招神万来

弥栄の時代をつくる神様と人のためのブログ

日本の分岐点

楽太郎です。

本日、春分の日ですが、やはりエネルギーの切り替わりが激しく、横になっているのも身体の重さを感じるくらいでした。

今日は何もしないでおこうと思ったのですが、横になっていると線香の匂いがしてきて、そう言えば今日はお彼岸の中日であることを思い出しました。
ちなみに、窓は閉め切っているので線香の煙が入ってくることはありません(笑)
母の買い物に付き合う形で、お彼岸用の生花を買い、軽くお供えをしてお経を上げ、ご先祖様を供養させていただきました。

いつもお世話になっているご先祖様が、喜んでくださると良いなと思います。

私は先日、ビジネスとしてはノープランでありながら開業届を改めて提出し、「楽太郎」として事業を始めました。
個人事業主として以前の屋号で始めた時は、もうちょっと事業戦略があったのですが、今はその時よりも何をしていいかわからないという、よくわからない状況です(笑)

けれど、これが神様からのお導きによるものであり、私の魂の本来やりたかったこと、やるべきことなのだとしたら、今の私が多少腑に落ちなくとも選択すべきことなのだろうと思います。

以前描いた私の絵や漫画も、改めて見直すと肩の力が入りすぎているというか、多少無理をしている感じがします。
悪くはないのですが、「これは確かにウケないかもしれない」と思ってしまいます。
その直感は冷徹というか、本当に自分の感性なのか疑わしくなります。

何となく、自分の中に自分じゃない心が芽生え始めて、それは自我が剥ぎ取られた自分の心なのか、それとも自分ではない誰かの心なのか、その判別はできないのですが、ちょうど良い塩梅で「統合」が起きているように感じます。

今の世を見回してみて、以前ほど人々が忌々しいと感じなくなりました。
単純に、前ほど邪気を受けないため敵対心を持つ必要がなくなったからだと思います。
その邪気も、人の心が邪悪だから発生しているわけではなく、人々の精神的エネルギーが停滞しているから起こってくるものです。

元々、この邪気を発する人たちも、努力して土の時代に適応した真面目な人たちであり、ずっとフワフワ生きてきた私よりは、ある意味正しい人生を送ってきた人たちとも言えます。
私は彼らに対して、やっかみや妬みを感じることはありませんが、新しい時代に合わせない、合わせようとしないから神様が立ち退くことを望んでおられるのであって、神様のご意志に従わないことが罪なのだと思います。

私も土の時代の人々には散々な目に遭わされましたが、それがあるから私は学びを経験し、彼らとは違う道から上を目指しています。
これも一つの宿命だったと言えますし、彼らにも宿命があるのだと思います。
少なくとも、今では恨み節が不思議と湧かないというか、「罪を憎んで人を憎まず」だなと思っています。

人々は互いが批判されることを恐れて、慇懃無礼ながらも何事にも穏便に済まそうとします。
競争社会だけでなく、互いが評価し合い金銭を授受するような力関係も、世の中をギクシャクさせる仕組みになっていました。

日本人は自分たちが「理想」とするシステムに雁字搦めとなり、互いを監視するようになりました。
その仕組みによって、日本人の敵が日本人になり、日本人を害し自分が利得を得るために、日本人を食い物にし、日本のあらゆるものを外国に売り払う人々がいます。

どこかで、「日本人も日本もどうでもよい」と思わせる何かがあったのかもしれませんが、その助長を止めることができなかった理由にも問題があるのです。

この国の今のおかしさは、本当に価値のあるものに金が流れるのではなく、金の流れるところに人が集まっていく構図にあります。
流行りもトレンドも、「流行らそう」という企画のもとに始まるからこそ、本当に価値のあるものが流行らないのです。
この中身のなさは、人々が頭で考えた「理想」の形ばかりを追いすぎて、自分たちの感性や心をお座なりにしてきた結果ではないでしょうか。

今思えば、これらはただの「甘え」でした。
世の流れに乗っていれば間違いはなく、皆で渡る赤信号は、皆で渡っているから「青」と同義である。
そうやって責任を集団に負わせることで、責任を自分が負う必要も感じず、ゆえに気楽に生きてこれました。

自分の頭で考えなくてもそこそこ楽しく生きていける、いつまでも神様仏様は私たちをニコニコ見守っていて、地球はいつまでも無限の恵みを与えてくれる。
そう安心しきって、自分たちの文明が百年も千年も何となく続いていくという妄想に囚われていただけです。

だから自分の人生や他人の利害や、地域や国や地球の未来について、大して考えなくてもいいと甘えていたのだと思います。
それが最近になって、ようやくマズイと気づく人々が増えてきて、いい加減に目を覚まし始めたように見えます。

私を含め、この日本の悪い流れを止められなかったのは、私たちが無知や無関心のまま知ろうとしなかったことにもあります。
ただ知ったとて、いくら止めたくても悪い流れが大きすぎて抗いようがなかったのも事実です。
「ああすればよかった、こうすればよかった」というのは、正直数えきれないほどあるのですが、過去に遡って解決はできないので、これから何とかしていくしかありません。

人々の邪悪さが問題なのではなく、人々の価値観や生き方に対する考え方が偏っていただけで、何が悪いということもないはずです。
強いて言うなら、この流れを作って人命を肥やしにしてきた人々がいるということでしょう。
しかし、彼らが作ったシステムに安寧を覚え、私たちが生活を介して加担してきたのも事実です。

この世の「悪」を終わらせるのではなく、「悪習」を終わらせればいいだけです。
そこに、血を流す必要は全くありません。
人々が、根こそぎ反省し心を入れ替えれば、誰も血を流さずに済むからです。
悪い人間は、引きずり下ろせば自ずと滅びます。

もし新しい時代を作るなら、救世主に全てを担わせて大衆が救われるような革命ではなく、人それぞれが世を救う行動を起こせば、誰も命を落とさずに革命を成し遂げることは可能でしょう。
そのために、どこかの救世主に寄りかかるのではなく、自分自身が救世主たろうとすることだと思います。

「それが絵空事かどうか?」は、これからの人々、日本人の心にかかっています。
この春分がそのきっかけになるといいな、と思っています。

その変革の一助になるべく、私はやっていくと神様に誓いました。
何ができるか、何をすべきかは未だにわかりませんが、こう考えている人間が私一人ではないことを確信しています。

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