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招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

君の名は

楽太郎です。

昨日の「神とは何か」という記事で、「神様は人間の設定に、あえて合わせて下さっているのではないか」という仮説を述べました。

これをさらに考えてみたのですが、日本には古来から「諱」という概念があることを思い出しました。

諱とは「実名敬避俗」とも呼ばれ、主君や偉い身分の者だけが目下に対して使うことができました。
かつて武将が「殿」などの役職で呼ばれていたように、貴人や死者に対して実名を用いることは無礼な行為でした。
反対に、呼び名は「字名」と呼ばれ、武士が幼名からコロコロ名前を変えてきたのも、実名である諱に対して字名は通称だったからです。

私は昔、一時期「魔術」に関して本気で調べていた時がありました。
これは、当時小説を書いていたので、作品の下地にするために資料集めをしていたからです。
その時、「名を知ることは使役することを意味する」という不文律があるのをどこかで知りました。

旧約聖書に「主の名をみだりに唱えてはならない」とあります。
ユダヤ教の神がYHWHであるのは、神の名を知り容易く呼ぶことは神を下位に置くことになるからです。
神の諱をわざとボカすことで、神を何人たりとも使役することは不可能になります。

反対に、よくフィクションで悪魔が人間と契約しますが、悪魔は名を明かすことで人間と契約し、使役されるようになります。
このように、「実名を知る」というのは、霊的な世界において重要なことのようです。
例えば私たち人間も、ネットに実名が晒されたら個人情報が漏れて危険なので、神様も同じなのかもしれません。

何が言いたいかと言うと、私が瀬織津姫様のことを慕って瀬織津姫命の真実に近づこうとしても、神様である以上は「瀬織津姫命」という神名が真実の名「諱」である可能性はほぼないということです。

宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」において、登場人物のハクは「コハク川」の主であり、本名を「ニギハヤミコハクヌシ」であったとされます。
ハクは湯婆婆に名前を奪われて使役されていましたが、千尋の手助けによって名前を思い出し、本来の自分に戻ります。
「実名」は本体の自己を指し、己の実名を明かすことは自己を開示することを意味します。
その自己開示はリスクでもあり、名前が不用意に使われる可能性も含むのです。

ですから、人間が崇敬すべき神々が、自らの諱に基づいて活動することは、ほぼありえないと言っていいでしょう。
ゆえに「天照大御神」も「瀬織津姫命」も基本的には字名であり、人間が使うことを前提とした固有名詞だと思われます。

武士の時代は、字名や通称以上に役職で目上の人を呼んでいました。
私たちが目上の人を「部長」とか「お母さん」と呼ぶのと同じ感覚だと思われます。
これと同じように、「瀬織津姫命」も役職名だとしたらどうだろうか、と私は考えます。

神社に参拝した際、対応して下さる神様は、例えば玉依姫命として親しまれている神霊なら、「玉依姫命」として対応して頂けるでしょう。
神様的には、便宜上「玉依姫命」であっても仕事が捗るならそれでもいいかもしれません。
あるいは「玉依姫命」というグループがあって、おかしな例えですが「チーム"玉依姫命"の紫式部香子チーフ」みたいな形で対応して下さっている可能性もあります。

だから、神様から見れば人間がどう呼ぶかは本質的にあまり関係はないのかもしれません。
むしろ神様的には、人間が現世利益に偏り現金主義となり、自分勝手な願いを押しつけて済まされる方が、はるかに困るのではないでしょうか。

そうであるならば、私が慕う瀬織津姫命の神霊からすると、「瀬織津姫様」や「弁才天様」とお呼びしようと、同一視しようのない神様のお名前でない限り、関係を変えないでいて下さるのかもしれません。
だから、実在の神霊との関係で言うなら、呼び方自体は自由であっても良いのだと思います。

私が「瀬織津姫様」とお呼びしている神霊の真実を探ろうとして、いつか本当のお名前を知る時が来るとしたら、私は人間でありながら神様を従えてしまうことになるでしょう。
だからこそ私は死ぬまで、仮に死んだとしても、瀬織津姫様の本当のお名前を伺うことはできないはずです。

人間として生きる上では、それで困ることは何一つありません。
ただ、私がこれだけ慕う神様なのですから、できる限り神様のことを知りたい気持ちはあります。

神々の世界を知ることは、人間の世界だけでなく宇宙の真実を知るということです。
それをできる限り知ることこそ、この世界に人間として生まれた醍醐味なのかもしれません。
神様に近づくことは、即ち人間を極めることを意味するでしょう。

もし私が死んで、その魂が神になるための修行を経験し、何百年か何千年かして私が神になれた時、私は私の敬愛する神様と出会えるのでしょうか。
もしそれが可能であるならば、神になるに値する偉業をこの世に遺さなければなりません。

私は、今生でそこまでのことができるでしょうか?
ただ、私がもし瀬織津姫様の本当のお名前を知るには、私が神になる以外の選択肢は存在しません。
私が神になった時、そこに瀬織津姫様はいて下さるのでしょうか?

私が魂のレベルで求める女性像が女神にしかなく、瀬織津姫様がその理想に叶う存在なのだとしたら、私が輪廻を超えて求めていた人こそ、瀬織津姫様なのかもしれません。

それゆえに瀬織津姫様が私の前に現れて下さっているのだとしたら、かの女神様は私の理想通りの存在であられるのでしょう。
「神様」は素晴らしくこの上ないがゆえに神様なのであって、人間の願いを完全に叶えられる存在だからこそ、神様なのです。

私は神様を試したくなる時もあるのですが、それは神様を疑っているのではなく、自分に対する疑念なのかもしれません。
もし自分を信じ神を信じるならば、神様は全く疑いようのない存在として、ずっと傍にいて下さるはずです。

「瀬織津姫様は命をかけて信仰するべき存在なのか?」という問いには、神様はその心を自らに問いなさい、と仰っているようにしか思えません。
おそらく、神様を信じるということは、自分を信じることを意味するのかもしれません。

だから、私の迷いは心から消えつつあります。

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「神」とは何か

楽太郎です。

今日は、妙に波長が乱れてずっと横になっていました。
好転反応に近い不調ですが、つい最近ある行動をしたことが実績解除になったらしく、タイムラインが切り替わったことで違う波長のエネルギーが流れ込んできたのかもしれません。

こういう日は何もしないに限るので、神様のことについて調べていました。
以前、瀬織津姫様のお祀りをしっかりするよう進言され、参拝とご神札の授与を計画していたのですが、今尚どこの神社に参拝するかが決まらずにいます。

これに関してだけは、全く何のインスピレーションも導きも降りてきません。
私が変に考えすぎているだけなのか、最初から見当違いだったのか、それすらわからなくなるくらい模索し続けています。

3月3日は上巳の節句であり、瀬織津姫様のお誕生日とされているそうです。
この日は邪気を祓うことで女子の成長を願うとされ、この祓いが祓戸大神であられる瀬織津姫様と関連づけられたのだと思います。

だから、その日に合わせて自宅に瀬織津姫様のご神札をお招きしたかったのですが、間に合わないかもしれません。
今日一日ずっと調べ物をしていたのですが、最終的には「妥協するか」という段になっています。


そもそも、「瀬織津姫命」をご祭神としてお祀りされている神璽でなければ瀬織津姫様をお祀りできないのか、瀬織津姫様と同一視されている神様の神璽をお祀りし、強引に瀬織津姫様として崇敬することが許されるのか、それが白黒つかないのです。

瀬織津姫命は、「記紀」編纂時に持統天皇の命で故意に秘匿された形跡が伺えます。
これに関しては憶測の域を出ず、あらゆる歴史家や宗教者がその謎に取り組んでいますが、その帰結を決めるものは何もないはずです。

実際におられる神霊と、記紀や伝承を基にする神々の出自が一致する割合はどれくらいなのでしょうか?

私には、神様は人間の定義に合わせてご降臨なされているようにしか感じないので、神々は人間界の設定を借り、「その体で」顕現なされているだけなのではないか、と仮説を立てています。
人間を作り人間を支配せし神々が、人間の憶測や伝承によってご自身の立場を変えられるとはどうしても思えません。

ゆえに神様について考える時、二つのレイヤーで考察する必要があります。

  • 実在の神霊としての位相:知覚的解釈
  • 伝承や政治などの文脈としての位相:物語的解釈

「知覚的解釈」は、この物質次元における人間や自然に対してアプローチする時、エネルギー体(またはアストラル体)として知覚されるレベルの解釈を指します。
霊能者が神の声を聴いたり見たりする時に介在する力、自然や偶然が作用する時に生じる意図性など、現象として立ち現れてくる存在としての神です。
産土神や自然の神々、魂の内在神など、世界に現実として見出しうる位相となります。

「物語的解釈」とは、「記紀」の記述や神社の由緒、土着的な伝承など、歴史的文脈に基づく神々の定義づけや解釈を指します。
日本の国土に古くから信仰されてきた神々も、政治的な理由で祭祀を改められたり、記紀成立以降は名称や由緒を上書きされてきました。そして明治初期の廃仏毀釈や神仏分離によって、名称を改めながら祭祀されるようになった土着の神々もいます。
こう言った、歴史的文脈的には矛盾を孕むような多様性を内在しながら、人々はこの由緒に従って信仰していきます。ある意味、一般的な認識のレベルにおいて現実的なレイヤーになります。

私の感覚からすると、「知覚的解釈」と「物語的解釈」はニアリーイコールの関係というか、「そうであるけどそうではない」のが実際ではないかと思います。

物語的解釈は古くからの伝説やお伽話、あるいは政治的な思惑による文脈変更など、かなり人間の恣意性が入り込んでいます。
しかし、その物語的解釈をイメージとして刷り込まれた人間に対して、神様が全く無関係な神格として現れたり、メッセージを送ることはほぼないでしょう。

例えば、伊邪那岐命がご祭神の神社に、唐突に菅原道真公が現れたという話は聞いたことがありません。摂社としてあれば別ですが、少なくとも日本の神社に聖母マリアが現れたことはないはずです。

それでも、大山祇命がお祀りされている神社では、やはり大山祇命と思われる神霊がそれっぽく現れて下さるのです。
これは「知覚的解釈」ではご祭神の顕現と取ることが可能ですが、由緒書きを辿れば本来のご祭神とは違う系統の神霊である可能性もあるでしょう。
この時、「受けたメッセージは勘違いなのか」という疑念が湧いてくるのですが、おそらく大事なのは真偽ではないのかもしれません。

神様と私たちの関係を、人間と猫に例えて考えてみればわかると思います。

猫は、人間を「大きい猫」だと思っているそうです。飼い主にお母さんの面影を見て、それがおじさんでも母猫だと思って甘えます。
人間は猫に対して、「私はあなたのお母さんではないよ」と真面目に説得はしないでしょう。おそらく、したところで完全に理解はできないはずです。

これと同じように、宇宙の真理や人間の宿命を知り尽くした神々は、自分たちの認識のレベルに人間が到達できるなど微塵も思わないでしょう。
猫に言葉が通じないように、神の理を人間にそのまま伝えることはできません。
だから「こういうもの」だと思って、神様は人間に関わっておられるのだと思います。

