八代」などの古代天皇の例だけでなく、これらの図式は元は一つであり、叙述の仕方が異なるだけなのではないか、と私は考えています。
そのニュアンスの差異は各氏族の祖先の系統に割り振られ、豪族の権威を再定義する意味があったのではないでしょうか。

これらの仮説に関しては、後に詳述する機会を設けるつもりです。
このように「記紀」には日本建国にまつわる歴史と皇族の系統が暗喩的に組み込まれており、文脈をそのまま鵜呑みにすると見えてこない部分があります。
それを紐解く時、「日本書紀」以前にまとめられた国史、実際の出来事の伝承が浮かび上がってくるのではないか、と考えています。

記紀以前の日本古代史を考える上で参考になる歴史書が、3世紀末に西晋に遺された「魏志倭人伝」です。
この書物は三国時代の官僚だった陳寿が、魏に残っていた書物や倭人からの聞き取りを元にまとめられたとされています。

未だに古代日本史を巡る「邪馬台国論争」に決着がつかないのは、一重に当時の歴史資料が乏しいからです。
3世紀には日本に文書を取りまとめる術がなく、その後中国大陸の動乱もあって「空白の150年」を挟み、漢字文化の浸透は飛鳥時代を待たなくてはなりません。

「記紀」の歴史書としての信頼性を語る上で、どうしても避けて通れないのは考古学、文化人類学からの古代史へのアプローチであり、また「魏志倭人伝」の文脈的解釈です。
「邪馬台国論争」において、結論が未だにつかない理由として、あらゆる解釈をしたところで文字通りの状況は存立し得ない結果になるからです。
その議論で常に悩みの種となる記述が、以下の三つです。

南至投馬國水行二十日 (南、投馬国に至る。水行して二十日である。)
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 (南、邪馬台国に至る。女王のいる都である。水行して十日、陸路で一月である。)
自郡至女王國 萬二千餘里 (郡より女王国に至るは、一万二千余里である。)

この文脈を素直に日本列島に当てはめると、南国に邪馬台国があったことになってしまいます。
魏志倭人伝の中に「侏儒国」という国の記載があり、これはどうやら沖縄らしいことがわかっています。
ゆえに、侏儒国より南に邪馬台国があるという解釈は成り立ちません。
だからこそ、「南至」の記載を変えたり、里数の記述を変更することで北九州や畿内に邪馬台国があったという説に繋げてきたのです。

つまり魏志倭人伝は、文脈通りに読むと100%どこかに矛盾が生じます。
しかし、これまでの解釈では一つの説を成り立たせるために特定の場所を「誤り」とし、それ以外の部分は「正しい」としてきました。
そこで、「なぜその部分だけ間違えたのか」という部分は完全に憶測の域を出ず、従って水掛け論になってしまう部分でした。

私としても、どこかの部分を訂正しなくては論が成立しないと思います。
ただ通常の文法解釈で100%矛盾が生じるとしたら、全体的には80%ほど全ての記述が誤謬である可能性として考えた方がいいのではないでしょうか。

その上で、私は最も文章校正を行わずに邪馬台国を比定する方法はないかと考え、「日本列島回転説」に行きつきました。

13世紀、奈良時代に書かれた日本最古の列島地図である「日本扶桑国之図」は、日本列島が東を南にし、逆さまに書かれています。
15世紀、李朝に書かれた「混一疆理図」という朝鮮の日本地図も、東を南として書かれています。
この地図上の日本列島の形は、「地図の書き方をわざと変えたのだろう」と言われてきましたが、日本語の原型となる日琉祖語と古代琉球語の系統を鑑みると、「日の出る方角(東)を南」に、「日の沈む方角(西)を北」として捉えていたのではないか、という説から再解釈するのが、俗に言う「邪馬台国90度回転説」です。

古代琉球語において、方角の意味合いは以下となります。
北→西
・西→南
・南→東
・東→北

この説では、「南至」を「東に行く」と読み変えますが、その他の記述はほぼ文脈通りに解釈することができます。
議論の要になりがちな「南至投馬國水行二十日」は、不弥国から見て東に海路を取ることになります。
不弥国は現在の福岡市から宗像市あたりが有力とされています。

当時は帆船ではなかったため手漕ぎ船で日本海沿いを航行すれば、九州邪馬台国説ではやや冗長すぎる二十日という距離感も妥当になるはずです。
その場合、宗像の響灘から出航し、日本海沿岸を通った船が当時最大の交易都市であった「出雲」に至るには、二十日という日程は理に叶っていると言えます。
従って、この説を取れば投馬国は「出雲」ということになります。

それでは、問題の「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」はどう読み解けばいいのでしょうか。
これは投馬国を起点とし、出雲から東に十日ほどで到着する日本海沿岸の港湾都市は若狭湾に臨する「丹後」です。
弥生時代後期から北九州一帯には鉄器が出土しますが、この出土分布図は出雲、丹波、越まで鉄の流通ルートが存在したことを示しています。
海路の終着点を丹後とするなら、徒歩で一月かかるのは近畿地方のどこかになるはずです。

若狭湾を起点にして伊吹山地、鈴鹿山脈、笠置山地、紀伊山地が縦断し、瀬戸内海方面には琵琶湖のある近江盆地と京都盆地、奈良盆地が存在します。
丹後から陸路を取るなら、必然的に氷上回廊を取って河内を経由し、熊野を迂回すると一月かかる先は京都・奈良方面です。
仮に丹後から河内方面に向かい、京都盆地から近江盆地に入れば、条件次第で陸路一月はかかるかもしれません。

弥生時代、人々の交通路は確立されていたにしても、道は整備されておらず獣道に近い山道を歩いたはずです。
江戸時代には東海道も整備されたため、飛脚が一日に100キロ走破したという話もありますが、この時代の交通事情とは訳が違うでしょう。
現代人でも5キロ歩くのは疲れますが、当時の旅人が荷物を持ちながら歩くにしても、一日がかりだったかもしれません。
若狭湾港の丹後から奈良盆地に行くには、最低でも200キロほどはあるでしょうし、一日10キロ換算でも20日はかかります。

