招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「日月神示」とは何か

楽太郎です。

スピリチュアル業界には「2025年7月問題」というのが数年前から話題になり、昨今は「あるかないか」という議論が活発になりました。
本ブログでもその件に関して何度か取り上げていますが、その「7月」も残すところあと1週間です。

予言されていた天変地異が起きなければ困る人などいようはずがないので、何も起こらないなら起こらないに越したことはありませんし、タイムラインや世界線が切り替わったとしても結果論に過ぎないので、そのことについて議論しても意味がないと思います。

私の感覚では、確かに春分点頃までは「地球が荒れている」感覚がしてましたし、「何もない気がする」ようになったのは夏至以降です。
個人的にはこのまま「7月問題」は有耶無耶になる可能性が高いと感じているのですが、それでも南海トラフしかり地震もあらゆる災害に関しては「いつ何時起こってもおかしくない」ものなので、引き続き防災意識を持っておく必要があります。

この夏はどんな災害よりも目に見えるのは酷暑による旱魃や水不足、日照被害による農作物への影響です。
すでに猛暑で水田に水が張れなくなり、今年の稲作への影響も危惧され始めました。
この毎年の酷暑に関して、私は現代科学が提唱する「地球温暖化」は大して関係ないのではないかと感じていて、おそらく地球の次元上昇の一環で起きている現象ではないかと見ています。
それに関して話すと長くなるので割愛しますが、あと数年すれば普通に戻るか、むしろ寒冷化し始めるのではないかと思っています。

現在の世界を巡る変動を考える時に、私が指針としているのは第二次世界大戦末期に画家で宗教家の岡本天明氏に降りた「日月神示」です。
この日月神示は、おそらくいくつものタイムラインの話がごちゃ混ぜになっていて、前期の神示は確かに第二次世界大戦の行末などを記述しているように思います。
しかし、天明氏の自動書記は戦後にも断続的に起きていて、最後の筆記は1959年とされています。

この啓示が降りる時、天明氏の右腕に激痛が走り、自動書記が猛烈に降りた後に書かれた神示は数字と仮名が入り混じった難解な暗号文で、それを解読するのに数年を要したとされます。
ただ、暗号文を無理矢理こじつけたにしては一貫して筋が通っていて、しかも理路整然としている上に含蓄に富み、同じ文脈の話が何度も現れるという、仕込みにしては不可思議な内容でもあります。
私は岡本天明翁を疑う気はないのですが、仮にヤラセだとしても本文の内容は非常に示唆に富み、思想哲学として読んでも第一級であると思っています。

私は10代の頃に哲学にかぶれて、ニーチェやハイデガーやフッサールやフーコーを読み漁ったものですが、その後に出会った仏教哲学すら内包する、深淵な宇宙観が示されていると感じています。
その中でも、「善と悪との和合」や「自己浄化の敢行」「◯(外殻)と・(基点)の仕組み」は、この神示の中では綺羅星の如く輝く部分です。

私はこの神示が何を根拠にして「誠である」と感じるのか、自分でもはっきり説明がつきません。
私が言葉で解説しても矛盾が生じてしまう部分もあり、一概に全て読み切れている確信はありません。
しかし「外国が一斉に日本に攻めてくる」とか、「日本人にも外国の魂を持った者がいる」とか「日本人の魂をワヤにした悪の仕組み」とか、どうも今の我が国に起きている状況に妙に当て嵌まる部分もあるのです。

だから、何となく私はこの神示は現代に向けられているものではないかと思っていて、神示にも「100年も嘘は言わんぞ」「計画を1日遅らせると1000日延びる」とも書かれていて、日月神様でも不確定未来という概念によって大幅に前後する可能性を予め述べられています。
「子の年を挟んで10年が大峠」という一文は有名ですが、2020年の年明けから間もなくコロナのパンデミックが始まり、この頃から世界が不穏な空気に包まれ始めました。
パンデミックも収まらぬ2021年にはロシアによるウクライナ侵攻があり、未だに各国に戦火が拡大しています。

「辰の年は良い年ぞ」とありますが、昨年2024年の秋分点で実質的な地球の次元上昇が始まったと私は見ていて、その頃にスピリチュアルの「スピ」の字にも興味がなかった私が急速に霊的覚醒を始めた時期と重なります。
私が個人的にゾッとしたのは「辛酉の日に気をつけよ、怖い日ぞ」と書かれていて、ちょうど直近の辛酉の日というのは2025年6月21日で夏至に当たります。
本ブログでも夏至の環境変化はリアルタイムで解説しているのですが、その「怖い」というのは大事で重要であるという意味にも取れるのです。

このように、日月神示は私の霊的感性にバッチリ合う面が多く、私はかねてから「日月神示とは何なのか」を考えてきました。
この日月神示を降ろした「日月神」とは、千葉県成田市にある麻賀多神社の摂社に祀られる「天日津久神」と同一神であるとされます。
啓示を受けた岡本天明氏によれば、日月神とは大本教にも信仰される「国常立命」であり、これまで封印されていた大神であったと言います。
しかし神示の内容を良く読んでみると、どうも国常立命とは「素戔嗚命」と同一神であるようにも読み取れ、世界の闇と罪穢れを背負っておられた大神として語られています。

この啓示を降ろした日月神が、一般的に「国常立命」であると考えられていますが、文脈を読む限り「この方」とされる一人称にはブレがあって、どうも「国常立命の眷属」に坐す位の高い神格なのではないか、と私は考えています。
では麻賀多神社の天日津久神とはどういう神格か考えてみると、「天と地が和合するのが日月である」という文章から鑑みるに、「日」と「月」は必ずしも天体としての太陽と月を指し示していないのではないかと思います。

日月神示は駄洒落にも似た捩りや複数のミーニングが多用されていて、必ずしも表現通りの意味には取れない部分もあります。
日本神道における「日(ヒ)」は、そのまま太陽を指し示すことも多いのですが、「火」や「霊」の仮名遣いであることもあります。
ただ、日本語の発音から考えると「火」は乙類に属し、語源的に「日」と「霊(ヒ)」の発音は甲類とされ同じとされます。
例を挙げれば、「神直日神」や「八十禍津日神」の「日」は「霊」と同じ用法です。

「日月とは火水である」とも本文には書かれているのですが、「火」は語源的に「日」ではないので捩りの可能性があります。
おそらく、「日=霊」とは「天=神界」のメタファーであり、意味的には「日(=天)と月(=地)の和合」が日月の意味なのではないでしょうか。
では「月」とは何かと言うと、「嗣(つぎ)」ではないかと私は思っていて、「日を嗣ぐ=天を継ぐ」のが地を司る国常立命であるからこそ、「天地の和合した新たな世=ミロクの世」となると考えれば、辻褄が合うのです。

日月神示の中で繰り返し現れる「てんし様」という言葉は、おそらく「天嗣(てんし)」であって、「天の王権を継承した神格」という意味を持つのではないでしょうか。
よく考えれば、昼には天に聳える「日」は夜になれば「月」となります。
「日」を「嗣ぐ=次(つぎ)になる」から「月(つき)」であり、天は太陽から月へと二つの天体が入れ替わることで地球を照らします。
つまり、天を司る太陽を継ぐのが「地球」になることの比喩を「日嗣(ひつき)」とするなら、「国常立命が天の王権を嗣ぐ=天嗣」になることを意味すると考えられます。

話が逸れますが、伊勢神宮に祀られている天照大御神の荒御魂であられる天疎向津姫命を、複数の「御鎮座伝記」と言われる由緒書きや歴史書の中で「瀬織津姫命」であるとする謎があります。
私の感覚からすると瀬織津姫命は河川と淡水を司る自然神であり、稲作や除災の信仰と合わさって祓戸大神となった経緯が考えられるのですが、河川の女神を太陽神に準える理由がわかりませんでした。
しかしよく考えると、神々が住まう「高天原」と言われる神界そのものが「天」であり、天を司る最も強い「神霊=日」は、天を照らす大神(=太陽)に他なりません。

ゆえに、天照大御神を「高天原で最も高位の神」だとするならば、祓戸大神であられる瀬織津姫命であっても説明はつくのです。
奇しくも、神道は「祓いに始まり祓いに終わる」と言われており、「祓い清め」という神道の総本山こそ伊勢神宮であります。
神道関係者にボコボコにされそうな気もしますが、「荒御魂」とは「現(あら)御魂」であって、伊弉諾命の禊祓の時に生まれた三貴神と、祓戸大神が同時に生まれたことになっているのは、瀬織津姫命が天照大御神の一つの顕現であると取ることもできます。

そして、その「天を嗣ぐ」のが国常立命であるとするなら、大地の神格そのものである国常立命が高天原を治めることとなり、天と地が同一神によって統治されることになるのです。
私には、これが「日月神示」に示された「大峠」の後の「ミロクの世=神世」の真相ではないかと思います。

つまり、私たちが「素戔嗚命」と同定していた神格は長らく「艮の金神」として忌避されてきた「国常立命」とされる大地の大神であり、それは大本教でも示されていたように、日本の歴史の中で封じられてきた神格に他なりません。
確かに、素戔嗚命も高天原であらゆる暴虐を働いた後に天を追い出され、数々の業績を残しながら最終的に大国主命に王位を譲り隠居同然となります。
私は「記紀」は政治的事情で恣意的に創作された部分が多いと思っているので、日本神話の正統性として疑問を感じてはいるのですが、共通点は確かに存在します。

先ほど、この啓示を降ろしたのは日月神のご眷属の神格ではないかという話をしました。
では、啓示を降ろしたこの御神格をどう考えれば良いでしょうか。

「日嗣」とはそもそも、天照大御神を祖神とする天孫族の皇胤に用いられる言葉です。
日本神話において、大国主命から天照大御神に国譲りがなされた後、「国津神」として天孫たる瓊瓊杵命に高千穂まで案内をした「猿田彦大神」こそ、天照大御神以前の「古い太陽神」であり「日嗣」いわゆる天の王権の継承に貢献した神なのではないでしょうか。
また、同じ役割を神武天皇の東征時に行った「八咫烏=賀茂建角身命」は、一説には三嶋溝杭命と同一視され、役割を「日月神」とされることがあります。

どうも、古い太陽神でありながら道開きの神であり導きの神である猿田彦大神が、この啓示に一役買っているのではないかと感じています。
というのも、一気に胡散臭い話になるのですが私の感じる猿田彦大神様と日月神示から感じ取る御神格の雰囲気がそっくりというのが…
この部分は聞き流して頂いて構いません。

最後の方は完全な妄想になってしまいましたが、日月神示では「旧暦9月8日」という日付が特筆して述べられています。
新暦で言うと10月28日であり、私は2025年7月よりもこっちの方が何かあるのではないかと思わざるを得ません。
とは言え、「何かある」と災害を待つ心が悪であると神示には書かれているので、改めて振れ回るつもりはありません。

気になるのは、神示の中に「保食神がお怒りぞ」と書かれていて、昨今の食料事情を鑑みるに神様がお怒りでもおかしくないと個人的に思います。
物価高だからと売れ残る生鮮食品はそのまま廃棄され、食べ物に困る人もいる中で飽食を続ける人もいます。
特に、どうも人為的に引き起こされ価格操作もされているとしか思えない米不足と、この猛暑で「水田に水がない」という状況、私には何となく嫌な予感しかしません。

神々が世界で主導権を握る時代が来るとしたら、人間の欲望と利益追求のために摂理も倫理も捻じ曲げてきた人治の世界は、根本的に手直しが入るようにしか思えません。
そして、それは実際に世界経済の動乱という形で現象化しており、それは日月神示にある「三千世界の立て直し」の一環であるようにも思えます。

それを肌身で感じるからこそ、理屈を超えて日月神示が「真の啓示である」と間に受ける部分であり、それは具体的に説明はしきれないのですが、妙な説得力を感じるのです。

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瀬織津姫新立ち絵

楽太郎です。

瀬織津姫命の新しい立ち絵が完成しました。



そう言えば、先日の参院選で自公が過半数割れとのことで、私はてっきり石破総理のニンマリとした顔を想像していたので、意外でした。
下馬評では過半数割れが見えていたのですが、私は一律2万円の給付を貰いたい人が力を見せるんだろうなと思ってました。
あと、たぶん自民にはディープな人たちがバックにいると思っているので、もう少し石破さんを泳がせるつもりなのだろうと見ていました。

このニュースを見た私の脳裏に、「あなたは常日頃から"日本を何とかしたい"と言っているわりには、日本人のことをあまり信用していませんね」という声が聞こえました。
どなたのお声なのかは、ご想像にお任せします。

ただ、日本の政局がどうなろうと魔法がかかったようにはならない気がします。
とは言え、アメリカに関しては現実的に考えてもスピ的な結論でもぶっ潰れる予感しかしないのですが、日本に関しては本当に読めません。
たぶん、それは今後の日本人の働き次第ってことなのだろうと思います。

あと、わりと日本は海外よりも民主的な投票システムが確立しており、数値の上で誤魔化しはないのだろうなと感じました。
自民の総裁選システムは正直言って胡散臭いですし選挙は言わずもがな酷い状況なのですが、投票だけは公正に行われるのが救いだと思います。

熱い時代になってきました。

そうそう、瀬織津姫様の新しい立ち絵が完成しました。
以前の浮世絵風のテイストはあれで気に入っていたのですが、一影が入れられないストレスと、入り抜きが強い線はどうも苦手で、浮世絵っぽさはテクスチャに頼ることにしました。
塗りは何の変哲もないアニメ塗りですが、最近気づいたのは私の線画のタッチと塗りの好みが合わなすぎて、これくらいの塗りの方が線画と釣り合うということです。

私は妙なとこで見栄っ張りなので、「手を抜いている」と思われたくないがためにゴチャゴチャした塗りを入れたがる癖があるのですが、それが逆に私の作風の邪魔になっていたようです。
やたらと手を入れたくなるのは性格なので、私が育てる植物は大抵水をやりすぎて根腐れを起こします。
そりゃ「愛情が重たい」と敬遠されて異性に逃げられるわけです。

まあ冗談はさておき、瀬織津姫様がこの絵を見てお喜びになられることを願っています。
瀬織津姫様への愛情表現が神様のご迷惑になってないといいなと思います。
後日、改めてネットプリントに登録して、私の部屋に飾ってある瀬織津姫様の古いイラストを更新したいと思います。

