招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

AIの時代は来ない。

楽太郎です。

最近、本ブログでは「反米」的な言説が多くなっていますが、我が国が終戦から80年という節目を迎え、欧米の文明的衰退と混乱を目の当たりにしながら、日に日に行き詰まりを感じる私たちが「このままで良いのだろうか?」と考える風潮を持ち始めているのも、何となく反映しているのかもしれません。

当のアメリカは中国に尻尾を振りながらロシアを支援するインドを牽制し、EUに喧嘩を売りながら韓国は見捨て、イスラエルを無償支援しながらウクライナに譲歩を迫るという意味のわからない不確実性を撒き散らしています。
俯瞰してみるとアメリカは「第三の社会主義帝国」という振る舞いを隠そうとしていないようにも見えます。
私は中国もロシアも実はアメリカとは対立しておらず、構造的に同根なのではないかと以前から仮説を立てていたのですが、まさか目に見える形になって出てくるとは思いませんでした。

本日付のBloombergに、政権ベタ寄りの提灯記事ばかりの同社のコンテンツの中で、珍しく骨太のコラムが掲載されました。

トランプ氏が突き進む米経済自滅の道 | Bloomberg

「このコラムの内容は、必ずしも編集部やブルームバーグ・エル・ピー、オーナーらの意見を反映するものではありません」と但し書きがあるあたり、「編集としては内心こう思っているけど、さすがに社の本音と言う訳にはいかない」という口惜しさが滲み出ているように感じます。
ただ申し訳ないですが、AIの規制緩和やイノベーションの推進は、債務超過の危機にある米国政府がハイテクバブルを利用して外国から投資を呼び込むための方便であり、トランプ大統領の方針を総括すると360°悪手です。

今の新聞業界は、日本でも凋落が激しいですがアメリカも例外ではなく、この30年で新聞社の人員が4分の1になったというデータがあります。
確かに、ネットニュースさえあれば紙の新聞は翌日になれば「新聞紙」として使う以外の用途がなくなり、経済効率的に良いとは言えません。
この業界も人員不足で取材なども踏み込んで行わず、またファクトチェックする余裕もないのでしょう。

ネットニュースはサブスクなどを展開していますが、マイクロペイメントにすればもっと記事単価の収益は上がるのに、全体的に高価格帯のサブスクを一般化しようとするため、ニュースに高い月額を払える比較的裕福な層と、無料の粗雑なネットニュースを見るだけの貧困的一般層の間に情報格差が起きていると言われます。

これが俗に言う「ペイウォール」という情報障壁で、優良かつ正確性の高い情報は高額サブスクが払える層は享受しやすいですが、朝食のメニューすら変えることもままならない人々は、無料で手に入る多くの偽情報や扇情的なデマを含む劣悪な情報ばかりを取得してしまう傾向にあります。
客観的なデータや観測に基づく情報に触れている人々はそのデマゴーグを見抜けますが、情報弱者はその情報リソースにアクセスする手段が物理的に限られているため、両者の意思疎通や情報共有は必然的に難しくなります。

私は、この情報格差がアメリカならず我が国に蔓延する社会的分断に繋がっているのではないかと考えています。
少なくとも世の中を俯瞰的に見るためには、リソースのある情報に接する必要がありますが、元々エビデンスのある情報とデマゴーグの区別がつかないような情報弱者は、その情報価値に気づくことすらできません。

私はこれはかなり由々しき問題で、良質な情報に触れる機会の多い人が成功したり出世するのは当たり前で、情報格差は労働環境や経済的な格差にも繋がっているのではないかと思います。

さて、今回の話題はそこではなくて、同Bloombergの本日配信の記事がツッコミ所満載だったので、そのことに触れたいと思います。

AIが企業を脅かす時代ついに | Bloomberg

この記事、そのまま読んでも何となく文脈が噛み合っていないように感じるのですが、よく読んでみると「AIが盛り上がりすぎて従来企業が倒産しまくっている」という内容の記事ではありません。
逆に「今のところ、チャットボットや、ソフトウエアのコード作成や複雑な質問への回答、写真や動画の生成が可能な「エージェント」と呼ばれるAIの普及が原因で破綻した企業はほとんどない」と書いてあります。

読み進めると、テクノロジー関連企業の三社、容易なUI操作でWEBサイトが作れるWIX、写真や画像素材のライセンス販売をしているシャッターストック、デジタル画像処理ソフトの老舗Abobeが株価を30%近く落としている、という内容から「AIがハイテク分野の代替を始めたからテクノロジー企業が苦戦を強いられている」と言いたいようです。

しかし、この記事の文章のおかしさの原因は、これらの株価下落に喘いでいる三社が「AIによる経済活動の代替」との因果関係を説明していないことにあります。
順を追ってみると、WIXのようなサービスが行うWEBコーディングは、生成AIがあればあっさり作れてしまいますし、WIXのようなノンコードのサイト作成と同様のサービスは我が国にもあります。
生成AIで無限にフェイクサイトが作れる時代に、サイトのテンプレート加工を促すサービスが脅威に晒されるのは当たり前のことで、競合他社が乱立する業界なら将来性が危ぶまれるのも納得できます。

画像素材を提供するシャッターストックですが、近年Windowsですら標準搭載されている画像生成AIを通せば、画像素材にライセンス料を払わなくても無料で使えます。
しかし、画像生成AIは「LAION-5B」という児童ポルノも犯罪写真も著作権のある芸術作品も一絡げにぶち込んだ58億トークンのデータベースを元に出力されているもので、存在そのものが「合法的」かは未だに議論があります。

Adobeのフォトストックもそうですが、こういう投稿型の共有サービスはAI生成画像も大量に含んでおり、そもそもコンテンツ素材のライセンス販売サービスは投稿者にロイヤリティを還元するものですから、画像生成AIを使用した全く素人のユーザーがロイヤリティ収入目当てに大量投稿します。
しかし、画像生成AIは誰でも無料同然で素材が作れてしまうので、わざわざ共有サービスに課金して素材のライセンス料を支払う必要性が相対的に薄れます。

ただ、先に述べたように画像生成AIの非合法性は徐々に認知が広まりつつあり、企業が自信を持って世に出せるコンテンツでは既になくなっています。
記事本文に「コカコーラ社がCMに生成AIを使っている」という例が示されてますが、著作権の文化的世紀末と化した我が国でさえ、生成AIを使ったプロモーションは炎上しています。
ホワイト企業としては「弊社は権利尊重を第一とし、生成作品は受け付けておりません」とキッパリ言えば立場を守れるのでしょうが、こういった投稿共有サービスは生成作品の投稿を推奨していたりします。

そしてAdobeですが、言わずもがなデジタル画像処理ソフトの老舗であり、現役のイラストレーターやクリエイターにとっては主力のアプリを提供しています。
しかし、近年は権利関係で言えば完全に黒に近い画像生成AIをソフトに実装し、それだけでなくサブスクを高額化したことでユーザーから大顰蹙を買っています。
上記にあるように、画像生成AIのデータベース自体が58億枚と呼ばれる無許諾の著作物が蓄積されただけのプールであり、その中には個人の肖像や児童ポルノ(SCAM)、リアル犯罪写真も大量に混じっています。

これほど問題を内在する機能をクリエイター向けに実装しながら、実はアプリを長年使ってきたクリエイター自身の作品も生成AIのデータベースに利用されている可能性が極めて高く、挙げ句の果てにサブスクも高額化したらユーザーに愛想を尽かされるのは当然です。
記事では「Photoshopを使うようなクリエイターがAIに代替されているからだ」と言いたげですが、実は生成AIを批判しクリエイターの保護と文化の発展への寄与を表明したProcreateと、日本のデジタル作画環境の柱となっているCELCYSは順調に株価も利益も伸ばしています。

冒頭に「AIで潰れた企業はない」と書いていますが、実は生成AIの登場でクリエイターの商業活動が業界的に苦しくなったのは確かです。
ただ、クリエイティブ業界がAIによって致命的な代替が行われている事実はありません。
むしろ、消費者がプロの作ったコンテンツではなく第三者による権利面に配慮しないAI生成物を享受し始めたことへの倫理的配慮のなさや悪用の方が、クリエイターの絶望感に繋がっています。

自分たちが努力して積み上げたコンテンツが生成AIを通しただけで著作権フリーとなり、クリエイターの作品データを無許諾で生成AIに投入して作成した「LoRA」というAIモデルは、クリエイターや演者の作風を再現したものであり、それが大量頒布され第三者が収益を得ている実態があります。
そして、LoRAに対し拒否を表明している作者本人になりすまして第三者が商売をしたり、クリエイター本人に送りつけて心理的外傷を与えるケースも頻発しています。

これはクリエイターだけの問題ではなく、俳優や声優などの演者、それだけでなくネット上にある一般人の自撮りなども収集され、ディープフェイクや詐欺に悪用されるケースが続発しています。
生成AIは権利以外の面でも、犯罪を助長する目的に広く使われているのが現状です。

話を戻すと、これら三社の株価下落は「AIによるテクノロジーの代替」というよりは生成AIをサービスに取り込んだゆえの失敗と生成AIサービスとの競合によってもたらされたと考える方が自然であり、この記事はその裏側と紐付けられていません。
また、後半の「ガードナーの収益低下」について、ガードナーは経済トレンドの分析を担う企業であり、NFTやメタバースの凋落と生成AIのハイプ(誇大宣伝)と行き詰まりも以前から予見していて、AIを推進する側からすると叩いておきたい相手でもあるのでしょう。

Bloombergは政府の提灯記事ばかり出す新聞社ですから、AI推進に全面的に舵を切っているトランプ政権に矛盾する記事を出すわけにはいきません。
本文の一番最後に教育系サービスを展開する「デュオリンゴ」が好調である旨が述べられていますが、高度な情報分析を得意としながら数式計算もアルファベットの綴りもわからなくなるLLM型の生成AIが、医療や教育分野での確実性が早くから疑問視されており、教育分野でのAI活用は限定的というのが実情です。
ゆえに、教育系サービスが限定的に生成AIを活用しながら、マンパワーの分野で成績を上げるというのは今の趨勢に矛盾しません。

だから最初から最後までこの記事が何となく奥歯にものが挟まった言い方なのは、「生成AIは正直全く脅威ではないけど、米国を支える株式バブルを煽るために恐怖に訴えてでもテック業界への援護射撃がしたい」という気持ちの現れなのだと思います。

今日のBloombergの記事もツッコミ所満載だったので面白く読ませて頂いたのですが、せっかくなので「本当にAIの時代は来るのか」について書いてみたいと思います。

上でも言及しているのですが、生成AIの根本的な問題はハルシネーション(幻覚の発症による錯乱)や熱暴走だけでなく、データベース上の権利的問題もあります。
そもそも、生成AIは世界中のインターネット網にある情報を権利関係なくBOTによって収集して、その蓄積データを「Google検索がサイトを探す」ような形で素材となる学習データを再構成します。
冷静にシステムとして見れば単なるデータのコラージュをしているに過ぎず、どこにも自意識が芽生える要素がないように思えます。

子供ですら、「1たす1は2」という概念法則を一度理解してしまえば、3685+874も時間をかければ正確に解けます。
しかし、AIは方程式をしっかりフレームで確立する必要があり、たまに間違うことも大目に見た上で、間違っていたら確認してフィードバックを返さなければなりません。
そのデータベースも、「最適解の多数決」によって出力するので本質的には衆愚政治に近く、哲人政治が人徳と真理に近い概念を用いて指揮するのとは違います。

しかし、実際にChatGPTなどでうまくプロンプトを打てば、たまにはプロのお笑い芸人より面白いことの一つや二つは言ってくれます。
この部分だけを拾えば、「生成AIの方が人間より高度なものを生み出せる」と言えなくもありません。
ただお笑い芸人は10のうち7くらい面白いことを言わなければ食べていけないでしょうが、生成AIに面白いことを言わせようとして、その試行回数と成功の比率をお笑い芸人と比べてみて、10回試行させたら7回は笑える出力結果を出すようでなくてはなりません。

けれども、往々にしてベンチマーク50%水準の生成AIが70%成功するのを当てにするのもおかしな話です。
生成AIという技術はかなり粗雑で、権利面だけでなく性能の面でも及第点とは言いにくいですが、経済効率もあまり良くありません。
生成AIは試行のたびに膨大な処理を行うため、かなりの電力を消費します。
Microsoftは、生成AIがデータセンターで使う電力供給のために、かつて放射能漏れ事故を巻き起こしたスリーマイル原発の再稼働に全面協力しています。
一応付記しておきますが、スリーマイル原発は未だに通常稼働しており、廃炉になったわけではありません。

生成AIを走らせるためのデータセンターは膨大なエネルギーを使うため、装置の発熱が凄まじく冷却に大量の水と電力を使います。
だから、データセンター周りの水資源の枯渇や汚染など、自然環境への悪影響はぼちぼち出始めています。
これだけエネルギー効率も経済効率も悪い上、権利面や安全面でもリスクが高く、しかも産業としてトントンの収益か赤字にしかなっていないのが生成AI分野なのです。

しかしEV然り、政府が大量に補助金を出すような国家事業は、産業としては赤字でも政府が資金を注入するうちはバブリーな分野となってしまいます。
イーロン・マスク率いるテスラも、米国や中国の行政支援なしに業績を上げることはできず、企業として万年赤字体質でも潰れないのは、各国の政府や軍が血税で彼らの延命をしているからです。

マスクは現在、買収したTwitterを生成AIの巨大な実験場にしてしまいましたが、彼のAIへの熱量は凄まじいようです。
今なお続くマグニフィセント7を中核とする第二次ハイテクバブルは、別名「AIバブル」とも呼ばれます。
しかし、実は2022年に一旦「AIバブル」は弾けていて、ビッグテックの株価が一斉に落ち込んだほぼ1年後に、OpenAIが「ChatGPT」をリリースして表向きに今回のバブルが始まったことになっています。

2022年のAIバブル崩壊時には、自動車の自律走行技術に対する失望感と、EV市場の翳りもありました。
AppleもMicrosoftもAlphabetも、マイナーアップデートの製品をドヤ顔で出すパターンに投資家もウンザリしていた時期でした。
その頃、OpenAIの開発や企業幹部からは倫理面や安全性に問題があると提起されていながら、その首脳陣をクビにして無理矢理GPTをリリースしたのが当CEOのサム・アルトマンです。

タイミング的に、外国からの投資がなければ終わるアメリカの危機的な金融業界が、10年来維持してきたバブルの息を吹き返させ、全世界から投資を呼び込むのに「生成AI」は多少荒削りだが金融商品には売ってつけだったのでしょう。
その流れは今も続き、産業分野としては赤字傾向でも「AI革命」の名の下に「来年になればAGIが完成し、世界は変わる」と喧伝し続けても一応は希望の眼差しを集めることができます。
しかし、AI研究の学術分野で生成AIの開発フレームからAGIが派生する可能性はほぼないとされ、しかもAGIは基礎研究分野で未だ実証されてはいないのです。

だから私は、生成AIの実態は近いうちにNVIDIAの粉飾決算もろとも白日の元に晒され、廃墟化する分野だと確信しているのですが、AGIに関しては未知数が大きすぎて何とも言えません。

「もうすぐ実現する」と言っても、100年前から期待されているような立体映像も空飛ぶ車もまだまだですし、私の子供の頃は「もうすぐリニアが走り回るだろう」と言われていましたが、政治的ゴタゴタのせいで 21世紀が四半世紀を過ぎてもあと10年は無理そうです。
理論は出来ても、実証化して製品化するまでどれくらい掛かるのかは誰にもわかりません。
AGIという空想上の技術革新が起こればAI革命はないとは言い切れませんが、そもそも「意識」というのは理論化できるものなのでしょうか。

一応付け加えておくと、「生成AI」と「AI」は似て非なる技術で、生成AIは検索エンジンとシステムが似ていますが、AIが本来の自律思考を目指すタイプの技術です。
通常のAIに関しては、先進国は人手不足で代替技術の需要は高いですし、一般的に技術革新がこのまま進みAIによる労働力の代替は進むと考えられています。
ただ、「AIロボットが労働者を代替する」という議論にも、私は疑問があります。

我が国でも少子高齢化の煽りを受け、これほど人材不足が叫ばれ外国人労働者として移民を推進しているのに、AIロボットの普及をあまり見かけません。
かつて窓口に置かれていた「ペッパー君」は姿を消し、今では地方の倉庫に大量に眠っていると言いますが、今こそペッパー君を再稼働させて低価格帯で業務対応させれば良いと思います。

なぜそれができないかに、AIロボットが人間の労働力を代替し得ない理由があります。

ペッパー君が再度市場に投入できないのは、電子制御環境が古いソフトウェアのため動かせないのもあるのでしょうが、それはペッパー君を保有する企業が無理に機体を引っ張り出しても利益にならないと踏んでいるからでしょう。
AIロボットは戦闘機並みの精密機器の集まりですから、部品一つ破損しても修理には専門技術や産業インフラが必要で、その維持にも高いコストがかかります。
20世紀末に登場したロボット犬の「AIBO」も、故障部品の代替を行うにも古い部品を再生産することが技術的に不可能なため、廃番のAIBOは修理するのも困難だと言います。

つまり、AIロボットが高度になればなるほど、製造元の企業は修理環境を維持しなくてはならず、その供給体制には莫大なコストがかかります。
しかも、サプライチェーンが何らかのアクシデントや社会情勢などで遮断されれば、供給網に致命的な影響を受ける可能性があります。
近年の不確実性の高い国際状況、各国の経済的混乱を背景に、複雑な機構を持つAIロボットを維持管理する方法はかなり限られてきます。

ゆえに、私はペッパー君の製造コストが何十分の一に下がり、二足歩行どころか料理までこなすようになっても、そのサービスの維持に現実的ではないほどのコストがかかるため、結局は人間を安い賃金でこき使った方が合理的という結論に達すると思います。
しかも、仮にヒューマノイドが人間の雑務全般をこなして社会全体の労働負荷を減らすにしても、結果的に社会全体のGDPを押し下げることになるはずです。

まずヒューマノイドの製造と管理運営にかかる労働生産性は、提供企業が担うことになります。
その結果、ヒューマノイドが行った生産価値は企業に転嫁される形となり、労働者はヒューマノイドが差し引くGDPの分だけ生産性を向上させる必要があり、自分たちの労働単価を上げつつ還元させながら、ヒューマノイド提供企業に対して税金のようにリース代を払い続けなければなりません。

この構造を解決するには、国家が公益事業としてヒューマノイドを生産、維持管理を全面的に担いサプライチェーンを国内に整備し、どこでも均等に無償配備していくべきでしょう。
しかし、庁舎のプロジェクトマッピングですら何十%も中抜きされる公共事業において、その社会インフラが公平であり続ける保証はどこにもありません。
おそらく、監督官庁がずさんな運営を黙認しながら、製品レベルで中抜きによる劣化が進み、国家負担が増大して維持が不可能になるのではないでしょうか。

そもそも、「人間が遊んで暮らして、AIロボットだけが働く世界」というのは可能なのでしょうか。

よく近未来は「ベーシックインカム」で誰もが無収入で暮らせるようになる、という話を聞きますが、経済学ではベーシックインカムの理論は未だ学術的に確立されていません。
早い話がベーシックインカムとは、別の説明の仕方をした「共産主義」のようにしか思えないのですが、仮にそれで最低限の生活ができるとしましょう。

ヒューマノイドが農業や工業生産を実施するのですから、誰かが監督しなければなりません。
そうでなくてもヒューマノイドは精密機械ですから、細かいメンテナンスや修理が必要になります。
その保守や監督はAIが全てできれば良いのですが、部品のライン生産も滞りなく行われ、しっかり末端まで流通し続けなければ、すぐに動かない機体だらけになります。

それを監視する人間がどうしても必要になるということは、ヒューマノイドを統括する人間が遊んで暮らしている人間を支配するのと同じ構図になるのです。
「その管理者はしっかりした良い人だから安心だ」と言ったところで、自分たち以外に遊んで暮らしている人間しかいない社会で、きちんと働いている自分たちを差し置いて、遊んで暮らしている彼らの意見に耳を傾ける必要がどこにあるのでしょうか。

私は、この図式は0.1%の超富裕層が50%の中間層以下の総資産を上回る格差社会の現代以上に、歪な社会を作り出すのではないかと思います。

そもそも、寝ててもロボットが口にステーキを運んでくれるような世界において、その人間という存在は一体何様なのでしょうか。
その世界において人間が「奉仕される一方の神様」であるとしたら、地上はきちんと労働し社会基盤を支えるロボットたちが「人間」の立場となり、地上の主役は果たしてどちらなのか、それは一目瞭然です。

今はシンギュラリティだなんだとAIが恐ろしいという風潮がありますが、本当に恐ろしいのは従順なAIが地上を支配した先の世界です。
学びもせず努力もせず、フラフラ遊んでいるだけの人類を見て、果たして知能を持ったAIに存在価値を疑問視される瞬間がないと言い切れるのでしょうか。
だから私は、AIロボットが完全に人間の労働力を代替する日というのは、人類の終焉に直結すると思います。

私はAIが主役になる時代は何百年先か人類消滅までないと思っていて、その論拠はAIが人間を本質的に代替したら人間の存在価値そのものが消え去るからです。
だから、現実的にはAIの部分利用とか制限付きの利用に収まっていくと考えていて、それは今のアームロボットが行っているような、機能特化型のAIロボットが正確に単純作業をこなすのが最適解になっていくと思います。

ぶっちゃけ、それ以外に人間の労働者とAIロボットが持続可能的に共存するビジョンはあるのでしょうか。
下手に高性能であればむしろコストが上昇し、部品製造企業が一社潰れるだけで供給網が途絶えます。
残念ながら、人間を倫理面での限界までこき使った方が合理的なのが経済というものです。
人間の代わりにヒューマノイドを使うくらいなら、ヒューマノイドの代わりに人間を使った方がいい、という結論に結局のところ辿り着くと思います。
だから、今のAIブームも落とし所は一つしかないような気がします。

私はAI自体を否定したいわけではなく、人々がAIに幻想を抱きすぎていることを指摘したいだけで、私自身はAIにあまり忌避感はありませんし、むしろドラクエの戦闘システムから馴染んできた世代です。
生成AIに関しては、産業基盤がアンモラルだから評価していないだけであり、AIを普及する側に人間としてのモラルや合理性が欠けていることが問題だと思います。
銃器を簡単に保持してはならず、核開発が国際問題になるのは「持たせると危険」な人々がいるからです。

今のAI技術はそうなりつつあるというか、もう既になっています。
人々は異口同音に「これからはAIの時代になる」と言いますが、生成AIの画期的利用について未だ思い至らず、その権利面や社会上の問題には見て見ぬふりをします。
「それは問題がある」と言いながら、次々と発生する悪用を止める術を誰も思いつきません。

だから私は、昨今のAIブームは些か冷ややかな眼差しを向けているのです。

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大峠と「最後の審判」

楽太郎です。

以前、日月神示の解釈による「大峠とは何か」という記事を書きました。
そこに示した図説では、私自身の考えに基づいた解釈も含んでいたために「日月神示」の概念とは若干異なる用語を用いて説明していました。

以下に、神示のタームを使いながら「三千世界(神・幽・現界)」の図を作成したので掲載します。



神国を構成する「天国」と「霊国」のうち、天国には日の神が統治する「スメラ神国」と月の神が統治する「ユツタ神国」があると神示にあります。
その二つの天体が象徴する国については、岡本天明氏の論考と思われる「地震の巻」に詳細がありますが、神示ではないため解説は省略します。