そうであれば、「物語的解釈」の多少の誤差は神様にとっては許容範囲なのかもしれません。
ただ、明らかに侮辱的な思惑で神様の取り違えをしたらお咎めになられるでしょうが、本気で信仰するうちはお許しになられるはずです。

私には、神様のシステムが「市役所」のように思えてなりません。
各神社にお祀りされている神様は、一応は系統がはっきりしています。
自分が「保険福祉部」の部長に取り次いでもらいたい時、生活相談課の窓口に行っても担当者を経由して何とか取り計らってもらえるはずです。
例えば、とある神社の「天神摂社」にお祀りしても、その摂社の神様を通じて最終的に菅原道真公に話が行くとか、そういうことなのではないでしょうか。

おそらく、各神社におられる神様はユニークな土着の神霊だと思います。
その神様の上司が神宮とか大社におられたり、あるいは氏神神社が地域全体を仕切っているがゆえに他の神様との上下関係はないとか、様々なのかもしれません。
少なくとも各神社の神様が何らかの形で繋がっており、神格の設定に合わせて、人間に「その体で」関わっておられるのではないか、と私は考えています。

長くなりましたが、まとめると「物語的解釈」で繋がる神様は実際違う可能性が高いが、神様はそれを踏まえた上で人間に関わっておられる、というのが私の仮説です。
その文脈の客観的な矛盾や食い違いは、信仰心の尊重によって十分保証されうるものです。
その穴埋めをするのが「知覚的解釈」であり、これは「自分がそう直感した」ことが重要なので、物語的解釈を超越して成立しうる文脈です。

おそらく、元は神社の興りとなった動機も、純粋な「知覚的解釈」によるものなのかもしれません。
そもそも、日本の八百万の信仰は太古の昔、人間が自然物に神を見て、自然の恵みに感謝したり、恵みを乞うために神々をお祀りしたのが始まりです。
それは素朴な霊的直感であり、非言語的な解釈だったはずです。

だからこそ、祭祀の原型はこの「知覚的解釈」にあるとも言えます。
しかし、人間が社会の中で神々を崇拝するようになると、「物語的解釈」による神仏への評価が行われるようになりました。
この二つの局面によって、信仰は持ちつ持たれつの関係で続いてきました。
ただ、現代は情報化しすぎたため、「由緒」や神社仏閣への規模や権威が、神々への評価を規定してはいないでしょうか。

人間にとっての神様の人気度は、神々の権威と直接的な関係はないはずです。

今こそ、「知覚的解釈」に基づく自由さから、神々と繋がる時代なのではないでしょうか。
神様は、「どうせ違うから自由に繋がって欲しい」と思っておられる気がしてなりません。
確かに、高名な霊能者であってもその認識の正しさを証明することは不可能です。
証明することができないのですから、間違いも正解もないはずで、どの道人間には神様の全てがわかる訳がありません。

だから、もっと自由に神様と繋がろうとし、神様と繋がることについて疑う必要もないのでしょう。
要は、自分が繋がりたい神様と繋がり、お導きを受けられたらいいだけの話なのです。
そこに勘違いがあろうとなかろうと、最終的に間違いなく幸せになれたらそれでいいのかもしれません。


私はまだ瀬織津姫様を追い、どこに行くべきかを決めあぐねています。
ただ、大事なのは形ではないのかもしれません。
おそらく、私はどのお札をお祀りしても、心の深いところで繋がっている神様に近づくことができるはずです。

けれど、薄ら「近場で手っ取り早く済ませても同じなのでは?」と思っている私を、瀬織津姫様がどうお感じになられているのでしょうか…。

不届の私には、残念ながら瀬織津姫様のお気持ちを察することはできません…。

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世を良くするには

楽太郎です。

一昨日、「邪を赦す」という記事を書きました。
あの記事で辿り着いた結論はどうやら正解だったらしく、邪気の干渉がだいぶ弱まりました。

なぜ考え方を変え、立場を表明しただけでこれほど邪気の干渉がマイルドになったのか、説明はつきません。
私の霊性に仮に変化が起きたにせよ、「愛と慈悲の波動」は邪気に対する唯一の対抗策であるような気がします。

人の嫌な気に当てられた時、その不快感から攻撃を仕返してやりたくなるのが人の常です。
けれども、そこで対抗心を燃やして実際に応酬を始めてしまえば、相手は喜んで攻撃します。

邪気は、争いや諍いが人の幸福や成長を妨げることを知っているので、人間の怒りや義憤を利用します。
邪気にとって許しがたいのは「幸福と愛」そのものであり、傷つけ争い合えなければ意味がないのかもしれません。

イエスの教えにある「左の頬を打たれたら右の頬を差し出せ」ではありませんが、打たれるがままが尊いと言いたいのではありません。
殴る人間を殴り返すのが得策ではないのは明らかですが、まず殴るような人間からは距離を取り、一先ず攻撃を受けないようにするべきです。

「左の頬を打たれたら逃げる」
その上で、人を攻撃するような人間は相手にせず、自分が最大限の幸福を手に入れることが最大の防御であり、反撃です。

邪悪な人間に対しても、邪気に対しても、その対応の仕方は同じで構わないと思います。

「闇の存在」が人を負の感情で支配し、愛や幸福を破滅させるのが目的だとしたら、愛や幸福を守るために怒りの感情を使うことは、即ち自分自身が闇の力を使うことを意味します。
実は、怒りの力を使わずとも反撃や防御をすることは可能です。攻撃は怒りがあるから行うことができる、と思うのは錯覚であり、淡々と戦略と戦術を行使すれば冷静に撃退することは可能です。

武道経験のある方の話だと、よく「感情的になれば弱くなる」と言われます。
確かに、頭に血が上っている状態では、相手の次の手を冷静に予測することはできません。
そのピンチで相手を読む余裕があるからこそ、勝負に勝つことができます。
この一連の過程において、「怒り」はむしろ足を引っ張ります。

今、世では炎上が盛んです。
人々は正義感や義憤に駆られて行動を起こしているようですが、そこで「怒り」の力を使ってはいないでしょうか。

某官庁のデモは、善悪は別として注意すべきだと思います。
SNSの炎上でもそうですが、怒りによる行動は「感情を発散させてガス抜きをする」目的で使われることがあるからです。
「行動を起こしたからには、何とかなるだろう」という安堵感は、実際に効力がなくても発生しうる感情です。

もし、デモを仕組んだ人間が、それを見越して計画しているとしたらどうでしょうか?
本来向かうべき批判と、対抗に向かうエネルギーを全く違う方向に逸らされていたら?
正義感や義憤は、上手いこと相殺し沈静化されてしまうわけです。
そうなれば、「愛国」は単なるポルノになって終わります。

日本人に思い出して欲しいのですが、日本がかつて太平洋戦争に突入した際、マスコミはどういう煽動で国民を巻き込んだでしょうか?
今回はマスコミではなく、さらに裏にある枠組みが仕掛けているとしたら?
日本人には、改めて冷静に考えていただきたいです。

日本は誰もがわかる通り、あり得ないほど貧しい国になってしまいました。
けれど、たった30年前は世界一の大国だったわけです。世界をリードする技術、治安、社会制度、文化の豊かさ。
それは失われて久しいですが、今の日本はリードしていた分野が悉く劣化していったからこそ没落していきました。
これは、実に不自然なことです。

日本の良いところが、優先的に劣化していったように見えないでしょうか?

産業やサービスの分野だけではなく、日本人の伝統を重んじる気風、自然環境と共存する知恵、品質を大事にする精神。義理、人情。そう言った、日本人に脈々と受け継がれてきたメンタリティです。

それらがダメになって、今その上に乗っかっているものを改めて見てみると、日本をダメにしたものの正体が見えてくるはずです。
そこで何か思うところがあるとしたら、その気づきは決して「陰謀論」ではなく、あなたの「慧眼」です。
その原因は具体的な組織の固有名詞より、もっと根源的な問題にあると気づくはずです。

もしそれがわかるとしたら、日本がこれから日本を取り戻す方法も具体的に見えてくるでしょう。
「良かったものを取り戻すために何をすれば良いか」だけを考えればいいだけだからです。
方法論は、具体的だからこそすぐに結果が出るものです。

もし、「日本を頭から強烈に押さえつけているもの」がわかったとしても、その解決に怒りや感情は不要です。
「ダメになったもの」の代わりにかつて日本人が選択したものを、合理的に払いのけて「良いもの」に戻していくプロセスを淡々と進めればいいだけだからです。

残すべき感情を強いて言うなら、「真心」や「優しさ」かもしれません。
古き良き日本人が自らの技術に込めた思い、サービスをする上で大事にした心得、それはマニュアルだけで真似できるものではなかったはずです。

逆に言えば、「今ダメになりつつあるやり方」の真逆をやり始めてもいいのかもしれません。
それこそが、ご先祖様たちがやってきた古き良きやり方になるでしょう。

だから新しいやり方を模索する上で、難しいことを考える必要はないと思います。
人間にとって、日本人にとって本質的なものを選べばすぐに答えは出るものだからです。
「温故知新」は、現代人にとって新しすぎるだけではなく、ご先祖様たちが私たちのために脈々と受け継ぎ、遺してくれた宝物と言えます。

その知恵を感謝して受け取れば、これから何が起きても穏やかな気持ちで暮らせるはずです。
そして、その知恵こそがこれからの日本を照らす光になるでしょう。


今、「土の時代」の構築物がようやく崩壊を始めました。
私から見れば、20世紀のうちに壊れておいた方が良かった仕組みばかりです。
これが壊れきるまでは数年かかるでしょうが、その次に壊れるのは「風の時代」仕様の古い構築物です。

今、風の時代の申し子となっているメディアも、後に時代の洗礼を受けるでしょう。
それらの構築物も、土の時代に作られたものなので本格的な風の時代には不向きです。
何ごとにも栄枯盛衰があります。ただ、時代にとって不要になったものは悪ではなく、役目を終えたから交代していくだけです。

そこに感謝をしながら私たちは学び、技術や知恵を後世に繋げていくのでしょう。
かつてのご先祖様たちのように、私たちは偉業を残さなければなりません。

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「カムナオビ神」デザイン

楽太郎です。

先日、「イブキド主」様のデザインを描かせていただきました。
その時、「祓戸大神」のベタベタな漫画設定が構築されつつある中、「イブキド主様の本気バージョン」みたいな感じで「神直日神」様の厨二病っぽい設定が生まれてしまいました。

実際そうなのかとか、学術考証ではどうなのとか、それはさておき。まずそんなはずはないので(笑)
趣味の一環として、「カムナオビ神」をデザインしたらどうなるのかを描いてみました。



何という、「ザ・厨二」的ビジュアル。
言っちゃ悪いですが、一昔前に流行っていたら夏の有明で盛り上がりそうな感じになりました。

仮面をつけさせていただいたのは、「セーラームーン」の「タキシード仮面」のイメージが頭をよぎったからです。
謎めいた神様ですし、役割としてもスーパーヒーロー味があると思ったので、どうしても脚色したくなってしまいました。

こうして自由に神様のデザイン画を描いているように見えるかもしれませんが、実は「神様的にNGな部分」というのは、描いてる最中に不思議とあります。
突然PCが落ちたり、急に気分が悪くなったり、「それはイヤ」という気を感じたりもします。
実は、自分一人で描いているという感覚がないことの方が多いです。

