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招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

祓戸劇場・試作①(+オマケ)

楽太郎です。

「やるやる」言って一向に始まらない「HARAEDO」ですが言い出して半年、ようやく始まるかもしれません。

とは言っても、今回の漫画は「試作」です。
実はまだ、継続してできるかはわかりません。
お前が自分でやってるんだろうが」みたいなツッコミは痛いので勘弁して下さい。

そう言えば、ラフイメージの神(キャラ)デザの中で、メインキャラクターの白龍「ナギ」の立ち絵はまだ起こしていなかったので、今回描きました。


当初のナギはわりと「龍」の原型を保っていましたが、漫画の構想では不遇キャラの扱いなので、あまり痛々しくならないように極端にデフォルメしました。
万が一メディア展開して、フィギュアになった時に後ろにクリアつっかえ棒がつくタイプの造詣だなと思いました。

今回投稿する「祓戸劇場」は、「HARAEDO」本編のサイドストーリーという形で、サクッと1ページ漫画として出していきたいシリーズです。
本編に関しては、ストーリー形式だと時間がかかりそうなので、そういったまとまったスケジュールを漫画に費やせるのかも不明ですし、保留です。

とりあえず、今日できた分だけ。


今回ご登場いただいたのは、「祓戸四神」の一柱「速佐須良姫命」こと「佐須良姫」です。

以前、きちんとペン入れまでしてた「HARAEDO第3話」が賞味期限切れでボツったので、「祓戸劇場」としてネタを転用しました。
個人的に「神瞬間移動(かむしゅんかんいどう)」という、面白いのか面白くないのかわからない単語が思い浮かんだ時、何だか妙にテンションが上がったので、そのまま使ってしまいました。

というか、ここ数ヶ月殆どペンを持ってないのに何故か筆が乗ってる気がします。
下手すると絵を描いてない方が良い絵を描くのではないでしょうか。

あと、「HARAEDO第3話」のアフターストーリーとして考えていた「旧・祓戸劇場」のネタも供養を兼ねて仕上げてみました。


瀬織津姫がうちわを持っているのは、この下書きを描いていたのは7月頃だったからです。

もうボツなので言ってしまいますが、この時「伊奘冉命」は「黄泉大神」という扱いでご登場頂こうと考えており、「速佐須良姫命」は「根の国底の国に坐す」ことから「菊理姫命」と同一神という設定にしていました。

しかし、その後「日月神示」の研究を始め、日本神話への造詣も深くなり、また神示の影響を受けて神々への見方も変わりました。

そのため、漫画の設定上「瀬織津姫」は「伊弉諾命と伊奘冉命の娘」というお立場になりました。
また、以前「祓戸大神は瀬織津姫命一柱に比定できるのではないか」という話をしましたが、それも眉唾ではない気もしてきました。
よって、「祓戸四女神」を四姉妹という設定にすることにしました。

そこでこの劇場のネタでは「佐須良姫が黄泉の国で母神と一緒に暮らしている」という筋立てが難しくなったため、ボツになりました。
それはまあ良いのですが、このショットでの佐須良姫が可愛すぎたため、どうしても仕上げたかったのです。

という訳で、なんだかんだで今回は全部描き下ろしてしまったわけですが、久しぶりに一日中みっちり絵を描けてとても楽しかったです。
普段のスピッた楽太郎も嫌ではないのですが、毎日ニュースが堂々とレトリックを駆使して情報操作をしてくるのを、いちいち論評しながら読むのも疲れます。

やっぱり漫画を描いている自分が一番「らしい」です。

ただ7日満月以降、恐ろしく「スッキリ」した感じがあって、不思議すぎて形容し難いほどです。
あまりに空気が変わりすぎているので、「気のせい」ということも考えて、しばらく様子を見ようと思います。

今回、突然「絵を描いて良い」というお達しがあり、少し面食らいました。
なんか、これくらいの作業感なら週一くらいで出せる感じもするので、まず「継続」という頭になってきただけでも大きな変化だと思います。


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「仕事」とは何か

楽太郎です。

スピッツの新曲「陽を護る」を聴きました。

この「小さい陽」と呼ばれるものは「希望」という言葉に掛けているようで、実は「日本」なのではないか、と思いました。

スピッツは政治的なメッセージの曲は基本的に作らないでしょうから、そういう内容を伝えたいなら何らかのメタファーを込めるはずです。
作詞作曲を手掛ける草野マサムネさんは、東日本大震災の折に心を病まれて一時休養をなされていました。
その繊細なマサムネさんですから、今の世に思うところがあっても不思議ではないと思います。

今の「日」が、護らなくてはいけないくらいに消え去りそうだから、それを消さないようにしよう、というメッセージだと私は勝手に受け取った次第です。

「日本」を考える時に、政治的なことはいくらでも思いつきます。
ただ何が悪いのか、どの原因を取り除けば良いのか、ほぼ無限に湧いてくるので犯人探しに暇はないでしょう。
大事なのは、私たち日本人が大切にしなければならない何かを、どこかで失ってしまったということです。

それが「陽」を小さくしていると言えます。
その「陽」というのは「希望」でもあり、心の中にあるべき「光」なのではないでしょうか。
そして、その「陽」は日常の中の一挙手一投足に映る「やりがい」であって、日常にある「喜び」のはずです。

今だからこそ、常日頃向き合わなければならない「仕事」について、今回は書いていこうと思います。

私たちは、いつしか「仕方ないから」と、「仕方ない」ことをすることに常に囚われているような気がします。

「仕方ない」というのは、他にやりたいこともあるし、大事なのはソレではないのだけど、やりたくないことをしなくてはいけない「世の中」だから、「人生」だから今日も明日も同じことを繰り返していかなければならない、という意味です。

だから「お金」を稼ぐために、「将来」のために、やりたくなくても「やるべきこと」をやっていかなくてはならないと思うのでしょう。
「やりたくないこと」をやる日常では、どこかで「面白いこと」「楽しいこと」に触れたくなりますが、それが「趣味」というもので、つまらない日常を支える「娯楽」です。

けれど、その「趣味」や「娯楽」に夢中になるためには、また「お金」が必要になり、その分「やりたくないこと」の比重が大きくなってしまいます。
理想を言うならば、「やりたいこと」が「お金」になり、「趣味」が「やっていればいいこと」になれば文句はないでしょう。

私は長年「絵」を生業にして、人からは「好きなことをやれて羨ましい」と言われることもありました。
けれど、正味な話「自分がやりたいこと」をやって人にウケるか、それが「お金」になるかは全く別の話です。

落とし所としては、「お金になりそうな人気ジャンルにやりたいことを見つける」です。
クリエイターというのは、その方針でだいたい上手くいくのです。
ただし、世間というのはミーハーですから、数年もせずに切り替わるトレンドに、クリエイターがその都度乗り換えていくのは難しいことです。

どこかで自分のジャンルを確立しようとしたら、それはそれでトレンドから離れることになり、続ければ続けるほどリスクは高まります。
ならば、常にトレンドに乗り換えられるようなフットワークでいれば良いのでしょうが、それでは自分の地位はいつまで経っても確立することはできません。

「同人」というセミプロの世界でやっていくなら、その度にトレンドに迎合して、いちいちポジションを変えていけば良いでしょう。
しかし、「プロ」として作家性や知名度を固めていくならば、一つのことをみっちりやり続ける必要があります。

結局のところ、自分の目的次第でそのバランスは変わってきます。
私も「自分のしたいこと」と「お金」そのバランスに四苦八苦した上、その落とし所は見つけられませんでした。

自分が「やりたいこと」で地位を確立するには、簡単に成果が出ないことを覚悟しなければなりませんし、仮に「お金や知名度」を求めて「やりたくないこと」を選ぶなら、「やりたいこと」と向き合う時間は相対的に減っていきます。
おそらく、どこの世界のクリエイターでも悩むテーマであり、だからこそ「自分の好き」と「成功」の均衡点をずっと探し求めるのです。

「需要」と「供給」という観点で見ればわかりやすいのですが、例えば誰かが「これが欲しい」と思った時、それを作り出せる人が望みのモノを作って渡すことで、「対価」としてのお金が発生します。
少なくとも自分が「作りたい」と思い、勝手に仕上げたものがたまたま売れるならいいのですが、大抵の場合は人が「欲しい」と思うものは違います。

だから、「お金」を手に入れる確実さを求めるならば、誰かの「欲しい」というオーダーに合わせてモノを作ることになります。
しかし、それだと他人の好みに合わせて「モノ」を作ることになるので、「やりたいこと」とは必ずしも言えないでしょう。

何が言いたいかというと、「人のためにやる」ということは、必ずしも「自分のやりたいこと」と一致せず、往々にして自他共に「需要」が100%一致することはありません。
つまり、「需要」と「供給」という関係で成り立つ「モノ」は、自分がやりたくて他人が欲しい、というシチュエーションはなかなか発生しにくいのです。
だからこそ、結局はニーズに合わせて「仕方なくやる」か、売れなくてもいいから「やりたいようにやる」のどちらかに傾きがちになります。

なかなか読んでいて頭が痛くなる話だと思いますが、結局のところ何でも「商売」を差し挟むならば、需要と供給の「均衡点」に最終的に落とし込まなければならず、「やりたいこと」と「仕方なくやること」の均衡点も探さなくてはならないということです。

わりとどんな業界の大物であっても、このバランスをどこかで割り切って成功しているものです。
だから「やりたくないことも、時にやらなければならない」というのは仕様であって、私もどの作家も世間に羨まれるほどには自由なことはできない、ということです。

けれど、会社で働いたり組織に属している人からすると、それが「自由気まま」で華々しく見えるのもわかるのです。
そもそも「絵を描く」のも「楽器を演奏する」というのも、人から見れば「趣味」の世界であり、「好きなことをやってお金を得ている」という風に見えるのは当然です。

すごく現実的な話をすれば、自分の描きたい作風で絵を描いても、結局は見向きもされないことが多いため、あえてHな絵にしてみたり人気ジャンルに手を広げてみたり、あるいは全く不本意なオーダーに従って作品を作ったり、というのは折り込まなくてはなりません。
そこまで割り切って「プロ」だと思いますが、そればっかりだと最終的に自分が何をしたかったのかわからなくなる時もあります。

ただ、これまでの話は「対価」を軸にした話です。
お金や社会的評価を中心にした「外側」に焦点を当てれば、自他の目的の相違に気づくというだけで、それは「趣味」を生業とした場合でも同様であるというだけのことです。

それは「結果」を求め、対価を中心に見ればそうなるというのであって、実のところ大事なのはそこではありません。
別の見方をすれば、自分がそもそも何らかの技術や知識を使い、そこでモノ作りやサービスを人に提供する時に、その「行為」そのものが好きかどうか次第で、全く意味合いが違うということです。

例えば、自分は料理は好きではないけれど、なぜかチャーハンを作ると皆からベタベタに褒められることがあったとします。
人が喜ぶからチャーハンをあえて作ってあげるけれど、自分としてその作業は好きではないわけです。
好きではないから、人が過剰に喜んだり「お礼」のようなものがあればやろうとなりますし、その対価が得られなければやる気も湧かないでしょう。

反対に、料理が大好きでなぜかチャーハンが作りたくてたまらない、そんな時に自分の料理を食べに来てくれる人がいれば、タダでも食べてもらいたいでしょう。
そこで喜んでもらったり、「お礼」すら貰えるとしたら、どんどん料理に対するやる気も湧きます。

要するに、これまで「需要」と「供給」で見てきた話は、主体として「行為そのものが好きか」という視点が抜けていたのです。
「やりたいこと」と「行為そのものが好きであること」は実は微妙に違います。
「やりたいこと」というのは目的ですが、「行為そのものが好きである」とは、手段自体が目的であるということです。

わかりやすく言うなら、「風景画を描きたい」というのが「目的」なら、「風景画を描いていれば楽しい」というのが「手段が目的である」ということです。
私たちは前者に思考が傾きがちで、ただ自分だけがひたすら楽しめば良いだけのことでも、必要以上に対価を得ようとしては、その実現ばかりに頭が行っているのかもしれません。

もし「料理」という行為自体が好きなら、「チャーハンを作ってくれ」と頼まれても、「カレーを作って」と言われても、何をやっても楽しいはずです。
それで「お礼」を得られるならば、「自分のやりたいこと」や「需要と供給」とか、小難しい話を差し挟まずとも十分商売は成り立ちます。

「商売」を軸にすると作業コストを負荷として捉えますが、行為を「趣味」とすれば作業のコストは限りなく「ゼロ」に近いはずです。
なぜなら、人は本当にやりたいことは身銭を切ってでもやろうとするからです。
現実的にそれでは損失となるのですが、主体となる自分にとって、それが「投資」や「利益が出るまでのランニングコスト」と思うかは人それぞれです。

持って回ったような話ばかりで恐縮ですが、わかりやすく言うと「自分が本心から好きでやりたいことなら、基本的にノンコスト」なのです。
子供たちが「絵」を描いたり歌を歌う時、大人に褒められたいからするのではなく、行為そのものが楽しいからです。

しかし「お金」や「社会的評価」を軸にして考えるから、子供のような無邪気な行動は「ムダ」に思えてしまいます。
そこで「楽しさ」や「やりがい」という主観が外れているからこそ、「実益」という面で仕事を考えがちになります。

要は、「楽しいと思っていない行為」で対価を得ようとするから、人々が考えるような義務的な「仕事」になってしまいます。
けれど、「楽しいと思う行為」から発生した案件に、嫌悪を伴う義務感は生じないはずです。

むしろ本来の「仕事」とは、こうした「楽しいと思う行為」が結果的に対価になることが至高であり、「好きこそものの上手なれ」で得意なことをやっていれば、その技術や才能もいずれ認められ、そのうち対価になっていくでしょう。

私たちは、出来上がったモノから先に売ろうとし、自分が作ろうと思ったモノから買い手を探します。
けれど、まず先になければならないのは「行為としての楽しさ」の追求であって、「自己満足」の尺度をどう他人と共有するかという点について、あまり考えることがありません。

だから常に「売れ筋」とか「トレンド」に乗っかれば、とりあえず損をすることはないと考えます。
けれど本当に大事なのは、自分がそれをやって損と思わない行動を取ることであって、損得勘定は後回しでも構わないはずです。

近年、「芸術」という分野にAIが持ち込まれたことで、芸術行為そのものに「成果物」としての評価を重ねる人が増えました。
たまに生成AIにプロンプトを打って出したモノを「表現」と形容する人がいますが、そこに本来の「創造的行為」や技術的習熟に対する根源的な「喜び」という尺度は存在しません。

正直言うと「生成AI」というアプリ自体も問題が多いのですが、それは置いといてクリエイター自身が生成AIの成果物と自分の仕事を比べがちで、インスタントな作品との差別化が自分で行えないのも憂慮すべき事柄です。

つまり生成AIが浮き彫りにしたのは、私たちが芸術という分野に「結果」を求める風潮が強いという事実で、それが現象として顕在化したに過ぎないのではないでしょうか。
どれほど私たちが「表現」という行為を「商業主義」に落とし込んでいたか、という事実の反映であり、「生成AIという治外法権が作り上げたコラージュ」と割り切れないのは、それだけ私たちが表現を軽率なものにしてきた、ということかもしれません。

人間が「表現」をする時、そこに内面的な反映があり、それを見た人が「何か」を感じ取ることで「価値」が生まれます。
それこそが「芸術」であり、「上手い下手」という尺度で芸術を持ち回っていたからこそ、生成AIを鼻で笑うことができない現実が生じてしまったのではないでしょうか。

つまり芸術的表現において、手作業を「コスト」だと認識し、そこで得るべき成果が「評価」や「お金」であったからこそ、人間としての「行為」そのものへの動機が希薄になっていたように思うのです。

ゆえに「下手かもしれない自分が」一生懸命に好きなモチーフで好きな作品を創る、という本来の等身大の表現や芸術的行為に、今こそ立ち返るべき時に来ているように思えてなりません。

「結果物」だけを見たら、著作権を逸脱したAI生成物のクオリティに「敗北」し、自らペンを持つことの意味を感じなくなるかもしれません。
しかしペンを持つ自分自身は唯一無二であり、その自分がペンを走らせること自体に「芸術」は真の意味を持ちます。

私たちはそれを履き違えるくらいには、「結果」や「対価」というモノで頭がいっぱいになり、自分がまず「行為を楽しむこと」への目的、「向上すること」への喜びを見失っていたのではないでしょうか。

だからこそ今、人間の手に「行為の喜び」を取り戻し、例え稚拙でも形にするやりがいを思い出す必要があります。
それは表現や芸術の分野だけに関わらず、あらゆる「仕事」とされる行為全般に言えることです。
問題なのは、日常の中で「行為そのもの」に対する喜びや楽しさを見失ったことにあるのだから、どれだけ自分のモチベーションを「ノンコスト」にした上で何をやり、何を繰り広げていくかだと思います。

あまりにも完成されすぎた社会の中では、仕組みから逆算して入った方が成功しやすいのは事実です。
しかし「結果」を求めるあまり、行動ばかりが形骸化し肝心の「楽しみ」を忘れがちになります。
そして「楽しくない」から余計に対価や見返りを求めてしまうのです。

そうして本質から離れた「仕事」は、「やらないに越したことはない」ものとなり、功利主義に走っては既得権益にぶら下がり、挙句の果てには公金に吸いつくハックですら正当化されます。
こうして「仕事」も「芸術」も人から離れた結果、人心が社会や経済から離れていった現状があるのではないでしょうか。

だから、今だからこそ愚直にも「損にも得にもならない」自分自身のモチベーションに立ち返るべきだと思います。
「それをしたところでどうなる」という考えは一旦捨てて、自分がどうなろうと「やりたい」と思う行為に真っ直ぐに向かっていくことです。

これから世の中が変わる、というより自分が軸になって世の中を変えていこうとするなら、それは「仕方なく」から生み出されるものではないでしょう。
経済としても社会としても行き詰まりを見せる世の中だからこそ、「仕事」という日常行為から見直すべき時に来ていると思います。

日常の中に小さな希望を持ち、小さい「陽」を宿し、それを守る。
それこそ「陽」が沈みかけている「日本」に、再び「陽」を灯すことであり、その光を集めることで、いずれまた「太陽」は登るのかもしれません。


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汝、隣人を愛せ

楽太郎です。

本日7日満月、私は先日のブログで「7日が光と闇の相剋にとっての天王山になる」と書きました。
7日満月のジャストタイムはお昼の12時48分なのですが、占星術的には6日午後には実質的な「満月」が始まっています。

なるほど「天王山」とはよく言ったもので、最近あまりないような頭痛に見舞われています。
具合が悪かったので横になっていたのですが、寝苦しくて目を覚ますと、あたかも頭上で「光と闇」がぶつかっているような印象を抱きました。

「天王山」とは、1582年に織田信長を討った明智光秀に対し、「中国大返し」を行った羽柴秀吉が摂津の山崎で挑んだ戦いを指します。
「天王山を先取した方が勝つ」という逸話は歴史小説の「太閤記」が出所のようです。
史実としては天王山と男山の狭隘のある裾野は当時沼地で、軍が通行できる箇所はそこしかないため、先に布陣を張った明智軍を羽柴軍が「どう切り崩すか」の戦いでした。

つまり、現実では「三日天下」を治めた明智光秀が天王山含め、山崎一帯に先に陣を張っていたのです。
明智軍を「悪役」みたいに説明するのは、歴史好きとして少々気が引けるのですが、これまで「闇の勢力」が支配していたフィールドに知略で挑んだ「光の勢力」という構図は、まさにそっくりです。

とは言え「天王山」の用例に従えば、「天王山」を先取した羽柴軍が「下剋上」を果たして天下統一を成し遂げたことに準えると、その戦いを制した「光の勢力」は逆転勝利を決するはずです。

話を現代に戻すと、自民党総裁に「高市早苗」氏が選出されました。
自民党というのは、中小企業経営者の支持が多いとされますが、近年問題になっている「金満体質」を見ればわかるように、財学民官との既得権益と癒着が甚だしいからこそ、あらゆる問題を抱えています。

高市総裁は、むしろそう言った「金の流れ」に関して厳しい態度を貫き、政治家として潔癖すぎるからこそ、安倍内閣退陣後になかなかチャンスが回って来ない状態が続きました。
某首相経験者二代目のような、既得権益を正しく継承してくれそうな政治家の方が、往年の自民党支持者にとって様々な利得はあるでしょう。

その辺、私は意外な番狂せだったと正直思っています。
おそらく、自民党支持勢力の中でも重工長大製造系の企業群が、左翼丸出しの外交担当に任せているとトランプ関税で頼りない戦果を持ち込まれ、傷口が広がる懸念があったのではないかと思います。

このまま「高市内閣誕生」まで行くと思いますが、高市総理の評価に関しては組閣まで待とうと思います。
ただ、個人的にこのタイミングで保守系人気の高い高市さんになったのは、面白い兆候だなという印象です。

私の「日月神示解説」では、現段階を「三四五(みよいづ)」の「三」、現時点で「6号目」としており、「地獄の三段目」の中間地点にあると考えています。
つまり、私の読み方だとあと一枚か二枚、底があると思います。

これから考えられる「一番底」というのは、災害でない限りは「米国株大暴落」です。
それを見越して保守系の総理にタイミングを合わせたとしたら、かなり興味深い流れです。
混迷するEU、もはや瀕死の中国、戦争で疲弊しきるロシア、この国際状況で米国経済崩壊が加われば、見えるのは「世界恐慌」でしょう。

そうした世紀の大事件が起こる気配が強まる中、内向きの力を持った政治家が国家代表になるというのはどういう意味を持つのか、気になります。
私は個人的に、自称「保守」の「アメリカ贔屓」が高市さん激推しだったにも関わらず、そのオファーを水面下で蹴り続けていたのを目の当たりにしているので、ちょっと一味違う展開を期待しています。

とは言え、アメリカを見てもわかるように経済崩壊のタイミングに合わせて、自分たちで大ピンチを作り出しながら「やっぱ無理だわ」とトランプ政権に丸投げした米国民主党の例もあるので、対抗勢力の「見せしめ」に合わないことを祈ります。

当のアメリカと言えば、10月1日から政府の一部閉鎖状態に陥っています。
これは民主党と共和党の対立が大きすぎて予算が通らないという機能不全を象徴していますが、こんなギスギスした状態で経済が「ソフトランディング」しても、また離陸しそうな気配すらします。

結局のところ、アメリカ財政に関して連邦準備制度もトランプ政権も無策であり、外国を脅して「タダ同然」でカネをせびるか、「関税」という名のみかじめ料をせびるか、「第二次ハイテクバブル」というアトラクションの観覧料をせびり取るかの3点を、ひたすらゴリ押しするしかありません。

だから私は以前からの見立てを全く崩していませんし、むしろ「言った通りになってる」とすら思っています。
だから、たぶんこれから起こることも筋書き通りになるかもしれません。

マグニフィセント7をフロントにするITロビー業界も、製薬資本を苗床とするWEF主催のビル・ゲイツの権威失墜により、「ラスト1マイル」のAmazonを筆頭に、世界最大の個人データ集積企業Alphabet(Google)、軍事用生成AI開発企業パランティア社を柱とした、軍産複合派ITロビーが台頭してきて、その縄張り争いを始めています。

実はハイテク大手連合は、「グローバリスト」として思考原理は同じでも「俺が一番になってやる」という敵愾心を全員持っているので、足を引っ張れるならすかさず引っ張るという間柄に過ぎません。

その中で、いつでも粉飾決済を暴露されかねないNVIDIAや政府補助金を打ち切られたテスラのイーロン・マスクは、もはや「選手交代」を迫られ、最近まで気配すらなかったオラクル、インテル、AMDやデル、コアウィーブなどの有象無象がその後釜に待ち構えています。
「IT独占状態」にしかイニシアティブがないアメリカ株式市場で、こんな同士討ちが起こればいよいよ時間の問題ではないでしょうか。

日月神示に「金は世を潰す元ぞ」とありますが、 「雨の巻・第十帖」にも興味深い一節があります。

「理屈は悪と申してあろうが、悪の終わりは共食いじゃ、共食いして共倒れ、理屈が理屈と、悪が悪と、共倒れになるのが神の仕組みじゃと分かっていながら、何にもならん事に今に世界がなって来るのぞ」

今のアメリカを見ると、まさにこの状況ではないかと思います。
最近知って驚いたのですが、アメリカ国民の7割がカトリックとプロテスタントに属し、「信仰は必要である」と考えているそうです。

