招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

「邪」を赦す

楽太郎です。

ここ数週間、露骨に邪気が高まっている実感があります。
それは人を観察していて肉眼でわかるレベルです。
子供たち若者たちは、非常にストレスが掛かっているらしく、奇声を発したり大声で動き回ることが増えたように思います。
大人たちも感情が内に篭り、挨拶しても無視したり笑顔を向けると露骨に嫌な顔をするようになりました。

私がそうされると一瞬腹は立つのですが、これは致し方ないというか、そういう時期なのだと思うようにしています。
今は時代が切り替わる時であり、言ってみれば文明の崩壊期です。これまでのやり方が通じなくなっていくのは神々の工作であり、摂理です。

その仕組みは、目に見えない存在を信じ、神様と繋がっている人なら自ずと感じうるものでしょう。
しかし目に見える世界が全てで、この世界は人間のものだと確信している人たちは、おそらく今生ではこの事実に辿り着けないかもしれません。

私は連日、就寝中にサイキックアタックが集中しているようです。
集合意識に潜る夢を見た翌日は、一日中気の乱れが整わないことが多いです。その場合の夢は、街や店や観光地を巡り、不特定多数の人物とすれ違う夢がほとんどです。

昨夜は、修学旅行で布団に潜ると、顔を真っ赤にして睨んでいる同級生が向かいにいて、彼はどうやら私に嫉妬して怒っているようでした。
私は夢の中にも関わらず、「彼は私が羨ましくて、逆恨みしているのだ」と認識し、彼を嘲笑う夢を見ました。
残酷なようですが、脚色しなければそういう内容になってしまいました。

私は自意識が少し飛んでいるところがあるので、劣等感は感じても自分がどの程度優れているか、自分でジャッジする感覚がありません。
だから、これまで理不尽に意地悪をされることがあっても、その理由が「嫉妬」であり、なぜ彼らが私に嫉妬する必要があるのか、それを理解するのに長い時間が掛かりました。

小学生の頃、やたらと粘着して意地悪をしてくる同級生がいました。
虐められる私へ助けに入った先生が「何でこの子を虐めるの」とその子に問うと、「絵が上手くて羨ましかった」と言っていました。

私は長年、その子の気持ちがわかりませんでした。
絵が上手いのは絵が好きだから描いてきただけで、特に努力したわけでも生まれつきの能力でもありません。
彼も私と同じことをしたら絵が上手くなるし、嫉妬するくらいなら絵を描けばいいじゃないか、とずっと思っていました。

今でもそう思いますが、その正論を受け入れられない性質の人がこの世にはいるのだ、と気づくのに時間が掛かりました。
人を羨むのなら、羨む人と同じことをしたり学べば良いのに、結果や現象だけをサラッと手に入れたい人がどうやらいるらしいのです。

現代社会は、「努力」を嫌うようになって久しいです。

努力や勉強が必要不可欠な世の中だからこそ、努力や勉強をアピールするのがダサい、という風潮が生まれました。
だから、出来る限り努力や勉強をしないように結果を出すことがクールだと思われ、クールにやるためのハックが持て囃されるようになりました。

生成AIなんかは、そのプロセスを可能な限りすっ飛ばして成果だけを抽出しようという目論みそのものですが、まあそれは置いておきます。

先人が広げた王道やヒエラルキーは攻略法がすでに確立され、数パターンの成功法則があるだけです。
その構造が揺らがない限り、最短ルートを通らない人は全員愚かであるような構図を作り出してしまいました。

それは、「これまでの時代」が永遠に続くとしたら、普遍的な真理になったでしょう。
しかし、残念ながらそうはなりません。権威や権力構造そのものが崩壊する時にあって、ピラミッドそのものが崩れたら、そこに据え付けられたエスカレーターは何の役にも立ちません。

全ての物事の意味や目的が揺らぎ、誰もがどうしたら良いのかわからず狼狽える時、自分のするべきことを自分で考えられなければ、ずっと飛び交う他者を見つめ続けていくしかありません。

そこで、自分の目標ややるべきことを見つけ、やりがいを感じて道を進む人は、確かに彼らからすると羨ましいかもしれません。
しかし、それならば彼ら自身も本当にやりたいことや、努力が惜しくないような何かを、これまでの人生の中で見つければ良かっただけです。

