招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

今後の「経済」を予想する

楽太郎です。

以前「神の月、神無月」という記事の中で、現在は「変革」のエネルギーが降りているという話をしました。

この記事の執筆は10月中旬ですが、今になって「タテ壊し・タテ直し」のモードに入ったのは間違いないと確信が持てるようになってきました。
今回は、改めて現在地点とこれから先のことについて、書いて行こうと思います。

結論を言うと、日月神示「上つ巻・第一帖」の「日本はお土が上がる、外国はお土が下がる 」という世界線が、どうも確定した気配があります。
現在の国際情勢と照らし合わせても、私がかねてから言及してきた「米国経済崩壊」から世界同時大不況に突入し、おそらく「アメリカ合衆国」は国家としての存続が難しくなってくると思います。

現代世界の覇権国家である米国の没落は、国際秩序の完全なる崩壊に繋がり、その混沌に引きずられる国々が発生してくるはずです。
米国に次ぐ覇権国である「中華人民共和国」も、いずれは存立が危うくなると思いますが、数年という短いスパンでは考えない方が良いかもしれません。

少なくとも今後20年、日本はキナ臭い情勢の諸外国とは連携を徐々に縮小して、「国内基盤」を固めるターンに入っていくと思います。
「関税戦争」発生以降の国際情勢では、各国が内向きの政策に重点を置くことで、我が国も産業の国内回帰と保守的な政策に向かっていくのは避けられない傾向となるでしょう。

現在のAIブームに関しては、とんでもなく悲惨な着地点で終焉を迎えるはずです。
エコノミストの増田悦佐氏によると、生成AIの企業の運用率は未だに10%程度であり、産業規模として現時点で500億ドル足らずとされます。
2022年11月にリリースされた「ChatGPT」に始まる生成AIのブームから丸3年、このシェアを「これからだ」と取るか「もうダメだ」と取るかは微妙なところです。

これまでの歴史上、「技術革新」に3年のらりくらりした上に、大した実績も進化も起こさずに世界を変えた例は皆無です。
そこら辺に歴史法則をぶち壊す「奇跡」を期待する向きもありますが、それこそAIに「神」が宿って、神自らシンギュラリティを起こす方が現実的ではないかと思います。

現在、世界を股にかけた生成AIの著作権侵害、人権侵害、営業妨害などを巡る訴訟はアメリカの法曹界も著しく腐敗しているため、全く裁判が公正に進まない状態にあります。
それは巨大資本が順当な裁判を抑え込んでいるためで、それに際してGoogleなどは各国の法制度を変えるための圧力すら掛けています。

ただ、ここで米国の権威性が失墜すれば、おそらく「産業」として著しく非効率な生成AIの技術フレームに疑義が生じ、あまりにモラリティに問題が多い技術だけに基礎部分からの見直しが行われるようになるのではないでしょうか。
生成AIは、世界中から権利を無視して集めた生データを「データセット」と呼ばれるプールに集め、その情報をタグづけして再構成します。

画像生成AIは、「LAION-5B」と呼ばれるデータベースに商用素材や公式画像、個人の肖像が権利関係なくぶち込まれているだけでなく、児童ポルノや故人の遺影、犯罪写真まで混雑している58億枚のトークンで構成されています。
特に、児童ポルノ(SCAM)をこのデータベースから削除するには、きちんとした検閲体制を確立して人員による目視の削除作業を行えば、781年かかる計算になると言われています。

ChatGPTなどのLLM型のテキストベース生成AIは、3兆のトークンを使用し、今でもインターネットの世界をくまなく循環し、BOTをブロックしてもすり抜けて有料記事の内容まで学習していきます。
ニュースサイトなどはこれをされると困るわけですが、我が国では読売新聞・朝日新聞・日本経済新聞が生成AI開発企業のPerplexityを相手取り、訴訟を起こしています。

生成AIの権利問題は、実際のところ経済効果爆上がりで、本当に人類にとって救世主となるような技術革新であるならば、現時点で「著作権などない方が良い」という国際的なコンセンサスに向かっていったでしょう。
しかし現在の生成AIは巨大なデータベースを走るプログラムがパターン識別をして情報をコラージュするだけに過ぎないので、特に技術として画期的なわけではありません。

しかもエネルギー効率は恐ろしく悪く、性能の面でも制御不能な「幻覚(ハルシネーション)」や、ユーザーや開発者に忖度した生成を優先する「おべんちゃら問題」など、正確性においても未熟な段階に留まっています。
それどころか、アルファベットの綴りを誤読したり、時計の文字盤を読むことが殆どできないなど、実用性に対する疑義すら生じるレベルです。

これだけ問題が多い上に経済効率も悪いとなると、かつてのファイル共有ソフト(WinnyやWinMXなど)のように「とりあえずなかったことにしよう」となるのではないでしょうか。
私は、株式大暴落後のハイテク大手が生成AI関連の巨大損失を計上しながら、不採算部門を守り抜くために正々堂々と訴訟に対抗するとは思えず、業界揃って「なかったこと」にして裁判逃れをするのではないかと、穿った目で見ています。

そうなれば、AI塗れになり信頼性を失ったインターネット全体の空気も変わってくるはずです。
現在のインターネットは、Google一社でほぼ全体の環境を変えてしまったと言っても過言ではありません。
生成AIだけでなく、検索アルゴリズムもアフィリエイトも、投稿サイト運営においても、上位表示のシステムはだいたい米国IT寡占企業の独壇場です。

これまでは、そうしたビッグテックに忖度するか、追従するかを求められる環境でした。
対して米国IT寡占企業の弱体化は、デジタルの世界の風通しが良くなることを意味し、環境改善が期待できます。

今、誰もが手にするスマホ、YouTubeやFacebook、Xが「この世からなくなる」とは誰も思いませんし、私がこう言っても間に受ける人はほぼいないでしょう。
何億人が10年越しで使う巨大資本のプラットフォームだから、事情が特別だし何が何でも残存し続けるだろうと思うのは当然です。

mixiを思い出せと言えば悪意ある言い方になりますが、例えば折りたたみ携帯電話や古いゲーム機の時代に作られたコンテンツも、フォーマットが少し変わるだけで今や跡形もなく、どんなに覇権的でも「不動」と思われたコンテンツが凋落するのを、私たちはこの数年でいくつも目の当たりにしてきました。

「X」なんてのは、旧Twitter時代から殆ど黒字になったことがなく、毎年数億ドルの赤字を出す不採算企業ですが、それはイーロン・マスク体制でも変わらないはずです。
テスラのEVやスペースX然り、大赤字でも経営が存続できるのは、経営者が営業以外の部分で資金を引っ張ってこれるからです。

この世はまさに「諸行無常」であり、栄枯盛衰、盛者必衰の世の中なのです。
ゆえに、米国寡占企業だけは永遠に繁栄を続けると考えるのは、完全に幻想です。

これからの世界の経済を考えると、現代の物流主軸の経済が停滞した分、それを補う形でデジタル産業が隆盛してきた流れも変わらざるを得ないと思います。
というより、米国IT寡占企業の凋落によるデジタル産業全体の変化によって、インターネットを経由したビジネスもモノの経済も影響を免れないはずです。

それでは、その「変化」の後に経済はどうなるのでしょうか。

おそらく企業の国内回帰により、国内の産業基盤の再構築が起こり、地場産業だけでなくデジタルの分野も、よりニッチな分野の成長が促されると思います。
つまり少規模のサービス主体が複数乱立する状態となり、「分散」と「多様性」の経済に向かっていくのではないでしょうか。

アメリカの手を離れて世界を循環する「ユーロダラー」と呼ばれる米国外のドル資産は、アメリカ金融という主体を失った後、小資本の分散型投資の形を取りながら、堅実かつ地味な投資先を求めて世界中を回遊する時代に入っていくと思います。
そうなれば、財政基盤が健全で実直な経営をする日本企業が注目されていくでしょう。

現代のデジタル機器は洗練された巨大設備の中でしか構築することはできませんが、その産業としての希少性がNVIDIAのようなモンスターを生み出したことへの反省もあり、産業の多様性の面から見て中小規模の工場で作れる精密部品を町工場で賄う形になっていく可能性があります。
また、電化製品も電子制御では数年しか耐久性を持たないのも事実であり、経済的合理性から鑑みて「100年持つ」ような製品の需要が高まれば、半アナログ的な部分が大きくならざるを得ない気がします。

とすると、世界変革後の経済というのは「昭和30年代の下町」や「江戸時代の中町」に近い形なのかもしれません。
そう考えると、日本人としては元の鞘に納まるという感じがしないでもありません。

スピリチュアルの話に戻れば、こうなる趨勢が時間をかけて進行していくシークエンスに入ると思います。
私がこうは言っても、常日頃マスコミから流されるニュースは真逆の内容ばかりなので、私としては「妄想癖の人がまた言ってる」と思われるのも承知しています。
これらは私たちから見て、その動きが観測しづらい上に遅々としており、現象としてはっきり認知できるまでには半年から1年以上はかかるはずです。

世の中の動きはそれほど遅いので、私の妄言を間に受けて動いておられる方は、焦って何かを始めたほうが返って無駄足になるかもしれません。
神示を引き合いに出すなら、「日月の巻・第六帖」に「一度は何もかも天地に引き上げ 」とあり、今世に出したものも「引き上げ」になる可能性すらあります。
だから、むしろここぞという時に何かを始められる体制に持っていくまで、ひたすら準備を進める段階が当面続くと思います。

10月新月の意味」という記事の中で、「タテ壊し」はまだ先の話だけれど、「タテ直し」に関しては「キ(基・気)」の部分の練り直しから始めなければならない、と書きました。
神示的に言えば現在、本来あるべき「◉」に真髄の部分である「⚫︎」が抜け、形ばかりの「◯」のみになっているから問題があります。

「◯」の中心に「⚫︎」を入れるには、まずそれがなければならないのであり、ゆえに「⚫︎」のタテ直しが今求められています。
その流れは当面続き、現状を取り巻く膠着状態も次第に緩んでいくことで、状況は徐々に開けていくはずです。

かなり内輪的な話になりますが、今の「インターバル」的な空気の中で、旧暦10月「神無月」11月下旬に実際に出雲で神々が集まる会合があり、そこで方針が改めて話し合われることになるようです。
そのため、神々の動向次第でこれからの流れも固まって来るのではないでしょうか。

ぶっちゃけて言ってしまえば、この世界で起こる情勢は神界と幽界を取り巻く大変革の一部であり、その施策には日本の神々が大きく関わっています。
だから「日本のお土が上がる」のは当然であり、日本を一番「取り戻したい」と思っておられるのは、実は日本の神様たちなのだと思います。


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「人生」とは何か

楽太郎です。

この歳になると、親からも「子供」扱いされなくなり、「大人」として相応の立場を求められるものです。
まあそれは当然なのですが、私を「子供」と思わない母からは、聞きたくもない家族の秘密を聞かされることもあります。

私の母が10代の若かりし頃、初恋の男性と良い感じだったにも関わらず、父が母につきまとってストーキングした挙句、カッターを出してきたので怖くなって仕方なく付き合ったという、とても聞きたくない事実を知った日には、夕焼けがやけに滲んだものです。
そういった父の性癖には私自身、心当たりがないわけではないので、血は争えないと思ってしまいます。

18歳の母は、「これだけ強引なら、その分愛情も強いのだろう」と思って、なぜかそのまま付き合って結婚し、兄と私が生まれました。
母は「今まで良いことなんて何もなかった」と呟くこともありますが、なぜか我が家に限っては「因縁」というものを差し置いて説明できない気がします。

もし母が初恋の人と結婚していたら、話を聞く限りは紳士的で誠実な人だったので、父と結ばれるよりも幸せになれたかもしれません。
けれど人生において「もしも」というのは、考えても大した意味はありません。
母が微妙に不幸な結婚生活を選んでくれたおかげで私と兄が生まれ、私のおかしな人生があり、兄の子供もこの世に生があるのです。

人生というのはなぜか皮肉にも、人間の考えるありがちな「幸福」に必ずしも辿り着くとは限りません。
犯した過ちは取り返しがつきませんし、アクシデントも人生の落とし穴もたくさんあります。
そして「幸福」を追求するがゆえに、返って間違った道に進むことすらあります。

人間の考える「幸福」は、この社会が作り上げた理想であって、そのビジョンを追求することは、必ずしも神が人間にお与えになられた「人生の目的」と同じではないのだとしたら。

もしかすると私たち人間は、そもそも社会の考える「幸福」を目的とした存在ではない、ということかもしれません。

では、神がお与えになられた「人生」の意味とは何でしょうか。
もし人間が絵に描いた「幸福」に最短で辿り着くのが人生の目的なら、その人生に必要なのは「幸運」でしょう。
しかし、「幸運」は自分に備わった性質ではないため、くじ引きやビンゴゲームのような偶然に任せた幸福には、大した意味があるとは思えません。

しかし、生まれ持っての「地頭の良さ」や「容姿」など、自分を取り巻く初期ステータスもやはりランダム性を持ちます。
大事なのは無条件に振り分けられた、ハンデもありメリットもある「自分」という存在を通して、それぞれの人生の目的を追求していくことにあるのではないでしょうか。

けれども、往々にして世の中には罠が多く、大抵の場合はどこかで躓いては失敗して、しかも完全なリカバーも難しいのです。
そういった「取り返しのつかなさ」というのが人生における最大の特徴であり、この部分を甘く見るほど痛い目に遭った時のダメージは計り知れません。

だから、人生は「やったことは取り返しがつかないから、よく気をつけて生きていこう」と考えて、慎重に生きていくに越したことはないのです。
「取り返しがつかない」ゆえに、その経験から得た知見は「教訓」となり、過ちを避ける教訓が「知恵」となって自分以外の人々をも助けるでしょう。

ゆえに、人生において大切なのは、むしろ「幸福」ではなく、自身の生を通した「学び」にあるのではないでしょうか。

幸福とは、一度手にしてたところで、条件が変わればすぐに消えてしまうものです。
最高の伴侶との生活も、いつかその人がこの世から去ってしまえば終わってしまうでしょう。
お金も名誉も、容易く失われる性質のものであり、それがどれほど大きくても無くならないわけではありません。

無くならないのは、自分に命ある限り「不幸」を回避しうる「知恵」だけです。
成功のスキームもいつかは役に立たなくなりますが、「失敗しないためのスキーム」には汎用性があり、いつどこでも役に立つはずです。

実は成功するよりも「失敗しない」ことの方が人生を効率よく進めるには大切ですが、逆に「失敗」の経験が「失敗を避ける」ための大きな「学び」に繋がります。
これらのことは、一絡げに「成功」や「幸福」だけを追求すれば、見えなくなってしまう部分でもあります。

一度幸せになっても、いつかどこかでその幸福を失った時、同じ状態を完全に取り戻すことは大抵叶わず、幸福を失っても人生は続きます。
間違ったからと言って、どこかでリセットしてやり直すこともできず、失敗する前のポイントにロードすることもできません。

そして大抵の場合、「どこかで間違った人生」を誰しも歩み続けなければなりません。
これが人生の妙味であり、失敗や欠陥のある人生を「何とか良くしよう」として生きていくことが人生の本質なのかもしれません。

だから人生は「幸福」という刹那的な状態になることがテーマなのではなく、むしろ「幸福ではない状態をどう生きるか」に掛かっているのです。
「取り返しがつかない」ということは、ある意味「一度きり」のものであり、言い方は悪いですが「使い捨て」ということです。

いつまでも自分は若く元気で綺麗で、世の中にはチャンスはいくらでも転がっていると思っていても、人間などたかだか数年で容姿も境遇も変わる儚い存在です。
そして歳を取り、身体が衰え容姿も変わり、世の中の時流に合わなくなっても簡単に死ぬわけにはいかないため、生きている限りチャレンジは可能です。

けれど晩年になって何一つ手をつけられなくなった時、「次の人生はもっと頑張ろう」と思い、死んでまた生まれ変わって、生き直そうとする仕組みが「輪廻転生」なのかもしれません。

だから、人生というのは予め失敗を前提にしたものなのではないでしょうか。
ただ人間にとって「自分」という人生は一度きりだから、このターンで全てを成功させて完璧な人生を送りたいと思うでしょう。
そして、自分以外の成功者はそんな生き方ができていると錯覚し、同じように最短ルートで最適解の人生を目指したがるのです。

実はそこに「落とし穴」があり、絵に描いたような成功には「虚飾」や「見栄」がつきまとい、自身を「成功者」に見せたい者ほど華麗なデコレーションを施すものです。
世の中も「学歴」や「経歴」の一貫性を「無傷」と評価し、そういった固定観念に最適化された人生を、社会は人々に強要します。

人間は「失敗したくない」生き物ですから、誰もが環境から用意された「最短ルート」の道を歩もうとするでしょう。
しかしその選択肢は、自分が用意したものではないために不一致感を覚え、その感覚を押し殺しながら生きる中で「人並みの幸福」を掴もうとします。
ただそれも、自分の性質や真の願望とは離れたところにあるので、どこかで不安や違和感を埋め合わせ、自身の半生を正当化する根拠を探します。

