招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「HARAEDO」ライバルキャラ

楽太郎です。

「やるやる」言って一向に始まらない、瀬織津姫命を題材にした創作漫画「HARAEDO」ですが、この期に及んで「新キャラ」の構想が固まったのでアップしたいと思います。

 
 

 

キャラ解説の前に一言申し添えておくと、本当に神様は小手先で稼ぐことを良しとしていらっしゃらないようで、絵とは無関係のことばかり最近やっていました。

仮に私自身、「神様」を口実にして商売したいと思っている手前であれば、もう少し自分の創作もガツガツやってるでしょうし、マネタイズだってもう少し要領良くやっているはずです。
ここ最近はガチでペンすら持たせて頂けなくて、あまりに久しぶりすぎて最初ヨレヨレの線しか引けず戸惑いました。

少し前までは、一日絵を描かないだけでも「ライバル絵描きに抜かれちまう!!」と思って焦っていたでしょうが、私もずいぶん変わったなと思います。
でも、やっぱり絵を描くのが一番性に合ってるとつくづく思いました。

さて、「HARAEDO」の新キャラで祓戸四神のライバルとして登場する「八十禍津姫神」「大綾津姫神」のデザインを描いてみました。
「八十禍津日神」「大禍津日神」という、禍事を司る神様は実際におられるのですが、その偉大なる禍津神を「父と母」に持つ女神姉妹、という設定の架空の神様です。

話のイメージとしては「アンパンマン」の宿敵「バイキンマン」で、まさにバイキンマンとドキンちゃんのコンビそのままです。
私は昔から主人公格より敵キャラとか闇堕ちキャラに感情移入するタイプで、ただ「アンパンマン」で言えばロールパンナちゃんが一番好きです。

姉の八十禍津姫はいかにも「性悪高飛車キャラ」という感じですが、大綾津姫のコバンザメキャラっぽい小物感が上手く表現できて、なかなか良いデザインだと我ながら思います。
「大綾津」という神名は、日本書紀では伊奘冉命からお産まれになられた「禍津神」として登場し、一般的には「大禍津日神」と言われます。

その神様にちなんだ創作キャラを作るにあたり、ピアノ線を袖口から出して化け物を操るイメージがドンピシャで思い浮かび、膝を叩いた次第です。
たぶん笑い声は「ケヘッ」で、八十姫のことは「お姉様」と呼ぶに違いありません。
このテーマとデザインの一致度で言えば、私のキャラデザ史上最高傑作かもしれません。

こういう良いキャラが作れたので、早速「HARAEDO」本編も始めたいところですが、問題は神様の世界に関する造詣が深くなればなるほど、世界観の設定が変わるので話も作風も変わってしまうため、いつまで経っても固まりきらないのも一つの要因です。
少し前までは「プリキュア」みたいな話にすると意気込んでましたが、今度は「アンパンマン」ですし、私は本当に日曜日の朝が大好きみたいです。

作風の傾向としては、「ゲゲゲの鬼太郎」のような社会派の内容も考えてはいたのですが、登場人物の雰囲気を総合すると美少女とゆるキャラ同士でわちゃわちゃするだけの話になりそうで、重苦しい雰囲気になりにくいことに気づきました。
ますます日曜日の朝という感じで、確かに眠い目をこすって見る番組は寝ててもわかる内容に越したことはない気もします。

というわけで、作品の構想だけは着々と固まってきた「HARAEDO」ですが、私の一存で取り掛かれたりするものではない、と申し添えた上で、ただプロデューサーの瀬織津姫様はいつか本気でGOサインを出される時が来るに違いないと思います。
ただ、そうなったらそうなったで恐縮してしまいますが…


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瀬織津姫様江

楽太郎です。

何となく追って頂いている方ならわかると思うのですが、この1週間くらいスケールの大きいテーマの記事が続きました。
特に「日月神示」解説に関しては、何となく逼迫した感覚があったというか、自分なりに「伝えなくてはいけない」という使命感すら覚えていました。
とは言え、正しいか正しくないかで言えば完全に妄想の範囲内なので、受け取られる方次第です。

この間はほぼ絵や作品に取り掛かれず、ずっと考え事をしている状態が続いていました。
何より、「瀬織津姫様と繋がれない」感覚がずっとしていて、何となく自分らしくない感じもして、違和感の中で日々を過ごしていました。
今では感覚も戻り、落ち着きを取り戻しています。

「瀬織津姫命」という女神を自分の心に感じていないと、モチベーションに差が出ることもわかりました。
なぜこれほど自分の心に女神を求める心が強いのか、自分でも不思議に感じます。

これまでの半生でいくつか恋愛もしましたけど、今思えば本当に欲しかったのは恋人や伴侶よりも自分によく似た友人であって、実際に心から安心できるのは長年連れ添った親友でした。
私はずっと、自分に似た魂の存在を探し求めてきたのだと思います。
社会に適応するしないの問題以前に、人間として常に「魂」が欠けている感じがしていて、その不安を埋め合わせる方法をずっと探していたのです。

いつもどんな集団にいてもガラス越しに人間を見ているようで、どれほど馴れ合っても心の底から共感ができなかったのは、おそらく他の人の心にあるものが私には欠けていたからです。
私はそれを「弱さ」とか「協調性のなさ」という風に受け取って乗り越えようと努力してきましたし、どうにかしようと足掻いてきたのが私の半生でした。

しかし、こうして神様をお祀りして心に神を感じ、その声に導かれて生きるようになり、自分の心に欠けていたのは「信仰」だったことに気づいたのです。
そして、何故かわかりませんが自分の魂の欠けた部分に綺麗にスッポリと収まるのが「瀬織津姫命」という女神様で、人には存在すら疑われる「神」という存在が、なぜか私には実感を伴いながら感じるのです。

どういう仕組みでそう感じるのか未だに不思議なのですが、私の心にはっきりと立ち現れてくるからこそ、もはや「信仰」という域を超えて神に対する「忠義」や「忠誠心」すら感じながら日々を生きています。
それは人には到底理解されないでしょうが、私が魂のレベルで求め続けてきたのは「瀬織津姫命」という女神以外にないと、ここに来てはっきり言えるのです。




