招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

スピリチュアルと幸福

楽太郎です。

最近、気になっていることがあります。
私の近所に、空き地を公園にする工事が行われているのですが、その作業が全く進んでいません。

今年は雪も降らないし暖かい日も多いわりに、施工期間が春まで延びました。
業者の方も、敷地内を歩いているだけで重機も作業も動いているところをあまり見ないので、不思議だなと思って見ています。

何か外部的な理由があるのかもしれません。
予算が降りないとか、部品が届かないとか、他の業者のスケジュールが合わないとか。
ただ、そうしている間に従業員に給料は払われているわけで、工期が延びた分の工費は増えていきます。
その資金を捻出しているのは、市民です。

私はこれを見て、日本の縮図だなと思います。
組織や集団としての歯車は回っていないのに、金だけが流れてどこかへ消えていく。
全体として「何かをやり遂げよう」という意志で動けばすぐできることでも、意志がないから歯車をうまく回せず、実行する力もないのです。

皆、自分が何をしたいのか、何をすべきなのか見えなくなっているのかもしれません。
拡大解釈すれば、人々が信じられる価値観が揺さぶられ、社会も会社もマスコミも芸能人もエンタメもお金も未来も、あらゆるものが信じられなくなっています。
その中で、自分が何を信じて生きていけばいいのか、皆が悩み始めているように見えます。

その点においては、私は天性の天邪鬼というか、人様と違うことを率先してやる分には才能があると思っています。
ただ、私以外の九分九厘以上の人々は私よりまともでしょうから、どんなに私が正しかろうと浮きます。
それでも私自身が心を曇らせずに生きていられること自体が証明しているのかな、と思っています。

スピリチュアルを信じる私としては、目に見えず自分にしか分からないものを感じて生きるので、その不安感は独特なものです。
この世界にも能力差や権威性のようなものがあるため、影響を受けてしまう要素もたくさんあります。

ただここで私が気をつけているのは、仮にそれが真実だと思ったとしても、あえて生きづらくする選択をしないということです。
スピリチュアルは結局、精神的な幸福を求めるプロセスなので、自分自身のためにやるというのが中心的なテーマです。

信念も大事ですが、使命感に駆り立てられて自己犠牲をしてしまうなら、幸福とは真逆の方向に行ってしまいます。
他人にパンを与えて自分が餓死するのは人様から見れば美しいかもしれませんが、神様から見れば「何やってるの」という感じに見えると思います。

魂の求めに応じる時、私は子供の心に戻ります。
子供の心は小悪魔的なところもあるので、そのまま出せば社会規範に触れます。
多くの人は、その魂の抑制を思考や習慣で押さえ、ルールで手懐けています。

人生の修行を経験して魂を成長させてきた人は、直感のレベルで何をしていいか何をして良くないのかがわかります。
それでも、人の生まれや性格には一長一短があるので、全てを統一された善悪に置き換えることはできないでしょう。

霊的な説明をすると、良い部分だけを集めると最終的に平均的な性質に慣らされてしまうのだと思います。
だからこそ神様は人に生まれつき個性を与え、一長一短あるように作られたのではないでしょうか。

その一長一短は、人間からしてみれば平均的であった方が扱いやすいので、抑圧して形を変えることで集団行動を効率化してきました。
ただそれは思考による個性、魂の操縦なので複雑なルールで縛らなければいけませんでした。
そのルールという鎖が壊れた瞬間、わがままにやりたい人はどっと溢れるのでしょう。

本当の成長とは、学校で丸暗記させられたことに忠実になるのではなく、経験することで魂が整っていくことを言うのだと思います。

この世界には一長一短、光と闇があるから違いが生まれます。
闇は光を知ることで光を学び、光は闇を知って闇を学ぶ。
その相互作用があるから成長があり、同質で同レベルの馴れ合いの中でそれを促すのは難しいかもしれません。

仏教に「天魔」という概念があるように、神様は闇の存在もうまく遣われるようです。
魔が神の一部であるという話は、堕天使ルシファーが悪魔の王サタンと同一であるという宗教観にも見て取れます。

ルシファーは神の次に神に近い存在だったと言われます。光に近い者ほど、闇を抱えてしまうと深刻になるのかもしれません。

キリスト教的世界観では光と闇が常に戦っていますが、日本の八百万の世界では光も闇も地続きの存在です。
日本神話では、高天原も黄泉の国も対立しているわけではなく、それぞれが世界の一部として共存し、役割をこなしています。
これこそが「統合」ではないかと思います。

個人的に解釈する中で、神様が私に「闇と戦え」と仰ったことがありません。
光と闇がぶつかれば対消滅するからか、光と闇が統合することができないからか、どちらかの理由があるのだと考えます。

光と闇が共存すれば、その高みにあるのは清濁併呑のワンネスです。
清濁併呑には、「愛」という共存の意志がなければ存立できません。
それは限りなく強い光かもしれませんが、ただ純粋なだけではない、深い悟りと慈悲に満ちた境地ではないのでしょうか。

私は、ここに到達するのが霊魂の目標なのではないかと思います。
だから、人に個性があり一長一短があり、良いところと悪いところがあり、けれどもそれが良い調和の状態こそが理想的な形なのではないでしょうか。

浄土真宗の親鸞聖人は、とてもすごい修行をされた方ですが「煩悩はなくならない」と悟られ、衆生を選ばれました。
私はそこに、地に足のついたスピリチュアリズムがあるのではないかと思います。

どう頑張っても、人の一生のうちでは変えられない性質や課題はあります。
しかし、その悪い部分があるから幸せになれないということはありません。
悪い部分、弱い部分があっても、自分だけでなく周りに補うものがあれば、人はありのままに生きて幸せになることができます。

ありのままに生きて、それが何となく認められたら、だいたいの人は満たされた生き方になるのではないでしょうか。
そういう世になるには、あまりに道のりが遠すぎるような気がします。

まあ、私一人だけ意気込んでもしょうがないので、そういう世が来るように神様にお祈りするだけです。

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「神CORD」解説

楽太郎です。

先日、神代を作るためのDiscordサーバー「神CORD」をオープンしましたが、今回は神CORDの仕様についてご説明したいと思います。

そもそも、「Discord」とはゲーマー向けのチャットアプリでしたが、テキストベースの交流だけでなく音声通用や動画共有なども可能で、今ではビジネスで使われるケースも増えています。

「slack」を活用されたことのある方なら、使い勝手が想像できるかもしれません。あれをもっと砕けた感じにしたアプリです。

ここでは、スマホ版Discordから見た場合の「神CORD」の解説をします。




これがスマホでのアプリ画面です。
私の描いた須佐之男命様がサーバーアイコンになっています。
なお、この下の緑のプラスボタンを押すとサーバーを作成できるようになっており、何個でも作れる仕様になっています。

「>インフォメーション」と書いてあるのが「カテゴリー」という括りです。
その下に「#神CORDについて」というスレッドがあります。これを「チャンネル」と言います。

テキストベースのチャンネルでは、以下の投稿ができるようになっています。




チャット形式で書き込みができます。
文字制限はなく、書いた後に何度でも編集が可能です。
リンクや画像、音楽データや動画ファイルも貼ることができ、絵文字やスタンプも使用できます。

「>ボイスルーム」というカテゴリーに「ラウンジ」というチャンネルがありますが、ここで通話や動画の共有などが可能です。botを入れて音楽などを聴くこともできます。

さて、Discordの説明はこの辺にして、このサーバーの構成についてご紹介します。
チャンネルの階層構造は一番上のスクショの通りなのですが、「情報交流板」が見切れてしまっているので、現在暫定的なチャンネルをご紹介します。



スレッドの詳しい説明はサーバー内で確認していただきたいのですが、わりと実用的な情報交換を目的としています。
チャンネルはこれで確定ではなく、「管理者要望スレッド」にてご提案いただければ増やすことも検討します。

特筆したいのは「共同プロジェクト募集」スレッドです。メンバーがお互いにしたいことを提案することによって、新しいアイデアを形にする機会にしたいです。
メンバー同士では不得意な分野でも、メンバーの知り合いに得意な方がいらっしゃる場合もあるので、そういうご縁の場になればいいなと思います。

とりあえず、「神CORD」の簡単な説明は以上です。
今のところ、特にルールを決めない方針で行こうと思います。徳が高ければ法律なんていりませんからね。

気になる方は、先日の「神代コミュニティ開設」という記事の招待リンクからご参加ください。

https://rakutaro.fukuwarai.net/Entry/60/

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神代コミュニティ開設

楽太郎です。

本日、Discordというアプリにて「神CORD」というコミュニティサーバーを解放します。
少し前置きを挟みますが、招待リンクは本文最下部に記載します。

なお、今回のリンクには期限が設定されており、暫定有効期間は3月30日までです。

流れとしては、以下の手順となります。

①記事本文にある招待リンクにアクセス
②Discordアプリをインストール(スマホ、PC)、Discordアカウント作成
③ログイン後、チャンネルにテキストの書き込みが可能になります。「ウェルカムボード」というスレッドにてご挨拶をしていただけますと、管理者からロール「メンバー」が付与されます。