ややすると、その不満が「ステータス自慢」であったり、職権を振り翳して利益を得たり、誰かを組み従えて満悦する、そういったところに別の捌け口を求めるのかもしれません。
そして、人々はそれを「成功」と称し、経済的成功者を「幸福に違いない」と錯覚し、世にある幻想の一つに過ぎないものに、一度きりの人生を費やそうとするのではないでしょうか。

ただ、それもやはり人間社会に作られたもので、幻想に近い「幸福像」を中心にこの宇宙が回っているわけではないことは明らかでしょう。
だからこそ、宇宙から見れば人間の幸福は人間に作られた幻想にはなく、まして人生の真の目的はそこにないと言えるのではないでしょうか。

そして、それぞれの人生にはそれぞれの「テーマ」があり、その主題は自分の生まれが設定された時から始まっているのだと思います。
「幸福」は自分に与えられた「テーマ」の延長にしか存在せず、それゆえ人間の考えた「幸福像」の追求が重要ではないとしたら、むしろ自分の幸福は自分の人生の中にしかないことになります。
そしてそれを「学ぶ」ために人生があり、よしんば自分なりの幸福を追求するためにあるのだとしたら、一度失えば終わるような幻想に人生の主軸があるのではない、そう考えて良いのかもしれません。

特に今の私たちは、この社会情勢の中で「これで良かったのか」と顧みて、「あの頃は良かった」と浸ることもあるでしょう。
「過去」に囚われ、過去と地続きの「今」を疑いながら生きる時、そこに充実感はなく、幸福に対する前向きさもありません。

やはり、過ぎ去ったものが再び同じ形で戻ってくることはないのです。
「取り返しがつかない」のは全てに当てはまることだからこそ、失ったものにいつまでもしがみついているべきではありません。

もし「今」が不幸でどうしようもなく、過去の後悔や未来への不安に囚われているのだとしたら、その苦しみの根本には「自信の喪失」があります。
仮に今が最高に上手くいっていたら、過去に何があっても現在の自分を正当化し、評価することができるはずです。
しかしそれができないのだとしたら、「今」の自分に納得がいかず、「過去」の自分を否定し、その時系列が切り離された感覚を、「過ち」であると感じるのではないでしょうか。

つまりは、「過去の自分」と「今の自分」、そして「未来の自分」が全てバラバラだから、「現在」というものに自信を持つことができないのです。
その時、「過去の経験」を「今の自分」に畳み込み、「未来への希望」を現在に畳み込めば、「自分」という時系列は一貫性を持つはずです。
そして、「過去の経験」を「未来への希望」に繋げる時、「今の自分」は最適なものとなるでしょう。

過去から今、今から未来に至る自分に芯を持つことで自信を取り戻し、自らの人生に対する後悔や不安は消えるはずです。

これまでの世は、あたかも「人生のマニュアル」があるかのように、「良い学校へ行き、良い企業に就職し、良い家庭を築く」という人生のルートを最適解にしてきました。
その教科書通りの人生を外れる恐怖が世に蔓延していたからこそ、誰もが失敗を恐れ、自分の性質や人生の目的を二の次にして、同じような価値観で全ての人が生きようとしてきたのではないでしょうか。

ただ、そこに誰しも辿り着ける「幸福」はなく、繰り返せば良いだけの日常には、人生の「学び」も存在しなかったでしょう。
「失敗」の経験が「学び」になり、その「知恵」が人生にとって遥かに大切であることは、これまでの世の中では見過ごされてきたのです。

これまでの世の中に大きく間違っていた部分があるとしたら、人間が生きる上での「失敗」を許さない社会にしてきたことです。
しかし人生とは、人間が想像する「幸福」のために全てを費やすことではなく、「学び」の中でより良い人生を歩むことにあります。

従って、どんな「失敗」も、本来ならむしろ歓迎するべきものです。
人生の全てが「取り返しがつかない」からこそ、そこで得た経験は貴重であるはずです。

もし良い世の中があるとすれば、それこそ誰もが、失敗を笑い合える余裕のある社会なのではないでしょうか。

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正直者はバカを見る

楽太郎です。

連日、「アメリカン・ドリーム」「多様性のウソ」と、救いのないような話ばかりをしてきました。
いや、「救いがない」というのは語弊があります。
むしろ「救われる」ために状況はより破滅的になり、ドン詰まりから基礎的な崩壊が起こりつつあるからです。

私は未だに、20世紀初頭のベルギー領コンゴで、ゴム採取のノルマを果たせなかったせいで両手両足を切り落とされた5歳の女の子と、その家族の運命について考えると、とても居た堪れない気持ちになります。
それも100年以上前の話ですから、現代に至るまでにゴム農園よりも酷い環境なんてのはザラにあったのが、「世界」の現実です。

私は、弱者を虐げる権力者が私腹を肥やし、権力に比例して報いも咎めも受けない仕組みに対して、長いこと納得がいかないのです。

今、写真と記事があるからようやく知れるようなことも、出来事を伝える手段を失ったために闇に葬られたことなど山ほどあったでしょう。
ただ、このコンゴの凄惨な写真、この画角で写真を撮るにはあまりにタイミングが良すぎる印象があり、詳細はわからないのですが何となく腑に落ちない部分もあります。
歴史的事実というのは、裏の裏を探ればさらにエゲツない事実が浮き彫りになることもありがちな話です。

ましてや、こういった不条理は現代だから解決している事実は全くないわけで、今でも世界中で起こる戦乱の下だけでなく、我が国の企業ですら「儲けを出せない社員は死んでも構わない」という意識で使役されている労働者もいるでしょう。
従業員はハサミか鉛筆程度のモノ」という思考の職場に私はいたことがあるので、そういった状況も組織の体質も酷く理解はしているのですが、とりあえずここでは置いておきます。

現代と言えど、コンゴのゴム農園やアメリカ奴隷市場のような凄惨な状況は、形は変えて同じような現象が世界中に溢れています。
この「支配」と「搾取」の構造を強化する「権力」と「差別」の仕組みは、やはり「富める者」と「貧しき者」の差、つまり「お金」という存在が中心にあります。

「お金」を持っていれば人望が集まり、賛同は「集団」となり、数は「力」となり、物理的に「武力」となり、言葉は「発言力」となり、全てにおいて弱者を凌駕します。
そこで権力者に囚われた人々は、逃げられなければ権力者の好き放題になるわけですが、その虐待を咎める更なる「力」が存在しなければ、永久に彼らは罰を受けることはないでしょう。

現在においてもその構造は健在で、「罰を受ける仕組みを逸脱した」権力者が、告発を抑圧し罪から逃れ、何食わぬ顔で権威の座に居座っているのがまさに今の世界です。

「勧善懲悪」を打ち出して今季大統領になったトランプ氏は、数々の「闇」を暴くヒーローとして甦ったはずですが、今のところ児童買春の「エプスタイン問題」についてはダンマリ、政府の予算削減は殆どならず、中国のコロナウイルス起源の追求も有耶無耶、それどころか勝負所の「報復関税」すらなし崩しのまま、「TikTok」が欲しくて国家元首の顔色を伺う始末です。

トランプ氏を大統領にするために「ハシゴ」を掛けた人々が大統領自らにハシゴを蹴り落とされ、共和党支持者は一体どんな顔をして暮らしているのでしょうか。
多くの米国民は、自分たちで「大統領」を選出したと思っているかもしれませんが、純然たる「民主主義」がきちんと機能するならば、大統領候補擁立の時点で民衆から選ばれた「聖人」のような政治家を「誰を選ぼうか悩む」くらいのはずで、それが「どっちのジョーカーを選べばマシか」という「ババしかないババ抜き」にはならないはずです。

まあ、これは我が国も他人事ではない案件で、政界の腐敗度で言えばトントンかもしれないのですが、こういった「民主制選挙制度の欠陥」は、現在の世界中に見られる光景です。
そこにおいて、民意と政治のズレの間には「利権」という深い溝があり、現行民主主義制度ではこの溝を埋める手段がほぼ存在しないのではないでしょうか。

国家は歴史的に見て、強権的であればあるほど民衆にとって害となる反面、制度として確立していなければ外来の国家から民族や国土を防衛できない、という厄介な性質があります。
つまり「軍事力」という面では国家権力は必要悪なのだけれど、政治の面から見ればむしろ害悪になるケースの方が多いのです。

これらの「統治」に関する議論を始めればキリがないので止めておきますが、国家的権威に近づけば近づくほど利権は増大し、巨大な既得権益を有する財閥や富裕層が政界に影響力を及ぼすことで「我田引水」の仕組みを作るというのは、まさに構造的宿命と言ってもいいのではないでしょうか。

そこには、「お金」と「権力」というものが付随し、その利権を持ってすれば「法」ですらも人為的に捻じ曲げることが可能なのです。
そして「越権」と「脱法」が可能になった権力者は、その力を使って世の因果を好き放題に捻じ曲げることができるでしょう。
そうして固定化した権力構造が、今の世界情勢を形作っていると言っても過言ではありません。

こうなると、「人間」が「人間」を裁くことが出来なくなります。
その法の仕組みは権力者に握られているのですから、非力な民衆には簡単には翻すことができません。
それが平和的にはデモ、状況が激しくなるにつれて暴動やテロ、クーデターとエスカレートしていきます。

しかし武力で成立した政権が、穏健な政治に転換するという事象は酷く稀です。
大抵の場合、国家転覆時の抵抗勢力を抑え込む時点で発生した軋轢を引きずり、新政権樹立後も武力に訴えがちになるのです。
そうなると、その国は派閥と敵対の連鎖が連綿と続く歴史を歩まなければならなくなります。

この構造は、そもそも「悪辣な権力者」が誕生する構図を人類の統治技術では避ける方法がなく、その権力を裁く手段が未だこの世に存在しないことに、糸口の見えない問題があります。
これまでの国際社会では、「国連」がその役割を持つという「体」でしたが、常任理事国のロシアのおかげで、その機能が骨抜きであることが明らかとなりました。
今はその半分の役割をNATOが担っていますが、今日の弱体化した西側諸国の団結力では、元も子もないでしょう。

つまり「人治」の世界における限界が、ここにあります。
権力者の「罪」は、それ以上の力を持つ「権力者」がいなければ裁くことができませんが、その権力者も公正さを失ってしまえば、その罪は誰も裁くことが出来なくなるわけです。

人間は、人間の世界での「因果律」を曲げることで裁きを逃れ、罰を受けることなく罪そのものから逃れることが可能になります。
これまでの人類史の凄惨な歴史も、この「支配者」が自然死することで出口に向かったケースが実に多いのです。

余談ですが、これがもしイーロン・マスクの追求する「電脳不老不死技術」で現代の権力者が永遠の命を手に入れたら、それこそハリウッド映画で見たディストピアに近い世の中になると思います。

この構図が、これまで「闇の世」を作り出してきた最たる仕組みと言っても過言ではありません。
人間が人間の世界で「因果律」を曲げることができると言っても、仏教では宇宙的法則とされる「因果応報」、「自因自果」「自業自得」という神々の因果は、どこへ行ったのでしょうか。

私たち人間は、どんな悪人であっても必ずしも報いを受けず、むしろ悪辣な行為をやり切ってから差し引きで優遇される光景すら目にします。
つまり「ヤリ得」であり、悪いことをすればするほど得た利益で力を持つので、どんどん悪行を重ねて成功していくという状況すらあります。

これに関して、真面目に誠実に生きていく大多数の人々は、「正直者はバカを見る」と内心思うのです。
人間から見ればそうですが、果たして神々から見ればどう映るのでしょうか。

人間にはこの「現世」しか目に見えませんし、わかりません。
この世で悪辣な行為を繰り返した人々が、死ぬ寸前まで大した反省もなく、好き放題に暴れ散らかして死んでいくのを目の当たりにしても、彼らが死後どうなるのか、またその魂が来世にどういう宿命を辿るのか、今を生きている人間たちには知りようがありません。

私はここに答えがあるのではないか、と思います。
「死後裁きに遭う」と宗教的に言われ、半ば負け惜しみのようにも捉えられてしまう死後の「因果応報」ですが、確かに「あいつは地獄に堕ちるに違いない」と思えば、少しは溜飲も下がるでしょう。

ただ、私たちにはその結果を知ることも叶いません。
だから精神的には、「悪いことをした人間は死んだ後に苦しんで欲しい」とだけ思うのです。
それは残念ながら願望であり、実際にそうなるかを確かめる手段は殆どありません。

しかし、果たして本当に「因果応報」とは存在しないのでしょうか。
むしろ、人間には「因果応報」という宇宙の真実がわざと認識できない形になっているとしたら、逆に死後に赴く「霊界」では現界と異なる意味を持つ可能性があるのです。

人間は輪廻転生を繰り返してこの世に生まれる時、過去世との因縁を持って誕生すると言われます。
私たちが日常的に遭遇する突拍子のない不幸も、目に見えない因果によるものだとしたら、人間の目で捉えた筋書きの出来事とは違う事実があるはずです。

例えば、不慮の交通事故に遭った人が、全く無関係のドライバーと賠償請求で揉めて、そのトラブルを何年も引きずるようになった時。
もし過去世を辿れるとしたら、どこかの過去世で加害者であるドライバーと被害者は出会っており、全く同じことを逆の立場でやっていた可能性は否定できないでしょう。

世にある「巡り」というのは実際こういうもので、過去世のカルマは未来的な転生の間に、「因果応報」という形で身に降りかかるのかもしれません。
それは今生を知らずに生きている人間からすると、理不尽かつ不条理な出来事に、突発的に遭遇したという印象です。
しかしそれは、過去世で自分が相手にしたことと全く同じことが返って来ているとしたら、不意を突かれた状況も過去世の相手にとっては同じだったかもしれないのです。

そしてその「罪」は、軽いものほど「カルマの返済」後の立ち上がりは早いのでしょうが、何度死に変わりをしても人間の命では返しきれないカルマも存在するでしょう。
実は、死後に地獄で苦しむよりも恐ろしいのは、むしろ現世で全く何も知らないのに「罰」が降りかかってくるということです。

この場合、「罰」というのは「迷惑料」のようなもので、閻魔様がいちいち裁きを与えるものではないかもしれません。
本人は全く借金したつもりはないのに、全く別人の請求書が送られてくるのですから、面食らいます。
しかしそれは人格として繋がっていなくても、魂の前の持ち主がした借金なので、今の借主が返さなければならないのも理不尽に感じられるでしょう。

どうも、ここにこの世の妙味がある気がします。
自分がした借金なら「仕方ない」と思える分、罰に対する反省や心構えがあります。
しかし全く身に覚えのない返済義務は、まず借金の存在を知るところから始まるので、より「罰」を受ける時の衝撃度は増します。
むしろ、この「タイミングの悪い請求書」ほど、借銭を滞納した分の利子と言え、その不幸感が「罰」の一部かもしれないのです。

だから、知らず知らずのうちに発生した借金の取り立ての方が、思いきって自己破産するよりも恐ろしいのではないでしょうか。
この「巡り」の全体を見れば、人間が一生のうち数十年というスパンで目視しうる因果応報は、実際は一部分に過ぎないのかもしれません。

私たちはそれを見て「そら見たことか」と言い、悪人がのうのうと天寿を全うするのを見ると、「地獄に堕ちればいいのに」とすら思います。
しかし神々から霊界を見下ろしたタイムスパンは遥かに長大で、何度転生を繰り返しても果たされない「カルマ」があるとすれば、そこには計り知れぬ恐ろしさがあります。

この「巡り」、「因果応報」があるかないかの認識があるだけで、今世での生き方と来世での運命が変わって来るとしたら、それが真実かはどうかわからなくても、とりあえず悪いことはやめておこうと思う方が賢明ではないでしょうか。
ここで刹那的に生きて、大した反省もなく逃げ切ったとして、人格としては一度死んでも、全く記憶がない状態で他人にした同じ目に遭うとしたら、自分は人格としては無関係でも、責任を果たすのは違う人格の自分という仕組みが、この宇宙なのかもしれません。

しかし、それは「どうせ俺じゃないから」と今は思っても、違う人生の自分が遭遇する運命は結局自分が経験することになり、記憶が丸ごと入れ替わっているだけで、人格的に連続性が「ない」とは言い切れないのも恐ろしい部分です。

だとしたら、誰もそんなことは教えず、マニュアルにもない宇宙の仕様に則って、平然と他人を傷つけることのリスクは計り知れません。
その法則を「わざと人間にわからないような形にしておく」神々の意図があるとしたら、それこそ底知れぬものがあります。

そう考えると、私はコンビニの店員さんにも愛想を振りまく人当たりの良さを発揮せずにはいられないのです。
しかし人間からは、この「巡り」が本当にあるかはわからないので、普通ならそこで地を出してしまうものですが、ここで宗教的な感性のある人なら少し違うはずです。

正味な話、この宇宙の因果法則や「巡り」があると思えるかは、目に見えない世界や「神」が存在するかを、どれほど信じられるかに比例するのではないでしょうか。
「目に見えないもの」を信じられない人は、この法則に気づかずに過ちを繰り返すでしょう。
そこに「巡り」があると思えるかは、神の存在を信じるか、人間の世界が全てと信じるか次第です。