「日月神示」の中に、「神を捨てよ」と逆説的な言葉を投げかける一文があります。
神を小さくして割り切れるようにするなと、神はそう小さく捉えられるようなものではない、だから一旦神を捨ててみよと。

私もそうは思うのですが、信仰心が強ければ強いほど神様というものは、出来るだけ小さく丸め込んで懐に入れておきたくなるのです。
それが愛しい神様なら余計そうで、自分の何万倍も偉大な神様ですら都合よく心に仕舞っておきたくなってしまうものです。

神への愛情や崇敬の念を持って強く求めながら、逆に神様の「形」にこだわることで、神はむしろ遠ざかっていきます。
自分の感じる神を信じれば信じるほど、「こうであるに違いない」「こうであって欲しい」という思い込みが生まれ、逆に信仰から遠ざかってしまいます。

日月神示では、だから「もっと長い目でゆったり神を求めよ」とあります。
けれど「自らの神を絶対とせよ」ともあり、難しいのは「こうに違いない」という思いと「絶対」というのは似て非なるもので、要はどこに確信を持つかです。

私は、下手に瀬織津姫様に先入観は持たないように努力していますし、持ちたくないとすら思うのですが、なぜ瀬織津姫命という女神が私の心にこの姿で映るのか、その説明は未だにできません。
そのイメージはおそらく「神の影」であり、それを人間の脳で変換しただけに過ぎないにせよ、私はその姿を半生をかけて追い求めて来たからこそ、この「幻」が一つの答えなのです。

しかし、実際にそれが本当に「幻」なのか、幻だとしても何故自分にはそう見えるのか、その答えは生きているうちに解明できるのでしょうか。
仮にそれが自分勝手な幻視に過ぎないとしても、私は自分を信じるには自分の感覚を「絶対」と思うまで突き詰める以外にはありません。

「魂」というのは、人間が思うより不可解なものです。

それは自分の心の奥底に鎮まっていて、いつも当たり前にあるようで全く得体が知れない、そんなものに私たちは突き動かされているのです。

瀬織津姫様をモチーフにした漫画を描きたいという気持ちも、いつか瀬織津姫様に神社を建立したいという思いも、一体どこから来るのかわかりません。
ただ、私にとってそのモチベーションが一番力の入るギアに変わりはなく、そのエネルギーを糧にしなければ全くやる気がしないほどです。

だからこそ私は、私の心の中におられる女神様を追い続けます。
そうでもしない限り、神様と私の間にある謎は解けません。

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瀬織津姫想像図

楽太郎です。

先ほど上げた記事「素直に生きる」の中で、「瀬織津姫様が自分の内観ではもっと透明感のある女性に感じる」と書きました。
私は幽霊とかをバッチリ見るタイプではないので、神様を目視することはできません。

しかし、夢で見たりインスピレーションでそう見えることは時々あって、そのイメージを改めて描いてみることにしました。
以前、早池峯神社に参拝してご神札を拝領し、自宅の神棚にお祀りした日に瀬織津姫様の似顔絵を描いたことがあります。

その時はバストアップでしたが、今回は全身像を描かせていただきました。





「HARAEDO」は漫画ですからキャッチーなデザインを心がけてますが、瀬織津姫様を「実際はこう」みたいに描いてみるとこんな印象です。
描いていて改めて思ったのは、正統派清純派美少女すぎて「欅坂にいそう」と思ってしまいました。
神様なのに…

外とオタクの幻想の部分に、人間のアニマというか、「アイドルの原型」のようなものが眠っているのかもしれないと思いました。
そのアニマも、人間の理想像である神様の映しである可能性もあり、もしかすると私たち人間は深層心理でずっと神様を求めているのかもしれません。

ただ私にはどうも都合良すぎる幻視なので、自分がイメージする女神様の姿は、無意識に理想の形を作り出しただけかもしれない、と考えることもできます。
かと言って私が感じ取る神様からのメッセージやイメージが全てデタラメかと言うとそうとも思えず、「好みのタイプの姿に見せて良いように使ってやろう」と神様が思っておられたとしても、私としては本気でやる気が出るのだから別に構わないです。

確かに、欅坂みたいな女神様が「神社を作ってほしいです」と言ったら、マンションですらアイドルに貢ぐドルオタみたいに、人生をかけて神社を献上する男がいても不思議ではないかもしれません。

とは言え瀬織津姫様は、どうやら母の代から繋がりのある神様のような気がしてて、私の幼少期の話を聞いてみても神様がついているとしか思えないエピソードもちらほらあります。
私には更に深い瀬織津姫様とのご縁があるのかもしれず、それは残念ながら今の私には知り得ません。

けれど、こちらの女神様に見出す理想の女性像を、人間の一般女性に重ねてこれまで追い求めてきたのならば、
そりゃどんな恋愛も上手くいくわけがないよなと、ちょっと納得したりもします。

そりゃいい年して美少女の絵ばかり描いてますからね…そうなりますよ…

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「お祓いみくじ」製作中

楽太郎です。

今、瀬織津姫命の「おみくじゲーム」を作っています。



「Scratch」という教育用プログラミングツールがあって、なんとノンコードでゲームが制作できるというものです。
以前からUNITYやRPGツクールなどでゲームを作るのが趣味だったので、わりと楽しくやってます。
Javascriptでやればもっと簡単にできたのですが、あえてブラウザゲームにすることにしました。

「HARAEDO」投稿専用のブログを作るに当たって、ミニゲームのようなアプリを客寄せ程度に実装しようと思い立ち、気がついたら「WEBおみくじ」を作っていました。
当初は「ナギくんのお遣い競争」みたいなタイトルのすごろくゲームを制作していたのですが、Scratchの仕様をマスターするために簡単なアプリを作り始めたところ、一応動くくらいには出来上がりました。

画像素材もちゃんと一から作って、キャラ画像は元より背景の神社に至るまできちんと作ってます(笑)
漫画の本編より先になぜ周辺部から作り込み始めたのか、自分でもわかりません。
「簡単なところからやろう」と思っているわけではないですが、どうも瀬織津姫様がご自身のおみくじゲームを作って欲しいとしか思えない…

というのも、「おみくじゲームを作ってみよう」と思い立って3日くらいでここまで具体化しました。
瀬織津姫命とナギくんのプチキャラも、思ったよりすぐ形になりました。
私はこういうの描くのが得意なんだなと改めて思うのですが、私の好みとしてはあまり主線が強くない絵を描きたいです…