今回、カムナオビ神様を描かせていただくにあたり、なぜか仮面をつけるのはOKなのですが、仮面のデザインに注文が集中しました。
一番リテイクが入ったのは、「鹿の角」の部分です。
角度とか太さとか、かなりこだわっておられました。…というか、私自身その部分に執着しすぎて、なかなか完成に至れませんでした。

神直日神様は、どうやら中途半端なデザインがお嫌いらしく、「これどこから見てるの?」みたいな不思議なデザインの仮面に落ち着きました。
まあ、神様ですので目で見ておられるとは限りませんから…(震え声)

ただ、仕上がったら何となくご満足いただけた感じがします。
…神様のセンスは正直よくわかりません。

神直日神と同時にお生まれになった直毘神のもう一柱、「大直日神」様ですが、息吹戸主命と同一視されているのは神直日神とされていますので、今回考慮には入れませんでした。

こうして名のある神様を漫画的キャラにデザインしていく作業は、趣味の一環になりつつあるのですが、この調子だと日本神界の神々を全員お描きすることになるのでは?と戦々恐々としています。

以前上げた「瀬織津姫と白龍」と「玉依姫命」のイラストも制作中ですし、それなのにラフ画ばかり溜まっていきます。
これは一体どうしたものか…。

やはり、神様には影分身の術か「精神と時の部屋」みたいな神通力を授けていただく必要がありそうです。

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「邪」を赦す

楽太郎です。

ここ数週間、露骨に邪気が高まっている実感があります。
それは人を観察していて肉眼でわかるレベルです。
子供たち若者たちは、非常にストレスが掛かっているらしく、奇声を発したり大声で動き回ることが増えたように思います。
大人たちも感情が内に篭り、挨拶しても無視したり笑顔を向けると露骨に嫌な顔をするようになりました。

私がそうされると一瞬腹は立つのですが、これは致し方ないというか、そういう時期なのだと思うようにしています。
今は時代が切り替わる時であり、言ってみれば文明の崩壊期です。これまでのやり方が通じなくなっていくのは神々の工作であり、摂理です。

その仕組みは、目に見えない存在を信じ、神様と繋がっている人なら自ずと感じうるものでしょう。
しかし目に見える世界が全てで、この世界は人間のものだと確信している人たちは、おそらく今生ではこの事実に辿り着けないかもしれません。

私は連日、就寝中にサイキックアタックが集中しているようです。
集合意識に潜る夢を見た翌日は、一日中気の乱れが整わないことが多いです。その場合の夢は、街や店や観光地を巡り、不特定多数の人物とすれ違う夢がほとんどです。

昨夜は、修学旅行で布団に潜ると、顔を真っ赤にして睨んでいる同級生が向かいにいて、彼はどうやら私に嫉妬して怒っているようでした。
私は夢の中にも関わらず、「彼は私が羨ましくて、逆恨みしているのだ」と認識し、彼を嘲笑う夢を見ました。
残酷なようですが、脚色しなければそういう内容になってしまいました。

私は自意識が少し飛んでいるところがあるので、劣等感は感じても自分がどの程度優れているか、自分でジャッジする感覚がありません。
だから、これまで理不尽に意地悪をされることがあっても、その理由が「嫉妬」であり、なぜ彼らが私に嫉妬する必要があるのか、それを理解するのに長い時間が掛かりました。

小学生の頃、やたらと粘着して意地悪をしてくる同級生がいました。
虐められる私へ助けに入った先生が「何でこの子を虐めるの」とその子に問うと、「絵が上手くて羨ましかった」と言っていました。

私は長年、その子の気持ちがわかりませんでした。
絵が上手いのは絵が好きだから描いてきただけで、特に努力したわけでも生まれつきの能力でもありません。
彼も私と同じことをしたら絵が上手くなるし、嫉妬するくらいなら絵を描けばいいじゃないか、とずっと思っていました。

今でもそう思いますが、その正論を受け入れられない性質の人がこの世にはいるのだ、と気づくのに時間が掛かりました。
人を羨むのなら、羨む人と同じことをしたり学べば良いのに、結果や現象だけをサラッと手に入れたい人がどうやらいるらしいのです。

現代社会は、「努力」を嫌うようになって久しいです。

努力や勉強が必要不可欠な世の中だからこそ、努力や勉強をアピールするのがダサい、という風潮が生まれました。
だから、出来る限り努力や勉強をしないように結果を出すことがクールだと思われ、クールにやるためのハックが持て囃されるようになりました。

生成AIなんかは、そのプロセスを可能な限りすっ飛ばして成果だけを抽出しようという目論みそのものですが、まあそれは置いておきます。

先人が広げた王道やヒエラルキーは攻略法がすでに確立され、数パターンの成功法則があるだけです。
その構造が揺らがない限り、最短ルートを通らない人は全員愚かであるような構図を作り出してしまいました。

それは、「これまでの時代」が永遠に続くとしたら、普遍的な真理になったでしょう。
しかし、残念ながらそうはなりません。権威や権力構造そのものが崩壊する時にあって、ピラミッドそのものが崩れたら、そこに据え付けられたエスカレーターは何の役にも立ちません。

全ての物事の意味や目的が揺らぎ、誰もがどうしたら良いのかわからず狼狽える時、自分のするべきことを自分で考えられなければ、ずっと飛び交う他者を見つめ続けていくしかありません。

そこで、自分の目標ややるべきことを見つけ、やりがいを感じて道を進む人は、確かに彼らからすると羨ましいかもしれません。
しかし、それならば彼ら自身も本当にやりたいことや、努力が惜しくないような何かを、これまでの人生の中で見つければ良かっただけです。

それは、残念ながら嫉妬すべき理由にはなりません。
厳しいことを言うようですが、冬を前にしてせっせと冬籠りに備えたアリを笑うキリギリスそのものだからです。

目標を持ち、信念で行動する人々を羨む気持ちは、私にはよくわかります。
私も自分探しのために、何も手につかずフラフラしていた時期も長かったからです。

私の目線からすれば、「自分が努力するに値する物事」を見つけられませんでした。
自分が人生を賭けて本気で挑めるような何かを探し出すのに、途方もない自分探しをしていかなければなりませんでした。
自分の好きなことをして評価されている人が何となく憎らしくて、その気持ちが理不尽なものだと自分では気づきながら、問題の原因は外の世界にあるのだ、と念じ続けていました。

ただ、自分が何をやりたいか、やるべきかは自分の心の深いところに問いかける以外にはなくて、そのプロセスを避けて自分の目的など見出しようがないのです。

それは頭が悪いとか、性格が悪いとか、運がないとかそういうことではなく、自分の本心に辿り着くやり方が分からず、自分自身を知らないというだけです。
だから、「自分を真っ直ぐ見つめれば良い」それだけなのです。
けれどもなぜか言い訳をして、それだけを先延ばしにしてグルグル回っているだけの人がいます。

それがしたくてもできない、というのが当時の自分でした。だからこそ、えも言われぬ焦りは人並み以上だったかもしれません。
けれど、この堂々巡りの旅は、いつか終わらせなければいけない時が来ます。あるいは、強制的に終わらせられる時でしょうか。

実は、自分のやるべきことを始める時は、その時が来てからでも良いのです。
ただ見つからない焦りから、人に嫉妬したり攻撃をしようものなら、それは全く筋の違う話です。

私は、集合無意識にある憎悪には、この「嫉妬心」が多分にあると思っています。
自分以外の、目標があって輝いている人、夢を叶えて恵まれた人生を送っている人に対する嫉妬。
その嫉妬は、未分化の感情に混ざり合って憎悪となり、無差別に攻撃的な気となっています。

この負のエネルギー「邪気」によって、私の健康や意欲が害されているのは実感としてあります。
けれども、長い間「邪気」と戦ってきてここ最近思うのは、「邪気と戦う意志を持つほど消耗する」ということです。
彼らはいいタイミングでエネルギーを吸い取っていくんですが、私は吸いたい時には吸わせておこう、と思い、邪気にまとわりつかれたら放置します。

気のエネルギーは、吸わせないように力んだり原因となる対象を探すほど消耗し、その分回復が遅れます。
彼らはお腹いっぱいになったら離れていくので、出来るだけダメージを深くしないことに注意した方が立ち上がりが早くなります。

気に食わないのは正直なところですが、邪気がしたいのは妨害にしか過ぎません。
その妨害も、地震でマンションを潰したり家族を呪殺でもすれば成就するのでしょうが、たかだか私を体調不良にするくらいのものなので、大丈夫な時に行動すれば問題ありません。

それくらい、彼らを敵視すべき対象だと認識しない方が、自分の受けるダメージをコントロールできるのです。
そして、邪気の正体や性質を知れば知るほど、憐れで健気な感情であることに気づきます。

よく考えれば、私も道を間違えたら人に嫉妬して怒りをぶつけて回るような人間になっていた可能性は充分あります。
私は運良くそれを回避できただけで、生まれ持つ使命感に目覚めたからとか、そういう奇跡があったわけではありません。
だからこそ、どうしても上手く生きられない人々を蔑む気持ちにはなれません。

人生は、本当に学びのためにあるのだと思います。
しかし、人生は一度きりだからと、出来るだけ苦労なく快楽を数珠のように紡いで行こうと考えるから、その学びから遠ざかります。
学びから遠ざかると、愚かさに気付かぬまま今生を終え、死んでから気づいてもやり直しは効きません。

私はそのことを、たくさんの人々に気づいてもらいたいと思っています。
だからいつもこんな長文を書いてますし、何にもならなくても形にしていきたいのです。
けれど、今の世では私の声はかき消されてしまい、聞いて欲しい人の耳にこそ届きません。

もっと多くの人が「良く生きる」方法に気づくためには、私の声が通るような時代がどうしても必要なのです。
だから、私は新しい時代を作っていきたいのです。

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「イブキド主」デザイン

楽太郎です。

先日、「セオリツ姫」様の新衣装のイラストを上げました。
その時に祓戸三女神にお並びいただきましたが、本来「祓戸大神」は四柱であります。

「息吹戸主様は近日中にお描きします」と言いましたが、インスピレーションが抑えられなかったので、合間を見て描かせていただきました。



…なんでゆるキャラっぽくなったかについてですが、ちょっと言い訳をさせて下さい。
別に、男性キャラをきちんと描きたくなかったわけではありません。

祓戸三女神が揃われた時に、この三柱の神様がお茶を飲みながら団欒なされる光景しか思い浮かびませんでした。

お茶を飲みながらお煎餅を食べて談笑する女神様たち。
そのお茶を居間に運ぶのは、イケメンとかいかつい男性神ではどうも絵になりません。
…この絵面で調和を図れるのは、ゆるキャラしかいませんでした。

この漫画的発想にも、息吹戸主様は今のところお怒りではないようなので、たぶんセーフなのだろうと思います。

祓戸大神四柱が揃われましたので、早速お並びいただきました。



息吹戸主様を描かせて頂くにあたり、神様のことを少し調べました。

息吹戸主様は、神直日神様と同一であると言われているそうです。
神直日神は、禍事を「直す」働きのある祓いの神とされています。
神直日神は、伊弉諾命が黄泉の国から戻ってきて禊をした際、禍津日神と共に生まれた直毘神の一柱であるとされ、「禍事」を担当されるのが禍津日神であるそうです。