参加した状態では、全てのチャンネルにアクセスすることはできません。
メンバー承認を管理者が行うことにより、全てのチャンネルにアクセスできるようになります。

さて、ご興味がなければ一番下のリンクまでスクロールしていただいて構いません。本日オープンの経緯についてお話します。


朝、地元でまだお詣りしてない神社にお呼ばれされた感覚がありました。
「賀茂神社」という別雷命様をお祀りしている神社です。

その辺りに須佐之男命様をお祀りしている神社もあり、そこもお詣りせねばと思っていました。
少し遠回りになるのですが、意を決して長歩きすることにしました。

須佐之男様のお祀りされている神社は、やはりすごい霊圧というか、息を呑むような厳格な雰囲気を感じました。
ただ、何となく参拝した後は空気も柔らかくなって、それほど嫌われてはいないようだ、と安心しました。

そこから今日お呼ばれした賀茂神社まで行く道すがら、通れるかわからない場所があって引き返そうとしたのですが、偶然人がそこを通っていくのを見たので「本当に通れるんだ」とびっくりしました。
これもお導きかな、と思いながら歩くと、賀茂神社に無事到着しました。

賀茂神社のご祭神は「別雷命」様と「玉依姫」様です。
私はよく雷神様のご本尊にお詣りするのもあり、別雷命様にご挨拶しないといけないな、と兼ねてから考えてました。

賀茂神社は、初めて訪れたとは思えないくらい優しい雰囲気で、何時間でもいられるくらい暖かい感覚がしました。
宮司さんはとても徳を感じさせる方で、社務所の窓口で少しお話しをしました。お守りを頒布いただく際、「八咫烏」のストラップをおすすめされました。
八咫烏神は、賀茂神の化身とされているようで、本日の参拝をお導きいただいたことに感謝し、ストラップとお守りを購入しました。

参拝している時、天啓のようなものが降って来ることはなかったのですが、私を見下ろすようにカラスが止まっていて、ずっと私の周りを飛んでいたので、やはり何かご縁があったのかなと思いました。
特に悩みごとはないのですが、Discordサーバーを作ったはいいものの公開するタイミングが計れず、どうしようかというのはありました。

そこでおみくじを引いたところ、こう出ました。




ここ最近、私の身の回りで示されるメッセージが「協力しながらやれ」という圧ばかりでした。
私もそうすべきなのはわかっていたのですが、改めて念を押された感じです。

ただ、Discordサーバーオープンのタイミングに関して、これは「自分の意志で決めろ」ということだな、と思いました。
というのも、サーバー開設を思い立ったのは「やらなければいけない気がする」という感覚でしたが、よく考えれば自分でやりたくないと思っていたら行動には移せないわけで、何だかんだでこれも自分の意志です。

神様は、嫌々言ってる人間にお役目を無理に与えることはないでしょうから、そこら辺の自覚が私になかったのだろうと思います。
最近目にするメッセージをまとめてみると、「お前が成功するには神代の仲間が必要なのだから、成功したければやりなさい」ということに尽きます。

つまり、これは神様の義務ではなく、私自身のチャンスの話だったのです。

そんなわけで色々思い直し、本日Discordサーバー「神CORD」を解放することにしました。
私のブログを読んで、シンパシーを感じて下さる方は是非ご参加いただけたらと思います。
より良い世を一緒に作っていきましょう。


【下記の招待リンクを踏み、アカウントを作成して入室してください】

https://discord.gg/6gQ9dHmG


※良ければ、本記事にコメントを残してから参加いただけると助かります。

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世直しの仕方

楽太郎です。

この数日、エネルギーが上がってきて、インスピレーションが次々と入ってきてます。
これでは一つ一つ覚えられないので、記事を書かないと忘れてしまいます。

最近になって、神様の価値観というか、神様たちのスタンダードな考え方が掴めてきました。
神様は至ってシンプルなことしか仰いませんし、問題を複雑にするのも、受け取り方を複雑にするのも人間です。
しかし、人間はシンプルなことをするのが苦手なようです。

昨今の世は慌ただしくはありますが、特に特筆すべきなのは、第47代アメリカ大統領に就任したトランプ氏です。
日本人はトランプ氏を英雄とか救世主みたいに思っている人が多いように見えますが、私の考えは違います。

トランプ氏がどういう人物であれ、これから何をするのであれ、彼は米国を第一に何とかしたいのであって、「トランプ大統領が日本を救ってくれる」という保証はどこにもありません。
アメリカからすれば、日本が永久に植民地であってくれた方がありがたいでしょう。本国の負債を外国という名義なら実質的に押しつけることができるからです。

逆に、「日本はアメリカも中国もロシアもどう出ようが関係ない、我が国は独立を取り戻す」という気概がなければ、いずれ神にも見放されます。
日本列島におられる神々は、日本人に愛想を尽かしていることをもっと気にするべきだと思います。

私は最近、「禍事」の意味を考えます。
この禍事が真相の炙り出しであり、それによって人々に気づきを促しているというのが私の見解です。
ただ現象面では、ゴシップや社会問題として噴出し、そこから組織が物理的に解体されていく様子を見ながら不思議に感じています。

現在進行形のマスコミ絡みの騒動は、わりと権威寄りのトップ層から切り崩されています。
しかし、世には腐り切ったトップなんてザラにいますし、例えば週刊文春が絨毯爆撃を行なったとしても、全ての不正を暴ききることはできません。

私が思うに、「禍事」は上と下からの突き上げ、突き下ろしが同時に起こっています。
大企業などの権威筋はパワーのある組織にしか切り崩しができませんが、その組織よりパワーのある集団に同じことを仕掛けるのは不可能でしょう。
トップの頭がすげ変わっただけではトカゲの尻尾切りにすぎないので、やはり組織内部から変わる必要があります。

その時、一人一人の構成員の考え方が変わることで、組織は下から動かされていくのだと思います。
組織の構成員には家族もいれば友人もおり、それ以前に一人の人間なので、評判の悪い組織にいるのは居心地も悪く、自分としても納得しがたいでしょう。

神様は、こうして二方向のベクトルから圧を加えることで、浄化を促しているように見えます。
おそらく、これはソフトパワーで起きている「禍事」であり、物質面よりも精神面でかかるインパクトです。
とするなら、「ハードパワーの禍事」も神様は用意されているでしょう。
それはここであえて書く必要のないことです。皆さんも、薄々わかっておられると思います。

神様がこういう形で世の建て替えを進めておられるのは、一重に人間に変わって欲しいからです。
厳密に言えば、「神様と一緒に世の中を作ってくれる人々」が主導する人間界にしたいのだと思います。

それには、目に見えないものとの感覚を大切にし、天からのメッセージを素直に聞き、優しい心を持った人が増える必要があります。
けれど、この評価は人間界の尺度ではできません。

私は、クリエイティブの業界で才能のある人、徳の高さも兼ねた人をたくさん知っています。
そこでは人に尽くし、善業のために身を捧げている人もよく知っています。
ただ人のために徳を積みながらも、視点が人間界の問題に定まりすぎているため、神様の存在には気がつかない人もいます。

残念なことですが、いくら人のために尽くしても、人間界の英雄が神代の人材とは限らないのです。

人類はこの数百年間、ずっと「右か左か」で争ってきました。今も尚そうです。
しかし右と左を選ぶのではなく、本当の正解が「上」であったことに気づく人はあまりいません。

人間なら「真ん中」を選べば良いと思うでしょうが、右に寄った人からはそこが真ん中だと思い、真ん中の人が左にいるように見えます。
だから諍いが絶えないのです。
けれど「上」を選べば、右も左も真ん中も全部同じように見えるはずです。そこでは神様が正しい道を示して下さるので、ブレることがありません。

私は、これが日本の神道に教義が存在しなかった最大の理由だと思うのですが、この話は長くなるので割愛します。

おそらく、最終的に全ての権威が相対化される時、唯一残る権威が「神仏」になると思います。
けれど、人間が勝手に作って祭り上げた権威ではなく、本当に私たち人間を作り育んだ神様という存在が、私たちの上に戻られるのは至極当然ではないでしょうか。

そうなった時、人々は今まで神様のおられるべき場所におかしなものを座らせていたことを反省し、全ての禍が解かれ浄化された世界が訪れるのだと思います。
それが「神代」であり、私たちが実現せねばならないことです。

神代は、意気揚々と戦いながら作るものではなく、神様と和気藹々と楽しく暮らしていたらいつのまにか実現していた、というものかもしれません。
神様は、私に「闇の勢力と戦え」と仰ったことは一度もありません。逆に、「世を照らせ」というメッセージの方が強い気がします。

きっと、希望や喜びの心が光となり、それが唯一の神代を手繰り寄せる方法なのかもしれません。
そのためには、暗い世相に引っ張られず、明るい気持ちで楽しく生きることだと思います。