このように、「日本列島回転説」に基づくなら、近畿地方は魏志倭人伝の距離感に符合するのです。
ただ、弥生時代後期(2世紀後半)は海抜が現在よりも高かったため、大阪平野の大部分は海でしたし、琵琶湖も若狭湾と繋がる部分も多かったのではないでしょうか。
そのため、古代の地形で往来を考える必要があると思いますが、多少の誤差はあれ「水行十日陸行一月」は畿内のどこかである可能性が高まります。

では、邪馬台国が近畿地方に存在したとして、そこはどこになるのでしょうか。
魏志倭人伝には、「奴国」が二万戸とあります。
現在発見されている遺跡の規模からして、北九州に「二万戸」の集落があったとするのも規模が大きすぎるのではないか、という話があります。

北九州の弥生時代の遺跡では、福岡県に所在する遺跡は糸島市周辺に集中します。この遺跡の中に魏志倭人伝の「伊都国」と比定できる遺構があるのは間違いないと思います。
奴国の「二万戸」に比定できる遺構があるとすれば、福岡県の平原遺跡、三雲南小路遺跡、板付遺跡、野方遺跡が有力候補として挙げられます。
佐賀県の「吉野ヶ里遺跡」が当時としては最大集落であったとされますが、どちらかと言えば「不弥国」に当たるかもしれません。

魏志倭人伝において、「投馬国五万戸」「邪馬台国七万戸」とされていますが、奴国が福岡平野の遺跡郡一帯を指すとしても、それ以上の規模の集落は同時代の九州には存在しないのです。

従って、考古学的事実に基づいて奴国以上の集落を同時代に求めるならば、出雲や近畿地方に比定するのは理に叶っています。
鳥取県の荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡の規模から推測すると、出雲に奴国以上の集落が存在するのは理に叶うように思います。

荒神谷遺跡からは358本の銅剣が同場所から発見されていますが、武人男性一人が銅剣を一本以上所有したとしても、人口比率から鑑みても相当の武装勢力が存在したはずです。
弥生時代後期の武人が200人程度であったとしても、非武装の民間人はその数倍いた計算になります。
仮に五万戸は多目に見積もられていたとしても、当時としては相当な規模と言えます。

古代史研究家の古田武彦氏によれば、ウラジオストクから出土した黒曜石の50%が出雲地方から産出されたものと目されるそうです。
そうではなくても、ロシアの極東地方からは縄文土器が発見されたり、少なくとも縄文時代に青森県の三内丸山遺跡を経由した日本海沿岸の交易ルートは確立されていた可能性が高いようです。

ゆえに、弥生時代後期の鉄の流通ルートと合わせて考えれば、朝鮮半島から対馬、壱岐か宗像を経由して北九州に精錬された鉄が入り、日本海側を中心に鉄の交易拠点として出雲が栄えた可能性もあります。
しかし、古代史を「鉄による勢力図」で解明しようという試みに関しては、私は疑問視しています。
その理由は場を改めて述べますが、繁栄の理由が鉄ではないにしても、出雲地方が日本海交易の中心地であったことは間違いないでしょう。

では「邪馬台国七万戸」とするなら、畿内のどこに比定されるのでしょうか。
邪馬台国畿内説に基づくならば、その最有力となるのは「纏向遺跡」とされます。
しかし、纏向遺跡の規模だけではどう考えても七万戸に達する大都市にはなり得ません。

纏向遺跡のある奈良盆地は、当時盆地中央には湖があり、奈良盆地全てが都市化したとは考えられません。
大阪平野もかつては大部分が海であり、現在の河内は海岸沿いにあったと考えます。
丹後以南の盆地に複数の集落があり、その一帯を「邪馬台国」とするなら七万戸の規模に比定することも可能ですが、そう考えても良いのでしょうか?

そのヒントが、実は魏志倭人伝の中にあります。
その一文はこうです。

「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國
次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國
次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國
次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡」

この冒頭を訳すと、「女王国より以北は、その戸数、道里の略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。」とあります。
ここに列挙されている国々は、女王国の北にあると書かれています。またこの一文の締めくくりは、「ここは女王の境界尽きる所なり。」です。

日本列島回転説に基づくならば、女王国より北は「西」と言い換えます。
つまり、女王の統治が行き届く境界から西は、全て邪馬台国の権力が及ぶ範囲となります。
では境界から逆算してどんな国があるのか見てみましょう。

・斯馬国(しま=志摩(三重県))
・伊邪国(いや=伊予(愛媛県))
・不呼国(ふあ=不破(岐阜県))
・姐奴国(しぬ=信濃(長野県))
・蘇奴国(そぬ=讃岐(香川県))
・呼邑国(あお=近江(滋賀県))
・華奴蘇奴国(かのさの=加佐(丹後・京都にあった郡)
・為吾国(いご=伊賀(三重県))
・躬臣国(こし=越(福井県以北の三越地方))
・巴利国(はり=播磨(兵庫県))
・支惟国(きい=紀伊(和歌山県・三重県))
・烏奴国(うな=宇陀(奈良県))

これらは、独自に調べて比定可能だった地名です。
こうして見ると、九州に同定できる地名以外に、四国や中国、近畿から琵琶湖を挟んで東海付近に至るまでが「女王の治める地」と考えられます。
この不呼が不破関の辺りを示し、信濃までが女王の勢力範囲だとしたら畿内に最大勢力があったと考えても不思議ではありません。

不破関は岐阜県の関ヶ原町にあり、古くから鈴鹿関と共に東海道への入口とされ、以東を「関東」と呼ばれてきました。
つまり、三関を境にして西側に邪馬台国が存在したことはこれらの記述から明らかです。