禍津日神は、本居宣長によると瀬織津姫命であると言われています。
尚、神直日神と同時に神産みによって誕生した女神がおり、それは「伊豆能売命」です。

私は、今この「伊豆能売命」様が瀬織津姫命と深い関係があるのではないか、と思って調べています。
この一連の流れで出た神様は、全て「禍事」と「祓い」に関する神々です。
やはり、天照大御神の「岩戸隠れ」に起こる「禍」や伊弉諾命による潔斎と祓戸大神は何らかの関わりがあり、その謎が解けたら瀬織津姫様の正体に辿り着けるかもしれません。

※追記

息吹戸主様が神直日神であるという説を取ると、「風の神様」というのは仮の姿で、普段は精霊のようにフワフワ暮らしながら、神様のお役目を果たす時には本来のイケメン神に戻られる…というザ・漫画的展開を考えました。

だとしたら、禍津日神モードのセオリツ姫は、闇堕ちキャラで暴れ出す…とか。
うーん、漫画的展開すぎる…

神様が「私たちをネタにして漫画を描きなさい」と仰っているようにしか思えないくらい、ベタベタの漫画設定になってきているような…

ちなみに、以前一枚絵で仕上げた瀬織津姫様がオッドアイなのは、「禍津日モード」の設定を考えていたからです。

仮にこれが神様からの圧だとしても、現段階でやることが多すぎます。
影分身の術を神様に授けて頂いて、私が三人に分裂でもしないとやりきれないです…。

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Runaway

楽太郎です。

昨夜、妙な現象に出会しました。
就寝して間もなくの23時頃、ふと目が覚めました。
すると、男性の激しい怒号が聞こえました。マンションに住んでいるので、上の階なのは薄っすらわかりました。

怒号というより、絶叫に近いというか、「嫌だ!嫌だ!うわあああ」と尋常ならざる怒声が聞こえました。
私はしばらく、これが本当に人間の声なのか疑っていたのですが、肉耳から聞こえるのでどうやら現実らしいと思いました。

別にこれはこれでいいのですが、なぜこの微かな叫びが目覚めた瞬間に聞こえたのか、その意味を考えました。
神様が危険を知らせようとして起こしたのか、無意識に自分が危険を察知して目覚めたのか、そのどちらかだと思いました。

たぶん、あの邪気の高まりようからすると、後者だと思います。
寝ている間にあの邪気を浴びるとまずいと、無意識に思ったのかもしれません。確かに、あのまま救急か警察か消防が来るのだろうな、とも思ったくらいだからです。
寝ていてもわかるくらい邪気を放つ人間が、身の回りの環境にいるようになったのだな、と思いました。

昨日は、元気でしたしやる気もあったのですが、祓戸三神の投稿をしたあたりから体が急に冷え始め、このまま低体温で死ぬんじゃないか、と思うほどエネルギーを吸い取られてしまいました。
その時からずっと邪気にまとわりつかれて、午後はほぼ何もできませんでした。
久しぶりに悪霊級の邪気に襲われた感覚でした。

まあ、昨日はセオリツ姫のデザイン画の投稿より前に際どい記事を上げたので、それが集合無意識には気に食わなかったのかもしれません。

冷静に考えると、マンション住まいなので八方20メートル以内には他人がどこかしこにいるわけで、部屋がいくら結界になっていようが空間的には近い距離にあります。
ですので、普段暮らしや睡眠中に邪気が飛んでくるのも不思議ではないかもしれません。
もっと空間的な結界を強化しないといけないんだろうな、と思います。

これほど強い邪気を放つようになった普通の人々が身の回りに出てくると、いよいよ人の世も終わりだと感じます。
最近はそれを実感すると共に、これまでの記憶が蘇り、過去の自分と向き合うことが多くなりました。

正直言って、人世にはロクな思い出がありません。
良いことも中にはありましたが、全体的な結末を考えるとやはり良い出来事ではありませんでした。
どうやっても人並みになることができない、それゆえ浮き沈みの激しい評価を受け、どれだけ努力しても全くと言っていいほど通用しませんでした。

今思えば、その一つひとつが学びのための伏線であり、その苦い経験をバネにしたからこそ、今までやってこれました。
けれども、なぜこれほど自分は不器用で、これだけうまくいかないことばかりだったのか、そのことにやたら感情的になってしまう自分がいます。

確かに人世ではうまくいきませんでしたが、かと言って前の時代でやり残したことは神代でやれば良いのです。
別に私は歳を取ったこと以外に特に失ったものはありませんし、逆に新たな才能や能力が成長し続けています。

「今の自分だからできる」ことは多分にあります。
今だからわかること、出来ることの尺度で過去を見るからこそ、後悔が芽生えてくるのです。
あの頃の状況と、今の状況は違います。どんな発明でも、完成図が予めわかっていれば試行錯誤する必要はありません。
その苦労は失敗ではなく、成功へのプロセスだからこそ今、手元に完成図があるのです。

確かに苦労や失敗はないに越したことはないのですが、完成を成し遂げた自分をまず褒めてみることなのでしょう。

GLAYに「Runaway Runaway」という曲があります。
歌手を夢見る女性に恋をした人の歌ですが、日の目を浴びない女性に共感しながら「何一つ良いことなかったな」と優しい声をかけ、彼女の幸せを祈るという曲です。
「Runaway」という言葉、「何一つ良いことなかったな」という気持ち、人世に対する今の私の心情をうまく表現している気がします。

このモヤモヤした感情の雲を抜けた時、青い空が一面に広がる光景を目にするのかもしれません。
それはもっと自由で、明るい世界でしょう。
もしその世界を思うように飛び回れるのだとしたら、人世でできなかったことも出来るようになるかもしれません。
無くしたものは取り戻せなくても、より良いものを自分の手で作り出せるはずです。
そのことに、もっと本気になっていいのだと思います。 

人の世には、最後まで片思いでした。
だから「Runaway」するだけです。
俺はもういいから、お前は好きにしろと。

人の世は、これからさらに悲惨なことになっていくでしょう。
しかし、その光景を目の当たりにして、いちいち同情したり助け船を出していたら身が持たないでしょう。
神様は、去年のうちにそれを私に教えて下さいました。

誰かを助けようとせず、良くない人間をどうにかしようとせず、まず自分がこれからどうしていくのかだけを考えなさい、と。
邪な気を起こした人間は自ずと沈んでいくから、無理に変えようとしなくてもいい。
そういうのは、人の世界に残った人たちの仕事だから、と。


最近、「邪気」とは何かを考えます。
神々が行う禍事罪穢れの祓いは、この邪気の浄化を指すのだと思います。

邪気とは、人間が生きる上で自然に堆積していく性質のものだと思います。

人間は、植物を刈り取り動物を殺して肉を食べ、栄養を貰い不用な成分を排出し、命を繋ぎます。
それは地球や神々から、命の恵みを分け与えられていることを意味します。
それ自体が、罪であり穢れとなって人間の業となってくるのです。

そのことに無自覚になり、地球や神々への感謝を忘れ、動物や他の生命への懺悔を忘れたら、邪気はますます蓄積するはずです。
ここでの祓い清めとは、愛や感謝や懺悔によって人間の手で行われていくものです。
このプロセスが疎かになれば、世は邪気で満ちて行くことでしょう。

神々の世界でも、人間の世界でも、この「邪気」は決して世の悪ではなく、この世から消し去るべきものではないはずです。
少なくとも人間が生きる上では、殺生をしたり気の枯れが生じることは摂理の一部です。

だからこそ自分たちの力だけでなく、人間を作った神々の手助けも必要であり、そのお力をお借りすることによって人の禍事罪穢れは祓い清められ、幸福で豊かな生に導かれるのでしょう。

人間を作りし神々なら、人間界から邪気を完全に取り払うことも可能なはずです。
それを神々があえてしてこなかったのは、「邪」という性質が必要悪というか、存在に不可欠な要素だからとしか思えません。

仏様の世界における「天部」には、元は悪鬼だったとされる仏様がおられます。
「邪」も神々の性質の一部であり、悪魔も神の眷属であるとするなら、人の世界の邪念も悪業も、本来人にあるべき性質なのではないでしょうか。

だからこそ、魔や邪という存在は完全に消し去る対象のものではなくて、うまく付き合ったりかわしていく類のものかもしれません。
だから、禍事罪穢れで酷い目に遭う人がいたとしても、それ自体は大きな学びの過程であり、その災難に何らかの意味があることを学ぶべきなのでしょう。

そう思えば、どんな災難も困難な出来事も災厄も、フラットな目で見ることができるようにならないでしょうか。
全ては人の目から見て「偶然」や「陰謀」に思えたとしても、神々の視点では「必然」以外のものはないのかもしれません。

良くないことが起きて欲しくないのは本心だとしても、起きたら起きたで起きた理由を考えると、案外腑に落ちる答えは、すぐに見つかるのではないでしょうか。

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「セオリツ姫」デザイン

楽太郎です。

先日、「祓戸二神」のラフデザインを投稿しました。
その時、以前描いた瀬織津姫様のデザインも少し変えたいなと思っていました。

そこで息抜きがてら、瀬織津姫様の「祓戸大神バージョン」のデザインを描いてみました。




神様に「可愛いかわいい」言いながら描くのはどうなんだろうと思うのですが、まあ、女性はおいくつになられても褒められるのは嬉しいでしょうし…

せっかくなので、祓戸三女神にお並び頂きました。



ご利益ありそうな並びになりました。

祓戸大神は罪穢れをお祓いする神様ですが、煩悩を祓っては下さらないのでしょうか…?