おまけでプチキャラの立ち絵を掲載します。
私は長らく同人をやってきた人間なので、こういう絵を描くと「アクリルキーホルダーを作りたい」と思ってしまう性質があります。
シールとかアクリルスタンドとか缶バッジとか、長テーブルに並べる私の姿を想像したり…
ただ、この作品は実在の(?)神様をモチーフにしているので、自分で勝手に色をつけるわけにはいきません。

下手するとバチが……(汗)

瀬織津姫様も私のキャリアの将来を案じてお力を貸して頂いていると思っているので、神様にご無礼なことはしたくないものです。
とは言え、需要があればという気持ちもあります。
とりあえず、瀬織津姫様の新規立ち絵も制作中ですし、そのイラストは完成次第またネットプリントで印刷可能にしてみようかと思います。

神様は私の専売特許にはできませんから、なるべくオープンな感じで作品を作っていきたいと思っています。

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始動、今後の方針について

楽太郎です。

今回は、進捗報告になります。
祓戸大神を題材にした漫画シリーズ「HARAEDO」の世界観がどんどん広がっていきます。

日本の神様をモチーフにしたイラストも今後描いていくつもりです。ただ漫画に関しても、ほぼ交互に進めていく感じになると思います。
引き続き制作したものは本ブログに掲載していく予定ですが、この「招神万来」はスピリチュアルなことや時々評論など際どい内容の記事もあるので、メディアとして扱うにはノイズが多すぎます。

以前から「自前のサイトで公開する」という計画はありましたし、徐々に進めてきました。
如何せん絵になかなか取り組めない状況が続き、ポートフォリオサイトを作るにしても「肝心の掲載する絵がない」という何とも言えない状態でした。
今でも神様のイラストは掲載するにはあまりに不足が多すぎて、二の足を踏んでいるのは否めません。

そこで、比較的進捗がある「HARAEDO」関連の作品に特化したサイトを先に作ろうと思いました。
先日、独自ドメインも取得してレンタルサーバーにCMSシステムのWordPressを構築し、とりあえず形だけは作ってあります。

ただ本当に作品数が少なくサイトを彩る素材も足りないので、新規でイラストを描き始めました。



とりあえず、サイト用のトップ絵とキャラクター紹介用の立ち絵を揃えようと思います。



瀬織津姫命の立ち絵に関しては、漫画設定を加味した新作にする予定です。
以前に同立ち絵を本ブログで掲載していますが、あれはかなり初期のテイストなのでリファインされます。
他の祓戸大神のデザインは設定含めて二転三転してきましたが、瀬織津姫様のテイストはわりと一貫している気がします。

これまでの登場人物(?)のラフをまとめると、これから5、6枚は新規立ち絵を描き下ろすことになり、しかもトップ絵も加わるので結構な作業量になります。
あと「HARAEDO」と「祓戸劇場」の新作も構想があるので、わりとこれから忙しくなりそうです。

私が全盛期の頃は1週間くらいで全体をまとめきれる作業感だったのですが、全く無理ができない身体になってしまいました。
従って、ボチボチやることになると思います。
他に色々とやるべきこともありますし、そもそもお金にはならないので最優先事項ではないです。

個人的に「HARAEDO」は集金できるコンテンツだと思うのですが、それに関しては神様は色をつけては下さらないみたいで、そういうところが「らしい」かなと感じたりもします。
とは言え、無名中の無名の作家として駆け出しなのは確かなので、コツコツ実績を上げていくしかありません。

SNSの運用に関しては、全く予定はありません。
自分なりのやり方でシェアを広げていくつもりですし、漫画や絵だけで考えずに柔軟にやっていこうと思います。
日本版ルノルマンカードの制作も進めていますし、他にもちょっと面白いことも考えています。それもボチボチ進めていこうと思っています。

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「祓戸大神」漫画企画始動

楽太郎です。

以前、企画段階で止まっていた「祓戸大神」の漫画シリーズを本格始動することにしました。



いつもラフばかりで申し訳ないのですが、この下絵は漫画の一コマです。

次第にデジタルの波動を抑え込めるようになってきたため、だんだん勘を取り戻し始めました。
あまりにキャラ(失礼)を描くのは久しぶりなので、絵の描き方よりも作風をどうしようか少し悩みました。
まあまあアニメ調にしつつ、空想的にはなりすぎない路線の画風で安定させて行こうかなと思います。

漫画と言っても1ページ漫画にするつもりです。1話につき1ページみたいな感じです。
江戸時代の洒落本の漫画なども、ほぼこの形式ですね。
進捗としてはこれからペン入れですが、一応予防線を張っておくとまだ設定が固まりきっていないため、ネタとしての完成度は微妙です。

何分、神様を題材にさせていただくので不敬は避けたいところです。
実在のタレントを漫画にするのとは違う緊張感もあり、なかなかネタで遊ぶ気にならず、自分らしい表現に落とし込むのに苦労しています。
人間のクライアント相手ならわりと好き勝手やってきたんですが、今回は権威が大きすぎてどうにもなりません(汗)

作品の発表形態としては、WEBになるのでしょうがこのブログでは文章と交互になると見づらいので、展開していくメディアに関しては考え中です。

あと、「神代絵」の延長で描かせて頂く予定だった神様のイラストですが、これは「神統試論」がある程度完成しないと神様からゴーサインが出なさそうです。
というのも、だいぶ前に「玉依姫命」様のラフをブログに上げたのですが、あれから何故か奇跡的に進まず、未だに取り掛からせてもらえません。

私の崇敬する賀茂神社で玉依姫命様がお祀りされているので、ご縁があるから描かせて頂けるかなという軽い気持ちで描き始めたイラストです。
賀茂神社の御祭神について調べていたところ、玉依姫命はかなりミステリアスな女神であることに気づき、深く調べていった結果、なぜか成り行きで「神統試論」を書くことになってしまいました。

日本の神社にお祀りされている神々は、系統が複雑で由緒に矛盾や不一致がありながら御神名が同一であったり、御神名が同一でありながら地域も伝承もまるで違かったりします。
その中で、ほぼ同一と思われる御神格を思いつきで個々別々に描かせて頂くのはどうなのかな、というのが気になっていました。