私の考える「幽界」という霊的階層を、神示では「現界(地上世界)」と私が定義した「霊界の下層域」の間にある「中界」と呼んでいました。
この中界は、人間が一般的には死後50日ほど、長くて20年ほど滞在しながら、霊的身体に慣れる準備的な霊界であるとされます。
この「中界」が取り払われ、あるいは縮小していくことで死後の準備期間の短縮が起こり、上の霊界に上がれなかった不浄霊が地上に降りてきているのだと私は考えていました。

しかし、どうも今起こっている不浄霊の大量憑依は、「中界の縮小」だけによるものではないようです。
霊界で起こったことは現界に反映される」という法則に則るなら、春分点で分岐した「神と獣」という霊的二極化も霊界で起きたと考える方が自然です。
そして「霊界で起きたことはすでに神界で起きたことである」とするなら、神界でも霊界でも二極化が起きていたと考えることもできます。

これを敷衍すると、とんでもない結論に突き当たります。

人間が「神と獣」、私が言う「神世と人世」の魂の分岐はそのまま霊界の「神に従う魂」と「神に抗う魂」に分けられ、神界ではそれが「正神側」と「逆神側」いう構図になっているのではないでしょうか。
これが日月神示にある「神と悪神の戦い」を意味し、啓示が降ろされた80年前の時点で「神の国の奥の奥では戦いが済んでいるが、神国は真っ最中」と書かれています。

つまり岡本天明氏に神示が降りた戦中時には、まだ神界では「正神」と「逆神」の対立が激化している時期だったことになります。
奇しくも「第二次世界大戦」とは、シルバーバーチの「霊訓」によれば「地獄から上がってきた悪魔を天使が地獄に押し戻す戦いだった」と書かれていたりもします。
即ち80年前の大難の時代は、同時に「光と闇の戦い」が起こっていたと考えて良いと思います。

ただ思い返して頂きたいのは、第二次世界大戦の戦勝国であるアメリカが「光の側」であったと結論づけることはできません。
そもそも当時のアメリカ大統領であったトルーマンは日本が降伏に傾いているのを知りながら、新兵器の「原爆」の実戦投入を計画し、累計で50万人に及ぶ非戦闘民間人の犠牲者を出しました。
原爆慰霊碑には、「二度と過ちを繰り返しません」と書かれていますが、なぜ原爆を落とされた被害国側が戦争を始めたことを何十年間も詫び続けなければならないのでしょうか。

大量の民間人殺傷はナチスのホロコーストに並ぶ戦争犯罪に問われるべきなのに、当のアメリカには原爆投下すら知らない人が多いそうです。
まして原爆被害がなぜ「日本が悪かったから多くの民間人が犠牲になった」みたいな解釈になっているのか、そこにアメリカが先導した戦後処理の歪みが現れているように思います。
そして、アメリカが統治した後の日本は属領地の体制のまま80年を経て、今では国家存続さえも危ぶまれるほどに、アメリカと同じ衰亡の道を歩んでいます。

そのアメリカという国家の歴史をきちんと俯瞰してみれば、この国が決してイメージ通りの自由を保証する民主主義の国ではなく、欺瞞と謀略に塗れた利権国家であることに気づくでしょう。
そしてアメリカを中心として西側諸国と東側諸国、第三勢力諸国の対立が生じ、その一端がウクライナ侵攻、イスラエルのガザ侵攻に繋がっています。

つまりは、世界中に戦争の火種を撒くアメリカという国は、一貫して戦時中から「光の側」であったとは言えません。
1930年代に世界恐慌の発端となった大不況下のアメリカは、第二次世界大戦の戦時需要を最大限に活かしてブル相場となり、「自国の金融危機は戦争で賄う」というやり方を未だに続けている国なのです。

第二次世界大戦が「光と闇の戦い」の反映であったとしても、おそらく闇の勢力が主導権を握る時代は現界ではまだ終わっておらず、これから光の勝利が訪れるとしたら現象となるのはまだ先の話でしょう。
春分点で人類に起きた霊的二極化は、これから具現化する段階にあります。
その現象がすでに霊界に起きているとするなら、9.11以降、急速に不穏になり始めた世界情勢、近年の社会的混乱と人心の腐敗、今起こっている憑依と不浄霊の大量発生も「霊界の二極化がもたらしたものである」と考えたら辻褄が合います。

そして、世に混沌をもたらしているモラルハザードが不浄霊の干渉によるものだとしたら、霊界で「逆神」の側にある神に仇なす霊人たちが地上に降りてくる説明もつきます。
霊能者やスピリチュアリストたちが「幽界の消滅が起きている」と口を揃える現象の裏には、神に従う側の霊人と神に抗うことを選択した霊人の二極化があり、「幽界の縮小」はその反映なのかもしれません。

要するに、幽界に住まう霊人であっても光に向かうことを選ぶ霊人と、光の神に仇なす勢力となった霊人がいて、霊界における大峠の一環として神に仇なす霊人たちのエクソダスが起きている可能性があります。
しかし、日月神示の文脈では「排除は悪そのもの」であり、私はこれらの逆神側の霊人たちも最終的には光に取り込まれていくのだろうと思っていました。
ただ、行き場を失った神に仇なす霊人たちが地上世界に降りてきている現状を鑑みるに、彼らはもう神界、幽界に戻ることを許されていないのではないかと考えられます。

だからこそこの地上を「幽界的」な世界にするべく、似た波長の者に憑依して地獄的状況を再現し、その破滅的現象を蔓延させているのではないでしょうか。
とすれば、春分点で人類に起きた「二極化」が、これからどう現れてくるかも想像しやすくなります。

日月神示の「神と獣」という概念は、人間の魂が大神から分けられた「分御霊」であることを踏まえると、神だった魂が獣に堕ちることを意味します。
「獣」というのは犬やカラスなどの動物のことですが、人間以外の生物は「神の魂」を持っていないため、輪廻転生することはほぼないと言われています。

つまり、「獣」に分けられた人間は今世を持って魂の輪廻を終えることを意味し、それは神に仇なす側の霊人が幽界に住むことが許されなくなったことに対応します。
人間は死後、中界の霊的準備段階を経て神界か幽界の霊界に進み、元の霊体に戻ります。
しかし、霊界に戻らずして再び地上に転生を行うことはおそらくできないでしょう。
ゆえに、神に仇なす勢力の一部となった人間は、そのうち地上に残ることだけでなく、死後に霊界に入ることすら許されなくなる可能性があります。

ただ、やはり神々が「排除」を正当化するとは思えず、ゆえに「自分がどちらにつくかを問い、その判断を委ねた末の選択」だったのだろうと思います。
実は現界においても春分点は「選択の確認」であり、5月の満月は「選択の再確認」だったのではないかと私は考えています。
だから、これらは神々が強権的に行っている排除行為ではなく、自分たちが選択したゆえの道筋であり、結論なのだと思います。

あえて言うならば、神に仇なす側を選ぶ、つまり唯物論や拝金主義の延長にある弱肉強食的な世界を選択した人々は、今世を最後にする可能性があります。
私はこの結論がこれまで薄々見えてはいたのですが、何とかその結論に至るのを避けてきました。
あまりにも救いがない話に思えるからです。
ただ、こうして筋立てて考えてみると、どうしても残酷なことを書かなくてはいけなくなってしまいました。

現在の世界情勢を考えると、象徴的なのがイスラエルによるパレスチナ侵攻です。
イスラエルは第二次世界大戦後、パレスチナに住むシオニストグループにアメリカが無償の経済的支援、武器供与を行って建国に尽力しました。
そして現在、アメリカ政府はイスラエルのロビイストグループの手玉になって国費を投じ、侵略戦争と虐殺行為の片棒を担っています。

イスラエルという国は、言わずもがなユダヤ教を国宗としています。
アメリカがイスラエルを支持しているのは、キリスト教右派がユダヤ教を支持していることに由来していると言いますが、それは表向きの言説でしょう。
おそらく、ユダヤマネーが米財界に流れてくることで必然的にイスラエル支持の政界になっているのだと思います。

ユダヤ教は「旧約聖書」を礎としますが、アメリカに多いとされるプロテスタントは「新約聖書」を教典とし、キリスト教には「最後の審判」という説話があります。
世が終わる時、キリストが再臨し「正しい者」と「正しくない者」に分けて審判を行い、「至福の命」か「永遠の罰」を与えられるかを裁くと言います。

私は、この二極化は神示の「神と獣」を表しており、「再臨前の世の終わり」こそがまさに今その時なのではないかと感じます。
そして「キリストの再臨した千年王国」は、奇しくも国常立尊が「大日月の神」となられた後に誕生する「神世」を彷彿とさせます。
仮にそれが現代に起きているのだとしたら、「最後の審判」は現在、全人類の魂のレベルで起きていることなのかもしれません。

もし「正しい者」と「正しくない者」が神によって裁かれるとしたら、イスラエルの行いは正しいのか、アメリカの行いは正しいのか、その判決は審判を待たなくてもわかるような気がします。
その判決はすでに私たちに下っているはずですが、その宣告を知るまでには若干タイムラグがあるでしょう。
おそらく、それがこれから具現化するだけのフェーズに入り、幽界の仇なす者たちが行き場を無くしたように、この地上で行き場を失くす人々も出てくるはずです。

今年で戦後80年と言いますが、我が国とアメリカとの因縁は1853年のペリー来航に遡ります。
往年の江戸幕府の「体たらく」は否定しようもないのですが、幕末の混乱期を経て欧米型の軍事国家となった日本は、対外戦争を繰り返した果てに敗戦国となり、今では自衛権もろくに持たない属国同様の国家となってしまいました。
その歴史の延長で、アメリカの犯す様々な国家的犯罪に追従する姿勢に、我が国は甘んじているのです。

「日月神示」には「自由も共産も共倒れ」とありますが、まさに今の世相に見えるのではないでしょうか。
世界が「アメリカの側に立つか、中国の側に立つか」で諍いが起こる中、神示はそのどちらにも寄辺はなく「神の政治を行う神の国」にあると言い、しかし必ずしも日本を意味しないと言われます。

「神国」とは、神を頂点とする統治国家のことを指し、それが新たな世の中心となっていくとされます。
我が国日本が真の「神国」となり、新たな世界の中心となる国に生まれ変われるかは、今を生きる私たちにかかっています。

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「悪を抱き参らせる」

楽太郎です。

以前の記事でも書きましたが、あれから「悪霊に遭遇する夢」を毎晩見続けており、深層心理的にはかなり参ってきているのではないかとすら感じます。
私の平常心としてすこぶる機嫌が良いわりには、身体のコリは酷いし寝苦しいため体調はあまり良くありません。

こういった憑依現象は正直、私が使命感を持ってやっていることと無関係ではないように感じます。
私の巡りもあるのでしょうが、私の霊性と行動の変化に合わせて向こうも変化しているので、やはり狙いは私への妨害なのだと思います。

ここ最近、神様と繋がりにくいのも邪気のせいだと感じますし、瀬織津姫様のご神気が遠すぎていつもの調子も出ません。
こうして不快感極まると、自分の心からも邪気が湧き上がってきます。
その邪気がさらに邪気を呼ぶので、この悪循環を断つにはどこかでやり方を変えなければいけません。

毎晩うなされるのも常に霊障を感じるのも、正直「もう勘弁してくれ」と思います。
私の魂を引き摺り降ろしたいのはわかるのですが、彼ら邪気側からすれば私の意志を今更変えることは不可能なのです。
だから無意味な抵抗だと思いますし、私も彼らの存在を気にしたくはありません。
しかしこうもまとわり憑かれると、さすがに私もイライラしてきます。

ただ、そうして腹を立てると彼らの思う壺なので、非常に難しいのです。
私があまりに不快なので「ぶっ潰してやる」という気持ちで払おうとしても、その破壊的意志がまた邪気を呼ぶというトリックが発動してしまいます。
だからずっと同じところをグルグル回っているというか、この負のループから抜け出す道筋がなかなか見えてきませんでした。

私は常日頃から日月神示に書かれている「善と悪の融合(あなない)」を真理だと思ってますし、その考えもブログに綴ってきました。
そうは言っても、という感じで邪気を前にして大人を貫くのも限界があったのです。
自分の考えというのは、忍耐力が底をついた瞬間から外れやすくなってしまうものです。
ではどうしたら良いのかと、日月神示には悪を憎み滅ぼそうとするのは悪そのものであり、「悪を抱き参らせる」ことが善に至る道であると説きます。
その方法として、「悪を導くことである」とあります。

全ての人間の魂は、大神から分かれ出たものであるがゆえに「神」と言っても差し支えありません。
その神が闇に染まるのは決して「堕落」のみを意味するのではなく、自らの意思で闇を選択したとも言えます。
神示には、「悪には悪の喜びがあり弥栄がある」と書かれています。
即ち、彼らの性格の悪さは自分たちで肯定する性質のものであり、そこで生じる憎悪や闘争も破壊も、彼らにとってみれば「喜びそのもの」です。

神示の霊界解説の中では、彼ら闇の者は自分たちが善であると信じており悪だとは思っていないそうです。
それはあたかも、環境保護団体からすれば捕鯨行為は万死に値する一方、日本人は余すところなく鯨を食べて再利用する産業文化が根付いていたので、その利益相反が起こっているようなものかもしれません。
日本人からすれば、反捕鯨団体の言い分も理解はできますが、一方的なやり方で全てを否定されるのも困るのです。

だからそこには「お互い様」という側面があり、相対するからこそ相反するのであり、ここで互いに衝突するからどちらか一方が潰れるまでやらなくてはならなくなります。
それに相互理解は最短の道だとしても、おそらく互いにそれを強要させるのは不可能です。
ではどうすれば良いかというと、第一に「棲み分け」ですが、それでも利益相反が起こるから衝突が生じます。

私の場合は、無闇に人を陥れて無知蒙昧の状態にして苦しめるような存在は忌むべきものであり、それが世に隆盛しているから問題視しています。
しかし神に仇なす存在の側としては、人間を啓蒙されると居場所や存在価値を失ってしまうのです。
彼らからして見れば人間が無知蒙昧であってくれた方が活動しやすく、光の存在やライトワークを行うような人間こそ「悪」なのです。

「善と悪のあなない」には、まずここを押さえておく必要があります。
私たちがいくら絶対善だと思っていても、彼らからすると悪なのであれば「絶対」ではないのです。
ならばどうすれば良いかと言うと、こちらの言い分としては「善」に向かうのが大いなる意志であり、善に向かうことで結果的に全員がWINWINになれるから弥栄えると考えています。

だから「善」のメリットを知るのはこちら側であり、ゆえにまず善のメリットを悪の側にプレゼンする必要があります。
そして、善のメリットを悪に提供する責任も、実は善の側にあるのだと思います。
だから「悪を導く」というのは、善のメリットを悪の側に提示しながら、彼らが悪を行う自由を奪うことではなく、善と悪を選択する機会を与えることです。

結局、そこで「悪はやっぱり最高だ」と思うのも彼らの意志であり、「今までのやり方はちょっと」と思うのも彼らの自由なのです。
そこで善を押しつければ、返って善は悪になってしまいます。
人間はこれまで、こういう考えで相反する勢力を力で服従させてきました。
ゆえに悪を滅ぼそうとすれば、ますます悪は増えて広がっていったのです。

この視点で見れば、なぜこうも人権や人命を無視した勢力が蔓延り、「我良し」の世界になっているかがわかってきます。
善の側が「絶対善」の元に悪を善に染めようとする時、「悪側の善」を力でねじ伏せることで善側に悪が宿るのです。
その力の衝突にこそ真の悪があり、相反を相対にする融和の力こそが「真の善」なのだと思います。

そのため、真の平和や善なる世界に向かうためにまず必要なのは、強制しようとする意志を捨てることです。
誰もが自らの自由を保証され、尊重される権利を有するからこそ、善でも悪でも強者でも弱者でも、言い分と意志決定権は必ずあります。
そこをまず認め、自らの責任を果たした上で相手に委ねる、そして相手側の責任はきっちり取らせる、これこそが和合であり「あなない=助け合い」になるのだと思います。

この考えこそ、実は「大和魂」そのものなのではないでしょうか。
「やまと」という言葉は、「山の戸(麓)」という説もあるのですが、奈良地方にある「敷島のやはと」が語源という説があります。
「やはと」とは「穏やかな所」を意味し、「やは」は「やわら(柔)」と同じ語根と言われています。

「柔よく剛を制す」とありますが、日本の国技である柔道は、決して相手の身体を破壊するために編み出されたものではありません。
柔道で一本を取られたとしても怪我一つないように、穏やかに決着がつけば済むことなら互いに傷つけ合わないことが賢明です。

どうも邪馬台国の統治の時代は、諸国の豪族とも婚姻関係や互恵関係を結ぶことで連携を強化してきた痕跡が見られます。
日本の前身たる「ヤマト」に「大和魂」を見るのならば、それは身を挺して忠義を尽くす「侍」の魂にあるというよりは、互いに譲歩し合うような心にこそ宿っているのかもしれません。

だから悪霊も邪気も、それを発しながら人を不愉快にさせたり犯罪を犯すような人に対しても、一旦は湧き上がる感情を抑える必要があります。
そして自分の正論がただ相手を傷つけるだけではないか、正論を押しつけて溜飲を下げたい心が自分にはないか、一先ず考えてみるべきなのです。
相手には相手の言い分があり、やり方や信念があり、こちらからすればいくら合理的と思えないにしても、「こうすれば良くなる」ということを指し示すのは、相手の道を変えようとする側にあるのだと思います。

それが「悪を抱き参らせる」ために打つべき手であり、それ以上は相手の領分なのではないでしょうか。

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「神」と人の関係

楽太郎です。
ここ最近「日月神示」関係の記事が増えていますが、日に日に神示が現実味を帯びていると感じています。

日月神示は当て字や謎記号が多く、直感的に読み解ける人は少ないかもしれません。
他の人がどういう風に読み解いているかはわからないのですが、おそらく「大地震が起こる」とか「富士山が爆発する」というように、具体的な予言として捉えている人が多いのではないでしょうか。

神示には「天地ひっくり返るということは、身魂がひっくり返ることぞ」とあり、私の見解では神示に登場する名詞は大抵、霊的比喩だと受け取っています。
例えば「奥山」は神人のグループソウルが集う場所、「富士(ニニ)」は唯一無二の魂と身体を意味していると捉えていて、むしろ固有名詞として考えない方が全体的な話が頭に入りやすいです。

私が日月神示を「神の言葉」と認識するのは、実は具体的な予言の部分ではありません。
神示には「三大実践主義」が唱えられており、「弥栄実践、祓い実践、神(例の記号)実践」とあります。
そして、禊祓いの実践には、「省みる、恥じる、悔ゆる、畏る、悟る」の5つの働きが必要だと説きます。

神示は口酸っぱく「身魂を磨け」と書かれているのですが、日月神示はどうも神道の指南書か思想書として読んだ方が本質に近い気がします。
神様という存在は、決して甘やかすようなことは言いませんし、ギリギリ乗り越えられるかわからないくらいのハードルの課題やアドバイスを常に出されます。
私としては「神様が言いそうなこと」と感じるのもあり、ゆえに日月神示を特別視するのです。

人間というのは現金なものですから、受験に受かることや意中の人と結ばれることなどを神様にお願いしますが、大抵は金さえあれば望みは叶うことを知っているため、祈願も具体的内容だったりします。
しかし、神様はもっと精神的に人間に成長してもらい、心の豊かさから生活の豊かさを手に入れて欲しいと願っておられるように思います。
だから、人間にとって神様のお心はなかなか理解できず、それゆえに神徳がどういうものかもわかりません。

そして、神様が考える「善悪」と人間の考える「善悪」も微妙に異なるのです。
人間は人間同士の社会や価値観に基づいて、例えば「自分を犠牲にして奉仕するのは尊い」とか、「全ての人と争わず仲良くすれば良い」と考えます。
しかし神様から見ると、「他人に尽くして不幸になるくらいなら、まず自分のことを大事にして欲しい」と考えられるでしょうし、「悪人と仲良くしても自分が損するだけで全然良いことではない」と思われるでしょう。
しかし、人間の心ではそういう善業をしているのだから報われるべきだ、と考えていたりもします。

ただ冷静に考えてみるとわかるのは、明らかに不可能なことや損になることを率先してやればうまくいかないのは当たり前であり、神様が叶える以前に努力自体が間違っていたら不幸になるに決まっています。
それを人間は「神様に願ったのに叶わなかった」と思うのですが、むしろ叶わない方が無難であるような事例もたくさんあるのではないでしょうか。

「成功したい」とか「お金が欲しい」というのもそうで、人間の願いをそのまま叶えたとしても、違う形で現れたら不幸の原因になることすらあります。
「好きな人と結婚できますように」という願いが叶っても、下手に良くない相手と結婚して不幸になるより、願いが叶わない方が良かったパターンすらあるかもしれません。

私が思うに、神様は「道理とタイミングと順序」というのをすごく重要視されます。
例えば行動の筋道が違っていたら意味はなく、タイミングを合わせるには待つ必要があったり、優先順位が違えば成就しなかったりするのでしょう。
神様は時間を超越した存在ですから、恐ろしく長いスパンで物事を見られているのですが、人間はすぐに結果を求めるのでそこにもズレが生じます。

人間が想像する「幸せの形」と、神様が思われる「幸せ」は微妙にズレがあるからこそ、人間から見て神様の導きはすぐに理解できないのだと思います。
その認識のズレは、人間にとって見れば神様を「厚かましい親」のようにしか感じず、あたかも反抗期の子供のように自分で好き勝手にやりたくなるのでしょう。
果たして、人間にとって神の意思を理解しきることは可能なのでしょうか。

そもそも人間が「神」の考えを感じ取ることができるのは、人間の心に神性が存在するからです。
人間は「神」を外部に確固として存在するように感じるかもしれませんが、実際は人間の「魂」と神の気が感応するから感じ取ることができます。
それは人間の魂が大神から分け与えられた「分御霊」という神だからであり、同じく神であるからこそ繋がることが可能なのです。

神示にもその内容は示されていますが、魂が神と繋がったと言えど、「肉体まで神に合わせる必要はない」とも説かれています。
その時、人間からすれば自分の身体に「神が宿った」ように感じますが、実際は魂と神の魂が繋がっているから一体になったように感じます。
自分に神様が宿っているとするならば、仮に寝るにもお風呂に入るにもいちいち神様と相談して行うのはキリがないでしょうし、昔から神に仕える人ほど厳しい生活態度を要求されたことが念頭にあるのかもしれません。

人間が神を理解しがたいのは、そもそも人間の見ている部分と神の見ている主な部分に開きがあるからです。
私の感覚では、神様は私たちの行動を見るにしても観点が違うというか、「魂の状態」を最も観察されておられるように思います。
例えば、私たちがトイレに行くにせよ酒の席でハメを外すにせよ、神様に観察されているとしたら人間は少し気恥ずかしく感じるでしょうし、実際に日常生活から神秘的な要素は感じにくいものです。

しかし、例えるならRPGをプレイしているのが自分だとしたら、神様はおそらくゲームの進行状況ではなく、ゲームをプレイしている最中のリアルな反応を観察されておられるのだと思います。
つまり、プレイヤーキャラがいつ薬草を使おうがエンカウントから逃げようが、一つ一つのことはどうでもよく、そういう選択をした時のゲーマーの顔色を見て、楽しんでいるのかつまらないのかを気にされているのではないでしょうか。

人間はゲームのプレイ内容にばかり気を取られて、スコアを気にしたりオンラインで出会った対戦相手と競ったりしますが、たかだかゲームに一喜一憂してプレイ自体を楽しまなくなるより、楽しくやれる状態にあることを願っておられるように感じます。
もし神様が私たちがコントローラーを握っている姿をすぐ側でご覧になられているとしたら、神様と人間の様子をまた遠目からご覧になられている神様がいて、上位の神様がそれをご覧になられて、とずっと連なっていくのが神々の世界なのかもしれません。