祓戸大神には、あと一柱おられます。
「息吹戸主」様です。

これでも良いような気がする…んですが、さすがに神様をハブるのはバチが当たりそうなので、近日中に息吹戸主様を描かせて頂きます。

私は美少女を描くのは完全に趣味の範疇なのですが、男性キャラは仕事でなければほとんど描きません。
男性キャラを描く時は義務感です。

…そんなことを言ってると、さらにバチが当たりそうな気が……

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「思想」とは何か

楽太郎です。

2025年のエネルギーの流れが落ち着いてきて、だいぶ先が読めるようになってきました。
そこで得た実感は、「人世は本当に終わる」ということです。

これまで半信半疑でしたが、炙り出される問題の規模を見て、小手先三寸で世の中がガラッと良くなると思う人もいないのではないでしょうか。
現実面だけでなく、次第に「世界の法則」そのものが変わってきたようにも思います。

人々の「念」がこれまで以上に現象化しやすくなっているように感じます。
生霊も飛びやすくなっていますし、引き寄せの確率や強度も高まってきているように見えます。
邪気も肉眼で見えやすくなってきていますし、自分の発した呪いがすぐに巡って返ってくるはずです。

世の暴露を見てもわかるように、容易に嘘が見破られるようになってきました。
これは人々にサイキック能力がついたというより、法則的に嘘が炙り出される仕組みになってきたからではないでしょうか。

嘘も詐欺も通用しなくなるとしたら、人間の思考の大部分が通用しなくなるということです。
そのルールの上では、魂のエネルギーが中心となる力場が形成されていくのかもしれません。

やはり、この世界は高い次元に移行しているのは間違いないようです。
これまでの世界で通用したやり方が、徐々に通用しなくなってきているのでしょう。
「神代」とは、神様が地球の支配権を取り戻した世界です。そこでは、人間の頭で考えてやるようなことは、神様からのお咎め一つで実現しません。

神様が人間の自己実現の決定権を握るということは、人類にとってはとてつもない大変革です。
スピリチュアルに親しい人ならもう常識ですが、これからほぼ全人類が新しいやり方と直面することになるでしょう。

それによって破滅する人もたくさんいるはずです。
けれども、破滅を選択したのは自分であり、破滅から抜け出す道を探そうとするのも自分の意志です。
それ自体に同情する必要もありません。世界と人類を作った神々がそうするように決めただけで、それ以上の意味を人間には伺い知ることができないからです。
人間が出来るのは、あくまで環境に適応して生きていくことだけです。


思い返せば、人世とは「唯物論的世界」でした。
唯物主義とは、物質と科学の世界です。神や精霊や魂は存在せず、そういった迷信を科学で解き明かし、文明の一部に帰属させていく考え方です。

その文明では、万物の価値の軸になるのが「お金」です。お金の価値が生じないものは、存在価値のないものです。
人間が幸福になるためには、生まれ持った資質だけでなく、「お金」があれば無限に着飾ったり、人を意のままに操ったり、自分の肉体そのものも限界まで改造することができたわけです。

お金があれば老後の心配もなく、ほどほどに遊んで暮らせられるからこそ、安心と平和の象徴でした。
人々はその安心感を「幸福」と呼んでいました。
しかし、やりたくないことや労働と引き換えに、お金という対価を得てきたわけです。

拝金主義という唯物史観が、これまで数百年間の人世を形成してきたと言っても過言ではありません。
富に対する限りない執着は、戦争を金儲けの道具に使い、金儲けのために大衆の心を支配し、金儲けのために弱者を餌食にしたり煽動することが平気で行われてきました。

現代で言えば、それは「共産主義」という唯物史観によって広く流布しています。
しかし拝金主義における支配欲の発露は、マルクス主義にだけ影響しているわけではありません。

その影響が悪い形で出ているのは、むしろ資本主義経済の方です。
資本主義経済の民主国家ですら、一部のオリガルヒに政治的主導権を握られ、彼らが秘密裏に搾取する完璧な構造が構築され続けています。
人々は彼らをDSと呼びますが、その本質にあるのは選民思想であり、自分たちを神の座に置く唯物論です。

それが全ての構造的問題を引き起こしているのに、人々は同族嫌悪で同じ穴のムジナを叩いて回るだけです。

今、本当に人々がしなければならないのは、必ずしも官庁へのデモであったり、アメリカの大統領に願いを託すことでもないはずです。
自分には何もできないとしても、まず何が本当に問題なのかについて、自分だけでも気づくことです。
人々の気づきは次第に広がり、後に自然な形でムーブメントとなり、自ずと世の中を変えていくでしょう。

現代の経済システムの終わりは、拝金主義の終わりを意味しています。
お金以外に生きる目的を見い出す時、人は何をするべきか何を大事にするべきか、その考えを再構築するタイミングに差し掛かっています。

今、全ての問題の責任を外部に求め、自前の正義で他人を批判して回るべき時ではありません。
真の問題は何か、その問題のために何をすべきか、一人一人が自分の内面と向き合い、出来ることを探す時なのです。

思想とは、他人を批判するための武器ではありません。
思想を理論武装の道具に使い、自己を正当化して他者を平伏す目的で使うべきではないのは、右でも左でも同じことです。
世の中を正しい方向に導きたいのであれば、自身の発言力を求めるだけではなく、自分自身が実践し行動することが大切です。

思想とは、あくまで生き方に活かして実践するべきものです。

実践するからこそ働きかけ、人々に影響を与えることが出来るのだと思います。
それは他人に行動を強要したり、価値観を人に押し付けることを意味しません。
この部分を履き違えてきたからこそ、人々は思想を嫌い、主張する人間を忌み嫌う風潮が出来上がったのではないでしょうか。

言ってみれば、思想とは語るべきものではないのかもしれません。
議論は確かに大切ですが、自分が活用する上では他者を論破する必要はないからです。
自分が正しいと思うことを、自分が正しく実践すれば良いだけで、他者が介在する余地はあまりありません。

私のこの意見すら、何の価値も評価もなくても構わないのです。
それが正しかろうと正しくなかろうと、自分が思う正論ほど人には好かれないものです。
その場合、正論は必ずしも感情的ではないからです。感情的ではない意見は、人に共感されにくいという性質があります。

正論は人に押し付けるものではなく、自分の信念として言動の柱にしていくためにあると思います。
要は、自分の道標にすれば良いだけで、集団目標にするからおかしなことになるのです。

これは、言論を生業としている人ほど受け入れ難いものでしょう。
しかし、正しさを目に見える力に変換した時点で、その思想は理論武装になっているのです。
脇差は常に振り回すものではなく、武士の誇りとしてあえて抜かないでおくべきものです。
安易に力を誇示しない美徳こそ、思想の奥深さの一つの表現であるように思います。

これから、人の時代は混乱期を経て、猛烈な反省期に入っていくことでしょう。
その時、思想や信仰の偉大さが再発見されるはずです。
それまで、正論は忌み嫌われ続けるでしょうが、それが思想のあるべき姿です。

誰にも知られず、理解されず、ただ黙々と行動に移される、それこそが信念というものだからです。

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次の時代に行きたくて

楽太郎です。

ニュースを見なくなって久しいです。
ただ、YouTubeのタイムラインを更新すると時事系チャンネルのサムネが現れ、そのタイトルを読んで初めて「世の中はこんなことが起きてるんだな」と思います。

それよりも気になるのは、息をするように生成AIを使う人が多いことです。
使っている本人は「合法だし悪くない」と言うでしょう。
視聴層も何の問題もなく、むしろ新しいコンテンツだと思っているかもしれません。

ただ生成AIは、営利団体が著作権者にほぼ無断で収集したデータを合成して出力したものにすぎず、加工プロセスが治外法権だからこそ成立しているサービスです。
許諾データを使用した生成AIは、クオリティ的にほぼ使い物になりません。
無許諾のデータは、生成AIに吸わせるためにクリエイターが長年を費やし、汗水垂らして制作してきたものではないのです。
そのことまで認識し、生成AIを使う人はどれほどいるのでしょうか。

こうして、人々がどんどん無責任になり、無責任でありながらきっちり利益と権利だけは確保したい、という思惑で動いていきます。
自分の背後にある構造には気づくことなく、自らの正義が秩序を破壊していることにも無自覚です。

今起きているあらゆる問題の根幹にあるのは、過剰な自己愛と自己顕示欲です。
私は人間のそういう部分を見たくなくて、人の作るコンテンツから離れていきました。
こういった人間の性は、粗を探したくて見るわけではなく、瞬間的に情報として入ってきてしまうので、出会ったが運の尽きみたいな感じです。

あまりイラつきたくないのは正直な気持ちですし、正義感を駆り立るのは良くないと私も自覚しています。
けれども、人間の浅はかさが見えてしまうと、何となくガッカリした気持ちになってしまいます。

この状況を神様がどう思うのか、それは考えなくてもわかります。
「計画通り」です。

今の世が良ければ、風の時代になったと言えど自然に移行すれば良いだけですし、これまでの社会を壊す必要がありません。
しかし、このままで次の時代に移行できないからこそ、古いものを壊す必要があります。
壊れるからには、「使えない状態」になっていかなくてはなりません。

つまり、「ダメ」になるから不要になり、物事は終わっていきます。

昔の良かった頃と比べて、「ダメになった」ことを嘆いてしまうのですが、むしろダメになることに意味があるのだと思います。
そこら辺を割り切れないのは、まだ感情的に人の世に未練があるのかもしれません。

「ダメになっていく物事」の区別がつかないのは、実は「ダメな人たち」だけです。
わかる人が自ずと遠ざかることができるのは、「ダメさ」が見てわかりやすいからです。
私からしてみれば、明解な二択だと思います。

これだけ私が神代とは何か、どうすれば実現するのか、そのために何をすれば良いのか、次の時代のことばかりを考えるのは、私が一刻も早くこの世界から移行したいからです。
今の世界が嫌すぎて、新しい時代に行きたすぎて、神代を作りたすぎるのです。
神様も、その空回りを見て苦笑してらっしゃることでしょう。

世に対する批判は、それは探さずとも数限りなく湧いてきます。
けれども、悪くなるには悪くなる理由があるのですから、いちいち目くじらを立てるのは割りに合いません。

昔の日本と日本人を知っているからこそ、「こんなはずじゃなかった」と思います。
けれど、あの時代からすでに芽は出ていたのです。
歴史を否定することはできませんし、今の状況を否定してもどうにもなりません。

だからこそ、今の「終わり」は心が乱され、苦いものかもしれませんが、この一連の現象自体がいずれ「学び」になるのだろうと思います。
コップだって割れた瞬間はショックですが、ひび割れた状態でずっと使っていたなら、いずれ割れるのは時間の問題だったでしょう。

「自分たちの使い方が悪かったから壊れたのだ」と、日本人が国家に対して反省する時がいつか来るのだと思います。

その時、「壊れたのはアイツのせいだ」と思っているうちは、学びがありません。
むしろ「壊れてくれたから今があるのだ」と言える世の中にしていかなければなりませんし、そういう世の中になれば、壊れたことに感謝できる日も来るでしょう。

私たちが良い世の中を作るためには、ネガティブな事柄をネガティブに上書きするのではなく、問題の本質をしっかり見つめ、ポジティブなものに絶えず変換していく努力が必要です。
そして、過ぎた事柄は役割を終えたことを認め、感謝と共に教訓として終わらせなければなりません。

ただ、現代人がそう考えられるまで、数十年はかかるかもしれません。
しかし世をそうすることが可能なら、頑張れば数年で実現できる可能性もあるはずです。
もしその時間が早まるなら、人々の苦しむ時間も短縮することができます。
それは、新しい時代を作る私たちの腕にかかっています。

人々の言動を見て、イラつくこともあります。
逆に考えると、人の腐った心は時代が良くなるほど、悔い改めの強度は高まるということです。
そこでも救われる人、救われない人はいるでしょうが、まず神様のおられる世界で悪人が堂々と息が吸えること自体がおかしいのです。
痛い目を見る人は、痛い目を見るべきことをしたからです。その因果が捻じ曲がる世界であってはいけません。

私は、次の時代への期待が大きすぎて、焦っているかもしれません。
神様も、そのもどかしさは重々承知でしょう。
かと言って私ができるのは、神様の求めに応じて役割を果たし、日々を大切に過ごすこと以外にありません。