それがどこかを考える時、上記の一文に「邪馬国」と「奴国」が存在している不思議さがあります。
この「邪馬国」を調べようにも、邪馬台国のことばかり出てきて埒が開きません。
では逆算して、近畿に「邪馬」に近い地名を探したところ、「山門」という小さい地名は数多くありますが、決定的なのは「大和」しかありません。
しかし、古墳時代のヤマト王権が奈良盆地南東にあったのは事実だとしても、魏志倭人伝の書かれた弥生時代後期に「大和」という地名が存在したのでしょうか。

「大和」の言葉の由来には、温和・平和な所を意味する「やわと」という説があります。
「敷(式)島」が大和の枕詞として知られており、「しきしま(磯城島)のやはと」が転訛して「やわと」となり、「大和(やまと)」という地名が残ったとされます。
ということは、「邪馬国」はそのまま「山の国(大和は山に囲まれた盆地)」という意味でも取れますが、邪馬国が「やわ=平和の国」という意味だとしたら、当時から近畿地方には「やわと=大和」が存在したことになります。

「大和」は「倭」と書いて「やまと」とも呼びますが「和」とは穏やかな協調を意味すると共に、その「平和=統治」の象徴こそ「大和」の当て字になったのかもしれません。
「やわ」という言葉は、「柔らか」と同源である可能性があり、大和は「山門(戸)」という意味ではなく、むしろ「柔処」だったのかもしれません。
それこそ、武力統治ではなく祭祀を中心とした平和的統治を行った邪馬台国の伝承に近いのではないでしょうか。

では「邪馬国」が奈良盆地に存在すると仮定して、「奴国」は北九州の奴国と同一であるのか、という問題が浮上します。
北九州の奴国に邪馬台国があるとしても、「次有奴国」は文脈として出てくるのは不自然です。すでに奴国は伊都国と不弥国に挟まれた国として登場しているので、同一国とするのもおかしい気がします。

これには現在も議論が続いていますが、ここでの「奴国」は九州にあった奴国とは同名の異なる国ではないでしょうか。
「日本書紀」において、神武東征の段において大和国を「中州」と呼称されています。
「な=中」であり、中心国としての意味合いを持った国名であった可能性があります。

では九州の奴国は何かと言えば、博多市に「那の津」と「中州」という地名があります。
那の津、那津は福岡市中心部の古い地名とされ、「奴国」に由来することはほぼ間違いないでしょう。
博多市の中州は那珂川と博多川に挟まれた中洲に築かれた都市ですが、江戸時代以前には「中島」という地名であり、「な=中」と呼ばれていた可能性があります。
博多市には「博多遺跡」が存在し、ここは日本最古級の貿易都市だった可能性があります。
ここも福岡市にあり、大和と同名の「奴国」であったのではないかと推察します。

従って「奴国」は倭国の首都であった「邪馬台国」を指し、だとしたら「邪馬国」とは別の場所に邪馬台国があることになります。
では、その邪馬台国はやはり北九州の奴国にあったのでしょうか。
結論から言えば、それも充分考えられます。
ただし、当時の邪馬台国は女王卑弥呼が一千人の従者を従える規模の都市にあり、そこは祭祀と政治を中心とした場所であると考えられ、必ずしも居住や交易を前提としなくても成立します。

漢字における「台=臺」には、「中央集権施設」を意味することもあります。
日本語で「臺」には「うてな」という当て字がつけられ、「高見の台」を意味します。
この漢字の語源を調べてみたところ、古代に祭祀を行う神聖な土地を指し、殷の紂王の「鹿臺」、楚の荘霊の「章華臺」などにもこの字が用いられています。

つまり、「邪馬台」とは「邪馬国の祭祀場」を指し、この祭祀都市から邪馬国を通じて西日本を統治していたのではないか、と考えられます。
その場合、邪馬台は邪馬国の付近にあるとするのが妥当です。

弥生時代後期の奈良盆地の中心に湖が存在したとされていますが、磯城島が盆地の中東部にあるとすれば、最大集落の纏向遺跡は南西になります。
ただ、纏向遺跡は時代的に考えると少し時代が下るため、弥生時代後期には奈良盆地の北側にある唐古・鍵遺や西側の秋津遺跡周辺が栄えていたと考えられます。

ではその頃にあった巨大な祭祀遺跡と言えば、琵琶湖沿岸の南東にある「伊勢遺跡」ではないでしょうか。
この伊勢遺跡は当時にして過去最大の祭祀跡でありながら、突如消滅したと同時期に纏向遺跡が始まります。

この「伊勢遺跡」こそが邪馬台であり、邪馬台を中心にした近江盆地・京都盆地・奈良盆地周辺にあった邪馬国を総称して七万戸の「邪馬台国」としたのではないでしょうか。
そう考えると、人口規模の面では説明がつきます。

この伊勢遺跡に卑弥呼がいたとするなら、卑弥呼が死に男王が立つが纏まらず、13歳の台与が女王となり再び統治が復活した故事も、伊勢遺跡を廃して新女王の政権樹立と同時に纏向に遷都したとも考えられます。
飛鳥時代以降、不吉なことがあるたび朝廷が遷宮した理由も、卑弥呼の死に前例があったからではないか、と仮定しても辻褄が合います。

私の結論としては、魏志倭人伝における邪馬台国は琵琶湖南東の伊勢遺跡であり、卑弥呼はそこにいて西日本を支配した、と考えられます。
しかし、考古学的に伊勢遺跡以南では鉄器系の武器がほぼ発見されておらず、戦争の跡が確認できません。

魏志倭人伝では邪馬台国は「狗奴国」と戦争をしており、伊勢遺跡が戦場の最前線基地とするなら、これ以上に割の合わない場所はないでしょう。
その点において解説するには、今回は長くなってしまいました。