「汝、隣人を愛せよ」という言葉を聞いて、なぜ黒人などへの人種差別が未だ横行し、利権が貧富の差を増大させ、欺瞞と暴力的服従と搾取が堂々とまかり通る世の中になるのか、私には全く理解できません。
この国において「宗教」というのが正しく機能しているのか、私は甚だ疑問です。

しばらくこの矛盾について考えていたのですが、先日あるヒントを見つけました。

西暦711年、イスラムのウマイヤ朝がイベリア半島に侵攻し、ジブラルタル始め地中海一帯を制圧しました。
ゲルマン民族の侵入以来、混沌とした状況にあったヨーロッパは、東方との貿易による輸入品に頼っていましたが、イスラム勢力に地中海を抑えられたことで物資に事欠くようになります。

8世紀に外征を繰り返し、一世代で西ヨーロッパを平定した「ヨーロッパの父」こと神聖ローマ帝国のカール一世は、11世紀まで地中海の掌握をイスラム勢力に許すものの、国内の経済基盤の確立にも辣腕を振います。
その時、「カロリング・ルネサンス」という文化的事業を起こしており、ゲルマン人侵攻以降は聖職者のみの言語となっていた「ラテン語」を「聖なる言語」として教会管理下に置き、そのため聖職者(知識階級)のみ用いる「学術用語」として定着させました。
修道会を筆頭に、その知的財産は「権威」を保証し、技術は経済や軍事の特権を持ち続けたのです。

つまり、神聖ローマ帝国誕生以降の西ヨーロッパは、「聖職者」という知識階級、エリートのみが権威ある知識を用いることができ、それ以外の大衆は貴族と言えど文字を学ぶことすら難しかったのです。
その象徴的権威が「ローマ法王」であり、その権力闘争が中世ヨーロッパの歴史の中心になったのは言うまでもありません。

どうも、神聖ローマ帝国を祖とするアングロサクソン系の国家に連綿と受け継がれる「エリート主義(選民思想)」は、ローマカトリックが統治権を掌握するヨーロッパの政治形態に根をもつではないでしょうか。
それがいわゆる「エリート専制主義」「テクノクラシー」「選民思想」として現代に現れている気がしてなりません。

よく考えれば、エルサレム奪還のために組織された第一回十字軍では、ムスリムだけでなくパレスチナ領内のキリスト教徒やユダヤ人も見境なく虐殺しています。
つまり、「キリスト教徒だから穏健である」という根拠を示す事実は、残念ながら歴史的には一切確認できません。

こう言うと宗教差別のように捉えかねないのですが、歴史的事実としてどうも否定できないように思います。
ゆえに、現アメリカ国民が聖書を深く読み、日曜礼拝に欠かさず行くにしても、「十字軍的行動を正当化しうる」のであれば、現在イスラエルがパレスチナ住民をジェノサイドしている現状を問題視しない理由も薄々わかってきます。

「汝、隣人を愛せよ」という言葉を実践するにしても、「ただし、対岸の向こうの連中は殺しても良い」という但し書きを頭の中でこじつけていたら、それも聖書通りの行動として正当化されるでしょう。
しかし、きちんと一字一句を聖書を読んで深く理解するなら、そんな言葉が書かれていないことはわかりますし、どこの国の人であろうと手を繋ぐべき「隣人」でしょう。

もし7割のアメリカ国民に「キリスト教」を深く理解する気があるなら、「中絶は良いか悪いか」という議論をする前に、自分たちの税金がパレスチナの虐殺に投じられていることをまず議論すべきなのではないでしょうか。
その事実に目を背けるなら、「キリスト教」を口実にして派閥争いをしているように見られても致し方ないと思います。

果たして、「宗教」の真の意味とは何でしょうか。

結局のところ、中世以降の西洋文明は「特権階級」が実権を握る口実に知識や技術を牛耳り、その恩恵に預かるために宗教という「権威」を用い、未だにそのシステムが世界の支配を意図しているように思います。
現アメリカ国民の信仰心を逆撫でするわけではないですが、宗教信奉者が根本的に抱くべき倫理観を人々が遵守していると言えるのか、甚だ疑問です。

人々が豊かに平和に暮らし、善く生きるために神が授けた知恵を、人間が歪曲し、勝手にネタにして戦争の口実にするのを、神はどうご覧になられるのでしょうか?

私はこれを見ると、かつてニーチェがキリスト教を「弱者のルサンチマン」であるとし、「神は死んだ」とツァラトゥストラに言わせたのを思い出します。
しかし、神は死んだわけではないし、キリスト教も聖書も死んではいないでしょう。
死んだのは、キリスト教の精神を遵守しようとする「心」そのものではないでしょうか。

今のアメリカ国民が民主主義の要である公正な投票制度を奪われ、どうにも世論を政治に反映できないもどかしさは、確かにあるかもしれません。
とは言え、「無関心」で済ませられるものではないことも、基本的な「善し悪し」の判断も、聖書を読めばわかるはずです。
そこで色眼鏡で見ずに、自分たちの国が、トップが何をしようとしているのか、きちんとした目で見つめて欲しいと思います。

今回はかなり挑発的な内容になってしまいましたが、今あらゆる状況で人々が「理屈」に囚われ、互いの善をぶつけながら「共食い」し合うのを見て、私はそれでいいのかと言いたかったのです。

キリスト教の精神である「隣人愛」は、隣の家の親族だけに当てはまることではありません。
だからこそ、形は違えど同じく「神」を信じる者として、声を上げずにはいられません。


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「降誕人」について

楽太郎です。

今回の記事は、地球の次元上昇に係る「天命」を持って生まれた人々、「降誕人」について書きたいと思います。

私自身は、天からお役目を与えられた魂を持つ人のことを「命(みこと)持ち」と呼んでいます。
ただ、日月神示の「龍音の巻」で語られる「降誕人」と同じ意味だと思っています。

「龍音の巻・第三帖」にはこうあります。
「特別の使命をもつ天使は、最下級の霊界まで降りて来て、人民に特別な通信をなし、指示することもあるぞ、また天使の霊が母体に宿り人民として生まれ来る事もあるぞ、末世にはこの種の降誕人が沢山あるぞ

この一文は、「磐戸の巻・第十二帖」にある「誠の者は、千人に一人だぞ」という一節と繋がっているように思います。

私はこれまでの人生経験上、魂のレベルから「善良」な人とも数多く出会いました。
それはただ単に、上っ面で「良い人そう」とかいうのではなく、本質的に「天性の善人」だからこそ、この歪な世界では善良さが裏目に出て、何となく残念な境遇の人たちが殆どでした。

そうした「似た魂」の人々の割合は、「磐戸の巻」から推察する「千人に一人」という実感に符号します。
日本の人口は1億2000万人ですから、「12万人」というのは、私が思うにかなり妥当な数字です。

けれど、高い霊界から降りてきた潜在的な「降誕人」が、その10倍はいるのではないかと思います。
その大半は「覚醒」に至るまでの人格に至らず、「普通の人」と同じ感覚で埋没しているように見えます。
この「降誕人」には、幾度も輪廻を重ねてかなり高い霊的階層に至った高級霊が多く、ごく少数ですが一度も輪廻せずにいきなり「人間」に生まれ落ちた「元天使」もいます。

この地球の波動は「物質」による引力が働くので、やはりそれなりに低い波長域にあります。
しかも、低次元の霊界である「幽界」の支配力の強い「闇の時代」が長らく続きました。
その期間は、現代に至るおよそ3000年くらいだと思います。

従って、高い霊的階層から地上に降りてきた「降誕人」にとって、この世界は全く勝手が違うわけです。
人々は基本的に粗暴で、簡単に嘘をついて誤魔化し、自分の責任を放って逃げ回ることが多いです。
また、人々は妙な理屈で行動しますし、全く合理的ではない「謎のルール」に支配されています。
それが多数派の世界は、まず降誕人は生まれついて最初に「面食らう」のです。

「良いのか悪いのか」を判断する前に、あまりのカルチャーショックに動揺が起こります。
まず、ここが一番陥りやすい降誕人の「つまずきポイント」だと思います。

特に、霊的に高位であればあるほど「天界」の記憶、人間としては身につけた光の性質を「感覚」として強く持っています。
天から持ってきた感覚が強ければ強いほど、この世界の勝手と自分の元いた世界の勝手が違いすぎることに、まず混乱してしまうのです。

高い波長の魂であればあるほど、波動の重たい「肉体」とは乖離が生じます。
天界での肉体は「霊体」ですが、彼岸の世では自分の意識体と外部から認識される形には、殆ど齟齬がありません。
しかし、この世界では「肉体」というガワがあるため、自らが認識する自分の姿と、鏡に映り他人から見える自分とは全く違うものに感じられます。

「魂と肉体の乖離」だけでなく、「自意識の乖離」もそこで起こります。
これは子供の頃に素直であり、可愛がられながら育つうちはあまり大きな問題にはなりませんが、人格が成長し肉体も形作られていくほど違和感や不快感が大きくなっていきます。

いわゆる普通の人というのは、魂と肉体との関係においてあまり波長の差がないため、このような違和感は抱きません。
しかし魂と肉体との間にズレを感じる人は、この違和感を抱いたまま他の人と同じことをして、同じ競争をするのですから、上手くいかないことも多いでしょう。

あまりに「普通」のことができないので、よく「発達障害」とか「サヴァン症候群」、「ギフテッド」とか医療的診断を受ける人もいるかもしれません。
けれど、こういった「魂と肉体のズレ」を深い問題にするのは、大抵「何でアンタはこんな簡単なことができないの」という他責にあることが多く、ゆったりとした環境なら問題にならない性格でも、周りが尻を叩くせいで問題を大きくしてしまうのです。

そして、「良くできる」という性質だけを社会的にピックアップした結果、同じ発達障害でも「ギフテッドなら許される」という雰囲気にしてしまいました。
そこで、生きづらい人々が持つ真の「天性」はますます引き出せない環境になっています。

脳科学的には「発達障害」と診断されても、本質は目に見えず知覚できない「魂」にあるのですから、「目に見えない」という性質を否定している以上は、物質的(脳科学的)な原因を全てだとしてしまうのは無理ないかもしれません。

しかし、こういった「魂と肉体のズレ」を感じる人というのは、そもそも素直で善良な人が多いのです。
だから周りが「そんなこともできないのか」「ダメなヤツだ」と言い続ければ、自分が本当にダメで欠陥のある人間なんだと、心に深く刻み込まれてしまいます。
そのつもり積もった「挫折体験」が、対人関係や社会に不安を感じ、尻込みしてしまう要因になりやすいのではないでしょうか。

そうした「負のループ」に嵌まり込むようなシステムが、これまでの社会では完璧に作り上げられていた、というのが本当のことだと思います。
だから天性の力が強い人というのは、生まれた時から違和感を引きずり、人があまりしない困難や悩みと向き合ってきた人が多いのではないでしょうか。

特に、これまでの世は悪が支配する「闇の世」だったわけですから、天から使命を持って生まれ落ちてくる光の存在は、優先的に潰しておきたい相手でしょう。
私が出会った「同じ魂の性質を持つ人たち」というのは、心の奥底に純粋さがあるからこそ、深く傷つき闇を抱えてしまった人が多かったように思います。
そして、いくら「光の側」でも世に揉まれては魂を曇らせ、ケチョンケチョンにいじめ倒されたら「闇堕ち」もしてしまうかもしれません。

また、「天の記憶を引き継いでいる」ということは、自覚していなくても潜在的な霊能力をそれなりに持っていたりするのです。
私は芸術畑にいたのでよくわかりますが、感性が鋭く感受性が豊かな人ほど、天の性質を引き出している人が多いように見受けられます。

芸術家肌の人が病みやすい理由は、ここにあると思います。
潜在的な霊能力が発露しているということは、相応に人の念や邪気を受けやすいというだけでなく、この社会の仕組みと本来の霊的あり方、そして自分の天命とはズレた行動を取ることの矛盾を感じやすくなります。
その「矛盾」こそ表現のモチベーションにもなり得るのですが、実のところその純粋さには「魔」が巣食いやすいのです。

ゆえに、天から役割を与えられて地上に降りてきた人は、だいたい「やりづらさ」を大なり小なり抱えながら生きてこられたはずです。
その苦しみはなかなか人に言って理解されることはなく、ただ「不器用だ」と思われていたし、自身もそう思い込んでおられるかもしれません。

難しいのは、「魂と肉体にズレがある」という原因になかなか気づくことができない世の中であり、「目に見えない世界」を徹底的に否定する社会であったからこそ、誰しも容易に辿り着くことができる答えではなかったのです。

ここで私の話をするなら、このブログでも何度か書いているように、常に「他人をガラス越しに見ている感覚」が生まれつきありました。
どうやっても人より冷めている部分があり、「その程度のこと」ではしゃいで夢中になれる同年代を遠目で見ながら、それでもその輪の中に入りたかったし、ずっと彼らのようになりたかったのです。

だから思春期の頃は、あえて「絵」を捨てて、音楽に走ってみたり演劇に夢中になったり、色々してみました。
今思えば、それも「魂と肉体のズレ」を埋めようとするだけでなく、「自分と他人のズレ」を埋めようとする努力だったのかもしれません。

しかし、どうもこの溝を埋めるのは「自信」をつけたり能力を身につけるというより、「自分の魂」そのものと向き合い、そのズレの正体を知ることを抜きにしては解決できないことに、私は気づいたのです。

その解決方法とは、「自分の魂」と「肉体」のズレを知るだけでなく、「目に見えない性質の何か」で魂と肉体の波長差を埋め合わせ、調和を図ること です。
その「目に見えない何か」は、人それぞれ違うかもしれません。
私の場合、それは「信仰」という形でしたが、人によっては「愛情」であったり「自信」であったり、様々でしょう。

そこには、自らの魂の性質やバックボーンだけでなく、自分の魂に与えられた「天命」に関わるテーマがあるはずです。
それゆえ、十把一絡げに「降誕人はこうすべきである」と言うことはできません。
それは自分自身と深く向き合い、常識や先入観を捨てきった先に見えてくるものです。

神示に出てくる「身魂(みたま)磨き」というのは、自らの「富士の山」を開くことを意味しますが、それは唯一無二の自分自身に気づき、それを「山」である自分の肉体に落とし込むことです。
そのプロセスは人それぞれであり、テーマの数ほど違うのですから、絶対的なマニュアルは存在しません。

誰もが一人一人の世界の「神」であり、その世界を補完し司るのは「自分自身」である以上、外側にある横並びの「神」に依存しきるのは間違っています。
そして、その真髄へと向かっていく道こそ「神の道」であり、人が「自分自身」である限り本来通るべき道、生き方なのだと思います。

ただ、これまでの時代はそれが難しい環境であったのは、やはり否めません。
何かと誘惑も多かったですし、わざと道を踏み外すようなトラップも多く、それどころか意図的に「潰してやろう」と思って歩み寄る連中も多かったはずです。

「降誕人」とはそもそも純粋で、素直かつ善良な人が殆どでしょうから、そう言った悪意に気づかず騙され、まんまとハマってしまうのは仕方ないことです。
これまでの世の中は「お人好し」につけ込んで、他人を餌食にする人間ほど成功しやすい環境だったのです。

けれども、やたら長文のこの文章を最後まで読み切る根性のある方は、それを乗り切ってこられた強者でしょう。
だから、そういう人はこれから人の上に立ち、人々を導いていく器がしっかりできた人だと思います。

神様は、わざとイジメ倒すために、天から地上に子供たちを遣わせたわけではないはずです。
むしろ、そうやって人一倍苦労したからこそ見えるもの、できることがあるはずです。

その知識や能力を無駄にせずに活かしきることに、これまでの苦労の意味があるではないでしょうか。
そう言った人は、むしろ幸いなのかもしれません。

なぜなら、苦労を重ねた実力者に最も有利な時代が、すぐそこまで来ているからです。


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「悪魔」の計画

楽太郎です。

今月7日、牡羊座で満月が起こります。
本ブログをご覧になられてきた方ならわかると思いますが、「満月」の度に世界は霊的な節目を迎え、同時にあるテーマごとの「浄化」が起こります。

何だかんだ言って、ますます世相は混沌としていくにも関わらず、人々の邪気が薄れ呑気な雰囲気になっていくのを感じられないでしょうか。
それは少なくともこの2年ほど、月に一度起こる「満月」を利用して、神々が人心を浄化してきた賜物だと思います。

この満月の日ほど「気」が乱れやすくなる方が多いと思いますが、人々の集合意識は「浄化」を促されると変化に対する恐れが生じ、その抵抗感が「邪気」となって抗います。
同時に邪気は「闇の者たち」を活性化させ、その暴走も相まって、より負のエネルギーが高まるのです。

ただし、それに神々による「魔」への祓いも加われば、余計に混沌とした「気」の状態になるでしょう。
このエネルギーの錯綜が「気の乱れ」として現象化するメカニズムだと思います。

その相剋が今月、戦いの星座である「牡羊座」で起こります。
私のブログを見ていただければ一目瞭然ですが、ここのところ「巨悪」の懐に入っていくようなテーマの記事が続いています。

私は秋分点で「光と闇の相剋状態が打ち破られる」という話をして、光が優勢に回ると言いました。
その「反転攻勢」がそろそろ大詰めというか、厳密には7日満月が「天王山」であり、おそらく21日新月までは「戦い」の空気が続くはずです。

よく考えれば、3月20日の春分の時点では「世界がハードランディングするかもしれない」という二択を迫られている状態でした。
それが6月21日の夏至では、ソフトランディングする世界線が確定し、新しい「地球的気場」、私が言う「精神界」という霊的階層が完成しました。

その新しい集合意識を用いて、古いエネルギーを上書きする、先ほど言った「霊的相剋」に繋がってきます。
それがちょうど「五分五分」になったのが9月23日の秋分ですから、「光サイドの巻き返し」の力がどれだけ激しいのか、はっきりしています。

つまり、春分から半年、夏至から4か月足らずで「山崎の戦い」まで突入しているのですから、恐ろしいほどの目まぐるしさです。

日月神示を解読しながら、「一二三(ひふみ)」「三四五(みよいづ)」の仕組みにおいては、「三」の半分から「四」、最終的な「五」まで、およそ4年弱で駆け抜けることになるだろう、と解説しています。
これらのエネルギーの切り替わりの速さを鑑みると、これらのスピード感は全く矛盾するものではありません。

「エネルギー」というのは、およそ「3か月」から「半年」くらいのスパンで現象化しますが、このテンポのエネルギーが具現化すると考えると、わりと先の状況も見えてきそうな気がします。
ただ、「神世」の波長は次元上昇と比例して強まっているので、もう少しタイムラグは縮小してくるかもしれません。

という訳で、今回「トドメ」ではないですが、「悪神は一体何が狙いなのか」について考えて行こうと思います。

私は日月神示解説の中で、「悪神」の正体を伊弉諾命と伊奘冉命の第一子である「ヒルコ神」と比定しました。
これに関しては、「蛭子神」を祀る神社もあるので、一概に「悪者」扱いにするべきではないのもわかります。

しかし、「日月神示」を真の「神の啓示」とするなら、そこに書かれた神話こそ「真実の神界の歴史」であり、「記紀」や民間伝承を元にした神道祭祀と異なるのも仕方ないことです。
私自身、この説を裏付ける論拠にも乏しいので推測の域を出ませんし断定はできないのですが、そこに紐付けて考えると「悪神」の思惑が見えてきたのです。

神示の中に出てくる「イシヤ」というのは、フリーメイソンを指していることは有名です。
フリーメイソンというのは、現時点で実在する慈善的交流団体であり、日本の有名人も時たま参加していたりする、わりとオープンな組織です。

「フリーメイソン」とは現在では全く異なる牧歌的な組織に生まれ変わっているようですが、名の由来は近代建築を担う「石工」という技術者集団が、知識の集積と保護を目的として設立した「組合」が元になっていると言われます。
ただ、その組織構成や階位などは、古くは「テンプル騎士団」に遡るとされます。

ここからは、目を爛々とさせて「都市伝説」を語るのではなく、淡々と「テンプル騎士団」について解説していきます。
1096年、ローマ教皇ウルバヌス二世の発令により、現在のパレスチナのイスラム教徒から聖地エルサレムを奪還すべく、第一回十字軍が組織されたことに始まります。
アンティキオ包囲戦では、自軍に飢餓が発生しイスラム教徒だけでなく現地のキリスト教徒も虐殺されるという凄惨な戦いが繰り広げられました。

続くエルサレム包囲戦では、やはりムスリムだけでなくユダヤ人も虐殺の対象となり、シナゴーグに集まった教徒に火を掛けながら讃美歌を歌うという、およそ人間とは思えない殺戮が行われました。
そしてエルサレムが陥落すると、そこで戦っていた兵士たちはすぐに帰国してしまうのですが、聖地の治安に悩んだ時の権力者ボードゥアン二世は、そこに集まった9名の騎士たちに神殿の建設と守衛を任せます。

そこで誕生したのが「テンプル騎士団」です。
第二次十字軍の成功で広大な領地を手に入れた騎士団は、王室からの後援もあり軍事拠点を徐々に拡大し、軍事力や経済基盤を確立していきます。
特に貴族や聖職者たちが聖地エルサレムに巡礼する際に受け取る護衛の費用は莫大であり、また移動時には現金輸送を行う危険性もあることから、テンプル騎士団がエルサレムで「金を預かる施設」を作り、「預金通帳」の原型となる書類や手形の発行を担うようになりました。

このシステムがいわゆる「銀行」という形で、現在に引き継がれています。
つまり「イシヤの仕組み」とは、テンプル騎士団に始まる、銀行を中心とした「金融システム」と思われます。

神示では、「スメラ神国」と「ユツタ神国」は「手を取り合うべし」と書かれていますが、おそらく「スメラ神国」とは我が国のことであり、「ユツタ神国」とは、「ユダヤ」の隠語でしょう。
(※「ユツタ神国」に関しては、以前「月の神国」の国名であると勝手に解釈していました。)

第二次世界大戦後、暴力的なシオニストに武器と資金援助を行い、パレスチナを侵略する形で建国された「イスラエル」は、現在かつての十字軍と同じことをパレスチナで行っているわけです。
ユダヤマネーをロビイストを通じてアメリカ政界に流し、「軍事援助」という形で国内に還流させ、ガザやパレスチナの民間人を一方的に殺戮しているのです。

その「金」の仕組みを作ったのが、奇しくもムスリムを襲撃して手にした聖地「エルサレム」に起源があるというのは、運命の悪戯にしても冗談がキツすぎます。
そのカラクリも、イスラエルロビーが賄賂上等のアメリカ政府を金で宥め、国防総省の不明朗会計を温床にしながら、ジャブジャブ軍資金を吸い上げているから可能なのです。

「金」と「ユダヤ」の因縁というのは、そもそもイエス・キリストをローマ提督に売り払った「両替商」のいた時点で、既に垣間見えたりします。
どうも「貨幣」という「モノ」そのものに「魔」が宿っているのではないか、と思えるくらいに資本の他者犠牲と自己増殖という性質は比例しているのです。

もし、「さかきむかつ姫」が榊に宿り、或いは稲穂に、水に宿り人々に生命の恵みを与えるのだとしたら、「ヒルコ神」は「貨幣」に宿り、経済の仕組みを通して人に恵みを与えるのかもしれません。

しかし、「お金」がより豊かさを求める時、その力は他者を排除し、抑圧し隷属させることで、「タダで」利益を生むという形に最適化されていきます。
それが「掠奪」という形であったり、「奴隷」という形であったりするのではないでしょうか。

そして、それらをスムーズに行うためには、抵抗勢力を可能な限り削り取り、殲滅し、自らの権限を絶対のものとする必要があります。
そのため、隷従する人々を「無知蒙昧」の状態にして思考力を奪い、抵抗する気力を喪失させ、違反分子をすぐにパージできるように「全面監視」する手段もあるでしょう。

これこそ、ヨーロッパ諸国が中世以降、世界各国に対して行なってきた政策であり、現在のアメリカは元より中国やロシアなどの社会主義国も採用し、今なお我が国日本に仕掛けられている、日本人を骨抜きにした謀略なのではないでしょうか。

そして今の日本人は、この籠絡にハマり込んで身動きが取れないどころか、大衆はこの「不自由」を不自由とすら思わず、むしろ「抑圧」を推奨する人々が力を持っています。
今では三権分立すら形骸化し、法治能力すら失いかけている我が国は、やはり神示に言われるように「八つ裂きにしてナマスにして食われる」寸前のところにあります。