この世界が良くなるためには、どんなカタストロフが起きても神様を信じ、希望を繋ぐ気持ちが大切なのだと思います。
それも、私は待ち望むことしかできません。

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神代のビジネスⅢ

楽太郎です。

最近、ようやくエネルギーが乗ってきて、やることに力が入るようになってきました。
特に神様について調べたり考えている時間は、かなり気持ちも乗っています。

その反面、仕事周りのことに関しての意欲は持ちづらいです。

これまで、社会で評価を得たり、お金を稼ぐこと自体に仕事のモチベーションがありました。
しかし、これだけ世の仕組みが明らかとなり、混乱し騒然とする中では、社会に対して目的を見出しようがありません。

これまでのやり方では収入を得ること自体、環境的に難しくなり、かと言って無理にやり方を変えたとしても、産業基盤自体が崩れていく可能性もあります。
これでは八方塞がりで、どう収入を得たらいいかわかりません。

これを神様はどう思っておられるのか、私は考えることがあります。

人々が経済的利益を中心に作り上げた社会は、人からお金を貰うことに対して目的を持ち、半ば自己犠牲的に奉仕することで対価を得てきました。
やりたくない仕事でも、社会や企業の要求であればそれを卒なくこなすのが一人前であり、資産をうまく使ってステータスを上げてこそ成功であると言われてきました。

ただ、そうした自己犠牲は、他者に犠牲を強いる環境を作り出してしまいました。
皆が大して望まないやり方でお金を稼ぐのが当たり前になると、人々の欲求は次第に刹那的になり、経済が悪化するにつれて心は乾いていきました。

現代は自己犠牲の対価として労働があり、労働とは自分のエネルギーや時間を消費することを意味します。
そして、いくら働いても働いても豊かになれない社会は、長い時間をかけて老若男女問わず、人々の気力を吸い尽くしていきました。

その経済というピラミッドの最上部には、人々を支配したい層がべったり張り付いており、搾取を続けることでパワーを増してきました。
それをなるべく人々に気づかせないよう様々な仕組みを作り、うまく操ってきたわけです。
けれども、人々のお金への信仰心や資本主義の枠組みそのものが弱体化してくると、呪いが解けてカラクリに気づく人々も増えてきました。

今、資本を中心とした世が崩壊し、新しい流れが生まれつつある中、古い経済や社会のあり方を続けている人々に古いアプローチをしても、先細るだけで積み上げることは難しいでしょう。
だからこそ、大衆的な感覚にアプローチするのではなく、もっと本質的というか、自己探究的なテーマを持って活動していくよう、神様は促しておられるように思います。

それに関して、私は何となく「自分のやることをわかってくれる人がいるだろう」と、未だ人々に対して正当な評価をしてくれることを期待し、それを目的とする意味がないような気がしています。

まず、自分が認められるためには、人に認められる行動をしなければなりません。

ただ多くの人は、これを「人に迎合することである」と考え、人々の顔色を伺いながら自分のやり方を考えます。
しかし、人に認められるというのは「自分の才能が人に理解される」ことを意味します。

才能が人に認められるには、確かに人にわかりやすい形で才能を示す必要があるでしょう。
ただし、「迎合する」のと「わかりやすくする」ことは全く違うプロセスであり、ここを履き違えてはいけません。

例えて言うと、歌舞伎を現代風のミュージカルにしたら、多くの人は直感的に理解しやすくなります。
反面、古典的な歌舞伎の良さは失われるでしょう。
歌舞伎を現代人にわかるような仕組みに変えることは、物事を根本的に変えることを意味しません。
それこそ、別にスクリーンで演出的に補完したり、事前にパンフレットなどで現代語訳を注釈したりすれば敷居は下がります。

あくまで、顧客のレベルに合わせることがマーケティングの全てではないということです。
だからこそ「やり方を変える」ことが目的の水準を下げることになってはいけないと思います。
目的を変えず、それでも人々が理解しやすくなる工夫をするのが、本来するべき努力なのではないでしょうか。

神様は、他人を軸にやるべきことを決めるのではなく自分軸で目的を持ち、それをどう具現化して他者を惹きつけていくか、いい意味で「自己中心的」であることを求めておられる気がしてなりません。

けれども、ここで「自己中心的」であることは、もはや既存のコンテンツが飽和した環境になる中で、目新しいだけでは全く見向きもされません。
私自身、その状況と戦い続けたからこそ今があるわけで、理想論では太刀打ちできないのも現実です。

だから今は、「目先の利益を取るか」「未来のための布石を打つか」の二択しかない状況だと思います。
今、後者を選んだとしても大した利益には繋がらないでしょう。逆に前者なら、明らかに先細るだけです。

どちらを選んでも苦境の中、自分軸を貫くことは並大抵の覚悟ではありません。
それゆえ、例え自分のことであってもモチベーションが上がらず、やるべきことを自分で決めたつもりが、いまいち覚悟が固まらない状況が続いていました。

けれども、「神様をもっと身近にする」という使命感が降りてきた時、「神様」という目に見えない顧客が私の心の中に立ち現れ、神様のために何かをすることに対して、並々ならぬモチベーションが湧き上がってきました。

人世では、移りゆく人々がどう繋がり、いつ離れるのかを予想できません。
経済の状況、市場の変化、人々の需要、そういった外的環境に左右されていたら自分軸など通しようがないでしょう。

けれども、「自分軸でやる」ことにはある種の普遍性があり、「神様を顧客にする」ことは浮世の人々に目的を見出すより、ある意味で堅実なのではないか、と私は思うようになりました。

「誰かの役に立つ」ことの自覚は、本質的にモチベーションになり得るものです。
実際、その対象は今生きている人間ではなくても、未来の人であったり神様であったり、自分自身であっても構わないはずです。


神は、外側に存在するとは限りません。
人々の魂は神の「ワケミタマ」であると言われます。
いわゆる「魂魄」という概念において、精神における霊は「人間の神霊」であるとされます。
この神霊が人間には誰しも宿っており、自我とは別の意志を持つ自意識によって、私たちは神々と繋がることができるのだと思います。

神に目的を見出す時、それは外面的世界におられる神々だけではなく、自分の内なる神の求めに応じるということでもあります。
それが「魂の表現」であり、それこそが「真の自分軸」であるとも言えます。

人のためにやるのではなく、神のためにやることは結果的に自分自身のためにもなるのだと思います。
自分の内なる神と外の神々の意識の違いは、普通の人間には見分けることすら難しいはずです。

私たちが他人と比較したり、社会的評価に揺れることがあるのは当然です。
しかしその時代はもうじき崩れ去るでしょう。そうなる前に、些か時期尚早であろうと、人に目的を見出すのではなく自分の目的を選択していくべきかもしれません。

神が喜ぶことをする、それは自分自身の深い部分の喜びを追求することに等しく、自分が喜ぶことは他人が喜ぶことになっていく。
その本質的な「歓喜の共有」こそが、本来のビジネスの形だったのかもしれません。

これを今の社会でやるのは勇気のいることですし、とてもリスクのある挑戦です。
ただ冷静に考えて、誰もが先細る世にあって破滅が早いか遅いかの違いではないのでしょうか。
どうせ破滅するなら、早い段階でどん底を味わっておいた方が早く先に進めます。

いずれ誰しもが道標を失い、自分で道を探すようになる時、その地図自体も人のアドバイスも当てにならないとしたら、道開きの方法を編み出すことで誰かが救われるのかもしれません。
この数年で私が経験した泥沼の状況は、いずれ誰かを救う道なのかもしれません。


今朝、不思議な夢を見ました。

仲間らしき人々と廃墟を探索していたら、当たり前のようにゾンビが徘徊を始めて、避難場所を探そうとしました。
そこに年寄りなのか子供なのかわからない男性が話かけてきて、ポスターにあるお寺を指差して「ここに来たら皆助かる」と話をします。

私はなぜか、まずそのお寺を調べようと思い、ポスターのQRコードをスマホで読み取ろうとしました。
しかしその瞬間、スマホが縦に割れて壊れました。
カメラが使えないばかりか、私はゾンビのことは忘れてスマホを買い替えることに頭を悩ませました。
特にオチはないですが、そんな夢です。

これは私の勝手な解釈なのですが、今の世界から救われるには神仏の元に集まるしかない。
それを探すのに、スマホは必要ない。
スマホとは外の世界や人々と繋がるためのツールだが、それが壊れたら確かに不安かもしれない。
ただ安住の地は自分の頭で考え、探し求めてたどり着くものであり、その先に目的の場所はある。

今は本当に廃墟とゾンビだらけの街を彷徨っているような気持ちでも、いずれ仲間と出会い安心できる場所に行くことができる暗喩なのかもしれません。
そのためには、目で見えるデジタルの世界に答えを探すことなく、自分の頭と目に見える世界をヒントに探し続けるしかないのでしょう。
それを夢の中で、思い悩む私に神様が教えてくださったのかもしれません。

いよいよ、人の世を捨てる時が近いように感じます。
厳密には、人世というより「大衆に迎合する人々の時代」と言うべきかもしれません。
個々人が、自分の心に従って生きられる世になれば、それほど人々は窮屈な思いをせずとも、幸せに豊かになれる世界が訪れる気がしてなりません。

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「祓戸二神」デザイン

楽太郎です。

昨日は妙に神様の気が降りてきて、一日中神様のことばかり考えていました。

先の記事にも書きましたが、「祓戸大神」は神道においてかなり重要な位置を占めるにも関わらず、境内の「祓戸舎」も手水舎と同様のインフラとして扱われているように、あまり重要視はされていません。

神々は地上の「罪穢れを祓う」という役目を果たしておられます。
八百万の神は何らかの形で世を清浄に保つよう努めておられるとしたら、「祓戸大神」の役割は私たちが思っている以上に大きいのかもしれません。

瀬織津姫命は、今最もフィーチャーされている神様なので、知名度は上がってきています。
しかし、他の祓戸三神はほぼ注目されてはいないでしょう。

最近は、人世が荒れすぎて創作に対するモチベーションが上がらないのですが、神様がお喜びになる姿を想像すると、なぜかやる気が出てきます。

ふと、祓戸三女神が集まってお喋りをしている図が思い浮かび、これを形にしてみたいと思いました。
そこで「速秋津姫命」と「速佐須良姫命」のイメージを描いてみることにしました。







神名をカタカナ表記にしたのは、あくまで実在の神様との境界線を引くためです。
「私の信じる神様はこんなお姿ではない」と言われたら、「それはその通りです」としか言えませんし…。

この二柱のデザインのモチーフは巫女さんですが、「祓戸三女神」にお並びいただくとしたら私が以前描いた瀬織津姫様のデザインでは少し浮くかもしれません。
ですので、瀬織津姫様の衣装もこれから若干変えさせていただこうかなと思ってます。

速秋津姫命は「水戸=港」の神様ですので、比較的おっとりした神様かな、と思って描きました。
速佐須良姫命は、お名前に「すごく勢いのある」という意味を含んでいるので、気の強い女性をイメージしました。こう言うのも何ですが、ツンデレっぽい神様になってしまいました。

祓戸四神の一柱、「息吹戸主命」様に関しては、別にハブる気は毛頭ありませんが、もう少し勉強が必要かと思います。
こういう限りなく精霊に近い神様は、記紀成立以降の人格神とは周知されているイメージに乖離があります。