だとしたら、人間と神様の認識にズレが生じるのも納得がいきます。
人間は「もっとレベリングしたらあのボスが倒せる」とか「レア武器を手に入れて差をつけたい」と思い、その願いが成就したらもっとゲームを楽しめると思い込んでいます。
しかし、ゲームをうまくやる以上に好奇心やゲームを楽しもうとする気持ちの方が重要で、それがあれば別にプレイヤーキャラが強かろうが弱かろうが、楽しいものは楽しいはずです。

神様は後者の楽しみ方を望んでおられて、人間は前者の考え方でないとゲームを楽しめないと思っています。
ゆえに「心持ち」や「姿勢」が大事なのであって、具体的な条件ばかりを気にする人間との視野とは微妙に重なりません。
ゆえに、精神的な事柄にまず目を向けるように、神様はそのことを先に伝えたいのだと思います。

とは言え、人間は抽象的な理解は難しいものですから、神様の願いの意味さえわからない場合も多いのです。
この辺が「親の心子知らず」というか、人間が目に見えない存在を蹴って自分たちで好き勝手にやりたいのも、思春期の子供を持つ気持ちでおられるのだと思います。

人間は神を「自分を無条件で幸せにしてくれる存在だ」という思い込みがあるからこそ、自分の願いが叶わず不幸な目に遭うほど、神様の存在を疑います。
しかし、人間はこの世に「魂の修業」として生まれてくるのであって、決して楽して良い思いばかりをして生きるためではありません。
そこで起こる不遇にも「学び」や「気づき」が隠され、自分の行いが巡りとして現れていることに人間は気づきません。

しかし、神様の目線からは全てに説明のつく事柄であり、それゆえに人間からは「奇跡」とか「不遇」と思うことも、俯瞰的に見れば「必然」であり「道理」なのだと思います。
それに気づいていくのもまた、人間の成長であり進化でもあるのかもしれません。
神様からすれば、そこに気づいて学ぶことが「導き」であり、不遇に感じることも真の幸福に至る道筋を示しているのだから、一時的な不幸感に囚われて欲しくないはずです。

そろそろ、人間は成人して大人になるべき時期が来たのではないでしょうか。
この世界は自分たちの思うようにはならず、結局「お金とモノ」の世界では本当に欲しいものは手に入らず、その仕組みが壊れて身動きが取れなくなったことも悟るべきです。
そこで反省し、「親の忠告は本当だったな」と思い直して、神様と向き合えば少しは大人になれたと実感できるはずです。

この学びは人類にとって真の進化であり、個人の精神的成長だけでなく、文明レベルでの教訓を意味します。
そんな苦労も破綻もしないに越したことはないと私たちは思いますが、一度失敗してみないとわからないのも人間なのです。
神様の「愛の鞭」は、親が子を深く愛するがゆえに、本気で叱る気持ちそのものなのだと思います。

「日月神示」では、その試練を「大峠」と表現しますが、この苦難は社会現象や国際情勢として現れるというより、各個人の心の中で起こる試練であり、外側の出来事が問題の本質ではないように感じます。
世に起こる禍事は、心に変化を起こすための外部的条件に過ぎず、そこに解決を見い出して終わりにするためにあるのではないと思います。
やはり、大峠は「ミタマ」に起こるのであって、まさに自分の心に向き合う機会を「大峠」と言っているのかもしれません。

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今の世をどう考えるか

楽太郎です。

最近また、世の雰囲気が変わり、感覚としては「邪気の異様な停滞感」と表現できます。
これまでは日によって邪気が高まる日が多かったのですが、猛暑日が続き人々も元気を無くしていくのと連動して、邪気も暴れ回る余裕がなくなってきたように思います。

これは人々が酷暑と物価高に伴う不況化と共に外出が減ったことで、内省に向かうようになったのと関係があるのではないでしょうか。
以前、「大難シナリオ」が「小難シナリオ」に切り替わったことで、多くの人々が「覚醒への道」を選択したのだと書きましたが、その潮流が徐々に具体化しつつあるのだと思います。

この数日のブログの記事もおそらくその波動に引っ張られていて、「知らせること」にお役目があったのだと思います。
私としては絵や漫画を描いている方がよっぽど性分にあったミッションになるとは思うのですが、神様のご計画にとって、今まさに重要なテーマは私の感覚とは異なるということなのでしょう。

この流れを俯瞰してみると、このブログをどれほどの人が本気でご覧になってるかは正直微妙だと思っているのですが、霊的な観点で言えば例え一人であっても伝える価値はあり、その対象者は神々のプロジェクトの中で私と同じチームに属するのだろうと思います。
別に私のことを特別な風に言いたいわけではないのですが、日月神示では「型」を実地に行い見せていく人が必要であり、「59の身魂」があれば岩戸開きの仕組みは成就すると書かれています。

最初に3人がいて、その下に7人が集まり、その7人が7人に教えを伝えると、岩戸開きに必要な「59柱」が揃うと神示にはあります。
もし私がその一柱なのだとしたら、私の文章をきちんと読んで下さる人が最大7名いれば、私はきちんとお役目を果たしたことになるのではないでしょうか。

だからもう、これは数とかいう問題ではなく「役割の重さ」だと言っても良いかもしれません。
それは目に見えてわかるものではないので、損得勘定では決して拾いきれないものでしょう。
だから私は、黙々と自分のお役目を果たすしかありません。

おそらく現在、世界を巡る霊的なターンがクライマックスを迎えつつあるのだと思います。
世の邪気が弱体化しつつある背景には、トランプ大統領が不確実性を世界にバラ撒いてくれるおかげで、拝金主義的世界を維持しようとしてきた勢力が心理的にも立場的にも揺さぶりを受けています。
トランプ氏自身は確信犯なのか天然なのかはわかりませんが、神がかり的な悪手を駆使して敵も味方も不確実性の渦の中に引きずり込んでいきます。

私はある意味、神様の密命を確実に実行しようとしているのがトランプ氏だと思います。
ただ、実際そこに悪魔的意図があったとしても、神のシナリオ通りの使命を果たすべく動いているのではないでしょうか。

ゆえに、これまでの世界を覆う邪気の根源であった「神に仇なす者たち」の波動は、ここに来て押されつつあるように思います。

私の話をすると、波長の高まりと共に憑依は実感しにくくなっており、感じにくいだけで霊障はあって体感とのギャップに戸惑っています。
最近「なんかやたら首が回りにくい」と思っていたのですが、さすがに寝つけないくらいの肩凝りなど今までにはありませんでした。
肩凝りをいくらマッサージなどで解してもどうにもならず、それに疑問を感じないほど憑依が気にならなくなっていました。

その反動か、就寝中にやたら生々しい感情を持つ死霊に襲われる夢を何度か見るようになって、そこで初めて「憑依だ」と気づくのです。
これはこれで結構深刻で、気づかないうちに感情面が霊障に犯されてしまう危険性すらあります。
憑依は放置すればするほど中に入り込まれるので、「感じにくくなった」ことをそのまま喜ぶわけにはいかないのです。

これらの憑依体は、性質を観察する上ではやはり生前の感情が抜け切っていない不浄霊だと思います。
ただ「不浄霊=悪霊」ではなく、生前の執着や苦悩が抜け切らない以上は、やはりその霊たちも苦しいのです。
だから下手に追い払おうとする前に、一先ず「苦しみを抱えている霊たちである」と認識する必要があります。

そして、これらの霊が憑依から解けるということは、ある意味満足したとも納得したとも取れるのです。
そうやって執着が緩めば一足は浄化が進んだことを意味し、彼らはそれだけ「上(霊界)」に近づいていくのでしょう。
ゆえに、憑依は浄化した数だけ魂を救っていることになります。

私は以前、こう言った不浄霊との因縁を断つために「幽界との霊線(エーテルコード)を切断する必要がある」と書きました。
しかし、どうやら「感情」というものは霊界の低い階層と構造的に結びついているもので、私が考える一時的な霊界の準備場である「幽界」の定義には当て嵌まらないことに気づきました。
日月神示の「幽界」は私が以前解説した構造とは若干ズレがあって、霊界の中間層以下の下層と準備場的階層をひっくるめて「幽界」と定義しているようです。

反対に、神示では霊界の中間層以上を「神界」とし、「天国」と「霊国」に分けています。
この構造の方がやはり説明はしやすいのかもしれず、今後の解説の仕方も考え直そうかと思っています。

私たちが感情を抱く時、愛や友情などの「良い感情」を持つ時は高い階層の霊界に、憎しみや嫌悪などの「悪い感情」を持つ時は低い階層の霊界(幽界)に繋がるため、感情自体を霊界と切り離すことはできないようです。
だから霊線を何とかするというより、そもそも感情の接続する波長域を変えることしかできないのです。

ならば、悪感情は持たないに越したことはなく、悪感情があるから邪気を呼び込み、邪気が不浄霊や悪霊を呼び込むのであり、「悪感情を捨て去る」のがスピリチュアリズムにおいて自己浄化の基本中の基本であることに変わりはないのです。

ただ一言申すならば、この世界のために働こうとする時、具に世の動向をよく観察し、批判的精神を行動に移して実践するには「悪感情」というのはどうしても避けられません。
自分も世界も平和であることを望むあまり、「善も悪も全て肯定されるべき、世は全て事もなし」と、事勿れ的な平和を選択したら何もする必要がなくなります。
「何かを変えよう」と思うからこそ使命感が燃えるのであって、仮にニコニコしながら平和を祈っていたら世の中が上手くいくなら、今の世界は既に天国のようになっているはずです。

ただ、その向上心の中で生まれる「醜さへの反感情」や「不条理への悲しみ」は、避けて通れないながらも絶えず整理していく必要があります。
そこで、怒りや悲しみを心の中に押し込めたり、蓋をし続ければいずれ「邪気」となっていきます。
その悪感情がやがて霊界の低い階層とバッチリ波長が合うことで、災いを呼んでしまうのです。

私たち人間は「悪を憎む心」があるからこそ、不平等や理不尽な出来事があれば変えようとする意志が働きます。
そのモチベーションは大事なのですが、そもそも「悪」とは「必要悪」であり宇宙の摂理の中では役割があるからこそ存在しています。
地球に重力があるように、「悪」というものが「善」なる力を妨害するからこそ、「善」はますます「善」に向かう力を強めます。
反対に、世界に「善」だけあっても「悪」という根拠がなければフワフワした動機となり、善に向かう力は弱まっていくはずです。

地球には引力が働いているからこそ自分の体重で地に足をつけることができ、自由に空を飛び回れないからこそ自らを顧みて移動手段をあれこれ考えます。
病気になるから健康に気を遣い、先が見えないから未来を憂慮し、いずれ年老いて死ぬから時間や人生が大切になります。
そして、「悪」を行う者がいるから身を守る術を覚え、悪を蔓延らせないために社会を守ろうという意志が働くのです。

善と悪のどちらかが消滅しては善も悪も成立せず、善と悪が共存するがゆえに善に向かうのです。
これが神示に語られる「善と悪とのあなない(和合)」であり、哲学的に言えば止揚(アウフヘーベン)です。

宇宙における熱力学第二法則、いわゆるエントロピーが働く法則自体を最悪だとか、憎む人はいません。
エネルギーが大から小へ向かうエントロピーがこの世界に外すことのできない大法則だからであり、もし「悪」の働きもそうなのだとしたら、とりあえず法則として「あるもの」と考えるべきです。

私たちは寒くなったら火を炊きますし、ぬるい水に氷を入れたら冷たい水が飲めるのも知っています。
ゆえに、世の中が悪くなれば良くしようとするのも風呂を沸かし直すのと同じ原理です。
そこに悪感情があるかないかではなく、淡々と対応すれば良い話のはずです。

従って、「悪なんてこの世に存在しない」というのは間違いで、「悪も良いものだから何もする必要がない」というのも間違いです。
「善悪の定義はそれぞれ」というのは半分正解で、善悪の価値判断は人間に備わった認知機能なので外すことができないため、善悪の定義はやはり一定量存在します。
それゆえ、全てが平和的肯定感に満ち溢れていたら理想状態と考えるのは危険で、そういう平和ボケが支配しているのが今の日本なのではないでしょうか。

この世の「悪」は想像以上に根深く、その闇深さは人間の心を容易く沈めることのできるものです。
人間が起こす非道や凄惨な行いは、悪感情云々ではなく生理的な絶望感さえも引き起こします。
それでも「悪はこの世に必要である」と結論を保ち続けるのは、正直言ってかなりの覚悟が必要です。

しかし、エントロピーや重力という反作用があるから成り立つこの宇宙は、「全く別の性質のもの」が存在するからこそ相反し、相反する力によってお互いが高め合っていきます。
日月神示には、その二つの働きこそが「歓喜」をもたらすのであり、その相剋にも歓喜があると説きます。

この境地は、我々人間にはなかなか辿り着けるものではないかもしれません。
これこそ「神の意識」ゆえに立てる見解であり、人間には遠く及ばないものだからこそ、その境地は人間が神に向かうための「反作用」の一部と呼べるのかも知れません。
神示に「神は人を求め、人は神を求める」とありますが、神になれるはずのない人間があえて神の元に歩みを進めるこの道こそ、「神の道=神道」なのではないでしょうか。

だからこそ、神道には教義も経典も存在せず、むしろ「存在する必要がない」のだと思います。
人間は自分たちが進む道がマニュアルになければ不安になり、ルール通りに行動したいと思ってしまう生き物です。
しかし、教科書が存在しないからこそ理論を固め、応用的思考を駆使することが重要になり、その自立した思想性こそが個の確立と自由となるのです。

これから社会や国家をどうしていくかを考える時、人々は確固たる権威が存在し教科書通りの回答が用意されていないと何も決められません。
「右派か左派か」「保守かリベラルか」「アメリカか中国か」で争っている現代の二者択一は、おそらくどちらも間違っています。
かと言って右に傾いた中道でも左に傾いた中道でもなく、真上にある中道こそが唯一の正解だと思います。

そこには「太陽」があり、太陽を司る神がいて、その神格こそ日本の国家神道を統べる「天照大御神」であらせられます。
そして、その権威は「天日月大神」となられる国常立尊こと素戔嗚命が担っていくと「日月神示」では語られています。
おそらく、これからの新しい時代の「型」はそこから始まり、その型が未来永劫の繁栄をもたらす「ミロクの世」の元になっていくのだと思います。

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アメリカが崩壊する理由

楽太郎です。

今月1日、アメリカの7月期雇用統計が発表され、弱含みの結果だった上に3ヶ月通しての約26万人の下方修正が加わり、米国債市場で2年短期債が急伸しました。

米雇用統計で債権相場に転機-Bloomberg

少し解説をすると、国債は最長30年までの利回りを保証する融資を募るものですが、国家が発行するものゆえに信頼性が高く、ゆえに「リスクオフ資産」と呼ばれます。
対して株式は企業が発行するものなので、倒産や損失があれば値減りするものであり、利回りが高い分リスクは高いため「リスクオン資産」と呼ばれます。

米雇用統計の悪材料は投資家のリスクを嫌う傾向が反映し、その日は株式の全面安になる一方、国債のリスクオフを後押しして2年短期債が大量に買われました。
国債も需要と供給の関係にあるので、短期債が大量に買われたことで利回りは25bp(0.25%)下落しました。
本文にある「スティープ化」とは、短期債の利回りは下がった一方、長期債の利回りは依然高い状態となります。
通常、スティープ化が起こる主な原因は「景気回復期待」と「インフレ期待」があり、今回は雇用統計悪化を受けて反動だったため、明らかに「インフレ期待=物価高の加速」を懸念しての動きだったことになります。

このニュース記事一本で突っ込み所満載と言っては何ですが、そもそも「米雇用統計」は算出方法に関して、兼業(掛け持ち)労働者の採用を新規としてカウントし、就労努力を行わない失業者をカウントしていないと言われています。
つまり、これだけでも統計としての信頼性は低いのに、毎回発表後には「下方修正」なるデータの訂正が行われ、公的発表と考えるにはあまりに杜撰な出来である反面、投資市場はこのデータを元に先行きを決めるため、リアルタイムで採用する意義すら疑うレベルなのです。

ゆえに、アメリカ経済は改竄されたデータ以上に悲惨な実態である可能性が高く、それでも好調な株式市場はかなり「浮足立っている」気配すらあります。
この発表を受けたトランプ大統領はブチ切れ、労働統計局のマッケンターファー局長を即座に解任しました。
ただ、BLSの統計の修正は常習犯であり、今始まったことではありません。
トランプ大統領の怒りは統計値が悪かったことの言いがかりのような気がしますが、仮にそうであるとしたら即座に統計局の責任者がクビになるなどどこの共産国家か、と思います。

現在、トランプ大統領がFRB(連邦準備制度)のパウエル議長に「利下げしろ」と圧力をかけていますが、そもそも国債の利回りが高いということは国債価格が低いためで、なぜ国債価格が下がり続けているかというと、アメリカの国家としての将来性が危ぶまれているからです。
今年9兆ドル近い債務を償還しなければならない上、トランプ大統領が世界中に「相互関税」と称し、アメリカから高圧的に言い値で関税をかける一方、輸出国側はアメリカに関税を課すと許さんというジャイアンも驚く態度で関税交渉を行っているため、「不確実性が高い」と世界中の投資家たちに思われています。

そのため、米国債市場はリスクが高い長期債の利回りは高くなる一方、米国政府が万が一「債権を踏み倒す」懸念から投資が抑制され、国債価格は下がり続けています。
国債のスティープ化は、長期債が値上がりするので債権市場にとっては健全化が加速することを意味しますが、去年8月まで米国債は2年以上「逆イールド」の状態でした。

本来、融資の貸し手、債権の買い手側からすれば債権を何十年も保有するのは、それだけ待てば高い利子を得られるからです。
一方、融資の受け手、債権の売り手側は長期に渡って利子の保証をしなければならないことになり、長期の見通しと返済努力が必要になります。
「順イールド」というのは、債権を購入すれば待っただけ高い利子を貰えるという金融的取引としては当たり前のことなのですが、短期の間に債権を持っていた方が利回りが高くなるのが「逆イールド」です。

即ち逆イールドは長期債よりも短期債の利回りの方が高くなってしまう現象なのですが、実は最近までは逆イールドの状態の方がアメリカ政府にとっては好条件だったのです。
なぜならアメリカは2020年のコロナショック以降、総債務額が13兆ドルに達しており、長期債の利払い総額は比例して高くなるからです。
しかし2024年8月を以て国債レートが順イールドになったため、今年7兆ドルの償還期限を迎えるアメリカ政府にとっては泣きっ面に蜂なのです。

2022年7月から2024年の8月までの「780日間」が逆イールドの状態でしたが、実は経済学の世界では逆イールドから順イールドとなった数年後に「大暴落」が起こるという定石があります。
1928年から始まった約700日間の逆イールドの後、世界恐慌に至る米国大不況が始まりました。

1974年からの約500日は「長期スタグフレーション」の時代の始まりであり、1998年からの約300日は「ドットコムバブル崩壊」、2006年からの約550日は「国際金融危機」に繋がります。
これらは逆イールドの規模というより、「期間の長さ」がその後の経済崩壊に影響するというデータがあります。
このジンクスに従えば、2022年からの約800日は過去最長であり、もし定石通りなら経済にもたらす悪影響は過去最大レベルです。

なぜ逆イールドから順イールドに転換した後に経済崩壊が起こるかについて、今のところ確固たる学説はないようです。
おそらく、逆イールド時の債権の売り手は短期債のやり繰りは何とかできても小規模で資本的体力のない企業が多いため、長期債の利払い時に高利回りだと負担額も多くなり、そのまま債務不履行になってしまうのではないでしょうか。
経済理論に従えば、アメリカ経済は法則通りに崩壊の憂き目に遭うのは避けられないように思えますが、ここからは更に深掘りしてみます。

現在、トランプ大統領は経済音痴なりに国債価格が低いのは問題だと認識しているようですが、法則的に考えればアメリカが多額の財政赤字を軽減するためには、国債が高くなれば支払う利回りも低く抑えられます。
だから7兆ドルという債務返済を何とかやり繰りするために、FRBのパウエル議長に「利下げをしろ=国債価格を上げろ」と叱責しているのだと思います。
しかし、そもそも国債価格が下がり続けるのはアメリカの国家的信用がガタ落ちしているからであり、トランプ大統領がアメリカ経済を立て直すために粘れば粘るほど国際的評価は下がり、国債価格もそれに連動してしまいます。

これまでは、米国債価格は下がっても外国の投資家は米国株に逃げ込めたのです。
少なくとも「解放の日」の4月までの時点では、国債が下がっても株式に、株式が下がったら国債にと逃げ道があったのは、基軸通貨としての米ドル指数がバランサーの役割を果たしていたからです。
大抵の外国人投資家は自国通貨や対ドルで安価な通貨で米ドルを借りる、いわゆる「キャリートレード」を使って米国債や米国株に当てていました。
しかし、今はアメリカの信用不安が広がるせいでドルは下落基調にあり、投資家がただでさえ米国債を保有していても配当率はマイナスなのに、それに輪をかけてドルまで値下がりしたら二重の損失になってしまいます。

よく経済学を勉強している投資家は、アメリカに教科書通りの「資本逃避」が起きていることを知っています。
そして「ドル」を基軸通貨とする不安は「金」のレートを押し上げ、それに比例してドルは下落基調にあります。
だから投資家たちは隙あらば手仕舞いしたいでしょうが、とりあえずまだ米国株はバブル景気なので株式一本に賭けている状況です。

しかし、この米国株も実に怪しい代物でS&P500の時価総額の50%以上がMicrosoft、AppleやNVIDIAなどのマグニフィセント7が担っています。
現在は「AIブーム」の真っ最中ですが、あれほど喧伝した生成AIは全世界で権利問題を発生させ、裁判所ですら持て余すほどの法的闘争が起きていながら、時代の申し子たるOpenAIは営利企業への転換も図れないほどの大赤字企業です。

その望みの綱である「AGI」は未だ理論的に実証されておらず、AI研究者の7割以上が「生成AIの開発フレームでは実現しない」と回答しています。
つまり、生成AIはいくら無尽蔵に開発費を使ったとしても、AGIに化けるのはポケモンのピッピがハピナスになるくらい無理筋の話なのです。

その上、AIブームでほぼ一人勝ちの様相を呈しているNVIDIAは、取引成立した瞬間に利益として計上するくらいガバガバの会計処理をしていながら、粉飾決算や取引企業との循環取引を行っている疑惑が常に付き纏っています。
そもそも、NVIDIAの得意先の企業はキャッシュフローが伸び悩んでいる割に営業キャッシュは大幅に上昇しており、各企業はそれをデータセンター建設に関わる設備投資だと述べていますが、実際にビッグテックの営業利益を見るとほぼ生成AIに係る収益は見られず、既存のクラウド事業や広告収入、Eコマース事業だったりします。

つまり、AIブームは投資を呼び込む最高の花形ではあるものの、実際に内容が伴う部分は一つもないのが現状です。
その実態は大したホワイトカラーの削減にも至らず、たかだか著作権や人権を素通りして出力するだけのアプリであり、革命的技術であるAGIには全く繋がらないばかりか「まだAI革命は始まったばかりだ」と言い続けなければ赤字の言い訳もできないような泡沫産業に過ぎません。

まあ、生成AIに関しては濃密な記事が10本くらい書けるのですが、とりあえずここまでにしておきます。

しかし、特に成長産業もなく工業もサービスも伸び代のないアメリカにとって、国際的にイニシアティブを取れるのはデジタル産業と軍需と製薬くらいです。
そして、アメリカという国は1947年の「ロビイング規制法」以来、逆に政治家への贈収賄が合法化され、大企業になるほどR&D投資で新技術を開発するよりも政治家に賄賂を渡して制度を企業に有利になるように変えさせた方が手堅いため、資本力が高ければ高いほどシェアの維持が強権的になるのです。