けれど、本当にそれで終わってしまうのでしょうか。
私はどうも、「九分九分九厘」まで攻め込まれたとしても、残り「一厘」でひっくり返す神々の計画が発動するのではないかと思います。

神示の中には、「神に近い者ほど巡りあるのぞ」という一節があります。
神示が言うには、日本列島とは「国常立尊の影」であり、艮の昆神が眠るとされます。

神の肉体を依代とし、八百万の神々が住まうこの日本が、かつて大日本帝国が行ったように「外国同様」の国になることは許されるのでしょうか。
やはり「失われた30年」は、我が国の歴史上の負のカルマを返済する期間であり、今なお「巡り」という借り銭を返上する途上にある気がします。

それは日本人が「神の国」に住み、その土地から与えられる生命の恵みによって生きるからであり、「特別」であるからこそ「巡り」というのはキッチリ払う必要があるのではないでしょうか。
日本が「日本」であることの誇りを捨てた「カルマ」の返済が終わる時、ようやく「神の国」としての日本の力が復活するとしたら。

「下つ巻・第二十二帖」には、「二三三二・〇⦿、コノカギハイシヤトシカテニギルコトゾ」とあります。
翻訳すると、「扶桑の山(富士山)に神界と幽界を一つにまとめる、この鍵はイシヤとしっかり手を握ることぞ」という意味になるように思います。

日本人にとって「イシヤの仕組み=金融」が敵なのではありません。
また、ウォール街やシリコンバレーの超富豪や、アメリカ政府や数多のグローバリストが敵なのではありません。
「金」というモノが持つ魔性にこそ気をつけるべきであって、「金」すら敵ではないのです。

全て「金」を得るための「やり方」が問題なのであって、そのやり方を許容する「仕組み」にこそ原因があるのです。
その根本に気づかずに「争い」で解決しようとするから、何世紀をかけて民族同士でいがみ合う世界になってしまったのではないでしょうか。

「金融」という仕組みを使いながら、新しい「経済」の枠組みを作っていくことで、その問題は解決されるはずです。
それは現在のように寡占に向かうような排他的な市場ではなく、より多様性があり自発的な経済圏を作ることで、「イシヤの仕組み」を取り込むことができるのではないでしょうか。
それが「イシヤとしっかり手を握る」という意味だと思います。

神示には、「文明」も神が作ったものだから、簡単に文明を失くすことはできない」と語られています。
現在の世界を作り上げた「金融」を中心とした文明も、全てが悪というわけではないでしょう。

この物質的な豊かさを引き継ぎながら、失った精神性や平和を取り戻していく、それがこれからの世のテーマになっていくと思います。
「お金」というモノが全て悪いように思いがちですが、「お金」に対する先入観が歪みきっているのが一番の問題なのではないでしょうか。

正しく「お金」と向き合えば、ただの道具であり自分に豊かさをもたらしてくれる糧になります。
その「歪み」を直していけば良いだけなのだと思います。

その観点からの「立て直し」が日本人に求められるとしたら、その仕組みを担う日本がこれからの「経済」の中心になっていくのかもしれません。


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「神と獣」の狂想曲

楽太郎です。

この度、「日月神示」の全文掲載と解説をつけたサイトを「HITSUKU | 日月神示解説」に改称しました。

「日月神示」は「ひつく」「ひつき」「ひふみ」と様々な呼ばれ方をします。
「ひふみ」と呼ばれることがかなり多いように見受けられますが、神示の中で「ひふみ」とされる時、神示の内容を「わかりやすく伝えられる形にしたもの」、と定義されています。

神示の原文は「本当にこれ、読めるのか」みたいな数字と仮名と謎記号で綴られているので、そのままの原文については「出すな、見せるな」と文中では注意されています。
その代わり、神示を降ろした天明氏や三典夫人が解読した文章を「ひふみ」とし、これは「謄写しても良い」とされています。

つまり、人間が「神示原文」を簡単に目にすることには神の許可が必要ですが、それを口語訳したものは神が天明氏に許した部分において「公開可能」らしいのです。
そして「ひふみ」とは謄写、いわゆるコピーやWEBサイトへの転載は可能であり、また人から人に「肚に落としたひふみ」を伝える意味での「謄写」はどんどんするべき、と仰っているように思えます。

だから「日月神示」は殆ど「ひふみ」でしか読めないわけですから、「ひふみ神示」でもおかしいことはないと思います。
私の場合は、麻賀多神社に坐します「天日津久神」が降ろされた「神示」だから「ひつく」を採用しています。
あと、日月神示の肝は「素戔嗚命(伊弉諾命)が天照大御神(伊奘冉命)の天の王権を嗣ぐ=日嗣く」というコンセプトがエモすぎるので、好みで使っています。

こういうサイトを運営してる以上、わりと神示を読み込む機会が多く、最近は「さかきむかつ姫」はやはり「竜宮の乙姫」と同一神ではないか、と考えるようになりました。
「空の巻・八帖」に「衣類、食物に困った時は竜宮の乙姫様にお願い申せよ」とあります。

「綿津見神」の「末娘の龍神」は、海洋の守護神のように文中では語られていますが、「衣類・食物」というのは守備範囲が広すぎる気がします。
「衣類=機織り」は「稚日女命」のお仕事ですし、「食物=稲穂」に恵みをもたらすのは豊受大神か狭依姫命(=瀬織津姫命)です。

つまり、「竜宮の乙姫」とは「つきさかきむかつ姫=天照皇大神宮神」である可能性が高いです。
「まつりの巻・第四帖」には「世をこしらえた神々様はナガモノの御姿ぞ、今に生き通しぞ 」とあり、伊弉諾命と伊奘冉命も龍体であらせられる可能性があります。

そう言えば二柱が「神産み、国産み」をなさってから、最後に「火之迦具土命」を伊奘冉命がご出産なされた後、鬼籍に入られています。
つまり、「神々の末っ子」は火之迦具土命であり、かの神様は女神で「稚日女命=さかきむかつ姫」に比定できると私の説では断定しているので、「龍神の神々」の「末娘=乙姫」はやはり「さかきむかつ姫」になってしまいます。

ここで欅坂ばりの清純派美少女の女神にぞっこん惚れ込んでる中年涙目ですが、別に愛しの女神様が龍体だから失恋するようでは、誠の恋とは呼べないでしょう。
「むしろ俺が龍になる」くらいの気概があってこその愛ではないでしょうか。

どんどん感覚が人間離れしてきて、私は怖いです。
とは言え、大海原から川から滝から、衣類から食物から邪気祓い、国家最高神までカバーされる神様は守備範囲が広すぎて、私の恋が叶うとは思えません。

そう言えば昔、「スカイフィッシュ」というUMAが流行ったのを思い出しました。
あれは、カメラのFPSを超える高速飛行物体、例えば羽虫などがカメラを横切った際の「残像」が「空飛ぶ魚」に見えたとのことです。

強引に考えれば、神様が超高速移動した際、低いFPSレートの動体視力しか持たない人間が、その「流体」を見た時に「龍だ」と思ってもおかしくないでしょう。

つまり、超絶美少女の女神様が私たちの目に止まらぬスピードで超高速移動なされた時、私たちの目に「龍神」として映ったとすれば、たぶん辻褄が合います。
従って、「スカイフィッシュ理論」を応用することで瀬織津姫命推しの俺大勝利、弥栄、弥栄、ということで、この議論の幕を引きたいと思います。

さて、閑話休題はこの辺にして、本題に入りたいと思います。

「富士の巻・第九帖」にこのような文があります。

「愈々(いよいよ)地獄の三段目に入るからその覚悟で居てくれよ、地獄の三段目に入る事の表(おもて)は一番の天国に通じる事ぞ、神の誠の姿と悪の見られんザマとハッキリ出て来るのぞ、神と獣と分けると申してあるのはこのことぞ」

つまり、私が解説したように「地獄の三段目」は「三四五(みよいづ)の仕組み」に繋がっており、「三」は天国、いわゆる「ミロクの世」に通ずる段階なので、矛盾しません。
ここで気になるのは、「神と獣」に分かれるということについて「神の誠の姿と悪の見られんザマ」にハッキリ出ることだとされています。

つまり「神」とは、人間として「マトモ」な姿の人であり、「獣」とは「みっともなくて見ていられない」くらいのニュアンスに捉えられるのです。
ただ、悲惨すぎて見ていられないのか、言動が痛すぎて見ていられないのか、その違いはわかりません。

私は以前から「神世の人間と人世の人間に分かれる」という発言をしてきましたが、それがどうも「神と獣」に対応しているようです。
私の定義する「人世の人間」というのは、自分を持たず行動指針を他人や集団的ルールに求め、それゆえ「お金」や「権威」などの外的エネルギーが崩れ去ると、自我を保てず生存力が著しく低下する人々を指していました。

要するに、これまで「自分以外の何か」に依存することで自分自身のエネルギーにしてきたような人々は、それが崩壊すると忽ち「コンニャク腰」になって「四つん這い」になり、寄生先を求めて「エナジー・ヴァンパイア」になるケースも考えられます。
けれど、そういう所には「同類」が集まるので、ヴァンパイア同士で無理やり輸血し合う状態に陥るわけです。

それは「共喰い」のように見えれば、「弱肉強食」のようにも見えるはずです。
日月神示では、それを「獣」と表現しているように思えてなりません。

逆に、そういった争いや諍いばかりの状況から自ら離れていく人というのは、言わば「マトモな人」であって、それが人として普通の感覚です。
けれど、これまで「生きがい」を外部にアウトソーシングしてきたような人は、そのモチベーションを失うと自身の不満の捌け口を「世の中」や「他人」に求める以外になくなるでしょう。

そこで「正気」を保てる人こそ立派な「自立心」のある人ですが、世には「依存」できるような仕組みが山ほどあるため、もはや「普通」であることがスタンダードとは言いきれないのではないでしょうか。

神示の中では、おおよそ「三分の二」がそうなると語られていますが、かと言って「獣」認定されたら天罰に遭って死亡率が上がるとか、そういう話でもないかもしれません。
そのまま自滅するかどうかは本人次第なので、「死ぬまで獣」という状況は私には考えられないのですが、その真意は神々だけにわかることでしょうし、私は何とも言えません。

ただ、「弱肉強食」の世界では天寿を全うする確率も下がりますし、神のご加護を受けられず「不運」を呼ぶ確率が高まるのは否定できないかもしれません。

だから、日月神示の「神と獣」というのは、現実的にはニュアンスほど派手なものではないかもしれません。
例えば、めちゃくちゃ親切な人と出会ったら「あの人は天使か」と思いますし、理不尽な目に遭わされたら「あいつは悪魔だ」と言うでしょう。
ゆえに、その程度の物言いなら実際にあり得るので、落とし所としてそんな感じでも不思議ではない気もします。

しかし何となく良い関係の人が、それだけ豹変してしまう出来事が多発したら、多くの人が混乱するのは避けられないかもしれません。
特に、社会システムや「お金」絡みの世界でそれが起きたら、世の人々がどういう反応をするのかは未知数です。

そういう時に、「あの人はお世話になったから」などと、関係をズルズル引きずり続けると、エナジーヴァンパイアに生き血を吸われ続けることになりかねません。
その時、自分に「自立心」があるならば、彼らがどういう立場の人であろうと、自分のためにキッパリ線を引いて、或いは勇気を出して「サヨナラ」をすることが必要な時もあるでしょう。

そこで「別れ」を決断する理性があるかどうかも、「神と獣」が分かれる所なのかもしれません。

私の話をすると、この数年はひたすら「断捨離」がテーマであり、手にしてきたものを捨てる日々が続きました。
私自身、全く心が痛まなかったわけではありません。
30年来の友人との連絡を絶った時も、自分がここまで「捨てる」必要があるのかと思ったほどです。

しかし、「何かあった時はこの人を頼りにしよう」と心に思うところがあるうちは、まだその人に依存しているのです。
逆に、自分がしっかり立てるかわからない時に、誰かに頼りにされるとしたら、それもそれで危険です。

「誰かと一緒なら大丈夫だ」と安堵したがる心には隙があり、その弱みにつけ込んでくるのが「魔」というものです。
私はそれがわかるからこそ、心に隙を作らないために徹底した「断捨離」を行ってきました。

これは、私と同じことを人に推奨しているわけではありません。
自分が助かりたい以上に「人を助けたい」と思う時、自分が自分のことをしっかりやって、一人で立っていられる状態でなければ、人を助けることができません。

また、自分に余裕がない時に「今は助けられない」と言いきる強さも必要なのです。
でも出来るだけそうならないためには、やはり自分が強くなる必要があります。

その努力は、誰かに甘えていたり頼りにしているうちは、なかなか身につかないものです。
だからこそ自分で考え、自分で本当かどうか調べ、よく見て自分で判断する、それをしっかりやることで徐々に自立した心を育てていくしかありません。

けれども、人間は「人間」の中に自分を見つける社会的な生き物ですから、他人任せの部分はどうしても否めないわけです。
その不安の中で、世界でたった一人の「自分」であろうとする時、頼りになるのはやっぱり「神様」です。

人間は、自分の力で何かをやろうと思うから他人の力が必要で、道具やお金が必要になります。
ただ、それには人間の力では出来ないことまで、自分の力でやろうとすることも含まれます。

ならば「どうしても出来ないこと」は、神様にお願いするのが一番です。
私はそれを信じきれるかどうかに、「自分」の限界があるのではないかと思います。


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「大峠」の終わる時

楽太郎です。

先日、日月神示の「大峠を読み解く」という記事を書きました。

この時、「一二三(ひふみ)」「三四五(みよいづ)」の仕組みにおいて、「二」か「三」の間か、「三」に入りかけの段階にあるのではないか、という話をしました。
ただ、後々よく考えてみたら、「地獄の三段目」の最終段階が「神と獣に分かれる」状態なのではないかと思いました。

現状の世界気場の状態と合わせて考えると、秋分を遡るに「光」の波動の逆転は起きたのですが、まだ決定的に「白黒」がついている状態ではありません。
現実的に見て、ここから更に「闇」が深くなりそうな気配が濃厚なため、おそらく「秋分」が地獄の三段目の中間、つまり登山でいう六合目あたりだったのかもしれません。

ゆえに、これから数ヶ月をかけて「三」を通り、2028年一杯、2029年のどこかの段階までの「一、二、三年の正念場」が「」になるのではないでしょうか。
つまり、2029年の「岩戸開き」までに「三」の半分と「四」を4年弱で駆け抜けることになるはずです。

これは考えてみたら恐ろしいことです。
「一二三の世」が始まったのはおそらく「日月神示」が岡本天明氏に降ろされた1944年頃、おそらく厳密には「1945年8月15日」です。
その時点を「一」とすれば、「三」に至るまでに80年近くを費やしていることになります。

そして、今考えれば「地獄の三段目」に突入したのは「2020年・子年」であり、そう考えると色々と合点が行きます。
2020年の子年を「真ん中」にして、2025年という折り返しの秋分で「光と闇」の相剋が起こったわけです。
そして私の仮説では「9歳」の2029年に「三四五(みよいづ)」の仕組みが成就するなら、丁度いいタイムスパンになります。

2020年から「三」が始まったのだとすれば、「一」「二」に75年かけている計算になります。
これを「富士登山」に当てはめると、4合目までに75年を費やし、5合目までに5年、6合目から10合目までを4年で駆け抜けることになるからです。

つまり、6合目あたりから全く山の形が変わり、剣のような急先鋒になることが垣間見えます。
「胸つき八丁からが正念場」と言いますが、これから断崖を登るような登山になる訳ですから、そのしんどさは凡そ推察できます。
「神烈しくなる」「ビシビシ埒をつけていく」と語られていますが、おそらくこういうことであり、私たちはこれから急転直下を目の当たりにするのではないでしょうか。

私たちは、ほとんど「一」「二」の長閑な山麓の風景ばかりを見てきたのでしょうが、やはり5合目あたりからは全く景色が違います。
というか、今考えると「二」というのは1989年の「不動産バブル崩壊」以後の「失われた30年」そのものかもしれません。
そして2020年のコロナ・パンデミック、今に至る経済的混迷と、まさに「神示」のシナリオ通りではないでしょうか。

だとすれば、2025年以降の「一、二、三年」が正念場なのは言うまでもないでしょう。
私は「2029年」が「神界紀元の年」と断定しましたが、思い起こして頂きたいのは日本の明治維新の折、新政府と新国家体制が始まった明治初期に、すぐに秩序ある世になったかということです。

明治初期には不良化した武士や浪人が沢山いたでしょうし、それどころか戊辰戦争の傷跡や戦後処理もまだ完了していないはずです。
その頃、「ざんぎり頭」で街を闊歩する良い時代に、すぐに生まれ変わったかと言えば全くそうではないはずです。

神示では「子年から10年」はそっくり正念場と言っているわけで、少なくとも2029年の「神界紀元」を含む2030年までは大変そうです。
「日の出の巻・第二帖」にあるように、「五」は「子年(2032年)」なのだから、少なくとも2032年までは「10合目」にいるはずです。 

山は登頂したら降りなくてはなりません。
そこから戊辰戦争ばりの「戦後処理」なり「新体制」なりが始まるので、2030年代はかなり手探りの時代になると思われます。
ただ、「富士山登頂」という名誉は変わらないので、裾野の実家に帰ってまったり暮らす、それが「神世」であり「ミロクの世」なのかもしれません。

だからしばらく、2010年代までの感覚での「平和な時代」の雰囲気を味わうのは難しいかもしれません。
とは言え、すでに「出口」は見えている状態ですし、先に国家のカルマを完済しつつある日本の状態は、経済的に見ても現時点でさほど悪くはないですし、外国ほど悲惨なことにはならないと思います。

というのが「日月神示」から読み解いた私なりの「予言」ですが、これまでの神示解釈ではカタストロフ的予言が多かっただけに、「いつ良い世の中になるのか」という真逆の予言をしたのは私だけかもしれません。
いや、わかりません。私はそもそも「神示」界隈のことは全く存じ上げないので、三番煎じくらいかもしれませんし、それに関して強弁するつもりはないです。

とは言え、今私たちが置かれている理不尽な状況というのは、なぜか「アメリカのロビイストグループの献金額の多い業界に比例した問題が起きている」という、不思議な現象があります。
私は彼らがぶっ飛んでくれるだけで、世界はかなりマシになると勝手に思っています。

それでは、アメリカのロビイストグループの献金額ランキング(2022年版)をご紹介します。

  1. 医療・ヘルス業界…7.25億ドル
  2. 金融業界…6.09億ドル
  3. 各種事業(銃器、飲料など)…5.59億ドル
  4. IT業界…5.42億ドル
  5. エネルギー業界…3.59億ドル
  6. 交通・運輸…2.84億ドル
  7. 農事ビジネス…1.66億ドル
  8. 軍需業界…1.24億ドル
(オシント系WEBサイト「Open Secrets」より)

「献金」というのは、ロビイストが政治家に対するキックバックに掛かる費用全般を指すので、1の製薬で言うなら900億円近い資金が政治家に流れているわけです。
私は「コロナ株」をアメリカがバラ撒いたという「陰謀論」までは持ち合わせていませんが、それだけ製薬業界の後押しがあるならワクチン需要を無理矢理作り出すようなことはするかもしれない、とは思います。

これらの1位には医療団体だけでなく「ファイザー」や「モデルナ」を始めとして「ジョンソン&ジョンソン」などの医薬品製造企業が軒を連ねています。
そことビル&メリンダ・ゲイツ財団を挟んでWHOや「世界経済フォーラム」というグローバリストのフロントに繋がっているわけです。

「疑うな、陰謀論だぞ」と言われるのも承知ですが、この利権構造だけは言い逃れできないでしょう。
「原因」まで作ったとは言いませんが、「結果」を受け取ったのは事実であり、「因果関係」を疑われるのは仕方ないのではないか、という印象です。

では2位以下も見てみましょう。
第2位の「金融業界」に関しては、言わずもがなです。
アメリカでは「ロスチャイルド」や「ロックフェラー」といった財閥が牛耳っているのは教科書にも書いてありますし、公然の事実です。
おそらくジョージ・ソロスの率いた財団は軍需業界を根城にするロスチャイルド系だと思われますが、どこかでウォーレン・バフェットや製薬ロビーと結びつきの強いビル・ゲイツの財団とは利害が一致しない状態が続いている気がします。

まあ、アメリカ政府の財政破綻が間近に見える今、「第二次ハイテクバブル」を人工的に膨らませてダメージを個人投資家に押しつける計画は共有していると思います。

さて、3位がこの中では一番気の毒です。
アメリカ政界は「賄賂」の額がそのまま政策実現に結びつくので、各種業界は振り落とされないように「小判入り饅頭」を贈らなければいけません。
アメリカの地方に実店舗を持つような商工業界や、赤字路線を切り盛りする鉄道業界は、なけなしのお金をかき集めて不利な政策立案が行われないように牽制する必要があります。

しかし、その数十の業界をかき集めても「製薬」と「金融」の献金額には届かないのです。
アメリカという国がどれだけ歪な国なのか、この一覧だけで見えてきます。

第4位の「IT業界」は言わずもがな、言い出したらキリがなさそうなので今回は控えますが、ビッグテックの寡占状態が「違法」にならないカラクリはここにあります。
逆に言えば、司法省と政治家を抱き込む金額を上納しなければ、やっていけないビジネスモデルということです。
よく誰も本気で批判しないものだと思います。

5位のエネルギー業界、7位のエネルギー業界に関しては、まとめて注釈をつけます。
思いついたように叫ばれ始めた「再生可能エネルギー」と「化石燃料悪玉論」と、「農業削減政策」は繋がっているからです。

まず、無尽蔵に湧いてくる「石油」や「天然ガス」の生産量をコントロールできなければ、エネルギー業界は薄利多売になり儲かりません。
だから「希少価値」を高めるためには「ワケあって」天然資源の精製施設における稼働を縮小させる必要があります。

ここでピンときた方は鋭いです。
つまりは天然資源エネルギーが「入手困難」な状態になれば、普通にすれば値段が下がっていくものを高値に抑えておくことができるわけです。
そのために「戦争」を起こしているとか、「地球温暖化」をでっち上げているとか、そこまでは言いません。

そこでエネルギーの価格が上がれば、モノの輸送費や製造に掛かるコストも上昇します。
これが現在でいう「エネルギー要因のインフレ」です。

それであらゆる製造品だけでなく、食品の値段まで上がるわけですが、ここで7位の「農事ビジネス」が関わってきます。
この業界には「肥料業者、飼料業者、種苗業者、穀物商社」が含まれています。
つまり、家畜や穀物、農産物の価格を「何らかの理由で」高めれば、それだけ上前をハネることができるわけです。

そう言えば、コメ不足のあまり備蓄米も出回らなくなりましたが、同時にカリフォルニアのお米がスーパーで見かけるようになりました。
これと関係があるのかはわかりません(すっとぼけ)

つまり、こういうことです。
その上、米国債の価値が下がり高金利状態になれば、米国政府の負債と含み損はどんどん膨れ上がってきます。
その財政へのダメージを軽減するには、「インフレ」を10年20年持続させて、相対的に赤字を圧縮し続ける必要があります。

だから今の「インフレ」は財政破綻寸前のアメリカにとっては命綱のようなものです。
その「命綱」に必死にしがみつく献金団体は、美味しいところはきちんと頂ける仕組みになっているという訳です。

要は、この数年に巻き起こった世界的混乱はアメリカのロビイストグループの背後にある、極めて独善的な献金団体と繋がっており、そこに各種業界の利権があるのであって「悪の政府・グローバル帝国(DS)の総帥」が全てを統率しているわけではないでしょう。

この説明だけで「グローバリズム」の本質がお分かり頂けると思います。
つまり、全て既得権益集団が利権の再強化のために巻き起こす金儲けの策略が、世界中の国々の政治に影響を及ぼしたというだけの話です。

だから私は基本的に、この界隈がやっていけなくなれば一気に世界は平常化すると踏んでいます。
日本なんてのはまだ深刻ではなく、出張ってる権威筋もわかりやすい方ですから、すぐに我が国は冷静さを取り戻すはずです。

ただここで、日月神示信奉者の私が「こいつらがぶっ潰れてくれたら良いだけじゃん」と断言して、他人の不幸を望むのは「悪」そのものです。
むしろ、その心こそ浄化するべきものです。