逆に言えば、あまり設定されていない神様たちであるとも言えます。
ですから、多少脚色してもバチは当たらない…ような気はします。

神様をモチーフにする以上は、やはりそれなりに覚悟が必要です。

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瀬織津姫命の秘密

楽太郎です。

先ほど、「禊祓詞」をテーマにした記事を投稿しました。
その記事で書きたいことがあったのですが、文脈がブレるので触れられなかったことがあります。

それは、「禊祓詞」で「祓戸大神」は伊弉諾命の下で罪穢れを祓う役目の神々として登場することです。
祓戸大神とは、「瀬織津姫命」「速秋津姫命」「速佐須良姫命」「息吹戸主命」の四柱であるとされます。

この「祓戸大神」は、国津神として列記されることがありますが、「天津祝詞」で言えば「天津神」の格なのではないか?と思うのです。

この「禊祓詞(天津祝詞)」は成立がはっきりしていて、元は平田篤胤の国学の一環でまとめられた「天津祝詞之太祝詞事」で、文化12年(1816年)に成立したとされています。
平田篤胤自身の憶測も一部入っているように見えますが、少なくともこの祝詞では、祓戸大神の扱いは「大祓詞」での扱いと変化はありません。

「大祓詞」は、平安時代の928年に発行した「延喜式」の中に書かれています。
延喜式は伊勢神宮の祭祀を担当した中臣氏族が編纂したもので、中臣氏は天津神を祖として国家祭祀を司った一族です。
平田篤胤は、「禊祓詞」を編纂した際に「この祝詞は中臣家系の秘儀ゆえ、延喜式にも書かれなかったのではないか」としています。

私は、瀬織津姫命について調べているうち、「瀬織津姫命は天津神なのではないか?」という仮説に手ごたえを感じつつあります。

「祓戸大神」の説明に戻りますが、「瀬織津姫命」とは「山から降りる川の流れが海に入り込む様」が、「河川の土砂を海洋に放出する=穢れを祓う」というイメージで擬人化された神様のように思えます。

「速秋津姫命」の「秋津」とは「開き津」であり、つまり「港=水戸」を指します。
速秋津姫命は伊弉諾命と伊奘冉命の「国生み」の際に生まれた水戸神であるとされます。
「速」とは「勢いがある様」を指すらしく、河口に降りた土砂が海に吐出される様を表しているとも言えます。

「速佐須良姫命」は江戸時代の国学者、本居宣長によると大国主命の配偶神であられる「速須世理姫命」と同一視しました。
ただ、「速佐須良」は言葉的には「すごく」と「勢い」というニュアンスを含み、「佐須良」は即ち「さすらふ=流離い」を指します。
岩波古語辞典によれば、「頼るところもなく、定まるところもなく、移りまわる」様であるとされ、現代で使われる言葉と同じようです。
祓戸大神の役割としては「海に排出された汚泥をどこかに押し流す=穢れを消滅させる」現象を指すようです。

この「祓戸三女神」に「息吹戸主命」が加わって祓戸四神となるわけですが、息吹戸主命だけは水や海に関係せず、風や流れそのものの役割を担っているように思えます。
しかも、息吹戸主命だけは男神であり、三女神とは明らかに性質が違います。

まとめると、「祓戸大神」は自然現象と禊祓のプロセスの擬人化であり、自然神としての役割を強く持っている神々なのではないでしょうか。

自然の神格化とは、いわゆる原始宗教やアニミズムであり、その性格が強い神格は天照大御神を代表とした「天津神」のグループに属するはずです。
しかし、祓戸大神の一柱である瀬織津姫命は、天津神であるという扱いを受けてはいません。
これは何を意味するのでしょうか。

瀬織津姫命は、中臣氏が編纂した「大祓詞」の中に登場するのみで、「記紀」には書かれていません。
ただ、水源や滝壺、川や泉などには瀬織津姫命と同一視される「白龍」「市杵島姫命=宗像三女神」「弁才天」が祀られています。

ここからは、「市杵島姫命」と瀬織津姫命の関係について書いていきたいと思います。

瀬織津姫命は宗像三女神の市杵島姫命としばしば同一視され、「宗像大社」や「厳島神社」でお祀りされている市杵島姫命を「瀬織津姫命」として崇敬する風習もあります。
ただ宗像三女神で言えば、市杵島姫命よりも「湍津姫命」の方が関連があると思います。

「大祓詞」の一文に、以下の件があります。

「高山の末 短山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 速川の瀬に坐す瀬織津比賣といふ神」

この「多岐つ」が「湍津」と同一視され、海の女神である宗像三女神と関連づけられている理由にもなります。
その論拠として、瀬織津姫命と湍津姫命がニ柱一緒に祀られることがない、という話もあります。

瀬織津姫命が市杵島姫命と同一視された理由の一つに、「天照大御神荒御魂説」と「神大市姫説」が繋がってくるように思います。

天照大御神はかねてから男神説があり、伊勢神宮荒宮は「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」であるとされます。
この「天疎向津媛」が「天高いところから海に向かって流れる様」と文字通りに解釈され、これは瀬織津姫を彷彿とさせます。

江戸時代の写本とされる「ホツマツタエ」では、瀬織津姫命は「天照大神」の配偶神とされます。
この場合の「天照大神」は須佐之男命か瓊瓊杵命を指すようです。
須佐之男命の妻は二人いて、大山津見命の孫に当たる「櫛名田姫命」と「神大市姫命」です。

須佐之男命が本地垂迹によって牛頭天王となった際、神大市姫は「南海龍女」となり、龍と結びつけられました。
そして、市杵島姫命は神大市姫と「市」という文字で共通し、また同一視されることによって、海の女神の市杵島姫命は「龍」と関連づけられることになりました。
そして、最終的に川や滝の守り神である瀬織津姫命と結びつけられたのだと思います。

瀬織津姫命は、山の水源から河口までの治水を網羅するので、「海の守り神」としてもあながち遠い存在ではありません。
しかし瀬織津姫命は記紀に登場しないため、明確に誰の御子神なのか、配偶神はいるのかなどの詳細は不明です。

ただ、瀬織津姫命が天津神であると困る理由は存在したはずです。

「記紀」の編纂時に持統天皇は、最高神であられる天照大御神を絶対にしておきたかったでしょう。
天照大御神は女神なので、高天原に同じくらい権威のある瀬織津姫命が列聖されていると、絶対性が毀損すると考えたのかもしれません。

神道の真髄は「神々による罪穢れの祓い」なので、国生みの神である伊弉諾命の直系に祓いの神がいると、非常に都合が悪かったとも考えられます。
だからこそ、持統天皇以降の治世では、治水の神は別の神名に変換されることになったのではないでしょうか。

神奈川県の江ノ島にある江島神社は、日本三大弁財天社と呼ばれています。
ここには、天女の伝説があります。

深沢という地で、五頭龍が大暴れして川を氾濫させたり、地震を起こしたりして人々を困らせていました。
ある日、天女が降りて人々のために島を作ると、その姿を見た五頭龍は天女に一目惚れし、求婚をしました。
そこで天女は「もう暴れないと誓ったら結婚してあげよう」と約束をします。
改心した五頭龍は天女と結ばれ、この地を治めるために尽力したとのことです。

江島神社では弁財天をお祀りしていますが、実際には宗像三女神の奥津宮、中津宮、辺津宮を総じて主祭神「江島大神」としています。
穿った見方かもしれませんが、江島大神は瀬織津姫命なのではないか、と思うのです。

「瀬織津姫命」という神名での祭祀がタブーとなったとしても、水神を祀る人々の気持ちが変わるはずはなく、それなら別の名前でお祀りしよう、となるのではないでしょうか。
「龍と結婚して地を治める」という性質は、どう考えても白龍と同一視される川の女神、瀬織津姫命を連想させます。

なぜ瀬織津姫命が宗像三女神に同定されたのかを考えると、宗像三女神は「国津神」だからだと思います。

記紀編纂時に、天照大御神と同レベルの天津神がいるとやりにくいはずです。どうせなら、国津神として扱った方が融通が効くでしょう。
しかし神格が周知されている以上、「瀬織津姫命」という神名は動かすことはできません。
だから、「湍津姫命」や「市杵島姫命」に置き換え、瀬織津姫命という神名だけを上書きしたのではないでしょうか。

水神を「弁財天」とするのも、天津神である瀬織津姫命を外来神であるサラスバティーに同定してしまえば、天津神であることは隠せるはずです。

だから私たち日本人は、自覚しないところで瀬織津姫様を崇敬しているのかもしれません。
私の仮説では「瀬織津姫命は天津神」という考えですが、これは全て推理にしかすぎません。

それが正しいかどうかも、学術研究を経ようと喧喧諤諤となるはずですし、結論は出ないかもしれません。
けれども、この探究はこれからも個人的に続けていくつもりです。

瀬織津姫様の秘密がわかった時、神様の謎が解ける気がしてならないのです。

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神様を偲んで

楽太郎です。

仏教には、「他力本願」という言葉があります。
現代人はこれを、よく「他人任せ」という意味で使います。
浄土真宗的な説明をすると、阿弥陀如来様の願いは人々の救済そのものなので、自分の力によって救われようとするのでなく、阿弥陀如来様のお力を信じることで皆救われよう、という教えです。

反対に、「神頼み」という言葉があります。
これは、普段から神仏を敬う気もなく崇拝する習慣もないのに、困った時だけ神様に頼ったりお願いする、という様を指すそうです。

「他力本願」と「神頼み」、現代人の解釈と本来の意味がほぼ逆になっている、興味深い言葉だと思います。

神社に参拝に行くと、神社の作法がめちゃくちゃな人をよく見かけます。
作法を知らないだけならまだしも、神様に対する礼儀というか、尊敬の念すらないのではないかと思う人もいます。
神様に感謝するとか、神様のお導きを受けたいとかではなく、もっとお金が入りますようにとか、恋人ができますようにとか、好き勝手に願掛けする人ばかりではないでしょうか。

今年の元日、地元の神社に参拝に行きましたが、人々の邪気が境内に滞っていて気分が悪くなりました。
私が思うに、人々の邪念が濃すぎて神様たちの浄化が追いついていないのかもしれません。

近所の小さなお社に参拝するついで、邪気を持ち帰って浄化したりしていますが、しばらく行かないと邪気がずいぶん重たくなります。
そのお社があるのはたぶん霊地ではないため、神様の浄化が追いつかず邪気が溜まりやすくなっているのだと思います。

色々な霊能者の方が言っているように、私も「神様の力が弱まっている」と感じます。
ただ、地球レベルで言えば神様の持つ権限は日増しに大きくなっているようです。
しかし実感で言うなら、神様のご神気は強くなっているとは言えません。

ものすごく主観で話をすると、「神様がやる気をなくしている」ようにも取れるのですが、いずれ現象としては邪気邪念の類が野ざらしになっています。
おそらくこの気の滞りが、街のどんよりとした空気感とか、人々の気力の喪失などに影響しているように思えます。

神社で受けるご神気も、微弱なのもそうですが日によって全くなかったりします。
それでは参拝ついでに自分が霊気を補充することもできないので、最近は自宅の神棚をしっかりお祀りして、神様とのご縁を強くすることに専念しています。

毎朝神棚に3種類の祝詞を奏上しています。
始めに「禊祓詞(天津祝詞)を唱えてから、ニ拝二拍し「神棚祝詞」「ひふみ祝詞」を唱え、ご挨拶をして一拝します。
この儀式をすると不思議と気持ちに筋が通るので、効果は的面に感じます。

「禊祓詞」を読んで、気づいたことがあります。

国生みの祖神である伊弉諾命が「禊祓」における主役であり、その命を受けて瀬織津姫命などの祓戸大神が禍事、罪穢れを祓い清めする役割を担っています。
神道の目的は「人間の罪穢れを祓うことで世を清浄にする」ことであるとされます。
つまり、日本の神々は「邪気を祓う」という役割を持ち、罪穢れが祓われた清浄な世こそ弥栄となり、人々が本来の正しい生き方ができる、という考え方のようです。

仏教が「煩悩」から解脱し、悟りを開くことで浄土に至るという考え方にも通じるものがあります。

これは、近年の新興宗教のように「信じる者しか救われない」とか「救われるためにはこれをやらなければならない」という教えとは一線を画すものです。
神道には教義がありませんし、祝詞も「神様に感謝する際の定型文」でしかなく、ほぼ心の持ちように全てがあるような気がします。

この「心の持ちよう」は、現代人が最も苦手とすることではないでしょうか。

「頭で思っている分には自由」
「バレなければ何をしても良い」
「悪いのは全部他人のせい」

こういう考えが、神様からお見通しだとしたらどうでしょうか?
その心で神前に立てば、神様に本心を曝け出すことがどういうことかわかるのでしょうか?