私は「悪人」がのうのうと蔓延る現実を見た時、さすがに「この世に神はいないのか」と思う時もあります。
その時ほど「因果律」を疑い、不公平さを嘆く自分自身に、こう問いかけます。

「神の法則を信じるのか、人間の常識を信じるのか。さあ、どっちなんだい!」と。
(なかやまきんに君風に)


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「多様性」のウソ

楽太郎です。

今の世を見回して、喧々諤々に「世直し」に対する議論は、かつてないほど盛り上がっているように見えます。
しかし、現在は何をやっても閉塞感があり、不公平感や不条理感があるから、そういうムードに流されて考えるフリをしているだけの人はいないでしょうか。

世が何となくまた景気が良くなれば、結局は不満もどこかに霧散して、また同じことをする世になってはいけないと思います。
人々は溜飲が下がれば問題は解決したと錯覚しがちですが、大事なのは真の「学び」であり、その教訓を後世に永続させることではないでしょうか。

私は、エコノミストであり文明評論家である増田悦佐さんのブログを読んで、しばし眠れなくなりました。

奴隷制と人身売買の歴史

この記事は読み進めるほど凄惨な内容になり、途中から目を背けたくなる事実も語られています。
しかし、「現実」と実際の「歴史」を知るためには、見なかったことにはできないのです。

アメリカ合衆国の成り立ちを考える時、先住民の絶滅計画や奴隷制の推奨という事実を隠して語ることはできません。
また、西欧諸国が文明的に「先進国」とされるには、近代以降にヨーロッパを中心としたアフリカ、南アジア、南米、カリブ諸国、オーストラリアなどへの侵略と植民地化によって、財政的な恩恵があったことを無視する訳にもいかないのです。

私がこの記事で特に印象が強かったのは、20世紀初頭のベルギー領コンゴで、ゴムの樹液を採取するノルマを果たせなかった5歳の女の子が、罰として両手両足の先を切り落とされ、その一部を父親が眺めている写真です。

5歳の女の子に労働義務を課し、それが実行されなければ手首足首を切り落とされるほど、「利益」というのは雇い主にとって絶対的だったのかと思います。
いや、ベルギーの資本家にとっては、コンゴに住む人々は「家畜」以下で、人間として認識していないからこそ、樹液を採取するノルマを果たせなければ「死んでも惜しくない」存在だったのです。
まるで、「先住民」であることが「罪」であり、白人に従わなければ「罰」を受けるべき存在である、そういう価値観があるようにすら思えます。

私たち日本人は、生まれつき人種差別意識には疎い民族です。
しかし一旦外国に目を移してみると、日本人が思うほど世界には他民族を無条件に受け入れる精神風土がないと考えた方が、むしろリアルなのではないでしょうか。

今は「グローバリズム」や「多様性」と、「ノーボーダー」が尊いという価値観が世界的に広がっています。
しかし裏を返せば、「肥満体の黒人トランスジェンダー」を積極採用すればヨシとされる「ポリティカルコレクトネス」のような、歪な風潮にこそ顕著に見られます。

本来の「多様性」なら「適材適所」で構わないはずであり、「肥満体の黒人トランスジェンダー」がミスコンテストに引っ張り出される必要性は特にありません。
ああ言うルッキズムの世界は、どこまでも趣味嗜好を追求し、独断と偏見で「グラマラスな金髪白人美女」を選出して、仲間内で盛り上がっても別に罪にはならないでしょう。

「ルッキズム」の業界は「ルッキズム」が好きな人々の需要を満たせば良いのであって、それを「政治的正しさ」で評価しようとすれば、ミスコンテストの動機や理念そのものを歪めてしまうわけです。
ここで逆に「グラマラス金髪白人美女」がフィーチャーされないミスコンは、そういった特徴の女性たちの活躍の場を奪うという、逆の差別に繋がっているように思えます。

これはまるで、過剰なルッキズムで盛り上がる界隈の「集団的個性」を潰し、その意味での「多様性」を排除しているように見えます。
今の世の中は「ノーボーダー」と言いながら、「許される多様性」と「許されない多様性」が存在します。
本来なら「多様性」の世の中なら働かない40代男性がいても「人それぞれ」で良く、「子供部屋おじさん」とわざわざ揶揄しなくても、放っておけば良いでしょう。

しかし、それは「許されない多様性」であり、なぜか「特定の社会規範を逸脱した多様性は許されるべきではない」という結論が付随しています。
そして、その「特定の社会規範」を定義するのは、大抵の場合「多様性」を推進する側の人々であり、彼らは彼らなりに「許される多様性」として、マイノリティの人々を表舞台に引っ張り上げる職能を持つのです。

これは単に「多様性に対する寛容」を広めるのではなく、「多様性に対する選択肢」を提供しているに過ぎません。
だから「許されるべき多様性」は、彼らが推進する「マイノリティの社会的向上」という免罪符とセットであり、そこにむしろ「差別意識」が存在しないでしょうか。

だから私は、彼らグローバリストが言う「マイノリティ」とは、自分が基本的に特定の特徴を持つ人々を差別し、侮蔑の目を向けているからこそ、彼ら彼女らに高待遇を「施す」ことで、差別への罪悪感や実際の差別行為を「免罪」しているようにしか見えないのです。
だからこそ、「差別しても構わない」オタクの中年男性なんてのは、誰一人擁護する理由もなく、常に社会的にサンドバッグ代わりの扱いしかないのです。

まあ、アメリカのミスコンで「肥満体のトランスジェンダー中年アニメオタク」がいいところまで行けば、「そこまで覚悟が決まっているなら」と、私も評価を変えますが。

増田さんの「奴隷制」の記事の話に戻りますが、どうも西側諸国の人々には、未だに「有色人種」への偏見が残っており、近年はむしろ「ヨーロッパ的帝国主義」に対する「先祖返り」の兆候すらあるのではないかと思います。
昨年の「パリ五輪」ではマリーアントワネットの断首をユーモラスに表現して物議を醸しましたが、あれも「ポリコレ」風味がマシマシのイベントでした。

私はフランスの人々が、凡そ王政に対してどういう印象を持っているのがわかりませんが、フランス革命におけるジャコバン派への批判意識や王族への処刑に対する反省はあるのではないかと思っていたので、それを垣間見ることができなかったのは意外でした。

アメリカでは未だにマイノリティだけでなく、黒人に対してすら差別意識が残っており、国家的エリートたちには「白人至上主義」が蔓延っているようにも見えます。
ゲイツ財団の息のかかった「世界経済フォーラム」は、多国籍のエリートで寄り集まった印象がありますが、その構成メンバーは「富裕層」「エリート」「グローバリスト」という三拍子が揃っており、むしろ「有色人種」の人々ほどスポットライトが当てられます。

しかし、実際の組織としては白人富豪のメンバーが中心であり、組織母体のビル&メリンダ・ゲイツ財団は、イベルメクチン治療で事足りているアフリカなどの国々で、「避妊薬入りワクチン」を年端も行かない少女たちに接種させています。
ゲイツ財団なんてのはお金が有り余っているのですから、自国の貧困者にボランティアを施せば良いものを、なぜグローバリストの「人口抑制政策」をわざと「慈善事業」に見せかけ、阿漕なことをする必要があるのでしょうか。

この「先祖返り」というのは、「人種差別」「白人優越主義」だけでなく、イスラエルのガザ侵攻における「ユダヤ・キリスト教絶対主義」と「異教徒弾圧」にも見られます。
この「異教徒」というのはイスラエルが侵攻するパレスチナの住民だけでなく、一方的に挑発するイスラム圏の中東諸国、特にイランに対する風当たりにも現れています。

この流れはかつて東ローマ帝国とカトリック諸国が行った「十字軍」を彷彿とさせ、実際にイスラエルの軍事行為は十字軍を引き合いに出して正当化する言説も多く、現にSNSでは流布しています。
十字軍の行った蛮行はさておき、「異教徒」は排除の対象であり、特に「ムスリム」に対する弾圧は絶対的に肯定されるべき、という考えがそこには滲み出ています。

そして世界の富裕層で構成される、世界経済フォーラムなどを軸とした「グローバリズム」の普及は、「侵略」と「植民地化」を華麗なロジックで「近代化」という概念に置き換えた、ヨーロッパが植民地化に動き出した大航海時代と何が違うのでしょうか。
私には、各国の「地域性」や雑多な文化圏を一律平坦化することで、全て「西洋化」してきた近代の政治的プロセスを正確になぞっているように見えます。

これらの「文化的植民地政策」は、マスコミや知識人を通して華麗なフィルターをかけられ、「トレンド化」されることで実態が見えにくくなっています。
ただ結果的に地域的な特殊性、民族性をパージし、寡頭勢力の提案する「価値観の強制」が発動している以上、やはり「目に見えない侵略」なのです。
むしろ「多様性の推進」ならば、所々に放っておいてくれた方が多様性は育まれるのですが、一旦全部を一絡げに同じ土俵に上げておいて、なぜ「良い多様性」と「悪い多様性」に分ける必要があるのか、私には納得がいきません。

今、まさに世を覆うムードには、この「先祖返り」が垣間見える気がします。
その先祖返りが時流に合わない、むしろ情念的で伝統的なものだからこそ、珍妙な理屈をつけて正当化しなければ、現代では堂々と実行できない類のものなのではないでしょうか。
そう考えなければ、「差別意識」を剥き出しにしながら「差別は良くない」と言い張る、矛盾への違和感をすんなり説明することができません。

これらの根底にあるのは、やはり諸々の他民族に対する不寛容があり、排他的意識にあるのではないでしょうか。
ただ、その差別があまりアングロサクソン系の他民族に向かない傾向を鑑みると、やはり「有色人種」への差別があるのは否定しきれない気もします。

しかし「文明人」たる西側諸国の人々は、差別意識を自覚していてもいなくても、堂々と他民族に対する差別発言や排他的行為は「悪」であることはわかっているでしょう。
だからその「罪」の意識が「逆差別」に転嫁され、マイノリティの過剰な優遇に現れるとも考えられます。

しかし、イスラエルのガザ侵攻や地球危機説の話になると、抑圧していた他民族への排除意識が噴出し、露呈しては一貫性に矛盾が生じる原因となっているのかもしれません。
「地球温暖化によって食糧危機となれば、膨大に膨れ上がったアジアやアフリカの人口は問題である」などという、ありもしない言説に乗って、「アジアやアフリカの貧困国の人々は、世界の飢饉を防ぐために人口削減されるべきである」と、避妊薬入りの薬害ワクチンを強制接種させることですら「人類の義務」として正当化されてしまうような、何とも言えない傲慢さがあります。

現に、「地球温暖化による食糧危機」を既成事実化するために、各国に対する農地削減や農業政策の縮小、化石燃料削減によるエネルギー希少化を引き起こし、また家畜飼料や種苗を高騰させることで、インフレによる人々の飢餓・貧困化を政治的に招いているのではないでしょうか。
私が批判を恐れず「グローバリズム悪玉論」を語るのは、近年の政治的混乱の糸を辿れば、全てこの帝国主義的スキームに辿り着くからです。

現代の西側諸国が先導してきた「資本主義」は、「第三世界」への侵略と植民地化によって支えられ、肥大化してきたのです。
そして資本主義が行き詰まりを見せ始めた時、その経済的スキームが「先祖返り」を起こし、再び古きヨーロッパの世界に蔓延した「帝国主義」が息を吹き返したように思えます。
いや、むしろこれまで見えないくらいには虚飾されていたのか、「帝国主義」という本性は「資本主義経済」という蓑を被り、悠々と活動していたのかもしれません。

その文明史の影で、土地を追われ同胞が虐殺されたアメリカ先住民の人々や、先の記事にある奴隷労働、5歳の少女の手足を切り落とすような惨事が実際に日常的に起こっていた事実を忘れてはなりません。
彼ら「奴隷制」に組み敷かれる犠牲の上で、西側諸国の資本主義経済は発展してきたのです。

「資本主義」というのは、「まだ知らない」「まだ持っていない」という人々を探し、商品を持ちかけることで利益を生むシステムです。
それは「未開」である必要があり、「未開」であることはビジネスチャンスなだけでなく、「無知蒙昧」だから「啓蒙」し「先導」してあげねばならない、という「優越的」思考に結びつきます。

けれども元々いた人は、そこで何の不自由も大した疑問もなく暮らしていたのですから、わざわざ「外」から来た人に啓蒙される必要も、新商品を買わされる必要もないはずです。
「いや、それでは経済が成り立たない」と考えるところに、資本主義の限界があります。

そもそも経済というのは「需要と供給の均衡状態」が発生する限り、永久に存続するものです。
資本主義は「新規購入者」がいなくなるほど先細りますが、「リピーター」だけで成り立つ経済もあります。
現代の資本主義経済は、モノが末端まで行き渡り「新規購入者」が絶滅寸前であるがゆえの行き詰まりとも言えるわけです。

近代以前の各国の経済は、一つの国、一つの地方の自産自消で十分成立するものでした。
ただ、贅沢品や貴重な品々は外国からの貿易が有効な手段だったというだけです。
しかし、ヨーロッパは地続きのため戦乱が多く、痩せた土地が多いため歴史的に貿易が生命線であり、それが政治的に行き詰まると「未開の地」を求めて食指を伸ばす必要があったのです。

果たして、世界から見て日本はどうでしょうか?
江戸時代まで「鎖国」していたと言っても、実際に貿易は統制下で行われていたのは事実です。
しかし国の経済はほぼ自産自消で賄われており、外国産に頼る必要のあるものは嗜好品くらいでした。
経済的には、ITが普及する21世紀まで国内メーカーの質の良い製品でほぼ賄われていましたし、それに不満を持つ人々もいなかったでしょう。

それが90年代2000年代になり、日本企業が「世界」を意識し始めてから、国内産業の崩壊が始まったようにすら思えます。
東南アジアの台頭で工場が海外に移転したり、外資の流入によって国内メーカーが骨抜きにされたりしたのもありますが、「日本企業らしさ」を失ったのが一番大きいと思います。
今考えれば、ただでさえ「関税戦争」の起こる時代、「外国産」に依存すればするほどリスクの高い国際情勢になっていく、私にはそんな気がしてなりません。

日本人には、日本人の考える「多様性」があります。
日本の神社には、氏神、産土神と共に外来の神仏を祀るだけの懐の深い宗教観が根強く残っています。
その価値観は一神教を絶対とするキリスト教圏にはなく、「八百万」的な多様性を内包しない欧米の「選択的多様性」とは、全く性質の異なるものです。

そんな豊かな精神風土がありながら、海外から「多様性」という偏狭な考えを学ぶ必要があるでしょうか?
私は全くそうは思いません。歴史を学べば、全てが雄弁に物語っているように見えるからです。

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アメリカン・ドリーム

楽太郎です。

先日投稿した「10月新月の意味」という記事の中で、「これからタテ壊し、タテ直しが本格化する」という話をしました。
現在、我が国は50年来なかったインフレの波を受けていますが、近年続く困難な状況は、神示で言う「タテ壊し、タテ直し」の一環で起こっているものだと思います。

世の「禍事」というのは、何かが世の道理を曲げなければ起こりません。
悪影響を及ぼす存在がいるからこそ、それに対して人々に目覚めが起こり、世を「矯正しよう」という流れが起こります。

その「悪役」を買って出ているのが、現代においては「アメリカ合衆国」であると私は思います。
各業界の財閥グループのロビイストを通じて動かされる米国政権、超富裕層の作り出す利権が世界各国の政治に干渉することで起こる、社会的混乱や分断、空爆や紛争。
それらの中心にあるのが、賄賂と利権で権力が自在に発動する「アメリカ合衆国」という国です。

ただ「悪役」というのは、観客からすれば「舞台装置」にしか過ぎません。
カーテンコールでは演出家と並んでお辞儀をするのが、本来「役者」というものです。
「アメリカ合衆国」は「大峠」という大舞台にあっては最高の俳優であり、今のところしっかり「ヒール」を演じてくれています。

今日のBloombergのトピックは、いつもに増してアメリカの歪な世相を垣間見せてくれました。

Bloomberg

  • 米政府閉鎖が22日目に突入、歴代2番目の長さ-再開の見通し立たず
  • 米サブプライム融資「プライマレンド」が経営破綻
  • グーグル、量子コンピューターで大きな前進-5年以内の実用化に期待
まず冒頭の政府閉鎖ですが、民主党が推進する社会保障補助制度、通称「オバマケア」の予算成立を巡り、共和党との応酬が続いています。
既にトランプ大統領は2026年度の予算において、社会保障や教育に対する大幅な削減を行っており、来年1月には社会保険料の急騰も控えているとされます。

民主党提案の補助金予算が通らないのは、単なる政治マターのような気もしますが、肝心の国民へのケアが深刻に議論されているようには見えません。
それも政府の一部閉鎖が半月以上続いているのもありますが、政府は「休職扱いの政府職員」への手当の支給を渋っており、その件で連日揉めたりして、学級崩壊状態が続いています。