けれども「目の上のたんこぶ」というのは実に不愉快ですし、早く良くなってくれと思うわけです。
実のところ、「たんこぶが快癒する」ためには「たんこぶ君には消えて貰わなければならない」ので、そもそもたんこぶが出来なければ何てこともなく、お互いの利害がそこで発生しているわけです。

だから「目の上のたんこぶには消えて欲しい」というのも確かにエゴであり、善悪があろうとなかろうと、そこには「我」があります。
しかし「我」というのは神示にあるように、あってはならないし無くてもならないものです。
その辺の難しさは、なかなか人間に乗り越えられるものではありません。

ただ、そもそも「人間」の善悪とは自分を中心にしたものにならざるを得ず、「真の善悪」は神のみぞ知ることです。
それなら神々には列記とした「善悪」の基準があるはずであり、それに比べると人間の善悪は偏っていたり、フラついたものに見えるでしょう。

結局のところ、人間の善悪で「秩序ある理想社会」を作ろうとした結果、このザマなわけです。
ならば、もはや全ての「善悪」は一旦捨てて、神様たちがどうなさるのかを眺めてもいいのかもしれません。

「悪」を憎み、悪の消滅を願うから「善」の中に「悪」が生まれます。
いずれ間違った考えに陥って暴れるくらいなら、いっそ自分が救われるためだけに神に祈るべきなのかもしれません。

「悪を憎んではならない」という理屈は簡単ですが、その理屈を受け入れるのが一番難しいのです。
また「神様を信じればいい」という理屈も受け入れがたいでしょうが、そもそも理屈を持っていては神様を信じることはできません。

人間が、誰かに手を下そうとするから争いが起こります。
それならば、潔く「神様」にお願いすれば、本当の意味で「善き世」にして下さるのではないでしょうか。

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「大峠」を読み解く

楽太郎です。



今回は、「日月神示」の中でも要と言える「岩戸開き」についての解説になります。
私が別名義で運営する「日月神示解説」というサイトの作りに合わせて、章構成にして書いていきたいと思います。
今は「大峠」のどの地点か?
さて、日月神示の中で「大峠」の時期を特定する議論のうち、基本となるのが「岩戸の巻・第十六帖」の「子(ね)の歳を真中にして前後十年が正念場、世の立て替えは「水」と「火」とだぞ、ひつじの三月三日、五月五日は結構な日ぞ」という文章です。
「子の年」は干支が一巡する12年に一度あるため、カレンダーを見れば特定するのは難しくありません。

直近の子年は「2020年」であり、同年には「コロナ・パンデミック」が始まりました。
コロナに伴う社会的混乱が治らぬ2022年にはロシアによる「ウクライナ進攻」が始まり、世界でエネルギー要因のインフレが加速していきました。
そして2023年にはイスラエルのガザ進攻、中東諸国に対する挑発行為による中東危機の再燃、それをアメリカが無条件支援することによる国際情勢の混乱、経済的混迷が起きています。

そして我が国に漂う社会的停滞感とインフレ不況、誰もが感じる「世も末感」はまさに「大峠」と表現するのに相応しいでしょう。

現在が大峠の最中だとすると、今はどの地点にいてどれほど続き、いつ終わるのか、それが一番気になるところです。
「子の年を真中にして、前後十年が正念場」ということは、単純に読めば「正念場」は2030年まで、前は2010年から始まっていることになります。
つまり大峠とは20年越しの大プロジェクトであり、「日月神示」が戦前にもたらされたことを考えれば、さらに長いスパンで起きていることがわかります。

2010年から大峠の「正念場」が始まっているとして、思い浮かぶ社会的混乱は2011年3月に起きた「東日本大震災」でしょう。
ただでさえ津波による甚大な被害がありながら、原発事故なども併発し、普及し始めたSNSの利用によりデマやフェイクニュースが流布され、国中が騒然となった光景は忘れることができません。
この後に「復興増税」が始まり、日本人の経済的困窮はさらに加速していき、パンデミックも相まって我が国はどんどん歪な世相になっていきました。

これだけ暗い話が続くこの15年は、やはり直感的に「試練」を感じさせるものです。
では、今が「大峠・正念場の20年」の最中だとして、「正念場」の尽きる2030年に、ピッタリ終わると考えていいのでしょうか。

「日の出の巻・第二帖」には「九歳は神界の紀(はじめ)の年ぞ、神始めの年と申せよ、一二三、三四五、五六七ぞ、五の歳は子の歳だぞよ」とあります。
「九歳」を「九年」と読み替えれば、「子の年・2020年」から9年目である2029年、大峠19年目が「神界の紀元・元年」になります。

「碧玉の巻・第十九帖」では「フトマニとは二十の珠(たま)であり、十九は常立(とこたち)であるぞ、根本の宮は、二十年毎に新しく致さねばならん、十九年過ぎて二十年目であるぞ、地上的考え方で二十年を一廻りと考えているが、十九年で一廻りするのであるぞ」と書かれています。

「フトマニ」とは、日本神話では伊弉諾命と伊奘冉命が国産みの際、「どうしたら良い子(神)が産まれるのか」を大神に問い、占卜の一種である甲骨占いを行ったという故事に由来します。
ここでは、「神の法則」として「フトマニ」があるように語られており、「20年」というのは太古日本では「聖数」であり、その名残は伊勢神宮の「式年遷宮」に見ることもできます。

だから大峠が「二十年」という節目を用いられる所以とも言えるのですが、この文節で重要なのは「十九年」で一巡りであり、「二十年目」を「2年目」と数えているということです。
ゆえに、私たちからみて「大峠19年目」の2029年で一切りとなり、その年が「岩戸開き=神界の紀元」となるということではないでしょうか。

ただ、それでは結論だけを述べたに過ぎないので、そもそも「大峠」とは何のために起こるか、どういう経路を辿って起こるのか、そこも紐解いていきたいと思います。


「三四五」「五六七」の仕組みとは
上記「日の出の巻・第二帖」では「一二三、三四五、五六七ぞ、五の歳は子の歳だぞよ」と述べられています。
「五の歳・子年」が「神界紀元・九の歳」とすれば、2020年子年を五歳として4年後、2024年には岩戸が開けている算段になります。
しかし2025年現在、世界を巡る情勢は悪化しており、我が国はますますその煽りを受けて混迷しています。
ゆえに、「五の歳」が2020年としても「九」という点で見れば、違う軸の代数であると考えられます。

どうもこの「五」というのは「一二三、三四五、五六七」の「五」に掛かっているように思えます。
「夜明けの巻・第十二帖」には、「申(さる)酉(とり)過ぎて戌(いぬ)の年、子(ね)の年、目出度けれ」とあります。
「日の出の巻・第二十帖」に「十年先は五六七(みろく)の世だぞ」とあるため、「子の年を真中」にすれば、10年後は戌年で「神界紀2年」に当たり、既に「ミロクの世」になっているはずで、ゆえに2032年子年に「めでたい世」となっているのは辻褄が合います。
だから日の出の巻に言う「子の年」とは2032年の子年であり、「ミロクの世」になる前の2020年・子年を指していないのです。

ではここで、神示に頻出する「一二三(ひふみ)」「三四五(みよいづ)」「五六七(みろく)」が意味するのは何でしょうか。
この数字の並びが不思議なのは、「一二三」の後に「四五六」が来るわけではないことです。
センテンスの最後と最初の数字が重複している上に、最終段階を「八九十の世」とすれば、正しく神の経綸の完成に相応しい並びになるはずです。

冷静に考えて、「五六七」を「みろく」と呼ぶのは些か強引な気がします。
これは仏教における「弥勒菩薩」の降臨が56億7千万年後に成就し、それにより仏教的世界は完成する、という世界観へのオマージュでしょう。
要は、「五六七」と「56億7千万」をかけて「ミロク」とルビをつけて読ませているわけです。

ただ、普通に読めば「いむな」ですし、「みろく」にしたいなら「六六六」にすれば良いはずです。

「碧玉の巻・第十五帖には、こうあります。
「五六七のミロクの代から、六六六のミロクの世となるぞ、六六六がマコトのミロクの世であるなれど、六六六では動き無いぞ、六六六は天地人の大和の姿であるなれど、動きが無いからそのままでは弥栄せんのじゃ」

つまり「五六七=六六六(ミロク)」ですが、おそらく「七」以降の広がりを持たせるために「五六七」である必要があるのだと思います。
また、この「五六七」が初めから「ミロクの世」のメタファーとして用意された数字であるとしたら、どうでしょうか。

「天つ巻・第十帖」にはこうあります。

「一二三の裏に〇一二、三四五の裏に二三四、五六七の裏に四五六の御用あるぞ、五六七済んだら七八九ぞ、七八九の裏には六七八あるぞ、八九十の御用もあるぞ」

ここで「七八九」「八九十」とは語られていますが、これらの数字はここ以外登場せず、「世」を示す文脈とは思えません。
ここでの主題は「御用」に関してであり、「〇一二」の御用から「十」まである、というように読めます。
つまり、時代区分としては「五六七」が最終段階であり、そこが世界の「修理固成(作り固め)」の到達点なので、それ以降はずっと「ミロクの世=弥栄の世」なのだと思います。

だから「五六七」までの数字に対する並びは、「一二三」「三四五」という時代区分を指すものであり、「五六七」をもって三段階の最終行程を指すのではないでしょうか。
だから「七八九の世」という概念は、神示には存在しないのだと思います。

「一二三」という時代区分は「五六七(みろく)」の世に至るまでの「闇の時代」であり、「三四五(みよいづ=御代出づ)」の過程を経て「ミロクの世」になるとしたら、やはり全三段としてこの並びを考えるのが妥当です。
そして、「三四五」の「五」は子年(=2032年)を含むので、「五六七(みろく)の世」は2032年以降の万劫末代まで弥栄える時代を指すのでしょう。

ならば、2025年現在はどの段階にあるのでしょうか。
まだまだ世相が悪化しかねない趨勢を感じる昨今ですが、「富士の巻・第九帖」にはこうあります。

今の世は地獄の二段目ぞ、まだ一段下あるぞ、一度はそこまで下がるのぞ、今一苦労あるとくどく申してある事は底まで落ちる事ぞ、地獄の三段目まで落ちたらもう人の住めん所だから、悪魔と神ばかりの世になるのぞ」 

「富士の巻」が岡本天明氏にもたらされたのは戦時中の昭和19年ですから、混迷を極めた敗戦間際は「地獄の三段目」だったかもしれません。
ただ、1945年頃の時点で「地獄の三段目」とするなら、その後の高度経済成長と不動産バブル崩壊を経ても、未だに世の中が「神と獣」に分かれていないのを見ると、少なくとも三段目は訪れていないように思えます。

むしろ、いよいよ「大峠」だという近年になって、日本人の精神状態がどんどん様変わりし、闇に沈んでいっていることを考えれば、まさに今「地獄の三段目」を迎えつつあるとも言えます。
よく考えれば、2020年の「コロナ・パンデミック」から世界の闇が如実に表面化したように感じられ、2020年が「三」の始めだったとすれば、2025年現在は「地獄の三段目」のちょうど中間地点あたりにあるのではないでしょうか。
ゆえに現在は「三」にあり、「一二三(ひふみ)」としては最終行程であり、「三四五(みよいづ)」としては初期行程にあると考えられるかもしれません。

だから2025年は「子の年」から続く、10年の折り返し地点であって、「五」がミロクの世(2032年)にあるなら、現地点を「三」とすれば、2029年までの4年をかけて「三」と「四」を駆け抜け、最終的に「五」に到達した時点で登り切ったことになるはずです。


「富士」と胸つき八丁
「下つ巻・第三十四帖」には、こう書かれています。

「戦済んでも、すぐに良き世とはならんぞ、それからが大切ぞ、胸突き八丁はそれからぞ、富士に登るのも雲の上からが苦しいであろうがな、戦は雲のかかっている所ぞ、頂上までの正味の所はそれからぞ、一、二、三年が正念場ぞ、三四五(みよいづ)の仕組みと申してあろうがな 」

この「一、二、三年」というのは、「三四五(みよいづ)の世」に至るまでの3年間である可能性があり、「2028年中」で暗闇時代が終わるとしたら、それまでの3年は過酷になることを暗喩しているのかもしれません。
「戦済んでも」というのは「第二次世界大戦」であり、「三千世界の大洗濯」というスケールで見れば、先の大戦も準備段階の一つに過ぎなかったということでしょうか。
だとしたら、「百年も続けて嘘は言わんぞ」というのも、大峠自体が100年単位の大事業である可能性が非常に高いと思います。

とりあえず話を進めると、戦後数十年をかけて「胸つき八丁」の位置まで私たちが「登山」をしたなら、「三四五(みよいづ)」は雲のかかる八丁(=八合目)あたりから始まることになります。
戦争終結時点で、我が国が何合目だったのか不明ですが、今は行程としては雲のかかる所にいるということです。

そこで、私たちが登るこの山は何なのかというと、何十年かけても登りきれないような日本の高い山は、「富士山」以外に思いつきません。
「木花咲耶姫命」が主祭神とされる「富士」は、登りきる時には「苦(九)の花」が咲き、かの女神様は私たちの登頂を祝福なさるのではないでしょうか。

このように、神示の中に出てくる数字は文脈によって全く軸となる変数が違うのです。
「一二三(ひふみ)」「三四五(みよいづ)」「五六七(みろく)」の並びを段階的変数とするなら、「一合」から「十合目」までの十進数を元にした変数もあるわけです。

そこで、文中によく出てくる「月」という単位も、「年」「歳」が比喩的に用いられたことを考えると、そのまま「月次」という意味に当てはめるべきではないかもしれません。
神示の中で「◯月」という表現はよくありますが、なぜか「秋」以降の「十一月」「十二月」という記述は一切出てきません。
つまり、「一月」から「十月」までの「月」に係る数字が肝なのであって、あくまで比喩的な数字と考えることができます。

その「月」というのは月と地(くに)を司る国常立尊(素戔嗚命=伊弉諾命)と関係し、例えば「八月」は伊弉諾命が岩戸を開く時という解釈もできるのです。
「碧玉の巻・第五帖」には「七は成り、八は開くと申してあろうが、八の隅(くま)から開きかけるのであるぞ、開けると〇と九と十との三が出て来る、これを宮(みや)と申すのぞ」 とあり、やはり「月(伊弉諾命)が開く」という読み方ができます。

だとしたら、「十月」から先が存在しない理由も明らかであり、十月には既に五六七(みろく)の世となっているので、十一月以降はあっても意味をなさないのだと思います。
ただし、「一二三」から「三四五」までの並びに、「一月」から「十月」までの並びを対応させることはできるかもしれません。
以下、それを一覧にしてみます。

・一…1、2月
・二…3、4月
・三…5、6月
・四…7、8月
・五…9、10月

「六」以降がないのは、「五」の段階で既に「ミロクの世」となっているからであり、神示に「11月」以降がないことに対応しています。

「地つ巻・第二十四帖」には「十月とは「−」と「|」との組んだ月ぞ」とあり、やはり神示解釈の中では「◯月」というのは、高い抽象度で捉える必要があるのではないでしょうか。


転換点は「2029年酉年」
神示の中でたびたび出てくる「秋」という表現は、「九月、十月」は季節としての秋を示していることに対応しています。
神示の重要タームである「鳴門の仕組み」とは、「五六七」の「七」が「成る」ことであり、「七が成る」と「十(ト)」が開くのです。
非常に日月神様っぽい言葉の使い方だと思いますが、「鳴門の仕組み」が「富士(不二)の仕組み」と同様、「岩戸開き」を指し示す概念であるのは言うまでもありません。

「天つ巻・第三十帖」には、「富士とは火の仕組み、渦海(なると)とは水の仕組みぞ」とあり、「火」とは「日(太陽)」に、「水」は「月」に対応しますが、また「火」を魂、「水」を肉体とすれば、神示の最重要テーマである、私たち人間の「身魂磨き」が「地の岩戸開き」のキーワードになってきます。

前述したように、「富士」は十合目まで登っていく「一二三(ひふみ)」から「三四五(みよいづ)」までの段階に対応しているので、これをして「富士の仕組み」と言って問題ないと思います。
「天つ巻」や「夜明けの巻」などに出てくる「鳥立つ」「十理(とり)立つ」という表現は、やはり「2029年・酉年」にかかっているのではないでしょうか。

神示の中に頻出している「辛酉」というワードが、時期的な予言を指しているとよく解釈されます。
この件に関して、干支の60周期では6番目、7つ目が「辛酉」となっていることに関係がある気もします。
「六」からミロクの世となる「七」にかかる時、その境目が「鳥立つ」辛酉になるからです。
また、富士の岩戸が開かれる時、「苦(九)の花が咲く」ことに、「辛かった鳥(酉)が飛び立つ」という意味にかけている可能性もあり、これも象徴的な意味だとしたら、単に「酉年」と考えても矛盾しません。

「岩戸」という語彙も、「岩=言(いわ)」が「戸(十)を開く」と解釈でき、「神は言波(ことば)ぞ(地つ巻・第三十四帖)」とあることから、「神の道」に落ちる闇を照らすには、「言葉」というものがキーポイントになってくるように思います。
それが「言霊」であり、口だけではなく「事(コト)を起こすこと(行動)」を意味するのかもしれません。
「身・口・意」が大事とは言われますが、この三つの「コト」をして「ミコト(命)=三コト)となると神示では語られています。


不完全だった「岩戸開き」
神示をよく読んでみると、文節間で時系列が錯綜しており、戦時中の天明氏を代表とする「ひかり教会」「天日月神奉賛会」に対する行動指針や、この先数十年後の「予言」が同じパラグラフの中に収まっているので、一見すると支離滅裂な印象を受けます。
この文脈が「日月神示」を難解かつ、ミスリードの多いものにした原因だと思います。

特に文中の要である「岩戸開き」に関しては、「開いた」「開く」と過去形と未来形が同時に並ぶので、混乱する要因となっています。
「雨の巻・第十帖」には、こうあります。
「天の岩戸開いて、地の岩戸開きにかかりているのだぞ、我一力では何事も成就せんぞ、手引き合ってやりて下されと申してあること、忘れるでないぞ、霊肉共に開くのであるから、実地の大峠の愈々となったら、もう堪忍してくれと何どんな臣民も申すぞ」

「雨の巻」が書かれたのは昭和20年10月から12月にかけてです。
この文面を読む限り、昭和20年には「天の岩戸開き」が完了していたことになります。
そして、未だ行われていないのは「地の岩戸開き」であり、それが「実地の大峠」であるとされます。

神示の降ろされた終戦間際を中心に考えると、直近の「子年」は1948年になります。
その前10年と鑑みれば、1939年に太平洋戦争が始まり、「終戦」一年前の1944年には、麻賀多神社で天明氏に神示が降ろされています。

そして「ひかり教会」設立が1947年ですから、やはり「地の岩戸開き」が近い将来にあるのを見越して、天明氏らがご活動されていたことが確認できます。
神示を直接受けて解読した天明氏が、その時期を曖昧に捉えていたはずがないと思います。
当時、天明氏らは「子の年を真中にして十年」後の1958年頃には、岩戸が開かれると考えておられたのではないでしょうか。

しかし、昭和33年(1953年)から34年(1954年)にかけて降ろされた「月光の巻」では「岩戸」という用語は一切出てきません。
それどころか、「天日月神」様からは悩める天明翁に寄り添い、後進の人々に人生訓を垂れる「親神」としての一面が色濃く出ています。

対して、1961年(昭和36年)に書かれた「五十黙示録」八巻には、かなり詳細な「岩戸開き」のネタバレがなされています。
「五葉の巻」には、「世が迫って岩戸が開いた(第五帖)」「 岩戸と申しても天の岩戸もあるぞ(第十一帖)」「天も地も大岩戸開き、人民の岩戸開きに最も都合の良い時ぞ(第十二帖)」と、未だ「地の岩戸が開かれていない」ことへの言及があります。

同「五葉の巻・第十五帖」には「岩戸が開けると言う事は、半分の所は天界となる事じゃ、天界の半分は地となる事じゃ」とあります。
つまり、岩戸とは「天と地」の間を塞ぐものであり、神と人を繋ぐ「道」が岩で阻まれているというより、天界と地上界の間に張り巡らされたフィルターのような印象を持ちます。

その「片方」が取り除かれた状態が「天の岩戸開き」であり、どうもこの幕は天界側と地上界側の二重構造なのではないでしょうか。
そして先に「天界側の岩戸」は開かれ、そのために神示では「開かれた」とされますが、厳密には「地上側の岩戸」は閉じられたままなので、岩戸開きは正しく実行されていません。
神示のニュアンスでは、「岩戸を開くことが(地上では)可能になった」という文脈であり、「岩戸が開く」とは似て非なる、ニアリーイコールの意味なのだと思います。

ゆえに、少なくとも1945年の時点では「天の岩戸開き」は成就しており、2025年今なお「地の岩戸開き」は達成されていないと考えられます。
神示の「地震の巻」は、天明氏が「御身(ミミ)」に入れた霊界の知識が書き留められています。
そこでの注釈を加えるならば、神界で起きたことは必ず、地上世界に反映するという法則があるそうです。
しかし、天界に「時間」という概念はないため、地上世界の時系列とは事象の順序が変わる事もあると言われています。

もしかすると、神界や幽界ではすでに「天の岩戸」が開かれたことで伊弉諾命と伊奘冉命が御手を取り合い、「天日月大神」として君臨する治世が始まっているのかもしれません。
しかし、地上では「地の岩戸」はまだ閉じたままなので、地上の時系列では国常立尊(伊弉諾命)が未だ地上で権能が発揮できない状態であり、ゆえに地上界と天界の開通はまだ実現していないのではないでしょうか。

それゆえ、天界では80年前に「岩戸開き」の準備は出来ているし、開くのはいつでも可能なのだけれど、地上での岩戸開きが行われない以上は「片方の岩戸だけが開いている」状態なのだと思います。
ただし岩戸は二重扉なので、片方のシャッターが閉じているだけでは障壁に阻まれ、双方共に進行不可能な状態なのかもしれません。

この辺の真相は、神々の世界を直感的に知り得ない人間には、到底思い知ることはできないでしょう。
しかし「岩戸が半分開いて、半分閉じている」と考えれば、「五十黙示録」の矛盾的な説明に辻褄が合うのです。

では、1945年頃には既に「天の岩戸」は開かれたのに、なぜ80年以上「地の岩戸」は開かれることがなかったのでしょうか?