暑い中出かけるのも億劫な日が続きますが、皆様ご自愛ください。

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新しい行動原理

楽太郎です。

以前、「アセンションと霊界再編」という記事で、概念図を元に地球の次元上昇の意味について解説しました。
その中で、なぜ地球が次元上昇するかという目的に関しては触れていませんでした。

おそらく、これまでの地球における人類の魂の学びの過程で、物質文明における功罪があまりに露骨に現れたのは「環境破壊」という側面です。
人類には既に水爆や放射能兵器、遺伝子改変技術や人工ウイルス、近年では人工知能なども脅威となりつつあります。
しかし、昨今の高度技術に反比例する人類のモラルハザードは、COVID19のパンデミックを見てもわかるように「誰も大惨事に対する責任を追求されない」事態も引き起こしています。

私が思うに、人類を破滅する脅威を抑制するほどの人治の能力があまりに不足しており、モラルハザードはそのまま人類滅亡に繋がる恐れすら生じています。
もちろん、地球に存在するのは人類だけではないので、文明が崩壊した後の地球の汚染に関する問題もあり、他の生態系に対する影響も計り知れません。

そこで、物質文明に対する「進化のカリキュラム」を終えると同時に、宇宙的均衡を取り戻すために人類の霊的覚醒と神々の再支配が始まろうとしているのだと思います。
これまで人治の世界が続き、自然の摂理すら捻じ曲げられてきたのは、一重に人間よりも上位の存在が人間の行いを黙認してきたからです。
この状況はおそらく3000年以上続いてきたのでしょうが、この歴史はまさに侵略と征服と戦争の繰り返しそのものでした。

しかし、その歴史のプロセスを終了するならば、人類を支配する権限が神々に再委譲されなくてはなりません。
これまで、その支配権は主に人間側の権威と、「神に仇なす者たち」の手中にありました。
その主導権を取り戻すと同時に、神々が人類の霊性を引き上げ、低次元に神性を送り込む方法の一環として「地球の霊的レベルを上昇させる」という手段に至ったのだと思います。

そして地球の霊性を上げる大事業の一部として、これまで人間が自分たちで霊界の最下層に作り上げてきた「幽界」という霊的気場があり、その階層を取り払って地球霊が新たに気場を作り出す作業を始めました。
それが私の言う「精神界」であり、6月の夏至でほぼ完成に至ったと見ています。
この精神界こそ次元上昇した地球霊魂の作り出す霊的気場であり、「地球意識」という新たな集合意識に繋がる高い波長域なのです。

前回の記事で、「いずれ集合意識の気場は崩壊し、人々は精神界の気場を使い始めるようになるのではないか」と述べましたが、これに関して補足があります。

まるで今生きている人々の集合意識が壊れ、誰もが右往左往する中で「精神界」にだけ救いがあるように受け取られかねません。
人間誰もが集合意識にアクセスするにしても、行動原理において精神的エネルギーを抽出する気場として集合意識は存在します。
ただし、人間個人の行動原理が100%「集合意識からのエネルギー」であることは殆どなく、肉体的な活力や魂からのエネルギーも使って人々は生活します。

集合意識とは言わば、社会的なエネルギーを交流させる場であり、「共同幻想」と言い表せるものです。
例えば、男なら一生のうちにマイホームを持つとか、三十路前には結婚して幸せなゴールをするとか、特に何の根拠はないけどその実現のために人々が死力を尽くそうとするような、強烈な動機を持つ社会通念です。

これはわりと侮りがたいエネルギーで、幼少期には貧乏で虐げられたけど、社会的に成り上がり業界に君臨するほどにまでなった人もいるくらいです。
良くない出方をするならば、鬱屈とした雰囲気から生まれる社会的リンチや迫害、社会に対する憤怒の捌け口としての戦争や差別など、人間の集合意識は目に見える社会現象となることもあります。

今回の解説では、次元上昇後に起こる集合意識の崩壊と、精神界のアプローチがどのようにして起こるかを扱います。
始めに、人間が精神的なエネルギーを肉体に反映させて具現化する時、二つの方法があります。

①集合意識からの動機づけ
②自己の魂からの動機づけ

①の集合意識は先ほど述べたように、社会通念として言説化され可視的な条件による動機づけとなるパターンが殆どです。
他に無意識のレベルから起こる共同幻想も存在しますが、これらの集合意識はそれ自体として客観視されることはあまりないため、ほぼ暗黙の領域で起きていると考えて良いと思います。

②の自分の魂を由来とする動機づけは、今回のテーマでもあります。
人間は村社会を形成する以前は、だいたい自分自身の肉体的欲求を活力にして来ました。
そのエネルギーも、精神面では己の「魂」を通じて生命力として獲得しながら、人類の祖先は過酷な自然を生き抜いて来たのです。

今でも、大して考えずに肉体的な欲求から溌剌と活動する人もいますし、社会性はあまりなくても自由闊達にのびのびと生きている人もいます。
近現代の人々は集団的な制度の中で生きるからこそ、「共同幻想」という動機を手に入れ行動するメリットがありますが、集団に属さなければ自分の中に動機を見出して十分生きられる存在です。

しかし、この共同幻想を主体として行動しなければならなかった理由は、一重に「共同幻想を共有しない人間は集団に適応できない」からです。
それゆえ、欲しくもないブランドのバッグを買ったり、行きたくもない高偏差値の学校を受験しなければならない立場に置かれる人もいたでしょう。

さて、ここまで説明した上で図解します。



霊的具現化の構図」と題をつけましたが、平たく言えば「人間がどこから気力を持ってくるか」という話です。
先に述べたように、共同幻想を擁する集合意識は、理想や欲望を共有しながら同時に「同調圧力」も内包します。
希望だけでなく、不安や義務なども伴って共同幻想は支配力を持ち、人々の選択を左右します。
この一連の働きを「外部的喚起」と称します。

それに対して、上の②でも述べた「魂からのエネルギー」は、肉体的レベルだけでなく精神的、霊的な次元からの動機づけを伴います。
個人を主体とした独立したエネルギーの供給システムを、「内在的喚起」と呼称することにします。

人間一個人が、なぜ精神的なエネルギーを自給できるかと言うと、「魂」が物質界とは別の次元と繋がっているからです。
自分の意識として知覚できる自我を「小我」とするなら、スピリチュアル的に「ハイヤーセルフ」とか「ガイド」とされる超自我は、「大我」という大枠の自我の中にありますが、それらは一言で言えば「魂を取り巻く霊団」です。

私たち個人の霊魂というのは、実は一つで独立して存在するというより、あらゆる相が寄り集まって機能していると言えます。
人は一般的に生活する中でも、他人の思念や生き霊、相手の守護霊や土地の霊と無意識に交信をしながら、様々な現象に出会い思いを巡らせます。
目に見える世界だけで説明すれば、「なんかついてない」と思うことや、奇妙な巡り合わせなどが偶然に起こるように思えますが、それらは目に見えない次元での干渉もあるのです。

この「大我」を巡る霊体の種類に関して、これだけの例が挙げられます。

  • 仲間内の生き霊
  • 過去世の因縁霊
  • 血族の先祖霊
  • 民族としての遠津祖霊
  • 霊団で立場のある守護霊
  • 最も高次元にいる守護神

これらが「大我」という枠組みの中にあって、個人は様々な念や導きを無意識に受け取ります。
しかし、霊的なアプローチというのはかなり大雑把なもので、ある時には小我の行動が先立つこともあったり、大きなシナリオでは大我が支配的だったりもします。

そしてこの大我の中心にいる「魂」とは、全宇宙の霊魂の母体となる「大神」から与えられた「分御霊(わけみたま)であり、言わば神の一柱でもあるのです。
現代人が「私は神だ」と言えば完全にギャグになってしまいますが、それは「神などそこら辺にいる訳がない」という常識があるからです。
しかし、人間それぞれが一柱の「神」なのだとしたら、全く条件は変わります。

私たち一般市民は、ただ働いて消費して年を重ねて老人ホームで死んでいくような、設計された生き物であるかのように思い込まされているだけです。
もし目覚めれば誰しもが現人神になれるような器でありながら、「そんなはずはない」と思い、思い込まされているから「神である」という認識に至れないのです。

だからと言って、全ての人が特殊な神通力を使えるようになる訳ではないでしょうし、神としての自覚が芽生えても変わるのは心境に過ぎないかもしれません。
しかし神だという自覚は、適当な権威や流行に振り回され、理不尽な環境に依存して人生を浪費してしまうような生き方を改めて、自己を尊重し無碍にしないことへの信念となり得るものです。

そして大神から別れた分霊である以上、神性のエネルギーも魂の根源から湧き上がってきます。
あらゆる業界にいる「天才」と呼ばれる人々、どう考えても天から遣わされたとしか思えない奉仕精神に満ち溢れた人は、この神性を発露していると言っても過言ではありません。
彼らがある意味オリジリティを発揮しているように見えるのは、自身の魂から引き出した独自の神性を使っているからです。
つまり、自らの神性に繋がることが「才能」の発露であるとも言えます

これまでは、①集合意識からのエネルギー、②魂からのエネルギーの二種類で動機づけをほぼ賄ってきた人類ですが、次元上昇した世界では「③地球意識からのエネルギー」が加わります。

①と②のエネルギーは、自らの利益のために自由に使うことができ、使い方によっては我田引水のような、「我良し」の環境を作り出すことにも使われていました。
しかし、新たな地球意識の気場である「精神界」が開かれたことで、新たな周波数のエネルギーを地上に降ろすことができるようになりました。

これが地球の次元上昇によって構築されたものである以上、この高い波長域は「相互精神」に基づく性質があります。
つまり、「人のため」「地球のため」と奉仕や愛情に深い動機をもつ時、この気場からエネルギーの供給を受けることができるのです。
これまでの「我良し」という思惑ではアクセスできない気場であり、それゆえ条件づけられた人にしか開かれないと言えます。

その条件は、深いレベルからの「自己浄化」と密接な関係があります。
そもそも、全ての優先順位において自分が最上位に立つような人は、地球意識を持ち合わせるのが難しいと思います。
それ以上に目に見えない世界を信じ、自分より上に霊的存在や神々を置いて敬い、その導きに謙虚になろうとする者でなければ浄化も覚醒も進みません。

従って、この新しい霊的気場を使えるか使えないかは完全に「本人次第」であり、それには覚醒に至るまでの精神的な修行も必要なのです。
確かに、春分点や5月の満月でどうやら「人々の線引き」が行われたのは間違いなさそうなのですが、「地球意識」という概念を知った時点で、すでに地球意識にアクセスできるタイムラインにいるのかもしれません。

「なんか面倒くさそうだから別にいい」と大抵の人は思われるでしょう。
しかし前回の解説で述べたように、今後はこれまでの拝金主義、物質主義を中心とした「共同幻想」は崩壊していくと思います。

人間の集合意識全般が、というよりは古い共同幻想が解体されていくはずです。
なぜなら、これまでの文明を形成してきた資本主義という金融システムが、これから轟沈していくからです。
目に見える形では、アメリカを中心とした西側陣営の混乱と崩壊、社会主義帝国連合の瓦解という形で現れてくると思います。

それほど動乱の世となれば、これまでの成功法則をなぞる人生に意味は成さなくなります。
そう言った成功のフォーマットが失われた社会では、個人の幸福や目的に人々はフォーカスするようになるはずです。
これまでの時代の闇が浮き彫りになり、人々に教訓と後悔を突きつける時、誰もが新しい目的意識を探し求め、より良い世界を作り出すために相互精神に目覚めていくことでしょう。

そのために開かれた気場が「精神界」です。
私には全てが神々によって計画されながら、決して平坦でも美しくもないこれまでの世界があって、しかしその道を辿ることでしか人類の正しい進化はないのだと、この仕組みを見て改めて考えさせられます。

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何者にもならない

楽太郎です。

今朝、散歩中に喉が渇いたので自販機に寄ろうとしたところ、女子高生が立ち止まってジュースを買い始めました。
私はそれを斜め後ろから見て、気づかれないといいなと思いました。
何故なら、彼女から見れば中年男性が自分を眺めているように見えるかも知れないと思ったからです。

それは自意識過剰なのだと思いますが、今の私が中年でいかにも怪しく見られそうだ、という認識から生まれる不安ではないことに、しばらくして気づきました。
私が子供や少年少女を見て、特に年頃の女の子に対して自分があたかも汚れた存在で、何となく自分をモンスターのように感じるのは、今に始まったことではありません。
よく考えれば10代の頃から変わらない感覚で、「自分が汚れた存在である」という認識が心に染みついているからこそ、その後の人生は「汚れ」に塗れることで汚れを克服しようとしてきたように思うのです。

それは、おそらく私が人間としてこの世に生まれ落ちた時にできた、魂と肉体との何らかのズレなのでしょう。
「自分と他の人たちは何となく違う気がする」という肌感覚は、どこの集団に属しても何をしていても、何となくガラス越しに眺めているような違和感に繋がっていました。
その不一致感を埋め合わせたくて、何でも必死に取り組んできたし、過剰適応のような状態はいつも上手くいかない原因にもなっていたのです。

先日、私はようやくLINEのアカウントを削除することが出来ました。
30年来の友人がいたのですが、どうもこれから繋がって行けそうにないと判断し、過去の禊をするつもりで全ての交友関係も同時に断つことにしました。
私も人間ですから、胸が痛まないわけではないですし、そこまで思い切る必要があるかとは思いました。

けれど過去の記憶を引き継ぎ、これまでの自分と繋がり続けることは、過去に囚われることと同じかもしれない、と考えました。
意を決して前に進むためには、過去に後ろ髪を引かれるような思いが強すぎるのです。
古い友人も、またいつか会える日を楽しみにしてましたが、そんな日を待つ月日がそのまま立ち止まる時間になるとしたら、いっそのこと振り切ってしまおうと思ったのです。

自分の半生を思い返すと、バカなことばかりやってきたと思いますし、色々な人に迷惑をかけてきました。
それに関して全く弁解の余地はないのですが、自分がそれだけバカだったからこそ、ここまで生暖かい目で適度に突き放して見てくれた人たちに対して、感謝の気持ちが湧いてくるのです。

私は確かにロクなことはして来なかったのですが、それでも痛い目を見て思い知り、物分かりが良くなる程度には賢くもなれました。
自分が何となく「他人と違う」という感覚は、どれだけ経験を積み重ねても結局は変わらず、そんな自分を受け止めることでしか真っ直ぐに生きられないことも、十分理解することが出来ました。
それが分かるまでは痛い目を見続けるしかなかったのですが、これまでの半生は私がこの答えに辿り着くことに意義があったのだと思います。