次回は、地政学的に邪馬台国が伊勢遺跡にあることは可能なのか、「狗奴国」の所在も検討しながら、当時の戦争形態についても考えていこうと思います。

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「瀬織津姫」と云ふ神

楽太郎です。

今、神統試論を書くために調べ物をしていたところ、気になることを発見しました。

福岡県福岡市と佐賀県神埼市の境に山脈があり、「脊振山(せぶりさん)」という山があります。
この山は断崖地形のため急峻かつ渓谷となっており、滝なども多いと言います。

この山は古くから霊山として知られており、山頂に建つ奥宮は「弁財天」を祀るそうです。
私はこれを知って、少し違和感を覚えました。
弁財天は、厳島・宗像社の系列では海辺や川など水のある所で祀られていることがほとんどです。
しかし、山頂には自衛隊基地と米軍のレーダードームもあり、弁財天を祀るには相応しい場所とは言えない気がしました。

そこでハッとしたのですが、この「脊振(せぶり)」というのは、「瀬降り(せぶり)」なのではないか、と思いました。
この山地に始まる河川こそ「瀬」であり、頂上から流れ出る様は「降る」ようにも見えます。

ここで思い浮かぶのは、「瀬織津姫命」です。

「瀬織津」という言葉は、以前「瀬におりし」という意味ではないか、と記事に書きました。
これは「瀬に降(お)りし」と書き、脊振が「瀬降(ぶ)り」だとすると、この山と瀬織津姫命は関係あるのかもしれません。
奇しくも、瀬織津姫命は「市杵島姫命=弁財天」と同一視されることが多く、この山に弁財天社が祀られていることにも関係があるように思えます。

一説には、この脊振山の由来は古代朝鮮語の「ソウル(大きな村)」の意だと言われています。
ただ、山地に対して「村」と呼ぶのは違和感があり、どちらかと言うと太古から人が居住していた麓の筑紫平野に由来を残すと思うのですが、付近の河川周辺にも古代朝鮮語を連想させる地名はないように思います。
なお、渡来系の呼称が日本の地名に根差すことは十分考えられますが、この説に関して首を傾げずにはいられせん。

とにかく現時点で結論を出しようがないので、ひとまず置いて調べていたところ、「瀬降り(せぶり)物語」という80年代に作られた邦画の存在を知りました。
この「瀬降り物語」は、脊振山とは関係がないようですが、「山窩(さんか)」の若者たちの青春を描いた作品だそうです。

山窩とは、山から採れた川魚や蓑や箒などを売り、その修理などしながら山里付近を流浪していた人々のことであると言います。
彼らが河原に天幕(テント)を張ることを「瀬降り」と言い、山窩にはそうして暮らす「せぶりけんた」などがいたそうです。

私はこの話を知って、「瀬織津姫命」とは「瀬降り(山窩)の祀る神」なのではないかと考え、山窩について調べてみることにしました。

結論から言えば、どうやら民俗学的に「山窩」という民族は存在せず、江戸時代末期から「流浪する貧困層≒犯罪者予備軍」として政府や警察機関などから警戒される人々を指した可能性が高いようです。
明治の戸籍制度が進むにつれ、流浪していた人々にも国家政策として定住が促されるようになりました。
そして戦後しばらくを境に、「山窩」の対象となる人々は身分が特定されるようになったため、社会制度の上で「流浪民」は存立できなくなったようなのです。

山窩研究では民俗学者の柳田國男氏が有名ですが、同世代の歴史学者、喜田貞吉氏が「山窩」にまつわる興味深い論考を残していたので、それを青空文庫で読むことができました。

サンカ者名義考-サンカモノは坂の者

彼によれば、山窩という言葉はかつて「穢多非人」と呼ばれた人々を指す「三家」から転訛したと言います。
それは「坂の者=境の人々」という意味であり、聖俗の境界に暮らす職業を指したとされます。

「かく地方によって種々の名称があるにしても、結局は同情すべき社会の落伍者等が、都邑附近の空閑の地に住みついて、種々の賤業にその生活を求めたものであって、特に京都では坂の者・河原者の名で知られ、それが通じてはエタとも、非人とも呼ばれていたものであったのである。
(中略)
しかるに後世では次第にその分業の色彩が濃厚となって、河原者の名がその実河原住まいならぬ俳優のみの称呼となったが様に、坂の者の名がサンカモノと訛って、特に漂泊的賤者の名として用いられることになったのであろう。」


これを捕捉する事柄として、奈良時代の役所である兵部省で鷹などを飼育していた主鷹司(たかつかさ)の雑用係である「餌取り(えとり)」という役職が「エタ→穢多」と訛り、河原者を指すどころか牛馬の解体処理業者までも差別する言葉となったと書かれています。
つまり、本来は聖俗の境界にいる宗教的・呪術的な人々を指していた「坂の者」という言葉が習俗化し、社会経済の枠組みに嵌まらない人々を揶揄する表現に変わっていった、ということです。

だからこそ、幕末以降に「山窩」は山間部の軽犯罪集団のように扱われ、主に官憲の用語として用いられていたと言います。
従って、明治以降に社会基盤の整備が進み法制度が確立するにつれて、これらの層が社会に溶け込んで消滅していったと考えられます。

しかし、戦後に山窩を「民族化」し、彼らを文明社会のアンチテーゼとして扱うフィクションがトレンドとなり、大衆的に広まっていったようです。
その流れを汲んだのが、先の「瀬降り物語」であり、監督の中島貞夫氏はかなりの取材をしたようですが、その内容をそのまま映画化することはできず、エンタメ色の強い作品になってしまったとのことです。
先の論文では批判されている柳田國男氏の「サンカ論」ですが、氏の論文では青森県の恐山で有名な「イタコ(イタカ)」も、かつては流浪の人々であり、非定住の呪術者として差別の対象であったとされます。

