神様からの答え Category:エッセイ Date:2025年03月31日 楽太郎です。 気持ちの整理がついたので、私の気持ちを素直に書いていきたいと思います。 今日から数日かけて、私の古いアカウントの痕跡を消していくことにしました。 放置しても自然に消えていくと思いますが、わざと未練を断ち切るために自分で消去することに決めました。 私はつい数ヶ月前まで、自分の夢を叶えるために必死でした。 人のしないような努力をして、それが実を結ばなくても歯を食い縛って前を向いてきました。 それが叶わないとわかっても諦めませんでしたし、今も諦めてはいません。 けれど神様に肩を叩かれて、「君にはやるべきことがあるんだよ」と囁かれたら、手を止めずにはいられません。 我が道を取るのか、神の道を取るのか。 それはかなりの葛藤でした。 しかし、今思えば3年前に答えを出していたんだな、と思います。 私はずっと同人活動をしていて、そこでだいたいうまくいっていました。 けれど、同人業界に長年いると、成功法則というかカラクリが見えてしまいます。 二次創作は成功のための登竜門であり、ステップとして必要な手順だと考える人がいます。 私もそう思ってましたし、その階段を登ることが成功の近道であることも知っていました。 オリジナルの創作よりも二次創作の方が知名度が上がり、求心力が高いのでバズりやすい。 バズったらフォロワーがついて、インプレが高まるので、自分のタイミングでオリジナルを出せばいい。 しかし、二次創作とはあくまで愛好的な活動であり、ビジネスとは異なるはずです。 そもそも、同人活動はアングラの文化観があるからこそ、本音と建前を大事にしたファン活動でした。 それが、なぜ自己実現の手段になってしまったのか。 それだけではなく、自分の趣味や性癖も、人と繋がる道具にしてうまく立ち回り必要がある。 言いたいことは極力言わず、無難に打算的に行動する。あくまで印象を大事にする。 そうすれば、界隈の有力者に気に入られて界隈の大部分を味方にすることができる。 私自身もそのセオリーに乗って、自分の成功とファン活動を混同し、コンテンツを自分の踏み台として扱っていました。 「ファンであること」は、純粋な好意や愛情の発露であるべきで、打算の上でコンテンツに触れた時点で、それはビジネスです。 だから私は同人活動をやめて、自分のコンテンツを作り始めました。 自分のアイデアと実力で成功しなければ、意味がないと思ったからです。 それから4年間は、本当に苦難の日々でした。 オリジナルのコンテンツは、例えSNSを駆使しても恐ろしいほど見向きされません。 あらゆる戦略を駆使しましたが、そこでも打算を発揮しなければうまくいかないこともわかっていました。 しかし、なぜか私にはその方法を取ることがどうしてもできませんでした。 何故かできませんでした。 何故かはわかりませんでした。 それから、溺れるような状態の中をずっと泳ぎ続けました。 私は自分の絵が好きですし、自分のアイデアも作風も作品も最高だと思います。 唯一、描き続けることだけが希望でした。 「諦める」という選択肢を取ろうと思ったことは、一度もありません。 他の人ならとっくに諦めているところを往生際悪くしがみついて、その根性が染みつきすぎて「諦める」という発想そのものが無いのです。 これで本当に稼ぎがどうしようもなくなったら、土木工事でも警備でもスーパーの品出しでもやって、漫画を描き続けようと思ってました。 けれど、まさか神様に肩を叩かれるとは思いませんでした。 「もうそろそろいいでしょう。諦めなさい」 と。 私の脳裏に、私がうまくいっていないことを散々嘲笑っている連中の顔が浮かびました。 彼らには私が敗北したと、懲りて逃げたと見えるでしょう。 少し前までは、それに対して意地もありました。 私だって、ここで曲げる理由は何一つなかったのです。もっと仕掛けまくって、いずれ勝ち筋に乗るという気持ちでいたからです。 私の頭の中の世界では、というか「私」という自我の中では、それは強い覚悟でした。 しかし、無意識より深い魂の部分では、自分のやるべきことがすでにわかっていたのだと思います。 3年前から。 多くの人々が向かう方向に疑問を持ち、できる限りの正攻法で挑み、訝しく思うものから距離を取り、自分の判断や行いを反省し、地味すぎる努力を習慣化し、どんどん精神的に成長していく。 