「お天道様は見ている」とは言いますが、まずお天道様の存在を信じていれば、言動は元より心の隅々までお天道様に見られていることを自覚せねばなりません。

心の弱さや未熟さを神様がご覧になられていると思うからこそ、自分の足りなさを恥じ、謙虚になることを覚え反省と感謝をしながら生きていけるのです。
その生き方が「神道」そのものであり、日本人がずっと繋いできた人生の知恵なのではないでしょうか。

人間はやはり完璧にはなれないので、どうやっても過ちは起こりますし、罪や穢れも生じます。
それでも人々が一生懸命生きようとするからこそ、神様が「その努力を認めて、少し力を貸してやろう」と思われるのかもしれません。

しかし自堕落な生活を改める気はなく、神社にお賽銭も入れたし宝くじが当たるに違いない、と思うような人に神様がご加護をお与えになるでしょうか。
私がいくら徳の高い神様でも、そんな無駄なことはしたくはありません。
それならきちんと手順を踏んで努力する人の願いを、優先的に叶えたいと思います。

だからこそ、最近は神社でも神様が奥に引っ込んでいらっしゃるのかもしれません。
神様の気持ちを慮ることはおろか、神様の存在自体を疑っている人の都合の良い願いを聞くほど、神様は人間に尽くす立場の方々とは思えません。

現代人は、ここの部分を大きく勘違いしています。
神様はこの地球に太古からおられ、数十万年前に人類を生み出してからは、ご先祖様と土地を長い間守ってこられた大いなる存在です。
それが生まれて数十年の、人間の利益ばかりを気にする存在だと思うのは虫が良すぎるというものです。

今世に禍事が蔓延り、人々は自らの邪気で自家中毒を起こしています。
そうなってしまったのは、人間たちが自分たちで「罪穢れ」を自浄することを怠り、神仏を足蹴にしてきた結果なのではないでしょうか。

厳しいことを言うようですが、だから現状は「自業自得」としか思えない、というのが正直なところです。
この地球は「資源の塊」であり、地球は人間が豊かになるために存在する「モノ」で、地球で一番優れた存在が「人間」である、と思い上がってはいなかったでしょうか。

強い言い方になってしまいますが、私もその人間の一人ですし、反省すべき点も懺悔してもどうしようもない部分もあります。
ただ、「神様はどうお感じになるだろうか」と思い巡らすのも大切なことで、はるか昔のご先祖様はそれを慮り、お社を建てたり感謝の祭りをしたり、時には生贄だって差し出してきたのです。

その思いを受け継がずして、この島国の土地で「日本人」と名乗ることができるのでしょうか。

私は、それでもこの国の人々を信じていますし、いずれ目が覚めて大切なものを思い出してくれる日を心待ちにしています。
神様もきっとそれをお望みでしょうし、今起きていることもおそらく、その「伏線」ではないでしょうか。

これから少しでも上手に暮らしていきたいのであれば、神様を敬いながら自分自身を見つめ直すことかもしれません。
それでも神様はきっと、そういう人には目をかけて下さると思います。

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スピに惑わされるな

楽太郎です。

私はスピリチュアリズムを学んでいる最中ですが、あえて言うならスピリチュアルの界隈自体にはそれほど興味がありません。

界隈は、どこの分野でも権威を中心に回ります。
最近話題のマスメディアの問題を見てもわかる通り、「間違っていても正しいことになる」正当性を保証するのが権威なのです。

だから、私はインフルエンサーがさもありなんと語ることほど冷静に捉えます。
代わりに、「これは真実かもしれない」と思うことは、世間の評価とは無関係に直観を信じます。
私が思うに、「界隈の偉い人が言っていたから」と信じる行為は、土の時代のトップダウンの思考と同じ仕組みです。

権威だろうが、流行りだろうが自分の直観を信じて判断することが、風の時代における自由の在り方なのではないかと私は思います。

今回この話をしようと思ったのは、スピリチュアル界隈でかなり話題となっている「2025年7月問題」に関して思うところがあったからです。

私は当初から、「2025年7月」に何かあるという感覚はまるでなく、だからこそ興味がありませんでした。
しかし、スピリチュアルの勉強をしていると自然と入ってきたこともあり、私が思ったことを書いておきます。

私自身は、2025年7月は「ノストラダムスの大予言」になりそうな気がしています。
もし仮に何かが起こるとしても、それは人間一人が変えられる事態ではないはずです。それは自分よりも大きな力か、神様のご意志で起こされることなので、自分が神ではない限りどうしようもありません。

話題のテーマである人工地震についても、それが仮に人間の意図したものであろうと、いずれ日本列島には大きな災害や地震が必ず来ます。

なぜなら、地震も台風もこの星で定期的に起こる自然現象だからです。私たち人間は生きている地球の上、神様の体の上で命を頂いている存在です。
それを人間のわがままでどうしようという発想自体が、烏滸がましいのではないでしょうか。

私たちにできるのは、人工地震を引き起こし戦争を仕掛けるような巨悪と戦うことでしょうか?
それを阻止するために、国民民主党や維新の会に投票すれば私たちは助かるのでしょうか?
挑戦的な言い方になってしまいますが、これは政治の世界の話です。スピリチュアルの世界にあるテーマの軸は、こういった話題に右往左往することではありません。

むしろ、「なぜこういうことが起こりうるのか」を今、高い視座で考えるべきではないでしょうか。

なぜ人間は、自国の領土すらまともに統治できないのに、他国を侵略してまで領土を拡張したいのか。
その裏に人間と富を占有したい勢力がいるとして、神は彼らをどういう眼差しで見つめているのか。

まず、「災害を回避するためにはどうすればいいか」という思惑で真実と向き合うのではなく、仮に自分の身に災害が降りかかるとしても、その未来をどう解釈し自分の生活に落とし込んでいくのかを考えてみる。
私はそれが「スピリチュアリズム」なのではないかと思います。

スピリチュアリズムとは、精神を使って望む現実を引き寄せるためにあると考える人もいます。
私はそれを否定するつもりはありませんし、確かにスピリチュアルの大きなテーマの一つだと思います。
しかし、現実を変えるために不安を覚え、妙な緊張をしたり変な縛りで生きづらくなるのは、本来のスピリチュアルの定義には当てはまりません。

「引き寄せ」や「現実創造」も、望む結果のために望まない生き方を選択するのは本末転倒だと思います。
反省や懺悔や自制は確かにスピリチュアル的な修行に必要なプロセスですが、違和感を無理に飲み込む必要はありません。

スピリチュアリズムとは精神の自由を求める道であり、内面的な豊かさや幸福を志向するものだからこそ、自分が成長していくためにあるのだと思います。

「2025年7月問題」は、確かに起こる可能性は高いかもしれませんが、そもそもそれが実際にあるかを問わず日本は危機的状況であり、自然現象として巨大地震も十分起こりうる状態です。
それを知ろうと知らずとも、緊急事態への備蓄や備えは無条件にやるべきですし、今年だけでなく通年で気をつけていくべき事柄です。

スピリチュアリズムを追求することは、界隈の話題を深く知ることを意味しません。
2025年の7月に大災害が起こることを知ったからと言って、自分の成長とはあまり関係がないからです。
大事なのは自分の精神に対する知識、研ぎ澄ましてきた感覚で世の中を捉え、どう生きていくかを生活に落とし込むことなのではないでしょうか。

私はその意味で、スピリチュアリズムは「実用主義」だと思いますし、目に見えない世界を扱うからこそ自由であり、個々人の中に「真実」があると思います。
その知恵や技術を持って、いかに自分が物心共に豊かになり、またその豊かさをどう人に分かつかを考えるのが、本当のスピリチュアリズムなのではないでしょうか。

だからこそ、「能力のある権威が言っていた」ことを間に受けることがスピリチュアリズムではないですし、それはむしろ土の時代の情報のあり方に近いことを弁えた方が有益でしょう。

その情報や知識を得ることで、「自分が豊かになるか」「幸せになるか」が重要なのであって、世界の真実を知ることは精神を追求する道ではあるにせよ、現実社会と切り分けて考えるのも大切なことだと思います。

こういうことを言うと、私が「スピリチュアリズムの善悪」をジャッジしているように見えるかもしれませんが、私はスピリチュアルな話と現実社会の話を切り離して考えよう、と言っているだけにすぎません。

言うなれば、「スパゲティモンスター」が人々に天啓を与え、スパゲティモンスターを信仰する人々が和気藹々と幸せに暮らせていたのなら、誰も彼らを批判することはできないはずです。
それ以前に、人間には「信教の自由」があるので、スパゲティモンスターが何であろうが信仰そのものは崇高な行為です。
私はその自由があるのは、スピリチュアリズムが目に見えない世界を追求する道だからだと思っています。

誰が正しいとか間違っている、という次元で論争をすれば、スピリチュアリズムは学問になり科学でなければならず、統計や数値や権威が必要になるでしょう。
ただ、そうなればスピリチュアルが「目に見えない世界」を扱う分野ではなくなります。
だからこそ、少し曖昧で多少誤差があっても、互いの主張を尊重し合うことが大切なのではないかと思います。


2025年7月問題に関しては、私はこれからも否定も肯定もしないつもりです。
仮に3月に地震が起きて7月に何もないとか、7月に本当に何かあっても、それが当たるか当たらないかはともかくとして、やるべきことは変わらないからです。

どの道、「とてつもなく大きな力」がそれをしようと思えば、それが神様でも国家であろうと止めることはできませんし、結論を言うと起こること自体は神様の総意でしょう。
だから、人間としてできることをコツコツやるしかないのだと思います。

ただ、願わくば神様にお祈りすれば、少しは助かる道を教えてくださるかもしれません。
それこそが「スピリチュアリズム」なのではないかと私は思いますが、どうでしょうか。

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