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ニューアナログの時代

楽太郎です。

これから神代がどういう経済になるか、ようやく考えがまとまってきたので、書いてみようと思います。
今回、スピリチュアルはあまり関係ないかもしれません。

人々はまだ、「SNSでバズる=成功」というスキームに夢中になっています。

私は、今後はデジタル分野のリセットが行われると考えています。
これに関しては記事が長くなるので割愛しますが、少なくともSNSで不特定多数にアプローチする集客モデルは、一旦縮退するのではないかと思います。

SNSは、自分のアイデアを発信して同じ趣味や目的の人と繋がるのには有効なツールですが、近年ではインプレ収益や宣伝のために何でもやる業者が目立ちすぎて、目的が評価にすり替わっています。

私の感覚からすると、神様はこういうのがあまりお好きではないように感じます。
つまり金儲けのために、他者の興味がありそうなことに合わせ、自分のやることを決めているからです。
もちろん、他人軸でものを考えること自体が悪いわけではありません。
しかし、自分より他者の判断を優先すること、しかも目的が承認や金稼ぎというのは前時代的な発想としか思えません。

この「評価経済」というのが曲者で、世の評価軸は基本的にマスメディアや企業群、あるいは権力者が恣意的に作成できるものです。
人々は知ってか知らずか、その評価軸に従って判断し、話題にしてお金を使います。

誰も興味ある人を見たことないのに、「今、巷で大流行の!」というのを見たことはないでしょうか。
それでも、盛り上がっているという印象だけで何となく近寄ってしまう人もいます。
こういう人をカモにして、ビジネスモデルを維持してきた業界もたくさんあります。

風の時代は、コミュニティの時代と言われています。
おそらく、不特定多数にアプローチするよりも、よりニッチで求心力の高い分野で商売をする方が効率が良く、持続的なビジネスになる時代だと思います。

大儲けをせずとも回っていく経済になるならば、細々と好きなことをやりながら不自由なく暮らせるレベルで人々は満足し、だいたいそれで良いという風潮になっていくのではないでしょうか。

その世界線で、最もお金を使うコンテンツは「体験」になると思います。
社会的価値よりも個人的価値観が優先されるため、「自分にとって高い価値がある」と思うものにお金を払うようになるとしたらどうでしょうか。

例えば、B'zのライブで指定席が取れるとしたら、50万円くらいポンと出す人は多いはずです。
同じように、もしある歌手が全く有名でなくとも、それほど価値があると思う人がいれば、一席50万円のライブができてしまうのです。

私はこういうビジネスモデルを想像するたび、「神代的だな」と思います。

同じ価値観の人たちで集まり、集落からコンパクトシティを形成する現象も起こりうるかもしれません。
仮に資本主義が終焉を迎えるとしたら、円を使うよりも地域内でトークンを使用した方がお得に暮らせるはずです。
街の形態も、郊外一極集中型ではなく、昭和のような商店街で各々が好きなものを仕入れて売る、という形になるかもしれません。

そうなれば、そのコンパクトシティは各自が好きなことと義務を同時に果たしながら、マイペースで暮らすことも可能になるはずです。
無理に収益を上げたり、世界に撃って出る必要もないので、高すぎる努力目標を掲げなくて良いのです。

技術的なことに関しては、「これからの世界はこうなるだろう」と予想するのは難しくありません。

私が思うに、電子制御モデルのテクノロジーは物理的劣化が早いため、長期的な経済合理性から、アナログ的な高精度技術が再評価される流れになるのではないでしょうか。
それが人が再び「ものづくり」を始める、「ニューアナログ」の時代だと思います。

これからの文明を想像する時、「神様から考えるとどうだろうか」と思い巡らすと、見えやすいかもしれません。
モノにせよ人にせよ、一つ一つのものが大事にされる世であれば、下手に環境を犠牲にすることがありません。

神様からしてみれば、人間が「のびのびと自由に楽しく暮らす」生き方をして欲しいと思っておられるでしょう。
その点で見れば、「努力せず、学びもせず、自分の頭で考えない」ことに使われるビジネスは、神様に好まれないかもしれません。

人は魂の修行としてこの世に生まれてきますが、同時に生命の喜びを表現するためでもあります。
苦しみが全くない、楽しかない世界は魂の成長も喜びもありません。
寝転ぶような生き方は、神代では通用しない生き方になるのではないでしょうか。

未来がこういう時代になるとしたら、死ぬほど嫌な人もいると思います。
そういう人は、古い価値観で支え合う人の世で集まって暮らせばいいでしょう。
けれど、私はこういう未来が実現したら素敵だと思いますし、その喜びをいち早く体験し、良ければたくさんの人と共有したいです。

私は、今の時代の「寄らば大樹の陰」という雰囲気が嫌いです。
利益や便利さを享受したからと言って、一部の大企業や権力者に支配される世はおかしいと思います。

テクノロジーやビジネスの発展はもっと開かれるべきですし、帝国的支配の圧力が解かれることでそれは促進されます。
このシステムが崩壊を迎えるとしたら、次の時代はもっと自由で、努力が報われる社会を作りたいのです。

それが、私の想像する「神代」です。
きっと神様も、遠くないものをお望みだと思います。
私たちには、自分たちで作っていける世が必要なのです。

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この世の問題は、生き方の問題

楽太郎です。
先日、今の時代を測る上で象徴的だなと思った出来事がありました。

十日戎で献米をしたので、神社からの返礼品が家に届きました。けれど、厳密には誤配で近所の家に届けられてしまいました。
荷物の届け通知はメールで来ていたので、その旨を運送会社に連絡し、しばらくして配達員から電話が来ました。

配達員によると、「住所の記載漏れがあった」とのことで、私としては謝罪は求める気持ちはなかったのですが、いかにも「自分は悪くない」という物言いには少しカチンと来ました。
「夜に荷物を誤配先から引き上げて自宅に再配達する」という話をつけて待つことにしました。

最近、この運送会社も色々と複雑な事情にあると聞いてはいたので、ご時世かなと思っていました。
神様的にはどうお感じなのだろう?と思いましたが、「高見の見物でよい」と仰っている感覚でした。

ただ、夜になっていつ再配達が来るのかわからないのも困るので、コールセンターに電話してみました。
これは、自分でもやる必要がないことだとはわかっていましたが、少し好奇心で探りを入れてみることにしました。

結論を言うと、コールセンターの対応も最悪でした。
最初から最後までモンスタークレーマー扱いされて、個人情報を根掘り葉掘り聞かれました。
その時の対応は「住所に記載漏れがあったのだから、原因は送り先にある」という印象です。

送り先は神社なのですが…
荷物も奉納品の返礼なのですが…

その電話をしてから十数分後に、荷物の再配達が来ましたが、ちゃんとした専属のドライバーの方でした。
けれども、何となく斜に構えた印象でした。

私はこの一件で、全く怒りはなかったのですが、今の日本人を考える上で参考になるものを見させられたな、と思いました。

配達員がもの凄くタイトで、精神的・時間的余裕がないのは見て取れました。ケアレスミスに対して、きちんと反省する余裕がないほどなのだろうと思います。
コールセンターの方も、さんざんカスタマーハラスメントの対応をしてきたせいか喧嘩腰で、まともな話に持っていく気がないように思えました。

この出来事の本質は、「自分は悪くない、他に原因がある」という他責思考にあると思います。
ただ、自分が悪くないと正当化できるとしても、自分の考える正しさとは仕事を甘くこなすことなのか、と私は疑問に思います。

彼らも色々大変なんだろうな、と心底感じます。
トップや組織の体質は、末端の従業員にはどうしようもありません。
自分のキャリアや生活を考えると、簡単に抜け出せないのもすごくよくわかります。
けれど、いつまで自分の人生を「仕方ない」と言い訳しながら生きていくつもりなのかな、と老婆心ながら思ったりもします。

実は、今の日本人を支配している問題の本質が、ここに現れているのではないでしょうか。

自分の生きる軸を「当たり前」の生き方に沿うように置いて、皆が仕方なく仕事をしているから、自分も仕方なく仕事をするのは当然だ、と。
世の中が悪くなっても自分にはどうしようもないし、自分がうまくいかないのは自分が悪いわけじゃない。
きっと原因は色々あって、どうしようもなく大きな問題もあって、それが悪いんだから仕方ない。

「だから自分は悪くない」

その他責思考は、あたかも自分が正しく見えるでしょう。
けれど同じように、それ以上に複雑な状況でも、自分軸を守って自ら道を切り拓いていく人はいます。
その動機づけをしないのは自分の選択であって、それは決して自己責任云々ではなく、妥協を選ぶ意志が自分自身にあるのです。

誰もがそう考えるからこそ、日本という国は沈んでいく一方なのではないでしょうか。

この国がおかしいのは政治家が悪い、マスコミが、富裕層が、高齢世代が、官僚が、あの企業が、あの思想が、あの国が、と問題の所在を外部に作ることで、自分自身を反省するチャンスを見送った結果、今の現状があるのではないかと思います。