その過程こそ「神の導き」であったことに気づいた時、私は人間としての「夢」を捨てる決心がつきました。 それは、つい最近のことです。 今でも、自分の考えたコンテンツを社会的に成功させたいという野心は失っていません。 しかし私の実感として、その「夢」を実現することはできない、すでにそういう世の中では無いこともわかります。 一昔前の世の中の延長で、自分の人生設計や目標を持っていても、もう時代が違うのだから意味も扱い方も全く違うのです。 昔の心ある、余裕のある人々はどこかへ行き、かつての才能ある人の活力は失せ、人々は歳を取って若さを失い、皆の目的はすり替わり、あの頃にあった賑やかさや自由はありません。 だからあの頃のような、ジャパニーズドリームを持っていてもしょうがないのです。 それに気づいていたからこそ、神様から呼び止められても、私は何となく自分がすぐに答えを出すであろうことを予感しました。 そして、私は綺麗さっぱり自分のキャリアを捨てる覚悟ができたのです。 私の人生は、おそらくこの世に生まれる前から、神様からお導きを受ける宿命だったのだと思います。 これまでの失敗も恥も挫折も、どうしようもなく立ち行かなくなることも、絶望も病も堕落も、全てシナリオだったのかもしれません。 この3年は修行としか思えない理不尽な状況で、何を成し遂げるわけでもなく自分を磨いてきました。 今考えれば、あの時「おかしい」と思って本能的に避けてきたあらゆる事象が、今になってとんでもない顔を覗かせています。 どうしても引っかかっていたような罠を、まるで知っていたかのように奇跡的に潜り抜けてきたのは、何の力が働いていたのでしょうか。 もしかすると私の魂は全てを理解していて、神様と対話をしながら淡々と計画を進め、それを私という自我だけがわかっていなかったのかもしれません。 「自分」だと思っていたものは何層ものレイヤーでできていて、自分ではない意識がいくつも混ざっていて、その影響すら自我の一部だと錯覚していたのでしょう。 それはもはや幻覚に近く、妄想に溺れて苦しむ自我すらシナリオの一部で、私はそのキャラクターを演じきっていたのだと思います。 そして、神様に肩を叩かれてようやく正気に戻ったのです。 まだ夢は見ていたいし、夢を捨てたわけではない。 けれど、もはやこれまでの世界は終わっていくし、その未来では自分の夢は叶うことはない。 それがわかったからこそ、私はできる限りのものを捨てる決意をしました。 今持っているのは、絵を描く道具と私を支えてくれる家族、それ以外は自分のセンスと知識と技術、それに信仰心です。 ただ、私にとって本当に必要だったものは、神様だったのかもしれません。 信仰心は、なぜか私の欠けた部分に丁度よく収まるのです。 人の世で戦って生きていくからこそ、それ以外のあらゆるものが必要でした。 勝たなければ貶められるし、負ければ貶められる世界で、自分を守るためにあらゆるものを必死に身にまとってきただけです。 それは私が欲しかったものでも好きなことでもなく、持たなければやられるから求めてきたものばかりです。 神様は「もう無理しなくていいよ」と、 「自分のやりたいように生きなさい」と、 私の背中を優しく押してくださるのですから、そうしない選択などあるはずがないのです。 意地はあります。 それは私自身でも世の中に対してでもなく、誰に張り合おうとか何が許せないとかではなく、愚かさを繰り返させたくないという気持ちです。 おそらく、私にしかわからない、誰にもわからないからこそ私にしかできない何かがあるのです。 そう思う瞬間、神様が私に何をさせたいのか、私は深い部分でそれにどう答えてきたのかがわかるのです。 だから、もう進むしかありません。 幸い、私には太陽が見え始めています。 人々はまだ宵闇に気づいた頃合いで、下手するとまだ夜に気づいていない人もいます。 それなのに、私はもう夜明けを迎えています。 この幸運は、なかなか理解されにくいでしょうし、把握すら難しいことかもしれません。 だからこそ、私だけがその有り難みに気づくことができます。 これこそが私の道程に対する神様の答えであり、神様が与えてくださった恩寵なのだと思います。 その褒美を手に取って、私は思います。 「ああ、私は間違ってなかったのだ」と。 PR