今思えば、私は自分ではない「何者か」になろうとし、誰かのようになれたら上手く生きられるような気がしていました。
自分に対する劣等感は、誰かの上位に立つことで埋め合わせようとし、それも何者かになれたら優秀であると認められ、自信を持って生きられるのではないかと思っていたのです。

けれど、私がなりたい「誰か」という虚像を追い求めたところでしっくり来る自分には出会えず、努力をして優秀さを認められようとしたところで、自分が心から欲しいものを手に入れることは出来ませんでした。
結局、自分はどこへ行っても自分で、いくら他人になり変わろうとしても自分のままで、もし自分が自分であることに納得が行く瞬間があれば、その場で自分探しの旅が終わってしまうことを、身をもって知ることができたのです。

ただ、この「自分ではない何者かになりたい」という不足感は、私が生まれた時からある不満とはどうしても思えません。
この日本という社会で育っていく中で、「人間は常に何者かにならなくてはいけない」という強迫観念がありはしないでしょうか。
事あるごとに他人と比べられ品評されるのが当たり前で、誰に憧れて誰のようになりたいかを問われ、その存在に近づくことを同じくらいの年頃の子たちと競わされてきました。

それで「できる」とか「できない」とか勝手にラベリングするのは、決まって偉い大人たちでした。
子供はそれに従うべき存在で、そういう型に嵌るべき生き物であるかのように扱われてきました。
けれど、大人になった今冷静に思い返してみると、そんな大人たちの思惑などたかが知れていて、きちんとした哲学があった訳でもないでしょう。

その仕組みがあまりにも当たり前に機能するからこそ、優劣というレッテルがあたかも真実であるように見え、その評価軸が人々の人生を振り分けてきたのです。
そうして「何者かにならなければ価値がない」という思い込みは、想像以上に人々の心に影響を及ぼしてきたように思います。

私が小学生の頃、事あるごとに嫌がらせをしてくる男の子がいました。
彼とは仲良しのつもりでいたのですが、何故こんな意地悪ばかりしてくるのか不思議でした。

ある時、先生の前で私へのイジメを見られたその子は、目の前で先生から咎めを受けました。
「何でこういうことをするの」と先生が問い質した時、その子は「絵がうまいのがずるいと思ったから」と言って泣き始めました。
私はそれからいい歳になるまで、その涙の理由がわかりませんでした。

私は確かに子供の頃から絵を描くのが得意でしたが、それは単に好きで毎日絵を描いていたからです。
当時思ったのは、「絵を描けばうまくなるのだから、描けばいいのに」という感想しかありませんでした。
けれど、後々に「努力はしたくないけど結果は欲しい」「打ち込めるほど好きになれるものがない」ことで、他人に嫉妬するタイプの人がいることを知りました。

彼とは中学まで一緒だったのですが、卒業文集に「将来は画家になりたい」と書いていましたが、ただの一度も彼が絵を描いている話も聞いたことはないし、彼の描いた絵を見たこともありませんでした。
彼のその後の人生はわかりませんが、「絵を描く才能」に対する憧れの感情を、憧れのままに終わらせないで大人になれたことを願うばかりです。

今でも考えるのは、憧れるのなら憧れに近づく努力をするべきだし、ただし憧れの存在に近づいても他人そのものにはなれないのだから、どこかで自分に納得して落ち着けばいいと、それだけのことです。
けれど、一生をかけてもこの結論に辿り着けない人はいます。
憧れている何者かになれないなら、何か他人にマウントを取れるようなステータスを身につけて、あわよくばそれで満足できると錯覚する人もいます。

「何者かになりたい」という憧れと、「何者かにならなければならない」という強迫観念は、結局は「自分はこのままではダメだ」という感情の裏返しです。
その不安感も、自分が素の状態で生きてありのままに認められない不満から生まれていて、人々が予め与えられた条件を満たせなければ社会的報酬を得られない仕組みにあります。
だから人間は、自分自身として生きていくために「自分以外の何者かにならなければいけない」という条件を満たすために長い旅を始めるのです。

その歪んだ探究は、「何者かである者への嫉妬」という形でも現れます。
有名人や才能ある人の隙をついて、叩けるならば叩きたいという感情も実はここにあります。
自分が自分として確立され、その自分自身に満足していれば他人はわりとどうでも良く、どんな優秀な人であろうと条件が合えば協力し合えるような、そんな感覚になるはずです。

けれど、「才能がある」とか「優秀である」というだけで、他人に嫉妬し怒りを晴らすために一方的に攻撃する、その心理が健康的と言えるのでしょうか。
しかし、今の日本人にこういう人が多いのは、この学歴社会や勝ち負けの仕組みがあまりに歪だったからこそ、不健全な価値観が現象化しているだけのように思えます。

そもそも、「何者かにならなければいけない」という観念そのものが正しいのでしょうか。

小学生の頃に「エジソンのようになりたい」と学校で思わされたとしても、正直に発明王を目指す人はたぶんいません。
けれど「年収1千万円のインフルエンサーになりたい」とか「フォロワー10万人の絵師になりたい」と思う時は、大抵はモデルが実在します。
それが真実の姿はともかく、その人の真似をして同じようになろうとし、自分の形がなくても理想が叶えられたら満足する、そんな気さえしてしまうのです。

けれど、結局はどこまで行っても自分は自分で、自分が自分である延長にしか自分の幸せは存在しません。
それなのに、自分ではない誰かになれた方が幸せになりそうな気がするのは、本当の自分が見えていないからではないでしょうか。

私たちは常に比較されすぎて、「どれだけ比較されようと肯定するしかない自分」を見つけるまでになかなか至れません
今の世の中は特に失敗も許されず、最短最速の結果を求められ、しかもその最適解がフォーマットとして既に出来上がっています。
ヨーイドンで走り始めた1回目のレースで勝負がついてしまうような世の中で、どうやって自分を見つけろと言うのでしょうか。

私は、誰もが「何者かになろうとしなくていい」し、何者にもならない自分を見つけるために、あらゆる経験や失敗が許されるべきではないかと思います。
実はそんな世の中の方が、人間はおおらかに他人の失敗を認められますし、「お互い様」と言える空気になるはずです。
人生において結果を残すような人間になろうとし、それを強迫観念として抱いているからこそ、人生に失敗が許されず、何も持たない自分の劣等感から他人に嫉妬する心も生まれるのです。

右を見ても左を見ても同じゴールを目指している競争相手しかいない世界は、とんでもなく窮屈です。
しかしこれまでの世は、残念ながらそういう方向に向かい続けていました。
人々がもっと人間らしくのびのびと生きるには、常に他人と比較されなければ生きる価値が見出せない空気は障害にしかならないと思います。
そもそも人は社会の歯車として作られるのではなく、誰しもが幸せを願われて生まれてくる大切な命です。

祝福されて生まれてきたからこそ、当たり前のように幸せになれるのが自然な社会のあり方です。
それなのに、数値化されたステータスで選別され、工業製品にも似たラインで一生が決まるのは、どう考えてもおかしいのです。
ただ実際にそうであっても、人間の一生や幸福はその仕組みの中で完結するわけではありません。

いくら自分の生まれや育ちが気に入らなくても、いつでも幸せになろうとすることはできます。
仮に社会という工場の中で溢れた部品だとしても、自分という存在はそれだけで完成されているのです。
どれだけ未熟でもポンコツでも、完成品は完成品であり、その性能はともかく完全に機能はするのだから、それで自信を持って生きればいいのです。

私はこの半生を通じて、自分はやはり不良品だと思いますし、ポンコツすぎて色々な人に迷惑をかけたことに反省もします。
ただ、その不足感も世が世なら問題にならず、私が受けたような迷惑すら物ともせず、「お互い様」と言い合えるような雰囲気になっているはずです。
それが失敗を許されず、責任を押しつけ呪いを掛け合うような時代は、そろそろ終わりにするべきなのではないでしょうか。

私は散々痛い目を見た分、人様の失敗には寛容な方です。
私が目にする大抵の失敗は、大なり小なり私も経験してきたからです。
だからいつまでも失敗を責める気はありませんし、反省して出直す分には見守るつもりです。

それは何より、これからを生きる若い人や子供たちに窮屈な思いをさせたくないからです。
失敗もしていいし、どんどん苦い経験もしていって欲しいのです。
失敗もしたことないような綺麗な人生の中では、他人をおおらかに許すことなど到底できません。

私はこれから、改まって「何者か」になることもなろうとすることもないでしょう。
ただし、自分自身でありながらこの社会に生きられるような、誰かの役に立つ落とし所を見つけて行きたいと思います。
そしてあわよくば、私の歩んできた道を同じように歩いてくる若い人たちに、声を掛けられるくらいの人間になりたいと思います。

その時に掛ける言葉は、すでに用意しています。

「何者かにならなくていい、自分であれ」と。

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神に委ねよ

楽太郎です。

ここ最近、私自身の「感情」について見つめ直す機会が訪れていました。

近所の公園の造成工事が、半年前に完成していてもおかしくないのに未だに敷石の一つもなく、草木一本植え終わっていません。
コンビニの棚には変わり映えしない品ばかり並び、品質も量もどんどん落ちていくのに値段だけが跳ね上がっていきます。
皆が無気力になり言い出すリスクを避け、何も言わず何もしないからこそ、世の中はますます力あるものたちの思惑通りになっています。

そこに関わる個人は良しとしていなくても、組織や社会が決めたことであれば従わざるを得ません。
その当事者を一概に責められないでしょうが、かと言って加担している事実を無関係にすることもできないでしょう。
その組織や社会も、彼らだけでなく私をも巻き込んだ上で、もしかするとどうにもならない流れの中にあるのかもしれません。

こういう光景を毎日見ていると気にしないフリをするのも難しくなり、いい加減に何とかならないのか、と遺憾の意が込み上がってきます。
実際に怒ってはいなくても、積み重なる猜疑心で腹の底では抱えきれない怨念を抱え込んでいるのかもしれません。
どこかで理不尽さを感じている人々も、私自身もこの世界が変わる日を心待ちにし、一刻も早くその時が来て救われることを願っているように思います。

私に降り掛かる霊障に関しても、いつ終わるのかという気持ちはあります。
「いつか」終わるのはわかります。けれど、その「いつ」なのかが重要にも関わらず、出口が見えないゆえに不安や疑念は付きまといます。
いつか状況が変わる日を待ち日々を耐え忍びながら、それでも目に見える光景は何一つ変わらず、人々は依然として変わる兆しを見せません。

そのもどかしさと焦りの中で、私は神様に「早く時代を変えてくれ」と願い続けています。
しかし、もし神々が時代を変えようと事を起こしたとして、それが必ずしも私が望む形の変化であるとは限りません。
例えば、3人に1人くらいが亡くなるような世となれば、確かに時代は変わるし世界も変わるでしょうが、それは決して私が望むような光景ではありません。

だから「世を変えて欲しい」という願いには、ある種の理想、言い方を変えればエゴが潜んでいます。
「変革の夢」には個人的な条件づけがあって、その願いが叶うことを神様に求めているのです。
果たして、そんな一個人の願いを神様は受けられるのでしょうか。

この世界に感じるもどかしさは、私だけが特別に感じているわけではないはずです。
他の大多数がおかしいと思っているし、出来れば変わって欲しいと思っているでしょう。
誰もが自分自身が正しいと信じ、「こうすれば世は良くなる」と考えています。
けれど、その考え方に固執しているうちは、目の前で一向に変わらない物事がもどかしくなり、顔色一つ変えようとしない人々を憎らしくも感じるかもしれません。

そんな私自身に、「我良し」の感情がないと言い切れるでしょうか。

世の中が綺麗に変わることを自分で「善」だと感じても、それが他の当事者にとっては悪夢かもしれません。
同時に、彼らにとっての楽園は私にとっての「地獄」だったりします。
どちらが正しくこの世に相応しいか、で言えば私も彼らも等価の存在です。
神様からすれば、善も悪もその時代ごとに必要な役割を与えているだけで、本来なら優劣も要不要もないはずなのです。

そんな世の中に、私は意固地になって「間違っている」とぶつけ、躍起になって自分の正しさを証明したくなります。
一刻も早く証明して溜飲を下げたいけれど、世が一向に改まろうとしないからもどかしくなり、どうなっているんだ、早くしてくれと焦りの感情が湧き上がってきます。
それは完全に「我欲」であり、欲であるが故に叶わぬ苦しみを覚え、苦しむからますます救いを求めるのです。

では、この苦しみは我欲を捨てれば良いのかと言えば、その前に気をつけるべきことがあります。
世は「諸行無常」であり、結論を言うといずれ時代は変わりますし、世も変わっていくでしょう。
おそらく、私が神様から受けているメッセージの通りに世は移ろい、結果的にそうなっていくはずです。
しかし問題は、「それがいつかわからないから、耐えられそうにない」と感じて不満に思うことにあります。

つまり、我欲があるから「自分の思い通りにならない時間」を耐えるのが苦しいと感じています。
例えその動機が「世を良くしたい」という善意であっても、我意は我意なのです。
ではその我欲を持って願いが叶わないのは不自然なことかと言えば、願望が叶わないのは世界のデフォルトです。
それが個人の手に負えない巨大なことで、特に不特定多数の人が関わる世であれば尚更です。

そういった念では動きようのないものを動かそうとし、それを望むから叶わず、叶わないという不満が邪気になります。
では、一個人の力では到底及ばない物事はどうしたらいいのかと言うと、それこそ超常的な存在に頼るしかありません。
つまり、神に委ねるしかないのです。

ものすごくシンプルな結論なのですが、この答えになかなか辿り着けないのが人間というものです。
人間は自分の思考で目の前のことを何とかしようとして、例え目の前にないことでも思考を巡らせ、何らかの手段を取れば解決できると考えがちです。
そのやり方で、大体のことは対処できてしまうからです。けれども、それゆえに「人間の力ではどうにもならないこと」も、何とかできるに違いないと錯覚してしまうのです。

中国では毎年乾季になると、「降雨ロケット」なるものを飛ばすそうです。
ロケットに積載した特殊な化学薬品の反応により、雲の水分を結合させることで一時的に雨を降らせることができると言います。
しかし中国の異常気象はもはや日常茶飯事であり、気候が荒れるのも元を辿れば、度重なる環境破壊に端を発します。