「イタカ」及び「サンカ」

イタコは主に弱視や盲目の女性などが巫女として厳しい修行を行い、まじないや霊媒の能力を身につけた職業であるとされます。
「イタコ」の語源は「イツキ(斎)」とするのではないか、という説があります。
この「イタコ・イタカ」は全国に存在したとされ、古代祭祀に携わっていた巫女に由来するのではないかと言われています。

かつて、ヤマト王権が確立する頃まで、日本には呪術的祭祀と政治を切り離す統治システムがあり、「ヒコミコ制」「ヒコヒコ制」と呼ばれています。
そして、ヤマト王権によって地方豪族のシャーマン的指導者は、王権に従属しなければ「土蜘蛛」として討伐対象となりました。

土蜘蛛の古代巫女とイタコの直接的な結びつきは不明ですが、まじない的な仕事をする女性が「坂の者」とされ、聖俗の境界に坐す存在であったのは確かだと思います。

「山窩」がいわゆる「河原者」と呼ばれた役者や芸人、死牛馬処理業者などを差別する言葉であり、不定住者の人々まで一般化するようになると、山里付近で流浪して暮らす人々が特に「山窩」とされたようです。
この「山奥に暮らす人々」は、いつの時代も存在したはずで、縄文由来の生活文化を続けてきた人たち、あるいは「マタギ」のように、狩猟を生業としてきた人々もいたはずです。

マタギは広範囲の山々を「跨ぐ」から「マタギ」とする説があるくらい、山々を熟知した人々であったはずです。
マタギの伝承にあるかはわかりませんが、「瀬降り」という表現も山から川に降りてくる様子を示しており、河川に天幕を張って野営するのは自然なことかもしれません。

このマタギに関して、面白い話があったのを思い出しました。
オカルトや怪談のジャンルに「山怪」というのがありますが、文字の如く「山の怪談」のことです。
その中に、「山の白い女」という話があります。

この話は、誰もいないはずの山奥になぜか白い服を着た女性がおり、それを見て山に入った人が混乱する、と言うあらすじです。
その場合、白い女を見た人は大抵「白いオコジョを見間違えたのだ」と諭されます。
ただ、「山奥で白い影を見る」というのは、近代から始まった話ではないように思います。

秋田県の阿仁マタギの人々には、今も修験道に繋がる宗教的な慣習が伝わっているそうです。
マタギの人々は山の神を女神と信じ、その神様は大変醜いお姿であり、ゆえに山に女性が入ると女神様の嫉妬に会うため、猟に出る時などや入山に女性を関わらせないとされます。
これには、女性を山に連れて行かない現実的な理由はあるのでしょうが、興味深いのは山神を「女神」としている点です。

日本の神道において、山の神は「大山祇命」や「猿田彦大神」や山体固有の神名である場合が多いです。
その場合ほとんどが男性神であり、山を女神とする事例は早池峰山や白山や六甲山など、数えられるほどしかありません。
そして、この「早池峰山」こそ瀬織津姫命を主祭神とする「早池峰神社」が建立されています。
この早池峰山は、一説には猟師が山頂で三柱の女神を見て、祠を建てたことに始まるそうです。

何が言いたいかというと、「山奥で見る白い女性」とは人間が山奥で神秘に触れる時、本能的に知覚してしまうビジョンなのではないか、と考えられるのです。

私は若い頃、面白半分で道のない山を登ったことがありますが、木々とシダに覆われた森の静謐さや、神秘的な空気を忘れることができません。
山や森の奥にはせせらぎがあったり、水源となる泉があったりします。
人間はそこで神秘に触れる時、清純な「女神」の姿を見るのではないでしょうか。

「雪女」という昔話がありますが、あれも冬山で遭難した猟師が白い衣の女性に助けられます。
どうも、人間が山深くに入ると霊的な覚醒状態となり、神秘的なビジョンを見てしまうように思えてなりません。
先の脊振山についても、山地は河川を「振り分ける」姿を形容しているとは言えるものの、山に入る人々がそこに女神を見たとしたら、山頂へ瀬織津姫命に比定される弁財天を祀るのも理解できる気がします。

先の「サンカ論」で取り上げた柳田國男氏は、日本に伝わる妖怪を「零落せし(落ちこぼれの)神」と呼びました。
これは日本が近代化していく中で、信仰の対象にならずに迷信化していった神々が、後に「妖怪」として扱われていったのではないか、という説です。

瀬織津姫命は、「記紀」の記述から漏れた神であり、唯一その名を文書に残すのは「中臣祓詞(大祓詞)」のみです。
瀬織津姫命が「祓戸大神」として神道上で重要な役割とされていなければ、おそらくその名が後世に残ることは難しかったのではないでしょうか。

日本の神々の系譜において、その神名を残せなかった数多の神々がいたとするなら、「瀬降りつ姫」のように素朴な由来の神様も存在したでしょう。
それこそ、自然神だけでなく九十九神と言われる道具やモノに宿る神々は、神名を後世に残せなかったからこそ、怪異として人々の記憶に刻まれてきたのかもしれません。

この「神の零落」とは、人間が崇拝する対象を社会的に規定されてきた結果のはずです。
ただ、かつてのように神秘的なものを自由に知覚し、人々が目に見えないビジョンを共有する世界が広がるなら、「神々の復活」「妖怪の蘇生」は夢物語ではないのかもしれません。

なぜ、私がこれほど「瀬織津姫命」に心酔するのかと言えば、瀬織津姫様がこれほど神として重大な役割であるにも関わらず、正式な伝承もなく半ば都市伝説的に語られることに対し、不遇さを感じてしまうのもあるかもしれません。
その境遇にシンパシーを感じるのは、私自身がこの現代社会から弾き出され、「河原者」のような立場に置かれているからでしょう。