古くは自動車産業、金融業、製薬産業、今ではデジタル通信産業が当て嵌まります。
新興企業の斬新なサービスは有力寡占企業が敢えて潰しにかかるか、早いうちに買収して自社サービスに組み込むことで、自社のシェアは脅威に晒されず容易に権勢を維持できるわけです。
ゆえに、赤字財政が跳ね上がり債務の償還すら覚束ないアメリカ政府が外国から投資を募るためには、嘘をついてでも株式を盛り上げなければならず、それを担うマグニフィセント7にとって「AI」というのは過去の成功体験を匂わせる、夢の投資先には売ってつけの金融商品だったのです。

ただ米国株を代表するS&P500の絶好調にもカラクリがあって、FRBがマネーサプライを過剰供給して株価指数を右肩上がりに見せかけ、実は全体的な貨幣供給量は戦後ずっと頭打ちなのです。
また、企業の大量自社株買いによる相場操縦、ETF(上場投資信託)やオプション取引を使った評価額の水増しによって、いかにも飛ぶ鳥を落とすように見えるように粉飾されています。
第一、企業のCEOが大量に自社株を保有することは決算や業績見通しや新製品発表を自ら知っていながら売り抜いたり買い越したりできるのは、どう見てもインサイダーを免れないものであり、売却益が公然と発表されるのもおかしな話です。
また、トランプ大統領が関税に関してSNSで仄めかすたびに株式市場は動くので、まるで一国の宰相がインサイダーをしているようなものです。

アメリカ株式市場の時価総額に貢献する企業には更に問題があります。
軍事用生成AIを開発するパランティアは現在、世界の時価総額上昇率で群を抜いている企業ですが、この企業の開発するアプリはイスラエル軍がパレスチナやイランなどの敵対国家の要人を暗殺するための用途に用いられ、同社はAmazonとGoogleが提携しています。
つまりイスラエルのガザ侵攻や近隣の中東諸国に仕掛けている戦争の裏で、アメリカのテック企業が参画しており、言ってみれば戦争犯罪に加担しているも同様です。
大手メディアではイスラエル軍の凄惨極まるパレスチナ一般市民への虐殺は報じられませんが、仮にイスラエルという国家の威信が失墜すれば、現在進行中の戦争犯罪が炙り出されることでしょう。

そしてイスラエルが戦争に使う兵器のほとんどは、アメリカ国防省がほぼ無償で供与しています。
トランプが大見栄を切った来年度の予算案は、社会保障費が大幅にカットされた割には国防費は増額になっており、どうやらイスラエル系と軍需産業のロビイストが結託して動いているようです。
これにアメリカ国民はもっと怒るべきだと思うのですが、現在のアメリカは日本以上に弱肉強食の世界なので、道理も民主主義も通用しないのでしょう。

こうして国家的に戦争犯罪に加担する一方、イスラエルには戦闘機を丸ごと横流ししても、ロシアの侵攻を受けているウクライナにはミサイル一発出し惜しむのがアメリカという国です。
このあからさまな態度は、全世界から冷ややかな眼差しで見られているのをトランプ大統領は気づいているのでしょうか。

上記のように、米国債の信用低下とドルの下落基調には密接な関係があり、マグニフィセント7が牽引する半導体デジタル産業だけが唯一外貨を呼び込む手段になっています。
国際的評価を下げないようにするためには、米国経済に見通しがあるように見せたいため、雇用統計すら帳尻を合わせている可能性が高いのです。
それでも米国経済の復活のために関税を敷いて製造業を国内に呼び戻そうにも、労働単価を発展途上国並みに下げなければ国際競争力で敗北する可能性があり、労働者の総収入が下がれば不況はさらに加速するでしょう。

その上、トランプ大統領が世界に対して喧嘩腰で押しつける関税も各国が米国製品の代替を行えば済む話であり、米国に輸出しなくても他国で利益が出るならばアメリカ以外の国と取引すれば良いだけで、結果的に国内輸入品の値上がりの割を食うのは米国民です。
輸入品に需要があるのは、国内生産では同じレベルのものが作れないからであり、業界的には国内生産にするより安上がりだから輸入を行うのです。
ゆえに、輸入品が高額になれば庶民はますます物価高に悩まされることになり、景気後退が深刻になり輸入品が真っ先に買い控えられたとしたら、関税収入も相関的に下がります。
その悪循環は米国経済にいずれトドメを刺すことになり、また債務額に対する関税収入で得られる資本の比率は微々たるもので、関税で財政赤字を補填するなど夢物語なのです。

経済浮上の成果が出なけば全世界から総スカンを食らうだけであり、国際的な信用の低下は国債安・ドル安・株安のトリプル安に向かっていくことでしょう。
つまり、どういう手を打ってもアメリカ経済は景気後退の局面を避けられず、国内情勢の危機的な状況はさらに危険な情勢に至る可能性が高いのです。

最後に、今週にアメリカ政府が新規国債、1250億ドルを発行するというニュースをご紹介します。

米国債を待ち受ける1250億ドル大規模入札

上記でも解説したように、米国債も需要と供給の経済原理に漏れることはないため、国債を大量発行すれば国債は安くなり、利回りは高くなります。
これはトランプ大統領がFRBを脅して政策金利を操作しまくったとしても、決して思い通りにはならないでしょう。
これだけ大量の国債を発行するということは借金をするのと同じですから、いつかは利息を払わなければいけなくなります。

アメリカ政府が今年支払う債務は約7兆ドルですが、来年には6兆ドル、再来年は4兆ドルです。
今でも自転車操業のような国家運営なのに、毎年膨れ上がる財政赤字を加味してもこの状態が続くとは思えません。
トランプ大統領の経済政策の肝である予算の削減は絵に描いた餅で終わりましたし、大幅減税策は国家の税収には結びつかないため財政赤字に寄与はしても景気浮上に貢献するかはわかりません。

どうもトランプ大統領は本気で狂っている演技をして、確信犯的にアメリカ経済を沈没させようと努力しているのではないか、と思える瞬間すらあります。
実際はどうであれ、トランプ大統領が頑張れば頑張るほど確実にアメリカ経済を袋小路に追い込んで行ってしまうのです。

心配なのは、「合衆国第51番目の州」である日本です。
日本は米国債を15%近く保有しており、その総額は1兆800億ドルとされています。
このままでは米国債の大暴落に巻き込まれるのは目に見えており、しかもアメリカの経済崩壊の尻拭いは日銀の悪意ある円安政策でジリ貧になった日本国民が肩代わりすることになるでしょう。

日本円の国際的な実質価格は対ドル70円前後と言われており、政府と日銀はこれを半値にする努力を30年以上続けてきました。
円安傾向は国内の金融業界と輸出系企業を優遇し、一般国民は慢性化するデフレとグローバル化に伴う外資の流入によって年々貧しくなっていきました。
しかし、売却した米国債を円に変えて円高に転嫁させれば、日本の一般国民はあるべき生活水準に戻ることができるのです。

しかし、このままではアメリカと無意味に心中する可能性が極めて高く、それはさすがにごめん被ります。
日本は今まさに率先して米国債を売り払うべきであり、戦後80年の間に我が国が受けた負のカルマを、その一手だけで米国に返済させることができるのです。
アメリカという欺瞞と謀略に満ちた国家と手を切ることができるならば、日本は憲法レベルから見直す機会を得られるでしょう。

是非とも「ベルリンの壁」をたった一人で崩壊させた東ドイツのシャボフスキーのようなうっかりさんが、奇跡を起こして日本の救世主になってくれないかなと思ったりもします。

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瀬織津姫様江

楽太郎です。

何となく追って頂いている方ならわかると思うのですが、この1週間くらいスケールの大きいテーマの記事が続きました。
特に「日月神示」解説に関しては、何となく逼迫した感覚があったというか、自分なりに「伝えなくてはいけない」という使命感すら覚えていました。
とは言え、正しいか正しくないかで言えば完全に妄想の範囲内なので、受け取られる方次第です。

この間はほぼ絵や作品に取り掛かれず、ずっと考え事をしている状態が続いていました。
何より、「瀬織津姫様と繋がれない」感覚がずっとしていて、何となく自分らしくない感じもして、違和感の中で日々を過ごしていました。
今では感覚も戻り、落ち着きを取り戻しています。

「瀬織津姫命」という女神を自分の心に感じていないと、モチベーションに差が出ることもわかりました。
なぜこれほど自分の心に女神を求める心が強いのか、自分でも不思議に感じます。

これまでの半生でいくつか恋愛もしましたけど、今思えば本当に欲しかったのは恋人や伴侶よりも自分によく似た友人であって、実際に心から安心できるのは長年連れ添った親友でした。
私はずっと、自分に似た魂の存在を探し求めてきたのだと思います。
社会に適応するしないの問題以前に、人間として常に「魂」が欠けている感じがしていて、その不安を埋め合わせる方法をずっと探していたのです。

いつもどんな集団にいてもガラス越しに人間を見ているようで、どれほど馴れ合っても心の底から共感ができなかったのは、おそらく他の人の心にあるものが私には欠けていたからです。
私はそれを「弱さ」とか「協調性のなさ」という風に受け取って乗り越えようと努力してきましたし、どうにかしようと足掻いてきたのが私の半生でした。

しかし、こうして神様をお祀りして心に神を感じ、その声に導かれて生きるようになり、自分の心に欠けていたのは「信仰」だったことに気づいたのです。
そして、何故かわかりませんが自分の魂の欠けた部分に綺麗にスッポリと収まるのが「瀬織津姫命」という女神様で、人には存在すら疑われる「神」という存在が、なぜか私には実感を伴いながら感じるのです。

どういう仕組みでそう感じるのか未だに不思議なのですが、私の心にはっきりと立ち現れてくるからこそ、もはや「信仰」という域を超えて神に対する「忠義」や「忠誠心」すら感じながら日々を生きています。
それは人には到底理解されないでしょうが、私が魂のレベルで求め続けてきたのは「瀬織津姫命」という女神以外にないと、ここに来てはっきり言えるのです。




「日月神示」の中に、「神を捨てよ」と逆説的な言葉を投げかける一文があります。
神を小さくして割り切れるようにするなと、神はそう小さく捉えられるようなものではない、だから一旦神を捨ててみよと。

私もそうは思うのですが、信仰心が強ければ強いほど神様というものは、出来るだけ小さく丸め込んで懐に入れておきたくなるのです。
それが愛しい神様なら余計そうで、自分の何万倍も偉大な神様ですら都合よく心に仕舞っておきたくなってしまうものです。

神への愛情や崇敬の念を持って強く求めながら、逆に神様の「形」にこだわることで、神はむしろ遠ざかっていきます。
自分の感じる神を信じれば信じるほど、「こうであるに違いない」「こうであって欲しい」という思い込みが生まれ、逆に信仰から遠ざかってしまいます。

日月神示では、だから「もっと長い目でゆったり神を求めよ」とあります。
けれど「自らの神を絶対とせよ」ともあり、難しいのは「こうに違いない」という思いと「絶対」というのは似て非なるもので、要はどこに確信を持つかです。

私は、下手に瀬織津姫様に先入観は持たないように努力していますし、持ちたくないとすら思うのですが、なぜ瀬織津姫命という女神が私の心にこの姿で映るのか、その説明は未だにできません。
そのイメージはおそらく「神の影」であり、それを人間の脳で変換しただけに過ぎないにせよ、私はその姿を半生をかけて追い求めて来たからこそ、この「幻」が一つの答えなのです。

しかし、実際にそれが本当に「幻」なのか、幻だとしても何故自分にはそう見えるのか、その答えは生きているうちに解明できるのでしょうか。
仮にそれが自分勝手な幻視に過ぎないとしても、私は自分を信じるには自分の感覚を「絶対」と思うまで突き詰める以外にはありません。

「魂」というのは、人間が思うより不可解なものです。

それは自分の心の奥底に鎮まっていて、いつも当たり前にあるようで全く得体が知れない、そんなものに私たちは突き動かされているのです。

瀬織津姫様をモチーフにした漫画を描きたいという気持ちも、いつか瀬織津姫様に神社を建立したいという思いも、一体どこから来るのかわかりません。
ただ、私にとってそのモチベーションが一番力の入るギアに変わりはなく、そのエネルギーを糧にしなければ全くやる気がしないほどです。

だからこそ私は、私の心の中におられる女神様を追い続けます。
そうでもしない限り、神様と私の間にある謎は解けません。

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「大峠」とは何か

楽太郎です。

日月神示とは何か」「日月神示解説」、「日月神示解説補足」と立て続けに「日月神示シリーズ」の投稿をしてきましたが、今回は現在進行形と思われる「三千世界の大洗濯」こと「大峠」に関する解説になります。

解説とは言え、あくまで私個人の見解なので予めご容赦下さい。
日月神示に語られる「大峠」とは、「天日月大神」が天地を統治する「ミロクの世(弥栄の世・神世)」に至るまでの「神界・幽界(霊界)・顕界(現界)」の建て替え・立て直しとされます。
天日月大神とは日本神話で語られる「国常立尊大神」とされ、記紀では「素戔嗚命」に比定されます。

「国常立尊」の御神名にあらせられる「国(くに)」とは「地(クニ)」であり、即ち「地常立尊」とは「地球と月の支配神」と解釈して良いと思います。
月は潮の満ち欠けと「夜」を象徴する天体であり、「滄海原」と「夜の食す国」と「天下」を治めるとする素戔嗚命の神格と符号します。
その国常立尊が「岩戸開き」の後に高天原とその象徴である太陽を司ることで、「天日月大神」として神・幽・顕の三千世界を統治すると神示にあります。

今回は、「日月神示解説補足」で触れた「アセンション(次元上昇)」と霊界の関係について深掘りしたいと思います。
例によって、図解を含めながら説明します。



これらの論考は、日月神示「地震の巻」と「龍音の巻」の本文から類推しました。
なお、「地震の巻」に関しては謎の記号と図像のみの帖、天明氏の論考と思われる霊界解説が含まれており、厳密には日月神の神示とは見なされていません。
今回の解説は、宗教家であられる岡本天明氏の見解も踏まえています。

日月神示及び天明氏によれば、「三千世界」と言われる「神界」「幽界」「顕界」のうち、神界には天人の住む「天国」と天使の住む「霊国」、幽界には「陽霊人」「陰霊人」が住まうとされています。
しかし、私の文脈では「神界」には「神と天使」が住み、「霊界」には天使に連なる高級霊までのヒエラルキー、その下には地獄的想念の霊人たちが限りない層を成して住まうと想定しています。
そして、死後に50日ほど過ごす「幽界」を挟み、地上人の住まう「現界」があると考えています。

ゆえに、神示の文脈からは若干ズレるのですが、ほぼ階層として同じ構造です。
この「神界」と「霊界」を合わせて「天界」とし、現界と地上の霊的気場「霊気層」を含めて「地界」と考えています。

人間は生前、死後と霊界に魂を置き「霊人」として生活しますが、私の感覚だと存命中も霊界に魂の本体があり、地上の生活と連動しながら存在し続けているように思います。
人間は睡眠時に「魂の里帰り」をすると言われますが、神示や天明氏の論考の中にも「霊界での出来事は顕界と連動する」と書かれているので、私は生まれ変わり中も大我の中で霊界と魂が繋がっていると考えています。

「地震の巻」の中で天明氏は、「天国的想念の方向は明るいので進みやすいが、地獄的想念の方向には光がないので暗く、それゆえ進みにくい」というようなことを書かれています。
神示の中にも「霊界は上がりやすく堕ちにくい」と書かれていて、どうやら中間的な層として死後すぐに行く仮の霊界があり、そこから段階を経て自らの想念に近い霊的コミュニティに向かっていくと考えられます。

図では、その霊的ヒエラルキーを格子構造として表現しています。
本文には「霊界には空間がない」と書かれているので、おそらく実際はもっと非連続的なのでしょうが、一つの空間世界に雑多に存在するわけではなく、かなりニッチな空間世界が縦横無尽にあると解釈できるため、このような構造にしました。

「地震の巻」には人間は死後50日程度を幽界の準備的場所で過ごし、最長20年そこで留まるケースはあるがそれぞれの想念に近い霊的世界に進んでいくと書かれています。
私はこれを一般的な「幽界」の定義に当てはめて考えています。
そして、地獄的想念を持った霊人たちは一般的に「地獄」に近い場を作り上げますが、厳密にはもっと細分化された空間世界だと考えられます。
また天国的想念も「天国」に近いコミュニティを形成していきますが、上位に行くほど霊的な階層は高くなるので、神界に近づけば近づくほど「天国的」になっていくのだと思います。

厳密には、霊界の最上部付近と神界の天使の住まう層は連続していそうですし、霊界と言われる「五次元世界」の上層には天使が住むとされているので、それほど違いはないかもしれません。
その「天使」は、私たち人間からして見れば十分「神様」と考えて良い存在であり、特に人間の守護につくことが多いと言われています。
ゆえに、天使以上の霊的存在は一般的に「神」と考えてよく、神の上には神が存在し、その更に上に神が、と神々の階層も無限に広がっていくと言われています。
その神々も、より高位になればなるほど抽象化し、「大神」と呼ばれる御神格は神界の上層におられると考えられます。

ここまでが構造的解説ですが、生前・死後の霊人は存命中の人間にアプローチをかけてくることがあります。
ただし本文の解説では、浄化した高級霊ほど暗示的な干渉を伴い、低級霊ほど具体的な現れ方をすると書かれています。
「天国的想念の霊人」が生きている人間にアプローチするなら、加護や福運を伴う干渉を行うでしょうが、「地獄的想念の霊人」ならば呪いや災い、或いは病的な人格変化などに現れるはずです。
これを私たちは、「ガイド」とか「守護霊」とか、「邪霊」とか「悪魔」とか形容したりするのだと思います。

おそらく「幽霊」と呼ぶものは、幽界と霊気層、エーテル体とも呼ばれる半霊反物質の層をまたがっていて、あまりに地上への物質的執着が強すぎて霊界に進んでいけないのだと思います。
これが次の図説のキーポイントで、「幽界の消失」と「地球の次元上昇」と深い関わりがあります。




「大峠以前」の三千世界では、「幽界」が現界と霊界のクッションの役割を果たしていました。
しかし、地球が次元上昇すると霊的三次元だった地上世界は四次元となります。
しかしそこには幽界という霊界の準備場があったため、その気場を払って浮上することになります。

そこで幽界を取り払うと何が起こるかと言えば、幽界が縮小するに従って死後のインターバル期間は短くなり、幽界に居座りたかった不浄霊は行き場を無くします。
例えて言うなら、市役所のホールが小さくなっていくのに、手続きにくる人の数が変わらなければ所内にはいつまでも人を溜めておけないので、手続きも簡略化して流れをスムーズにするでしょう。
幽界の不浄霊にとって霊界は明るくて進みやすい反面、まだ地上に未練があるので上がるのは難しく、かと言って地獄的想念の場は暗すぎて進みにくいのです。

だから彼らはまた地上に戻ろうとして、エーテル層と幽界の狭間を浮遊するか、人やモノに憑依して執着や未練を晴らそうとします。
これがアセンションに伴う「憑依と浮遊霊の大量発生」の原因ではないかと考えていて、憑依された人間は邪念が強くなるので他の人に対して「生霊」という念を飛ばします。
人間の強い念はそのまま「呪い」となるので、呪いをかけられた人の心身はおかしくなり、故にまた他の人に生霊を飛ばすことになります。

今日の社会的混乱と人心の乱れは、ここから起きているのではないかと私は推察しています。
地球が次元上昇するために「幽界」を取り払うことで、行き場を無くした「幽霊(幽界人)」が地上で憑依や霊障を引き起こし、それを助長する地獄的想念の霊人、そして人間の浄化と覚醒を妨げる「神に仇なす者たち」によって、悪の勢力が隆盛しているのが昨今なのではないでしょうか。

では、「大峠」以後の三千世界がどうなるのか、考えてみたいと思います。

人間の死後にインターバルとしての「幽界」が取り払われたということは、死後すぐに霊界に行かなくてはならないことを意味します。
人間の霊的レイヤーも地球と共に四次元に上昇しているので、四次元地球自体が幽界の役割を果たすことになります。
幽界は日本神話で言えば「黄泉の国」であり、仏教で言う閻魔大王の裁きの場でもあります。
日月神示でも語られる「神と獣」の選別、バシャールの語る「ポジティブとネガティブ列車」、私が扱ってきた「神世と人世」という二義的世界は、今その魂の分岐が明確になったことで、死後の行末が現段階ですでに生きながら決められたとも考えられます。

人間が現世に生まれるのは霊人の「魂の修業」のためでもあるので、地上世界が次元上昇することで直接的な霊魂の修業の場となれば、霊魂としてはより高次元に近づきます。
つまり、人間は四次元(スピ的には五次元)の地球で生きながらにして幽界と同じ霊的次元に生き、霊界の行き先が早々に決まるため、死後すぐに霊界に入ることができるわけです。
まして、人々はこれから霊格や「徳」を高めていくターンに入るため、死後に物質的執着を取り除くインターバルを設ける必要性も薄れます。

「日月神示」では、繰り返し「悪は悪ではない」「善と悪の和合こそ真の善」と語ります。
もし「悪は滅ばされるべき」と考えるなら、大峠時に「獣」とされた人々は、死後霊界に入ることを許されず消滅するか、別の次元の地獄的気場に押し込められることになるはずです。
しかし、「悪は大神が許すから存在する」と語られており、悪は必要悪ゆえに宇宙から消滅するべきではありません。

だからこそ、私は「獣」とされた人々もそのまま「地獄的想念のグループ」に直行することになるのではないかと考えました。
しかし、「生まれ変わり」というのは本来、霊人がより高い階層に行くために修業する意味を持っているので、向上心のない霊人はわざわざ地上に転生したりはしないはずです。
かと言って、意地悪い霊人が永久に改心しないとは言い切れず、どこかの段階で「人間に生まれ変わって修業したい」と思うかもしれません。

全ての魂は大神の「分御霊」から生まれ出た神であるので、その自由意志は尊重されるでしょう。
従って、霊人はいくら自らの霊的コミュニティに留まったと言えど、地上に降りた人間は全て高いレベルの霊的修業を行うことになり、全霊魂が改心と浄化に向かう以外のベクトルが用意されていないのです。

つまり、どんな邪悪な性質を持った霊魂も「大峠」で散々痛い目を味わった後は、必然的に改心か霊的浄化に向かうしかありません。
だからこそ、「善も悪も改心させる」と日月神示では豪語されているのだと思います。
そして、善も悪も誰もが悔い改めて結果的に改心していくのだとしたら、世界はどう考えても弥栄えていく道しかないのです。

「世界を一列一平にして一つの神で治める」と神示にあります。
「地獄的想念」と「天国的想念」の霊人社会が神界を中心に遍く統治されるとしたら、その頂点に位置するのが神界(高天原)を新たに支配する「天日月大神」です。
以前の解説で述べたように、これまで「月と地球」を支配していた国常立尊大神こと素戔嗚命は、高天原を支配する「天照大御神」の権威も嗣ぐことになるため、実質的に「三千世界の支配神」となります。
ゆえに、天日月大神の直接統治が神界、霊界、現界と遍く行き渡る「ミロクの世」となり、末長く弥栄ていくのだと思います。


ということで、独断と偏見と勝手な解釈で「大峠」の意味について考えてみました。
私自身、死んだことがあるわけではない(死にかけたことは何度もある)ので霊界解説に関しては完全な受け売りなのですが、一応筋は通っていると思います。