仮に問題がそこにあるとして、自分は一体何の行動を起こし、何を変えようとしてきたのか。
それを自信を持って言える人は、どのくらいいるのでしょうか。

今、この世界で起きている問題の「炙り出し」は、他人軸で物事を考え、自分という存在を外部に依存させてきた人々に、「そろそろ気づいたらどうだ」と神様が伝えたいのではないでしょうか。

あれほど絶大な影響力のあった人物や組織がガラガラと崩れていく中、「一生寄りかかれるほど絶対的なものはないのだ」と見ることはできないでしょうか。

そして、人々がそれに気づき「では自分はどうしようか」と考え始める時を、神様は待っておられるのかもしれません。
自分に立ち返って人生を再定義する時、これまでの生き方を新しくすることができるからです。

その気づきが人々に広がる時、「今までのこれはおかしかった」と自ら世直しに動き始めるのだと思います。
おそらく世に起きる禍事は、この気づきのために起こされているものなのかもしれません。


私は最近、心底思います。
人生は、「もう一度ある」と思うことでも二度と叶わないことがあります。
あの人と会うことや、あの場所に行ってみること、また食べたいもの、それはまた機会があるとその時は思えますが、気づいたら永遠の別れになります。
人はそれを理解したとしても、その喪失感にいつの間にか慣れてしまいます。

人生は、恐ろしいほど取り返しがつきません。
けれど、新しくやり直すことはいくらでもできます。

同じ状況には至れなくても、それ以上の境遇には至れるのです。
その時、自身の後悔や反省を活かして応用するからこそ、人生はより豊かになっていくのだと思います。

私の半生は、まさにそれを思い知るためのものでした。
だからこそ、「いつでもやり直していいのだ」と私は伝えたいのです。
人生は短いですが、わりと色々なことができるのですから。

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スピリチュアルと生き方

楽太郎です。
深夜2時に突然目が覚めて、水を飲んで寝直そうとしたところ、神様から強制アップデートが入りました。

身体が痛いなと感じていた部分が和らぎ、眉間あたりに強い光源を感じました。
真っ暗にしているはずなのに、目を瞑っていても眩しいほどでした。同時に、左耳に高い周波数の耳鳴りを感じました。

私は「あ、来たのか」という感じでしたが、よく考えれば神様とか光の存在は、真正面の上のあたりから来られる印象です。
最近まで生霊と格闘していたのですが、ああいう疾しい存在は首筋や肩を狙って背後から来る感じがします。

確かに自分が神様なら、わざわざ人間の前に姿を現すなら「来てやったぞ」みたいな感じで堂々と正面から降ります。
自分に後ろめたさがある存在は、人の見えないところや弱い部分をついた方が楽なので、背後や足元から絡みついてくるのは理に叶っているように思います。

ともかく、このアップデートは受け取ってすぐ内容がわかるものではなく、必ず後で伏線回収があります。
ただこの夜は神様に叩き起こされたというより、脳が緊張して起きたという感じです。

最近は夢の中で高次元の存在と会話しているらしく、わりと寝ながら頭を使っている感覚です。
以前は人間の集合意識に潜る夢を頻繁に見ていましたが、最近はなくなりました。その代わり脈絡のない象徴的な夢が多くなり、これはこれで面白味はないかな、とは思います。

真夜中でも、救急車のサイレンを2度聴きました。
医療関係の方は大変だろうなと思いますが、この異常な世の雰囲気を感じる人ほど不安でしょう。

よくある「2025年に〇〇が起こる」みたいな情報は、あえて私は見ないようにしています。

例え当たるとしても、予言にありがちな不安産業に加担したくない気持ちもあります。
それはそれで予防意識に繋がるのはいいのかもしれませんが、こういうのは当たらなかった時の責任を誰も取らないのが気になります。
常に言いっぱなしなら、狼少年のように何を言っても構わない状態になるはずです。その点、どうやって信憑性を担保していくつもりなのでしょうか。

私は、その予言がいかに信憑性が高く思えても、無闇に安心感や不安感情を流布する行為が一概に正当化できるとは思えません。
それはスピリチュアル界のインフルエンサーの発言であっても例外なく、安易に鵜呑みにするべきではないと思います。

「権威」は、何かを言えばご自身の影響力で真実味が増してしまいます。
その真贋はともかく、スピリチュアルな世界は三次元世界の情報網と異なるので、自己の内在神や神霊とアクセスする能力があれば、いずれ自分で同じ情報を得られるはずです。

「誰々さんがこう言っていた」のは参考になるかもしれませんが、それを真実性があると思い込み、鵜呑みにするのは三次元的な情報処理だと思います。
私は、「わからないことがわかるようになる」というのも真理追求の面白さだと思っているので、鶴の一声で判明する真実には興味がありません。

スピリチュアルの業界は玉石混交ですが、私は何が良くて何が良くないというジャッジはしないように心がけています。
ただ、いわゆる「神懸かり」的な説話を聞く時には、ある程度の注意はします。

それは別に霊感だけではないのですが、その話を聞いて「人間的に豊かな成長をもたらすか」どうかで判断します。
中途半端な状態で、安心させたり慢心させるようなことを神様がしたがるとは思えません。
不安に関しても同様で、変に脅したり恭順させる言説は不自然に思います。
神仏の世界は無限にある「徳」の階層なので、魂の成長段階として滞留を促すことはないはずです。

その預言がどれほど困難であろうと、人を成長させ内面的に豊かになる道筋を示されている、という解釈が可能ならば、それは神様のお言葉である可能性が高いと思います。

人は、神様のお言葉を意識関係なく受信した時、「それはちょっと」みたいな感じで聞かないフリをしたり、わざと曲解して良いように解釈しがちです。
ただ、それを受けて慢心してしまうのは、悪魔から囁かれたのと同じ状況を作り出してしまうかもしれません。
私の感覚では、神様のお言葉はちょっときついくらいの塩梅でやってきます。それを素直に受け入れられる人は、変化を受け入れ内面的に成長して豊かになっていくと思います。

スピリチュアルは、目に見えないがゆえに反証性がなく、だからこそ真実性よりも「意義」のほうが強いのだと思います。
それを信じることで救いの方向を模索するのが、精神文化たる宗教やスピリチュアルなのではないでしょうか。

近年のスピリチュアルは宇宙的な概念を中心にしながら、宇宙の内在性をフューチャーした高次元の自我にフォーカスが集まっています。
批判するわけではないのですが、宇宙や次元と自我の間にある構成物、言うなれば地域や社会、人々の価値観や制度が省略される傾向にあると思います。
その「自己」と「宇宙」で全てを説明し、中間のものを取り扱わない言説に、私は何となく物足りなさを感じてしまいます。

引き寄せや開運も大事ですが、宇宙と自我の間にある地球的なもの、人工物、国家や社会や地域性に対して、目を向ける意識も大事ではないかと思います。

今、世の中は荒れてきており、引き寄せや開運ではどうにもならないほど、社会的な地殻変動が起きています。
その中でスピリチュアルな力を自分のために使うだけではなく、身の回り以上にこの社会や時代をどうしていくのか、そこで神仏のお力をお借りし、どう世に貢献していくかが大事なのではないかと思います。

自分が高次元存在と繋がっているから救われると思えても、仮に世界のどこかで理不尽に身売りされる子供や、犯罪者に食い物にされる弱者がいて、その世界の地続きにある己の幸福とは一体何なのでしょうか。
私はそれが、人として地球に生まれたことの一つのテーマであると思います。

スピリチュアリズムとは、個人が「気持ち良く生きる」だけではなく、世に暮らす人々が共に気持ち良く生き、神仏や宇宙存在と調和する世界のためにあるのではないでしょうか。
だからこそ、聞き心地の良い言葉だけに耳を傾けず、神様の厳しいお言葉にも頭を垂れ、まず自分が動いて周りを良くしていくことが大切です。

そういう実践を重ねていけば人間は成長し、いつか本当の幸福をつかみ、豊かな生き方ができるのだと思います。
神様は優しいだけの存在ではないかもしれませんが、私たちのそばにいてくださるのです。

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黒に染まるな

楽太郎です。

今、新しい仕事に取り掛かっています。
インスピレーションに従って起草し、モチベーションも高い状態ですし、技術的に困難さも感じません。

しかし、私の業界や市場もかなり腐敗しきっていて、まともなプロが活躍できる土壌とは言えません。
儲けるためのセオリーがすでに確立されており、稼ぎのハックの独壇場となっています。
企業はそのシステムの一部であるため、サービス全体でスキームを推奨しています。
その背後にあるのは、他国の文化侵略であると私は思ってますが、それを表立って言えば私の立場はさらに危ういことになるでしょう。

この状況で、正攻法で戦うのは圧倒的に不利です。
ほぼマーケット全体が握られているため、私もある程度は裏をかく必要があります。
ただし、これまで迎合しない態度を貫いてきたからこそ、今さらハックに染まろうとは思いません。