現代社会に生きながら根無草の「山窩」のようであり、細々と「瀬振り」のように暮らす私には、瀬織津姫命を心の拠り所とするのは必然であり、運命だったような気がします。
だから私には、瀬織津姫様が高いところにおられる絶対的な権威ではなく、どこか自分の仕える「お姫様」のような、親愛の情を抱いてしまうのだと思います。

とは言え、神様は人間の想像を遥かに超えた存在ですから、私が瀬織津姫様に惹かれていく理由も、自分が思うようなものではないのかもしれません。
私としては、敬愛すべき女神様のために何ができるか、今でも何ができているかはわかりません。

ただ、もし私が神様のお役に立てるのなら、それはとても光栄なことだと思います。

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神統試論・序

楽太郎です。

私が日本の神様の絵を描かせて頂くに当たって、一つの課題がありました。
それは、「同一視される神格を全て別々に考えたとしても、同定可能な神格も個別にするべきなのか?」という点です。

つまり、ある神様を描かせて頂く時には神名の数だけ違う神様として描くことはできます。
ただ、神名は異なるけれど由縁や背景を紐解くと、ほぼ同一の神格を指し示していることもあります。

神様の数だけたくさんの神様をお描きするのも一つの道だと思うのですが、下手すると神様の背景を掘り下げず、適当にお描きしてしまうことにも繋がります。
ある神様のプロフィールを辿っていくと、縁や由来があるからこそ深い理解にも繋がりますし、「こちらの神様とこちらの神様は同じ神格を示している」と結論づけることも可能になります。

例えば、私の崇敬する瀬織津姫命様は、「市杵島姫命・湍津姫命」「天照大御神荒御魂・向津姫命」「罔象女神」「高龗神」と、比定される御神格がいくつも存在します。
ただ、私自身は瀬織津姫命とされる御神格に対し、自然神、産土神としての「淡水を司る女神」であると認識しているため、安易に異なる御神格と同一視することには抵抗があります。

神道を考える上で、「自然神」「文化神」という観点を抜きにして、神様を理解することはできません。

「自然神」とは、私の解釈では「記紀」の天地開闢から天照大御神と素戔嗚命の誓約までの「自然の形象を神格化した神々」を指します。
「文化神」とは、日本に有史以来お祀りされてきた「祖霊神や氏神など、人格に由来する神々」を念頭にしています。

我が国ではその区別がなくても問題なく信仰されてきましたし、私自身も必要な分類だとは思いません。
「自然神」は形象それ自体でもあるので由来をそれ以上辿ることはできず、「文化神」は歴史的事実を把握すれば特定できる神様であります。
神として大まかに捉えて問題はなくとも、由緒を考えると混同することが必ずしも合理的であるわけではないのです。

信仰とは本来多様なものですから、私自身が瀬織津姫様を弁財天様や龍神様と同一視されることに異論があるわけではありません。
「瀬織津姫命は自然神である」という観念は私独自のものなので、例えば「市杵島姫命」様を私がお描きする機会があれば、別の御神格として表現するでしょう。
その表現に違和感のある方がおられるとは思いますが、それが私の神道解釈ですし、信仰に基づいた表現は曲げる必要はありません。

とは言え、現代の宗教法人制度における神道は、地域の伝承や伝統に裏づけされてはいますが、明治政府の神仏分離政策や飛鳥時代の大宝律令の成立と「記紀」の影響などにより、御神格は政治的な意図を持って祭祀形態を変更されてきたのも事実です。

例えば、愛知県豊田市にある「猿投神社」は、社名の「猿投」とは出雲族の信仰対象であった銅鐸を「サナギ」と呼んでいたことに由来する説があります。

ただ、同社は「大碓命」を主祭神とされていますし、社の西側には「大碓命墓」とされる「猿投塚古墳」が存在します。
「大碓命」は、景行天皇の子である双子の兄で、弟の「小碓命」は後の倭建命であると言います。
しかし、考古学的に猿投塚古墳の被葬者は解明されておらず、大碓命の墳墓は岐阜県にある昼飯大塚古墳が有力とされています。

「猿投」が「サナギ=銅鐸」であるとするなら、猿投山一帯は出雲族の銅鐸祭祀の名残がある土地です。
しかし、同社は主祭神を景行天皇の子息である「大碓命」としており、主祭神とされたのも近世以降で、実は古くから猿投山の神をお祀りしていたのではないか、と言われています。
つまり、出雲族の信仰は物部系氏族の伝承に塗り替えられており、ここには政治的な意図を感じざるを得ません。

神社と歴史、歴史と政治は密接な繋がりがあり、それらを切り離して日本人の信仰を考えることはできません。
神社に代々伝わる社伝も、時の人の解釈や作為が働いて創作されることもままあったはずです。

特に日本の神道史を考える上で、大和朝廷誕生後の宗教政策や、推古天皇の律令制度改革に始まり「日本書紀」の成立による氏族への影響などを無視することはできません。
そもそも、国家神道を考える上で肝となる「記紀」ですが、その成立の背景には飛鳥時代の白村江の敗戦、律令制の普及に伴う地方豪族との軋轢などもありました。

朝廷としては、律令制を確立して中央集権化を推し進めたいわけですが、時の天智天皇も頭を悩ませたことでしょう。
そして、地方豪族を取りまとめるために、天皇の血筋を堅固なものとしながら、全国の氏族の正統性を認め、派閥を取りまとめる必要があったはずです。

「日本書紀」は百済や新羅などの諸外国に提示する外交文書である以上、その内容は折紙付きとなります。
そのため、国内の豪族はそれを認めざるを得ず、結果的に各氏族は氏神・祖神信仰の形を変えねばならなかったとも考えられるのです。

ちなみに、「記紀」は日本という国家の成立、天照大御神を中心とした国家神道のあり方を定義したものと考えられています。
しかし、「日本書紀」が正史として文武天皇に献上されたのは公式記録にありますが、「古事記」にはないそうです。