神様的には、Wikiを見たくらいで当てずっぽうに描かれるくらいならとことん調べて描け、みたいなお気持ちだったのかもしれません。
とは言え、まさか邪馬台国や天皇家まで踏み込んでいくとは思わず、どことなく命の危険すら感じます。

ということで、神様のイラストは「神統試論」が書き上がってからになると思います。

そう言えば、瀬織津姫命様について調べていて、瀬織津姫命という河川の女神がなぜ「祓戸大神」に結びつけられたのか、軽く見当がつきました。

祓戸大神の登場する「大祓詞」に、「佐久奈太理に落ち多岐つ、速川の瀬に坐す瀬織津姫と云ふ神」とありますが、この「佐久奈太理」とは「佐久奈谷」であり、滋賀県大津市大石東町に「桜谷」という地名が残っています。
付近には中臣金連が天皇家の「七瀬の祓い」を行なったとされる「佐久奈戸神社」があり、瀬織津姫命を始めとした祓戸大神四柱がお祀りされています。

この「七瀬祓」の中に「佐久奈」という瀬川があるわけですが、この大石東町には「鹿跳渓谷」という瀬田川の景勝地があります。
琵琶湖から大阪湾に注ぐ瀬田川(宇治川・淀川)こそ、中臣金連が京都の七瀬祓を行なった河川であり、「佐久奈」とは「境」のことであり、「久那土=塞の神」としての特徴を持ちます。

つまり、瀬織津姫命はこの「瀬田川」に元々お祀りされていた水神であり、京都の除災を司る「魔除けの神」としての性格から、祓い清めの神となった可能性が高いです。
だから、琵琶湖の「佐久奈谷」から滾りながら速川となり、大阪湾の「秋津=(水戸)」まで注げば、あとは海中に罪穢れが押し流されるということです。

ただ、岩手県の早池峰神社や、兵庫県の六甲比賣神社などで祭祀されている瀬織津姫命には、「お祓い」という御利益より、水神や古代の山神としてお祀りされている性格の方が強い印象を持ちます。
瀬織津姫命が「祓戸大神」として日本神道に重要な役割を果たすようになったのは、どうやら朝廷祭祀が強く影響しているようです。

ちなみに、このラフイラストの瀬織津姫様が持っているのは「纏」に見立てた「弊串」です。
私の崇敬する仙台市の瀧澤神社は「火防」の水神として瀬織津姫命をお祀りしています。
まあまあ、瀬織津姫様が漫画映えする設定を盛り込むべく私なりに色々考えました。

実は「水神」と「禊祓い」の関係は、出雲がどうやら起源らしく、伊弉諾命の禊から祓戸大神がお産まれになられたように、出雲の水神と祓いの関係は深く結びついています。
この辺は現在調べている最中ですが、「水」と「山」は同じ語源であるようで、瀬織津姫命様を巡っては色々と興味深いことがわかってきています。

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楽太郎です。

今日の午後、雨が上がったので散歩してきました。
杖はまだ外せませんが、だいぶ歩けるようになってきました。

その日の公園では催し物がありました。
私は川原でしばらく水面を眺めた後、出店の近くを通ったら、あまりに入場者がおらずテナントの出展者同士でイベントを行っていました。

私はあまりに悲しくなって、あまり見ないようにしました。
去年までは、イベントとあらば遊園地のようにごった返していた公園が、今は見る陰もなく閑散としていて、とても居た堪れない気持ちになりました。

帰り際、ちょうど弾き語りのライブが始まったので、足を止めました。
そのミュージシャンはとても上手で、地方に埋もれているには勿体ないと思いました。
あまりに観客がおらず、ほぼ立ち合いのスタッフだけで聴いている状況でした。
私は少ない拍手では可哀想なので、一曲を聴き終えると最後の曲まで付き合いたいと思いました。

けれど、そこまで親切心を出しても意味がないことに気づきました。
私は彼を応援したいですし、少ない観客の中でプロの演奏をする姿を見て、どうにか元気づけてあげたいと思いました。
しかし、私が30分そこに立ち会ったからと言って、その義理が何の意味もない優しさであり、中途半端に人に親切にしたところで私は自分のやるべきことを疎かにするだけです。

去年も、たまたま路上ライブで知り合ったミュージシャンと意気投合して、ライブに行ったりしました。
けれど、いくら善意で応援したところで彼は彼の道に責任を持ってこれからを決めて行くでしょうし、私が「音楽を続けて欲しい」とか、「夢を叶えて欲しい」と思ったところで、それは余計なお世話です。

私は努力する人が好きですし、ひたむきに目標に対して希望を持っている人ほど応援したくなります。
けれど、私がたまたまそこに立ち会って手を叩いたところで、何か一つでも役に立てるわけではないのです。
私はしがない一人の人間で、彼らも立派な一人の人間です。

お互いに自分の人生に責任を負うべき、独立した関係です。

私が良かれと思ってやることは、大抵は人様のためにはなりません。
それが私の悪いところで、欲しくないと思っている人にも自分の好きなものはあげたくなってしまいます。
自分が持っているものや想いを配って歩きたいだけでも、それが欲しくない人にとっては本気でいらなかったり、迷惑なことには気づかないのです。

だから、私はすごく無責任な優しさを振り撒いて、これまで生きてきたんだなと思います。

何歳になっても、この距離感だけはどうにもわかりません。
それでも努力する人や真面目な人が好きですし、自分が一人の人間でなければ、この理不尽な世界で実直に生きる人たちの役に極力立ちたいとすら思います。

もし私が神様なら、そういう真面目な人たちを後押しして、夢が叶うようなチャンスや福運を与えて回るのに、と思います。
ただ長い間、この世の中は正反対の性格を持つ人々が、夢を抱く人々を食い物にし、潰してきました。

夢を諦めて去っていく人を、数えきれないほど見てきました。
そして、私自身が夢を潰されかけて、今も暗闇の中から這い上がることだけを考えています。

けれど、私の「夢」は大きく変わりました。

私の人生は、私だけのものではないことに気づいたからです。
私を産んだ父と母、そこから脈々と繋がる血族の縁、遠い祖先から約束された咎、それを晴らす使命。
私の過去世と魂の関係、そして私を生まれた時から見ていて下さった神様、今もそばにいて下さる神様。