不安はあります。これから先、この泥沼のような業界でやっていける自信はありません。
だから、早く時代が変わって欲しいと思ってますし、それを促進させるための努力なら惜しまないつもりです。

今の日本、世界では尋常ならざる事態が起きています。

その露悪的現象と開き直りは、いかにこれまでの世の平和が隠された偽善であったかを悟るには、十分すぎる情報量です。
ただ多くの人は薄々気づきながら、どうしようもないことも知っています。
その巨悪を育て、のさばらせたのは自分たちであることも、重々承知しているからです。

某企業にしろ、某巨大政党にしろ、某国家にしろ、私たちはまんまと騙された、と。
これほど巨悪だとわかっていれば、賛同などしなかったのに、と。
ただ、彼らは綺麗な横顔だけを見せていただけであって、私たちはいつでも別の横顔を見つけることはできたはずです。
その一面を少しは疑わしく思っても、追求する手立てはなくとも、信じないことくらいは可能でした。

今になって悔やんでも仕方ありませんが、だからと言って無力感に沈むべきではありません。
私たちは、巨悪の崩壊をこれから目の当たりにするからです。
そして、その後からが本番なのです。

「禍」という文字があります。
「禍事」に使われるこの字は、「ネ辺」に「咼」と書きます。「ネ」は神を表し、「咼」は「まがる・まわる」という意味だそうです。

つまり、「禍事」とは神々が動き回るがゆえに起こされる「曲がり事」であって、ノーマルな現象が真っ直ぐ生じることではありません。
現在、世に起きている「禍事」は人間が考えうる最悪の事態かもしれません。ただ、最悪だからこそ、人々に問題意識を強く植えつけます。

冷静に考えて、例え巨悪が隆盛し人々を支配しようと、人々は永遠に巨悪を崇拝し続けるでしょうか。
悪である、問題であると認識された瞬間から、その対象は是正されるか消滅させられるかを待つだけです。例え支配を強めようと、引きずり下ろされるまでの時間を先延ばしにするに過ぎないでしょう。

「禍事」は起きた瞬間から「消滅」という宿命を背負って発生するのです。

消滅が起きた時、同時に「浄化」が生じます。
「禍事」が起こる時は必ず「浄化」が発生し、曲がった物事を真っ直ぐの状態に戻します。
神々が曲がったことを起こすのは、元が曲がってしまったからです。
曲がってしまったものを、神の力で元の形に捻り戻すことが、人々にとって見れば「災厄」にしか見えないのかもしれません。

地震が起きて街が壊れても、地震という災厄は終わり、地層のエネルギーは縮退しまた平穏がやってきます。
森は、山火事を想定して生える植物もあります。何万年も形を変えない森もありますが、それもいずれ消滅し、新しい森に生まれ変わります。

その禍事が終わり、リセットされた世界で一から新しいものを作り始める、新しい時代に合ったものに変えていく、その新陳代謝のために禍事が必要な時もあるのでしょう。
何もなくなって新しいものを作っていかなければならない時こそ、スタートラインです。

自分たちで協力して新しい何かを作っていこうとする時、人々の心に目的意識が目覚め、希望が生まれます。
禍事は、既存の構造物に雁字搦めになり、身動きが取れなくなった現代人に対する、一つの福音なのかもしれません。


私は、今の時代にはいつもアンビバレントな感情があります。
崩壊は起きて欲しくはないけれど、崩壊してもらわなければ困る。
人間には救われて欲しいけど、懲らしめられるのも必要だ。
その感情は常に並行線を辿ります。

思っているよりも、世の中が変わっていかないように見えます。人々の価値観や習慣は根強く、目に見える数字と力はあまりに強大です。

私たちは今「ヨブ記」や「ノアの洪水」と同じ状況を生きています。
悪魔や大衆が嘲笑う中を耐え、神を信じ抜くことで神に救われる道を、私たちは進もうとしています。
それ自体が試練であり、関門なのだと思います。
その向こうに神の恩寵や新世界が拓けているとしたら、ここで諦める理由はありません。

人類や世界の行末を決めるのは、私たちを作られた神様たちです。
私は好き嫌いは言うことはできても、絶対的な善悪を決められるわけではありません。
できることは、あからさまに「黒」だとわかるものには触れないこと、それだけです。

楽な道を歩んでいる人が羨ましくなる時もありますが、彼らは楽の代償に美徳を失っているのです。
人間の価値は、最終的に「徳」の部分ではないのでしょうか。
私も未熟なので揺れる時もありますが、そういう時ほど自分に言います。

「黒に染まるな」と。

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生霊攻撃

楽太郎です。

やっぱり、なんか生霊に取り憑かれていたみたいです。

何週間か前から、視界の端に黒い影がチラチラ見えたり、夜中に甲高い笑い声を夢うつつに聴いたりして、なんか変だなと思ってました。
休養中で何もしてないにも関わらず、背中から肩にかけて凝りやすく、特に起きている時より起床後の方が体調が悪いのに違和感がありました。

昨日の真夜中、ガラスを吐く夢を見てビックリして飛び起きて、寝直したら悪霊に頭を締めつけられる夢を2回見ました。
2度目の悪夢の時、霊感の強い友人が夢に出てきて「お前、まだわからないのか?」と言ったのが記憶に残ったので、霊障だと改めて認識しました。

心霊スポットには全く行きませんし、歩く時には塩を持ち歩いてますし、神社で祟られるようなことは一切してません。
この霊障の主に心当たりもあり、これは生霊だと思いました。

生霊の主について、私は人間関係が狭いので今さら念を飛ばすのは数人しか考えられません。
その中でも、私が色々と助けてあげていた人がいて、ある時私は何も言わずに距離を取りました。
神様から「近づくな」という雰囲気をバシバシ感じていたし、なんか常に裏がある気がしていました。
それで、個人的には嫌いではなかったのですが、あえて距離を取ることにしました。
その人からすれば、かなりショックだったのかもしれません。

正直に話すと「霊的な理由があるから付き合わない」とは説明しようがなく、うまい誤魔化し方も思いつかなかったので、連絡関係を無視していました。
下手にはぐらかすと、変に粘着されそうな気もしたからです。
それはそれで良くないと思いましたが、大人なのだから空気を察して身を引いてくれるだろうと、都合良く考えていた節もあります。

しかし、思ったよりその人の念が強かったらしく、かなり呪いに近い形で入り込まれていたようです。
「そんなことあるか」と思われるでしょうが、これが極端な憑依体質の悲しい性質です。

私はこの数週間、好転反応と覚醒を繰り返していましたが、このポジティブなエネルギーの変換を妨げている邪気には薄々気がついていました。
これは私の霊性が低いからなのだろうと思っていたのですが、思いつきで軽くセルフ除霊を試してみたところ、肩が軽くなり頭もスッキリして、神様からのインスピレーションもパラパラ降り始めたので、「やっぱりこいつか」と確信しました。

私がいくら魂のレベルで覚醒してポジティブな方向に飛び上がっても、この念は振り払えなかったようです。
ここまで強い念を飛ばせる人もいるんだ、と私は感心してしまいました。

昨日、それがわかったので半日かけて除霊を行ったところ、異様にスッキリして緊張も解け、疲れもドッと出たので気持ち良く眠りにつきました。
ところが夜中に緊張して目が覚めて、身体が元のカチカチの状態に戻ってました。
さすがに、私の精神疾患とか身体の病気も疑いましたが、除霊を再度試みると一時的に体調が戻るので、やはり霊障以外に考えられません。

霊感から言えば、まだバッチリ気配を感じます。
「離れたな」と思い、数十センチ先にいるのは感じます。そして気を抜くとまた取り憑かれている、というのを今日になっても繰り返しています。

私も念が強いので、「直接行って頭かち割ってやろうか?」とすら思うのですが、さすがにそれはできません。
この霊障、私個人の力では祓いきれないかもしれません。
ですので、ここは神仏のご加護を強くいただき、「陽の気」で振り払うしかないと思いました。

そのため、まず部屋の大掃除を朝から始め、結露も取り埃も取り除き、神棚周りも改めて掃除をしました。
部屋の空気の透明度が増し、陽の気を感じました。

「運気」という言葉があります。
「気を運ぶ」と書きますが、「気」とは「気持ちが悪い」とか「良くない気がする」という感覚の原因を取り除き、「いい気持ちにする」ことが運気アップに繋がるのだと思います。

金運や福運を上げようと思い、神社にお賽銭をいくら入れても、常にカリカリしていたり部屋が汚かったら「気」をいい方向に運んでいるとは言えませんし、むしろ運気を下げてしまうでしょう。
まず、「運が悪いな」と思ったら、自身の気の持ち方をしっかり見て、どうしたら快適になるかを考え、きちんと行動をしてみることだと思います。

