招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「神」とは何か

楽太郎です。

今日は、妙に波長が乱れてずっと横になっていました。
好転反応に近い不調ですが、つい最近ある行動をしたことが実績解除になったらしく、タイムラインが切り替わったことで違う波長のエネルギーが流れ込んできたのかもしれません。

こういう日は何もしないに限るので、神様のことについて調べていました。
以前、瀬織津姫様のお祀りをしっかりするよう進言され、参拝とご神札の授与を計画していたのですが、今尚どこの神社に参拝するかが決まらずにいます。

これに関してだけは、全く何のインスピレーションも導きも降りてきません。
私が変に考えすぎているだけなのか、最初から見当違いだったのか、それすらわからなくなるくらい模索し続けています。

3月3日は上巳の節句であり、瀬織津姫様のお誕生日とされているそうです。
この日は邪気を祓うことで女子の成長を願うとされ、この祓いが祓戸大神であられる瀬織津姫様と関連づけられたのだと思います。

だから、その日に合わせて自宅に瀬織津姫様のご神札をお招きしたかったのですが、間に合わないかもしれません。
今日一日ずっと調べ物をしていたのですが、最終的には「妥協するか」という段になっています。


そもそも、「瀬織津姫命」をご祭神としてお祀りされている神璽でなければ瀬織津姫様をお祀りできないのか、瀬織津姫様と同一視されている神様の神璽をお祀りし、強引に瀬織津姫様として崇敬することが許されるのか、それが白黒つかないのです。

瀬織津姫命は、「記紀」編纂時に持統天皇の命で故意に秘匿された形跡が伺えます。
これに関しては憶測の域を出ず、あらゆる歴史家や宗教者がその謎に取り組んでいますが、その帰結を決めるものは何もないはずです。

実際におられる神霊と、記紀や伝承を基にする神々の出自が一致する割合はどれくらいなのでしょうか?

私には、神様は人間の定義に合わせてご降臨なされているようにしか感じないので、神々は人間界の設定を借り、「その体で」顕現なされているだけなのではないか、と仮説を立てています。
人間を作り人間を支配せし神々が、人間の憶測や伝承によってご自身の立場を変えられるとはどうしても思えません。

ゆえに神様について考える時、二つのレイヤーで考察する必要があります。

  • 実在の神霊としての位相:知覚的解釈
  • 伝承や政治などの文脈としての位相:物語的解釈

「知覚的解釈」は、この物質次元における人間や自然に対してアプローチする時、エネルギー体(またはアストラル体)として知覚されるレベルの解釈を指します。
霊能者が神の声を聴いたり見たりする時に介在する力、自然や偶然が作用する時に生じる意図性など、現象として立ち現れてくる存在としての神です。
産土神や自然の神々、魂の内在神など、世界に現実として見出しうる位相となります。

「物語的解釈」とは、「記紀」の記述や神社の由緒、土着的な伝承など、歴史的文脈に基づく神々の定義づけや解釈を指します。
日本の国土に古くから信仰されてきた神々も、政治的な理由で祭祀を改められたり、記紀成立以降は名称や由緒を上書きされてきました。そして明治初期の廃仏毀釈や神仏分離によって、名称を改めながら祭祀されるようになった土着の神々もいます。
こう言った、歴史的文脈的には矛盾を孕むような多様性を内在しながら、人々はこの由緒に従って信仰していきます。ある意味、一般的な認識のレベルにおいて現実的なレイヤーになります。

私の感覚からすると、「知覚的解釈」と「物語的解釈」はニアリーイコールの関係というか、「そうであるけどそうではない」のが実際ではないかと思います。

物語的解釈は古くからの伝説やお伽話、あるいは政治的な思惑による文脈変更など、かなり人間の恣意性が入り込んでいます。
しかし、その物語的解釈をイメージとして刷り込まれた人間に対して、神様が全く無関係な神格として現れたり、メッセージを送ることはほぼないでしょう。

例えば、伊邪那岐命がご祭神の神社に、唐突に菅原道真公が現れたという話は聞いたことがありません。摂社としてあれば別ですが、少なくとも日本の神社に聖母マリアが現れたことはないはずです。

それでも、大山祇命がお祀りされている神社では、やはり大山祇命と思われる神霊がそれっぽく現れて下さるのです。
これは「知覚的解釈」ではご祭神の顕現と取ることが可能ですが、由緒書きを辿れば本来のご祭神とは違う系統の神霊である可能性もあるでしょう。
この時、「受けたメッセージは勘違いなのか」という疑念が湧いてくるのですが、おそらく大事なのは真偽ではないのかもしれません。