そこで雨を降らせたいからとロケットで気象操作をしますが、地球規模の自然サイクルの中でのバランスは全く考慮されておらず、その行動によってどんな影響があってもおかしくありません。
けれど、人間は知らなければないものだと思いたがる生き物ですから、降雨ロケットの環境への悪影響について語る人がいようものなら、特に中国であれば尚更存在することは許されないでしょう。

科学技術を万能だと信じるのもそうですが、科学的な理論と実践が成り立てば、全てのものがコントロール可能であると人間は錯覚します。
しかし現実の世界では、どのように「バタフライエフェクト」が発生するかを完全に予測できず、それは人智を超えた領域です。
それゆえ、人間が万物を理解して全てのことを成し遂げられるという考え方は、実は身の丈に合っていません。

ここで「神に委ねる」というのは、一見責任を放棄して何もしないことを推奨するように思えます。
仏教には「他力本願」という言葉があり、「他力」という神仏の力を本命とせよという意味ですが、これには「自力を尽くした上で」という大前提があります。
自分のするべきことはしっかりやるのだけれど、自分の手の届かないそれ以上のことはもはや神様に任せるしかないのです。

何もかも自分の意志でやろうとして、目の前のことを一つ一つ思い通りに動かそうとするから、そうならない時に不満が募ります。
当然、自分の力でコントロールできるものとできないものがあり、どこまでも自分の手が及ぶと思うことこそ思い込みであり、実際はそうならないことの方が多いです。
何かを思う通りに事を成そうとすれば我意が宿り、我欲が起こるゆえに不満も覚えます。

その考えに固執するから苦しみが生まれるのであって、そのループから解放されるためには、あえて思考を手放してみることです。
そして、人間よりも大きな物事はやはり神々の領域であることを知り、神様の行う領域に極力口を挟まないことです。
そうして神を信じきるからこそ、自然な成り行きに任せることができるようになります。

これは頭ではわかっても、感覚で理解するのはなかなか難しいでしょう。
人間は考えを行動に移す時、できる限り思想を忠実に実践しようとします。
神に自らの意思を委ねる時は、心で感じることをただ実地に移すという感覚に近いのです。
それは同じように見えますが、人は頭で考えてやることほど我意を行動に移すことが多く、感覚や心で動く時は余計な思考を伴わないものです。

「自分の意思を神に委ねる」というのは、ものすごく不審に感じられるかもしれません。
ただ思い出していただきたいのは、私たちが子供の頃、社会問題や戦争のニュースを眺めながら、自分の無力さを現実に映し見て不安を覚えていたでしょうか。
両親や大人たちが特別頼りになるわけでなくても、何とかなるような楽観的な気持ちでいたし、それは決して世の中に対して無知だったからではないはずです。

心理学では、人間の不安は9割が取り越し苦労だと言われます。
子供の頃に未来に不安があまりなかったのは、無意識に自分より大きな存在に身を委ねていたからです。
自分が小さくか弱い存在だと知っているからこそ、委ねきるしかないことも無意識に理解していたのです。
しかし、大人になれば何にでも責任を持たなくてはならなくなり、できる限り自分の手で何とかしなければいけなくなります。
そうした自助努力の世界にどっぷり浸かることで、「委ねる」ということができなくなっていくのだと思います。

この世界は右でも左でも権威というものはどうも信じきれず、どこを見回しても胡散臭く、疑心暗鬼に駆られて不安に陥ることもあります。
けれど、それを感じているのは自分一人ではなく、自分よりも地位がある人でさえ心の支えがなく、不安を抱えていたりします。
まして人間が千人や万人より集まったところで、誰が先頭に立とうと変えられるものは僅かでしょう。

だからこそ、人間の手が及ばないことには「神の手」を期待するしかありません。
それは全てを捨て、ひたすら神仏に拝めばいいということではなく、自分のできることをやった上で、自分の手では叶えられないことも潔く認めるのです。
そして、願いが叶うことを神仏に託すこと自体、人間としてできる限界のことだったりします。
それ以上のことを願い、人間の限界以上のことを自分で叶えようとすれば、上手くいかないのは当たり前のことです。

世を変えるための戦いも、戦うことそのものよりも「戦おう」とするから辛くなっていき、挑むから相手から挑まれるのであり、進んで出て行かなくても戦わなければならない時は戦うしかありません。
「世を良くしよう」という真面目さは時に愚直さとなり、愚直がゆえに無謀にもなり得るのです。
それは決して、綺麗事だからと全てを肯定する理由にはなりません。

私は、日々のニュースや日常で起こる目の前のことに嫌気が差し、気が滅入る時もあります。

世にある一つ一つのことにも、「どうしてこうなんだ」と「こうすれば良いのに」と考えるほど、自分以外の人が間違っているように感じてしまいます。
けれど、「世が良くなって欲しい」という綺麗な願いも、自分の手の届かぬところにある我欲だとしたらおそらく完璧には叶わないでしょうし、生きる上では単なる重荷になります。
その荷物があまりに重くて一歩一歩が苦しいと感じるのなら、いっそのこと荷物を神様に預けてみたら良いのです。

私たちは自分の力で何でもできると思いがちで、何でもやらなければならないと考えます。
けれど、人間が自分の頭で考えて実現できることはたかが知れています。
おそらく、自分で抱えても神様に持って頂いても、わりと見える景色は変わらないかもしれません。

人間にとって、これは盲点だったりする部分です。
私たちは真面目であるがゆえに、努力を尽くそうとし頑張りすぎてしまいます。
そして、人間としてできる限界以上のことまでやってしまおうとし、疲れてしまうのは神様から見てもやりきれないかもしれません。

神様に身を委ねきれないことは、神を信じきれないことと同じです。
もし安心できないのであれば、人間としての考えを一度手放してみれば、もう少し神様にお任せすることができるかもしれません。
私たち人間が思うようにできることは、本当にごく一部です。

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Blue Jet

楽太郎です。

藤巻亮太さんのアルバム「北極星」の中に「Blue Jet」という曲があります。
この曲は、かつて宮沢賢治が志した現代版の「雨ニモマケズ」ではないかと思います。

「人は通らない
それでも構わない
ただここに生きて
橋を架けてゆく」

藤巻亮太さんは人気ロックバンド「レミオロメン」のギターボーカルをしていたアーティストです。
藤巻さんの曲は文学性が高く、レミオロメンの頃から一貫して情緒の大切さを表現し、前向きに生きる人々を応援し続けています。
この「北極星」というアルバムはオーケストラを使った曲が多く、特に硬派なコンセプトで作られているように思います。

「Blue Jet」という曲は、誰に見向きされなくても、それゆえに自由を背にして突き進め、というメッセージが込められています。
これが「雨ニモマケズ」だと思うのは、「木偶の棒」と呼ばれ嘲られても信念の赴くままに生きる芯の強さに美を見る感覚と、同じ思想を感じるからです。

私は常々、「見向きもされないな」と思いながらやってますが、決して腐っているわけではありません。
けれども、薄っすら「何にもならないかもしれない」という不安はあり、それでも辞めることができないのは、愚直に信念を追い求める私自身が嫌いではないからかもしれません。
そして、やる必要もなく例え求められなくてもやらざるを得ない、どうしても表現を止めることができない私という存在がいて、それはあたかも飛行機が飛ぶしかないように、当たり前のことをしているだけだったりします。

「Blue Jet」は、空を行く飛行機は何にもない虚空を飛ぶわけではなく、虚無のような広がりを行くことに自由があるのだ、と歌います。
私はこの曲のメッセージを理解した時、レミオロメンの後期の名曲「アイランド」での迷いを突き抜けて、藤巻さんは悟りの境地に入られたのだなと思いました。

世間は、人が見向きもしなければ無駄なことをやっているように思いますし、何にでも利益がついて回らなければやる価値はないと思います。
確かに経済活動という側面で見ればそうなのですが、この社会を成り立たせるにはそれだけで足りません。

需要と供給の枠を超えて必要なものは世の中にあって、誰も知らず目に入りにくいものによって支えられていることはたくさんあります。
その価値は先入観では計り知れず、場合によっては「いらないもの」とされ、隅に追いやられてしまうことすらあります。

私は、皆がスポットライトの方しか見ないからこそ、日陰や闇の中に一粒の光を見つけて、その輝きに目を奪われる行為を愛するのです。
それは例え儚くても光は光であり、作られた電気の明かりではなくて、人が心から放つ生命の光こそ私は美しいと感じます。

けれどそれに気づく人はなかなかいなくて、その寂しさに青い空を見る、それが「Blue Jet」に歌われている景色なのかもしれません。





以前、「素直に生きる」という記事の中で、「再び自分の感情に向き合って創作することを許された」と書きました。

それまでの神様の導きがある種、時期的なものであったことを勘違いをしていたのだと思います。
神様は基本的に人を縛ったり「こうしなければならない」という強制をあまりなさらないように思います。
私はもう「昔の作品に取り掛かれることはないのだろうな」と思い込んでいたのですが、「どうしてもやりたいこと」に限っては、自分の心に嘘をついて止め置くくらいならむしろやりなさい、ということなのだと思います。

最近はフィジカルなパワーの高まりと共に、霊障も落ち着いてきました。

近頃の憑依は祝詞やお経のもつ神性のパワーが通じず、自分の霊力で抑え込むしかありません。
よく「警察が来ようがビビらない」タイプの方がおられますが、そういう人たちに理詰めや宥め聞かせる手口は殆ど通用しません。
そういうタイプには腕っぷしをみせて手出しできないようにするのが最も効率的です。
この構図は、この世でもあの世でも変わりないのかもしれません。

ただ、こういったタイプの邪気を呼ぶのは、私の心にも同じ性質があるからです。
その禍々しい感情に蓋をしながら、蓋をしていたこと自体を忘れがちになります。
この世界を見る上で感じる「悲しみ」の奥に沸々と煮えたぎる怒りがあっても、沸騰して蓋から溢れ出てくるまで鍋が煮えていることに気がつきません。

この世に蔓延る欺瞞や暴力や搾取、それを嘲る人々、私はその闇を照らせるほど強い光を持っていません。
そこで湧き上がる怒りを浄化するほどの力もなく、自分の中に塞いでしまった負の感情は、自ら闇を招く原因となっていました。
結局一旦は蓋を開けてそれを出してみるしかなく、よく冷ました上で灰汁も取り除いていかなければなりません。

その感情は、やはり「表現」するしかないのです。

私は特に、日常生活の中で本音を話せる人は誰一人おらず、世に思うことや自分の感情を誰かと分かち合う機会は殆どありません。
けれど、私は一介のクリエイターであり、誰が目の前にいなくても「人に語る」ことはできます。
それが例え壁打ちだとしても、私の心は押さえ込んでいた感情を「作品」という形に昇華することが可能で、それによって心は浄化されるのです。

闇というものは、ただ光を照らしただけで自ずと消えていくものではなく、闇を分かち光へ導いてあげなければずっと澱んだままです。
闇を照らすには頭ごなしに光を当てるだけではダメで、闇によって闇を宥めて闇の内側を拓かせることから始まります。
毒を持って毒を制することがあるように、水に油を注いでも意味をなさないこともあります。

だからこそ、素直に「それ」を表現することにしました。

それは血生臭く、禍々しい闇の部分です。
しかし、それはある種この世界の真実の姿でもあり、光に照らされた部分だけを眺めても見えてこない部分です。
光は常に明るい方だけに差すわけではなく、遍く闇にも向けられます。

だからこそ、「綺麗事」の偽りを破った先に本当の綺麗事は存在するのだと思います。
何となく矛盾しているように思えますが、善も悪も表裏一体だからこそ、表だけ裏だけ存在する方が歪な世界になってしまいます。
世界を「白」一色で染めようとした今の世を見て、それでも眉唾に思えるでしょうか。

この作品は、いずれ漫画という形式でどこかに出そうと思いますが、おそらく別名義になるでしょうし、本ブログでは全く触れないと思います。
それでも、もしどこかでお見かけしたなら、そっと閉じて記憶を水に流して欲しいと思います。

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「天細女命」ラフ画

楽太郎です。

瓊瓊杵命と共に天降り、猿田彦大神と出会い夫婦になった説もある「天細女命」。
記紀の岩戸隠れの段では、天照大御神を呼び出す策として激しい舞を披露し、神々を大いに喜ばせたことで天照大御神がその声に反応し、顔を覗かせたと言われています。

そんな天細女命ですが、一晩中ずっと頭をよぎっている感じがしてて、目が覚めた瞬間に「きっと天細女様が描いて良いと言っているに違いない」と勝手に思いました
そこで、眠い目もろくに開かないままにデスクに飛びつき、ラフを仕上げました。

こういう脈絡のない強引さとか、唐突な思い込みの強さこそ、スピリチュアリストが異様な図太さを見せるところです。





100年戦争を終わらせたジャンヌ・ダルクも、何だかよくわからない強気であれよあれよと周りを巻き込んで革命を成し遂げてしまったので、ああいう突き抜けた人間こそ今の時代には必要なのかもしれません。

神様のイラストを描かせて頂く時は、神様のお気持ちがあるかないかで進行度が違います。
天細女様は、神社で参拝したことがないのでご神縁はないはずなんですが、なぜか「私を漫画に出しなさい」みたいな念を少し感じていました。

以前、猿田彦様にHARAEDOに出演して頂こうとデザインを起こした時に、天細女様も脳裏によぎって、いずれご夫妻として登場して頂くことになるのかなと思ったりもしました。
猿田彦大神は国津神として瓊瓊杵命一行を出迎えたわけで、妃となった天細女命は天津神ですし、ご結婚なされた後は嫁に頭が上がらない旦那様だったのではないかと想像します。

猿田彦様が日本の「元祖恐妻家」みたいな感じだとしたら、天細女様を外で呼ぶ時は「おい、うずめ」と声を掛けるかもしれませんが、家の中では「うっちゃん」とか呼んでたら萌えるなあとちょっと思いました。
日本神話をネタにして、ここまでオタクの妄想を拗らせる人間もなかなかいないかもしれません。

天細女命は、岩戸開きや猿田彦大神の出迎えの時も「記紀」での描写はとても卑猥な感じがするので、神様的にはどうお感じになられているのだろう?と常々思っていました。
そこで私が面白がって天細女様をカリカチュアライズしても、おそらくコンプラ的にハリウッド・ザコシショウの誇張しすぎたモノマネを凌駕する本家の癖みたいな感じで、「記紀」の突き抜けた描写を超えることはできないと思います。