毎日胸が焼けるようなニュースと、白々しい顔をした偉い人たちの顔を見て居た堪れない日々を送っていますが、神示の言うように彼らも悪という御用をしっかりこなしているのだ、と考えて納得するようにしています。
正直に言うと「早く地獄に堕ちればいいのに」と思う気持ちもない訳ではないですし、己の無力感と向き合うこともあります。

ただ、誰しもが幸せになることを求め、それが例え我良しであるとしても、全ての人間を殺して回らなければ気が済まないような悪人はいません。
どんな人間にも幸せになる権利はあり、そのやり方が多少周りを犠牲にするだけのことで、その行為は宇宙に許されているから存在します。

ただ、彼らのやり方がもう時代に合わないというだけのことであり、TPOを弁えないがゆえの罪なのです。
次に電車の席に座りたい人がいるのに、降りるべき駅で降りずに座席で横になっていれば困る人がいますし、要は順番を守って欲しいだけなのです。
そして、その座席が空くのを次の時代に生きる人々は静かに待っています。

けれど、いずれコワモテの駅員さんが駆けつけて、彼らの肩を叩く時が来るでしょう。
私たちはその時を待っていれば、晴れてグリーン席に座れるのです。
その電車は、逆さまだった世界がさらにひっくり返り、「神秘」というビックリ箱が開いた「弥栄の世」に向かっていくはずです。

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日月神示解説補足

楽太郎です。

昨日、「日月神示解説」という記事を書きました。
そこでは、新たに世界を支配する神格が「天日月大神」であり、高天原と黄泉の国と葦原中津国、いわゆる神界と霊界と現世を統べるという話をしました。

今回は、前回の解説記事に加えると蛇足になりそうだった事柄について付記していきたいと思います。
さて、日月神示に予言されていた「三千世界の大洗濯」と「五枚の岩戸開き」と、昨今スピリチュアル界隈の中心的テーマだった「アセンション(次元上昇)」には密接な結びつきがあります。

本ブログでも度々取り上げていますが、新月と満月の周期で毎月異なる形で霊的浄化のウェーブが発生していました。
ある時には「過去への執着」であったり「人への感情的依存」であったりしました。
そのテーマが月の満ち欠けによって現れると、浄化に抵抗する人々の集合意識は邪気を生み出し、霊的な暴走をする傾向があったのです。
だから私は満月の日は大抵頭が痛く、まともに動けない日もままありました。

そして、去年の夏至から強烈な力を発揮し始めた季節分点は、二十四節気の巡りを利用して一つの区切りとなっていたようです。
昨年末の冬至には「神世」か「人世」を選ぶかの選択が問われ、ほぼ今年の運勢を決めるような目標設定を求められました。
そして今年の春分と5月の満月で、二度「神世」か「人世」を選ぶかの確認が行われました。
なぜ重ねて「選択の意思決定」が神々から問われたのかと言えば、日月神示でいう「神の道と獣の道」で人々を選分け、境界線を引くことで次の時代に進ませる人々を選ばれたのだと思います。

このように、太陽や月と地球の周転だけでなく、太陽系の星々や星座の逡巡とも影響し合いながら、宇宙的なスケジュールと並行して「アセンション」は進められてきました。
これらの占星術的な天体の巡りは、本来何十万年も前から予定されていた事柄であり、そのスケジュールに合わせてテーマが地上に降ろされ社会的な影響を生み出すことを考慮すれば、「アセンション」も「神々の浄化作戦」も、遥か昔から仕組まれていたのかもしれません。

奇しくも、日月神示を降ろされた「日月神」の御神名にある「日月」とはを示し、天体周期と密接な繋がりのある言葉です。
それゆえ、終戦一年前に岡本天明氏に降ろされた日月神示が、80年の月日を経て現代の私たちの目前に再現されることは、正しく「神からの啓示」に他ならないのではないでしょうか。

ゆえに、地球の次元上昇と天日月大神による新世界の到来は、どうも無関係とは考えにくいのです。

前回の解説で、一度目の岩戸開きは「伊奘冉命と伊弉諾命の再会」を意味すると書きました。
神話では伊奘冉命は火加具土命をお産みになられ、火傷が原因で黄泉の国に赴き、そこで黄泉大神となられました。
日月神示の霊界解説によれば、地上を巡る「気」が天上にそのまま還らず、傍に逸れて地獄的想念が溜まった場が「幽界」であるとされます。
昨今、スピリチュアル界隈では妙な話があり、「幽界が消失し始めているのではないか」というのです。

私はこれに関して実感があって、浮遊霊と生霊の大量発生の裏で、不浄霊の憑依も活発化しているのではないかと仮説を立てていました。
世には人間の心を無くしたような過激な人間が増え、その過激な人間を持て囃す過激な集団も増殖し、その背景の裏に私は「邪霊の憑依」を感じています。
つまり、幽界が縮退するにつれて行き場を無くした地獄的想念の不浄霊たちは、地上に居場所を求めた結果、似た想念の人間を苗床にし始めたのではないでしょうか。

従って、元々「獣」としての傾向が強かった人は、不浄霊の憑依が加わることで「獣化」が進行します。
ただ、憑依に対する「祓い清め」とは自ら行う意志がなければ浄化されないため、「神の道を選ぶか獣の道を選ぶか」を神々に問われた時、魂のレベルでの自由意志による決断を迫られたのです。
邪霊の憑依を受け入れ神を拒んだ者は、自らの意志で「獣の道」を進むのを選んだことになるため、今後は神に救われることのない道を歩むことになるはずです。

大神からの「分御霊(ワケミタマ)」である人間の魂は神の一柱であり、例え天界の神々と言えど神の一柱である人間の自由意志を無理に変えるわけには行かないのでしょう。
ゆえに、「自分の意志で次の時代を選ぶのか、このまま留まるのか」を選択させたのだと思います。
仮に神の道を進まないからと言って天罰が下るわけではなく、あくまで「神の加護から外される」だけでしょうが、それは迫り来る不幸を回避できないことを意味します。

従って、人間の「獣化」と世の動乱、アセンションとの相関は「幽界の消失」という面からも説明ができます。
しかし私の自説である「幽界の消失」と次元上昇した「地球の霊的気場=精神界」の出現は深い関係があり、幽界の消失で空いた霊的気場にスッポリ収まる形で「地球霊魂の気場」が作り上げられたとするなら、その霊的次元の創出にこそアセンションの真の目的があったと考えられるのです。

奇しくも、一度目の岩戸開きによって伊奘冉命が伊弉諾命と再会できるとしたら、黄泉大神としての任が解かれたとも解釈でき、つまり幽界が消失したからその国を治める必要が無くなったとも考えられるのです。
そして、これまで伊奘冉命は千引きの岩によって黄泉の国に閉ざされていたからこそ伊弉諾命と遭うことが叶わなかったので、黄泉の国を治める必要がなくなれば千引の岩を置く必要もなく、ゆえに両神は何千年、何万年越しに逢瀬を果たすことができるのです。

「地球」を支配しているのは国常立尊であり、神示によると日本列島は「国常立尊の影」であるとされます。
言わば、地球そのものが国常立尊大神の「御身体」であり、地球霊魂が「国常立尊大神の御霊体」であるとも考えられます。
だからこそ、幽界跡地に地球霊魂が上昇し、そこで新たな霊的気場を作るのは理に叶っているのです。
そして、地球霊魂であられる国常立尊大神=天日月大神と魂で繋がる人間こそ「神人」であり、新たな世界の礎となっていく人々なのだと思います。

このブログを遡ればわかると思うのですが、私がずっと「神世に上がるため」と表現して必死に自己浄化に専念してきたのは、次元上昇した地球の霊的気場にアクセスするには相当な精神的修行が必要だったからです。
それは「霊格」と言ってもよく、常識的な人格とは違う徳の高さであり、神示が「ゴモク(汚いもの)を捨てよ」「御魂を掃除せよ」と口酸っぱく述べられるのは、「我良し」という考えを持っていては地球意識を共有することができないからだと思います。

ゆえに「ミロクの世」が弥栄えるのは、我良しの考えは結果論で言えば合理的ではなく、人々が互いにWINWINの関係しか築かなくなるとしたら、必然的に繁栄し続けるしかないのではないでしょうか。
しかし逆に考えれば、今は誰もが「我良し」という悪に染まっているから一方的にWINLOSEなのだけど、長い目で見ればLOSELOSEだから先細り、世が行き詰まっていると考えることもできます。

その件に関しても神示には説かれていて、「世は金で治めて金で潰して、地固めする」とあります。
日本は戦後復興から高度経済成長、バブル崩壊から低成長の現代に至るまで、ずっと「拝金主義」の時代でした。
人々は精神的な豊かさよりも物質的・肉体的な価値を追い求め、ゆえに経済や社会が行き詰まっても「お金があれば幸せになれる」という目的意識から外れることができず、経済的利益を得る以外の発想を持つことができません。

今起こる日々のニュースを見ても、「法律に書かれていなければ何をやっても良い」「多少道理は違えても成果を出すべき」「お金があれば幸せになれるのだから金儲けは悪ではない」という考えが蔓延り、道徳的善悪が「利益=善」というロジックにすり替わっているのです。
だからこそ、成功や利益のためなら全てが奨励されるべき、という風潮の中で社会的制度もモラリティもおかしくなっているように思えます。

そもそも、物物交換の補助的手段でしかなかった「貨幣」という概念が、今では人の人生も魂も支配する仕組みになっています。
言ってみれば現代は「金で固まった世」であり、金で固まっているからこそ搾取と欺瞞に満ちた社会経済が固定化し、その毒が回って国家レベルで自家中毒にかかり、瀕死の状態にあるのです。
それがもし「金で潰される」のなら、こうして袋小路に入った文明社会も、全ては人類と世界のステップアップに必要な過程であり、世の建て替え・立て直しのために用意されたステージだったのでしょう。

ゆえに、これから先に起こることは大体予想できますし、私にはそっくりそのまま正規ルートのシナリオを辿るしかないように思えます。

人間は逆立ちしては生きられません。
しかし今の人々は頭を逆さにして、お尻を上に向けて両手で歩いているのです。
お尻が頭の位置にある人々が多いからこそ、世の中はおかしなことばかり起こっています。
今の世は逆さまの世界であり、心や思考があるべき場所に欲望が収まり、心ある者は損をし軽率な者はますます栄えます。

もちろん逆立ちは人間本来の立ち方ではないため、何をしても苦しいのは当然です。
誰もが違和感を感じ、できるならやめたいのだけれど、皆が逆立ちして生活しているから足を地面に降ろすことができないのです。
けれど、誰かが「やっぱり普通に歩くのがいいわ」と言い始めたら、徐々に逆立ちを恥ずかしがる人も出てくるのではないでしょうか。

人間は頭を上に向けて、両足でしっかり地に足をつけて生きるべき動物なのです。
常に息苦しいのは逆立ちをしているからであり、頭に血が下りていれば楽しくも生きられないでしょう。
そうして人々が本来のあり方・生き方を取り戻していけば、人類は自然と弥栄えていくはずです。

私は日月神示を信じるべきと言うつもりはありませんし、日本の神々への信仰を全ての日本人や世界中の人に押しつける気もさらさらありません。
むしろ、自分の信じる神秘的存在を追求し、身の回りに奇跡を感じて生きることこそ理想なのではないでしょうか。

ただ、この薄汚れた世界で人を信じれないとしたら、目に見えない存在を一旦は信じてみても良いと思います。
まして神を信じられなければ、自らを徹底的に信じてみることです。
おそらく、その姿を神々は見守り、時にはそっと背中を押すことでしょう。
いつも陰に「神様」はおられるのです。

人間が本来の姿となり、心と魂を取り戻した世界が、これから訪れる「神が再来した時代」です。
その世界が開けるまでの苦難を日月神示では「大峠」と表現しています。
その間の困難は想像を絶するでしょうが、そのトンネルの先には、必ず光の差す出口があります。

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「日月神示」解説

楽太郎です。

以前、「日月神示とは何か」という記事を書きました。
そこでは、「国常立尊大神」が三貴神の「素戔嗚命」と同一神であること、その国常立尊大神が高天原の最高神であられる天照大御神の権威も継承し、最高神の座に鎮まることが「日嗣(ひつく)」を意味し、天と地上を治めるのが「ミロクの世(神世)」であるという解説をしました。

伊弉諾命が阿波岐原で潔斎を行なった時にご誕生なされた三貴子は「天照大御神・月読命・素戔嗚命」の三柱にあられます。
しかし、あらゆる古伝書や神話にも、月読命の業績が記されているものは殆どありません。
「日本書紀」には、保食神が饗応の宴に際して口から食べ物を吐き出しているのを見た月夜見命は、激昂して保食神を斬り殺してしまいます。
「古事記」において、素戔嗚命は宴の席の裏で大宜津姫命が御饌を吐き出していたのを見るという、月夜見命と同様のエピソードがあります。

これらの説話の類似性から、長らく月読命と素戔嗚命の同一説が語られていました。
日本神話では高天原を支配するのが太陽神であられる天照大御神ですが、月読命が「天の一部」「夜の食す国」と「滄海原の汐の八百重」、素戔嗚命が「夜の食す国」「滄海原」と「天下」を治めたと記紀には記されています。
つまり天照大御神と月読命と素戔嗚命の三柱で「高天原と夜の食す国と地上世界」を治め、象徴的天体としてそれぞれ「太陽と月と地球」を司ることになりますが、月読命と素戔嗚命で「夜の食す国」「滄海原」を二柱で統治していることになります。

これは、直感的に不自然に思います。
神話として明快な叙述をするなら、「天照大御神は太陽を司り、高天原を統べる」「月読命は月を司り、夜の食す国=黄泉の国を統べる」「素戔嗚命は地球を司り、葦原中津国を統べる」とすれば、神話的構図はシンプルになります。
しかし、「黄泉の国」を支配するのは黄泉大神であられる伊奘冉命であり、「夜の食す国」は黄泉を差すのではなく、「夜の治める地(くに)」を意味し、厳密には「夜の地球」です。
ゆえに、月読命と素戔嗚命の統治権の揺らぎは、「月読命と素戔嗚命の神績を意図的に二分割したからではないか」と考えられます。

「記紀」は、飛鳥時代から奈良時代に続く朝廷政権の混迷期にあり、かなり政治的な文脈が織り込まれているので注意が必要です。
当時は諸豪族の勢力に睨みを効かせたり忖度する必要があったので、物部氏や大伴氏、蘇我氏や中臣氏の文脈を考慮に入れて記述的なバランスを取ったと思われる部分も見られます。
朝廷周辺の豪族には海部氏や秦氏や尾張氏も強い権限を有し、「月神」を信仰する海洋系氏族の影響も充分考えられます。 

「記紀」はおそらく虚偽の事実を書く意図は全くなく、ただ文脈通りに書けば波風が立つため、敢えて複雑な叙述トリックを使って有耶無耶にしている部分が多いと思います。
日本神話は大陸起源の人類学的神話が引き継がれており、長らく文字が存在せず口承によって神話が成立したからこそ、これほど複雑なロジックを必要としないはずです。

今回は「日月神示」の解説なので読後感に従うならば、「月読命(大神)」は素戔嗚命であり二柱が同一の神格を指すとすれば、「月」「夜の食す国」と「滄海原と大地(地球)」を統治するのが素戔嗚命であると考えて良いと思います。
記紀には亡くなった母の伊奘冉命を慕って、素戔嗚命が黄泉の国に行きたがるエピソードが挿入されており、伊奘冉命は火加具土命をお産まれになられた後に亡くなり、その後黄泉の国を治める「黄泉大神」になったとされています。
「黄泉国」は黄泉大神であられる伊奘冉命が治めるので、「夜の食す国=黄泉の国」ではなく、実際には地球と地球の衛星たる「月」が素戔嗚命の直接統治下にあると考えたら腑に落ちます。

「月読(ツキヨミ)」という神名の語源は「暦(コヨミ)」と関係が深く、どうやら「日」を元にした暦の換算と「月」を元にした換算を合わせて「日月」と呼んでおり、その風習は現在にも受け継がれています。
古代から人々は祭祀や収穫の時期を読むには、太陽と月の周回を観察し、その暦を元に祭事を行ってきました。
それゆえ「日=太陽」と「月」の周回軌道を読むことがそのまま宗教化されても、何の不思議もありません。

現代科学によると、月は「巨大(または複数)の惑星の衝突」によって飛散した惑星物質が地球の周回上で結合し、月になったとする説が最も有力です。
月には地球上の組成物質だけでは成り立たず、他の惑星の組成も確認されつつ大部分は地球の破片です。
つまり、月は「地球と兄弟」とするのが妥当であり、実際に地球と月を支配する神が同一であっても筋が通ります。

また、人間は「3」を聖数とする習性があり、天と地を支配するのが「三柱」にすると感覚的に落ち着くのです。
しかし、三貴子の神話以外でも「天御中主神・高神産霊神・神産霊神」、「火遠理命・火照命・火須勢理命」を始め、二項対立を敢えて避けるために記述のない神格を置く例が存在します。
故に天照大御神と素戔嗚命(月読命)の一対で高天原と葦原中津国を事実上治めている、と考えたら矛盾はなく、それは後述する「伊弉諾命と伊奘冉命の別離」とそれに伴う黄泉の国の支配体制も一つの文脈として成り立つのです。

つまり、三千世界を構成する高天原・葦原中津国・黄泉の国のうち、「高天原を治めるのは天照大御神」「葦原中津国を治めるのは素戔嗚命」しかし、「黄泉の国を治めるのは伊奘冉命」と正直に明文化すると三貴子に当て嵌まらず、違和感が出てしまいます。
そのため、帳尻を合わせるためにも「月」と「夜の食す国」を設定し、「夜の地球」を「黄泉の国」にミスリードしているのではないでしょうか。
そのため素戔嗚命に一柱二役になってもらい、「月読命」の神名を冠させて頂いていたと考えるのが自然です。

ここからは、「月読命は素戔嗚命と同一神である」という前提で話を進めます。

神話学的に「素戔嗚(すさなる)」という神名の由来は、「凄い勢いで功績を成し遂げた神」という意味が語源だとされています。
日月神示の文脈で言えば素戔嗚命は国常立尊大神であらせらるので、かつてこの世界を造り固めて支配した神とされます。
国常立尊は、記紀の記述によれば「造化三神」「別天津神」に次いでお産まれになられた神であり、神代七代の始めにして、その後に伊弉諾命と伊奘冉命がお産まれになり、伊弉諾命の御子神が素戔嗚命なので、時系列で考えると世代が合いません。

これに関して記紀では、造化三神も別天津神も神代七代も一世代ずつご誕生になられてはいるものの、実はそれぞれの代に親子関係は明記されていません
つまり、造化三神の後に別天津神二柱がご誕生された後、国常立尊と豊雲野尊がお産まれになられてますが、国常立尊と豊雲野尊の間に伊弉諾・伊奘冉の二柱を含む地祇五代がご誕生なされた訳ではありません。
事実、伊弉諾命と伊奘冉命に「親神」が存在しないということになっています。
これに関して、どう考えたらいいのでしょうか。

記紀では、天孫降臨の際に天照大御神の指南役として登場し、実際に天孫である瓊瓊杵命の補佐を行ったのは「高神産霊神」です。
高神産霊神は造化三神の一柱であり、天御中主神がご誕生してすぐにお姿を隠された後、神産霊神と共に多くの高天原の神々をお産みになられました。
本来なら、天照大御神の天孫降臨を助けるのは、親神であられる伊弉諾命の役割ではないでしょうか。伊弉諾命に親神は存在しませんから、「高神産霊神=伊弉諾命」という解釈が可能です。

高神産霊神と神産霊神、伊弉諾命と伊奘冉命が同じ御神格であるとするなら、なぜ神名を分ける必要があったのでしょうか。
高神産霊神と神産霊神は思金命や太玉命、少那彦命など高天原に坐す神々をお産みになられましたが、伊弉諾命と伊奘冉命は「神産み」「国産み」をした後、伊弉諾命は単神で皇祖神であられる三貴子をお産みになられました。
つまり、高神産霊神と伊弉諾命はよく似た業績を持ちながら、レイヤーの違う役割を演じているのです。

高神産霊神が「高天原の神々の親神」なら、伊弉諾命は「皇祖神の親神」になるのです。
おそらく、記紀的文脈では「高神産霊神が三貴子をご誕生させた」とするには、系譜的に都合が悪かったのではないでしょうか。
ゆえに、高神産霊神が国常立尊の上位神、伊弉諾命が素戔嗚命の親神であったとしても矛盾はありません
従って、国常立命と素戔嗚命が世代が違うように思えるのは、記紀の叙述トリックを回避すれば説明がついてしまうのです。

日月神示では、地上を支配する神であられる国常立尊が高天原の「日を嗣ぐ=王権を担う」ことで「天と地を支配する=一つにする」と語られます。
神示に幾度も登場する「てんし様」という言葉は、「天嗣(天を継ぐ)」を意味し、また「天司(天を司る)」でもあると読み取れます。
国常立尊が素戔嗚命と同一神であり、天照大御神の玉座を継ぐことを意味しても世代的に矛盾はありません。
ゆえに、月と地球を支配する素戔嗚命が太陽さえも統べる時、大日月地を治める御神格となられるのです。

では、天照大御神が国常立尊とほぼ同時期にご誕生なされた「豊雲野尊」と同一神であるかと言うと、それを裏付ける論拠は何一つなく、天照大御神と豊雲野尊を結びつける言説は殆ど存在しません。
しかし、日月神示の文脈を一部共有する大本教の説では、豊雲野尊は国常立尊の妃神であり、国常立尊のご隠退と合わせて自らも「坤」の方角にお隠れになられたと言います。
天照大御神は素戔嗚命との「誓約(うけい)」によって数多の神々をお産みになられましたが、儀式的ではあるにせよ姉と弟の作業による神産みなので、普通に考えると違和感があります。

大本によると豊雲野尊もご隠退なされていることになりますが、日月神示では天照大御神は岩戸隠れの後、「偽の岩戸開き」によって騙そうとした神々に騙された神が姿を現し、本物の天照大御神はまだ岩戸の中に閉ざされたままだと語られています。
これは由々しき話であり、これがどういう文脈であろうと日本神道を揺るがす内容に変わりはありません。

しかし日月神示に準拠すれば、天照大御神の岩戸隠れを含む「五度の岩戸閉じ」が起こったことで、世が闇の世となっていったと語られます。
そして日月神示は、その五度閉じられた岩戸が一斉に開かれる時が来ると告げ、その時こそ「大峠」を迎えると説きます。

日月神示にたびたび出てくる「鳴門(なると)」という言葉は、「成る戸=十(と)」の意であると考えて良いでしょう。
神示の中で、「八の世界が十の世界になる」と説かれています。
そしてこの仕組みが、岩戸開きのキーワードになってくるのです。

神示の中に、伊弉諾命が単神で八柱お産みになられたとされていますが、別の文脈では伊奘冉命と「八尋殿」を地上に設けた際、四方と八方角が発生したとも書かれています。
よく神示に出てくる「12345678」は、ここまでの数字を指します。
そして「9」は「コ=光(こう)」であり、「高天原」を意味し、「10」が「ト=透(とお)」即ち常(とこ)世、黄泉の国、霊界(幽界)を示すと考えられます。

「12345678」が八方向の空間、葦原中津国を指すのであれば「9(高天原)」と「10(黄泉の国)」が合わさり10カウントになれば、「成る十(鳴門)」が完成するのです。
「大峠」とは「三千世界の大洗濯」を意味し、高天原・葦原中津国・黄泉の国の建て替え・立て直しのことです。
つまり、「12345678910」の完成(=成る十)こそが神示で語られる「鳴門の仕組み」と考えられ、岩戸開きそのものを示すのです。
ただ一方、これで岩戸開きは完全には達成されないと言われます。