ですから、「生霊がまだいるかもしれない」とか「悪霊に取り憑かれている」といちいち気にしているうちは、何度も寄ってくるのかもしれません。
だとしたら、対応としては「寄せつけないようにする」の一択です。
下手に除霊浄霊に頭を悩ませるのも、悪霊の思うツボとも考えられます。
その「気の持ちよう」は、自分の工夫で何とかできるものです。

私は去年、集合意識から邪気の影響をもろに受けて、ずっとその祓いにばかり気を取られ、変に病んでいました。
けれど、邪気を気にするからこそ逆に邪気を呼んでいたとも言えます。

例えしんどかろうと、太陽のようなカラッとした気持ちでいれば、そのうち悪霊だろうと邪気だろうと抜けていくでしょう。
それが本当の意味での「祓い清め」なのではないでしょうか。

私は急にそういう風に考えられるようになって、なんかあの人のことを思い出すのもバカらしいな、と思い始めました。
これから散歩にでも行ってこようと思います。

追記:

昨日の夜、急に思いついて神代を作る人たちのためのDiscordサーバーを作りました。
ただ、これは本当に咄嗟の行動なので、神様的にはどう思われてるのかはわかりません。
もしこのサーバーに使い道があるとしたら、神様から何らかの働きかけがあるはずです。

とりあえず、私はそれまで待ちたいと思います。

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「世直し」の意味

楽太郎です。

今、韓国ではユン大統領の逮捕、カリフォルニア州の山火事、最大限に膨張するテックバブルと、指折り数えるだけで波乱を感じさせる世となりました。

私がこのブログで時事系や社会思想を取り扱わないのは、もうその次元での議論では到底立て直せない段階に来たと感じているからです。
残念な話ですが、この世に一粒の奇跡が起きて、それを皮切りに今まで黒だったものが一気に白くなるということはありえません。

おそらく、一度黒く染まり切って盤をひっくり返すタイミングが来るのではないでしょうか。
神様は、そこから白い石だけで世を敷き詰め直すおつもりのような気がしています。

その予感に対して、これまでのブログを読まれた方なら私には葛藤があったことを理解していただけると思います。
しかし現代を冷静に見回して、骨の髄まで搾取構造への安寧に浸かりきった社会は、もはや人の力ではどうにもならないでしょう。
例え世を生きる上でこれまでの常識が通用しないとわかったところで、どれほど自分の力で自分の生き方を問い直す覚悟を持てるのでしょうか。

神様が人間を真っ直ぐに戻そうとお考えなら、その最大の問題は「自分の生き方を自分の頭で考えない」ということだと思います。
それは、人が決めたルートの人生だったり、誰かの価値観や考え方に乗じた生き方であったり、生成AIやネットの情報を信じ込むことだったりするはずです。

これまでの土の時代は、生きるための正解は社会や企業が提供してくれたため、それに便乗しても大して損をしないどころか、楽に生きられるハックになりました。
しかし、近年炙り出された社会問題を鑑みると、その正解そのものが間違いとなる時代に差し掛かっています。

街を歩けば、人々が何をしていてもスマホを見ています。
この世の中で生きる楽しみが希少なのはわかりますが、そのつまらなさをスマホの中で埋めようとしてはいないでしょうか。

その端末の中には一攫千金の夢があったり、マスコミ的娯楽の代替もあったり、まだ見ぬ理解者との繋がりを求める気持ちもわかります。
ただ、そのサービスは企業が用意した箱庭であって、そこにあるのは用意された現実の姿です。

この端末に人生の目的や答えを探しているうちは、自分自身と向き合う時間がどんどん狭まっていってしまいます。
神様が人にもっと自分の人生を生きてもらいたいと願うならば、人間が自分の脳みそをアウトソーシングするのをやめてもらいたいはずです。

人々が自分の人生を何かに頼るのは、そこに「権威」が存在するからです。

大学教授の見解、大企業の宣伝、マスコミの情報、インフルエンサーの発言、プロパガンダ、「皆そう思うはずだ」という錯覚。
その権威に頼ろうとする気持ちは、「寄らば大樹の陰に間違いはない」という妄信から来ています。
しかし、自分の判断を権威に準じるうちは、自分の頭で考えて自分で行動するリスクを取ることができません。

某大手芸能事務所のタレントの相次ぐ不祥事、大企業の腐敗した組織体制など、その問題が表面化して感じるべきなのは、「権威は絶対でなく、永遠に続きはしない」という教訓です。

この問題が「一部だけだ」とか「これをきっかけに良くなる」と思っているうちは、真の問題に向き合うことは難しいでしょう。
真の問題は、権威には栄枯盛衰があり、この世の常識も諸行無常であるからこそ、己の判断で生きていく覚悟があるかどうかだと思います。

それは決して楽ではありません。
自分自身と向き合うことは、これまで依存したり執着することで心のバランスを保っていた物事と距離を取ることだからです。
そこで思考の習慣から離れ、別の角度から自分の生き方や考え方を見直せば、変化せざるを得なくなります。
人間が本当に怖いのは、変化なのです。

私が3年前から生き方を見直し、最も精神的に辛かったのは「過去の反省」です。
自分が絶対に正しいと思い、配慮を失っていた時の記憶ほど、顧みた時の心理的ダメージは大きいです。
それは犯罪を犯した受刑者だけが受ける責苦ではなく、良心と真正面に向き合えば誰もが目を背けたくなるほどの後悔だったりします。

けれども、人は本当に生き直そうとする時、そのプロセスを踏まなくては先に進めません。
できるなら、自分の意志で自己と向き合えば多少はマシですが、強制的に「生き直し」をさせられるとしたら、自我が保てないほどの苦しみになるかもしれません。

ただそれは、これまでの依存的な生き方では難しい世になったため、自らが責任を持って自分の人生を生きようとするならば、避けて通ることはできないはずです。

神様は、ずっとそこを私たちに思い直すよう、様々なシグナルやメッセージを人々に送ってきました。
それを魂の部分で感じ取り、生き直しを始めた人ならまだ浅い傷で済むかもしれません。
しかし、予期しない穴に落ちた時ほど致命傷になります。それが高いところであればあるほど命に関わるはずです。


神様が人々にして欲しいことは、至ってシンプルだと思います。
「自分の人生を楽しく生きろ」と。

そのためには、自分が自分のあり方をしっかり見つめ、よく考える必要があります。
そのことから逃げているうちは、自分自身のことすらよくわからないものです。

けれど、自分に道を指し示す権威はいずれ滅びる。
それを目の当たりにしてからでは遅いと思います。破綻を待つより先に、どんな状況でも生き延びられる自分を作り上げることです。

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神様の望みごと

楽太郎です。
今朝の出来事を書きます。

先日、須佐之男命様を描かせていただきました。
その制作過程で地元にある薬師堂の如来様に完成祈願をしました。
その頃は、須佐之男様から受けるプレッシャーにビビり倒していたからです。

一応その件は完了したので、お礼参りをしました。
そうしたら、やっぱり念が体にドシっときて、こういう時でもご奉仕せねばならんのだなと思いました。

この念を抱えている間、妙に「お金」のことが気になりました。それも某大企業の社長のことが頭をグルグル回ってたので、お金関係の念を背負わされたのだと思います。
散歩がてら、ご神気を不思議と感じる一画に立ち寄り、念を浄化することにしました。

この念を放出するために瞑想していると、先日の須佐之男様のイラストのことが思い浮かびました。
私はなぜ須佐之男様のイラストを依頼されたのか腑に落ちなかったのですが、イラストをネットに上げること自体に意味があったのではないかと気づきました。

つまり、神様たちはこのネットの世界の浄化もされるおつもりなのではないでしょうか。

ネットというのは、人間の闇の部分が濃く出る集合意識そのものであり、仮想的社会を形成しています。
人間の現実意識の面だけでなく、こういうレイヤーの集合意識も浄化されるとしたら、計画として理にかなっているようには思えます。

とは言え、私のイラストがどういう効果を発揮するかまでは想像もできません。
ただ、その時思念が入ってきて、「あなたもそれを望んでましたよね?」と来ました。
いや、確かにそうですけど、本気ですか…?

そのあと河川敷に行って、浄化を終わらせました。
近くに竹林があり、そこに呼ばれた気がしたので掃除をしてきました。

神様とお付き合いさせていただいている感覚からすると、神様が人間にして欲しいことの大半が「掃除」のような気がします。
私が何となく言われた気がしてやることの第一位が「落ちている木やゴミを拾う」です。
何となく踏んだら躓きそうな木の枝とか、明らかに自然では取り除けなさそうな障害物などです。

先の神社でも「念」は霊的に言えば人間の出すゴミみたいなものですし、神様はそういうのは人間にやってもらいたいようなのです。

神様が人間に求めることは、「神を敬え」とか「人を救え」とか大層なものではなく、「境内を綺麗にしてくれ」とか「ゴミを片付けてくれ」というのが、なんか不思議に感じます。


「神様が身近な存在になる世界」は、それほど異世界感溢れるものではないかもしれないな、と最近思います。

例えば頼れるおじさんが近所に住んでるとして、そのおじさんの家に押しかけて「困ってるから助けてくれ」と頼むよりも、おじさんの家の前の掃除や余ったおかずを分けに行ったりして、仲良くなったよしみで助けてもらう方が自然です。

それが、いきなり玄関を開けて「金が欲しい!何とかしてくれ」と言おうものなら門前払いです。
でも、人間は神様にこういう態度で接してませんか?

