世を良くするには
- Category:神世考察
- Date:2025年02月26日
一昨日、「邪を赦す」という記事を書きました。
あの記事で辿り着いた結論はどうやら正解だったらしく、邪気の干渉がだいぶ弱まりました。
なぜ考え方を変え、立場を表明しただけでこれほど邪気の干渉がマイルドになったのか、説明はつきません。
私の霊性に仮に変化が起きたにせよ、「愛と慈悲の波動」は邪気に対する唯一の対抗策であるような気がします。
人の嫌な気に当てられた時、その不快感から攻撃を仕返してやりたくなるのが人の常です。
けれども、そこで対抗心を燃やして実際に応酬を始めてしまえば、相手は喜んで攻撃します。
邪気は、争いや諍いが人の幸福や成長を妨げることを知っているので、人間の怒りや義憤を利用します。
邪気にとって許しがたいのは「幸福と愛」そのものであり、傷つけ争い合えなければ意味がないのかもしれません。
イエスの教えにある「左の頬を打たれたら右の頬を差し出せ」ではありませんが、打たれるがままが尊いと言いたいのではありません。
殴る人間を殴り返すのが得策ではないのは明らかですが、まず殴るような人間からは距離を取り、一先ず攻撃を受けないようにするべきです。
「左の頬を打たれたら逃げる」
その上で、人を攻撃するような人間は相手にせず、自分が最大限の幸福を手に入れることが最大の防御であり、反撃です。
邪悪な人間に対しても、邪気に対しても、その対応の仕方は同じで構わないと思います。
「闇の存在」が人を負の感情で支配し、愛や幸福を破滅させるのが目的だとしたら、愛や幸福を守るために怒りの感情を使うことは、即ち自分自身が闇の力を使うことを意味します。
実は、怒りの力を使わずとも反撃や防御をすることは可能です。攻撃は怒りがあるから行うことができる、と思うのは錯覚であり、淡々と戦略と戦術を行使すれば冷静に撃退することは可能です。
武道経験のある方の話だと、よく「感情的になれば弱くなる」と言われます。
確かに、頭に血が上っている状態では、相手の次の手を冷静に予測することはできません。
そのピンチで相手を読む余裕があるからこそ、勝負に勝つことができます。
この一連の過程において、「怒り」はむしろ足を引っ張ります。
今、世では炎上が盛んです。
人々は正義感や義憤に駆られて行動を起こしているようですが、そこで「怒り」の力を使ってはいないでしょうか。
某官庁のデモは、善悪は別として注意すべきだと思います。
SNSの炎上でもそうですが、怒りによる行動は「感情を発散させてガス抜きをする」目的で使われることがあるからです。
「行動を起こしたからには、何とかなるだろう」という安堵感は、実際に効力がなくても発生しうる感情です。
もし、デモを仕組んだ人間が、それを見越して計画しているとしたらどうでしょうか?
本来向かうべき批判と、対抗に向かうエネルギーを全く違う方向に逸らされていたら?
正義感や義憤は、上手いこと相殺し沈静化されてしまうわけです。
そうなれば、「愛国」は単なるポルノになって終わります。
日本人に思い出して欲しいのですが、日本がかつて太平洋戦争に突入した際、マスコミはどういう煽動で国民を巻き込んだでしょうか?
今回はマスコミではなく、さらに裏にある枠組みが仕掛けているとしたら?
日本人には、改めて冷静に考えていただきたいです。
日本は誰もがわかる通り、あり得ないほど貧しい国になってしまいました。
けれど、たった30年前は世界一の大国だったわけです。世界をリードする技術、治安、社会制度、文化の豊かさ。
それは失われて久しいですが、今の日本はリードしていた分野が悉く劣化していったからこそ没落していきました。
これは、実に不自然なことです。
日本の良いところが、優先的に劣化していったように見えないでしょうか?
産業やサービスの分野だけではなく、日本人の伝統を重んじる気風、自然環境と共存する知恵、品質を大事にする精神。義理、人情。そう言った、日本人に脈々と受け継がれてきたメンタリティです。
それらがダメになって、今その上に乗っかっているものを改めて見てみると、日本をダメにしたものの正体が見えてくるはずです。
そこで何か思うところがあるとしたら、その気づきは決して「陰謀論」ではなく、あなたの「慧眼」です。
その原因は具体的な組織の固有名詞より、もっと根源的な問題にあると気づくはずです。
もしそれがわかるとしたら、日本がこれから日本を取り戻す方法も具体的に見えてくるでしょう。
「良かったものを取り戻すために何をすれば良いか」だけを考えればいいだけだからです。
方法論は、具体的だからこそすぐに結果が出るものです。
もし、「日本を頭から強烈に押さえつけているもの」がわかったとしても、その解決に怒りや感情は不要です。
「ダメになったもの」の代わりにかつて日本人が選択したものを、合理的に払いのけて「良いもの」に戻していくプロセスを淡々と進めればいいだけだからです。
残すべき感情を強いて言うなら、「真心」や「優しさ」かもしれません。
古き良き日本人が自らの技術に込めた思い、サービスをする上で大事にした心得、それはマニュアルだけで真似できるものではなかったはずです。
逆に言えば、「今ダメになりつつあるやり方」の真逆をやり始めてもいいのかもしれません。
それこそが、ご先祖様たちがやってきた古き良きやり方になるでしょう。
だから新しいやり方を模索する上で、難しいことを考える必要はないと思います。
人間にとって、日本人にとって本質的なものを選べばすぐに答えは出るものだからです。
「温故知新」は、現代人にとって新しすぎるだけではなく、ご先祖様たちが私たちのために脈々と受け継ぎ、遺してくれた宝物と言えます。
その知恵を感謝して受け取れば、これから何が起きても穏やかな気持ちで暮らせるはずです。
そして、その知恵こそがこれからの日本を照らす光になるでしょう。
今、「土の時代」の構築物がようやく崩壊を始めました。
私から見れば、20世紀のうちに壊れておいた方が良かった仕組みばかりです。
これが壊れきるまでは数年かかるでしょうが、その次に壊れるのは「風の時代」仕様の古い構築物です。
今、風の時代の申し子となっているメディアも、後に時代の洗礼を受けるでしょう。
それらの構築物も、土の時代に作られたものなので本格的な風の時代には不向きです。
何ごとにも栄枯盛衰があります。ただ、時代にとって不要になったものは悪ではなく、役目を終えたから交代していくだけです。
そこに感謝をしながら私たちは学び、技術や知恵を後世に繋げていくのでしょう。
かつてのご先祖様たちのように、私たちは偉業を残さなければなりません。