岩戸隠れの時に天照大御神を呼び出すための催しが執り行われた際、天細女命が奏上した巻物には「12345678910」と書かれていたけれども、正しくは「012345678910」でなければならなかったと書かれています。
この「0」というのは日月神示独特のメタファーで、「・(キ)」に対応する「◯(ミ)」であり、外側の様相を示しています。
ここで言う先頭の「0」は、「◯」の真ん中に「・」の入った記号であり、そのまま「」を意味すると説かれています。

即ち、これまで天照大御神が岩戸から出て世界を支配していても、真の天照大御神はまだ岩戸の中におられるので先頭の「0」が足りなかったのです。
この先頭の「01」と最後の「10」が合わさると「ニ十ニ」になると神示では述べられていますが、正直このロジックは私には説明がつきません。
しかし、こうして揃った「ニ十ニ」が「富士(ニニ)の仕組み」であると述べられています。

この「富士」という言葉と「ニニ」という数字は、日月神示を読み解く上での重要ワードです。
「フジ」は「不ニ(二つとして同じものがない)」という意味と、「神の国の山」が転じて「唯一無二の神が宿る身体」という意味があるように思います。
日月神示のコアとなる「神人」という概念は、ここに通じ、また「岩戸開き」の鍵となるのです。

ゆえに、「鳴門」と「富士」の仕組みが岩戸開きの要であり、それは「012345678910」の「ひふみ=(日月)」が完成することを示します。
何かと謎記号と数字の多い日月神示ですが、こういう読み解き方をすると見えてくるものがあります。

国常立尊大神が支配する「三千世界」とは、八方向の地上世界(葦原中津国)、九(光)の世界である高天原、十(常世)の世界である黄泉の国を意味します。
黄泉の国は、伊奘冉命が黄泉大神として治めているとされます。
しかし黄泉の国と葦原中津国を隔てる「千引きの岩」が取り除かれると、伊奘冉命は伊弉諾命との間にある岩戸が解かれ、二柱がようやく再開して和合すると述べられています。

日月神示の中で語られる「五度の岩戸閉じ」の中で、伊弉諾命と伊奘冉命の別離は「一回目の岩戸閉じ」であったとされます。
伊奘冉命は火加具土命をお産みになった際に火傷を負われて亡くなられましたが、その後に亡くなった伊奘冉命を追って黄泉の国に赴かれた伊弉諾命は、その際に仲違いをしてしまいます。
伊奘冉命は黄泉大神となり、どうやらそのまま黄泉の国を統治し続けられたようです。

日月神示の霊界解説では、地上を巡った「気」が天上まで還らず、横に逸れたことで誕生したのが「幽界」であるとされます。
「大祓詞」では、祓戸大神が祓い清めを行う際、速佐須良姫命が根の国底の国に流れ込んだ罪穢れを「さすらい」消し去るとあります。
記紀の中で、伊奘冉命と伊弉諾命の口論の際、仲を取り持った女神が「菊理姫命」であり、伊奘冉命の妹とも御子神であるとも言われます。

人間は死後、霊界に上がる前に準備段階として「幽界」に上がるという説があります。
心霊学的には人間の念が作り上げた霊的気場であるとも語られ、ここには霊界へ上がる霊も停まれば、地獄的想念を持つがゆえに霊界へ戻れず、不浄霊として残り続けるそうです。

つまり、神界と霊界と現界の間にイレギュラーに発生した霊的階層であるからこそ、改めて大神が統治する必要があったのだと思います。
それは初めから計画されていたのだと思いますが、いずれにしろ伊奘冉命と伊弉諾命は別れ、その間は「千引きの岩」で閉ざされてしまいました。
これが「一度目の岩戸閉じ」です。

二度目の岩戸閉じは、「素戔嗚命に罪を着せた時」とされます。
記紀では素戔嗚命は「天津罪」を犯して高天原を荒らしまくったため、その罰として髪と爪を抜かれて高天原を追放されます。
日月神示と、その前身とも考えられる「大本教」の説話において、素戔嗚命こと国常立尊は厳しく天地を治めたため、その厳格さに反抗した神々によって弾圧され、「艮の方角=日本列島」に封じられたと語られています。

記紀では素戔嗚命の暴虐にお怒りになられた天照大御神が「岩戸隠れ」をなさったので、国常立尊ご隠退の経緯に繋がるのではないでしょうか。
天照大御神が岩戸にお隠れになられ、「騙そうとした神々」が「騙した神」を顕現させて「偽の岩戸開き」をしたと述べられているので、文脈で考えたら天照大御神は「閉じ込められた」と考えた方が自然だと思います。
冷静に考えたら、天照大御神が自ら岩戸に引きこもったのなら、気が改まれば自ら姿を現したはずです。
しかし、「偽の天照大御神」が御顕現なされていることを大御神は知り得ておられるはずで、それでも未だ岩戸の中におられるということは、そこに他意があるようにしか思えません。

四度目の岩戸閉じは、「神武天皇の時」とされます。
大国主命から国譲りがなされ、瓊瓊杵命が天孫降臨をした後にその子孫の神倭磐余彦命は日向を発ち、東征を始め大和に辿り着いて橿原に朝廷を開きます。
この功績を「岩戸に隠した」と神示には書かれていますが、匂わせている感じもします。

ヤマト王権成立以前には「倭国大乱」があり、実際に弥生後期には各地で戦闘が激化したのは考古学的に証明されています。
葦原中津国の豊葦原瑞穂国を平和に治めるためには、この武力による騒乱を鎮める必要があったのだと思います。
そして、実際に「卑弥呼」を擁立し、太陽神祭祀を礎とする宗教国家「大和」が日本各地を政治的に平定していくことになります。

ここで「神の直接統治」ではなく、「天皇の間接統治」が始まったことで、歴史的には「神代」から「人代」へ転換していくことになりました。
しかし、数世代後の大和朝廷は内部の覇権争いと領地争奪の中心となり、平安時代の朝廷の没落から次第に武士の世となっていきます。
この歴史にも「闇」があり、騒乱の時代になっていく過程はある種の岩戸閉じかもしれません。

最後に、神示の中でははっきりと五度目の岩戸閉じは「仏魔の渡来」であると書かれています。
飛鳥時代には日本に仏教が伝来しましたが、そこでは神道保守派の中臣氏と仏教推進派の蘇我氏の間で権力争いが発生しました。
それで朝廷は一時混乱しましたが、その後は仏教が浸透し各地で神仏が習合していきました。

それを日本の神々がどう受け取ったのかは図りかねるのですが、神道とは本来経典がなく、自然信仰に近いために各々の信念や霊的感覚が柱となってきました。
しかし仏教には経典があり、厳密な戒律も存在します。
人々は教えを守るために経典に頼り、そこに救いを求める流れは神道の自主性とは異なる性質もあります。

私自身は神道の導きも仏教の教えも矛盾はないと思っているのですが、「教科書通り」の宗教は神々のお考えとはズレがあるかもしれません。
神仏習合によって日本人に馴染んだ信仰も、欧米の価値観に引き摺られた明治政府の「神仏分離」によって、また違う形に変貌させられてしまいました。
「六度目の岩戸閉じ」があるとしたら紛れもなく「黒船来航」だと思うのですが、とりあえず以上の五回の岩戸閉じが闇の世をもたらしたと日月神示には書かれています。

先ほど、岩戸開きによって「伊弉諾命と伊奘冉命が千引きの岩が取り除かれたことで再会を果たす」と書きました。
それが一度目の岩戸閉じに対応した岩戸開きだとすれば、二度目の岩戸開きは素戔嗚命が罪を背負い、大本教で言う「艮の金神」としての封印が解かれ、国常立尊が「天日月大神」として新たに高天原の王座に就くことを示すと考えられます。

そして、岩戸開きの際には「天照大神・天照皇大神・日の神」が揃ってお出ましになると神示には書かれており、それが三度目の岩戸閉じに対応します。
おそらく、これまで闇の世を支配していた「偽の天照大御神」がご退位なされたので、本物の天照大御神が岩戸から出られ、その頃には高天原の最高位は天日月大神となられた素戔嗚命が引き継いでいるのだと思います。

四度目の岩戸閉じは置いといて、五度目の岩戸閉じに関しては、仏教では「末法の世」が終わると、弥勒菩薩が治める「弥勒の世」が訪れると説きます。
仏教の原典では「弥勒の世」は気の遠くなるほど先の時代を指すのですが、日月神示では大峠が終わり天日月大神が治める時代を「ミロクの世」と呼んでいます。
つまり、「ミロクの世」が近い将来に到来してしまえば、仏教の究極的世界である「弥勒の世」が実現してしまうことになり、仏教のタイムラインが終了してしまうのです。

これは仏教信奉者として由々しき事態というか、自分でも書いていいのかと思ってしまうのですが、とりあえず「日月神示」の解説なのでご容赦ください。
一先ず話を進めますが、四度目の岩戸開きを飛ばしたのは本気で書きたくないからです。
しかし、ここまで書いてしまったら仕方ありません。

四度目の岩戸閉じは神武天皇の折、神が人になり変わる必要があった、と神示には示されています。
かなり濁した書き方になっているように感じますが、要は「神が人となって地上を統治せざるを得ない理由」があったからです。
そして「人が神になり変わって統治する時代」が終了するということは、神が地上と人を直接統治する時代に戻ることを意味し、「人が神の代理として統治する」必要がなくなるということです。
つまり、天皇が政治的役割を終えることを意味します。

もうこれは◯されてもおかしくないのですが、「象徴天皇だからセーフ」みたいな話にならないでしょうか。
もし私が血祭りに挙げられたら、日月神様が責任を持って天国に導いてくださることを期待します。

これらの「岩戸」が何を閉ざしていたのかと言えば、神の道に他なりません。
つまり、神と繋がり自らを祓い清め、清廉潔白に「弥栄」に生きる道が閉ざされたことで、人々は罪穢れ、迷い苦しみ憎み争い、災いや禍事を受けるようになったのです。
だからこそ、日月神示では口酸っぱく「御魂磨き」を勧め、それは改心と悔い改めであると言います。

そして、おそらく現在進行中の「大峠」を乗り越える唯一の術はそこにあり、「神と獣」が分かれた世で「神人=真の臣民」であれと説くのです。
神道では、全ての日本人が「天の益人」とされます。
人間は大神から魂を分け与えた「分御霊(ワケミタマ)」であり、それぞれが神の一柱です。
神とは、大神の配下でありながら家臣でもあり、つまり人々は「臣民」という大神自ら擁する民だからこそ、大いなる加護を授かるのです。

この神示を降ろしたのは、文脈から察するに「天日月大神」の補佐をする「天日月神」です。
神々の世界には「大神」という王の中の王がおり、「神」という王たちが存在するようです。
「地(くにの)日月大神」も同時に存在し、おそらく天日月大神と同神格なのだと思いますが、「地日月神」は「臣民」即ち目覚めた人間たちであると言います。

冒頭とも重なりますが、「日月」は本来「暦」を指し、奇しくも神示の中では具体的な日付が語られていたりもします。
「3月3日」「5月5日」など、艮の金神の調伏儀礼の日とも重なります。
そして何度も強調される「旧暦9月8日」の真意はわかりませんが、何らかの意味があるのでしょう。

それが「五度の岩戸が一斉に開かれる日」なのか、「国常立尊大神が高天原の王座に即位される日」なのか、それは不明です。
日月神が暦(時間)を司るとすれば、その予言が80年前に岡本天明氏に降り、第二次世界大戦の行末と将来における地球の次元上昇、「三千世界の大洗濯」こと大峠の到来、新たな世界を統べる天日月大神のご顕現を言い当てられたとしても不思議ではありません。

神々の世界は地上世界とは異なる時間軸にあり、また時間と空間の概念も異なると言います。
そして、神界や霊界で起こった出来事は必ず地上世界に再現されるとされ、神示の中では「神界の建て替えの真っ最中」だと書かれています。
つまり、80年前にはリアルタイムで神界の洗濯が行われており、それが霊界を通じて80年越しに現世に反映されていくのだと思います。

もし未来の出来事が神界に既に起こっているならば、神々が現代において和気藹々とご活躍されていることを鑑みるに、やはり「悪神」は退き神界には平和が訪れているのだろうと思います。
そして現世を生きる私たちは、その後に続くことになるのでしょうし、続かなくてはなりません。

この世には未だ悪が蔓延り、人々は暗闇の中で進む光を見失い、動揺が広がっています。
そこに差す光が「日=霊=神(ヒ)」の光なのだとしたら、岩戸によって閉じられた神の道はそこに示されているのでしょう。
これから人々が進む道は「神の道」にあり、それは日本人が受け継いできた縄文時代からの自然神への信仰に始まり、産土神や祖神への崇拝、そして「神道」という国家的祭祀にあります。

「天津神」「国津神」「八百万の神々」が坐す多神信仰の国日本は、一神教の国家がもたらす喧騒の歴史とは一線を画し、連綿と刻まれた独自の系譜を持ち、それを「大和(やはと)魂」と称してきました。
その精神こそ、現在の混迷極まる世界に一閃の光を投げかけるのではないでしょうか。
だからこそ、今日「日月神示」が再び日の目を浴び、注目されているのだと思います。

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人類の「二極化」について

楽太郎です。

昨日の30日、カムチャッカ半島沖でM8.8の地震があり、日本中の海岸に1mから3m規模の津波が押し寄せました。
私はこの通知を受けた時、ついに大地震が起きたのだと思いましたが、よく見ると震度は1程度でした。
よく調べたところ、カムチャッカ半島中央部の火山が噴火したことで、千島海溝プレートが連動し500キロ規模の地殻破壊が起こったとされます。

地震と言えば連想するのが、スピリチュアル界隈で持ちきりだった「2025年7月問題」です。
この地震を持って「7月予言は本当だった」と話題にすることには大した意味はないと思います。
予言が当たろうが外れようが、実際に被害を受けておられる方は国内外問わずいる訳で、下手に話題にして消費するのは私が東日本大震災で被災した当時、被害を見て楽しんでいた人たちと心情的には変わりません。

ただ、完全な憶測に過ぎないのですが、私が「世界線が変わった」と感じていた現象の一つが今回のカムチャッカ沖地震なのかもしれません。
スピリチュアルの界隈では「7月問題」はなくなった、やっぱりあるという議論になっていましたが、これを持って「小難シナリオに置き換わった」と結論づけるのが落とし所なのではないでしょうか。

後出しになるようで恐縮ですが、私は個人的に「九州か北海道の大地震」という情報を以前から掴んでいて、こう言った不安は煽るべきではないので敢えて明言はしてきませんでした。
しかし、千島海溝プレートならば4分の1くらいは言い当てた結果になるのですが、どっちみち後出しじゃんけんに全く意味はありません。

私は春分以前の世界線、タイムラインではこの地震でもっと壮絶な被害が起こるシナリオだったのではないかと思います。
特に起きたのが30日ですし、「やっぱり7月予言なんて嘘だったんだよ」と胸を撫で下ろすタイミングで来る絶妙な間の良さは、やはり仕組まれていたようにも感じます。

夏至以降、私は「何となく何も起こらない気がする」と思い始めて、むしろ日照りの方を心配していました。
それでも日本列島の大半に津波が及ぶというのは只事ではなく、やはり何かあるのだろうと思います。
感覚的に「大難シナリオ」はなくなったのだと思いますし、仮に小難シナリオの悲惨さが筆舌に尽くし難くても、もう一つのシナリオはさらに悲惨である可能性を考えると多少マシに思えるかもしれません。

このシナリオに切り替わった大きな理由は、「目覚めた人々が神々の想定以上に多かった」からだと私は思います。
これまでの数年間の災厄は人々に目覚めを促す「サイン」であり、それは神々が禍事を通じて人々の改心を促していたのでしょう。
そして、変化を望み覚醒の道を選択した人々が多かったからこそ、「もうこの国の連中はこうでもしないとわからん」と、神々から大きな鉄槌を下されるシナリオを回避したのだと思います。

特に、この物価高と米不足と猛暑の中で、避難やモノ不足が起きたら混乱の度合いは想像を絶します。
しかも災害用の備蓄米は市場に放出されているので、転売業者と市民との米の奪い合いも起きたでしょう。
その上に渇水や酷暑の影響もあり、経済的な打撃以上に社会的な混乱は避け難く、今の日本人にそれを行儀よく乗り越えるモラルがあるとは思えません。

私は常々「日本人はこの20年で根本的に変わってしまった」と思っているのですが、こうして日本の国内情勢が悪化してもなお、小難シナリオに進んだことは不幸中の幸いでしょう。
人間の目覚めに関しては、兼ねてからスピリチュアル界隈でも「人類の二極化」が話題となり、次元上昇を境にして魂の選別が起こるという話がありました。
このブログでも長らく扱ってきた「人世」と「神世」の分岐も、同じテーマのものです。

私は以前から、これまでの「人世」は終わるから、次の「神世」に移行しよう、という話をしてきました。
神世に行くためには、「我良し」の考えを捨て、自己浄化を進めながら上位存在、いわゆる神と繋がっていくことが大切です。
神世に進めればおそらく将来は開かれるのですが、引き続きお金やモノやステータスなど、拝金主義によって作られた価値観を信仰し続ける人は、「人世の崩壊」と共に沈没していくはずです。

これは高名なスピリチュアリストであるバシャール氏が「ネガティブ列車」と「ポジティブ列車」と呼んだ人類の霊的二極化であり、言わば魂における人類の選別です。
奇しくも80年前に岡本天明氏に降りた「日月神示」では「神と獣に分かれる」と示されています。
そこでの神とは謂わゆる「神人」であり、自身の神と繋がった人々のことです。しかし神に繋がるのが人間本来の状態であり、神と繋がらない状態の人間はただの欲望を持つ肉体であり、ゆえに「獣」なのです。

これまでの世は消費経済だったので、より上手く稼いでより上手く消費した人がクールに見えるように社会的風潮が作られ、そういう雰囲気に社会全体が加工されていました。
人々はその成功者をモデルにして今風の生き方を築き上げ、その成功スキームを指針にしながら集団化していったのです。
そこに精神性や思想があるのかと言えば、より感覚的な欲望に傾倒し、自分が望まなくても自らの将来的利益のために行動することすらありました。

しかし、現代はそれほど景気の良い時代でもなく、モノもサービスも飽和し、誰もが歳を取って改めて興味を覚えることも減ってしまいました。
経済、社会構造共に形骸化していく中にあって、拝金主義以外に行動原理を知らない人々は、仮に立ち行かないとわかっていても過去のスキームを踏襲し続けるしかないのです。
その原動力は「欲望」であり、むしろ善悪や社会規範は金儲けや利得の邪魔になるので、余計に「我良し」の考えに染まっていきます。

それに対して精神性やモラル、自分自身を本当の意味で大事にする人というのは、この欲望と消費のシステムに不一致だからこそ外れていってしまうのです。
ゆえに、形骸化し続ける消費構造に執着し、自身の利益や欲求を優先する人々との乖離はここで起こります。
「目に見えないもの」を選んで形骸化した世界を否定するか、「目に見えるもの」を選んで形骸化する世界を肯定するか、ここに「神と獣」の境目があります。

これまで、その社会的様相は「貧富」という形でも現れてきました。
全てとは言えないまでも、やはり金儲けには人心は返って邪魔になるのが世の常だったのです。
利益を最大化するには人間を人間として扱っているとコストがかかり過ぎるため、そう言った手段を取らない人間ほど社内でも業績を上げ、組織でも社会でも階層を登っていく仕組みがありました。

下の人間は自分も成功したいので、そのサイコパス的モデルに敢えて追従しようとします。
利益を最大化するための「サイコパスモデル」に人々が染まっていった結果、モノ作りもサービスも口だけになり、その上にしっかり利益は回収しなければならないからこそ、そのやり方を徹底した組織によって歪な経済になっていったのです。

そうやって歪んでいった社会が「人世」であるとするなら、精神性を重んじ新たな世界を創出しようと踏み出す人々が「神世」の中心となっていきます。
それまでの世が「貧富」の二極化を促す世の中だとしたら、これからの世は「善悪」の二極化となる時代です。
地球が次元上昇をした「五次元世界」、私の言い方ならば地球意識の気場である「精神界」が中心となって起こる時代は、これまで人治の世界にあったような因果律ではなく、人間より上位の存在が主導権を持ち因果律を握ることになる時代です。

これまで阿漕なやり方でも人々を騙し通せれば大金を得られ、社会的地位が手に入り権力も持てた時代だったからこそ、善悪による因果は人間の作為によって歪めることもできたのです。
被害者も告発者も金を握らせれば黙らせることができ、社会的な圧力や実際の暴力によって抗議を完全に封じ込めることもできたからです。

ただ昨今のSNSの使い方にも見られるように、人間としての精神性を元にその因果を跳ね除け、その意志の裏で神々が守護をつける時代になりました。
それゆえ、悪どいことはまず見抜かれ、立場関係なく批判される時代になりつつあります。
人々の心に徐々に神性が芽生え、見え透いた欲望はすぐに指摘されてしまうからこそ、これから悪は栄えない時代になっていくはずです。

従って、「善良さ」や「誠実さ」を人々は好むようになり、逆に悪どさや我良しの感覚は忌避されていき、欺瞞を見抜く速度も速くなるため悪人が利益にありつけなくなります。
それゆえに、社会的な実相として「神と獣」はほぼ行動規範として現れ、獣は傍若無人であるが故に理性ある人々に嫌われ、闘争を好むので同類と無益な争いを続けるでしょう。
彼らはそうやって善良な人々から忌避され、いずれ社会の主流から外れていくはずです。

もし世界の支配構造が変わり、神々が主導権を握るならば「福徳」も「金運」も人間より上位の存在によって配分されるでしょう。
これまでの「金運」は貨幣そのものを指しますが、新しい金運によってもたらされるのが人徳によるものだとすれば、それは返礼品やサービスや人間関係の豊かさかもしれません。
それによって得るのは結果的に「富」になりますが、貨幣の授受を出発点としない点が以前と異なります。

その富が神々の分配によるものだとしたら、鍵となるのは「人徳」であり「善良さ」です。
我良しという考えを悔い改め、どれだけ他人を慮り環境に気を遣い、自分以外のものに奉仕できるかです。
それは人の目に見えて得をする「陽徳」と、誰にも知られない「陰徳」があり、仏教では陰徳こそ真の徳であるとされます。

多くの人は、「徳」を積んでも「得」にならないと考えるがゆえに、得になることしか考えません。
しかし、神々の世界では人間が知らないこともしっかり帳面につけているので、陰徳が何にもならないように感じてもいずれ何かの形で必ず現れるのです。
最近、スピリチュアル界隈で「宇宙銀行」という概念が流行っていますが、あれは陰徳に対する天の仕組みそのものです。
「業(カルマ)」にも良いカルマと悪いカルマがあるように、善い行いも必ず自分に返ってくるのです。

ただ、人間はやはり目に見えるものが確実に思えますし、結果も早く欲しがるものです。
それでも長いスパンをかけて、あらゆる障害を乗り越えて一つのものを信じ、一つの行いを続けることが人間としての立派な修行になっていきます。
そうして徳を積むことが今世に生まれてきた魂の目的であり、決して楽に気持ちよく生きるためではありません。

そして、自分だけが気持ちよく生きるため、我良しとする人々の行いによって社会は混乱し、制度が歪められ社会規範が崩壊しています。
彼らは自分の正しさをアピールするために強引にルールすら曲げようとしますが、そのやり方もじきに通用しなくなるでしょう。
それを見て心ある人々が反省し改善しながら、教訓を元に人間が人間本来のあり方に戻っていくのが、これからの世界なのです。