1993年の岩戸開きは「見送られた」
ここで「青葉の巻・第五帖」にある有名な一節、「天明96歳7ヶ月、開く」という文言が重要になってきます。
順当に神示を読み進めていけば、1897年生まれの岡本天明氏がご存命なら「96歳7ヶ月」になる1993年6月には「地の岩戸」が開かれ、晴れて「ミロクの世」となっている算段になります。

直近の「1984年・子の年」から前後10年と考えれば、1993年は九年目の神界紀元に相応しく「酉年」であり、時候として申し分ない条件です。
1989年には「不動産バブル」が弾けており、その後「失われた30年」をもたらす日本経済の長期低迷の原因となりました。
神示にある「金で治めて金で潰す(黄金の巻・第五十九帖)」とあるように、バブル崩壊で拝金主義が潰れ、そのまま「お金中心ではない世の中」になってもおかしくありません。

しかし、そうはならず1995年1月には「阪神淡路大震災」があり、同時に「オウム真理教」の摘発などもあり、世は騒然となりました。
1993年に起こる予定だった「地の岩戸開き」が見送られたことに関して、どうも「月光の巻」が降ろされた1958年頃には、天明氏には既にそれが伝わっていたのではないかと思う節があります。

天明氏は晩年、「僕が早死にしたら」と妻である三典氏に語っていたそうで、まるで死期を悟っていたかのようです。
戦後とは言え「65歳」でお亡くなりになるのも、些か早すぎる気もします。
もし、タイムラインとして「96歳7ヵ月」に岩戸開きを見ることが叶うなら、天日月神様も弥栄の世に貢献した天明翁を労い、長寿を叶えられたのではないでしょうか。

しかし、1961年の「五十黙示録」を最後に、65歳という若さで天明氏は天寿を全うされています。
こう言うと失礼に当たるかもしれませんが、やはり晩年には百歳近くまでご存命をしても「弥栄の世を見ることは叶わない」と感じられておられたのではないでしょうか。

しかし、干支の「子年」は12年に一巡しますし、何なら1972年の子年を真中に「1982年頃」に岩戸開きが行われてもおかしくありませんし、なぜ「1993年」でなければならなかったのでしょうか。
しかも、「1984年」の次なる子年の有力候補が「2020年」と、なぜ35年以上も猶予が開くことになったのでしょうか。

「扶桑の巻・第六帖」には、以下の文章があります。
「三年と半年、半年と三年であるぞ、日は三日と半日、半日と三日、次に五年と五年じゃ、五日と五日じゃ、その間は暗闇(くらやみ)時代、火を灯しても暗いのであるぞ」

これも神示マニアの間では、議論の的となる部分です。
この「暗闇時代」の「七年七日」と「十年十日」の期間を合わせると「17年17日」になります。

冒頭でも扱ったように、「大峠」は「子年を真中にして10年」ということは合計すると「20年間」です。
現大峠の「正念場」は2020年の10年前、2010年から始まっている計算になるので、「正念場始めの年」から「暗闇時代」の17年17日を差し引くと、旧大峠「岩戸開き」の推定年である「天明96歳7ヶ月」の1993年と符号します。

「地の岩戸開き」の本来の予定である1993年の「真中の子年」は1984年であり、「正念場始めの年」は1974年、その17年前は最初の「地の岩戸開き」推定年の1957年酉年に当たるので、時期が一致します。
つまり、次回の「正念場始めの年」は1957年酉年から17年後、1974年となるために「1972年子年」では1958年ごろにあったと思われる「地の岩戸開き」から「暗闇時代」の17年を差し挟む余地がありません。

要するに、「大峠前10年」から「暗闇時代17年」を遡ると、前「岩戸開き」予定時の「正念場19年目(九歳)酉年)となり、間に干支を3回挟むことになるため、ちょうど「36年周期」のように見えるのです。

従って、2020年子年を境に後半戦に入った2025年から、あと「3年」の暗黒時代を経て、2029年には晴れて「地の岩戸」が開かれるはずです。
その時、天と地の二重扉が解放され「天地の岩戸開き」が成就することで「三四五(みよいづ=御代出づ)」となり、「五六七(みろく)」の時代を迎える、私はそう結論づけたいと思います。


最後に、岡本天明氏を偲んで
この記事のまとめとして、「ミロクの世」到来と岩戸開きを待たずしてご逝去なされた、岡本天明翁の「天命」について思いを馳せたいと思います。
天明氏は約17年間、不定期に神示を降ろされることで心身に負担をかけながら、長い時間と労力をかけて神示の解読と普及、ご活動に尽力されました。

私たちがこうしてインターネットで「日月神示」の全文を読み、互いに意見を交換し合えるのは、一重に天明氏とその最大の功労者であられる、三典夫人のご献身の賜物です。
戦後何十年かの間に何回か巻き起こった、「日月神示ブーム」の折、2013年に「神示」がパブリックドメインに変更されたことで、今私たちは氏の功績を辿ることができます。

それは天明氏が「没後50年」という時間を残されたことで、私たちは三十八巻の膨大なテキストを共有することが可能になっています。
65歳と、比較的に早く亡くなられた翁が自らの天寿を犠牲にして、より多くの人々に「日月神示」を知ってもらおうとされたのだとしたら、最後まで「天命」を全うされたように思えてなりません。

人々が神示を読み解き、その啓示を「肚」に入れ「ミロクの世」の礎とするよう、それを促すお役目と「天命」に対する責任感があり、そのようなご選択をなされたのだとしたら。

「日月神示は創作である」というご批判もありますが、私は例えこれらの文書群が「創作」でも問題ないと思います。
かつて、戦争という痛ましい現実に直面し、行き場のない義憤に堪えながら、懸命に生きられた天明翁の気持ちは、今抱いている私の気持ちと同じものかもしれません。

例え自分には何一つ変えられないとしても、もし一人の絵描きが世界を変えるために、ひたすら考えて机に向かっていたのだとしたら、私はその心に共感せざるを得ません。
もし、それが仮に「自動筆記」でなかったとしても、この文書群には深淵な宗教哲学と、日本神話への鋭い慧眼を感じます。

ただ、そもそも人間に「神」が降りて、その才能に「神の力」を与えるとしたら、本当に神が存在し才能に現象として現れるとしたら、天明氏の「創作」もまさに神業と言えるのではないでしょうか。
この神示が創作だろうと、本当に神の啓示だとしても、私はその奥に「天日月神」の実在を感じざるを得ません。

私の結論としては、やはり何らかの形で「神」が関わっていると思いますし、仮にそれを否定する理由があるとしたら、まず「神は存在しない」ということを証明しなくてはならないはずです。
それゆえ私は「日月神示」に確信を抱いており、この啓示の解読を通して、人々や来たる未来のために、周知を広げていきたいと思うのです。




*「日月神示解説」にて記事を投稿しました。* 

日月神示解説 | 「大峠」を読み解く


*「日月神示解説」にて関連記事を投稿しました。*

日月神示解説 | 「大峠」を読み解く

*サイト「招神万来」でも、同じ記事が読めます*
招神万来 | 神様と人を繋ぐブログ
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新(神)キャラ追加

楽太郎です。

「やるやる」言って全く始まらないどころか、謎に登場キャラだけ毎回増えていく創作漫画「HARAEDO」、今回も登場神更新です。

昨日は「悪神について」という際どい記事を書きました。
あの文章を書いている最中、自分でも考えがあっちこっち行ってまとまらない状態で出してしまったので、その後改めて文脈を整理して書き直しました。

波長の混濁具合とか、実に「悪神の影響を受けてるっぽい」と勝手に思ったのですが、冷静に読み返してみると読み物としてはかなり面白いけど、読み物として以上の意味はないかもしれないと、我ながら思ってしまいました。

「スピリチュアリスト」を自称していますが、ガチの霊能者に「あなた、ただ思い込み激しいだけよ」と言われたら「やっぱそうだよな」と思うくらいに私は現実主義者です。
実際、自分でも書いてる内容をどこまで自分で信じているのか、わからなくなることも時々あります。

後になって、伊弉諾命が阿波岐原で潔斎を行った時、三貴子とほぼ同じタイミングで「八十禍津日神・大禍津日神」が誕生なされたことを思い出しました。
国学者の本居宣長は、八十禍津日神を「瀬織津姫命」と比定しています。

禍津日神が伊弉諾命から誕生なされたということは、天照大御神同様に二柱の御子神であっても「記紀」では伊弉諾命「単神」よりお産まれになられたことになっているので、悪神となった「ヒルコ神」に比定しうるのではないか、とそこで考えました。

神示にある火の神、「わかひめきみの神」が「ヒルコ神」と「稚日女命」だとしたら、二柱の兄妹の「荒魂」がそれぞれ「八十禍津日神・大禍津日神」と考えることもできます。
以上の神が伊弉諾命の「穢れた垢」から誕生なされたので、清めの際に「禍事を直す」働きをされた「神直日神・大直日神・伊豆能売」は両柱の「和魂」の働きを現しているとしたら、しっくりくる部分もあります。

こちらの三柱、特に「伊豆能売」に関しては気になる部分があり、言及すると記事が長くなりそうなので割愛しますが、そう言えば何故か以前「神直日神」の神(キャラ)デザをしたことがあったのを思い出しました。

さすがに自分の創作とは言え「ヒルコ神」を悪役として御出演頂くのは気が引けますし、「蛭子神」を祀る総本社「西宮神社」始め、実在の宗教法人にご迷惑をお掛けしかねないので、そのままの御神格で登場頂くのは難しいと思います。

代わりに、「八十禍津日神」として新たに「HARAEDO」の登場神として加え、「神直日神」とは同一神の二重神格キャラとしてご活躍頂こうと思いました。


ちなみに、以前描いた「神直日神」のイラストはこちらです。→「神絵への道」 

漫画の中では、「八十禍津日神」「神直日神」の正体が「ヒルコ神」というのは裏設定にしたいと思います。
実は以前、ロリロリバージョンの「瀬織津姫命」のイラストを描いた時に、オッドアイにして「禍津日モード」という裏設定も考えてました。

どこかのタイミングで「んな訳あるかい」とそのアイデアは捨ててしまったのですが、今思えば「瀬織津姫の荒魂」としての「大禍津日神」発動なんかもアリかなと思いました。

それで前に「八十禍津姫」と「大綾津姫」というナイスな神デザをして満足してたのですが、「八十禍津日神」が登場してしまったのでどうしようか悩みました。
そこで、「八十禍津姫」の神名を「大禍津姫」に変え、大綾津姫と共に禍津神の兄妹という設定にすることにしました。
じゃあ大禍津日神と名前被るじゃん」という部分は、もう少し考えたいと思います。

こうした設定はいくらでも思いつきますし、実際にネームも何本か出来ているのですが、なかなか取り掛かることができません。
その辺の事情は、このブログをいつも読んで頂いている方には、何となく理由はわかって下さると思います。

ついでと言っては何ですが、何本かストックしてある「ネタ」が膨らんで、登場神として構想のあった「少彦名命」と「天棚機(たなばた)姫命」にオファーをさせて頂き、勝手に描かせてもらいました。




「少彦名命」は知恵と医学と技術などの神であり、海の彼方からやって来て大国主の国作りを助けた神様です。
物語の中では、「もの知り爺さん」みたいな感じで、ゆるいコントをしてくれそうな意匠にさせて頂きました。

「ナギ」と絡ませると、絵になりそうだなと思います。

「天棚機姫命」は、漢字表記が難しいので「七夕に変換させて頂きました。
かの神様は「はた織り」を司りますが「服飾一般」をご担当なされると考え、服作り以外に天界で「ブティック」とかもやっていたら面白いなと思いました。

実は「織姫と彦星」で有名な「乞巧奠(きこうでん)」が中国から伝わる以前に、日本では「棚機つ女(め)」という、七月七日に機織り小屋に籠り、「水神」に捧げる布を乙女が編むという習俗があったそうで、どうも奈良時代以降に習合したとのことです。

日本では中国の天女伝説の方が有名ですが、日本の「棚機(たなばた)」も同じくらい古いそうです。
こちらの七夕姫様に「彦星、元気?」と聞いたら「どなたですか?」と返されるシチュエーションはちょっと面白いと思います。

なんか、天七夕姫様は瀬織津姫様とすごく相性が良さそうな感じがします。

今回、3週間ぶりにペンを持ちましたが、やはり腕が鈍ったのを感じます。
昨年は年間で3000時間は絵を描いていましたし、今年に入ってから100時間も描いていないので、さすがに焦ります。

先日、もうペンを持つことはないような気がして、近所の造園業者の看板を見て「飛び込みで入って転職しようかな」と思いました。
私も人間の端くれなので、たまに素に戻ると心細くなる時もあります。

無趣味に輪をかけて無趣味の私が願うことは、ひたすら漫画を描きたいということだけです。
ふと冷静になると、なぜ悪の大物に対して喧嘩を売っているのか、自分でもわからなくなります。

今回はなんか、魔法がかかったように普通な内容の記事になりましたが、どうやら私はスピッてない状態では常識を取り戻すみたいです。

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「悪神」について

楽太郎です。

私が別名義で運営している「日月神示解説」というサイトに、先日の「日月神話」の解説ページを追加しました。
日月神示解説 | 「日月神話」

今回の記事もかなり突っ込んだ内容になりましたが、日月神示ですら「悪神」の正体についてボカしているのに、そこを言及する当たり「神をも恐れぬ」傍若無人さに自分で恐縮します。

考えてみれば、「宇宙開闢」を行った元の世の大神にも、更なる上の次元の「神々」が存在するでしょうし、どこかで「存在」や「概念」という「概念」そのものを作り出した「神」がいるはずです。
その「超」がつくような根源神が「善と悪」「光と影」という概念を作り出す時、その役割を受け継ぐ「神々」、つまり「悪」を司る神も生み出されたとしたら、とても自然な話です。

「別天津神」の神々がこの宇宙を創造なされた時、「光と影」もまた「善の神と悪の神」となり化成する必要があったでしょう。
その両属性がなければ、世界は成り立たず「生長しない」のですから、どこかで「汚れ役」を買う神様に存在してもらわなければなりません。

その大役を仰せつかったのが、伊弉諾命と伊奘冉命の二柱にご誕生なされた第一子、正真正銘の「天日月大神の長兄」たる「ヒルコ神」なのではないでしょうか。
しかし、次世には世を支配するであろう御神格でありながら、自ら最大の「汚れ役」となって世に災厄をもたらす存在となった時、この世の全ての「負のカルマ」を背負うことになったのかもしれません。

ただ、それだけの「苦しみ」や「不幸」を司る神は、それだけ大きな業に耐えうる器でなければならず、それゆえに「天日月大神の正統後継者」ほどの霊格でなければ務まらなかったのだと思います。

ここまでは「日月神示」を読んだ上での、ただの感想であり、妄想にすぎません。
ただ、そう考えると今の世に起こることも妙に説明できてしまうというか、変に納得してしまう部分すらあります。

「オノゴロ島」から葦の船で流されたヒルコ神は、北のロシアに流れつくとまず「父への復讐」を誓ったでしょう。
その父は「月と地球を司る神」であり、その身体は「日本列島」にあるのですから、かの地を分断し天の益人(日本人)を根絶やしにすれば、父「伊弉諾命」への復讐になります。

そのためには、まず「人間」を大勢従え、日本を攻め落とす「尖兵」に変える必要があります。
ロシアに上がった悪神にとって、地続きの「ユーラシア大陸」は常に国境が隣り合わせのため、領土紛争が絶えず「戦争」には事欠かない土地だったでしょう。

そこで悪神は、人類が誕生してからこの数千年、ずっと「帝国」を中心とした「侵略と征服」の文明を依代とし、徐々に「悪心」を人間に植えつけて行ったのではないでしょうか。

ヨーロッパの大地は元々肥沃な土地ではないため、領主が富を増やすには領土拡大を続けるのが効率的です。
ヨーロッパの戦史は、人類の歴史そのものと言っても過言ではありません。
シュメール文明、エジプト文明からギリシャ文明、ローマ帝国と続き、アジア、イスラム系の文明も隆盛してくると、ヨーロッパは戦乱の時代となります。

ローマ帝国が滅びると、かつての構成国のフランク王国が中心となり、西欧は諸王国が権勢を競う群雄割拠の時代に突入します。
中世が終わり「大航海時代」を迎えると、西欧諸国は世界各地を侵略し、現地住民を虐殺し掠奪しては、西欧に「富」を運び入れました。

フランスの王権と争い続けたイギリスは、時に新大陸「アメリカ」への植民地化を始め、先住民を殺戮してはアフリカ大陸から「奴隷」として人々を連行してきました。
そして、彼ら「奴隷」となった黒人をプランテーションで働かせることでアメリカは「富」を集約し、ついには覇権国イギリスから「独立」を果たしたのです。

この「文明史」は、まさに「戦争と搾取の歴史」そのものです。
アメリカの黒人は未だ差別の対象であり、貧富の差は歴然としています。
世界では互いに異なる民族同士が争い、憎み合うことが国家ぐるみで推奨され、その教育を受け入れる人々は自然と他民族への「迫害意識」を抱きます。

その「悪意」が世界に蔓延するからこそ、これまでの世界は草葉の陰に至るまで憎み合い、いがみ合う時代になっていたのではないでしょうか。

そして現在、「グローバリズム」という毒にも薬にもならない強弁が世に蔓延ることで、人々は分断され真の「多様性」や「自由」が脅かされています。
その上部には、富裕層を中心とするエリート階級の「利権」が見え隠れし、裏というか表として堂々と「世界政府」が語られています。

日月神示「月光の巻・第三十二帖」にはこうあります。

「世界連邦と申しているが、地上世界のみの連邦では成就せぬ、片輪車で、いつまでたってもドンテンドンテンじゃ」

この神示が書かれたのは1958年ですから、「国連」がまだ健在だった頃です。
ウクライナ侵攻で常任理事国のロシアがなし崩しの言動を取ることで、国連は事実上「絵に描いた餅」になってしまい、今ではNATOが半分役割を担っています。

その国際秩序が脆弱になった頃合いを見計らって、「世界経済フォーラム(WEF)」のような国家的エリートと富裕層を中心とする組織が、堂々と「世界新政府」などと言い出して今に至ります。

神示の降ろされた時代と違うとは言え、いくらなし崩しになろうと「国連」に世界征服のような悪どいことはできなかったでしょう。
なれば神示に語られる「世界連邦」というのは、アメリカの超富裕層で構成される「世界新政府」を意味し、その脅威が「日本を八つ裂きにするために、世界中から攻め寄せる」という説明とピッタリ一致するのです。

「悪神」はこれまで人間の欲望を刺激し、その支配欲を原動力として「争い」を支配してきました。
それは「戦争」だけでなく「競争」においてもです。
「お金」や「社会的地位」や「ルックス」は、人々のモチベーションにもなり得る反面、無意味な優越感を煽り、憎悪を生み出す原因でもあったのです。
また、過剰な「右肩上がり」の市場的バイアスは、大勢の人々の幸福度を犠牲にしてでも「企業」として隆盛することを良しとしました。

その「経済」の仕組みを最大限に使って史上最大の「帝国」となったアメリカは、第二次世界大戦で敗戦国となった日本を占領し、その国家の枠組みすら好き放題にしてきました。
それはまるで、「お金」というモノに宿った悪神が、日本を「金で潰そうとしている」ようにも見えます。

ヒルコ神の次に誕生した「アワシマ」は、神産み国産みでは「島」と「神」が同時に産まれていることから、ヒルコ神は「アワシマ」の守護神と言えます。
現在、米国株式市場を席巻する「第二次ハイテクバブル」という「アワ」が、金融を支配する「ヒルコ神」によるものだとすれば。

アメリカ経済という「アワシマ」は、国常立尊の眠る「オオヤシマ」の国を攻め落とすことができるのでしょうか。

神示には、「金で治めて金で潰す」とあります。
悪神が日本を金で潰そうとするなら、金を「金」で潰されたら日本は潰せません。
どうも私は、そういうシナリオになりそうな予感がします。

ゆえに、悪神の思惑は「神示」の通りに潰えるのではないでしょうか。
しかし、悪の思惑が潰えたからと言って、それが「平和」を意味するとは限りません。
神示の言うように「悪を抱き参らせる」には、既にある「悪」と手を取り合うことが必要です。

これまで「お金」が世を悪くしていたのだとしても、「お金」自体が悪いのではありません。
「戦うこと自体」が悪いのではなく、「競争自体」が悪いわけではありません。
お金が好きな人も争いが好きな人も、殴り合いが好きな人もいますが、それを望まない人がたくさん巻き込まれる仕組みが問題なのです。

そもそも、自分がしたいのなら似た人々を集めて、似た者同士でやればいいでしょう。
超富豪も、一つの島や大陸で収まっている分には全く問題ありません。
その食指を世界中に伸ばし、サービスを寡占し、政治を牛耳り、利権を得るために弾圧し、言論をピックアップし、情報を統制し、争いを仕掛け、搾取する仕組みを世界中の人々に強制するのが良くないのです。

そこまで徹底したシステムを緻密に組み上げてきた悪神は、言い方は悪いですが腐っても神であり、やはり素晴らしい神能であらせられると思います。
ただ、そういう時代は終わらせなければなりません。

「お金」は商業取引をスムーズに行う最善の手段であり、当然これ自体は有用なものです。
だから、「お金の時代」が終わるということは「お金に対する向き合い方が変わる」だけで、「お金」そのものの性質まで変える必要はありません。

問題なのは、資本の形骸化した仕組みだけが一人歩きし、それを良くない使い方をする人々が多いからで、改まるべきなのはその「仕組み」です。

「悪」と手を取り合うとは、追従することでも懐柔することでもなく、存在を許しお互いが存立し合いながら、「害」となる仕組みを最小限にしていくことです。

「悪」が存在してもこちらの「善」が損なわれなければ、そこには「自由」があるだけであり、その状態を「共存」と呼びます。
この「共存」を阻む力「」こそ退けなければならない「悪」であり、このための自衛にこそ「戦い」はあるべきなのです。

「共存」を阻害し、境界を無くすということは巨大な力が集権を強めることであり、それは「独裁」を可能にし全体を「帝国化」するでしょう。
それが最終的な「グローバリスト」の目的であり、その支配欲を覆い隠すためのレトリックが選択の限定された「多様性」です。
しかし中央集権というのは、歴史的に見てこれほどハイリスクで、不安定な社会構造は存在しません。

その為政者が露悪的で、野蛮さを隠さないほど強権的となり、その傘の内にいる人々は生存を脅かされるでしょう。
その脅威が強まるほど危険性は肥大し、人々は「滅亡」に近づいていきます。

その趨勢を感じる今、本当にそうなることを「神々」はお許しになるのでしょうか。

もし「悪神」がこの世界に君臨し続けようとするなら、人間を絶滅させた上で草木や動物相手に「悪」を行うことはできません。
つまり、「人間」あっての「悪」であり、人間のいない世界の悪魔は大してやることもないはずです。

だから「悪」と人間は持ちつ持たれつであり、永く「悪」であるためには良い塩梅に人間を滅ぼさない方が良いでしょう。
ゆえに、悪神からしても人類が滅ぶことだけは避けるはずです。

ならば、「人間を生かす」悪の中には何%かの「善」があるはずです。
果たして「100%悪ではない」悪神とは、本当にこの世界を闇に沈める大魔王と言えるでしょうか?
それはそれで、「悪」を支配する「大神」の下で「大神」のために働く「正しい」神なのではないでしょうか。

「悪」がこの世界に必要だからこそ、この世界に悪があることが神々から許されているのです。
そして、これまでの時代も、次の時代においても変わらず「悪」が必要なのです。

人間も天使も神も、「ひたすら善良なだけ」の世界に多様性はなく、キラキラするだけのつまらない世界でしょう。
だからこの世界には「歪み」が必要であり、「倒錯」する自由が必要なのです。

そして、その「曲がり事(禍事)」を許す自由を「悪」と呼び、「悪」があるからこそ「自由」はより自由になるでしょう。
ただ「悪」は自分たちでやる分には「善」であっても、その力を外に向けるから「悪」は「害」をなし、許されないものになってしまいます。

その関係に白黒はなく、複雑に絡まる世界の中で、いかに最小公約数の軋轢と最大公倍数の幸福を実現できるか、そこに「善も悪もない」新しい世界の鍵があるはずです。

それが「ミロクの世」だとしたら、カタストロフによる人類の歴史的な学びも、完成へと向かう文明にとって必要なプロセスです。
だから、「悪神」とは「正しい神」であり、本質は「善の神」なのではないでしょうか。

古き良き日本人は、恐ろしい祟りをもたらす悪神や怨霊を、きちんとお祀りすることで味方につける、「御霊信仰」という考え方を持っていました。
昔の日本人にとって、「悪霊」も自分たちに害をなさなければ問題ないし、それだけすごい「霊力」があるならあやかろう、と考えたのです。

「悪神」を必ずしも「ヒルコ神」に結びつける確証は、今のところありません。
ただ「ヒルコ神」は、奇しくも「恵比寿様」として人々に金運をもたらして来ましたが、もしかすると「悪神」も、きちんとお祀りすれば改心することがあるのかもしれません。

神々に仇なす「闇の者たち」も、愛や感謝の気持ちを投げかければ、いつか「光」に戻っていくとしたら。
その願いを抱く人々が生きていく世の中が「ミロクの世」ならば、弥栄しないはずがありません。

「お金」は必要ですが、必要ではない世の中にすれば「悪」にはなりません。
お金が「必要」でなければ生きられない社会を作り上げ、それを食い物にしてきたのが「悪」ならば、そのやり方が通用しない仕組みを作ればいいのです。

「善」を絶対化するから「悪」は際立ちますが、「多様性」という価値観の下で他者を脅かさない環境ならば、「悪」は許され「悪」ではなくなるでしょう。

それは「人間」には実現するのが不可能なことでしょうか?
この地上世界の支配者は肉体を持った人間であり、人間が手を動かすことで作り上げたこの世界を、自分たちで変えられないはずはないのです。

そうして「悪を抱き参らせる」世界になるのなら、何となく古き良き日本の姿に戻っていくだけのような気もします。
私たちは、この数十年で様々なものを失いましたが、むしろ取り戻すために手放したのだとしたら、また掴めば良いだけなのだと思います。