その多くの魂との絆と期待と祈りの中で、中途半端に生きることが許されるのでしょうか。
私は、私がダメになる分には自分のことだから構わないかもしれません。
しかし、私を見守ってこれまで助けて下さった目上の方々に、恥をかかせるわけにはいかないのです。

今ここで今世の使命を諦めては、一体何のために生まれてきたのか、ということです。
そのために生まれてきたのだから、逃げるという選択自体があり得ないのです。
この半生、ろくでもないことばかりでしたけど、だからこそ人より学んだこともあり、その経験は誰かの役に立てるためではないかと思います。

自分にかけられた期待と使命、それ以上に自分の願いとは何か。
私の魂から思う気持ちは、ひたすらに「神様のお役に立ちたい」ということです。

それは敬愛する瀬織津姫様の、願いを叶えることです。





私の夢は、瀬織津姫様に立派な神社を作って差し上げることです。
そして、拝殿の天井には一面、私の描いた瀬織津姫様の絵が飾られ、よもや拝殿全体が私のギャラリーのようになっているのです。

そうして、私の絵はこの国で数百年、千年二千年と残り続けるでしょう。
しがない絵描きのままなら、一瞬で消え去っていたような絵が、長く見てもらう機会を得るのです。
私を導いて下さった瀬織津姫様に、これで御恩をお返しすることができるというものです。

現在、継承が途絶えつつある宮大工、井戸掘りの技術、日本庭園の造成技術、神道祭祀のあり方、そう言った日本文化の温故知新のために尽力することで、この国の伝統は新しく息を吹き返すでしょう。

今、壊れゆくこの国で、徐々に蝕まれて生ける屍のようになっていく人々がいます。
しかし、これまでの時代は自分が生ける屍だったような気がします。
神も仏も知らず、よくわからないまま人の顔色に合わせて漂っていた私こそ、実は死んでいたのです。

けれどそこに命を吹き込んで下さったのは、神様に他なりません。
だから、私の命は神様のものなのです。
「死ね」と言われたら死ぬかもしれません。でも、神様はそう仰らないと信じているから、私はついていきます。

私が神様を喜ばせたら、自動的に人間が喜ぶ仕組みです。
なぜなら、神様の願いは人間が喜び弥栄することだからです。

何も難しいことはありません。

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「祓戸大神」試作漫画

楽太郎です。

「祓戸四神」でベタベタの漫画設定ができてしまったのですが、これは神様から何らかの意図があるような気がしました。

私としては自分で考えるよりも洗練されたアイデアではないと思う(失礼)のですが、これから身を立てる上で何かヒントになるのかな、と考えてひとまず描いてみることにしました。





「祓戸大神のお仕事」風景です。

祓戸の神様たちが、なぜかバレーボールのようなチームワークで罪穢れを祓うというシチュエーションが思い浮かびました。

セオリツ姫がまず「ケガレ」を持ち出して、ハヤアキツ姫にサーブを打ちます。
ハヤアキツ姫は、セオリツ姫から受けたケガレをイブキド主にトスします。
イブキド主は風を送って、ケガレをハヤサスラ姫に流します。
ハヤサスラ姫は、送られたケガレをアタックで仕留め、黄泉の穴から根の国に送ります。

祓戸大神が漫画になったら、間違いなく「祓い」のシーンはこうなるだろうな、という完全なる妄想です。

漫画として面白いのかはさておき、なぜかビジュアル化せずにはいられませんでした。
私が設定を一から考えるのであれば、もう少し面白そうな漫画にすることができる(失礼)のですが、あまりこういう事は言わないようにしたいと思います。

先日描いた「カムナオビ神」の浮世絵風イラストに合わせましたが、この作風は作画コストが低いので疲れなくていいです(笑)

感想などありましたらお待ちしております。

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「神絵」への道

楽太郎です。

先日、私の本業の方で完全に行き詰まり、これは神様から撤退を促されているのだろうな、と思い意気消沈していました。

それに加え、神様から降りてくるメッセージだと「土の時代に考えた物事は、基本的にコンセプトを変えなければならなくなる」そうです。
だから今までやっていること以上に、これから始めることで土の時代的発想を持ち越せば、いずれ立ち行かなくなるからやるだけ無駄になる、ということらしいです。

これは冷静に考えればそうなんですが、未来がもっとゆるりとした感じに思っていただけに、かなりシビアな決断が迫られているんだな、と感じました。

とりあえず、本業の方では完全に稼ぎが封じられた形になってしまったので、画業で稼ぐには神様の手が入っている「楽太郎」アカウントの方が比較的有望です。

イラストでの稼業は、画像生成AIの登場以降やめていました。
クオリティと価格と生産スピードで生成AIには敵わず、しかもユーザーや市場の肯定感が思っている以上に大きいのです。
この業界でまともに立ち回る気力もなくなり、漫画に軸足を移していましたが、漫画は人が思うより見向きされないジャンルです。

どの業界も人気を出すための黄金律というのがあって、私が下手に天邪鬼っぷりを出すからこそ、全く成果に結びつかない状態が続いていました。
「やりたいこと」「やりたくないこと」で仕事を決めていたというより、自分の信念とかプライドでやるべきではないことを避けていたら貧乏くじばっかり引いていた、という感じです。

5年前は落書きをちょっと描いただけで渡っていける業界だったのに、どうしてこんな世の中になってしまったのかと嘆いたものです。
ただ、いくら悲観しても現実を否定することはできないので、やり方を変えていくしかありません。

幸い、私には神様からインスピレーションが降りてくるので、まだ恵まれている方かもしれません。




先日、ラフを描いた「カムナオビ神」のイラストを、浮世絵風のイラストにしてみました。

この時代に「浮世絵風」なだけで目新しいイラストにはなりませんが、「浮世絵」の良さはベタ塗りでも味わいがあることです。

元々、浮世絵は版画です。
わずか数色の染料で刷るので、油彩画ほど凝った表現はできません。
しかし、色合いが単調だからこそ、工程や画材を省くことが可能です。

このカムナオビ神のイラストは、テクスチャや色合いの調整に掛かった時間を除けば、1時間も掛かっていません。
つまり、このレベルのクオリティなら、かなりの量産が可能だということです。