古事記の研究によると、古事記が広く認知されたのは江戸時代、その立役者は国学者の本居宣長であると言われています。
古事記の前文には数々の批判があり、その文体から平安時代後期の可能性が高いそうです。
古事記自体は偽書ではないとしても、少なくとも「日本書紀」の原本などから編纂されているのは事実らしく、日本書記の方が正確な記述は多いそうです。

これらの書物は地方豪族の系統を取りまとめる目的もあったと考えていますが、やはり氏族には氏神信仰があり、それぞれ自らの祖神は絶対であり、簡単に御神名や由来を変えることなどできない、と思ったには違いありません。
だからこそ、記紀には似た構図の話が時代と人物を変えて何度も現れ、似たような境遇の神々が多数存在することになったのだと思います。

その全てが事実と違うということではなく、原型となるような経緯があり、その解釈や伝わり方で各豪族の心象も変わり、また権力差や立場で表現される物語も変わったはずです。
特に日本書紀を編纂したのは藤原不比等とされており、時の持統天皇や政治のゴタゴタも多分にあったでしょう。

その影響を踏まえても、やはり事実に基づくというか、そうではなくても共通認識となる筋道はあって、そこに登場する人物や神格、立場や背景が一致する原型があるように思えてなりません。
この歴史研究の試みは、「書紀を歴史的に紐解き、御神名を整理して神統を詳らかにする」というものです。 
 
これは、神格の混同を避けることにも繋がり、神様のプロフィールをより詳細にするということです。

例えば、和歌山田辺市にある「熊野本宮大社」の主祭神は「家津美御子(けつみみこ)神=櫛御気野(くしみけぬの)命」とされています。
ちなみに、神武天皇の諱は「若御毛沼(わけみけぬの)命」「豊御毛沼命」です。
熊野の社名でわかるように、社は「素戔嗚命」をお祀りしているはずです。
素直に解釈すると、「神武天皇が素戔嗚命である」ということになります。

そんなことがあるのでしょうか?

もう一つ例を挙げると、神武天皇の父である「鸕鶿草葺不合(うがやふきあえず)命」の妃は「玉依姫命」であり、玉依姫の姉の「豊玉姫命」は、鸕鶿草葺不合命の母であるとされます。

鸕鶿草葺不合命の父である彦火火出見命、山幸彦またの名を火遠理とされています。
釣り針を無くして海辺で途方に暮れていたところ、塩椎神に誘われて竜宮に赴き、豊玉姫と恋に落ち子を儲けました。
豊玉姫には龍女の伝説があり、父は綿津見神であるとされます。
火遠理と豊玉姫の子の鸕鶿草葺不合は叔母にあたる玉依姫に育てられ、後に結婚します。

「海幸彦と山幸彦」という話では、山幸彦(火遠理命)は兄から借りた釣り針を海に落としてしまい、途方に暮れますが、自分の剣である「十拳の剣」から千本の針を作って海幸彦(火照命)に渡そうとします。

「十拳の剣」を持つ神と言えば、素戔嗚命でしょう。
素戔嗚命は八岐大蛇を退治する時、十拳の剣で戦い刃が折れてしまいますが、八岐大蛇の尾から「草薙の剣」を見つけ、これを宝とします。

ということは、神武天皇は素戔嗚命であり、祖父の彦火火出見命も素戔嗚命であるとも言えるのです。

しかし、素戔嗚命は天照大御神と同時にお産まれになった三貴子であり、世代が全く違います。
しかし、実在の神社の由来、地域の伝承を加味して記紀の設定を照らし合わせると、奇妙な一致と不合点も明らかになってきます。

こういった複雑に絡まった系統を解していく、繊細な作業になっていくと思います。
こういった事象が起こるのは、書紀編纂時に各氏族の都合を整合性よりも優先した結果ではないでしょうか。

興味深いのは、鸕鶿草葺不合命の妃である「玉依姫命」には、いくつも似た名前の神様がおられることです。
「鴨玉依姫」「櫛玉依姫」「活玉依姫」、姉の豊玉姫も似た名前ですが、「豊」が氏族の「豊氏」の系統を指すのだとしたら、「鴨玉依姫」は「賀茂氏」と繋がりがある可能性もあります。

また、神道には「四魂」という考え方があり、それは「幸魂、奇魂、和魂、荒魂」とされています。
この「幸魂」は「豊」、「奇魂」は「櫛」と表記されるそうで、つまり玉依姫命の神名のバリエーションは、「神魂の現れ方」を表しているのかもしれません。

ということは、一見文脈としては別々の神様のように語られていたとしても、実は同一の神様を別の角度から説明していた、という記述も多分にあるのではないでしょうか。
ゆえに、「鴨玉依姫命」「櫛玉依姫命」「活玉依姫命」を個別の神として表現するのは慎重にならなければなりません。

この試みは、断定するのが難しいことを扱うことになりますが、独断と偏見で強引にやっていこうと思います。
これには、考古学的歴史だけでなく地政学や民俗学、神社の成り立ちなども考慮に入れながら多角的に調べていきます。

これから神道の歴史を辿るにあたり、「日本書紀」の記述を軸にしたいと思います。
両書には神名の表記揺れがあり、その辺を混同すると私自身が混乱するのもあるからです。

なかなか素人には難しい試みですが、無学者なりに大胆なアプローチをしていきたいと思います。
私としても、意外な結論になっていきそうでワクワクしています。

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神と日本人

楽太郎です。

先日、「幽界の消滅について」という記事を書きました。
四次元世界である「幽界」が縮退する代わりに、地球が霊的に次元上昇することで「新幽界」というべき次元に置き換わるのではないか、という話をしました。

また、古い幽界にある地獄的思念の集合場は、次元の縮退と共に居場所を無くし、低い波長域にある物質次元に移動し、その様態が「憑依」という形に現れているのではないか、と仮説を立てました。