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「日月神話」

楽太郎です。



今回は、「日月神示」に関する記事です。
以前、「天日月大神解説」という記事の中で、神々の中心に「御三体の神々」が存在し、「天御中主神、高神産日神、神産日神」と「伊弉諾命、伊奘冉命、撞賢木向津姫命」の計六座で「天・地の御三体」を形成していることを図説しました。

「日月神示」に書かれた神話は、「記紀」や神社伝承にある神道的系譜とは若干異なります。
御三体の神にあらせられる「撞賢木向津姫命」は記紀には登場なさいませんし、六甲比売神社に祀られる「六甲比売(むかつひめ)命」や、伊勢神宮荒宮に祀られる「撞賢木厳之御魂(いつのみたま)向津姫命」の神々とも関係性は不明です。

また、「天御中主神、高神産日神、神産日神」の三柱を「造化三神」とするのは良いとして、補遺である「アメツチの時」によると、以上の三柱に「天国常立尊、国常立尊、豊雲野尊」を加えた七柱を「別天津神」としています。

「紫金の巻・十二帖」には、どうやら「天常立尊」の代わりに「クラゲナスタダヨエル」という神が「ウマアシカビヒコジ」神と対比する形で登場しています。
この「クラゲナスタダヨエル」という御神格は少なくとも記紀の系譜には存在せず、一般的には「アメノトコタチ」とされます。

「日月神示版・別天津神」の次代に「国常立尊」と「豊雲野尊」が続きますが、「至恩の巻・七帖」によれば、別天津神五柱を繋ぐ「+と−」の働きとして、男女ペアの二柱が存在するとされます。
しかし一般的な「神代七代」では、神示版別天津神に国常立尊・豊雲野尊の二柱が加わっているため、神示の神代では「ウイジニ・イモスジニ」以下「イザナギの神・イザナミの神」までの五代になります。

また神代五代の「イザナギの神・イザナミの神」がそれから「成りなりて」「伊邪那岐命、伊邪那美命」となり、国産み・神産みをしたとされます。
つまり、記紀や一般的神話と神示の系譜は若干異なります。

それは日月神示が、岡本天明氏の創作だからデタラメなのだ」という批判があるでしょうが、例えば「クラゲナスタダヨエル神」と「ウマアシカビヒコジ神」の御神格に関する説明に違いが見られる点は、一考に値します。

「ウマアシカビヒコジ神」に関して日本書紀に記述はなく、代わりに「泥(ひぢ)の中に生(おおい)でるがごとし、すなわち人(かみ)と化成(な)る」とあります。
対して神示では「ヨコの十の動きがクラゲナスタダヨエル、タテの十の動きがウマアシカビヒコジ」と語られています。

神示にあるウマアシカビヒコジ神は、宇宙に漂う泥のようなモノから、葦の芽が伸びるように生まれ出た生命、という記紀的な説明より「十のタテ」という空間的な捉え方をしています。
「まつりの巻・第一帖」では、「十(かみ)の動くのが卍(ほとけ)ぞ)」と書かれています。
つまり、「十(かみ)」のタテの動き、神が「生長」「発展」する働きを「ウマアシカビヒコジ」とし、ヨコの動きを「クラゲナスタダヨエル」とするなら、ヨコとは「交流」や「拡大」と捉えることもできます。

「神は生長し、弥栄する」存在であるからこそ、全知全能でありながら完成に向けて成長し続ける、そう神示には語られています。
そのため、「ウマアシカビヒコジ神・クラゲナスタダヨエル神」以下の世代は「人」という形を持ちながら、転生を重ねることで「神としての自己同一性」を発展させているように思えます。

ここまでは「神」としての「法則的存在」であり、これら五柱の働きを補完する、或いは「働きそのもの」として、男女ペアの神々が「+と−」の役割を担い、それが成りなりて「伊邪那岐命、伊邪那美命」に繋がっているように考えられます。

この説明を辿る限り、記紀の記述にはない独特の「形而上学」、即ち宇宙哲学があります。
この世界観が例え天明氏の創作であろうと、この内容の深淵さは一瞥すべきです。
もし「日月神示」が真の神の啓示なのだとしたら、この宇宙創生の神話が実際の神界と世界の成り立ちを説明していることとなり、「聖書」のように一つの宗教的到達点と見ることもできます。

ゆえに、私の文脈では「神界の真実である」という前提で話を進めていこうと思います。

「日月神示」の興味深いところは、神道の一般的な固有名詞と互換性がありながら、一般的でない神名や微妙に異なるニュアンス、伝承とのズレがあり、どちらかというと神示独自の文脈が存在することです。

例えば「御三体の神」に加わる「つきさかきむかつ姫」に関しては、天照大御神荒魂の「撞賢木厳之御魂向津姫命」と同一神であるか、はっきりしません。
神示には「地上にご活躍する元の生き神」として「雨の神、風の神、荒れの神、岩の神、地震の神、竜宮の乙姫」がよく挙げられています。
しかし、その神々に「木の神、金の神、日の出の神」が加わったり加わらなかったり、微妙な表記揺れに関して詳細な説明がないため、一見矛盾しているようにも感じます。

それらの神々が「十柱」や「九柱」であることもあったり、様々なバリエーションがある中で、聞き慣れない神名が登場することもあります。
「水の巻・第十帖」には「火の神」が挙げられますが、「今の臣民にわかる様に申すならば」とした上で、「わかひめきみの神」と述べられます。

「火の神」と言えば、一般的には「火之迦具土(ひのかぐつち)命」です。
しかし「わかひめきみ」とは、おそらく「稚日女(わかひるめ)命」のことであり、もしくはもう一対である「君」の「稚彦命(?)」を加えた二柱を指しているのではないでしょうか。

ただ「稚日女命」は一般的には天照大御神の侍女とされ、記紀では素戔嗚命が皮を剥いだ斑駒を屋敷に放り投げた際、機織りに使っていた梭(ひ)を身体に突き刺したか、「陰部(ほと)」に突き入ってしまい、その傷が元で亡くなられたとされます。
「稚日女命」に兄か弟に当たる「稚日彦」が存在する記述はありませんが、近い御神格に「天若日子命」がおり、葦原中津国平定の段において大国主の娘の下照姫と結婚したことで、戻って来るように催促しに来た雉を殺したため、高皇産日神の怒りに触れて矢で射殺されたとされます。

しかし、「稚日女命」も「天若日子命」も神格として「火の神」という扱いではありませんが、奇妙なことに両神とも不遇な死を遂げています。
ただ「火之迦具土命」も伊奘冉命が出産後、「陰部(ほと)」を火傷したことで亡くなり、それに怒った伊弉諾命によって首を切り落とされてしまいます。

この奇妙な一致に関しては後ほどまた取り上げますが、「紫金の巻・第十二帖」では「暗劒(くらつるぎ)殿」という神名が登場しています。
この「暗劒神」という御神格は、全く一般的ではありません。
しかし同じ文脈を他と比較しても、「火の神」が「暗劒殿」に対応しているとしか考えられないのです。

この「暗劒」という表現を分析した時に、「暗・闇(くら)」というのは「明・昼」に対応し、「和魂」に対する「荒魂」ではないかと思います。
では「剣」とは何かと言うと、「富士の巻・第三帖」には「三種の神宝」として「玉とは御魂ぞ、鏡とは内に動く御力ぞ、剣とは外に動く御力ぞ」とあります。
つまり「剣」とは「◉」の外側における働きであり、まとめると「暗剣=荒魂」になります。

では一体、何の神の「荒魂」なのでしょうか。
「荒魂」で一番最初に思い浮かぶのは「天照大御神荒魂」であらせられる「撞賢木厳之御魂向津姫命」です。

「稚日女命」とは、天照大御神の侍女か「妹」という説が一般的ですが、私の神示解説では「真の天照大御神は伊奘冉命である」と結論づけています。
だから「稚日女命」とは「御三体の神」の一柱である「つきさかきむかつ姫=撞賢木厳之御魂向津姫命」と比定できるかもしれません。

神示では「日の神が火を司り、月の神が水を司る」と語られています。
つきさかきむかつ姫が伊奘冉命の御子神であれば、「日(火)の神」としての神能を受け継いでいてもおかしくありません。

別のところでは「春の巻・第三帖」の「節分祝詞」の中で、「大日月大神、皇神御前」として「大国の常立大神」「豊雲の豊大神」以下に、「祓戸大神」の四柱「瀬織津姫命・速秋津姫命・息吹戸主命・速佐須良姫命」の神名が挙げられています。
ここの件は非常に興味深いのですが、伊勢神宮や古文書では「撞賢木厳之御魂向津姫命」は「瀬織津姫命」と同一神であらせられるとされます。

瀬織津姫命は、祓戸大神であり水の女神とされるので、「稚日女命」が火の神として挙げられることと矛盾します。
しかし「つきさかきむかつ姫」が伊弉諾命と伊奘冉命の二柱の御子神であるとすれば、「日(火)と月(水)」の両属性を司る神能を有してもおかしくありません。

神示の中に出てくる「竜宮の乙姫」とは、かつて滝に「龍」を連想し、滝の女神である瀬織津姫命が「白龍の化身」とされることから、私は当初「竜宮の乙姫」が「瀬織津姫命」なのだと思っていました。
しかし「暗劒殿」の文脈では「竜宮の乙姫」も列挙されているので、同一神とは考えられません。
上述の「水の巻」では、竜宮の乙姫は「玉依姫命」と同定されています。

日月神示の中では、元の神々は大地や気象を司る「龍体」の神であるとされます。
おそらく「海神」の「龍族の末娘」という意味で「綿津見神の次女の玉依姫」に宛てているのではないでしょうか。

私個人としては、「玉依姫」の「玉」とは「サ(稲霊)」であり、「狭依姫命」と同定されうる「瀬織津姫命」の意味合いもあると考えていますが、その詳述は「玉依姫命について」という記事にあるので、どうぞご覧ください。

話を戻しますが、伊弉諾命と伊奘冉命の御子神が「つきさかきむかつ姫」であり「火」を司る能力があるとしたら、神示では「岩戸隠れ」したままの真の天照大御神の変わりに、「日(火)」を司り現在の「天照皇大神宮の神」としてお祀りされている根拠ともなり得ます。

とは言え、実際に伊勢神宮に「撞賢木厳之御魂向津姫命」が天照大御神として祭祀されている理由に結びつくかは不明です。
「わかひめきみ」が「稚日女命」「天若日子命」と比定されうるとして、同じく二柱の紛れもない御子神でありながら不遇の死を遂げた「火之迦具土命」について、どう考えたらいいのでしょうか。

そのヒントは、神示「日月の巻・第三十帖」にあります。
この文節は「記紀」の神産みの段に準えておりダイジェストになっていますが、時に「同じ神の名が二回」登場します。
神示には「同じ名の神が二つある」と述べられており、それらは「善」の顔と「悪」の顔がある、つまり「和魂」と「荒魂」を意味しているのだと思います。

文節内の「迦具土神」の件で、「闇山津見(くらやまつみ)神」が「陰(ほと)」から生じたとされます。
実は「陰(ほと)」が性器を指す場合は女性器以外になく、男性器を指す古語は「はせ」が使われます。
陰部から誕生した神は「闇山」であり、渓谷や洞窟などを彷彿とさせるため、どことなく「女性器」を連想します。
つまり、ここでの「迦具土神」とは女神であり、不慮の死を遂げた稚日女命と繋がるのではないでしょうか。

だから「火之迦具土命」が火の神であり、稚日女命と同一視するならば、神示の中で「火の神」という扱いを受ける理由になり得ます。
火之迦具土命は伊弉諾命に首を切り落とされた後、数々の自然神を自らの身体から産み落としますが、素戔嗚命に斬り殺されて亡骸から穀物を発生させた「大宜都姫命」、同様に月読命に斬られた「保食神」とも同じ図式が浮かび上がってきます。

こういった神話形式の類似を鑑みるに、おそらく元は一つの神話だったのではないでしょうか。
「素戔嗚命」と「月読命」は同一神説があり、神示の「荒れの巻」を読み解く上では「素戔嗚命=伊弉諾命」なのです。
要は伊弉諾命が娘の「つきさかきむかつ姫」を殺す図式の神話が、一般的に世に流布していることになります。

ただし、実際の「撞賢木厳之御魂向津姫命」は天照皇大神宮神として伊勢神宮にお祀りされていますし、瀬織津姫命としては「祓戸大神」であらせられれます。
即ち「死んだ神」という訳ではなく、むしろ「元津世からの生き通しの神」であり、「何者かに殺される」という経緯を辿ってはいません。

ただ、「つきさかきむかつ姫」がご誕生された後、母神である伊奘冉命が「岩戸隠れ」され、地下世界に行かれ隠棲なされたのは記紀と共通しています。
従って、その後に隠棲なされた伊奘冉を慕って、伊弉諾命が黄泉の国に会いに行く筋書きはどちらも変わりません。

思い出して頂きたいのは、伊弉諾命と伊奘冉命の第一子は「ヒルコ」とされることです。
「ヒルコ」とは「日る子」であり、「る」は接続助詞として「日の子」を意味し、二柱の第一子は「日(火)の神」だったのではないでしょうか。

しかし、ヒルコとアワシマに関しては、成婚後に伊奘冉命が先に声を掛けて子作りを行ったため、不具の子として産まれたとされます。
伊弉諾命と伊奘冉命は「兄妹」として産まれたとされ、いわゆる「近親相姦」による遺伝的異常を連想します。

この神話の原型は、与那国や沖縄にルーツのある「洪水型兄妹始祖神話」の形式を持ち、人類の始祖として存在する一組の兄妹、という共通項があります。
そのパターンでは「近親相姦を避けるためにタブーを解除する通過儀礼を行う」という性質があるそうです。

伊弉諾命と伊奘冉命はまず「日と月と地」を作った後、オノゴロ島に降りて天の御柱を境に反対に周り、出会った所で交わったとされます。
この儀式は神から「近親相姦」のタブーを解除するための「清め」であったのだと思いますが、それでも女性の方から声をかけたのが原因で、不具のまま産まれてしまったヒルコは、葦の船につけられて流されてしまいます。

酷い話だと思うのですが、この子は実の子として数えなかったとされます。
この第一子の「ヒルコ」が「日(火)の神」の後継男子として名を消された神なら、神産みの最後に産まれた「火之迦具土命」は「日(火)の女神」です。

ゆえに「ヒルコ」と「火之迦具土命=稚日女命=撞賢木厳之御魂向津姫命」は一対の「日(火)」を司る神格だったのではないでしょうか。

しかし「ヒルコ」が流されてしまったため、「火」を司る神は「さかきむかつ姫」のみになったのだと思います。
系譜ではそうなっていても、事実上は「ヒルコ神」と「稚日女命」の二柱なのですから、「わかひめきみの神」で間違いはないのです。

ヒルコ神は「蛭子」とも書かれるので、火の神でも「水」の属性を持っているように感じます。
「つきさかきむかつ姫」が「瀬織津姫命」であるとすれば、二柱とも「火と水」の両属性を持ちうることになります。
これは「日(火)」を司る伊奘冉命と、「月(水)」を司る伊弉諾命の血統を、両方受け継いでいるように見受けられます。

ここまでは物語の延長として空想しうる部分ですが、不具の子というだけで「実子」として認められなかった、忌み子のヒルコ神に対する同情はいつの時代もあるようで、ヒルコ神が葦の船で流されて辿り着いた先で「少名彦那命」や「七福神恵比寿」として、立派になって戻ってくるという神話が民間では広く知られています。

では、この「ヒルコ神」に当たる神を「日月神示」ではどのように取り扱われているのでしょうか。
ここから先は、完全な空想の「物語」としてお聞き下さい。

神示に挙げられる十二柱、国常立尊、豊雲野尊、雨の神、風の神、荒れの神、岩の神、地震の神、木の神、金の神、火の神、日の出の神、竜宮の乙姫。
この神々は、かつて地球が「泥海」だった時代から今なお生き通しであり、地球の自然体系を司っています。

しかし、偉大なるこの神々以外にも、「泥海」の頃から生き通しの神が存在します。
それが長らくロシアに上がっていた「悪神」です。

「大峠」において拮抗状態であった「善と悪」の神々の戦争で、「九分九厘」まで神の国を闇に染めうる強大な神力を持つ悪神。
私は、かつての「ヒルコ神」が悪神の正体ではないかと思うのです。

順を追って説明します。
泥海を作り固めた神々のうち、「火の神」が「わかひめきみの神」であり、先ほど「つきさかきむかつ姫」と同定できると説明しました。
かの女神には、先に産まれた「ヒルコ神」の存在を「兄」として想定することが可能です。

「神示」には記紀にあるようなヒルコ神の存在は、どこにも記されていないように見えます。
ただ「五葉の巻・第一帖」には、以下の文章があります。

「あの子を生んで、この子を産んで去ったのであるぞ、その中に一人だけ良くない子が出来た、その子には海の藻草や山の菜、野菜を食べさせてくれよ、段々良い子になるぞ」

この文節を読むに、ヒルコ神が「良くない子」として産まれた、かつての故事を連想します。
そしてこれを語る日月神様が、まるで「父」であるような優しさをもって、「緑のものを食べさせやれ」と仰っています。
あたかも、良くない子が獣のように、肉ばかり食べているような印象を持たないでしょうか?

ヒルコ神を流した「葦」は、当然「豊葦原瑞穂の国」である日本の「オノゴロ島」から流されています。
日本のすぐ「北」にはロシアがあり、悪神が上がっていたとされる大陸です。

そして今回の大峠にある「神の国」を八つ裂きにし、奪いに来る悪神は「北」からやって来るとされます。
神示には日本列島は「国常立尊」の影とされ、「艮(東北)」に封じられていると言われています。
この悪神はまるで、自分をかつて捨てた父に対し、復讐しに向かっているように見えないでしょうか。

そう考えると、悪神が「日本列島」を狙う理由がわかる気がします。

「良くない子」だからと、北の地に押し流して一方的に離縁した父、伊弉諾命に反感情を抱き続けた「ヒルコ神」は、地上の曲がった気から誕生した「幽界」の悪霊「オロチ、金毛(キツネ)、邪鬼」を従えました。
彼ら闇の者を遣わして善の神々を誑かし、騙された神々は「伊弉諾命(国常立尊)と伊奘冉命(豊雲野尊)」を岩戸に封じ込めます。

日の神は岩戸の中に閉じ込められ、月の神は地中に封じられてしまい、神界の「日月」の玉座は空白になります。
そこで神々は二柱の正当な神能を受け継ぐ「つきさかきむかつ姫」を「日の神、天照大御神」として祀り上げることにしました。

これが第三の岩戸閉じである「偽の岩戸開き」であり、日月の神を失った神界をつきさかきむかつ姫が支配するも、悪神の力が強大すぎて神界に「乱れ」が生じたのではないでしょうか。
この悪神の性質は「我よし」そのものであり、いくら神とは言え「我」を出してしまえば、悪神の思惑に飲まれていったのかもしれません。

この悪神が「ヒルコ神」なのだとしたら、伊奘冉命が先に声をかけるという「いろは(色)」を間違えたことで産まれた神であり、それゆえに神示では「神界の乱れは色からぞ(春の巻・第二十五帖)」とあるのだと思います。

この「悪神」が伊弉諾命と伊奘冉命の二柱の実子であるからこそ、我が子が不良化した理由にも心当たりがある伊弉諾命こと「天日月神」は、「悪を抱き参らせねばならぬ」と仰るのかもしれません。
一度は「悪」として見捨てても我が子、やはり愛情があるからこそ、いくら悪でも「可愛い」のでしょう。

この神が現在、世界の「金融」を支配して戦争と拝金主義の世を作り出し、混沌をもたらしている悪の根源としたら、その企みが潰えることは約80年前に「日月神示」が岡本天明氏に降ろされた時点で、すでに決まっていたのかもしれません。

いずれ世界が「ミロクの世」となるならば、「天日月大神」となられた「伊弉諾命」と「伊奘冉命」の二柱は、かつての「素戔嗚命」のように散々グレて暴れた息子に対して、「抱き参らせる」日が来るのでしょう。

ならば「不和」だった世界が「調和」に向かう時、「闇の世」は次なる世界の「造り固め(修理固成)」のためには必要なプロセスだったのではないでしょうか。

だとすると、やはり大神から見れば「悪」はこの世に必要な法則の一部であり、「悪神」もまた世界の生長のために欠かせない存在なのかもしれません。
ヒルコ神が「出来損ないの日(昼)の神」だとしても、「闇を司る神」として、この宇宙には重要な大神であることには変わりはありません。

そんな大きな一つの「家族」の物語が、神界を巡る歴史であり真実なのだとしたら、この世界がどんなに醜く悲惨でも、その涙の奥に「美しい」と思える本当の景色が見えてくる気がします。
この宇宙はすれ違う「家族の物語」の一部であり、その波乱と和合に向かうストーリーの映しとして、人類と地球の歴史があるのかもしれません。

そこには「破滅」だけでなく、悲しみや死だけではなく、「愛情」が全てを内包する世界があります。
「日月神示」には、そんな物語が読み取れるのです。


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日本の「これから」

楽太郎です。

昨今のニュースを俯瞰して思うのは、私が以前「グローバリストの分裂」という記事の中で、「アメリカは第二ハイテクバブルを引き伸ばして延命するつもりではないか?」と書きました。
これに関して、実際にそうなりつつあるニュースが続いています。

先日、「オラクル」が社債を180億ドル(2兆6800億円)発行し、AI事業の需給に備える投資を行うと発表されました。
また、実績がそもそも疑わしい「コアウィーヴ」が、OpenAIとの契約を224億ドルに拡張するそうです。
さらに業績低迷が続くIntelには先日、NVIDIAの新型半導体の共同開発の話とAppleへの出資要請、ソフトバンクグループからの巨額投資と、立て続けに動きを見せています。

これら「AIブーム」の胡散臭いところは、世に喧伝される「投資」「契約」の規模は超大型なのですが、「収益」「営業利益」に関する景気のいい話は一切出てこないということです。
つまり、ジャブジャブに資金を投入して、「それほど盛り上がっているように見せる」ことで投資を呼び込み、裏では自社株買いなどで株価操縦を行い、株式好調を装いバブルを肥大化させているのです。
「張子の虎」とは言いますが、それで通用してしまう世の中も、カスカスのハリボテになっているということではないでしょうか。

「オラクル」という会社は、プログラミング言語の「Java」の開発企業として有名ですが、実はSQLデータベース環境の保守やセキュリティに関するシェアでは、Microsoft共同のSAPと対をなす寡占企業です。
だから一般的には、IT系のシステムエンジニアしかいまいち企業価値がわからない会社なのですが、なぜかその企業が「AI事業」に本格参入するために多額の出資を募っています。

オラクルは長年Microsoftと競合してきた会社であり、どちらかというとMicrosoft亡き後のシェアを狙っているようにも見えます。
ただ、オラクル自体は一般的にサービスを表立って知られている会社ではないため、どうやって個人投資家を釣るつもりなのか、そこはまだ判然としません。

おそらく、中国から事業譲渡された「TikTok」の運営をオラクルが担うことになり、さらにSNSの寡占を強めることでアメリカ政府はハイテク業界のさらなる強化を目論んでいるのでしょう。
というか、アメリカ大統領が中国共産党トップに「アプリを売ってくれないか」と話に行く世界線は世も末という気もしますし、どれだけアメリカ株式市場が「IT独占状態」に依存しているかが判然とするニュースです。

もはや、「アメリカ経済はITにしかインセンティブがない」と白状しているようなものではないでしょうか。
いずれにしろ、統計局局長を大統領直々にクビにする状況で出される経済データにどれほど信憑性があるかわからず、「ある条件を除くことで」数字を良くするトリックなどはいくらでも思いつくでしょう。
だから、実態経済と公式統計は今後ますます乖離していくと思います。

先のIntelには「国有化」の話さえ出ており、一般大衆には馴染みのないオラクルの台頭、なぜかアメリカ企業のケツ持ちに回るソフトバンクと、どうもマグニフィセント7の欠員を埋める交代要員が出てきた、という見方はあながち間違いではなさそうです。

この顔触れを見ても、もはやAIで何がしたいのかわからない企業が、何ができるかわからないAI事業に、意味のわからない規模の莫大な投資をする、という不可解な様相を呈しています。
ソフトバンクグループの孫正義会長は、ずっとMicrosoftのビル・ゲイツのケツを追っかけてきた人ですから、今にやらかしそうなMicrosoftの尻拭いをさせられているのは見て取れます。