これも今のアメリカならびっくりするような話題ではありませんが、本日のニュースでは自動車サブプライムローン融資企業「トライカラー」に引き続き「プライマレンド」も破産申請を行ったそうです。
自動車のサブプライムローンというのは、経済的に収入が低くて自動車をあまり買うことができない、融資の信用度が低い個人に向けたローンです。

2007年に世界金融危機をもたらした「サブプライムローン破綻」は、このローンが「不動産」に当てられていました。
これらの融資は、返済能力の乏しい中間層以下の資産規模の人々が受けるものなので、生活の厳しい人々が月々のローンを返済できなければ、それだけ融資は焦げつくことになります。

現在、アメリカ国民は払わなければならないクレジットカード金利が、一律22%を超えています。
日本では15%程度ですが、アメリカは電子決済やクレカ支払いが普及しているので、普段の買い物をリボ払いなどにする機会も多く、家計の金利負担は相当なものです。
しかも、毎年米国民が支払うクレジット金利の総額は1兆2000億ドル程度と言われ、これは日本の年金機構が取り扱う金額とほぼ同額とされます。

クレカやローンの滞納率は現在50%を超えていると言われており、個人家計の債務残高は5兆ドルを超え、毎月の金利を加算して200億ドル支払わなくてはなりません。
つまり、アメリカ国民はただでさえ著しい貧困化に直面しながら、高い金利負担を強いられています。
それに輪をかけて加速するインフレ、トランプ関税の転嫁負担と、どんどん生活しづらい状況になっています。

そんな時に国民の社会保障は減額され、保険料も大幅に値上がるのに、新たな補助金に「中絶やトランスジェンダー」への予算を組み込むことに躍起になっているのが、米国政界なのです。
この光景を見ると、日本はまだまだマシと思えるのが普通ではないでしょうか。

そして本日のトピックのトリを飾るのは、Googleの量子コンピューターチップの話題です。
写真ですでに「製品」になっているように見えますが、実際には「実証段階」であり、記事は「実用化まで5年以内になる可能性」という内容です。

普通、製品というのは販売に至るまでに「理論・研究段階」「実証段階」「実用化段階」「製品化(量産)段階」という工程を経ます。
この「製品化」まで至って、ようやく投資・開発費用がペイできるか、コストと需要が噛み合って経済合理性を伴うか、果ては技術革新になり得るか、という「現実」面での洗礼を受けるのです。

近年の「再生可能エネルギー」「EV」「生成AI」は、この「製品化」の段階で大きく躓くプロジェクトだったわけです。
そしてどれもが、技術的フレームの限界を突破できず、「技術革新」という青写真をカラーにするために国家権力を取り込み、誇大宣伝と補助金なしでは存続し得ない分野となっています。

「量子コンピューター」は更に胡散臭さを感じさせ、あまりに「順序良く、都合の良いタイミングで登場している」と思います。
今年のノーベル物理学賞に量子コンピューター理論に携わった米国の科学者3名が選出されましたが、一昨年は「生成AI」研究者が対象でした。
近年の「ノーベル賞」は実際の功績よりも「トレンド」に合わせた受賞が目立ち、近年では批判も増えて権威性も揺らいでいます。

おそらく、「生成AI」に限界が見え始めた昨今、もはや投資のトレンドは「量子コンピューター」に移りつつあるのだと思います。
だからこれから流行りそうな、大方予想できる売り文句は「量子コンピューターでAIを動かせば、AGIが誕生する」です。

しかし、冷静に考えて頂きたいのは、暗号通貨に始まり、ブロックチェーン、メタバース、NFT、生成AI、「世を刷新する新技術」がこれまで内実を伴っていたか、ということです。
Googleの量子チップが製品化できても、どれだけの価格帯になるか、コストに見合う生産性を伴うか、どれだけ汎用性があり、個人向けPCに組み込むことが可能かは別問題です。

また、量子コンピューターはともかく、いかなる生成AIに超高速演算をかけても「AGI」になることはできません。
生成AIはパターン識別器に過ぎず、全世界から権利問わずかき集めた生データを振り分けて、データを抽出し再構成するだけの機能しか持たないため、そもそも思考力はおろか抽象化能力も推論能力も持ち合わせていません。

私はかねてから「生成AIがAGIになるのは、ポケモンのピッピがハピナスになるくらい無理筋の話である」と言っていますが、量子チップとAIというコラボを意図するなら、それは企画倒れに終わる可能性が高いと思います。

おそらく、それでもこれからの世界経済トレンドは「量子コンピューター」と「AGI」「バイオ技術」になるでしょう。
それは利権に箔をつける機関に成り下がった、ノーベル賞の動向を見れば一目瞭然です。
これまでの「生成AI」ブームは、できるなら大きく破綻させることなく、「使えない」という事実を有耶無耶なままにして着地させておきたいところでしょう。

現在、米ドルも米国債もメタメタなアメリカ金融は、政府の財政収支や経常収支の赤字を補うためにも「第二次ハイテクバブル」を人工的に肥大化させて、海外から流動性を引き込む以外に手段がありません。
だから、できるかどうかわからず実態が伴っていると言えなくても、結果的に喧伝することで投資を呼び込めれば良いのです。

このバブルの仕組みも、FRBが株式市場に資金を投入し、大型株の株価上昇への浮揚力を上げる一方、ハイテク企業は膨大な自社株買いとオプション取引の濫用により「空中浮遊術」を使い、それに加え「循環取引」という魔法も使っています。
これで実態経済と無関係に万年上昇を続け、有頂天にある米国株式市場という「魔界」が形成されているのです。

しかし、あの日経ですらNVIDIAの循環取引を取り上げ始めたのですから、そろそろ燃料が切れる頃合いです。
どうも「生成AI」というのが駄ボラで終わりそうという空気になってきたからこそ、米国経済は二の手である「量子コンピューター」という、実用化すら覚束ない技術に乗り換えようとしているのではないでしょうか。

それを「第三次ハイテクバブル」とするなら、第二次ハイテクバブルをソフトランディングさせてから何とか繋ごうと、そこで登場したのがピンチヒッターである量子チップの旗手「Google」でしょう。
第三次ハイテクバブルがあるとしたら、主要メンバーは、おそらくGoogle、 Amazon、オラクル、Intel、DELL、パランティア当たりではないでしょうか。
どれも現在、トランプ共和党体制に順応する形で存在感を高めている企業群です。

このうちGoogle、Amazon、パランティアはイスラエルのガザ侵攻に際し、地理情報と個人情報と通信内容のAI分析と生成AIによるリスティングをイスラエル軍と共有し、軍事技術のIT化を担っています。
それに加わる新興生成AI開発企業の「パランティア」というのが曲者で、S&P500の時価総額最上昇銘柄となっていますが、現在の株価売上高倍率(PSR)は127倍と言われています。

株価売上高倍率というのは、株価から売り上げ高を割った数字で、1年間の売上高を全額配当に回したとして、その額と株価の価格の対比を出すことで、株価の正当評価を割り出す手法です。
1年間の売り上げを設備投資などに一切回さず、従業員の給料も社会保障も差し引かない、純粋な収益を配当に当てたとして、現在の評価額を回収できるまで何年かかるか、という計算になります。

そうして見ると、パランティアの現在の株価127倍というのは、127年待たなければ今取得した株式の価格の元は取れないことになります。
これを「割高」と評価するのも烏滸がましいというか、通常のPSRでは常識的に考えて5倍程度で回収困難とされるからです。

このパランティアは、イスラエルのガザ侵攻に寄与し、ペンタゴンからの手堅い受注を請け負っているから、これだけ投資家から期待をかけられているのです。
要人暗殺アプリ開発企業が時価総額最上昇銘柄となり、そのS&P500の好調に牽引されなくては成り立たないアメリカ株式市場というのは、「世も末」以外の言葉があるのでしょうか。

そして、これからアメリカ株式市場は米国国防省や軍事ロビーの息のかかったIT企業を中心に、引き続きバブルを噴かし続けるはずです。
そこでIT寡占企業の一翼であるGoogleは、より集権性を増し覇権力を高め、全世界の地理情報や個人情報だけでなく、情報メディア、広告媒体、アプリ、これらは電子端末の寡占を通じてより実権を握ることになるでしょう。
そして、アメリカの「帝国主義」は、マグニフィセント7選手交代後、Googleを始めとした軍事技術とITが融合した企業によって成し遂げられる、そういうシナリオなのだと思います。

私たちは日常的に移動中のナビから、YouTubeなどの娯楽から、こういったIT企業に依存した生活をしていますが、その裏に「ペンタゴン」と「軍事ロビー」がいることを忘れてはいけません。
まして、言論統制どころか携帯端末の標準化による「評価経済」の仕組みを作ることで、ビジネスの形や人心すら変えてしまった米国IT寡占企業が、いつまでも「世のため人のため」に営業していると思わないことです。

ただ、実際にこの「アメリカンドリーム(アメリカ帝国の夢)」が本当に実現するかと言えば、非常に疑わしいと思います。
というか、世界経済フォーラム主導の「人口削減、国家統制廃絶、寡頭体制の確立」という、遥かに巨大な目論見からはだいぶトーンダウンした印象です。
ワクチンの強制接種による人口統制、農業削減、化石燃料抑制、作為的な飢饉、言論統制と社会的分断、AIによる労働力削減、戦争による経済効果実現、全て未だに中途半端な結果に終わっています。

すでに、暗号通貨から「世界が変わる」というIT技術革新のスキームは、オオカミ少年のような雰囲気が漂っています。
ここで「量子コンピューター」というトレンドが都合良くやってきて、投資家たちがそのまま生成AIのユーフォリアから乗り換えてくれると思うのは、都合が良すぎる気がします。
そもそも、この人工的なバブルも「アメリカ経済の流動性確保」という側面が大きく、本質は技術革新にはありません。

これまで、アメリカの口利きがあればお金が集まるから、米国超富裕層の手足となって動く人々が世を動かしてきたのです。
しかし、肝心のアメリカから権威性や利権が消滅すれば、お金を貰って動いていた人々がボランティアでもアメリカのために仁義を通すでしょうか。

私はそうは思いません。
このハイテクバブルも風前の灯であるアメリカ金融を延命するための悪あがきであり、先日の金相場暴落も円の売り浴びせも、「ドル」高にするための小細工でしょう。
あらゆる持てる手を使って今の趨勢を変えようとしているのだと思いますが、「米国の信用低下」がドル安国債安の最大のネックになっている以上、小手先に過ぎません。

アメリカ経済の最大の問題は、中央銀行が年間1兆3000億ドルもの含み損が膨れ続け、利払いに1兆1200億ドルを毎年支払わなければならないということです。
それに反比例して下落し続ける労働参加人口と収益率では、いくら税金を上げてもこの赤字を埋め合わせる手段をほぼ持ちません。
だからトランプ大統領は「関税政策」という箸にも棒にも引っかからない飛び道具を使って、おかしなことを続けるのです。

そして長年いじめ続けた米国民も、もはや月々のローンすらまともに払えないほどに弱りきっています。
これらの「ハイテクバブル」をいくら噴かしたところで景気浮揚策にならないことは、既にこの不況が証明しています。
政府の無駄は削減できず、それこそ国防予算は好き放題使われ、社会保障費も大幅に減らされた上に、インフレと経済低迷は一向に解決する気配がありません。

つまり、この株式バブルは富裕層のマネーゲームに過ぎず、まるで実態経済と乖離した状態の中にあるということです。

今、ほとんどの国民は政治へのアタッチメントを半永久的に失っている状態ですが、「国家」というものは少数エリートだけで成り立つものではありません。
米国民3億4000万人のうち、「勝ち組」の人々の総数はたかが知れています。
そうした大枠の中で、いつまで少数の権力者が大多数を従える構造を維持することができるのでしょうか。

人間が幸せに生き、安全と権利を保証されるために成り立つ「国家」というものが、逆の機能を持つ世にあっては、国家が機能不全になるのも道理ではないかと思います。
また「経済」というのも同様で、人々が豊かになるための互恵関係を担う手段の「お金」が、一人歩きしてギャンブルや建前に使われるようになった時、全く人々の幸福には役立たないようになっては本末転倒です。

だから私は、いずれこの仕組みは壊れるし、「壊れなければならない」ものだと思います。
国家や経済があるべき正常な形に戻るには、やはり今のままではいけないのではないでしょうか。

かつて「アメリカンドリーム」とは、トランク一つでアメリカに旅立てば、成功を掴み取れる社会にあったはずです。
しかしそれが今や生まれや育ちが限られ、利権にありつく人脈を持たなければ、何一つ成功できない構造になってしまいました。

そして「アメリカの夢」というのは、果たして帝国主義や、世界征服にあったのでしょうか。
それは少数のトップエリートの「夢」であって、薬害の伴うワクチンを強制接種されて数十万人の犠牲者を生むような、勝手の効かない社会ではないでしょう。

今こそ「自由の国」アメリカに、名実共に「自由」を取り戻して欲しいと思うのです。
映画を通して世界中の人々が見た「夢」のある国が、ハリウッド映画の悪役を地でいく世界というのは、あまりに皮肉すぎないでしょうか。


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祓戸劇場・試作④(+オマケ)

楽太郎です。

祓戸劇場・試作第四話、今回の主役は「気吹戸主」です。


「気吹戸主」を描くたびに、一部界隈で女子受けしそうだなと思ってました。
いつか、神世の有明で気吹戸主のレイヤーが現れたら、私は一眼レフを買ってお出かけしたいと思います。

「気吹戸主命」に関しては、瀬織津姫命以上に謎の多い神様です。
本ブログでも「祓戸大神」のルーツに迫るべく、何本か検証コラムを上げています。

祓戸大神のうち三柱が「姫」と尊称をつけられていながら、気吹戸主だけは「主」と異なることから、私は当初かの神様を「男神」と考えていました。
もの凄く初期には、ゆるキャラになっている「気吹戸主」のデザインを上げています。

その頃、「気吹戸主」は風を司る神格であられる「志那津彦命」と同一神と考えていました。
「大祓祝詞」には、「科戸の風の天の八重雲を吹き放つことの如く」とあるため、風の神様が祓戸大神に加えられているのだろう、くらいの認識でした。

しかし、「気吹戸主」の語源を調べてみると、「気(イ)」は「餉(ケ)」と同意であり、どちらかというと「大気(宜)津姫命」に比定可能であると考えました。
大宜津姫命は宴の夕餉を用意する際、口から食べ物を吐き出しているところを月読命に見られたことで、激昂され斬り殺されてしまいます。
その亡骸から五穀などの食物が生まれたと神話にあります。

この神話は、稲霊の神「サ(狭)」を象徴している気がします。
これは瀬織津姫命の別名「狭依(さより)姫命」に通じるところがあり、瀬織津姫命はかつて琵琶湖から流れる「瀬田川」の守護神でした。
そして、京都地方にある「伊吹山」から降り立つ「稲(サ)神」こそ「気吹戸主命」だとすれば、祓戸大神の一柱である理由になります。

尊称が「主」であるからと言って、女神であっても「主」であることは可能です。
私はこうして、「気吹戸主命」は女神であり、瀬織津姫命と縁の深い神格であられる、と結論づけました。

さて、今回何気に「賑やかし」で登場したウサミミの女神ですが、名を「白ノ兎姫神」と言います。


「因幡の白兎」から着想を得た神様です。
大国主が助けた兎で、八上姫に大国主が求婚しに行く際、「大丈夫!アンタなら射止められるよ!」と応援し、見事成就させた恋のキューピッド伝説があります。

それはさておき、私はこう考えました。
「高天原には兎の神様もいるに違いない。なぜなら、ネコミミの神様がいるからだ。」

最近の私は地を隠さなくなって久しいです。
このままだと高天原が美少女だらけになって、「高萌えヶ原」になってしまうのではないでしょうか。

…というか、今回瀬織津姫様が出てきてませんね。
何なんだこのマンガ……

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10月「新月」の意味

楽太郎です。

おそらく今日、午後に祓戸劇場・試作第四話の更新をすると思いますが、その前に記事をまとめておきます。

ここ数日は「創作」の方に完全に頭が向いていましたが、何となく作業に向かうと、霊的な妨害を受ける感じがしていました。
10月7日満月を私は「天王山」だと表現してきましたが、その余波で新月までは「戦い」という雰囲気なのだろうと考えていました。

実際のところ、まとわりつく「悪感情」を払うように心掛けながら、体調を整えるだけでも「戦い」という感覚がありました。
まあそれも時期的なものだと思っていたのですが、意外と昨晩の新月を迎えても、大してスッキリしていない自分に気づきました。

ただ、エネルギーが切り替わったのは確かで、おそらく「光と闇」の双方に調停というより、一時停戦のようなムードが漂っています。
世の流れとしてはそんな感じなのに、私にはなぜか悪想念がまとわりつくので、この食い違いをどう解釈して良いのか悩みました。