だから、ご近所付き合いとか、人間社会の付き合いと神様との関係は大して違わなくて、礼儀やマナーを求められるのはその辺なのかなと思ったりします。

だから神様と身近だった昭和あたりまでは、日本人はそういう感性だったわけで、神代は温故知新の世になるだけなのではないのでしょうか。
そのためには、現代人が学ばなくてはならないことは本当に多いと思います。

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「須佐之男命」




先日、寝る直前にインスピレーションが入って、「須佐之男様を描いてくれ」という思念を受け取りました。
その時の依頼理由としては、「戦意高揚」というニュアンスだったような印象です。
私はスピリチュアルな存在の声を五感で受け取る能力がないので、かなり曖昧です。

私には、「須佐之男様が浄化作戦の指揮を執られる」というイメージが来ました。
満月の日に、神々の浄化作用が最も強く働くそうです。
それで今回、本日1月14日の満月にスケジュールを合わせなくてはいけない気がしました。

そこで須佐之男命様を描かせていただくにあたって、かなりプレッシャーを感じました。
とにかく描いてる時の霊圧がすごくて、生半可なコンディションではデスクの前にすら座れないほどでした。

瀬織津姫様をお描きした時は、「ファイト!がんばれがんばれ~」みたいなエネルギーを感じて追い風になりましたが、須佐之男命様は「手を抜いたら許さん」みたいなピリッとしたオーラを常に感じ、戦々恐々としました。
少し、私の霊格では須佐之男様のパワーを受け止めきれず、役不足だった感もあります。

でも、自分なりに精一杯がんばりました。


ちなみに余談ですが、私は1日5回は瀬織津姫様について考えます。
そこでお名前について以前調べたことを思い出しました。
「瀬織津」とは川と海が合流する地点を指すらしく、川で流された汚泥が海に吐き出される様子を示しているそうです。

海には、「黄泉」があると一説には言われてます。
つまり、瀬織津姫様に浄化されたものは黄泉の国へ行くとも考えられ、神話的解釈で言うなら神の浄化で流された人は…

そう考えて、もうその先を想像するのはやめにしました。

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手のひらを太陽に

楽太郎です。

結論から先に言うと、私に須佐之男命様のイラストをご依頼されたのは、私のご先祖様かもしれません。

私の住む地元は、熊野信仰と縁の深い土地で、伊弉諾様と伊奘冉様にゆかりがあります。
私がよくお詣りしている薬師堂にお祀りされている薬師如来様は、本地垂迹では須佐之男様とも言われています。

(※訂正: 記事執筆当時では薬師如来様の本地垂迹が伊弉諾命様であるのを、須佐之男命様だと勘違いしていたようです。ただ、須佐之男様に垂迹される牛頭天王は、祇園精舎に向かう旅人の疫病を祓うご利益があるとされているので、薬師如来様と無関係ではないかもしれません。尚、熊野信仰では須佐之男命様は阿弥陀如来だとされています)

あと、私の血筋を調べていてわかったことがあります。
なぜか私は母方の血が濃いなと思っていたのですが、母の旧姓は「菊池」で、おそらく陸奥菊池氏にルーツがあります。
陸奥菊池氏は、藤原則隆公を家祖とする熊本県肥後の武家の末裔です。
「菊池」の名の由来は、魏志倭人伝にも登場する「狗古智卑狗」にあるとも言われ、狗奴国の王だったとされます。
魏志倭人伝に記載される狗奴国には出雲説があり、出雲を統治されていたのが須佐之男命だと言われています。

つまり、私は出雲系と縁が深いらしく、日本の神代紀に記された古き神々と結びつきがあるようです。
ただ、日本人ならば系統を辿れば古い神々に繋がるのは、それほど珍しいことではありません。
ここでの要は、須佐之男様がイラストのモチーフとして私に飛び込んできたことと、私のルーツとは無関係ではないだろうということです。

その時、私には須佐之男様がお祓いの指揮を執られる、という直感がありました。
1月14日の満月に神々の祓いが発動するとしたら、そのタイミングに合わせてイラストを上げなければならないかもしれません。

私自身も、そのスケジュールに合わせて体調を合わせています。
ここ最近の太陽神経叢の活性化によって、どんどん活力を取り戻しています。
冬至明けからエネルギーを身体に馴染ませる作業をしていて、その地味な好転反応で心身共にフラフラしていたのですが、ようやく芯が通ってきた感覚があります。

私は、夏以降から人々がどんどん険悪になっていくのを感じていて、霊的にも邪気を浴びて同じ空間にいるのが苦しいと感じるようになりました。
ニュースは見ないようにするくらい、世の中がおかしい方向に行く中で、日本人のメンタルがどんどん壊れていくのを見て、それに引っ張られて人に対して嫌気が差し始めました。

それは、ある意味スピリチュアルに向かうきっかけになりました。

秋以降は神代に向かうために魂の修行を本格化させ、それに集中するためには人払いをする必要があり、また邪気を遠ざけるためにも人間を毛嫌いする傾向にありました。

しかし、今になってまた人に対してポジティブな気持ちを向けて良いターンになったと思います。
人を無闇に嫌うのは、肯定的になるより疲れます。

これまで自分を守るために、人を批判し遠ざける必要がありました。無意識的に巻き込まれないためです。
けれど、今の私はおそらくそれをしなくても自分を守れます。それくらい人を見抜く感覚が鋭くなりましたし、神様のご加護がある実感もあります。
また第6チャクラの活性化により、人間の意識レベルより高い位置に判断能力が移ったため、同じ視線で批評することをしなくなり、あえて人を否定する意味もなくなりました。


人間は、この地に魂の修行のためにやって来ると言われます。
その修行の地で、何らかの苦難を経験するのは当然のことです。

経済的、社会的に苦しい世になっていく中で、唯物的な世界に生きる人は、これから精神的な困難を体験することになると思います。
これまで楽をしてきた人世の魂は、そろそろ神様から教訓を与えられるフェーズになったのでしょう。

学ぶ必要があるのは、無知だからです。
全てを知るほど賢明であれば、つらい思いをしながら学ぶ必要がありません。
彼らがそうせざるを得ない生き方をしてきたことは、神様から見れば明らかなはずです。
しかし、その困難を一概に不幸と見るのは違うかもしれません。

そんな彼らも、この歪んだ時代に適応した結果とも考えられ、ある意味これまでの土の時代の背後にあったビジネスの被害者とも言えます。
私は、そんな彼らをどうしても憎みきれません。
むしろ、その人間らしさのせいで間違いを犯すのは、人間ゆえであるとも思えます。

けれども私は、彼らに寄り添おうとは思いません。
世界の主軸はもはや神代にあり、神代に向かう人々にウェイトの大部分を置くつもりです。
ただ三次元世界では彼らと同じ土の上で生活するのも事実ですし、人間一般として出来ることはしていきたいです。

仏教で言う「慈悲」とは、プラスを与えることではなく、マイナスを取り除いてゼロに戻すことであると言われます。
時代が変化した今となっては、人世の住人が持つ物質中心の価値観はマイナスに溢れたもので、それがゼロになってようやく新しい時代のスタートラインに立てるのだと思います。

私の感じる愛のエネルギーは、邪気すらも包み込みうる太陽のような明るさを持っています。
それは神代や人世に分け隔てなく、遍く人々に注ぐことのできる太陽のエネルギーです。

私はその力で、この世界をもっと明るくしたいです。
人が遊ぶように生きて、魂が喜びの舞を踊るように、自由と公平が謳歌する時代をつくりたいのです。

神様は、おそらくその生き方を人に望まれているのだと思います。
それが、本来の人の在り方だからです。

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SOMEDAY

楽太郎です。

今朝、何となくエネルギーも落ち着いてきて、今日から始動できそうな感じがしました。
お風呂に入り、朝食を摂り体操をして瞑想を行い、そろそろ動かなきゃ、と思った途端にだるくて動けなくなりました。

何となく、ハートチャクラが閉じ切っているのを感じました。
横になってもエネルギーの枯れを感じ、ネガティブなことも考え始めたので、とりあえずYouTubeで音楽をかけてみました。

すると、私が好きだった香港の歌手、フェイ・ウォンの「夢中人」がかかって、思わず胸が熱くなりました。
香港は、ご存知のように中国共産党の支配下となり、自由な雰囲気ではなくなりました。
「夢中人」が主題歌となった邦題「恋する惑星」という映画は1994年、香港が中国に返還される3年前の作品です。

今、フェイ・ウォンは何をしているのだろうか。
香港で良い時代を生きた人々の気持ちを想像すると、それは今の日本人にも通じる感情かもしれない、と思いました。
なぜ、良い時代は突然、理不尽な形で終わらざるを得なかったのか。

私はそれを思うと、涙が止まらなくなりました。

その感情をもう一人の私が冷静に眺め、この感情のエネルギーこそが、私の魂がしばらく閉じ込めてきた「愛」というものなのだと気づきました。
この愛が私のエネルギーの源でありながら、その熱量を蓄えながらも停滞していた理由は、愛する対象を見失っていたからかもしれません。

多くの人々が、自らの選択で愛のない世界を選んだからです。
私が愛情を持って近づいても、別の目的で私を利用しようとするでしょう。

それでも私は、なぜこれほど人間のことが好きなのだろう?と思う時があります。

むしろ、人々から酷い目に遭わされたことの方が多いのに、人の優しさの一つ一つが未だに心の中に残り続けているのは、何故なのだろう?