ですので冷静に考えて、神様ですからきっとご立派なお姿でしょうし、真面目な印象で描かなければ失礼に当たると思い、「女将」のようなイメージでデザインさせて頂きました。
奇しくも、天細女命は芸能や芸術の神様として信仰されておられるので、漫才師の内海好江師匠のようなピリッとした厳しさのある大和撫子を想像しました。

このイメージだと、猿田彦様も余計にSiriに敷かれていそうだなと思ったりもしますが、そんな妄想をお許し下さる神様方には本当に感謝いたします
後々になって、バチが当たらないことを願っています。

本編の制作が一向に進まないのに、登場神のペン入れ&登場待ちだけが増えていきます。
もうちょっと自由に動きたいところなのですが、なかなか…。

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「祓戸四神」設定画

楽太郎です。

現在、祓戸大神を題材とした「HARAEDO」の漫画をまとめたブログを制作中です。
先日の「トップイラスト完成」という記事では、ブログのカバーイラストと「秋津姫」のラフデザインを掲載しました。

今は、祓戸大神四柱の立ち絵を取りまとめて「登場神プロフィール」みたいな個別ページを作ろうと思い、とりあえずラフ画を流用して仮でそれっぽく作ってみました。














「神様プロフィール」のところは、かなり言い回しに気を遣いました。
実は「好物は水ようかん」みたいなト書きを入れたかったのですが、変にそこだけ切り取られると神社に大量の水ようかんが奉納されるみたいな珍事になりかねず、実際の神社にご迷惑をお掛けするかもしれないと思ったからです。
私の一作品として解釈される分には構わないのですが、実在の宗教法人に影響してしまうとさすがに私も立場がありません。
(今の知名度だと可能性はほぼゼロですが、念のため)

そこで神様をコンテンツにする難しさも正直あります。
ただ、ご先祖様の信仰形態はもっと自由だったので、現代だからこその融通の効かなさだと思います。
高千穂の夜神楽も昔は相当弾けていたそうなので、基本的に「神様を愉しませる」ことを目的としたコンテンツなら、本来は自由でもいいのかも知れません。

色々と嫌われたくないものですが、新しいことを始めると良くない印象を持たれる場合も多いです。
あと、世が世なら私も敵を作るようなことをわざわざ言わず、のほほんと大人しく作品を作っていたかったです。

私はしがないながらも一応作家なので、本来なら言論をせずに黙々と作品を作るのが本筋です。
言論する作家はわりと嫌われますし、言論のイメージが作品を毀損しがちです。
あと、自身の素の影響力に気づいた作家は、作品で理想を叶えようとせずに現実的な影響力で理想を叶えることに傾倒しがちです。
そうなると、作品を滅多に作らなくなる人もいます。

だから本来なら、スピリチュアルと作家業は完全に切り離すべきだったのですが、事の発端は去年の年末に「私を描きなさい」と瀬織津姫様からメッセージを頂いたことに始まります。
それから半年以上経ちますが、それが良かったのか悪かったのかはまだわかりません。

ただ、言論のイメージと作品のイメージが同時に悪印象を持たれるほどどっちも知られていないのが逆に功を奏しているようにも思えます。
そこら辺が神様プロデュースの由縁というか、ご加護があるというか、そのお陰で私は好き勝手なことを書いていられるのですが…

現在は憑依もだいぶマシになって、異常な肩コリ程度で済んでいるので作品に向き合う時間がかなり増えました。
ただ、これまでにちょこちょこ始めたことが多く、同時進行でやってるせいで一つの物事の進み具合は遅いです。
それでも、ちゃんと椅子に座って絵を描けるだけありがたいです。
私が神様をコンテンツにした作品を作りたがるので、余計に妨害が激しいのだろうと思います。

「HARAEDO」は新しい形式で話を始めるつもりですが、実はだいぶ前に第3話の下書きが終わっていて、勿体ないのでこのまま完成させることにしました。
今回まとめたラフ画も、いずれ完成させてブログに掲載していこうと思います。
例によって、イラストはネットプリントで頒布することも考えています。

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神々の帰還

楽太郎です。

先日、「瀬織津姫想像図」という神をも恐れぬ記事を書き、そこで私の印象としての瀬織津姫様を描かせて頂きました。
私が心の中で感じる瀬織津姫様は、神様だから当然なのかもしれませんが、もの凄く真面目な方だなと思いますし、メッセージの鋭さの中にも柔らかさを感じます。
決して私がイラストに描いたような容姿で全てを物語れるわけではなく、思うに神様という存在は人間にとって限りなく「概念」に近いのです。

神は霊界より上の階層に暮らす高次元存在であるので、人間が霊として認識するレベルよりも遥かに抽象度が高い存在です。
あまりに波長が高いため、人格としての知覚より情報やエネルギーとしての感覚が先立ちます。
神様にも個性や考え方があるように私には見受けられるのですが、おそらく霊的存在は高次元に至るほど抽象度が高くなり、より純粋な概念に近い存在になっていくような気がします。

だから、私の描いた瀬織津姫様が実際にそのお姿である可能性は、どの程度あるかさえ疑わしいと思います。
ただ霊界も神様の世界も人間には量りかねるもので、「妄想する分には自由」ということにしておいて欲しいです。
それでも私の感じる瀬織津姫様の印象と私が実際の女性や架空のキャラクターに重ねてきた異性の理想像は、どうも瀬織津姫様が原型である気がしてなりません。

私はだいぶ幼少期からオタクが入っていたのですが、漫画のキャラクターを追い求めたりアイドルの追っかけをするオタクも、自分の心にある理想的存在への憧れから始まります。
その理想像は、自分自身の深層心理にある「自分の魂の欠けた部分」であり、心理学的に言えば「アニマ・アニムス」と呼ばれるオリジナルです。
私はユング心理学のスピリチュアル性はそれほど評価していないのですが、オタクが「アイドル」を求める傾向と心理的不協和の関連は深いと思っています。

私にとって「瀬織津姫命」という存在がどういう意味を持つのか、その謎はこれから数十年かけて解き明かすことになるのかもしれません。
ただ私の清純な女神を求める心は、私だけにあるものではなく、世には芸能界のアイドルを追っかける中年男性はたくさんいます。
もしかすると、私も彼らも同じプロトタイプの女性像を無意識に追い求めているに過ぎず、その行動の現れ方が違うだけなのかもしれません。

以前の記事で書きましたが、そのアイドルやスターを求める心こそ、人間が失った神性を取り戻したいという欲求であり、もちろん芸能人も人間ですし神聖にはなれないわけですが、人々はどうしても夢を見たがります。
そしてオタクは、それが夢だとわかっていても夢を追い求める存在であり、私たちは時に自嘲気味に「空想と現実の区別がつかない」様を面白がるのです。

オタクという種族は、それゆえ一般大衆から気色悪く見られますが、実際は偽情報やマスコミのデマを間に受けておかしな行動に走る人々ほど「空想と現実の区別がつかない」人が多いです。
オタクは、自分たちがあり得ない幻想を追い求めていることを知っている分、半分目覚めています。
自分が完全に虚構の世界にいることに気づかず、何の疑いもない状態の方が危険なのです。

おそらく、人々は芸能人や成功者だけに「神性」を見て憧れ追い求めるだけでなく、身近にいる人や伴侶、愛するペットや大事にしているモノ、ブランドや「お金」も人間にとっては神の象徴に置き換わるのだと思います。
魂から湧き上がる神性への欲求は、本来なら信仰という形で直接神に向かう以外に、人間は「神っぽい何か」でそれを埋めようとします。
現実的に目に見える「神っぽいもの」で神性に対する欲求をあり合わせることで、魂の渇望は一時的に癒えていきます。

しかし、あくまでそれは神性の代用であって、神的霊性には置き換えられません。
例えば恋人に理想の異性像を見て、神に奉仕するように付き合っても相手は一人の人間であり、理想はいつか壊れます。
神の代用品が人であろうとモノだろうと、形あるものは完全に神になり変わることはできません。
それが何故かと言えば、形あるものはいずれ形を変えていきますが、神は不変であるからです。

この世が諸行無常であり、自分が追い求める行為を繰り返すたびに信仰の象徴は変わりますが、追い求めるイデアはずっと変わりません。
それを気づくまでに人間は長い時間をかけてしまうのですが、人生をかけてこの結論に辿り着けない人もたくさんいます。
むしろ、これまでの世は欲望と消費という市場経済
によって、自分の真の欲求が「神」という存在に向かうことを誤魔化し、その気づきから逸らされ続けていました。

私自身ですら、ことスピリチュアルにのめり込むまでは、単なるオタクとして二次元コンテンツのキャラクターを追い求めてきましたし、そういった関連のコンテンツを作ってきました。
そのことに全く何の違和感も持っていないどころかオタ活も推し活も楽しいもので、むしろやり甲斐すら感じていました。
しかし、奇遇にも「瀬織津姫命」という女神をきちんとお祀りするようになってから、自分の中のフラフラした渇望感は徐々に薄れていきました。

自分が霊的に求めてきたのは「信仰」であり、神との繋がりによって人間社会では得られない霊性を補給し、目に見えない存在の導きによって迷いがなくなることだったのです。
魂のレベルで感じる不足感や不安の解決方法が、まさか「神社に参拝して特定の神様のご神札を拝領してきちんとお祀りする」ことであると、どうすればこの答えに辿り着けるものなのかと未だに思います。
なんか、わざと簡単に答えが出ないような引っ掛け問題を出されて、とてつもなく長い時間をかけてその問題を解かせられてきた、そんな風にも感じるのです。

その答えがなぜこの数年で急に解けるようになってしまったのかわかりませんが、そこに神様の思惑があるならば、正解が出るまでバカでもわかるヒントをギリギリまで出してもらっていたのかもしれません。
だから余計に瀬織津姫様には頭が下がるというか、どうしても神の導きというものを否定することができない立場に置かれてしまったのです。

この出来事と「地球の次元上昇」という時期の関連は不明ですが、何らかの役割が私に与えられているのは間違いないのだろうと思います。
瀬織津姫様が自らを明かした上で私を導き、こうしてご自身の創作をお許しになられていることは、今の時代だからこそなのかもしれません。
神様は、おそらくこれまでの時代では表に出たくても出て来れない状態にあったのだと思います。

私の感覚では、今は神社に行っても神様から積極的に人間の相手をして頂けないように感じます。
おそらく、少しずつ時間をかけて神様たちは人間から距離を取るようになって行ったのだと思います。
日本人は神のご利益と言えば現世利益と考えがちなのですが、その恩恵は神々をきちんとお祀りし、奉仕するから得られたご神恩だったのです。

第二次世界大戦によって焼け野原となった日本は、物不足の世にあって復興に尽力しなければならなくなりました。
その復興を後押ししたのは戦勝国のアメリカだったのですが、モノ作りが盛り上がり物質的に豊かになっていくにつれ、戦争中に神も仏もないことを悟った日本人は、ますます神仏を敬わなくなりました。

そうして始まった戦後教育は自虐史観と左翼思想に染め上げられ、その教育システムによって支えられるアカデミズムと学歴社会によって、日本人の思想は唯物史観に変わっていったのです。
その後の経済発展と国際化によって、日本人の精神文化は完全に後手に回っていきました。
拝金主義が蔓延り、物質的な目に見える幸福の形を追い求めることは、日本人が本来望む性質のものを違う形で供給し続けてきたのです。

そうして荒廃した人々の感受性は、今の社会的混乱に繋がっています。
いくら求めても消費しても満たされないのは、本来求めているものが違うからです。
今の人々には、それが何であるかを知る術はほとんどありません。

しかし、こうして瀬織津姫様を始め前に出て来られる神様が現れたことは、新しい兆しかもしれません。

YouTubeなどでも、神の代弁をする人も増えて来ました。
これはそれぞれが個人的に受けたメッセージを個人的に解釈して個人のやり方で表現しているものなので、誰が真実で誰が間違っているということはなく、それぞれの発信のあり方を神様がお許しになられていることの方が重要です。
もちろん、その啓示を与えているのが神様ではないパターンもあり、注意は必要です。

例えば私が瀬織津姫様からメッセージを受けて知らせても、「瀬織津姫様はそんなことは言わない」という人も中にはいるでしょうし、審神者の能力もそれぞれ違います。
結局は、神様のメッセージを受け取って行動する人間がどんな役割を演ずるのかが本質であって、事実云々ではないと思います。
ある種の啓示を間に受けて、それを現実にどう反映させていくかにスピリチュアリズムの本質があるのです。

今、スピリチュアルな分野だけでなく多くの人に神々は強くアプローチしており、それはおそらくこれまでの歴史になかったことです。
それほど神様が前面に立って動かれる世というのは、明らかに画期的と言わざるを得ません。

地球が次元上昇する件にあって、人類は西洋的物質文明の円熟期にありました。
それと入れ替わるように立場を変えられた神様たちを鑑みれば、やはり時代はこれから根本から変わって行くのでしょう。
それは「神々の帰還」を意味します。

これまで、神々はなりを潜めていたからこそ人間は好き勝手にやれたのです。
しかし神々が何千年か越しに秩序を司る時代になれば、もう少しはマシな世になるかもしれません。

私をそれを「神世」と呼んできましたし、ずっと待ち望んできました。
その世界がいよいよ到来した、そんな感じがします。

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「勝ち」に行く

楽太郎です。

7月の満月から一夜明けて、邪気が引き潮のように一斉に引いたのを感じます。
体調も取り戻し、やはり満月の影響は効果覿面に現れるのだなと改めて思いました。

先日はかなり邪気に滅入られて、一時的に「神も仏も信じられない」感覚に陥っていました。
この世界はやはり、神秘など存在せず人間がこのまま欲望のままに地球を支配し続け、いずれ滅ぶに違いないと、かなりネガティブな気持ちになりました。

どこを見渡しても、人々は誰もが変化を期待しながら、変わるつもりも変えるつもりもないことは薄々わかるからです。
世の中が勝手に良い方に変わって欲しいと願いながら、自分自身を見つめ反省し、過ちを手放して生き直す覚悟が、人々にそれほどあるとは思えません。