WEFとしてのゲイツ氏は、おそらくグローバリスト界隈から村八分にされかけていて、彼の子飼いである孫正義氏は、そのフォローのために収益見込みのない「AI投資」という名目でグループが傾きかねない規模の投資を促され、リカバーのつもりで散財させられているのではないかと思います。
ソフトバンクは傘下のYahoo!をアメリカに売り払った時点で、米国ハイテク連合の仲間入りをしたことになっているのでしょう。

私がITベンチャーに勤めていた頃から、IT業界は大富豪をカリスマとする「シリコンバレー」を母体として新興宗教に近い雰囲気があると思っていましたが、わりかし間違いないかもしれません。
孫正義氏に「仁義」があるとしたら、まるで任侠の世界だと思いますが、ソフトバンクが吹き飛んだら楽天グループの三木谷社長が一体どういう顔をするのか、私は個人的に気になります。

ちなみに、AppleはIntelへの出資に乗るかというと、乗らないと思います。
Appleが自社の投資判断を下げてでもAI投資を拒否し続けたのは、今回のハイテクバブル後の状況が大方予想できているからだと思います。

Intelが国有化されても、資金規模で新技術の開発が進むという保証はどこにもなく、アメリカの軍事企業のように中抜きと企業努力を無視した水増しの受注で、さらに「使い物にならなくなる」のは目に見えています。
そんな藪蛇に大金を払わされるのは、時価総額だけが膨らみ、業績が低迷しているAppleには重い足枷になるはずです。

Appleはもはや自社だけが大災害を乗り切る防災に頭がいっぱいで、だからこそ新製品の開発もお座なりのまま、機種を「薄くする」だけでお茶を濁し、投資家の溜飲を下げてもらう腹積りなのでしょう。
ただ、私はやはり何だかんだで最後まで生き残るのはAppleだけだと思っています。

AmazonとGoogleに関しては、事業規模よりも「軍事技術」としての個人データと地理データの有用性が評価され、以後は「裏」の需要で支えられていきそうな気もします。
しかし、その国家安全的リスクがきちんと認識され始めれば、一般国民に忌避感が生まれ「データ更新」に支障が出るにつれ、「軍事技術」としては使えなくなるかもしれません。

だから「寄らば大樹の陰」と、猫も杓子も米国寡占企業のサービスに依存する世の中は、考えものではないかと私は思います。

さて、今回は「日本のこれから」について考えたいと思います。

上述の通り、アメリカ経済はあまりに窮してなり振り構わなくなっており、国債価格の下落とドル安基調で「ハイテクバブル」を炊き、投資を呼び込まなくては国家財政を埋め合わせることができないレベルに来ています。

昨今の日本の「物価高」とそれに伴う不況は、アメリカ経済に引き摺られて発生しているものです。
なぜなら、日本がここ30年空念仏のように唱え続けてきた「円安経」によって、輸出系企業だけが潤い国民経済全体が沈む、という環境が保守されてきたからです。

「円」の適正価格としては1ドル70円ほどではないかと言われているため、どれほどこの円安傾向が異常かわかります。
この円安は、日銀が「円が高くなりそう」という時には必ず円売り介入をしてきた結果であり、政治的に、意図的にもたらされているものです。

後でまた解説しますが、日本が円安であることによって円を元手にしてドルを借りる、いわゆる「円キャリートレード」によって米国株や国債が買われます。
投資家が安い円を通してドルを借り、国債などの金融商品を買うことで、レートの差額分を儲けることができるからです。
円安に相対してドル高になることにより、外国投資に収支を依存するアメリカ政府は莫大な赤字を出しながらも何とかやってこれたのです。

しかし「円キャリー」の仕組みが壊れると、経済のギアが一つ動かなくなります。
すでに米国債安に伴う高利回りの状況で、赤字が拡大している中、米ドルが下落基調にあり相対して「円高」になりつつあります。

「円高」になれば対ドルレートが上がるので、円で買える外国の品物やサービスは相対的に安くなります。
そうすればエネルギー供給不足から始まるインフレに関係なく、日銀の金利引き上げを問わず国民消費は復活し、物価高不況は収まるでしょう。

ただ、そうなると「困る」人たちがいるから、日銀は玉虫色の対応をしながら優柔不断な顔をしているフリをしているのです。
実際のところ、日銀は「日本を良くする方針」を出すことができません。
何故なら、日本が復活するということはアメリカ経済ならず「西側諸国の経済全体が沈む」からです。

昨年2024年の8月、「AIバブル崩壊か」と言われるほどの米国株大暴落が起きました。
この時、引き金となったのは「円キャリー取引」の巻き戻しによるものでした。
あるきっかけで急激な米国債安になった日、投資家たちは損失を抑えるために円を買い戻し、その動きがドル安に繋がり拡大して株式にまで影響したのです。

円高になれば、対ドルで国債を購入している投資家は国債安とドル安が合わさり、二重の損失を被ることになります。
つまり、「円高=米国経済崩壊」なのです。
だからアメリカ経済を保守するために日本の円安は不可欠な条件であり、むしろ日本が「復活」すればアメリカに連れ立って西側諸国も、アメリカの子飼いの中国も沈んでしまいます。
そんな「裏切り」を、アメリカの下僕であり西側陣営の一員たる日本ができるはずがありません。

アメリカの「核の傘」で守られており、自分では「名誉白人」と思い込んでいる日本という国が、国民を犠牲にしてでも西側追従をするのは、立場として仕方ないような気もします。
かと言って、国民全体に「日本独立」のような機運はさらさらなく、どちらかというとiPhoneで YouTubeを見るような生活が続いて欲しいでしょう。

これに関して、私は「どうするべき」という意見は持っていません。
日本人の一人一人が自分たちで国のあり方を考え、決めていくべきでしょうし、私がどうこうしようと思って何とかなることでもありません。

ただ現在、米国経済の悪化に反比例して日本の株価は堅調に伸びており、この好調さはアメリカにとって今後は脅威となるでしょう。
ゆえに、日本が「円安不況」で沈んでいる間は、アメリカはバブルを噴かして好調ぶりをアピールしていられるのです。
だから政府日銀は、アメリカを助けるために円安にしなければならず、どうせなら株高基調も抑え込みたいはずです。

そうしてマゴマゴしているうちに、どんどん物価高は進み、日本の不況は進行していくと思います。
そんな、政治も社会的主導権も奪われた国民にできることは、アメリカ経済がぶっ潰れるまで楽しく耐えきることだと思います。

逆に言うと、アメリカ経済が沈む時は日本が浮上する時です。
よく考えてみれば、この30年日銀が徹底した円安と金融緩和によって、企業の内部留保は増えてゾンビ企業が減り、度重なる増税で国家財政はむしろ黒字になりました。

逆に考えるとバブル崩壊後の日本は、財政健全化の等価交換で国民が貧しくなったということです。
とは言え、まだまだ日本人はポッと出のVtuberに投げ銭できるくらいには裕福なのです。
賃金は上がらず、物価高とは言え一つの商品が100円から300円上がった程度で、日常生活としてはおかずが減ったくらいのダメージで一応は済んでいます。

アメリカでは、卵1パックが6ドル(800円)程度ですし、ロシアでは卵を買うために行列ができるそうです。
他国と比べてもという感じですが、事実として日本経済にはまだまだ体力はあり、しかも財政的にはどんどん良くなっているのです。

これはむしろ、世界経済崩壊を見越して30年準備をして、日本の復活を待っていたように見えないでしょうか?

当然、そんなセコい財政再建のために若者が非正規雇用に流れざるを得ず、家庭を持てない中年が増えたことで、少子高齢化と経済衰退に拍車が掛かったのは言うまでもありません。
それでも、日本が円高になり輸入品の価格が下がるだけで国民の生活はグンと楽になるくらいには、まだ経済的に大した問題のない社会なのです。

そして、この不況下でも上昇基調にある日本経済の底力は相当なもので、日本経済の堅調が世界に知らしめられれば、アメリカやEUに流れる諸外国の投資が日本に流れることも容易に想像できます。

もし、「ハイテクバブル」を噴かしてS&P500を連日最高値にすることで、アメリカ経済が成長軌道に乗り財政も健全化していくなら、2020年にはもう始まっているので、既に何らかの結果は出ているはずです。
それにも関わらず、統計を正直に出せば大統領が怒り出すような世の中ということは、「バブル」に経済の浮揚効果など皆無であることを証明しているのではないでしょうか。

今、トランプ関税のダメージを企業が吸収しているので、消費者に及ぶ範囲は限られています。
しかし、いつまで金融機関の融資に頼れない中小企業が耐えきれるかはわかりません。
そして、おそらくアメリカ経済崩壊は時間の問題であり、あと1年は確実に持たないでしょう。

エコノミストの増田悦佐さんの仰るように、来年2月あたりが関の山でしょうが、私はもっと早いのではないかと思います。
しかもトランプ大統領の横暴が、想像を遥かに超える不確実性をもたらしているのもあります。

私は経済評論家でもありませんし、単なるスピリチュアリストもどきの絵描きにすぎません。
ここでスピッたこと全開で言うなら、日本の「失われた30年」は、日本という国家の「負のカルマ」の返済期間だったのではないか、と思います。

我が国が90年代初期の不動産バブル崩壊後、「豊かさ」を追い求めながら豊かになれなかったのは、むしろ「豊かさだけを追い求めた」高度経済成長からバブルに至るまでの、拝金主義旺盛な日本人に対するカルマのような気がします。

日本の宗教的・政治的問題の中心にあった在日系の組織も、かつて日本が朝鮮半島に行った対外的侵略のカルマと考えたら、妙に納得してしまう部分もあります。
中国共産党の影響が強い今も、かつて我が国が中国大陸でしてきたことを考えれば、文化的に政治的に、そう言う目に遭うのも決して一方的とは思えないのです。

今、外国人の就労には国から補助金が出ており、一人当たり80万円が降りるそうです。
主に東南アジアの人々が多く、彼らも日本で安い賃金で働かざるを得ず生活も大変でしょうが、彼らの出身国は大日本帝国占領下の国々とほぼ一致します。

そして円安でインバウンドが流行り、外国人が国内旅行をすると「日本の良さ」に気づくでしょう。
それは日本が、世界に土下座外交をする以上の好感度を海外に与えていることになるはずです。
それは「善のカルマ」の蓄積であり、いわゆる「」というものです。

日本がこの30年をかけ、おそらく2000年に及ぶ国家的カルマを返済してきたのは、来るべき時代に備えるためだったのかもしれません。
その返済の痛みに耐えながら、それでも日本人はまだ前向きに進みつつ、発展の余地も残しながら着々と未来を築いています。

それに対して、アメリカという国はどうでしょうか。
戦前どころか新大陸に移住し、白人が先住民を殲滅し、外国を侵略しては奴隷として使役し、彼らの犠牲の上に繁栄を築いてきた建国後250年、未だに何一つ変わっていません。
そこにカルマという借金があるとしたら、彼らはまだ一銭も払っていないのです。

もし彼らが「カルマ」を返済するとしたら、どれくらいの期間で、どれほどの規模になるのでしょうか。
簡単には想像しにくいレベルです。

日本が「普通」のあるべき形に戻るだけで、アメリカが依存する「円安」と「株高」というトリックは簡単に解けてしまいます。
それくらい今は脆弱になっているのが、「戦争」を輸出し「侵略」を国是としてきたアメリカという「世界帝国」のなりの果てなのです。

私には、どう考えても崩壊は時間の問題しか思えず、日本人が耐えているだけで自ずと「勝ち残ってしまう」仕組みになっているのではないでしょうか。

仮にアメリカが沈み世界が溺れる中で、日本だけが平気な顔をしていて、それほど世界各国から反感を買うことがあるでしょうか。
プロパガンダで「反日教育」を施されているとか、そういうのは抜きにしてもです。
むしろ日本がアメリカに踏みつけられてきたのは世界が知る事実であり、日本はコツコツと海外に対する慈善事業も行ってきました。

世界経済が沈み混沌とする中で、日本だけが「経済的にマシ」に見える状況も重なり、どんどん諸外国からの信用度が高まっていくのは明白ではないでしょうか。
だから私は、日本の未来に対して悲観をしていません。

しかし、外国人労働者に回してもらっているような、これまでの経済規模は維持することはいずれ不可能になるでしょう。
経済の枠組み自体が改まる必要性は変わらず、その後に持続可能な社会システムをどう再構築していくかが、むしろ鍵になってくると思います。

おそらく、次の時代のテーマは「分散」になるのではないでしょうか。
これまで、「帝国」や「大企業」のような「集中」がトレンドだった世界は、巨大化しすぎた権力とシステムにより、自壊しつつあります。
その前時代への反省として、これからの「風の時代」に相応しく、分散型で低リスク、小規模の多様性社会へ向かっていくのだろうと思います。

そう考えたら、今の行き詰まりを見せる文明は逆の方向を向いているように見えます。
しかし、その時代を見据えて動いてきたのが「日本」だとすると、出口は一つしかありません。


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「玉依姫命」について

楽太郎です。

今回は、久しぶりに「日本神話」に関する記事です。

先日、天気も良く清々しかったので、仙台泉の「賀茂神社」に参拝に行ってきました。
賀茂神社の境内前には由緒書きの看板があって、それを読んだところ気になる箇所がありました。
賀茂神社HP
賀茂神社は、塩釜神社の禰宜家が代々お祀りしてきた「只洲宮」の祭祀神を元禄8年(1695年)から翌年にかけてに古内の地に遷座し、「御祖(みおや)神社」として奉斎したとされます。
御祖神社を「下賀茂神社」とし、同社完成後に「分雷命」を勧請し、元禄10年に「分雷神社」として「上賀茂神社」が建立されました。

これで気になるのは、「上賀茂神社」の創建が先ではなく、「只洲宮」の「下賀茂神社」の勧請が先になっているということです。
「上賀茂神社」の方が格上に思えるのですが、「分雷神社」よりも「下賀茂神社(只洲宮)」が先立つ理由があるはずです。
逆に「御祖神社」の方が「分雷神社」よりもネームバリューがありそうな気がするのですが、どういうことなのでしょうか。

「賀茂神社」の本社は京都府左京区にある「貴布彌神社」とされ、主祭神を水神である「闇龗神」としています。
これには、私の「瀬織津センサー」がビビビッと反応しました。

公式には「下賀茂神社」の主祭神を「多々須(ただち)玉依姫命」とされ、上賀茂神社は「分雷命」、境内社に「賀茂建角身命」を「八咫烏神社」としてお祀りしています。

「多々須(ただち)」と聞いて、玉依姫の別名とされる玉櫛姫命こと「勢夜陀多良(せやだたら)比売命」と、神武天皇の皇后である「媛蹈鞴(ひめたたら)五十鈴姫」の名が思い浮かぶのも気になります。

「分雷命」は、かつて京都地方を支配していた豪族「賀茂氏」の氏神とされ、伝承によると玉依姫の子息であり、「火雷命」が丹塗矢に化けて玉依姫を孕らせ、成人後に父・火雷命を追って天に昇ったと言われています。
しかし一般的には、玉依姫は「ウガヤフキアエズ命」の妃であり「媛蹈鞴五十鈴姫」の母とされます。

記紀的伝承では「媛蹈鞴五十鈴姫」の夫が「神武天皇」とされるので、「分雷命」を「神武天皇」と比定しても、天皇の実母が玉依姫ということになり、系統に齟齬が生じます。
「勢夜陀多良姫命」の夫を「大物主=大国主」とする系譜は、玉依姫の「丹塗矢」が「火遠理命(山幸彦)」の子「ウガヤフキアエズ命」の隠語だと解釈する分には、矛盾はありません。

どうも、賀茂家は「神武天皇(分雷命)が御祖神の玉依姫の直系である」と暗に仄めかしているのではないでしょうか。
だから賀茂家からすれば、玉依姫の御子の「媛蹈鞴五十鈴姫」が天照大御神から続く天皇家に嫁いだわけではなく、むしろ神武天皇を祖神とする天皇家が賀茂家氏神の賀茂建角身命、玉依姫命の系統から始まった、と言いたいようにも思えます。

では、賀茂神社で別社の「八咫烏神社」として祀られる「賀茂建角身命」とは、一体どういう神様なのでしょうか。
「賀茂建角身命」は別名「三嶋溝咋命」と言われ、「三島」とは伊豆半島周辺の地域を指し、その地方を治める氏神、産土神である可能性が高いです。
三島市周辺には、京都にゆかりのある地名も多く、古く賀茂系氏族がこの地に移り住み、或いは深い血族的交流があったと推察されます。

もしくは「大山咋(くい)神」とされ、山の神が「咋神」と言われる時は、ルーツが滋賀の比叡山(日枝山)、京都の松尾山とされる場合が殆どです。
反対に「大山祇(つみ)神」とされる時は、全国の大小の山々の土着神である場合が多く、伝承として「女神」とされることも多いようです。

松尾山の「大山咋神」と言えば「松尾大社」が有名ですが、京都の東には一方の大社「賀茂神社」が鎮座しています。
松尾大社は渡来系氏族としては京都で賀茂氏に並び、朝廷に影響力を持った「秦氏」の氏神社です。

かつて、京都盆地を支配した「秦氏」と「賀茂氏」の二大豪族は、婚姻関係を持ちながら宮中の祭祀を司ったとされます。
賀茂氏はおそらく三輪山の祭祀をルーツとする土着系豪族ですが、渡来系である秦氏は元は海洋系氏族であり、「海部氏」と繋がりがあります。
ゆえに、松尾大社で大山咋神と共に祀られている「中津姫命」が「市杵島姫命」とされるのも、秦氏が宗像系氏族と繋がりがあることの証左になります。

秦氏にゆかりのある京都の「木島坐(このしまにます)天照御魂神社」の境内には、「織物」にまつわる「蚕の社」があり、また「元糺(もとただす)の池」という神泉があります。
一方、京都の「賀茂御祖神社(下賀茂神社)」には12万平方メートルに及ぶ世界遺産の「糺(ただす)の森」があり、社叢林を巡る小川は賀茂川の支流にあり、その水源が学術的にも貴重な生態系を保全しています。

仙台賀茂神社の「只洲の宮」の語源は、京都下賀茂神社の「糺の森」にあることは間違いないでしょう。
そして、多々須玉依姫の父神を「賀茂建角身命」、滋賀・松尾の「大山咋神」とするのも共通します。
従って、塩釜神社の祭祀を担当してきた禰宜家が、個人的に賀茂神社の御祖神をお祀りしてきたのも、元々は京都の一族だったからと考えられます。

宮城の三陸に位置する塩釜神社は、かつて大和朝廷が蝦夷平定の折、前哨基地である「多賀城」の西南5キロの丘に、京都などから派遣された役人が祈願のために創建した神社と言われています。
塩釜神社には、かつて大和平定を成し遂げた武神である「武甕槌神」「経津主神」の二柱が左右宮の拝殿に主祭神として祀られています。
また「別宮」として塩釜の地に製塩の技法を授けた「塩土老翁命」が祀られていますが、ここで「別宮」とされるのは、「特別にお祀りしている」という意味だそうです。

塩釜神社に特別に祀られる「塩土老翁命」は、分社である仙台賀茂神社の「賀茂建角身命」と関連があるように思えます。
江戸時代以前まで、塩釜神社の主祭神は「塩釜明神」とされ、由緒が判然としなかったと言われています。

仙台藩四代目藩主である伊達綱村は、塩釜神社造営の折に由緒について調べさせ、それを「塩釜社縁起」にまとめました。
それによると、「塩釜六所明神或曰猿田彦事勝國勝塩土老翁岐神興玉命太田命六座同体異名神也」とあり、「猿田彦大神・事勝國勝狭神・塩土老翁命・岐の神、興玉命、太田命」の六座を同一神と比定しました。

「賀茂建角身命」が「八咫烏神」とされることは前述しましたが、八咫烏は神武天皇が東征の際、熊野にて橿原に案内した「太陽神(高神産日神)の遣い」とされます。
塩釜社縁起の説に沿って考えると、「猿田彦大神」は天孫降臨の際に瓊瓊杵命を高千穂に導いた神であり、吾田の地と娘を瓊瓊杵命に授けた事勝國勝狭神と似た功績を残しています。

「塩土老翁命」は、猿田彦大神と同じ「導き」の神であり、塩釜の地に武甕槌神と経津主神を導き、蝦夷平定の助力をしたことになります。
つまり完全なる同定はできないにせよ、神能と神格としては「賀茂建角身命」と「塩土老翁命」には強い共通点があります。

賀茂建角身命、または三嶋溝咋命の娘が「玉依姫(玉櫛姫)」であるのは間違いないようです。
しかし縁起説にある六座には、事勝國勝狭神の娘が「神吾田鹿葦津(かむあたかしつ)姫」、いわゆる「木之花咲耶姫命」がおられる以外に、他の五座には明確に御子神が存在しません。
「塩土老翁命」が山幸彦を豊玉姫の坐す竜宮に導いた時、翁が「龍王」として語られている訳ではないからです。

とは言え、事勝國勝狭神は別名を「大山咋神」とされており、「木之花咲耶姫命」を「玉依姫」と同定可能であるのは確かなように思います。
しかし木之花咲耶姫命は瓊瓊杵命の妃であり、火遠理命(山幸彦)の母となるので、玉依姫から見ると夫の火雷命は息子ということになってしまいます。
ここら辺が日本神話のゴニョゴニョした部分というか、玉依姫の比定を軸に世代が交錯するのが神話解釈の鬼門になっているように思います。

日本の神社祭祀が720年成立の「日本書紀」を礎とし、国史に連なる神話を縁起や由緒としながら、土着の信仰や氏族の伝承が組み込まれた先々でこのような齟齬が発生していったのでしょう。
また「記紀」には、奈良時代の政情不安の朝廷が豪族を皇室に繋ぎ止め、氏族の身分を取りまとめる役割もあり、そこに多少の政治的「忖度」があるはずです。

もし「オリジナル」があるとしたら、その伝承は記紀以前に遡るはずで、おそらく文書としては残っておらず口承の部分も多かったでしょう。
ゆえに、「玉依姫命」が元々どういう御神格であるかについて、「神武天皇」の母・義母という多分に政治的な立場にある女神として、様々な解釈が存在するがゆえに「鴨玉依姫」「玉櫛姫」「多々須玉依姫命」「櫛玉依姫命」など、様々な呼称が存在するのだと思います。

「玉依姫」という神名の語源を辿れば、「玉」とは「霊」のことであり、霊が「依る」即ち「霊の依代となる女神」という意味になります。
その「霊」を「神武天皇を身籠もった」と解釈すれば、神武天皇の母である女神、という定義になります。
しかし玉依姫を神武天皇の妃である「媛蹈鞴五十鈴姫」の母とするなら、五十鈴姫を身籠もったのが「霊を憑依する巫女」であったという意味になり、一気に擬人化されます。

私はここで、虚実ないまぜになっているのが、認知的不協和の原因ではないかと思います。
冷静に考えて、神武天皇はご誕生からご成育環境まで地域が特定されていますし、古墳などから足跡を辿ることも可能です。
しかし「大山咋神」や「玉依姫命」に関しては、古代の豪族に縁を見ることもできるでしょうが、そもそもいつの時代も目に見えない神霊であられます。

いくら皇族と言えど、人間として地上にいる限りは肉体が必要です。
ただ神武天皇の系譜を見る限り、玉依姫命は人間の肉体を持っていなくては身籠もることはできないでしょう。

穿った見方かもしれませんが、神と人間の系譜を繋げる時、「玉依姫命」という女神が接続点となり、この矛盾が数々の系譜に現れているのではないでしょうか。
「人間の肉体を持たない神」が「神である人間」を産む時、そのズレを説明しきれないからこそ、各氏族が自身の系統を説明する時に最も都合の良い解釈になったのだと思います。

だから私は、玉依姫までは天の神々の系譜であり、神武天皇の「母」までは皇族の系譜なのだと思います。
それを繋ごうとした時、玉依姫が「母」になるか「義母」になるかという齟齬以上に、玉依姫が「山の神(大山咋神)」の娘なのか、「海の神(綿津見神)」の娘なのかという差異にも繋がったのではないでしょうか。