私の魂の特質から考えると、私の生まれる前は誰かを好きになったら、その人も私を好きになってくれるような世界にいたのかもしれない、と思ったりします。
欲しいものも、わりと簡単に手に入ったのかもしれないし、毎日違うものを好きなように食べれていたのかもしれない。

けれど、生まれ落ちた地球という星では、好きになった人から疎まれたり、本当に欲しいものほど手に入らないような世界で、ずっと戸惑っていたような気がします。

私が0歳の頃に空想したビジョンを覚えています。
プラスチックのコインを縁の下に落としてしまい、私がその暗がりを覗いてみると、オモチャのお金を転がして笑っている、漫画みたいな悪魔がいました。

今思えば、私はわかってこの世界にやってきたのかもしれません。
ずっと忘れていましたが、やはり私は何か目的があってこの世界に生まれてきたのだと思います。

もしかしたら、今あるこの道を登っていけば、いつか雲の向こうで、昔の友達と会えるのかもしれない。
そんな人が何人かいて、実はたくさんいて、私と再開できるのを待ちながら、今も私を見守っていてくれているのかもしれない。

そう考えたら、本当にどうしようもないほど泣けてきました。
その時、流しっぱなしにしていたYouTubeから、佐野元春の「SOMEDAY」が流れてきました。

「人は誰でも 愛の謎が解けて 一人きりじゃいられなくなる」
「約束してくれた君 だからもう一度、諦めないで」

この歌詞を贈ってくれたのが昔馴染みなのだとしたら、いつか会えると言ってくれているようで、メソメソしてもいられないなと思いました。

この世界は、確かに思った世界とは違かったかもしれません。
わかっていたのか、わかっていたけど想像以上だったのかは、確かめようもないことです。

それでもきっと、この地上にある「漫画」というものをどこかで見て、「自分も描いてみたいな」と思ったのかもしれません。
それだけでなく、もっと大きな願いを叶えるためかもしれません。

そうであるなら、私は今その願いをどれほど叶えられたのでしょうか。

人の魂が、修行や使命としてこの地上に降りてくるのなら、私はまだそのミッションを完了してません。
例えばこのまま死んで元の世界に戻るとしたら、この星に来た目的は観光か?となります。
大した良い旅行でもないのに、です。

物心ついた頃から、この世界が自分のいるべき世界ではない気がして、ぼんやり空を見上げていました。
今でも、たまに帰りたいなと思うこともあります。
けれど、このまま進めばいつか友達と再会し、この地球にも友達ができるとしたら、そこはすごく良い世界なのかもしれません。

悪がこの世にあるとして、その闇を振り払うのが死や破壊なのだとしても、浄化して綺麗な世界にするのが目的なら、その力は慈悲や愛であってもいいはずです。

そのエネルギーを躊躇なく使えるように、地球がその準備を整えてくれてますし、神様だってそれをお望みのはずです。
だから、好きな人に「好きだ」と言ったり、余計なお世話をして嫌われるのも、このエネルギーの使い方次第かもしれません。

でも、それを恥ずかしがっていたり、自分の気持ちを惜しむうちは、愛のエネルギーを存分に使うことができません。
「好きだ」と言われて、嫌いになる人はあまりいません。
それなら、どんどん好きな気持ちを表現していこう。

この世界を愛のある世界にしたいのなら、その感情をまず受け入れることです。
私は、これからそうしていこうと思います。

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その苦しみを越えていけ

楽太郎です。

このブログは、何らかの形で誰かの役には立つように書いています。
ここに書いた文章は、私の実感や経験から潜って辿り着いた、普遍的な結論を記しているからです。

ただ、誰にでも当てはまるとか、誰にでも理解されうるものであるとは思っていません。
それは、私の魂が見てきた光景が映し出されたものだからです。

人は誰しも、各々が一長一短の条件の中に生まれ、再現不可能な人生を歩んでいきます。
けれども、幼稚園に行き学校に入り、受験をして就職をして、という誰もが通る社会的なサイクルの中で、自分が誰かと比較しうるような、代替可能な存在と信じ込み、どこかにいる他人と似た人生を歩みたがります。

しかしそれは、「唯一無二」という真実と向き合わない代償に手に入れた、作られた安寧です。

その安心感の中に人生があると、私たちは思ってきました。
良い学校に入り、大企業に就職し、ステータスの高い伴侶と籍を入れ、可愛い子供をもうけ、年金をもらい何不自由のない老後を暮らす。
大勢の他者がする行動は正しく、その多数派の中で同じ条件にあることによって、集団に正当性を求めます。
そうすることで「自分の人生は間違っていない」と思えます。

私は、これが一概に間違いだと言うつもりはありません。
自分の不二性と向き合わなくても、心の底から安堵して生きられるのであれば、それも人生の選択だからです。
私自身もそれができるならば、そのやり方を自らの人生に完璧な形で再現したと思います。

けれども、私にはそれが難しすぎました。
何をやっても、他人と同じように見える行動ができない。
その違和感を自分に見出してしまうからこそ、私は独特としか言いようのない人生を歩んできました。

それは今になって、全く恥ずべきことではなかったと思います。

こうして「当たり前」の人生設計が揺さぶられる時代になって、人々が寄りかかるべき生き方を見失う時、自らの人生の筋書きを見つめ直す機会を得ます。
その不二性は、どんな生き方をしてもかき消えるものではないからこそ、比較されえぬ自己と向き合う時、それが全ての人にとって唯一の同じ条件であることに気づくことができます。

私は、これまで自分の人生についての感想を、心から誰かと共有したいと願っていました。
それは、私が「理解されたい」という魂からの思いであり、共感を得ることで魂の孤独を埋め合わせ、安堵感の中に幸福を追求する生き方でした。
ただ、それも自己の「不二性」を有耶無耶にする生き方であるとも言えます。

たまに、こう考えることがあります。
私は、自分が思っているような世界の住人ではないのかもしれない、と。

神はいるかもしれないし、いないかもしれない。
自分に魂はあるのかもしれないし、ないかもしれない。
自分自身という存在の自覚も、精神的現象や神の存在すら、己の願望を森羅万象に見出しているに過ぎないのかもしれない。

しかし、それが何なのかを考え、自分なりに結論を出そうとする過程が、唯一無二の「己」を生きるということなのだと思います。
誰にも理解されぬ、心の深くにある感情と向き合い、“そうであるならば、さてどうするのか”を決めるのが、自分を「生きる」ということです。

例え誰にも理解されず、誰にも見出されず、一つも共感を得られず、何一つ残せぬまま一粒の塵として消えようと。
その宿命を全うする覚悟が、自分の人生を生きるということなのだと思います。

すぐ傍に誰かがいて、何かを言えば「そうだよね」と言ってもらう生き方は、誰にとっても幸せでしょう。
けれど人間は誰かと融合することはできず、どんなに愛する人と出会っても、どこかですれ違っていかなくてはなりません。
結局、私たち一人一人が違う人生を歩むという事実は、否定することができません。

「自分は世界でただ一つの存在である」という苦しみの中で、それを抱えながら生きる勇気を持ってこそ、人は己の孤独と向き合うことができるのだと思います。

それこそ全ての人にとって同じ条件であり、かと言って決して比肩できる条件でもありません。
そこに目を瞑らずに生きていくことは、本当に苦しいことです。
けれど、その苦しみを人生に見出すからこそ、自分を信じ愛すること、愛する誰かや大切な何かを見つけ、共に生きていく喜びを知ることができるのだと思います。

だから、安易に答えを出さずとも良いのです。
孤独であってもいいし、誰かと似ていなくてもいいし、人と違うことを恐れない生き方こそ、自分の運命を生きるということなのでしょう。

この不安感は、誰しもが心の奥底に押し込めている部分かもしれません。
ただそれは「闇」ではなく、否定しきれぬ明らかな真実であり、それを見つめることで人生に「光」を見出せるのだと思います。


ちょっと疲れたなと思ってうたた寝をして、目覚めたらこんな話をブログに書いてみたいと思いました。
誰のためでもなく、自分のために書いた文章です。
乱文長文、失礼いたしました。

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