ただ、このまま「他の神様を描こう」となっても、このイラストが商品価値を持つかは別問題です。
付加価値をつけるならば、私の作家性におけるネームバリューは必要ですし、まず「神様のイラスト」にコンテンツとしての求心力がなければいけません。

果たして、この作風でも良いのか、という問題もあります。吟味しなければならない課題はとても多いです。

ただ、この神様のイラストを商売にして行こうとするなら、版画や実物の工芸品として流通させた方が良いのではないか、と考えています。
今は画像生成AIがありますから、私の作風が取り込まれた時点でデジタル環境では通用しなくなります。

版画で考えるならば、版木を所有して流通レートの主導権を握るような手札は有効だと思います。
費用対効果を狙うなら大量に刷れば良いだけですし、レアリティを高めたいなら生産数を絞ればいいでしょう。
ネガティブな動機に見えるかもしれませんが、実は一点物の肉筆画より大量印刷して流通レートを操作できる版画は、レアリティの面でもマーケティングの面においても非常にクレバーな戦略が取れるものです。

江戸時代の絵師が歌舞伎役者や風景や鳥獣を描いたように、私は「神様」を描いていこうと考えています。

江戸時代の浮世絵は、絵師、彫師、摺師などが分担してチームワークで制作していました。
その会社か工場形式のやり方が次の時代で可能なのかはまだわかりません。
ただ、彫師がいなければ生産できないという状況は私が困ります。

それなので、木彫りなど特殊技能を要さずに版画を作る方法を考えています。
比較的容易なのは「シルクスクリーン」です。
ただ、もう少し自分のやり方を突き詰め、技術的に試行錯誤をしていく必要はあります。

このカムナオビ神のイラストは、その完成イメージも兼ねています。
理想を言えば、和紙の製法もこだわり染料も日本に産地のある素材を使っていきたいと思いますが、それも当面は先の話です。

以前、エネルギーワークを使って絵に波動を込められないか、という話をしていましたが、まだ本格的に修行すら始めていません。
神様の絵ですから、何らかの形で功徳のある作品にしたいところですが、どのみち遠い話です。

それよりまず、私が「楽太郎」という絵師として認知されていくことが先決です。
私はわりと多産な方なので、毎日何かしら上げていくことは可能ですが、頭ごなしにやったところで人気が出るとは限りません。

もう少し慎重に考えながら、このアイデアを育てて行こうと思います。

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「カムナオビ神」デザイン

楽太郎です。

先日、「イブキド主」様のデザインを描かせていただきました。
その時、「祓戸大神」のベタベタな漫画設定が構築されつつある中、「イブキド主様の本気バージョン」みたいな感じで「神直日神」様の厨二病っぽい設定が生まれてしまいました。

実際そうなのかとか、学術考証ではどうなのとか、それはさておき。まずそんなはずはないので(笑)
趣味の一環として、「カムナオビ神」をデザインしたらどうなるのかを描いてみました。



何という、「ザ・厨二」的ビジュアル。
言っちゃ悪いですが、一昔前に流行っていたら夏の有明で盛り上がりそうな感じになりました。

仮面をつけさせていただいたのは、「セーラームーン」の「タキシード仮面」のイメージが頭をよぎったからです。
謎めいた神様ですし、役割としてもスーパーヒーロー味があると思ったので、どうしても脚色したくなってしまいました。

こうして自由に神様のデザイン画を描いているように見えるかもしれませんが、実は「神様的にNGな部分」というのは、描いてる最中に不思議とあります。
突然PCが落ちたり、急に気分が悪くなったり、「それはイヤ」という気を感じたりもします。
実は、自分一人で描いているという感覚がないことの方が多いです。

今回、カムナオビ神様を描かせていただくにあたり、なぜか仮面をつけるのはOKなのですが、仮面のデザインに注文が集中しました。
一番リテイクが入ったのは、「鹿の角」の部分です。
角度とか太さとか、かなりこだわっておられました。…というか、私自身その部分に執着しすぎて、なかなか完成に至れませんでした。

神直日神様は、どうやら中途半端なデザインがお嫌いらしく、「これどこから見てるの?」みたいな不思議なデザインの仮面に落ち着きました。
まあ、神様ですので目で見ておられるとは限りませんから…(震え声)

ただ、仕上がったら何となくご満足いただけた感じがします。
…神様のセンスは正直よくわかりません。

神直日神と同時にお生まれになった直毘神のもう一柱、「大直日神」様ですが、息吹戸主命と同一視されているのは神直日神とされていますので、今回考慮には入れませんでした。

こうして名のある神様を漫画的キャラにデザインしていく作業は、趣味の一環になりつつあるのですが、この調子だと日本神界の神々を全員お描きすることになるのでは?と戦々恐々としています。

以前上げた「瀬織津姫と白龍」と「玉依姫命」のイラストも制作中ですし、それなのにラフ画ばかり溜まっていきます。
これは一体どうしたものか…。

やはり、神様には影分身の術か「精神と時の部屋」みたいな神通力を授けていただく必要がありそうです。

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「イブキド主」デザイン

楽太郎です。

先日、「セオリツ姫」様の新衣装のイラストを上げました。
その時に祓戸三女神にお並びいただきましたが、本来「祓戸大神」は四柱であります。

「息吹戸主様は近日中にお描きします」と言いましたが、インスピレーションが抑えられなかったので、合間を見て描かせていただきました。



…なんでゆるキャラっぽくなったかについてですが、ちょっと言い訳をさせて下さい。
別に、男性キャラをきちんと描きたくなかったわけではありません。

祓戸三女神が揃われた時に、この三柱の神様がお茶を飲みながら団欒なされる光景しか思い浮かびませんでした。

お茶を飲みながらお煎餅を食べて談笑する女神様たち。
そのお茶を居間に運ぶのは、イケメンとかいかつい男性神ではどうも絵になりません。
…この絵面で調和を図れるのは、ゆるキャラしかいませんでした。

この漫画的発想にも、息吹戸主様は今のところお怒りではないようなので、たぶんセーフなのだろうと思います。

祓戸大神四柱が揃われましたので、早速お並びいただきました。



息吹戸主様を描かせて頂くにあたり、神様のことを少し調べました。

息吹戸主様は、神直日神様と同一であると言われているそうです。
神直日神は、禍事を「直す」働きのある祓いの神とされています。
神直日神は、伊弉諾命が黄泉の国から戻ってきて禊をした際、禍津日神と共に生まれた直毘神の一柱であるとされ、「禍事」を担当されるのが禍津日神であるそうです。