けれど、おそらく夏至以降、神々の選択では「大難」ルートの世界線から「小難」ルートに切り替わった気がします。
数ヶ月前の私は、国内情勢はさらに破綻し、その上大災害も起きて食糧難の時代となり、人々は木の皮まで食べるようになると本気で思っていました。
しかし今の私は、確かに世の中はすこぶる悪いのだけど、皆がそこそこ生活を保ちながら目に見えるところを少しずつ良くしていくような、そんな未来に思えるのです。
だから、不思議と未来に対する不安は「抱けない」のです。

というのも、未来が明るい方に向かうのは決まっているので、それまでに闇が濃い時もあるのだろうな、という印象に近いです。
なぜこんなにも人々が変わろうとする意思を見せないのに、世の中が良い方向に動くと感じるのかと言えば、おそらく「覚醒」の道を選んだ人々の総量が神々の予想値よりも多かったのを、私が感じ取っているからかもしれません。

おそらく、想定通りならすでに現7月時点では相当悪いことばかり起きていて、大難ルート一直線だったのかもしれません。
しかし、良い意味で予測が外れたことで、多くの人々がコツコツ世を良くしていく流れに変わったのだと思います。
「日月神示」では、神々が手を入れるならばすぐにでも元の泥海に返すことはできるのだけど、そうはしたくないから大難を小難にする努力をしてくれと、日月の神様は口酸っぱく忠告するのです。

私は昨日、あまりに気分が最悪なので雨の中を歩きに行きました。
その時も人々の波長と噛み合って本当に居た堪れなくなったのですが、その時は「人間など滅べばいい」とまで思いました。

私は自分の中に、闇がものすごい勢いで湧き上がるのを感じました。
これまで、波長を高くするためには闇を消え去らねばならないと考え、負の感情を抑制してきました。
しかし、それは単に怒りに蓋をしているだけに過ぎず、その怒りを浄化しないまま上っ面で波長が高いように思い込んでも、腹の底ではマグマのように煮えたぎっていたのです。

これは「スピリチュアリストあるある」の一つで、闇と向き合わないからこそ浄化された光の部分だけを自分のうちに見ることができ、自分があたかも闇がないように感じる、という錯覚が起こります。
真の波長の高さというのは、いかなる低い波長もカバーする寛容さがあって、「低い波長は許されない」と思っているうちは低い波長域にあるのです。

大事なのはこの波長の低い部分、醜い闇の部分をしっかり見て、その醜さに目を逸らさずにきちんと向き合い続けることです。
私はこの闇の部分を押さえ込みすぎることで、自分自身のエネルギーの循環そのものに影響がありました。
負の感情を持たないようにする努力は、自分の感情を胸に押さえ込むことに繋がっていたのです。

だから感情を自分の中で手に取り出して一旦見つめることは、自己浄化への第一歩です。
闇は表に出さなければ良いだけの話で、自分の内に止めて浄化するつもりであればその方が健康的です。
私は時々、煮ても焼いても食えない人間という存在がひどくもどかしくなり、憎たらしくなることもあります。

私がこの世界が変わることを願うからこそ、「変わる必要がない」と思う人々の意思と拮抗します。
彼らの選択自体が間違っているわけではないのも、重々承知しています。
時代がずっと良ければ、私も何の疑問もなくのらりくらりと生きていたでしょうし、目を向けるものが違うだけで彼らは今でも満足しているのかもしれません。

しかし、巨大なものがより巨大になるためにより巨大になっていくだけの世の中というのは、漂っている小さいものは巨大なものに飲まれていくか、滅ぼされていくしかありません。
この世の中に固定化した「勝ち組負け組」という短絡的な社会構造は、勝ち組の傘の下にしか人権はなく、その傘の下では負け組同士の競争しかありません。
勝ち組は「どうやったら勝ち組になれるか」というハックを有償で提供し、勝ち組に上がってくる負け組だけが救われる世界にしているのです。

私はそれがひっくり返るのを望んでいて、このままでは世はどんどん悪化するばかりだと思うからこそ、変革を願うのです。
しかし、冷静になって考えれば、私がそうなる世界を望むと同時に、神様が世界を変えて下さると信じすぎている私に気づきます。
仮に神様が私の予期しない世の中にしようとして、私の望み通りに世界がひっくり返らないとしたら、私はそれで諦めて「負け組」に甘んじて死んでいくのだろうかと。

神様が世の中をひっくり返すのを待っているだけで、もしひっくり返らなければそれで終わるつもりなのか。
その時、自分は何もしなくて良いのか?

そう考えた時、世の中がひっくり返らないなら自分がひっくり返せばいいじゃないか、と思いました。
「他力本願」というのは仏教の奥義でもあるのですが、自力で最善を尽くして天命を待つのが他力の意味です。
神様がやらなければ諦めて終わるだけなら、自分でやり切ってみる価値はあると思うのです。

この地上がこれまで幽界的な存在に支配されていたのは、人間が「欲望」というエネルギーに親和性が高く、欲望はすぐに物質に対するアプローチに変わるため、これまでの世は即物的にならざるを得ませんでした。
即ち、人間が何かしらの力でエネルギーを具現化するから現実の事象は起こるわけで、誰かがその力を地上に降さなければ妄想で終わっているのです。

この物質次元は「形にしたもの勝ち」の世界で、良くも悪くも実行力のある人間が力を持ちます。
神様がそうしてもらいたくないと思っておられたとしても、人間が気まぐれで神社に火を放てば神社は燃えてしまいます。
この世界において、物質化する主体があるからこそ現象が先立つのです。

「世の中が変わってくれたら」と思うだけなら、「別に変わらなくていい」と己の既得権益をせっせと再生産し続けるパワーには勝てません。
だとしたら、それを上回るパワーをこの地上で顕現しなければならないのだと思います。

それを「自分は大河の一滴だ」と過小評価して、最初から小さくまとまるつもりなら、最後までその程度のことしかできないでしょう。
自分なんか、自分ごときが、と思ううちは、自分の底力も真の実力も眠ったままです。
自分を過小評価せず、かと言って過大評価もせず、とは言え志を大きくやるのは難しいのですが、その豪胆さがなければ化け物のような胆力で勝ち上がってきた人々に太刀打ちすることはできません。

優しく心ある人ほど、人に遠慮して譲ってきた人も多かったはずです。
今までの時代で勝ち上がる人というのは、利益のために平気で人を切れぬようでは浮上できないことを知る人たちだったのです。
だからこそ本当に善良な人ほど良いように使われ、虐げられたまま浮上することが難しい世の中でした。

私は即物主義の権化のような会社にいたせいで、心を病み一時は障害者になりました。
それでもお金が必要だったので、就労移行支援を受けて社会復帰を目指しました。
その時に出会った障害を持つ人々、特に精神病を患っている人たちは皆繊細で、心根が優しくて頭が良い人たちばかりでした。
それゆえ、彼らの心の傷の深さも感じ取れました。

彼らの中には、以前の私のように命を断とうとした人もいたかもしれません。
私はあの頃出会った人々が今は幸せであることを願いながら、私や彼らが体験したように、こんな不条理な世界で一人として不幸になる人を生み出したくないと思うのです。
そして、そんな人生をこれから生きる子供たちに辿って欲しくありません。

自分一人がただ落ちぶれて死ぬだけだと思っていたら、私はこれほど本気にはなれなかったでしょう。
それではダメだと思うから行動を起こし始めたのであり、自分よりも大切なものがあるからこそ、ここまで戦う決意でやってきたのです。

「勝ち負けが大事なのではない」というのは、無抵抗平和主義者が生み出した美辞麗句です。
結局は勝ち組に好き放題やられて、負け組が挑戦できないようになっている社会だからこそ、欺瞞が蔓延る今の状況があるのです。
勝ち負けも大事だし、成功も失敗も大事だし、利益も損失も大事です。
小綺麗にまとまっていれば美しい世の中とするのは所詮錯覚であり、その錯視を利用して利得に繋げる者もどこかにいるのです。
いい加減、そのレトリックは見抜けるようにならなければいけません。

幸いにも、おそらく思っているよりも多くの日本人が、覚醒の道を選びました。
これから起こることは、確かに最悪に見えるかもしれませんが本当の意味で最悪ではないはずです。
よもや、その中で気づいて動く日本人が増えれば、自ずと世の中は変わっていくはずです。

神様は、少し先の未来にそれを見届けられたのかもしれません。
だからこうして神様は、私たちを陰ながら後押しして下さるのだと思います。

「日本人よ、今こそ立ち上がれ」と。

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寄辺なき時代に

楽太郎です。

昨夜、ほぼ思いつきで「7月の満月について」という記事を書きました。
その記事を投稿して寝ようとする直前、家の前を誰かが徘徊するような気配がして、玄関から外を見ても誰もいませんでした。
私は嫌な感じがしたので、念のため魔除けとして破魔矢を窓側に向けて寝ました。

それから夢を見ました。
私はどこかのお店の中にいるのですが、人語を話すツキノワグマが店の入り口のガラス戸に体当たりしていて、私は熊が店に入らないようにドアをずっと閉めて押し出していました。
ツキノワグマは、私の胸元程度の大きさもないため簡単に押し返せたのですが、その形相は血眼だったのを覚えています。

朝、変な夢を見たなと思い時計を見ると、5時をちょっと過ぎた当たりでした。
そう言えば天体的に満月はその時間付近だったので、昨日の記事との脈絡を考えたら一応説明はつく気がしました。
昨夜は満月による浄化の強い日だったため、逆に言えば邪気が最も暴走する日でした。

人間の集合意識は現在、これまでの時代を作り出してきた物質主義者と彼らをサポートする存在の支配下にあります。
彼らは彼らなりの正義を実現するために「神に仇をなしてきた」のです。
その彼らにとっての脅威は、神の意思を地上に降ろし地球意識と結びついた人々そのものにあります。

私が「精神界」と呼ぶ新しい時代の気場からエネルギーを地上に降ろし、地球意識を体現する人々の行動によって古い時代の気場は取り払われていくからです。
従って、彼らが血眼で攻撃をしたい相手は自ずと決まってきます。
今の世を支配する者たちは、自分たちの代替となる勢力を生み出したくはないはずです。

私はだいぶ以前から彼らの波長とぶつかり合ってきたのは本ブログで書いていますが、夢の中でガラス戸に必死に体当たりしても押し戻されてしまう彼らは、確かに私にとって恐怖そのものであるにしても、もはやぶつかってくる以外に何もできなくなりつつあるのです。

私は最近、この仇なす者たちが愚直に同じ手口で同じことを繰り返すだけのように感じ、「他の方法がもはや思いつかないのでは?」と考えるようになっていました。
まるで、今の人々が昔のやり方をひたすら踏襲するしかないように、彼らも無駄だとわかっていながらその方法以外の道筋を取ることができないように見えるのです。
それが哀れに思えるからと気を緩めるつもりはないのですが、どうも彼らが追い込まれているのは実感を持って認識してしまうのです。

起きて家の外を見回すと、やはり満月の日で雨天もあってか邪気が蔓延しているように感じました。
それにしては邪気が強すぎるし、不可思議に気場も荒れていると思いました。
毎朝、神棚をお祀りする際に祓いを行うのですが、今朝に限っては「日本のためにお祓いをしなければならない」という妙な緊張を感じて、気づけば1時間以上は祝詞を奏上し続けていました。

さすがに集中力も切れたので奏上をやめると、まるで冬山にいたかのように身体が冷え切っていました。
今日は比較的涼しいのでエアコンを止めて閉め切っていたので、これも不思議な感じがしました。
色々と妙なことが起きているのを感じながら、熱いお風呂にしばらく浸かりました。

ここまでは、今朝起こった奇妙な出来事の話です。
全てを俯瞰的に説明する文脈はあるのでしょうが、私にはまだ点と点が繋がっていません。
ただ、おそらく人世の気場というものは、かなり凄惨な状況になりつつあるのかもしれません。

確かに、夏至を経由してからのエネルギーの変化は凄まじいものがあります。
私自身は神様も邪気の存在も忘れるくらい身体のエネルギーが高まり、多動とパッションをコントロールするのが難しいほどです。
人々がどんな状況か観察しようにも猛暑がきつすぎて通行人を見ることも稀なのですが、何万人もいる街なのにそれほど人が住んでいるように見えないほど静まり返っており、私との温度差を感じます。

ふとすれ違う人たちを見れば、相変わらず楽しそうに生きているようには伺えます。
ただもはやエネルギーの種類が私とは違うというか、全く同じ人間なのに別の世界の住人のように感じるのです。
彼らの波長が云々という話ではなく、行動を引っ張ってくる原動力、言わば考え方や価値観から始まり習慣や生き方に至るまで、まるっきり別の力で動いているように見えます。

それは私と彼らの間の優劣とかそういうものではなく、「違う文化圏で生きている人々」という認識に近いです。
同じ日本人で同じ生活様式で暮らしながら、まるで他国の人みたいに感じるようになってしまいました。
確かに私は社会に生きる人間として浮いてますし、どちらかと言えば不適合者の部類に入るのですが、それに劣等感があるからではありません。

私以外の人々はきちんと組織などで働いていますし、例えやりたくなくても社会に求められる義務を果たしています。
それは大変立派なことだと思いますが、お金を得るための労働をするだけで精一杯のようにも見えます。
また、「昨日やっていたことを明日もやり続ける」ために今を頑張って生きているように思えます。
それ以外の生き方を選ぶのは確かに難しい世の中ですが、まるで不安から逃れるために「昨日までのこと」にしがみついているように見えてしまいます。

これまで積み重ねて来たことだから、それが現実だからと明日も同じことを繰り返せるように今を必死にやり繰りし続けることは、いずれその積み重ねが崩れた時に何をしたら良いのかわからなくなるのではないでしょうか。
将来が不安で、今の世に疑問が多く考えたくない理由もわかりますが、そうして今までのやり方に固執することで安堵を得ようとするのは、結局は問題を先送りにし続けているだけです。

もし私たちがこれからどうするか考える時、「絶対」と思われていた権威が失墜していく時代にあって、安心できる寄辺もない不確定性の高い世の中で、どうすれば幸せに生きられるのかを自分の中に求めていく必要があります。
「こうすれば一生安泰」のような社会のセオリーのようなものは、全ての面で今後揺さぶられていくでしょう。
またそう言った安全地帯は誰もが求めるので、結局は椅子取りゲームになってしまい、おそらく大した安心も得られません。