今朝になって、私自身が「闇の勢力」に相変わらず、喧嘩を売り続けていることが問題なのだろうと思い至ったのです。
つまり、調停は行われたのに私が単騎突撃している感じだったのだと思います。
敵の陣地に入って行けば、そりゃ集中砲火を受けるのは当たり前で、私は「相手が戦いをやめない」と思っていても、向こうからはルールを破っているように見えたでしょう。

ちょっと話について来れないとは思いますが、掻い摘んで説明すると、人間の想念というのは感情に応じて、その都度「霊界」と繋がります。
「喜び」や「愛情」「優しさ」という気持ちは、高い階層の霊界か神界と霊線を持ちます。
逆に「憎悪」や「反感」という類の悪感情は、低い階層の霊界か幽界に接続域を持ちます。

つまり人間は、魂からこの「霊線」のチャンネルを瞬間瞬間に切り替えるのです。
それがスピリチュアル的に言う「波長」や「周波数」の意味であり、つまりラジオのチューナーのようなものと考えて間違いありません。

いつもイライラして、他人の粗を探しているような人は、低い霊界に波長が噛み合っている状態が長いということです。
しかし、そんな人でも家の猫と触れ合っている時は和やかになる時もあるでしょう。
こういう場合、一瞬高い階層の霊界に繋がるのです。

しかし、それは「一瞬」であって、常に高い階層の霊界と霊線を保つためには、それなりに心を平穏に保つ努力や人間的成長が必要になるはずです。
しかも「条件づけ」によって一時的に霊線を切り替えても、本質的な霊性の変化には繋がりません。
従って、常に高い波長の霊線を結ぶための精神的修行というのが、心身の調和のための近道でもあるのです。

スピリチュアリストというのは、往々にして「波長域」を高く保つ訓練をします。
そして、「高い波長に馴染む」ことの特徴として、低い周波数の次元には大して「忌避感」を抱かないという性質があります。
また、高次元は下位の波長を内包し互換性を持つため、低次元に対する「寛容さ」を持ち合わせるのです。

つまり、「上」の階層に行けば行くほど、「アセンション(次元上昇)」するほど、低次元の物事を俯瞰して見れるようになり、精神は動じ難くなり、低次元からの干渉も受け難くなってきます。
争いは同じレベルでしか起こらない」というネットミームがありますが、その法則が霊界にも働いているのです。

何が言いたいかと言うと、私が「幽界」とバチバチにカチ合っている間は、ずっと低い次元に霊線が繋がっていたということです。
そして、幽界的な悪想念と繋がっているということは、私自身がその波長域から抜けきれていないことを意味します。

日月神示の「黄金の巻」には、「外にあるもの、内にあるぞ(第八帖)」、「内にあるもの変えれば、外から映るもの、響いて来るものが変わって来るぞ、内が外へ、外が内へ響くのじゃ (第九十九帖)」とあります。

私が体感的に「邪気が襲ってくる」と感じているのは、実際には自分の内側にある「邪気」が外の邪気に感応しているだけにすぎません。
つまり自分の内側に原因があるのであり、それを外部の敵に原因を求め、責任を追及すれば自分自身の問題は解決せず、外側に問題をなりすりつける限り、永遠に戦いは終わらないということです。

ゆえに、この「ループ」から脱せられないうちは、無益な争いを続けることになってしまうのです。
ついでに言えば、神示には「悪を憎むのが悪」と語られています。

正直な話をすると、昨日の朝に灯油をストーブに給油しようとした時に、電動ポンプが暴走してベランダが灯油まみれになってしまいました。
私は身の回りで考えられない変なことばかり起こるので、これも「ゴルゴムの仕業か」と思ったわけです。

こういった挑発を受けるのも元々因縁はあるのでしょうが、挑発を間に受けて喧嘩腰になる私もやはりいるのです。
南光太郎の第二人格が秋月信彦というオチはありませんでしたが、自分の真の敵は「自分自身」というのはありがちな話です。
だから私は戦わなくて良いのに、延々と戦っていた状態だったのです。

おそらく、この因縁も「めぐり」の一つであり、神示で言う「借銭返し」いわゆるカルマの返済の一形態なのだと思います。
どうやらまだ私は業という名の「借金」がまだ残っているらしく、これを完済するまで「大峠」は終わらなそうです。

昨日21日新月を持って、「光と闇」の相剋は一時的に休止状態となりますが、対立構造は燻り続け、依然「戦争状態」であるのは変わりません。
時にゲリラ的な小競り合いも起こると思いますし、世が真の意味で平和になるのは遠い話です。
ただ、これからは徐々に「タテ壊し、タテ直し」の趨勢は加速していくはずです。

この「タテ壊し」というのは、誰が壊すというより「自分で勝手に壊れる」という性質のものです。
それも神々が仕組んだものでしょうが、世を変える側の人間がダイナマイトを抱えて、わざわざ解体作業に行くものではないはずです。

むしろ私たちがしなくてはならないのは、「タテ直し」の方だと思います。
実際に「タテ壊し」が起きてくれないと動きようがない物事ばかりに見えますが、実はどうしようもなく「壊れたまま」の部分がたくさんあります。

それが「本質」や「内実」の部分です。
今ガッチリ固まっているのは「外側」の映える部分だけであり、内部がスカスカだから「形骸化」が蔓延り、世の停滞の原因となっています。
しかし、肝心の「中身」の部分は、失われて久しいのです。

私たちがまずタテ直さなければいけないのは、物事の「」の部分です。
「キ」とは「基」であり「気」のことです。
神示で物事の完全体である「◉」の中にある「・」こそ「キ」であり、今世にあるもの殆どが外側ばかりの「◯」の性質しか持っていません。

まずその大元が失われた状態では、これから何をタテ直そうとしても、また無用な箱モノを建ててしまうことになりかねません。
だから、むしろ「木」を植えるところから始めるような、ゆったりとした気持ちでいなければいけないのだと思います。

そして、実際に「建築」まで行くには、まだまだ使える土地が限られています。
それには「タテ壊し」を待つしかなく、それが目に見えるようになるまで時間がかかるでしょう。

私が「ことを始めるのは焦らなくて良い」と言う理由は、ここにあります。
まだエネルギーレベルで始まったことが事象として反映するようになり、現象として本格化するまでに悠に半年から一年はあるはずです。
だから今日明日、仕事を辞めて事業を立ち上げよう、とかいう話でありません。

しかも今は経済暗黒期なので、しばらくお財布ホールド状態が望ましいと思います。
少なくとも円高転換するまで、私もビジネスに進出するのは控えて大人しくしているつもりです。

まとめると、確かに「タテ壊し、タテ直し」のターンに入ったのは間違いないのだけれど、まだまだ現象となるのは先の話なので、それまでは自分の「身魂磨き」を続けた方がよいと私は思います。

とりあえず過去の因縁に行方を塞がれる間は、その解消に専念した方が良いかもしれません。
毎日、味気ない日常を過ごしながらも食えないよりは遥かにマシですし、自身の「才能」と向き合い技術や発想を育てていくにも、時間が必要です。

私も、目に見える「不正」や「腐敗」を見ると早く世の中が変わってくれれば、と思うのですが、急速な変化は逆に人心を荒廃させかねません。
神々はそこまで計算なされているのでしょうが、それは人間の期待通りには決して進まないことを意味します。

もはや「人間」の力ではどうにもならないドン詰まりだからこそ、神々が手を入れるしかないのです。
私たちにできるのは、神々の邪魔をしないことと、神様の求めには素直に応じることだけです。
だから、そこまで完全に任せ切った上で、粛々と自分のやるべきことをやるだけで良いのだと思います。

ただ、ここまで「安全」な道が確保されるようになったのは、驚くべき変化ではないでしょうか。
ここで「安心」を得るかどうかは、人々の心に「神を信じる心」即ち、信仰心があるかどうかです。
目に見えないものを信じ抜く心だけが、この安心に触れることができるのだと私は思います。


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「悟り」について

楽太郎です。

いつかの記事で、私は「悟ってからが本当の修行である」と書きました。

仏教における「悟り」とは、五十二の段があるそうです。
「悟り」と言うと、いきなりお釈迦様のような神秘的な目覚めをするようなイメージがありますが、実際に仏教において四十段までは「退転」、つまり崩れる可能性のある悟りとされます。

四十一段目になると「不退転位」とされ、決して揺るがない悟りの段階と言われます。
そして五十一段に入って仏様と同じ悟りの境地である「等覚」とされ、五十二段目でようやく真の仏の悟りである「仏覚」に辿り着きます。

何が言いたいかと言うと、いかにお坊さんであれどお釈迦様と等しい悟りの境地に至るには、これだけの修行が必要だと言うことです。
しかし、私は「悟り」について、仏門に入らなければ習得できないものだとは思いません。

嫌な上司の下できちんと仕事をこなすのも十分修行になりますし、子供の世話をして大人になるまで育てきる親も、人間として立派な修行になるはずです。
人間は「魂の修行」のためにこの世に転生するとしたら、生きているだけで大変な修行になるのではないでしょうか。

この世にある困難や障害に出逢い、その教訓や学びを得る時、私たちはこの世界の仕組みや人生の本質を知ります。
それこそが「悟り」であり、その知見は真実であるからこそ決して揺るがず、死ぬまで持ち続ける人生の知恵となるのです。

今、こうして不条理な世の中に揉まれ、大人になって様々なものを俯瞰して見る時、その見方自体を「悟り」と呼んでもおかしくないと思います。
酸いも甘いも知った今だからこそ、あらゆる物事の裏側も見通せてしまう状況では、そのカラクリも間違いもハッキリ見抜くことができます。

ただ逆に、本質を自分自身が理解するがゆえに、自分の犯した過ちや間違いの大きさもわかってしまうのです。
目の前にある「間違い」を見抜くだけなら役に立つ能力も、こと自分に向ければ未熟さも理解し、また変えることのできない、自らの過去に対する懺悔もいっそう深まるでしょう。

私が「悟ってからが本当の修行である」と言うのは、「正解」という不動の答えを知ってしまったがゆえに、多くの「間違い」と向き合わなければならないことにあります。
自分だけのことならまだしも、世の中には看過できないほどの誤謬が溢れ、しかも嘘を広めて金儲けをする人さえゴマンといます。

そういった多くの「過ち」と向き合いながら、変えられるものと変えられないものの狭間で、しかし自分と同じ過ちを繰り返し、苦しむ人を救うために何ができるのか、その問いを自分に向け続けることは、まさに「修行」そのものです。

私は、自分の過去の行いが決して褒められたものではないからこそ、この問いとしばし向き合います。

こうして自分の行いを糺すことは、決して仏教信奉者だから、神道実践者だから心掛けているわけではありません。
私は自分の「罪」と向き合うことの苦しみを知るからこそ、世の中に同じ罪悪感を抱えたまま、そこから抜け出せない人々を見ると、やりきれないのです。

だからどうせなら、世を変えて自分と同じ過ちを繰り返さないように、また苦しみを抱えた人をどうにか癒せないかと考えます。
しかし、自分自身がまだ自らを許しきれず、苦しみから抜け出せない状況では、誰かを救うことは叶いません。

自分の行いを改めながら反省を活かして行動する、この単純なことの繰り返しが修行そのものになっている気がします。
その実践の果てに自分が過去の全てを許し、人も許し誰かを救うことができるならば、私はまた一つ大事な悟りを得るのかもしれません。

前回の記事「ただ「真っ白」な自分に」の中で、「過去に囚われるな」という話をした後に、「過ちを反省して学びに変えよう」と書きました。
今、「昔と今」を意識する機会が多いと思いますが、哀愁だけでなく過去への後悔に引っぱられがちなのも、決しておかしなことではありません。

私には今、世界的に「罪」がテーマになっているのは感じますし、おそらくこれから「業」の返済がテーマになる時期がやって来ます。
その期間が長ければ長いほど、自らの過ちと向き合い、内省の度合いは高まるでしょう。

私たちは今思い返してみても、世の流れとは言え、あまり良い行いばかりしてきたとは言えないのではないでしょうか。
落ち着いた今だからこそ過去を見返せば、決して美談にはできない部分もあり、それを真っ直ぐ反省するのは大切なことです。

ただ「罪」というのは、いつかは許されるべきものです。

もし私が昔迷惑をかけた人を探し出し、無理やり会いに行って謝罪に押しかけても、逆にまた迷惑になるでしょう。
そして今さら謝ったところで、そもそも私のこともその出来事も、言われてやっと思い出すレベルのことかもしれません。
私が逆の立場なら、すぐに「いいよいいよ」と返すでしょうし、お茶の一杯でも勧めると思います。

未熟な人間同士、迷惑をかけ合うのは「お互い様」であり、共にこの世に修行しに来た魂なのだから、お互いが学び合う関係にあっただけなのかもしれません。

私は、なぜ人はあらゆる過ちを犯し、罪穢れを避けることはできない生き物なのか、考えることがあります。
それは元々、人間が過ちを犯し、罪穢れを負う生き物として神々に作られたから、という以上の結論には今のところ辿り着けません。

人間は「悪」となることで、「善」とは何かを知り、その経験を学びに変えるために地上に生まれてくるのかもしれません。
人間はその「悪」と出会う時、全く異質の力と対峙して多くの学びを得ます。
そうすることでより「善」を意識しますが、「悪」と向き合うこともまた大きな学びとなるはずです。

神々が「悪」という存在を生み出し、決して一方的に滅ぼすこともせず、この世に「善」と併存させる理由があるとしたら、「悪」がこの世界において必要不可欠な存在だから、以外に考えられません。

「悪」を生み出した神だからこそ、「悪」がなぜ「悪」を行うかも全てわかるはずです。
その者が「悪」を行う理由を天が知っているということは、そこに悪行への深い理解があり、悪人の事情をよく知るがゆえに、一方的な裁きが存在しないのかもしれません。

私たちは「悪」に対して、あまりに異質な動機を持つがゆえに、頭ごなしに批判し、よしんばこの世から抹殺しようとすら考えます。
しかし、それは悪人の全てを知り得ないからできることであり、もし彼らが身近にいて動機も知っていたとすれば、また違う感じ方になるでしょう。

神々はおそらく後者だからこそ、一方的に「悪」のみを裁く理由を持たないのではないでしょうか。
ゆえに全ての悪は「赦される」べき存在であり、悪が元々赦されているからこそ、この世から消えることはなく、また必要な存在と考えられているのかもしれません。

神々が「寛容」なのは、この世をお造りになられたのが神々ご自身だからこそ、世界の仕組みやその機能も熟知しておられるからではないでしょうか。
それこそ「悟りの境地」ですが、自ら設定した世界の「仕様」に対して、何の感情も持たないのは当然かもしれません。
ゆえに「悪」ですら反感もなく、その役割に「愛情」すら注ぐことができるのは、神の視点であればこそとも考えられます。

これは私たち人間でも言えることで、悪人と同じ目線でものを考えていたら、ひたすら憎しみだけが湧き上がって来るはずです。
しかし「神の視点」で見れば、彼らの全ての言動には理由があるのです。

だから、私たちも誰かに迷惑をかけ、迷惑をかけられる時は「お互い様」である以上に、「迷惑」の理由も深く知れば、許す口実だっていくらでも見つかるのではないでしょうか。
ただ、そこまで考えを至らせるまでに、深い憎悪と向き合わなければならず、それを乗り越えることができない難しさがあります。

この「仕組み」に気づくのも、私にとっては一つの「悟り」でした。
ただ理屈としてはわかっても、目の前でタンを吐かれたらイラッとするわけです。
その瞬間にどういう感じ方をし、次の瞬間には何を考えているかを問うのが「修行」です。

私は正直、「コイツ頭かち割ってやろうか」と思わない自信はありません。
だからこそ、理屈と悪感情の間を行ったり来たりしながら、少しずつ「悟り」に近づきたいと思うのです。

ただ、それは今日明日とか、数年とかで決着をつけなければいけないものではないでしょう。
おそらく人は、その境地に至るために何度も転生を繰り返し、何百年、何千年かけて習得していくのでしょうから。


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ただ「真っ白」な自分に

楽太郎です。

最近の私は先走りすぎというか、未来を見据え「すぎ」と受け取られても仕方ない言動をしています。
言うほど世の中は変わらないし、沈鬱とした停滞感をいっそう深刻に感じられることもあるでしょう。

私が読む「エネルギー」というのは、現象化するまでに通常3か月から半年くらいのタイムラグがあります。
しかも、「◯月に地震が起こる」というような具体的な事象を必ずしも伴わず、解釈次第と言えるような抽象度の高い現象として立ち現れます。

実現性で見れば人畜無害な「予想」のレベルですが、私はかねてから先の世に対して楽観を貫いてきました。
しかし春分以降、世の中の閉塞感は変わらずとも、特に深刻な社会的事件もなく、何となく「明るい気」が差し込んできたのは、わりと感じられるのではないでしょうか。

私は予言者ではないので、先々のことを知って動いているわけではありませんが、今起きていることとエネルギーの流れを読み取って、それなりに見当をつけています。
しかし、実際に起こる世の事象や今の人々の言動と照らし合わせて、私が言うほど変化があるとは思えないのも無理からぬことです。