それは、残念ながら嫉妬すべき理由にはなりません。
厳しいことを言うようですが、冬を前にしてせっせと冬籠りに備えたアリを笑うキリギリスそのものだからです。

目標を持ち、信念で行動する人々を羨む気持ちは、私にはよくわかります。
私も自分探しのために、何も手につかずフラフラしていた時期も長かったからです。

私の目線からすれば、「自分が努力するに値する物事」を見つけられませんでした。
自分が人生を賭けて本気で挑めるような何かを探し出すのに、途方もない自分探しをしていかなければなりませんでした。
自分の好きなことをして評価されている人が何となく憎らしくて、その気持ちが理不尽なものだと自分では気づきながら、問題の原因は外の世界にあるのだ、と念じ続けていました。

ただ、自分が何をやりたいか、やるべきかは自分の心の深いところに問いかける以外にはなくて、そのプロセスを避けて自分の目的など見出しようがないのです。

それは頭が悪いとか、性格が悪いとか、運がないとかそういうことではなく、自分の本心に辿り着くやり方が分からず、自分自身を知らないというだけです。
だから、「自分を真っ直ぐ見つめれば良い」それだけなのです。
けれどもなぜか言い訳をして、それだけを先延ばしにしてグルグル回っているだけの人がいます。

それがしたくてもできない、というのが当時の自分でした。だからこそ、えも言われぬ焦りは人並み以上だったかもしれません。
けれど、この堂々巡りの旅は、いつか終わらせなければいけない時が来ます。あるいは、強制的に終わらせられる時でしょうか。

実は、自分のやるべきことを始める時は、その時が来てからでも良いのです。
ただ見つからない焦りから、人に嫉妬したり攻撃をしようものなら、それは全く筋の違う話です。

私は、集合無意識にある憎悪には、この「嫉妬心」が多分にあると思っています。
自分以外の、目標があって輝いている人、夢を叶えて恵まれた人生を送っている人に対する嫉妬。
その嫉妬は、未分化の感情に混ざり合って憎悪となり、無差別に攻撃的な気となっています。

この負のエネルギー「邪気」によって、私の健康や意欲が害されているのは実感としてあります。
けれども、長い間「邪気」と戦ってきてここ最近思うのは、「邪気と戦う意志を持つほど消耗する」ということです。
彼らはいいタイミングでエネルギーを吸い取っていくんですが、私は吸いたい時には吸わせておこう、と思い、邪気にまとわりつかれたら放置します。

気のエネルギーは、吸わせないように力んだり原因となる対象を探すほど消耗し、その分回復が遅れます。
彼らはお腹いっぱいになったら離れていくので、出来るだけダメージを深くしないことに注意した方が立ち上がりが早くなります。

気に食わないのは正直なところですが、邪気がしたいのは妨害にしか過ぎません。
その妨害も、地震でマンションを潰したり家族を呪殺でもすれば成就するのでしょうが、たかだか私を体調不良にするくらいのものなので、大丈夫な時に行動すれば問題ありません。

それくらい、彼らを敵視すべき対象だと認識しない方が、自分の受けるダメージをコントロールできるのです。
そして、邪気の正体や性質を知れば知るほど、憐れで健気な感情であることに気づきます。

よく考えれば、私も道を間違えたら人に嫉妬して怒りをぶつけて回るような人間になっていた可能性は充分あります。
私は運良くそれを回避できただけで、生まれ持つ使命感に目覚めたからとか、そういう奇跡があったわけではありません。
だからこそ、どうしても上手く生きられない人々を蔑む気持ちにはなれません。

人生は、本当に学びのためにあるのだと思います。
しかし、人生は一度きりだからと、出来るだけ苦労なく快楽を数珠のように紡いで行こうと考えるから、その学びから遠ざかります。
学びから遠ざかると、愚かさに気付かぬまま今生を終え、死んでから気づいてもやり直しは効きません。

私はそのことを、たくさんの人々に気づいてもらいたいと思っています。
だからいつもこんな長文を書いてますし、何にもならなくても形にしていきたいのです。
けれど、今の世では私の声はかき消されてしまい、聞いて欲しい人の耳にこそ届きません。

もっと多くの人が「良く生きる」方法に気づくためには、私の声が通るような時代がどうしても必要なのです。
だから、私は新しい時代を作っていきたいのです。

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