禍津日神は、本居宣長によると瀬織津姫命であると言われています。
尚、神直日神と同時に神産みによって誕生した女神がおり、それは「伊豆能売命」です。

私は、今この「伊豆能売命」様が瀬織津姫命と深い関係があるのではないか、と思って調べています。
この一連の流れで出た神様は、全て「禍事」と「祓い」に関する神々です。
やはり、天照大御神の「岩戸隠れ」に起こる「禍」や伊弉諾命による潔斎と祓戸大神は何らかの関わりがあり、その謎が解けたら瀬織津姫様の正体に辿り着けるかもしれません。

※追記

息吹戸主様が神直日神であるという説を取ると、「風の神様」というのは仮の姿で、普段は精霊のようにフワフワ暮らしながら、神様のお役目を果たす時には本来のイケメン神に戻られる…というザ・漫画的展開を考えました。

だとしたら、禍津日神モードのセオリツ姫は、闇堕ちキャラで暴れ出す…とか。
うーん、漫画的展開すぎる…

神様が「私たちをネタにして漫画を描きなさい」と仰っているようにしか思えないくらい、ベタベタの漫画設定になってきているような…

ちなみに、以前一枚絵で仕上げた瀬織津姫様がオッドアイなのは、「禍津日モード」の設定を考えていたからです。

仮にこれが神様からの圧だとしても、現段階でやることが多すぎます。
影分身の術を神様に授けて頂いて、私が三人に分裂でもしないとやりきれないです…。

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「セオリツ姫」デザイン

楽太郎です。

先日、「祓戸二神」のラフデザインを投稿しました。
その時、以前描いた瀬織津姫様のデザインも少し変えたいなと思っていました。

そこで息抜きがてら、瀬織津姫様の「祓戸大神バージョン」のデザインを描いてみました。




神様に「可愛いかわいい」言いながら描くのはどうなんだろうと思うのですが、まあ、女性はおいくつになられても褒められるのは嬉しいでしょうし…

せっかくなので、祓戸三女神にお並び頂きました。



ご利益ありそうな並びになりました。

祓戸大神は罪穢れをお祓いする神様ですが、煩悩を祓っては下さらないのでしょうか…?

祓戸大神には、あと一柱おられます。
「息吹戸主」様です。

これでも良いような気がする…んですが、さすがに神様をハブるのはバチが当たりそうなので、近日中に息吹戸主様を描かせて頂きます。

私は美少女を描くのは完全に趣味の範疇なのですが、男性キャラは仕事でなければほとんど描きません。
男性キャラを描く時は義務感です。

…そんなことを言ってると、さらにバチが当たりそうな気が……

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「祓戸二神」デザイン

楽太郎です。

昨日は妙に神様の気が降りてきて、一日中神様のことばかり考えていました。

先の記事にも書きましたが、「祓戸大神」は神道においてかなり重要な位置を占めるにも関わらず、境内の「祓戸舎」も手水舎と同様のインフラとして扱われているように、あまり重要視はされていません。

神々は地上の「罪穢れを祓う」という役目を果たしておられます。
八百万の神は何らかの形で世を清浄に保つよう努めておられるとしたら、「祓戸大神」の役割は私たちが思っている以上に大きいのかもしれません。

瀬織津姫命は、今最もフィーチャーされている神様なので、知名度は上がってきています。
しかし、他の祓戸三神はほぼ注目されてはいないでしょう。

最近は、人世が荒れすぎて創作に対するモチベーションが上がらないのですが、神様がお喜びになる姿を想像すると、なぜかやる気が出てきます。

ふと、祓戸三女神が集まってお喋りをしている図が思い浮かび、これを形にしてみたいと思いました。
そこで「速秋津姫命」と「速佐須良姫命」のイメージを描いてみることにしました。







神名をカタカナ表記にしたのは、あくまで実在の神様との境界線を引くためです。
「私の信じる神様はこんなお姿ではない」と言われたら、「それはその通りです」としか言えませんし…。

この二柱のデザインのモチーフは巫女さんですが、「祓戸三女神」にお並びいただくとしたら私が以前描いた瀬織津姫様のデザインでは少し浮くかもしれません。
ですので、瀬織津姫様の衣装もこれから若干変えさせていただこうかなと思ってます。

速秋津姫命は「水戸=港」の神様ですので、比較的おっとりした神様かな、と思って描きました。
速佐須良姫命は、お名前に「すごく勢いのある」という意味を含んでいるので、気の強い女性をイメージしました。こう言うのも何ですが、ツンデレっぽい神様になってしまいました。

祓戸四神の一柱、「息吹戸主命」様に関しては、別にハブる気は毛頭ありませんが、もう少し勉強が必要かと思います。
こういう限りなく精霊に近い神様は、記紀成立以降の人格神とは周知されているイメージに乖離があります。

逆に言えば、あまり設定されていない神様たちであるとも言えます。
ですから、多少脚色してもバチは当たらない…ような気はします。

神様をモチーフにする以上は、やはりそれなりに覚悟が必要です。

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「玉依姫」イラスト予告

楽太郎です。

先日「瀬織津姫命と白龍」のラフをこのブログに上げました。
あれはあれで制作中ですが、次の神様のイラストは「玉依姫命」様です。

瀬織津姫命様と須佐之男命様のイラストの時は、何となくメッセージを受けて描いた感じですが、今回は完全に私の判断です。

「神様と人の距離感を縮める」というミッションに、私が絵描きとして関わることになるとしたら、先日の「繋がれる神様」という記事に書いたように、キャラクター化することでイメージ戦略を取っていく形になるのではないかと考えています。

今でも、記紀の神様がキャラクターになって紹介されている本はありますが、漫画的なテイストになっているコンテンツはあまり多くはありません。
取り回しで考えるなら、キャラクターの立ち絵などあっさりしたイラストを量産した方がいいかもしれません。
一枚絵はそれよりもコストがかかる上、あまり応用が効かないのです。