おそらく、私の言葉を間に受けて「これから新しいことを始めよう」と考えて今、行動に移されている方は市井の人々より「1周」くらい早いと思います。
だから、今すぐ形にしようと意気込んで、焦る必要はありません。
しかし、今の世の「主導権」を握っているタイプの人々からは、「3周」くらい早いと考えて良いと思います。

現在の社会経済を動かしている人々の考え方と「3周」離れているのだから、世の動きに矛盾していると感じられても不思議ではないでしょう。
今の世の閉塞感は、従来の既得権益システムと権力構造が不動すぎるから起きています。
オールドメディアから毎日垂れ流される情報を見ればわかりますが、全く進歩がないところに需要があるから「オールドメディア」と呼ばれるのです。

最近、世の行き詰まりに伴う沈鬱さに対して、不可解な「陽気」が流れ込んでいることで、混乱が生じている人もいらっしゃると思います。
むしろ今深刻なのは社会状況ではなく、人々の心理的な葛藤や、人間関係の軋轢などの精神面にあるのではないでしょうか。

少なくともこの80年、日本を貫く「大峠」は、人々の集合意識の中で起こっていたように見えます。

戦後の復興から、高度経済成長という栄枯盛衰の世にあって、私たちは「失われた30年」という低迷期も経験してきました。
そこで生きてきた私たちの半生を振り返ると、「幸福」や「成功」への「夢」を抱きながらも、社会の矛盾や理不尽な仕組みにぶち当たって揉まれてきたはずです。

そこで「妥協」した人も多いでしょうし、うまく仕組みに取り入り社会的に成功した人もいるでしょう。
そこにある「割り切り」は、現代社会の中で生じる葛藤と共にあり、そこで私たちが体験した苦労こそが「大峠」の過程だったと思えます。

今、人々の葛藤の根本に、「昔のようなやり方が通用しなくなった」という動揺があるのではないでしょうか。
多くの大人たちにとって、「昔」という幻影が去来し、過去と今を見比べて「こんなはずではなかった」と思っている人も少なくないでしょう。

「昔は良かった」と思うのは大抵の場合、多くの分野が「若者主導」の世の中であって、その活気や創発性に当てられていた部分が大きかったはずです。
自分も周りも若く、経済的にもまだ勢いがあったから、多少の失敗は笑って跳ね除けられる時代だったのです。

それが年を重ね、周りに身持ちの固い人が多くなれば、大した冒険はできずに安定志向は強まります。
かつて新進気鋭の若手だった人も、一度成功してしまえば保身的になり、「権威」に頼って生きていこうとするでしょう。
そして「権威」というのは、社会的には実力と知名度が実証された目に見える「安牌」だからこそ、安定志向の人々はビジネスとしてそこに寄り集まっていくのです。

こうして世の中は膠着化し、社会や経済は新陳代謝が著しく悪い環境になっていきました。
そこで風穴を開けられる「若者」がいれば良いのでしょうが、若者からすると巨大な利権に立ち向かうより、権威に迎合して楽に成功できた方が良いに決まっています。

特に若者は年々世代数が少なくなってくるので、昔のような集団力はほぼ発揮できません。
しかも、お金もなく人脈のない若者には、「権威」ある大人に太刀打ちできるものが一つもないでしょう。
このボトルネックが、ますますこの世の風通しを悪くしてきたと言っても過言ではありません。

だから、現行体制ではどう考えても先細るのは目に見えています。
「お金を使いたがらず、興味関心の薄い年寄り」に主導権のある時代は、いずれ袋小路に陥ります。
しかし誰もが我が身は大事ですし、一人二人反旗を翻したところで何一つ叶えることはできないのが現実です。

しかし、それは「人間なら」の話です。
もし、全て「神々」が織り込んでいた事象であり、それも考えられた状態であるなら、必ず落とし所はあるはずです。
それを行うために、神々が動かれていることも私は感じ取っています。

私が「日月神示」を真の神の啓示であると思う理由は、単に霊的直感によるものだけではありません。
現代に起こる様々な事象と日本を取り巻く歴史的な流れが、神示に示された「あらすじ」の一部であると確信しているからです。

私は常々、最も神々の「配慮」が行き届いている世代が、今の子供たちであると感じます。
大人たちから見れば、今の子供たちを不憫に感じるでしょう。
ゆえに大人からの子供たちに対するケアは厚く、私たちとは全く違う育ち方だからこそ、新しい時代の騎手に相応しいのです。

その子供たちに「社会」というバトンをきちんと渡すために、今の世を変える役割の大人が必要です。

そこにおいて、「昔のやり方」にこだわり、過去の栄光に縋る年寄りだけが問題なのではなく、世を変えようとする私たち自身が「過去」という幻想に囚われていてはならないのです。
大人たちの誰もが「昔は良かった」「こんなはずではなかった」という思いを、多かれ少なかれ持っています。

けれど、それを一度捨てなければ「新しい何か」を掴むことができません。
私たちは「過去」というものを、無意識のうちに力一杯握りしめているからこそ、そのしがらみに囚われていることに気づけないのではないでしょうか。

今を生きる大人たちは、右へ左へ世の流行に振り回され、損か得かもよくわからない半生を送ってきました。
自分が本当に望んでいたのかもハッキリしないまま、周りの雰囲気に流されて過ちを犯したことも沢山あったでしょう。
今だからこそ、当時の自分にどれだけの本心があったのか、その判断は正しかったのかを省みることができます。

過去は変えられず、今ある現状も大して変えることはできませんが、記憶というのは「知識」でもあるのです。
自分の半生から得た経験を活かし、知識を知恵に変え、これからの時代を要領よく生きて行くことが、何より大事なことだと思います。

私たち大人は、昔に比べてずいぶん汚れてしまいました。
けれど「魂」だけはいくら薄汚れても、まるで生まれたままのように綺麗にできることは、あまり知られていません。

自分の身体だけではなく、過去も経歴も綺麗とは言えなくても、「魂」は磨けば磨くほど昔のように、溌剌とした輝きを取り戻すことができます。
なぜなら、魂は歳を取ることがないからです。

魂を磨くことを「穢れを禊ぐ」と言えば抽象的すぎますが、自らを悔い改め、学びを次の行動に活かし、人生の指針にしていくというのは、案外具体的です。
私はそれこそが神示にいう「身魂(みたま)磨き」であり、「祓い清め」なのだと思います。

魂が歳を取らず、無限に魂を磨くことができるならば、私たち人間でも「祓いの化身」になれるということです。
つまり、私たちは努力次第で「瀬織津姫」「瀬織津彦」になれる器なのです。

これまでの時代は、社会に定義された「こうあるべき」という何の根拠もない価値観に振り回され、私たちは本来の生き方を見失っていたのです。
誰かが「お前は〇〇だ」と批判するのを恐れて、自ら先回りして、遠慮しながら生き方を決めてきたのではないでしょうか。
けれど、そうして人を縛り上げる世の中そのものが先行かない現状、もはや批判を恐れる必要はありません。

社会にキッチリ規定された「普通の人」であろうとすれば、この世を変えることは難しいと思います。
それには神々の力添えが必要であり、その祈りの力を自分の行動に紐付け、神と共に歩み出すことです。

私たち人間は、自らを省みて魂を磨くことで本来の自分を取り戻すことができます。
世にある「限りなく白に近い黒」を「白」と言い張ることなく、自分の心の「灰色」を白く洗い切り、本当の「白」に戻って生き直せる時が訪れたのです。

「過去」のしがらみを捨てるのは大変ですが、それを捨てきる勇気を出す人から先に、道が開けていくのが「大峠」だと思います。


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神の月、神無月

楽太郎です。

10月7日の満月以降、エネルギーの切り替わりが激しく、私はそれを「テーマが変わったようだ」と形容しました。

これに関して、なぜ季節分点ではなく6日の中秋の名月にピントが合っていたのか、私が「天王山」と呼ぶ霊的なクライマックスが、なぜこの時点で起こったのか、しばし納得の行く答えが見つかりませんでした。
ただ、このエネルギーの流れは、どうやら21日新月を想定して起きていたようです。

私がこのエネルギーの変化を読みきれなかった理由の一つに、どうもこの流れが「変革」という性質がある気がします。
日月神示「キの巻・第八帖」には「タテ壊しタテ直し、一度になるぞ」とありますが、最近の霊的相剋状態は、この「タテ壊しタテ直し」の流れを古いエネルギーが妨害することで、変革が進みにくい状況が続いていたように思うのです。

私が「精神界」と呼ぶ、新しい時代の集合意識は、決して抽象的な概念ではなく、今誰もが使っている古い集合意識の上位互換です。
それは霊的な気場を意味しています。これまでの人間の集合意識は「幽界」の干渉が強く、また低い階層の霊界と繋がりやすい霊的位相にありました。

そのため、これまでの人間が作る社会は「幽界的」であり、それゆえに低次元の物事に終始する時代でした。
この気場に対して、新しい「精神界」という気場が夏至を境に形成された時、相変わらず古いエネルギーを原動力にして行動を続ける人以外に、新しい集合意識のエネルギーに接続する人が出てきたのです。

これが「地球的意識」であり、神界のエネルギーが直接流れ込む霊的気場です。
私が「神世」と言う次の時代は、この地球的意識を共有する人々が中心になっていく世のことです。

しかし、その世界は神々の手が忙しく入る、人間の勝手が許されない世界です。
そのため、これまで同様に「人間本位」の世の中にありたい人々は、自分たちの集合意識を団結することで固めながら、神々が元の新しい世界のエネルギーに抵抗してきました。

人間の集合意識の背後には、闇の存在があったと私は確信しているのですが、それでも完全に「白黒」つくような戦いではなく、どちらかというとマーブル模様の争いであったと思います。
それが近年の人々の深層心理に「葛藤」という形で現れ、世に疑問を持つ人や自分の行いを省みる人は、それぞれに生き方を改めてきました。

つまりは、それで「新しい生き方」を始める人が増えれば、古い集合意識はどんどん希薄化し、新しい気場に乗り換える人が出てきます。
そうなれば、古い時代は創造性に溢れる人から先に抜けてしまうため、エネルギーレベルで成り立たなくなってしまいます。
特に変化を恐れる人々は、どうにかして「変革」のエネルギーを抑え込みたかったでしょう。

その「霊的相剋」が天王山を迎えたのが、7日満月だったということです。
「山崎の戦い」は、落武者となった明智光秀を討ち取ったことで終わりを迎えますが、戦いの終わりが21日新月だと思われます。

そして、「妨害」に一旦決着がつくことで、「タテ壊し・タテ直し」に拍車がかかるでしょう。
それが「変革」のエネルギーの正体であり、私はその気を先んじて読み取ったことで、そのエネルギーの「掴みどころのなさ」に一苦労したのです。

「変革」というからには、従来のものとは違うことを意味します。
だから、そもそも「こういうものだ」という発想では、斜め上すぎて捉えきれません。
それは自分がこれまでルーティンでやっていた考え方や行動様式とは違う起点にあるからであり、予め「変化したもの」と認識する必要があります。

おそらく、この新しいエネルギーの切り替わりは、12月22日冬至まで極大化していくと思います。
去年も冬至を境にしたエネルギー変化の凄まじさは、本ブログの草創期ですが一応言及しています。
やはり神々は、季節分点と太陽と月の占星術的巡りを使って、実行計画をスケジューリングなされているように思います。

奇しくも10月は「神無月」と言います。
新暦10月は今月ですが、旧暦10月は11月20日から12月19日です。
そして12月20日は新月、22日には冬至ですから、今年の年末のエネルギー変化はもの凄いことになりそうです。

「神無月」というのは、俗に「神々が出雲(大社)に集まるから、出雲以外に神様がいなくなる」と言われます。
実際、旧暦10月11日に出雲の稲佐の浜では「神迎祭」という神事が行われます。
しかし、神々が本当に出雲に集まるかは置いておいて、この謂れは民間伝承に過ぎないとされます。

「神無月」の「な」は古語の接続助詞「の」であり、「神の月」という意味ではないでしょうか。
私は稲作が収穫を終えた旧暦10月、新暦で言うと11月下旬あたりからは、稲穂に宿った「サ(稲)の神」が山に帰還したため、里では「神無しの月」と言われた可能性もあると思います。
また、新嘗祭を前に忙しい時期でもあり、「神」をどうしても意識する季節だったと考えられます。

この「神の月」が「サの神」を祀る月であるとしたら、それは春に「早乙女」に降り、稲穂に宿り秋に山へ還る水の女神「瀬織津姫(狭依姫)命」の月なのかもしれません。
伊勢神宮の天照皇大宮神は荒御魂を「撞賢木厳御魂天疎向津姫命」とあり、瀬織津姫命と同一神であるとされます。

だから、今のこの季節は瀬織津姫様がフューチャーされるべき時期なのかもしれません。
この月に起こる強い浄化のエネルギーは、奇しくも「神の月」の意味と共に、深い関係がある気がしてなりません。

もし10月新月の新しいエネルギーである「変革」というメッセージを、人々が受け取る時にどう変化するのかというと、「本来のあり方」に戻っていくのではないでしょうか。

本来のやり方、本来の生き方、本来の自分。
これまでの時代のやり方に無理に合わせて成り立っていた物事が、今では上手く回らなくなったからこそ、もう無理に続ける必要がないと悟り、あるべき方法を選択していくのだと思います。

「温故知新」とは言いますが、これからの時代のトレンドはまさに「古きに新しきを見出す」変革になる気がします。
これまでの時代は、形骸化したやり方を続けていたから限界を迎えているのです。
大地や山々や海に対して、処分できないようなモノを作り続け、そのままゴミにしてきた現代文明は、この地球をどれだけ犠牲にして来たのでしょうか。

おそらく来る「神世」とは、近代物質文明の残した負債を100年、200年以上かけて返済し、世界を浄化していく時代になるのかもしれません。
綺麗にした部屋は、いずれ少し掃除をしただけで綺麗な部屋の状態がずっと続きます。
一度綺麗にしてしまえば、ずっと綺麗なままの地球にずっと住み続けられるわけで、それは人間社会についても同様です。

それを「弥栄の世」と形容することもできるはずです。

私たちは、争いが絶えない世を平和で清浄な状態に保ち続けることができれば、人間は1000年でも1万年でも10万年でも、弥栄に繁栄を続けることができるでしょう。
その時代に切り替わる大変革の時に、私たちは生きています。

その時代に立ち会うために生まれた魂、その時代を作るために生まれた魂、その後の時代を生きるために生まれた魂が存在します。
それぞれが魂の目的のために出会う時代が「大峠」なのだと思います。

今起きている「大峠」は、私の日月神示解説に基けば「正念場20年」の四半後期にあります。
あと2029年酉年のどこかで「地の岩戸開き」が実現し、「ミロクの世」が来ると考えられます。

この「大峠」こそ人間が立ち返り、進むべき「神の道」に入るための試練なのだと思います。
そのための「身魂(みたま)磨き」とは、これまでの時代に生き、それでなくても生きていく以上は負わなくてはならない「罪穢れ」を祓い清める、まさに「神道」の理念そのものです。

その道において、祓い清めの神「祓戸大神」はやはり神道の真髄であり、その重要な御役目を担われているのが、瀬織津姫命であらせられます。
これからの数百年に渡る「浄化の時代」は、これまで以上に瀬織津姫様がご活躍になられる時代だと思います。

人間は、生きている限り生き物を殺し、その生命を戴いて血肉にしていきます。
また生きていく中で、誰かの世話になり迷惑をかけて、知らずに人を傷つけ罪を犯します。
その中で「罪穢れ」を負うことは避けられません。

しかし、その罪や穢れも神々が許したまい、人間がそれを背負うこと自体が咎められるものではないからこそ、この世は成り立っています。
だから私たちが「罪穢れ」を負うのは、神々からすれば「仕様」なのです。

ゆえに罪穢れを祓い清める時というのは、その罪が「赦される」ということです。
神々の「浄化」とは、即ち私たちが神々から赦され、癒されることにあるのかもしれません。

それはどんな行いをした者であっても、どんな考えでどんな生き方をしても「赦し」を得るということです。
その底知れぬ寛容と愛が人間に注がれているからこそ、人々はその恩恵に気づかなければなりません。

私は神道だけでなく、仏教もキリスト教もイスラム教もヒンドゥー教も、根本理念が同じであると思う理由はここにあります。
人間は長らく神を無きものにしてきましたが、それを改める時代が来る時、私たちは神々から赦しを受けるに違いありません。

私たちはかつての伊弉諾命のように、「現代社会」という「黄泉の国」で亡者の群れと戦ってきたのかもしれません。
そして黄泉比良坂に出て阿波岐原で禊をする時、その穢れを祓い、涙から天照大御神が生まれるのだとしたら。

誰の心にも「太陽」があり、その太陽神は自分だけの神様です。
自分にしか見えない、唯一の神と向き合う道こそ、人が歩むべき「神の道」なのだと思います。

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「お金」なき世界の経済

楽太郎です。

今回は、久しぶりに経済の話をしたいと思います。
先日のBloombergから。米自動車部品製造メーカー大手の「ファースト・ブランズ・グループ」が約100億ドル(1兆5200億円)の負債を残したまま経営破綻しました。