ここで、玉依姫命は「山の神なのか、海の神なのか」という疑問も立ち現れてきます。

どうも玉依姫命が木島坐天照御魂神社では「中津姫命(市杵島姫命)」、事勝國勝狭神の御子神が「木之花咲耶姫命」とされることにヒントがあるように思います。
市杵島姫命は「宗像三女神」の一柱で「海の女神」ですが、木之花咲耶姫命は「山の女神」であり、どちらも「旧支配者」の娘であるのは変わりません。
旧支配者の「父」が禅譲する際、その後継者(瓊瓊杵命・火遠理命・大物主・火雷命etc.)が娘である女神を娶っています。
つまり、山でも海でも図式は全く同じです。

「玉依姫命」の御神名にある「玉(霊)」が「稲(サ) の霊」を指すとしたら、「玉依姫命」の正体が見えてきます。
長野の「筑摩神社」には宗像三女神の一柱である「市杵島姫命」の別名として「狭依(さより)姫命」が祀られています。
つまり、「玉依姫」とは「狭依姫」であり、「瀬織津姫命」と同定可能と言えるのではないでしょうか。

そう考えると、山の神たる大山咋神の娘が玉依姫であるのも、説明がつきます。
山から流れてくるのは「川」であって、「サの霊(玉)」は川を伝って降りてくるからです。

私は以前、「進撃の瀬織津姫」という記事の中で「朝廷に影響力を持った海部系氏族によって、瀬織津姫命という神格が"宗像三女神"に上書きされた」という仮説を述べました。 
海洋系氏族が陸の耕作民となり、「川」の女神を信仰するようになると、宗像氏が祀る玄界灘の三島に因んだ海神と陸側の「川」や「滝」にまつわる神名が習合し、「瀬織津姫命」という御神格は「市杵島姫命」に置き換わったのだと私は考えています。

人間の生活に欠かせない、淡水の流れる「川」は「山」から伝ってきます。
だから「大山咋(祇)神」の御子神が「川」を象徴する「瀬織津姫命」であるのは、理に叶っています。

「狭依姫命」という御神名は「瀬織津姫命」と密接な関係にあり、「狭(サ)」とは本来「稲霊(サ)」を意味するのだと思います。
山から瀬を伝って「降りてくる」神霊は、秋になれば稲に宿り、実りをもたらす。
この豊作祈願の儀式が東北に残った「サオリ」という風習であり、また「サ」の神を降ろす巫女・乙女を「早乙女」と呼び、「サ」の儀式を行う月が「皐月」になるわけです。

だから「狭依(瀬織津)姫命」というのは、本来は稲田に豊作をもたらす神だったのではないか、と思います。
その件に関しては、上記の記事で詳しく書いています。
ゆえに、「玉依姫命=瀬織津姫命」であると結論づけたいと思います。

ただ、「瀬織津姫命」という御神格は、伊勢神道並びに各由緒において「撞賢木天疎厳之御魂向津姫(つきさかきあまさかるいつのみたまむかつひめ)命」ともされており、「天照大御神の荒魂」と言われます。

しかし、「天照大御神」が素戔嗚命との誓約で誕生した神々がおられるにせよ、伴侶となる神が存在する訳ではありません。
「公式」にそうなっているのですから、御祖の神が天照大御神に繋がっているとしても、地方豪族が祖先の神武天皇を指して「天照大御神の御子神が我が氏神である」とするのは、さすがに暴論になってしまうはずです。

天照大御神、言わんや「瀬織津姫命」は記紀に記載もなく、伴侶も御子神も歴然とはしていないのですから、隠喩的に神格をスライドさせて説明できるようにしようと考えた結果、「玉依姫命」という御神格が誕生したのではないでしょうか。

ただ、私は「天照大御神の荒魂」の偽物として「玉依姫命」という御神格があるとは考えていません。
「玉依姫命」という御神名が、たまたま豪族と皇族の祖神の系譜を繋ぎ合わせるのに最適な固有名詞であったからではないか、と思います。

ゆえに、私の結論としては「玉依姫命」とは「瀬織津姫命=撞賢木向津姫命」であると言えます。
だから仙台賀茂神社の下賀茂社が塩釜より先に古内の地に遷座したのも、「只洲宮」たる瀬織津姫命、つまり「天照大御神」だからと考えれば説明がつきます。

ではなぜ父神であられる「塩土老翁命」が塩釜の地に残ったかを考えれば、多賀城が造営され塩釜に「武甕槌神・経津主神」が祭祀される以前には、すでに「塩土老翁命」がお祀りされていたからではないでしょうか。
「塩釜の塩造り」は太古から始まっており、「海と塩の神様」は元々この地に祀られていたのだと思います。

それが京都由来の国家神道の流れを受けた時に、「導きの神」としての御神名が宛てられたのかもしれません。
その証拠に、仙台市内や賀茂神社周辺の土地には、京都賀茂氏の流れを組む、賀茂県主の足跡を残す地名が残っています。
私は地元にいながら「瀬織津姫命」にまつわる土地に暮らせることを嬉しく思います。

あと、私見ですが「日月神示」において、「御三体の神」として「伊弉諾命・伊奘冉命・つきさかきむかつ姫」の名が挙げられており、どうも「つきさかきむかつ姫は伊弉諾命と伊奘冉命二柱の、正真正銘の御子神ではないか」と仮説を立てています。
つきさかきむかつ姫が「撞賢木天疎厳之御魂向津姫命=天照大御神」なのだとすると、瀬織津姫命のご両親は伊弉諾命と伊奘冉命となります。

この説を敷衍すると、「賀茂建角身命=塩土老翁命=猿田彦大神=事勝國勝狭神=岐神=伊弉諾(伊邪那岐)命」となってしまいます。
ゆえに、玉依姫命の父神は「賀茂建角身命」こと「伊弉諾命」ということになります。

こんなことを言えば、日本中の神社出入り禁止になってもおかしくないのですが、そういう考え方もあるということです。
ただ、私はあながち侮れない説のような気もしています…



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「今」できること

楽太郎です。

やはり、「秋分」を境にガラッと空気が明るくなったのを感じています。
私自身が日食新月を通して、「巡り」つまり負のカルマの精算がだいぶ進んだのも大きいと思います。

この「大峠」というのは、古い時代から新しい時代の間にかかる「峠」を意味します。
それゆえ「古い自分」を捨て去り、「新しい自分」に生まれ変わる過程が、本来の意味での「大峠」なのだと思います。

これは目に見えず、本当に起こっているかは本人にもわかりません。
しかし、誰しも今のやり方、今までのやり方に対する疑問や葛藤を感じているのではないでしょうか。
その内面的な抵抗が、現世で私たちが立ち向かう「大峠」の正体です。

ただ、「葛藤」というのは勝手に生じてくるものではなく、それなりに現実的な根拠があるから心に起こります。
例えば会社のやり方が酷く気に入らないとか、自分の仕事がこの先続いて行けそうにない、という状況に巻き込まれたり、あるいは世の政治に疑問を持ったり、SNSでの人々の意見に違和感を持ったり、というのもあるかもしれません。

「大峠」というのは、人それぞれに人生のテーマや使命が違うように、立ち現れ方も目的も異なるでしょう。
それぞれの人にそれぞれの「大峠」があるわけですが、今は全ての人にそのきっかけが与えられているように見えます。
それを世の現象に当てはめてみれば、世界的な政治経済を巡る混乱であり、モラルハザードや文明の衰退であったりするのだと思います。

「広義」の大峠と「狭義」の大峠があり、そのどちらも本質は一緒ですが、広義の大峠が先立ち、それに巻き込まれた個人が狭義の大峠と向き合うことになります。
各々が狭義の大峠を乗り越えた時、最大公約数としての広義の大峠が終わるのだと思います。

そして、それぞれの「大峠」は量産型の生き方に染まった古い自分を脱ぎ捨て、唯一無二の自分に立ち返り復活する時、踏破することができるはずです。
それが神示に語られる「富士=不二」であり、その登山の苦労が終わる時「苦(く)の花が咲く」、富士山の守護神たる「木之花咲耶姫」は花を咲かせます。

それが「鳴門=成る戸」の仕組みであり、「岩戸開き」なのだと思います。
この岩戸開きにも「狭義」と「広義」があって、個人が唯一無二の自分に立ち返ることが狭義の岩戸開きだとしたら、広義の岩戸開きが成就した時、「国常立尊」が天の日を嗣ぎ、「天日月大神」としてご降臨なされ、「弥栄の世」つまり神世が始まるのだと、私は考えています。

その現象の一環として、世の閉塞は元より「次元上昇(アセンション)」が起こっているのではないでしょうか。
そう考えると、近年に起こったことは大体辻褄が合うのです。

「グローバリズム」という、不可解なレトリックが世を席巻し、大衆は反感を持ちながらも巨大権力が高圧的に押しつけ、無理やり推進してきた経緯があります。
私は、そこに「金と権力」の最終形態があるように思えてならず、魔物化した「資本主義」が、人々の命すらも換金の対象にし始めたように思えます。

それが現在も続く、いくつかの不可解に始まった戦争です。
これらの戦争の違和感の中心には「アメリカ」という国があり、「わざと煙が立てられたように見える」所から始まっているということです。
これまで事実上、アメリカという国が賄賂で回る政治を採用し「利権」がものを言う国だからこそ、戦争という「事業」がアメリカの権威を下支えしてきました。

それはまさにアメリカがこの1世紀、対外的に行なってきた明々白々たる歴史であり、私たちはそのトリックの内側で目を逸らされ続けてきたのです。
その傘下にある日本が、彼らの影響を全く受けていないはずはありません。
それが戦後80年を経てこれまで以上に表出しているのを、私たちは目の当たりにしているのです。

そして、その帝国主義的「帝国」の崩壊は間近に迫っており、その後の混乱もある程度は予想がつく段階まで来ています。
この状況を鑑みるに、広義の「大峠」はスケール的に見れば中腹に差し掛かってすらいないでしょう。
そして、この事実を間に受けている人は殆どおらず、各人はまだ「これまでの世界は続く」と信じているため、まだ大峠の入り口にすら立っていない人も多いのです。

これから、人々の「長い旅」が始まります。
それに先立って「大峠」を登り始めた人々は、もうすぐそれを乗り越えるはずです。
ただ、「大峠」という枠組み自体が壮大な現象であるため、個人が「狭義の大峠」を乗り越えたとしても、全体としての大峠を終えるためには人を導かなくてはならないでしょう。

人類としてそれら全ての行程を終えてこそ、真の意味での「大峠」は終わります。
だから私が一つの山を越えても、全体から見ればまだまだ続くように思えます。

ただ体感的に一番しんどいのは、「巡り」が自分に返ってきている、つまり過去のカルマを精算している期間です。
自分の過去を振り返り反省する中で、「後悔」というのは決してタイムリープして解決できるようなものではありません。
今生きている自分が、どうしようもない過去の記憶とどう向き合うか、ということだけなのです。

それゆえの葛藤であり、むしろ今「どうすれば良かったか」ということが身に染みてわかるほど、その後悔は深くなっていくはずです。
私は「悟ってからの方が修行」だと思うのは、答えが明らかなほど、間違いの大きさに気づくこともあるからです。

その葛藤は、決して他人からは見えません。
同様に人がこの世の障害に出くわし、それぞれの人生のテーマにある「大峠」と向かい合う時、その心の葛藤も簡単にわかるものではないでしょう。
目に見えるとしたら、「悩みがある」とか、「人が良くなった」とか、「生き方が変わった」という程度に過ぎないかもしれません。

ゆえに、誰の目から見ても「大峠」という現象をはっきり捉えられないはずです。
だから一般的には「これだけ世の中が大変だと、みんな悩むだろう」と思うでしょうし、後になって「金融支配の文明の過渡期が、大峠だった」と振り返るのでしょうが、実際はもっと内面的なものなのです。

そして新しい文明の時代は、人々が「お金のため」に職業を選択し、会社や組織に従属する生き方ではなく、それぞれの人生の目的にある仕事を探し、自主的に「働いて」対価を得る、という生き方に変わっていくのだろうと思います。
そこで「唯一無二の自分」に責任を持ち歩むことで、誰にも比較されない独自の「幸福」を掴む人生に向かっていくはずです。

無闇に競争を煽られ、社会の歯車として没個性的な生き方を押しつけられてきた私たちは、ようやく「お金」とそれに付随する「権力」から自由になっていくのです。
それこそが人間本来の生き方のはずでしたが、人間が「神の道」たるその生き方から外れ、魑魅魍魎の誘いが蔓延る「闇の時代」が長く続きました。
その時代を乗り越え、新たな時代を迎えるために「大峠」が起こっていることは、言うまでもありません。

私たちが何の疑いもなく生きてきた、これまでの「当たり前」の社会は、神々から見れば全くイレギュラーな世界だったのだと思います。
人々が物質文明を築き、地球を意のままに改造し、自分たちに都合の良い環境にしている間は、神の存在を都市伝説にすることさえできました。

それを裏付けするのが「科学」でしたが、物質一面の説明では精神的な世界観がお座なりになり、その次元を忘れることで荒廃が起きていることも、今では明白になりつつあります。
人々の心はビタミン成分やお金で買える快楽では満たされず、結局は心の深くにある情緒と向き合う必要があり、それこそ「愛」や「信仰」であると、人々は気づき始めています。

実は、まだそこまで目が行かない人の方が多いのですが、私はそれも時間の問題ではないかと思います。
現段階でさえ、「このままでは先がない」というのは誰しも薄々気づいているはずです。
それがますます如実に具体化してくれば、目を逸らし続けることは不可能でしょう。

これらは全て神々の「ご計画」であると、私は確信しています。
そして全てが終わった時、世の中はもう少し「神の存在」を信じる空気に変わるのではないでしょうか。
神々がそれを見通しておられたからこそ、天にツバを吐く人間をあえてお許しになられてきたのでしょうし、その時に人々が神に懺悔し、感謝する日が来るのだろうと思います。

その日を迎えるために、神々からご用命を与えられている人々がいます。

私たちはまず自分のことを成し、その上で人のために働いていくことになります。
理不尽なこともあるでしょうが、それを耐えることができる器だからこそ、お役目を与えられているのだと思います。

その重要さを受け止めるあまり、責任感を強く感じられるでしょう。
ただ、率先して人を導こうとするあまり、拙速になったり焦る必要はないと思います。
まだ多くの人々は、自分の置かれている状況にすら気づいていないからです。
だから焦る時間ではないですし、しばらくはこれまでと同様、目の前のことをコツコツやっていけば良いだけなのだと思います。

私たちが「今できること」は、とりあえず自分の巡りを精算し、心を落ち着けて己の「大峠」を乗り越えることではないでしょうか。
しばらくの間は、その時間が重要になってくるように思います。

私自身は、新しく何かを始めるのはその先、という気がしています。



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悪への「感謝」

楽太郎です。


本日9月23日秋分ですが、驚くほど空気が軽くなったのを感じます。
秋のカラッとした空気と、過ごしやすい気温だけでそう感じるのではないと思います。

「闇」のまとわりつくような陰湿さが一気に掻き消えたように見えますし、どちらかと言うとその反映として「光」が際立っているように思えます。

これまで、世界は「物質」による動きが先導し、その後に人心が動くことが多い時代でした。
しかし、低い波長域にある「物質」は、人間の精神的なエネルギーの中でも「欲望」のように肉体的な、低い波長による干渉を受けやすい性質があります。

スピリチュアル的には「霊主体従」と言い、霊界で起きた現象が先立ち、物質界に反映するという法則があるのですが、それは不変なはずです。
ただし、人間の精神的エネルギーが低い波長域に留まりやすかったからこそ、どちらかと言えば「体」に重きが置かれ「霊」が軽視される時代が続いたのです。

「神に仇なす者たち」は、闇の支配者たる悪の神より下は極めて波長の低い霊たちです。
その低級霊の干渉を受けやすい物質と人間の肉体は、その影響をもろに受け、実に操りやすい環境にあったのだと思います。

だから法則としては「霊主体従」なのですが、実質的には「体主霊従」だったのです。
この秋分のすごいところは、おそらくこのパワーバランスの切り替わりが起こり始めた、ということです。

地球の次元上昇とは、地球の波長帯が丸ごと高周波になっていくことで、地球上にある物質の波長が高くなることを意味します。
アセンションが起きることで低い波長による干渉、即ち「神に仇なす者」の影響力は受けにくくなり、それゆえ「光」が先導する力が、より物質に影響を与えやすくなったのです。

そのパワーバランスの逆転が、この秋分で起きています。
これは歴史的なことですが、具体的に人々が感じられるのは、もう少ししてエネルギーが具現化し始めたあたりではないでしょうか。

しかし、これまで世界は低い波長帯にあったので、神々の包括的な力、いわゆる「因果法則」が発動するまではタイムラグがありました。
けれど、次元上昇した世界ではより神界の波長に近くなるため、因果律の適用ももう少し早まるはずです。
「原因」と「結果」の間が短くなるということは、世の中の回転がこれまでの時代より早くなるということだと思います。

だから、これから世の中がわりとサクサク変わっていくかもしれません。

これまでの時代は「闇」の時代だったと言いますが、いくら世界が夜でもネオン街には魅力もあったのです。
恋人たちが夜景を見てロマンスをするように、物質中心の文明は悪いことばかりではありませんでした。

確かに、金や支配欲のために戦争を起こすような時代でもあったのですが、便利な製品が増えることで生活が楽になり、より楽しく暮らすこともできるようになりました。
私自身、団地が一つの「スマートシティ」のように機能する、豊かな時代を懐かしく思いますし、地下から地上数階までギッシリ品物で埋め尽くされた、百貨店や大型スーパーの賑やかさも愛しく感じるのです。

ただ人間は歳を取りますし、出生率が下がれば若者も減り、年寄りが増えればお金を使わなくなります。
時代が変われば、世のトレンドも変わりますし、新しいものがどんどん出てくる時代もあれば、出尽くして飽和しきる時代にもなります。

私たちは、その回転が終わりかけるのが意外と早かったことに驚き、なお認めることができないだけなのです。
というか、この時代を未だに牛耳る団塊の世代は、まだ1975年頃の感覚で、製造業主体の右肩上がりの経済が続くと思い込んでいるのです。

その幻想が如実に具現化したのが近年の「東京オリンピック」と「大阪万博」です。
あれは高齢者主導の経済が、上手く回らなくなり始めていることの象徴ではないでしょうか。
私たちはあの体たらくを見ながら、お偉いさんが大真面目にやっている(滑稽な)姿に、ツッコミたくても何も言えない状態でした。

正直な話、20年前に彼らが「ヨッコイショ」と後陣に潔く席を開け渡していれば、今日のようなドン詰まりの経済にはなっていないでしょう。
けれど、私は「老害批判」をしたいわけではありません。
むしろ、団塊の世代の働きによって日本も豊かになったわけですし、時代が違えばむしろ良い方向に振れたでしょう。

問題は、時代にマッチしないことをやり続け、それに固執しながら世代交代を拒否し続けたことです。
けれど、彼らは自分たちが「時代に合わない」など思ってはおらず、むしろ自分たちが正しく賢いと信じているからこそ、自分たち以外に任せられないと思っているのでしょう。

ただ、その絶好の切り替わりはとうの20年前に過ぎており、現文明の中心国であるアメリカ合衆国が崩れる直前まで、体制を引っ張ってしまいました。
だとしたら、世代交代はこれから起こるカタストロフをもって、強制的に起こるのは避けられないでしょう。

これも神々のシナリオでしょうが、団塊の世代には文明の中興と没落を司る役目があったとしか思えないのです。

私は団塊の世代の方々が「悪玉」であるとは思いませんし、そう言うつもりもさらさらありません。
ただTPOを弁えない人々が多く、それも国家のトップにいる人ほどそうであり、半生を費やして手にした「利権」の大事さもわかります。
おそらく、今でも不動産バブル以前同様の高度成長期なら、正しい行いにもなったはずです。

こうして見ると、「悪」というのは自分が明らかに悪いと思って世に反抗する、ヤンキーのような存在とは違うように見えます。
TPOに合わないことをすれば、自分がどう意識していても「悪」になってしまうものです。
だから心根の善良さと、やっていることのギャップを見る限り、人間は誰しも自分が「間違っている」とは思わないのでしょう。

例によって「日月神示」の話をすると、「善」の中にも「悪」があるとは、こういうことなのだろうと思います。
誰もが「正しい」と思って励む善業は、他者や全体からすれば必ずしも「正しい」とは限らない、という当たり前のことですが、一般社会で「偉い」とされる人々がやるとここまで微妙になるのです。

反対に、この「悪」をひっくり返そうとする「善」は、むしろ一般社会では「悪」の範疇に入ります。
クーデターや暴力革命は以ての外ですが、そもそも「戦いを挑む」という行為自体が「悪」の性質を持ちます。
「平和」が最善とするなら、「挑戦」は混沌をもたらす契機となりうるからです。

ここに、神示で語られる「善の善」「善の悪」「悪の善」が揃い踏みします。
あと残りの「悪の悪」が、一番厄介なのです。
先の三つの方は、三つ巴で循環しているうちは調和に向かう性質があり、つまりどこかに「善」の性質を含んでいるからです。

しかし、「悪の悪」とは、「自分にとっての善」が欠けているからこそ、自己破滅的な悪である以上、余計にタチが悪いのです。
「自分は死んでも構わない」と思って罪を犯す時、とてつもない大惨事になりやすいという事実は、どこか思い当たる節があるはずです。

それをすると自分は生き残らないし、他人も巻き添えにして社会全体に対する悪影響も最大化されます。
ここには「自己愛」すらなく、「他者憎悪」だけがあります。
これこそ「魔」の性質そのものであり、上に挙げた「善」と混じり合う「悪」とは、全く性質が異なるのがわかります。

神示の言い方では、この「魔」こそ祓いの対象であり、「悪を抱き参らせる」枠組みに入らない概念なのではないかと思うのです。
「悪」の中でも、「自分がこれで良い」と思うことで行う「悪」は「善」であり、そこまでは魂の自由なのです。
しかし「自分は滅んでも良い」と思ってやる悪は、まず人より先に自分が破滅するでしょう。

神様は、こういった考えだけが唯一「弥栄えない」とお考えであり、これをお祓いしたいのではないかと思うのです。
「悪」と「善」が相剋する時、お互いが「善」であると思うから化学反応が起こり、双方の悪が「善の善」、即ち神々の定義する真の「善」に向かい、それゆえに「弥栄」していきます。
それらは自分が永続しよう、向上しようと思うから正当化しうるのであって、「全て滅べばいい」という意志は、次元が違うのです。

「邪」が「悪」とするなら、おそらくまだ許されるのでしょう。
しかし「魔」に至っては、その存在が何一つメリットにならない分、この世界に許されざる存在なのかもしれません。

そう考えると日本の、敷衍してアメリカを牛耳る超富裕層も、「自分だけが得をしよう」と思っているうちは、まだ可愛げのある「悪」なのかもしれません。
怖いのは、「自分が破滅するくらいなら周りを巻き込んでやろう」という、「悪の悪」に変貌することです。
私は、そこまで人間の心が歪まないことを願うばかりです。

ただTPOを弁えないだけの「悪」なら、きちんと言って聞かせれば退いてくれるはずです。
これまで、彼らの持つ「お金」と「権力」におもねることが賢い生存戦術だったからこそ、手足として動く人間が後を絶たなかったわけです。
世の中がもうそんな雰囲気ではないことがわかれば、さすがに無理は効かなくなるでしょう。

この世界に「悪」がいる理由とは、人が生きる上で発生する「罪穢れ」を背負い、体現する人がこの世に必要だからなのではないか、と私は考えています
何もかも上手くいっているうちは良いのですが、途中でどこか歪んだり、形骸化しておかしくなってくる部分があります。

人心に抱えるストレスだけでなく、仕組みとして機能不全に陥ったり、ルールに抜け道が出来たりもするでしょう。
そういう時に、「悪いこと」をしてくれる人がいるから、その「悪い状況」に気づくことができます。

「悪人」は自ら「悪」を体現し、「罪穢れ」つまり負のカルマを背負って、世に矯正を促す役目を持った人たちなのではないかと思うのです。
それゆえ、この世に「悪」の存在が許されており、あらゆる悪行が存在するのではないでしょうか。

だから「悪の善」というのは、「悪が悪を行う権利」であって、それも「善の善」へ向かうための大事な歯車なのだと思います。
そして、彼らが今の世に蔓延ってくれるおかげで、「目覚める人」が増えて世は改まっていくのかもしれません。

だから、「悪」にはむしろ感謝しなければいけないのです。
そして彼らがもっと良いやり方に気づく時が「善」に向かう証拠となり、その時「悪を抱き参らせる」ことができるのだと思います。


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