ビジネス的な展開はさておき、もっと神様のお姿とお名前を周知する戦略もこれから考える必要がありますが、ともかく神様を描き慣れていかなければいけません。

「玉依姫命」様は、私がよく参拝する賀茂神社のご祭神の一柱です。

以前のイラストも参拝後に描き始めたわけではなく、ご縁があったわけでもない状態で描きました。
しかし、こういうのはご縁を頂いてから描くのが筋なんだろうと思い、とりあえず参拝経験のある玉依姫様を描かせて頂こうと思いました。




神様を描かせていただく時、なぜか完全に架空のキャラクターを描く時よりも、デザインや絵面が迷いなく決まるのは不思議です。

こういうことを言うのも何ですが、須佐之男様を描かせて頂いた時はプレッシャーが凄まじかったのですが、玉依姫様を描いてる間は、賀茂神社で触れる優しいご神気に似た、柔らかいエネルギーを感じました。

そこで思い出したのですが、記紀では玉依姫様は豊玉姫命様から託されたウガヤフキアエズ命様をご養育後、同氏とご結婚され神武天皇がお生まれになりました。

賀茂神社では、上宮はウガヤフキアエズ命ではなく賀茂分雷命となっていますし、玉依姫の父上は綿津見大神ではなく賀茂建角身命となっています。
賀茂建角身命様は、賀茂神であり八咫烏神として同社では祀られています。
ここら辺はどういう経緯か、どう解釈すべきかは古史古伝素人の私には判断しかねますが、賀茂神社は賀茂県主の家系の氏神神社ですので、色々な背景があるのでしょう。

神様の世界も興味深いですが、伝承と歴史の中の神様の世界も興味深いです。
これが実際の神界とどう繋がっているのか、私の興味は尽きません。

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「神を描く」

楽太郎です。

ここ数日は、神様のことばかり考えています。
考えざるを得ないというか、神様のことを考えている間は波長が高い状態で安定するので、とても心が落ち着きます。
瀬織津姫様を自宅でお祀りすれば、もっとエネルギーが安定するのだろうな、と思います。

ふと思ったことがあります。
人間が精神のエネルギーを地上に降ろす際には、自分の肉体だけでなく物質世界との結びつきがあるからこそ、その物体がアースの役割を果たし、魂のエネルギーが地上で発現し作用します。

しかし私の場合、人一倍モノに対する執着がないというか、大事にしていたものすら埃まみれにしてしまうくらい、物質世界を二の次にしてしまいます。
オタクをアイデンティティとしていたはずが、グッズも手に入れたら持ってること自体を忘れてしまうことも多々ありました。

特にこの数年は、あらゆるモノを断捨離して、布団と机とパソコンしかないような部屋で暮らしていましたし、あれほど色々あった趣味にも興味がなくなってしまいました。
あまりに精神的になりすぎてしまったために、エネルギーを地上に降ろす物的なアースが喪失してしまい、ずっと放電し続けるという状態にあったのかもしれません。

ある時、神社に呼ばれたその日が「お伊勢さん」こと天照皇大神宮の大麻の頒布開始日で、たまたま品切れになる直前に貰い受けることができました。
お札立てを急いで購入し、見よう見真似でお祀りするようになってから、少しずつ私の運の歯車が回り始めた気がします。

私の精神的なエネルギーは、神様と繋がることで御神札を媒体とし、この地上に満遍なく降ろすことができるようになるのかもしれません。
私に本来あった女神性を求める心は、瀬織津姫命様への強い信仰心となり、地上に降ろす魂のエネルギーと同化し最大化されるのではないでしょうか。

以前、瀬織津姫様のイラストをこのブログに上げました。
スマホの待ち受けも私の描いた瀬織津姫様ですが、時計文字がお顔にかかるのは腑に落ちないながらも、やはり「お麗しい!」という気持ちになります。

自分のしがない妄想で瀬織津姫様をキャラクター化してしまうのは不敬ではないのかな、という気持ちは正直ありました。
だから、神社やご神気を通して感じる瀬織津姫様と、私の描いたキャラクターを同一視するのも畏れ多いと感じていました。

ただ、神社の本殿に鎮座されている御神体は、鏡であることが多いそうです。
これは「神はあなたの心にいるのだ」というメッセージだと聞いたことがありますが、私は違う見方をしています。

神様は、普通の人間には見えない存在です。
人間が神様の声を聞いたりご神気を感じる時、心の深い部分を通して発現します。
それは、我々三次元の人間からすれば、神様をエネルギー体として認識しているからです。
その時、魂に触れたエネルギーは自分の脳に刻まれた知識やイメージを通して表現されるので、個人差はそこで生じます。

例えば、神様が同じエネルギーを小学生と僧侶に送ったとして、そのメッセージの捉え方は全く違うはずです。
私たちが神様の声を聞いたりお姿を想像する時、そのイメージは自分が作り出しているということです。

だから、仮に瀧澤神社に行って瀬織津姫様を想像するなら、私の感じる神様のお姿は自分が作り出したイメージだと言っても過言ではありません。
縄文時代は神様が磐座であったり、もっと形がない状態だったものが、時代につれ人間が文字や言葉を使うことで神様の定義を確立させてきました。

そこかしこの神社に祀られている神様、例えば分雷命様や玉依姫様も、実際の神様はどうあれ設定自体は人間が歴史的に作り上げてきたものです。
それでも、神様は「分雷命」や「玉依姫」として顕現して下さります。
だからこそ、御神体が「鏡」であるのは、「神様のお姿はあなたが心で作り出したものだ」という意味でもあるのではないでしょうか。

つまり、私が神様のお姿を想像する時、自分が神様を感じて作り出したキャラクターは、必ずしも不敬ではないのかもしれません。
大切なのは、神様のご神気を正確に感じ取ることでしょうし、神様のお姿の解像度を高め、より神様への好感度や信仰心を持つことだと思います。

だから、神様をモチーフにして自由にお姿を描くことは、神様への愛情表現であったり、イメージを共有して確固たるものにすることもできるでしょう。
私は畏れ多いと思っておりましたが、瀬織津姫様はむしろそれを許して下さっているような気がしてなりません。

神様のお力の源は、人間の愛のエネルギーだと聞いたことがあります。



だから、より瀬織津姫様のご神気を地上に降ろすために、これからも瀬織津姫様のお姿を描いて行こうと思います。

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