ファースト・ブランズCEOが辞任 |  Bloomberg


この記事で興味深いのは、企業の査定額が通常だと「10%から20%」の評価しかないのに、その体質の企業に各銀行が甘い査定を行い、莫大な融資をしてしまったことです。
今回辞任したジェームズ元CEOは、「経歴がインターネットで見つからない」らしく、どうも素性が相当怪しい人物が会社を仕切っていたようです。

銀行の査定が甘すぎて本来融資するべきでない企業に莫大な資金を預けてしまった、という腐敗した米金融業界の実態が垣間見えるニュースです。
自動車サブプライムローン融資を行うトライカラーの破綻も含めて、銀行業界へのダメージは看過できないレベルであるのは間違いないでしょう。

現在、最高潮のS&P500の中で、銀行と不動産のトピックは超低調の分野で、実のところ危険信号が出ているのはバブルの張本人たるハイテク銘柄ではなく、これらの企業群です。
今の不動産業界は殆ど虫の息であり、その分野に主な投資を行っている銀行各社は融資の焦げつきに喘いでいます。
また、銀行保有の有価証券の含み損が高金利によって年々肥大化しており、ただでさえ経営基盤が脆弱な銀行各社は、企業の破綻を被って経営不振に陥る機関がこれからボツボツ出てくるはずです。

第二次ハイテクバブルは、FRBがマネーサプライ供給をやめるか、NVIDIA関連の循環取引が公表されたら一瞬で終わります。
NVIDIAの架空取引に関しては「大本営発表」がないだけで、状況証拠は出揃っています。
ただ市場が「事実を認めたがらない」ので、仮に織り込んでいたとしても、落とし所がないのが正直なところではないでしょうか。

おそらく、機関投資家や大富豪などは「バブル崩壊」に備えており、大暴落のダメージを個人投資家に転嫁させる代わりに、絶妙なタイミングで売り抜く腹づもりでしょう。
そして「米国崩壊」後の修羅の時代をどう生き抜くかの戦略を立てているのだと思います。
それだけの資金があれば外国に高跳びもできるでしょうし、私設軍隊も持てる規模の資産がありますから、自前の「国家樹立」も選択肢にあるのではないでしょうか。

これから起こる経済破綻の主幹は金融と不動産になるでしょうが、世間的にはハイテク大手の不正がセンセーショナルな話題になるため、世論の追及を免れることもあるはずです。
私はそこまで計算しての「第二次ハイテクバブル」だと思っているので、そうであれば金持ちの考え方はさすがと感心してしまいます。

おそらく米国経済崩壊後の世界情勢は、思ったほど牧歌的ではないでしょう。
著しく劣化したとは言え、大規模の軍事力と軍事企業を保持する各国が政府の統治から逸脱した時に、どういう行動を起こすかは未知数です。
それこそ1929年の米国株大暴落後の1930年代には「都合良く」第二次世界大戦が起こったことで、戦時需要をブル相場に転換させて米国経済は立ち直ったという前例があります。

むしろ、金融危機を背景とした「戦時ブル相場」を想定して近年の戦争が起きていた可能性もあり、私は全く気が抜けない状況は続くと思います。
しかし、国民経済が劣悪で政府に権威としての求心力が低下した環境下では、「戦争」という国家事業を成し遂げることは不可能でしょう。

ゆえに、軍事企業が「儲けよう」とするなら対外戦争ではない、ということです。
私は「庶民」の味方なので不吉なことは言いたくないのですが、それは国民一人ひとりが意を決することで巨大権力の暴走を止めることはできるはずです。
それには勇気と知恵が必要ですが、見える地雷を敢えて踏みに行くことはないでしょう。

私たち日本人も、宗主国たる「アメリカ合衆国」が権威を失う時、その国家に臣従する体制であったことを見直すタイミングは来るはずです。
基軸通貨「ドル」の凋落は、世界経済だけでなく自国通貨である「円」の取り回しにも課題を生じさせると思います。

現在、米国中央銀行が発行する「ドル」は連邦準備制度FRBのコントロールを離れ、「ユーロダラー」と呼ばれる米国に還流しない「外国のドル」が金利を始め市場価値をコントロールしています。
そのユーロダラーも為替を通して外国通貨になるわけですから、その莫大な流動性はドルが凋落しても循環を続けることになるはずです。

これまでの市場経済は、AI開発やEV、再生可能エネルギーのように政府が主軸になった「国際的トレンド」に群がる形でジャブジャブ公金が投入され、ブームに合わせることで経済的なカンフル剤にしてきたわけです。
ただ、こうした「グローバリズム」に基づいて人工的に作り出した需要は、必ずしも経済的な合理性を伴うものではありませんでした。

そしてそのスキームも、米国経済崩壊と共に潰えるでしょう。
そうなれば、世界中を循環する莫大な「ユーロダラー」は、より大きな投資先を求める反面、投機に値する「真の技術革新」を待ち続けることになるはずです。
ただ肝心の「真の技術革新」が当面起こらなければ、ずっと小資本の投資先から地味な配当を得るような投資に傾いていくと思います。

そもそも、これまでの世界経済の中心だった「資本主義」というのは、元手を極力かけずに最大の利得を得るというポリシーがあり、「何も知らない」「まだ持っていない」という消費者を探し出すか無理に作り出すかして、モノを買ってもらうというスキームだったわけです。
それは「焼畑農業」のようなもので、モノが末端まで行き渡ればいずれ右肩下がりになる手法です。

現代社会を作り上げた製造業は特に、「モノからコトへ」という経済的トレンドの転換を逆転させるために、あれこれ工作をしてきたように見えます。
しかし、サービス業主導経済は文明として必然的な流れであり、いずれはそうなるのを止めることはできません。

私はこれからの「経済」について考える時、やはり20世紀型の大量消費経済は終焉を迎えざるを得ないと思います。
ただ、所得を得るためなら何でもやるような「お金」中心の時代が終わると言っても、「お金」自体が無くなるとは考えられません。

あくまで、行動や判断の軸が「お金」ではない社会になっていくというだけです。
ただ、それでは各自が好きなことだけやっていても世の中は回らないでしょうし、ゆえに「お金は必要」という考え方も、しばらくは変わらないと思います。

かつて、「株式会社」というのは私掠船などを保有する海賊が国王から勅許状を受けたり、航海の資金を捻出する際の投融資を受けるために組織されたことから始まります。
そして一回の航海できちんと海賊行為を成功させて、うまく掠奪したり貿易品を輸入できれば利益を支援者と船の乗組員に分配し、事業が終わったら即刻解散する性質のものでした。

海賊に起源を持つ株式会社の制度は「侵略性」の点で資本主義と非常に相性が良く、そのため今日の市場経済は「収奪経済」的な側面が強いのです。
大航海時代はヨーロッパを離れた人々が現地の財宝や資源を掠奪し、それを交易することで栄えました。
そして、収奪というのは「取れるものがなくなったら終わる」という性質があります。

ゆえに、資本主義経済は「買い手」がいなくなった時点で終わるのが仕様です。
しかし、今日では社会制度が整い終身雇用なども既成事実化したため、雇用後の補償も加味してすぐにビジネスを辞めたり、会社を解散させることは殆どありません。

だから企業としては一度サービスを末端まで行き渡らせて、すでに需要のなくなったような市場にも販路を求め、業界にしがみつく必要があります。
しかし「買い手」は年々減少していくし需要は変化していくのですから、ずっと同じことはできません。

結局、こういった仕組みを続けようとしてきたからこそ経済は形骸化し、形骸化した市場が社会の空洞化に繋がっていったのではないでしょうか。
だから見直すべきはこれらの「稼ぎ方」であり、市場が変化していくことをまず素直に認めることだと思います。

だからこれからの経済トレンドは、小資本の企業が相応の投融資を受けて商売をし、一度立ち上げた「会社」も事業の主目的を達成すれば、すぐに株主への利益分配を完了させて解散するような、「プロジェクト型」の同人・結社系企業が主流になっていくと思います。

もちろん、ビジネスは「ローリスク」ではローリターンしか得ることはできないので、ハイリスクを極力ローにするには、実直に合理的にシステムを組み上げて、ある程度予測がついたら大人しく引き上げる、という一撃離脱のやり方にならざるを得ません。
しかし、これまでの社会はビジネスの仕組み上、あまり合理的とは言えない体質だったと言えます。

それが見直され、余分なリスクやコストを極力抑えようとすれば、あらゆる物事は「分散型」になっていくはずです。
おそらく、「一極集中」の寡占企業がもたらす弊害の教訓がここに活かされ、中小の企業体が経済のトレンドを作り出していく時代になるのではないかと私は見ています。

その業態において、一つの商売を何十年も続けて業界寡占を狙うようなビジネスより、同じ目的で集まった様々な業態の人々が起こす、ニッチな小規模のビジネスが隆盛する時代になるのではないでしょうか。
それには「プロジェクト」で集まって、実現したら解散するタイプの同人企業は、分散型の時代に適したビジネスモデルになっていくと考えられます。

このように新しい流れが起こるのも「世界経済の崩壊」を伴うから生じることで、決して悪いことばかりではなく、「経済」のあり方をリセットし「資本」のあり方を見直すためには好機なのです。
逆にこのタイミングで前体制に回帰するようであれば、混乱はより深刻になり、古いやり方に固執すれば、ますます袋小路に入っていくはずです。

水は高い所から低い所へ流れますが、これを莫大なコストを使って逆流させようとしてきたのが近年の資本主義文明圏です。
それがもはや成り立たないのなら、いっそのこと高い所から流れる水を受ければ良いだけです。

その状況に気づけるか気づけないかが、これからの大きな分かれ道になる予感がします。
だから、頭を切り替えるのが早い人から成功を手にしていく時が来ているのかもしれません。


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祓戸劇場・試作③(+オマケ)

楽太郎です。

今回も「HARAEDO」番外編シリーズの「祓戸劇場」のテスト版第三弾です。
今回の主人公は「祓戸四神」の一柱、「潮の八百合に坐す速秋津姫」です。


「試作」ではトーン処理やカラーの配色などを省略していますが、全体の作業感がわからないうちにきっちり始めると、後が続かなそうだからです。

わりと好き勝手にネタを考えて描いているのですが、そのうち神罰が下るのではないかと恐々とする部分はあります。
特に最近の流れではギャグテイストが強くなってきて、神様をおバカキャラ扱いして、人間として許されるのかという気持ちがしないでもありません。

何ヶ月か前に描いた「HARAEDO」のカラー漫画の方はわりと社会派の設定でしたし、「ゲゲゲの鬼太郎」みたいな話が念頭にありました。
その頃「プリキュアみたいな話にする」と書いていたと思うのですが、「禍津姉妹」あたりからだんだん世界観が狂ってきて、「アンパンマン」みたいな感じになってきました。

ところが「祓戸劇場」に至っては「デンジャラスじーさん」みたいな作風になってきて、どんどん精神年齢が低くなってきているのはどういうことなのでしょうか。
自分で描いてても全く着地点がわからない、そんな作品は初めてです。

ただ、本当に近い将来「弥栄の世」が訪れるとしたら、問題ない世の中になりすぎて「ゲゲゲの鬼太郎」のぬらりひょんも引退するような時代になるかもしれません。
そうなったら社会派のストーリーは作れなくなりますし、それでも続けて行こうとするなら「チームネズミ男VS鬼太郎ナイン」で野球対決するみたいな話ばかりになるのではないでしょうか。

今でもありそうではあるのですが、私は結論から入ってそれをやろうとしているのかもしれません。
こうして設定の変化を眺めてみると、だんだん「明るい世の中」が見えてきたのかなという印象です。

ここらへん、ずっと社会派のテーマが降りてきていたのですが、7日満月以降にエネルギーの切り替わりというよりは、私自身の「テーマ」そのものが更新された感覚の方が強いです。
以前なら政治や社会、経済情勢が気になって仕方なかったのですが、なぜかストンと興味が落ち着いたというか、自分の中で優先順位が下がったという感じに近いです。

おそらく、エネルギーレベルで読み取っていることと、自分の予知的な推測と実際の社会的情勢に乖離がなくなってきたため、「そうなるだろう」と実感できるようになってきたのが大きいと思います。
とは言え世の中は問題が山積みですし、日月神示や時事関連の解説も引き続きやっていこうと思っています。

ただ、今は「創作」というものがグングン優先順位に上がってきているので、どうやら「そろそろ勘を取り戻していけ」ということではないでしょうか。
というわけで、久しぶりに「美少女イラスト」を描きました。

「HARAEDO」の試作第1作で登場した「猫又ノ神」のグラビアです。


まさか「招神万来」でネコミミ娘の微エロのイラストを見ることになるとは、誰も思わなかったでしょう。

まあ、いきなりロリロリの瀬織津姫命を描いた男ですから、今さら何をやっても驚かれないと思います。
「昔取った杵柄」ではありませんが、最近おっぱいを描いていないのでとても新鮮でした。

普段描かせて頂いている実名の神様は、性的な表現を極力避けています。
ただ自分オリジナルの「キャラクター」であれば、表現において粗相をすることがないので気が楽です。

まあ実際の猫の女神様が「勝手に水着にするニャー‼︎」と仰って祟りに来られるとしたら、萌えすぎて悶え死ぬ確率の方が高いです。

あ、最近「萌え」って誰も言わなくなりましたね。
日本の三大美学「ワビ・サビ・萌え」と言ったものですが、寂しいもんです。

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祓戸劇場・試作②

楽太郎です。

まさかまさかの、「祓戸劇場・試作第2話」です。
前置きはさておき、今回の主役は「八十禍津日神」、「禍津姉妹」の「大禍津姫」と「大綾津姫」が登場します。


今回のネタは、昨日思いついたばかりの出来立てホヤホヤです。

「神様の召し上がるカップラーメン」について考えていた時に、「ノン神(シン)」の「邪神ラーメン」というのを思いつきました。
「背脂こってりニンニクマシマシ大麻(おおぬさ)入り激辛ラーメン」という単語が思い浮かんだ瞬間、問答無用で神が降りてきたと思いました。

一昨日、作品を出したばかりですが更新をこんなに早くできるとは思いませんでした。
7日満月以降、なんか体感が変わってきて調子もおかしいんですが、何となく今の感覚では読みきれない部分もあり、少し困惑しています。

しかも昨日はガチの時事評論をやっておいて今日はこんなおバカ漫画を出しているので、時々強烈にスピってたり、本当によくわからないブログです。

まあ世知辛い世の中、せっかくの行楽シーズンの連休に台風、そんな重苦しい週末にちょっとは人様を元気づける何かをやってやれ、ということかもしれません。
「何が悪い」と喧々諤々な世の中、最凶の「悪神」がうまくラーメン食えないとか、何となく和みそうな気がします。

今思ったのですが「HARAEDO」という作品の雰囲気、思っている以上に「おバカ」な感じになってきてますが、本当にこれで良いのだろうか…?