そんな状況の中で、例えフワフワと漂っていても芯が通っているような、そんな自由な生き方だけが自信に繋がり、あらゆるステータスも決して保障にはならないという覚悟は、確固とした生き方を後押しするはずです。
そうして「自分が何をやりたいのか、何をして生きるべきか」を考える時、自分自身を見つめる難しさや不安から逃げていては、いつまで経っても道筋は見つかりません。

人間は変化を恐れますし、自分自身を見つめることも苦手です。
だからと言って、外側だけに安心を求め続ける限り、自分の生き方はずっと見つからないのです。

この社会で生きる上で「お金」という問題をどうするかに関しては、私自身も言えた口ではなく、今も喫緊の課題であり続けます。
しかし、例え今の世が飽和仕切って雁字搦めの状況でも、どこかに突破口はあるはずなのです。
そして世の中が少しずつ崩れていく中にあって、その隙間に入り込んで広げていくこともできるはずです。

その方法は、既存の常識やセオリーに囚われているうちは、全く見当が取れないかもしれません。
だからこそ、自分自身を見つめていく中でそのアイデアが自分の個性に宿っていることを知り、それを掘り起こして道具に使っていけば良いのです。
誰かの批判や揶揄を気にしているうちは覚束ないでしょうが、そんな自分に自信を持った時に真のオリジナリティを発揮して突き進んでいけるのだと思います。

今、その実践が人々に求められています。
誰かや既存の何かに頼るのではなく、自分自身の内側に信じるものを求め、不安や迷いを振り払って独自の道を切り開く生き方が求められています。
それは確かに難しいかもしれませんが、そのために新しい地球意識の気場が開かれており、そのエネルギーに触れるために目に見えない世界と調和していくことも大切です。

もし自分自身を見つめるだけでは何も見えないのなら、手を合わせてご先祖様や神様にお祈りしてみるのも良いかもしれません。
目に見えない守護者たちは、きっとそんな私たちを応援してくださるはずです。
未来は、常に挑戦する人々に委ねられてきたのですから。

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7月の満月について

楽太郎です。

今回の記事は11日午前5時に迎える満月、日本では現在進行形で10日夜に訪れている満月についてです。
これについて書くつもりはなかったのですが、少し霊的な兆候があったので解説しておこうと思います。

今日が満月だと予め調べもしなかったのですが、今日に限って世に漂う霊たちが騒がしいことと満月に因果関係があることに先ほど気づき、合点が行きました。
今朝、久しぶりに体感しうる霊障にしては大きいと感じてましたし、気場も荒ぶっていて家族にも兆候が垣間見えたので、何故か気になっていました。
私にとって憑依は日常茶飯事ですし、それも最近になって波長の高まりと共に霊力で抑え込めるようになっていたので、今日に限って深刻には考えませんでした。

ただ午前中に散歩していた時、道ですれ違う人々との波長と妙にかち合うというか、エネルギー的にぶつかるのを感じてあまり良い気分にはなりませんでした。
人々の集合意識と地球意識の気場が相剋している時に感じる波長の乱れには独特な空気感があって、それをこの時に見出してはいたのですが、「なぜ今日に限って?」という理由が見つからず、ずっと不可思議に思っていました。

何となく今日は「自分のことに専念する日だ」と感じてましたし、世の出来事に関するお役目も与えられている気はしなかったので、ますます今日の月齢に関して意識していませんでした。
ただ、この数日「感情」に関するテーマが宇宙的にピックアップされているのは感じていました。

7月6日に投稿した「戦いは終わった」という記事は、そのまま「感情」がテーマになっている文章です。
霊障が一段落し感情の落ち着きを取り戻したことで、再び自分本来の波長を取り戻し、過去にやり残したことに取り掛かっても良い状況になりました。

その投稿の翌日の7月7日午前中、大きな地震が起こった時に感じるような、劇的な磁場の乱れを突如感じました。
私は咄嗟に地震だと思い、避難しようか一瞬考えたのですが、蛍光灯の紐を見ると揺れていなかったので、どこか遠くで大きな地震でもあったのかな、とその時は思いました。
けれどこの日、東北地方で特に大きな地震はなく、まるで地割れが伴うような地震的な波動との因果も説明がつかなかったのです。

しかし、この不可思議な点と点が「満月」というテーマで結びついて、合点が行きました。
この地震的な波動というのは、人々の集合意識に関する精神的土壌、つまり「人世」の気場に起こった地割れであり、その変動はおそらく今日の満月に向けて起こっていたのだと思います。

「満月」はこの数ヶ月、一つのテーマに関する「浄化」という側面がありました。

それは「人への感情的依存」であったり「モノへの執着」や「未来への意識」であったり、様々なテーマがフォーカスされ、天からその浄化が促される時には、天の意思に抗う人間たちの感情が「邪気」となって暴走していたのです。
そのため、満月の日は特に気の乱れが激しくて、私は妙にテンションがおかしかったり頭痛がしたりと、様々な変調を感じることも多く、家族や人々の行動を見る限りどうも一時的に荒れる傾向にありました。

そして今日の満月の浄化は、再び人々の「感情」に対するピックアップが起きています。
先ほど、30年くらい前に住んでいた近所の光景が突如思い浮かんで、思い出すのも難しかった風景を不気味なほどアリアリと思い出してしまい、このインスピレーションがどうも関係があるようなのです。
今回の浄化のエネルギーは人々がこれまでの世に対して抱く執着、「懐古主義」と言っても良い、昔の繁栄に縋りつく感情ゆえに変化を受け入れない、そんな想念に対してお祓いが行われているのだと思います。

その布石として、7日に人世の気場が揺さぶりを受け、おそらくその時に何らかの地割れを伴いました。
ここ最近、世の「リバイバルブーム」がより加熱しているのが個人的に気になっていて、もはや過去のレガシーにしかお金が集まらない仕組みなのではないかと訝しく思っていたのですが、どうもこの潮流に対して神々からの指摘が入ったようです。
多くの人々は尚これまでの時代で通用した常識や価値観でまだ世が成り立つと思い込んでいて、どうも彼らはその固定観念を変える気はありません。

人々が未だ技術革新に幻想を抱いていて、ほぼ確実に「AI革命」は絵に描いた餅で終わるはずなのに、その狂信と古い時代に対する執念は同根のものです。
NVIDIAが時価総額4兆ドルという常軌を逸した熱狂をもたらしながら、その足元に横たわる不正や疑惑に人々は目を向けようとはしません。

技術革新はこれまで繁栄の基盤であり、技術万能主義に対する信仰と実益に裏打ちされていました。
しかし、ここ四半世紀の技術革新はほぼ頭打ちで、誇大宣伝によるユーフォリアと失望をひたすらローテーションするだけでした。
それでも、ほぼ全世界の人々は技術革新というフォーマットが全てを解決すると未だに信じており、それは古い時代に通用したスキームに依然しがみついているだけです。

現在開催中の大阪万博も、これまで通りの選挙活動で政治を良くしようという運動も、過去のコンテンツの焼き直しに至るまで、結局は「昔は良かった」というノスタルジーと「今まで通りのやり方で上手くいく」という通念に対する執着から生まれるものです。
その感情が天から浄化を促される時、人々の無意識下の抵抗感が大きすぎて激しく動揺が起こり、それが気場の振動を伴ったのだと思います。

私はこれを地震繋がりで「2025年7月問題」に準える気は毛頭ありませんし、そんなこじつけで納得できる人はいないと思います。
ただ言えるのは、霊的な次元で起こったことは現実世界に何らかの形で必ず反映するということです。
それは実際に地震なのかもしれませんし、例えば株の大暴落かもしれませんし、それを今の段階で断言することはできません。

しかし、私がこのブログでエネルギーの流れが急に変わったことをたびたび指摘してきたように、この辺りで何らかの切り替えが起こるのはおそらく間違いないと思います。
それがどのような形であるにせよ、それは私たちの日常感覚を変えるものかもしれません。
それに不安はつきまといますし、私も煽るつもりではないのですが、これが天が人々に促している課題であり、浄化すべき事柄になっていることに私たちが抗っても仕方ないのです。

何が起こるにせよ、私たちはもはや古いやり方にしがみつき、同じことを繰り返してもいずれ立ち行かなくなるだけです。
そのやり方に依存するのは、「変化」を恐れ新しいやり方を拒んでいるからです。
その執着がある限り、新しい潮流は生まれず世は黙って衰退していくしかありません。

この現状をどう捉えてどう考えるかは、今を生きる私たち次第です。
今日は、その反省を促すきっかけを人々に与えて回るような、そんな夜です。

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瀬織津姫想像図

楽太郎です。

先ほど上げた記事「素直に生きる」の中で、「瀬織津姫様が自分の内観ではもっと透明感のある女性に感じる」と書きました。
私は幽霊とかをバッチリ見るタイプではないので、神様を目視することはできません。

しかし、夢で見たりインスピレーションでそう見えることは時々あって、そのイメージを改めて描いてみることにしました。
以前、早池峯神社に参拝してご神札を拝領し、自宅の神棚にお祀りした日に瀬織津姫様の似顔絵を描いたことがあります。

その時はバストアップでしたが、今回は全身像を描かせていただきました。





「HARAEDO」は漫画ですからキャッチーなデザインを心がけてますが、瀬織津姫様を「実際はこう」みたいに描いてみるとこんな印象です。
描いていて改めて思ったのは、正統派清純派美少女すぎて「欅坂にいそう」と思ってしまいました。
神様なのに…

外とオタクの幻想の部分に、人間のアニマというか、「アイドルの原型」のようなものが眠っているのかもしれないと思いました。
そのアニマも、人間の理想像である神様の映しである可能性もあり、もしかすると私たち人間は深層心理でずっと神様を求めているのかもしれません。

ただ私にはどうも都合良すぎる幻視なので、自分がイメージする女神様の姿は、無意識に理想の形を作り出しただけかもしれない、と考えることもできます。
かと言って私が感じ取る神様からのメッセージやイメージが全てデタラメかと言うとそうとも思えず、「好みのタイプの姿に見せて良いように使ってやろう」と神様が思っておられたとしても、私としては本気でやる気が出るのだから別に構わないです。

確かに、欅坂みたいな女神様が「神社を作ってほしいです」と言ったら、マンションですらアイドルに貢ぐドルオタみたいに、人生をかけて神社を献上する男がいても不思議ではないかもしれません。

とは言え瀬織津姫様は、どうやら母の代から繋がりのある神様のような気がしてて、私の幼少期の話を聞いてみても神様がついているとしか思えないエピソードもちらほらあります。
私には更に深い瀬織津姫様とのご縁があるのかもしれず、それは残念ながら今の私には知り得ません。

けれど、こちらの女神様に見出す理想の女性像を、人間の一般女性に重ねてこれまで追い求めてきたのならば、
そりゃどんな恋愛も上手くいくわけがないよなと、ちょっと納得したりもします。

そりゃいい年して美少女の絵ばかり描いてますからね…そうなりますよ…

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素直に生きる

楽太郎です。

今朝、お風呂に入った時に鏡を見て、酷い顔だと思いました。
確かに昨夜は寝苦しくて何度か起きたのですが、寝たにしては目の周りが真っ黒でした。
こういう状態を見ると、とても自分自身の浄化が進んでいるようには見えません。

心に現れる霊障は、ほぼ無くなりました。
それでも尚感じる胸の痛みの原因がわからず、このモヤモヤが邪気を呼んでいる気がしていました。
この痛みは、湧き上がる感情を抑え込んでいたために起こるものだと気づいた時から、これまでのように必死に前に進もうとせず、自分の足元をきちんと見て歩こうと決めました。

今、制作中の「HARAEDO」ですが、若干方針の変更を考えています。
これまでは1ページないし2ページで1話完結としてきたのですが、あのお試し感は取っ払って完全なストーリーにしたいと思っています。
漫画という形式にも見直すつもりで、別のメディアでの展開を考えています。

漫画というのは、大抵8ページ以上ないと一つの話になりません。
ストーリー漫画はさらに長期のスパンが必要で、一人の作家が数ヶ月や数年を費やしてやる大作業となり、その制作環境を整えるために出版社を通して「連載」という形を取ることになります。

しかし、出版事業における漫画は商業的な成果を上げることが前提になるため、作品の完成度云々とは別の軸での結果を求められます。
編集者も頭を垂れるような大御所ならどんな原稿も通るのでしょうが、自分のやりたいことを出版の世界でやり続けるにはリスクを伴います。
「漫画家は連載してこそ一人前」という考えはその通りだと思いますが、自分が描きたい漫画を描くためなら出版社とのコネが必須なわけではないと思います。

私が考えているのは、漫画を描いて生活が成り立つなら一つの成功と言えるので、その程度にマネタイズできれば問題ないということです。
その方法はさて置き、自分が描きたい漫画はシノゴの言わずに描きたいなら描けばいいだけの話で、出版や商業に関してはまた別の話です。

最近の漫画は特に絵で魅せなくてはならないため、どうしても1話あたりの情報量は削られます。
制作コストと費用対効果を考えた時、「漫画」の持つ情報量に関するハードルをどう埋め合わせるか、それには「文章」と「演出」という形式的な補完によって可能になるのではないかと考えています。

それで、表現形式に関しては色々と実験をしている最中です。
あと、私の描く瀬織津姫命が何となく内観しながら感じる瀬織津姫様と、印象に違いが出てきました。
「HARAEDO」の瀬織津姫様はキャリアウーマン、という感じでしっかりした印象の女性です。
しかし、私が感じる瀬織津姫様はもっと華奢というか、可憐な印象を抱くのです。

デザイン云々のレベルの話ではなく、「瀬織津姫命」というキャラクターを描く時のイメージで、瀬織津姫様は思っているよりずっと少女性があるというか、もう少し儚い印象の神様ではないかと私は感じています。
あえて表現するなら、「透明感」だと思います。

その部分で、より自分の直感に合わせるように再構成していく必要があるように思います。
他の祓戸三神に関しては、むしろ三女神が漫画的な少女性が高く、従来の瀬織津姫命が格段に大人っぽい印象すらあったので、釣り合いが取れるかもしれません。
それをすると、ますます「プリキュア」っぽくなるのですが…

さて、スピリチュアルな話に戻します。
こうして自分を改めて見つめることで、前に進む道筋を知ることもできます。
これまで私の感じる波長には、神様からのもの、昔馴染みの小我のもの、霊的な自分としての魂、憑依体による波長が混在していました。
それらが全く異なる性質の波動ゆえに、私はよく混乱し自分を見失いがちでした。