人々はナチュラルに邪気を帯び、発するようになって久しいですが、その邪気の根源には「憑依者」が宿主となって悪影響を及ぼしているように見えます。
今、日本には悪意を持った外国勢力が侵入してきていますが、その影響を受けた日本人の中には邪気の媒介者となっている人も見受けられます。
日本が本当に「神の国」であるとするなら、悪しき霊が神の国を蹂躙しようとするのは理に叶っています。

この様子を鑑みるに、「日月神示」のシナリオそのままではないかと思います。
つまり、神の世界、霊人の世界、人の世界の「三千世界」の立て直しにおいて、「日本は一度取り壊される」と書かれています。

その「取り壊し」が、どの程度なのかはわかりません。
しかし、これまでの社会の仕組みの上で、日本人が存続困難な状態に置かれているのは否定できないはずです。

例えば、これから明確に食糧難となった時、耕作放棄地や野山で勝手に食物を採取したり、栽培しようとしても土地の権利者がいるため、法で罰せられる恐れがあります。
土地は不動産なので、生命を繋ぐために自然から恵みを受けようとしても、書類上の権利があるので食べ物にありつくことができません。

自然とは本来、人に恵みを十分なほど与えてくれるのに、人間の仕組みでそれを得られないのです。
江戸時代の天保の大飢饉がほぼ人災だったように、人の作った制度で人が死ぬ、という惨事が繰り返されるのでしょうか。

ゆえに、制度的な面で現体制が変化しない限り、私たち日本人は滅びる流れにあります。
この流れに抗い、どこまで新しい世を作っていけるのかが日本人に問われています。

この世の邪気は、人々が現代社会を生きる上で積み上げた不満や絶望、そこから生まれた罪穢れ、その邪気に悪霊による憑依が加わったものだと思います。

今の拝金主義的な世で、生き方も世界も変わることを許せない感情は、そもそも精神的存在を否定する勢力から発生しました。
下手に科学的な視点は、唯物史観を助長させ、「全て金と人間の力で解決できる」という思想を一般化させました。
そして、物質中心の生き方を変えたくないと思うからこそ、この歪な世を作り出した側である邪霊の影響を受けやすいのです。

今私たちが「邪気」と呼ぶ概念は、近世になるまでは「穢れ」と呼ばれていたものです。
私の解釈では「穢れ」とは「気離り(きかり)」であり、「元気がなくなる」「嫌な気持ちになる」「気を病む」というニュアンスを指したのだと思います。

ストレス過多の現代人は、欲求不満や疲労を常に抱えています。
イライラして人に当たり散らしたり、妬み嫉みで人を攻撃したり、人を騙してでも利益を得ようとします。
心を病んだ人々は、アルコールやドラッグに走り、病院にかかり薬漬けになったりもします。

しかし、物質的に回復条件を満たしただけでは「清め=気呼べ」にはなりません。
「気」というエネルギーを呼び込むためには、疾しい生き方を改め、自然体の心地よい生き方を選ばなくては、病んだ心身を本当の意味で癒すことはできないのです。

だからこそ、現代人には「祓い清め」が必要であり、それは人間本来の性質に立ち返り、自由で健康な精神を取り戻すことです。
そのためには、自然と調和する感覚、神仏や精霊への正しい信仰、目には見えない世界を敬う心が大切です。

日本人は、古くから「自然から生まれ自然に帰っていく」という死生観がありました。
古代の人々は、人が亡くなると亡骸を山や洞窟の中に葬りました。その霊は、山を登って高いところへ帰り、あるいは海を渡って遠い世界に行くと考えていたようです。

その世界観において、人の生きる土地と死後の世界は地続きであり、「遠いところに行くだけ」という認識に近かったようです。
そして、遠いところに行った愛すべき人やご先祖様も、ことあるごとに自分たちの元へ戻って来てくれると考えていました。

その世界は「隠り=幽(かくり)世」であり、ただ単に「見えないだけのところ」だと思われていました。
隠れているだけの世界なので、善人も悪人も等しく行く場所だとされていたようです。
この考え方は、現代スピリチュアリズムにおける「精霊界=幽界」の考え方と一致します。

亡くなられたご先祖様が「神になる」と信じられたからこそ、日本には「氏神信仰」があります。
遠いところに行ったご先祖様は、神様となって子々孫々を助けてくれると考え、その霊をお祀りすることで自分たちに加護を与えて下さることを祈願しました。

土地に恵みを与えて下さる「産土神」は、お祀りすることで幸を与えて下さる一方、ご機嫌を損なうと「荒魂」によって災害や凶作をもたらすため、平和と安寧のためにきちんと「鎮魂」し、祭祀を行うのです。

神様は何でも知っておられるし、あらゆるお力をお持ちだからこそ、自分たちの願いも叶えてくれる、あるいは救いの道を示して下さると人々はずっと信じてきました。

そして実際に、神様は私たちを導き、あらゆるアイデアやヒントを授けて下さいます。
その神様を敬うことは、私たちの心が祓い清められるだけでなく、本来の人間のあり方に立ち返る道でもあるのです。

つまり、これが日本の「神道」です。

国家神道の最高神「天照大御神」は、日本という国の総氏神であります。
ご先祖様が守ってこられた日本という国、厳密に言えば八州の国土が蹂躙され、失われようとしています。

私たち日本人が何をすべきか、それは政治問題に熱心になることでも、新しいビジネスや活動を始めることにある訳でもありません。
一番大切なのは、本当に心の健康さを取り戻し、そのために古い生き方考え方を捨て、本来の自分に立ち返ることです。

自分の本心を知り、魂のレベルからやりたいことを見つけ、それをするために何をすれば良いか、それによってどう人の役に立つのか、その答えを見つけ、見つけた答えだけを信じて生きていくことだと思います。

この世は、これから想像もしていなかったことが次々と起こるはずです。
その時、自分の信じる道が希望となり、揺るがずに強く生きていけるはずです。

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