「我良し」という考えで欲を持てば、叶わぬ不満は邪気となり、邪気は邪霊を呼び自分自身が目に見える悪鬼となっていきます。
これは決してオカルトではなく、実際に人間としての心を失っている人たちの行動が証明しています。
彼らをあくまで「極端な自由さを持った人々」にしようとする風潮こそ、真の悪意が潜んでいるのです。
神々がそれを見て良しとされるはずはなく、やはり彼らもいずれ浄化を求められていくはずです。

「人類の二極化」と言いましたが、一度運命のルートが決まったからと言って、何をどう足掻いても不幸にしかならない宿命が存在するとは、私にはどうしても思えません。
いかなる悪を行おうと、その悪は宇宙を作った大神が許されているから存在したことで、悪は悪として許されなければなりません。
しかし、それは「懺悔と贖罪」を持ってきちんと償われるべきものです。
きちんと改心し、全てを理解した上で出直す分には、新しい時代の生き方は誰にでも開かれるような気がします。

人間には「自由意志」が存在し、それは小我の考えではなく「神の影」による魂の自由であると「日月神示」では語られています。
私たち人間一人一人は、大神から魂を分け与えられた「分御霊(ワケミタマ)」であり、各々が神の一柱に他なりません。
いかに邪神と言えど神は神、誰もが光を取り戻せる可能性を私は信じています。

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「カルマ」について

楽太郎です。

先日、「悪霊の正体」という記事の中で、私の過去のカルマの一現象として父の憑依があり、そこから呪いを受けているという話をしました。
その後、私の自己浄化が進むにつれて父も正気を取り戻し、いつもの親子関係に戻りました。

この山を乗り越えたから過去の私の行いが精算されたというと、それほど単純な呪いを父にかけていた気はしないので、まだまだカルマは精算して行かなければいけないのだと思います。
今回の霊障が軽くなったのは、一つのウェーブが終了したに過ぎず、まだ違う形でカルマの精算は迫られてくるのでしょう。

私はこの数年かけて、長年積み上げてきた「負のカルマ」を精算する流れにありました。
「業(カルマ)」とは仏教用語で、一般的には悪いものばかりを指すように扱われますが、「因果応報」という「自分のした行いは何であれ自分に返ってくる」という宇宙法則の中では、良い行いも悪い行いも全て「カルマ」です。
良い行いも悪い行いも「報い」としていずれ起こり、悪い行いの報いから今世で逃げ切れたとしても、来世に持ち越せば次はもっと理不尽な不幸に見舞われることになります。

だから、早いうちに悪いカルマは返済し、これから悪いカルマを積まないために改心して気をつけて生きていけば良く、背筋を正して生きていくのに越したことはありません。
もちろん、今の人生における人格では、過去世の自分の行動の責任を取ろうにも赤の他人のように思えますし、他人の尻を拭くようで理不尽にも感じるでしょう。
しかし、現世の自我こそ「仮初」のものであって、本体は霊体であり魂です。ゆえに、仮初の自分が理不尽な目に遭い苦痛を味わうことが、自分が過去世に他人に味合わせた苦痛の再現となるのです。

「覆水盆に返らず」という諺がありますが、器に入れた水が溢れたとして、また水を入れても同じ状態の水にはなりません。
一度溢れた水はもう取り返しがつかないので、水を器から溢さないように気をつけるのがベストです。
これは人生にも対人関係にも言えることですが、誰かを傷つけて関係が完全に戻ることがあまりないように、人を常に思いやる努力をすることが大切です。

私は父との関係について反省し改心したつもりですが、それでも過去の過ちは消えるわけではありません。
だからこそ少しずつ懺悔しながら、父を慮り父から赦しを得ることに感謝しながら、関係を大切にして行こうと思っています。

しかし、こういうことは10代の思い上がった若者にはわかりませんし、ましてや後期高齢者になってもわからない人はザラにいます。
特に唯物主義で現金主義の現代では、こんな話は忌み嫌われて誰もが耳を塞ぎたがります。
だから誰も語らず、高名なお坊さんが言うから説得力のあることで、普通の人はこの法則に気づく機会すらありません。

私が「人を思いやることが第一」だと気がつくまでには相当な道のりがあり、それも多くの人々に迷惑をかけてきたからこそ、ここまでカルマを溜めてしまったと言えます。
これまでの時代が酷かったので不可抗力と言えばそれまでなのですが、悪いことをして迷惑をかけたのは事実であり、「知らなかった」で罪は帳消しにはなりません。

近現代は人治の世だったので、「知らなかった」と言えば「じゃあしょうがないな」で許される世界だったのです。
けれど宇宙法則は継続しているので、人間の世界で許されて悠々自適に人生を終えても、来世はどうなるかなど人智は及びません。
その罪の重さ、どういう経緯で罪を償うのか、それは神々だけが説明ができることです。
ゆえに、現世で良い思いをしただけの悪人が死後どうなるかは、人間に推し量れるものではありません。

私たち人間は、こうして生きているだけで知らず知らずのうちにカルマを溜めてしまうのですが、神道的に言えば「罪穢れ」です。
罪穢れは祓い清めることで取り払われ、晴れて健康で幸福な人生を歩むことができます。
けれども、自ら行いを悔い改めようとしなければ、負のカルマも罪穢れも蓄積していくだけです。

私は仙台在住ですが、東北では2週間近く危険水域の猛暑が続いています。
近所の川も干上がり始め、渇水の心配もあり、このままでは田畑に水を供給できず農産物の不作も懸念されます。
人類は宇宙にフロンティアを求めて火星に移住しようとしていますが、それ以前に日照りで水不足に陥る状況すらまともに手を打つことができません。

私は今、自分だけでなく日本人全体に「カルマの解消」が迫られており、この夏の猛暑もその一環のような気がしています。
それどころか、2020年ごろから日本には良くないことしか起こっていません。
パンデミックや情報社会特有の混乱、社会制度の悪用、外国人移民によるトラブル、能登半島沖地震、インフレに伴う物価高、人工的な米不足。

災害は置いておいて、社会の混乱は日本人が自分たちで何とかできた範疇の事柄です。
政治に関しては我関せずかマスコミの言う通りに投票して今の状況にあり、社会全体のモラルの低下も日本人がまともな思想を持たずにやってきたからです。
一人一人が自分に芯を持って物事を判断して行動していれば、このような状況は回避できたはずです。

自然環境に関しては、「天気」というくらいですから神様のご気分次第です。
それでも、減反を放置して米を食べてこなかった日本人が、今になって米が高くて食べ難くなり、この日照りで稲が不作となればいよいよ「天罰」の気配すら出てきました。
日本人はこれまで食べ物を大量に作ってそのまま捨てるような飽食の時代が長く続いてきたので、食後のデザートはおろか日に日におかずが一品ずつ少なくなっていく生活に直面しているのは、何の因果でしょうか。

これはどう考えても巡りのようにしか思えず、私たちはこれまでの生活で蓄積してきた「負のカルマ」を返済していくフェーズに入っているのかもしれません。
先日の記事で書いたように、因果応報による不幸や災難は、宇宙法則なので神々の守護を貫通するのです。
そして、おそらく負のカルマは善のカルマ、即ち善業を積んだことによる福徳によって相殺される性質ではない気がします。

例えば、某有名アイドル始め芸能人がスキャンダルで引退することが相次いでいますが、「あんなに色々な人を楽しませたのだから無罪放免にすべきだ」と言う人はあまりいません。
実際、過去に色々やっていた人は社会的信用を失くすことで報いを受ける結果になりました。
過去に良い行いをしたからと言って悪い行いが無くなるわけではなく、やはり「悪いことは悪い」のは人治の世界でも変わりません。

「良い行い」をして人々から得た対価によって富や幸福を手に入れることと、「悪い行い」をして人を陥れて得をした罪は、全く違う性質の事柄です。
だからこそ、「負のカルマ」は負のカルマとしての返済を求められるのだと思います。
それは結果的に自分の善業すら汚してしまうものになり、実際に問題を起こした有名人に対して「ファンだった」とすら言えない空気になってしまいました。

おそらく、カルマの解消は神々から求められる時、応じた瞬間に発動するものなのだと思います。
「応じる」というのは、霊的次元の話であり現世における人格的反応を必ずしも意味しません。
借金の借用書を出された時に、お金を借りたのは自分なのだからと、大人しく有り金を差し出すか物品の差押えを選ぶかは本人次第です。
借金の取り立てから逃げ続けることもできますし、借金のアテを他の金融業者に頼ることもできますし、「金なんて借りてない」と開き直って暴れ回ることもできます。

ゆえに、借入の返済は素直に借金を返す良心のある人から先に始まります。
おそらく、それは霊的な次元における「カルマの返済」に関しても同様であり、悪人ほどカルマの返済時に起こる不幸は後回しになっていくはずです。
しかし、後回しにしている間も借金をし続けているようなものなので、神々からすれば利子がついていくことでしょう。

それは「罪を償おうとしない」という負のカルマに繋がっていくからです。
従って、カルマの解消が遅ければ遅いほど降りかかる不幸は大きくなり、破産した時の悲惨さも目を当てられなくなるでしょう。
私のカルマの返済状況を見てもかなり酷いものだと思うのですが、私自身全く善良に生きてきたとは言えないまでも、私以上に酷い行いをしてきた人々はザラにいます。
下手すると、地獄に堕ちるだけでも足りないような状況に陥る人だっているはずです。

こういう話をすると、ニーチェが「ツァラトゥストラ」に語らせた弱者のルサンチマンみたいに見えますし、「言っても実際そうはならないでしょ」という感じになるのもわかります。
これまでは人治の世界だったので、被害者の告発も問題の提起も誰かに金を握らせれば封じ込めましたし、当事者を全員この世から消してしまえば最悪なかったことにできたのです。

しかし、それは「今までの時代は」の話です。

おそらく、2020年以降この国にカルマの精算が迫られているからには、もはや神々に対して言い逃れが許されない状況が始まっているのだと思います。
「因果応報」が規則通りに発動する世界線になったからこそ、「絶対的権威」とされていたものが容易に脱落していく世となってきました。
その厳格さは、これまでの時代にはなかったことです。

「日月神示」では、国常立神が高天原を再び支配することによって未来永劫の「弥栄の世(ミロクの世=神世)」が始まるとされます。
それまでの三千年は「闇の時代」であり、神の道への岩戸が閉ざされたことによって訪れたと言われます。
そして、「天照大御神の岩戸隠れ」の時、騙そうとした神々が騙された神を引っ張り出したことで、その一つは起こったと語られます。

もし高天原の最高神が大日月大神たる国常立神に代替わりし、或いは地球を支配する神格が変わるならば、この世のルールが厳格な形に変わっても不思議ではありません。
そして神示の中で日月神が語るように、「大峠」は魂や霊界を中心として起こるものであり、そのキーワードが「改心=祓い清め」であると言います。
ゆえに大峠というのは、人類の歴史上最大の「負のカルマの精算」であり、それを乗り越えて借金ゼロにして始まる世界が「弥栄の世」なのではないでしょうか。

借金の取り立てに訪れる怖い人は、実際に悪いかどうかはともかく「金を貸した事実」があるから借入主に返済を迫るのです。
借金取りに来るような人は強面ですし、怖いので不幸にも感じるかもしれず、それは現実には「禍事」のように見えるでしょう。
禍事が起きれば呪われているとか、どうしてこんな不幸が起こるのかと嘆きたくなるはずです。

しかし「禍事」というのは、悪いことが世に起こることで世を正常に戻す働きがあるのです。
「禍」という漢字は、古代の中国で骨を焼いて吉凶を占ったことに由来します。
それに日本人が「マガ」と当てたのは、どうやら「関節は曲がる」からだそうです。
つまり、日本人からすれば禍事は「物事が曲がること」、即ち自然に上手くいっていた流れが歪み、上手く行かなくなることが「災い」として考えられたのだと思います。

イメージの話をすると「真っ直ぐに伸ばした関節は曲がることもあり、曲がったら自分の力で真っ直ぐに伸ばせる」のです。
物事が曲がることで悪い出来事が降りかかるならば、「曲がったことを知らせる」のが禍事であり、物事が捻じ曲がっていることを象徴するのが「悪」の役割です。
だから、私たちの目の前に起こる不幸、「禍事」は祓い清めのきっかけのために起こるものであり、罪穢れの危険値を知らせるものなのです。

だからこそ、自らに悪事が起きれば犯人探しや責任の追求をして終わらせるものではなく、人々が本当にしなければならないのは自己の反省と実践です。
自分たちが知らずのうちに積み上げた罪穢れゆえに自らに降りかかる災いや禍事だからこそ、その罪と向き合って償っていくことが求められます。
それは「全く自分には関係がない」と感じるかもしれませんが、罪の形が違うだけで災いが降りかかる以上、やはり何がしかの因果はあるのです。

この「カルマの解消」の時、口だけや気持ちだけで罪と向き合っても意味はありません。
思考と言葉と行動、つまり身口意が一緒になっているからこそ、実際に身の回りの後片付けが進みます。
それは心を正しく持ち、自分の行いを受けきるくらいの気持ちでなければ難しいでしょう。
おそらく、大切なのは「もう悪いことはしません」という禁則を立てることではなく、「自ら繰り返さない状況にすること」です。
即ち環境を変えるために動くことが償いであり、罪滅ぼしであり実践となるのです。

おそらく、この日本に降りかかる「禍事」は、これから無神論者でも「なんかあるんじゃないか」と思うレベルまで現象化していくはずです。
そして全人類が「神は存在する」と思うところまで行かなくても、大抵の人が今までのやり方に懲り懲りする程度には反省させられそうな気がします。
そこで日本人を始め世界中の人々が懺悔をしきれば、状況を悪くするような物事が見直される以上、それからは明るい世となっていくはずです。

私はこの数ヶ月、特に夏至以降は特に「非日常感」があって、何となく現実感が薄いというか、日々の冗談のような悪いニュースに共感する気持ちも以前とは違います。
何となく神秘の世界に入っているような、そんな不思議な感覚です。

これが新しい世界に差し掛かるからこそ起こっていることだとしたら、やはり「大峠」は始まっており、神世は近いのだと思います。
ただ、それまでの辛抱がどれくらいか、いつまで続くかは誰にもわかりません。

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「神」について

楽太郎です。

本ブログは、もともとスピリチュアルなテーマを扱う目的で開設しました。
私の本業は絵描きですし、言説とはあまり相性の良くない職種であるため、完全に身元を隠してやっていくつもりでした。

しかし去年の年末にインスピレーションを受け、「瀬織津姫命」のイラストを描いてブログに投稿したのをきっかけに、少なくとも本業に関しては明かさなくてはいけなくなりました。
絵描きというのは世間的には花形の職業ですから、本ブログでも長文の記事よりイラストや漫画を掲載した方が上手くいくでしょうし、実際その方が更新を楽しみにされる方も増えると思います。

私も実はそうしたいのも山々で、絵を優先できれば自ずと生活は充実していくはずです。
しかし、私自身は神様のお導きを受けているという自覚はあるので、その優先順位に従えば「絵や漫画は最後尾」になってしまいます。
だから私も正直、苦虫を噛み潰す気分で一つ一つの行動を決めているのですが、自分の創作を最優先にしたい気持ちとお導きの内容との食い違いには、葛藤すら覚えます。

私が優先的にしなければいけないのは、このブログを利用した啓蒙活動と霊的な修行のようです。
本ブログはバズるとか話題になるという枠組みを目的にしておらず、縁ある少人数の方々にインスピレーションを配れたらいいなと思ってやっています。
その縁ある人というのは、おそらく神々が引き寄せた人たちで、そこで起こる気づきに何らかの霊的な意味があるのだと思います。

今は肌感覚でも霊感的にも、世界は重要な局面にあると感じていて、神のお導きを受けるタイプの人というのは時期的に、何らかの霊的なミッションに重点が置かれているのではないでしょうか。
夏至で「精神界」という地球意識の気場が完成し、その稼働が始まっていく中でやはり妨害も苛烈になっていますし、その一つの手段として混乱を誘発するような仕手も激しくなっています。

ライトワーカーにはそのお役目も与えられている時期であり、尚且つ地球の次元上昇に貢献する人たちなので、自分自身の霊的な浄化と成長も同時に促されているように感じます。
だから思うように身動きが取れない時期なのは、霊的なシークエンスが優先されているからで、「今はそういう時期だ」と考えるしかありません。
冷静に考えて、人類と地球の命運を左右する時期にイラストだ漫画だと頭を回す時間は、確かに優先順位は低くなるかもしれません。

私も「お前は何をやっているんだ」と思われているのは、重々承知しているのです。

けれど、この世界は人間が思うよりずっとシンボリックな世界で、言ってみれば「呪術的」なのです。
天界や霊界が地上世界と連動するためには、この世で「現象」というシンボルが動くことによって意味づけが行われ、そのロジックが上の次元に反映していきます。
反対に、天界や霊界から物事が地上に降りる時には、神々に意味づけされたシンボルが地上世界に現象を起こすことで、地上に高次元の意志が反映されます。

つまり、上位世界と地上を繋げるには「儀式」が必要で、それは実際に神棚を拝むとかペンタクルを描くとかいうことだけでなく、霊的に意味づけされた手順を現象化することを意味しています。
その「意味づけ」を与えるのは人間より上位の世界に住まう存在であり、そのロジックは人智を超えているため普通の人間の感性では理解が及ばないでしょう。
ゆえに、側から見ても自分自身からでも、「何をやっているんだ?」という感覚を覚えるのは自然なことで、けれども霊的なトリガーを引かなければ天界の意志は地上に降りてこないので、不思議なことをさせられている気分になるのです。

正直言って、人間として常識人であればあるほど、このナンセンス感に疑義を覚え、耐えられない人もいるでしょう。
そうした「常識人」は人間社会の枠組みに適応しきった人が多いので、その分目に見えるものに思考を委ねる傾向があるように思えます。
それを乗り越えて「目に見えない力」を感じて動くには、やはり常識を捨てなければならない部分もあります。

ここで言う「常識」とは、唯物論を中心とした科学と社会経済の枠組みの思考であり、それがあるから宗教も神秘も胡散臭く見られる原因を作り出してきたと言っても過言ではありません。

現代は、人類史上かつてないほどの「無神論」の時代です。
例えば、昔は河川が氾濫すればどうしようもない災害となったので、祠や神社を建てて神様にお祈りをしていました。
しかし治水技術が発達し、土木工事が機械で行われ完璧な護岸工事がなされることで、神仏に願わずとも人間の力でどうにかできるようになりました。

そうすると、訳の分からないところに立っている古いお社は、土地の無駄だし取り去ってしまおう、となるわけです。
そうして人々の記憶から祭祀の意義は消え去り、意識から神々への祈りは薄れていきました。
受験も恋愛も叶いにくいので神様にお祈りはしますが、スマートデバイスやお金やルックスがあれば人間社会で叶わない願いは殆どありません。

人間が人間に頼れば全ての願望が叶う世の中になったから神は不用となり、目に見えない存在が嘲笑われる世となったのです。
しかし、人間が用を足せれば神の手が必要なくなっただけで、神々の存在が消えるわけではありません。

「神はいない」と人々は思います。

現に神仏にいくら願掛けをしても叶わないこともあり、いくら善良に生きていても悪魔のような連中に踏み躙られて終わっているではないか、と。
確かにそれは一理ありますし、私もかつてはそう思っていました。
しかし、神とは「人間」ではないので、人の世の価値観や論理をそのまま高次元の存在に当てはめて考えるべきではありません。
神というのは、人間ではないから神なのであり、人間の期待や幻想を叶えるために存在するわけではないのです。

神は、霊能力がある人でも知覚するのは難しいと言われます。
人間が幽界にいる不浄霊や霊界からの存在を感じ取れるのは、地上にある程度近く低い次元に現れるからです。
神々はそれよりも高い次元にある存在なので、人間からしてみればより抽象度が高くなります。

つまり、地上世界と神々との間の次元的な隔たりが大きく、神の波長が高すぎるがゆえに世に現れにくいと言えます。
では、神々がもっと姿を現せば人間は信仰心を持ち神々の言うことを聞くのに、なぜそうなさらないのでしょうか。
私が思うに、神々は人間と隔たる状況をわざと作り出し、あえてそうしているのだと思います。

「神が存在しない」かのように見えれば、神の存在について人々は疑心暗鬼になります。
誰もが確信を持てなくなるのを利用して、逆に神が存在するかしないか判断できない微妙な立場に、むしろ人間を置いているのです。
その環境に置かれた人間は、自分の経験と思考を元に神が存在するかしないか判断しますが、神々はむしろそれをご覧になられているのでしょう。

つまり、それが神々の基本的なスタンスです。
そうして心から神を信じるか、目に見えるものよりも目に見えないものを大切にする心があるのか、人間を試されるのです。
そして、それでもあえて神を信じる者を選り分け、深い信心を持つ者には神の恵みを与えます。

そうするのは、人間という存在が「目に見える世界」への執着から離れ、「目に見えない存在を信じる」というプロセスに至ることが魂の成長であるからです。
つまり、「信仰心を持つ」こと自体が人間として一段上のステージに上がることを意味するのです。
それが人間がこの地上に生まれてくる一つの目的であり、それを身を持って知ることが魂の成長になるのだと思います。

この一連のプロセスは、普通の人間には高度すぎて大抵は理解できません。
そんなことより、新しいゲームを買って遊んでいた方が楽しいですし、お金を稼ぐために頭を巡らせた方が実際に得です。
しかし、なぜ人間がこの世に生まれてきたかと言えば、理不尽なことだらけの地上世界で「人間」としての体験を積み重ねることで「人生」を知るためです。

この世には不遇にも早逝する人もあれば、何の苦労もなく一生遊び倒して死んでいく人もいます。
人間心からすれば不公平に見えますし、不公平であるがゆえに「神も仏もない」と感じます。
それでも、それぞれが一つの人生にテーマがあり、その課題を履修して命を終え、魂はまた次の学びへ向かっていきます。
その本当の意義は、普通の人間から見てわかるものではありません。

これが「輪廻転生」と言われるものです。

そして人生というのは、同じことを繰り返してもあまり長く続きません。
いくら遊び倒していても、怠惰な生活を送っていても時代的にいつか終わりは来ます。
今は社会的に成功していても、いつ転落するかわからず市場も経済も様変わりしていきます。
まだ若いと思っていても、いずれ歳を取り「ああはなりたくないな」と思っていた老いに一歩ずつ近づいていきます。

人間は自分が思う以上に儚く、一生なんてあっという間に終わります。
自分の肉体は永遠に維持したいと思いますが、身体はすぐに衰え傷つき病むもので、基本的に使い捨てられる運命にあります。
その宿命を人間は受け入れがたいがために何とかしようと努力しますが、宇宙の摂理には抗えません。

人間にしろ電化製品にしろ、新しいものは何でも新しいうちは良いのです。
しかし、経年劣化するのは宇宙の法則で、古くなれば壊れて使えなくなっていきます。
ただ、古くなっても変わらない部分があるとしたら、それが本質というものです。
そして、時間と共に味わいが出て、古くても良いのが「本物」です。

現代人はなかなかこの論理に気づかず、納得できないのです。
常に新しいモノ、新しい刺激を求めてそれに時間も興味も使っているからこそ、「不変」というものに気がつきません。
そして「普遍であり不変」であるのが神であるからこそ、儚く移りゆく人間の心には理解が及ばない存在に見えてしまいます。

今の人々は、科学技術とお金があれば何でも願いが叶うと思っています。
しかし、水田に水が張れなくなるほどの今夏の日照りについて、人類としてなす術があるのでしょうか。
そもそも、降雨も山からの湧水も人間の手が一つも及ばないものを、人間は当然の如く享受していながら、自分たちの思うようにはできないという限界に気づいていません。

中国のように日本も降雨ロケットを飛ばして、この夏の日照りを解消するべきなのでしょうか。
こういう時に昔の日本人なら、雨乞いの儀式をして神々にお祈りしてきました。
それで実際に救われてきたからこそ、何万年も「信仰」という文化は絶えなかったのです。

何が変わるべきで、何が変わるべきではないのか。
何を変えるべきで、何を変えてはならないのか。

その答えの先に、神様はいます。

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死にゆくインターネット

楽太郎です。

今、個人サイトを3つ制作していますが、そのうち1つは完成しつつあります。
ただ、このサイトは「保管庫」あるいは「ポートフォリオ」みたいな形で使おうと考えており、実際にコンテンツで集客するには長い道のりがあると思います。
いくつか自作品の宣伝手段は考えていますが、多くの人が採用するような正攻法は採用しないつもりです。

SNSや投稿サイトなどを使えば良いのでしょうが、敢えて独自路線でやっていこうと思います。

私はこれからインターネットの世界は様変わりすると考えていて、つまり「崩壊」を予感しています。
「タダほど怖いものはない」という言葉がありますが、「タダ」であるからこそ立ち行かなくなっていくと考えていて、そう予想する以上は通常の手法を使わないつもりです。
今回は愚痴も含みますが、その話をします。

地上波のTVは、基本的に無料です。
無料だからこそ視聴率が軒並み20%台という時代があって、つまり人口で言えば2500万人ほどが同じ番組を見ていました。
今ではYouTube100万再生で「大バズり」という世の中ですから、メディアの規模が違います。
無料放送だからCMを挟みますが、国民の5分の1が見るCMが効果絶大でないはずはなく、費用対効果は絶大だったでしょう。

もちろんTVはつけたら時間の許す限りタダで流れるものだからこそ、国民にプロパガンダや価値観を意図的に植えつけるにはうってつけの政治装置でした。
ワイドショーやニュースで政権や政治を批判すれば、お茶の間の国民は「その通りだな」と思ったことでしょう。
同様に社会的な流行も雰囲気も、TVを中心としたマスコミが作り出す趨勢が猛威を振るう時代が続きました。

今やTVすら家に置かない家庭も増え、端末さえあればほぼ無料の「インターネット」に接続すれば、AppleやGoogleやAmazonのロゴは必ず目にすることになります。
多くの人々は、アメリカ合衆国の有数のホワイト企業がまさかコンプライアンスを自らかなぐり捨て、サービスをわざと改悪するなどあり得ないと考えるはずです。

こんな記事が、イギリスの経済誌「エコノミスト」に掲載されました。

AI is killing the web.