今も尚、そのエネルギーが交錯して優先順位がわからなくなります。
湧き上がる感情が自分のものなのか誰かのものなのか、その感情を受け入れることは是なのか非なのか、心の中で取捨選択をすることすら難しいものです。

ただし、これらの感情は手放しや前に進むために邪魔になることの方が多かったのです。
神様の意志を実行し自分のやるべきことを実践する時、湧き上がる感情は手放しの対象ですらありました。
だから、基本的に感情は抑圧してしまうものであり、下手に情緒に流されると間違った因縁を招いてしまう恐れもあったからです。

特に私の場合は憑依によってあらぬ方向に引き摺り込まれる危険があったので、余計に感情を押し殺す必要がありました。
慈悲や愛着を感じるからと言って、良い人のように振る舞えばますます雁字搦めになって行ったでしょう。
そうしないために、私はわざと愛情を抑えていましたし、神様からも距離を取るように促され続けてきました。

それは今まで「自分の心を守るため」に仕方なかったと思います。
心を自分の制御下で死守しておかなければ、闇のものにいつ取り込まれてもおかしくなかったからです。
しかし、それはそれで自分の魂のエネルギーを抑圧していることになるため、苦しみを伴い肉体的な痛みにも跳ね返り、むしろ邪気を呼び込む原因にすらなりました。

その魂のエネルギーの正負の反転は、幽界との霊線を繋げ「魔」を呼び寄せる邪気にもなっていたのだと思います。
この波動の強さこそ、人間の魂が大神の「分身霊」であることの証左かもしれません。
これは私だけが特別な魂という訳でなく、誰しもが神の分身なのだから同じ仕組みであるはずです。

「祟り」という言葉があります。
これはある霊能者に教えて頂いたのですが、「祟り」とは「神(示+申)が出る」と書き、「神が守護から離れる」ことを意味するそうです。
逆に「崇める」とは「山に宗(たっとぶ)」と書きます。
日本人は古来より神々を山にお祀りしてきましたし、神を「尊ぶ」ことが「崇める」ことに繋がって来ました。

しかし、私たち日本人は神を崇めることを忘れ、それどころか信仰そのものを鼻で笑う風潮になってしまいました。
では、崇められなくなった神はどうするのかと言うと、「祟り」ます。
神が祀ることをしなくなった人間から離れる時、人間が生きながら負う罪穢れによって邪気や禍事を引き寄せ、その災いから守られなくなってしまうのです。

そうなった人間は陰気をまとい運気も下がり、自分自身が邪気を放って禍事をもたらすようになります。
これは神社仏閣に鎮座する神々を疎かにして起こることだけでなく、人間の心の奥深くにいる「分身霊」を粗末にすることで祟られることもあるのです。

人間は少し気が病むと誰かを攻撃して憂さ晴らししたり、気休めのポルノで自分を慰め、薬やアルコールに頼って気分を誤魔化そうとします。
しかし、その繰り返しでは自らの魂を裏切り続けることになり、いずれ自分自身という神に見放されていきます。
そうして自分が自分を守らなくなった時、「自分が自分自身に祟る」という禍事が発生するのです。

よく考えれば、あらゆる病気が生活習慣から起こるように、自分を偽り裏切り続ければ心身に現象として現れるのは、実際に認められることです。
私も、他人を道具としか思っていない上司の下で働いていた時も、金儲けのことしか考えないような会社に所属していた時も、「お金が必要」だからと無理に従い、自分の心を押し殺すうちに病気になっていきました。

自分自身の心に蓋をして否定し続ければ、いつか自分自身に祟られるのも無理はないのです。
だからこそ、自分自身を正しく「崇める」必要があるのです。
それは自分を神だと思い上がることではなく、「自分自身を祀ろうこと」即ち自分の心や身体を大事にして、素直に生きるということです。

これは生きる上で基本中の基本でありながら、なかなかできることではありません。
身体に良くないとわかっていても、嗜好品は摂りたくなりますし、やめられない癖もあります。
かと言って、無理にやめることを強制しても自分自身に反することになります。
この匙加減がわかるようになるのは、なかなか難しいものです。

しかし、「自分に素直になる」こと以上に自分を祀ろう、即ち自分を尊ぶことはなく、大事に思うからこそやるべきことが決まっていきます。
私たちは長らくこの感覚を忘れ、「こうしなければいけない世の中だから」「みんなこれをやっているから」「あの偉い人がこう言っていたから」と、自分以外のものを最優先にしてしまいます。

それは、自分以外の存在を祀ろうことであり、自分の神を崇めずに外の神を崇めることです。
その状態では、自分自身という「神」に裏切られるような出来事に見舞われるのも当然の話です。

私は自分の不調を通して、このことをよく理解しました。
神仏を信じ、瀬織津姫様をいくら崇拝しても、自分自身という神(分身霊)を蔑ろにすれば、神は崇めていないも同然だったのです。
これはなかなか盲点となる部分で、この信仰を疎かにして信心というのは成り立たないのだと思います。

それにようやく気づいて、今は無理に前に進もうとせず、一旦立ち止まることも必要だと思いました。
さすがに鏡で自分の顔を見て、幸せそうな顔にも浄化されてさっぱりした顔にも見えませんでした。
ここで意固地にならず、「俺は疲れてるんだな」と思うことにしました。

個人的に、ゆっくり考えなければならないこともあります。
これを良い機会にしてみようと思います。

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自分の運命を呪う

楽太郎です。

世の中が順調に悪化していくのをいくら目の当たりにしても、世が良くなる兆しは一つも見えません。
強いて言うなら、アメリカの国内情勢が明らかに破綻に向かいつつあることですが、とは言え破滅を望む心が善良とは言えないでしょう。

日本の参院選も20日に控えていますが、政治家という職業は選挙の前だけは必死になり、いざ議会が始まると便宜のことに頭を巡らせる人々ばかりです。
私は「民主主義」というのは社会主義同様に絵空事ではないかと思っていて、資本と癒着した民主主義は必ず腐敗します。

トランプ大統領に反旗を翻したイーロン・マスクが今度は新党を立ち上げて、共和党の対立候補に対して資金援助をすると豪語しています。
1947年に成立した「ロビイング規制法」以降、逆にロビイストの献金によって動くようになったアメリカ政府は、大企業に都合の良い法律や制度や環境を作り、市場の自由競争を完全な建前にしてしまいました。
特に大統領選を見てわかりますが、選挙戦はほぼマネーゲームの様相を呈しており、大富豪や企業の政治的献金がモノを言う世界に成り代わっています。

日本ですら、大政党とコネのある企業は業界の覇権を握りますし、国内の長引く不況をもたらした日銀の円安政策も、一部の輸出企業に恩恵を誘導する状況を作り出してきました。
政党支持率は思想云々ではなく、一部の人々の利権によって先導され、大衆はマスコミやメディアの煽りを受けて右へ左へと流されてきたのです。

その思想性のなさゆえに現在の状況があり、どうも日本人という民族は思想と政治と宗教に関して絶望的にセンスがないようです。
今では「正義」を象徴するものが「お金」になり、お金にならなければ悪、お金があれば幸せになるし便利だし願いも叶うし安全も買える、だからお金こそ正義である、と信じる人がたくさんいます。

そう言った人々にいくら考え直すように促したところで、それ以上に余計なお世話はありません。
彼らは彼らの価値観で正しい生き方を選んでいるので、「清貧」などと言おうものならタコ殴りにされるだけです。
彼ら自身も、決して間違っているわけではありません。

お金があれば力が生まれ、そのパワーがあれば大抵の人は言うことを聞くので、あらゆる欲望も願いも叶い、最終的には法や因果すらも捻じ曲げることができます。
お金があれば大概の不安はなくなり、豊かな生活が保証され健康でいられることは、幸福に繋がります。
ゆえに、そういう仕組みの世の中に「適応」しただけで、適者生存で繁栄する種族に罪はありません。

けれど、私からすると先細りが明らかに見える社会的状況で、世の不正や搾取を修正できる兆しも一切なく、どうやって同じことを繰り返して発展していくつもりなのか、甚だ疑問です。
どう考えてもこれだけ世の中が悪ければ若い世代はますます家族を作りたがらないでしょうし、少子化が加速すれば国家存亡の危機に陥ります。

おそらく今トップにいる人たちは、「日本列島に住むのは別に日本人でなくてもいい」という考えなのでしょうが、その流れで言えば今の状況を甘んじて受け入れている国民一人一人が、「棄国」に協力していることになります。
自分が生きているうちは「まだ日本」だから安心して死ねるのでしょうが、二世代三世代後の日本人がどうなるかまでは考える気がないのでしょう。

そんな世を見て、「この状況をどうすれば変えることができるか?」と私は常々考えるのですが、もはや一市民が立ち上がり、仮に十市民になっても千市民になってもどうにもならないかもしれません。
今、この国だけでなく世界中で起こっていることはもはや人間だけのレベルで起こっていることではなく、それゆえ人間よりも上位の存在、即ち神様のお力でなければ世を動かすことはできないでしょう。

今、世界のエネルギーは「覚醒」と「変革」を促す方向に向かっています。
しかし残念ながら、私が見る限りで「改善」「回復」の波動は見当たりません。
だからこそ世は混沌を増す一方であり、一時的に改善してそこから快方に向かう、という流れには感じ取れません。
むしろ、膿を出せるだけ出し切り、腐敗をさせ切って塵にしてからようやく革新が始まる、そんなシナリオに思えます。

この殺伐とした緩い地獄のような時代に、成長期や青春を過ごさなくてはならない子供たちを思うと、胸が痛みます。
そう言っている私も、これまでの拝金主義の時代にボコボコにされてきた人間ですし、私は根から競争社会や比較を軸にした価値観とは合いませんでした。
人間、一度せっかく生まれてきたのだから、他人の意見に左右されず、抑圧されても決して我慢して生きることなく、好き勝手にやればいいと思うのです。

けれど今までの時代は、人間が勝手に作った「謎ルール」に従わざるを得ず、そんな規則と同調圧力で雁字搦めになって身動きが取れなくなり、そうなって苦しんでいるのは自分だけではないのに、それを逸脱することを許しません。
こんなピリピリした雰囲気の社会では、おおらかに子供を育てて幸せな家庭を築こうとは思いませんし、生まれてくる子供の人生に責任を取れません。
こうして社会全体でジワジワと自分の首を絞め続けてきたのが、これまでの戦後日本だったのではないでしょうか。

「この状況を何とかしたい」と思うほどに、成す術がないことに気づきます。
だからと言って、変化を求めるあまり災害や世の破滅に期待するのは悪の思想で、どう転んでもジレンマを抱えてしまいます。
純粋に誰も傷つくことなく世界が平和になるためには、今すぐにでも自分が持っている武器を捨て、お金を他人に分け与え、倉庫に蓄えた食糧を配る、そんな夢物語にしか理想を叶える方法はありません。

しかし、現代の人類のレベルでそこまで出来るとは思えません。
ならば、本当に人々を救いたいのならば何を願い、何をするべきなのでしょうか。
その答えは、簡単には見つかりません。

私は、自分の運命を呪うことがあります。
これだけ善意で生きようとしても恥をかかされ、素直に生きれば嘲笑われる世界で、真正面から生きることをやめられない自分に対してです。
他の多くの人が、多少軽率であろうと強かに気持ち良く生きているのに、なぜ私にはそれができないのかと。

確かに、正しさや善良さは人間には必要ですが、そればかりではないからこそ世の中は回っています。
不条理を見抜き曖昧さを許せない、自分の融通の効かなさのせいで、私はあまり利口ではない形で苦しみを抱えて生きてきました。
そして要領の悪すぎる自分をいつも変えたいと思い、自分を否定して誰かの真似をし、常に何者かになろうとしてきたのです。

この世界で生きるのは想像以上に居心地が悪く、何をやっても座りの悪い感覚がありました。
けれど、私は軽快に生きている人々が憎らしいと思ったことは一度もなく、いつも楽しく生きようとする彼らが憧れであり続けたのです。
他の多くの人々のように、もっと強かに心地良さを求めて生きられるなら、私もきっと同じように幸せになれるに違いない、そう思ってきました。

今でも、自分よりもずっと幸せそうなのに、厚かましく彼らの幸せを願ってしまう自分がいるのです。
だからこそ、下手に世の煽りに流されて自分の首を絞めないで欲しい、実はその気持ちこそが本音なのかもしれません。
私は確かに世の人々からはコテンパンにされてきましたが、未だに彼らを怨みに思うことはないのです。

誰しも、何かしらテーマを持って生まれてきて、人生を生きていきます。
その他人のストーリーにいくら憧れを抱いたところで、他人になり変われるわけではありません。
私には私の人生のテーマがあって、それはトランプのババを引いたように思えても、自分のゲームである以上は仕方ないのです。

私は自分の運命を呪いますが、同時にそれは「使命」を持っているということです。
使命は、自分だけに与えられて中途半端に捨てることも諦めることも許されない、生まれる前に神様と交わした「約束」なのです。
この「約束」を果たすことは、人間として幸せになる以上に大切なことで、その役目を果たすために生まれてくる人もこの世界にいるのでしょう。

私にとって、人様のやることは大抵頭が痛くなることばかりなんですが、それを目の当たりにして心底嫌気が差しても、決して憎みきれないのです。
なぜ、これほど人間のことが嫌いなのに、人に向けて文章を書き、人間をキャラにした絵や漫画を描いて、見知らぬ誰かを喜ばせることを考えているのか、それでも世の平和と人々の幸福を願ってやまないのか、それは頭で考えてもわかりません。

本当に人間というものは面倒くさくて疲れますし、自分が人間であることも時々イヤになるのです。
これまでどんな酷い目に遭わされても、人として生きる目的や希望を捨てきれなかった理由を考えると、私は何だかんだで人間のことをずっと信じているのだと思います。
どれほどの失望を味わってもまた信じてしまう、人間を諦めきれない気持ちは、小手先のヒューマニズムにないであろう泥臭い情念に近いものです。

私は、人間を愛することをやめられないのです。
それゆえに傷つき損をするのですが、かと言って何かを欲しいわけではありません。

強いて言うなら、人々や社会がもっと寛容になって、自由に生きる人々に口を挟まない程度には穏やかな世になって欲しいと思います。
それが私が人々に願うことです。
それ以上でも、それ以下でもありません。

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