参拝と神様の話
- Category:エッセイ
- Date:2024年11月26日
楽太郎です。
一昨日、散歩をしながら近所の神社にふと寄ってみました。
この神社には神仏習合の神様がまつられており、近代の区画整理で移転改築され、元々お祀りされていたご神霊について特に詳細を知らぬまま、何となくお祀りされている小さな神社です。
私はいくつか霊的な直感があり、あまりその神社が好ましいとは思っていなかったのですが、なぜか今日は気になってふと入ってみました。
やはり違和感があり、今日は深く霊視してみようと思いました。
手を合わせてみたところ、神様はおそらくいないか、いらしたとしてもご神気がかなり弱まっているように感じられました。
境内を出て俯瞰して見ると、まるで住宅分譲地か、竣工前の宅地を見ている感覚になりました。
これは大変だな、と思ったのですが、その次の瞬間に氏神様のおられる神社に行くべきだと直感し、その足で氏神様の元へ向かいました。
その氏神様のおられる神社は、かなり由緒がありながら、近年は縁結びや商売繁盛などで盛り上げている神社で、今は壮大な建て替え作業の真っ只中です。
そのため、仮手水舎も巫女さんが手作業で蛇口を捻って出すタイプになっています。
巫女さんが社務所に入り、参拝客が来ない時間帯は手水舎の水が止められています。
私はそれを知っていたので、予め公園でお清めをしてから神社に向かいました。
日曜の朝だからか、手水舎から水は出ていましたが、家族連れの方が手水を無視して、一礼もなく境内に入って行きました。
それを尻目に見て、私は氏神様に感謝とご報告をし、近所のガランとしたお社について相談をしました。
その後、一息つこうとベンチに座った瞬間、先ほどの家族の父親から、タバコの煙が流れてきました。
参拝客の顔にタバコの煙が当たる位置に、喫煙所を置く神社もどうかと思いました。
神様に参拝に上がる人々が神様に対するマナーに無頓着であるだけでなく、神社を運営する方からして、隅々まで敬意を払っているとは思えません。
それでも、神様は「人間はこういうものだ」と思ってらっしゃるようなので、特に咎を与えるわけではないでしょうが、神様のご心中をお察しすると胸が痛みました。
私はその帰り道、「人間に敬意を払えない者が、目に見えない神様に敬意を払うのは難しいかもしれないな」と考えていました。
でもそんな時、和気藹々と道端の花壇を手入れするボランティアの方たちと出会し、「人間はいいところもあるし、悪いところもある、その出方が違うだけだ」ということを神様に見せられた気がしました。
神社の作法を興味のない方にも広げる、子供たちに神社のマナーや大切さを教える、そして神様と日本人の関係のあり方を変える、そのことも私に与えられた課題なのかもしれない、と思う出来事でした。