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日本が復活する理由

楽太郎です。

高市内閣発足を前に、自民党と公明党が連立解消したそうですが、果たして7日満月の「天王山」と関係があるのでしょうか。

昨日の記事で、「満月以降、空気がスッキリしすぎて不思議だ」という話をしましたが、おそらく「正神と悪神の戦い」において、光の勢力が「天王山」を先取したのは間違いなさそうです。
史実における「山崎の戦い」のあらすじは少し違うのですが、明智軍を打ち破った羽柴軍はその後、織田信長の跡を継いで天下統一を果たしました。

これだけ「気」の流れが変わったということは、ついに光と闇の相剋において「雌雄を決した」のかもしれません。
それが「天王山」の意味であり、「必勝」になったと言えど、戦い自体はまだ続いていることに変わりはありません。
この騒然とした空気は21日新月まで続くはずですが、またその後にはエネルギーがガラッと変わるのではないでしょうか。

今回は、だいたい見通しがついてきた今だからこそ、これからの「日本の展望」について書いてみたいと思います。

先日、スピッツの新曲「陽を護る」という曲が、「小さい日本を守ろう」というささやかなメッセージソングではないか、という話をしました。
あと、たまたまゴールデンボンバーの「悪かったよ」という新曲もたまたま耳にする機会がありました。

この「悪かったよ」という曲は、淡々と「悪かったよ」と歌うメロディに、樽美酒研二さんが慰めるようなラップを被せます。
この二曲に共通するのは、「生きづらさ」と「贖罪」です。

「陽を護る」の中にある「赦される」という歌詞、ゴールデンボンバーの「悪かったよ」という謝罪、これを聴き比べて「一体、何に対する罪の意識だろう?」と思いました。

おそらく、この「罪」に対応しているのは「罰を受けている」という感覚でしょう。
二進も三進も行かない、抑え込まれているような現実には、何らかの「被虐」という意識があるのかもしれません。

それに対する加虐があるとしたら、それは「世の中」からではないでしょうか。
おそらく、誰もがそこまで明確に自分たちを封じている原因を特定できていないはずです。
だから、漠然と世の中から「罰を受けている」という感覚になっているのかもしれません。

「悪かったよ」の曲で興味深いのは、「のび太とジャイアン」のような風貌をした、鬼龍院翔さんと樽美酒研二さんがブランコに座っているジャケットです。

そして「悪かったよ」を改めて聴いてみると、妙な光景が浮かんできました。

「悪かったよ」と歌っている「のび太」を今の「日本」とするなら、のび太をいじめる「ジャイアン」は「アメリカ」でしょう。
そして、なぜかいじめられる側の「のび太」はずっと謝っていて、「ジャイアン」は「お前は何にも悪くないよ」とライムを乗せます。

そんなジャイアンはのび太を励ましながら、「お前はスーパーヒーローだ」「お前にグラミー賞を贈る」と言っています。
よく考えれば、今の日本の経済的低迷や社会的混乱の原因を作り出したのは「アメリカ」であり、「答えがないニュースサイト」を牛耳り、ユーザーの書き込みを検閲しているのもアメリカ企業です。

むしろ普段、のび太をいじめているジャイアンの方が謝るべきであり、「悪役」であるはずのジャイアンに「君は悪くないよ」と諭すのは、普通ならのび太の方ではないでしょうか。

ゴールデンボンバー諸氏が意図したのかわかりませんが、この歪な構図こそ「日本」がひたすら被虐的心理に陥っている原因であり、それがメタファーになることで、問題を浮き彫りにしているように見えるのです。
曲自体はとても良い曲なので、是非聴いていただきたいのですが、このメッセージをジャケットの印象に被せて聴くと、また違う感想が湧いてきます。

「日本」が戦後、痛烈な自虐史観に陥り、その認識をアカデミズム、教育行政に持ち込んでしまった結果、DNAのように「日本はダメだ」という心理を植えつけられてしまいました。
その罪悪感は、戦後の「土下座外交」や西欧への精神的依存、あらゆる売国運動に見られるような気がします。

この「国」のトップにいる人々は、大抵その考え方を共有し、その信念に基づく政策を行ってきました。
それを大衆は甘んじて受け入れながらも、決して「お上」に染まりきることなく、日本人としての「誇り」や「気概」を持ち続けてきたのです。
それがスピッツの「陽を護る」であり、ゴールデンボンバーの「悪かったよ」に見える気がします。

少し前の記事になりますが、Bloombergからです。

円キャリー取引が復活 | Bloomberg

「円キャリー」とは、安く円を借りてドルなどの資産構築に用いる通貨を買うことです。
つまり、円安に比べレートが高いドルを用いて「米国債」や「米国株」を買えば、通貨のレート間の差額を利益に転嫁させ、投資家は儲けを増やすことができるのです。

Bloomberg始め、経済を扱うメディアは経済学的な論法には矛盾する説明をすることが多く、実際は逆であることもしばしばです。
日銀が「利上げ」をすれば、国民経済が打撃を受けるため景気浮揚対策に意欲的な高市内閣が「利上げをしない方針」に動くだろう、と解説しています。

しかし、実際は外国為替市場では高金利を求めて高い金利の国の金融商品を買うわけですから、金利が上がれば外国の投資家は日本国債を買いやすくなり、投資もしやすくなります。
そうすると、堅実な日本経済ゆえに通貨の価値が上がる、つまり「円高」になり、物価高が抑えられるので生活水準が上がり、国民の生活が楽になるだけでなく景気も浮上するでしょう。
要するに「利上げ=景気浮揚」になるのです。

日本人の生活水準に直結する我が国の「実質可処分所得」は、コロナ前より10%以上も低下していると言われています。
消費者物価指数は急上昇している割りに実質労働賃金は下落の一途、つまり手取りは変わっていないため、生活水準が下がるのは当然です。

国際貿易の殆どが米ドルで決済されているため、日本が外国から輸入する資源や生産品は、2010年頃に比べて2倍近い価格になっているそうです。
2010年の平均的な円の価格は90円ほどですが、今では150円を超えているので、体感的に1.5倍になっているのは、見ればわかる数字です。

だから、全ての元凶は「円安」であり、円安を至上命題とする財務省や日銀や経済界、経済学界隈などのポリシーにあります。
しかし、この頑強な権威筋はテコでも動かすのが難しいからこそ、日本は百害あって一利ない「円安政策」は揺るぐことがありませんでした。

日銀の「円売り介入」の歴史こそ、「失われた30年」を形成してきたと言っても過言ではありません。
これを「日銀がバカだから、誤った信念を持ち続けてきたのだ」という人がいますが、私は違うと思います。
財務省、日銀はわざと「円安」を意識し、意図的に円安介入をしてきたのです。

何故かと言えば、「円安政策」はアメリカが最も利する仕組みだからです。
先ほど挙げた「円キャリー取引」というのがまさにそれです。

「米国債」「米国株」を買う時に「ドル」で買うわけですから、そのギアである「円」が高ければ成り立ちません。
極端な円安であればあるほど、投資家は「円」を通じて米国に投資をするからです。

特に今の米国は万年国債不況の真っ只中にあり、財政赤字も経常赤字も膨大になる中、外国から投資を呼び込まなくては政府そのものが成り立たないほど困窮しています。
同じ日のニュースで、「米国が政府閉鎖している最中に、職務休止中の政府職員に給与を払うか払わないか」で揉めている記事が出ています。

これが「史上最大の技術革新に伴う、史上最高の株式市場を有する国の政府機関」に見えるでしょうか。
私は、これが「第二次ハイテクバブル」が見せかけのハリボテであると断定する一つの根拠です。

つまり、この財政破綻寸前の状況を回避するため、あの手この手で外国から「資金」を引っ張ってくる必要があります。
そのための「見せ金」が「AIブーム」という代物なのです。

デル、今後4年の売上高上方修正

例えば同日の記事ですが、PC製造大手の「DELL」がAI需要を受けて「将来の」業績予想を大幅修正、とありますが、これらは「予想」の話しかしていません
つまりAIで「いくら利益が上昇した」という文章は一つもなく、実際にここ5年のPC出荷台数は年々下げ続けているという事実に触れていません。

報道機関は、こういう叙述トリックを使って日本人を投資に誘い込もうとしているわけです。
しかし騙されてはいけないのは、今ここで投資をするような人は「パット・ボローニャ」になるでしょう。

「パット・ボローニャ」というのは、こういう話です。
1930年代世界恐慌を誘引した1929年の米国株大暴落の折、投資家のジョセフ・P・ケネディが靴磨きの「パット・ボローニャ」という少年に出会います。
少年はケネディ氏の靴を磨きながら、「旦那、知ってますか?今、株を買うと大儲けできるそうですよ」と話します。

それを聞いた有名投資家のケネディ氏は考えます。
「こんな場末の靴磨きの少年が株式バブルを知っているということは、近いうちに大暴落が起こるに違いない」
そう考えたケネディ氏は、持てる株を売り切って大暴落を免れたと言います。

しかし一番救いのない話は、これらがケネディ氏の作り話ということです。
実際は、この大暴落は投資家の間では「もうそろそろ危ない」というのは通説であり、同氏はむしろ暴落を仕掛けた側の可能性もあるそうです。

「ケネディ氏」がマスコミとすれば、「パット・ボローニャ」は米国株ETFに投資をする個人投資家でしょう。
それを誘い込むような情報ばかりが世に溢れていますが、騙されてはいけません。
奇しくも「ゴールデンボンバー」に「新NISA始めます」という曲があり、私は一時期本気で心配しました。

今回は「日本復活」がテーマの記事なので、そろそろその話に移ります。
これまでの話、「財務省・日銀」が米国優遇政策を続けてきたことで、国民経済がジリ貧になっていく道を30年以上辿ってきたわけです。
そして、数日前から連日「円の売り浴びせ」を食らい続けており、更なる円安と円キャリーが進行しています。

これまでは日銀が日本国民を「生かさず殺さず」の状態で米国が裕福になる仕組みを作ってあげていた訳です。
ただ、いつかは「このままでは本気で日本人が絶滅してしまう」と考えるような状況になる前に、さすがに「円買い」に走るはずです。
一部経済界では「日銀の円買い介入はゴジラだ」と囁かれるそうです。

なぜなら、日銀が円買いをするたびに強烈な「円キャリー巻き戻し」が起こり、昨年8月の米国株全面安に見られるように、一度「円高基調」に入ってしまうと円は無双状態に突入してしまうからです。
そして、ただでさえ「円高」という成長期の青少年のように伸びていく身長を、無理やり頭を押さえつけて成長を止めようとしてきたのが、政府日銀です。

つまり、どうしても円には「円高になってしまう」強いバイアスが常に掛かっている訳です。
特に日本が今後「復活する」と言える最大の論拠は、円先物の建玉ポジションが長期的な「買い建玉」を増加させている、つまり円買いに向かっているという事実です。

エコノミストの増田悦佐氏によると、現在の円は1ドルで買えるモノの「購買力平価」が50%近く低いそうです。
この15年ほどで円で買える外国の商品が1.5倍になっているのだから、そうなります。
しかし、将来的にこの乖離は年率10%で10年間上昇し続けて修正されるだろう、と同氏は仰っています。

財務省・日銀がいくらトチ狂っていると言えど、「日本人を隔離地域に強制移住させて、外国人に国家主権を委ねよう」と思ってない限りは、さすがに国民が省庁に火炎瓶を投げつけるような混乱に至るほどの悪政は行えないはずです。
だから、どうしても「円高傾向」を抑えられず、円高は将来的に確実に起こるのです。

「10年で10%ずつ購買力平価が改善する」ということは、通常の「円」の相場が70円前後とされているので、「100%の上昇(2倍)」になるということです。

簡単に一覧にしてみると、こうなります。
  • 2025年…150円
  • 2026年…135円
  • 2027年…122円
  • 2028年…110円
  • 2029年…99円
  • 2030年…90円
  • 2031年…81円
  • 2032年…73円
このように、自然にしていれば2032年には相応の「円相場」になっているわけです。
7年後には今買えるモノの値段が半額になっているということになり、例え実質賃金がこのまま上がらなくても、かなり生活は楽になるはずです。

現状、ラーメン一杯が1000円ですが、これが500円くらいになる可能性もあります。
今はラーメンに白米をつけようか悩むレベルですが、これに餃子をつけてお釣りが来る、という当たり前の生活水準に戻るのです。

私たちは、国のトップがもう少しマトモなら、こういう生活でずっといることができたのです。
しかし、国民を「池の中の鯉」とするなら、池に続く水路を堰き止めていたのが「日本政府」です。
「水」というのは「お金(円)」であり、その元栓を握っているのが微妙な人たちだからこそ、水が明らかに減っていく池の中で、国民は溺れるように泳がなければならなかったのです。

しかし、ここで「諸悪の根源」である財務省や日銀を打倒すれば済む話でしょうか。
いや、それよりもっとクレバーな方法があります。
それは「待つこと」です。

考えてみて頂きたいのは、日本経済の基盤は以前堅実であり、健全な財政状況にあります。
それに比べ、アメリカ始めEU、中国、ロシア、これらの巨大経済圏は瀕死の状態です。
ならば、やはり「投資先」は日本に向かうでしょうし、「円高基調」は中長期的に続くはずです。

しかし「円高」一発で米国株は崩壊するのですから、その「恐怖」が円の売り浴びせに繋がっているのでしょう。
要するに、日本が「普通」にしていれば円高で米国経済は沈み、まして何もしなくても米国経済は風前の灯である、ということです。

これまで、「宗主国」アメリカ大帝国の顔色を伺っていたから、日本政府は国民に全くメリットのない「円安政策」を続けてきたのです。
その「宗主国」を日本が義理堅く支える必要がなくなったとしたら、誰に対しても利益のない方針を続けるでしょうか。

つまり、「円安」で支えるべき「米国経済」が崩壊した途端、円安政策の意義はなくなり、誰もが得する「円高」という現実を受け入れるしかなくなります。
そうなれば、枷を外された日本国民は晴れて本来の「円」を使って、相応の豊かな生活をすることができるようになります。
それが「当たり前」だったはずですが、これまでの時代は「宗主国」の顔を立てるために、それを諦めなければならなかったのです。

だから私の結論としては、こうです。

あと半年以内に米国株大暴落が起き、数年かけて世界は大不況に陥る。
しかし財政基盤が頑強な日本だけが比較的マシな状態にあることで投資が集まり、ますます円高基調は強まる。
急激な円高になることで外国の輸入品に対する購買力が上がり、日本経済は復活する。

というのが、わりと「既定路線」だと思います。
しかし、日本国内には「命がけで」反日・売国に徹する人々もいるので、確かにイレギュラーなことはありますが、そもそも南海トラフでも起こればこのプランは立ち消えになるので、そこまで断定することは不可能です。

ただ、私は一応スピリチュアリストの端くれ、こうなる予感はしています。

今、何となく「辛い仕打ちを受けている」と感じる方が多いと思いますが、これが「日月神示」で言うところの「大峠」です。
ただ、この数年を乗り越えれば、晴れて弥栄の世がやって来るのです。
その時代こそ、日本が世界の「宗主国」になる時代だと思います。

その時、のび太はジャイアンをいじめ返すでしょうか?
いや、のび太は心根が優しい少年ですから、ジャイアンと手を取り合って、仲良くやっていくはずです。


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祓戸劇場・試作①(+オマケ)

楽太郎です。

「やるやる」言って一向に始まらない「HARAEDO」ですが言い出して半年、ようやく始まるかもしれません。

とは言っても、今回の漫画は「試作」です。
実はまだ、継続してできるかはわかりません。
お前が自分でやってるんだろうが」みたいなツッコミは痛いので勘弁して下さい。

そう言えば、ラフイメージの神(キャラ)デザの中で、メインキャラクターの白龍「ナギ」の立ち絵はまだ起こしていなかったので、今回描きました。


当初のナギはわりと「龍」の原型を保っていましたが、漫画の構想では不遇キャラの扱いなので、あまり痛々しくならないように極端にデフォルメしました。
万が一メディア展開して、フィギュアになった時に後ろにクリアつっかえ棒がつくタイプの造詣だなと思いました。

今回投稿する「祓戸劇場」は、「HARAEDO」本編のサイドストーリーという形で、サクッと1ページ漫画として出していきたいシリーズです。
本編に関しては、ストーリー形式だと時間がかかりそうなので、そういったまとまったスケジュールを漫画に費やせるのかも不明ですし、保留です。

とりあえず、今日できた分だけ。


今回ご登場いただいたのは、「祓戸四神」の一柱「速佐須良姫命」こと「佐須良姫」です。

以前、きちんとペン入れまでしてた「HARAEDO第3話」が賞味期限切れでボツったので、「祓戸劇場」としてネタを転用しました。
個人的に「神瞬間移動(かむしゅんかんいどう)」という、面白いのか面白くないのかわからない単語が思い浮かんだ時、何だか妙にテンションが上がったので、そのまま使ってしまいました。

というか、ここ数ヶ月殆どペンを持ってないのに何故か筆が乗ってる気がします。
下手すると絵を描いてない方が良い絵を描くのではないでしょうか。

あと、「HARAEDO第3話」のアフターストーリーとして考えていた「旧・祓戸劇場」のネタも供養を兼ねて仕上げてみました。


瀬織津姫がうちわを持っているのは、この下書きを描いていたのは7月頃だったからです。

もうボツなので言ってしまいますが、この時「伊奘冉命」は「黄泉大神」という扱いでご登場頂こうと考えており、「速佐須良姫命」は「根の国底の国に坐す」ことから「菊理姫命」と同一神という設定にしていました。

しかし、その後「日月神示」の研究を始め、日本神話への造詣も深くなり、また神示の影響を受けて神々への見方も変わりました。

そのため、漫画の設定上「瀬織津姫」は「伊弉諾命と伊奘冉命の娘」というお立場になりました。
また、以前「祓戸大神は瀬織津姫命一柱に比定できるのではないか」という話をしましたが、それも眉唾ではない気もしてきました。
よって、「祓戸四女神」を四姉妹という設定にすることにしました。

そこでこの劇場のネタでは「佐須良姫が黄泉の国で母神と一緒に暮らしている」という筋立てが難しくなったため、ボツになりました。
それはまあ良いのですが、このショットでの佐須良姫が可愛すぎたため、どうしても仕上げたかったのです。

という訳で、なんだかんだで今回は全部描き下ろしてしまったわけですが、久しぶりに一日中みっちり絵を描けてとても楽しかったです。
普段のスピッた楽太郎も嫌ではないのですが、毎日ニュースが堂々とレトリックを駆使して情報操作をしてくるのを、いちいち論評しながら読むのも疲れます。

やっぱり漫画を描いている自分が一番「らしい」です。

ただ7日満月以降、恐ろしく「スッキリ」した感じがあって、不思議すぎて形容し難いほどです。
あまりに空気が変わりすぎているので、「気のせい」ということも考えて、しばらく様子を見ようと思います。

今回、突然「絵を描いて良い」というお達しがあり、少し面食らいました。
なんか、これくらいの作業感なら週一くらいで出せる感じもするので、まず「継続」という頭になってきただけでも大きな変化だと思います。


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