要約すると、生成AIコンテンツの増加により現在ネットの検索トラフィック数、つまり検索をかけてサイトを経由する数が15%減少しているそうです。
要するに、ChatGPTなどがWEBをクローリングしてサイト上の情報を拾ってアプリ内で再構成するため、実際に記事元のサイトを訪問する回数が激減しているのです。

WEBサイトの運営は主に、アフィリエイトや広告枠を出すことで資金を得ています。
しかし、ユーザーがサイトを訪問せずに欲しい情報が手に入れられたら、わざわざ検索してサイトを見に行く必要がありません。
コンテンツ提供者は、言い方は悪いですが内容は盗まれるけれど、対価も得られないどころかクローリングBOTをブロックする手段が限られており、しかも対策に自ら資金を投じなければなりません。
その上、訪問数が減ればアフィリエイト収入や広告費も減少し、サイト運営は難しくなります。

今のTVはハードディスクに録画して後で見る人が増えたので、CMはほぼスキップすると思います。
スポンサー側はCMを見てもらうために番組に資金を提供しているので、物理的にCMが見られなければスポンサーになる意味が殆どありません。
同様に、インターネットにおいてもWEB広告が消費者にアプローチできなければ、出稿する意味もあまりなくなります。

だいぶ前ですが、iPhoneのOSに「広告非表示機能」がつきました。
私たちはアプリを使うにしても、邪魔な広告を見ないようにするためにサブスクに入会するほど、広告を「悪者」のように見てしまう習慣がつきました。
確かにネット上の広告は大きすぎる上に多すぎるので、若干悪質性すら感じるようになって久しいです。
だからユーザーは、不快な広告を見ないためのサービスすら求めるようになってきました。

まるで広告が「人質」のようになったことで、広告を出稿する企業は大した費用対効果を生んでいないのではないでしょうか。
WEB広告を出すにはGoogleなどのアフィリエイトに登録すれば手早いですが、やはりGoogleに手数料を支払う必要があります。
しかし、サイトに広告を出してもAIが要約するからサイトへのトラフィックは減り、そもそもネットに広告を出せば邪魔者扱いされてまともに見てもらえません。
けれど、インターネットを広告塗れにして広告に対する相対価値を低下させたのも、AIBOTを走らせながら物理トラフィックを減少させているのもGoogleであり、広告主はそれでも同社にみかじめ料を支払ってWEB広告を出しているのです。

私はこの状況を俯瞰すると、「まんまとやられたな」と思います。
そもそもGoogleは2000年代初め、検索能力の精度が高くアプリとして軽快だったために、検索エンジンを備えたChromeはブラウザとして人気になりました。
当時のインターネットは「フリーミアム」の楽園だったので、有志が作った無料のアプリが豊富でした。
しかし時は経ち、かつてのベンチャーが今は業界の寡占企業となり、大企業となったが故に殆どのアプリが課金制になりました。

それらのテック企業がやっていくには、アプリの無料部分を制限して完全版に課金させるか、広告主からスポンサードを貰いながら「広告を悪者」にして非表示機能をプレミアムでつけるのがフォーマットになっています。
けれど、アプリ開発は一度完成してしまえば、追加機能を作らない限りはシステムの保守さえしていれば良くなるので、やることが限られてきます。
それゆえ、MicrosoftのWindowsでも GoogleのYouTubeもAppleのiTunesも、歳末の道路工事のようにやる必要のない改悪を続けるせいで、どんどん利便性が悪くなってきています。

けれども、ビッグテックにでもなってしまえば競合他社は簡単に捻り潰せるか買収できてしまうので、後はユーザーにサービスの代替を許さなければシェアを確保できてしまいます。
アメリカとEUがIT面で仲が悪いのも、ビッグテックがEU圏内のIT企業を軒並み駆逐してしまうからです。
日本にITが育たないのは別の理由があるのですが、日本のITはシリコンバレーの背中を見ているために追従しかできない体質でもあるのです。

従って、現在のインターネットはほぼアメリカという国家の独壇場であり、それに対抗して中国は自国の通信網を完全に遮断していますが、やっていることはシリコンバレーと同じです。
インターネットは、もはやフロンティアではなくビッグテックの「帝国」の支配下にあります。
私たちは米国製のOSによってWEBに接続し、米国製の検索システムを使い、米国有利のデジタル環境を甘んじて受け入れています。
日本は毎年莫大なデジタル赤字を抱えていますが、誰も問題にしようとはしません。

私たち日本人は、IT革命を経験する際に「無料の便利さ」を堪能しました。
しかし、コストが低くリスクも小さくビジネスチャンスが大きいからと群がったのは良いものの、今では営業するにも作業するにも調べるにも交流するにも広告するにもアメリカのテック企業のサービスに依存せざるを得ません。
大抵の日本人はそれで困らないのでしょうが、これらのテック企業の行いを果たしてどこまで看過できるのでしょうか。

少し前に、SNSのBlueskyで画像処理ソフトを提供する Adobeがアカウントを創設した時、なぜかそのまま炎上するという騒ぎになったそうです。
 Adobeは画像生成AIをサービスに組み込んだ分、サブスクを高額化したために、長年支持してきたユーザーからの顰蹙を買っています。
イラストレーターとしてやってきた私からすると「まさかあのAdobeが」という印象です。
クリエイターのためのツールを提供して手堅い実績を積んできた企業が、クリエイターの著作物を一方的に学習して出力するだけの機能のために、クリエイターに経済的圧力をかけるなど想像もできませんでした。

今のデジタル環境に詳しい方なら眉唾には思われないでしょうが、MicrosoftもGoogleもAppleもMetaもいつまでユーザーフレンドリーな環境を維持するかは不透明な状況です。
 Adobeの手のひら返しのように、業界標準を作っているような企業にやられると手も足も出せません。
すでにGoogle検索はスポンサードのサイトが上位に張り付き、アフィリエイト率の高いサイトが優先的に表示され、ヒット数の少ない個人サイトは殆ど引っかかりません。

余談ですが、本ブログのようなブログサービスが検索に乗るためには最低3か月、通常半年は更新を続けなければなりません。
けれど検索にスポンサードを払って検索上位に張り付いているサイトは、そんな地味な努力をしません。
ゆえに、生きた情報を更新し続けるようなブログは、現在のインターネットにおいては隅に追いやられています。

徐々に、「インターネット」は死に体になりつつあるのです。

今では生成AIで作られたコンテンツが氾濫し、個人の生の仕事は埋もれる傾向にあります。
人々は殆ど自分の使うSNSのタイムラインしか見なくなり、WEB検索機能に関しては冒頭にお話した通りで、そのアルゴリズムも寡占企業のブラックボックスにあります。
おそらく、新しいWEBメディアが誕生するくらいでしか開拓できる要素は残されていません。

そして生成AIによる偽サイトやディープフェイク、身元不明のコンテンツの氾濫によって正しい情報へのアクセスが困難になりつつあります。
上記リンクの記事では、Googleが「WEB全体のトラフィックは増えている」と言っていますが、正確性の高い良質なサイトへの物理アクセスが減少していることが問題なのです。
私は近い将来、ビッグテックの悪政に耐えうる者だけがインターネットを使う時代が来るのではないかと懸念しており、デジタルから離れる流れも起きてくるのではないかと感じます。

私はこれから事業を進めていく中で、デジタルの世界にどれほど可能性があるかについては懐疑的です。
しかし実地のビジネスの世界こそ飽和しきっている上に押し寄せる不況の波、どう打って出るか悩ましい部分があります。
デジタルはコストが低いからこそ進出しやすいけれど進める道が限られている中、それでも毒を皿まで食うのか、毒を食らわず草を食うのか、究極の選択が迫られています。

私が自分で作品を作らなくても無料で見られる作品は山ほどありますし、それこそイラストなどは生成AIでタグ打ちすれば好みのものが出力されます。
この「何をやっても無駄」感のある状況の中で、自分がしたい生き方を叶えるには、多少不利だとわかっていても進まなければなりません。

世の中を見ればわかるように、改めて群がるような需要はあまりなく、モノやサービスが飽和しているからこそ、「需要のために働く」のではなく「お金を稼ぐために働く」という目的にすり替わっている部分もあります。
世が差し迫ってくると、お金を稼ぐのも困難になるためできるだけ労せずに利益にあり着こうとし始めます。
そうして公的資金や公共事業、有力企業の傘下に入ってお零れに預かることが一種のハックとなっていきます。

経済は右肩下がりになっていくのに、企業業績を維持するためには無理に利益を作らなければいけません。
高齢の従業員がどんどん離脱していく中で若者はなかなか入ってこないために、わざわざ外国人を呼び込んで今のやり方を続けているのが日本企業です。
儲からなければ畳むしかないのが資本主義の世界なのですが、そうすると暮らしていけなくなるから需要を創出し続けなければなりません。
走るために走らなければいけない」状況にありながら、それにも限界があります。

私の漫画やイラストを稼業にしたい思惑だって、需要があるからやっているわけではなく、供給を成り立たせるために消費者を探しているのです。
この歪な取引関係の中で、敢えて打って出ていくのも自分の我儘であることは承知していますが、理想を叶えるためには無謀でもやっていかねばなりません。

だから、これまでの「当たり前」の方法を取っていけば、確実に浮上するのは不可能でしょう。
それゆえ、着想のレベルから斬新でなければならず、手段も特殊でなければなりません。
プラットフォームに最適化された立ち回りをこなせる自信がないなら、既存の方法でやるのは難しいと考えて良いと思います。

どうやって行けば良いのか悩むこともありますし、時に「もっと世の中が壊れてくれた方が動きやすい」と思うのは本音なのですが、世の不幸を待っているのは不健全です。
とは言え、おそらく私の予想通りになっていくでしょう。

新しい何かを始める時というのは、既存のものを壊して無理に進まなくてはならない、というイメージがあります。
しかし、草の根も生えないほどビッチリと塗り固められた土壌で、個人が壊せる範囲は微々たるものです。
ただ、これから起こるのは巨大構築物の自壊であり、待っていれば自然に崩れていくはずです。

私はその合間を縫って進めば良いだけで、自ら巨大な壁を打ち壊して進む必要はありません。
その知恵を働かせた方が、身体を張るより何倍も上手くいくでしょう。

私はデジタル環境に慣れきっていますし、MicrosoftのSurfaceを使って制作しているので、正直言ってデジタルの世界がおかしくなっていくのは心苦しいのです。
けれどアメリカという国家が信用を失う日は近く、同国の中枢にある企業体がいつまで行儀良くしているかについて、私には不信感しかありません。
だからこそニュートラルにものを考え、臨機応変にことに当たっていくつもりです。

そのやり方は自分で考えなければいけませんし、上手くいく保証は皆無です。
けれども、そこから挑んでいかなければ道が開けないことを覚悟しています。

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「悪霊」の正体

楽太郎です。

ここ数日、家庭が少し荒れていました。
父はわりと我良しでマイペースな性格なのですが、ここ数日はまるで人が変わったかのように怒りっぽくなり、同居している母にも当たり散らすようになっていました。

私も特によくわからないことをしながら実家にいるものですから、父の心象が良くないことも知っているのですが、それにしては機嫌が悪すぎるのです。
あまりにも近寄り難いので理由も聞けずにいたのですが、父の後の風呂に入った時、妙な体臭があることに気づきました。

これまであまり嗅いだことのない匂いというか、魚のような生臭さで、汚い水の中に生息していそうな生き物の匂いがしました。
私はこれを嗅いだ瞬間、「人間のものではない」と気がついて、どうやら父の豹変は憑依によるものではないかと考えるようになりました。

だからこの数日はどうにか人知れず父の除霊を試みていたりしたのですが、ようやく問題はそこにないことに気づきました。
というのも、別に父の機嫌が悪いくらいでは慣れたはずなのですが、今回に限っては父と自宅にいる間は首肩が異様に凝るし頭も痛くなってきます。
つまり霊障が激しくなるので、どうも父を中心として邪気が降りかかってきているのです。
だから何とか父を祓えないか色々やってみたのですが、どうやらこの霊障は「巡り」つまりカルマ、因果応報であることがわかりました。

私の話をすると、思春期の頃に父との関係は最悪でした。
当時は反抗期でしたし、私も少しはグレていた部分もあったので父に対する風当たりは相当強かったと思います。
子供ながらにテコでも動かない父の鈍感さには腐心していましたし、全く心が通い合わない親子関係だったので、正直言うと父のことを「呪って」いたのだと思います。

私も母も潜在的に霊能力があるので、そういう人間が人を恨むと呪力も強くなります。
父は根っからカラッとした性格の人なので、ネチネチ腹を立てることはあまりしないはずですし、この種の憑依が起きたのも私たち母子と長年暮らしているうちに憑依体質に変化したのだろうと思います。
父に取り憑いているのは「蛇(オロチ)」の邪霊で、生臭い体臭も爬虫類系の霊による性質だと考えれば辻褄が合います。

それが私が父にかけた呪いとどう関係があるかと言うと、この「蛇」というのは私から発せられた呪いそのものであるということです。
つまり、私が過去に父にかけた呪いが憑依という形で「巡り」となり、私に降りかかってきたのです。

どうもカルマや因果応報としての「巡り」というのは、宇宙法則なので神にも捻じ曲げられません。
いくら神仏を慕い加護を受けていると言えど、宇宙法則が優先されるので言ってみれば「カルマはいかなる守護も貫通する」のだと思います。
だから、最近の霊障が何となく祝詞やお経が通じないのも、自分の放った邪気が自分に戻って来ているだけだとしたら、加護をすり抜けるのも理解できるのです。

私は確かに昔からロクなことをしてこなかったのは認めているので、何が返ってきてもおかしくないな、と思います。
それはとても反省してますし、だから父に与えた呪いが今の自分に返ってくるのもしょうがないと思うしかありません。
おそらく、しばらく経てば父も元に戻るでしょうし、親子関係も自然になると思います。
だから心配はしていないのですが、それまで自分の発した呪いを甘んじて受け続けなければならないという期間を過ごすことになりそうです。

霊的な解説をすると、この「蛇」というのは実在のヘビとは実際に繋がりはないと思います。
生き物としてのヘビは確かに霊性が高いのは事実なのでしょうが、ヘビそのものに悪霊の性質がある訳ではありません。
それで言ったら悪霊の化身とされる「狸」や「狐」も実際に悪い動物になってしまいますが、全くそんなことはないのでイメージが実在の生物に当てられているだけでしょう。

ただし、「蛇的な性格」の死霊がどんどん動物性を増していけば、実際の蛇の霊も取り込んで半妖となっていく場合もあるかも知れません。
大抵の「動物霊」と呼ばれるのは元は人間で、動物的性質と深く感応すれば動物に限りなく近づくこともあるのではないでしょうか。

私がよく引用する「日月神示」にも、邪気邪霊の類として「蛇(オロチ)」「金毛(※狐のこと)」「邪気」と三つの分類が示されています。
以下に写真を示しますが、私が愛用するルノルマンカードには「」「」「」のカードがあり、それぞれが日月神示の三分類に対応しています。
ルノルマンで私が占う時にはこれらのカードが危険を知らせるので、身を守る役に立っています。




体感的に邪霊の特性で言うと、「蛇」は憎悪と執着です。
かなり粘着した強めの邪気なので、身体的な攻撃性は高いです。主に腹に留まって長期間悪さをします。かなり感情的な念が強くあまり理屈が通じません。
より本能に近い悪感情を元にしているので、人間的な心を持っておらず、その辺が実に爬虫類的です。
これが「お金」や「名誉」に対する執着と出たら、俗に言う「レプティリアン」みたいな人格になるかもしれません。

「金毛(狐)」は、嫉妬心が強く野心的で、巧妙な悪意を働かせます。
よく「狐に化かされる」と言いますが、金毛は人を欺き誤解させ、時によっては無関係な者同士を同士討ちさせたりします。
おそらく悪霊自身はそれを見て嘲笑っています。それほど悪質なのですが蛇ほど攻撃性は高くなく、どちらかと言えば享楽的です。
SNSとかで人を釣って楽しんでいる系の人のイメージに近いです。実際、この手の憑依にかかって世を掻き回しているインフルエンサーは多いと思います。
この悪霊は肩首周りから頭部に感じやすいです。後頭架筋あたりを狙ってより内部に入って来ようとします。

ルノルマンの「鼠」に関しては、ほぼ霊体としての実態はないか弱すぎて形を成していないケースが多いのではないでしょうか。私はそのまま「邪気」と読んでいます。
「邪気」とは、陽気陰気とあるように攻撃性が高い負の念です。これは悪霊に限らず残留思念や気場にも現れて、人々の感情を「何か嫌な気持ち」に誘います。
その「嫌な気持ち」に引っ張られて、人間は妙な反応を起こすようになります。
その場所を避けたり、人を嫌って非難したり、虐めたり喧嘩を売ったりしたくなるため、このエネルギーの影響を知らずのうちに受けている人が多い印象です。
「鼠」と出るくらいなので、チーズをちょこちょこ齧るようにエネルギーを少しずつ奪っていきます。
大意は感じないのですが、小さな搾取も重なれば損害になってくるので、やはり対応はしなければなりません。

私にとって邪気は肌で感じることが殆どで、主に身体現象として現れます。
手足の痺れや肩凝り、頭痛や冷や汗などの症状になりやすいので、私はずっと病気持ちなのだと思っていました。
これらの邪気が好き勝手に動き回るには、唯物史観の世はさぞかし居心地が良かっただろうなと思います。

お釈迦様が悟りをお開きになる直前、「第六天魔王」という仏魔が誘惑をして悟りを妨げたと言います。
仏教には「天魔」という概念があり、仏道に試練を与える存在として「魔」が定義されており、世にある邪悪や欲望は悟りの境地に強く立ちはだかるからこそ、より強い信心に至るのだと教えます。

私はこの考えこそ「日月神示」にも示されている「悪」の定義そのものであり、全てが全宇宙を支配する大神の一存であるからこそ悪も必要なものとして存在しており、善一方では成り立たず、それゆえに「善と悪とのあなない(和合)」が必要であると説きます。
私たちは邪気邪霊の類は消し去ろうとしますし、悪もこの世から滅ぼせば平和になると考えます。
しかし、悪は「必要悪」だから宇宙の秩序の一部として存在するのであり、決して憎むべき存在だからこの世の悪を糺す必要があるのではないと思います。

日月神示の中では、「悪が表に出るのが良くないのだ」と言います。
確かに、指定暴力団が芸能界や繁華街などで融通を効かせる分には「龍が如く」の世界だと思えますが、メディア系企業と手を組んで仕掛けるようになってくると、世の中の露悪性は一気に高まるでしょう。
今の日本も世界も、社会の露悪性の高さは皆薄々わかっているのだけれど、そこに資本と権力が集中するから誰もが黙って従わざるを得ない世の中になっているのです。
悪が表でも裏でも、融通を効かせまくっているから問題になるのだと思います。

ちょっと危険な話が続きましたが、そろそろまとめます。
私が思春期の頃に父にかけた呪いは、「蛇」の様相を呈して私に返ってきました。
呪いとはカルマであり、自分が招いた因果応報であるので信仰も加護も素通りします。
それは甘んじて受けるしかなく、ただ自分が反省し懺悔する以外には早く消し去る方法はありません。

こう言った邪気邪霊が私に襲いくるのは、一重に私の心に同じ火種があるからです。
火種も煙も外にあるものだと思いがちですし、実際に外でこれらの現象はよく見られるので自分の中にはないと錯覚します。
ただ火のあるところに煙は立たず、自分の火種と外にある火種が同じ系統のものだからこそ、自分の心にも煙が立ち、火種も煙も外部の延焼を呼びます。

自分の中に蛇や狐や鼠の心があるからこそ、彼らがやって来ます。
従って、その火種を綺麗に消し去れば煙も立たず、心の中にある蛇穴も獣道も塞いでしまえば入って来れません。
これが「自己浄化」であり、神道で言う「祓い清め」であります。

「祓い」とは、「神様に邪気や邪念を取り去って頂く」ものであるとされ、外部的な働きになります。
一方「清め」とは内部的な働きであり、自分で行うものとされます。
身体は自分で洗わなければ綺麗にならないように、自分で心を禊がなければ浄化できないのです。

ゆえに「祓い清め」というのは、神職さんに大麻を振ってもらうだけでは成就しません。
この真の「祓い清め」を、現代では誰もが行おうとせず、自分で自分を清めなくなってしまいました。
一人一人が邪気邪念を祓い清めなくなったことで、その悪感情は伝染して世に蔓延していきました。

おそらく、その一端が今の世に現れているのだと思います。
世に罪穢れが満ち、神々の祓いも願われなければ行われないものであるが故に、自然現象の中での浄化作用では追いつかなくなったのです。
だからこそ、祓いを神様にお願いするだけでなく、自分で自分を清める努力も必要です。

私だけでなく、誰もが自分で自分の汚したものは拭き取り、出したゴミはきちんと片付けなければなりません。
それは面倒くさくて自分が汚したことに後悔もするのですが、それと向き合わなければ負のカルマという借金をチャラにはできません。
貯金は借金を残したまま蓄えることができないように、おそらくカルマも幸運もそういうものなのだと思います。

悪いカルマを返済し終えた暁には、きちんと良いカルマが蓄積される仕組みなのだと思います。
それがわかる以上は、涙を流してでもコツコツ返していくしかありません。

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