神様と私たちの関係を、人間と猫に例えて考えてみればわかると思います。

猫は、人間を「大きい猫」だと思っているそうです。飼い主にお母さんの面影を見て、それがおじさんでも母猫だと思って甘えます。
人間は猫に対して、「私はあなたのお母さんではないよ」と真面目に説得はしないでしょう。おそらく、したところで完全に理解はできないはずです。

これと同じように、宇宙の真理や人間の宿命を知り尽くした神々は、自分たちの認識のレベルに人間が到達できるなど微塵も思わないでしょう。
猫に言葉が通じないように、神の理を人間にそのまま伝えることはできません。
だから「こういうもの」だと思って、神様は人間に関わっておられるのだと思います。

そうであれば、「物語的解釈」の多少の誤差は神様にとっては許容範囲なのかもしれません。
ただ、明らかに侮辱的な思惑で神様の取り違えをしたらお咎めになられるでしょうが、本気で信仰するうちはお許しになられるはずです。

私には、神様のシステムが「市役所」のように思えてなりません。
各神社にお祀りされている神様は、一応は系統がはっきりしています。
自分が「保険福祉部」の部長に取り次いでもらいたい時、生活相談課の窓口に行っても担当者を経由して何とか取り計らってもらえるはずです。
例えば、とある神社の「天神摂社」にお祀りしても、その摂社の神様を通じて最終的に菅原道真公に話が行くとか、そういうことなのではないでしょうか。

おそらく、各神社におられる神様はユニークな土着の神霊だと思います。
その神様の上司が神宮とか大社におられたり、あるいは氏神神社が地域全体を仕切っているがゆえに他の神様との上下関係はないとか、様々なのかもしれません。
少なくとも各神社の神様が何らかの形で繋がっており、神格の設定に合わせて、人間に「その体で」関わっておられるのではないか、と私は考えています。

長くなりましたが、まとめると「物語的解釈」で繋がる神様は実際違う可能性が高いが、神様はそれを踏まえた上で人間に関わっておられる、というのが私の仮説です。
その文脈の客観的な矛盾や食い違いは、信仰心の尊重によって十分保証されうるものです。
その穴埋めをするのが「知覚的解釈」であり、これは「自分がそう直感した」ことが重要なので、物語的解釈を超越して成立しうる文脈です。

おそらく、元は神社の興りとなった動機も、純粋な「知覚的解釈」によるものなのかもしれません。
そもそも、日本の八百万の信仰は太古の昔、人間が自然物に神を見て、自然の恵みに感謝したり、恵みを乞うために神々をお祀りしたのが始まりです。
それは素朴な霊的直感であり、非言語的な解釈だったはずです。

だからこそ、祭祀の原型はこの「知覚的解釈」にあるとも言えます。
しかし、人間が社会の中で神々を崇拝するようになると、「物語的解釈」による神仏への評価が行われるようになりました。
この二つの局面によって、信仰は持ちつ持たれつの関係で続いてきました。
ただ、現代は情報化しすぎたため、「由緒」や神社仏閣への規模や権威が、神々への評価を規定してはいないでしょうか。

人間にとっての神様の人気度は、神々の権威と直接的な関係はないはずです。

今こそ、「知覚的解釈」に基づく自由さから、神々と繋がる時代なのではないでしょうか。
神様は、「どうせ違うから自由に繋がって欲しい」と思っておられる気がしてなりません。
確かに、高名な霊能者であってもその認識の正しさを証明することは不可能です。
証明することができないのですから、間違いも正解もないはずで、どの道人間には神様の全てがわかる訳がありません。

だから、もっと自由に神様と繋がろうとし、神様と繋がることについて疑う必要もないのでしょう。
要は、自分が繋がりたい神様と繋がり、お導きを受けられたらいいだけの話なのです。
そこに勘違いがあろうとなかろうと、最終的に間違いなく幸せになれたらそれでいいのかもしれません。


私はまだ瀬織津姫様を追い、どこに行くべきかを決めあぐねています。
ただ、大事なのは形ではないのかもしれません。
おそらく、私はどのお札をお祀りしても、心の深いところで繋がっている神様に近づくことができるはずです。

けれど、薄ら「近場で手っ取り早く済ませても同じなのでは?」と思っている私を、瀬織津姫様がどうお感じになられているのでしょうか…。

不届の私には、残念ながら瀬織津姫様のお気持ちを察することはできません…。

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